SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

342 / 356
前回のあらすじ
それぞれの目的を胸に、戦場が定まる。


更新が滞り、申し訳ありませんでした。
お詫びとして、過去最長となっています。分割するのが面倒だったわけじゃありません。分割しなくてもいいかなって諦めただけです。


Episode21-05 にんげん

 夜の闇に浸された星空と眩いばかりの月。潮風は波の音を奏で、多くの座礁した難破船はまるで船乗りの墓場のようだった。

 大きな港はそのまま要塞と化し、切り立った崖を背にすることで難攻不落と化している。巨大な城壁、兵が配置された櫓、燃え盛る炎の数だけ要塞内に孕む戦力の豊富さを実感させる。

 

「『プレイヤー』の大型拠点攻略なんてアルヴヘイム以来ね」

 

 双眼鏡を覗き込んでいたシノンの感想に、キリトも同意見だと肩を竦める。

 

「並の戦力ではまず落とせないだろうな。そもそも大ギルドでもあれだけの規模で、しかもプレイヤーが陣取った要塞を攻めた経験なんてないはずだ」

 

「抜け駆けしたいのは評判稼ぎの功績だけじゃなくて、得難い実戦経験も欲しいから……ってわけね」

 

 ステージ名は<海賊ガマの記憶>。終わりつつある街の地下から赴けるステージである。とはいえ、他ステージに比べても特色が異なり、小さな島々によって成り立った、言うなれば群島型のステージとなっているのだ。荒れた海のせいで個々の島を行き来する方法は限られており、しかも群島全体が呪われているせいで濃い闇に覆われており、昼間は夜以上に何も見えない暗黒世界が広がる。

 ここは島というよりは巨大な岩礁といった印象が強く、草木の類はない。各所から塩水があふれ出しており、黒い砂利と混ざり合っている。跋扈するのは1メートル弱のサソリ型モンスター【シーレッド・スコーピオン】だ。レベル50級のモンスターであり、強固な外殻によって高い耐久性能を誇るだけではなく、尾からはレベル2の毒を含んだ毒液弾を放てる。両腕には分厚い刃を持っており、高い斬撃属性を持っている。

 だが、シーレッド・スコーピオンの最大の特徴は群れるという点だ。1体でも撃破された場合、その死臭が瞬く間に周囲のシーレッド・スコーピオンを招き寄せる。すると【屍拾いの海鳥】と呼ばれるモンスターたちも行動を始める。屍拾いの海鳥はシーレッド・スコーピオンを援護するだけではなく、大声で鳴き喚くのだ。

 そして、何よりもまずいのは徘徊リポップ型ネームド【亡霊海賊パニッシャー】だ。レベル60級でHPバーも1本だけなのであるが、次々と配下の亡霊海賊を召喚して数の暴力を仕掛けてくる。

 

「つまりこの島で安全なのはあの砦要塞と周辺の浜辺だけ。背面の崖はシーレッド・スコーピオンとエンカウントしてしまうだろう。大ギルドが部隊を敷けるのは南の浜辺だけなんだが、そこも開けた土地だから隠れる場所もない。侵入するのも厄介だ」

 

 キリトの隣に立つのはスキンヘッドと黒いローブを組み合わせた、まるで悪役の魔法使いのような恰好をした男……マクスウェルだ。

 

「厄介な土地に拠点を構えられたものだ。元はダンジョンでな、主たるネームドを撃破すると報酬としてプレイヤーが拠点と出来るのだが、よもやあそこまで強化されているとはな。相当の額を投資せねば不可能だ」

 

「アンタ達が知ってた頃とはまるで違う……ってわけか」

 

「いいや、我々も知らんよ。ガマの記憶の特徴だ。各島にネームドが1体ずついて、倒すとダンジョンを拠点として奪うことができる」

 

「野営できるような安全地帯もろくにない代わりに、それぞれのダンジョンのボスさえ倒せば拠点にすることができるなんて、ハードだけどメリットも大きいわね」

 

 海中には鮫や烏賊のモンスターが跋扈しているだけではなく、荒波によって並の船では沈没してしまう。故に他の島に移動する方法は大きく分けて2つ。対象の島に通じる転移ポイントを利用するか、他の島から渡航する手段を見つけるかだ。

 

「我々もガマの記憶でもこのような辺境まで足を運ぶこと自体が稀だ。なにせ、我々が転移ポイントを確保している島とは離れているからな。犯罪ギルドの幾つかはガマの記憶の特性に目をつけて拠点化を目論んだようだが、なにせ水準レベルが島によって全く異なる。この島は水準レベル50から60でしかも小規模なようだ」

 

 今回、チェーングレイヴが準備した渡航方法は言うなれば力業である。明らかに木造船が主流の文明レベルの世界にて、モーターエンジンの揚陸艇で……それもヴェノム=ヒュドラが陣取る港要塞ではなく真逆にある岩礁を突破して侵入するというものだ。

 もちろん、そんな真似をすれば揚陸艇は破損して使い物にならなくなる。乗組員が脱出する頃には海の藻屑となっていた。その後、チェーングレイヴの手引きでモンスターとエンカウントしない安全なルートを選んで潜入し、なんとか港要塞を目視できる岩石地帯にまで到達したのだ。

 なお、途中で哨戒していたヴェノム=ヒュドラの構成員はキリトたちが手を出す前にマクスウェル率いるチェーングレイヴの部隊によって排除された。鮮やかであり、同時に一切の容赦なく、警報を鳴らす暇も与えずに暗器による一撃必殺である。レベル差があるとはいえ、改めて≪暗器≫という武器カテゴリーがどれだけ対人で脅威なのかを知らしめた。

 チェーングレイヴも今回は『麻薬レシピ奪取』……もとい、拉致被害者救出作戦に参加しているとはいえ、名目上は教会が掻き集めた義勇兵……という名目である。マクスウェルが指揮を執ることになっている。

 クラインが参戦していないのはキリトとしても残念であるが、そもそもギルドリーダーとしてどっしりと構えていなければならず、また此度の件で大ギルドとの交渉もあるらしく、参戦は見送られた。そもそも犯罪ギルドとは言え、裏の秩序を握るクラインがアルヴヘイムに赴くだけでもチェーングレイヴからすれば頭を抱える大問題だったのは容易に想像できた。

 今回の潜入は、アスクレピオスの書架の専属であるキリト、太陽の狩猟団の専属であるシノン、義勇兵……もとい、チェーングレイヴのマクスウェルが率いる精鋭12名、更には太陽の狩猟団が派遣した強襲部隊24名である。

 実際に潜入するキリトとシノンを含めて構成された救助組、この場に残ってバックアップに回り、脱出を支援する待機組に分けられる。

 

「それで、具体的にはどうやって侵入するの?」

 

「……要塞の裏、崖側から侵入する。シーレッド・スコーピオンに発見されたら終わりだが、少人数……隠密ボーナスが高いメンバーで組んだ1パーティずつ接近すれば、突破できないこともないだろう。見張りの目をどうにかせねばならないが、それでも侵入できる確率は高い」

 

 隠密ボーナスは人数が増える程に恩恵が小さくなる上に、1人でも低いプレイヤーがいれば効果が激減する。だが、高い隠密ボーナスを確保する為には重装防具は基本的に諦めねばならない。

 

「私とキリトだけの方がいいんじゃないの?」

 

「どれだけ拉致されたプレイヤーがいるかは分からないが、護衛しながら脱出ともなれば2人ではとてもではないが、不可能だろうな」

 

 マクスウェルの言う通り、キリトとシノンだけならば侵入も脱出も難易度が下がる。だが、被害者を守りながら脱出するともなれば相応の戦力が不可欠だ。

 

「そこで我々の出番というわけだ」

 

 待っていたと言わんばかりに宣言したのは、太陽の狩猟団が派遣した強襲部隊だ。全員がレベル80前後と高く、黒系の迷彩服とボディ・アーマーを装備している。武装も全員共に統一されており、アサルトライフルと接近戦用の取り回しに優れた片手剣を腰に差していた。

 迷彩カラーのヘルメットと赤いレンズのゴーグルを装備した彼らは太陽の狩猟団の暗部である。対人戦の訓練を積んでおり、今回のような潜入任務にも慣れている。

 

「我々潜入部隊の任務は2つ。拉致被害者の救出と敵戦力の攪乱だ。マクスウェルさん、他の島の拠点と同じ仕様であるならば、要塞から別ステージに移動する方法は各島にある転移ポイントを利用するか、【船出の羅針盤】というアイテムを使って出港するかのいずれかだな?」

 

「ああ、間違いない。だが、連中から奪ったマップデータを見る限り、島内の転移ポイントが表記されていない。恐らくだが、深部に転移ポイントがあるのだろう。元ダンジョンの名残だろうな」

 

「島を探索してダンジョンを発見するのではなくて、ダンジョン内に転移してクリア後に島を調べることができるタイプってわけか。俺の好みじゃないな」

 

 やっぱりフィールドをじっくり調べてダンジョンを見つける方が浪漫があるのだ。力説したいキリトであったが、シノンに左耳を引っ張られて沈黙を強制された。

 

「転移先も地下ダンジョンの何処かであるだろうし、ヴェノム=ヒュドラの見張りも控えているだろう。だが、この転移ポイントを制圧しておけば、敵の逃げ道は船出以外になくなるわけだ。あれだけの要塞……ヴェノム=ヒュドラの幹部が管理していると見て間違いない。重要な情報源だ。捕縛を前提に、だが不可能と判断した場合は排除する」

 

「被害者を発見できて救出できたとして、その後はどうするの? まさか護衛しながら船を奪うわけ?」

 

「それも1つの選択肢だな。だが、安心したまえ。太陽の狩猟団の本隊が到着すれば、あの程度の要塞の陥落は難しくもない。遅れるとはいえ、聖剣騎士団もクラウドアースも戦力を派遣する。明日の朝にはどう足掻いても陥落するだろう。我々は要塞内部から爆破し、混乱に乗じて脱出する。同時に本隊が攻め落とす」

 

「つまりは本隊が到着するまでは動けない……ってこと?」

 

「それは時と場合による。潜入部隊は救助と攪乱の2組に分かられる。【黒の剣士】とシノンさんが中心となった救助組、私が率いる攪乱組だな。マクスウェルさんには作戦通り、こちらで控えてもらいながらバックアップをお願いする。なにせ、我々の短距離通信はコイツが不可欠だからな」

 

 さすがにこれは持ち運べんよ、と強襲部隊の隊長が叩いたのは2メートル弱の高さがある黒い直方体である。これこそが通信の要であり、要塞内では個々の位置を1メートルの誤差もなくマップデータに表示することができる上に潜入側の相互通信を可能とし、なおかつ傍受も防げる優れものである。

 

「あくまで『元』ダンジョンであって、今はダンジョンではない。間違いないな?」

 

「ああ。ネームドを倒した時点でダンジョンとしては完全に機能を停止している」

 

「それを聞けて安心した。コイツは最新型だが、ダンジョンでは完全に無力でな」

 

 これが技術進歩か。マユの技術力も大概だと思っていたキリトであるが、大ギルドもまた負けていないどころか想像以上である。

 

「まずは要塞内部に侵入したら、まずはこの親機となる送受信機を設置しろ。なるべく目立たない場所にな。そして、後は最大でも100メートル間隔で子機を設置しろ。親機の稼働時間は6時間、子機は3時間と短いが、なにせ夜明けまでの戦いだ。子機の随時設置さえ怠らなければ、あの要塞規模ならば十分だろう」

 

「子機は親機と、親機はこの統合機と相互通信する。コイツがキミたちの装着する通信機から送られてくる現在地も読み取る。通話はもちろん、現在地の把握もこの場でできる。マクスウェルさん、救出時の合流や誘導は貴方が要となるからよろしく頼む。それと、通信機は死亡時や着脱から10秒以内に電源をオフしなかった場合、自動的に機能を停止する。万が一、死亡後や無力化された時に奪取された場合、命取りになるからな」

 

「ジャミング対策は?」

 

「万全……とは言い難いな。正直に言えば、ジャミングはクラウドアースが強くてね。さすがに犯罪ギルドが持っているとは思えないが、クラウドアース製の最新のジャミング装置があった場合は無力化されかねない。まぁ、腐ってもウチの最新鋭だ。要らぬ心配だろう。ジャミングはともかく傍受はされないはずだ」

 

「さすがは大ギルドだ。恐れ入る」

 

 黒い直方体の統合機にマクスウェルも感心する。如何に武闘派ギルドとはいえ、常に最先端技術を有しているわけではない。単純な武力だけでは超えられない壁があると大ギルドはこのような場面でも見せつけてくるのだ。

 

「被害者を発見したらこの簡易迷彩マントを装備してもらってくれ。時間限定だが、隠密ボーナスを高める。装備を剥奪されていたとしても補えるはずだ。被害者が少人数だった場合、キミ達で先導して脱出を図る。どうやら連中は常に船を待機させているようだし、強奪は難しくない。マクスウェルさんから提供してもらった羅針盤を使えば脱出可能なはずだ」

 

「羅針盤は共通アイテムだからな。他の島でも使用可能だ。ただし、出航してから3分が経過しなければ効果が発動しない。少人数ならば大型船ではなく、小舟の方が目立たないだろう。沖合にまで出なければ波も酷くない。転移までは沈没しないはずだ」

 

 マクスウェルから羅針盤が潜入部隊全員に配られる。アイテムのレアリティから察するに、決して安価なアイテムではないはずだ。万が一に備えて人数分配るにしても相応の額がかかっているはずである。チェーングレイヴが自腹を切るのか、教会や太陽の狩猟団の後払いか、それとも折半か。何にしても、キリトの懐は痛まない。

 

「それと、これも持っていけ。【蛟の吐息】だ。水に触れると周囲に霧を発生させる。出航の際に役立つはずだ」

 

 マクスウェルから虹色の液体が入った掌大のガラス玉を渡されたキリトは慄く。シノンや太陽の狩猟団の強襲部隊も驚きを隠せなかった。

 

「こんな貴重なアイテムをいいのか!?」

 

 広範囲に霧を発生させる、GvGにさえ有効な戦略級アイテムだ。大ギルドさえも数個しか保有しておらず、市場価格はユニークソウルを上回る……それこそ1000万コルにも到達するのではないかとされる、まさしく財産だ。事実として、偶然にも手に入れたプレイヤーが大ギルドに売却し、それを元手にして商売を始めて豪商となった……という実例もある。

 

「ボスからの餞別だ。『俺の代わりに頼む』と悔しそうに仰られていた」

 

 クラインにも立場がある。たとえ、ヴェノム=ヒュドラという非道な集団であっても、軽々しくギルドリーダーが先陣を切って乗り込むわけにはいかないのだ。下手をすれば、クラインが戦ったという事実によって犯罪ギルドの不和……裏の秩序を崩壊させる抗争を巻き起こしかねないのである。

 

「さて、少人数の場合は脱出前提だが、大人数の場合は……悔しいだろうが、我々の爆破を待ってくれ。爆破による混乱と大ギルドとの戦いともなれば、連中も脱走した被害者など構っている余裕はない。被害者は1ヶ所に集められているだろうし、被害者を救出後は我々も合流し、そのまま籠城して本隊の到着を待つ」

 

「……分かった」

 

 キリトもさすがに自覚している。自分1人で守れるには限度がある。ましてや、今回は戦闘がメインになった時点で極めて危険な状態だ。

 キリトの今回の目的は被害者の早期救出と共にクゥリの参戦回避にこそある。今この場に自分が立っている時点で半分は達成している。

 

「問題は被害者が何処に監禁されているかだな」

 

「看守もいるでしょうし、脱出を図ればバレるのも時間の問題ね」

 

「現場での情報収集がカギを握るな」

 

 まずは情報収集し、監禁場所が判明して人数を把握後、方針を決定する。幸いにも全員の居場所は常に把握できる上に通話も可能だ。

 キリトは左耳に通信機のインカムを装備して出発する。シーレッド・スコーピオンが跋扈する危険地帯では、1度としてエンカウントは許されない。

 集まれば隠密ボーナスが下がる。6人1組パーティとなり、合計4組がそれぞれバラバラに移動する。

 キリトとシノンは傭兵として慣れたものであるが、暗部やチェーングレイヴも手練れらしく、慌てることなく岩盤地帯を超えていく。ヴェノム=ヒュドラの哨戒にしても、シーレッド・スコーピオンの縄張りにはさすがにおらず、キリト達はひたすらに時間をかけて、だが早足で要塞背後の崖を目指す。

 

「アンタ達も無事だったみたいだな」

 

「そっちこそ。さすがは傭兵。さすがは【黒の剣士】と【山猫】ってわけだ」

 

 潜入組は全員が無事に合流する。シーレッド・スコーピオンに発見されることなく集合できたのは全員の経験の高さを裏打ちしていた。

 見下ろす形になった港要塞であるが、無数の松明が灯されており、銃火器を持った警備が目についただけで10人以上も確認できた。

 

「思っていたよりも厳重だな。簡単には侵入させてもらえそうにないが、どうする?」

 

「ここは俺に任せな」

 

 志願したのはチェーングレイヴのメンバーだ。彼らがマントを羽織ると姿が消える。光学迷彩の類だろう。これもまた高額アイテムだ。ただし、効果時間は短く、足音までは消せない。

 だが、着地音は静かなものだった。いや、キリトの耳にも聞こえなかった。そして、10秒と待たずして松明の1つが倒れ、近くにあった木箱に燃え移る。それは瞬く間に小火となり、慌てた様子で警備が集まる。

 今だ。キリト達は警備が集中した隙に降り立ち、光学迷彩の効果が切れたチェーングレイヴのメンバーに誘導されて要塞内に侵入する。

 

「さすがに殺しちまったらバレるからな。侵入してしまえば、俺達の隠密ボーナスならそう簡単には見つからない……って信じたいもんだ。やれやれ。監視カメラも多過ぎる。こっちの隠密ボーナスが上回ってれば、派手な真似さえしなければ、大ギルドの最新モデルでも問題ないんだが……どうなんだ?」

 

「……カタログスペック通りだろうな。如何にヴェノム=ヒュドラでも、非売モデルまで入手出来ているとは思えんよ」

 

 チェーングレイヴの質問に答えるしかなかった強襲部隊の隊長は良い顔をしなかった。質問の裏を返すならば、大ギルドが市販していない最新の監視カメラならば、上位プレイヤーでも余程に特化した隠密ボーナスでもない限りは欺けないということである。

 隠密ボーナスは万能ではない。あくまで認識し難くするものだ。相手の目前に飛び出せば当然のように見つかり、またフォーカスロックされてしまえば看破される。

 隠密ボーナスの対抗手段はいくつかある。隠密ボーナスには同じく隠密ボーナスが有効であり、TECやレベル差によっても補正がかかる。今回の潜入任務はキリトのレベルが最も高いが、太陽の狩猟団の部隊はレベル80以上、チェーングレイヴに至ってはレベル90以上とハイレベル集団である。キリトやシノンは普段の装備でも十分に隠密ボーナスが高く、彼らにしても潜入ということもあって隠密ボーナスを優先した装備である。

 キリトとシノンに至っては傭兵業で熟練度を稼いだ≪気配遮断≫もある。これらを合わされば、隠密ボーナスを著しく下げる行為や油断さえしなければ早々に発見されることはないだろう。

 まずは通信親機の設置だ。キリトは燭台の裏に拳ほどの装置をセットして電源を入れる。

 

『マクスウェルだ。無事に潜入できたか?』

 

「こちらキリト。ああ、何とかな。これから被害者の監禁場所を捜索する」

 

『そうか。健闘を祈る』

 

 石造りの外見に反して中身は異色だ。金属製の廊下であり、まるで要塞自体が冷たい監獄のような印象を与える。等間隔で燭台は設置されているが、全てに点火されているわけではなく、過半が蝋燭も燃え尽きていた。

 

「敵の戦力は未知数だが、まともに交戦するなよ。数では不利なのだからな」

 

「分かってるさ。アンタ達こそ、気を付けてくれ」

 

「フッ、潜入任務は1度や2度じゃない。英雄様に比べれば慣れてるさ」

 

 強襲部隊の隊長はそのまま隊員を率いて先に進み、それぞれの行動を開始する。

 キリトとシノン、そしてチェーングレイヴが救助組だ。まずは二手に分かれる。

 

「何があっても熱くなるんじゃないわよ」

 

「分かってるさ」

 

「ならいいけど」

 

 シノンは不安を隠せないようであるが、それも尤もだ。前科が多過ぎるとキリトは自制心を胸に刻み込む。

 要塞の規模に反して人員は少ない。どれだけ人口増加が著しいとはいえ、ヴェノム=ヒュドラが1つの拠点に配置できる戦力には限界があるのだ。逆に言えば、複数の拠点を保持できる程にヴェノム=ヒュドラは規模が大きい犯罪ギルドなのである。

 推定構成員1000名。キリトは右手に持つ聖剣を汗ばんだ手で握りしめる。

 数の暴力をキリトは軽視しない。ネームドを……強大なモンスターを単独で討伐した経験があるキリトであっても、同じプレイヤーによる数の暴力には何処まで対応できるのかは定かではない。

 近接戦で囲われていないならば幾らでも対抗手段はある。だが、ヴェノム=ヒュドラは対人戦のセオリーとして射撃武器……それも銃火器の装備を標準化させているのは警備からも判断できた。

 たとえ≪射撃減衰≫といった射撃属性攻撃を軽減するスキルがあるとしても、一斉射撃を受ければ相応のダメージと衝撃やスタン蓄積は免れない。たとえ、レベル1のプレイヤーであっても徒党を組めばレベル100のプレイヤーを殺せるのがDBOの恐ろしいところなのだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 ひとまずは作戦通りか。マクスウェルは直方体の統合機から送られてくる潜入部隊の現在地を見ながら、全員が発見・交戦することなく要塞内の探索に入ったことを動きから読み取る。

 

(要塞の戦力は未知数ではあるが、ヴェノム=ヒュドラにとって『商品』の管理も含めた重要拠点。200人……いや、300人は配置してもおかしくはない。加えてドールといったプレイヤー外戦力も確保しているはず)

 

 キリトからもたらされた情報を基にしてチェーングレイヴが特定した拉致被害者の監禁場所であるが、ヴェノム=ヒュドラはどうやら単なる商品保管庫だけではなく、何かしらのよからぬ目論見の為にこの拠点を利用しているようだった。その証拠に裏で買い付けた様々な物資を運び込んでいた。

 そもそもとして、チェーングレイヴがこの拠点をリサーチしきれなかったのは、島への転移ポイントを確保できていなかったからだ。度重なる都市開発によって地下ダンジョンも著しく変形し、元は確保していた、あるいは目星をつけていた転移ポイントが行方不明になっているのである。だからこそ、チェーングレイヴは貴重な戦力を割いてでも地下ダンジョンのマッピングを行っているのであるが、十分な成果は出せていない。

 少数精鋭には限界がある。だが、チェーングレイヴの『真の目的』の為には、裏の秩序を維持する為だけに戦力を増やすわけにもいかない。ジレンマであり、だからこそクラインはどうにかして現状を打破できないかとあの手この手を講じている。

 今回の大ギルドの戦力投入方法は大きく分けて2つ。1つはチェーングレイヴが貸し与えた港からの船による派遣である。もう1つはヴェノム=ヒュドラが持つ転移ゲートを用いることだ。

 ヴェノム=ヒュドラはギルドポイントを用いて転移ゲートを設置することによって、終わりつつある街と往来しているはずである。海賊の羅針盤を使って出港後、彼らが準備した終わりつつある街側の『港』に定着するのだ。そして、その逆も然りであり、『港』から転移ゲートを用いて港要塞に『商品』や物資を持ち込むのだ。

 この『港』はヴェノム=ヒュドラが有する終わりつつある街側の拠点にある。大ギルドはそこに攻め入り、転移ゲートを占拠して戦力を派遣する手筈になっている。

 太陽の狩猟団はチェーングレイヴ経由で、聖剣騎士団とクラウドアースは奪取した『港』を経由して、それぞれが戦力を派遣する。1番乗りは太陽の狩猟団だろうが、遅れて全大ギルドが揃い踏みするのだ。ヴェノム=ヒュドラに逃げ場はない。

 逆にキリト達が被害者を連れて脱出する際には転移場所を選択できる。デフォルトは終わりつつある街の南方の海であり、既に太陽の狩猟団が報道ギルドを率いてその瞬間を待ち構えているはずだ。

 これもガマの記憶についてチェーングレイヴが情報を持っていたからこそである。本来ならば、クラウドアースに即座に動いてもらうところであるが、新議長はチェーングレイヴとの繋がりに否定的であり、ベクターに働きかけても動きは鈍かった。

 

(よもや【黒の剣士】との繋がりがこのような形になろうとはな)

 

 あの男、捻くれた部分もあるが内側には熱い人情を持っている。謀略の駒にこそ向かないが、こうした局面では何よりも信頼できるだろう。

 だからこそ、ボスがいずれ敵対する時があれば『殺す』と覚悟した重みも分かる。道を違えたとしても、ボスにとって【黒の剣士】は今も大事な人なのだろう。叶うならば殺したくないと願う程に。だが、決して手を抜くことが出来ない、必ず立ち塞がる相手だとも認めている。

 

(私はボスの大義の為に戦う。その為ならば、喜んで手を汚そう)

 

 いいや、血にも罪にも汚れてきた。少なくない者を手にかけた。借金塗れだとはいえ、泣き叫ぶ者を容赦なく売り払って鉱山や娼館に送った。

 死後に天国や地獄があるならば、間違いなく地獄に行くだろう。いや、マクスウェルは己の足で地獄を選ぶ。

 

「いかんな。余計な事を考えては……今は作戦の成功を優先すべきだ」

 

「ええ、全くもってその通りだ」

 

 と、マクスウェルは突如として聞こえた声に背筋を凍らせる。彼だけではなく、バックアップに残っていた彼の部下も一斉に振り返る。

 立っていたのは長い黒髪を1本に纏めた男だ。長身で切れ長の目で知的であり、同時に眼光には一切の容赦も慈悲もない。非戦闘員だろうと殺せる無情の目だ。

 まずい! マクスウェルは大きく跳び退くが、遅かった。喉に生まれた空白……続くダメージフィードバックに、深く抉り裂かれたと悟る。

 

「チェーングレイヴ幹部、マクスウェルだな。死んでもらおう」

 

 警備はどうした!? マクスウェルは周囲を警戒して人員を配置していたが、ここまで接近を許すまでに物音1つ立てないなどあり得ない! 彼も、彼の部下も、決して少なくない修羅場を潜り抜けた猛者なのだ!

 マクスウェルと共に生存していた部下2人がそれぞれの得物を手に取る。1人は槍、1人は曲剣だ。だが、黒髪の男は恐るべき体捌きで2人の同時攻撃を躱し、逆に彼らの喉を斬り裂いて血飛沫を上げさせるだけではなく、更に背後から肉を抉り取る。

 だが、男は彼らに触れてもいない。リーチ外で腕を振るっただけだ。ならば、何かカラクリがある。

 マクスウェルは即座に看破した。この男の使っているだろう武器に心当たりがあったからだ。

 だが、優先すべきはこの緊急事態を潜入部隊に伝えることだ。それが無理ならせめて統合機だけでも破壊せねばならない! この統合機が残ったままでは潜入部隊の位置が全員暴かれてしまう!

 部下たちは瀕死であるが、まだHPは残ってるばかりに男の背後を狙う。彼らもボスの大義に共感して命を捨てる覚悟がある。たとえ、この場で死ぬことになろうとも、仲間たちが引き継いでくれるはずだと信じている。ならばこそ、反撃を諦めない!

 だが、見越していたばかりに部下2人は脳天から引き裂かれる。今度こそ絶命した部下たちは血の海に沈む。

 やはりこの男の得物は……! マクスウェルは杖を取り出し、闇術を発動させようとする。闇術の追うものたちならば、発動さえすれば統合機を破壊するはずだ。

 たとえ死のうとも食い止める! マクスウェルは杖術に心得こそあるが、魔法使いである。目の前の男との接近戦は絶望的だと悟りながら、統合機に6個の黒い霊魂を飛ばしながら突撃する。

 

「……見事だ。さすがはチェーングレイヴ。さすがはマクスウェル」

 

 男の右手で何かが高速回転し、それはマクスウェルが振るった杖を弾き、同じく高速回転した何かが左手より放たれる。

 それは……暗闇に溶ける『輪』。レグライドと同じチャクラム使いだ。

 飛ばされたチャクラムを腹で受け止めたマクスウェルは笑う。まだ致命傷ではない。まだ食い止められる! 追うものたちさえ止められなければいい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、世界は『無音』に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マクスウェルの希望であった追うものたちは統合機に当たる直前に割り込んだ何かに衝突する。ダメージを厭わずに自らの体で受け止めたのは、奇怪な生物だった。

 緑色の皮膚をした筋骨隆々。逆足関節であり、両腕の肘は2つある多関節。指は細長く、まるで蟷螂の鎌のような形状をしていた。頭部に備えたのは蜻蛉のような複眼であり、背中には2対の翅が生えている。細長い尻尾を持ち、先端には半透明の鋭く長い針があるのであるが、そこには周囲の警戒に当たらせていた部下たちの頭部が突き刺さっていた。

 コイツに……コイツのせいで、気づかなかったのか!? 追うものたちを防いだ時もそうであるが、まるで音がしなかった。いいや、音が『消えていた』のだ。この生物のせいで……モンスターのせいで、致命的な奇襲を許してしまったのだ。

 

「ぐっ……!」

 

 そして、黒髪の男の底もまたマクスウェルには見抜けなかった。杖を弾いた右手で回転するチャクラムと左手から放たれて腹で受け止めたチャクラム。だが、それ以外にもあると言わんばかりに四方八方からマクスウェルは刻まれる。

 HP減少……ゼロは確定だろう。右腕と左足が千切れ飛ぶ中で、マクスウェルは最後に左腕に仕込んだ暗器を起動させる。手首より射出されたのは太い針だ。仕込んであるのはレベル4の毒であるが、これで仕留められるとは思わない。目の1つでも潰せれば十分である。それだけで修復するまでの時間を稼げる! 修復するまでにこの男が戦うことがあれば、次なる者に有利を残せる!

 だが、男は自分の右目を貫く前に針を掴みとめる。暗器がバレていたはずもなく、事前想定と反応速度によって対処されてしまったのだ。

 

「最後まで悪足掻きか。『博士』からお借りした戦力が無ければ、貴方をこうも簡単には仕留められなかっただろう。やはり、警戒に値する敵だった」

 

 賛辞に安息などない。地面に倒れ伏したマクスウェルはどうにかして統合機を破壊しようと左腕を伸ばすが、立ちふさがった異形は右足を持ち上げると、彼のHPがゼロになることを待たずして、頭部を踏み潰した。

 頭部を粉砕されたマクスウェルの亡骸の傍らで、黒髪の男は懐から取り出した通信機の電源を入れる。

 

「こちらハリベル。作戦通りに敵の後方支援の要を排除した。これより敵潜入部隊の全位置情報を送信する」

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

『こちらキリト。監禁場所を特定した。要塞北部地下みたいだ。だけど見回りが多い。ルートの割り出しに時間がかかりそうだ』

 

「了解した。こちらも要塞の要所……特に連絡橋や通路の爆破の準備を進めてる。監禁場所から港までのルートは潰さないように配慮しよう」

 

『助かる』

 

「感謝はいい。これも任務だ」

 

 太陽の狩猟団の強襲部隊。対人戦をメインにして活躍してきた【イングラム】は、今回の依頼に乗り気ではなかった。

 当初の予定では【渡り鳥】による内部攪乱によって大ギルドが攻め入るというプランだった。だが、計画は変更されて【黒の剣士】と共に拉致被害者を救出を最優先とするものになった。確かに従来の【渡り鳥】の内部攪乱では拉致被害者にも犠牲が出かねない。ならば、救助を最優先にするのも理解できる。 

 だが、強者こそが権利を持つDBOにおいて、拉致されるような弱者をわざわざ優先的に救う必要性があるのか、とイングラムは考える。

 拉致の手口はまだ判明していないが、何にしても油断を突かれたからだ。イングラムはそう冷たく切り捨てていた。

 そのはずなのに、高揚感がある。自分は『正義』の側に立っているのだという胸に灯る熱い意思がある。

 

『俺達が最優先にすべきなのは拉致された人たちの救助だ。たとえ、この戦いに勝ったとしても、彼女たちが犠牲になったら意味がない。ヴェノム=ヒュドラの非道を正すのなら、まず優先すべきは彼女たちの生命だ』

 

 出発の前にキリトが口にした今回の作戦の意義。なるほど。確かにその通りだ。大ギルドが喧伝するならば、実に美しく整った『正義』である。

 そう馬鹿にしていたはずなのに、いつの間にか自分から前に進んでいた。それは傍らで何かと助言をするシノンの横顔が常に本気だったからか。作戦を共にするチェーングレイヴというヴェノム=ヒュドラと同じ穴の狢のはずが、本気で拉致被害者の安否を気遣っていたからか。それとも部下たちに確かな活気が漲っていたからか。

 与えられる任務はいずれも後味が悪い。テロリストなどの太陽の狩猟団の敵性組織の排除だ。レベリングをして、訓練して、装備を整え、だが戦う相手はいつも同じプレイヤーだ。

 太陽の狩猟団を襲う敵だ。秩序を乱す『悪』だ。卑劣な手段も厭わない連中だ。だが、撃ち続ける彼らの叫びには時として共感を覚える。

 大ギルドが敷く秩序は一方的なものだ。そこには確かな犠牲者がいる。ならばこそ、彼らは正当なる復讐者なのではないかとさえ疑問を抱く。

 だが、撃ち続けた銃弾の分だけ疑念は擦り減る。これが仕事だ。給与も、待遇も、レベルや装備さえも大ギルドが準備したものだ。自分たちは兵士として戦わねばならない。太陽の狩猟団が目指す社会の為に、大ギルドによって敷かれた秩序を守る為に、戦わねばならないのだ。

 そこに『己が求める正義』など要らない。イングラムはそう割り切っていた。

 だが、あの男は違った。事実上の教会の専属になったかと思えば人助け? 吃驚仰天だ。イングラムも開いた口が塞がらなかった。

 

『被害者の救助もあるけど、クーを……【渡り鳥】を「悪用」されたくないのよ。その為に教会の専属になるなんて、本当に馬鹿な男よね』

 

 シノンは出発前にぼそりと愚痴を零した。

 いずれの大ギルドも喉から手が出る程に欲するだろう。いかなる好条件だって引き出せる。自分の価値を分かっているはずだ。だが、【黒の剣士】はそんなものかなぐり捨てて、【渡り鳥】と救助の為に専属入りを決めた。

 破壊と殺戮の権化とされる【渡り鳥】。だが、同時に【黒の剣士】のかつての相棒でもある。先の傭兵たちの宴がそうであったように、彼らは今も交友がある。

 どうして助ける? どうして友と呼べる? 自分を殺そうとした相手だ。殺戮のバケモノであるはずだ。それなのにどうして?

 尋ねたい。貴方にとって【渡り鳥】とは何なのだと。かつて相棒と呼ばれた男から『真実』を聞いてみたい。

 

「よし、ここに次の爆弾をセットするぞ」

 

 ヴェノム=ヒュドラの武器庫に辿り着き、イングラムは部下に指示して爆弾をセットさせる。木箱には貼られたラベルには『火炎壺』と記載されている。最も安上がりな投擲武器であるが、数が揃えば脅威となる。これだけの数を爆破すれば、要塞に与える被害も大きく、またヴェノム=ヒュドラの戦力を大きく削ぐことができるだろう。

 これで7ヶ所目。手持ちの爆薬を考慮すれば、あと3ヶ所にセットできる。本隊の到着時間を予想し、今の調子ならば拉致被害者の救助も人数によってはスムーズにいくだろうとイングラムは予感した。

 

「はーい、撃て♪」

 

 だが、突如として聞こえたのは女の声だった。途端に木箱から無数の銃弾が飛び出し、イングラムが率いる強襲部隊は撃ち抜かれていく。

 こ、この威力は……!? 安物の銃弾ではない! 部下たちが悲鳴を上げる中で、イングラムだけはアサルトライフルを連射しながら反撃する。

 伊達に修羅場は潜り抜けていない! 生き残った部下を先導して武器庫から脱出するが、そこには凶暴な笑みを浮かべた女と2人の大柄の甲冑戦士が控えていた。

 短い銀髪の女は軽量性を重視した革装備であるが、胸当てや太腿といった部位には金属パーツを使って防御力を確保している。右手に持つのは肉厚のハルバードである。

 両脇に控える男……男かも分からぬ甲冑戦士は尋常ではない大きさだった。体格は2メートル半を超え、肩幅は成人男性でも大柄の部類であるイングラムの数倍はある。およそ人間離れした巨体でありながら、浮かぶカーソルはプレイヤーだ。

 全身を隈なく甲冑で覆った大柄の戦士は、巨体に相応しい大槍を振るう。振り下ろされた攻撃に反応しきれず、しなった穂先によって部下2人が頭より地面に叩きつけられる。1人は即死し、もう1人は生存していたが、即座の2発目によって血と肉の染みとなった。

 居場所がバレたのはいい。潜入任務だ。こういう事もあるだろうと割り切っている。だが、武器庫に……偽装した木箱の中に入って待ち伏せされていた。武器庫から続々と出てくる柄の悪い男たちのヘラヘラとした笑みに、イングラムは自分がどうして罠に嵌まったのか考える。

 予想できる理由はただ1つ、現在地が読まれており、次なる爆破目標を想定されたからだ。それも1、2分前の話ではない!

 

「裏切った……のか!?」

 

 ならばマクスウェルと共に残した自分の部下たちもまた生きてはいない。孤立無援を悟る。

 所詮は犯罪ギルドか! マクスウェルの卑劣な裏切りを確信したイングラムは、最後まで闘志を失うことなく銃口を向けるが、女は彼よりも遥かに素早く踏み込み、ハルバードの一撃で首を切断する。

 

「姉御! 潜入した他の連中は始末できたみたいですが、【黒の剣士】と【魔弾の山猫】には逃げられちまったみたいです! 例の弾丸も本命にはぶち込めなかったみたいですね」

 

「よっしゃぁあああ! そう来ないとね! 狙うは【黒の剣士】! 聖剣を奪って【銀舌】様に献上するのは、この【アザゼル】よ! 子猫ちゃんは殺すも嬲るもアンタたちの好きにしな!」

 

 ハルバードの血を振り払い、絶命したイングラムの顔を赤く汚しながら、女戦士アザゼルは闘志を燃やして咆えた。

 

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

「まずい状況ね」

 

「……クソ!」

 

 シノンは息荒く脇腹を押さえながら、腰を下ろすのは拳ほどの大きさの鼠が走り回るゴミ捨て場だ。調理室からそのまま廃棄できるダストシュートの先であり、およそ不衛生であるが、感染症の心配がないDBOでは特に問題ない。

 完全に位置が把握された奇襲。遠距離からの≪狙撃≫だった。窓で煌めく銃口を察知したシノンは、咄嗟にキリトを押し飛ばして守り、代わりに銃弾によって左脇腹を撃ち抜かれた。

 

「済まない。俺を庇って……!」

 

「これくらいかすり傷よ。スナイパーとして≪狙撃≫スキルの警戒は基本。こっちが察知した時点でスキル効果は打ち消せているわ。ただ……思っていたよりも高威力だったわね。軽く肉が吹き飛んでるわ」

 

 DBOでも特に凶悪とされているのが≪狙撃≫スキルだ。クーリングタイムこそ長いが、相手に察知さえされていなければ防御力無視のダメージを与えられるのだ。ただし、距離減衰が著しく、距離が離れるほどに威力が激減するという≪狙撃≫という名称ながら狙撃を活かしきれないスキルでもあり、また防御力を無視できても≪射撃減衰≫などのスキルで威力を低減できるうえに、防具によっては対≪狙撃≫の能力を持つものあり、効果は更に小さくなる。

 だが、それでも十分な火力と腕前さえあれば、≪狙撃≫による即死は十分に狙えるのだ。特に今回使われたのは固定型スナイパーライフルであり、威力は特に秀でている。シノンの軽装防具を軽々と貫通するのは致し方なかった。

 シノンが押し飛ばしていなければキリトはヘッドショットを免れなかっただろう。高VIT型故に即死こそしなかったかもしれない。だが、確率は決してゼロではなかった。ましてや、頭部の著しいダメージならばスタンや衝撃を抜きにしても復帰に時間がかかる。そのまま戦闘不能に追いやられることもあり得るのだ。狙撃手でもあるシノンがそれを誰よりも理解している。

 

「完全に待ち伏せされていたわ。あの通路で、あの窓を横切る瞬間を待ち構えいた。しかも、その後も前後から挟み撃ち。完全に動きを読まれていたわね」

 

「それだけじゃない。他の場所でも銃声が聞こえた。もう皆は……!」

 

 ああ、仮面が無い方が良い。キリトは苦渋の表情で歯を食い縛り、怒りと悲しみの咆哮を堪えている。

 シノンが撃たれた衝撃で動けなくなっていた時、通路を前後から塞がれて槍による突撃を受けた。逃げ場のない槍衾であったが、キリトは咄嗟にシノンを抱えると銃弾が通り抜けた窓から飛び降り、そのまま追撃を振り切って一目散にここへと逃げ込んだのだ。

 通信機は先んじて投げ捨てた。シノンたちの居場所を探る方法はないだろう。キリトは瞬時に居場所が割り出された理由を察知したのだ。

 

「マクスウェルさんは……生きていないだろうな」

 

 現在位置の個々人へのフィードバックは要塞外で待機しているマクスウェルの仕事だ。キリト達が拉致被害者を発見後は速やかに彼らを合流させ、脱出させるまで誘導するのもマクスウェルの仕事だった。

 だが、マクスウェルは何者かに……いや、ヴェノム=ヒュドラによって襲撃され、統合機は奪われたのだろう。

 マクスウェル程の男ならば、襲撃時に通信もしくは統合機の破壊をしたはずだ。だが、それすらも許されなかった。シノンは最悪を想定する。

 

「マクスウェルさんたちが隠れていた場所は、哨戒ルートからも大きく外れていたわ。見つけ出されるにしても早過ぎる」

 

「俺達の動きが察知されて警戒されていたんだ。そうじゃないとおかし過ぎる」

 

「……大ギルドや教会から情報が漏れていて、警戒を強化されていたってこと?」

 

「そうかもしれない。犯罪ギルドでもこれだけの規模だしな。でも、そうだとしても……なんだ? この違和感は?」

 

 キリトは額を押さえて唸る。彼が感じている違和感はシノンにもあった。

 情報が漏れていた。それはいい。だが、敵は完全にこちらを待ち構えていた。

 わざわざ懐に入れるだろうか? 仕留められる自信があるにしても、まずは外部で迎撃するはずだ。より警備を厳重にしておくはずだ。だが、シノン達が侵入出来た通り、あまりにも警備体制自体は強化されてもいなかった。

 

「連中は……大ギルドの部隊を迎え撃つつもりなんじゃないか?」

 

「本気? もしも返り討ちにされたら、大ギルドはそれこそ火傷を覚悟してでもヴェノム=ヒュドラの殲滅に乗り出すわよ」

 

「ああ、そうだな。だから『負ける』。負け方次第だが『勝つ』こともできるからな」

 

 キリトにはヴェノム=ヒュドラの考えが読めているのだろう。だが、シノンは脇腹の傷口が疼くせいで上手く思考が纏まらず、彼の言う『負けて勝つ』が何を意味するのか分からなかった。

 

「大ギルドの部隊に想定以上のダメージを与え、『これ以上の手出しはメリットがない』と思わせる。ヴェノム=ヒュドラにとって最も避けたいのは、大ギルドに完全敗北し、そのまま各拠点にもダメージを与えられ、チェーングレイヴにも攻め立てられ、立ち直れない間に他の犯罪ギルドの食い物にされることだ。でも、この戦いだけで被害を済ませ、しかも大ギルドと『いい勝負』が出来たとしたら? 他の犯罪ギルドはどう思う?」

 

「……そういうこと。犯罪ギルドの覇者が生まれるわけね。比較的穏健派で表の秩序に迎合しているチェーングレイヴを筆頭とした古参犯罪ギルドを潰すには、まずは最下層を中心に縄張りを持つ犯罪ギルドを纏め上げないといけない」

 

「ヴェノム=ヒュドラが台頭すれば、チェーングレイヴにひとまず従っていた中立の犯罪ギルドも靡くかもしれないからな。しかも、マクスウェルは何も言っていなかったけど、チェーングレイヴはクラウドアースとも繋がりがあるギルドなんだ。だから、俺は今回の作戦でクラウドアースも食い込んでくると思ったんだ。でも、実際には太陽の狩猟団だけ」

 

「……つまりはチェーングレイヴとクラウドアースの関係には亀裂が入っている。もしかしたら、議長交代が原因かもね」

 

「犯罪ギルドを纏め上げる『王』になり、ヴェノム=ヒュドラはチェーングレイヴに取って代わる。大ギルドも裏には手を出したくないし、新たな支配者と手を組む。それがヴェノム=ヒュドラの狙いなのか?」

 

「考え過ぎ……じゃない……の?」

 

「そうだな。まだ推測の域を出ない……って、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

 

「平気……よ! これくらいの……傷……いつもの……ぐぅ……あぎ……あぁ……!?」

 

 傭兵なのだ。負傷はつきものである。この程度の傷は射撃戦がメインとはいえ、シノンも何度も負ったことがある。

 だが、傷口が疼く。今まで感じたことがないダメージフィードバックが駆け抜ける。

 立っていられずにゴミの上に倒れたシノンは、悲鳴を上げないように奥歯を噛み、その間にキリトは彼女の上着を捲る。

 シノンの腹に巻かれた止血包帯は、真新しい血で染めるどころか、ドロドロに濡れていたのだ。キリトは止血包帯を剥ぎ取る。

 

「傷口が……傷口が広がってる!? いや、これは……!」

 

「うぎぃ……あがぁ……ぎ……!」

 

 敵もさすがにダストシュートの先、ゴミ捨て場に隠れ潜んでいることまではまだ察知しきれていないはずだ。だが、シノンが大声で悲鳴を上げればすぐにバレてしまう。

 キリトがアイテムストレージから取り出したのは、武器ではない工具としてのナイフだ。何をするのか分からないシノンに、キリトは真新しいタオルを出すと噛むように促す。

 

「……シノン、何があっても気を強く持つんだ。絶対に悲鳴を上げるな」

 

 そして、キリトは躊躇なくナイフを振り下ろし、シノンの傷口を抉り広げる。

 脳が痺れる程のダメージフィードバックでシノンは咥えたタオルを吹き飛ばす程に悲鳴を上げそうになる。だが、必死になって堪え、だが四肢は暴れ回る。

 キリトは高STRでシノンの体を押さえつけながら傷口を広げると右手をあろうことか突き入れる。大きく目を見開いたシノンは体をのけ反らせ、だが悲鳴だけは上げまいと奥歯が砕ける勢いで食い縛る。

 

「コイツの……せいか!」

 

 あろうことか、キリトがシノンの傷口から引きずり出したのは大きさ15センチはあるだろう百足のような生物だった。凶悪な顎にはシノンの血塗れの肉片がついていた。彼女を内側から食い漁っていたのである。

 そして、百足の腹の部分には歪んだ金属塊……変形した銃弾が割れた卵の殻のように張り付いていた。キリトは百足を足下に落とすと踏み潰す。痙攣して動かなくなった百足を、シノンは涙で潤んだ目で見届けた。

 だが、キリトが切開したことによって傷口は大きく広がった。彼がアイテムストレージから取り出したのは針と釣り糸だ。傷口を縫合し、流血のスリップダメージを緩和させるアスクレピオスの書架の【凝血スプレー】を吹きかけ、改めて上から真新しい止血包帯を撒く。

 

「キリ……ト……」

 

「もう大丈夫だ」

 

「うん……う、ん……うん、ありが……とう!」

 

 自分の体を内側から貪られ、あまつさえ傷口から百足が飛び出すなど初めての経験である。シノンは普段の強気の態度も失せ、泣きながらキリトの首に抱きつき、大声を出さないように唇を噛みながら嗚咽を漏らす。

 すぐにHPは回復させたために問題ないが、じわじわと流血のスリップダメージは続いている。傷口が大き過ぎるのだろう。ダメージフィードバックが抜けずに動けなくなったシノンを背負うと慎重に地下のゴミ捨て場から移動を始める。

 

「あんな……銃弾……知ら、ない」

 

「俺もだ。百足を孵化させる銃弾なんて、当たり所次第では一撃必殺だ」

 

 今回は脇腹であったからよかったものも、頭部や心臓付近だった場合は大ダメージを免れなかっただろう。

 やっぱり助けてよかった。シノンがキリトを突き飛ばしていなければ、たとえ≪狙撃≫には耐えられたとしても、あの銃弾によって内側から食い漁られていただろう。頭ともなれば容易に切開して取り出すこともできず、またそんな暇もなく死に至っていたはずだ。

 だが、これでハッキリした。単純な待ち伏せなどではなく、キリトを確実に葬り去る術を準備した上で狙ったのだ。逆に言えば、数で勝ってもなおキリトは一撃で葬り去らねばならない脅威と判断したのだ。

 

「……ご――」

 

「謝ったら……殺すから」

 

「…………」

 

「気に病まないで。貴方は……正しい事を……している。みんなの死は……私の怪我は……貴方のせいじゃない」

 

 ダメージフィードバックで脳を揺さぶられているせいだ。自分らしからぬと承知していながらも、シノンは穏やかで優しい声で、自分を背負うキリトが今まさに己を責めているだろうことを感じ取って否を唱える。

 

「……分かった」

 

「分かれば……いいの。みんな、覚悟して、納得の上で……貴方と一緒に戦ってる」

 

 背負われたシノンは腕に力を籠める。キリトは彼女を背負いなおすと砦の地下を進む。幸いにも警備は薄い。どうやらゴミをそのまま海に捨てるらしく悪臭が漂う海面だけがあった。

 

「ねぇ、帰ったら……一緒にお酒……飲みましょう。貴方……分かったフリして……背負い込みそう……だから」

 

「よくご存じで」

 

「どれだけ……一緒に……戦ったと……思ってるのよ?」

 

「そうだな。何だかんだで、DBOではシノンと組む機会が多かったよな。まぁ、俺の正体を知られて脅されたのが始まりだけどさ」

 

「ふふ……そうだっけ?」

 

「そうだよ。でも、俺は近接馬鹿だから、シノンの援護射撃はいつも頼もしかったよ。G&Sを開発できたのも、スミスの指導もそうだけど、シノンが見捨てずにずっと手取り足取り教えてくれたからだしさ。シノンと出会えて良かった」

 

 本当に? シノンは疼く傷口が揺さぶれるのに顔を歪めながら、キリトに増々体重をかける。自分自身を預けていく。

 

「ねぇ、私……貴方の『相棒』になれた?」

 

「そうだな。シノンはまるで相棒みたいな存在だよ」

 

「……クーは? 今のクー……は?」

 

 シノンはずっと燻っていた不安を漏らす。

 ラストサンクチュアリ壊滅戦。キリトとクゥリの熾烈にして究極の、DBO史上……いや、VR史上最大の殺し合い。まるで神話の戦いを見ているかのような、壮絶を超えた死闘。

 シノンも思わず心からキリトを応援していた。クゥリもまた大事な友であるはずなのに、心からキリトの『勝利』を願っていた。

 怖い。恐ろしい。クゥリの戦いには常に恐怖が付きまとう。だが、終わってみればシノンが真っ先に感じたのは……嫉妬であり、全く別の恐怖だった。

 ああ、キリトはきっと何1つとしてクーを見捨てていない。戦いが終われば何事もなかったように語り掛けるだろうというある種の確信があった。

 だって、純白の傭兵はキリトにとって何よりも大切な存在だから。アインクラッドを共に生き抜いたというだけではない、まるで生まれる前から定まっていたかのような、たとえ最後に待つのは悲劇だとしても断つことができない縁によって結ばれた存在なのだから。

 

「私……もう『要らない』? こんな……足手纏いになって……クーならきっと……!」

 

 これも確信だ。もしもシノンではなくクゥリがあの場にいたならば、キリトを守るだけではなく負傷もせず、それどころかあの窮地でも互いが互いの背中を預けて軽々と逆転していただろう。こんなゴミ溜めの地下をネズミのように歩き進むことはなかっただろう。

 ああ、どうして? こんなにも、どうして涙が溢れるの? あの百足のせいか? そうに違いない。シノンの涙に、キリトは背を揺すって数秒だけ足を止め、また歩き出す。

 

「……俺とクーは、きっと……きっと『出会うべきじゃなかった』んだ」

 

「……え?」

 

「ちゃんと分かってるさ。俺とクーはきっと対極だ。本来、絶対に相容れない存在なんだ。俺は何だかんだ言っても『生』を肯定して、彼はどんなことがあろうとも『死』を受容する」

 

 それはきっと誰にも明かしたことがない、キリトの本心なのだろうとシノンは悟る。

 

「いつだって否定するよ。彼が『殺し』をするのは依頼の為であり、身を守る為であり、それ以上の事はない」

 

「…………」

 

「そうさ。俺の知ってるクーは『それでいい』んだ。だから、たとえ……クーがどうなろうとも……身勝手に、我儘に、彼に再び剣を向けることになろうとも……絶対に否定し続ける。俺の否定そのものが彼の全てを否定することになったとしても。だって、俺は……『親友』だからさ」

 

 ああ、そうか。馬鹿な人。シノンは自分の温もりを分け与えるように強く抱きつく。

 

「だからこそ、もう俺達は『相棒』には戻れない。アインクラッドで終わっているんだ。俺とクーが……背中を預け合う『夢』は……終わったんだ。たとえ、これからひと時の戦いでは肩を並べることがあっても……笑い合う時間があるとしても……もう……戻れないんだ」

 

「……キリト」

 

「本当はちゃんと分かってたんだ。だから、シノンに甘えてた。キミが俺の背中を守ってくれるのが……心地よくて、甘えていたんだ」

 

 苦笑するキリトが離れていくような気がした。今までで最も体を寄せ合っているはずなのに、何処か遠くに行ってしまうような気がした。

 嫌だ! シノンは力の限りにキリトを抱きしめる。体重をかけ過ぎたのか、彼は一瞬だけよろめいて、だが転ばずに歩き続ける。

 

「私ね……ずっと強さを探していた。クーに見て、貴方に見て、探し続けていた」

 

「…………」

 

「でも見つからないの。クーの全てを焼き尽くして、何もかも台無しにしてしまいそうな、恐ろしい強さに心の何処かで焦がれている。貴方の……何があろうとも立ち上がって、前に進んで、誰にもたどり着けない場所に連れて行ってくれそうな強さも眩しいの」

 

「…………」

 

「貴方達を見ていると……自分が惨めで……ちっぽけで……弱くて情けなく思えてくるの」

 

「…………」

 

「ねぇ、キリト。私は……貴方の背中を守れる? 貴方にとって……私は『何』?」

 

 シノンの吐露にキリトは足を止めない……はずだった。

 キリトは立ち止まる。そして、地下では見ることができない夜空を見上げるように天を仰ぐ。

 

「今日だってシノンは俺を救ってくれた。今までだって、何度も何度も俺のピンチを助けてくれた。いや、それだけじゃない。戦いがない時でも、俺に冷静さを呼びかけてくれたり、あれこれアドバイスをくれたり、全く意味のない雑談の相手になってくれたり、暇潰しに付き合ってくれたり、本当に……たくさんたくさん……シノンには……」

 

 一呼吸を挟んだキリトは再び歩き始める。だが、不思議と先程までの乖離の感覚はなかった。まるで解けかけた結び目をしっかりと結び直したように、シノンは不思議な安心感を覚えた。

 

「シノンは俺にとって『大切な人』だ。失いたくない、死なせたくない、消えてほしくない……『大切な人』だ」

 

「……卑怯者」

 

「卑怯は傭兵にとって?」

 

「褒め……言葉よね。まったく、確かに……そうよね」

 

 シノンは『相棒』になりたい。でも、キリトはそれを是としなかった。

 かつてクーがいた席だから? 違う。怖いのだ。『相棒』と呼べる存在が……自分にとって半身と呼べる者が……自分の手の届かないところで、あるいは己の無力さで、至らなさで、弱さで死んでしまうのが恐ろしいのだ。

 

「……馬鹿ね」

 

「馬鹿だよ。だから俺は『俺』なんだ」

 

 地下道を抜ける。足音と声がよく聞こえる。頭上を見上げれば、木板が軋んで光が漏れていた。キリトはシノンを背負ったまま地下道から続く横道に入ろうとした。

 

「ここでいいわ」

 

 シノンはキリトの背から離れるとフラフラと体を揺らしながら壁にもたれかかる。

 

「ここからは二手に分かれましょう。私は船を確保する。貴方は……被害者を探し出しなさい。1人でも多く……救いなさい」

 

「シノン、だけど……!」

 

「それがベストじゃないにしてもベター。この怪我でも戦える自信はあるけど、貴方の足手纏いにはなりたくない。私にもプライドがある」

 

 正直に言えば、腹の肉をごっそりと持っていかれて体幹を保つのが危うかった。これではシノンの肝である射撃は精度を落とすことになるだろう。

 

「救いなさい、キリト。貴方が『貴方』である為に。私は『私』である為に……今できることをするわ」

 

「……分かった。死なないでくれよ」

 

「死ぬわけないでしょう。帰ったら、皆の弔いも兼ねて飲み明かすわよ」

 

 キリトは横道の闇へと踏み込み、シノンは呼吸を整える。

 傭兵を舐めるな。この程度の窮地を生きて脱することができずに何が傭兵か。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 潜入成功か。水面に浮かぶ樽の蓋を破ったエイジは港の縁より這い上がる。

 

『へいへい、雑魚くーん! 通信良好?』

 

「ああ。それにしても凄いな。こんな長距離でも通信できるのか」

 

『まぁ、ここが距離的にも限界だけどねぇ。それに通話可能時間も短いからさっさと終わらすよ』

 

 相変わらず大胆極まりない男だ。エイジはずぶ濡れの体のまま動き出す。幸いにもここは波が高い。地面が濡れていても怪しまれることはないだろう。だが、屋内に入れば目立つ。注意しなければならない

 現在、ライドウは海上にてエバーライフ・コールが保有する船の上に待機している。

 エバーライフ・コールのリーダーであるカリンは、手土産と称して酒や食料を持ち込み、ヴェノム=ヒュドラに大ギルドが攻め入る情報がある……と提供を申し出た。もちろん、これはエイジがリークした情報であり、カリンは大喜びして動き始めた。

 

『ヴェノム=ヒュドラがデカい顔し始めたら、ウチの商売が真っ先に潰されるじゃない。その前に何とか削るだけ削らないとね』

 

 カリンはヴェノム=ヒュドラの使者と海上で面会した。もちろん、入港はアウトである。ヴェノム=ヒュドラは今更そんな情報くらい知っている、わざわざ直接会いに来る必要などないとカリンがそれとなく申し出た支援も断った。

 もちろん、これはカリン……もとい、ライドウの罠である。実際には港に帰るヴェノム=ヒュドラの船に縄を括りつけ、エイジ入りの樽を運ばせたのである。彼は樽の中で荒波に揉まれながら敵の船によって無事に港への侵入に成功したのである。

 ここは船の墓場とも呼ばれる場所であり、浮かぶ材木や樽も1つや2つではない。敵も偽装しての侵入は予想しているかもしれないが、戻ってきた船に括りつけられているなど予想もしなかっただろう。エイジはバレないようにロープを切って樽を流し、無事に要塞砦の内部へと歩を進める。

 しかし意外だ。あれこれ嘘を考えていたのだが、ヴェノム=ヒュドラが『商品』を管理している拠点に乗り込みたいとエイジが言えば、1も2もなく了承した。

 

『いやー、雑魚君も分かってきたじゃーん! ワクワクするよねぇ! たった1人で敵の基地に乗り込むなんてさ!』

 

「……僕の目的を聞かなくていいのか?」

 

『えー? どうせアレでしょ? 女でしょ? 拉致されて売り物にされてるのは女ばかりだし』

 

「…………」

 

『何? 詳しく知ってほしいの? 止めておきなよー。俺、雑魚君の女だと思ったら欲しくなっちゃいそうだし。犯すだけ犯して殺して雑魚君の前に晒しそうだし』

 

「自覚があるんだな」

 

『まぁね♪ でも、奪われる方が悪いんだよ。強者は弱者から奪う権利がある。雑魚君は「まだ」弱者だよ♪』

 

 ユナを無事に連れ帰れたとしても、ライドウとだけは絶対に会わせないようにしよう。むしろ、エイジと関わり合いがない無関係を装えるように距離を置かねばならない。そして、念には念を入れて身辺警護もなんとかしてつけねばならないだろう。

 今回の件でユナも懲りたはずだ。もしかせずともトラウマになって、教会の外に出たがらないかもしれない。さすがのライドウも……いや、ライドウのような人間だからこそ、教会には絶対に近づかないだろう。

 何にしても無事を確かめてからである。エイジは左耳につけた長距離通信インカムも間もなくバッテリー切れになると歩を速める。

 

『朗報でーす! 大ギルドが間もなく部隊を差し向けまーす! 雑魚君は敵と勘違いされてぶっ殺されまーす!』

 

「それの何処が朗報なんだ?」

 

『まぁ、最後は雑魚君の頑張り次第だとして、女を連れて脱出なんて簡単にできるわけないじゃん。だ・け・ど、方法はある。俺はもう帰るけど、カリンが残ってくれるんだってさー。優しいねー』

 

『ヴェノム=ヒュドラが吹っ飛ぶところを見たいだけよ』

 

「カリンさんもそこにいるんですか」

 

『ええ。ライドウのお陰で面白いショーに立ち会えたわ』

 

『でしょでしょー? 雑魚君ってさー、いつもは慎重で堅実なはずなのに、なーぜか時々ハチャメチャなくらいにアクティブになるんだよねー! 訳分かんねー!』

 

 僕もだ。エイジは警備が異様に厳重であることを察知し、物陰に隠れる。明らかに誰かを探している動きだ。自分の侵入がバレたのかとも思ったが、どうにも様子が異なる。耳を澄ますが上手く話は聞き取れない。

 

『船を奪って脱出できれば、私が回収してあげる。タイムリミットは私が帰ると判断するまで。せいぜい急ぎなさい』

 

『頑張れー! 雑魚くん、ファイト―! あ、それと俺が渡したアイテムだけど、通信が切れたら使ってね』

 

 これか。ライドウから渡されたアタッシュケースには鍵がかかっており、中身が見れず5桁のパスワードを入力せねば開けられない。ライドウ曰く、この長距離通信をもう1度使えるようにする装置とのことであるが、海上にいるライドウと通信を再開してどれだけの意味があるかは不明だ。

 まずは監禁場所を探らねばならない。エイジは息を潜めながら要塞の奥に潜り込む。

 

「あー、面倒くせぇな!」

 

「文句言うな」

 

 エイジが物陰から見たのは、損壊が激しい遺体の処理をするヴェノム=ヒュドラの者達だった。装備からして潜入部隊だろう。内部工作の為に侵入したが、あえなく発見されて……というわけだろう。

 道理で物々しいわけだ。敵の巡回も警備の目も厳しくなり、エイジの隠密ボーナスでは看破される危険性がある。

 

『ねーねー雑魚くーん。俺さー、雑魚君にガッカリしてるんだよねー』

 

 そして、相変わらずライドウは潜入のサポートどころか邪魔するように話し続ける。どうやら酒も飲んでいるらしく声も上擦っている。

 

『雑魚君はその剣のことをなーんにも分かってないね。いやー、本当に頭が固い! なーんで気づかないかなー! たぶん、その武器って雑魚君の認識次第で化けるんじゃないかなー!!』

 

「……どういう事だ?」

 

『いやね、雑魚君に最適化されているらしいけどさ、だったら「おかしい」ってわけよ。つまり、単純にシステムに則ってるわけじゃなくて、あくまで雑魚君の認識が問題なんじゃないかなーって思ってるわけ』

 

「…………」

 

『どうして俺がデーモンシステムを解禁したのか。その辺りも含めて自分でよく考えてみなよ。んじゃ!』

 

 見計らっていたかのように通信が切れる。電源が落ちたのだ。エイジは邪魔になったインカムを外し、左手に持つアタッシュケースを見つめる。

 わざと話を切ったのは使わせたがったからか? 嫌な予感がする。エイジは慎重な手つきでアタッシュケースのダイヤルを回す。

 アタッシュケースを開けたエイジが思い出したのは、小さい頃にユナと家で視聴した映画だ。両親が留守で帰りが遅くなった彼女に誘われたのである。家族ぐるみとは言い難かったが、近所ということもあって相応の付き合いもあったお陰で、エイジも何かとユナの家に邪魔することも多かった。

 今にして思えば、ユナも1人で留守番をするのは心細かったのだろう。テレビで放映されていたのはスパイ映画であり、2人で並んで先の読めない展開にのめり込んだものだ。もちろん、今にして振り返ってみれば王道中の王道であり、また幼かったせいで少々行き過ぎたラブシーンを互いに理解できず、2人で映画を見た話をすれば、視聴経験があったユナのご両親の顔が引き攣ったのも頷けた。

 もはや当時の感情は思い出せず、湧くのは憎しみばかり。だが、今回は本当にそれで良かったと安心すらもして、エイジは普段以上に感情が死んだ目で、だがライドウへの憎しみを滾らせる。

 アタッシュケースの中身はぎっしりと詰まった黒い何か。組み込まれた配線とデジタルタイマー。誰がどう見ても時限爆弾としか表現ができないものだった。

 残り10秒。エイジは深く息を吐き、周囲を見回す。少なくともユナが監禁されているような場所ではない。

 そして、人目も気にせずに全力で駆け出す。スピード上昇による相対的な隠密ボーナスの低下。巡回するヴェノム=ヒュドラの目につかまり、櫓からスポットライトを浴びる。

 

「侵入者だ!」

 

「捕まえろ……いや、殺せ!」

 

 屋根に陣取っていた3人の兵士が銃口を向ける。いずれも連射性と火力のバランスに優れた、だが本領を発揮するには熟達した腕前が不可欠となるアサルトライフルだ。初弾回避さえすれば連射されても単発火力を恐れる必要はないが、それでも弾幕によって削り殺され、また衝撃によって動きを止められる恐れある。

 放たれる銃弾。射線を見切って回避するも、建物から続々と飛び出す敵によって瞬く間に包囲されていく。

 嬲り殺されるのは時間の問題……いいや、十数秒後の未来となった時、背後で眩い光、続いて熱と衝撃波が襲い掛かる。

 想定通りの爆発。だが、想定を上回る威力! エイジも驚愕する程の大火力であり、まるで天を貫く勢いで火柱が立ち上っている。アタッシュケース1つ……プレイヤーが個人で運搬できる爆弾にしては破壊力があり過ぎた。

 クラウドアースの秘密兵器でも持たせたのか!? 驚くエイジだったが、爆風と爆炎で唖然とした敵の間を抜けるならば今だと突貫する。

 だが、続いたのは更なる爆発……そして大炎上だった。

 想定通りの爆発。想定を上回る威力。そして想定外の展開。思わず振り返ったエイジが見たのは、爆弾の炸裂によって引火したのか、ヴェノム=ヒュドラの物資だろう、火薬や爆弾系アイテム、燃料といった可燃物に着火し、瞬く間にエイジすらも呑み込む勢いで燃え広がる炎だった。

 連鎖される爆発の度に起きるのは悲鳴。炎の内より這い出るのは全身を焼かれたヴェノム=ヒュドラの構成員。仲間たちの危機に唖然とする者、怒号と共に消火活動を始める者、そしてどう見ても犯人と思しき侵入者であるエイジを仕留めんと飛び掛かる者がいた。

 

「テメェエエエエエエエエエエエエエ!」

 

 素肌に鎧を着こんだ野盗の代表例のような戦士が槍を突き出す。木製の柄に骨製の穂先を持った原始的であるが、それ故に凶悪さを感じる槍だ。迫る圧迫感に対してエイジはFNCのの疼きを覚える。

 だが、視覚警告を頼るまでもない。馬鹿正直な突きを……穂先を踏みつけて逸らして先端を地面に埋め込む。唖然とする兵士の喉にダーインスレイヴを突き立て、捩じり、そのまま斬り上げる。

 あっさりと絶命した兵士の骸に、襲い掛かる兵士たちはまるで動じない。いや、焦燥や恐怖があっても上回る凶暴性を発揮しているかのように襲い掛かる。

 奇妙だ。エイジはこの場において冷静さを保てているのは、爆発した張本人であり、ライドウとの死に隣した訓練を積んだからであり、僅かでも恐怖心で二の足を踏めばダーインスレイヴの補助を失ってFNCが発症するという背水の陣のような精神状態が常中だからだ。

 だが、見るからにヴェノム=ヒュドラたちの下級戦闘員のような連中は、過剰な攻撃性に対して技量がマッチしていない。思えば、幾ら爆発と火災の影響があるにしても、その目には正気と呼べるものが薄かった。

 何よりもダーインスレイヴで一撃必殺とはどういうことだ? エイジの疑念は膨らむ。ダーインスレイヴは≪両手剣≫と≪片手剣≫のキメラウェポンというDBOでも極めて珍しいタイプであるが、それ故の器用貧乏さが目立つ。高いカウンター性能を誇る刺突攻撃だとしても、追撃の斬り上げを合わせても一撃死は難しい。いや、一撃死のダメージを与えたにしてもHPの減りが早過ぎる。ダメージに対してHP量が無さ過ぎる証拠だ。

 そういえば、とエイジは思い出す。犯罪ギルドはもちろん、貧民プレイヤーはドーピングアイテムに手を出して自己強化を図るのだが、他にも麻薬アイテムを使うなどして恐怖心を薄れさせる。もちろん、興奮作用に振り回されて、デーモン化時の暴走の時のように、まともな戦闘ができるのではないのだが、同じプレイヤー相手ならば殺人の忌避感も奪えるので重宝されている。

 貧民時代と巡回警備時代に培った知識だ。エイジは降り注ぐ弾丸を浴びながら射線から逃れて路地に入る。要塞内は建物が乱立しているが、その全てが活用されているわけではない。ライドウ……もといカリン曰く、元はダンジョンであり、ヴェノム=ヒュドラはその複雑な構造を利用して大ギルドを誘い込んで長期戦も目論んでいるとのことだが、エイジには興味がなく、むしろユナの居場所を探ってたどり着く労力がかかる事の方が問題だった。

 レベル90代かつスピードを重視した防具構成とはいえ、やはり低レベルのプレイヤーに使える銃火器ならば火力もたかが知れている。危険なのは実ダメージよりも衝撃による行動不能とスタンだ。また、如何に低ダメージでも下手に突撃すればダメージは一気に蓄積し、またアバターの損壊による流血のスリップダメージや戦闘能力の低下の方が問題である。

 

(やはり対高レベルプレイヤー装備か。火力よりも衝撃・スタン蓄積を優先した射撃装備。当然と言えば当然だな。ダメージは低い。多少は受けても切り抜けられる)

 

 衝撃・スタンの蓄積は、武器種や軽重分類によるところが大きい。たとえば、レベル100が使う短剣よりもレベル10が使う特大剣の方が、たとえ攻撃力では前者が勝っていたとしても、後者の方が圧倒的に与える衝撃・スタン蓄積性能は高いのが一般的だ。

 DBOは興味深いことに、高レベル帯の防具程にスタン耐性が大きく伸びるのでスタンには強くなるが、衝撃耐性の伸びはそこまでではない。同じく武器が与える衝撃の変動も高レベル帯の武器だからといって低レベル帯とは大きく差もない。これこそがレベル100のプレイヤーでもレベル10水準のモンスターに囲われてタコ殴りされれば死ぬという理屈である。抗うことも逃げることも回復することもできずに、延々と衝撃による体勢崩しと蓄積限界突破によるスタンを繰り返すのである。

 ただし、モンスターの場合は異なる。1部を除いた場合、モンスターは衝撃・スタン耐性が完全突破されるとプレイヤーと同じく大きな隙を晒し、また怯みやすくなるが、回復後はしばらく衝撃・スタンに対して無敵の反撃時間がある。これはモブでもネームドでも変わらない、プレイヤーとモンスターを明確に区分する線引きである。加えて言えば、モンスターの場合はレベル差による衝撃軽減もあり、モンスターに設定された水準レベルに劣る程に与える衝撃は大幅なカットがもたらされる。

 ちなみにレベル差による衝撃カットはプレイヤーにも適応されている。ただし、モンスターに比べてマイルドであり、過信できるものではない。

 高レベル水準のモンスターに対しては低レベルプレイヤーによるタコ殴り戦法が全く通じず、逆に高レベルプレイヤーに対しては低レベルプレイヤーによる数の暴力も有効である。これはDBOにおけるPvMとPvPの明確な違いでもある。DBOは『1人のプレイヤーでもネームドを討伐は可能』であるが『高レベルプレイヤーでも1人であれば、低レベルプレイヤーに囲われたら負ける』という大きな証拠でもある。もっとも、前者のネームド討伐はレベルや装備うんぬん以前に本人の技量が何よりも問われるのであるが。

 加えて拍車をかけるのは流血システムの導入だ。どれだけ低火力の攻撃でも受け続ければアバター強度は低下する。アバターが損壊すれば流血のスリップダメージはもちろん、防御力の低下も招く。本来ならば致命傷になりえない低レベルプレイヤーの攻撃も負傷する程に脅威度が増していくのだ。

 他にも低レベルプレイヤーによる高レベルプレイヤーの殺害の定番といえば毒であるが、衝撃・スタン耐性と比べても防具の性能によっては大幅に高まる。低レベルプレイヤーが使える武器は総じて蓄積性能も低い為に、余程に上手く蓄積させていかなければダメージも与えられず、また高レベルプレイヤーにレベル1の毒など大した脅威にもならない為に、結局は高額なレベルの高い毒を準備せねばならず、低レベルプレイヤーには準備できず、また扱えないという事もあり得るのだ。それでも、数による衝撃・スタン狙いでなければ、次にジャイアントキリングしやすいのがデバフ戦法である。

 とはいえ、そもそもとしてレベル差=ステータス差であり、アバターの性能に大きな差が生じる。STRが高いプレイヤーならば高威力の重量武器を振り回し続けるだけで近づかせることさえ許さず、高DEXならばそもそも囲われる前に脱出は難しくなく、運動面に秀でていない魔法使いプレイヤーならば周囲を一掃する魔法を習得している・そもそも近接ファイターと組むことが前提であるので単独で包囲される状況があり得ない……等々といった要因も絡むので数を揃えれば勝ちというわけでもない。

 そこで有効とされる武器は射撃武器だ。射撃武器はクロスボウを除けばいずれも専用の武器スキルが不可欠であるが、その代わりに近接武器にはないリーチがある。むしろ、≪銃器≫・≪光銃≫といったステータスに左右されない射撃武器は、対人戦でこそ真価を発揮するのである。

 

(思えば訓練でもやったな。弾幕を如何に潜り抜けて敵陣に切り込むかがGvGにおける近接ファイターの肝……か)

 

 もちろん、銃弾もタダではないし、装弾数という制限もあるので延々と弾幕など張り続けられるものではないが、遮蔽物がない空間で近接ファイターが盾も無しに弾幕を突破するなど不可能である……が、やってのけるプレイヤーもいる。たとえば、弾幕が薄い場所を即座に見抜いて銃撃を受けながら突破して切り込むといったやり方だ。

 エイジがこんな回想に敵陣で耽るのは、銃撃を受け過ぎて頭から血が流れて右側の視界が真っ赤に染まってしまっているからだ。ヘッドショットは初弾判定攻撃だけとはいえ、頭部へのダメージは他に比べても伸びが良い。額が割れてしまったのだ。幸いにも流血状態と判定される程ではないが、血を拭って視界を回復させねばならない。

 水筒の水で顔を洗い、荒々しく袖で拭う。自分の実力は把握している。爆弾と火災の動揺が広がっていなければ、低レベルプレイヤーでも囲われたら終わりだ。戦闘は最小限に控えねばならないのだ。

 

「……ユナ」

 

 何処にいる? エイジは燃え盛る火災の熱を感じながら、迷宮の如き要塞の奥を目指した。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 防音を突破する程の轟音。それにこの衝撃……爆発の類か。

 なるほどな。確かにこれ以上とない程に分かりやすい『合図』だ。オレは瞼を開き、看守を倒して扉を開けるだろう、協力者の登場を待つ。

 だが、待てども待てども扉が開く気配はない。もしかして、今のは合図ではなかったのか? いやいやいや、あり得ないだろう。もちろん、ただの事故という線も捨て難いが、大ギルドが攻めるか否かのこの状況で? あり得ない。今の感じだと、如何にこれだけの規模の要塞であるとしても大損害と呼ぶに相応しいダメージを負ったはずだ。

 つまり、どう足掻いてもヴェノム=ヒュドラに防衛力は半減。よくて3割減だ。うん、もう惨敗確定だね。どう足掻いても大ギルドによるワンサイドゲームだね。これが防衛に使われる予定だった爆薬関係や防衛設備・ゴーレム用の燃料とかだったらもっと悲惨だな!

 まぁ、十中八九で大ギルドが忍ばせた内部工作員の仕業か。つまり、ここからはオレの仕事だ。派手に暴れて内部攪乱……特に頭を潰して指揮系統を完全に破壊する。まぁ、重要そうな情報を持ってそうなヤツは達磨にしておけば文句も言われないだろう。生かす努力はする。

 

「…………」

 

(…………)

 

「…………」

 

(…………)

 

「…………」

 

(……逃げたんじゃない?)

 

 開く気配のない扉に、ヤツメ様は馬鹿にするように鼻を鳴らす。いや、もう少し待ってみよう……待って……待って……うん、やっぱり開かないよね。

 あのビビりっぷりだ。土壇場で怖気づいたかもしれないな。まぁ、ミュウが絡んでまともに進んだ試しなどない。アイツ、自分のところの専属以外にまともな情報を渡す気なんてないし、まともな作戦を組む気もないからな。だから『独立傭兵が受けたくない依頼先ランキング』で不動の1位なんだよ。もう少し改善の努力をしろよ。それが個性の出し方だと思ってるなら大間違いだからな!?

 仕方ない。自分で動くか。合図を細かく設定していなかったミュウが悪い。たとえ、予定外の事故だとしても混乱は確実だろうし、内部攪乱をするならば絶好の機会だろう。

 両腕は手袋で封じられ、あとは足枷。これでは武器もまともに装備できない……が、オレの場合は少し違う。

 

「氷雪のレガリア……氷雪剣」

 

 周囲に展開された氷雪剣は円陣状態で待機してオレを囲う。あとは腕の拘束具の1番弱い部分、革製のベルトに狙いをつけて破壊していく。ふむ、これだけでは動かせないが、指は少し自由になったな。あとは雑であるが、左手で氷雪剣を操作して……と。突き刺して水属性の炸裂で破壊させる。ふむ、両腕の肉が少し吹き飛んだか。まぁ、許容範囲内だな。

 ドラゴン素材は雷、次に水属性に弱い。どうせ使うならば、グローブ全てをイジェン鋼にすべきだったな。その方が破壊も手間取った。まぁ、その時は別の手段を使ったまでだ。

 両腕さえ自由ならば足枷の破壊はもっと楽だ。イジェン鋼の太刀を装備して断つ。これだけでいい。

 

「扉は……さすがにイジェン鋼じゃないな。うん、安心した」

 

 そこまでイジェン鋼が大人気だったら吃驚仰天以前に聖剣騎士団の関与を疑ったところだ。グリムロックが湯水のように使うので忘れているが、高純度のイジェン鋼ともなれば仕入れルートも限られてくる希少性の高い高額素材なのだ。だからこそ、拘束具もドラゴン素材とイジェン鋼の組み合わせなのだろう。ドラゴン素材の方はせいぜいレベル50級だろうしな。

 しかし、この扉をイジェン鋼の太刀で破壊するのもな。もっと……こう……スマートに脱獄したいな。グレネードはさすがにな。もうトンファーとして活躍できなくなるとなぁ。せめて少しくらい殴ってからぶち込みたいしなぁ。

 無難に氷雪の大鎌でいいだろう。生み出した冷気と氷の大鎌による乱撃によって扉を破壊して顔を覗かせれば、氷雪剣による破壊を察したのか、看守とご対面だ。

 えーと、ここには拉致被害者が収容されているはずだから、なるべく周囲を破壊しないようにしないとな。頭に被っていたフードを外してにこやかに挨拶する。

 

「こんばんは」

 

「馬鹿な……! どうやって!?」

 

 おや、反応が予定外だ。ここは『なんで【渡り鳥】が!?』と聞けると思ったのに。まぁ、どうでもいいか。

 氷雪の大鎌で一閃……は勿体ないな。槍の突きを躱して左手で看守の喉をライフ・ドレインでつかみ取る。そのまま壁に押し付けた。

 さぁ、STR対抗だ。悪いが、回復アイテム温存とアバター修復を優先させてもらう。STR出力……6割だ。

 

「ぐひぃいいいいい……!?」

 

 看守から山吹色の光が溢れてオレに流れ込む。そして、氷雪剣による自傷ダメージが回復していき、またアバターもじわじわと修復を始める。

 ランダム・デーモンスキル≪ソウル・ドレイン≫はモンスター・プレイヤーを問わずに倒せば倒すほどにHPと魔力が回復するが、他にもライフ・ドレインやエナジー・ドレインといった対象を拘束してHPや魔力を吸収するEXソードスキルやパッシブのEXソードスキルであるリゲインなど、とにかく攻撃性を強化・戦闘持続に還元できる。

 まぁ、ドレイン型EXソードスキルは当てにくいし、STR次第で振り払われるし、吸収には時間がかかるので、複数戦では呑気に使っていられないがな。あと、基本的に人型オンリーにしか効果ないし、人型ネームドだったら当たってもまず振り払われるし。うん、本当にリゲイン以外はまともに役にも立たん。さすがはランダムと名づくだけである。もっとストレートに強いデーモンスキルが欲しかった。

 ちなみにHPを吸収し続けられたプレイヤーの死に様は悲惨だ。全身は痙攣し、白目を剥いて、血泡を吹きながら死ぬ。看守のHPを吸収し尽くして投げ捨てれば、異常を察知した看守たちの到着だ。3人か。

 イジェン鋼の太刀を投擲して1人目の頭部を先制打で刺し貫く。そのままステップで距離を詰め、2人目の顎に穿鬼を放って頭部を爆散させる。最後の1人はライフ・ドレインでつかみ取り、美味しくHPをいただく。

 

「やっぱり低レベルだな。穿鬼はスタミナの無駄だったか」

 

 レベル50以上を想定して、STR出力7割で完璧な穿鬼を放ったのだが、うむ、首から上が無いな。脳髄と頭蓋が混じり合って散乱している。念には念を入れて確殺するべく使ったが、ヴェノム=ヒュドラの構成員のレベルはやはり高くない。下っ端連中は高くてもレベル20といったところか。レベル20の壁はやはり高いな。

 イジェン鋼の太刀の投擲によって頭を串刺しにされて壁に磔になった看守は……絶命済みか。まぁ、投げる前に獣血侵食しておいたから暗器化していたし、クリティカルダメージも上昇して即死だったろうな。

 

「スタミナ・ドレインとかあればいいんだがな」

 

 さて、ここからどうするか。被害者の皆様と一緒に脱獄? 無い無い。だが、このまま放っておいたらミュウに嫌味も言われそうだ。とりあえずフードを被り、鍵だけ破壊して、間もなく大ギルドの部隊が到着するから待っていてもらうように通達するか。

 扉の1つを破壊する。中身までは斬らないように慎重に……と。

 

(……いないわね)

 

 というよりも、これはただの倉庫だ。見たまえ、これを。立派なトウモロコシだ! 美味しそうだね! オレ、もう味も分からないけどさ!

 念のために他の扉も破壊して回るが、拉致被害者はゼロだ。ふむ、どうやらオレは……定員オーバーで適当な倉庫に放り込まれたようだな! その割には防音性完備とか意味不明だがな!

 まぁ、元がどんな要塞か知らないし、1から設計されたプレイヤーメイドじゃなさそうだから、監獄だった場所を倉庫にしただけかもな。こういう事もあるだろう。

 改めてフードを外し、イジェン鋼の太刀を背負う。長過ぎるせいで抜刀術に向かない上に背負うしかない。ここはトンファーと青蛇ノコギリ鉈で倒していくとするか。

 やはり混乱は酷いようだ。廊下の窓から覗けば、要塞内部に火災が広がっている。まぁ、延焼はこれ以上無さそうであるが、それでも消火活動をしなければ、この要塞の陥落は免れない。鎮火作業に人手が取られているとなれば、要塞を指揮する連中の警備も手薄になっているかもしれないな。

 とりあえず、確実に1人ずつ、1人ずつ、1人ずつ、殺していくとしよう。バケツを手にして走る3人組を見つけ、廊下の窓から飛び降りて上空から奇襲する。1人目を後頭部から背中にかけて青蛇ノコギリ鉈で抉り斬り、振り返る暇を与えずにもう1人の喉にトンファーで強打。バケツを捨てて反撃される前に3人目に青蛇ノコギリ鉈を変形させ、鉈の分厚い刃で頭部を鼻から線を引くように横薙ぎにする。

 血飛沫を浴びて魔力も補充する。ライフ・ドレインで吸収できたのはHPだけだからな。リゲインは大事な補給だ。ただし、従来のリゲインではない。強化版リゲイン……【ナイトメア・リゲイン】だ。HP・魔力の吸収作用が高まっているが、重要なのはダメージエフェクトを浴びる程に全攻撃力とスタミナ回復速度が上昇する。逆にダメージ・エフェクトを浴びなかった場合、継続的にスタミナ消費量の増加がかかるので、とにかく敵を近距離で攻撃してダメージ・エフェクトを浴び続ける程に、攻撃力と継戦能力が高まるというものだ。まぁ、元もリゲインもスタミナ消費量増加があったし、単純に上位互換なんだがな。デフォのスタミナ消費量増加作用が強まっていても誤差の範疇だし、装備等で上昇させたスタミナ回復速度で十分に補える。

 

「……甘い」

 

 顔に飛び散った血を舐め取れば、ほんのりと甘味を感じる。失われたはずの味覚があった。

 トンファーで喉を強打された1人はまだ生きている。ふむ、やはり連撃でなければ仕留めきれないか。まぁ、使うだけ使ってグレネードでお役御免だな。グリムロックの想定通りの運用で使い潰そう。

 

「ねぇ、アナタは……甘くて美味しい?」

 

「ひぃ……来るな! 来るな! 誰かこっちに――」

 

 元に戻した青蛇ノコギリ鉈で喉を裂く。HPを完全に削り取らないギリギリの加減で、だが声を潰し、血が吹き出すように。

 

「お・し・ず・か・に♪ 大声出したら駄目ですよ?」

 

 これもリゲインに必要なのだ。その命、無駄にはしない。喉を押さえて倒れた男を押し倒し、馬乗りになってトンファーで乱打する。目と鼻を潰し、歯を砕き、皮膚を突き破り、喉と顔面から血を飛び散らせてリゲインの糧にする。

 顔面が陥没した遺体を放置し、次の獲物を目指す。銃火器……アサルトライフルを持った小隊か。他に比べて装備がいい。

 

「早いけど、使うか」

 

 トンファー……構え、撃つ! 弾速の遅いグレネード弾であるが、警戒していなかった真横からの直撃で8人の兵士が吹き飛んだ。オレも反動で1メートルは押し飛ばされたが、なるほどな。これ程の威力をトンファーで1発だけとはいえ実現か。運用方法は暗器に近いな。至近距離でぶっ放した方が有効だったかもしれない。無駄なことをした。

 生き残りもいたが、イジェン鋼の太刀を両手持ちして切り込んでまとめて薙ぎ払う。1人だけ回避したヤツもいたが、片手突きで口内から串刺しにすれば動かなくなった。

 帰ればまだ残りもあるし、次に有効活用だな。トンファーをオミットし、空いた武器枠に爆散された遺体から奪い取ったアサルトライフルを装備する。銃弾は……【対鋼鎧弾】か。クラウドアース製だな。ダメージよりも貫通性能を重視した銃弾である。市販品であるし、クラウドアースの関与を決定づける証拠にはならない。

 ……ならないが、アサルトライフルも改造されているとはいえ、銃弾に適合したクラウドアース製か。犯罪ギルドにまで大ギルド印の武器が渡る……か。売られた武器が誰に使われるかなんて分かったものじゃないな。

 アサルトライフルはせいぜいレベル30くらいだな。まぁ、銃弾の性能通りというわけか。弾幕を張るだけ張って、後は鈍器にすればいいだろう。

 

(……嫌な香りね)

 

 あ、ヤツメ様もそう思いますか? そうなんですよね。こう、本能的に何か……ね。深淵の気配の濃さも大概だが、オレとしてはこの香りの方が堪らない。

 そう、レギオンの香りだ。それも今までのレギオンの香りとは何かが異なる。

 

「嫌な夜だ」

 

 空を見上げれば分厚い雲によって月明かりは遮られている。

 グレネードで爆殺した遺体の中心で、イジェン鋼の太刀の血を払う。さて、次の獲物を探そう。なるべく火災の混乱から離れた、安全地帯にいる連中を狩るべきだな。

 

(狙撃)

 

 欠伸を噛み殺しながらヤツメ様の一言に、背後に向かってイジェン鋼の太刀を振るう。後頭部を撃ち抜くだろう銃弾を弾き、振り返りながら狙撃手の位置を射線から割り出す。

 あの櫓か。一気にスピードを上げ、袖から飛び出した投げナイフを櫓の外壁に突き立て、ワイヤーを回収して宙を浮く。外壁に着地したあとはウォール・ランとステップを併用して一気に舞い上がり、設置型スナイパーライフルを捨てて逃げようとしていた狙撃手の正面を取る。

 顔面を掴んで押し倒し、青蛇ノコギリ鉈を喉に押し付けて引く。だが、一撃では死なない。HPも高ければ防具もいい。どうやら高レベルプレイヤーのようだ。

 

「近接戦に覚えがないならば、発見されるリスクを増やしてでも護衛はつけるべきでしたね」

 

 射撃は武器にもよるが、総じて防御力低下などのペナルティが生じる。近接適性の低い武器程に低下の幅は大きく、効果時間も長い。スナイパーライフルなど特にそうだ。より強力な設置型なら猶更だ。それを考えると、器用貧乏とされるアサルトライフルは近接適性高めで威力をそれなりに発揮させるには距離を詰めねばならない代わりに、防御力低下作用もマイルドで、なおかつ効果時間も短いので、それなりの利点もあるのか。

 何度も、何度も、何度も……削ぐ。やがてHPがゼロになって呆気なく頭部が分離された。首の醜い傷口の断面から溢れた血がオレを染める。染めてくれる。その分だけリゲインの効果は増す。

 ……いいや、違うな。獣性の昂ぶりを感じる。もっと血を。もっと血を。もっと血を!

 ああ、そうだ。この嫌な香りが否応なく獣性を昂らせるのだ! 狩りに興じろと『獣』を誘うのだ!

 

『応答しろ、【ジェスパー】! 仕留めたのか!? ヤツを……』

 

 狙撃手の耳に装着していたインカムから漏れる声は焦りがある。どうやら、オレの脱走を知られていたようだ。こちらの行動を読まれていた? グレネードで爆殺して武器を漁ったところを狙われた?

 ふむ、興味深い。どうやらオレの脱走後は何らかの形で監視されていたようだ。ああ、そういえば監視カメラがあったな。だからか。どうやらオレの脱走後、狙撃手が配備され、仲間を仕留めて装備を漁りに来ると睨んで狙撃手のジェスパーさんは狙いを定めたのだろう。

 狙撃手として悪くない嗅覚だ。腕前も良かった。だが、シノンに劣るな。彼女ならば、ヤツメ様を焦らせる程度にはギリギリまで殺意を隠して狙撃できたはずだし、頭部を狙った一撃必殺よりも足を狙って機動力の低下を重視したはずだ。

 結論、シノンの足下にも及ばない。まぁ、血の味は悪くない。苦みが混じった甘さ……ビターチョコを思い出させる。

 

「スナイパーライフル、ゲット♪」

 

 それから、手持ちの銃弾は……狙撃用の銃弾ばかりか。装填されている分だけで十分だな。どうせ使い捨てるだろうし。

 異常事態を察知した仲間が櫓の屋上に現れる。到着が遅い! お迎えの穿鬼をプレゼントして顔面から吹き飛ばす。続く階段を上って来ていた連中に跳び蹴りを食らわして纏めて転落させ、イジェン鋼で刺し貫く。何度も何度も刺し貫く。狭い階段だとお互いにまともに戦えないな。

 このままお上品に階段を使って地上に戻るつもりはない。再び櫓の屋上から飛び出し、直近の建物の屋根に飛び乗る。

 

「しかし、大ギルドはまだ動かない……か」

 

 次々と飛んでくる銃弾の射線から逃れ、屋根から地に降り立つ。迫るは4人の野党のような恰好をした、犯罪ギルドに相応しいと言えば相応しい格好をした連中だ。だが、その目……なんだ、この感覚は?

 レギオンとも少し違う気がする。濁りが大き過ぎる。何よりもオレが目覚めてからは、ここまでハッキリとレギオンだと感じ取ることができたのも稀だった。

 麻薬アイテムで正気を失っているにしても奇妙だ。イジェン鋼で先頭の1人を斬り裂けば、その血を浴びた3人は怯むどころか歓喜乱舞するように大口を開ける。

 

 

 

 

 そして、そのまま口は裂け、肉食獣の如き牙を剥く。

 

 

 

 

 突如とした変貌。生き残った3人は雲に隠れた月に咆える人狼が如く肉体を変化させた。

 体格はほとんど変化はない。だが、全身の筋肉は膨れ上がり、青黒い毛によって覆い尽くされていた。

 外見は何処か猿に近しく、だがやはり人間としての造形を残していて、いっそ中途半端だからこそ……堕ちた『獣』であると何よりも雄弁に物語っているような気がした。

 

「…………」

 

 先程までは武器を持っていた手には代わりに鋭い爪を伸ばし、動きはより激しく素早くなったがそこに人間であった名残があるからこそ尊厳はなく、故に何よりもケダモノである。

 既にカーソルはモンスターに変化していた。オレは3体の猿型に対し、イジェン鋼の太刀を振るう。

 だが、レギオン化ではない。レギオン特有の触手もなければ学習能力もない。これはデーモン化の暴走の成れの果て……『獣魔化』だ。

 しかし、デーモン化は個々が異なる姿を持つように、獣魔化も同様だ。類似する姿になっても、彼らのように完全な同型にはならないはずだ。まるで、あらかじめデザインされているかのような人工的な作為すらも感じる異形化だ。そういう意味ではレギオンに変じるパターンと似通っている。

 そもそもデーモン化はレベル60で解放されるシステムだ。低レベルプレイヤーには使用できない。だが、こうして獣魔化している。やはり類似した現象……レギオン化と共通点が多いな。

 猿型を殺し、システムウインドウを開く。オレの制約である深淵狩りは深淵系モンスターを討伐する毎に誓約ポイントが得られる。猿型モンスターを倒した結果は……どうやら深淵系に該当するようだ。ポイントの増加が確認できた。

 分からないことだらけだ。ただの犯罪ギルドではないみたいだな。もしかしたら、目覚めてからレギオンの気配を上手く察知できなくなっている原因が絡んでいるのかもしれない。

 そうなると要塞内で深淵の気配が濃い場所を探るのが1番だ。皮肉なことに、こういう時は深淵の病が役立つのだ。なにせ深淵に近づくほどに症状が悪化するからな。

 

「……ゲホ、ゴホ」

 

 薬を飲まないとな。ヨルコが準備してくれた丸薬を呑み込む。途端に内臓から燃やされたような激痛が生じる。手足の末端まで熱伝導したかのように、全身が溶けて崩れるのではないかと思うほどの熱を帯びた痛みだ。

 まるで体内から熱消毒されているかのような感覚だ。額に浮かんだ汗を拭い取る。やはり戦闘中に服用するようなものではないな。

 深淵の病を退ける効果を持つとフレーバーテキストに記載されている通り、アルヴヘイムで得られるレアアイテムであるゲヘナの黄昏は闇属性防御力を高めるバフ効果の他にも深淵の病にも一定の効果を発揮した。

 とはいえ、戦闘中の服用は最低限に抑えねばならない。ヨルコも連用は止めろと警告していたからな。深淵の病の抑制のはずが逆に戦闘不能に陥らせる要因になっては本末転倒だ。

 とりあえず、これで深淵の病の症状は緩和された。逆に言えば、この状態でも深淵の病の悪化が著しければ、相応の深淵が要塞内に潜んでいることになる。

 

「……どういうことだ?」

 

 深淵の気配を追っていれば、更なる奇妙と遭遇する。

 どうやら猿型に変じたプレイヤーが相当数のようであるが、近隣のプレイヤーを襲っていない。まるで敵・味方の区別がついているかのようだ。テイミングされた? いや、元プレイヤーでもモンスター化したならばあり得るかもしれないが、それにしても数が数だ。あり得ない。

 要塞の戦力となるプレイヤーは大きく分けて3種類だ。

 まずは極度の興奮状態で判断力の低下が見られるプレイヤー。麻薬アイテムでハイになっているのだろう。恐怖心が薄れ、思考能力が低下したことによって、自身のダメージを度外視した突撃を可能とする。装備自体は貧弱であるが、数によって囲われた場合は危険だ。まるで低俗な野盗のような恰好をしており、近接武器をメインとする『捨て駒』だろう。

 次に射撃武器……主にライフル、アサルトライフルを装備したプレイヤー。レベル20前後と思われる。集団による弾幕をメインとしており、改造品の手榴弾を装着している。対高レベルプレイヤー戦法……弾幕による衝撃耐性を抜いたブレイクによる怯み連発とスタンを狙い、動けなくなったところをダメージが出やすい強力な投擲系攻撃アイテムで仕留めるといったところか。まぁ、定石だな。

 そして、他に比べても装備が格段に良い精鋭。レベルは不明だが、明らかに戦闘慣れしている。先程の狙撃手は精鋭の中でも別格……ヴェノム=ヒュドラのエース級といったところか。

 多くの人員が消火活動に参加しているお陰で要塞内の人員配置が乱れているお陰で動きやすい。大ギルドも良い仕事をするが、それにしても派手過ぎる上に規模が規模だ。単なる爆破ではなく、やはり爆薬や燃料に着火してしまったのだろう。対炎属性が甘い場所で管理していたのだろうな。犯罪ギルドらしい杜撰さであるが、大ギルド程ではないにしても高度に組織化されているにしてはお粗末だ。

 ズレている……が、どうでもいい。ヴェノム=ヒュドラの落ち度を狙い撃った大ギルドの作戦であれ何であれ、この好機を生み出した良い仕事だ。ミュウの作戦にしては気の利いたバックアップである。

 あとは大ギルドの攻撃がいつ始まるかだがな。それまでに要塞の指揮を破壊できるだけ破壊しておきたいが、まずは深淵の気配を探るのが優先だ。放置すれば大ギルドの部隊にも予想外の被害が生じるかもしれない。そうなれば、ミュウがいつものビジネススマイルで評価を下げて報酬減額で鬼セルダさん降臨……なんて洒落にもならない事態にもなりかねないからな。

 無数のパイプが入り組んだ地下へと進む。地上の石造り、内部の監獄のような金属、そして地下は……想像以上に広く入り組んでいる。元がダンジョンだったからか。

 

「……クサイ」

 

 嗅覚がイカれ始めている自覚はあるが、これは間違いないだろうな。異様な薬品臭だ。ヨルコの工房とは違う、濃厚で、人工的で、どろりと濡れたような粘つくニオイだ。まぁ、ヨルコの工房は酒のニオイで9割占められているから比較対象として相応しくないがな!

 扉を潜っていけば、防衛に配置されているらしい小型ゴーレムが出現する。右腕は円盤型のチェーンブレード、左腕はガトリングガン、脚部はキャタピラであり、頭部は全方位対応のモノアイである。洗練されていない姿はヴェノム=ヒュドラの自作だろうか。

 2メートルほどの体格でガトリングガンを細い通路でばら撒かれたら逃げ場はない。ならばと射撃前に投げナイフを投擲してモノアイを貫く。復旧される前に接近し、イジェン鋼の太刀で胴体の動力コアを刺し貫き、そのまま斬り払う。同じ量産型でも大ギルド製とは大違いだ。動力コアが剥き出しで防御力が低過ぎる。だが、それは自作だからというよりも、自前で準備する為に敢えてコストダウンをしたといったところか。

 ヴェノム=ヒュドラはゴーレムの開発を行っている。大ギルドやそれに連なる工房に依存しない、裏の武器商人にでもなるつもりなのだろうか。思っていた以上にヴェノム=ヒュドラの危険性が浮き彫りになってきたな。やはりただの犯罪ギルドではない。

 飛来するのはドローンだ。小型の円盤型センサーを上部に取り付けており、大型のモノアイが赤く光っている。装備は2連装レーザー砲か。次々と撃ってくるレーザーの単発威力は低いが、とにかく数が多い。地下に行く程にハイテクになってきたな。何処となくレイヤードを思い出させる。

 こういう時に奪っておいてよかったアサルトライフルだ。乱射するだけでドローンのHPを次々と奪ってくれる。やはり数で押すタイプで耐久面は紙だ。まぁ、どちらかといえば装着したセンサーの通り、侵入者の探索がメインなのだろう。

 地上の争乱とは裏腹に、地下は不気味な程に静かだ。パイプを流れるのは冷たい海水だろうか? それに地下深くからは要塞の動力源か、心音の如き駆動音が聞こえる。

 

「急げ! もうすぐ大ギルドが攻めてくるぞ!」

 

「研究データの廃棄は完了しました!」

 

「避難はこっちだ!」

 

「【マム=2】の移送はまだか!? 貴重な『子宮完成体』だぞ!?」

 

「ルーム3は……捨て置くぞ! 研究の役には立たん『娯楽室』だ! 我々だけでも先に逃げるぞ!」

 

 ……うーむ、何処かで見たことがあるような光景だ。白衣を着た連中が緑色の培養液に満たされたカプセルが並んだ広々とした空間で右往左往していらっしゃる。まるで、何処かの自称・妖精王のお城を思い出すな。あれも外見詐欺で中身は何処のマッド・サイエンティストの研究所だよって設備だらけだったからな。廊下とかが絢爛たる様子だっただけにギャップが激しかった。

 どうする? 狩るか? いや、今は深淵の気配を探るのが優先だな。この地下の連中は地上よりも装備が良い。どうやら本命の戦力はここに揃っているようだ。

 白衣を護衛する連中は次々と爆薬をセットしている。この周辺を吹っ飛ばして研究をうやむやにするつもりか。そもそも、何の研究をしている? 専門外だからわからん。さすがにプレイヤーにオベイロンのような所業ができるとは思えないしな。グリムロックなら見ただけで分かりそうな気もするが、何故に分かるのか問い詰めねばならない難題も生じそうだ。

 白衣と護衛が去った空間を歩き進む。カプセルの中で浮かんでいるのは……なんだ? これは? 深淵の気配を感じるが、それは猿型と対して変わらない。だが、見た目は完全に異形である。

 昆虫を思わす縦割りの顎や複眼、2本の触覚を有した頭部。割れた腹筋と合致した強固な外殻を有している姿はまるで全身装甲を纏っているかのようだ。指先は鋭利に鋭く、背部には2対の翅を有している。だが、人間としての造形を確かに感じさせる。

 某改造人間ライダーの怪人をより悪趣味なリアリティを持たせたような造形だ。虫が苦手なプレイヤーには外見だけでHPゼロに追い込めるだろう。

 

「……まさか、な」

 

 カプセルに浮かぶのはいずれも同じ造形の昆虫人間だ。人間の倍ほどもある体格をした2メートル超。研究資料などは既に持ち去られたか廃棄されたか、詳細不明だ。

 オレの脳裏によぎったのは 『彼女』の笑みだった。もしも……もしも、オレの想像通りならば……いや、どうでもいい。

 ルーム3とか言っていたな。ご丁寧に壁には地図が貼られている。元がダンジョンだけに、研究員も日常的に迷子になっていたのかもしれないな。後から改造された通路がメインに記載されている。

 

(殺しましょう。殺しましょう。殺しましょう。敵という敵を殺しましょう。アナタは仕事をするだけでしょう? 何を知る必要があるの? 何を探る必要があるの? いつも、いつも、いつも……知ったところで……)

 

 ヤツメ様が袖を掴んで止める。だが、オレは足を止めない。深淵の気配が少しずつ濃くなっていくが、それ以上にざわつくのは何だろうか?

 ルーム3……ここか。重々しい金属扉の両脇にはぼんやりと電灯が光っていて、何処となく誘蛾灯にも似ていた。

 扉を開けてはならない気がする。オレは激しい頭痛を堪える。深淵の病のせいか? それとも? 分からない。分からない。分からない。

 握りしめたイジェン鋼の太刀と共に扉を開く。

 

 香るのは異臭。だが、それは死臭ではない。粘ついた体液と汗が混じり合ったニオイ。

 

 薄暗い照明の下で照らされるのは人肌。熱を帯びたように火照った肌をした女たちはいずれも裸体であり、男たちも同じか半裸だった。

 

 うるさく聞こえるのは悲鳴と嬌声。あらゆる尊厳を奪われ、あるいは終わらぬ悪夢で塗り潰され、そして薬によって正気を失う程の興奮に支配された者たちの涎に濡れた声。

 

 分かっていたさ。『ここ』はそういう場所だ。

 拉致された女たちは『商品』として出荷され、如何なる扱いを受けていたのかもわかっていた。『お話』で客たちが肉欲のままに、嗜虐心のままに、背徳の悦楽のままに、いかなる行為に及んでいたのか、ちゃんと知っていた。

 知っていたよ、ヤツメ様? だから、そんな顔をしないで。ちゃんと分かっていたんだ。

 ここは『娯楽室』だ。ならば彼女たちは出荷を待つ『商品』か、あるいは組織運営に不可欠だった『備品』か。どうでもいい。興味ない。

 こんなのはDBOでも何度も見た。アルヴヘイムでもそうだった。肉欲を貪ることは悪い事ではない。本能に従うことは悪ではない。

 だが、ここは……どうして……こんなにも『獣』のニオイで満ち溢れているのだろうか?

 別に構わないさ。肉欲を思う存分に味わえ。それで『獣』に堕ちるわけではない。好きに蹂躙すればいい。それで『人』を失うわけではない。

 だが、持たねばならないだろう? 自らの欲望に忠実であるからこそ、信念と矜持が持たねばならないだろう? 

 

「あん? なんだ?」

 

「お、カワイイ! なになに!? 新しい玩具? そういえば、教会の子が新しく来たって聞いたけど?」

 

「あーれ? でも、何処かで見た気が……」

 

 上半身裸体の髭と胸毛が濃い男が煙草……いいや、煙草型の麻薬アイテムの煙を漂わせながら近寄ってくる。下卑た眼差しと懐疑の瞳。目の前の対象でどうやって欲望を満たすのかしか考えていない思考が丸見えだ。

 ジロジロとオレの顔を見た彼は……やがて夢から醒めたように顔を青ざめて後退る。

 

「ひっ……! ま、まさか……!」

 

「ねぇ、教えてください」

 

 欲望のニオイで満ち満ちた、まるで古き牢獄を思わすような、研究所のような風景だった地下に相反する、だが要塞に最も適した石造りの空間に踏み入る。

 

「貴方達は欲望を満たして、思うがままに生きて、踏み躙って、踏み躙って、踏み躙って……何処に行くのですか?」

 

 まだ正気があるだろう若い女がオレに気づいて震える。今まで自分を嬲っていた男よりも恐ろしくて堪らない怪物と出会ってしまったかのように。

 

「誤解しないでください。責めてはいません。ただ、貴方達の行為に……あるべき『人』の輝きを見出せませんでした。ああ、オレの目が曇っているだけですよね? そうですよね? そうだと言ってください」

 

 これもまた自然の摂理だ。むしろ、倫理やら法律やらで生物として持つ本能を御している方が異端であることは疑いようもない。だから、彼らの在り方は生物という枠組みでは何1つとして間違っていない。

 

「戦ってください。立ち向かってください。抗ってください。恐怖を踏破した先へと至ってください。自らの生と死で証明してください。自分たちは『人』であると」

 

 DBOでは自他を束縛する法律などない自由だ。あらゆる倫理が欠落する、道徳観が失われた暴力に満ちた世界だ。現実世界よりも遥かに『自由な世界』だ。

 

「お願いです。お願いです……お願い……お願い……です」

 

 だからこそ試されるのだろう。社会が踏み止まらせるはずの、引かれた線の向こう側へ。そして、『人』から『獣』に堕ち易くなる。

 

「うわぁあああああああああああ!」

 

「【渡り鳥】だ!」

 

「逃げろ! 逃げるんだ!」

 

「オラ! どけ!」

 

「違うんだ! 俺達は……その……上に命令されて嫌々……!」

 

 駄目だよ。恐怖のままに足を止めないで。恐怖のままに逃げないで。恐怖のままに言い訳しないで。

 恐怖は悪じゃないよ? 生存する上で不可欠な感情にして反応だから。恐怖を感じたら素直に従って生を最優先するのも大切だから。

 でも、恐怖に従った逃避の『先』が無ければいけない。何もかも投げ捨ててはいけない。たとえ、戦わずして誇りを失うことがあろうとも、それでも逃げた先で戦えなかった事実への羞恥、次に繋げようとする意思があるべきなのだ。生への安堵だけで終わってはならない。それでは『繰り返す』だけだ。

 

(だから言ったのに。何処もかしこも『獣』……『獣』……『獣』ばかりじゃない)

 

 ヤツメ様が背中から抱きついて首に腕を回して耳元で囁く。

 

(アナタは知っているはずよ。この世で最も狩らねばならない『獣』とは、『人から堕ちた獣』なのだから。ううん、所詮は『人』なんて……)

 

「止めて! 止めて止めて止めて! 違う! 違うよ、ヤツメ様! オレは知ってる! 知ってるもん! キラキラ輝く『人』の素晴らしさ! 彼らの人間性がオレを……オレを……!」

 

 聞きたくない! ヤツメ様を振り払い、両耳を塞ぐ。だが、ヤツメ様は回り込んでオレを見上げる。8つの瞳が生み出す眼光は容赦なくオレを射抜く。

 

(アナタは『生まれながらの獣』。『人』の皮を被り続けて己を騙す『獣』なのだから。理解なんてしたくないわよね。でも、何度も何度も見て、聞いて、感じて、『知ってしまった』はずよ。『人』はどうしようもなく『獣』に堕ちる存在。いいえ、『獣』に堕ちることこそが『人』の最も醜悪な本性よね?)

 

「違う! 違う違う違う! それは1つの側面! どうしようもなく堕ちてしまう人々がいるだけ! 本当は……!」

 

(『本当は』? 言ってごらんなさい。確かに『人』を保てるだけではなく、昇華できる者達がいる。彼らは人間性をアナタにくれた。彼らは恐怖を踏破し、『生まれながらの獣』であったアナタの首を落とす為に立ち向かうことができる、誉れ高き者達。アナタが待ちわびる高品質の……『極上の餌』)

 

 立っていられずにその場にへたり込み、頭を振りながら耳を塞ぐ。だが、ヤツメ様が優しくオレを抱きしめて、頭を撫でる。まるで、決して逃がさない蜘蛛の巣で『オレ』を覆い尽くすように。

 

(アナタはワタシ。ワタシはアナタ。ワタシたちは一緒に生まれてきた。生きる時も死ぬ時も一緒。アナタが夜を終わらせて朝をもたらすとしても……狩りを全うするとしても、ワタシは最後の瞬間までアナタの傍にいる。いつも言ってるでしょう? ワタシが……ワタシ『だけ』が……最後までアナタを裏切ることはない)

 

 ヤツメ様が労わるようにオレの頬を両手で撫で掴み、顔を上げさせる。ヤツメ様の8つの瞳はまるで青ざめた血の夜に浮かぶ赤い月のように爛々と輝いていた。

 

(だからこそ、アナタに告げねばならない。狩りを全うするのでしょう? ならば『獣』を狩り尽くしなさい。夜明けの先の黄金の稲穂を『獣』に踏み躙らせるつもり?)

 

「みんなに……黄金の稲穂を……」

 

(ならば『獣』を狩り尽くしなさい。『獣』に堕ちるしかなかった哀れな者達に無慈悲なまでの慈悲の葬送を。『獣』に自ら堕ちた愚劣なる者達に慈悲深いまでの無慈悲な殺戮を)

 

 ヤツメ様が踊る。青ざめた血のような夜に浮かぶ赤い月の下で、血の海に波紋を刻みながら踊る。

 

(アナタが決めたのでしょう? 狩りの全う……『嘘』に殉じることを。だったら狩り尽くしなさい。クヒ……クヒヒ……クヒャヒャヒャ!)

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 これは何だ? 突如として乱入してきたと思われた【渡り鳥】はまるで誰かと問答するかのような独り言を繰り返したかと思えば、叱られた子どものように両耳を塞いで座り込んでしまった。

 ともかくチャンスだ。濃い髭と胸毛が特徴的な、部下を率いて『娯楽室』を満喫していた【ジッパー】は狂乱する仲間たちを率いて脱出しようとする。

 上から間もなく大きな戦いがあると告げられて思いっきり楽しんでおこうと思えばこれだ。そういえば、先ほど聞こえた大きな音が原因だろうか? 麻薬アイテムである甘蜜の水金と煙草のような吸引型の【悦美の葉煙】でハイになっていた頭も冷めたジッパーは逃げようとして、だが震える【渡り鳥】を見て邪な欲望が抱く。

 これまで多くの女を甚振ってきたジッパーは、自分よりも遥かにレベルが高い女性プレイヤーが這いつくばる姿に愉悦を覚えた。そして、目の前にいるのはDBOを震撼させた恐怖と暴力の権化にして、まさしく女神の如き容貌をした純白だ。

 それは人間だからこそ……いいや、『人』だからこそ持つ禁忌。穢れなき純白だからこそ汚し抜きたいという背徳への誘惑にして悦楽。ジッパーは動かぬ【渡り鳥】に対してゆっくりと武器の片手剣を装備すると振るう。それは落ちていた太刀とアサルトライフルを遠くへと弾き飛ばす。

 生放送はジッパーも見ていた。【渡り鳥】は手放した武器でもファンブル状態にならず使用できる能力がある。ユニークスキルの類だろう。これで安全だとジッパーは仲間たちに目配りして囲わせる。

 

「ねぇ、どうして……ですか?」

 

 今にも消え入りそうな声で【渡り鳥】はジッパーを見上げた。

 左目は黒い眼帯で覆われ、右目は赤みがかかった黒という不可思議な瞳が支配する。まるで幻想をそのまま具現したかのような完璧にして、だがどうしようもないくらいに未成熟さがを感じさせるからこその不完全な魅力。纏う教会服は精錬でありながら大きく襟が開いていて鎖骨が露わになって煽情的に映え、なおかつインナー装備の黒色は帯状となって首でクロスしている。装着された首輪はまるで飼い慣らされた獣のようだった。

 

「どうして、捨てられるんですか? 美しく輝くのに……夜明けの向こう側に辿り着けるのに……どうして『夜』に生きようとするんですか? きっと、きっと、きっと、アナタ達だって取り戻せるはず……。だって、『人』だったのだから。堕ちても……堕ちても……きっと……」

 

「ワケわかんねーな。俺達はやりたいようにやってるだけだ」

 

 やりたいようにやる。それが全てだ。この糞の掃き溜めみたいな世界で何を求めるかと言えば、ひたすらに刹那の快楽だ。それを繰り返し続ける以外に興味はない。

 

「……ああ、そうですか。そうですよね。すっかり……失念……していました。『人』は……無限の可能性を秘めている……この首に刃が届く者になれる……『誰だってキリトになれる』なら……『誰だって「獣」に堕ちる』……それもまた理。ううん、それもまた……『人』であるが故に……」

 

 まるで意味不明だ。だが、【渡り鳥】は子どもが両親の肉欲を貪り合う姿を見てしまったかのように、禁欲的でありながら煽情的な姿に相応しく、ぐしゃりと両手で髪を掴んだ。

 まずは無力化だ。部下に命じて槍を突かせる。【渡り鳥】は無抵抗に太腿を刺し貫かれた。どうやら見た目通り、決して物理防御力は高くないらしく、あっさりと血が滲み出る。

 よし、このまま……! ジッパーがそう思った瞬間に何かがおかしいと気づいた。

 

「ぬ、抜けねぇ……!」

 

 突いた槍を引き抜けないと部下の顔が焦る。他の者達も次々と槍や剣を腕や胴に刺すが、同じようだった。

 いや、HPの減りがおかしい。いずれもドーピングアイテムを恒常的に使用しており、実レベルよりもステータスは高く、レベル自体も40と悪くない。相応の武器も扱える。【渡り鳥】は低VITとされている。幾ら何でもHPの減りが少な過ぎた。

 

「……『触れていれば何でも侵蝕できる』」

 

 まるで処刑された聖者のように、槍と剣に刺し貫かれていたはずの【渡り鳥】は立ち上がることもなく、地下では見えぬ空の向こう側の月を求めるように天を仰ぎ見る。

 槍の穂先、剣の切っ先、そのいずれもが緋色の血によって『蝕まれている』。

 

「触れている。『自分の血』にはいつだって……『触れている』。こんな簡単な事に……気づかないなんて……オレは本当に馬鹿ですね」

 

 雰囲気が変わる。

 これまではまるで縋りつく子供のような、儚く散ってしまいそうな危うさがあったはずの表情は、清廉にして妖艶なる微笑みに変じる。

 

「防性侵蝕応用……【獣血の鎧】。オレの体を刺し貫くには貫通性能もSTRもモーション値も何もかもが足りませんでしたね」

 

 ゆらりと立ち上がれば、槍や剣が抜ける。いや、わざと解放されたのだ。『わざと刺し貫かれた』のだ。ジッパーは足の震えから、自分たちが大きな間違いを犯したとようやく理解した。

 

「触れていれば、何だって侵蝕できる。まぁ、プレイヤーや生物は例外なので『何でも』は嘘になっちゃいますけどね」

 

 

 

 

 瞬間には【渡り鳥】の傷口から血の刃が突き出し、部下たちの数人の頭部を刺し貫いた。

 

 

 

 

 それは【渡り鳥】の鮮血を蝕む緋血……そこから生じるケダモノの如き牙や爪だった。自らの傷口から、己の血を媒体にして、ケダモノの牙と爪を纏った緋血を混じらせて攻撃してきたのだとジッパーは悟った。

 傷つける程に攻撃の手数が増える。わざと全身を傷つかせて全方位攻撃を可能とした【渡り鳥】は、だがこんなものは序の口だとばかりに笑う。笑う。笑う。凶悪なケダモノの顎が開くのを想像させる程に美しく、麗しく、妖しく笑う。

 

「クヒヒ、良い実験になりました。これくらいの傷はオートヒーリングで回復できますし、あとで『食事』をすればすぐに塞げますので、お気になさらずに。ああ、それよりも大仕事になってしまいました! こんなにも! こんなにも! こんなにも『獣』に満ちていたなんて! 狩りましょう! 狩り尽くしましょう! 夜明けを阻む『獣』を1匹残らず! 狩りを全うしましょう! それが……それこそが……クヒャヒャヒャ!」

 

 狂笑であるはずなのに、赤子の泣き叫びに似て、故に悲壮に満ちて脳髄を芯から掻き毟るようだった。

 逃げないと。逃げねば殺される! 部下たちを放って出口に一直線で走ったジッパーであるが、何もない場所で転倒する。

 いいや、違う。右足がなかった。足首から奪われていた。

 

「逃げないでください。大丈夫ですよ。オレ、信じています。たとえ堕ちようとも取り戻せるはずだって! 元が『人』ならば『獣』に堕ちても這い上がることができるでしょう? 逆は無理でも……きっと! オレ、みんなが『人』に戻れるはずだって信じています! だから抗ってください! 抗って、抗って、抗って、どうか『人』として死んでください♪」

 

 おぞましくも美しい。ああ、まさにこの事だろうとジッパーは『魅入られた』。

 襟が大きく開いた教会服。それに反するように【渡り鳥】の左肩から何かが蠢いていた。

 それは緋血。いや、緋血に覆われているのは、常に形状を変化させた不安定な骨格の如き白木の根……いいや、『枝』というべきか。

 不安定なる白木の枝を覆っていく緋血が模るのはまさしく翼。だが、それは天使のような……鳥類を思わす翼ではなく、何処までも異形で……まるで獣の顎のようだった。

 緋血の翼に次々と蠢くのはケダモノの瞳。生じては消えるのは牙や爪。【渡り鳥】という存在をそのまま写し取ったような不安定さだった。

 緋血の獣の顎の半翼を羽ばたかせる。それだけで舞い散る羽の如く緋血が飛び散る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白夜の狩装束、限定解除『タイプB』……【白木の緋翼】」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふわり、ふわり、ふわりと舞ったのは、【渡り鳥】の結われた長髪を止めていた小さな黒いリボン。先端で結ばれていたリボンが外れた途端に、緋翼の羽ばたきに煽られた長き白髪は広がる。

 眼帯に覆われていない頬からも分かる程に、左目に向かって緋血が体内から浮かび上がって血管模様が生じていた。それを煩わしそうに、または苦しそうに、あるいは嬉しそうに【渡り鳥】は気怠さにも似た微笑みを描く。

 次の瞬間にはジッパー達の胴体は刺し貫かれていた。翼は無数に分裂し、鋭き白木の枝の先端を核とした緋血が刺し貫いたのだ。

 

「【瀉血】再現……【白木の開花】」

 

 それだけでは終わらない。体内に侵入した緋血の牙と爪が肉を抉りながら体内を白木の枝が突き進み、文字通り『枝分かれ』していく感触をダメージフィードバックで実感する。

 制止を呼び止める時間もなく、全身に裂傷が生じ、脆くなった傷口を目指すように体内から次々と突き出した緋血を纏った白木の枝によって、まるで白木の枝先に花が咲き開いたかのように、ジッパーの体はバラバラに吹き飛んだ。

 

「きゃぁあああああああああああああああ!」

 

 悲鳴が聞こえる。嬲られていたはずの女たちが、自分たちよりも遥かに恐ろしい怪物に怯える。

 消えていく意識の中で頭部が地面に落ちるまでの瞬間に、ジッパーは最後に確かに見たのだ。

 緋血の獣翼を羽ばたかせる死天使を確かに目にしたのだ。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 天使が舞い降りた。ヴェノム=ヒュドラの研究員たちが護衛に先導されて地下の脱出路を進む中で、先回りするように血まみれの天使が現れた。

 彼女は美しく笑む。この世の全ての生に……いいや、人間に殺戮をもたらすことを至上の使命であると言わんばかりに甘く蕩けるような処刑の笑顔を咲かせる。

 撃て。誰かが叫んだ瞬間に護衛達は銃声を響かせる。だが、天使には届かない。全ての銃弾を大きく広げた緋血の片翼で受け止めた。

 

「触れていれば何でも侵蝕できる」

 

 違う。受け止めたのではない。『喰らった』のだ。変形を続ける白木の枝を核として纏った緋血が形成する翼……その内部で銃弾が侵食されていた。

 翼が形を変える。顎を開くように大きく分かたれ、咆哮の如く銃弾を吐き出す。たったそれだけで研究仲間たちの腕が、頭が、足が千切れ飛んだ。護衛達はさすがに即死はしなかったが、それも寿命が数秒伸びただけだった。

 天使は無数と分かれた半翼を地面に突き入れた。それが何を意味するかは地響きで理解できた者はいなかった。

 

「【磔刑】及びシャルルの武技再現……【白木の陰森】」

 

 次々と地面から突き出した緋血を纏った白木によって護衛も研究仲間も刺し貫かれる。それは瞬く間に捩じれていき、彼らを貫いたまま絡みつき、圧殺していく。

 まるで白木は啜るように犠牲者から血を文字通り絞り出す。捩じれながら成長した白木からは『内部』でバラバラにされた犠牲者の血肉が零れしたたり、言葉通りの血の雨が降り注ぐ。

 地面から翼を引き抜いた天使はうっとりした恍惚とした夢見心地な、まるで遊戯に興じる子どもの如く……踊る。

 犠牲者の血と肉と臓物と骨が散らばる世界で踊り狂う。血の海に浮かぶ目玉を拾い上げ、口づけをして、齧り呑む。

 

「甘い……甘い……甘いお菓子……金平糖♪ 真っ赤な、真っ赤な、真っ赤な……金平糖♪」

 

 悲鳴と血のニオイに誘われて新たな哀れな犠牲者が現れる。翼を引き抜いた影響か、急速に枯れていく白木を撫でた天使は嬉々と笑んで迎える。

 片翼より繰り出される異形の攻撃を潜り抜けた才能のある者、経験のある者、運に秀でた者、あるいは全てを持っていた者達はいずれも相対する恐怖を確かに乗り越えることができた。

 だが、天使は身の丈ほどもある、だが何の特異な能力も持たない太刀を振るって舞う。片翼の攻撃をたとえ突破しても、待ち構えるのは片翼を遥かに超える剣技とは呼べぬ狩りの業。瞬く間に刻まれ、刺され、滅される。

 

「さぁ、踊りましょう?」

 

 貫いて、

 

 潰されて、

 

 抉られて、

 

 千切られて、

 

 悲鳴と涙は醜く混じり合った嗚咽となって、

 

 そして、天使は血を浴びて、血で踊り、血を啜る。

 

「クヒ……クヒヒ……クヒャヒャヒャ!」

 

 まるで夏の暑さにうなされるように眼帯をむしり取れば、天使の頬に流れたのは緋血だった。

 宇宙の深奥の如き青き瞳が座する義眼は、今や緋血によって白目が血走り、今まさに涙のように零れて頬を伝っていた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 何処とも知れぬ暗室にて聞こえるのは悲観に満たされた嗚咽ばかりだった。

 ここは何処だろう。取り付けられた手枷は外せる様子もなく、ユナは閉じ込められた牢にて耳を澄ましていた。

 薄っすらとであるが、波の音が聞こえる。後は看守の話し声もするが、内容は聞き取れる程ではない。

 牢屋に連行されるまでは目隠しをされていたが、その時は決して穏やかではない、荒波の音が聞こえた。潮の香りもした。自分が捕らえられているのは海岸付近なのは間違いなく、また移動した際に階段を下りたことからも地下である確率は高い。

 窓のない牢屋は石造りであり、格子は銀色に輝いている。軽く触れれば、表面に波紋が生じ、ただの金属製ではないのは明らかだった。

 

「くっ! いつもならこれくらいの鉄格子……!」

 

 ユナの正面の牢屋には、彼女と一緒に捕らわれた金髪の女性も閉じ込められていた。同じ手枷を取り付けられており、防具や武器も奪われていた。ユナは装備していたのが何の効果もなければ防御力もない、教会支給の修道服だった為にノータッチであったが、彼女の場合は武装解除させられた挙句にボロボロの衣服を身に着けさせられていた。まるで、敢えて身に着ける者の品位と尊厳を奪うかのようなみすぼらしさであり、スカートの丈も異様に短く、巡回の看守たちの下卑た眼差しを向けられていた。

 だが、ユナも似たようなものだ。彼女は防具として意味を持たないからではなく、修道服だからこそ着替えさせられていないと嫌というほどに視線で感じ取っていた。まるで白紙にどんな色を塗りたくろうかと濁った眼は生理的な嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

 

「駄目だ。STR低下のデバフ……この手枷のせいか。しかも物理属性対策の格子まで。高STRの上位プレイヤー対策というわけか」

 

 何度も蹴りを入れていた女性プレイヤーはひとまず休むべく腰を下ろし、ユナを含めた視界で捉えられる範囲内の他の捕らわれた人々を見回す。

 

「どうやら正気を保てているのは私達だけみたいだな」

 

「…………」

 

「私は【リーン・リン】。ギルド【ハヤガケ】のメンバーだ。気軽にリーンで構わない。貴女は?」

 

「…………」

 

「だんまりか。別にいいさ。勝手に喋る」

 

 違う。喋れないのだ。身振りで伝えようとしたユナは肩から紐掛けしたスケッチブックを体を揺らして示す。だが、リーンは意図を理解した様子はなかった。

 

「私はラストサンクチュアリの難民キャンプで配給を手伝っていたんだが、友人がキャンプの外に出て行ってしまったと子どもに付き添いを頼まれてな。近場だけならばと抜け出て見回っていたら、地下ダンジョンの奥で小さな人影を見て、不用意に入ってしまったら……この様だ。どうやら事前に高レベルの睡眠ガスが散布されていたみたいでな。しかも首裏に思いっきり暗器で……我ながら情けない」

 

 暗器……たしかデバフの蓄積に優れた武器だっただろうか。ユナは教会で学んだ武器ジャンルごとの特色を思い返す。ユナは使用された覚えはない。力尽くで拘束されてしまった。

 

「お喋りは嫌いか。それとも……いいや、私も同じか。気にするな。喋り相手が欲しいだけだ。自分がこれからどうなるのか、想像くらいは出来ている。私達を攫った連中は間違いなく犯罪ギルドだ。それも無差別かつレベルの高いプレイヤーをわざわざ罠にかけて捕らえるような……」

 

「…………」

 

「……もしかして、喋れないのか? FNCとかいう奴か。初めて見たな」

 

 話は聞いていると相槌を打てば、リーンもようやく察してくれる。ひとまずホッとしたユナに、リーンは膝を抱えながら淡々と語り続けた。

 彼女が属するハヤガケは中小ギルドであり、主に商業ギルドの護衛を務めて稼いでいること。

 多くの盗賊ギルドと相対し、故に対人戦には慣れていること。

 だが、初めて人を殺した時からどうしても対人では二の足を踏むようになったこと。

 トラウマの克服と贖罪意識から教会の慈善活動に積極的になったこと。

 今でも殺した相手の死に顔が脳裏から離れず、まともに寝付けないこと。

 

「いつもは適当にあしらえば帰っていくんだ。でも、例のアップデートで食料も高騰しているし、NPC経営の店はいずれも味や量の割には高額過ぎて日常的に使用できない。だから、プレイヤーを襲った方が金になるって考えた連中が増えた。盗賊ギルドに身を寄せる連中も……生きる為だ。ソイツらは凄い必死で……こっちの殺意が無いって肌で感じ取っていたんだろうな。だから……」

 

「…………」

 

「威嚇のつもりだったんだ。でも、ソードスキルの当たり所が悪くて……即死だった」

 

「…………」

 

「皆は励ましてくれた。でも、私は……私はもうプレイヤーと……いいや、『人間』と戦えなくなっていた」

 

「…………」

 

「頭の中から離れない。人殺しって罵倒が聞こえるんだ。私が私を責めるんだ。だから、教会は……心の拠り所だった」

 

「…………」

 

「だけど、罪は許されないんだな。もう人間とは戦えずとも人助けを……レベルが高いから地下ダンジョンでも浅ければ大丈夫と侮って……この様だ」

 

 貴女は悪くない。そんな慰めの言葉すらもユナは口にすることができない。手枷をつけられた状態でスケッチブックを何とか取ろうとするが、一定以上の動きをすると途端に重さが増して両手が地面に押し付けられる。

 

「子どもを使って人攫いなど……外道共め」

 

 最後にそう吐き捨てたあと、リーンは両膝に顔を埋めて何も喋らなくなった。この先に待つ不安と恐怖がついに彼女の限界を超えて口を閉ざさせたのか、ユナの方を見ることさえもなかった。

 牢の壁にもたれかかり、ユナは自分を陥れたハナミを想起する。

 品行方正に振る舞い、ユナを気にかけていた少女は、その実は犯罪者と共謀して拉致を実行していた。リーンは子どもたちが利用されただけだと勘違い……いいや、思い込みたいのかもしれないが、彼女は少なくとも確固たる自分の意思でユナを罠にかけた。

 ハナミの言動から察するに、ユナの拉致は予定外だったのだろう。リーンの誘拐を勘付かれる前に、神父と少なからずの交流がある彼女が余計な真似をする前に、口封じすることこそが優先だったのだろう。

 

(エーくん……心配しているよね)

 

 時間の感覚が狂っているが、少なくとも夜更けのはずだ。置手紙やフレンドメールを見たならば、エイジは彼女が慈善活動から戻らない事を察したはずだ。スレイヴや神父を巻き込んで捜索してくれているかもしれない。だが、少なくとも彼らが捜索できる範囲外に捕らえられている事くらいはユナも察している。

 私……いつも迷惑をかけてばかりだ。ユナは自己嫌悪に苛まれる。

 エイジは再三に亘って教会の外の危険性を説いていた。実際に外出してみれば、彼がどうしてあんなにも危険だと訴えていたのかも肌で感じ取れた。だが、それは表面的で浅い……理解と呼ぶにはあまりにも烏滸がましいものだった。

 SAOには確かにあった倫理と道徳の線引き。少なくともユナが生きていた頃までは、誰に言われるまでもなく秩序があった。それは100層攻略によって解放されるという明確な目標があったからか、それともSAOのゲームデザインそのものがプレイヤー同士の争いを助長させないものだったからか。あるいは、技術進歩によって、DBOがより現実世界に近しく……いいや、現実を超える程に生々しく肉付けされた、まるで本物の異世界のように感じられるからか。

 リーンのように人を傷つける事……殺してしまった事実を受け入れられずに、自責の念に苦しみ続ける者もいれば、ユナ達を捕らえた輩のように、人間に平然と悪意と欲望をぶつけられる者もいる。

 あるいはそれこそが人の本性だというのだろうか。ラストサンクチュアリの難民キャンプでは、誰もが我先にと押しのけては奪い合い、より多くを不当に得ようと騙すことさえ厭わない。

 怖い。何が怖いかと言えば、彼らは決して異なる文化圏で育ったわけではなく、少なくとも根底にはユナが当たり前のように有している倫理観や道徳観念があったはずだと悟ってしまったからだ。

 どうして捨てられたのか。どうして歪んでしまったのか。どうして壊れてしまったのか。彼らはユナとは異なる経験を経て生きる術を模索したのは間違いない。だが、あそこまで変わり果ててしまえる事を信じたくなかった。

 エイジが何も語らないのも納得だった。自分はあまりにも無知だった。死んでからどれだけの月日が流れた? DBOどころか、自分が死んだ後のSAOですらも彼がどのような動向を経て生き延びたのかさえも分からないのだ。

 無知と無謀のツケがこれだ。笑い話にもならない。ユナはこれから自分に何が待っているのか想像して震える。

 不思議だ。自分の最後の瞬間、誰かを守る為に行動して死んだ。その行為自体には悔いなどない。確かに死の恐怖はあったが、それでも最後まで抗うことができたはずだ。

 だが、今まさに晒されるのは人間の濁り熟した悪意だ。それが途方もなく怖いのだ。たった1人でダンジョンに取り残されるよりもずっと、ずっと、ずっと……恐ろしいのだ。

 どうにかして逃げ出さねばならない。恐怖に震えるだけなど真っ平御免だ。ユナは反骨精神を昂らせる。たとえ、脱走に失敗して余計に苦しむことになるとしても、このまま座したまま悪意に満ちた欲望に翻弄されて自分の末路が定まるなど嫌だった。

 

「ふむ、彼女達か」

 

「ええ、全部で7人です。今日の『娯楽室』行きも合わせれば15人ですね」

 

「少ないな」

 

「『商品』は見栄えも大事ですから。あくまで『母体』候補のハントが目的ではないですし」

 

 看守と共に現れたのは白衣を着込んだ集団だった。彼らはユナ達をじっくりと観察して回る。

 

「外見との相関もデータは欲しかったところだ。特に彼女は秀でているな。キミ、名前は?」

 

 眼鏡をかけた神経質そうな男に質問され、ユナは反抗的な眼差しを向ける。たとえ喋れたとしても答える気はなかった。

 

「ソイツはFNCみたいなんですよ。声を出せないらしいです。この通りツラは良いですし、発育は……まだまだ足りないって感じですけど、だからこそ物好きに高く売れそうですね。へへ、声を出せない女が――」

 

「そちらの商売の話とかどうでもいいわ。それよりもFNCは初めてね」

 

 髪をアップにした、そばかすの女は白衣を翻し、格子越しでユナをねっとりと観察する。看守たちの邪な欲望の目とは異なり、知性こそ溢れているが、だからこそ言葉にできない、今まで感じたことが無い恐怖をもたらす狂気に浸されていて、ユナはびくりと震えてしまった。

 

「他は……あまり状態が良くないな」

 

「ヤク漬けや『娯楽室』でたっぷり『遊ばれた』奴らですからね。心はぶっ壊れてる奴らばかりですよ。商売繁盛は良いですけど、その分だけ客の要望も細かくなって、捕まえたのはいいですけど売れ残って、俺達の発散の道具として使わせてもらってるんです。もちろん、上の許可は貰ってますよ」

 

「客の要望に合わせて捕まえた方が維持費はかからないだろう?」

 

「高レベルプレイヤーともなると簡単には捕まえられないんですよ。コイツらみたいなお優しい心の持ち主じゃないと罠には引っ掛かってくれないんです。数でボコればいいと言っても、高レベルプレイヤーってのはどいつもこいつもステータスが違い過ぎてねぇ……」

 

 お優しいという部分を皮肉たっぷりに強調した看守に、リーンは奥歯を噛み、ユナは俯く。事実として、彼女たちは子どもという存在によってまんまと油断して騙された間抜けだったのは間違いないからだ。

 

「他は使い物になりそうにないな。すぐに母体化の処置を施そう。『再利用』を視野に入れなければ、上手くいけば半分は成功するだろう。今は戦力が欲しいそうだし、我々としてもまたとないデータ収集の機会だ」

 

「彼女達はどうするの? 現状では高レベルプレイヤーは貴重よ。FNCはそれ以上の価値がある。サンプルとして移送する?」

 

「……まずは母体化の処置を施してからでいいだろう。FNCがどれだけ影響を与えるのかも未知数だし、そもそも母体化に成功できなければサンプルとしての価値もない。『博士』が先んじて避難された以上、マム=2の移送こそが最優先であり、次なる子宮完成体の獲得が急務だ」

 

「マム=2の移送準備完了まで残り3時間。ギリギリですね」

 

「間に合わない場合は破壊せよと命令だ。マム=1だけでは上層部のオーダーに応えきれないからな」

 

 何の会話だろうか? 不穏な雰囲気は変わらないが、ユナは自分が想像していたとは異なる方向へと物事は進んでいることを悟る。

 

「連れ出せ」

 

「了解。おら、抵抗するんじゃねぇぞ」

 

 まずはユナの牢が開けられる。身を捩じって出ることを拒否すれば、看守は手に持っていた杖を突き出す。先端の青白く光る球体が接触した瞬間、ユナは全身に強烈な痺れを受けて痙攣した。

 それは体験したことが無い感覚だった。電気を流されたかのような痺れに付随した、まるで神経をミキサーにかけられたような強烈な不快感は、痛覚とは全く異なる刺激となって意識を掻き回す。

 

「お! この反応、もしかして初めてか? オラ! 分かるか!? これが! DBOの洗礼だ! オラ! オラ!」

 

 ユナの反応に気が昂ったのか、看守は執拗に先端でユナに押し付ける。その度に青白い火花が散り、ユナに先程の感覚が突き抜ける。のたうち回る彼女に、看守は嬉々と杖を振り下ろし続けた。

 

「待ちなさい。それ以上は死んじゃうわ」

 

「へいへい」

 

 HPバーが赤く点滅する1割未満になるまで丹念に杖で打ちのめされたユナは白衣の女の周囲に展開された円陣によって回復する。

 何度も杖で叩かれ、また青い火花を浴びたせいか、ユナの修道服は所々が焼き焦げていた。布地の下の皮膚は打撲や青痣では済まないだろう。特に左腕は動かすだけで先程の感覚が湧き出してほとんど使い物にならなかった。

 

「……大丈夫か?」

 

 リーンは手枷を更に増やされたことを除けば何もされた様子はなかった。ユナが見せしめとなったのか、それとも今は抵抗するだけ消耗になると従順を装ったのか。心配してくれた彼女を安心させようとユナは笑おうとするが、全身を駆け巡った異様な不快感のせいで表情は強張るばかりだった。

 

「逃げるチャンスは必ずある。体力は温存しておいた方がいい」

 

 リーンの指摘は尤もであるが、もはや遅かった。HPは回復してもユナの足取りはもはや覚束なかった。

 牢に入れられた他の女たちも連れ出される。白衣の集団を警護するのは看守よりも更に殺傷力の高い装備を身に着けた護衛達だ。彼らは銃口を向けて逃げようとすれば撃つと威嚇する。

 

「連中が何を企んでいるか知らないが、逃げるチャンスはある」

 

 更に地下へと連行される最中に、リーンはユナだけに聞こえるように小声で囁いた。

 

「この場所を即急に引き払わないといけなくなったようだ。教会か大ギルドが動いてくれたんだろう。タイミングさえ間違えなければ、救助してもらえるかもしれない」

 

「…………!」

 

 リーンの言葉を全面的に信じるのは危険であるが、確かに彼らの言動の節々には焦りが見て取れた。

 失敗した。足取りも危ういユナは自分の後先を考えなかった抵抗が窮地を脱するチャンスを減らしたと奥歯を噛む。あの時、素直に看守に従っていれば、最低でも十全と走れるだけの体力は残せたはずなのだ。

 何としても逃げ出さねばならない。逃げて、逃げて、生きて帰って……謝らないといけない人たちがいる! ユナは地下へと続く階段を下りながら、少しずつ呼吸を整えていく。その分だけ体の芯まで染み込んでいた奇怪な不快感は抜けていく。

 地下に進む程に風景が変わる。無数のパイプが壁を走り、その先の広々とした空間では緑色の培養液で満たされたカプセルでは奇怪な……まるで昆虫と合体したかのような人型生物が浮かんでいた。

 すれ違う白衣の研究員たちはいずれも明確な焦燥を見せていた。彼らは棚にある資料から大事なものだけを引き抜いては残りを護衛達に焼き払わせて処分する準備を進めているようだった。

 ユナ達が進むの地下の最深部のようだった。今にも底が抜けそうな錆び付いた金属板の螺旋階段を下りて行けば、地下を照らすのは薄っすらと輝く緑色の培養液と弱々しい照明ばかりとなった。

 

「母体処置を頼む」

 

「おいおい、適合処置無しだと成功率も再利用率も下がるぞ?」

 

「上の命令だ。戦力増強できるならばそれに越したことはない。ああ、彼女たちは別だ。先に『博士』の試作で処置を施す」

 

 白衣がはち切れんばかりの太った男が資料を受け取ると、ユナとリーンを値踏みするように見比べる。

 

「高レベルとFNCか。FNCは貴重だし、移送して通常の適合処置で時間をかけた方がいいんじゃないか?」

 

「だからこそ『試作』だ。それにマム=2の移送が最優先だろう? 如何に貴重とはいえ、既に実用性を証明しているマム=2とは比較対象にならない」

 

「……そりゃそうだ」

 

 太った男は脂で粘ついた髪を掻き、ユナ達を培養液が照らす空間へと連行する。

 ユナ達を待っていたのは手術台……と呼ぶには余りにも歪だった。手足を縛る拘束具が備え付けられており、なおかつ何に使用するかも分からない不気味な装置が並んでいる。

 ユナ達に先んじて手術台に寝かされたのは、もはや正気など残っていない虚ろな目をした女だった。抵抗することもなく手足を縛りつけられて寝かされると、太った男は近くの巨大なカプセルのレバーを上げる。緑色の培養液で満たされたカプセル内では無数の白い球体が浮かんでおり、その内の1つがパイプを通して男が操作する器具へと移動していた。

 

「口部の固定完了。これより第3術式による母体化処置を実施する」

 

「中和剤及び成長促進剤、投与完了しました」

 

 太いチューブを両腕に差し入れられ、毒々しく黒ずんだ液体が流し込まれていく。異様な風景にユナは現実感を失っていく。

 器具によって口を限界まで開かれた女に、喉奥まで押し込む大きな透明なホースが挿入されていく。太った男は爛々と輝く目で器具を操作すれば、白い球体は透明な溶液に流されながら女の体内へと送り込まれた。

 リーンも何が何だから分からないといった顏だった。そうしている間にも、女は手術台ごと透明なガラスケースに移送される。

 

「どうだ?」

 

「成長促進剤は適量の3倍です。適合処置も無しとなれば、成功率は低いですね」

 

「だよな。まぁ、上もそんなに期待していないでしょう。成功してもその後の発育を考慮すれば、駒が1つ増やせたらくらいの気持ちだろうしね。【銀舌】様への研究成果のアピールもしたいってところだろう。こっちとしても大ギルド相手ならば悪くないデモンストレーションだよ」

 

 気楽そうな様子で太った男は湯気が昇る珈琲を口にする。そうしている間にもガラスケースの中に運び込まれた女には変化が生じる。

 全身の皮膚がまず赤く火照りだしたかと思えば、激しく痙攣し、口から黄ばんだ液体が零れ始める。やがて、それは血が混じり始め、腹部はまるで内側で風船が入っているかのように膨らみ始める。

 それだけでは終わらない。女の腹部では何かが蠢いていた。皮膚は変形し、亀裂が走って出血が生じる。

 

「ぎぃああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 正気を失っていたはずの女の口から洩れたのは絶叫……いいや、断末魔だった。瞬間にガラスケースは真っ赤に染まる。女の腹部が破裂したのだ。

 そして、ユナは見た。見てしまった。破裂した女の内臓を食すかのように蠢いていたのは、未成熟な……先程見た昆虫人間の幼体と思しき緑色の生物だった。未成熟な幼体は痙攣し、すぐに動かなくなる。

 

「洗浄、廃棄」

 

「了解」

 

 太った男の指示でガラスケース内がシャワーによって洗われ、物言わぬ遺体となった女は手術台から外されるとそのまま近くの黒いケース……いいや、『ゴミ箱』に放り投げられる。

 余りにも常軌を逸した光景であるはずなのに、主導した太った男も含めて白衣の研究者たちは平然としている。結果だけが残念だとばかりに珈琲を飲み、次だとばかりに新しい女を手術台に寝かせる。

 

「嫌……止めて……お願い……おね――」

 

 先の犠牲者とは異なり、次はまだ意識を保てていた。涙を流しながら懇願するも、屈強な護衛達によって強引に手術台に拘束され、太った男は慣れた手つきで口を開かせて器具を装着させる。

 

「んぎぃいいいいいいいいいいい!?」

 

 人間とは思えぬ悲鳴と共に白い球体……あの昆虫人間の『卵』が体内に送り込まれる。女は暴れるも抵抗にもならず、先ほどと同じくガラスケースに閉じ込められる。

 腹部は膨れ上がり、女の絶叫が轟くもガラスケース越しで曇っていた。白衣の研究者たちは淡々と、悲鳴に対する歓喜も嫌悪もなく、黙々と表示されるデータを読み取ることに熱中していた。

 やがて女の腹の膨張が止まる。女は白目を剥いたまま数度激しく体を跳ねさせた後に気絶する。

 

「安定期に入ったな。成長促進剤から計算すれば、幼体第2期で『出産』するはずだ。再利用は考えるな。移送も処分が面倒だ。そのまま成体第1期までの『養分』にさせろ」

 

 ガラスケースから運び出された女はユナ達の目が届かぬ場所に連れて行かれる。彼女を待つのは先の犠牲者とは似て非なる……だが、同じ凄惨なる死なのだろう。

 

「あぁ……ああ……あぁああああああああああああ!?」

 

 これまではユナよりも良くも悪くも場慣れして、冷静さを失うことなく逃亡を志していたリーンの悲鳴が轟く。同行していた看守が彼女を杖で叩き、青白い火花が散る。

 

「コラ! 止めろ! ここにある機材はいずれもお前の命よりも遥かに価値があるものなんだ! ああ、だからこそ勿体ない! ほとんど爆破しなければならないなんて!」

 

 リーンを殴った看守を窘めた太った男は、だが彼女の暴力よりも攻撃の余波による機材の破損を気にする。

 狂っている。何もかもが狂っている。ユナがなんとか精神の均衡を保てたのは、リーンが先に悲鳴を上げたからであり、彼女の喉は悲鳴を上げることさえも許さなかったからであり、だからこその喉を掻き毟ろうとする衝動が手枷のお陰で防止されたからだった。

 

「まったく、キミ達の処置は最後に回して少しでも時間をかけるつもりだったのだがね。まぁいい」

 

 太った男が目配りすれば、リーンは手枷を手術台の上部に固定されて拘束される。なおも暴れる彼女であるが、見慣れた光景だとばかりに太った男は冷蔵庫より細長いカプセルを取り出す。

 カプセルを注射器にセットすると解答されたのか、透明な溶液の中に入っていた無数の赤い糸が……いいや、糸と見間違う程に細長かかった生き物が蠢き始める。

 刺せば皮膚に穴が開くだろう、大型の注射器の針を照明に照らし、太った男は恍惚とした表情で赤い虫を見つめる。

 

「これは『博士』が交配させた新種でね、適合さえすれば母体の負担を大幅に低下させて安定化させる。ただ適合条件がまだ分かっていない。高レベルプレイヤー程に安定化する傾向が高いことは判明しているのだがね」

 

「止めろ! 私にそんな……!」

 

「注入されると、まず急速に体内で増殖する。その際に眼球などは食い破られ、穴という穴から排出され、その後は数が減少すれば共生状態となる。増えたままならば……まぁ、残念な結果だな」

 

 止めなければならない! 拘束されたリーンを助けようとユナは身を乗り出すが、後頭部に衝撃が走る。看守が躊躇なく杖で殴りつけたのだ。青白い火花と共に血が飛び散り、ユナは地面にへばりつく。

 無力だ。ユナは歯を食い縛り、だが抗いを止めない。

 更なる体罰をと看守が杖を振り上げる。思わず目を閉じたユナは襲い掛かる衝撃に備えた。

 

 

 その時、まるで大地震が起きたかのような揺れと轟音が地下空間を襲った。

 

 

「ぬお!?」

 

 看守は体勢を崩し、振り上げた杖は近くの機材に命中する。青白い火花は機材に小さな爆発を起こし、繋がっていたチューブから白い煙や内用液が霧状となって吹き出す。

 ただでさえ薄暗かった悪魔の実験室が完全に視界を失い、ユナはこれを好機と見て勢い任せに太った男がいた方へとタックルする。

 結果は命中。小柄かつSTRにもポイントを割り振っていなかったとはいえ、完全な虚を突いた攻撃という事もあり、そのままユナが覆い被さり、彼女の体重を受けて彼が持っていた注射器はそのまま自身の右太腿を貫いた。

 

「ひぃいあああああ!?」

 

 パニックを助長させる太った男の悲鳴。ユナは彼が自分で語った通りの凄惨なる姿になる様を想像し、だが今はリーンの救助が優先だと彼女の拘束を解く。幸いにもベルト式だった為に手探りで何とか外すことが出来れば、彼女は自由になった両手で足の拘束具も外すことに成功した。

 他の人たちも助けないと! ユナは正気を失っている、あるいは精神が著しく衰弱していても迫る恐怖に怯える、自分と同じ拉致された者たちにも脱出を促そうとするが、救出したリーンに手を引っ張られる。

 真っ白な霧で覆われた研究室だったが、最初から脱出を狙っていたリーンは出入口を憶えていたのだろう。彼女の先導で研究室を抜け出せば、先ほどとは比にもならない程のパニックが起こっていた。

 

「やった……やったぞ! きっと大ギルドの攻撃だ! 私たちは助かったんだ!」

 

 歓喜するリーンは人気のない通路を選んで走り始める。

 

「な、なんだ? ここはダンジョンなのか?」

 

 明らかに使われた形跡が乏しい通路に進めば進む程に入り組んだ構造となっている。リーンはともかく地上に続く階段を探すが、見つかるのは深みへと続く下りの階段ばかりだった。

 ……助けられなかった。ユナは両目に涙を溜め、せめて流すまいと唇を噛んで堪える。

 最初の1人は混乱のままに見殺しにしてしまった。2人目はどうなるのか分かっていたはずなのに、心が受け入れることを拒んで行動を取れなかった。リーンを助けようとしても、あの地震と轟音が無しでは、無意味な抵抗として終わっていただろう。

 余りにも無力だ。ユナは何もできない惨めさを味わう。

 何が迷惑をかけないように努力するというのか。勝手な行動で捕まり、今もエイジ達をきっと心配させ、挙句に降りかかった火の粉さえも振り払うことができない。

 言葉を聞く気もなければ、揺れる心も持たない相手が暴力と悪意を向けた時、何の抵抗の手段も持たない。

 

「何処だ! 上は……上に続く道は……!?」

 

 焦るリーンにともかく落ち着くように声をかけたいが、それさえも出来ない。ならばと行動で示そうにもユナには状況を打破する手段が思いつかない。

 この混乱が大ギルドの攻撃によるものならば、このまま隠れて時間稼ぎさえしていれば救助も期待できる。だが、こうしている間にもユナ達を捕らえようとする追手の怒声が近づいていた。

 

「この手枷さえ何とか出来れば……戦えるのに!」

 

 抵抗手段を持つからこそリーンの焦燥と恐怖は深まっていた。捕まれば、今度こそおぞましい実験によって体内に昆虫人間の卵を植え付けられるのだ。そして、生きたまま内臓を貪り食われ、腹が文字通り破裂するか、それとも出産という言葉通り……と想像してユナは堪えきれない嘔吐感に襲われる。

 

「そうだ。せめて……せめて時間さえ稼げば……そうすれば……救助が……!」

 

 ユナの手を掴んで走っていたリーンはようやく見つけた階段を駆け上がり、だが途中で足を止める。天井から降り注ぐ妖しい赤い光は埋め込まれた鉱石の輝きであり、まるで非常照明のように人心に不安を煽る。

 だからだろう。振り返ったリーンの目に言いしれない狂気の光が宿っているように感じたのは。

 

「……恨んでくれて構わない」

 

 そして、リーンはユナの腹を蹴りつけた。階段を転げ落ちる中で見たのは、恐怖に染まり、だがユナを囮にして時間を稼げるはずだという安堵で歪んだリーンの何と呼ぶべきかも分からない表情だった。

 リーンは決して悪人ではない。彼女の告白が真実ならば、不本意な人殺しに悔い、自分自身を許せずに教会の下で贖罪に勤しむ善人だ。そして、あのパニックの中で他の人たちを何とか助けられないかとした立ち止まっていたユナの手を掴んで連れ出してくれた。1人の方が遥かに逃げやすかったはずなのに。

 恩返しだったのかもしれない。少しでも会話をした相手を見捨てられなかっただけなのかもしれない。何にしても、彼女は自分だけが助かればいいという自己中心的な人物ではなかったはずだ。

 だからこそ、ユナには信じられなかった。自分が助かる為にあの地獄に戻れと蹴落としたリーンの何を信じていたのか分からなくなった。

 転げ落ちたユナは額を割り、全身の骨が折れたのではないかと思う程の不快感が広がる。ユナはようやくこれが話で聞いていたDBO特有のダメージフィードバックの類なのだと処理できるようになっていた。蹲ったのも数秒であり、何とか立ち上がろうとしたユナは、だが髪を掴まれて持ち上げられる。

 

「…………っ!?」

 

「ようやく見つけたぜ。よくもやってくれたな」

 

 ユナの髪を掴んで持ち上げたのは、散々痛めつけていた看守だった。彼はユナの頬を殴りつけて再び床にへばりつかせると、また髪を掴んで殴りつける。

 

「この! この! この! お前は……黙って……俺達の……言いなりになってりゃ……いいんだよ!」

 

「…………!?」

 

「ああ、悪い悪い。お前、喋れないんだったな。FNCなんて貴重だなんだとセンセー共は騒いでたが、ただの出来損ないじゃねぇか。欠陥持ちが」

 

 鼻血が零れたユナの顔をねっとりと見つめた看守は加虐の笑みを浮かべる。そのまま彼女の髪を掴むと近くの戸を蹴破った。

 中は埃被った倉庫であり、何の用途かもわからぬ瓶詰の植物や内臓ばかりが棚に並んでいた。看守はユナをその場に組み伏せる。

 

「俺はよぉ、お前が……連れてこられた時から決めてたんだ。教会なんて偽善者の集まりだ。自分たちだけ安全な場所でぬくぬくと過ごして、美味いモノをなーんの苦労もなく食ってる糞共だ。教会のお嬢さんに、最下層のおもてなしってのをしてやるのが看守としての仕事だってなぁ!」

 

 自分が何をされるのか察したユナは身を捩じらせて暴れる。だが、男は再度ユナを殴りつけ、逃げられないように戸に鍵をかける。狭い倉庫で逃げ場を失ったユナは倒れまま這って看守から遠ざかろうとするも、腹に強烈な蹴りを入れられて悶え苦しむ。

 ユナに馬乗りになった男は唇を舐めながら、征服感に酔いしれるように目を細める。

 

「……なんだよ、良い顔できるじゃねぇか。そそるねェ」

 

 指摘されて、ユナはようやく自分が恐怖で表情を強張らせて涙を流し、怯えを堪えきれずに全身を振るわせて縮こまっていることを悟る。

 誰かの為に死ぬ事になるとしても行動できた。SAOで恐怖を乗り越えられた。

 だが、ハナミの策謀から始まった悪意の連鎖……邪悪な実験、リーンの裏切り、そして何よりも看守によって再三に亘って振るわれた暴力とまだ慣れぬダメージフィードバックは、彼女がかつて乗り越えた恐怖とは全くの別物だった。根底から異なる、人間の欲望と本性に根差した悪意という名の恐怖だ。

 怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い……怖い! ガタガタと震えたユナに、看守はわざとらしく腕を振りかぶっては力なく頬を叩き、そうかと思えば拳を握って振り下ろす。

 

「どうした? 叫んでみろよ。出来ないよなぁ。お前みたいな声もまともに出せない弱者が威張り散らしてるのが教会ってもんなのさ。訳の分からない教義を説く前に、俺みたいな貧乏人にメシと服と寝る場所を準備するのが筋ってもんなんじゃねーのかよ!? ああ!? オラ! なんとか言ってみろよ!」

 

 看守が声を発する度に、殴りつける度に、ユナは顔を引き攣らせて口を動かす。声も出せずに、謝るような相手ではないと分かっているのに『ごめんなさい』と繰り返す。

 

「お前みたいな役立たずが教会に……! オラ、修道女らしく、貧しき人に奉仕しろよ! それが教会の存在意義だろ!?」

 

「…………!」

 

 硬直したユナに、男は粘ついた笑みを浮かべる。

 

「なんだよ。もしかして初めてか? だったら良かったなぁ。虫の卵を口から突っ込まれて処女受胎は避けられたってわけだ」

 

 ヤダ。止めて! 止めて止めて止めて! 死よりも生々しく、虫に腹を食い破られるよりも遥かに現実味を帯びた、男に組み伏せられる恐怖にユナは悲鳴無き悲鳴と共に泣きじゃくる。

 看守はナイフを抜き、ユナの襟に刃を立てるとそのまま胸元まで引き裂く。

 

「アンタみたいな可愛いツラした、戦えもしない女は、スラムで1晩とまともに越せないぜ。なぁに、安心しろよ。虫を孕む前に俺が大人の女にしてやるよ。感謝してもらいたいくらいだぜ」

 

 暴れるユナの頬を叩いた看守は下卑た欲望のままに覆い被さる。

 怖い。怖い怖い怖い怖いこわいコワイ! 抵抗することもできない程に人の悪意という恐怖に心を折られたユナは半ば呼吸困難になる。叫ぼうとする程に、自分の核とも呼べる何かに亀裂が広がっているような感覚に襲われる。

 助けて。助けて。助けて。声も出せない自分を呪う。歌うことはおろか、助けを求めることさえもできない非力を存分に味わう中で、ユナは小さな光を見る。

 それはいつかの黄昏。河川敷でユナの手を引くのはボロボロの少年。虐められた自分の為に、何人もいた上級生に果敢に挑んだ幼馴染だ。

 

『……僕が守るから。いつでも、何処でも、何があろうとも、悠那は……僕が助けるから』

 

 ああ、あの時の笑顔……もう1度見たかった。傷だらけで、顔も腫れていて、とても見れたものではなかったが、それでも……感情表現が苦手な幼馴染が初めて見せてくれた、黄昏の光を忘れられないくらいに眩しいくらいに優しい笑顔だ。

 

(助けて……助けて! エーくん!)

 

 声にならぬならば心の内でユナは叫ぶ。いつでも、何処でも、何があろうとも、鉄の城でも最期の時まで傍にいてくれた幼馴染の名前を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「彼女から離れろ。さもないと斬る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鍵がかけられた戸は斬撃と共に破られ、看守の首に突きつけられたのは刃。

 薄明かりの中でも輝きを放っているかのように見える程の、まるで黒真珠のような漆黒の刀身。それを携える者もまた夜を溶かしたような黒のコートを纏っていた。

 

「く、【黒の剣士】……! どうしてここに!?」

 

「聞こえなかったのか? 彼女から離れろって言ったんだ」

 

 瞬間に振るわれた刃が斬り落としたのは看守の右耳だった。

 

「2度目はない」

 

「ひぃああああああああああああ!? 分かりました! 分かりましたぁああああ!」

 

 看守は悲鳴と共にユナから離れる。

 涙で視界が歪んだユナは自分を助けてくれた恩人を見上げる。

 

「キミがどうしてここに……いや、そういえば教会の人が攫われたって……ああ、糞! 俺の馬鹿! 肝心の被害者の事を聞き忘れていたなんて!」

 

 ユナを助けたのはSAO完全攻略の『英雄』にして、他でもないユナを救ってくれた恩人……【黒の剣士】キリトだった。

 どうにかしてお礼を伝えたかったが、神父もまずは教会とDBOの生活に慣れてからと後回しにし、また彼自身もラストサンクチュアリ壊滅事件の直後で忙しいだろうと遠慮していたためにアポイントも取れていなかったが、ユナが是非とも会いたいと願っていた人物だ。

 

「酷い傷だ。それに……!」

 

 キリトはアイテムストレージから出現させたマントをユナに羽織らせる。もちろん、彼女の裂けた修道服から露わになっていた胸元からは目を背けた。大きいとも小さいとも呼べない絶妙なサイズではあるが、切れ込みから見る角度次第では危うかったからである。

 顔を赤らめたユナは涙と羞恥で顔を染めながらマントを引き寄せて体を隠す。彼女のトレードマークでもある編みこまれた前髪は階段からの転倒と度重なる暴力で解けてしまい、また血で汚れていた。その様子にキリトは怒りを隠すことなく拳を握り、彼の象徴でもある漆黒の聖剣を看守に向ける。

 

「ひぃいい! 降参! 降参だ! この通り! 殺さないでくれ! 頼む! 頼むよぉ! ほら、『英雄』様が無抵抗な弱者を甚振るなんて、評判を落とすだけだろ? な!? な!? なぁ!?」

 

「……そうだな」

 

 キリトは聖剣の切っ先を下げれば看守は安堵し、だが次の瞬間にはユナの目には文字通り止まらぬ神速で聖剣は振り抜かれていた。

 斬られたという事象すらも剣速に追いつけなかったように、看守の両手首が落ちる。目をパチクリとさせた看守は、続く出血と共に悲鳴を上げる。

 

「悪いが、アンタ達が夢見る『都合のいい英雄』なんてイメージ、どれだけ汚れようと興味はないんでね。むしろ、願い下げなくらいだ」

 

「うぁああああああああああああ!?」

 

「殺さないのは、武器を捨てたからだ。それ以上でも以下でもない。ほら、止血包帯だ。早めに流血のスリップダメージも止めることができれば、助かるはずだ」

 

 包帯を看守に投げ渡したキリトはユナの手を引いて倉庫から脱したかと思えば、剣を背負った彼はユナを抱きかかえると走る。そのまま一気に距離を取ると驚いたまま硬直した彼女を下ろして微笑みながら薬を差し出した。

 

「もう大丈夫だ。キミの安全は俺が保障する」

 

「…………」

 

 返事をしないユナに訝しんだキリトは、だが彼女の手枷を外して欲しいというポーズを見て、聖剣で破壊する。

 これで自由だ。ユナはまだ肩にかけたままだった、だが表紙はすっかり血で汚れてしまったスケッチブックを捲る。

 

<こうして会うのは初めてだね。私はユナ。助けてくれてありがとう、キリト>

 

「あ、ああ。もしかして、キミ……声が……!」

 

 キリトはどうやら知らされていなかったらしく、衝撃は相当なようだった。

 

<心配しないで。キリトのせいじゃないから。それよりも、ずっとお礼が言いたかった。それも今回と合わせて2度も助けてくれた>

 

 キリトが来てくれなかったらどうなっていたか。安堵するユナであるが、キリトは顎を撫でて考え込む。

 

「そうか。喋れないのか。だったら……あの声は……」

 

「…………?」

 

「実はキミを見つけられたのは声がしたからなんだ。女の子の声で『助けて』……ってさ」

 

 首を傾げたユナに、キリトはどうして閉じ込められていたユナを発見できたのかを教える。

 そうだったのか。だが、そうなるとキリトが聞いた声は全くの別人のものとなる。もしかしたら、あの混乱でユナ達と同様に逃げられた人がいたのかもしれない。

 ユナは文字が乱れないように努めて冷静に、また簡潔に伝えるべくスケッチブックで自分が見たものを伝える。

 

「そんな……人体実験!? DBOはそこまで可能なのか? いくら自由性が高いとはいえ……だけどクーの装備みたいな人体融合の例もあるし、でもあれは≪鍛冶≫がゲーム制作のウェポン・クリエイティブ・システムをそのまま移植しているみたいだしな。後継者も手を抜いてしまったって後悔してるんじゃないかってくらいに自由度が高過ぎるシステムだからこそ可能なわけで、プレイヤーに卵を植え付けてモンスターを……もしかして寄生モンスターか?」

 

「…………」

 

「あ、ごめん。そうだよな。ユナは嘘を吐いていないだろうし、受け入れるしかない。詮索は後だ。キミを安全な場所まで連れて行く」

 

<待って。他の人たちがこのままだと殺される。キリトは助けに行って。私は何処かで隠れてるから>

 

「確かに一刻を争うな。でも、キミをこのまま放置するわけにもいかない。だからと言って、聞いた人数を俺だけで守りながら脱出させるのも難しいな」

 

「…………」

 

「でも、彼女たちが殺されないように引っ掻き回すくらいはできる。ユナは付いてきてくれ。キミを1人にしておく方が危険だ」

 

 確かにその通りだ。キリトの傍の方が彼の負担は増しても安全なのだろう。大人しく甘えることにしたユナは彼の1歩後ろを進もうとしたが、逸れない為にもとキリトは空いてる左手を差し出す。

 おずおずと手を握れば、グローブ越しでもキリトの男らしい大きな手と熱が伝わる。看守が触れた時とは異なる安心感があった。

 

「本当はもっと大人数で潜入していたんだけど、敵に居場所がバレたんだ。でも、大丈夫だ。さっきの揺れは地上で大爆発があったからみたいなんだ。きっと、大ギルドが保険をかけていたか、俺達の失敗を察知して予定を前倒しして攻撃に出たのかもしれない。何にしても、この要塞の人員の警備は半減どころか3割未満ってところだな」

 

 リーンの予想は間違っていなかった。キリト達の潜入は失敗したが、大ギルドの攻撃はもう秒読みだったのだ。

 自分を蹴落としたリーンの表情を思い出し、ユナは怒りや憎しみではなく悲しみを抱いた。彼女のような優しい善人さえも、窮地で混乱と恐怖を繰り返されれば壊れて狂ってしまう。もしかしたら、今頃は彼女も自己嫌悪に苛まれているかもしれない。

 無事に生きて再会できたならば許そう。自分は聖人ではないが、こんな環境ならば気も狂うのも仕方ないと認めるしかないのだから。

 

「……でも、間に合って本当に良かった。キミに何かあったら、俺はもうエイジに顔向けできなかったよ」

 

<エーくんと仲いいんだ>

 

「あー……むしろ最悪な関係かな。あっちは俺を憎んでも仕方ないだろうし……って、キミは何も教えてもらっていないのか?」

 

 驚くキリトであるが、それ以上にユナの方が驚きだった。

 エイジは感情表現もコミュニケーションも苦手であり、初対面の相手にはついつい冷たい態度を取ってしまって誤解されるタイプであるが、ユナが知る限り、誰かを憎むという行為から程遠い人物だからだ。

 敢えてエイジが憎むとするならばこの世の理不尽だ。SAOでそうであったように、死と恐怖を強要される環境に閉じ込められた事には憤っていたが、犯人である茅場晶彦に対する悪態は1度として漏らしたことはなかった。

 

『ごめん、ユナ』

 

 ああ、そういえば、アインクラッドではいつも暗く、追い詰められて破裂するかも分からない危うさを秘めた顔ばかりだった。何かとあれば、ユナに謝ってばかりだった。

 スレイヴの『ただの幼馴染』という発言が蘇る。漠然とした関係であり、親と同じくらいに親密な間柄だと思っていたエイジの事を、思い返す程に、自分には見えていなかった影を感じる。

 キリトはユナの手を引いて慎重に進む。薄暗い通路は徐々に明るさを増していく。

 割れたカプセルから地面を濡らしているのは培養液だ。薄明かりとなって地下の闇を照らし、故に不気味な機材の数々が否応なく視界に入り、先程の悪魔の実験を……いいや、モンスターを『生産』する光景がフラッシュバックする。

 爆発によって逃げ出す隙が無ければ、逃げた先でキリトに助けてもらえなければ、いずれにしてもユナの末路は定まっていただろう。モンスターの母体にされていたか、看守に嬲られるだけ嬲られてそのまま殺されていたかもしれない。

 弱い自分が悔しかった。こうしてキリトに守られながら脱出を願うことしかできない己が恥ずかしかった。

 ああ、思えばいつもそうだ。振り返れば、ユナは無茶ばかりをしていた。無鉄砲とも言い換えられた。アインクラッドでも何度も無茶をして、その度にエイジに心配をかけた。挙句の果てに彼を遺して死んだ。

 と、不意にユナの手を握っていたキリトが少しだけ力を籠める。いつの間にか俯いていたユナが顔を上げれば、キリトは力強く笑んだ。

 

「まずは生きて帰ることだけを考えよう」

 

「…………」

 

 その通りだ。ユナは帰りを待っているだろうエイジを想像する。思いっきり怒鳴られるかもしれない。延々と小言を聞かされ続けるかもしれない。だが、それも生きて帰ってこそである。

 

「下がれ!」

 

 と、キリトは通路の闇に剣を振るう。瞬間に火花が散り、ユナの傍らを高速の何かが通り過ぎた。

 何!? 混乱するユナをよそに、キリトは彼女の手を引っ張ると自分の後ろに隠す。

 闇の中から現れたのは、2メートル半はあるだろう、カプセルの中に保存されていた昆虫人間だ。全身は暗緑色であり、2対の翅には光沢もなく、まさに闇に溶け込むのに相応しい。両手の指は蟷螂を思わす頭部と相反して人間に近しく、灰色の鋭い爪を有していた。

 頭部の複眼は黒い膜に覆われていたが、奇襲に失敗した為か、膜は溶解する。すると逆に闇の中でも爛々と輝く不気味な赤色の輝きが異様な威圧感を放っていた。

 

「……強いな」

 

 ぼそりと呟いたキリトは剣を軽く振るって確かめ、奇襲に失敗した昆虫人間が翅から次々と射出する黒い霊魂の攻撃を斬り払う。

 すごい。DBOのバトルシステムを把握しきってはいないユナでも見ただけで分かる程に、キリトの実力は抜きんでている。ラストサンクチュアリ壊滅作戦はユナも途中まで見ていたので彼の強さは分かっていたが、こうして直近で目撃すれば、彼ならばSAOを完全攻略に導いたのも納得だと素直に認められた。

 昆虫人間は翅を動かして宙を浮いたかと思えば、瞬時に加速して間合いを詰める。ユナを庇いながら戦わねばならないキリトは動けない関係上、昆虫人間の突撃に正面から相対せねばならない。

 爪の鋭さを活かした突きに対し、キリトは剣を振るう。いや、ユナには『振るった』あとの軌跡以外に視認できなかった。昆虫人間の突き出した右腕は肘から落ち、更に頭部に深々と傷が入る。どす黒い血を垂らした昆虫人間はHPを半分ほど残し、通路の闇に撤退した。

 

「やっぱり強い。仕留め損なったか」

 

 剣に付着した昆虫人間の血を払い、だが黒い血に眉を顰めたキリトに、ユナは半ば興奮しながら凛々しい横顔を見つめた。

 ユナには剣を振るったという結果しか見えなかったが、実際には突き攻撃の対処、肘へのカウンター、更に頭部への一閃という3連撃を……それもソードスキル顔負けの剣速で実現したのだ。もしもこれにソードスキルが加わったならば、それこそ斬られた相手はライトエフェクトを見た後に攻撃を喰らったことを実感するだろう。

 

<すごい! キリトって本当に強いんだね!>

 

「俺もまだまださ。『剣技』だけなら負けない自信もあるけど、ルール無しの戦いだと俺も後れを取る相手は多いよ。ましてや、DBOは魔法から射撃まであらゆる攻撃手段があるからな。剣技だけで勝ち抜くのは骨が折れるんだ」

 

 だからこそ仲間を頼ることは大切なんだ。キリトはぼそりとそう付け加えた。ユナから見れば何者も寄せ付けない圧倒的な強さに思えたが、キリトの呟きには悲壮感と自責の念に満ちた、重々しい実感が籠もっていた。

 

「注意していこう。さっきの奴も今ので仕留めるつもりだったけど、予想以上の硬さで、しかも頭部の攻撃の時はギリギリで退いてダメージを軽減させた。月蝕光波で追撃したかったんだけど、この暗闇だと放った先に誰がいるか分からないしな」

 

 私さえいなければ倒せたのかな。キリトが昆虫人間に更に踏み込むことができなかったのは、背後にいたユナから離れない為だ。彼女もそれくらいは承知している。片腕を失った昆虫人間の脅威は下がったが、それでもまた闇から襲ってくるかもしれないのだ。油断はできない。

 

「黒い血……闇属性の攻撃……暗闇で赤く光る……深淵の眷属か? だけど……」

 

「…………」

 

「注意するのに越したことはないな。ユナ、手を出してくれ」

 

 キリトがアイテムストレージから取り出したのは包装紙に包まれた粉薬だ。水も無しでは飲みにくいが、ユナは口に含み、吐き出しそうな苦みを堪えながらなんとか飲み込む。一方のキリトは同様の薬を涼しい顔でユナよりも半分以下の時間で飲み干した。

 

「闇属性防御力を高める薬だ。それにしても、これだけの上昇と効果時間か。書架の試作品って聞いていたけど、遠慮せずに貰っておいて正解だったな」

 

 ユナのHPバーの下に新たなアイコンが表示される。キリトは万が一に備えて闇属性防御力を高めたのは、先程の昆虫人間の再度の攻撃に備えてか、あるいは同種との遭遇を危惧してか。

 ユナ達は手術台がある実験室に辿り着くが、既に無人だった。研究員も含めて姿はない。

 ユナ達以外の捕まっていた女たちの姿も形もない。遺体がない分だけ安心であるが、彼女たちの安否はやはり気がかりだった。

 やはり薄暗い。周囲のカプセルはいずれも培養液が抜かれ、カプセルは解放されている。あの昆虫人間はここから解き放たれたのだろうか。

 

「ユナの話だと牢屋に入れられた人たちは全員連れ出されたんだよな? そうなると、彼女たちは別の場所に連れて行かれたか、それとも……いや、最悪の予想は止めよう。あの昆虫人間が襲ってくる以上、このままキミを連れて地下に留まり続けるのは危険だ」

 

<待って。私と一緒にもう1人逃げた人がいるの。彼女が心配。探してあげたい>

 

「そうか。でも、やっぱり俺だけでは限界があるな。分かった。まずはキミを待機してる仲間に預ける。その後、改めて捜索するよ」

 

<ワガママ言ってごめんなさい>

 

「構わないさ。キミ達を助け出すのが俺の今回の仕事だし、俺個人としても1人でも多く助けたい。だけど、少し急いだ方がいいかもな。さっきの爆発が大ギルドの攻撃だったなら、この基地はもう間もなく総攻撃を受けるはずだ。さすがに皆殺し……なんて真似はしないだろうけど、それでもここぞとばかりに限度なく叩くだろうしな。地下ならまだ安全だろうけど、地上はそれこそ全部焼き払われても驚かないよ」

 

 実験室を出たユナは照明の光が強い通路を先導するキリトに続く。ここはユナ達が連れてこられた通路なのであるが、異様なまでに静かだった。研究員達は脱出済みなのか。だからこそモンスターが解き放たれたのか。何にしてもユナは自分の手を引きながら歩きにも淀みがないキリトに心強さを増々感じた。

 

「変だな。静か過ぎる」

 

 言われてみれば確かにその通りだ。あの昆虫人間はそもそも驚くほどの静音で飛行していたが、逆に言えば静寂を感じる程にまるで物音がしないのだ。

 

「地上への最短ルートは……見張られているだろうし、1番危険だな。俺がここまで来たルートを逆走するべきなんだろうけど、ユナを連れながらだとちょっと見張りの目が厳しいな」

 

「…………」

 

「気にしなくていいさ。そのマントだって隠密ボーナスを高める効果があるけど、あくまでサポート用でしかない。俺の装備とスキルでも単独突破がギリギリの警戒態勢だったんだ。できれば、この混乱で警備も緩んでればいいけど……希望的観測で動くには危険だし時間も惜しい」

 

 キリトはシステムウインドウでマップを表示してユナにも見せる。随分と歩き回ったのか、大雑把ではあるが、ある程度の地理は収集済みのようだった。そして、彼は壁に設置されたマップと見比べる。

 

「俺の読みが正しければ、この増設された通路の脇には本来の小道があって、こっちの通路と繋がっているはずだ。それさえ見つければ、シノンが……仲間が待ってる港までたどり着けるはずだ」

 

 異様なまでに静寂な地下を進む中で、キリトは何かを察知したのか背負う剣に手をかける。

 それは暗闇の中で倒れ伏せた昆虫人間だった。ユナ達が遭遇したのとは別種のようであり、より明るい緑色をしている。両腕には魚のヒレのように展開する鋭利な刃が備わっており、ユナ達が遭遇したよりも外殻はより堅牢だった。代わりに翅は小さく、およそ飛行できるものではない。あくまで地上戦に特化されているようだった。

 だが、昆虫人間の体は幾つも傷があり、また致命傷となっただろう、喉の傷は深く、ほとんど首が切断される寸前だった。

 

「……手練れだな。攻撃を的確に凌ぎながらダメージを与えて、体勢を崩したところに喉に必殺の一撃か」

 

 昆虫人間との戦闘痕だろう。通路には幾つもの傷があり、黒い血液が所々に付着していた。ユナにはそれだけにしか見えないが、キリトにはより多くの情報を見て取れるのだろう。

 

<キリトの仲間?>

 

「もしかしたら、全滅したと思っていたけど生き残っていたのかもしれないな。少しだけ希望が見えたよ」

 

 嬉しそうなキリトの発言に、ユナは気を重くした。逆に言えば、捕まったユナ達の救出の為に、決して少なくない人たちが犠牲になったということだ。

 ユナの顔が暗くなったことにキリトは失言を悟ったのだろう。頭を掻いて唸り声をあげる。

 

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

 

「…………」

 

「俺達の潜入はどうやら最初から読まれていたみたいなんだ。だけど、悪いのはキミ達を攫ったヴェノム=ヒュドラだ。ユナ達は攫われた被害者だ。責任を感じる必要はない」

 

「…………」

 

「……って言っても無理だよな。俺もユナと同じだよ。今回の潜入作戦の発端は俺なんだ。だから、今回の作戦でたくさんの人が死んだのは俺のせいなんだ」

 

 違う! キリトは悪くない! ユナはそう伝えようとキャンパスを手に取ろうとするが、キリトの凛とした横顔にまだ話の続きがあるのだと感じ取る。

 

「全て俺のせい……そうやって何でも背負い込んではいけないんだ。失敗から学ばないといけなくて、死んだ人たちの無念も背負わないといけなくて、彼らの犠牲を無駄にしない為にも進まないといけなくて、でも……全ての責任を自分だけで抱え込むなんて傲慢だって、たくさんの人たちが教えてくれた」

 

「…………」

 

「どんな苦しみだろうと誰かと分かち合って乗り越えればいい。何かで紛らわせればいい。そうやって踏ん切りをつけて、少しでもより良い明日の為に生きるんだ。誤魔化して胸の奥に隠して抱え込んでいたら、やがて苦しみが腐って毒になる。全身に回って、きっと取り返しのつかないことになる」

 

 キリトの言葉は確かな経験に裏打ちされたものなのだろう。彼は取り返しのつかないことをしてしまったのか、ユナは想像することさえ許されなかった。

 エイジは変わった。まるで笑わなくなった。自分が死んだ後、彼はどれだけ苦しんだのだろうか。SAOでもユナ以外の交流相手は皆無に等しかった。血盟騎士団に在籍していたとはいえ、人付き合いが苦手なエイジのことだ。あくまで事務的な関係だったことを予想するのは難しくない。

 孤独に取り残された彼は自分の死後、どれだけ苦悩したのだろうか。誰にも相談できず、ずっとずっと孤独に苦しみ続けたのだろうか。

 考えれば考える程にスレイヴの一言が強烈に響く。ユナとエイジは本当に『ただの幼馴染』なのだ。自分の死後どころか、それ以前の彼がアインクラッドでどのような苦悩を抱いていたのかさえ分かっていない。

 エイジは自分を何処まで見ていたのだろうか。どんな風に捉えていたのだろうか。SAOでデスゲームが始まった日、必ず現実に戻すと約束した彼は……何を思っていたのだろうか。

 歌いたい。歌は自分の感情や伝えたい事を……言葉にしきれない意思を相手に届かせることができる。ユナは切に願う。

 たくさんの人たちに歌を届けたい。少しでも多くの人を自分の歌で救いたい。そう願っていたはずなのに、最も傍にいてくれた幼馴染の心がまるで見えないからこそ、歌いたいと切に願うのだ。

 

「この先が避難口になっているみたいだな。ご丁寧に案内板まである。ここまで組織として機能している犯罪ギルドは今まで見たことがないな。それにあの実験……技術はもちろん、あれだけの機材を揃える資金力は何処から……」

 

 キリトは警戒を緩めていないが、余りにも敵襲もない静けさに若干の動揺を隠せないのだろう。曲がり角から覗き込む度に拍子抜けするように眉間に皺を寄せていた。

 もう少しだ。もう少しでキリトが言っていた通路に辿り着くはずだ。あとはそこで横道を探して、彼の読み通りに道が繋がっていれば脱出の光が見える。

 リーンは無事だろうか。他の人たちは犠牲になっていないだろうか。ユナはあれこれ考えるが、今の自分は自分のことさえ守り切れない。キリトに託すことしかできない。ならばこそ、彼の指示に従って安全な場所を目指すのが優先だ。そうすれば、キリトは他の被害者を探せる余裕ができる。

 瞬間、ユナの鼻を擽ったのは異臭だった。思わず吐き気を催したのは、これまで嗅いだことがない、生理的な嫌悪感……いいや、生命の危機感を煽るニオイだった。

 

「これは……!」

 

 キリトも同様なのだろう。だが、彼には明確にニオイの正体が分かっているのか、剣を抜いて警戒態勢を取る。

 ニオイの根源は進路上にある。胸を押しつぶしそうな不安は恐怖を芽生えさせる。

 引き返したい。駄目だと分かっているのに二の足を踏む。キリトの歩みも心なしか重たくなっている。

 やがてユナが目にしたのは……『赤』だった。

 

「見るな!」

 

 咄嗟にキリトがユナを抱き寄せて顔を自分の胸に埋めさせた。だが、ユナの目は確かに捉えてしまっていた。

 元がいかなる部屋だったのかも分からない程の『赤』。それは血の色だった。

 文字通りの血の海。どれだけの人が犠牲になったかもわからぬほどに、禍々しく破壊された人体が散らばり、血によって塗り潰された地獄だった。

 

「引き返すぞ! ここは駄目だ!」

 

 キリトは走り出し、ユナもそれに続く。

 目の端から恐怖のままに涙が零れる。転がっている死体にはユナ達を実験材料にしようとしていた研究者の白衣と思しきものも混じっていた。もっとも、元の白色は完全に血によって塗り潰されていたが。

 目を閉ざさずとも思い出せるほどの強烈な死の光景。辛うじて原型を保っていた頭部は等しく元の人相が想像できない程に歪みきっていた。

 

 まるで恐怖という概念そのものに出会ってしまったかのように。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「第2から第4区画までの深刻な火災、燃料や火炎壺といった攻撃アイテムの損失、人的被害も甚大の上か。しかもジェスパーまで殺られたとなると……当初の防衛計画の実施は不可能かと」

 

「ど、どうするのだ!? これでは大ギルドの迎撃態勢を敷くことはおろか、予定していたマム=2の移送まで……!」

 

 あら、これはシナリオから随分と外れてきたかしら? 客室から緊急で呼び出されたロザリアは聞かされた報告に対して率直に危機感を覚えていた。

 当初は予定通りに【黒の剣士】を筆頭とした潜入部隊と後方支援の排除に成功した。【黒の剣士】と【魔弾の山猫】には逃げられたが、それでも十分過ぎる打撃を与えることに成功したのだ。あとはじわじわと包囲網を敷いて炙り出し、数の暴力に物を言わせて仕留めるだけだった。

 だが、移動させていた燃料等に引火した爆破によって港基地は甚大なダメージを負った。大規模な火災に発展しただけではなく、人員の大部分を消火活動に従事させねばならなかった。加えて要塞の防衛設備を動かす燃料の過半だけではなく、レベルや装備差を埋めるのに有効な火炎壺のような攻撃アイテム、火災に巻き込まれて死亡した多数の戦闘員という、損害はもはや目も当てられない状況だった。

 しかも弱り目に祟り目。爆破を合図と勘違いした【渡り鳥】はあっさりと脱獄し、戦力を削るだけではなく、幹部クラスでこそないが、秀でた狙撃手であったジェスパーという高レベルプレイヤーまで惨殺された。

 更に言えば、優先的に脱出するはずだった地下の研究員は護衛諸共に殺戮され、マム=2と呼称されるヴェノム=ヒュドラが何としても隠匿したい秘密を移送も遅延どころか絶望的な状況になっている始末だ。

 

「ハリデル、どうすればいい!?」

 

 狼狽えるのは本来ならば最も冷静を保って統率せねばならない基地の司令塔である【ミッドナイト】だ。針金のような痩躯であり、態度ばかりは大きく、実務能力も戦闘能力もなく、だが忠誠心だけを買われて拠点を任されている人物だ。決して裏切らないという利点はあっても、こうした緊急事態ではまるで役立たずだ。

 対してミッドナイト……いいや、ヴェノム=ヒュドラという犯罪ギルドに属するには勿体なさ過ぎる人材と評価するしかないハリデルは、知性溢れる眼に動揺の類はない。少なくとも表面化させることなく、状況を冷静に分析し、策を練り上げている。

 

「既に私の部下であるアザゼルが地下に赴き、マム=2の爆破による隠滅を予定しています」

 

「爆破だとぉ!? そ、それでは……!」

 

「もはやマム=2の移送は不可能です。ならば大ギルドに回収されるという最悪の事態を防ぐことこそが最優先です。【銀舌】様も『博士』も理解を示されるはずでしょう」

 

 やはり頭の回転が速い。人間というのは最善の行動と分かっていても最速で実行できないものである。もちろん、そこには上司と部下といった組織としての命令系統も関わってくるのでるが、それを抜きにしても優秀である。

 そして、ハリデルの独断を責めないミッドナイトは単に威張り散らす上司ではなく、秀でた才覚を持つ部下に実働を任せられる……悪く言えば責任を放棄した態度を取る人物なのだろう。どうしてハリデルがミッドナイトを疎まないのかと思っていたが、これもまた彼らのある種の信頼関係なのだろうとロザリアは分析した。

 だからと言って状況が良くなるわけでもない。ロザリアは自分もすっかり鍛えられたものだと冷静を装いながら、この状況からどうやって脱出したものかと焦燥感で今にも裸踊りしそうな程に追い詰められた精神状態だった。

 

「しかし、既に現場の指揮は絶望的です。火災の影響だけではなく、基地内の通信設備が破壊されています。監視カメラの映像を確認したところ、【黒の剣士】による破壊工作だと判明しました。現在、要塞内の70%で通信不可能となっています」

 

 通信機器によるタイムラグ無しの情報伝達は戦争の歴史を変えた。1度は追い詰められた【黒の剣士】であるが、反撃に出るや否や、基地内の通信設備の破壊工作を行い、組織的行動の制限を図った。火災によって警備が薄くなったところを的確に狙ってきたのだ。そのせいで港要塞の地下研究区画とはほぼ通信が断絶してしまっており、だからこそハリデルは部下のアザゼルを派遣して爆破を命じるしかなかったのだろう。

 これだから戦場でも頭の回る奴は面倒なのだ。【黒の剣士】は戦闘による戦力ダウンではなく妨害・攪乱に徹する腹積もりなのだろう。対組織における個人の立ち回りをよく把握している。

 

「アザゼルには地下に到着次第、妖虫兵の解放を命じてあります。加えて極度の戦闘興奮状態による重度中毒者の変異促進も順調です。防衛用のゴーレムや防衛用固定兵器も配備は万全。少なくとも大ギルドの攻撃の第一波は防げるものかと」

 

「あの女は信用できるのか?」

 

「アザゼルの戦闘の才覚は私も認めるところです。単純な正面からのぶつかり合いならば、私に匹敵するかと」

 

 真正面からの戦いだけ評価されてもねぇ、とロザリアはハリデルの評価に内心で渋い顔をした。同じく正面からぶつかり合えば最強と名高い傭兵のグローリーもいるが、あれくらいに次元が違う存在でもなければ、真正面からの戦いだけに秀でていても微妙な評価である。

 

「加えて深淵の指輪も合わされば、たとえ【黒の剣士】と相対しても早々に敗れることはないかと。もっとも、指輪はあくまで未知数。アザゼルにも信用するなと念を押してあります」

 

 ハリデルに不信の目で睨まれたロザリアはやはりこの展開になったかと狼狽える……が、表情では余裕の笑みを描く。

 

「私の情報提供のお陰で、チェーングレイヴの幹部であったマクスウェルを含めた潜入部隊の後方支援を潰し、最新鋭の通信装置の奪取に成功。それだけではなく、潜入部隊を撃破できたはず。それでもなお私を疑うのはお門違いではないかしら?」

 

「……通信装置で潜入部隊の位置は全て割り出せたとは私も思っていなかった。通信装置を奪取された場合に備えて別動隊がいてもおかしくない。だが、火災の原因となった爆発は個人で運用できる爆薬の範疇を超えている」

 

 ご尤もだ。ロザリアも同意見である。火災の原因となったのは、潜入部隊を罠に嵌める為に燃料等を炎属性に穴がある場所へと移動させてしまったからだ。こちらが罠に嵌める為のアクションをまんまと利用されたのである。だが、それを抜きにしても最初の爆発は余りにも強力過ぎた。

 呪術にしても強力過ぎる。現状最高クラスの火力を発揮する呪術といえば、ユージーンのイザリスの焔火だ。だが、長い発動時間と目立ち易さから潜入中に気づかれずに使用するのは現実的ではない。

 

(これだけの破壊力を可能とする爆発物の作成……まさか≪ボマー≫かしら)

 

 クラウドアースの陰の最大の失態であるユニークスキル≪ボマー≫の持ち逃げ。リンネというプレイヤーがクラウドアースを裏切り、≪ボマー≫で盛大に基地を爆破して行方を暗ましている。

 ユニークスキルでも破壊力・応用力共にトップクラスであり、運用次第では個人で戦略を覆す事も可能だ。クラウドアースが確保したままならば、工作活動だけに限らず、ギルド間戦争でも絶対的な切り札として優位を確保できただろう。それだけにクラウドアースは今も持ち逃げしたリンネを血眼で探している。

 あらゆる素材を融合させて爆発物を作り出せるだけではなく、専用のソードスキルで戦術的にも隙は無い。クラウドアースのみならず、他の大ギルド……いいや、≪ボマー≫を知る組織ならば誰もがリンネの行方を追っている。

 ロザリアも興味を持ってレギオン・ネットワークで現在地を探ったこともあるが、今のところ網にかかっていない。リンネは既に死亡したのか、それとも露見を恐れて≪ボマー≫の私用を控えているのか。どちらにしても人口増加は良くも悪くもレギオンの目からも逃れやすくなり、またレギオンもまた完全無欠ではないという証拠でもあった。

 まだ≪ボマー≫と確定したわけではない。だが、今回の爆破に関わっているならば、大ギルドのいずれかが確保していたのは間違いないだろう。レギオン・ネットワークの限りでは潜入部隊は【黒の剣士】と【魔弾の山猫】の2人、太陽の狩猟団の潜入部隊、そしてチェーングレイヴだ。チェーングレイヴはレギオンとしても特に監視対象であり、≪ボマー≫を確保したならばさすがに見逃さない。そう考えると≪ボマー≫は太陽の狩猟団が確保している確率は高い。

 

「大ギルドの攻撃まで時間がないわ。そちらの目的は大ギルドの攻撃を1度は撃退すること。それさえ出来れば陥落しても構わないのでしょう? 現状の戦力では可能かしら?」

 

「燃料不足で防衛設備の稼働時間は大幅に低下している。加えて火災による弾薬の消失も合わせれば、当初の計画通りにはいかないだろう。妖虫兵や強化改造兵はあくまで大ギルドに港からの潜入を許した後の防衛でこそ真価を発揮する」

 

「だけど、防衛ラインを敷こうにも火災によって要塞に大ダメージ。オマケに通信も壊滅。とてもではないけど指揮は執れたものではないわね」

 

「考えはある。マム=2の爆破で地下研究区画そのものを崩壊させて要塞全域を陥没させる」

 

「大ギルドも巻き込んで自爆を? それは悪手じゃないかしら」

 

 大損害を受けて大ギルドが確固たる報復の意思を固めたならば、ヴェノム=ヒュドラには足掻く余地もない。巻き込んで自爆はそれこそヴェノム=ヒュドラの存亡の最後の瞬間に切るべきカードのはずだ。

 

「そこまではしない。陥没と言ってもたかが知れた規模だ。相手の指揮混乱と陣形維持をできない地形を生み出して乱戦状態に持ち込めればそれでいい」

 

 仲間意識などない。大ギルドにぶつけるプレイヤー戦力はほぼすべてがヤク漬けされた中毒者や末端構成員であり、損失しても痛くも痒くもないのだろう。

 

「その為にもマム=2の爆破は最優先。我々の逃走経路も地下最深部にある。一緒に来てもらうぞ、ロザリー」

 

 さて、どうしたものだろうか。ロザリアはどうすればハリデルの誘いを断れるだろうかと悩む。

 ここでヴェノム=ヒュドラに正体を晒して逃げるのは駄目だ。ヴェノム=ヒュドラには利用価値がある。だが、生き残る為には地下だけは駄目だ。なにせ【渡り鳥】が徘徊しているのだ。たとえ大ギルドの攻撃が待っているとしても地上の方が圧倒的に安全であり、また要塞外部で待機しているデス・ガンの脱出支援も期待できる。

 

「1人くらいは指揮をする人間が必要じゃないかしら? 私が遊んであげてもいいわよ」

 

「その必要はない。既に通信不良の時点で戦略指揮は不可能だ。現場判断にしても、この拠点の戦力はいずれも高度に組織化されているとは言い難い。個々の戦術判断に任せる方がまだ有効だ」

 

 まぁ、捨て駒だしね。ロザリアも苦しい言い訳だと承知だった。彼女は客分なので敗戦の将に任せるなんてこともできないし、必要性もないからだ。むしろ、疑惑を深めただけの失言である。

 ああ、本当に嫌だ。ハリデルが実力者でさえなければ、深淵の指輪さえ渡していなければ、2人を殺してさっさと逃げているはずなのに。ロザリアはどうか【渡り鳥】と遭遇しないようにと願いながら地下へと足を進めた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「行くのか?」

 

「ああ、ロザリアのピンチみたいだからな。世話の焼ける女だぜ」

 

 PoHはフード付きポンチョを纏い、愛用の肉斬り包丁と重ショットガンを装備すると炎上する港要塞を見つめていた。

 

「……放っておけば、いいだろう。あの程度の戦力……いくらでも……補填できる。マザーも叱責しない……はずだ」

 

 こちらもいつもと同じ金属製の髑髏マスクを被ったデス・ガンは、ロザリアの切り捨てを提案する。

 

「どうだかな。ああ見えて、マザーはそれなりに評価していると思うぜ。裏切り体質ではあるが、裏切る余地さえ与えなければ、死に物狂いで働く上昇志向だからな。オマケに俺達とは違って動機も分かりやすい」

 

 自身の生存と幸福を最優先する。ある意味で最も自分に正直に生きているだろう。PoHは貧乏くじを引かせてしまったロザリアの安否を気にする。

 そもそも今回の作戦にPoHはまるで乗り気ではなかった。デュナシャンドラの発案ということもあるが、余りにも【渡り鳥】に負荷をかけさせてしまっているからだ。

 PoHの目的は白の傭兵が自発的に『天敵』となることだ。あらゆる因果の果てに『天敵』が羽ばたくことこそを是とする。

 かつてのPoHは『天敵』の誕生を企んだ。そして、その上で失敗を悟った。白の傭兵は……クゥリは『天敵』の『力』を示すことはあっても、だからこそ己を否定し続けて、決して『天敵』として世界を焼き尽くすことはない。それが『クゥリ』だからだ。悔しいが、ユウキの言う通りだったとPoHも認めている。

 ならばこそ、クゥリが歩み抜いた先で『天敵』に至ることを選ばなければならない。誘導して、陥れて、己の真実と本性を突きつけさせても無意味なのだ。だからこそ、必要なのは世界の真実と人の本性を突きつけることだ。クゥリが『天敵』を選ぶ程に、世界と人類への下らぬ幻想を破壊し尽くすことだ。

 だが、そこに過剰に手を加えれば作為が生じる。クゥリは政治等には疎いが、策謀に対して節穴というわけでもない。ああ見えて、あれこれ考察しており、僅かな切欠から物事の背景を推察する。知略ではなく好奇心に根差すものである。

 PoHが『天敵』を誕生させるべく人類の醜悪を見せたところで効果は半減どころか、それに立ち向かおうとする人々の姿に増々の幻想を抱く。逆効果も甚だしい。

 ならばこそ、限りなく自発的に生み出された人類の醜悪を経験させねばならない。幻滅させ、諦観させ、絶望させ、『天敵』と至ることこそを希望にさせる。人類の殺戮による『命』の還元か、それとも醜悪なる人類が『天敵』という共通の敵で団結して戦って昇華する事への期待か、何でも構わない。『天敵』が羽ばたけば、PoHの目的の完遂と思想家としての『答え』の終局は訪れる。

 アインクラッドの犯罪王としての嗅覚がPoHに伝える。確かにヴェノム=ヒュドラの所業は人類の醜悪そのものだ。だが、ヴェノム=ヒュドラという組織そのものには枠外の干渉を感じずにはいられない。

 レギオン・ネットワークを駆使しても、ヴェノム=ヒュドラの躍進は異様なものだった。確かに勢力は拡大しつつあり、また組織としても大ギルド程ではないにしても犯罪ギルドにしては高度化が見られた。だが、急激に技術力と戦力を高めたのはおかしいのだ。

 レギオンも万能ではない。見落としなど幾らでもあるだろう。いずれかの大ギルドが支援したとも考えられる。だが、それにしては今回の大ギルドの動きは後手過ぎる。

 今はまだ問題ないラインだ。だが、これ以上の人類の醜悪の『人工的演出』は逆に立ち向かう人々を際立たせてる。トータルで言えば幻想を深めさせる結果になりかねない。

 

(ロザリアの報告では【渡り鳥】が殺戮を行っているみたいだが、仕事をしているだけか、それとも一時的な暴走か。どちらにしても、この程度で『天敵』になるはずもない)

 

 現在のPoHの優先目標はロザリアの救出だ。次点で【黒の剣士】の抹殺である。

 クゥリの『天敵』化を進めるにはまだ早い。徹底的に見せつけねばならない。天然物の人類の救いようもない醜悪を。裏切られて、裏切られて、裏切られ続けて、全ての幻想を粉々に砕かれねばならない。

 そういう意味では【黒の剣士】は貴重な人材だ。彼が心折れて立ち直れなくなれば良し。そうでなくとも、クゥリの夢見る『人』のあるべき姿を体現するからこそ、『人』に至らぬ者達の罠によって【黒の剣士】が滅びる様を見れば、尚の事に失望は深まるだろう。抹殺を優先すべきか否かは迷いどころだった。

 

「……俺も同行しよう。退路の確保なら……多い方がいい」

 

「へぇ、どういう風の吹き回しだ?」

 

「ロザリアに死なれたら……俺の仕事も増えるのは……困るからな」

 

「へぇ、期待してるぜ」

 

「…………」

 

 金属製の髑髏仮面は冷たく、覆い隠された素顔に刻まれた表情は見せない。だが、発言とは裏腹にロザリアを安易には切り捨てられないのだろう。デス・ガンの申し出をPoHは有難く受け止める。

 思えば、デス・ガンことザザはラフィン・コフィン時代もどちらかと言えば仲間意識の強い方だった、とPoHは思い返す。自分を信奉していた彼を当時は滑稽に嗤っていたものである。それが今ではどうすれば彼らの信頼を得られるかと四苦八苦している。

 嘘を並べることも、取引を持ち掛けることも、弱みにつけ込むこともPoHならば難しくない。だが、それでは愚行の繰り返しだ。

 

「……ラフィン・コフィンのことは詫びない。俺は俺のやりたいようにやっただけだ」

 

「承知済みだ」

 

「だが、お前のことは嫌いじゃなかったぜ」

 

「俺も嫌いじゃなかった。だが、今は……嫌いだ」

 

 あくまでレギオン陣営に属するからこそ、PoHの背中を撃たないだけだとデス・ガンは言っているのだ。思わぬところで昔の負債がのしかかったとPoHは自業自得を噛み締める。

 

「だが、天敵論には……少し興味がある。酒の肴には……なるだろう」

 

「それを早く言え! そうかそうか! 興味があるか! いいぜ! 帰ったら幾らでも教えてやる!」

 

「……気持ち悪い奴だ」

 

 何処が気持ち悪い!? PoHは思わず憤慨する。師サーダナの教え……天敵論はまさしく啓示だ。何よりも学問とは古今東西において無価値なものなど1つとして存在しない。

 

「だが……不思議だ。今のアンタの方が……人間味を感じる」

 

「俺はいつだって人間だ。人間らしく生きて死ぬ」 

 

「そうか。それで、どうやって……潜入する?」

 

「あれだけ派手に炎上してるんだ。警備は手薄になってるはずだ。何よりもロザリアの救出はスピード勝負。小細工無用だ」

 

「だが、大ギルドの攻撃は……間近だ。ロザリアの……確保は任す。脱出の手配はこちらに……任せろ」

 

 頼もしい限りだ。PoHはデス・ガンと並び立つと己の手で窮地に送り込んだロザリアを救出すべく動き出した。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 抉るように振るわれる鋭い爪の連撃。だが、攻撃のリズムは単調だ。

 ダーインスレイヴで爪の攻撃は弾き、弾けない蹴りは躱し、口内から発せられる音波攻撃はガードで最低限のダメージで処理する。

 これで3体目だ。謎の昆虫人間の襲撃に対してエイジは呼吸を乱すことなく、研ぎ澄ました集中力で相対する。

 狙うのはここぞという大振りの一撃。それを凌ぎ切った時……いいや、ベストな対応が出来た時、一気に戦いの流れを奪うことができる。

 巨体を浮遊させるには小型過ぎる2対の翅を震わせた周囲への音波による吹き飛ばし攻撃。狭い通路では対処に困る上に不可視であるが、攻撃の予備動作を見逃さなければ対処は容易だ。だが、注意しなければならないのはその後の突進攻撃だ。

 爪を交差させて相手を抉り開くような攻撃。刹那の狂いも許されぬタイミングで攻撃を重ねて弾く。昆虫人間の体勢が大きく崩れる。これまでの攻防で衝撃耐性を削られ、大技を弾かれたのだ。

 ダーインスレイヴによる喉を貫く一撃。≪両手剣≫の単発系EXソードスキル【ファースト・エッジ】だ。小さな踏み込みからの全体重を乗せた突きを浴びせるソードスキルであり、踏み込みの浅さからも攻撃リーチの伸びは≪両手剣≫のソードスキルでも最悪の部類であり、溜め動作も長めと普段使いは絶望的である。ただし、火力ブーストは極めて高く、スタミナ消費量もマイルドな部類であるので、使いどころさえ間違えなければ大ダメージを与えることができる。

 戦いの中で小刻みに与えたダメージも合わさり、黒い血を口と傷口から零しながら昆虫人間は倒れる。

 

「これで3体目か」

 

 1対1ならば倒すことは難しくない。だが、2体以上では対処し難い強さだ。エイジはダーインスレイヴを濡らす黒い血を払い除けながら、地下の闇を進む。

 不気味な研究施設が広がる地下に侵入したはいいが、人気が全くない。また、明らかにヤク漬けの低レベルプレイヤーは突如として獣魔化……それもレギオンのように同じ外観へと変化して襲い掛かってきた。幸いにも強さは大したことがないが、元の低レベルに比べればタフであり、攻撃力も高く、凶暴性も段違いだ。

 猿に似ているが、耳まで裂ける勢いで口は大きく、まるで肉食獣のように牙が並んでいた。あくまで猿に似ている印象を持つのは、2足歩行で毛むくじゃらであるからだ。

 少なくともレギオンではない。レギオン特有の触手も学習能力もないからだ。だが、放置していれば良からぬ危険性を発揮するかもしれないだろう。

 拉致された被害者を閉じ込めている監獄を探して当てたがもぬけの殻であり、地下へと連行されたという情報から後を追ってみれば、昆虫人間が闊歩する魔境である。

 情報収集は隠れ潜んで盗み聞きや単独行動を取っていた下っ端を締め上げて得たものであり、情報としては不確かだ。だが、実際に監獄が空っぽであったからには地下を目指すしかなかった。

 ともかく急がねばならない。ヴェノム=ヒュドラの所業を暴くのは二の次である。まずはユナの保護、次に脱出である。

 何処だ。何処にいる? 人気がない地下はいっそ不気味だった。これだけの研究施設でありながら、研究員も含めて誰も姿を見せない。昆虫人間ばかりが闊歩している。

 これだけ静かでは……いいや、そうでなくても名前を呼んで探すことはできない。歯痒さを堪えながらもエイジは人気のない、長く使われていない入り組んだ通路を進む。

 迷路のような構造……まさにダンジョンだ。この港要塞が元々はダンジョンだとは聞いていたが、下手に迷い込めば脱出は困難だろう。逆に言えば、いっそ大ギルドの攻撃が始まったならば逃げ込んで全てが終わるまで隠れ潜むのも1つの手段である。

 とはいえ、これだけ危険性の高い研究施設である。大ギルドは情報を得るだけ得たら爆破して処分もあり得る。生き埋めは避けねばならない。

 

(ライドウの情報を信用し過ぎるのは危険だが、大ギルドの攻撃はもう間近なはず。神父が想定していたよりも素早い対応……何かあったのか?)

 

 元より大ギルドの思惑も読め切れていない。ならばこそ、今の自分にできる行動を。エイジは消費したスタミナを回復させるべく移動スピードを落とそうとするが、否応なく足は速まるばかりだ。

 火災による混乱もいつまでも期待はできない。ユナを連れ出す好機は今しかないのだ。先を急いだエイジは途端に異臭を感じ取る。

 その部屋を満たすのは血という血。臓物という臓物。骨という骨。そして、恐怖という恐怖。

 どれだけのプレイヤーが犠牲になったかも分からぬ、まさしく血の海が広がっていた。1歩踏み入れれば血で波紋が生じる。

 肉片は天井にまで張り付いており、壁には自分たちの武器で刺し貫かれたように、著しく欠損した屍が磔にされていた。いや、様子から察するに、投擲された武器によって射抜かれ、そのまま串刺しにされて固定されたまま絶命したといったところだろう。

 

(まるで獣に襲われたように醜く荒い傷口と鋭利な刀剣の類による切断面。どんな奴に襲われたんだ?)

 

 部屋は決して広くもなければ狭くもない。どうやら、この部屋を進まなければ更に地下へと進むことはできないらしく、最深部を目指した研究員や護衛が待ち構えていた『なにか』によって文字通り皆殺しにされてしまったのだろう。

 およそ常軌を逸した、正気を奪い取る血と死によって満たされた光景。だが、エイジに動揺はなく、淡々と冷静に分析する思考が働いていた。

 

「ユナの遺体はないな」

 

 それだけ分かれば十分だ。数十体分の遺体を1つ1つ検分することは時間的に不可能であり、また本来の容姿も分からない程に損壊した者もいた。だが、少なくともエイジの目が付く範囲内では彼女の死体はなかった。

 ならば他の場所を探すだけだ。エイジが別の場所を探そうと移動を開始した時、血の香りが濃くなる。

 それは空気の動き。濃厚な血のニオイに満たされていたからこそ、鋭敏に嗅ぎ取れた変化。エイジは咄嗟に振り返りながらダーインスレイヴを振るう。

 

「ヒュー♪ やるじゃん!」

 

 相手はいっそ男と思う程のベリーショートの髪をした女だった。右手に持つのは肉厚のハルバードであり、全身は比較的軽装の革装備である。獣皮の腰巻など野性味の溢れる印象を与えた。

 ハルバードも金属製ではなく、まるで骨をベースに黒曜石のような鋭い鉱石によって殺傷能力を上昇させてある。

 ライドウとの訓練で五感をフルに活用する技術を身に着けていなければ、今の一撃で勝敗は決していた。業腹であるが、やはりライドウは師として優秀であると改めて証明される。

 

「あーあ、派手にやってくれちゃって。これ、アンタが殺したの? インテリ共もこうなったら形無しね。だから頭を働かせるより体を鍛えるのが先って常々警告してあげていたのに」

 

 仲間意識はないのか。エイジも人を言えた義理ではないが、この状況でも恐怖や憤怒よりも戦闘の昂揚を優先するなど頭のネジが外れているようである。

 

「さーて、お仕事お仕事。アンタもそこそこ強そうだけど、私の狙いは大物。アンタを殺った程度で手柄首にもならない」

 

「……だったら見逃していただけますか? 僕としても交戦する気はないのですが」

 

 エイジの全く期待していない要望に、ハルバートを片手で振り回していた女は友好的とも思える程に笑顔を咲かせる。

 瞬間に恐るべき速度の踏み込みで間合いを詰めた女がハルバードを振るう。咄嗟にガードし、大きな火花と共にエイジが押し飛ばされる。

 

「敵は殺す! それこそが私の存在意義! 私が【銀舌】様に与えられた使命! 私はアザゼル! 名乗りな!」

 

「…………」

 

「無名の剣士かい。だけど、その立派な剣……【銀舌】様に献上すればお喜びになっていただけそうだね!」

 

 アザゼルと名乗った女は異様なまでに好戦的な態度を見せたかと思えば、仲間たちの骸が散らばる部屋でもお構いなしに暴れ回る。

 エイジは足下の死体を蹴り上げる。血と死肉でアザゼルの視界を制限し、ハルバートの一閃を潜り抜けるとアザゼルとすれ違うようにして部屋から抜け出す。

 

「待ちな! ああ、もう! どうせなら私の進路に逃げな! こっちは地下に用があるんだよ!」

 

 お前の都合に付き合っていられるか。エイジは薄暗い通路を走り進み、中身の培養液が抜かれたカプセルが並んだ部屋に飛び込む。追いかけてきたアザゼルは大きく跳んでハルバードを振り下ろすがエイジは紙一重で躱す。ハルバードによって床に大きな傷が刻まれ、巻き込まれたパイプも割れて白い蒸気が噴き出し、両者の視界が同時に潰れる。

 このまま逃げ回ってはユナの救出は困難である。またハッキリと顔も見られた以上は始末を優先しなければ後々に禍根を残す。エイジは溢れた蒸気に困惑するアザゼルの背後を取り、頚椎を目掛けて刃を振り下ろす。

 だが、アザゼルは瞬時にハルバードを背中に回し、柄でエイジの斬撃をガードする。

 

「やるじゃん♪ いいねぇ! 強い男は嫌いじゃないよ!」

 

 あっさりと凌がれただけではなく、そのまま反撃の薙ぎ払いがエイジの腹を浅く裂く。ボディ・アーマーのお陰もあってダメージは最小限で済んだが、見た目通りの重量型であり、軽々と振り回しているが、掠っただけでも衝撃は大きかった。

 軽量防具でカバーしているが、STRに特化しているタイプ。スピード自体は決して大したものではない。だが、攻撃範囲の広さは厄介だ。エイジは戦術を切り替える。堅実にガードと弾きを狙っているだけでは勝てない相手である。

 

『雑魚君の主な戦法は2つ。堅実・慎重に敵の攻撃を弾いて隙を作り、強力な一撃を叩き込むか。アクロバティックな動きで敵を翻弄したトリッキーな攻撃か。どちらか片方に比重を高めるのではなく、最終的には融合を目指そうか』

 

 アザゼルは片手で重量型ハルバードを振り回す。ダーインスレイヴを超える間合いと破壊力の持ち主だ。安易に接近しても杖術と格闘術で潰されることは想定済み。ならばとエイジは初歩的な呪術、毒の霧を発動させる。口からレベル1の毒を蓄積させる紫色の霧をまき散らす呪術である。

 とはいえ、高レベル帯ともなれば、余程に弱点でもない限り、防具の性能も合わせてレベル1の毒など簡単には蓄積せず、与えられるダメージも心許ない。だが、プレッシャーをかけながら視界を奪うことはできる。

 まずはこれで陽動をかける。エイジの先手に対し、アザゼルはニッと凶暴に笑うとハルバードを振るう。瞬間にハルバートの刃を飾る黒曜石が飛来した。

 黒曜石に左肩を貫かれ、エイジは己の失敗を悟る。典型的なパワーファイターであるが、武器には能力が備わっていたのだ。相手が間合いに入ってこないならば、ハルバートを振るえば広範囲に黒曜石の散弾をばら撒ける能力で削る戦法なのだろう。

 

「我が【黒祖の斧槍】から易々と逃れられると思うな!」

 

 ハルバートを床に突き立て、力を込めてから振り上げれば、まるで弾き飛ばされた土砂の如く黒曜石が先程よりもスピードアップして放たれる。

 このままでは嬲り殺しだ。間合いを詰めようとすれば、それを待っていたとばかりにアザゼルはハルバードを振り下ろす。エイジは攻撃に攻撃を合わせ、力の流れをズラすように弾く。

 瞬間にアザゼルが小さく目を見開きながら距離を取る。

 

「……へぇ、こっちの体勢を崩すのが狙いってわけ。面白い戦い方するじゃん」

 

 エイジの戦法を即座に看破したアザゼルは手首を軽く回すと上等だと言わんばかりに接近する。

 攻撃を見極めろ。暴風のように繰り出されるアザゼルの攻撃にダーインスレイヴの刃を重ねる。だが、重量型ハルバートの一撃は重い。対処を誤れば手痛い一撃を受けるのはエイジの方である。

 弾く。弾く。防ぐ。弾く。躱す。弾く。弾く。防ぐ。思わず目で追ってしまいそうな連撃であるが、エイジはハルバードではなくアザゼル本人を含めて余すことなく全体視する。

 体を捩じりながら繰り出された回転斬りをガードして弾き、アザゼルの体が傾く。だが、これは誘い……フェイクだ。安易にソードスキルを発動して攻撃してはならない。斬り上げで応じれば、アザゼルは舌打ちしながら跳び下がる。だが、ダーインスレイヴの先端は赤い血で濡れていた。

 躱しきれなかったアザゼルの顏には傷が入っていた。必殺の一撃を狙わずとも顎から顔面を斬りにかかったエイジに、アザゼルは嬉々と口を歪める。

 

「いいねぇ! こんな殺意たっぷりな攻撃は久しぶりだ! 戦いはこうでないと面白くない!」

 

「…………」

 

「なんだい? その湿気たツラは。アンタも戦いを楽しみなよ!」

 

「元からこういう顔だ」

 

 今はユナが最優先だ。アザゼルの撃破は障害の排除以上の意味は持たない。エイジはダーインスレイヴを構え直す。

 

「戦いは面白いけど、つまらない男だねぇ。ウチの上司みたい!」

 

 アザゼルはハルバードを頭上で振り回すと大きく踏み込んで地響きを鳴らす。いかなる攻撃が来るのかとエイジは身構える。

 

 

 

 

 

 

 瞬間、世界は重々しい闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 アザゼルを中心にして闇が解き放たれる。世界から光が失われたように、だがアザゼルやエイジ自身、他にも床や実験機材といった物質はハッキリと視認できる。それ自体が発光しているかのように、今までと何ら変わることなく視界に捉えられる。だが、世界は確かに闇によって浸されていた。光は失われ、まるで体に重石がついたかのような感覚に襲われる。

 

「どうだい!? 息苦しいだろう!? これこそが深淵の力だ!」

 

 嬉々と笑うアザゼルがハルバートを振るえば黒曜石の散弾が放たれる。だが、先程とは違って黒ずんだ闇を纏っており、破壊力が上昇していた。それだけではない。ハルバード自体にも闇属性がエンチャントされたのか、禍々しくも重々しい闇が纏わりついていた。

 HPバーの下に表示されているアイコンはデバフの証。スタミナ消費量増加だ。プレイヤーのあらゆる行動にはスタミナ消費が伴う。このデバフは文字通り、スタミナの消費量を増加させるものだ。闇属性が持つスタミナ削り効果が形を変えて効果を発揮しているのだろう。

 体を重く感じるのはデバフの影響か。スタミナ消費量が増加したのだ。体を動かすにしても疲労感が増すのも当然である。エイジは思わぬ能力を披露したアザゼルを警戒する。広範囲のスタミナ消費増加デバフの付与と闇属性エンチャントと分かれば怖い物はない。

 だが、エイジは己の予想の甘さを痛感する。アザゼルはギアチェンジしたかのようにスピードアップして接近してきたのだ。ハルバードの突きがエイジの腹に突き刺さり、そのまま壁まで吹き飛ばす。

 壁に激突したエイジは口から血を零し、HPの損失を確認する。残存5割。かなり手痛いダメージを負ってしまった。傷口も浅くなく、流血のスリップダメージが生じる。オートヒーリングを持たないエイジでは急いで止血処置と回復アイテムによるHP補填が不可欠だ。

 闇属性エンチャントで攻撃力と衝撃を高めている。アザゼルは回復させる猶予を与えないとばかりに黒曜石を放つ。PvPにおいて回復における仕切り直しは難しい。回復行動そのものが大きな隙であり、また命取りになりかねないからだ。

 ならば攻める。黒曜石の散弾を弾きながら接近したエイジに、アザゼルはハルバードの薙ぎ払いで応じる。ギリギリで停止して間合い外で堪えたエイジに、アザゼルも1歩退いて鋭い突きを繰り出す。回避を誘い、そこに追撃の薙ぎ払いを襲わせるつもりなのだろう。

 だが、そうはさせない。エイジに対して安易な突きは命取りだ。一切の怯えなく、エイジはハルバードの先端を踏みつける。大きく前のめりになったアザゼルは唖然とし、だが振り払う。その間に間合い内に入ったエイジの斬撃がアザゼルの胴に喰らい付く。

 

「アハハハ! そうだ! それでいい! もっとだ! もっと私を楽しませろ!」

 

 だが、アザゼルは狂ったように笑うと左拳を突き出す。棘付きメリケンサックは格闘装具……アザゼルのもう1つの武器だろう。エイジが左腕でガードすれば、棘が肉に食い込む。

 この程度で動じはしない。このまま押し切る。ハルバートが最も脅威となる穂先を活かせる間合いは潰した今こそが攻め時だ。エイジが斬りかかろうとした瞬間、棘付きメリケンサックによって開けられた傷口が盛り上がる。

 一瞬、エイジは自分の肉が膨張しているのかと思ったが違う。傷口を防ぐ勢いで『増殖』しているのは黄金色の結晶体だ。それは輝きを高め、最高潮に達すると炸裂して黄金の雷を解き放つ。

 

「どうだい? 私の【竜伐の拳具】の味はよぉおおお! 病みつきになっちゃうだろう!?」

 

 一筋縄ではいかないか。安易に左腕で真っ向からガードしてしまった自分をエイジは呪う。

 だが、まだ左腕は死んでいない。流血ダメージも最小限だ。エイジは血で濁った青いコートを翻し、アザゼルの攻撃と相対する。

 

「ぜやぁああああ!」

 

 アザゼルの攻撃がさらに変化する。ハルバードに纏わりつく闇が巨大化し、攻撃範囲を広げたのだ。今までとは異なる間合いの攻撃に危うく命中しかけるが、エイジは瞬時に屈んで躱すことに成功する。

 これは何の能力だ? 複数の能力を備えた武器は運用こそ難しいが存在する。だが、エイジの見立てではハルバードの能力はあくまで黒曜石の散弾だけだ。メリケンサックもあくまで攻撃をダイレクトヒットさせた時に雷結晶を生み出して爆発させるものだろう。

 アザゼルはハルバードを使って高々と飛び上がると黒曜石の散弾をエイジに降らす。駆けて攻撃範囲外に逃れれば、今度はメリケンサックで床を抉りながら無差別と思える程に駆け回る。

 これは……! アザゼルのメリケンサックが抉り取った床には雷結晶が生じ、黄金の雷が次々と炸裂する。だが、黄金の雷がどれだけ爆ぜても闇は照らされない。あらゆる物質がハッキリと目に映りながらも闇に蝕まれた世界で、黄金の雷の眩さは一際目立つ。

 黄金の雷の爆発で動きが制限されたエイジに、アザゼルは体を捩じりながら飛び上がり、ハルバードによる袈裟斬りを繰り出した。だが、エイジは攻撃力が最大限に発揮されない内側に潜り込み、柄による強打を肩で受け止める。

 ここしかない。エイジが左手でばら撒いたのは【熱鉄の火薬】だ。教会からもらった炎属性攻撃の攻撃範囲を補佐するものである。火炎壺などと組みわせることによって攻撃範囲を広げることを目的としたアイテムだ。

 まき散らされた火薬に呑まれたアザゼルを前に、エイジが発動させるのは瞬く炎の武器。炎属性の瞬間的エンチャントを施す呪術でダーインスレイヴに炎を纏わせ、火薬を浴びたアザゼルを斬り払う。

 爆閃。火薬の爆発と炎を纏ったダーインスレイヴの斬撃を浴びたアザゼルは顔を歪めて大きく体勢を崩す。火薬は殺傷能力の強化以上に、光と音と衝撃を目的としている。五感を揺さぶられてSTR制御が鈍ったところに爆発の衝撃とは異なるダーインスレイヴの一閃は、アザゼルの体勢を崩すには十分だった。

 

「アハハハ! 楽しい……たのちぃいいいいいいい!」

 だが、アザゼルは笑う。体勢を崩しながらも反撃してくる。破れかぶれにも映る、だがエイジの頭部を狙った振り下ろし。

 今度こそ終わりだ。鋭く弾けば、アザゼルは立っていられずに膝をつく。己を支える体幹が折られたかのように、本人も信じられないといった様子で、だがこれだから戦いは楽しくてしょうがないと嬉々と涎をまき散らす。

 このまま【つらぬきの刃】で……いいや、さすがに溜めが長過ぎる。エイジは≪両手剣≫の単発系ソードスキルのファースト・エッジでアザゼルの喉を正確に刺し貫く。

 

「ぐびぃ……!?」

 

「チッ!」

 

 だが、仕留めきれない。喉から血が溢れるが、アザゼルはまだまだ倒れないとばかりに踏み止まる。だが、周囲を染め上げていた闇は霧散して元通りに戻った。とはいえ、元が光源不足であったが為に、物体が異様に浮かび上がっていた先程の方が幾分か視界も良かったとエイジは思わぬ差異に苛立つ。

 クリティカル部位に命中させた≪両手剣≫でも火力に秀でたソードスキル。比較的軽装ともなればこれまでのダメージも合わせて致命傷にもなり得たはずだ。だが、思いの外にアザゼルのHPは減っていない。3割未満でHPバーは黄色に変色しているが、それでも絶命まで追い込めなかったのはダーインスレイヴの火力不足か、それともアザゼルがVITに特にポイントを振っていたからか。

 

「アハハハ! マだ……マダ……!」

 

 降伏しろとは言わない。このまま殺しきる。一撃で殺せないならば、もう1度同じ手順を繰り返すまでだ。エイジもHPの残量は多くないが、ここで回復の為に退けば仕切り直しに持ち込まれる。アザゼルは戦闘狂であるが、引き際を心得ているならば撤退され、エイジの情報は拡散されてしまうかもしれなかった。そうなれば、たとえユナを連れ戻したとしても、ヴェノム=ヒュドラから延々と狙われ続けるだろう。

 

「アハハハ! アハハハ! アーハッハハハ……ゴフ、ゲフ……! いいねぇ! いいねぇええええ! 絶対に殺すって意気込みを感じるぅうううう! これだ! これこそが戦い! ああ、堪らない!」

 

 血の泡を吐きながらアザゼルはハルバードを振り回す。エイジを寄せ付けない連撃であるが、彼は敢えて間合いに踏み込んでいく。

 薙ぎ払いの一閃を弾き、即座に切り返して槍の石突でエイジの額を割らんとする。だが、エイジはアザゼルの背後に回り込みながら横腹を薙ぎ、瞬時に片手に構え直して≪片手剣≫の連撃系ソードスキル【フェイク・シャドウ】を発動させる。×印を描く高速の2連撃を放って瞬時に後ろに大きく下がる、火力ブーストこそ低いが、一撃離脱ならぬ連撃離脱のソードスキルである。

 ただし、エイジの邪剣ダーインスレイヴは≪両手剣≫としてのリーチと威力を持つ≪片手剣≫でもある。火力ブーストは低くともソードスキルだ。それも背中に受ければ、HPも減らしたアザゼルの死は免れない。

 だが、HPは削り切れない。いいや、ゼロになったかのように思えたHPが急速に回復したのだ。

 青い涙石の指輪や≪逆境≫スキルのように、HPが減る程に防御力・HP回復が増すスキルか装備を持っているのか!? 仕留めきれなかったことに驚いたエイジは、だが振り返ったアザゼルに更なる衝撃を受ける。

 アザゼルの両目に目玉はなかった。まるで亡者のように空洞によって……いいや、空洞を思わす闇によって塗り潰され、目の縁から闇を含んだ泥が涙のように零れていた。

 

「……スゴい! こレが……コレこそガ……深淵の指輪ノ……本当ノ……!」

 

 アザゼルが言葉を発する度に口から唾液の如く深淵の泥が吐き出される。

 

「アア……あア……消さナイと……『火』が眩シイよぉおおおお……眩しイよォおおオオおオおおオオおお!?」

 

 アザゼルは体を捩じり、ハルバードを豪快に振るう。その斬線を描くようにして放たれたのは闇の霊魂だ。闇術の追うものたちと同種のものだろうとエイジは察知する。弾速は遅いが追尾性の高い攻撃であり、エイジはセオリー通りに交差する形で躱そうとするが、アザゼルは待っていたとばかりに左拳を振るう。

 これまでは命中しなければ発動しなかった雷結晶であったが、まるで空間を殴りつけたかのように何もないエイジの正面に黄金の光を秘めた結晶が生じたかと思えば爆ぜる。顔面に直撃を受けたエイジは顔の皮膚が焦がされるのを感じる。

 再びアザゼルを中心に闇の空間が広がる。スタミナ消費増加のデバフによって体に重さを感じながら、エイジは先程までのアザゼルではないと実感する。

 まるで死体が強引に動かされているかのようにフラフラと動くアザゼルは、深淵の泥を撒き散らす。

 エイジの攻撃によってアザゼル自体は死んだ。そう……『死んだ』のだ。今ここにいるアザゼルは闇に満たされて動く屍のようだ。

 理屈は不明だ。だが、アザゼルは特異な闇の空間を発生させる能力を持っている。それが原因かもしれないが、何にしてもDBOでは何が起こってもおかしくないのは常識だ。

 

(1度で死なないなら2度殺せばいい)

 

 エイジは瞬時に頭を切り替える。アザゼルは幸いというべきか、動きに精彩が欠けている。だが、デーモン化のように皮膚は変質し始めていた。仮にデーモン化……いいや、獣魔化された場合は厄介である。

 

『雑魚君の武器は目の良さだ。過信すれば裏切られる。信頼しないならばお荷物。使いこなせ。強くなるならば、自分の才能だからこそ、裏切られないように飼いなして、徹底的に屈服させろ』

 

 ライドウの教えが反芻される。

 見える。追うものたちの如き闇の霊魂は追尾性と引き換えにスピードがない。自身が突っ込めば相対的に速度は上昇するが、エイジの目では位置も軌道も把握しきれている。

 アザゼルは闇の霊魂でエイジを動かし、躱したところに攻撃を叩きこむべく布石を打ったつもりだ。ならば裏を掻くのは常道である。

 斬る。エイジの迷いのない刃は闇の霊魂の中心部……命中判定を引き裂いて自壊させる。

 命中判定斬り。高等技術であり、成功はしても実戦で可能とする者は少数だ。武器やレベルではなく、純然たるプレイヤーの技量と精神力が要求される。アザゼルから放たれる闇の霊魂を続々と斬り捨てながらエイジは最短距離で一切の減速なく間合いを詰める。

 

「『火』ガ……!」

 

 深々とアザゼルを袈裟斬りにし、反撃のハルバードの振り下ろしを身を捻って躱して柄を踏みつけて体重をかける。エイジの重量と踏み込みが加算され、ハルバードの刃が床に突き刺さり、容易に抜けなくなる。即座にアザゼルはハルバードを手放してメリケンサックによる近接戦に切り替えたが彼女の視界にエイジはいない。

 ハルバードを足場にして跳んだエイジはアザゼルの背後を取り、心臓を刺し貫いた。アザゼルの口から黒ずんだ血が噴き出され、HPが削れる。だが、まだHPを奪いきれない。体内を満たす闇の泥が攻撃力を減衰させているのだ。

 

「『火』を……『火』ヲォオオオオオオオオ!」

 

「……うるさい」

 

 これでも足りないか。ならばとエイジはラーニングした【破砕の斧撃】を発動させる。アイアンゴーレムの片刃の斧がガラスのような半透明の姿で左手に出現し、質量のままにエイジは振り下ろす。

 だが、アザゼルは重々しい一撃を後ろに退いて躱す。ダーインスレイヴとは違い、斧の扱いに慣れておらず、またラーニングした能力であるが故に自由度の低い攻撃しかできないのだから実力者に通じないのは当然だ。

 そして、エイジも承知する弱点だからこそ『武器』にできる。破砕の斧撃の重量任せの振り下ろし。その勢いのままに遠心力を手に入れ、跳んで宙で身を捩じり、ダーインスレイヴの刃と斧撃を重ねる。

 一撃で届かぬならば二撃で殺す。【斧撃・重ね斬り】。【破砕の斧撃】とダーインスレイヴの斬撃をまともに頭部に受け、そのまま性質の異なる2つの刃はアザゼルの頭頂部から臍に至るまで切断していく。

 闇の侵食を受けた血と臓物と骨が飛び散る。これだけのアバター破損が生じるのはHPがゼロになるダメージを受けた時だけだ。

 

「『火』ヲ……『火』ヲ……消サナイトォオオオオオオオオオオ!」

 

 だが、まだ死なない。頭から臍まで真っ二つにされていながらも、双眸は闇の空洞となろうとも、アザゼルは死なずに、いや『死なせてもらえない』ように戦う!

 倒れろ。

 いい加減に死ね。

 早く先に進まないといけないんだ。

 多くの感情は最初から憎悪に塗り潰されている。だが、その先に収束するように見えたのは……ユナだった。

 もう聞こえるはずのない声で、ユナは何か言っている。今にも泣きだしそうな顔で、まるで咎めるように、エイジに何かを言っている。

 だが、聞こえない。何も聞こえない。聞こえるはずがない。彼女の声を奪ったのは他でもないエイジ自身なのだから。

 

「『火』ヲォオオオオオオオオオオオ!」

 

「うるさいんだよぉおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 アザゼルを蹴り飛ばし、真っ二つになった体を闇で引き寄せて繋げようとするアザゼルを包み込んだのは……火薬。

 

「『火』ヲ……ア……アァ……闇ノ時代ニ……栄光アレェエエエエエエエエエエエエエエ!」

 

 爆閃! ダーインスレイヴを瞬く炎の武器でエンチャントした炎属性付与の斬撃と火薬の相乗効果による高威力・高衝撃の一撃! まともに受けたアザゼルは斬撃と爆発で今度こそ爆散し、アザゼルが展開していた闇の空間もまた解除された。

 片膝をつき、エイジは息を荒げる。スタミナはまだ残っているが、アザゼルの生み出していた闇が負荷となり、言い知れぬ疲労感を蓄積させていた。

 強敵だった。アザゼルに何が起こったのかは定かではないが、遺体が残る仕様となったはずのDBOで、彼女の死骸は緩やかに闇となっていく。それだけで表現できないどす黒い不安が頭を過ぎる。

 エイジがアザゼルの散り行く遺体からハルバードとメリケンサックを奪い取る。使うかはともかく、素材にするにしても売るにしても困ることはない。奪うべきものを奪ったエイジは急いでこの場を離れようとする。

 だが、言語とは呼べない囁きが彼の足を止める。振り返れば、闇となって散っていくアザゼルの遺体の中で、どうして見落としていたのかもわからない程に存在感のある、闇を溶かしたような黒い指輪があった。

 一切の輝きも持たない、光を決して宿されない黒の指輪。エイジは指輪を手に取ろうとするが、視覚警告が暴発したように黒の指輪の存在感が異様に高まり、FNCが発症したかのように身動きが取れなくなる。

 ダーインスレイヴ……! エイジは心の中で邪剣の名を呼び、接続を深める。何とかFNCを和らげたエイジは改めて指輪を手に取った。

 深淵の指輪。それが与えられた名前だ。アイテムストレージに収納しようとしたエイジであるが、手のひらの上の指輪に異様な重みを感じ、またそれは脳を刺激する。

 これは何だ!? 指輪を握りしめたエイジは両目が破裂するのではないかと思える程の熱量を視界に感じる。やがて、それは逆流となって1つのビジョンを見せる。

 

 冷たい雪が降り積もった山脈。

 

 何処とも知れぬ朽ちた寺院。

 

 滅びを待つしかない牢獄。

 

 騎士が託した使命。

 

 戦い、死、戦い、死、戦い、死、死、死、死、死、戦い……死。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『火はいつか陰り、闇ばかりが残る』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで戦槌で殴りつけられたかのような衝撃で意識を引き戻されたエイジは、汗で濡れた顔を震わせて指輪を握りしめていた。

 今のは何だったのだ? エイジは改めて指輪を見つめるが、何も起こらない。だが、ダーインスレイヴはまるで炉に戻されたかのように、グローブ越しでもエイジの皮膚を焼いているかのように熱い。もちろん、それはただの幻だ。ダーインスレイヴは爆閃の余熱を宿しているが、柄を通してエイジに伝わるほどではない。

 アザゼルの狂戦士とも呼ぶべき言動だったが、死の間際は明らかにおかしかった。それまではヴェノム=ヒュドラ……いや、ヴェノム=ヒュドラの指導者に該当するだろう人物を信奉している様子だったが、異様な回復力と再生を見せた時には『火』を消すことばかりを口走っていた。

 DBOにおいて『火』は重要なキーワードだ。深淵の指輪をアイテムストレージに収納したエイジは、今は推測するべき時ではないとユナの捜索に戻る。

 

(体が重い……アイツの生み出した闇のせいか? スタミナを一気に使ったから、そのせいで疲労感も……)

 

 右目が熱い。溶けて崩れ落ちるのではないかと思う程だ。エイジは息荒く前進する。

 

「もっとだ……もっと『力』を……『力』を……」

 

 アザゼルは強かった。だが、ライドウは遥か高みにいる。【黒の剣士】もだ。足りない。まるで足りない。もっと『力』が必要なのだ。

 この程度で立ち止まるのか? 進め。這ってでも進め。

 

「もっと……もっと……まだ……まだ足りないんだ」

 

 右手に持つダーインスレイヴが重たい。剣先が何度も床に触れて火花が散る。エイジは誘われるように照明が点滅する通路を進む。

 探せ。見つけろ。連れ帰るんだ。ユナを……ユナを……ユナを……!

 酷い頭痛と嘔吐感が苛める。その度に拒絶反応のように右目は熱を籠もらせていく。

 頭の中で巡るのは憎しみの炎の海で飛沫のように散る過去の記憶。思い出すべきことは幾らでもあるはずなのに、その全てがユナと共有した時間だ。

 思い出す度に虚しい程に胸は空っぽになって、その度に満たすように憎しみが注がれ、ユナとの思い出が真っ黒に塗り潰されていく。

 それでも、それでも、それでも……エイジは思い出す中で何かを手繰り寄せるようにして、ユナは必ず生きていると信じて進み続ける。

 瞬間に『違和感』が聞こえた。

 余りにも静寂過ぎる要塞の地下。エイジが引きずるダーインスレイヴの甲高い音だけが不気味な程に響いていた。

 だが、『消える』。散る火花の輝きは変わらず、音だけが失われる。

 瞬間にエイジは視界を探り、敵影がないと判断すると反転した。

 鋭い爪を今まさにエイジの急所に貫こうとしていたのはまたしても昆虫人間だ。だが、今度は常時浮遊しており、素早く、なおかつ周囲を完全無音にする能力を有しているのだろう。ダーインスレイヴでガードして大きな火花が散っても無音が空間を満たす。

 奇襲……暗殺に特化されているのか!? エイジは続く連撃を弾き、ダーインスレイヴの斬り上げに繋げるも、昆虫人間は紙一重で躱す。アザゼル戦の疲労が抜けきっていないエイジの攻撃は精彩が欠けていた。

 いいや、それだけではない。頭痛が秒単位で大きくなり、気道が潰れるのではないかと思う程に痙攣が胃からせり上がり、その度に右目が燃えているかのような熱を帯びる。悪循環がエイジの体力を奪っていく。

 ダーインスレイヴを使い続けた反動か? エイジは徐々に昆虫人間に追い詰められていく。強烈なエルボーが鳩尾に入り、壁に叩きつけられ、鋭い刃が備わった蹴りが頸部に命中する間際にダーインスレイヴを差し込んで防ぐ。

 負けて堪るか。負けて堪るか! まだだ! まだ負けていない! エイジは歯を食い縛り、無音の世界でダーインスレイヴを強引に振り抜いて昆虫人間を押し飛ばす。

 距離を詰めさせない。スピードは上回っていると判断した昆虫人間が後退するも、それを見越したエイジはダーインスレイヴを投擲する。鋭利な剣先は昆虫人間の右複眼に命中し、僅かに鈍らせる。

 

「――――!」

 

 自分が何を喋っているかもわからない。憎悪と闘争心が1つに結び付き、もはや醜い咆哮しか零れていないのかもしれない。

 ダーインスレイヴを失った分だけ身軽になったエイジは僅かな怯みを最大限に利用して昆虫人間の背後を取り、その首を両腕でロックして絞め上げる。

 昆虫人間はエイジの意図を悟ったのだろう。飛行できるメリットを最大限に活かして飛び回り、何度も何度もエイジを振り落とそうと壁に衝突する。その度にエイジは全身を強打し、昆虫人間の首を絞める腕が緩みそうになる。

 如何に他の部位に比べれば脆いだろう首であろうとも、強固な外殻を持つ昆虫人間に絞め技だけでは倒しきれない! エイジは次の叩きつけを両足で先に壁を捉えて踏ん張り、昆虫人間の機動力を支える、高速運動する翅の付け根を掴む。

 指の肉が削げかねない程の衝撃。だが、エイジは構わずに付け根を掴み、STRを全開にする。

 無音世界で叫び声を昆虫人間はあげただろう。右翅を引き千切られ、黒い体液が飛び散る。

 今度は首だ! エイジは昆虫人間の背後から掴みかかり、絞めるのではなく、全力で首を捩じる。だが、昆虫人間の抵抗も激しく、健在の両足で駆け回って何度もエイジを壁にぶつけ、また首を捩じ切らんとするエイジの腕に噛み付く。

 昆虫人間の縦割りの顎が肉に食い込む。だが、ならばとばかりにエイジは腕を余計に顎に押し込んで、肉ではなく骨にまで顎を到達させる。表面の肉ならば食い千切られるかもしれないが、骨ならば砕かれるまで時間を稼げる。

 ぶつけられる度に、噛み付かれ続ける毎に、エイジのHPはじわじわと減っていく。持久戦? いいや、違う。エイジが首を捩じ切らんとSTRを発揮する程に昆虫人間のHPは減っていく。HPが減る速度は昆虫人間の方が上だ。このままのペースならば昆虫人間が先に死ぬ。

 昆虫人間の首の外殻に亀裂が入り始める。いよいよ余裕などなくなった昆虫人間は必死になってエイジを振り払おうとし、割れたカプセルと怪しい青い光で充満した研究室に入り込む。無数のパイプやケーブルが露出した空間は無人であり、昆虫人間を援護する者はいない。

 いいや、違う。昆虫人間の狙いはカプセルだ。エイジをカプセルに何度も叩きつけて砕き、更に押し込んで割れたカプセルの鋭利な先端を彼の背中に押し込む。エイジのHP減少スピードが今度は上回り、死に追いやられる。

 馬鹿が! エイジは禍々しく笑い、次の押し込みの瞬間を狙って自分の足を昆虫人間の足に搦める。そのまま体重と力を込めて全身を捩じり、昆虫人間と自分の位置をひっくり返し、逆に昆虫人間を破損したカプセルの断面に押し込む。

 強固な外殻を持つ昆虫人間には効果などない……かに思われたが、エイジの狙いは別にある。瞬時に昆虫人間の後頭部に頭突きをして、昆虫人間の顔面をカプセルの底に叩きつける。即ち突き刺さったままのダーインスレイヴはより深く押し込まれ、ダメージが増加する!

 暴れ回る昆虫人間の首を更に捩じる。いよいよ90度を超え、昆虫人間のHPが赤く点滅する。

 瞬間にエイジは自分の口角が嬉々と上向いていることに気づき、そして割れたカプセルの破片に映り込む自身の右目を見た。見てしまった。

 白目の部位は赤く染まり、瞳は輪郭が蕩けて崩れ、色は醜く黄ばんでいた。まるで人間の汚泥を満たしたような赤い血に浮かぶ、腐り果てた月のように。

 レギオン化の兆候? いいや、これはそんな上等なものではない。ダーインスレイヴとの無理な接続の末に、レギオンにすらなり損なった、名前を与えられる価値もない形骸の瞳だ。

 これがお前の求めたものであり、求める先に待つものだ。今と未来を啓示されたような一瞬だった。

 

 その一瞬にあったのが迷いだったならば、エイジは昆虫人間の容赦のない反撃によって死に至っていただろう。

 

 

 だが、赤く染まった白目に座する醜く黄ばんで蕩けた瞳が見たのは……一瞬の中で映し込んだのは……もう何も感じることもないユナの笑顔だけだった。

 

 

 もっと『力』を! エイジはライドウに教わった通りに呼吸を整え、脳とリンクさせるイメージを構築させる。

 

『人間が肉体の潜在能力を解き放つ最も基本的な方法は「呼吸」。武道だろうとスポーツだろうと何だろうと、呼吸を制する者こそが頂点に至ることが許される。全身の緊張を解き、神経を研ぎ澄まし、集中力の純度を高める。仮想世界でも同じだよ。俺達の今の体は明確に「酸素」を要求していない。だが、こうして呼吸をする。無呼吸だとHPが減って窒息状態になって死ぬから? 違う。俺達の肉体は、脳は、意識は……「呼吸」によって維持されているからだ』

 

 ライドウは手取り足取り教えない。彼はただ『構え』を取り、文字通り世界を置き去りにする拳でトレーニング用の廃材を粉砕してみせただけだ。

 

『高出力化にお上品な理屈も知識も要らない。「開く」だけだ。肉体の潜在能力を解き放つスイッチ。呼吸は最も「開く」のに適した所作だ』

 

 深く、深く、深く息を吸い込む。仮想世界の酸素を現実の肉体に巡らせるように。高濃度に圧縮した酸素を脳の奥底で燻る潜在能力に着火させるように!

 STR出力が上昇していく! エイジは獰猛に牙を剥き、無音世界で絶叫を上げる昆虫人間の首に最後の負荷をかけていく!

 同じくこのまま死ぬものかと昆虫人間が無造作に腕を振るい、鋭利な爪がエイジの右目に突き刺さる。

 右目を潰され、そのままじわじわと押し込まれていく。間際に迫った死がFNCを発症させようとするが、エイジは最後の駄目押しだとばかりにダーインスレイヴとのリンクを最大にまで引き上げる。

 脳神経が焼き切れるような感覚。自分自身を見失いかねない程の、憎悪と結びついた闘争心の爆発。エイジは無音世界で喉が裂けんばかりに咆える。

 

 

 

 

 

 今度こそ、昆虫人間の首は捩じ切れた。

 

 

 

 

 

 醜い首の断面から黒い血が飛び散り、エイジは昆虫人間の顎が深く食い込んだ腕から引き離し、分離された頭部を投げ捨てた。

 倒した。コツを掴んだステータスの高出力化だが、達成感はない。

 頭を埋め尽くすのは更なる『力』を渇望する憎悪……そして、憎悪の矛先でもあるユナを連れ帰るという目的だけだ。

 まだ負けていない。まだ……まだ……まだ! エイジはダーインスレイヴを再装備して、再び押し寄せる頭痛に片膝をつく。

 

「ユナ……ユナ……ユナ! 今……今……行く……もうすぐ……必ず……!」

 

 自分は何でこんな『どうでもいい』ことを繰り返している? 何も感じないくせに。何の感情も湧き上がって来ないくせに。

 まるで染みついた癖のように。繰り返すことに何か意味を持たせるように。何故?

 連戦の疲労と呼吸を起点としてステータスの高出力化を『開門』する技術の会得、ダーインスレイヴとの高密度のリンクによる負荷。そして、右目の異常。

 それでも、エイジはほとんど無呼吸に近い状態で、だが震える足で、頭痛と眩暈で今にも倒れそうな体で立ち上がろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、エイジの形を残した左の瞳が映し込んだのは、研究室の前を横切る2つの人影……【黒の剣士】に手を引かれていくユナの姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昆虫人間の無音能力は既に解除されていた。

 

 ユナはエイジに一瞥もくれなかった。

 

 ユナはエイジに気付くことはなかった。

 

 ユナはエイジなどまるで必要とすることなどなかった。

 

 エイジの視界の中で、ただ通り過ぎて……去っていった。

 

「ああ……そうか」

 

 昔からそうだった。

 ユナにとって、エイジはいつだって必要な存在ではなかった。

 いつだって隣にいたのは、エイジが幼馴染だったからに過ぎない。『ただの幼馴染』だから、彼女は気にかけてくれていただけだ。

 

「そう……か」

 

 ユナを連れて行った【黒の剣士】。彼はまさに英雄だ。

 まるでお姫様を守る騎士のように。ピンチに駆け付けることができるヒーローのように。【黒の剣士】はユナを守ることができた。彼ならば、きっと救い出せるだろう。この地獄からユナを連れ帰ってくれるだろう。

 最初から何もかもが無駄だった。そうだ。当たり前だ。ペイラーの記憶の時と同じだ。自分は何の役にも立たない。

 リスクを背負ってでもエドガーに取引を持ち掛けて、教会の暗部……水銀の槍になったところで、何の意味もなかった。

 ライドウに頭を下げてエバーライフ・コールの協力を得たところで、何の意味もなかった。

 ここに至るまでに倒した敵の数々にも、ようやく身に着けた『力』にも、何の意味もなかった。

 ユナを救うには……何の意味もなかったのだ。エイジが何をしようとも、ユナは助けられていて、『英雄』に手を引かれて帰還を果していたのだ。

 

 無意味。

 

 無意味。

 

 無意味。

 

 何もかもが無意味であるとエイジは戦闘と傷がもたらす精神の昂ぶりに冷水を浴びたように意識を凍らせていく。

 

「ユ……ナ……」

 

 だから、エイジは静かに拳を握り、全身を満たす憎悪のままに、あらゆる思考の堰が疲労で押し流れて、虚無にも等しく胸よりこみ上げる言葉を唱えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無事で……良かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この闘争も、憎悪も、虚無さえも……ユナには無関係だ。全て、全て、全て……! 何1つとして彼女に背負わせるものではないのだから。

 

 これでいい。

 

 これでいい。

 

 これでいいのだ。ユナは『無関係』なのだ。エイジが進むべき道をユナは決して認めず、必ず否定するだろうと言う確信があるからこそ、これでいいと改めて胸に刻み付けることができた。

 ならば求めるものは変わらない。憎しみがもたらす渇望のままに、憎しみが求める闘争のままに、憎しみが感じさせる虚無のままに、這って這って這って這い続けてでも前に進み、更なる『力』を得るだけだ。

 

「行くぞ、ダーインスレイヴ……!」

 

 エイジは血だらけの左手で顔を覆い、右手のダーインスレイヴを改めて強く握りしめ、呼吸を重ねて再び歩き出す。

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 ああ、今回ばかりはツキがない。ロザリアは砦の地下最深部まで行く道中にて、多量の死骸と血肉の海を発見した。

 誰が殺したのか? 言うまでもない。【渡り鳥】だ。文字通りの皆殺しである。武装した戦闘員だけではなく、残虐な実験に手を染めていたとはいえ、研究員といった非戦闘員の見境もない。

 とはいえ、区別ない殺戮自体にはロザリアも驚きはない。【渡り鳥】の戦地での判断基準は敵か『敵ではない』のどちらかだ。断じて『味方』や『仲間』といった曖昧な判断基準ではない。彼自身は自覚しているのかしていないのか、殺傷対象の基準点はあくまで『敵』という1点において定められている。もちろん、これはロザリアではなくPoHの分析である。

 

『「敵」すらもアイツからすれば異物にも近い不要な判断基準なんだがな。だが、少なくとも「今」は間違いない』

 

 女子供や武装の有無に重きは置かない。『敵』ならば一切の容赦ない。実に分かりやすい。ロザリアからすれば身震いする残虐性であるが、夥しい死に満ちた殺戮の跡地には何処となく無垢とも呼べるほどの神秘を感じずにはいられない。

 

「だから……殺しておくべきだったのだ」

 

 仲間たちの死に憤りを感じているのか、それとも強引でも【渡り鳥】の毒殺を敢行しなかった己を責めているのか。ハリデルは束ねた黒髪を微かに揺らし、血と臓物に満ちた空間に踏み入れる。

 この様子だとハリデルが派遣した部下……アザゼルも死亡しているだろう。純粋な戦闘能力に限定であるが、ハリデルも評価しているようであるが、聖剣と心意のフルブーストをかけた【黒の剣士】でも倒せず、あのランスロットすらも殺しきった、文字通りのバケモノである【渡り鳥】と単独で遭遇して勝てるとは思えない。

 

「ど、どうする!? もしも【渡り鳥】が潜んでいるならば、地上に戻った方が安全ではないのか!?」

 

「同意見よ。貴方もトッププレイヤー級に腕は立つみたいだけど、【渡り鳥】を相手にするには実力不足。戦力がまるで足りないわ。まだ、海上ルートから脱出を目指した方が生存はあり得るわ」

 

 ミッドナイトとロザリアの意見にハリデルは数秒だけ足を止めるが、覚悟を決めた表情で振り返る。

 

「アザゼルの生存が絶望的である以上、ヴェノム=ヒュドラの未来を繋ぐ為にもマム=2は何としても処分しなければなりません。地の利はこちらにあります。【渡り鳥】が最深部を目指しているならば、今ここで急がねば先回りは間に合いません」

 

「生きてこその物種よ。貴方が護衛してくれないとミッドナイトさんの生存は絶望的のはず。彼の護衛を放棄してまで処分を優先しなければならないマム=2とは何なのかしら?」

 

 正直に言えば、ヴェノム=ヒュドラが何を企んでいて、何を開発していようとも、レギオン陣営に属するロザリアからすれば興味の欠片もない……はずだった。

 だが、今は違う。ヴェノム=ヒュドラの規模もそうであるが、ハリデルのような実力者がヴェノム=ヒュドラに属する理由がまるで見えてこない。加えて、昆虫人間を筆頭とした技術力の高さには不気味さが目立つ。

 ヴェノム=ヒュドラはマザー・レギオンが見下ろす盤上に並ぶ駒なのか否か。ここで持ち帰る情報次第では大きな『加点』が望めるのだ。ロザリアは出世欲を燃やし、ルージュで染まった唇を思わず舐めそうになる。

 

「……ミッドナイト様、生存を優先するからこそマム=2の処分を優先するのです。仮にマム=2が大ギルドに押さえられたら失態の全てをミッドナイト様が背負うことになるでしょう。たとえ、大ギルドに保護を求めたとしても、【銀舌】様は決して見逃すことはありません」

 

「た、確かに……! だが、あの【渡り鳥】だぞ!? 出会えば……!」

 

「私が『囮』になります。当初の足場崩しには火力が足りませんが、マム=2には自爆装置が組み込まれています。ミッドナイト様が自爆コードを入力されれば、最低限の責務を果たしたと【銀舌】様もお認めになられるはず」

 

 これほどの男が死を覚悟してでも責務を全うしようとする。【銀舌】はただの犯罪ギルドのリーダーなどではないようだ。高いカリスマ性はもちろんのこと、これだけの大組織を率いるに足る『何か』があるのだろう。

 ハリデルの説得にミッドナイトも覚悟を決めた面持ちだった。そうなると問題はロザリアだ。部外者である自分はここでサヨナラをしたいところであるが、ここで下手に背中を見せれば、リスクマネジメントだとばかりにハリデルに背中をバッサリとやられかねない。ロザリアの目算であるが、彼の実力は自分を上回る。レギオン・アーマーも使役モンスターもいない彼女では勝ち目ゼロである。

 

「大した忠義じゃない。気に入ったわ。貴方ほどではないにしても私も腕には覚えがあるわ。ミッドナイトさんが無事に職務を全うして逃げきるまでの護衛をしてあげるわ。ここで恩を売っておいた方が、【銀舌】さんとも良い取引もできるでしょうしね」

 

「…………」

 

 ハリデルは睨みながら右手を微かに動かし、ロザリアは不敵の表情の裏で今にも零れそうな涙を堪える。

 演技……演技よ、ロザリア! 自身を鼓舞し、ここで何としても生き延び、あわよくば情報を持ち帰って点数稼ぎを目論む! まるで信用できないけどPoHの救援もあり得る。ならば、ここは1秒でも生存時間を稼げる選択をするしかないのだ!

 

「……良いだろう」

 

 ハリデルとしては裏切りのリスクを考慮してロザリアをこの場で殺害する選択肢もあったはずだ。だが、彼女は勝ち取った。彼女のもたらした利益と港要塞での言動が最低限のラインまでハリデルの信用を稼いでいたのだ。

 血だらけの部屋の奥にある、脱出路でもある転移ポイントがある地下へと続く階段。ハリデルの先導で進み、僅かな照明が照らす更なる地下へと繋がる複数の階段と昇降機を見つける。

 昇降機の内部には下顎から股にかけてまでの肉を削ぎ落とされ、肋骨と内臓が零れ出た研究員の遺体があった。ただ殺害されたのではない。拷問されたのだ。持つ情報の全ては引き出されたと見て間違いないだろう。

 下顎が無いにもかかわらず、絶望の底で死と同一化した絶頂を味わったような、恍惚にも似た恐怖で歪み尽くされた表情の遺体に、ミッドナイトはともかく、ハリデルすらも脂汗を滲ませる。

 

「ひぃ……ひぃいいい……!」

 

「この昇降機ではマム=2が保管された最深部までいけません。ですが、マム=2の情報は引き抜かれたと見て間違いないでしょう。ミッドナイト様、後はお任せしました。私が時を稼ぎます。生きてお会いできること……楽しみにしております」

 

 ハリデルは派手に足音を立て、【渡り鳥】を誘き出すべく階段を駆け下りる。一方のミッドナイトは昇降機の横にある目立たない細階段を下りていく。正規ルート……というよりも近道なのだろう。

 後は時間の勝負だ。ミッドナイトは頼りない背中ながらも、命懸けで援護してくれているハリデルの決意を受け取ったためか、足取りに迷いはなかった。

 およそ無能に近しい、【銀舌】に対する忠誠心だけが評価されているだろう男。だが、無能であるが故に有能な部下に仕事を割り振る調整弁でもあっただろう。

 しかし、大爆発から始まり、港要塞の陥落が間近に迫り、研究員を惨殺され、最も重要な機密すらも大ギルドの手に落ちかねない苦境で、部下が命懸けの時間稼ぎに出たことで、彼の中に1本の通った精神が宿ったのだろう。

 

「私は……部下に報いねばならんな」

 

「そんな義務なんてないわ。所詮は誰もが我が身可愛さで裏切るものよ。特に抗いようのない絶望と恐怖に遭遇すればね」

 

「……そうだな。そうかもしれないが、ハリデルは強い。私が責務を果たす時間は必ず稼いでくれる……はずだ」

 

「相手はあの【渡り鳥】。過度な期待はしない方がいいわ。まぁ、防戦に回れば1分か2分は稼げるかもしれないけど……」

 

 ああ、嫌だ。ロザリアは鼻がムズムズして堪らなかった。

 ロザリアは自分の幸福こそが最優先の女である。だからこそ、裏切ることに躊躇いはなかった。あらゆる陣営を渡り歩いて、その報いのようにレギオン陣営に縛り付けられて、それでも自分の幸福の為ならばあらゆる努力を惜しまない。自らの快楽こそが重要であり、その為の地位と財産と権力を得ることに余念がないだけだ。

 ロザリアには理解できない。大儀を掲げ、信念を燃やし、自らを死地に追いやってもなお求めるものは己の幸福などではない存在をまるで理解できない。

 だからこそ、衝撃は大きかった。スケールに違いこそあっても、自分と同じタイプだと思っていたPoHが、その実は思想に殉じることを是とするなど信じられるはずがなかった。

 自らの信念の敗北に涙を流し、ロザリアの言葉を受けて奮い立ち、己の在り方を見直して変化する努力を重ねてでも、届かねばならない『何か』がある。ここ最近のPoHを見る度に、ロザリアは自分という存在を振り返る。

 ロザリアは思想や信念の下で死ぬことを是としない。今でも心底から愚かしいと嗤える自信がある。道半ばで倒れることになるとしても歩き進もうとする彼らには反吐すら出る。羨望などまるで覚えない。

 その一方で、確かな眩しさを覚えるのだ。自分とは異なる道を進む彼らは何処に至るのだろうかと追いつきたいと思わない背中に輝きを見るのだ。

 自分は嗤うのだろう。目指した頂に辿り着けず、死して腐り果てる彼らの遺骸に唾を吐きつける程に大笑いするのだろう。

 だが、自分が少しでも興味を持った相手ならば、多少なりとも酒を交わして語り合えた仲ならば、墓標を立てて1輪の花を捧げるのも吝かではない。そうして弔うことで、自分の『幸福』が守られるのだから。

 ミッドナイトはクズにしてゴミだ。ヴェノム=ヒュドラの悪行と非道はロザリアも知っているが、処刑台こそが相応しい。責務の達成に燃えるミッドナイトも同類であり、彼もまた断頭台こそが死に場所であると善人は叫ぶだろう。

 だから何だ? ロザリアは嗤うだろう。糞に満ち満ちた汚泥であろうとも花は咲く。悪徳の名を冠するとしても花は咲くのだ。

 ああ、嫌になる。これもPoHの心変わりのせいだ。いいや、自分が思っているよりもずっと、ずっと、ずっと、真っ直ぐに志した意思を宿していたからだ。

 

「やり遂げる手助け……してあげられるかしらね」

 

 さっさとPoHには助けてほしいけど。ロザリアは細い通路や階段を進みながら、こんな場所では彼らもすぐには見つけられないかと苦笑する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ……ああ……ああ! 素晴らしいです! 本当に逃げずに来たんですね! やはり悪であろうとも『人の意思』は存在するんですね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、心底から後悔した。やはり、ハリデルに背中を狙われる危険を承知でも地上を目指すルートに切り替えるべきだった。

 清廉にして妖艶にして可憐にして美麗。純白であったはずの教会服も髪も今や血塗れで汚れているというのに、それすらも化粧として成立する、まさしく殺戮の渦中……地獄という表現すらも生ぬるい戦場こそが居場所といわんばかりの存在。

 10代半ばにしか見えない、まだまだ幼さが濃い容貌は無垢なる狂笑を飾る。不気味な青い光が薄く照らす地の底で、およそ正体もつかめぬ巨大な肉の球体の傍らで踊り狂う。

 

「今日は最悪の夜だと思っていたのに、最後の最後でちゃんと『人』の輝きを見ることができました。オレ……すごく嬉しいです♪」

 

 まるで大切な宝物のように、血染めの死天使が愛おしそうに抱きしめているのは丸い何か。それは見覚えのある束ねられた黒髪を備えていた。

 ハリデルの頭部だ。額の中心部には刀剣の類に串刺しにされただろう穴が開いていた。虚ろな双眸は何を映すこともなく、死に染め上げられている。だが、最後まで勇敢に戦った証のように、多くの犠牲者がそうであるような、恐怖で歪められた表情で死に化粧がされていなかった。

 

「この人……凄かったんです。最初にですね、後ろから右腕を抉り取ったんです。あと、右足も。本当は一撃で心臓と頭部を破壊するつもりでした。でも、オレが何処から攻撃してくるか分からないから、挑発していたからこそ、ダメージは避けられないと分かってカウンターを狙ったんです。本当に……本当にすごかった。あともう少しで首に届いていました」

 

 嬉々と、まるで英雄譚でも語り聞かせるように死天使はハリデルの死に様を……いいや、生き様を口にする。

 

「しかもそれだけじゃないんです! えーと……≪円剣≫でしたよね? カウンターが回避されて、自分の頭がカタナで串刺しにされる中でも正確に操作して、俺を四方八方から狙ってきました! 死は逃れらない状況で、迷わず相討ちに切り替えたんです! とても綺麗な殺意の乗った攻撃で、氷雪の大鎌で『全て迎撃』した後に勢い余ってこの人の首を落としてしまいました。ああ……本当に素敵な殺し合いだった♪」

 

 うっとりとハリデルの戦いぶりを評価した死天使は子どもがもらったぬいぐるみを抱きしめるようにハリデルの頭に頬擦りする。

 バケモノだ。ロザリアは過去かつてない程におぞましいまでに無垢なる殺意を溢れさせる死天使に……【渡り鳥】に恐怖する。これまで彼女が見てきた【渡り鳥】とは決定的に『何か』が違う。致命的に『何か』が壊れてしまっている。

 そして、戦闘能力もやはり桁違いだ。語りの通りならば、ハリデルは奇襲を防ぎきれないと判断し、ギリギリで何とか致命傷を免れ、VITが低い【渡り鳥】にカウンターを決める以外に勝ち目はないと判断したのだろう。

 最初の攻撃で片腕・片足を奪われながらも反撃に出て、だが躱され、次なる攻撃で自分の命が絶たれると判断してチャクラムによる全方位攻撃で道連れにしようとした。だが、それすらも【渡り鳥】は冷気の大鎌によってハリデルの殺害と並行しながら迎撃し、そのまま彼の首を更に切断したのだ。

 称賛こそしているが、土俵にすら立たせてもらえていない。【渡り鳥】は完全無傷で一方的にハリデルを殺害しただけだ。しかも彼の戦いは時間稼ぎにもならなかった。【渡り鳥】は彼の行動から最深部に別動隊を向かわせることが狙いであると読み取り、こうして先回りして待ち伏せされたのだから。むしろ、ハリデルは時間稼ぎどころか時間売りをしたようなものである。

 暗殺に徹された場合、誰にも手は負えない。だからこそ、大ギルドも彼を支援する黄金林檎も含めて大っぴらに手出しはしない。ロザリアは大ギルドが真の意味で【渡り鳥】の『処分』に躊躇する理由を改めて目の当たりにする。

 

「さぁ、踊りましょう? まだまだ『夜』は続くのだから!」

 

 そして、【渡り鳥】の背中から異形の片翼が生える。白木を骨格とし、纏わりついた緋血によって形成された、獣の顎とも見紛う程に禍々しい翼だ。

 この世に大馬鹿者がいるとするならば、よりにもよって【渡り鳥】にあんなイカレた装備を与えた奴だ。ロザリアは放心も許されない状況で、どうやって生き延びたものだろうかと思案する。

 瞬間に薄闇の中で【渡り鳥】の頭上で翻る影をロザリアは目視する。

 落下で威力を高めた一閃。完全に決まったはずの奇襲だった。だが、【渡り鳥】はまるで未来を見ていたかのようにサイドステップで躱し、緋翼を変形させて攻撃を仕掛けようとするが、続く轟音を翼を広げてガードする。

 ポンチョで顔を隠した男……PoHだ。宣言通り、ロザリアの窮地に駆け付けたPoHは右手の愛用の肉断ち包丁の奇襲を回避されることを読んだ、左手の重ショットガンで【渡り鳥】を引き離す。

 低VIT型・軽量防具の【渡り鳥】にとって至近距離では密集して高ダメージ・高衝撃、距離を離しても範囲攻撃による削りが見込めるショットガンは毒と同じくステータス・装備構成上の弱点である。

 だが、ロザリアが毒について言及したように、弱点だからこそ補強し、むしろ武器に変えるのは常だ。【渡り鳥】は嬉々と笑い、緋翼で受け止め、逆に緋血で侵食する。そして、怪物が顎を開くように翼を変形させると逆に散弾として吐き出す。

 これにはPoHも予想外だったのか、咄嗟に肉断ち包丁によってガードするも、守り切れなかった肩や足に着弾する。緋血に蝕まれた銃弾によって予想外の威力を発揮したようであるが、PoHは難なく堪え抜く。

 

「クヒャヒャヒャ!」

 

 だが、そうしている間にも暗がりの中に溶けるようにして消えた【渡り鳥】の狂笑と激しく動き回る物音が不気味に響く。

 実力はトッププレイヤーの域にこそ達していないが、場数は踏んでいるロザリアはこれが恐怖を煽る攪乱であると察知する。【渡り鳥】がわざわざ自分の居場所をアピールするような真似をするはずがない。反響する笑い声と物音で位置を誤認させ、迎撃に備える方向を惑わせているのだ。

 PoHも承知しているからこそ、ガードの構えを取ったまま動かない。ロザリアはミッドナイトと背中を守り合おうとして、だが彼が巨大な肉塊に駆けていることに気づく。煽られた恐怖に『抗う』からこそ、自らの責務の遂行の意思を示したのだ。

 瞬間にミッドナイトがまるで磁石に引き寄せられたかのように右へと吹き飛ぶ。

 何が起こった!? 動けないロザリアは途端に背中を何かに突き刺さり、後ろに引っ張られる。

 投げナイフだ。ワイヤーと柄が接続された投げナイフがロザリアの背中を突き刺したのだ。更に突き刺さった投げナイフは肉の内側で変形し、アンカーのように刃を食い込ませる。ミッドナイトも吹き飛ばされたのではなく、この投げナイフによって引っ張られたのだ。

 

「こん……の!」

 

 ロザリアは投げナイフを引き抜こうとするが肩甲骨と脊椎の隙間を正確に貫いた投げナイフは深く、手を回して抜けない。ならばワイヤーを引き抜こうとするが、それより先に彼女の頭上より何かが落ちる。

 それは悲鳴を上げる暇もなく、文字通りの『解体』されたミッドナイトの肉片だった。

 こみ上げた恐怖による思考の空白。それは動作の遅延をもたらす。闇へと引きずられたロザリアは何度も壁や機材に体をぶつけながら動き回る【渡り鳥】の元へと引き寄せられ、天井に張り巡らされたパイプの1本まで吊るし上げられる。

 そして、ロザリアが目にしたのはミッドナイトを皮、肉、臓物、骨に変異した左手の獣爪で分解して、全身に血肉を浴びた白き天使の微笑みだった。

 恐怖を堪える閾値を超える。日常的にレギオンと接するロザリアでも耐え切れない、あらゆる生命にとってまさしく『天敵』と呼ぶ他にない、絶対的捕食者の存在によって精神が麻痺する。

 だが、ロザリアの背中に強烈な衝撃が走り、【渡り鳥】に触れられるより前に落下が始まる。遅れて事態を察したPoHが大きく跳び、ロザリアの背中に重ショットガンを浴びせたのだ。投げナイフは破壊され、ダメージと引き換えにロザリアは解放されて落下する。

 

「逃げるぞ」

 

 落下衝撃から……いいや、全身に毒の如く巡った恐怖に縛られたロザリアを守るようにPoHは降り立ち、小声で簡潔に生存する唯一の方法を述べる。

 

「アイツはまだ本気じゃない。今なら狩られる前に逃げきれる」

 

「……無理よ。あんなの……あんなバケモノから……どうやっても逃げられるわけないじゃない!」

 

 ロザリアを仕留め損なっても、むしろPoHの対応を讃えるように、子どもが新しい玩具をもらって喜んでいるような笑みで【渡り鳥】も降り立つ。

 狂笑と物音によって精神に圧迫をかけ、一撃必殺の奇襲を狙っていると見せかけて、本命は投げナイフを突き刺して引き寄せて解体する。しかも遺体を利用して恐怖を煽り、思考と判断を鈍らせる。普通に考えれば、およそ悪意に満ちた戦術であるはずなのに、ロザリアは【渡り鳥】の戦法……いいや、狩りに感じるのはまるで大自然の絶景を目にしたかのような純粋な圧倒だった。

 殺す。殺す。殺す。ひたすらに殺す。善意も悪意も存在せず、純潔の如き殺意だけで構成されている。

 

「……あと30秒ってところか。それまで生き延びれば逃げ切れるぜ」

 

 PoHはガードの構えを崩し、攻めに転じる。肉断ち包丁の先端で派手に床を削り、暗がりを照らす火花を散らす。対する【渡り鳥】は片翼を変形させて槍衾に変じさせて迎え撃つ。

 咄嗟に左手の重ショットガンを捨てたPoHは、まるで全身の血流……いいや、気を束ねるかのような呼吸と共に踏み込み、左拳を放つ。

 奏でられたのは爆音と間違う程に轟くサウンドエフェクトと鮮烈なる破壊を彩るライトエフェクト。≪格闘≫の単発系ソードスキルでも最大級の火力と最悪の使い難さを併せ持つ、DBOでも実戦でまともに使えるプレイヤーは片手の指の数ほどもいないだろうとされる穿鬼だ。

 死天使の片翼は一撃の名の下に打ち砕かれる。骨格とも言うべき白木も、纏わりついていた緋血も、全てが砕き散らされる。片翼から衝撃が伝播したのか、【渡り鳥】は大きく跳ね退いた。

 脆い。脆過ぎる。再生前提だとしても、PoHの穿鬼の威力が秀でていたとしても、余りにも脆過ぎる。情報によれば、【渡り鳥】の緋血には対象の強度を高める効果もあるはずである。穿鬼の威力が如何に高くとも、完全粉砕されるなど考え難い。

 

「……まぁ、この程度ですか。所詮は未完成ですね」

 

 溜め息を吐き、【渡り鳥】はまだ根元に残っていた片翼を消す。

 一見すれば尋常ならざる装備に見えたが、PoHは交戦とも呼べぬ僅かな間に弱点を看破し、最速最短で打ち砕く穿鬼を見事に当てたのだ。【渡り鳥】の異常性が際立つだけであり、PoHもまたトッププレイヤーと呼ばれる者達でも更に上澄み……たとえあの【黒の剣士】が相手でも十分に渡り合い、また戦術・戦略次第では勝利できるだけの実力者なのだ。

 PoHには奇策がある。宣言した30秒を生き残る! ロザリアが希望を抱いた瞬間に【渡り鳥】が消える。

 違う。イジェン鋼の太刀へと視線誘導させるように緩急をつけながら構えた瞬間にその場に置き去りにするべく手放し、同時に隠密ボーナスが高まる急加速を生むステップ移動を、それもたった1回の加速で、全身に捻りを加えて曲線を描くようにしてPoHの背後を取ったのだ。

 PoHの反応が完全に置き去りにされる。戦闘能力こそ高いが、反応速度は【黒の剣士】に届かないPoHでは、完全に上回られた1手をリカバリーする方法はない。反転した時には遅く、PoHの脇腹には【渡り鳥】の右拳がまるで優しく触れるように接していた。

 お返しとばかりに繰り出される穿鬼はPoHの吐血と人体が発するべきではない、内部で砕かれ、潰れ、破裂する異音をソードスキルのサウンドエフェクトに隠れるようにして奏でられる。

 

「……ごふっ」

 

 機材に激突したPoHは吐血しながらも体勢を整えながら即座に動き出すが、頭上より降り注いだ投げナイフによって全身を刺し貫かれる。【渡り鳥】は穿鬼を放つ前に、ステップ移動中に投げナイフを放っていたのだ。

 PoHが吹き飛ばされる方向だけではなく、彼が戦意喪失することなく即座に復帰して移動すると一挙一動どころか、思考の全てを読み解いていたからこその追撃である。

 ただの先読みではない。まるで相手の魂さえもトレースするかのような……技術も思考も何もかも喰らい尽くしているかのようだ。

 

「アナタ……何処かで会っていませんか?」

 

 悩むように、可愛らしく顎に指をあてた【渡り鳥】は首を傾げる。これまで何度か素顔で接触しているPoHであるが、今はポンチョのフードが顔を隠している。声量も最低限に抑えているのは、【渡り鳥】に正体を気づかれない為だろう。

 やはり記憶を失っている。それが【渡り鳥】に感じる、かつてない異様さの正体なのだろうか。ロザリアはひたすらに息を殺す。気配を殺す。存在感を殺す。【渡り鳥】はPoHに興味を移したのだ。ロザリアにできるのは【渡り鳥】の殺意の対象にされないことだけだ。

 30秒。PoHの正体を探ろうとする好奇心が、PoHを殺すに足る10秒を稼いだ。途端に【渡り鳥】の背後から何かが襲い掛かる。

 ハリデルの首無し遺体だ。PoHの持つユニークスキル≪死霊術≫によってリビングデッドにされていたのだ。それだけではない。全身に纏う闇……深淵の指輪の影響も受けている。どうやらハリデルは決死の覚悟で深淵の指輪を装備していたようだ。もっとも、真価を発揮するまでもなく瞬殺されてしまったようであるが、PoHの≪死霊術≫によって蘇り、今度こそ深淵の指輪の力を発揮する。

 ハリデルより広がる闇の空間。まるで空気が鉛に変じたかのように全身に重みと圧迫感を覚える。闇は世界を塗り潰すでもなく、床や天井も、機材といったオブジェクトもハッキリと視認できる。有効視界距離はまるで変化していない。だが、確かに闇の空間だった。まるで物質だけが光を放って浮かび上がっているかのような異様な闇の空間である。

 

「ゲホゴホ……!」

 

 途端に【渡り鳥】が咳き込んで吐血する。両手で口を押え、ハッキリと身悶えする。ハリデル・リビングデッドは隙を見逃さないとばかりに、組み込まれたオペレーションに則り……いいや、それ以上の『何か』に突き動かされるようにチャクラムを操る。だが、吐血しようとも【渡り鳥】の動きは衰えない。四方八方から迫るチャクラムを踊るようにして躱す。

 何が起こっているのか。混乱するロザリアの体が持ち上げられる。動けない彼女をPoHが米俵のように肩で担いだのだ。いっそ清々しいまでに戦闘放棄した逃走を【渡り鳥】は追う気がないらしく、むしろ称賛にも似た微笑みを描いて見送った。どうやら、今はハリデル・リビングデッドとの戦闘を優先するようである。

 

「……とんだ綱渡りだったぜ」

 

 ハリデル・リビングデッドが生じさせた闇の空間からも脱し、全身に纏わりついていた重圧も消えたロザリアは薄らいだ恐怖も相まって、PoHに下ろされるとまるでブラックアウト直前まで潜水していたかのように荒々しく呼吸を繰り返す。

 

「ひっ……ひっ……ひっ……も、もういやぁああああ! なんで私ばっかり……!」

 

 化粧が泥水になる勢いで涙を流して嗚咽し、四つん這いになって絶叫するロザリアを傍らに、PoHは回復アイテムを仕事終わりのビールのような爽快感にも似た様子で飲み干す。

 

「俺達はレギオン陣営に属した人類の裏切者代表みたいなもんだぜ? まともに死ねると思ってたのかよ」

 

「思ってたわよ! 老衰死希望よ! 何!? それの何が悪いのよ!?」

 

 一切の迷いなく反論するロザリアに、PoHはさすがに狼狽えたようだったが、すぐに堪えきれない笑い声が漏れた。

 

「ククク、なるほどな。お前が瞬殺されなかった理由がよく分かったぜ。アイツの好みに善悪は関係ない。お前みたいなやつなんだよ。その分だけまともに死ねる未来は絶望的だがな」

 

 何を言っているのか理解するつもりはない。理解したところで利益はない。ロザリアは涙を拭いながら立ち上がる。

 

「さっさと逃げるぜ。色気を出して命を捨ててもつまらないからな。デス・ガンが退路を確保してる。大ギルドの攻撃が始まる前に逃げるぞ」

 

「もちろんよ! 脱出できたら奢りなさいよね! あと有給! 絶対に有給使うんだから!」

 

 逃げろ。ひたすらに逃げろ。脇目も振らずに逃げろ。ロザリアは生を求めて走り続ける。

 振り返れば白き天使が微笑んでいる。そんな死の幻影を振り払うように、前を向き続けて走り抜く。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 興味深い。この闇……面白い。内臓を潰されて搾り出たような吐血を袖で拭い、オレは青蛇ノコギリ鉈を手にする。

 オレが殺したチャクラム使い。首無し遺体となって動き出したか。これは≪死霊術≫によるものだ。そうだ。『知識』は参照できる。だが、使い手に関してはまるで思い出せない。灼けて抜け落ちている。だが、あの反応からしてポンチョ男のユニークスキルだろう。

 記憶に関しては灼けて失われても、戦闘に必須となる知識に関しては抜けがない。単に≪死霊術≫は灼けていなかっただけか、それとも灼けるのは記憶だけであって知識は違うのか、それとも『血』が脳以外の別ストレージに保管していたのか。

 どうでもいい。使えるならば使うだけだ。それに深淵の病が悪化したお陰で少しハイになっていた頭もクールダウンできた。

 

(でも楽しかったでしょ? どうせなら狩りは楽しまないと損よ♪)

 

 動きが鈍い左腕に抱きつくヤツメ様は上機嫌であるが、狩人によって首根っこを掴まれて引き離されると顔面から踏み潰される。

 

(血に酔うにはまだ早い。狩りの全う……その時まで)

 

 ……お腹が空いた。お腹が空いて、空いて、空いて、瞳が蕩けて崩れてしまいそうだ。

 食べなければ狩りを全うできない。『獣』の飢餓が限界に達しつつある。血に甘味を覚えるのは何故なのか。義眼やパラサイト・イヴに使用されているレギオンのソウルの影響なのか。何にしても、失われつつある味覚を補うように血にあり得ぬ甘味を覚えるようになったのは偶然ではないとはっきりしている。

 もう少しなのだ。もう少しで、この煩わしい『獣』の顎を封じる鎖を解き放てるのだ!

 

(狩人が狩人たる縁。血の悦びは飢餓を癒す。だが、先祖より継いだ遺志を忘れるな。獣血だけが流れているのではない。誇り高き狩人の血もまたお前の1部であることを忘れるな)

 

 それこそが先祖が子々孫々……赤子の赤子、ずっと先の赤子まで呪った『鬼』の意思であり、遺志である。

 分かってる。分かってるさ。オレは……狩人だ。

 善悪など生死に意味はなく、故に狩りを為すのは人の理ではなく命の理。強きは生き、弱きは死ぬ。ただそれだけだ。

 どうでもいい。この地で見た人の悪意と『獣』への堕落を血の香りで塗りつぶす。殺せ、殺せ、殺せ、狩り殺せ! 夜明けを阻む全てを狩り尽くせ!

 

(それでいい。狩りを全うするならば、自らの真実たる獣の血も、先祖より受け継いだ鬼の意思を宿す狩人の血も、どちらもお前の爪牙だ。獣の真実も、覆い隠す狩人の嘘も、等しく武器だ)

 

 首無し遺体より発せられる闇は空間を異様に塗り替えている。まるで深淵を生み出しているかのようだ。だが、深淵の主とも異なる。何にしても深淵の病が悪化する原因だ。即急に潰さねばならない。

 

「オレは狩り、奪い、喰らい、戦い、殺し、そして、夜明けをもたらす者」

 

 首無し遺体から放たれるチャクラムにも闇属性が付与されている。それだけではなく攻撃範囲が拡大しているようだ。1回の投擲で分身し、複数のチャクラムが対象を囲うように襲い掛かる動きにも闇術の追う者たちのような追尾性が付与されている。

 青蛇ノコギリ鉈を変形させ、鉈モードでリーチを伸ばして迎撃する。やはり闇属性が付与されただけあって重みが違う。加えて回転力も増しているようだ。周囲に被害をまき散らしながら、十数の闇チャクラムがオレに途絶えることなく襲い掛かる。

 加速ステップで間合いを詰めれば、首無し遺体は平然と格闘戦で応じる。頭部がないのに視認ができている。この闇自体がセンサーの役割でも果たしているのだろうか?

 少し調子に乗り過ぎたな。白木の緋翼を残しておくべきだった。とはいえ、あれは未完成だしな。

 結論から言えば、パラサイト・イヴの侵蝕による暗器化に対し、求められた性能を引き出すにはさすがに限度があったということだろう。まぁ、防具でありながらあれだけの殺傷能力を発揮できただけでも十分過ぎるのであるが、やはり相応の実力者と相対しては強度面も含めてあまりにもお粗末過ぎた。まぁ、白木の緋翼の真価は別にあるのだが、何にしても完成度は低い。

 ならば手持ちのカードで仕留めるだけだ。袖に隠された手首のナイフホルダーから投げナイフが射出され、左手でつかみ取ると投擲する。狙うのは闇のチャクラムで破壊された機材だ。突き刺されば繋がったワイヤーを通して獣血侵蝕し、更に獣血覚醒で血獣の爪牙を発現させる。纏わりついた緋血が膨れ上がり、醜く血獣の牙爪をうねらせた機材をワイヤーで振り回す。

 獣血フレイル。先のフロンティア・フィールド攻略で考案し、実現した新戦術だ。獣血フレイルを振り回して闇チャクラムを片っ端から叩き潰す。首無し遺体は距離を取り、手元に戻ってきたチャクラムを再度投擲しようとするが、それより先に青蛇ノコギリ鉈を投擲する。胴体に突き刺さり、ノックバックしたところで間合いを詰め、柄を掴んで振り抜く。

 黒く澱んだ血……まるで深淵の病に侵されているかのようだ。

 刻む。鋸の刃で、鉈の刃で、遺体を徹底的に分解する。まるで身悶えするように痙攣するが、そこに『命』はない。

 そう、『命』はないはずだった。傷口から闇を啜った血が泡立ち、血は瞬く間に闇の肉へと変じる。不格好な腕が傷口から生えてオレに掴みかかるが、飛び退いて距離を取る。

 首の断面から骨が枝分かれしながら伸び、闇の肉を纏わりつき、深淵の魔物によく見られる赤く発光する感覚器官を果実のように実らせる。

 これは……闇の中で『命』が育まれている? いや、遺体を媒体にして闇そのものが……どうでもいいか。今は始末を優先すべきだ。

 

「………っ!」

 

 だが、足が脱力して危うく片膝をつきかける。まずいな。深淵の病の悪化が著しい。遺体から発生する闇の空間のせいか。毒が充満した空間にい続けているようなものだろうからな。

 傷口はすっかり再生されてしまっている。ならば磨り潰す。格闘攻撃で徹底的に破壊する。

 方針を決めた時、遺体はこの地下最奥に保管されていた、ヴェノム=ヒュドラの秘密だろう、巨大な肉の塊に触れたかと思えば腕を突き入れる。

 まさか……な。嫌な予感がする。耳に詰まった血を押し出すべく、頭を叩きながら立ち上がったヤツメ様も失敗したと口を開けている。

 

(面倒なことになったわね)

 

(面倒なことになったな)

 

「面倒なことになった」

 

 

▽    ▽    ▽

 

 

 海岸線を巨大な城壁で覆い、唯一の港は船の墓場と化し、座礁した船舶の残骸によって容易には突破できない。裏側は崖かつモンスターの巣窟であり、唯一の戦陣が敷ける砂浜には防衛兵器が配備されている。

 天然と人工の両面において守られた強固な要塞であると誰もが評価するだろう。防衛側の有利は一目瞭然であり、たとえ数・質の両方で上回る大ギルドであろうとも、相応の被害は免れず、下手な指揮ではどれだけの日数とコストを費やすことになるかは分かったものではない。

 DBOにおいて大規模なGvGは発生しておらず、またプレイヤーの管理下・指揮下にある大規模要塞の攻略の経験も大ギルドも有してない。

 ゲームシステムが支配するDBOにおいて、現実世界の戦略が何処まで通じるかも未知数であり、何もかもが手探りになることは間違いない。

 

「な、なんだ……ありゃああああ!?」

 

 だが、DBOは現実世界ではない。その自由度の高さからプレイヤーの発想と行動力次第で、幾らでも『あり得ない』と嗤われる戦術や戦略をこれ以上となく有効化させることができる。

 だからこそ、ヴェノム=ヒュドラの城塞にて、大ギルドの部隊を迎え撃つべく港側に配備されていた砲撃手は見たものを信じられなかった。

 それは水上を『走る』と表現すべき巨大な鉄塊。ライトグリーンのカラーリングと楕円形の正面と背面の巨大ブースターが特徴的な巨大兵器……いいや、移動要塞とも呼ぶべき存在だった。

 

「あ、アームズフォート」

 

 誰かが口にする。大資本だけが運用を可能とする、DBO史上1度としてGvGに投入されたことがなく、生産・維持コストに対して何処まで実用性があるのか疑問視されていた、ゴーレムという枠組みを超越した存在である。

 目の前の『資本力』という名の暴力を前にして絶望するしかないヴェノム=ヒュドラの数少ない正気を保っていた者達に反して、アームズフォートの内側……堅牢な外装に守られた艦首では、艦長たる男……太陽の狩猟団の【キッシンダー】が豊富な口髭を撫でながら、ついにこの時が来たかと軍帽を被り直していた。

 

「諸君、太陽の狩猟団初の完全独自開発アームズフォート【スティグロ】のお披露目だ。明日の一面は我々だ。くれぐれも粗相のないようにな」

 

 アームズフォート、スティグロ。太陽の狩猟団が極秘裏に開発していた完全独自開発アームズフォートであり、そのコンセプトは『水上覇権』である。

 前面には巨大な弧を描くブレードが備わっているが、これは物理ブレードではなく、レーザーブレードの発生装置である。超出力の巨大な固定型レーザーブレードの弧を前面に突進し、あらゆる艦船を砲撃ではなく近接戦で倒す。アームズフォートという大質量で突進するだけでも脅威であるというのに、大出力固定型レーザーブレードで耐えることも許さない。

 また、対艦のみならず、その突進力から海岸線に建築された要塞の城壁を破壊することも可能だ。

 船の墓場のせいで通常の艦船ではまともに侵入することもできない港も、アームズフォートを爆走させる巨大ブースターと大出力レーザーブレードによってものともせず、文字通りの全てを吹き飛ばしてヴェノム=ヒュドラの堅牢な防衛線を打ち破り、港を深く抉り、そのまま体当たりして城塞に打ち砕いて大穴を開ける。

 城塞上部に待機していた砲撃手たちは宙に投げ出されて落下していく。配備されていた、砲撃に特化されたゴーレムもスクラップだ。その様子を見ることもなく、当然とばかりにキッシンダーは次の指示を出す。

 

「ふむ、どうやら【黒の剣士】も派手に暴れたようだな。観測班の予想通り、城塞内部は大火災のようだ」

 

「映像分析結果、出ました。火災面積は要塞内部の3割に到達していたようですね。ほぼ鎮火しているようですが、消火作業に駆り出された人員はそのままのようですね。どうしますか?」

 

「火災跡地にミサイル発射。一掃しろ」

 

「よろしいのですか? 潜入部隊や拉致被害者に……」

 

「構わん」

 

 スティグロの背面のミサイルハッチが開き、数百のミサイルが射出される。火災に対処していたヴェノム=ヒュドラの人員は続々と降り注ぐミサイルに感情を抱く暇も与えられることなく、人間としての造形を奪う爆発の中に消える。

 

「ミサイル第2射まで180秒」

 

「ヴェノム=ヒュドラの防衛兵器より砲撃されています。スティグロ前面第1装甲にダメージ……損耗1パーセント未満。特に敵城塞につけられた大型砲にロックオンされています。第7装甲まで貫通は不可能と想定されますが、ここは1度退いてブレードアタックをすべきでは?」

 

 被害報告に対し、キッシンダーは鼻を鳴らし、仰々しく右腕を振るって指揮を執る。

 

「【ドラゴン・ダウン】部隊、投入。敵城塞の防衛設備を完全に沈黙させろ」

 

「了解!」

 

 スティグロの背面装甲の1部が解放され、エレベーターによって姿を現したのは、物々しい全身装甲を纏ったプレイヤー達である。

 迷彩色か、スティグロと同色のカラーリングであるが、何よりも異様なのは兜である。前面に直径30センチにも達する巨大なレンズを備えたカメラアイが剥き出しになって備わっており、兜内部には望遠カメラによる映像がモニターに表示されている。

 重圧な外装でスピードはほぼ存在しない。外装の重量によってプレイヤーはおよそ身動きができず、全身の金属外装は小型ブースターによる最低限の補助があるにしても棺桶にも等しいだろう。しかも、この外装は重さに反して防御力は決して高いものではなく、せいぜいが中量級である。

 だが、それでいいのだ。これは防具……甲冑ではないのだから。彼らは右腕と同化した巨大な装置……全長2.5メートルにも達する巨大な『クロスボウ』を構える。通常のクロスボウとは異なり、弓と同じく弦は縦に張られており、分厚いケーブルは兜と接続され、兜のカメラアイの集積した視覚情報と統合され、より射撃精度を高める。

 GA参考……全身装着型『クロスボウ』……ドラゴン・ダウン。【鷹の目】ゴーの右腕【赤竜殺し】のゲドのソウルを素材にして量産設備が整えられた武装である。ユニークソウルそのものを素材としたワンオフに比べれば性能は格段に落ち、なおかつ別の高コストの生産素材が必要になるにしても、極めて強力な装備の量産を可能とする。

 ソウルを生産設備に使用することで強力な武装の量産を可能とする、施設強化技術は教会の工房が誇る『量産化のスペシャリスト』でもあるHENTAI鍛冶屋の1人であるイドによってもたらされた技術である。その性質上、大資本以外では運用できないソウルが組み込まれた生産設備であるが、大ギルドならば問題なくクリアできる。

 大ギルドはこう考える。1人のプレイヤーに希少なソウルを与えて『エース』を育てることも『戦術』の優位性の確保では不可欠だ。だが、『戦略』を制するならばソウルはプレイヤー個人の戦力強化に投与すべきではない。

 DBOに君臨する4人のHENTAI鍛冶屋において、3人はあくまで個人の強化……個々が抱える専属の為にソウルを装備に組み込む。だが、専属を持たないイドだからこそ、組織強化の視点からユニークソウルを活用する技術開発を有していた。なおかつ、教会が保有する技術として使用料を取ることによって、教会は莫大な資金もまた得ていた。

 それぞれの踵に設けられたアンカーが撃ち込まれ、地面に……いいや、スティグロの甲板に固定され、射撃体勢に入る。

 次々と放たれるのはドラゴン・ダウン専用の大型ボルト。大弓に使用されている大矢にも匹敵……あるいは上回る長大なものである。

 巨大ボルトが命中した砲台は一撃で破壊され、砲撃に終始していたゴーレムは装甲を貫通されてHPを奪い尽くされて沈黙する。たとえ目標に外れようとも命中した施設は破壊され、なおかつ衝撃波が巨大な粉塵を巻き上げ、巻き込まれたプレイヤー達は倒れ伏す。

 

「ドラゴン・ダウン部隊、第1射……目標の23パーセントに命中!」

 

「フン。工房の秘密兵器と聞いていたが、あれだけ仰々しい装備で命中率は3割未満とはな。だが、この威力……何よりも配備数。命中精度よりも数で圧倒するコンセプトのようだな」

 

「スティグロとは違い、ドラゴン・ダウンは専用のボルトが未完成です。完成時には命中精度は18パーセント、威力は30パーセント以上の向上を予想しています。専用ボルトの理想的な素材はイジェン鋼なのですが……因果なものですね」

 

 キッシンダーの隣に控えていた、工房から派遣された技術者は捕捉する。

 

「何よりもドラゴン・ダウンの優れている点はクロスボウであるという点です。長射程であり、高威力であり、そして……」

 

「艦長! ドラゴン・ダウン部隊、『第2射』準備完了しました!」

 

「もうか!? なんという早さだ……!」

 

 まだ第1射から30秒と経っていないというのに、ドラゴン・ダウンには新たな大型ボルトが装着されている。彼らの1人1人には専属のボルト装填員が割り当てられている。彼らは背負う矢筒にドラゴン・ダウン用の大型ボルトを多数所持し、専用の装置によってボルトを装填する。敢えて自動装填にしないことによって安定性と威力を高めているのだ。しかも装填員は装填作業だけを重点的に習熟している為、作業にも淀みがない。

 第2射によってヴェノム=ヒュドラの要塞の防衛設備は更に破壊され、スティグロへの対抗手段が失われる。更にミサイルによる爆撃も加わり、地上も壊滅する。

 

「地上戦力投入!」

 

 キッシンダーの命令でスティグロの前面ハッチが開き、飛び出していくのはブースターの青い光の輝きを放つ全身を機動甲冑に包んだ戦士たちだ。

 カラーリングはスティグロでとは対照的に、太陽の狩猟団に相応しい鮮やかな橙色である。聖剣騎士団のGA代表であるヘビィメタルに比べてシャープなデザインであり、より機動力を重視していることは明らかだ。頭部にはより人間らしい2つの細長いカメラアイが緑の光を讃えている。

 

「『ソウル・リアクター』正常稼働!」

 

「戦闘モード起動!」

 

「これよりヴェノム=ヒュドラ残党を殲滅する!」

 

 太陽の狩猟団製GA【サンライト】。クラウドアースと共同開発された動力源であるソウル・リアクターによって、聖剣騎士団製GAのヘビィメタルを大幅に上回る性能を持つ、高性能量産機動甲冑である。

 大量生産を視野に入れた聖剣騎士団のヘビィメタルとは違い、生産コスト・運用コストからも相応の資本力が必須となるサンライトは、ハイエンド化されたヘビィメタルに匹敵、あるいは上回る性能を持つ。特に運動性能では鈍重なヘビィメタルを完全に超える。

 

「な、なんだ!? コイツら!」

 

「ちくしょぉおおおおおおおおお!」

 

 生き残ったヴェノム=ヒュドラの兵士たちはアサルトライフルを斉射するが、サンライトの機動力にまるで追いつけない。弾幕を張ろうとすれば、大型シールドを有したサンライトが前面に立つ。シールドの中心部の突起からは広範囲のバリアが展開され、仲間を防護しながら突撃する。

 

「そんな低レベル帯のアサルトライフルの粗弾で、サンライトのバリア・シールドを貫通できると思うなよ」

 

 アサルトライフルの弾幕を突破すれば、近接装備のサンライト装備者が飛び込む。彼らの標準装備はいずれもオレンジ色のクリスタルパーツが使用されており、煌々と輝いている。ソウル・リアクターから供給されるエネルギーによって物理属性攻撃力の上昇のみならず、炎属性を付与して『焼き切る』ことで切断力の上昇を図っているのだ。

 ソウル・リアクターとは、数少ないドロップするタイプのソウル……混沌のデーモンの1種である【混沌の牛頭のデーモン】を乱獲することによってレアドロップする【混沌のデーモンのソウル】によって作成される動力源である。

 ソウル・リアクターは単体では低出力であるが、【火竜結晶】をメイン素材にして専用設備で高純度化した【ヒート・マテリアル】を燃料とすることで、一時的に大出力化を可能としている。

 攻略ではなく拠点から補給と戦闘を繰り返せる対人、GvGだからこそ可能とするシステム。これもまたイドが考案したものであり、3大ギルドに等しく公開されていたが、いち早く実用化に取り付けたのは、聖剣騎士団のリードを許すまいと手を組んだ太陽の狩猟団とクラウドアースだった。

 

「クソ! クソ! クソ! こんな……こんなの理不尽だ!」

 

 ヴェノム=ヒュドラの構成員が命懸けで密接してアサルトライフルを乱射してもサンライトの装甲表面で弾かれる。対射撃属性コーティングである。装甲表面をコーティングすることによって、ソウル・リアクターから供給されるエネルギーを用いて対射撃属性に対する大幅な防御力の獲得に成功した。これは魔法属性に高い防御力を獲得できるブルーコーティングより発想を得たものであり、太陽の狩猟団の工房が独自に開発した珠玉の防御コーティングである。

 ただし、コーティングであるが故に持続性は低く、連続の着弾によって効果は弱まる為に過信は出来ない。また、貫通性の高いスナイパーライフルなどには効果を発揮し難く、あくまで単発火力は乏しいアサルトライフル、ガトリングライフルにこそ有効である。

 逆に言えば、低レベルプレイヤーの数少ない高レベルプレイヤーの対抗手段であった、低レベル銃火器による弾幕戦法がまるで通じないという悪夢の産物でもある。

 ヴェノム=ヒュドラ側の攻撃は全く通じず、対するサンライトを配備した太陽の狩猟団側の攻撃力・防御力は絶大だった。特にレーザーライフルを装備したサンライトは、ソウル・リアクターから直接エネルギー供給することによって火力を上乗せすれば、高機動を確保したままハイレーザーライフルに近しい火力も実現するのだ。同じく、射撃サークルが出現せず、≪銃器≫・≪光銃≫の2つのスキルが不可欠であるが、属性ダメージを上乗せした高火力の実体弾を放てるレールガン装備は猛威を振るう。

 たった1射で、大盾を構えていたタンク越しで4人が撃ち抜かれ、そのまま背後の建物にまで穴を開け、潜んでいたプレイヤーすらも胴から千切れ飛ぶ。

 実体弾の聖剣騎士団に対し、レーザーなどの属性エネルギー装備に太陽の狩猟団は注力する。これまで装備開発面では聖剣騎士団にもクラウドアースにも大きな後れを取っていたと思われていた太陽の狩猟団はついに牙を剥く。雌伏の時は過ぎたのだ。

 

「これが太陽の狩猟団だ」

 

 サンライトの部隊によって地下に潜伏していたヴェノム=ヒュドラの構成員はモグラ叩きのように地上に出るごとに殲滅させられていく。

 だが、数が数である。サンライトという強力な機動甲冑を装備していても囲われて追い込まれたら危うい。

 

「来たか」

 

 サンライトの部隊員は遅いとばかりに頭上を見上げる。

 暗雲を突き破ったのは無数の青い煙。それは発煙筒から発せられたものである。

 青い煙を靡かせるのは鈍色の分厚い装甲を持つGA……ヘビィメタル。対空設備など元より持ち合わせておらず、なおかつ火災とスティグロを筆頭とした太陽の狩猟団によって壊滅させられたヴェノム=ヒュドラの港要塞には防ぐ手段などなかった。いや、プレイヤーの並の射撃火力では降下するヘビィメタルの重厚な装甲を突破してHPを削り切るのは不可能に近しい。

 敢えて防ぐ手段があるとするならばパラシュートを撃ち抜くことであるが、ヘビィメタルはブーストによって落下制御ができる為に、低高度でもパラシュートを開ける。故に確実とは言い難かった。

 

「は、はは……こんな……こんな……これが大ギルドかよ!?」

 

 麻薬アイテムで正常な思考を奪われていたならば、どれだけ幸福だっただろうか。正気を保っていたヴェノム=ヒュドラの構成員は武器を手放して壊れたように笑う。

 頭上を飛ぶのは飛竜の群れである。聖剣騎士団は大ギルドでもトップの騎獣の確保数を誇り、練度も高い。彼らはヘビィメタルに身を包んだ仲間を運び、投下し、仕事は終わったとばかりに飛び去って行く。

 

「太陽の狩猟団の皆さん、ご苦労さん! ここからの制圧はこの聖剣騎士団に任せな!」

 

「さぁ、パーティの時間だぜ!」

 

「腹立たしいが、投降した奴らは撃つなよ? メディアの目がある! 紳士に行こうぜ!」

 

 高性能であるが数に不足があったサンライトに対し、性能面では劣るが補って余りある防御力を持ち、機動力を捨てた火力を持つコンセプトのヘビィメタル。聖剣騎士団の降下部隊はヴェノム=ヒュドラの攻撃をものともしない。

 連射性能に秀でたガトリングガンを撃てばそれだけでヴェノム=ヒュドラは蜘蛛の子のように散り散りとなり、反抗してもヘビィメタルの重装甲にまるで歯が立たず、なおかつ数も揃っているとなれば、続々と降参していく。

 

「スゲェ! こ、これが次世代新装備【イジェン・グラディウス】! 先行配備されて正解だぜ! さすがは聖剣壊しだ!」

 

 片手剣のグラディウス……それを高純度のイジェン鋼で制作しただけなのであるが、その威力たるや、並の片手剣の追随を許さない物理属性攻撃力である。特に刺突に秀でたグラディウスの特性もあり、相手の盾ごと貫き通すこともできる。ヘビィメタルの防御力のお陰でダメージを恐れず、カウンターされようともものともせず攻撃できるからこその威力でもあった。

 スティグロの出現から僅か15分。火災を始めとしたアクシデントがあったとはいえ、ヴェノム=ヒュドラの予想を大きく上回る短期決戦によって、大ギルドによる蹂躙は果たされた。

 大ギルドの完全勝利で幕を閉じた港要塞の戦い。だが、ここで両者にとってのイレギュラーが起きる。

 地響きと共に砦要塞の中心が陥没し、闇が溢れた。

 まさしく地の底から這い出たのは、全長300メートルにも達する巨大な闇の黒の体色をした……『芋虫』だった。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

「……なにこれ?」

 

 アームズフォートの突撃に巻き込まれかけ、ギリギリで避難していたシノンは赤く染まった止血包帯を巻いた腹部を押さえながら、突如として出現した巨大なモンスターに驚きを隠せなかった。

 太陽の狩猟団の秘密玉……アームズフォートによる突撃という想像を超えた要塞攻略も事前に通達してほしかったが、それ以上にヴェノム=ヒュドラとは何なのかとシノンは疑念を膨らませる。

 ただの規模が大きい犯罪ギルドではない。シノンが受けた銃弾も含めて、ヴェノム=ヒュドラの裏には恐るべき何かが存在する。シノンはともかくあの巨大モンスターを何とかしなければと動き出す。

 アームズフォートはあくまで対人……プレイヤーや拠点攻撃用であり、対モンスターには何処まで通じるか定かではないのだ。攻略にアームズフォートを始めとしたゴーレムを投入できない制限があるからこそ、実証できた者がいないのである。

 だが、今ならあるいは? シノンが期待した通り、アームズフォートから続々とミサイルが射出される。着弾と爆発によって巨大な黒き芋虫のHPは削られていく。

 これならば遠距離攻撃を持つアームズフォートの有利だ。そう思われた時、巨大芋虫の頭頂部に黒い結晶が生じ、闇属性のレーザーが放たれる。それは真っすぐにスティグロに向かい、装甲に大きな傷を与える。

 反撃もあるが、ダメージレースはアームズフォートの勝ちだ。だが、シノンの計算を狂わせたのは芋虫の脱皮だった。傷ついた外皮を脱ぎ捨て、真新しい……HPを全快した姿となる。それだけではなく僅かに大きくなっており、より外観も硬質に変じていた。

 芋虫……脱皮するのは当たり前、かしら? DBOでは何が起こってもおかしくなく、アルヴヘイムを経験済みのシノンだからこそこの程度で済ますことができたが、港要塞の鎮圧に乗り出していた聖剣騎士団と太陽の狩猟団の部隊は混乱しているようだった。

 彼らの装備はあくまで対人、対ギルドに特化されたものだ。対モンスターは考慮されていない。それでも火力は十分のようであるが、目前の事態にまるで対応しきれていない。

 

「アームズフォートの援護がある内に私が何とかするしかないみたいね」

 

 巨大とはいえ、モンスター相手ならばシノンの経験が上だ。この手のモンスターは弱点を攻撃する以外に倒す方法はない。

 まずは射撃ポジションの確保だ。シノンが動き出そうとすれば、黒芋虫の表皮を駆ける、黒よりも鮮やかな漆黒の一閃を目にする。

 

「あの……馬鹿!」

 

 超スピードで芋虫の表皮を駆け巡り、その度に黒い血が噴き出していく姿にシノンは舌打ちし、傷ついた体に鞭を打つ。

 巨大芋虫の傍にある、辛うじて倒壊を免れている見張り塔を駆け上がり、屋上から全力で跳躍する。空中でマユ謹製の特殊2連装ライフルを放つ。アサルトライフルの実体弾とレーザーが同時に襲い掛かり、芋虫の表皮を爆ぜさせていくが、なにせ相手が巨体だ。これでは火力が足りない。

 

「キリト! 何やってるのよ!?」

 

「コイツをこのまま放置するわけにはいかない!」

 

「だったら……まずはその子を安全な場所に避難させなさい!」

 

 あろうことか、キリトは救出しただろう拉致被害者を自分の背中から首に抱きつかせ、DEX全開で動き回りながら戦っていた。

 

「駄目だ! コイツのレーザーだと距離を取るよりも体表にいる方が安全だ! だからシノンも飛び乗ってきたんだろ!?」

 

 違うわよ! 大馬鹿やってる貴方を見つけたから駆け付けたのよ! 硬質化を進める巨大芋虫の表皮にて、アパッチメントを変更したシノンは、特殊2連装ライフルに長大な銃身を合体させる。スナイパーモード……火力と射程距離に特化させたのだ。もっとも、この巨体を相手にするならば欲しいのは火力だけであるが。

 

「貴方の動きだといつか振り落とされるわよ! 私に任せなさい!」

 

「……分かった。だけど、ユナを安全な場所まで連れて行ったらシノンも参戦してくれ。コイツの硬質化がもしも蛹化なら、早く仕留めないと危険だ!」

 

「確かに危険ね」

 

 キリトが保護しただろう少女……ユナを動き回る芋虫の背中で預かったシノンは、彼女の小刻みな体の震えを受け止めて笑いかける。

 

「安心しなさい。この程度の危機、傭兵なら慣れっこよ。それで!? どうやって倒すの!?」

 

「頭部だ! 奴の頭部を一気に潰す! その為にはアームズフォートとの連携が不可欠だ! 全ミサイルを頭部に集中してもらって、そこに最大出力の月蝕光波を撃ち込む!」

 

 アームズフォートから続々と巨大な矢が射出されている。どうやらで甲板上に配備された部隊からの掩護射撃のようであるが、シノンも知らない強力な射撃武器だ。硬質化しただろう芋虫の体表も難なく貫通している。

 芋虫が身動き取れず、脱皮に専念にしている理由は2つ。1つはアームズフォートからの攻撃、もう1つは地上部隊の総攻撃を受けているからだ。特にアームズフォートからのミサイルのみならず、砲撃などでHPをどんどん削っていた。だが、さすがに連射はできないらしく、反撃の闇属性レーザーによってアームズフォートの被害も拡大していた。

 

「彼女を避難させてアームズフォートに連絡を取るわ! それまでにポジションを確保しなさい!」

 

 こんな巨大なモンスターを相手取るのはアルヴヘイム以来だ。あの時は逃げることが戦いだったが、今回は違う。腹を食い荒らさせたダメージフィードバックに喘ぎながら、シノンは自分の首に抱きついたユナを気遣いながら着地し、太陽の狩猟団の部隊を探して通信機を借りようとするが、彼女の前に芋虫が穿った穴より這い出た昆虫人間が足を掴む。

 次から次へと……! 急がなければならないというのに! 銃身で殴りつけ、口内に銃口を押し込むとトリガーを引く。狙撃用の強力なレーザーが解放され、昆虫人間は即死する。崩落に巻き込まれて翅と足を破損していた為に簡単に倒せたが、芋虫が破壊した穴からはまだ昆虫人間が蠢いていた。

 と、その時……昆虫人間たちがまるでシノン達よりも優先しなければならない脅威を発見したかのように地下の闇に戻っていく。シノンは拍子抜けしつつも、だが地下の闇を覗いてはならないと本能的な恐怖が湧き上がる。

 まずは彼女を安全な場所へ! 巨大モンスターの出現で負傷した同僚を避難させている、太陽の狩猟団だろう機動甲冑を身に着けた部隊の元に駆け寄る。

 

「シノンさん! ご無事でしたか!」

 

「ええ! この子をお願い! それと通信機を貸して!」

 

 もう時間がない! 芋虫は更なる硬質化を進めるべく天を仰いでる。もはや動きも鈍り、金属質の外観になっている。もしも今が蛹、あるいはその前段階であるならば、ここで仕留めなければ、あの巨大モンスターの大きさに相応しい新たな脅威が羽化することになる。

 だが、アームズフォート側が今まさにミサイルハッチを開いたところだ。インターバルを考慮すれば、今回のミサイルをキリトの狙い通り、頭部に集中させなければ倒しきれない!

 

「ランク3のシノンよ! ミサイルの照準を頭部に集中させなさい! 理由は聞かないで!」

 

『艦長のキッシンダーだ』

 

「名乗りは結構だから照準を――」

 

『何を言っている?「【黒の剣士】の作戦通り」にミサイルの照準は合わせたが?』

 

 ……どういうこと? 目を白黒させたシノンの視界でミサイルが飛来し、芋虫の頭部を爆砕する。表皮は焼き焦げ、頭頂部のクリスタルの角は砕け折れて肉が露出している。そこに一気に頭部まで駆け上がったキリトが宙を舞い、大放出した漆黒の月蝕を聖剣に収束させていた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 アームズフォートの援護によって、ミサイルは目論見通りに頭部に集中させた。

 ここしかない。キリトは巨大芋虫の反った背中から首まで駆け上がり、大きく跳んで滞空する。

 爆発によって露出した芋虫の脳……そこは黒ずんだ闇の肉と赤い感覚器官の塊であり、そして核となっていたのは首の無い男だった。

 闇の脳髄の中で首無き男は這い出るとキリトを迎撃するべくチャクラムを構える。下半身は闇の脳髄に埋もれたまま、だがそれでも『倒す』という確固たる戦意はキリトを射抜く。

 

「……アンタが『プレイヤー』だった時に戦いたかったよ」

 

 月蝕光波! 聖剣を振るい抜き、巨大な三日月を描く漆黒の月蝕が放たれる。首無き男はチャクラムを投擲して月蝕光波を止めようとするが、チャクラムを呑み込みながら月蝕光波は迫り、首無き男ごと闇の脳を抉り、爆砕した。

 夜明けは遠く、嵐が続くこのステージに暁の光はきっと届かない。緩やかに、だが轟音を立てて倒れていく芋虫の表皮を滑りながら地上を目指し、コートを翻しながら着地したキリトは月蝕の残滓を迸る聖剣を振るい散らして背負う。

 巨大な芋虫はモンスターの常であるように、遺体を遺しながらも緩やかに崩れ散っていく。時間はかかるが、プレイヤーよりも短時間でこの世界から完全に退場するだろう。

 キリトはバトルログを確認し、自分が倒したのは『モンスター』にカテゴライズされていることを確認して顔を曇らせる。

 デーモン化の暴走……獣魔化にしてもあまりにも巨大過ぎる。あの男に何が起こったのかは定かではないが、ヴェノム=ヒュドラは尋常ならざる何かを抱えている。それに呑み込まれたのは間違いないだろう。

 砦要塞の戦い……キリト達潜入組は完敗に近しい壊滅を受け、大ギルドは完勝し、だがイレギュラーだった巨大モンスターで戦場は混乱によって被害が生じた。それでも全体で見れば、大ギルド側の人的損害は軽微だった。もっとも、満を持して投入したアームズフォート……名称スティグロは予想外の巨大モンスターとの戦いによって損傷した。修理額はキリトが受け取る報酬の何倍かも想像できなかった。

 ヴェノム=ヒュドラの構成員の大半は麻薬アイテムによって正気を失っており、また猿にも似た青黒い体毛のモンスターに変異したプレイヤーもいたが、続々と鎮圧された。生き残った構成員は武装解除して投降し、ちゃっかりと砂浜に陣を敷いていたクラウドアース部隊が連行することになった。

 アームズフォートの損壊も含めて最も被害を受けたのは太陽の狩猟団であり、次に暴れ回った芋虫によって死傷者を出した聖剣騎士団である。さり気なく数多の構成員を連行するという華の図をマスコミに撮影させたクラウドアースの強かさには呆れすらも覚えたキリトだった。

 とはいえ、太陽の狩猟団も聖剣騎士団もクラウドアースに連行させるのは予定通りという様子だった。帳尻合わせは済んでいるのだろう。木箱に腰かけて休み、聖剣騎士団と太陽の狩猟団の両者から讃えられたキリトであるが、犠牲者を考えれば賞賛など虚しいだけだと儀礼的に受け流す。

 

「本当に一撃で倒すなんてね」

 

「アームズフォートの援護射撃があったからこそさ」

 

 ヒーラーによる本格的な治療を終えたのか、腹部の傷も癒えたらしいシノンの登場にキリトは安堵した。彼女の傍らにはユナも控えており、疲れ切ったキリトを労わるように駆け寄ってくる。

 

「……私は連絡していないわ。貴方が別の誰かにお願いしたの?」

 

「まさか。シノン以外に伝える余裕なんかなかったさ」

 

 シノンによれば、彼女が連絡するより前にキリトの作戦はアームズフォート側に通達されていたとのことだ。

 誰が連絡を? キリトは疑問を覚えながらも、ひとまずは戦いの終わりを噛み締める。

 しばらくしてキリト達はマクスウェルの遺体が収容されたこと。彼らが使用していた通信機が強奪されたこと。そして、破壊され尽くされた港要塞から回収できた、キリト達と同じ潜入部隊の遺体は数人分にも満たないとのことを教えられる。

 

「拉致被害者の救出状況も分からないのに、ミサイルで焼き払うなんて……私たちごと殺すつもりだったのかしら」

 

「……ミサイルはあくまで火災の被害を受けていた地点に集中させたらしいけど、言い訳だろうな。彼らからすれば、先制攻撃でヴェノム=ヒュドラの戦力を削りたかったんだろうさ。最初のミサイル攻撃があったからこそ、地上戦のアドバンテージは絶対的なものになったのは間違いじゃない」

 

 受け入れるつもりも納得するつもりもないがな。キリトはメディアの取材を受けて太陽の狩猟団の功績を声高にアピールするスティグロの艦長キッシンダーを好きにはなれなかった。ミサイル援護は感謝しているが、彼のやり方は1歩間違えればキリト達を犠牲にしかねないものだったからだ。

 あるいは、キッシンダーの裏にいるミュウの策略か。彼女は軍略に優れていないと聞くが、犠牲を容認していたとするならば……と、そこまで考えてキリトは飲みかけのミネラルウォーターを頭から被る。

 何を偉そうに。救えたのはユナ1人だけだ。彼女以外の拉致被害者は1人として救助できなかった。今も大ギルドの連合部隊が地下に潜って捜索を続けているが、生存者は発見できていない。

 他にも謎は多く残っている。キリト達が遭遇した血の海を生み出したのは誰なのか? 昆虫人間は? 巨大芋虫は? キリトは結局使うことがなかった蛟の吐息を手に取って見つめ、投げ捨てようとして、だがそれこそ感情任せの無駄な行為だとアイテムストレージに収納する。

 と、俯いていたキリトの袖を誰かが引く。顔を上げれば、ユナが笑いかけた。

 

<助けに来てくれてありがとう。私が生きているのはキリトのお陰だよ>

 

 スケッチブックに書かれた精一杯の感謝の言葉に、キリトは先程と別の感情で顔を俯ける。

 

「……お礼を言うのは俺の方だ。キミが生きていたからこそ、俺達の行いは無駄じゃなかった。生き抜いてくれて、ありがとう」

 

 そうだ。死んだ彼らは拉致被害者を救うために危険を承知で潜入したのだ。だからこそ、彼らの死を悼むとしても、今すべきなのはユナを救えたことを喜ぶべきなのだ。彼女から受けた感謝こそがキリトの心を救ってくれる。

 

「帰ろう、ユナ。キミの帰る場所へ……」

 

 キリトの差し出した手をユナは迷うことなく掴んだ。

 彼女の温もりの分だけ、自分の背負うべき重荷が軽くなり、そして犯した罪にまた1つ向き合える勇気を貰えた気がして、キリトはこれからも前を向いて歩き続ける決意を新たにした。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

「ご苦労さん」

 

「いいえ、こちらこそ」

 

 エバーライフ・コールの船に引き上げられたエイジはカリンから投げ渡された缶ビールを受け取る。

 大ギルドがアームズフォートで突撃するなど想定外だったが、その後の巨大芋虫の登場のお陰で脱出は容易だった。小型のモーターボードでアームズフォートに蹂躙された船の墓場の隙間を抜け、無事にエバーライフ・コールに回収されたのだ。

 

「それよりも愛しいカノジョは何処?」

 

「カノジョではありません」

 

「あ、もしかして死んでたの? 残念だったわね」

 

「……生きてますよ」

 

 缶ビールを開けたエイジは喉を鳴らして飲み、アルコールが喉と胃に染み込む感覚を味わいながら乱暴に袖を拭う。その様子をジッと観察していたカリンは興味深そうな笑みを描く。

 

「話してごらんなさいよ」

 

「…………」

 

「ライドウはもう帰ったし、私はアイツほどに悪趣味じゃない」

 

「……大したことじゃありませんよ。僕は……僕なんて……要らなかったんだ。何もしなくても、彼女は……救われていたんだ」

 

 本物のヒーローに救われていたんだ。エイジは飲み干した缶ビールを握り潰し、事実を噛み締める。

 

「僕は彼女にとって大した存在じゃないのだと気付けました。彼女にとっての……唯一無二には……最初からなれなかったんだと……ようやく分かったんだ」

 

 それでも、やるべきことは変わらない。ユナの声を取り戻すことには尽力しよう。たとえ、それが彼女の何の役にも立たないとしても、それでも……挑み続ける過程で『力』を得られるはずなのだから。過去の弱き自分を殺せるはずなのだから。

 そうして『力』を得ても、ユナにとって自分は『ただの幼馴染』以上でも以下でもないだろう。それでいいのだ。ユナの笑顔を思い浮かべ、エイジは瞼を閉ざし、腰にぶら下げていた通信機を海に投げ捨てる。

 巨大芋虫の至近距離にいただろう、潰されて死んだ太陽の狩猟団のプレイヤーの通信機を奪い、エイジはアームズフォートに連絡を取っていた。巨大芋虫の背中を駆けるキリトとモンスターの表皮の変化から彼の狙いを看破し、ミサイルによる頭部攻撃の集中による援護を指示したのである。

 ユナを助けてもらった礼と言う気もない。【黒の剣士】にはさっさと巨大芋虫を撃破してユナの安全を完全に確保してもらわねばならなかっただけだ。加えてあの巨大芋虫が暴れたままではエイジの脱出も危うかった。

 それにユナの救助の面では無意味だったが、今回の潜入は大きな成果も得られた。自身の成長はもちろん、謎の指輪を手に入れ、そして……太陽の狩猟団の最新鋭装備を強奪できた。通信機と同じく隊員の装備も奪い取ったのである。あの混乱のお陰で誰の目にも留まることはなかった。あんな場面でもなければ、死体漁りも上手くいかなかっただろう。

 強力な動力源を搭載した太陽の狩猟団の、それも最精鋭だけに許されただろう新装備だ。アーチボルドには丁度いい手土産になった。

 

「……どうしてライドウがアンタを私に紹介したのか、何となく分かった気がするわ」

 

 一方のカリンは納得したようにビールを煽り、荒れる海を眺めていた。

 

「アンタが求めるものは何?」

 

「『力』だ」

 

「そう。だったら、アンタに相応しい場所がある。誰1人として帰った者はいない、エバーライフ・コールの秘密。地獄の入口にアンタを案内してあげてもいいわ。ライドウもそれを望んでいるでしょうからね」

 

 地獄の入口? カリンを改めて見据えたエイジはカリンの何処か悲壮が滲んだ横顔に言い知れない感情を抱く。

 

「ライドウはアンタなら『できる』って本気で思ってるのかしらね。あの男らしくもない。でも、もしかしたら、アンタみたいな奴だからこそ……」

 

 それ以上はカリンも何も言わなかった。エイジも追及しなかった。

 穏やかさと無縁の海はいつしか訪れた夜明けと共に暗雲の灰色を映し込んでいた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 昆虫人間を殺し尽くし、オレはイジェン鋼の太刀を引きずりながら地下を見回る。

 まさか巨大な芋虫に変じるとはな。さすがに驚いた。早々に地上に出てぶち殺そうかとも思ったが、キリトなら何とかするだろうと地下から這い出ようとする昆虫人間の掃討を行ったが、どうやら正解だったようだ。

 まったく、何が何やら。今回の仕事で得るものは乏しかったな。まぁ、白木の緋翼のデータを得られたからそれで良しと割り切るか。

 いずれは大ギルドの部隊が地下を探索するが、その前に少しでも得られるものは得ておきたい。特に欲しい情報もあるのだが、なかなか見つからないものだ。

 

「……ザクロ」

 

 思い出す。アルヴヘイムで死んだ、ただ優しくありたかった……いいや、『優しい人』として死んだ彼女を思い浮かべる。

 ああ、もう随分と灼けてしまったが、だが彼女の姿を思い浮かべられることに小さな安堵を感じる。確かな『痛み』を覚える。

 昆虫人間や巨大な芋虫、それに地下研究施設から得られた情報の限りだと、ヴェノム=ヒュドラには間違いなく≪操虫術≫を持つ者がいる。ザクロのユニークスキルは彼女の死によって新たなプレイヤーに渡ったのだろう。

 別にザクロの遺品だと言い張るつもりもない。別に腹立たしいとも思わない。怒りも悲しみも憎しみも感じない。ヴェノム=ヒュドラの誰かは≪操虫術≫を手に入れた。それだけであり、ザクロとは無関係だ。

 

「……ああ、分かってるさ」

 

 オレは『怒りに駆られる真似』をしたいだけだ。『人』らしい感情のままに暴走する理不尽を真似したいだけだ。キリトの感情的な行動を……心の何処かで羨んでいたから、だから……だからオレは……いや、どうでもいい。もうどうでもいいんだ。

 無意味だ。無価値だ。無駄だ。≪操虫術≫の使い手とは、ヴェノム=ヒュドラの真相を追えばいずれは相対するだろうし、大ギルドならば存在にも気づく。ならば、オレにお鉢が回ってもくるだろう。ヴェノム=ヒュドラを潰すのにオレ程に適した傭兵もいないはずだ。

 歩いて、歩いて、歩いて地下の闇を迷う。どれだけ歩いたところで『答え』は見つからないと分かっているはずなのに。

 

「…………」

 

 やがて、オレは1人の女の遺体を見つけた。巨大芋虫に変じた際の崩落に巻き込まれたのだろう。手枷をつけた金髪の女だ。辛うじて頭部は原型を遺しているが、首から下が完全に埋もれている。重圧によって潰されているだろう。

 頭部と同じく、自由だった両手で、爪が剥げる程に這い出ようとした跡が床にべっとりと血としてこびりついている。

 彼女は生きたかったのだろう。何が何でも生きて、この地下の闇から抜け出したかったのだろう。

 人の強欲と悪意に塗れた世界で何を見たのか。あるいは、己の醜さを知ってしまったのか。彼女の死に顔はじわじわと押し潰されていく絶望が張り付きながらも、自嘲の笑みと救いを求める涙もまた同じくらいに死に顔を彩っていた。

 オレは殺した。殺した。たくさん殺した。だが、『英雄』は現れなかった。オレを完全否定して討ち滅ぼさんとする者は現れなかった。

 死にたかったわけではない。殺されたかったわけではない。ただ……現れる瞬間を心の何処かで待ちわびていたのだ。

 

(そうね。きっと素晴らしい殺し合いになったわ。きっと……きっと極上の餌になったわ)

 

 ヤツメ様は笑う。嗤う。嗤う。笑う。嗤う。オレの本質にして本性であると嘲う。

 失望にも似た諦観。人間はどうしようもなく『人』を自ら捨てて『獣』に堕ちることを選ぶ。狩人が血の悦びを見出して飢餓を癒すように……その繰り返しの内で血に酔うように、まるで『獣』に堕ちることにこそ人間としての堪らぬ悦楽があるというかのように。

 それでも取り戻せるはずだ。思い出せるはずだ。捨てたものならば拾い上げることもできるはずだ。何かを切欠に思い出せるはずだ。

 

「ねぇ、アナタは『人』と『獣』……どちらとして死んだの?」

 

 女の死に顔に問いかける。彼女は死の間際……ゆっくりと押し潰されていく絶望の底で何を見たのか。

 死者に問いかけたところで返答はない。自問のようなものだ。ならばこそ、自答を持たぬオレにとっては『人』らしくあろうとする真似事だ。

 そっと彼女の両目を閉ざし、太刀で手枷を切断する。

 こんなことに何の意味がある? 何の価値がある? 何もない。そうだろう、ザクロ? でも……でもね、『優しい人』として死んだキミなら……キミならきっと……ああ、何を考えているんだか。それこそ……どうでもいい。

 

「祈りもなく、呪いもなく、安らかに眠れ」

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

 ただ生きていくので精一杯だった。

 何が正しいとか、何が悪いとか、そんなことは考える余裕などなかった。

 弱者はひたすらに搾取される。強者によって踏み躙られる。だからこそ、弱者は毒を持つ。それが自衛の手段だと学ぶ。そして、同じ毒を持つ者同士で身を寄せ合う。いつ裏切るかも分からない腹の内を探りながら、それでも生きていくために。

 傷ついて、傷ついて、傷ついて、涙さえも毒に変わって、それでも生きていく。

 

(……こんなはずじゃなかったのに)

 

 やはりアドリブなんて……イレギュラーなんて起きた時点でツキに見放されていたのだ。逃げる準備を整えていてよかったとハナミは夜明け前の最も深い暗闇に潜るように孤児院を抜け出す。

 最近になって教会に厄介になり始めた女……ユナは最初から気に食わなかった。

 人の世の掃き溜め……悪意と欲望が混ざり合った下水に汚されたこともない綺麗な瞳が心底憎たらしかった。自分よりも年上のくせに、人間の醜さと汚らしさを知らない姿がただただ腹立たしかった。

 ただの八つ当たりだ。だが、この世はそんな身勝手な感情によって多くの悲劇が起きていることをハナミは身に染みて理解していた。

 教会に……孤児院に潜り込むのに苦労したというのに、大して稼ぐこともできなかった。

 だが、ヴェノム=ヒュドラの拠点が暴かれ、大ギルドの攻撃を受けたことをストリートチルドレン仲間から連絡を受けた以上、もはや教会に長居はできない。ユナが生きて帰ってくればハナミの正体が暴かれるのだから。

 今日は一段と警備は厳しいが、自分ならば突破できる。ハナミは大聖堂の敷地外に出ることができる中でも最も有力な物資搬入用の裏口を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱりな。逃げるなら、ここ以外に無いもんな」

 

 

 

 

 

 

 

 だが、自分の逃亡を邪魔するように1人の少年が立ち塞がっていた。

 

「……チョコラテ、どうしたの? まだ夜も明けていないのに。シスター達に怒られるよ?」

 

 演じるのは『良い子』のハナミだ。シスターたちに迷惑をかけず、孤児たちに礼儀の正しさを教える見本となる優等生だ。

 対するチョコラテは問題児ではあるが、孤児院に馴染めない悪ガキを纏め上げるガキ大将だ。

 2人はきっと上手くやっていけただろう。ハナミとチョコラテが手を合わせれば、孤児院の運営はこれから楽になっていただろう。

 

「俺さ、大人たちの信頼を勝ち取ろうと必死で、リーダーシップも取れて、物怖じしないで、凄い女が来たなって思ってたよ」

 

「…………」

 

「だけどさ、お前はいつだって……俺達を馬鹿にしてたよな。ぬるま湯に浸かった馬鹿を見るような目をしてたよな。それくらい分かるさ。俺も昔は同じだったから。孤児院で暮らすなんて、負け犬になることだって思ってた時期もあった。だから……」

 

 だから最初から疑われていたわけか。ハナミは本当に失敗したと己を嘲う。リカバリーでユナを攫わせたはずが自分の首を絞めていたのだ。

 

「でも、過ごしてみたら、これが悪くないんだ。神父は口うるさくて頻繁に狂うし、教会の教義とか全く理解できないし、勉強はダルいし、それでも……こんな弱虫で情けなかった俺を1人の人間として真っ直ぐに見てくれる人に出会えた」

 

 誇り高そうにチョコラテは口元を少しだけ緩める。

 何が言いたい? 孤児院の素晴らしさを訴えて何がしたい? 時間稼ぎか? 逃亡を阻止するつもりか? ハナミは腰に隠した短剣を意識する。

 いくら鍛錬しているとはいえ、実戦経験……経験値は稼いでいないはずである。ならば、レベルはほぼ同等。ならば、生きる為の意思……殺してでも逃げるという覚悟を持った自分の方が上を行くはずだ。ハナミはチョコラテの喉に一撃で短剣を突き立てるイメージを頭の中で繰り返す。

 

「お前にも会わせたかったよ。きっと、あの女男シスターと会っていれば……お前だって、自分に正直に――」

 

「うるさい! 綺麗事をほざくな! 今の貧民街を知らないくせに! 私達が……私達がどれだけ毎日を必死に……!」

 

「……ハナミ」

 

「私は変わらない! 誰と会おうと! 何があろうと! 生きてやる! 生き残ってやる!」

 

 短剣を抜いたハナミはチョコラテに斬りかかる。完全に油断して目を見開いた彼の喉へと鋭い切っ先を突きつける。

 だが、瞬間にハナミの視界は逆さになった。そして、地面から背中に叩きつけられた衝撃で呼吸が止まる。

 

「……凄いだろ? 孤児院にいれば、護身術だって教えてもらえるんだ。自分の身を守るための技術を……『生き残る』方法を身につけさせてくれるんだ。だって、俺達はいつまでも孤児院にはいられないから。いつか、自分の足で立って、自分の手で稼いで、生きていかないといけないから」

 

 悲しそうにチョコラテは笑う。涙で濡れた顔をグシャグシャにしながら、ハナミを哀れむのではなく、彼女を投げ飛ばすしかなかった自分が情けなくて……泣いているのだ。それが分かってしまうくらいに、チョコラテの目は真っすぐにハナミを射抜いていた。

 

「俺は強くなる。死んでいったアイツらの分も……絶対に諦めるもんか。俺にたくさんの大切なモノをくれた孤児院を誇りにして、必ず生き残ってやる」

 

 負けた。このまま押さえつけられて、衛兵を呼ばれて、そして? 子どもだからと容赦はしない。エドガーはそんな甘い男ではない。教会を裏切ったならば、ハナミから冷徹に情報を引き出そうとするだろう。

 身震いしたハナミにチョコラテは手を伸ばす。未来を想像して、恐怖して目を閉ざしたハナミは……だが、優しい手で立ち上がらせられた。

 

「これ、少ないけど足しにしろよ」

 

「……え?」

 

「それとしばらくはストリートチルドレンの仲間の元に帰ろうなんて考えるなよ。口封じで殺されるだろうからな。そうでなくとも、ヤバい連中と組んでたんだろ? 生き残ることがお前の『正しさ』なら、どれだけツラくても、今は……1人で生きるんだ」

 

 革袋に詰め込まれているのはチョコラテが密やかに蓄えていた独り立ちの資金だろう。換金性の高いアイテムが詰め込まれている。彼が地道に教会の手伝いをして稼いだ小遣いの結晶だ。

 

「どう、して……?」

 

「お前の罪を許したわけじゃない。あの姉ちゃんを罠に嵌めたのも絶対に許さない。でも……でも……俺も知ってるから。お前が言うところのぬるま湯だとしても、それでも貧民街で……何をしてでも生き残ろうとした……アイツらと一緒なら何でもできるって思い込んでいた自分を……忘れたくないから」

 

 いくら換金性が高いとはいえ、所詮は子どもの小遣いだ。大した額にはならない。ヴェノム=ヒュドラから報酬で貰った指輪の方が遥かに価値がある。

 そのはずなのに、ハナミは両手で抱えられない程に革袋に重みを覚える。

 

「な、なんで……? どうして!? 許さない……のに……どうして!?」

 

「教会の連中が騒いでたよ。まだ確定していないけど、姉ちゃんは無事みたいだしな。だから……生きろよ。DBOはさ、最悪なことに優秀ならガキでも成り上がれる世界なんだ。お前なら生き残って成り上がれる」

 

「……止め、てよ。そんな……そんな風に……知ったような口で……」

 

「悪い事は程々にしろよ? 恨みを買って、クズ共に利用されて、誰も助けてくれなくて……死んじまったら、終わりなんだからさ」

 

 嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 こんな安っぽい言葉で心を動かされたくない。こんな安い同情で泣きたくない。こんな……こんな……こんな……!

 

「わた、し……私……ほん、と、うは……本当は……み、んなが……羨まし、かった……! こんな……温かな……場所で……優し、い人たちに……囲われ、て……! この世界は……あんなにも……残酷な……はずなのに……!」

 

「……ハナミ」

 

「私……私……み、んなと……お勉強……して……つよ、くなって……生き……たかった! でも……でも……でもぉ……!」

 

「分かってる! 言うな! 今は……『今』は言うな!」

 

 年相応の少女らしく泣きじゃくるハナミをチョコラテは抱きしめる。これ以上の嗚咽が衛兵に聞こえないように自分の胸に埋めさせる。

 

「生きろ。生きて、生きて、生き抜いて……会いに来いよ。お前も吃驚するくらいに偉くなった俺がお前の罪を許してやるから! 『仕方なかった』で許されないとしても、俺がお前を守ってやるから! お前が自分を許せるようになるまで、俺が守ってやるから」

 

「……本当に?」

 

「ああ、本当だ」

 

 ただ生きたかった。

 たくさん傷ついたから、たくさん傷つけた。

 たくさん汚れたから、たくさん汚した。

 罪は意味を持たなくて、罰を下す者はいつだって理不尽で、正義も悪も天秤にすらかけられなくて、生き残っていくことだけが全てだった。

 ハナミにとってそれこそが全てだと『信じるしかなかった』のだ。

 

「俺が衛兵を引き付ける。その間に逃げろ。じゃあな」

 

「……待って」

 

「なんだよ?」

 

「どうして、そこまで強くなれたの? どうして……?」

 

 先程の投げ飛ばしではない。チョコラテが自分と同じ貧民街出身とは思えない程に、他の孤児達と比べても『自分』の道を歩いていることに、ハナミは問わずにいられなかった。

 

「……憧れてんだよ。俺が知る中で、世界で1番強くて、世界で1番恐ろしくて、世界で1番優しくて、世界で1番不器用で、世界で1番……俺のことを期待してくれてる人にさ。だから、俺は『俺』として生きる。たとえ、正しくないとしても、この世界は理不尽で狂っているなら、俺は『俺』の正しさを曲げない。そして、世界で1番頑張り屋のあの人に言ってあげるんだ。『アンタのお陰で俺は生き残れた。強くなれた。幸せになれた。ありがとう』ってさ。それが俺の……夢なんだ!」

 

 照れくさそうに笑ったチョコラテは、今度こそお別れだと手を振りながら消えていく。彼の宣言通り、裏口の衛兵は出払っており、ハナミも容易く抜け出すことができた。

 

 生きたかった。

 

 生きたくて、たくさんの人を傷つけて、たくさんの人を汚して、たくさんの人を苦しめた。それが生き残る方法だと信じ続けた。

 

 今も変わらない。自分の生きられる場所など限られている。堕ちる時も奪われる時も一瞬だ。

 

 それでも、今はもう少しだけ前を向いて生きようと思えた。

 

「……ありがとう」

 

 地平線から昇った太陽を浴びながら、最後にもう1度だけ大聖堂を振り返ったハナミは年相応の……何の穢れも無いかの如く、穏やかに微笑んだ。




失いながらも生きていく。

己に問いかけるのは善悪ではない。

ただ罪の居場所が知りたいだけ。


それでは343話でまた会いましょう!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。