SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

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前回のあらすじ

復讐の狼は、だが為し遂げることなく倒れた


Episode21-08 オチテ オチテ オチテ

 まずは1つ。グリムロックは至福の笑みでチェーングレイヴより支払われた報酬を保管庫に入れる。

 間もなくだ。あと1つ揃えば、グリムロックが目指す作品に至る道筋が出来るのだ。逆に言えば、最後の1ピースが欠けている限り、決して到達することは出来ない夢幻の如き代物であり、他の如何なる素材でも代用することが出来ないとも言える。

 グリムロックは考える。自分の装備は独創性が強過ぎるが故に使用者を極度に限定化……もとい、スペックを追求し過ぎて事実上のクゥリ以外に扱えない状態になっている。

 ヘンリクセンが開発する装備は、彼の掲げるトータルコーディネートの通り、使用者の適正に配慮し、能力を極限まで引き出し、また活かすことを目的としている。逆に言えば、ヘンリクセンは偏屈な性格に反して使用者と密に連携して装備開発するタイプであり、故に奇抜・突出した装備を生み出したとしても、あくまで使用者の枠から逸脱することはない。

 だからこそ、ダウングレードすればある程度の汎用性の余地が生まれる。彼の作品であるラスト・レイヴンのアイディアを瞬く間に大ギルドが模倣し、独自路線で開発し、ある程度の性能を獲得できたのは良い例である。

 マユの場合は変形機構の権威であるからこその高性能小型化こそが強みだ。軽量かつ小型化しつつ性能を据え置き、ないし上昇させられるのは使用する素材だけではなく、マユのアイディア・腕前・並々ならぬ研究によって支えられている。大ギルドが諦めただろう、多くの機構を彼女はあっさりと搭載する。たとえば、【黒の剣士】のメイデンハーツはユニーク素材を使用しているにしても、銃弾の無限精製、ヤスリをエネルギー変換して銃弾をエンチャント、更には変形による近接ブレードと多機能搭載である。それを大型ハンドガンサイズに組み込み、なおかつ【黒の剣士】のような苛烈な接近戦型でも耐えられる耐久性能を維持するのは凄まじい。

 逆に言えば、彼女の装備はプロトタイプとしての優劣が極端に出るタイプである。そもそも変形武器は多彩な局面に1つの装備で対応できるという強みを持つ一方で、真価の発揮は使い手に委ねられる傾向がある。もちろん、武器枠を消費することなく、わざわざ装備の切り替えという手間もかけずに全く異なる性質の装備を扱えるのは心強いが、その一方でどうしても使い手を選ぶ。

 教会の工房のイドはワンオフの傑作を生み出すことはない。それこそが彼のやり方だ。象徴性の高い装備を生み出し、また如何なる難物であろうともある程度の性能を備えた代物として量産化を可能とさせる。希少素材を用いてもユニーク素材を使わない。それがイドのスタンスなのだ。

 だが、それは装備に限定される。イドは種火にユニークソウルを組み合わせる技術を唯一保有する鍛冶屋であり、教会の至宝の逸材として、大ギルドさえも頭を垂らす切り札としての役目を担っている。たった1つのユニークソウルでたった1つの装備を作るのではなく、種火といった生産設備に組み込むことによって、付与できる能力・効果は低下したとしても、ほぼ無制限に恩恵を与えることができる。大ギルドがソウル・リアクターや機動甲冑といった、従来ならばユニーク級の素材を用いねば実用不可能だった装備を量産化出来ている裏にはイドの技術力を用いた、教会の強かな政略があるのだ。

 そして、自分はどうだろうか? ヘンリクセンと共同開発したVOB、ラスト・レイヴンの礎となったレイレナードなどはある。メガフロートなどの『実験』も幾らか行っている。だが、グリムロックが最も望んで生み出した装備はいずれも規格外過ぎる。ダウングレードさえもできない。したところで意味がない。そんなものばかりだ。

 だからこそ、政治的取引の準備はいつでもしておかなければならない。大ギルドに売却する為の技術を蓄えておかねばならない。そうした技術開発も回り回って本命に役立つのであるが、どうにも面白くないのは当然だろう。

 

(VOBの量産化ねぇ。アレも一応だけど、大ギルドの資本があったからこそ開発できたものだけど、さすがに量産化はなぁ……)

 

 VOBの問題点は3つある。3つ『しか』と見るべきか、3つ『も』と見るべきはともかくとして、だ。

 1つ目は製造コストだ。なにせ1つ1つのパーツが手作りであり、組み立て作業も必要ならば、発射台も不可欠である。木っ端微塵の零細ギルドはもちろん、大ギルドに次ぐ財力を持つ有力ギルドでもコストが大き過ぎる。そして、大ギルドにしても銃弾みたいに安易に量産できるものでもない。

 2つ目は超スピードに対応できるプレイヤーの技量。なにせ、ロケットブースターでぶっ飛ばすというシンプルであるが故に制御全般はプレイヤーに任される。クゥリだからこそ軽々と制御できていたが、大半のプレイヤーは何が何だか分からない内に目的に到着するか、あるいは迎撃されて墜落・死亡するかのどちらかである。

 3つ目はプレイヤーが耐え切れずに圧死する事である。クゥリの場合は白木の根と白夜の魔獣を併用することによって内外から補強する事でクリアし、ヘンリクセンの本来の想定ではラスト・レイヴンに搭載されたソウル・アーマーのようなバリアによって耐えるはずだった。前者の場合、破裂する内臓と砕ける骨を体内に張り巡らした白木の根で堪えながら到着次第に戦闘を開始し、なおかつリゲインによって敵対者を倒すことで回復することが出来るクゥリだからこそできた力業である。

 1つ目の問題は金に糸目を付けぬならばクリアできる。2つ目も訓練次第では可能だろう。だが、3つ目だけは不可能だ。たとえ、強固な全身甲冑に身を纏おうとも潰れる。鎧は無事でも中身が潰れる。よって死ぬか、生きてもまともに動けない。そもそも体の中身を潰されながらVOBの超スピードを制御しきれるか疑問である。

 

(大ギルドも無茶を言う。解決手段が無いわけじゃ無い。ソウル・アーマーのように、VOBの負荷を遮断する性質を持ったバリアを形成できればいいんだ)

 

 もちろん、それが出来ないからグリムロックにお鉢が回ってきたのだが。DBOにはバリアを張るモンスターは数多くいるが、それらを再現できた試しがない。

 最も近しいといえば、聖剣騎士団はついにフェイス・スクリーン・フィールドの実装に成功したとお披露目があった。

 フルフェイスの兜は高い防御力を確保できる反面、視界が制限されるというデメリットもあった。これを解決する手段は幾つかあり、機動甲冑で言えばカメラアイを設け、兜の内部では映像を目視し、なおかつ付随した多くの情報によって戦闘を有利に進めることが出来る。最新モデルではAIのサポートによって、敵の数、近接・射撃を問わない運動予測、機動甲冑による精細な自身の状態のモニタリング情報なども確認できるなど、プレイヤーの技術に頼りきりにならない、装備によるサポートによる質の底上げに重点を置かれている。

 聖剣騎士団が開発したフェイス・スクリーン・フィールド……通称FSFは肉眼による目視を邪魔しない顔面部を露出したハーフ型でありながら、顔面にバリアを形成し、顔面に対する防御力を維持するというものだ。普段は透明透過であるが、敵性のある攻撃が接触するとバリアとして機能して攻撃を防護・遮断するというものである。FSFの強みは、フルフェイス型の弱点であった口内摂取型アイテムをスムーズに使用できる点にあり、またフルフェイス型のような圧迫感がなく、プレイヤーのストレスを低減して戦闘に割り当てられる集中力を増加させられる事にある。

 ただし、お値段はもちろん破格である。またフルフェイス型に比べても防御力が高いというわけでもないので、あくまで防御面を重視するならばフルフェイス型は有利という点も変わらない。だが、これまでは重量や視界の関係でハーフの兜を採用していたプレイヤーの心を大きく揺さぶったのは違いない。太陽の狩猟団もクラウドアースも早速とばかりに実物を手に入れて分析を行っているだろうが、そう簡単には真似できるものではないだろう。

 聖剣騎士団のFSFを進歩させ、全方位に展開できるようにしたならば? 現在でも盾にバリア発生機構を仕込み、中盾でありながら時には大盾に匹敵するガード性能と防御範囲を実現する事が可能である。決して不可能ではないだろう。

 

「ハァ、何で私がこんな事に頭を悩ませねばならないんだ?」

 

 もちろん、この程度の発想を大ギルドがしていない訳がない。した上で出来ないと断じたからこそ、グリムロックに仕事が回ってきたのである。

 何事にもツケの支払いはあるものだ。ラストサンクチュアリ壊滅作戦で大暴れしたのだから、報道はともかくとして、表向きは不問にする代わりにあれこれ大ギルドから突かれるのも仕方がない事である。特に最大の損害を被った聖剣騎士団からすれば面白くないのも当然だ。

 後回しにしよう。グリムロックはVOB対策を放り出し、今は真っ先に取り掛かるべき仕事に移る。

 今回の黒狼アリシア討伐では、アリシアからドロップした素材の所有権を獲得してある。クゥリはチェーングレイヴに譲渡する事を希望していたが、グリセルダが拒否したのだ。今回の作戦の最中に太陽の狩猟団からの横槍があり、これにチェーングレイヴは承諾した。この時点でクゥリと太陽の狩猟団の激突もあり得たのである。今回はサインズを通していない依頼である事から太陽の狩猟団から報復を受けたとしてもサインズが間に入る事は無い。最悪の場合、クゥリ+黄金林檎は太陽の狩猟団の敵対者として苛烈な制裁を受けたかもしれないのである。

 もちろん、クラインからもグリセルダに通達はあったのだが、肝心要のクゥリが仕事中であった事もあり、バトルシステムの起動中はメール受信を確認できない事も災いし、彼が知るのは全てが終わった後であった。これらの謝罪も含めてアリシアの素材は全てクゥリに所有権が与えられたのである。

 

「これでようやく修理ができる」

 

 破損した古狼の牙の首飾り。アリシアからドロップした素材は2つ。ユニークソウルではなかったが、それに匹敵するだけの強力な素材だ。まずは【黒狼の王牙】であり、もう1つは【黒ずんだ心臓】である。

 素材の性質を順当に考慮するならば、元のスタミナ回復速度上昇効果を維持しつつ、闇属性防御力を高められるようになるだろう。だが、グリムロックはそれを『つまらない』と断じる。これらの素材には更なる先があり、それを可能とするだけの素材の取り寄せは既に開始しているのだ。

 グリムロックの計画通りに、クゥリがチェーングレイヴのもう1つの依頼を完遂して『アレ』を報酬として入手すれば、いよいよ白夜の狩装束は完成に至る。だが、同時にこれまでのクゥリの傾向からも、そしてグリセルダから是非ともない提案を受けていた。

 

(まぁ、分からないでもない。首飾りならば確かに可能だろうしね)

 

 グリムロックも概ね好意的である。クゥリには最も不要であり、だからこそ必要と呼べるものではあるだろう。

 何にしても仕事は手早く済まさねばならない。出来れば、彼が次の仕事に移るより先に完成させねばならないのだ。既に前々から準備していた設計図もある。グリムロックは意気込んで炉に適した種火を入れ、素材を準備する。

 

「グリムロックさーん」

 

 と、聞こえてきた声にさすがのグリムロックも体を強張らせた。

 散らかった工房にひょっこりと顔を出したのは上機嫌そうなユウキである。

 アリシアはユウキと仲が良かった事をグリムロックも知らされている。だからこそ、今回ばかりは素材について彼女には1つとして漏らさないようにとグリセルダとも確約している。

 ユウキはクゥリがアリシアの討伐したことを知っているのか否か。少なくとも、クゥリが関与していることまでは把握していると聞いている。グリムロックは振り返る前にごくりと生唾を呑み、そして彼女に歓迎の笑みを浮かべて応じた。

 

「やぁ、ユウキちゃん。今日はどんな用事かな?」

 

「大した用事じゃないよ。武器の修理をお願いしたくて。ちょっと欠けちゃったみたいなんだ」

 

「ふむ、どれどれ。ああ、これくらいなら破損の内に入らないよ。修理には……1時間もかからないかな」

 

 ユウキの愛剣である宵の明剣はガウェインのソウルが使用されたグリムロックの作品である。他の鍛冶屋に修理させることをグリムロックは認可しているが、こうしてわざわざ足を運んだという事は、別の案件があってこそだろう。

 ユニークウェポンの修理には気を遣うとはいえ、少し刃毀れした程度ならば問題ない。とはいえ、修理素材はそれでも高値である。修理に不可欠な燃料は≪鍛冶≫スキルで購入せねばならなず、修理素材と燃料にお得意様でオマケした分だけ上乗せした金額を要求する。

 メインの炉には既に首飾り用の調整と種火がセットされてある。修理用のサブの炉を稼働させ、準備を始める。

 修理の方法も様々であり、大規模な工房ともなれば当然のようにオートメーション化されているが、グリムロックは自分の手を信用している。

 燃料で燃え盛る炉に修理用の【ウーラシールの種火】を投じる。これだけでもコストが大きく下がる。修理素材を溶かして修理用インゴットを生成し、炉に剣を入れる。溶けた修理用インゴットはまるで涙のように剣に注がれ、まるで熟したように煌々と熱せられたところで引き抜き、【巨人の小槌】で叩く。打ち上がるのは火花ではなく雷光であり、丹念に仕上げていく。

 あとは冷却用の水に剣を入れて冷やして待つだけである。これで全く性能を落とすことなく破損を直すだけではなく、しばらくは耐久度消耗低減のボーナスも付くはずである。普通の鍛冶屋ならばここまでの工程もかけず、また技術も要さない。単に破損部位と耐久度を回復させるだけならば、たとえ高コストをかけても手間を惜しむ方が建設的だからだ。

 

「相変わらず惚れ惚れするなぁ。グリムロックさんが専属で、クーは幸せものだね」

 

 見学していたユウキに褒められ、グリムロックは大したことないと肩を竦める。

 

「私の作った作品だからね。最大限の愛情を込めて直してあげるのが礼儀さ」

 

「でも、クーは修理できる見込みがないくらいに壊すよね。それはどうなの?」

 

「……彼はあれでいいんだよ。直せない武器は素材にして生まれ変わらせる。1つ間違えれば新しい素材ごとスクラップになるだけだけど、私ならば可能だからね」

 

「そっかぁ。じゃあ、グリムロックさんがいなくなったら、クーは弱体化しちゃうね」

 

 悪意のない、単純に事実だけを指摘したユウキの笑み。グリムロックは何故か薄ら寒さを覚える。

 やはりバレている? 炉の熱のお陰で垂れる汗に紛れて、緊張の脂汗が滲み出る。グリムロックは心拍を抑え、努めて冷静を心掛けながら、真新しいタオルで顔を拭いた。

 

「ところで、クリスマスの予定はどうなんだい? クゥリ君を誘えたのかな?」

 

「実はまだなんだ。それで、グリムロックさんからも知恵を借りようと思って……ほら、アリシアの事があったでしょ? クーもボクに遠慮して近寄らないだろうしさ」

 

 やはりクゥリ君が討伐したと知っている? それとも関与している事だけを? まだ見分けがつかない。グリムロックは失言しないように頭を巡らせる。

 

「私が伝言してもいいけど、やっぱりユウキちゃんが自分の口で伝えるべきじゃないかな? それが無理ならメールでもいいと思うよ」

 

「だよね。だったら、自分の言葉でちゃんと伝えたいんだけど、そうなるとクーがボクと会ってくれなささそうなんだよなぁ」

 

 言われてみれば確かに。クゥリは図太いように見えて繊細である。今回の件でユウキと関わるのを避けるようになるのはグリムロックにも予想できた。いや、より最悪を言うならば、彼ならば自分の口でアリシアを殺したと伝えるべく最悪のタイミングを選びそうな気すらもしていた。

 想像する。クリスマス、ようやく出来上がったムードの中で、自分がアリシアを殺したと告白するクゥリ。驚く程に違和感が無いせいで、グリムロックは恐ろしくて震えた。その程度には空気が読めない子であると評価していた。

 ならば大人としてクゥリがアリシアを殺した事を伝えるべきか? いや、他人の口から伝えるのもまた角が立つだろうし、どうせならば弁が立つグリセルダが適任だ。だが、こんな時に限ってというわけでもなく、実に順当に愛妻は仕事で出払っている。今日も真っ当な仕事を得る為に悪戦奮闘しているのだ。

 ヨルコは? 駄目だ。先程、植物園でショーツ1枚という破廉恥な姿で泥酔していたのを発見した。あと半日は起きないだろう。アレはもはや女性としての恥じらいすらも捨てた酔っ払いだ。せめて半分でも酒が抜けない限り、役には立たない。

 

「ユウキちゃん、実はね……」

 

 だったら、大人として私が敢行するしかない。目を見開いて覚悟を決めたグリムロックは地雷を探るように慎重に声を発する。

 

「ほら、アリシアを殺したこと、クーは自分を責めてるだろうしさ」

 

「……ふぁ!?」

 

「驚くことじゃないでしょ。ボクもチェーングレイヴだよ? それくらいの情報、入って来るよ」

 

 まだ1晩しか経っていないというのに冷静だ。いや、そう見えるだけなのか? ユウキは窓の縁に腰かけ、黄金林檎の工房を囲う森林を眺める。その眼差しの先に映るのは生前のアリシアの姿か、それとも別の何かか。感情の読めない瞳にグリムロックは惑わされる。

 

「アリシアはたくさんの人を脅かした。だから倒された。それだけだよ。クーがしなかったら、別の誰かが殺していた」

 

 太陽の狩猟団はアリシアの捕獲を目論んでいた。だが、結果的に言えば、捕獲を担った狩猟ギルドは全滅し、なおかつアリシアの戦闘と思われる余波により、周囲一帯には甚大な被害が及んでいた。巻き込まれたと思われる貧民プレイヤーは100人を超え、また確定情報ではないが、狩猟ギルドの監視を務めていた暗部もまた犠牲になったという。

 あの場で何が起こったのかを知る者はクゥリだけだ。だが、彼は『ミッション完了』とだけ告げた。

 

「そうだよ。たくさんの人を怖がらせて、たくさんの人を殺して、たくさんの人に憎まれて、だから殺された。それが『正義』だよ」

 

「正義なんて軽々しく使うものじゃないよ。それを言ったら……」

 

 クゥリ君も同じじゃないか。そう言いかけて、グリムロックは慌てて飲み込む。

 数多の恐怖をばら撒き、数多の死をもたらし、数多の憎悪を集める。それはクゥリそのものだ。だが、だからと言って当然の権利としてクゥリが殺されるべきだと、それこそが正義だとグリムロックは声高に叫べない。

 だが、グリムロックの内心を見破っているかのように、ユウキは薄く笑った。それは自嘲に似て、あるいは失笑のようでもあった。

 やはり今日はユウキちゃんらしくないな。平静を取り繕うのに精一杯なのかもしれない。自分の所に来たのも、クリスマスの誘い方を聞きに来たのもあるだろうが、1番はストレスをぶつけに来たのかもしれない。ならば大人として受け止めるのも自分の役目かとグリムロックは深呼吸を挟む。

 

「そうだよね。『正義』なんてくだらない。大事なのはこの胸に宿る気持ちだよね。『為すべきことを為す』。ボクが『ボク』であるからこそ」

 

「そう! そうだよ、ユウキちゃん!」

 

「ねぇ、ところで、それは何? ボク、専門だから分からないけど、何かの設計図?」

 

 テーブルに置いたままだった首飾りの修理、もとい改造の設計図を面白そうに見たユウキに、グリムロックは苦笑いする。

 

「クゥリ君はあの通り、すぐに装備を壊すからね。今から修理するのさ」

 

「へぇ、また改造するの? 使い難くしちゃ駄目だよ?」

 

「ははは、手厳しいなぁ。まぁ、今回はお楽しみ……かな? さすがのクゥリ君も驚くはずだよ」

 

「ねぇ、見学してもいい? どんな風に改造するのか見てみたいんだ」

 

 ユウキのお願いならば断われない、とはさすがのグリムロックも言えない。申し訳なさそうに手を合わせた。

 

「ごめん。酷い言い方になっちゃうけど、ユウキちゃんは黄金林檎の部外者だからね。自分で言うと少し恥ずかしいけど、私はこれでも破損した装備の再利用に関してはDBOでも随一だと思ってるんだ」

 

「まぁ、クー以上に装備を壊して生還できるプレイヤーなんていないしね」

 

 普通でも何でもなく、クゥリのように装備が修理不可能になるまで酷使するより先にプレイヤーの方が死ぬ。むしろ、装備がどれだけボロボロになっても生還できるのは、彼が装備に依存せずとも常に極めて高い戦闘能力を発揮できる証左でもある。

 

「あ、もしかして、もう始めるつもりだった?」

 

 メインの炉が稼働している事に気付いたのだろう。グリムロックは笑ってユウキの訪問は邪魔だったわけではないとアピールする。

 

「うわぁ、綺麗。キラキラと燃えていて……まるで星が散りばめられているみたい」

 

「種火に細工があるのさ。炉の設計はもちろんだけど、種火は言うなれば心臓部だからね。イド程ではないけど、私も種火には幾らかの細工を施しているのさ」

 

「それが装備再利用の秘密?」

 

「まぁ、それだけじゃないけどね」

 

 実のところは設備以上にグリムロック自身の技量や設計、素材の采配による部分がウェイトの大部分を占めるのだが、それこそ企業秘密である。誰にも模倣させない素の腕前の有無はHENTAI鍛冶屋の共通の武器である。現実世界でもロボットとコンピュータがタッグを組んでも職人技には勝てない事例があるように、装備再利用にはグリムロックという替えの利かない黄金の歯車が不可欠なのだ。

 

「ここからクーの新しい武器が生まれるんだね」

 

「私の試行錯誤の末にね」

 

 さて、そろそろか。ユウキの剣の修理が完了する頃合いだとグリムロックは冷却が完了した宵の明剣をチェックする。破損個所はもちろん修復され、耐久度も完全回復している。また耐久度消耗低減ボーナスだけではなく、刺突属性にダメージボーナスも付与されている。まずまずの出来栄えである。

 

「ありがとう。それじゃあ、そろそろ帰るね」

 

「クゥリ君と話せる時間は私の方で準備するよ。アリシアの件は、私も1枚噛んでるからね」

 

「……そっか。じゃあ、期待しておくね」

 

 やはり空元気だったのだろう。手を振って工房を後にしたユウキの後ろ姿には寂しさが……まるでもう2度と戻って来れないような切なさがあった。

 無性に追いかけたい衝動に駆られたグリムロックであるが、今は自分の仕事をやるべきだと星屑が散るように輝く炉に向かった。

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 黄金林檎の工房からの帰り道、ユウキは直したばかりの宵の明剣を手元で躍らせる。

 少し性急過ぎたか。『わざと』破損させて理由を作って工房を訪ねたが、思いの外にガードが厳しかった。

 一見すれば無防備であるが、その実は超小型ゴーレムが常に外周を徘徊しており、工房内にも各所に潜んでいた。あれではグリムロックの暗殺どころか、工房から技術・素材を盗むことさえも不可能だろう。辺鄙な場所に工房を構えている割に、大ギルドが全く工作できないのも頷ける堅牢さだ。そして、何よりもグリムロックの油断とは思えない安心感は彼自身の覚悟だけではなく、取って置きの大戦力を秘密裏に準備しているからこそなのだろう。

 ひと噛みで致死させる猛毒を持つ蜘蛛を殺すならば、まずは足を千切り取るのが良い。そう思っていたが、足にも並々ならぬ毒が潜んでいるようだ。ユウキは方針変更だと溜め息を吐く。

 

(変更? 何を変更するんだっけ?)

 

 ぼんやりとした頭で思い返す。グリムロックを訪ねたのは? ああ、そうだ。『武器が壊れてしまった』からだ。そして、それとなくアリシアの件も探りを入れる為だ。

 アリシア。殺された。殺された。殺された、クゥリに殺された。ユウキは自分の影をぼんやりと見つめる。影はまるで溶岩のように滾って揺らいでいる。

 早くクリスマスにならないだろうか。いや、その前に誘わねばならない。クゥリと一緒に過ごすのだ。彼にとってクリスマスは大切な日なのだから。そして、ユウキにとっても、大切な約束を結んだ日だ。たとえ、預かった祈りは呪いになり果てようとも、それでも自身の祈りを見出す切っ掛けになった日なのだから。

 

「ボクの……祈り……ボクの祈りは……」

 

 巡る。たくさんの思い出が巡っていく。散らばる記憶の破片の中で、ユウキは溺れるように想起して、その中で小さな輝きの喪失を見る。

 それは鏡。焼け爛れた己の姿が映る鏡。だが、欠けている。割れてしまって、破片が失われて、自分の胸を映す部分が大きく損なわれてしまっている。

 不思議と安堵した。何故だろう。鏡の損なわれた部分を触れようとして、だが濁流のように押し寄せる記憶を知る。

 大切な記憶。大事な思い出。『ユウキ』にとって何よりも愛しい人『達』。

 

「任せて、『パパ』、『ママ』……! 必ずやり遂げるから……!」

 

 ああ、それこそが『ボク』の祈りなんだ。ユウキは憎たらしくて堪らない、この世から必ず滅ぼすと誓ったバケモノの心臓に突き立てるかの如く、グリムロックが鍛えた宵の明剣を振るう。

 倒せ。殺せ。滅ぼせ。これは正義ではない。必然なのだ。バケモノが存在する限り、人々に安寧は訪れず、恐怖ばかりが深い夜の如く続き、誰もが怯えて涙する。大切な人たちは傷ついて苦しみ、喪失に溺れて狂う。

 だからこそ、使命を果たすのだ。奪って、苦しめて、踏み躙って、それから殺すのだ。バケモノが今までそうしてきたように!

 バケモノ? バケモノとは『誰』だろう? ああ、また曖昧になった。でも、それでいい。『その瞬間』が訪れるまでは、この胸の高鳴りに身も心も任せたい。

 

「早く会いたいなぁ、クー……!」

 

 恋する乙女のような笑みでユウキは刃を振るって踊る。いつかその剣が愛しくて憎たらしくて、愛しくて憎たらしくて、憎たらしくて憎たらしくて、憎たらしくて堪らない存在の首を落とすことを願うかのように……踊る。

 

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 アルヴヘイム。フロンティア・フィールドと同じく水準レベル100であり、広大なフィールドと多彩なダンジョンが存在する。

 大ギルドが早々にフロンティア・フィールドの攻略へと注力した為に、多くのイベントやアイテム、ミニダンジョンが未発見状態のまま放置されており、大ギルドや有力ギルドから仕事を請け負って探索する中小ギルドや一獲千金を狙うプレイヤーが後を絶たず、現時点ではフロンティア・フィールドに次いで死亡率が高い。

 広大な土地ではあり、プレイヤーが所有権を得られる土地も多いのであるが、その一方でアルヴヘイムに入る為には3つの隠し道のいずれかを使用しなければならない。仮に使用しない場合、先に到達した人物が開設した転移ゲートを用いねばならない。また、広大なフィールドに相応しくNPCの数も最多であり、獣狩りの夜を忘れられないプレイヤー達からは移住を倦厭されている。

 東西南北と中央で特色が異なり、それぞれに巨大なメインダンジョンとイベントダンジョンが存在する。それぞれが異なる特色を持つのであるが、その中でも群を抜いて悪趣味とされるのがシェムレムロスの館であり、立ち入った者にトラウマを刻み込める為に、大ギルドと教会は許可なく探索する事を禁じている。

 登場するモンスターも多種多様であるが、翅と尖った耳が特徴の妖精はNPCとしてだけではなく、盗賊などのモンスターとして登場することもあり、特に飛行能力を『取り戻した』こともあってか、極めて厄介な立ち回りをしてくる強敵である。

 アルヴヘイムのモンスターは強い。それは何もHP・攻撃力・防御力といったステータスや能力などが総じて高いだけではない。DBOの傾向の通り、高い水準レベルのフィールド・ステージ・ダンジョン程により優秀なAIが搭載されているからだ。レベル100水準の人型モンスターともなれば、並の上位プレイヤーでは1対1でも勝ち目があるか怪しいのである。

 故にアルヴヘイムで生き残れるだけの実力があるならば全ての局面で有用であるという証拠にもなる。アルヴヘイムで培った経験は何にも勝る財産であり、故に困難極まりない。

 

「ユナ! 距離を取れ!」

 

 強烈な衝撃。額から血を流し、右目の視界が赤く染まったユナは歯を食い縛りながら後退る。

 キリトが相手取るのは【紅蓮の狒々王】。その名の通り、紅色の体毛に覆われた全長5メートルにも達する巨大な狒々……の王である。素早い動きで相手を翻弄し、巨体を活かした格闘攻撃を仕掛けてくる。また、体毛は熱を帯びており、擦り合わせることで炎属性を帯び、周囲を焼き払う炎の咆哮や拳に炎の竜巻を纏わせるなどの特殊攻撃を可能とする。通常の紅蓮の狒々が全長3メートル程度であるならば、実に倍近い巨体だけではなく、デバフ耐性の高さも合わせたタフさを誇り、また紅蓮の狒々を呼び寄せるなどのサポート能力も秀でている。

 いわゆる準ネームド級。ネームドでこそないが、それに匹敵しかねない脅威を誇るモンスターだ。対策・下準備無しに偶発的な遭遇をすれば、水準レベルを満たしたフルメンバーのパーティでも壊滅不可避であり、即急な退却が求められる。

 狒々王は太い腕を振り回し、粘ついた樹液を秘めた【油の黒樹】を着火させて投げ飛ばす。この油露の森はその名の通りに全体的に油分が多い植物が群生しており、紅蓮の狒々の能力を最大限に活かせる。ユナはスタミナ切れでもないのに息荒く駆け、狒々王から距離を取る。

 正面から相対するのはキリトだ。彼は銃撃をものともしない狒々王に対し、漆黒の剣……月蝕の聖剣を果敢に振るう。その斬撃は鎧の如き狒々王の体毛を容易く破り、鋼を束ねたような筋肉すらも断つだろう。だが、深く入った斬撃に相反して狒々王が負った傷は浅い。たとえ深く斬りつけたとしても、実際に生じる傷の深さには比例しない。あくまでダメージ到達震度、与ダメージ、攻撃が有する斬撃・刺突・打撃の属性値とモンスターの耐久面による計算によって割り出されるのだ。

 狒々王が炎の衝撃波を纏った咆哮を放つ。キリトは聖剣でガードするも破壊力が高過ぎて数メートル吹き飛ばされる。それでもノーダメージなのは聖剣のガード性能の高さだけではなく、同時に放出された漆黒の粒子……月蝕の奔流のお陰だ。

 立ち並ぶ大樹を利用して狒々王は3次元機動を可能とし、対するキリトはメイデンハーツから放ったソウルワイヤーを利用して飛び回り、また枝を足場にして接近する。

 狒々王とキリトの一瞬の交差。禍々しく笑った狒々王は空中で回避できないキリトに勝利を確信した右ストレートを放つが、彼は放出した月蝕の奔流を利用して空中で動いて回避する。いや、それだけではない。メイデンハーツは変形し、銃身はグリップに対して垂直になる。そして、灰色の半透明ブレードがまるで最初から備わっていたように銃身に形成される。

 キリトのメイデンハーツの新機能『クイック・ブレード』。短時間だけブレードを形成し、迅速に≪二刀流≫を発揮できる。ヤスリエネルギーの伝導は出来ないが、変形後の接続というアクションを省くことによって速攻が大幅に改善されている。

 発揮されるのはキリトの本領たる二刀流。だが、それだけではない。左右の剣はソードスキルのライトエフェクトを帯び、キリトは全身を高速で縦回転させながら2本の剣で狒々王の右腕を抉り裂く。

 

「ラジードスペシャルB改、【ツイン・ムーンドロップ】」

 

 高速縦回転斬りで対象を抉りながら突進する、対人よりも対巨獣を想定したOSS。まさかのカウンターを浴び、狒々王は悲鳴を轟かせながら落下する。更にキリトはメイデンハーツに接続された灰色の刃を射出する。それは狒々王のうなじに命中し、炸裂して衝撃波を散らす。追撃を受けた狒々王が悶え苦しむ中で、まるで憎しみをぶつける相手を見つけたように距離を取っていたユナへと突進する。

 

「ユナ!」

 

 逃げろ! そう続くより先に狒々王がジャンプし、ドロップキックを放つ。それはユナを大樹に挟み込んで潰すかに思われたが、寸前でユナは石に躓いて転がることで運よく避け、逆にフルメタリックの銀色をしたライフルを狒々王に向ける。

 ユナの視界に表示される射撃サークルは狒々王の顔面を捉えている。ユナは一呼吸の間に冷静さを取り戻し、トリガーを引く。

 放たれるのは圧縮された過冷却水。顔面に浴びた水は狒々王の体表を瞬く間に凍てつかせる。暴れ回る狒々王は自ら発する炎で体を温めようとするが、ユナはモードを切り替えて改めてトリガーを引く。

 銃口から放たれたのは『泡』。周囲に拡散する泡は狒々王に接触すると破裂し、それが起爆剤になって連鎖的に炸裂する。泡ではあるが、内包するのは低音の霧であり、炸裂した衝撃こそ大したことないが、発生する霧は目くらましとなるだけではなく、内包した冷気を浴びるだけでスリップダメージを与え、また狒々王の全身を凍てつかせる。

 だが、この程度で狒々王は倒せない。ほんの数秒を稼いだだけだ。狒々王は牙を剥き出しにしてユナを殺そうとするが、稼がれた数秒の間にキリトは頭上を取っていた。

 ハンドガンに偏見したメイデンハーツから放たれるのはライトエフェクトを帯びた銃弾。それは高速で、それも狒々王の頭頂部の1点に連続着弾し、肉を吹き飛ばしていく。そして、キリトはまるで斬り払うようにメイデンハーツを振るい抜き、代わりに聖剣の刺突を銃撃で開けた穴に穿つ。

 

「G&S専用OSS【ウォールブレイク・ワン】」

 

 聖剣を引き抜きながら跳び、ユナの前に着地したキリトは狒々王の血で濡れた聖剣を払う。頭頂部を銃撃と刺突で穿たれた狒々王はHPをゼロにし、最後の咆哮さえも許されずに倒れ伏した。

 

「ハァハァ……勝った……!」

 

 片膝をつくキリトに、ユナは慌てて奇跡の中回復を施す。身に帯びた大小の傷が治癒し、キリトはふぅと一息を吐いた。

 

<キリト、ごめんね。私がいたから逃げられなくて>

 

「俺の判断ミスだ。まさかこの森にあんな大物が潜んでいたなんて、準備不足だった。まったく、教会の情報も当てにならないな」

 

 ユナ達が油露の森に侵入したのは2時間前の話である。キリトがアスクレピオスの書架から請け負ったウンディーネの秘薬の素材集め、その1つ目として探しているのが【黒天の萎んだ種】である。情報によれば油露の森の何処かにある【黒天の霊樹】の腐った果実を加工することで得られるアイテムらしく、真偽はともかくとして、大した脅威になるモンスターもいないという前情報からユナのデビューに丁度いいとして踏み入ったのである。

 だが、そこに登場したのが紅蓮の狒々王が率いる紅蓮の狒々軍団である。キリトは奮戦して何とか紅蓮の狒々の数を減らしていき、狒々王との対決にまで持ち込んだが、ユナを庇いながらの戦いは長期化し、また余計な手傷を増やさせた。結果、想像以上の苦戦を強いられたのである。

 もっとも、数の不利を覆し、なおかつ準ネームド級をほぼ単独で討伐してしまう時点で規格外の域であり、キリトの強さを改めて認識したユナだった。

 奇跡で治癒したとはいえ、アバターの破損を完治させたわけではない。キリトは狒々王から貰った1発で調子がおかしいらしい左肩を回す。ユナは遠慮するキリトを強引に手頃な石に座らせ、奇跡の【癒しの手】を発動させる。オーソドックスな回復の奇跡は光の円陣に触れた対象を回復させるが、癒しの手は発動に時間がかかる分だけHP回復量もアバター修復能力も高い。また、デバフの蓄積を減少させる効果もあるので、咄嗟の支援・回復には使えないが、戦線離脱あるいは戦闘後の治療には燃費も含めて優秀な奇跡である。

 温かな山吹色の光を帯びた左手を背後からキリトの左肩に当てる。山吹色の光はキリトに注ぎ込まれ、HP自体は完全回復していたキリトであるが、改めて肩を回すと嬉しそうに頷いた。

 

「ありがとう。やっぱり、ヒーラーが1人いると違うな」

 

 褒められて照れるユナであるが、すぐに顔が曇る。今回の戦いで言えば、ユナの活躍と言えば逃げ回るか、泡霧で目くらましをするかのどちらかである。狒々王相手にはダメージらしいダメージも与えられなかった。

 ユナが蛟の息吹を組み込んだ【冷水泡銃シルバーレイン】(シノン命名)は決して高火力な武器ではない。

 まずシルバーレインは本体の白銀色のフルメタリックという如何にも重たそうなライフルに反した超軽量であり、なおかつ放つのは銃弾でもレーザーでもなく、水・泡・霧の3種類である。

 まずは標準となる過冷却水を放出する水弾モードであるが、水圧・温度はある程度の制御が可能である。ただし、低温・高圧力にする程に火力は上昇するが、反対に射程と反動が大きくなる。特に両方を最高レベルに到達させると元の軽量性も合わさり、ユナは反動で背中から転ぶことになる。また、銃弾や・レーザー程の射程もない代わりに、消費水量こそ増えるがある程度の持続放出が可能である。

 次に泡モードであるが、霧を内包し泡を放出する。泡は基本的に扇状に拡散し、一定時間か何かに触れると破裂する。狒々王に有効だったように目暗ましだけではなく、滞留時間は短くなるが極低温に調整すればスリップダメージを与える霧を連鎖的な破裂で広範囲に発生させることができる。

 最後に霧モードであるが、これは射程こそ最も短いが、銃口から勢いよく霧を放出させることが出来る。泡モードと同じく目暗ましにもなるが、低温調整すれば相手に近距離でも多段ヒットダメージを狙うことができる。

 他にも瞬時に銃口の下に大型の氷刃を形成し、近接戦用の銃剣として扱えるなど、サポートに比重を置きつつ、使いこなしさえすれば強力な武器にもなり得るスペックを秘めている。なお、元の命名はあまりにも酷かったらしく、受け取りの場に居合わせていたシノンが慈悲で武器名を変更するようにマユへの圧力をかけたのである。

 ちなみに稼働する為の動力は外部から補給せねばならず、ユナの両手には薄手の白い手袋が付けられている。よくよく見れば掌の表面には電子回路のようなものが見て取れる通り、この手袋も奇跡の触媒である。シルバーレインとセットであり、武器枠を共有しているらしく、攻撃力はまるでないが、左右の手を使って奇跡を発動させることができ、これによって雷の奇跡を使い、シルバーレインに給電を行うのである。シルバーレイン自体も奇跡の触媒の為、こちらでも奇跡の発動は可能だ。

 給電を怠れば使えなくなる点を除けば、水さえあれば無尽蔵に撃ち続けることが可能である。キリトが絶句した超吸水スポンジ弾倉は2つも準備されており、ちゃんと補給を済ませておけば、水場が近くに無くとも1回はリロードが可能である。

 防具も教会より取り寄せた防具をマユが改造したものだ。白をメインにして裾や袖に青をあしらった落ち着いた配色であり、動き易さを重視してスカートは膝丈よりも少し上である。ブーツには【月狐の爪】と【星兎の革】が使われており、環境によるDEX低下を防ぐ他にもジャンプ力の増強や静音効果、隠密ボーナスが付き、また歩くことによって魔力が微笑回復する、魔力消費が激しい魔法使い・奇跡使いの仕様となっている。

 教会の所属を意味するシンボルを銀刺繍であしらった白のロングケープは射撃属性防御力を持ち、また使用した魔力の1部を回収してサブタンクにする能力がある。また普段は縮小しているが、フードも備わっており、その際には隠密モードとして高いステルス効果を発揮するなど、生存特化に仕上がっている。

 

「……落ち込まなくていいさ。最初は誰だって手探りだ」

 

<でも、私にはSAOの経験がある。もっとうまく立ち回れないといけないはずだったのに!>

 

「先の失敗者として忠告しておく。SAOの経験に頼らない方がいい。スタミナの概念だけじゃない。あらゆる面でSAOに比べてプレイヤーに対してハードに調整されている。その分だけ自由度も高いけど、SAOとはプレイヤーに対する殺意も悪意も桁違いだ。経験は活かせるけど、頼りにすれば死ぬ」

 

 キリトは重々しく、自分の失敗を語るような恥ずかしさも込めて告げる。

 SAOとはまるで違う。ユナは今日までの経験を思い返し、その通りだと頷く。確かに通じる部分はあるかもしれない。だが、あくまで似通ったシステムであるだけで、見誤ればあっさりと食い殺される。ましてや、ユナはキリトのように100層を攻略して生き残ったSAOプレイヤーではない。道半ばで散った敗者なのだ。

 

「それにユナの立ち回りは上手だよ。あれだけの狒々に囲われてもスタミナ切れになることなく逃げ回れたじゃないか。周囲の状況をちゃんと見れてる証拠だし、臆せず逃げ続けられたのは君の判断力と精神力が優れてるからだ。もっと自信を持った方が良い。今は銃の性能に追いつけていないけど、それも時間の問題だと思うぞ」

 

<本当に?>

 

「もちろん」

 

 キリトに励まされ、ユナは自信こそ持てずとも卑下してはならないと誓う。彼がここまで評価してくれたのだ。それに応えてこその教練を受ける者としての恩返しである。

 何よりもこんなところで躓いていては追いつけない。いつの間にか遠くに行ってしまった幼馴染の背中が脳裏に過ぎり、ユナは決意を改める。

 

「それよりも……この件は本当にどう落とし前をつけてやろうか」

 

 途端にキリトの目が鋭くなる。彼の怒気が示すのは情報の食い違いだ。そもそもとして、ユナの初訓練にも適しているからこそ油露の森を選んだのだ。教会から与えられた前情報によれば、出現するモンスターは比較的温厚で非敵対的なモンスターばかりであり、攻撃してくるのもせいぜいが【油転がし虫】という事だった。

 

「いや、今回は俺も情報収集を怠ったのが悪いか。誰かを責めるのはお門違いだな。まったく、まずは自分の手足で情報収集は基本だろうに。他人任せにしていたツケだな。俺も情報屋とマネージャーを早く見つけないと」

 

<教会はそんなに頼りにならないの?>

 

「頼りにならない……というか、情報は生命線だからなぁ。依頼主から与えられた情報だけに依存していたらまず間違いなくミッションは失敗するよ。依頼主の都合のいい情報で構成されているだろうしさ。餅は餅屋。情報は情報屋。俺の場合、贔屓にしてもらえてる情報屋がいなくてさ、そういうのは……シリカに任せっきりだったから。ハァ、人脈がまるで足りないな」

 

 先程までの怒りは何処へやら。自虐の笑みを浮かべるキリトはキリトで多くの難題を抱えているようだった。ユナの目から見れば、キリトは狭く深い関係を好むタイプに思えた。広い関係を築くのも維持するのも苦手なタイプなのだろう。確かにそれでは幅広い人脈を築くのは難しく思えた。

 

「でも、本当に良かった。狒々王の蹴りを避けれなかったんじゃないかって心配したよ」

 

<偶然あそこで石に躓いたんだ>

 

 ユナはそう言って指差した先は、だが石らしい石もない、狒々王の炎によって焼き払われた更地だった。

 何処かに吹き飛んだのだろうか? ユナは首を傾げるが、キリトは気にすることじゃないと肩を叩く。

 その後、ユナ達は情報不足と判断して油露の森を脱出した。森の傍らには油売りを生業とする樵の村があり、キリトは宿屋兼食事処で休憩を望む。

 

「…………」

 

「……まぁ、言いたいことは分かるよ。あんまり美味しくないよな」

 

 そ、そんな事ないよ!? ユナは慌てて首を横に振るが、彼女の皿に盛られたステーキは1割と食べ終わっていなかった。キリトは無理しなくていいと苦笑する。

 肉は固くてパサパサ。ソースは複数の果汁を用いているのだろうが大雑把過ぎてそれぞれの風味が邪魔している。特に最悪なのは振られた岩塩であり、肉と合わさってジャリジャリと砂を噛んでるようだった。まだ添えられた固焼きパンの方が食べられるくらいである。

 

「DBOのNPC経営の飲食店は基本的に質が悪いんだ。まぁ、高価格帯なら変わってくるだろうけど、そういう店は特定のイベントをクリアしないといけなかったり、会員にならないといけなったりで面倒臭い上に常日頃から利用できるものじゃない。安くてちゃんと食べられる店もあるにはあるけど、それでも毎日はかなりキツい」

 

<だからプレイヤー経営の店が主流になるの?>

 

「そういう事さ。これも後継者なりのプレイヤー向けに調整した結果なんだろうな。食材も同じで、NPCから購入できる食材は基本的に低ランク品ばかりだ。どれだけ高級素材を扱ってそうな店でもな。しかも大半の店は1日の購入制限がかかってる。それも個人ではなく、プレイヤー全体を対象とした総数としてな。だから安かろう悪かろうでもNPCから無限購入するのもそう簡単にはできない。あくまで食材もプレイヤーメイドか採取・狩猟がメインだ」

 

 このステーキだってアルヴヘイムでは割と豪勢な方さ。そう言ったキリトはともかく腹を満たすとばかりにステーキを頬張っていたが、顎が痛くなってきたらしく、徐々にペースは落ちていき、最後は水で押し流していた。

 ユナも倣ってステーキを細かく切り分けてとにかく腹に入れる。食べねば力は出ない。食べねば死ぬ。絶食を続けても死ななかったDBOとは違うのだ。

 

(エーくんのご飯……本当に美味しかったなぁ)

 

 食材の質と料理の腕前。エイジはユナに最大限の心遣いをしていたのだろう。エイジは決して多くない財産をやり繰りして、DBO水準でも『美味しい』と呼べる食事を準備してくれていたのだ。

 教会は清貧を旨こそしていたが、台所では食材を自由に使わせてもらえたが故にユナは自分が料理をしている時は気づかなかった。本来は『食べられる味』のパンを作るだけでも決して小さくない苦労が必要なのだろう。

 思えば簡単だった。大多数の貧民プレイヤーは残飯を漁り、あるいは配給に群がって生き延びている。彼らが食すのは『食べる』以上の価値がない、味を度外視した飢えを満たすものばかりだ。

 たとえ、貧民から脱しようと戦っても下位プレイヤーの稼ぎではまともな食事も寝床も得られない。中位プレイヤーになって、ようやく人間らしい生活と余裕が持てるようになるのだろう。

 自分はズルをしている。努力したわけでもなく高レベルを与えられ、キリトの伝手を使って装備を出世払いで得られて、オマケにDBOでも最高峰のプレイヤーから教練を受けさせてもらえる。

 非難は甘んじて受けよう。たとえ後ろ指を差されようともたどり着かねばならない。エイジが何処か遠くに消えてしまう前に、何としても自分の手が届くまで強くならねばならないのだ。彼がどれだけ苦しんで今日まで生きてきたかを知る為にも、必要不可欠なのだ。

 だから……食べる! まずいから何だというのだ!? 食べられる味をしているだけ贅沢ではないか! ユナは切り分けたステーキをひたすらに口へと運ぶ。

 

「無理しない方がいいぞ。吐いたら無駄になる」

 

 涙目になりながらもステーキを食べるユナの気概は買うといった様子でキリトは頬杖をついた。

 

「……前は違ったんだけどな。色々な文化があって、食事も凝っていて美味しくてさ。本当に、ここは俺がいた頃とは違うんだな」

 

 昼間から酒を飲んで騒ぐ妖精の樵たちを観察するキリトの目に灯っているのは懐かしさ、そしてそれ以上の悔恨だった。

 

「ユナ、1つだけ忘れないで欲しい。キミが『力』を求めるのはその先にある『強さ』を欲しているからだ。何があっても見失ってはいけない。『力』に憑かれた時、キミは大切なものを失うことになる。本当に手を伸ばさないといけなかった時、間に合わなくなる。自分自身の手で本当に守りたかったはず人を傷つけることになる。多くの無関係な人を苦しめることになる」

 

「…………」

 

「俺は馬鹿だったから、そんな事にも気づけなかった。いいや、違うな。俺の『弱さ』が気づく事から目を背けさせたんだ。本当は分かっていたくせに。恐くて認められなかったんだ」

 

 キリト木製のジョッキに注がれた生温い水の水面に己の過去を映し込んでいるようだった。それはユナには分からない、理解するには余りにも彼について知らなさ過ぎる、語らずも感じずにはいられない苦痛に満ちた業なのだろう。

 

<私は見失わない。約束するよ>

 

「俺も約束する。必ずユナを強くする」

 

 ユナとキリトは指切りをした。このアルヴヘイムで、必ず各々の約束を果たすと誓った。

 だが、キリトの忠告は早速1つ無駄になった。元より小食のユナである。キリトが男感覚で注文したステーキはそもそも量が多過ぎたのだ。加えて劣悪な味である。無理に食べれば当然の如く宿の裏でゲロを吐くことになった。

 

「DBOにはまだ嘔吐機能は搭載されていないはずなんだけど、食べたばかりだとしっかり吐くんだな。消化と判定される時間ってどれくらいなんだろう。俺もまだまだ知らないことが多いな」

 

 私のゲロをじっくり見ながら分析しないで! 羞恥で顔を真っ赤にしたユナはキリトのコートの裾を掴み、自分のゲロから遠ざけた。

 

「悪い悪い。でも、こうした研究の1つ1つが案外役に立つんだよな」

 

<ゲロを見ても役に立たないよ!>

 

「分からないぞ。食べたばかりなら吐くってことは、もしも毒を経口摂取した場合、腹パンして吐き出させれば助かるかもしれないってことだしな!」

 

 た、確かにその通り……かも? キリトの力説に納得しかけたユナであるが、彼の後頭部を鞘に入ったままの片手剣が殴りつけて我に戻る。

 

「いや、駄目だから。そんな理由で女の子のゲロを観察するとか最悪だよ、お兄ちゃん?」

 

「す、スグぅうううう! 殴ることないだろ!?」

 

「殴らないといけない案件でしょ。かが……じゃなくて、クゥリさんでももう少しデリカシーはあるよ? しっかりしてよね」

 

「俺が……クー以下……?」

 

「あ、でも、クゥリさんがデリカシー無いのってここぞという時だけだし、平均すればお兄ちゃんの方が圧倒的に低いかも」

 

「あ、あああ、圧倒的ぃいいいい!?」

 

 キリトに当然だとばかりに鼻を鳴らして胸を張るのは、黒髪をショートカットにした、何処かキリトと似通った雰囲気を持つ少女だった。年齢はユナよりも上だろう。全体的に白と緑で統一された防具であり、運動性を重視していた。特に足のラインをはっきりと際立たせる密着性の高いパンツは、彼女の無自覚のスポーティな色気をこれでもか強く醸し出すのに役立っていた。

 何よりも凶悪なのは、金属製の胸当てを装備しても……いや、だからこそ強調される胸部だ。ユナは思わず自分の胸に触れる。ある。あるにはある。だが、目の前にエベレストがあったとして、傍らに丘があっても誰も目を向けない。虚しいだけである。だからと言って、そんな事を言えば地平線や水平線の住人に殺されるだろう。その程度にはユナには相応の膨らみがあった。

 

「リーファちゃんとキリトさん、一応聞きますけど、彼女は2人の関係をご存じなんですか?」

 

 と、キリトと黒髪美少女のリーファがじゃれつくようにオーバーリアクションの漫才を繰り広げる傍らで挙手をして制止を呼びかけたのは、短く刈り込んだ髪をした長身の少年だ。まだ子供っぽさを残しているが、それでも青年になりつつあることを強調した顔立ちであり、兜こそ脱いでいるが、全身には重圧な甲冑を纏っている。

 途端にピタッと黒髪男女は動きを止め、まるで出来の悪いロボットのように固い動きで離れる。

 

「いやー、リーファさん! 今日もお日柄がよく!」

 

「いえいえ、キリトさん。DBO最高峰プレイヤーのお仕事を手伝えるなんて、本当に光栄の極みです! よろしくお願いします!」

 

<2人は兄妹なの?>

 

 ユナがスケッチブックに書いた無慈悲な指摘によって、2人は落雷を浴びたかのように崩れ落ちた。

 

「スグぅううううううううううううううう! あれ程言っただろ! 俺達の関係は秘密だって!」

 

「お兄ちゃんが馬鹿やってるのが悪いんでしょ!? 女の子のゲロをじっくり観察なんてしたらツッコミを入れるしかないじゃん! 大体、スグじゃなくてリーファ! リアルネーム呼びとかそれでもゲーマーなの!?」

 

「リアルネームじゃないもんねー! 愛称だもんねー!」

 

「あー! 出たー! お兄ちゃんの屁理屈! 本当に情けないくらいに往生際悪過ぎ!」

 

 醜くも微笑ましい兄妹喧嘩だ。ユナは全く気にしていないのであるが、フォローとばかりに苦労人オーラが滲み出る青年が頭を下げる。

 

「はじめまして。僕はレコンです。リーファちゃんとコンビみたいなものを組ませてもらっていて、今回はキリトさんの仕事のサポーターとして派遣されました」

 

<ユナです。喋れないから迷惑をかけるかもしれませんけど、よろしくお願いします>

 

「いえいえ、ご丁寧にありがとうございます。ユナさんの状態については事前に連絡を受けていますし、気になさる必要はありません。あるとするならば……あそこの猿2匹ですね」

 

 さ、猿!? 辛辣過ぎる! レコンの挨拶をそっちのけにして互いに非を被せようとするDBO最高峰プレイヤーとその妹に、レコンは深い溜め息を吐いて額を押さえる。

 

「もう2人とも悪いで結論出てるでしょ? それで!? どうするですか!? この!? 状況!?」

 

「……あー、まぁ、大丈夫だろ。ユナは信頼できる人間だ。俺達の関係を知っても悪用しないだろうし、広めたりしないはずさ」

 

「……お兄ちゃんがそう言うなら、口封じは勘弁してあげる」

 

「え? ちょっと待て、スグ? 口封じしようとしてたの?」

 

「…………」

 

「黙らないでくれ!」

 

 リーファは改めてユナと向き合うとじっくりと爪先から頭頂部まで見回した上で、エドガー神父が描くような『にっこり』という擬音が聞こえてきそうな笑みを浮かべた。

 

「初めまして、リーファです! えーと、ユナさん、でしたね? お兄ちゃんとはどういったご関係で?」

 

 関係? リーファに指摘され、ユナは改めて考える。

 友人ではあるつもりだ。これから一緒に仕事をする仲間でもある。それでは駄目なのだろうか。考え込むユナに、答えを催促するように圧迫をかけるリーファに、今度はキリトが背後からチョップをお見舞いする。

 

「コラ。恐がらせるな。俺とユナは友人で仲間で、しばらくは師弟関係ってところかな?」

 

 ああ、なるほど。師匠と弟子。その関係もあるか。納得したユナであるが、一方のリーファは剣呑な眼差しを向けている。この反応、マユと似通っているが、2人は兄妹だ。あり得ないだろうとユナは自分の想像を否定する。

 

「多分それ正解です。リーファちゃんは『本気』です」

 

 レコンが小声で捕捉し、ユナはキリトも罪な男だと、彼には女難の運命が与えられたに違いないと神の存在証明を完了する。

 その後、兄妹は秘密の話だとして2人の関係を改めて明かした。実は実の兄妹ではない事。かつて大幅に改変されたアルヴヘイムで出会い、共に旅をして、一緒にオベイロンを倒すのに肩を並べた事。その後、兄妹であることはひとまず隠し、互いが互いの道を進むことを決めた事だ。

 レコンはリーファのリアルの学友らしく、SAO後に開発されたALOでも組むことが多く、その関係でDBOに一緒にログインしたとの事だった。2人はDBO初期から組んで様々な困難を潜り抜け、改変アルヴヘイムでは『色々あった』らしく、今では彼らのギルドであるフェアリーダンスの新生出発を目論み、アルヴヘイムに農園を築いたとの事だった。

 

「そっかぁ! ユナさんは『幼馴染の為に強くなる』んだね! そうなんだよね!? あくまでお兄ちゃんには手伝ってもらうだけで、普通の友達で、大事なのはもちろん幼馴染くんなんだよね!?」

 

<エーくんも大事だけど、もちろんキリトも大切だよ>

 

「あははは。エイジと並べられるとなんか罪悪感が湧くなぁ」

 

「だよね!? そうだよね!? お兄ちゃんもそう思うよね!? やっぱり、幼馴染って大切な関係だってあたしは思うなぁ! うん、義理の兄妹と同じくらいにね!」

 

 ユナの事情も聞くと途端にフレンドリーに接してきたリーファは、自分に任せなさいとばかりにサムズアップしてウインクした。

 

「あたしも一肌脱いであげる! お兄ちゃんの弟子はあたしの弟子! そして、あたし達はこれから同じ釜の飯を食う仲! つまりは戦友! つまりはフレンド! 何でも相談してね! 特に幼馴染君との関係とか付き合い方とか諸々にはドーンと胸を貸すから!」

 

「……必死過ぎる。必死過ぎるよ、リーファちゃん!」

 

 謎の勢いが凄まじいが、ともかく仲良くできて良かった。ホッとしたユナはひとまず先の宿兼食事処に戻る。

 リーファは食事が不味いと知っているのか、本来ならばマナー違反甚だしいのであるが、バスケットからサンドイッチを取り出してテーブルに並べる。キリトはステーキを食べたばかりだというのに、美味しそうに頬張り始める。

 

「美味い! さすがはスグ! 増々上達したなぁ!」

 

「えー? お兄ちゃんって食い意地が張ってるけど、繊細じゃないから、何を食べても美味しいと不味いでしか判別できないんじゃない?」

 

「そ、そんな事ないぞ? このハムとか、上品に塩が……それでそのハムと一緒に挟んだレタスに、この……なんだ……」

 

<オリーブオイルを使ってる?>

 

 ユナが指摘するとリーファは嬉しそうに笑った。

 

「そう! ユナさん、正解! お兄ちゃんはやっぱり馬鹿舌だなぁ。レコンもレコンで味を分かってくれないし」

 

「……男は美味いか不味いかのどちらか言えれば良いんだ。なぁ、レコン?」

 

「……ノーコメントです」

 

 男2人の反応は無視するとしても、ユナも驚く程にリーファの料理は優れていた。サンドイッチ1つでも彼女の弛まぬ鍛錬を感じさせる。≪料理≫の熟練度はもちろんであるが、調理道具から食材に拘り、なおかつ試行錯誤を欠かさず、常に上を目指しているのだろう。見た目もそうであるが、活発そうな見た目の通り、自分を追い込んで鍛錬をする求道者タイプなのかもしれないとユナは分析した。

 

『うわぁ、エーくんって器用だね』

 

『大袈裟だな。余り物で作っただけだよ』

 

 思い出すのは過去。家を留守にした両親に代わり、エイジが余り物で夕飯を作ってくれた。ユナも料理は出来たが、エイジは余り物を美味しく調理する事に長けていた。家庭的な味わいであり、ユナの好みを知り尽くした、いつ食べても『美味しい』以外の感想を抱かせない、心から安らげる味付けの料理だった。

 こうして離れ離れになって、遠くに行ってしまいそうな危機感を持って、ようやく見えてくるのは過去の思い出ばかりだ。そこに確かにいた、幼馴染がくれた優しさであり、慈しみであり、幸せな時間だ。

 もう戻れないのだ。ユナが1度死んでしまった時に壊れてしまったのだ。ユナはサンドイッチを食べる手を止め、だが改めて口にする。

 

<美味しいって伝えるのは大事な事だと思います。心から大切な人なら尚の事、ちゃんと伝えておかないと後悔します。だから、キリト達を責めないであげて>

 

「……ユナさん。そうだね。どんな食材を使ったとか、どんな調理法をしたとか、そんなの作る側の自己満足。分かってもらう必要なんてない。食べてくれた人が美味しいって言ってくれたら、それで満点だよね」

 

「そうだぞ!」

 

「そうそう!」

 

「でも、2人はもう少し馬鹿舌を何とかしてね♪」

 

 リーファが切り返せば、レコンは撃沈するも、キリトはまだ負けていないとばかりにサンドイッチを咀嚼する。

 

「……こっちの卵サンド、もしかして隠し味にイカスミを使ってるか? このドロリとした食感で、だけどしつこくない、卵のまろやかな甘みを邪魔しない味わい……【赤潮魔王烏賊のイカスミ】だな」

 

「え!? 正解! どうして分かったの!?」

 

「お兄ちゃんパワーだ。妹のスグには理解できない兄だけが至れる高みの力さ」

 

 隠し味に何を使ったのかまで言い当てられて驚くリーファに、キリトは兄の威厳を取り戻したとばかりに腕を組む。だが、そんな彼を傍らに沈んでいたはずのレコンが浮上して睨む。

 

「どうせ舌に意識を集中させたんじゃないですか? 確かキリトさんって集中すると五感情報を極限まで細分化できるんですよね? そんなのチートですよ」

 

「フッ、そうだとしても食材まで言い当てられたのは、俺の舌が! 俺の脳が! 1度でも口にした食材の味をちゃんと記憶し、また理解しているからだ! つまり、このテーブルで1番の馬鹿舌は君だ!」

 

「……チクショォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 マウントを取って高笑いするキリトと悔しがるレコン。そんな2人に結局は馬鹿らしくなったとばかりにユナに≪料理≫の熟練度を上げるコツなどを伝授するリーファ。

 ユナは自然と笑みが零れる。最近はすっかり笑っていなかったばかりに心から楽しくて笑う。

 

「狒々王が油露の森に出たんだ。紅蓮の狒々は北方でしか活動しないけど、あちらで縄張り争いに負けると狒々王が群れを連れて南下するんだよね。レアケースだけど、教会が知らなかったのも当然かも」

 

「運が悪かっただけか」

 

「もっと言えば、あたし達の到着を待ってからで良かったでしょ。お兄ちゃんの悪い癖、出てるよ?」

 

「……面目ない」

 

「ふふん♪ 分かればよろしい。まったく、やっぱりあたしがいないとお兄ちゃんは駄目なんだから♪」

 

 食事も終えれば情報交換が始まる。リーファとレコンはアルヴヘイムで農園を経営し始めたらしく、食材はもちろんであるが、酒造から薬草栽培まで手広く始めるつもりとのことだった。そして、彼らが持つ土地はアルヴヘイムでも有数らしく、目を付けたアスクレピオスの書架が農園の1部で指定した薬草栽培を請け負うならば、幾つかの配慮を行うと打診があったのだ。

 2人は特にアルヴヘイムにおいては高い知識と実績を有するらしく、今回のキリトの仕事を手伝うサポート役として雇われたとの事だった。

 

「もしかせずとも、俺とスグの関係って教会にバレてるかもな」

 

「まぁ、教会どころか大ギルドにもバレてるでしょうね。2人があれだけ隠す気が無いんだったら、密偵を送り込むまでもないですよ」

 

 レコンの当然の如き厳しい指摘に、キリトは頭を掻き、リーファは目を逸らす。だが、こればかりはユナもフォローの余地が無かった。

 

「重要なのは大ギルドも含めて公表しておらず、リーファちゃんにも接触が無い点です。キリトさんを利用する上でリーファちゃんは特上の駒。それでも放置し続けるのには相応の理由があるはず」

 

「……やっぱりバレていないとか?」

 

「いや、現実を見ましょうよ。3大ギルドは言うなれば国家みたいなものですよ? 国家相手に個人がどうやって個人情報を隠し通すんですか。しかも2人とも隠す気がないのに」

 

 どうやらこの3人で最も頭脳派なのはレコンらしく、政治に理解が深いのも彼のようだった。

 

「ともかく、2人が兄妹だとバレている前提で動くのが賢明です。きっと、大ギルドも教会も最高のタイミングでカードを切ってくるはずですからね」

 

「レコンがそう言うなら警戒しておく。お兄ちゃんもくれぐれも注意してね」

 

 リーファもレコンを決して軽んじているのではなく、むしろ見方次第ではキリト以上の信頼を置いているようにも思えた。

 不思議な2人だ。レコンは友人であり仲間といった振る舞いであるが、彼の眼差しには何処か特別なものが宿っている。もしかせずとも、レコンはリーファに友人以上の気持ちを抱いているのかもしれなかった。

 だが、出会ったばかりのユナが踏み込むようなことでもない。他人の心に土足で踏み込む程にぶしつけではない。ましてや、そこに地雷が埋まってるかもしれないならば猶更だ。

 

「あたし達も素材集めには協力するけど、正直言ってリストの半分も心当たりは無いんだよね。秘密の情報源があるんだけど、そこにも記載されていなかったし、たとえ2ヶ月の期限があっても探しきれるか微妙」

 

「僕も同意見です。なにせアルヴヘイムは広いですし、未発見のイベントも山ほどありますから。たとえば、1年間で1回だけの限定イベントでしか得られない素材だったら全土をひっくり返しても見つからないでしょうし」

 

「まぁ、それもあり得るだろうけど、無いなら無いで報告するのが俺の仕事だしな。今回の仕事は俺が教会の専属であることのアピールも兼ねてるわけだし、成功はもちろん目指すけど、度が過ぎた危険は犯さない方針でいこう。アルヴヘイムは水準レベル100だ。痛い目に遭ったばかりの俺が言うのもなんだけど、油断すれば即死もあり得るからな」

 

<そういえば、あと1人サポーターが付くんだよね? 神父から受け取った資料にも名前も記載されていなかったけど誰なの?>

 

 今回の仕事はキリトを中心にして、監督役のユナ、サポーターにリーファを始めとした3人が派遣される予定だ。あと1人に関しては、元々はギルド単位のサポートが付く予定であったが、土壇場でキャンセルが入ったらしく、代理として彼らが推薦した凄腕を派遣するとの事だった。

 

「あたし達にもまだ情報が入ってないんだよね。なにせ本来請け負うはずだったギルドのドタキャンだし。幾ら凄腕でも1人じゃ……ねぇ?」

 

「リーファちゃんに同意見です。探し物で最も有効なのは人海戦術。数は偉大ですよ」

 

「うん、本当に数は偉大だ。俺、最近は数の暴力で殴られてばかりだから心の底から言い切れる」

 

 項垂れるキリトに、リーファもレコンも何があったのかと言いたげであったが、口にするよりも先に宿の戸が開かれる。

 窓から差し込む太陽の光が影を濃く深く伸ばす。それは1歩の度にキリトへと覆いかぶさっていき、やがて彼を暗く包み込む。

 

 

 

 

 

 

「やぁ、貴方達が今回の仕事仲間ですよね? 初めまして、私はスゴウと申します。どうぞお見知りおきを」

 

 

 

 

 

 

 年齢は20代半ばから後半といったところだろうか。知的な細フレームの横長の眼鏡をかけた男であり、短く刈った髪は後ろに撫でつけられ、スポーティと呼ぶよりもビジネスマンとして当然の如く備えておくべき清潔感の為といった印象が強い。穏和な笑みこそ描いているが、その瞳は何処か蛇の印象を与え、相手にしつこく纏わりつき、またじわじわと絞め殺すような危うさを持っている。

 纏うのは白い賢者のようなローブであるが動き易さを重視しており、右手には錫杖にも似た黄金の杖がある。だが、先端は太陽を象るように5本に鋭く伸びており、槍としても機能するようだった。

 近寄りたくない。だが、悪人とも思えない。ユナは自分らしくないちぐはぐの印象に戸惑う。だが、第1印象は全く当てにならないとは言い切れないが、重視し過ぎて誤りたくないとまずは友好的に接するべきだと決める。

 だが、そんなユナに反して、キリト達の反応はおよそ想像を逸脱していた。

 レコンは信じられないとばかりに目を見開き、リーファは両手で口を押えて青ざめ、キリトに至っては怒りにも等しく睨みつける。

 

「え、えーと、キミ達……何処かで会った、かな?」

 

「お前が……お前がどうしてここにいる!? 須郷伸之……いいや、オベイロン!」

 

 キリトはスゴウの胸倉をつかみ、怒りのままに壁に叩きつける。その轟音は気持ちよく寄っていた樵のNPC達に沈黙をもたらす。

 

「お兄ちゃん、ここは不味いよ。宿で暴力行為を働けばどんなペナルティがあるか分からない」

 

「僕も同意見です。どうせ血で汚すなら、森の方がいいでしょう」

 

 3人とも先程までの和気藹々とした雰囲気は鳴りを潜め、殺意と怒気を隠す気もなく全開で放っている。そして、他でもなく困惑しているのはスゴウ本人のようだった。

 村の外れ、油露の森の外縁までスゴウを締め上げながら連行したキリトは彼を乱暴に地面に投げつける。

 

「君は何なんだ!? いくら問答無用のDBOとはいえ、教会から仕事を引き受けたならば、取引先の評判を落とさない為にも礼儀を尽くし、紳士に対応するのがビジネスというものだろう!?」

 

「ビジネス……ビジネスか。アンタらしい物言いだな。それで? オベイロンの姿を捨てて、リアルの姿で隠れ潜んでいたのは、どんな目的の為だ?」

 

「やっぱり、コイツがオベイロンなんだね。声だけだと確信は持てなかったけど……ううん、間違いないって思ってたけど、お兄ちゃんが言うなら、やっぱりコイツが……コイツがアスナさんを……サクヤさんを……!」

 

「……裁く権利はキリトさんにあります。僕は貴方の決定に従います」

 

 3人に逃げ場なく囲われたスゴウは何が何だか分からないとしきりに周囲を見回し、同じく理解が追いつかないユナに縋るように這って迫る。

 

「た、助けてくれ! 私は弁が立つ自信もあるが、今の彼らには通じそうもない! 誰かと私を勘違いしてるみたいなんだ!」

 

「ユナ、ソイツから離れろ!」

 

「まずは足を切り落とそう。そうしようよ。ねぇ? そうすれば逃げられないでしょ」

 

「だったら舌も切り落とした方が良いんじゃないかな」

 

 ユナからスゴウを引き離したキリトは彼の喉元に聖剣を突きつける。

 今にも刺し貫きそうな程に激情に支配されたキリトの目。ユナはそこに既視感を覚える。

 エイジと同じ目だ。似て異なるが、渦巻く感情には同じ悪寒を覚える。決して心を委ねてはならないものだ。

 キリトが感情のままに聖剣で貫く一瞬前に、ユナは全力で彼の腕にしがみつく。

 

「ユナ! 止めるな! 止めないでくれ! コイツは……オベイロンは……アスナを……アスナを……!」

 

「…………!」

 

 キリトはユナを振り飛ばそうとするが、彼女は絶対に離さないと首を横に振る。

 駄目だ。たとえ、どんな理由があるとしても、今ここで感情のままに動けば必ず後悔する! かつて、自分が無鉄砲に救おうと動き、覚悟した死の結末を迎えた先でエイジを独りぼっちにしてしまったように!

 ああ、伝えたい。この胸の言葉をあらん限りに伝えることが出来れば、キリト達を止められるかもしれないのに。

 

「……かひゅ……くひゅ……かぁ……!」

 

 だが、歌も言葉もこの喉は許してくれない。これこそが自身の犯した罪の代償であると言わんばかりに、ユナが求める術を奪い取った嘲う。

 無理に発声しようとして呼吸困難に陥りながらも凶行を止めようと縋るユナに、キリトも僅かな冷静さを取り戻したのだろう。膝をついて喉を押さえるユナの肩を撫でる。

 

「……スゴウ、1度しか聞かないからよく考えて話せ。お前がどうしてここにいる?」

 

 この場でスゴウを斬る資格はキリト以外に無いと知ってるかのように、リーファとレコンは囲うだけで手出しはしない。

 

「わ、私は……リアルネーム・須郷伸之。キミの言う通りだ。そう、キミは……【黒の剣士】キリト。SAOの完全攻略者だね? 私は……私は……気づいたら、ここにいたんだ。ダークブラッド・オンライン。最新ハードが実現したリアルを超えたリアルを体験できるMMORPG。ここは……ALOの舞台になったアルヴヘイムを舞台にしたステージだ。私は……信じてもらえないかもしれないが、気づいたら、ここにいたんだ。このアルヴヘイムで、私は……私は……『何か』を探す為に、ずっと旅をしている」

 

「『何か』? 具体的に話せ」

 

「分からないんだ! 私が……僕が知りたいくらいさ! どうしてDBOにいる!? ここは何なんだ!? デスゲームって何なんだ!? 知識だけは頭の中にある! DBOを生きるための知識が詰まってる! だが、何故だ!? 私はここで『何』を探しているんだ!?」

 

 泣き叫ぶように頭を抱えて己が抱える苦悩を吐露するスゴウに、さすがのキリト達も困惑したようだった。

 キリトはロープを取り出すとスゴウを木に縛り付け、ユナも招いて彼から少し離れた場所で会議する。

 ユナも話についていけるように掻い摘んで説明してもらったところ、彼はかつてオベイロンと名乗り、彼らが冒険をした改変アルヴヘイムなる、もはや異世界と呼ぶに相応しいほぼ独自の仮想空間にて悪逆の限りを尽くした王として君臨していた。キリト達は冒険の末に、オベイロンを倒さんとする革命の同志たちと共に戦い、数多の流血の末に打倒したのだ。だが、オベイロンはキリトの大切な人であるアスナを最後の最後に惨たらしく殺したのである。

 アスナはユナも名前を知っている。血盟騎士団でも有名な、SAOでも女性プレイヤー最強と名高い人物だった。だが、志半ばで倒れ、その後はユナと同じように蘇り、その挙句にオベイロンに殺されたというのは、余りにも救われない末路だった。

 

「俺は斬った。確かにオベイロンを倒したはずだ。だけど、ああしてアイツを目の当たりにすると本当にオベイロンを斬ったのか自信が持てなくなる」

 

「どういう事ですか?」

 

「いや、スゴウと顔を合わせて話をしたからなんだろうけど、俺が斬ったオベイロンは……その……なんていうか……悪逆ではあったんだけど、死への恐怖や戦いへの怯えが無かったというか、開き直りとも違って……駄目だ。上手く説明できない」

 

「つまり、お兄ちゃんが斬ったオベイロンは偽者で、まんまと本物は生き延びていたって事だよね? だったら、今度こそ殺そうよ」

 

 木に縛り付けられたスゴウは項垂れ、自分の知らぬ場所で行われる生死を左右する会議の結果をジッと待っている様子だった。ユナはそんなスゴウを哀れみ、キリト達の了承を取って歩み寄る。

 ユナが水筒を差し出せば、スゴウは弱り切った顔で嬉しそうに頷く。

 

「ありがとう」

 

 何の裏表もない感謝に思えた。スゴウは数口の水を飲むと再び黙り込む。ユナはキリト達の元に戻れば、スゴウの処遇を巡って紛糾しているようだった。

 

「キリトさんの感じた通りに倒したのが偽物だったとして、キリトさんにも知られているリアルの姿を逃亡後のアバターに選ぶでしょうか? 確かにオベイロンはプライドが無駄に高い奴でしたけど、そこまで馬鹿でもありません。そもそも自分の造形に拘りがあるならば、妖精王オベイロンじゃなくて、リアルの姿形に固執するはずではないでしょうか?」

 

「でも、アイツは間違いなくオベイロンなんだよ!? だったら許せない。許すことなんて……できない!」

 

「俺も同意見だ。スゴウがオベイロンであるなら、俺はどんな理由があろうと……斬る。だけど、記憶喪失が本物なら? 記憶を本当に失ってるなら、それは俺達が知るオベイロンと呼べるのか?」

 

「記憶の有無なんて関係ない! 記憶が無いなら罪も無くなるの!? 違うでしょ! お兄ちゃんが殺さないなら、あたしが殺す! アイツはサクヤさんの仇でもあるんだから!」

 

「落ち着いて、リーファちゃん」

 

 歯を剥き出しにして怒りを隠さないリーファに対し、レコンは冷静さを訴える。だが、彼もまた怒りを我慢で抑えつけるのは明白であり、眉間には皺が寄っていた。

 

「……ひとまず様子を見よう。記憶喪失が本物かどうか見極めてからでも遅くない。それに、スゴウがアルヴヘイムで『何』を探しているのかも気になる」

 

「お兄ちゃん!?」

 

「スグ! 頼む……今は……従ってくれ。俺も……ギリギリなんだ」

 

 キリトが握る拳、その指の間からは血が滴り落ちていた。グローブを突き破る程に強く握りしめたキリトの激情がどれほどのものなのかは明白であり、故にリーファも苦しさを呑み込むように俯く。

 

「……分かった。お兄ちゃんがそれでいいなら、あたしも我慢する。レコンも耐えてよね?」

 

「どうだろうね。僕にオベイロンを生かす理由は無いからなぁ」

 

 茶化しているが、レコンもまた蟻を踏み潰すのと同じくらいにスゴウを殺すのも厭わないと全身で示している。

 ユナは純粋に3人の隠さない殺意と怒気に戸惑いと恐怖を覚える。

 自分に温かく接してくれた3人であるが、DBOで過ごした時間の分だけ、彼らの中には確かな闇を抱えている。そして、その1つ、激情のままに剣を振るう理由となるのがオベイロンに違いなかった。

 

(キリトの目……エーくんの目と似てたけど少し違う)

 

 キリトが剥き出しにしていた感情の名前をユナは知っている。そう……憎悪だ。

 エイジは誰かを憎んでいるのだろうか。だからこそ、ユナの知らないエイジになってしまったのだろうか。それ程までに憎たらしくて堪らないのは誰なのだろうか。

 欠けた時間は無知を示し、理解には至らせない。小さい頃からあんなにも一緒だったはずなのに、今は何も見えない。いいや、過ごしていた頃さえもエイジの事をちゃんと真っ直ぐ見れていたのかさえも分からない自分では理解する権利すらないのだろう。

 スレイヴが言った『ただの幼馴染』という言葉は正しい。噛み締める程に事実として突き刺さる。

 だからこそ、今度こそ、ちゃんと向き合うために……! ユナは胸に渦巻く苦しみに堪え、今は自分にできる全力を尽くすと前を見る。

 キリトはスゴウを拘束していたロープを切断する。解放されたスゴウはごくりと生唾を飲んで判決を待つ。

 

「ひとまず、アンタの記憶喪失を信じる。だが、勘違いするな。少しでも妙な真似をしたら、言い訳は一切聞かずに斬る。それとステータスも含めた全てを公開してもらう。それが条件だ」

 

「……従うしかないようだね。どうやら、私には記憶が無いが、キミ達に迷惑をかけてしまったようだ」

 

「迷惑!? あれだけの事を……迷惑なんて一言で済まさないで!」

 

「リーファちゃん、堪えて!」

 

 今にも喉仏に噛みつかんと歯を剥き出しにして咆えるリーファに、スゴウは如何なる言葉も無意味と理解してか、沈黙と共に頭を垂らす。

 その後、スゴウは自分のステータスとスキル、装備、アイテムに至るまで全てを公開した。

 

「典型的な魔法使いタイプだな。だが、装備が特殊だ。INT数値分だけHPを増加させ、STRとDEXに補正をかけるのか。破格の能力だな」

 

「ああ、【旅賢者の戦装束】と【金環の槍杖】の効果だ。このローブの下はこの通り、薄型だが鎧になっていてね。本業程ではないが、スピードはそこそこ確保できるし、近接戦闘できるだけの耐久力も確保できる。だが、あくまで魔法攻撃がメインだ。それと……私には【妖精王の指輪】がある。装備しているだけで全ステータスが強化されて、全デバフ耐性が上昇する指輪だ」

 

「どれどれ……全上昇系なのにかなり破格な増強効果の指輪みたいだな」

 

「やっぱりコイツ、オベイロンに違いないよ!」

 

 叫ぶリーファに、スゴウはキリトに目配りをして発言の許可を求めた。

 

「……私がこの指輪を持っているのが気に喰わないならば、キミ達の誰かに譲渡しても構わない」

 

「良いのか?」

 

「ああ。だが、この指輪は決闘によって所有者が定められる。つまりは……」

 

「つまりはアンタが指輪を賭けたデュエルに勝利すれば、指輪も勝者に移る。そういうわけか」

 

 スゴウ曰く、妖精王の指輪は1度失うと2度装備できなくなるらしく、ここで手放せば彼は2度と指輪を取り戻せなくなることを意味していた。

 

「もう1つ問題点として、この指輪は1度装備すると決闘で譲渡する以外では外せなくなる。保有者は指輪枠の1つを半永久的に妖精王の指輪で潰される事になるが、それでも全ステータスの強化は破格だ。私を信頼できないならば、少しでも武力を削ぎ落とすべきだろう? それに、キミ達が知る『オベイロン』は……どうやら、私の想像を超える卑劣な輩らしい。この指輪はオベイロンの置き土産なのかもしれない。だったら……」

 

「効果もペナルティも寵愛と加護の指輪に似ているな。効果はこっちの方がえげつないけど」

 

 スゴウの躊躇いながらの発言に、キリトは腕を組んで考え込み、唇を噛んで顔を背けているリーファを横目で見る。

 

「スグが貰っておけ」

 

「え!? 何であたしが!? お兄ちゃんが使いなよ!」

 

「オレも欲しいけど、スグは俺と比べても強敵との戦闘経験が足りない。ブーストをかけるこの指輪はスグの方が適切だ」

 

「ちなみに僕という選択肢は無かったんですか?」

 

「VITやCONだけを大幅に引き上げるならレコンが1番だけど、全強化だけに個々の伸びは特化されたものじゃない。それに敵に合わせて指輪を頻繁に交換する必要があるタンクに指輪枠を1つでも固定化させる妖精王の指輪は相性が悪い。スグは近接アタッカーだけど攻撃系の奇跡も織り交ぜるから、全ステ上昇はキミよりも効果が高い」

 

「確かに……でも、僕でも……」

 

「だったら譲るよ。確かに強力だけど、オベイロンからもらうなんて……!」

 

 嫌悪を表明するリーファの袖をユナは掴む。

 

<でも、リーファを守ってくれるかもしれない。その指輪があれば、大切な人を守ってあげられるかもしれない>

 

 ユナには『力』が無かった。だから、たとえ赤の他人を助けることが出来ても、死に抗うことが出来なかった。

 もしも、あの日、ユナにモンスターの包囲を自力で脱出するだけの『力』があれば、エイジをあんな目にさせる事は無かったかもしれない。だからこそ、リーファにはチャンスを不意にしてほしくなかった。万が一の時、手が届かない事が無いように。

 ユナの説得もあってか、リーファは決心してスゴウより譲渡されることが決まる。

 

「くれぐれも殺すなよ」

 

「……分かってるよ」

 

 スゴウが指輪を使用し、指輪を賭けたデュエルを開始する。リーファは剣を構え、スゴウは無防備に両手をぶら下げる。後はスゴウがサレンダーをすればそれで決着がつく。

 だが、リーファはスゴウがサレンダーを申請するよりも先に踏み込み、スゴウへと刃を振るう。

 額から一閃する。そんな幻視をした先で、彼女の刃はギリギリで止まっていた。スゴウは拳を握って震えながらも立ち止まり、リーファの剣に抗わなかった。

 

「死にたいの? ガードくらい出来たでしょ?」

 

「キミの怒りと憎しみは……本物だ。私は罪を犯したのだろうね。だから……裁かれても仕方ないと思った。そう思ったんだけど……ははは」

 

 恐怖が勝ったのか、尻餅をついたスゴウは感情が決壊したように涙を零しながら笑う。

 

「駄目だな。こうやって剣を振るわれ、自分が斬られると確信したら……とても怖くなった。『死にたくない』って……思ったんだ!」

 

「…………」

 

 スゴウの泣き言に、リーファは奥歯を噛んで背を向ける。それから数秒後、スゴウのサレンダー申請が受理され、デュエルの勝者はリーファとなった。

 キリトは止めようと思えば止められたはずだ。だが、敢えて手出ししなかったのは、妹ならば斬らないと確信していたからか、あるいは言葉ではスゴウを生かす判断をしても心では彼の死を願っているからなのか。ユナには区別がつかなかった。

 

「私は……どうすればいい?」

 

「言っただろう? アンタの記憶喪失が本物か見極める。それに、アンタの探し物も気になるしな。そっちはどうなんだ? お世辞でも俺達の態度は良くないぞ?」

 

「私もキミ達と共に行動したい。いや、させてくれ。私は……私の罪を思い出さねばならない。殺されると思った時に恐怖を覚えたからこそ、そう思ったんだ」

 

「アンタがオベイロンの記憶取り戻したら、俺が殺すとしてもか?」

 

「……死にたくはない。だが、私の探す『何か』を見つける為にも、キミ達とは行動を共にした方が良さそうだ」

 

「分かった」

 

 スゴウの参加も正式に認められ、キリトは自分も落ち着かせるように深呼吸をした。

 

「ひとまず、俺達はチームだ。過去の遺恨を流すつもりはないが、それでも協力して1つの仕事を成功させないといけない。レコン、スゴウ、このリストに書かれてる素材で心当たりがある場所をピックアップしてくれ」

 

「了解」

 

「分かったよ」

 

「ユナは2人のサポートを頼む。スグは……ちょっと話をしよう」

 

「……うん」

 

 兄妹で話さねばならない事があるのだろう。ユナは2人が情報を出し合って目星をつけた場所をマップデータに記載していく。

 憎しみは簡単には消えない。簡単には手放せない。故に積もり先が必要なのだろう。ユナは兄妹が、そしてエイジが引き返せない道を進まないだろうかと不安を募らせた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 人目が多い場所は避けたいのに。アスナは深くフードを被って素顔を隠しながら、クリスマスムードで染まった終わりつつある街を歩く。

 つい昨日、同時多発的に野犬を中心とした犬・狼系のモンスターによって教会の施設並びに商店が襲われるというショッキングな事件はあったが、その程度など日常だと言わんばかりに終わりつつある街は変わらない。

 いいや、誰もが目を背けたがっているのだろう。間もなくと迫ったクリスマスを心の支えにして、お祭りムードで不安を隠して、今日を生き抜こうとしているのだろう。

 

「やれやれ。私と組むのは君としても不本意だったとは思うのだがね」

 

 そして、この男は……アスナが知る限りでも破格に実力者であるスミスは街の様子など何処吹く風とばかりに咥えた煙草を揺らす。

 

「歩き煙草は止めてもらえますか?」

 

「DBOに副流煙は無いのだがね」

 

「マナー違反です。貴方みたいな人がいるから喫煙者全員が悪く罵られるんですよ?」

 

「……これは手厳しいね」

 

 てっきりポイ捨てするのかと思えば、しっかりと携帯灰皿は持っている。マナーを守る気があるのか無いのか、スミスに惑わされてアスナは溜め息を吐く。

 少しでも蓄えを増やさねばならず、また教会からの信頼を勝ち取ってスミスとの取引を成立させる為にも、エドガー神父に仕事を回してもらえるように頼んだのであるが、まさかスミスと組まされることになるとは思いもよらなかった。

 今回、アスナ達が従事するのは『首狩り』なる謎の殺人鬼の調査である。

 聖剣騎士団のメンバーを中心に犠牲者が出ているが、少数ではあるが、太陽の狩猟団やクラウドアースにも被害は及んでいる。いずれの大ギルドも重い腰を上げつつあるのであるが、いずれが主導するかで争いになっている。聖剣騎士団はグローリーに定期的に見回りをさせるなどして犯人に圧力をかけ、太陽の狩猟団やクラウドアースも似たり寄ったりの手を打っている。

 牽制し合って埒が明かないと判断した教会は、クリスマスを前にしてこれ以上の混乱を防ぐべく『首狩り』の捜査を開始したのだ。当初はギルド化したばかりの教会剣に従事させる予定であったが、先の野犬騒動によって教会剣は総出で治安回復に駆り出されており、結果的に金はかかろうとも確実な成果を期待できる、最も理想的な傭兵の1人とされるスミスが雇われたのだ。

 アスナはスミスの監視役も兼ねている。とはいえ、教会はスミスを怪しんでいるかと言えばそういうわけでもなく、今回の事件は聖剣騎士団の古参の上位プレイヤーも犠牲になっている為、如何にスミスであろうとも単独では危険かもしれないという判断である。

 だが、この男の実力は異次元だ。アスナも秀でた実力者ではあり、相応の自信はあるが、スミスは近・中・遠の全ての間合いにおいて常に優位を立てる。唯一の弱点があるとするならば、銃撃をメインとする為に弾切れを起こせば戦闘能力が大幅に低下する事であるが、1対1であるならば、弾切れを待つより先にハチの巣にされるだろう。

 

「犯行は主に快楽街周辺。3大ギルドと教会は酔ったところを暗殺されたと睨んでいるようだ」

 

「鋭利な刃物で首を切断。カタナのような切断属性に秀でた武器が凶器と目されている、ですよね?」

 

「ああ。だが、それだけでは犯人を特定することは出来ない。そもそも凶器についても特定されたわけではない。先入観は捨てるべきだろうな」

 

 快楽街は終わりつつある街のグレーゾーンだ。中層と下層の中間に位置し、犯罪ギルドが経営する酒場や娼館、賭博場などが経営されている。また、盗品も流れる闇市も隣接しており、『掘り出し物』を探すプレイヤーも多い。

 元より治安はお世辞でもよろしくない終わりつつある街であるが、下層と交わる快楽街もまた危うい空間だ。少し路地裏を除けば平然と麻薬アイテムが売買されており、露店では怪しいアイテムがずらりと並んでいる。商館で雇われなかった娼婦や男娼が平然と客を取り、薄暗い闇を除けば肉体の交わりを目撃することになるだろう。

 

「信じられない。大ギルドも教会も秩序の担い手を自称するなら、まずはこんな不潔な場所を一掃すべきよ!」

 

 調査任務という事で警戒されないように教会の者とバレないように装備を纏めたアスナであるが、快楽街を20メートルと歩いただけで客引きや男娼にこれでもかと声をかけられ、辟易と悪態を隠すことが出来なかった。

 

「キミは青いな。こうしたグレーゾーンがあるからこそ、不満や欲望が解消され、犯罪を未然に防ぐことができる。まぁ、罪を定める法もなければ、罰を執行する機関もないのだが、ともかく人間とはキミが思っているよりも何百倍も度し難くて野蛮な生物だ」

 

 まるで嫌という程に見てきたと言わんばかりに、空の酒瓶が詰まった木箱に腰を下ろして休むアスナの傍らにて煙草を咥えたスミスであるが、アスナに睨まれて肩を竦める。

 

「3大ギルドが犯罪ギルドに営ませているのも責任逃れの為さ。娼館で働くのは何も自分の意思で身売りした者ばかりではない。借金で売られた者も少なくないはずだ。それにこの快楽街はDBOでも屈指の消費を担っている重要地点だ。経済を回すという意味でも欠かせない。たとえば酒だ。知ってるかね? この快楽街だけで1日にどれだけの酒が消費されてると思う? 酒代だけでどれだけの額が動くと思う? そして、その酒は誰が作る?」

 

「……大ギルド傘下の商業ギルド。つまりは回り回って大ギルドの財力になっている」

 

「そうだ。そして、快楽街で起きた問題は管理を担う犯罪ギルドの役目。大ギルドは先のヴェノム=ヒュドラの事件のような余程の事が無い限りは不介入だ。大ギルドとしても、人間の汚れた欲望を満たす場所は組織の維持の為にも不可欠だ。どれだけご立派な名目を掲げようとも組織の血肉となるのは人間。人間なんぞ、腹を開いてみれば欲望がたっぷり詰まってる」

 

 まぁ、服飾関連などの表の産業にまで手を伸ばしたら、大ギルドも動くかもしれんがね。スミスは興味ないとばかりにそう付け足した。

 終わりつつある街でも活気に満ちた場所は3つ。ありとあらゆる悦楽が集まる、限りなく下層に近しい場所の快楽街。黒鉄宮跡地周辺で様々な商店が発達した歓楽街。そして、クラウドアースの事実上の支配地でもあり、コロシアムを筆頭としたエンターテインメントが結集した娯楽街だ。もちろん、例外としては大聖堂をシンボルにして厳粛なる信仰の場となっている聖堂街もあるが、経済の動脈とは言い難いだろう。

 

「快楽街はこれからどんどん肥大化していく。その裏では犯罪ギルドの血で血を洗う抗争も激しくなるだろう。それに巻き込まれないように、裏の秩序を維持する楔が必要なのだが、これまで必要悪を担っていたチェーングレイヴの弱体化が著しい。見たまえ。あそこの娼館は前まで古参の犯罪ギルドのフォックス・ネストの経営だったのだが、今では新参のブラック・シーラインに看板を奪われている。娼婦への待遇が悪化しているが、その分だけ客の暴力的な欲求に応えるようになって客側の評判は『上々』だそうだ」

 

「そこまで分かっていながら、何もしないの!?」

 

「ならば、キミなら何か出来るのかね? オーナーが変わった時点で、彼女たちの契約も更新されたはずだ。借金ごと所有権を移された娼婦を除けば、続けるのも辞めるのも自由だ。だが、彼女たちに『自由』などない。レベルは低い。スキルもまともに育っていない。学もない。明日を生き抜く手段すらもない。蓄えなどあっても娼館の保護がなければ1日と待たずしてならず者のに体を蹂躙された挙句に奪われる。平然と死が訪れる。ならば、待遇が悪化しようとも娼館で生きていくしかない」

 

 大したことではないとばかりに、自分を誘う娼婦を軽くあしらいながらスミスは答えた。

 アスナは何も言い返せなかった。残酷ではあるが、スミスは正論しか述べていない。アスナが自己満足で娼館に乗り込み、剣を振るってオーナーを脅しつけたとしても、娼婦たちからすれば迷惑千万である。アスナのせいでとばっちりを受けるかもしれないのだ。

 

「キミは賢いが、やはり青臭いな。馬鹿弟子とよく似ている」

 

「馬鹿にするならもっとストレートに言ってもらった方が気楽よ」

 

「褒めているんだ。その感情を決して忘れるな。私のように、すぐに諦観で正論を口にする大人を是非とも反面教師にしてもらいたいものだね。そうすれば、時間をかけさえすれば、現実世界ではそうであったように、理不尽を正す1歩の足しになるだろう」

 

 逆に言えば、アスナ個人がどれだけ足掻いて、騒いで、正そうとしたところで自己満足の域を抜けないという事である。

 この男は不思議だ。フロンティア・フィールドの時もそうであったが、達観しているようでいて、アスナやグローリーに強い期待を寄せているような素振りが見える。桁外れの強さを持っているはずなのに、何よりも自分以外の活躍を心待ちにしている。

 

「……私には無理でしょうね。顔を隠し、名前を偽っているような女は何も為せない。ましてや、政治の世界で発言力を持てるはずもない」

 

「ほう。だったら、どうするのかな?」

 

「貴方の言う通り、グレーゾーンの必要性は認めます。でも、不条理までは認めません。それが今の私にできる唯一の抵抗です」

 

「それでいい。さて、我々は我々の仕事をしようじゃないか」

 

 スミスが案内したのは酒場の1つ【猫又ダンス】という店だ。酒場とは言うが、要はキャバクラであり、目が痛くなるようなピンク色の照明の下では水着同然の露出の高い服を着た女性たちが客を接待し、また煌びやかなステージでは華麗にダンスを披露している。特徴としては全員が猫耳のカチューシャを付けているところだろうか。

 

「おや、スミスさんじゃありませんか! すみませんが、【ステイシー】ちゃんの予約は1週間先までいっぱいなんです! あ、ですが、他でもないスミスさんですからね。多少の無理はお聞きしますが?」

 

 店長に直々に迎えられたスミスにアスナは心の底から呆れた。この男、VIP待遇を受けるだけの常連の上客なのである。

 

「今日は仕事できた。連絡しておいた、例の事件の参考人と話がしたい」

 

「ああ、【カオル】ですね。あと30分で空きますが、如何なさいます? すぐにでも呼びますか?」

 

「仕事の邪魔をしてまで話を聞くつもりはない。予約を入れてくれ。もちろん金は払う。私と彼女の2名で頼む」

 

「え? 後ろの女性も同伴で?」

 

「ああ」

 

 店員たちは女性客を案内するのにやや戸惑ったようであるが、スミスとアスナはステージを一望できる2階のVIPルームへと案内される。革張りの椅子とクリスタルのテーブル、飾られた花々は甘い香りを漂わせる大輪。これらの装飾だけでも最高のもてなしである。

 

「最低」

 

 アスナに絶対零度の視線で睨ませ、スミスは悪びれる様子もなく煙草に火を点ける。ここならばマナー違反ではないだろうと言いたげな眼差しだった。

 

「こうした店に金払いの良さを見せておくのは、傭兵にとって情報収集や便宜を図ってもらうのに必要不可欠なのさ。仕事終わりに情報屋や依頼代理人に奢って労っておくのも不可欠だ。それに自分の評判をコントロールするのにも役立つ。目に見える形で金を落とすこともなく、装備だけに財力を注ぎ込んでいる傭兵など、傍から見れば戦闘狂にしか映らんよ。適度にプライベートの『隙』を晒しておくことで、周囲に安心感を与えておくのは重要だ」

 

「……そんなにも色々な考えがあったなんて、思慮が足りなかったわ」

 

「まぁ、1番は私自身が楽しむ事にあるのだがね」

 

「前言撤回。やっぱり最低ね」

 

 スミスへの評価が乱高下するアスナに、彼は何処か楽しそうに笑った。

 

「それが大人というものさ。さぁ、アスナくんも思う存分に注文しておきたまえ。どうせ経費で教会に請求するのだからね」

 

 最低のまた最低だ。メニューを押し付けられ、アスナは仕方なくポテトを注文する。

 油でカラッと揚げられたポテトには濃密なトマトケチャップが添えられている。生まれも育ちもお嬢様のアスナはフランチャイズ店の味にも、冷凍のお得売りにも馴染みはなかったが、一口でこれは一流の料理人で最高の素材と環境で作り上げたものだと理解できた。

 

「キミはこうしたグレーゾーンが嫌いのようだが、私は存外に悪くないと思っている」

 

 汗を散らし、拍手喝采を浴びるダンサーに称賛を贈るように目を細めたスミスは紫煙を吐く。

 

「この店を楽しむ多くの者は悪人ではない。今日もダンジョンに潜り、モンスター相手に命懸けで戦い、最深部近くからレアアイテムを採取・発掘してきた疲れを癒しに来た者もいるだろう。商店で扱き使われ、安給与を溜めて1ヶ月に1度の楽しみで来店した者もいるだろう。商取引でお偉い様を接待しようと、心の余裕もなく気配りを尽くしている者もいるだろう。彼らは皆それぞれの人生を必死に生きている。生きようと懸命なんだ」

 

 吸いきった煙草を灰皿に押し付けたスミスは、食事の手が止まったアスナを、感情が読めぬ眼で射抜く。

 

「清潔過ぎる水で魚は生きていけない。腐敗した毒々しい汚水でも同様だ」

 

「だから適度に汚れた水は丁度いい。貴方はそう言いたいの?」

 

「少なくとも、私にはその方がずっとずっと生きやすい世界に思える。悪鬼羅刹が徘徊する魔界よりも、仏が暮らす天界よりも、美しいも汚いも同じくらいに混ざり合った、中途半端で、矛盾して、救いようがないくらいに欲望に満ちて、だが理想を捨てられない、そんな世界の方が親しみを持てるね」

 

「でも、だからこそ虐げられる人たちがいるわ。不条理に虐げられる人たちもいる」

 

「だからこそ、馬鹿にされてようとも、嗤われようとも、損ばかりしようとも、理想を捨てない青臭い人間がいてバランスが取れるのさ。まぁ、私は勘弁だがね。理想に燃えて、命も周りも燃やし尽くすなど馬鹿々々しいにも程がある。過ぎた欲望も理想も滅びをもたらすだけだ」

 

 言い返したい。だが、先程の娼館での問答と同じように、この男に弁で勝るにはアスナの人生経験が足りないようだった。単純に年の功だけではない。SAO、改変アルヴヘイム、DBOといった常人では体験できない過酷な人生をわずか22歳でありながら歩んだはずのアスナでもまるで届かない、甘いも苦いも酸っぱいも味わい尽くした男を言葉で覆すには、それこそ感情任せにも等しい理想論で殴りつけるしかないのだろう。

 だが、アスナはそれが出来ない。彼女は賢過ぎるからだ。即座にスミスの言わんとするこの世の理屈を理解でき、DBOだけではなく現実世界にも通じる人間社会における不変の政経の力場を把握できる知性があるからだ。

 

「それでも、私は好きになれない」

 

 だから、彼女に出来るのは理想で殴ることではなく、感情を吐き出すことだけだ。

 

「でも……」

 

 アスナは見下ろせるステージで、人々から歓声と拍手を浴びて幸せそうなダンサーに心が揺さぶられる。男を誘惑する為だけの露出の高い服装でありながら、それを恥じることなく、己の肉体の魅力をダンスで最大限に引き出し、単に邪な欲望を掻き立てるだけではなく、感動にまで昇華させた、この世界を生きる1人の人間を見つめる。

 

「私には好きになれない場所だとしても、精一杯に生きてる人たちまで……否定してはいけない。それだけは認めます」

 

 想像は容易い。SAOは……アインクラッドは現実世界では数多の人間の命を奪った地獄の監獄のように語られているだろう。実際に生存者にとってはそうだっただろうし、アスナにとっても苦々しい思い出は1つや2つではない。

 だが、死んでしまったとしても、アスナはアインクラッドの全てを否定できない。自分自身の成長も、出会った多くの人たちと結んだ絆も、愛娘と呼べるユイの存在も、思い出すことが出来ない『彼』……キリトと育んだ感情も、たとえ蘇った身であろうとも、魂に刻み込まれているのだから。確かな幸せがあの鉄の城にはあったのだから。

 

「そうか。いや、それでいい。私に全面的に肯定・共感する必要などない。キミはキミの思想と理想を大事にしたまえ」

 

 改めて煙草に火を点けようとしたスミスに、アスナはテーブルに置いてあったライターで火を点ける。驚いた彼に、アスナは素っ気なく顔を背けた。

 

「嫌いなのは喫煙マナーが悪い人であって、煙草を吸うことまで否定していないわ」

 

「ああ、そうだった。そうだったね」

 

 その後、アスナとスミスは他愛もない話をして時間を潰した。互いの心と秘密に踏み込むことは無い当たり障りのない世間話だ。だが、この男とそうした時間を共有するなど想像もしていなかったアスナは、僅かながらも新鮮味と楽しみを覚えた。

 

「スミスさ~ん、おまたせ♪」

 

 と、VIPルームのドアが開き、ガードマンに左右を固められて現れたのは、20代前半だろう、この店のコスチュームである際どい装束と猫耳カチューシャを付けた女性である。

 彼女がカオル、『首狩り』事件の重要な目撃者だ。どうやら常連の上客であるスミスとも面識はあるらしく、営業スマイルではなく心を許した、むしろ若干の熱っぽい感情すらも籠った眼差しに、アスナはなるほどと納得した。

 傭兵という職と言動からもハードボイルドという表現が似合う危険な香りを漂わせ、しかもDBOでは最もステータスとも呼ぶべき戦闘能力が保障されている男。突き刺さらない女の方が少なくないだろうとアスナも認める。もっとも、アスナとしては『女』としてご遠慮願いたいタイプでもあるが。

 

「やぁ、頑張ってるようだね。今月の売り上げトップ5には食い込めるのではないかな?」

 

「それもこれもスミスさんのお陰だよ~。御贔屓にどうも♪ だけどビッグ3にはまるで歯が立たないんだよね~」

 

「彼女達は上客のお得意様を捕まえて逃がさないからね。キミみたいな『職務外営業』を好まないタイプには、なかなか厳しいだろうさ」

 

 職務外営業。その一言にアスナは瞬時に爛れた想像をして顔を赤らめる。フードを被って顔を隠していなければ、茹だったタコのような無様を晒す事になっていただろう。

 

「で・も、スミスさんならOKかな~。この後とか空いてない? あたし、あと2時間で上がりなんだ~」

 

「悪いが、仕事中でね。今日はキミに是非とも聞きたいことがあって来たんだ」

 

 スミスはあくまで仕事であると言いながらも、メニュー表でも最高級の酒を、それも複数本も注文する。後で請求書を突きつけられる教会の悲鳴が今からも聞こえるようだった。

 これ、監督役である私のミス扱いになるのかしら? アスナは今更になって危うんだが後の祭りである。上機嫌になったカオルは、あくまで職務中だと酒には口をつけないスミスに体を密着させる。

 

「もしかして『首狩り』のこと?」

 

「話が早くて助かる」

 

「聖剣騎士団からも同じ事を聞かれたから。アイツら嫌い。何様のつもりなのよ。あたしをドブ鼠みたいな目で見やがって。ディアベル様や古参の方々は紳士的でまさに騎士様って感じだけど、『養殖』の連中はプライドばかり高くて嫌になっちゃう。まだ教育が行き届いてるクラウドアースのエリートプレイヤーの方がマシよ」

 

「それは災難だったね」

 

「本当に! もう半分以上尋問よ!? 普段は偉そうな店長も大ギルドには土下座状態だし! オーナーに文句言ってやろうかと思ったくらいよ! でもなぁ、フォックス・ネストも腰が低いからなぁ。ハァ、チェーングレイヴがしっかり守ってくれていた頃は、変な客もあんな理不尽も無かったのに」

 

「これも時代の流れだな。ほら、飲みたまえ。言った通り、仕事中だから飲めないが、それだと誰かが飲んであげなくては勿体ないからね」

 

「え!? 良いの!? やったー! スミスさん、大好き!」

 

 2人きり、もとい3人だけだからと盛大に愚痴を零すカオルのガードは甘い。なるほど、とアスナも認める。これも常連の上客として金払いが良いだけではなく、しっかりと人間関係を構築していたスミスだからこそである。楽しむのはもちろんであるが、その中でも仕事を円滑に進める為の仕込みは忘れないのである。アスナも学生時代や親戚関係で、政治のいろはと付随する人脈構築は学んでいるが、社会で揉みに揉まれたスミスには及ばない。

 現代日本人では極めて稀な生きるか死ぬかの経験を色濃く積んだとしても、起きてから眠るまで世渡りの攻防戦を強いられる社会の戦いの経験は足りない。スミスが言った、賢いが青いとはこういう事も意味しているのだろうともアスナは噛み締める。

 話の切り出しの中で流れるように酒の注文をした点を取っても、公然と袖の下を渡して情報を引き出すのではなく、堂々と周囲に見せびらかせる実績を与えることの方が彼女には喜ばしいからだ。既に受け取ってしまったからこそ彼女の口は軽くなり、また現金・現物ではないからこそ呵責を覚える必要もない。そして、なおかつ彼女の愚痴を引き出して酒を進ませ、より情報を引き出しやすくしている。

 ちょっとした会話の中でも、彼女の向上心、承認欲求、ストレスは見て取れたのだ。後はそれを上手く利用・誘導するだけである。それで自分にとって優位な条件を整えることができる。アスナは良い勉強になるとしゃぶり尽くすようにスミスの社交術を学ぶ。

 

「『首狩り』の被害にあった1人があたしの常連でね、顏は下の中だけど腕は滅法立つし、聖剣騎士団の古参だからモテたみたいなんだよねー。ほら、DBOだとやっぱり顔よりも強さと金でしょ? まぁ、スミスさんみたいな顔も金も強さもあるイケオジだったら文句なしだけど♪」

 

「ふむ、私も自称しているが、もう『おじさん』の年齢なのだと思うと些かショックだ」

 

「えー、いいじゃん。男の方が女よりも年齢には緩いし、得られるものもあるしさ。特にスミスさんみたいな『おっさん』じゃなくて『おじ様』ってタイプはむしろ年を重ねる分だけ魅力を増すし。女はつらいよー。年を重ねる分だけ失うものが増えるんだ。美魔女とかいうけど、あんなの本当に一握りなんだから」

 

 チラリと微かな敵愾心を滲ませた目でカオルはアスナを見た。ここまで無言を貫く彼女はスミスの仕事仲間だろうと把握しているのだろうが、モーションをかける男の傍に女がいるというのは面白くないのだろう。

 

「あー、でもその無精髭っぽいのは剃った方がいいかも。スミスさんのって不思議と不潔な感じはしないけど、やっぱり若く見えるだろうしさ」

 

「これは私なりのファッションなのさ。昔から実年齢よりも若く見えるのがコンプレックスでね」

 

「えー! いいじゃん! 年齢より上に見られて嬉しいなんて高校生くらいまででしょ? 若く見えればそれだけで幸せじゃん。ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」

 

 いきなり話題を振られ、アスナはポテトを齧る。あくまで無言で返せば、カオルは面白くなさそうに眉を顰めた。

 

「脱線しちゃったね。『首狩り』だっけ? その人って古参だけあって修羅場を相当に潜ってたみたいでさ。やっぱり達人ってオーラが滲み出てたんだよね。戦場常駐の心構えって感じ? だけどさー、ほら、アノールロンドで、初期から一緒に頑張ってた友人が死んじゃったんだって」

 

「……そうか。あの戦いで。ならば亡き友人は勇士に違いないだろう。あの場に1人として恥じるような戦士はいなかった」

 

 アノールロンドの戦いについてはアスナも知っている。聖剣騎士団がトップクラスの古参の精鋭を一気に失った、DBO史上最も過酷だったとされるネームド戦だ。特に人型ネームドでも最強とされる【竜狩り】オーンスタインを事実上単独で討伐したスミスは、その桁違いの実力から人間を超越した『悪魔』という評価さえも受けていた。そして、彼の用いたラスト・レイヴンの有用性を認識した大ギルドは、続々と機動甲冑の開発・生産に乗り出したのである。

 

「かなり落ち込んでて、店に来る頻度も増えててさ。少し気にしてたんだよねー。それで、飲み過ぎたみたいだから、店長に言われて途中まで見送ったんだけど、気分が悪いって暗がりに行って吐こうとして……まぁ、DBOに吐瀉機能はまだアプデされてないけど、気分は良くなるしウェーウェー言ってたんだよね。それで、ちょっと目を離したら、悲鳴が聞こえて、それで……」

 

「首無し遺体になっていた。そういう事だね?」

 

「そう。目を離したのはほんの20秒くらいだったと思うなー。本当に吃驚しちゃった。目を離してる間に首が無いんだもん。さすがに悲鳴をあげちゃった」

 

「……仲が良い常連さんが死んだのに随分と饒舌なのね」

 

 と、そこで思わず口を挟んだのはアスナだ。

 カオルの口振りはまるで他人事。自分を贔屓してくれていた常連に対する哀悼は欠けていた。それがアスナを苛立たせたのだ。

 仕事の邪魔になることは分かっている。だが、それでは常連が余りにも報われないではないか。少なくとも贔屓にしてくれていたという事は、カオルに対して幾らかの好意を抱いてくれていたという事である。カオルの語りからも察するに、たとえ下心はあっても行動には出さない紳士でもあったとも見て取れた。それなのに、余りにも冷た過ぎる。

 

「アンナくん」

 

「いいよ、スミスさん。別に気にしないから」

 

 髪を弄ったカオルは感情が凍った目でアスナを貫く。

 これまで地獄を見てきた。SAOでは命懸けで己を高めながら駆け上がり、改変アルヴヘイムでは数年に亘ってオベイロンに囚われた挙句、自分の名を……ティターニアの名の下で死にゆく者達を無力のままに眺め続けるしかない苦痛を味わった。そして、愛する人と2度と会うことが出来ないという喪失の責め苦は今も続いている。

 そんなアスナも思わず強張る程に、絶望ともまた違う、暗く澱んだ瞳をカオルはしていた。

 

「この街では隣人が前触れなく死ぬ。赤の他人も、友人も、大切な人も、何の予兆も無く簡単に死ぬ。理不尽なくらいにあっさりね。抗うことなんて出来ない死の病が蔓延してる。あたしもあなたも、スミスさんさえも同じ。この部屋を出た瞬間に、もしかしなくても銃口が待っていて、頭を吹っ飛ばされるかもしれない」

 

 カオルは右手で銃を模るとアスナに向けた。まるで、実弾が今にも発射されるかのような圧迫感が宿っていて、アスナの額に汗が浮かぶ。

 

「でも、スミスさんやあなたはまだ生き残れる確率は高いだろうね。レベルも高いし、装備もきっと上等。頭に1発撃たれても死なないかもしれない。でもね、あたし達は違う。あたし達はレベルを上げることが出来なかった。モンスター相手に戦って経験値を稼げなかった。だから強い装備を身に着けることもできない。生きる術も限られる」

 

「それは……」

 

「それはあたし達が戦わなかったから。そうだよ。でもね、誰もが戦えるわけじゃない。人間相手には剣を振り下ろせても、自分の命を明確に奪いに来るモンスターには足が竦んで頭も真っ白になる。そんな奴らなんて腐るほどいる。そんな奴らが同じ人間をボコって憂さ晴らしして、威張り散らかして、金品奪って、犯して、挙句に殺してPK経験値を稼いで余計に強くなって横暴になっていく。それがこの街なんだ」

 

 カオルはアスナに向けていた銃を模った右手を己のこめかみに押し付け、撃つ手振りを見せた。自分の未来など存在していないかのようにあっさりと奪われると言うかのように。

 

「知人・友人・恋人が死んだのを一々気にしていたら、それこそ生きるのが気怠くなっちゃうんだよ。生きる気力よりも死ぬ恐怖の方が大きくなるんだ。あたしはそんなの嫌。1秒先の生きるか死ぬかに怯えながら呼吸をし続けるだけの肉になりたくない。あたしは生きるんだ。この街で、何があろうとも生き抜いてやるんだ」

 

 と、そこでカオルはハッと我に帰ってお酒を一気に煽って飲む。

 

「ぷはー! ご、ごめーん♪ ちょっとマジな話しちゃった! それでさ、ここまでは聖剣騎士団にも話をしたんだけど、実は気になってることがあって。アイツらに話したらそれこそ連行されて尋問から【渡り鳥】でも呼ばれて『拷問』になりそうだから黙ってたんだけど、スミスさんには教えてあ・げ・る♪ あのね、その人なんだけど、死ぬ数日前に変な事を口走ってたんだ。『もうすぐ自由になれる』ってね」

 

「ふむ、確かに少し癖のある発言だな」

 

「でしょ? ほら、ここ最近はヴェノム=ヒュドラみたいなヤバい犯罪ギルドものさばってるけど、もっとヤバい連中もいるし、変な思想やグループに嵌まっちゃったのかもね」

 

 ヴェノム=ヒュドラの事件はアスナも知るところであるが、彼らよりも危険な組織がこの快楽街に潜んでいるのだろうか。元より魔境と呼ぶべき終わりつつある街の闇は如何ほどのものなのかとアスナは眩暈がした。

 

「まぁ、受け入れられないけど、理解はできるんだよね~。また暗い話になっちゃうけどさ、あたしみたいに『ポジティブ』な人間には分からないけど、ともかく1秒先だって生きるか死ぬかも分からないと、生よりも死ばかり気にしちゃうようになるんだよね~。そういう連中はヤバい中のヤバいにのめり込むんだ」

 

「自殺サークルみたいなのがあるって事なの?」

 

「あー、そういう方向でヤバい連中もいない訳じゃないけどね。『安楽死しよう』みたいな連中は確かにいるけど、あたしが言ってるサイキョーにヤバい連中はもっと他人に迷惑をかけて、しかも狂いきってて、最悪な事に数を増やしてるんだよね~。はー、DBOの難易度は狂ってる狂ってるって宣うお客様だらけだけど、あたしに言わせれば1番狂ってるのは人間様の心だね」

 

 口論と言うほどではないが、アスナに対して真剣な発言をしてしまったからか、棘が失せた口振りでカオルは声を潜める。

 

「あんまり大きな声では言えないけど、店の従業員とか常連にも『いる』んだよねぇ。ホント、ヤバ過ぎ。関わり合いになりなたくない」

 

「ふむ、キミがそこまで『ヤバい』という連中か」

 

 スミスが興味を示したからか、カオルは更に声を小さく萎める。アスナも聞き漏らすまいと席を立って近寄る。

 

「終わりつつある街……っていうか、DBOって本当に、あっさりと簡単に、それこそ抗う余地すらなく死んでくじゃん。だけどさ、自分の死を想像して、理不尽に、それも訳も分からない、しょうもない理由で死ぬなんて……嫌になるでしょ? どうせ死ぬなら、何か大きな意味がある死でありたいって望むんだよ。理不尽な死に抗うことが出来ないって諦めてる奴ほど、自分の死に宇宙みたいに壮大で考えの及ばない『理由』があるって信じたくなるんだよ」

 

 カオルの言わんとする事は分かる。だが、アスナには嫌悪するしかない、正しく狂ってるとしか言い表せない考え方だ。いや、違う。カオルが言わんとする事には、より適切な表現があるはずだとアスナの知性が語り掛ける。

 そうだ。自らの死生観すらも超常的な『何か』に委ねる思考の流動は……『信仰』と呼ぶのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世のありとあらゆる理不尽なる暴力と不条理なる死の『理由』。それこそが『死天使』。その存在こそがこの世に蔓延する死の病の原因だってね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死天使。アスナがその単語で思い浮かべるのは、純白の髪を靡かせた、破壊と災厄を司る、全てを焼き尽くす暴力の権化の如き傭兵だった。

 

「……噂の死天使信仰か。そこまで広がっているのかね?」

 

「貧民とか下位とかだけじゃなくて、中位や上位の連中、それに大ギルドのお偉いさんにもそこそこいるみたいだよ。教会みたいに固定拠点を設けて祈祷も宣教もしているわけじゃないのにさ。ほら、【渡り鳥】が暴れるだけで無制限に信徒が増えていくし」

 

 自分は御免だけど、と確固たる意思でカオルは最後に付け足した。

 その後、店を後にしたアスナはまずスミスに頭を下げた。

 

「ごめんなさい。私のミスです」

 

「責めはしない。キミのお陰で彼女も膿を出せたはずだ。本人に自覚は無いが、今にも破裂しそうな風船だった。良い解消になっただろう」

 

「でも……」

 

「そうだ。『でも』だ。キミの不用意な発言で情報収集が不発に終わるだけではなく、あの店における私の評判も落ちかねなかっただろう。それがどれだけの見えない損害をもたらすのか、賢いキミなら分かりそうなものだがね」

 

「…………」

 

 それでも問わずにはいられなかった。常連客の死を何ともないように語るカオルに、その心の奥底に、問いかけずにはいられなかったのだ。

 頭は回るつもりだ。政治のやり方も、経済の動きも、ある程度は理解しているつもりだ。だが、根底の部分で、自分は仕事に対するプロフェッショナル性に欠けていた。自分の人脈・評価を傷つけるならば自業自得であるが、アスナは危うくスミスに補填できない損害をもたらしかねかったのだから。

 

「だが、先にも言った通り、責めはしない。キミのお陰で彼女も幾らか救われただろう。彼女は、私には1度として生きる心構えを……信念を明かしてくれなかった。それでいいと思っていた。だが、胸に秘めた決意は重たいものだ。誰かに知っていてもらいたいものだ。名前も知らない相手だろうとも、自分の心の支柱を分かってもらえているだけで、救われた気持ちになれるものだ」

 

 スミスはアスナを連れて快楽街を去る。その背中は手を伸ばせば触れられる程に近いはずなのに、決して届かない地平線の彼方にあるように遠い。

 

「アスナくん、キミは人の心を救い、生きる活力を与えられる稀有な人間だ。多くが望みながらも叶わない、素晴らしい才能と素質を持っている。大事にしたまえ」

 

「……私はそんな――」

 

「私が認めよう。キミは誰かを救える人間だ。もっと自信を持ちたまえ」

 

 振り返りもせず、だが酷く真剣な声音で言い抜いたスミスに、ならばこそアスナは黙り込んで受け入れるしかなかった。

 アスナのミスがもたらしかねなかった損害を指摘しながらも、カオルの心が救われたから責めることはない。多くの感情を見せないが、節々に感じさせる他者への期待と労わりがこそばゆかった。

 いけ好かない男だ。だが、同時にアスナはスミスの背中に、人生の苦難を味わった先達の姿……自らの失敗を語り掛ける教師のような温かみを覚えた。

 

「スミスさんは『先生』や『師匠』って呼ばれるのが似合いそうね」

 

「…………」

 

「私も今日だけで色々なことをスミス『先生』から教えてもらったわ」

 

「止めたまえ。私の肩はキミを背負える程に広くも強くも無い」

 

 小賢しい小娘では終われない。学べる全てを学び、私に出来る事を為そう。理解したくなかったものを理解できるようになり、目を背け続けていたものを直視できるようになり、手を伸ばせなかった者に抱擁は出来ずとも言葉を投げかけることが出来るようになろう。

 アスナが思い浮かべたのは、スミスとは対照的に、余りにも幼くて、小さくて、今にも消えてしまいそうな、暗闇に惑う迷子のような儚さを湛えた純白の傭兵だった。

 

「この世の理不尽と不条理をたった1人にせいにするなんて、生贄を欲する衆愚の発想よ。許せない」

 

「だが、弱い心は死の寄る辺を求めるのは世の常。乱世ならば尚の事だ」

 

 スミスが案内したのは、サインズ本部からほど近い場所にある、まるで谷のように遥か下の下水を眺められる空き地に辿り着く。誰1人としておらず、光が弱々しい街灯が1本だけ立つだけであるが、ペンキ缶と鉄棒を利用してクラフトされた即席灰皿があるように、ここはサインズ関係者、あるいは傭兵の喫煙場として利用されているのだろう。

 スミスは煙草を1本差し出し、アスナは断ろうとしたが、物は試しだと咥える。スミスが火を点け、アスナは大きく息を吸った途端にむせ返った。

 ゲホゲホと苦しく咳き込むアスナに、スミスは喉を鳴らして笑う。いや、嗤う。その姿をアスナは涙目で睨む。

 

「レクチャーはいるかね?」

 

「いいえ! 結構です! もう2度と吸いませんから!」

 

 喫煙マナーが悪い人は嫌いだ。だが、それ以上に煙草を勧めた挙句に笑い者にする人はもっと嫌いだ! アスナは即席スタンド灰皿にまだたっぷりと長い煙草を押し込んだ。その様を勿体無さそうにスミスは眺めていた。

 

「隣人が強盗に殺されるのも死天使のせい。恋人が戦場で死ぬのも死天使のせい。自分が事故で死ぬのも死天使のせい。この世には数多の理不尽と不条理があって、そこに理屈をつけたがり、だからこそ理解し難い存在に意味を求める。自他に死をもたらす『理由』を欲する……か。なるほど。狂信と呼ぶに相応しいな。だが、今のDBOで広まるのも理解できる。彼は【聖剣の英雄】すらも倒せなかった、理不尽と不条理の塊のようなDBOすらも霞むほどの……理解不能な存在に映るだろうからね」

 

「……死ぬ理由なんて簡単よ。強盗に殺されるのは、金品を奪う為、戦場で死ぬのは『戦場だから』以上も以下もない。事故で死ぬのは自他のどちらかの不注意か、何らかの整備ミス。DBOで死ぬ理由は幾つもあるけど、根本を突き詰めれば、欲望と悪意の因果、殺し殺されの戦場の理屈、不注意とミスの悲劇……それだけ。確かに理不尽や不条理を感じずにはいられない時もあるけど、でも、たった1人のせいなんて……絶対にない」

 

 アスナは知っている。SAOで何度となくクゥリを追い掛け回した。だが、アスナに殺意や害意が無いと分かっていたからか、クゥリは1度として攻撃してこなかった。本気で逃げようとしていた節はあっても、その後ろ姿はまるで鬼ごっこに興じるかのような、誰かに構ってもらえて嬉しいような、幼い無邪気さがあった。

 だからこそ、アスナも捕まえきることが出来なかったのだろう。クゥリが本当にすばしっこく、あの手この手でアスナの追跡を阻んだのもあるのだが、最後の1回を除けば、アスナもあの鬼ごっこをずっと続けたい気持ちだったのだ。

 クゥリは確かに理不尽な暴力によって不条理とも思える死をもたらすのかもしれない。彼の存在そのものがこの世の理を歪めているようにも思えるのかもしれない。だが、彼が全ての死の理由であるはずが無いのだ。

 

「私はカオルさんが好きになれない。隣人が死んでも何も感じないように『心を殺し続ける』生き方なんて、受け入れられない。でも、あの人の心の『強さ』には、正直言って……圧倒されたわ。カオルさんは絶対に死天使信仰に惑わされない。最後まで理不尽と不条理に悪態を吐きながら、それでも生き足掻いて……死ぬはずだから。素直に……強くてカッコイイって、思ってしまったから」

 

 かつてアスナは己の死を覚悟した。『ティターニア』としての死すらも利用して改変アルヴヘイムに反オベイロンの火を点して燃え上がらせようとした。

 蘇った死者だからこそ、改めて己の死を利用せねばならないのだと思いつめた。そんな自分の間違いを正し、2回目の命を全力の限りに生きていいのだと教えてくれたのはユウキだ。

 歩めば歩む程に会いたい人は増えるばかりだ。だが、自分の正体を明かすことはできない。明かした数の分だけキリトに知られるリスクが増えるのだから。それは、自分に生きる場所を与えてくれたクゥリとの約束を反する事になる。ユイを独りぼっちにしてしまう母親失格を意味する。

 

「ひとまず情報は得た。ただの戯言かもしれないが、どうにも気になる」

 

「『自由になれる』。どういう意味かしら。もしかして、自分の殺害を誰かに依頼した? それとも……」

 

「それとも、死を偽装したか」

 

 アスナとスミスの意見は一致している。このどちらかで正解だろう。だが、そもそも『自由になれる』という発言が実際に何を意味するかまでは不明である。全く関係ないかもしれない事も念頭に入れておかねばならない。

 

「私はこれまでの犠牲者の足取りを改めて追跡し、聞き取り調査を行おう。今晩は徹夜だな」

 

「私は教会で自殺依頼を請け負ってる組織や死の偽装の前例が無いか資料を探すわ」

 

 スミスはアスナに人生の……社会の生き方を教えてくれる一方で何かを期待している。ならばこそ、アスナは応えたいと望む。自分の正体を隠す単なる取引以上に、彼に自分を認めさせたいという挑戦心を昂らせる。

 これから挑むのはDBOに潜む闇の1つか、それとも『首狩り』という名の狂気の殺人鬼か。どちらにしても、一筋縄ではいかないだろう。

 だが、死ねない。死ぬわけにはいかない。アスナは今日も我が家で自分の帰りを待つユイを思い浮かべ、生の決意を新たにして歩み出した。

 

 

▽      ▽      ▽

 

 

「ふむ、なるほど。エバーライフ=コールに……」

 

「ええ。神父には申し訳ありませんが、『槍』の仕事はしばらく引き受けられないかと。このような時期に申し訳ありません」

 

 大聖堂内に設けられた礼拝室の1つ、祭壇は無数の蝋燭で霊魂の如く揺れ、天井より降り注ぐ陽光は祭壇前の床に描かれた1つのシンボルを照らす。太陽とも星とも月とも捉えられる幾何学模様であり、それが何を意味するのかは聖典に目を通したエイジにも理解し難いものである。

 エドガー神父は嘯く。信仰とは己の内に見出すものであり、宣教とは啓蒙の手助けに過ぎないのだ。聖典に記されているのは、与えられた神託を編纂し、信仰を見出す手がかりと信仰を貫く上での警句に過ぎないのである。

 理解する気はない。だが、それでいいとエドガーは認めている。真なる信仰に目覚める者は稀であり、神父自身もまた道半ばであり、故にまずは形から入り、先達に倣うことこそが肝要であり、それもまた信仰の道なのだと。

 ここは地下の礼拝室であるが、大聖堂内の鏡を反射し、まるで柱の如く光は降り注ぐ。だが、すっかり熱は冷めており、故に地下に温もりは無い。このような礼拝室が大聖堂には無数と存在し、各々が自らと向き合い、信仰とは何たるかを自問し、己を高めるのである。

 そして、同時に誰にも聞かせられない会話をする上でも役に立つ。水銀の槍は表向きではそれぞれが無関係を装い、与えられた任務をこなす。それはエイジも変わらない。個々は教会の指示を受けて任務に従事しながらも、教会とは無縁の私情で動いていると偽らねばならない。

 故に水銀の槍には1つのアイテムが与えられる。【奥の歯】だ。奥歯の仕込むことが出来る毒であり、任意の噛み方をすると毒が漏れだすのだ。この毒は摂取するとレベル4の毒が急速に蓄積して発症する。レベル4ともなれば、高VITのプレイヤーであっても処置をしなければ死は免れない。そして、何よりも恐ろしいのはこの毒薬にはレベル1の呪いが付与されており、解呪しなければ解毒・HP回復もできないのである。

 これだけ強力なのは自決薬という特性と前準備に時間がかかるからだ。水銀の槍は常日頃から【バジリスクの妙薬】の服用を義務付けられている薬があり、これと体内で反応することによって毒蓄積の強化と呪いが発症する仕組みになっている。残念ながらバジリスクの妙薬の服用からしばらく待たねばならず、回復処置も容易であり、また自覚症状もあるので、暗殺には不適切なのである。

 仮に捕まって拷問され、口を割りそうになったならば、速やかに自決すべし。それが水銀の槍が捕縛された時の運命だ。もしも自決しなかった場合、別の水銀の槍が暗殺に派遣され、口封じを行わねばならない。たとえ敵地のど真ん中であろうとも侵入し、暗殺し、また捕まりそうならば自害するのである。

 教会の闇として生き、教会の闇として死ぬ。それこそが水銀の槍の使命なのである。

 だが、エイジはもちろん自決する気などない。水銀の槍に加入したのは教会を利用する為であり、より強大な力を得る為だ。もちろん、如何なる勢力であれ、捕まればただでは済まないだろうが、最大限に弁を回して取引して生き抜く腹積もりだ。

 とはいえ、今はユナが教会の世話になっており、神父もエイジに信頼を置いていないからこそユナを手放さない。彼はエイジの実力を評価しており、利用価値を見出しているが、あくまで駒の1つとしてしか見ていない。ユナは人質でもあるのだ。逆に言えば、エイジが良き働きをすれば、相対的にユナの待遇も良くなるだろう。

 

「いいえ、問題ありませんよ。むしろ僥倖です。エバーライフ=コールは中立の犯罪ギルド。抗争が激化する裏の世界において、いずれかの勢力に加担すればそれだけでバランスを崩しかねない規模を誇ります。そして、如何なる大ギルドにも靡かないことで有名『でした』」

 

「ですが、今はライドウとカリンの濃厚な接触がある。しかもライドウはカリンの殺害も目論んでいるようですから」

 

「ライドウですか。ふむ、クラウドアースが背後にいるのか、それともライドウ自身の気まぐれか。どちらにしても、トップのカリンが死ねば、エバーライフ=コールは今のまま中立を保つかは定かではありませんね。ですが、これで『時』が来た時に教会はより有利に動ける。エイジ殿、お手柄ですよ」

 

 ライドウに師事しているが、味方ではない。むしろ殺す機会を伺っている身だ。教会に情報を売る事に何の躊躇いがあるだろうか。神父は信頼こそしていないが、より価値のある情報を差し出せる人材として信用は置いただろう。

 

「神父はやはり『浄化』を望まれていらっしゃいますか? ならば、及ばずながらもお手伝いさせていただきますが」

 

「逸ってはなりませんよ、エイジ殿。確かにエバーライフ=コールは残虐なショーで金儲けをしています。大ギルドや有力ギルドの上層部のみならず、商業ギルドの富裕層なども参じているとか。確かに教会としてはいつまでも放置できませんが、膿を取り除くのに周囲の肉まで削いでは後遺症となりかねません。時間をかけましょう。それに邪な欲に塗れた浮世があるからこそ、信仰に目覚める尊さも分かるというものです」

 

「なるほど。僕にはまだまだ見識が足りなかったようです。お許しを」

 

「エイジ殿の御心、このエドガーは確かに受け取りました」

 

 茶番である。だが、必要な処置だ。エイジは祭壇の前で祈りを捧げる神父に片膝をついて跪く。

 

「ですが、灰より出でる大火をお迎えする為にも不浄の滅却は不可欠なのも確かです。その時はエイジ殿にも存分に働いていただきますよ」

 

「有難きお言葉」

 

「これは自らの足で試練と困難に立ち向かうエイジ殿への教会よりの助力です」

 

 エドガーより賜ったのは【雷槍の護符】と【水銀の護符】だ。使い捨てであるが、雷槍の護符は周囲の地面より雷の槍を出現させて攻防一体を為し、水銀の護符は投擲した場所より水銀の霧が生じてスリップダメージを与えるようである。どちらも聞いたこともない、水銀の槍にだけ与えらえる教会の力なのだろう。

 

「汝に灰より出でる大火の導きがあらんことを。アンバサ」

 

「アンバサ」

 

 そのまま祭壇に祈りを捧げるエドガーを残し、エイジは地上に戻る。

 灰色の空は今にも雪が降り落ちそうである。エイジは大聖堂の要である大祭壇の間に向かう。数百人の信徒を容易に収容でき、日曜日には礼拝が行われる場でもあり、パイプオルガンはもちろんとして、灰より出でる大火を迎えるという教義に相応しい、油に満たされた盃が大祭壇では祀られている。

 

「スレイヴ、起きろ」

 

「……んあ?」

 

 大祭壇の間の最前列の長椅子にて、信仰など欠片も要らぬとばかりに寝そべって惰眠を貪っていたスレイヴを揺さぶって起こす。彼女は目を擦り、今にも耳まで口が裂けそうな程に大きな欠伸をした。

 

「話はもう終わったのか?」

 

「ああ、神父とは話をつけた。これで心置きなく出発できる」

 

 エイジはこれよりライドウから与えられる試練に挑む。それにはカリンが1枚噛んでいるようであり、並々ならぬ準備が求められた。事前情報は長期に亘って補給できない環境にあるという事だけであり、何が必要なのかは一切明かされなかった。

 

「俺は一緒にいけないが、邪剣と俺は繋がってる。助言ができるかは分からないが、寂しくなったらいつでも連絡しろ。まぁ、1分も会話をすれば俺の方がグロッキーになるから長話は出来ないがな」

 

「ここぞという時だけ使わせてもらう。それよりも、ユナの事は……」

 

「安心しろ。最弱のレギオンである俺ではアルヴヘイムに付いて行くことは出来ない。だが、頼りになる家族を焚きつけておいた。まぁ、すぐとはいかないが、あちらの戦力増強にはなるだろう。【黒の剣士】もいるんだ。ユナの方はお前よりもずっと安全が担保されているさ」

 

「そうだと良いんだがな」

 

 大祭壇の間は閑散としている。荘厳な空気で満ちて、ステンドグラスから蜘蛛の隙間より漏れる僅かばかりの陽光を取り入れて鮮やかな影を作っているが、まるで無人の廃墟であるかのように生気が無い。

 

「…………」

 

「……ユナが心配か?」

 

「幾ら【黒の剣士】が一緒とはいえ、アイツは1人の人間だ。昨日もそうだったが、個人に出来ることには限界がある。キャパシティを超えた時、ユナを守り切れるかどうか」

 

「ユナだって守られっぱなしのお姫様じゃない。最低限の自衛が出来るようになる為にもアルヴヘイムで修業するんだ。まぁ、確かにアルヴヘイムは水準レベル100だ。荒修行にはなるだろうが、その分だけ成果も期待できる。ユナらしい我武者羅じゃないか」

 

 確かにその通りなのだが、それでもユナは根本的に戦いに向いている性格ではないことをエイジは知っている。

 だが、スレイヴの言う通りだと瞼を閉ざして思考を停止させる。ユナには【黒の剣士】がついているのだ。彼に守り切れないならば、エイジがいたところで何の役にも立たない危機的状況に違いない。ならば全ては杞憂であり、無駄なのだ。

 

「きっと、あの2人ならば、守って守られて……そんな信頼し合った本物の『パートナー』の関係になれるだろうさ! 何も心配するな!」

 

 スレイヴはエイジを落ち着かせるように笑いながら告げる。

 

「エイジだって……『見た』だろう?」

 

 エイジの肩を掴んで体重をかけ、まるで蛇が舐めるように耳元でスレイヴは囁く。

 エイジがユナを迅速に発見できたのは何も偶然ではない。確かに準備で買い物をしていたので近隣にいたが、付き添っていたスレイヴがレギオン・ネットワークで先んじて問題を感知してくれたお陰だ。

 そして、エイジはユナが求めた通りに【黒の剣士】を助けに行った。人々を守りながらの戦いで傷ついた彼と共闘したのは、ハッキリ言って不本意も甚だしかったが、借りは借りである。しっかり返す機会を得られたのは悪くなかった。

 極限まで出力を引き上げたソウル・リアクターとバトルスーツに組み込まれた人工筋肉繊維による高速化ブースト。訓練が足りずに自傷で動けなくなるという失態を犯したエイジは負傷者に最低限の応急処置を済ませ、大ギルドと教会の救援が到着するより先にその場を離れた。

 そして、遠目からその後の顛末を見届けていた。声を無理に出そうとした反動で喉を掻き毟ったユナは、しっかり休むように言い聞かせておいたのに駆け付け、負傷した【黒の剣士】の無事を確認すると安堵で腰砕けになって彼にもたれかかり、【黒の剣士】もその肩を抱いていた。

 2度も命を助けられたのだ。ユナが【黒の剣士】に特別な感情を抱いていてもおかしくはないだろう。

 かつては自分もそうした感情をユナから向けられたかったのかもしれない。エイジは大祭壇に祀られる盃に右手を伸ばす。もはや憎しみに塗れて思い出すこともできない、かつて彼女に抱いていた感情と求めていた願望を自嘲するかのように。

 自分はユナを見殺しにし、『ユナ』を守り切れずに殺してしまい、そしてユナの危機にいつも間に合わなかった、ただの役立たずの愚かな道化だ。だからこそ、何1つとして彼らの関係に言葉を挟む余地などない。

 スレイヴがまるで甘えるように、背後からエイジに抱きつく。絞め殺すかのように腕を首に回し、生温かい吐息が首筋を舐める。

 

「ユナは【黒の剣士】と一緒に旅をして強くなる。でも、お前はこれから1人で何とも知れぬ試練に挑む。だが、孤独ではない。俺がいる。俺はいつだって傍にいる。邪剣ダーインスレイヴは俺の分身だ。お前が窮地の時、強敵と相対した時、生死の狭間で勝利を探す時、俺はそこにいる。俺はお前を裏切らない。『憎悪』のレギオンである俺だけがお前を真に理解しているんだ。そうだろう?」

 

「……どうだろうな」

 

「そこは認めるところだろ! そういう所がお前の駄目な点だぞ!」

 

 子どもっぽく頬を膨らませて耳元で喚くスレイヴを振り払い、エイジはいよいよ時間だと大聖堂の間を離れる。

 大聖堂から出て敷地外に続く正門の1本道。純白の敷石で作られた道の半ばにて、エイジを待っている人影があった。

 ユナだ。エイジは思わず目を背けそうになり、だがそんな彼に彼女は歩み寄る。だが、その目は惑い迷っていて、かける言葉を探しているようにも思えた。

 

「やぁ、ユナ! 今日から仕事で【黒の剣士】と『ずっと一緒にいる』はずだろう? 待ち合わせに遅れるぞ?」

 

 エイジとユナの間にスレイヴが割り込む。彼女の言う通り、ユナも待ち合わせの時間が近しいはずだ。

 

「まぁ、別れの挨拶も必要だろうが、さっさと済ませた方が良い。『今回は』今生の別れじゃないんだ。だろ?」

 

「そう……だな」

 

 ウインクしたスレイヴは、後は2人で手短に、といつものように能天気な足取りで去っていく。

 相対したエイジは言葉に詰まる。別れの挨拶などと言われても思いつくはずもない。自分とユナは、それこそ生死の別れを言葉さえも交わすことなく迎えた経験があるのだから。

 

「どうして、ここにいるんだ?」

 

<私もエドガー神父に用があって、そしたらエー君が先に話をしてるって教えてもらったから>

 

 神父の補佐官にどうやら口が軽い者がいたようである。真正面からアポを取った自分にも非はあるが、水銀の槍の秘匿性を考慮すれば、これからは別の手段で接触すべきかとエイジは肝に誓った。

 

「……今から長期の仕事に出発するんだ。しばらく帰って来れない」

 

<今から? そんな大切な事をどうして教えてくれなかったの?>

 

「ユナだって、僕に相談することなく自分で【黒の剣士】の仕事に付き添うって決めただろう? とやかく言われる筋合いはない」

 

 棘はあるが正論のはずだ。ユナはその通りだと言わんばかりに俯き、だがエイジを再び見つめ直す。

 何故だ? 何で、そんな今にも泣きそうな、だがまるで金剛石のように眩い程に輝きに満ちた目をするんだ? 僕と君は『幼馴染』であって、それ以上でも以下でもないではないか。自分が動揺しているという事実こそが更なる動揺を生み、エイジは顔を背けた。

 

「……ごめん。言い過ぎた」

 

<ううん、私が悪いから。いつも勝手に決めて、勝手に行動してばかり。エーくんにいつも迷惑をかけてる>

 

「そんな事ない。ユナは……僕にはない積極性と行動力がある。僕はいつも二の足を踏んでしまって、皆に後れを取ってしまうから、キミの大胆さには……何度も助けられた」

 

<エー君は真面目で慎重なだけ。私はいつも考え足らずなだけ>

 

 それでも、憧れだったんだ。エイジは言葉にすることなく、思い出の日々を振り返り、だからこそ無力を知り、憎悪を滾らせる。

 もっとだ。もっと『力』が必要だ。無力で愚かな過去の自分を完全否定して殺し、強者へと至るのだ。

 

<クリスマスまでには戻ってくる?>

 

「……どうだろうな。期間は決まってないから」

 

<だったら、約束しよう。クリスマスにまた会おう。私、それまでに強くなるから>

 

 ああ、眩しいな。ユナはいつも真っ直ぐだ。彼女は目的を見つけたのだろう。目標が揺らぐことなく定まっているのだろう。エイジがようやくたどり着いたはずの『力』を求める境地に早々に至っている。

 僕はいつもキミに置いて行かれていく。先を歩いて手を引きたかったはずなのに、キミを守りたかったはずなのに、いつもキミは僕の前にいて、この手は届かず、キミは死んだ。

 全ては過去なのだ。もう取り戻せず、また終わった事だ。見据えるべきは今であり、故にエイジは過去の愚かな己の弱さを憎む。

 

「ああ、約束だ」

 

<指切りしよう>

 

「懐かしいな。守れもしない約束を結んで、ユナをよく怒らしたな」

 

<エーくんはいつも頑張ってたのに、怒ってばかりでごめんね>

 

 頑張ったところで為し遂げられなければ無意味なんだよ、ユナ。エイジは約束の1つさえも守れない過去を冷笑し、ユナと指切りを交わす。

 もう言葉は要らない。さよならは言わない。エイジはユナの脇を抜ける。

 敷地外に出れば、スレイヴが何処か楽しそうな笑みで迎える。

 

「済んだか?」

 

「ああ。別れの言葉は要らない。約束だけがあればいい」

 

「約束ねぇ。守れる確証もない約束なんて、結ばない方がずっと良い。そんなもの、たとえ最初は祈りであっても、すぐに呪いになり果てる。お前かユナか、あるいは両方を苦しめるだけだ」

 

「随分と実感が籠もってるんだな」

 

「……実例を知っているからな。エイジ、憶えておけ。祈りは己の内に抱いておくものだ。どれだけ尊い祈りであろうとも、誰かに託せば歪となり、何よりも禍々しい呪いに変じる。託された者を貶める猛毒となる。そして、もう2度と自身の手に祈りは戻らない。ただ失うだけの愚行だ」

 

 それは悔恨にも似た嘲笑であり、あるいは侮蔑にも等しい憐憫だった。

 

「俺は見送らない。お前が生きて戻ると知っているからな。次に会う時はお前が邪剣の使い手として高みに至っていると確信している」

 

 スレイヴはひらひらと手を振りながら背を向ける。スレイヴらしいとエイジもまた彼女に背を向ける。

 

 

「エイジぇえええええええええええええええええええええええ! 頑張れよぉおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 

 だが、馬鹿々々しいくらいに涙で濡れた声援がすぐに背中を押して、エイジは思わず苦笑を漏らした。

 終わりつつある街はクリスマスムードで染まっている。昨日、あれだけの流血があったというのに、日常の1コマに過ぎないとばかりに忘れ去れる。

 いいや、違う。誰もが怯えているだけだ。忘れたがっているだけだ。毎日のように押し寄せる恐怖から心身を守る為に、必死になって目と耳を覆い隠すのだ。

 

「……守れない約束、か」

 

 それでは僕が死ぬような言い方ではないか。エイジは己の両手を見下ろす。『ユナ』を守り切れなかった代償、ダーインスレイヴと強引にリンクし続けた証のように、今も傷痕は左右の腕に色濃く残っている。グローブを剥げば、指まで痛々しい傷痕と爛れが明らかになるだろう。

 死ぬものか。僕はまだ負けていない。必ず強者になってやる。エイジは歩を進める中で露店を見つける。

 

「……まぁ、余裕はあるな」

 

 詰められるだけ詰めたが、アイテムストレージにはドロップ用に空きを作ってある。エイジは露店商からあるアイテムを購入する。守れない約束などではないと、だからこそ己が負けて帰らないことなどないのだと誓うように。

 

「おー! 雑魚くーん! 待ってたよー!」

 

 快楽街でも下層に近しいエバーライフ=コールが経営する劇場。娼婦がダンスを披露して妖艶に客を魅了し、そして地下では血の興奮を安全地帯から楽しめる残虐ショーが楽しめる施設だ。エイジも処刑人として活躍したが、今日も新たな残虐ショーが繰り広げられるらしく、みすぼらしい男女が手錠をかけられて檻に閉じ込められていた。

 そんな地下闘技場を一望できるVIPルームの1室にて、カリンは秘書と打ち合わせをし、ライドウは昼間から酒を飲んでソファで寝転がっていた。

 

「お待たせしました」

 

 もちろん、ここまでは顔を隠して裏口から潜入している。これも鍛錬の1つであり、VIPルームに辿り着くまでには発見された場合、ライドウがエイジを殺すペナルティが課せられていた。

 顔も含めた全身を覆うマントを剥ぎ取ったエイジに、カリンは秘書の女から受け取った書類にサインをすると静かに拍手を送る。

 

「ウチの警備には自信があったのだけど、なかなかやるわね。さすがはライドウが見込んだだけのことはあるわ」

 

「まぁ、40点かなー。及第点ギリギリってところ」

 

「あら、それってウチの警備がザルってことじゃない」

 

「大ギルドに比べればねー」

 

「これでもヴェノム=ヒュドラの強襲に備えて強化してるのよねぇ。面目丸潰れよ」

 

 深い溜め息を吐きながらカリンはキセルを吸い、瞬間に取り出したハンドガンで傍らにいた40代後半だろう男の眉間を撃ち抜く。自分のボスのまさかの攻撃に対応できず、ヘッドショットを喰らった男は倒れた。

 

「エイジくん、処分しておいて。ソイツが今日の警備責任者なの。侵入を許した挙句に私の所までたどり着かせた失態は重いわ」

 

「カ、カリン……様! そんな、どうかチャンスを――」

 

 男がHPを減らしながらも起き上がって懇願するが、その口内へとダーインスレイヴを突き入れたエイジは刃を捩じり、頭蓋まで斬り上げ、更に深くまで刺し貫く。

 痙攣しながら男のHPはゼロとなって物を言わぬ死体となる。エイジは剣を引き抜き、付着した血と肉片を払い飛ばす。頬に血が付着した秘書は予想外の凶行に顔を青ざめて震えるが、カリンがキセルを回せば我に戻って遺体の足を掴んで引き摺って外に連れ出す。

 

「ヒュー♪ 躊躇も慈悲もない。少しは成長したね、雑魚くん」

 

「この程度の小手調べに一々付き合っていたら日が暮れます」

 

 ライドウに馴れ馴れしく肩に腕を回され、エイジは煩わしそうに払い除ける。

 

「まぁ、雑魚君も仕上がってきたし、ここで1つ思い切ったステップアップが必要だよねぇ。カリーン、頼める?」

 

「もちろんよ。早速、出発しましょうか」

 

 そう言ってカリンは遺体を運び終えた秘書にVIPルームの清掃を任せるとエイジを連れて、劇場の更に地下へと続く階段へと誘う。

 

「今日のショーは貴方に処刑人を任せたかったのに残念。恋人の男女のそれぞれにお客様に命乞いさせて、得票数が少なかった方を処刑人と戦わせるのよ。恋人同士は自分が助かろうとアピールし、相手が如何に死ぬに値するか貶し合う。それでね、このショーの面白いところは、もしも処刑人に勝てば、得票数が多くて助かった方を生かすか死なせるか選べることなのよ。生かせばめでたく解放。死を望めば大金ゲットなのよね」

 

「うーわ、カリンったら悪趣味だねー。俺のこと言えないじゃん」

 

「嫌いなのよね。永遠の愛の誓いってやつ? 虫唾が走るのよ。男女の愛なんて幻想。必ず裏切りの結末が待ってるわ。エイジくんも気を付けなさい。キミが誰か素敵な女性を愛したとしても、ソイツは貴方に番としての魅力が無くなれば、貴方より優れた男を見つければ、貴方よりも大事な何かを見つければ、嘘を並べて騙し、何もかも台無しにして去っていくわ」

 

 カリンの物言いには彼女自身が裏切られたからこその憎悪が籠っているように感じ取れたのエイジの気のせいではないだろう。彼女の八つ当たりで残虐ショーの見世物となって、愛を誓った相手を醜く罵って命乞いをする恋人たちが哀れに思えたが、エイジは自分の心が僅かとして何も感じていない事に嫌気が差す。

 憎い。憎い。憎い。ただひたすらに憎悪する。もっと『力』を! 憎悪に塗り潰された魂はまるで不感症になってしまったかのようだった。

 

「カリンは潔癖だなー。愛だの何だのまどろっこしい。教訓を述べてるつもりんだろうけどさー、まるで見当違いなわけだよ。雑魚君、わかるー? 良い女がいたらヤる。支配する。飽きたら捨てる。それだけで良いの。無意味な愛の言葉を並べて何になるんだい? まぁ、相手をノリ気にさせて楽しむって意味なら有効性を認めるけどさー、わざわざ労力と時間を費やす意味が分からないね。それなら素直に自分の肉欲と支配欲を満たす方がずっとずっと楽しめて疲れないじゃん」

 

「相変わらずサイテーのクズねぇ。まぁ、だからこそ、逆に信じる余地があるんだけど」

 

 カリンもライドウもどっちも極論であり、どっちも興味はない。エイジは何処までも続くかのような錯覚を覚えた螺旋階段の末に、木造の小部屋に辿り着く。そこにはギルド設置の転移ゲートがあり、カリンはギルドリーダーとして開門する。

 転移した先が何処なのか、エイジには定かではなかったが、地下であることには変わりない。だが、雰囲気がまるで異なる。DBOでも珍しい和風の建造物が見られ、歪な鳥居が地下の闇の道を示す。

 鳥居の道を囲うのは石像。右には蛇、左には蛙だ。カリンが踏み入れば鳥居はぼんやりと光り、先に進めと促す。

 カリンに続いた先でエイジを待っていたのは巨大な百足の石像だ。カリンは百足の石像の顎にアイテムストレージから取り出した球体を差し込む。それが鍵になっていたのだろう。百足の像はスライドし、更なる地下へと続く階段を開く。

 無言の時間は長く続かなかった。すぐに終わりが訪れたからだ。エイジが見たのは直径10メートルはあるだろう、巨大な円形の穴だった。周囲に床、壁、天井には札が貼られ、しめ縄で数多の骸骨が締め上げられて吊るされていた。

 

「ここは……?」

 

「急かさないの。説明するわ」

 

 カリンは愛おしそうに穴の縁を撫でる。

 

「これはソロ専用ダンジョン、『コドクノアナ』。たった1人で闇の底を孤独に彷徨う事になる未攻略ダンジョンよ」

 

 DBOのダンジョンはいずれもパーティによる探索を想定した調整となっている。故に人数が増える程に隠密ボーナスに下方修正が入り、またエンカウントに補正がかかる。大部隊でダンジョン攻略をすれば、それこそモンスターも大軍団で襲い掛かって来て、もはや戦争のような様相になるのだ。どちらが適しているかはダンジョンの難易度・性質にもよるが、ある意味で極限まで効率性を高めるのであるならば、ソロで探索することである。隠密ボーナスをフルに活かし、最低限のエンカウントで抑え、回避不能な強敵を妥当しながらマッピングし、あるいはショートカットを開通して来たる本隊の通り道を作る。傭兵がダンジョンに潜る際の仕事としてもメジャーな部類である。

 ソロ専用ダンジョンは読んで字の如くソロを前提としたダンジョンである。難易度はピンキリであるが、たとえモンスターが弱体化した低難度だったとしても、基本的にソロだと圧倒的に厳しいDBOでは死亡率が高く、多くの腕に過信したプレイヤーを呑み込んだ。だが、ソロ専用というだけあって得られるものは多く、経験値やレアアイテムを欲して潜るプレイヤーは後を絶たない。

 ソロ専用ダンジョンの多くにはクリアすると確定報酬が得られる仕組みになっており、それを狙って何度も潜る凄腕のプレイヤーもいるが、それでも油断1つ……いいや、慢心すらなくとも水準レベルが低いダンジョンでも落命することがあり、大ギルドはソロ専用ダンジョンの利用を推奨していない。

 

「水準レベル不明だけど、100に匹敵するのは間違いないわ。でも、それ以外は不明。なにせ生きて戻って来た人がいないわ。この穴の底はどうなってるのか、だーれも知らないのよ」

 

「それはつまり引き返すことが出来ない。そういう事ですか?」

 

「ええ。ロープで体を縛って降ろしてみたこともあったのだけど、途中で千切れてしまうわ。私達も情報を少しでも集めようと色々と実験して境界線は分かってるのよ? 約100メートル。そこが境界線みたいね」

 

 カリンに誘われてエイジは覗き込む。底が見えない闇は何者も逃さぬようであり、まるで重力によって引きずり込まれるような危うさがあった。

 

「だけど実験のお陰で幾つかの興味深い情報が分かったのよ。この孤独の穴では時間の流れが違うの」

 

「時間の流れが違う? どういう事ですか?」

 

「論より証拠ね」

 

 カリンは2個の懐中時計を取り出し、エイジに見せる。2つの時計は全く同じ時間を示していた。

 エイジに片方を渡し、カリンはもう片方をロープに縛り付けて穴の中に垂らす。

 

「1分待つわ」

 

 しばらくすると引き上げてエイジに渡した。

 驚いた事に懐中時計の時刻にはズレがあった。その差は約30秒のズレがあった。穴に入れた時計の方が遅れていたのである。

 

「今のは10メートル。もっと深くすれば、それだけ時間の遅れは大きくなるわ。境界線ギリギリの50メートル付近だと……そうね。大体10分の1かしら。それよりも下なら更に大きくなるかもしれないわね」

 

「つまり、最低でも、この穴の下で10日過ごしても実際には1日しか経過していない。そういう事ですか?」

 

 驚いた。エイジも改変アルヴヘイムの噂は聞いている。嘘か真か、【黒の剣士】達はまるで異世界の如く住人が闊歩する広大なアルヴヘイムを長期に亘って冒険していたという。改変アルヴヘイムではDBOの標準よりも時間の流れが速かったのそうだ。このソロ専用ダンジョン、孤独の穴も同様だろうとエイジは生唾を飲む。

 

「雑魚君には色々と足りないものがあるよねー。バトルスタイルの基礎は出来た。攻防と回避のいろはも叩き込んだ。五感をフルに活用する術も教えた。俺の体術も学ばせた」

 

「教えてもらった覚えはない」

 

 平然と殺しにかかる中で学び取るしかなかっただけだ。死の境界線に触れねば真の会得は出来ないとばかりにライドウは容赦がなく、また言葉で説明することは一切なかった。

 

「雑魚くんにあと必要なのは死闘の経験。とにかく場数さ。だけど、時間は有限だよねー。キミが強くなろうとしている間にも俺も他の奴らも強くなるに決まってるじゃん。相対的にキミはいつまでも雑魚。分かるぅ?」

 

「…………」

 

「だったら時間を増やせばいいじゃーん! しかも、ソロ専用で退路は無し。生きて戻って来れた時、雑魚くんは間違いなく成長してるって寸法なわけ!」

 

 いやー、ここに雑魚くんを放り込む為に今日まで鍛えたと言っても過言じゃないね! ライドウはケタケタと笑う。これからエイジを待つ苦難などにまるで興味はなく、育成ゲームでゲーム画面外で成長させるお遣いコマンドでも選んだような気軽さだ。

 エイジという復讐者を鍛える育成ゲーム。逆に言えば、これに挑ませる為にライドウは今日までエイジに多くを叩き込んだのだろう。最低でも戦えると確信を持てるまで、ひたすらに育てることを選んだのだろう。

 

「クリア報酬は不明だけど、このダンジョンの説明の限りだとかなり破格のはずよ。エイジくんに大きな『力』を与えてくれるでしょうね」

 

 カリンは太鼓判を押し、だが同時に彼女の目に切なさが宿る。無能であれば部下も撃って始末する犯罪ギルドの残虐なリーダーとは思えない、か弱さすらも感じさせる闇が渦巻く。

 

「私がこのダンジョンを使用させる条件は1つ、『クリアしたら私に報告すること』。良いわね?」

 

「分かりました」

 

 エイジはカリンと握手して契約を交わす。元よりクリアするのは大前提だ。エイジは穴の前に立ち、底が見えない暗闇を見据える。

 恐怖は無い。足が竦んでいるわけでもない。心拍も落ち着いている。後は前に踏み出すだけだ。

 

「そういえば、今の口ぶりだとこのダンジョンの特性について、他にもご存じのようですが、何が――」

 

「はい、ドーン☆」

 

 エイジがカリンに問いかけた瞬間にライドウが背中を蹴り飛ばし、エイジは闇の中に吸い込まれていく。

 なるほど。時間の流れが遅い以外は敢えて教えないというわけか。やってやろうではないか! ライドウの大笑いさえもすぐに闇に溶けて聞こえなくなる中で、エイジは闘争心を剥き出しにする。

 

「やってやる! やってやるさ!」

 

 長い。落下時間が長過ぎる。いつまで経っても底に至らない。落下中も時間の遅延が働いているのだろうが、エイジが体感する時間の流れは変わらない。

 そもそも落下ダメージは軽減されるのだろうか? さすがにされるだろう。その程度の確定情報はあってエイジを蹴り落としたはずだ。そう信じたいが、ライドウを信じることこそが間違いであり、故にエイジは重心を動かし、落ちる中で壁に迫るが、穴の広さは徐々に拡大しているらしく、もはや闇の向こうに壁と呼べるものなかった。

 やがて光が見える。いや、違う。底だけがハッキリと視認できる。エイジは体勢を立て直し、着地に備える。

 衝撃はほとんど無い。落下ダメージがある危険性も想定して緊張したが、HPは減っていない。柔らかくはないが、硬質でもない地面は奇妙な感触だった。

 いいや、地面ではない。エイジが踏みつけているのは、無数の『何か』の死骸と骨だ。瞬間、エイジの正面の山積みされた骨が揺れ動く。

 盛り上がった骨の地面だけが解像度を極度に引き上げられた。エイジのFNCとダーインスレイヴが結びついた事で生まれた、彼だけの武器……視覚警告である。エイジは瞬時に跳び退き、地下からの攻撃を回避する。

 それは軟体動物のような触手であり、だがよくよく見れば百足のような甲殻であり、およそ尋常とは呼べない『何か』。

 また足下から攻撃が来る。エイジは走って切り抜けるが、彼の足音を頼りにしているように追跡する。

 どうする!? エイジは地面の下への攻撃手段を持たない。ならばと飛び出た百足の如き触手に斬撃を浴びせるも効果は無い。HPバーすらも表示されていないのだ。これではダメージが通ったのかさえも不明だった。

 モンスターではなくダンジョンギミック? 何処かに出口があるのか? エイジは死体と骨の大地を駆けるが、意外な程にあっさりと果てに辿り着く。腐敗した青銅の壁だ。エイジはダーインスレイヴで斬りかかるが、破壊不能オブジェクトらしく、傷1つ付かない。

 そうしている間にも地下からの攻撃が続く。今度は骨を刃の如く纏い、攻撃範囲を広げていた。回避しきったエイジであるが、骨が射出され、1本が右肩に突き刺さる。

 

「ぐっ……!」

 

 HPが一撃で3割も削られる。貫通力も高ければ攻撃力も桁違いだった。骨の刃の拡散弾をまともに浴びれば即死するだろう。

 再び地面が盛り上がり、今度は無数の人間の頭蓋が飛び出る。肉は無くとも髪だけ残り、それらは周囲の骨に纏わりつく。人の姿は取れずとも獣の如く這いまわり、また百足やミミズを撒き散らす。

 囲われたエイジは周囲に爆竹をばら撒く。炸裂し、光と衝撃と煙で骨の怪物は足止めされる。本来ならば獣系モンスター用であるが、唐突な光と衝撃は怯ませるのに十分であり、刺激物を含んだ煙は骨の怪物に通じずとも目暗ましになる。

 エイジは骨の怪物の1体に蹴りを入れ、核と思われる頭蓋に邪剣を突き刺す。エンジンを駆動させ、激しい火花を散らし、威力を高めて刻む。

 まるでブースターが取り付けられたように暴れ回る新生ダーインスレイヴは扱いが難しい。文字通り、止まらぬ攻防を強いられる。一瞬でも迷えばエイジの手から吹き飛ぶ。このギリギリの綱渡りは、死闘の中で扱うだけで否が応でもエイジの実力を引き上げる。実力が剣の獰猛さと環境に追いつかなければ死ぬのだ。

 ギアを更に上げる! 衝撃を増幅させ、弾きをより強力にする。骨の怪物たちは攻撃を次々と弾かれて怯み、そこにエイジは丁寧にトドメを刺していく。

 再び視覚警告が発動する。自分の足下が盛り上がり、まるで烏賊のような大口が穿たれる。更にそこから肉が伸び、無数の人間が折り重なった花が開く。いずれも目玉がなく、闇が穿たれている。亡者の証だ。

 折り重なった亡者たちは唸り声を上げる。それは衝撃波となり、エイジを吹き飛ばそうとする。

 だが、視覚警告は本来ならば透明である衝撃波が広がる境界線の解像度を引き上げていた。エイジは範囲外に脱して息を整える。呼吸が乱れればスタミナをそれだけ消費する。呼吸が浅くなれば、それだけステータス出力を引き上げられなくなる。

 先を見据えて温存するか、それとも火薬も含めて大判振る舞いするか。亡者の花にもHPバーは表示されていない。苛烈な攻撃を与えてみるのも1つの手ではあったが、無暗に物資を使えば首を絞めるだけである。

 再び地面の1部が盛り上がる。今度は無数の疣に蝕まれた犬の頭部だ。ただし、大きさは5メートルを超え、腐敗した目玉を目脂を涙のように零し、涎は泥のように粘ついていた。

 牙をかち鳴らした大犬の頭部。同時にエイジは空間に熱気……いいや、もっと別の何かを肌で感じ取る。まるで漂白剤によって肉体が剥離するかのような、浄化されていくかのような感覚は、光属性のダメージフィードバックだ。

 まずい! 弾きは通じないと判断したエイジは身を屈め、ガードの構えを取り、3つしかない雷槍の護符を使用する。エイジを囲うように黄金の雷の槍が突き出ると同時に、大犬の頭部を中心に瑠璃色の炎は爆発した。

 

「ぐ……がは……!」

 

 広範囲どころではない。間違いなくこの空間全てを焼き尽くす瑠璃色の炎の爆発は文字通りの回避不能攻撃だった。エイジのHPが辛うじて1割残っているのは、身を屈めてガードを取ることでダメージを最小限に抑え、なおかつ光属性を含んだ黄金の雷の槍を周囲に展開した事によって、同じ光属性の攻撃を軽減させたからである。

 瑠璃色の炎の爆発は地面だった肉と骨を吹き飛ばしたが、それでも底には至らないとばかりに新たな層が足場となる。エイジはHPを回復させようとするが、そんな暇は与えないとばかりに再び地面が噴火するように弾け飛ぶ。

 今度は何だ!? エイジは血反吐を散らしながら回避行動を取って睨め、そして目を見開く。

 それはドラゴンだろうか。無数の骨が纏わりついて全体像は見えないが、造形はドラゴンに近しく思えた。大きさは8メートル程度だろう。顎を開き、エイジに喰らい付かんとする。

 まだだ! まだ戦える! まだ負けていない! 噛み付きを弾き、その衝撃で吹き飛ばされながらも回避したエイジに、ドラゴンの顎が開き、瑠璃色の火が灯る。先程の大犬の頭部と同じく、回避不能の全体攻撃だろう。

 どうする? 攻撃をして止められるのか? いいや、違う。止めるのだ! だが、骨が纏わりついたドラゴンに攻撃しても止められない。そもそも、ドラゴンの造形をしているが、尾にあたる部分は地下と繋がっている。

 今までの攻撃は全て地下からのものだ。百足の触手も、骨の怪物も、亡者の花も、大犬の頭も、目の前の骨を纏ったドラゴンさえも、本質でも本体でもない!

 つらぬきの騎士、お前の刃を使わせてもらう! エイジは再び全身を光属性特有のダメージフィードバックがじわじわと焦がす中で、これまでの攻撃を分析し、唯一全く攻撃が出現していない地点を割り出し、大きく地面を蹴って宙を浮く。

 

「間に合え!」

 

 ダーインスレイヴ【つらぬきの刃】発動! つらぬきの騎士の、何者を防げぬソウルの刃を纏った強烈な突きが地面に向かって繰り出され、炸裂し、大穴を穿つ。

 見えた。ドロドロに溶けた肉の核の中で蠢くのは50センチほどの、白い蛇皮のような質感をした百足である。

 

「届けぇえええええええええええええ!」

 

 ダーインスレイヴは百足を突き刺し、瞬間にドラゴンの動きが止まる。

 やはりギミックだったか。エイジが息を漏らした瞬間、彼の全身が固まって動かなくなる。

 

「こ……れは……!?」

 

 いつの間にか、エイジの全身には無数の百足が這い回っていた。百足はエイジの体を重たくして身動きを取れなくさせる。強制的な鈍足……いいや、麻痺に近しかった。

 突き刺した百足は肉の核の中で這い動き、ダーインスレイヴの刃から抜けようとする。させるものかとエイジは力を籠めるが、腕にも絡みつく百足が噛み付き、完全に動きが封じ込まれる。

 そして、肉と骨が吹き飛び、エイジは見る。右に3本、左に4本の痩せ細り、また6本の指を持つ腕。頭部は脳の皺が浮かび上がった皮で覆われ、亡者のように目玉はなく暗い闇の穴が双眸の如く穿たれ、口は何処か人間のようでありながら牙は犬のそれであり、舌は蛇。零れる涎には蛆、ミミズ、百足、蜘蛛などが混じっていた。

 胴体は人間に近しく、まるで餓鬼のように肋骨が浮き出る程に痩せて腹部は丸く膨んでいる。足は図太く、また無数に重なった骨の脚甲に覆われていた。背中から鷲のような猛禽類の翼が左から、蝙蝠のような翼が右から生えている。

 そして、エイジが先程刺し貫いた百足が体内で這い回っているかのように体表に盛り上がっていた。

 全長は4メートルほどであるが、この骨と肉の底で見た如何なる存在よりも強大。何よりも3本のHPバーの上にはネームドの証があった。

 

『オロ、カナ、ニンゲン……ヨ。チカ、ラ、ヲ……モトメ、テ……マタ、キタ、ノカ。ミノホド、シラ、ズ……ナ。ワイショ、ウ、ナ、ムシケ、ラガ……シース、サ、マノ、ヒゾウ、ブツ、タル……ワタシ、タチ、ニ……カテ、ル、ト……オモッタ、ノカ?』

 

 右手の1つに瑠璃色の火が灯る。行動全てを封じられたエイジに見せつけるように炎は昂ぶり、エイジが阻止したはずの炎の爆発をまた引き起こそうとしている。

 

『コウ、エ、イ、ニ、オモ……エ。ワガ……イ、チブ、ト……ナリ……シース、サ、マ……ニ、コノ、チカ、ラ……ヲ、ササ、ゲ、ル……エイ、ヨ……ヲ……クレ、テ、ヤ……ロウ』

 

 動け。動け。動け! エイジは歯を剥き出し、全身に纏わりつく百足を払い除けようとするが、肉と骨に同化したかのようにピクリとも動かない。

 

「ふざ……ける……な! 僕は戦える! まだ……まだ負けていない!」

 

『オウジョウ、ギワ……ガ、ワルイ。キサ、マ……ハ、マケ、タ……ノダ。ムシ、ケラ……ガ、シース、サマ、ヨリ、チカラ、ヲ、サズ……カッタ、ワタシタ、チ……ニ、カテ、ル、ハズ……ナイ。オモイ、アガ、ル……ナ、ニンゲン』

 

「まだだ……まだ負けて――」

 

『キエロ』

 

 異形は瑠璃火を握り潰し、瞬間に大犬とは比較にならない程の瑠璃色の爆発が炸裂する。それはエイジの全身を余すことなく焼き焦がしながら呑み込んだ。

 HPゼロ。エイジの敗北を認めない雄叫びすらも瑠璃火によって焼き尽くされ、響くことさえも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『エイジは弱いね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇の中で、憎悪の炎に焼かれながら、自身の首を抱いた『ユナ』はエイジを嘲って責める。

 

 

 ならばこそ、まだ負けていないと足掻くのだ。

 

 

 もっとだ。もっと『力』を。ユナを死なせてしまった。『ユナ』を守れなかった。過去を変えることが出来ないならば、過去の弱き己を殺し尽くして証明するのだ。

 

 

 空を飛べぬ芋虫は、それでも、這って、這って、這って、前に進む。踏み潰されようとも、前へ進むしかないのだ。何もかも砕け散っていようとも、それしか出来ないのだ。

 

 

 

 

 

 

「どうやら、目覚めたようじゃな」

 

 

 

 

 

 これは木を彫る音だろうか? エイジは体を起こし、自分を包んでいた藁を退かす。

 

「ここは……」

 

「コドクノアナ。そう呼ばれておる」

 

 エイジは周囲を見回す。目につく限り、仏、仏、仏……仏像だ。だが、いずれも鬼の如き形相である。

 荒れ放題であり、壁板には穴が開いていて隙間風も酷いが、雰囲気からして辛うじて寺だろうことは分かる。エイジは立ち上がり、先程から自分に話かけている、ボロボロの布切れと呼んで差し障りのない格好をした、左腕がない隻腕の老人に近寄った。

 

「お前さんも因果な事よな。力を求めて飛び込んだのだろうが、ここは牢獄。何を得ようとも持ち出すことはできん」

 

「…………」

 

「それでも抗うんだろう? どれ、見せてみろ。お前さんの牙を鍛えてやる」

 

 カーソルはNPCだ。エイジの正面にシステムウインドウが表示され、鍛冶の依頼が解禁された旨が表示される。どうやら老人は鍛冶屋のNPCのようだった。

 とはいえ、ダーインスレイヴは破損しておらず、防具の耐久度も十分だ。今は必要ない。エイジが首を横に振れば、老人はまた仏像を彫り始める。

 

「お、仏師殿。新入りが目覚めたのか?」

 

「……ああ」

 

 戸らしい戸も残っていない寺に踏み入ってきたのは、白衣を纏った男だ。年齢は30代半ばといったところだろう。肩まで伸びたボサボサの黒い髪を藁で縛り、不潔に無精髭を生やしている。警戒するエイジに、男は顎でこっちに来いと招いた。

 寺から出たエイジは驚く。地下深くにいたはずであるが、空が見えたからだ。空気も肌寒いが、地下の滞留したものではなく、凍えるような雪国のそれだ。

 振り返れば、荒れ果てた寺には無数の札が貼られていた。石灯篭は今にも砕け散りそうであり、蹴っただけで倒壊しそうである。寺の周囲は竹林のようだったが、その先には永遠にたどり着くことは無いだろうという直感があった。

 

「ようこそ、馬鹿野郎。逃げ場のないどん詰まりへ。お前もカリンに送り込まれてきた首の回らない債務者か? それとも失態を犯しちまった部下か?」

 

「……どちらでもありません。僕自身の意思でここに来ました」

 

「へぇ、そりゃとんでもねぇ大馬鹿だな」

 

 男は石灯篭を背にして御座が敷かれた地面に腰を下ろす。エイジにも隣に座れと促したが、彼は無言・無反応で拒否を示した。

 

「俺もお前と同じで自分の意思でここに来た。とはいえ、俺の目的はこの場所に至ることそのものでね。お前は見たところ……ここをクリアしに来た超大馬鹿野郎みたいだな」

 

 茶化すような物言いと態度であるが、貴重な情報源になり得る。このまま無視を続けるのも非効率だろう。エイジは崩れ倒れた石灯篭を椅子代わりにして座り、男を見据える。

 

「これから長い付き合いになるかどうかはお前次第だが、自己紹介をしておこう。俺は【ムライ】。仏師殿みたいなNPCを除けば、この荒れ寺で1番の古株だ」

 

「荒れ寺?」

 

「名前なんて無かったんだが、拠点には名前があった方が愛着も湧くだろ? 俺がそう呼んでたら、いつの間にか定着しちまったのさ」

 

 安直ではあるが、これ以上となくしっくり来る名前でもあった。竹林と岩壁と崖で覆われた、広くも狭くも無い空間で最も目立つのは今にも倒壊しそうな寺以外にないからだ。

 

「目覚めた奴は真っ先に疑問を持つ。『死んだはずなのに』ってな」

 

「……そうだ。僕はアイツ……【コドク】に負けて、HPがゼロになった。それなのに、どうして生きてるんだ?」

 

 エイジはあの異形を目にした時、3本のHPバーとネームドの証である名前を目視していた。彼の発言に、ムライは音が汚い口笛を吹く。

 

「こりゃ32人ぶり、2人目の有望株だ。あの突発バトルの中でコドクの核の隠し場所を探り当てたのかよ。なるほどな。装備がどうにも整ってると思ったが、カリンの奴、いよいよ本気で送り込んできやがったか。相変わらず良い女だぜ」

 

 楽しそうに笑ったムライは白衣のポケット漁り、皺だらけの煙草の紙ケースを掴み取ると中身を取り出そうとしたが、もう本数が少ないのか、溜め息を吐いてポケットに戻す。

 

「まず先に安心させてやる。ありゃいわゆる『確定演出』ってやつだ。絶対に勝てない。お前がどれだけ強くても、必ずアバターの動きを封じられ、爆発で吹き飛ばされる。まぁ、それが核を割り出したプレイヤーへのご褒美ってところなんだろ。アイツはこのダンジョンのボスだろうからな。姿形を知っているかいないかだけで立てられる戦略が違う」

 

 なるほど。正確にはHPがゼロになったわけではなく、HP減少が1で停止し、転移したのだろう。エイジは納得し、それならば自分が生きている……ユナのように復活した死者ではないのだろうと判断できた。もっとも、それも信用できない事であるが、ムライには何らかの確信があるようだった。

 

「本来ならば情報収集してクリア方法を探さねぇといけねぇんだが、俺は最古参で、脱出に足掻いた蛮勇馬鹿共が残した情報を全部持ってる。教えてやってもいいが、1つだけ条件がある」

 

「なんですか? 煙草なら吸わないので持ってませんよ」

 

「マジかよ。いや、まぁ、期待はしてたんだが、それは別にいい。条件は1つだけ。何があろうとも俺を殺すのはクリアする直前の最後にしろ。俺は時間が欲しくてここに来たんだからな。お前がクリアするにしても、最後の最後までやらないといけない事がある」

 

「殺す? なんで僕が貴方を殺すんですか?」

 

 エイジが訝しめば、ムライは眉を顰め、やがて納得したように目元を両手で覆って天を仰いだ。

 

「おいおい、カリンよぉ! そりゃあんまりだろ! 何も教えないで放り込んだのかよ!?」

 

 深い溜め息を吐いたムライは、エイジに落ち着いて聞くように前置きした。

 

「ここのダンジョンの名前は知ってるな?」

 

「ええ、コドクノアナでしょう?」

 

「そうだ。コドクノアナだ。じゃあ、漢字ではどう書くと思う?」

 

 ムライは木の棒で地面を抉り、文字を書く。彼が書き終えるより前にエイジは考え込み、やがて嫌な予感を募らせる。

 ダンジョンに至る道までに見た蛙、蛇、百足の石像。穴の底で見た無数の屍。そして、数多の生物が融合したかのような攻撃。そして、ネームドの名前。

 

「『蟲毒の穴』。それがこのダンジョンの名前だ。ソロ専用で難易度は凶悪無比。全ての敵をソロで倒し、クリアするには自分以外のプレイヤーを全て殺さないといけねぇんだ」

 

 蛙、蛇、蜘蛛、百足などのありとあらゆる毒を持った生き物を1ヶ所に集めて殺し合わせ、残った1匹を用いる最悪の呪法……蟲毒。このダンジョンは文字通り自分以外の全員を殺し尽くして最強になった毒虫にならなければクリアできないのだ。

 

「……他にもプレイヤーが?」

 

「ああ。心が折れて生きる事に専念してる連中が右の坂を上った先で屯ろしてやがる。幸いにも近くに川があってな。氷水みたいに冷たいが、体も洗えるし、魚も獲れる。仏師殿に頭を下げれば不味いがメシも作ってくれる。割高だが、仏師殿からアイテムも補給可能だな」

 

「確かに生活できる最低限の環境はあるみたいですね」

 

「そういう事だ。言ったろう? 荒れ寺は『拠点』だってよ」

 

「それで、『最後に殺す』とはどういう事ですか? 確かにプレイヤーを皆殺しにしなければクリアできないとして、『最後』という言い回しが気になりますね」

 

「簡単さ。狂っちまうんだよ。この荒れ寺周辺を除けば何処にも行けない。この通りの寒さだ。火を起こしたところで夜は寒くてまともに眠れない。しかもここはDBOよりも時間の流れが速いから誤解しがちだが、その分だけ脳への負担が半端じゃない。今まで来た連中から日にちを聞き取りした限りだと、ざっと30分の1。分かるか? DBO標準の30倍の情報量が常にかかり続ける。8時間ぐっすり眠って休んだつもりでも、実際には30分の1しか休めてない計算になる」

 

 そして、より情報量が増加するバトルともなれば、負担は一気に増加する。満足に取れない食事、眠れないストレス、そして情報量による圧迫と疲労。確かに気狂いを起こすだろう。

 

「狂人に約束が効果を発揮するとでも思っているので? おめでたいですね」

 

「お前、口悪いなぁ。思ってねぇよ。俺が安心したいだけだ。心の平穏は大事だろ?」

 

 ムライ曰く、ほとんどのプレイヤーは釣りと食事の時以外は火の周辺で瞼を閉ざして無気力に動かないそうだ。それが最も負担をかけないのだろう。

 一方の自称・最古参のムライはこうしてエイジを迎えてレクチャーし、また活動的であり、だがクリアを目指していない。蟲毒の穴に至ること自体が目的だったというのも不気味だった。

 

「この荒れ寺の周辺には記憶の品がある。それを荒れ寺にある優しい顔の仏さんに備えな。そうすれば、ネームドが待ってるステージに行ける。ちょっとした攻略を要求される事もあれば、ネームド戦オンリーだったり、色々なんだがな。なにせ挑んで生きて戻って来た奴が少ない。そいつらも逃げるので精一杯で情報の信憑性が薄い。お手上げってわけさ」

 

 要は手探り攻略というわけか。エイジはそれでこそ価値があると薄く笑う。そんなエイジに呆れたらしいムライは頬杖をついた。

 

「本気でクリアを目指して飛び込んできたのは44人ぶりだな。まぁ、そいつはこっちで1日と経たずに死んだんだがな」

 

「僕はひとまず何処まで通じるのか見極めながら戦わせてもらいますよ」

 

「そうしてくれ。じゃないとここまで丁寧に説明した俺の労力が水の泡だ。さて、最後にお前のクリアの希望になるかもしれない情報を教えてやるよ。スキルリストを開いてみな」

 

 ムライに促され、エイジはシステムウインドウを捜査してスキルリストを開く。

 

「これは……!」

 

「俺達はもう蟲毒の1部となった。最後の1人になるまで殺し合うしかない。じゃあ、勝者に与えられる特典は? それこそがユニークスキル≪瑠璃火≫だ。ユニークって言っても、このダンジョンに入ったプレイヤー全員に与えられる。全てのネームドを討ち滅ぼし、他の全プレイヤーを殺した時、ソイツは≪瑠璃火≫を持ち帰り、本当の意味で『ユニーク』スキルとなるわけさ」

 

 確かに素晴らしい特典だ。エイジは≪瑠璃火≫の説明を読む。

 瑠璃火はイザリスの罪の1つ。アノールロンドの神々に請われ、闇を祓う為に起こされた浄化の火だ。だが、闇と相対する為に起こされたが故に限りなく闇に近しい性質を持った光の火となり、故に禁忌として東の果てに封じられた。

 特性としては光属性の瑠璃色の火であり、亡霊などにも特効を発揮し、凝縮すると黒炎と同じく物理的な性質を持つようになる。光属性であるが故に深淵や闇の眷属に対して有効である一方で、本来ならば光属性防御力が高い神族にも効果を発揮し、神族限定で対象の闇属性防御力が適応したダメージ計算になる。

 武器にエンチャントから魔法を瑠璃火に置き換えが出来るなど汎用性が高い。使い手によって大きく左右されるタイプのユニークスキルのようだった。

 

「他にも色々と教えてやれることはあるが、俺は頭を使うのが本領でね。あれこれ語ったところで、これ以上はお前にとって邪魔になるだけだろ。さぁ、行けよ。お前は蟲毒の最後の1匹、≪瑠璃火≫を持ち帰る最強の毒虫になる為に来たんだろ? 業腹だが、俺を殺す日を楽しみにしてやるよ」

 

「……そうだ。僕は帰る。必ず帰る」

 

 守れない約束をしたつもりはない。エイジはたとえ憎悪に塗れていようとも、確かにユナと指切りした右手を見つめ、握りしめる。

 全てのネームドを倒し、全てのプレイヤーを殺す。エイジは邪剣ダーインスレイヴを抜き、これから始まる闘争の日々を見据えた。

 

 

▽     ▽     ▽

 

 

 殺した。オレがアリシアを殺した。

 ベッドに横たわりながら、天井に掲げた右手をぼんやりと見つめる。

 殺したところで感慨などない。罪悪感もない。達成感もない。空虚とも呼べる怠惰が全身を満たしている。

 グリムロックはチェーングレイヴから報酬を受け取った。その際にクラインからユウキが今回のアリシアの件を知ってしまった事を教えられた。彼を経由してオレにも情報が入っている。

 アリシアの死はユウキの知るところになった。ならばこそ、アリシアを殺したのはオレだと伝えるべきだろう。その上で彼女がオレに対して如何なる感情を持ち、また行動に移すかは別の話だ。

 復讐ならばそれで構わない。相手になるだけだ。このまま隠し続けるという選択肢はない。だが、グリセルダさん直々に待ったがかかっているので従っている。とはいえ、このまま何日も放置すべきものではない。ユウキの心が下手に落ち着いた後に伝えても余計な荒波を起こすだけだ。衝撃は大きくなろうとも間を置かずに纏めた方がいい。

 

「結局は無意味か」

 

 あれこれ考えた末にクラインから捕縛を最優先とする確約を得たはずが、蓋を開けてみればアリシアを殺す以外の道は無くなっていた。

 初手の失敗。殺さないことに注力するあまりにアリシアの動きに対応しきれなくなった。

 掲げた右手の開閉を行う。そこには大きなラグがある。オレが握るように命令した右手は1秒以上も反応が遅れている。これは戦闘において致命的だ。度重なる致命的な精神負荷の受容によってVR適性は摩耗し、反応速度はここまで劣化してしまっている。キリトの超反応とは余りにも対照的だ。

 反応速度とは知覚速度と運動反映速度の合算だ。たとえば、反応速度が平凡なプレイヤーは銃口の向きから銃撃を回避するだろう。だが、反応速度が高い者はマズルフラッシュを見てから、あるいは銃弾すらも知覚し、それから回避・防御行動に移れる。もちろん、知覚速度だけが秀でていても、運動反映速度が鈍ければ『見えてはいるけど何もできない』という事態になるし、アバターそのものの運動速度が遅ければ『知覚し、行動を移すことはできても、アバターの動きが追いつかなかった』という事になる。

 オレの場合は反応速度が劣悪である代わりに運動速度だけはキリトさえも上回っているだろう。運動速度に関してはVR適性が重要視される運動アルゴリズムとの連動性よりも脳自体の肉体操作能力に重きが置かれている。まぁ、運動アルゴリズムとの連動性も無関係ではないので、VR適性が高ければ運動速度も上がる傾向にあるので、反応速度が高い者は運動速度も秀でているのが通例だがな。

 アリシアはオレの弱点を見抜いた上で敢えて急所を攻撃ルートに置くことによって、こちらが反応できない事を逆手にとって逃げ切った。

 アリシアの初遭遇の時、あのまま頭蓋を蹴り抜くことができれば捕獲は成功しただろう。確かに大ダメージを与えることになったかもしれないが、即死の確率は低かったはずだ。だが、低いだけであり得ないわけではない。だからこそ、動きを止めるしかなかった。

 愚かだな。殺さない事を念頭に入れたが為に無力化に失敗した。むしろ、殺す気で攻撃していれば成功していたかもしれない。いや、それも定かではないか。あの装備を次々と変更する謎の存在……アレが今回の件に関与していたならば、アリシアに助力をしていたならば、捕獲したところでアリシアが深淵で蝕まれるのはタイミングの違いだけで、結末は同じだっただろう。

 ……言い訳だな。オレはアリシアを殺すことを是とした。殺したかった。だから殺した。それ以上も以下も要らない。

 

「グリムロックからメール?」

 

 仕事に取り掛かったら食事も水も睡眠も投げ捨てるグリムロックからのわざわざの連絡。それはオレがアリシアを殺した事をユウキは既に知ってしまったという旨であり、また彼女と会う時間を作ってもらえないだろうかという相談だった。

 グリセルダさんの配慮は最初から無駄だったというわけだ。教えたのはクラインか? あの場はヤツとの戦いの被害が多過ぎて無関係の死者が出てしまい、目撃者はゼロだったはずなのだが。まぁ、クラインであれ、他のチェーングレイヴのメンバーであれ、情報は隠し通せるものではない。

 チェーングレイヴから引き受けた殺しの依頼は2つ。アリシアの討伐は完遂された。ならば、もう1つも迅速に済ませ、その後でもユウキと場を設けるとしよう。彼女の怒りも憎しみも甘んじて受けねばならない。それがアリシアを殺したオレの務めだ。

 

「次のターゲットは……コイツか」

 

 チェーングレイヴから提供された資料を確認する。次の殺しのターゲットは犯罪ギルド【黄龍会】のリーダーである【シャイ】だ。通称【猫背】のシャイ。その通り名が示す通り、猫背のスキンヘッドの男だ。耳、鼻、唇、舌に至るまであらゆる場所にピアスを装着しており、スキンヘッドにはとぐろを巻く龍の刺青が彫り込まれている。

 シャイはチェーングレイヴの秩序に真っ向から反発している犯罪ギルドの1つだ。最近になって頭角を現してきたブラック・シーラインも反チェーングレイヴなのであるが、黄龍会はより過激であり、同じ反チェーングレイヴであるブラック・シーラインとも抗争関係にある。そして、黄龍会はヴェノム=ヒュドラと協力関係にあるという事実をチェーングレイヴは掴んだ。

 チェーングレイヴの調査によれば、ヴェノム=ヒュドラのリーダーはDBO初期に大暴れした【銀舌】のウィーニーであると目されている。確定情報ではないのは、ヴェノム=ヒュドラは8人の最高幹部の各々の派閥を持っており、組織における貢献度によって比例した発言力と地位を有しているからだ。そんな如何にも空中分解してくれと言わんばかりの体制でありながら、切り崩しも出来ない程に固まっているのは、幹部を取り纏めるリーダーが絶対的な支配力を発揮しているからだ。

 8人の最高幹部と1人の支配者。諸説あるが、伝説の生物であるヒュドラは9つの首を持つとされるのがポピュラーだ。そして、本物の首を落とさない限りに倒すことは出来ず、また本物以外の首を落とせばその傷口から倍に増えた頭が生える。

 ヴェノム=ヒュドラ。彼らを取り纏める支配者を殺さない限り、たとえ組織において大きな役割を果たす最高幹部を消したとしても滅ぼすことは出来ず、むしろより強大に生まれ変わっていく。組織としての在り方の暗喩だろうか。あるいはヴェノム……毒という単語の意味が持つ通り、彼らは自分たちがヒュドラの猛毒であり、DBOを蝕み、また滅ぼす存在であると自覚しているのか。あるいはその両方か。

 どちらであろうとも興味はない。支配者も、最高幹部も、主だった構成員は全て殺せば終わりだ。遺恨など残るだろうが、根切りは出来ない。ならば綺麗さっぱりと滅ぼすのに限る。そして、殺せと依頼を受ければ殺すが、依頼がない限りはオレも手出しをする気はない。

 さて、この黄龍会であるが、かなり手広くやっているようだ。娼館経営、用心棒、麻薬アイテムの生産・販売、人身売買、何でもござれ。更には独自の工房を持ち、改造した武器の数々を各犯罪ギルドに売りつけるだけではなく、反大ギルドを掲げるレジスタンスにも売りつけているようだ。

 では、どうして反大ギルドのレジスタンスにも多量の武器を卸しているのに大ギルドが検挙をしないかというと、どうやら黄龍会が改造している武器は聖剣騎士団製らしく、聖剣騎士団系列の大商業ギルド【イージス・アーク・ファクトリー】から横流しされているものであるようなのだ。つまり、多量の安価の武器を黄龍会に売りつけて稼ぎ、黄龍会はそれを販売、あるいはニーズに合わせて改造、そして聖剣騎士団陣営以外に攻撃的なレジスタンスに売りつけているといった流れだ。

 

「……頭が痛い」

 

 うん、政治が思いっきり絡んでる依頼だな。つまり大ギルドはデカくなり過ぎて、軽々しく他の大ギルドに仕掛けるのが難しくなった。だからこそ、自陣営である事を表明している有力ギルドなどを利用して代理戦争状態なのであるが、他にも犯罪ギルドだけではなく反大ギルドを掲げるレジスタンスすらも秘密裏に支援をして、他陣営にダメージを与えようという腹積もりなのだ。平常運転過ぎてもう何も言うことはない。

 ……まぁ、犯罪ギルドの1種である盗賊ギルドの殲滅なんて依頼が傭兵にわざわざ飛んでくるのも、他の大ギルドが迂回して支援しているからぶっ潰そうという意図があってのことなのであるが。これに関しても、いずれも腹の中は真っ黒なのは今更なのでどうでもいい。傭兵なんて引き受けた仕事を全うするだけで、裏に潜むあれこれまで配慮する必要はない。

 ヴェノム=ヒュドラも最初こそはいずれかの大ギルドの支援があると踏んでいたのだがな。オレの情報量が足りないだけで、実際はそうなのかもしれないし、あの技術力と資本をどうやって確保しているのかは謎であるが、だがどうにも違うニオイがするんだよな。まぁ、オレは政治ができないし、外れているかもしれないし、そもそも火の粉がかからないならばお好きにどうぞというスタンスなので、至極どうでもいい。

 ともかく、チェーングレイヴには関係が悪化しているとはいえクラウドアースとパイプがある。新議長様はチェーングレイヴを切る方針なのかもしれないが、旧議長のベクター派は待ったをかけているのだろう。

 今回の暗殺が最終的にどのような政治的影響を及ぼすのかは分からない。他大ギルドがイージス・アーク・ファクトリーと黄龍会の癒着を、報道ギルドを利用して大々的に批判するのかもしれないし、もしかしたら政治的カードの1枚として何らかの取引に用いられるのかもしれない。案外、聖剣騎士団内のイージス・アーク・ファクトリーを蹴落としたい派閥がリークしてチェーングレイヴはヴェノム=ヒュドラの影響力を断つ為に協力したのかもしれない。

 ……真相など知らん! オレはともかくシャイを殺せばいいだけだ。だが、厄介なのはただ殺せばいいのではないという点だ。どうやらシャイはここ最近になって【竜鳴茸】の栽培に注力し、また様々なダミーの商業ギルドを通じて【鬼河豚の肝】を買い漁っているようなのだ。これがどうにもきな臭いらしく、チェーングレイヴは黄龍会が行方不明のユニークスキル≪ボマー≫を確保しているのではないかと睨んでいる。

 というのも、かつてクラウドアースが確保していた≪ボマー≫は保有者であるリンネの離反によって失われたのであるが、その際にも≪ボマー≫の能力を強化する一端で竜鳴茸を用いた爆薬が使用されていたという。爆発・爆弾に関するユニークスキルというだけあって、素材との相性次第でより強大になるということか。

 オレの仕事はシャイを暗殺するだけではなく、黄龍会に探りを入れ、≪ボマー≫の有無を確認して報告することまで含まれている。非常に面倒臭いが、やるしかない。問題は如何なる手段で黄龍会に探りを入れるかだ。

 さて、どうしたものか。最も手っ取り早いのは構成員として潜入する事なのであるが、顔や喉を潰すにしても限界があるし、何よりも信頼を得るのに時間がかかる。もとい、演技でもオレが信頼を勝ち取れるなど夢を見ないでもらいたい。

 そうなると黄龍会そのものに潜入するのではなく、黄龍会と深い関係を持つ誰かを脅し、秘密を探るのがベターなのであるが、そもそもシャイは非常に用心深い男であり、取引先だからと言って口を滑らせるような人物ではなさそうだ。

 それに暗殺するにしても抗争が激化しないように配慮もしなければならない。チェーングレイヴの依頼とバレるなど以ての外であるし、オレが関与した証拠も残してはならない。あくまで秘密裏に、誰にも知られることなく暗殺を実行しなければならない。

 クラインよ、オレにこんな繊細な暗殺依頼を送り込むとか、イジメの自覚はあるのだろうか? まぁ、やれと言われればやるのであるが、せめて暗殺プランくらいは準備してもらいたいし、幾ら人手が足りないからって丸投げとか太陽の狩猟団ではあるまいし。

 それに≪ボマー≫が関わってくるとなると、大ギルドの暗部も動いているかもしれない。なにせ、≪ボマー≫は戦略クラスのユニークスキルだ。キリトの≪二刀流≫などは確かに適合すれば戦場で無双の働きを可能とするが、あくまで個人を高める戦術クラスのユニークスキルだ。どちらが優れているという話ではない。銃の性能と弾道ミサイルの性能を比べても全く意味が無いようなものだ。

 クラウドアースは長きに亘って≪ボマー≫の回収を目論み、チェーングレイヴにも情報提供していただけあって、その能力についても分かっている。≪ボマー≫の基礎能力として、任意の空間に爆弾を設置することができる。要は限定範囲内であれば、空間にあらゆる外的干渉を受け付けない爆弾を設置でき、任意・時限で爆発させられるといったものだ。また、手で接触したオブジェクトに『地雷』をセットすることもできる。

 これだけでも強力なのは明白なのであるが、それ以上に≪ボマー≫が凶悪とされる理由は『全てのアイテムを爆弾の素材にできる』という点だ。つまり、本来ならば爆弾になる要素など1つもない回復アイテム2つを素材として加工したら、あら吃驚! 爆弾の出来上がり! という代物なのである。

 この特性によって≪ボマー≫は全くあり得ないレシピで凶悪な様々な爆弾を製造可能だ。≪ボマー≫が戦略クラスと呼ばれる所以はここにある。≪ボマー≫持ちを爆弾製造ラインに組み込めば、あり得ない低コストで、規格外の破壊力を持った爆弾を生産可能なのだ。それこそ、銃とミサイルの話ではないが、相手の基地にわざわざ兵士を派遣するでもなく、爆弾を1個投擲して決着……なんてこともあり得るのである。

 クラウドアースとしては、≪ボマー≫を保有したリンネの失踪は過去最大の失態だろう。なにせ、≪ボマー≫さえあれば3大ギルドで総戦力は劣っていても、絶対的な地位と発言力をキープできたのだ。聖剣騎士団も太陽の狩猟団も安易にクラウドアースに攻勢を仕掛けられなかったはずだ。それどころか、上手く活用すれば、戦端を開くまでもなくクラウドアースが勝者として君臨していたかもしれないのだ。

 何としても≪ボマー≫を手中に収めたいのは3大ギルドどころか、全組織の悲願だろう。たとえ名も無き零細ギルドであったとしても≪ボマー≫を手に入れただけで大ギルドにすら物申せるようになるかもしれないのだ。

 ……チェーングレイヴも、あるいはそれを狙っているのか? 確かに≪ボマー≫を保持しておけば、いざという時に必ず機能する最強のカードになる。クラウドアースとのパイプが失われつつあるこのタイミングにこそ、≪ボマー≫を欲するのも道理か?

 

「どうでもいい」

 

 考えても意味が無い。今回の依頼は≪ボマー≫の確保でもなければ、保有者の殺害でもない。あくまでシャイの暗殺だ。それ以外はボーナス対象程度に考えておけばいい。要求通りにシャイを暗殺できればそれでミッションコンプリートだ。

 チェーングレイヴの関与が疑われず、オレが実行犯だとバレてはならず、なおかつ抗争も起きない穏便な手段による暗殺。つまりはシャイの死がヴェノム=ヒュドラと関係を持った事に対する制裁として機能し、なおかつチェーングレイヴを含めた他犯罪ギルドが仕掛けたものであると断定されなければいい。黄龍会そのものが潰れるのはまずいという事だ。まぁ、そこは裏の政治の話が絡むのだろうから、オレは大人しく従おう。

 ……皆殺しが1番手っ取り早いんだけどな。どれだけ護衛を配置していようともシャイを含んだ全員を殺せばいい。死人に口なし。最速・最短で殺し尽くせばいい。だが、万が一でも目撃者・生存者が出た場合を考えれば、そうもいかないのだろうな。無用なリスクは避けるべきなのだろう。

 ふむ、そうなると最も有効的なのは狙撃だな。遠距離から頭を撃ち抜く、ないし吹き飛ばすのが理想だろう。だが、シャイは犯罪ギルドのトップだ。狙撃対策は万全のはずである。オレ自身も威力を高める≪狙撃≫スキルを持っていないしな。

 ならば辻斬りか? 贄姫は先のラストサンチュアリ戦で盛大に披露してしまったので使えないので、威力が高いカタナか暗器で接近するのもありだろう。だが、シャイ自身も相当な実力者であると注釈が付いている。≪暗器≫と≪カタナ≫の複合である贄姫ならば首を一刀両断で即死も狙えるが、それ以外の武器では獣血侵蝕させて≪暗器≫化しても不可能だろう。というか、パラサイト・イヴの能力を使うと何だかんだで目立つから、結局は候補にもならない。

 そうなると爆殺? いやいや、これも不確実だな。そもそも高レベルプレイヤーを一撃で即死させられる爆弾とか、それこそ≪ボマー≫の出番だろうしな。アームズフォートに使用されているミサイルでも、シャイのレベル、VIT、装備次第では1発で死亡は狙えない。同じ理由でグレネードも候補から除外だ。

 ……こうして考えるとなかなかに面倒な仕事だ。これが現実世界ならば幾らでも殺す手段はあるのだが、DBOはともかくHPをゼロにしない限りは死なないからなぁ。たとえ、手足が千切れようとも、内臓が飛び出ようとも、頭を撃ち抜かれようとも、HPさえ残っていれば生存できるのだ。

 

「毒殺……も、駄目だな」

 

 シャイの毒耐性にもよるが、たとえレベル5の毒にかかっても回復アイテム連打で生存可能だ。そもそも毒殺なんてシャイも注意を払っているはずだ。毒見や毒検知アイテムは習慣になっているはずである。

 だったら、最も確実なのは、シャイが単独かつプライベートの時間を狙い、誰にもバレることなく接近して殺害するという方法だ。

 シャイの資料を捲り、1つの情報に目が留まる。シャイはどうやら不定期ではあるが、黄龍会が経営する娼館に足を運んでいるようだ。さすがに娼婦と交わっている時は警備もいないはずである。

 娼婦を買収して殺す。いや、無しだな。娼婦のステータスにもよるが、シャイの心臓に確実に暗器を突き立てられる者を都合よく見つけ出せるとは思えない。また、それでも即死は練らないだろう。シャイの口を文字通り封じ、動きを拘束して反撃を抑え込み、血飛沫を浴びながらも何度も心臓に刃を突き立てられる者でなければならない。加えて殺害後に娼婦はどうする? 外のシャイの護衛に捕まるだけだ。オレが手助けして逃亡させることも可能だが、何にしてもこのプランでは確実性が無い。

 ふむ、そうなると……シャイのレベリングのタイミングを狙うのがベストか。強力なモンスターと遭遇して運悪く全滅なんてDBOの日常茶飯事だ。これなら……いや、駄目だな。それでは『行方不明』だし、黄龍会に対する警告の意味を持たなくなる。あくまでヴェノム=ヒュドラと協力した事への警告という意味を持たせた、誰の目から見ても分かる暗殺という手段でなければならない。

 

「……いっそミディールで吹き飛ばすか?」

 

 面倒臭い。ミディールで黄龍会の拠点ごと吹き飛ばせばいいのではなかろうか? いやいや、だからそれが出来たら苦労しない。ミディールなんて使った日には、オレが実行犯だとバレてしまう。まさか、ラストサンクチュアリ戦でカードを切りまくったツケをここで支払うことになるとはな。

 まだ使っていないカードを切るか? 日蝕の魔剣の【天墜】ならば……いや、論外だな。魔剣の損壊は確定するからグリムロックが泣き喚くし、被害が大き過ぎてミッション失敗扱いになるだろう。そもそも暗殺の次元を超えた事態になる。

 初心に帰ろう。寝込みを襲う。警備は厳重だろうが、寝室まで忍び込めれば最低限の被害でシャイの暗殺はできるだろう。爪痕撃で心臓を抉り出して即死を狙う。これが最も手っ取り早く、なおかつスタンダードだろう。

 さて、そうなると警備はなるべく手薄な時が良いな。先程の情報……シャイが娼館に足を運ぶならば、場合によってはそのまま泊まり込みになるのではないだろうか? 娼婦という目撃者は増えるかもしれないが、それが逆に警告としても機能するだろう。問題はオレだとバレないようにだが、考えがある。

 まずは厚底ブーツ! これで身長をプラス5……否! 10センチは増加させることが出来る。更には全身を隈なく覆い隠す防具とフード、そして仮面だ。爪痕撃の威力を高める為にも暗器は必須だな。グリムロックが作った【イジェン鋼の爪手甲】がある。何やら色々と実験を兼ねていたらしいが、≪暗器≫としては失敗作らしい。理由は素の物理攻撃力の高さの代わりに≪暗器≫特有のクリティカル部位へのダメージボーナスが低めだから……ではなく、何の仕掛けらしい仕掛けも施せなかったから、だそうだ。

 だが、ダメージボーナスが低いと言っても暗器には違いない。目撃者対策で獣血覚醒が施せないので獣爪撃は無理だが、爪痕撃でも十分な威力は発揮できるだろう。特に娼館で寝泊まりするならば、高確率で防具は脱いでいるだろうしな。

 決まりだな。これでシャイの暗殺プランは出来た。後は≪ボマー≫に関する情報集めだけか。いや、やらないでもいいのだが、最低限でも時間を費やして努力したアピールだけはしておいた方がいいだろう。サインズを通していない依頼なのでチェーングレイヴ……もとい、クラインの評価はあまり意味が無いのだが、それでも今回のグリムロックの件があるように、また取引や交渉で関わることもあるのだろうから。

 さて、まずは黄龍会自体が≪ボマー≫を保有しているかどうかであるが、その確率は低い。高かったならば、わざわざブラック・シーラインを筆頭とした他犯罪ギルドとの抗争でカードとして使っているはずだ。ここぞという切り札として温存しているかもしれないが、潰して潰されての犯罪ギルドの抗争でまるで尻尾を見せないのもおかしい。

 ならばヴェノム=ヒュドラが保有している? それも無いだろう。仮にヴェノム=ヒュドラが≪ボマー≫を有しているならば、先の港砦の失態は犯さないだろうし、またより攻勢に出て裏の支配に乗り出すはずだ。もちろん慎重に動いている危険性もあるが、だったら黄龍会の素材生産・買い占めで尻尾を出すのは余りにも杜撰だ。

 つまりは黄龍会自体が≪ボマー≫を保有しているのではなく、黄龍会もまた≪ボマー≫の存在を知ってか知らずか、別の組織・個人に利用されているという線が濃厚だろう。

 そして、オレに情報が回ってくる時点で、チェーングレイヴからの情報提供があるとはいえ、最低でもクラウドアースのベクター派閥はこの情報を保有しており、返り咲く為の一助として≪ボマー≫確保の功績を得んと子飼いに頑張らせていないとも限らない。

 ……現場で大ギルドの暗部と戦うとか嫌だな。後々まで響く負債になる。こういう時にサインズを通していない仕事だと面倒だ。サインズ経由ならば大ギルドの暗部だろうと出会い頭に殺しても問題にならないんだけどな。

 

「まずは黄龍会が素材を何処に卸しているかを調べるか」

 

 まぁ、オレ個人で調べるよりもチェーングレイヴに調べてもらった方が効率は良いのだが、今の人手不足が顕著な状態では時間もかかるし、裏の秩序の担い手としての地位を失墜しつつあるから情報精度も確かではない。よって自分の足で調べる。

 だからと言って、オレが乗り込んで『はい、情報を売ります』と言うような連中が犯罪ギルドにはいないだろう。そもそも、オレが少しでも黄龍会を探っているとバレてはいけない。先にシャイを暗殺してしまうのも手なのだが、≪ボマー≫関連はシャイが実権を握っていて、なおかつ個人として関与していた場合、その先が追えなくなる。

 もうアレだ。シャイを誘拐して『お喋り』をした方が手っ取り早いのではないだろうか? ああ、駄目だった。誘拐では犯罪ギルド間の抗争が激化する要因になりかねない。あくまでショッキングに、かつ犯罪ギルド間の抗争に発展しないような、ヴェノム=ヒュドラと関係を持った事に対する警告として機能する暗殺でなければ駄目なのだ。

 改めて思うのだが、注文の多い料理店か? 暗殺1つでここまで注文を付けるとか、絶対にまともに引き受けさせない、もとい報酬を渡さないという気概すら感じるぞ。

 既にグリセルダさんにもそれとなく黄龍会について探ってもらっているが、現時点で有力な情報は無し。そうなると、多少のリスクを背負った方が得か?

 教会服……は裏では目立つな。今日は別の変装をするとしよう。敢えてボロボロにしてあるマントを付与した全身金属甲冑だ。フルフェイスの兜には黒い飾り緒が付いており、覗き穴も無数の小さな穴が開けられたタイプだ。

 武器はイジェン鋼の大剣……それから擬装用に中盾の【竜火の盾】も装備しよう。ふむ、完璧だな。コンセプトは『≪剛力≫を用いて両手剣の片手運用をメインにしつつ、中盾で防御面もしっかり確保した、ゴリゴリのSTR型接近ファイター』だ。敢えて甲冑を汚し、凹ませ、またマントもボロボロにさせてあるのは、いずれの勢力も付けておらず、修繕もままならないといった演出にもなるからだ。

 もちろん、ここは傭兵寮なので変装したまま出発しては意味が無い。元の服装に戻し、路地裏まで行って改めて変装する。

 情報を集めるならば快楽街だな。黄龍会が経営する娼館は正確には快楽街ではなく下層にあるのだが、やはり情報収集には適している。

 日も暮れて、快楽街は昼の光に追いやられていたかのように活気に満ち溢れ始める。

 それぞれの特色を出して客寄せせねばならず、また犯罪ギルド同士の縄張りや協定もある為か、意外にも多文化共生感があるというか、カオスというか、人間の欲望が丸出しのエリアだけに目が痛くなるくらいに華やかだ。

 たとえば、快楽街への入り方にもよるが、いわゆる『玄関』と呼ばれる入口付近はギラギラと輝いたネオンで満ち満ちた通りになっており、各犯罪ギルドが経営する水商売の店がずらりと並ぶ。もちろん、中には犯罪ギルドではなく、表面上は真っ当な店として看板を掲げているが、裏ではいずれも真っ黒な繋がりがある。客寄せが跋扈し、1歩進めば3人の客寄せには絡まれるだろう。この客寄せも大変で、なにせDBOなのだから、怒りを買って殴られる、蹴られる、斬られる……最悪の場合は殺されるといったこともある。まぁ、さすがに殺されたらバックの犯罪ギルドが動くのだが、ともかく過酷な仕事で、最も下っ端が従事し、なおかつ下積みでもある。

 そして、ここから更に奥へと進めば進む程に爛れた欲望が露わになる。酒場・安宿を兼ねた娼館だったり、怪しいアイテム・装備を売る露店商が所狭しといる。他にも各犯罪ギルドが経営する劇場だったり、賭博場だったり、色々だ。特に賑わうのは賭博場の1つが古株のフォックス・ネストが経営するレース場だ。馬に限らず、様々な乗り物……それこそ地竜からバイクに至るまで、ともかく何かに騎乗したジョッキーによる障害物競争だ。殴る・蹴るはもちろん、誓約書によって『死』も認められており、命懸けのレースに挑むことになる。

 表……クラウドアースが特に支配する、コロシアムを目玉とした娯楽街でも同じように賭けに興じれるレースはあるのだが、あちらはエンターテイメント性を優先して流血沙汰は事故であったとしても、基本的には死人が出ないように配慮が施されている健全なものだ。大ギルドの直轄という事もあり、評判を落とさないように賭け金にも制限がかかっている。だが、こちらには天井もセーフティもあったものではない。しかもレース場の脇には堂々と各犯罪ギルド、あるいは個人の金貸しがズラリと並んでいる。まぁ、この辺りは何処の賭博場も同じなのだがな。

 さて、比較的治安がマシの部類である中層と貧民街も兼ねた下層の中間点にあるのが快楽街なのであるが、事の次第によっては富裕層が支配する上層にも匹敵する治安と華美を有するエリアもある。

 それが高級娼婦を抱えた娼館が立ち並ぶエリアだ。いわゆる各犯罪ギルドの最大の見栄の張り合いの場でもある。なにせ、バカみたいなお屋敷があって、何処の貴族の住処かと思う庭園があるのだ。しかもヨーロピアンかと思えば和風だったり、中華だったり、アラビアンだったり、もうデザイン混合過ぎて目が痛くなる。

 高級娼婦に求められる基準は美貌以外もある。話術といったコミュニケーション能力、立ち振る舞いや知識といった教養、場合によってはレベルという分かり易い強さすらも求められるのだ。

 歴史がそうであったように、このランクまで上がると、如何にDBOであろうとも客の方が基本的に貢いでお会いさせてもらう側になる。たとえ大ギルドのお偉いさんでもだ。もはや彼女達をその辺の娼館や街に立っている娼婦と同一視するような馬鹿はいない。娼婦たちにとって夢のような成功の星だが、なれるのはほんの一握りだ。

 身受け金も莫大であり、身分も徹底的に洗われると聞いている。たとえば、身受けしてもらった高級娼婦が目も当てられない扱いを受けていた……など、経営者が犯罪ギルドであっても不名誉極まりなく、むしろ面子を傷つけられたとして激怒して、あの手この手で報復するだろう。

 そして、高級娼婦と名乗らせるには相応の条件がある。まずは快楽街に相応しい店……もとい館を構え、なおかつ高級娼婦の茶会に出席できなければならない。前者は経営する犯罪ギルドの土地と店を準備できる財力と権力が求められ、後者は犯罪ギルドの支援はもちろんとして娼婦そのものが品格も含めてクリアしているかが高度で要求される。そして、現状では実質的に裏の秩序を守る勢力として機能していなければ、まず無理なのだ。

 逆に言えば、今では新参かつ悪名成長中のブラック・シーラインなどが高級娼婦のパトロンにつけるような事態になれば、裏社会で大きく認められた存在であり、早々には揺るがぬ地位を確立したことになる。当然だが、ブラック・シーラインと悪い意味で同列の黄龍会が高級娼婦のパトロンであるわけもない。

 ……ここから更に面倒な事を言うならば、この高級娼婦の茶会というのが滅茶苦茶厄介で、DBOで特に大きな影響力を持つプレイヤーの1人であるリップスワン……敬意を込めてマダム・リップスワンが噛んでいるのだ。

 オレにも護衛依頼を出してくれる事があるリップ・スワンはクラウドアースでも大きな票田を持ちながら大ギルドの運営には全く興味を持たない中立を超えた厄介な存在である。本人はハッキリ言って戦闘能力は皆無なのであるが、経営する金融ギルドはえげつない利益を叩き出すクラウドアースの稼ぎ頭であり、しかも彼女自身は商才が無い遊び惚けた人物かと思えば、気に入った人物にはとことん金銭から情報まで支援するパトロン気質である上に、何故か投資のほぼ全てが成功してしまうというえげつない無自覚の才覚の持ち主だ。

 そんな彼女にオレが気に入られた経緯は……残念ながら灼けてしまって憶えていないのであるが、サインズが保管している依頼記録によれば、どうやら彼女の警備を担当し、暗殺を防ぎ、なおかつそれがクラウドアースにおける地位の強化に繋がったかららしい。それまでは財力と人脈はあるが、組織運営には役立たずと思われていたリップ・スワンが、一躍してクラウドアースにおける事実上の最大の影響力を持つ人物になってしまい、更に人口増加やそれに伴うクラウドアースの肥大化によって、もはや手を付けられない存在にまで成長してしまったのである。

 ともかく、マダムが開く茶会に出席できるのは基本的に女性プレイヤー限定であり、マダムの茶会に参加できるのは名誉なのだ。教会は宗教という形で権威を獲得しているが、マダムはその財力と人脈を背景として茶会そのものが権威と化しているのである。なにせ、茶会で取り上げられた菓子はそのまま最先端になって莫大な利益を生むし、香水1つを取っても瞬く間に大流行するのだ。

 そして、この高級娼婦の茶会にもマダムのお墨付きがあるという。犯罪ギルドにとっては、マダム・リップスワンは大ギルドや教会以上に厄介な存在だ。なにせ、政治的関与は全く気にしない私人ムーブで絶大な影響力を及ぼすのだ。高級娼婦の茶会を侮辱されたとなれば、マダムからすれば顔に泥を塗られたも同じ。そして、それはマダムの茶会によって権威付けしてもらった、または彼女の気まぐれで融資してもらって成功した全てを敵に回すと同じなのだ。

 だから、この高級娼婦の館が立ち並ぶ快楽街の華とも呼ぶべき場所で黄龍会なんて下劣な犯罪ギルドの影を見ることなんて、まず無いわけなのだが、これはどういう事だろうか。

 まるでお姫様でも暮らしているかのような、広大な薔薇園を備えた純白の御屋敷。そこで今は物々しい警備が配備され、また遺体が運び出されている。そして、遺体の右手には黄龍会のメンバーである証の龍の刺青が彫り込まれていた。

 

「何事ですか?」

 

「ん? ああ、侵入者さ。どうやら黄龍会の馬鹿共がお姫さんを誘拐しようとして派手に返り討ちになっちまったらしい。天下のエバーライフ=コールに喧嘩を売るなんて、馬鹿な連中だぜ。これで黄龍会も終わりだな」

 

 オレがフルメイル装備なので【渡り鳥】だとバレなかったお陰か、野次馬の1人である、多量の風船を持ったピエロは興奮気味に情報提供してくれる。恐らく客寄せの1人だろう。しかし、この変装は時と場合によって教会服よりも有用だな。まぁ、あちらだとどうしても教会の威光が見えてしまうから仕方ないし、だからこそ利用価値もあるのだがな。

 

「刺青があるからといって、まだ黄龍会のメンバーと決まったわけではないでしょう?」

 

「そりゃな。だが、ここだけの話、随分と前から黄龍会のボスはお姫さんにお熱だったみたいだぜ? 色々と貢いでたって噂だ。だが、黄龍会は名が知れた犯罪ギルドとはいえ、評判が段違いに悪い。そんな連中に、大事な商品であるお姫さんと床を一緒にさせるなんて論外だし、まともに話もさせるわけがない。身受けなんて論外だ」

 

「……確かに」

 

「それでいよいよ痺れを切らして強硬手段に打って出たが、あえなく返り討ちってわけさ。黄龍会に罪を擦り付けたい連中の芝居かもしれないが、エバーライフ=コールとしては落とし前を付ける方が優先。ましてや、最近は自分の縄張りにちょっかいを出していた黄龍会を潰すのに良い大義名分だ」

 

 他にもお姫さんに入れ込んでる連中も動き出すだろうな、と男は付け加えた。うん、キミはどうしてそこまで情報通なのかな? それともこの程度は快楽街に詳しければ基礎知識なのかな? 是非ともご教授をお願いしたい。

 そもそも、お姫さんって誰だ? オレも快楽街うんぬんの知識は傭兵業に関わるから学んだだけで実地には仕事以外ではほとんど赴いたことがないのだ。傭兵の皆様はサインズ本部お隣のワンモアタイムか、もしくは快楽街で打ち上げが定番らしいが、オレは打ち上げする相手もいないので……はい。

 

「うぉー! 俺の【スイレン】ちゃんがぁああああああああああ! 黄龍会ぶっ潰す!」

 

「落ち着くんだ。あんな巨乳女の何処が良いのか、全く分からないが、とにかく落ち着け」

 

 ふと隣を見れば、竜虎コンビの片割れであるレックスが牙を剥いて怒気をまき散らしている。彼を冷静に引き留めている相方の虎丸は興味が無いといった顔だ。対照的だな。

 他にも気づけば有名どころが集まっているな。どうやらこの事件、オレが思っている以上に大きくなりそうだ。うん、シャイを暗殺するとかもうオレが出る幕はないんじゃないかな? この勢いならば、お姫さんことスイレンさんのファンのお偉いさんが私兵なり傭兵なり派遣してぶっ殺すんじゃないの? そうでなくとも、パトロンであるエバーライフ=コールといえば、チェーングレイヴにも靡かない中立ではあるが、裏では最大級の規模を誇る犯罪ギルドだ。未遂とはいえ、堂々と高級娼婦を攫われそうになったのだ。面子を潰されたともなれば、相応の報復に待ったはないだろう。

 と、そこに野次馬達を押しのけて純白の館が立つ敷地に入り込む人物がいた。際どい赤のドレスと金箔が貼られた豪奢なキセル、そして妖艶な佇まい……資料で見たことがあるな。エバーライフ=コールのトップであるカリンか。

 彼女を迎えるのは、この騒動の中心であるスイレンさんだろうか。館に相応しい純白のドレスを着ており、淡い金髪はよく映える。美貌はもちろんあるのだろうが、歩き方1つを取っても高い教養を感じられるな。ここからでは顔をよく見えないな。

 戦場において教養など役には立たない。だが、そこには実力以上の代えがたい商品性はある。エバーライフ=コールは彼女を商品として宝石の如く大事に囲って価値を高め、多くの客に貢がせ、極上の相手に身受けをさせてパイプを作る。そして、彼女自身の実力がどれほどのものかは知らないが、少なくとも最前線で戦う上位プレイヤーを遥かに凌ぐ待遇と生活を得られる。

 

「チクショウ! クラウドアースに謹慎処分を食らってる自分が恨めしいぜ! プリーズ、襲撃依頼! 黄龍会を俺にぶっ潰させろぉおおおお!」

 

「はいはい。僕たちは無関係だから面倒事に巻き込まれる前に帰ろうか」

 

 そもそも謹慎中に快楽街を堂々と闊歩するなと言いたいところであるが、彼らが謹慎を喰らったのはグリセルダさんから聞いたオレへの依頼詐称の件だろうか。新議長のベルベットは強引な手を打ってグリセルダさんを確保しようとしたと聞いている。その依頼を受けた竜虎コンビは上手く立ち回ったらしいが、どうやら無傷とはいかなかったようだ。まぁ、あの様子だと2人も大して気にしていないようだがな。

 さて、竜虎コンビは放っておくとして、犯罪ギルドのトップが動く程の重要案件だ。高級娼婦とはそれだけの価値がある。さて、どうなる事やらな。まぁ、オレには全く関係のない事なので、獲物が横取りされるより先にシャイを始末するとしよう。

 

(ええ、そうね。ここは早く立ち去った方が良いわ)

 

 ですよね。ヤツメ様……って、え? ヤツメ様?

 オレの傍らではとても楽しそうなヤツメ様が前髪を弄っている。これから起きる惨劇がどうなるか、興味を示しているように。

 快楽街が活発になる日没直後の襲撃。必然的にできる野次馬の壁。そして、高級娼婦が襲撃されれば必然的に動く犯罪ギルドのトップが出張るという示威行為。そして、如何に高級娼婦とはいえ、パトロンのトップが来たとなれば出迎えるのは必定。そして、ヤツメ様の笑み。

 なるほどな。何処のどいつか知らないが、ヤツメ様が退避を勧告するという事はオレも巻き込まれるという事だ。何処だ? 何処にいる? この高級娼婦エリアは狙撃対策も兼ねているから安全性は高い。だが、もしもオレの予想通りならば……!

 

(良い夜風ね)

 

 ヤツメ様は笑う。嗤う。笑う。嗤う。風? そうだ。風が吹いている。館に向かって風が……まさか!

 視界の端に捕らえたのはオレが先程まで話していたピエロ。彼は野次馬を抜け出そうとして、だが何者かに腕を掴まれて捻られる。瞬間に多量の風船は舞い上がり、館へと……カリン達の方へと飛んでいく。

 間に合うか? いいや、やるしかあるまい。そうでなければ、オレも巻き込まれて死にかねない。次のトリガーが引かれるより先に!

 館の敷地内に向けた狙撃はおそらく不可能。対策が施されている。だが、それ以外……館上空への射撃は!? 周囲を見回す中で、1人の男が包帯で巻かれた筒状の何かを風船の群れに向けている。

 ステップで瞬時に間合いを詰め、男の顔面を掴む。そのまま地面に押し倒せば、反動で長筒が暴発し、オレの頭部を霞める形で散弾が放たれる。サイレンサー付きかつマズルフラッシュも抑制されていた。暗器ではないが、暗殺仕様。ただし、ショットガンなので殺傷性の低下は否めない。だが、射程を稼いだならば、風船の群れを任意の場所で破裂させるには悪くない選択肢だ。

 

「お前は……!?」

 

 男の動揺は尤もだ。悪いが、ここで見逃せばオレ自身に被害が及ぶとヤツメ様が教えてくれた。範囲をより限定的にしなかったのはターゲットの確実な殺傷が目的だったのだろうが、それこそが失敗だったな。

 男は抗い、腰からナイフを抜く。狙いが正確だ。首元……兜と鎧の隙間を狙うつもりか。だが、見え透いている。ナイフを握った手首を掴み、捩じり、そして折る。男は苦悶の表情を浮かべるが悲鳴を上げない。よく訓練されている。

 押し倒されたままではいられないと手足を使わずに跳び起きようとする。だが、逃がすものか。掴んだ顔面に力を籠める。男は膝蹴りでオレを押し飛ばそうとするが、それより先に男の顔面を掴んだまま走り、野次馬から引き離して路地裏に連れ込む。

 

「良い武器でした。専用の暗殺に特化されたショットガンでしたね。あの風船のいずれか、それとも全てが破裂すると大規模な被害をもたらす『何か』なのでしょう?」

 

「…………」

 

「沈黙。そうですよね。貴方はよく訓練されている。動きも含めて対人慣れしているようでした。犯罪ギルドのヒットマンにしても……優れ過ぎている。そうなると大ギルドの暗部の方でしょうか?」

 

「…………」

 

 男は語らない。沈黙を保っている。ふむ、ここで解放してもいいのだが、黄龍会の関係者かもしれないし、何よりもこれは『自己防衛』の範囲内だ。ならば、やる事は1つだろう。男をそのまま引き摺り、快楽街の奥底……そのまま下層へと入り込む。貧民街でもある下層は日の光も限定的だ。よって、夜ならば月明かりも星の光さえも乏しい。代わりに灯るのはガス灯にも似た輝きを放つ街灯であるが、それもほんの1部であり、大半は蝋燭や寒さを凌ぐドラム缶の焚火だ。

 オレは男を廃墟の1つに放り込む。先客の貧民がいたが、オレは彼らに金を握らせて出て行かせ、また彼らが使っていた錆び付いたナイフを買い取る。男はまだ抵抗しようと、逃げ出そうとするが、それより先にイジェン鋼の大剣を投げて太腿を刺し貫いて拘束する。

 

「さて、何から話しましょうか」

 

「……殺せ」

 

「ええ、殺します。でも、その前に『お喋り』しませんか?」

 

 男の右太腿を刺し貫くイジェン鋼の大剣を捩じる。だが、歯を食い縛るばかりで悲鳴はやはり上げない。まぁ、別にいいのだがな。

 仕方ない。オレは防具を変更し、普段着でもある教会服にして素顔を晒す。途端に男の死の覚悟で固まっていた顔に明確な恐怖が浮かび上がる。

 ああ、悪くない。むしろ素晴らしい。死の恐怖を啜った男の顔にはもはや先程までの、仕事を達成しようとするプロの気概はなく、『人』としての尊厳すらも手放して恐怖に呑みこまれて震えるしか出来ない、呼吸するだけの肉の塊となった浅ましさすらもあった。

 

「わ、【渡り鳥】……そんな……ど、どうして……!?」

 

「巡り合わせが悪かったとしか言いようがありません。ごめんなさいね」

 

 ぺろりと舌を出して謝っておく。うん、本当に偶然なんだ。情報収集に足を運んだら、たまたま貴方の任務に遭遇して、たまたま巻き込まれそうになった。それだけなんだ。だから、不運だと言えば不運だ。

 でも、そんなのは関係ない。テロに巻き込まれて死ぬ無実の市民がいるように、不運は何処にでもあるものだ。今回は市民が巻き込まれるより先に実行犯が捕まってしまっただけのことだ。

 

「貴方は多分ですけど大ギルドの暗部の方ですよね? お仲間はたくさんいたでしょうけど、介入は見られません。ピエロの方は様子から察するに無関係の仕込み。そうなると風船を渡した彼の雇い主が怪しそうですね。ピエロから風船を手放させた方もお仲間のようですが、もう被害範囲外に脱出されて、実行犯である貴方だけだったのでしょうか?」

 

「殺せ。殺せ。殺すんだ! お願いだ!」

 

「いいえ、『まだ』殺しません。貴方とはじっくりと『おしゃべり』したいんです。でも、今日は貴方と遊べる『玩具』を準備していなくて、これしかないんです」

 

 貧民から買い取った錆び付いたナイフを見せつけ、オレは微笑みかける。

 彼は死を求める。ああ、そうだろう。情報を吐くより先に死を選ぶ。呼吸するだけの肉の塊と思ったのは撤回しよう。まだ、彼には『人』として仲間を守り、秘密を己の死で隠そうとする覚悟がある。

 ならば、存分に見せてくれ。貴方が何処まで秘密を守り通せるのか、オレに教えてくれ。

 

「そこまでだ。これ以上は我々が預かる」

 

 と、そこで廃墟に侵入者が現れる。振り返れば、アーロン装備の長身の男と……見知ったメイドが立っていた。

 クラウドアース……いいや、ヴェニデから依頼がある場合の代理人でもあるブリッツだ。確か……ユウキが雇われている屋敷のメイド長でもあったな。

 彼女たちの部下がオレを……いいや、男を囲う。オレはイジェン鋼の大剣を引き抜いて背負い、錆び付いたナイフをその場に落とす。

 クラウドアース、もといヴェニデに捕まったというのに、男は酷く安堵していた。うん、アナタを待っているのはヴェニデによる『尋問』だから五体満足なんてあり得ないのだがね?

 

「……可哀想に。あの様子だとかつ丼の1杯でも出せば寝返るのではないか?」

 

「【渡り鳥】さんが『尋問』を代行すると通達した方がお手軽ですよ」

 

 オレを口割らせの便利ツールにしないでもらいたいのだが。不満は顔に出さないが、状況を説明してもらいたいと腰に手をやってアピールする。さすがに通じたのか、アーロン装備が背後に親指を向けてこっちに来いとサインを送る。

 しかし、アーロン装備か。オレが殺したアーロンと全く同じ防具だ。倒したネームドの装備は何らかの形で獲得できることもあるのだが、どうやら太陽の狩猟団ではなくクラウドアース側が獲得したようだ。もしかせずとも、あの後にでも黒霧の塔を巡る暗部の戦いとかが繰り広げられていたのかもな。どうでもいい。

 フードを深く被って顔を画し、再び快楽街に戻ったかと思えば、アーロン装備の姿はなく、ブリッツも装備変更でメイド服からスカートの短い煽情的な格好になっていた。何事かと驚いていれば、彼女はそのまま笑顔で1つの店に手招きした。

 そこはフォックス・ネストが経営する劇場だ。ここで何が……って、ん? 何か見知った後ろ姿の男がいるな? スミスか? 隣にいるのは……見なかった事にしよう。そうしよう。

 オレがブリッツに誘われてはいったのは、ダンサーが鮮やかなスポットライトで踊るステージを一望できる2階のVIPルームだ。何部屋かあるが、隣の部屋は既に予約が入っているらしく扉は閉ざされている。オレが入るのはその隣だ。

 

「やぁ、【渡り鳥】くん。久しぶりだね」

 

「……セサル」

 

 VIPルームで待っていたのは、記憶が灼けているとはいえまだ憶えている姿よりもやや痩せた、色褪せた金髪を後ろに撫でつけた男……セサルだ。赤と黒を基調とした衣服ではあるが、プライベートであることを示すように簡素であり、だが随所にこの男の高いファッションセンスが窺える。トップに立つ男は外見も疎かにしないという事だろう。

 セサルは無言で着席を促し、オレは腰かける。まるでホステスのようにセサルの酒を作るブリッツは恰好抜きでも彼の専属メイドといった振る舞いだ。そして、オレを逃がさない為か、あるいはセサルの護衛としてか、スカーフェイスの男が出入口の扉で陣取っていた。

 

「ここはアナタのお気に入りの店なのですか?」

 

「さぁ、どうだろう。ダンサーの質は悪くないが、まだ『本物』は見たことが無いな。この心を揺さぶるダンスはやはり戦場でしか出会えない」

 

「求める舞いの性質が違うようですね」

 

 血狂いが。根っこからの戦闘狂であると表明するような発言をしたセサルは、だが激しく咳き込む。ブリッツは慌ててハンカチを差し出すが、彼は手でやんわりと押し退けた。

 

「……病に伏していると聞きましたが、本当だったようですね」

 

 最近はほとんど公に顔を出していないのは、クラウドアースの軍事顧問として裏方に徹しているからではなく、彼自身がもはや長くないからだろう。ヤツメ様も死期を感じ取っているかのように残念そうだ。

 

「元より私は病の身でね。現実の肉体はおよそ死人同然だ。こちらでは体の調子も悪くなかったのだが、どうやら残した肉体はもはや風前の灯火のようでね。よもや咳に苦しめられるとは、いやはや戦場で肺に穴を開けられた時以来だ」

 

「その時、大人しく死んでおけば今になって苦しむ必要もなかったのでは?」

 

「おや、キミはジョークセンスが無いと聞いていたが、なかなかに笑わせてくれるではないか」

 

 セサルは余裕を持って笑って見せる。ブリッツやスカーフェイスもその様子に和んでいるようだった。なんだか調子が狂うな。最近は……こう……腫物扱いばかりだっただけに、このヴェニデ特有の謎のノリについていけない。

 ヴェニデについて分かっている事は、彼らは『力』の信奉者であるということだけだ。絶対的な暴力こそを是とし、また従う。そして、彼らの王こそが自称・死にかけのセサルだ。

 

「実は黄龍会と組んで良からぬ輩が動くという情報を掴んで、こうして見物に来ていたのだよ」

 

「……では、彼らはやはり?」

 

「察した通りだ。聖剣騎士団か太陽の狩猟団、前者の方が確率は高いが、どちらにしても暗部の者だろう。黄龍会と手を組んだといったところか」

 

「狙いはカリンの首ですか?」

 

「キミはどう思う?」

 

「否……ですね」

 

「ほう?」

 

 セサルはクリスタルのグラスを傾け、ブリッツが作った水割りを美味そうに飲む。彼女はオレにも勧めたが、首を振って断る。仕事中に飲むつもりはないし、そもそも酒の味なんてこの舌は分からない。

 

「カリンを殺すならば公の場を狙う必要はありません。犯罪ギルドに対する示威行為だとしても、野次馬まで巻き込む手段に正当性はありません。よって、今回は大ギルドが背後にいるとしても、1部の子飼いしか運用できない者の仕業でしょう。ターゲットにされたのは、エバーライフ=コールがパトロンを務めるスイレンさんの方ではないでしょうか」

 

 最初の黄龍会の襲撃はカリンに訪問させる為に過ぎない。大事な商品に唾を吐きかけられたとなれば、ギルドのトップとしてカリンは姿を現す。そして、エバーライフ=コールは報復を行うと示すだろう。そうでもなければ、高級娼婦に大きな付加価値を与えているマダム・リップスワンの顔にも泥を塗ることになるからだ。

 そして、カリンが訪問するという状況こそが襲撃犯には必要だった。彼女の訪問に対応する為に、本来ならば屋敷で厳重に守られているはずだったスイレンさんが姿を現した。それは千載一遇の大チャンスだ。本来ならば大抵の攻撃は防げるだろうが、今回は野次馬という、本来ならば高級娼婦達が暮らすエリアでは起こりえない現象が起きた。その混乱に乗じて暗殺の手を打った。それがあの風船だ。

 本来の警備状況ならば不審物として警備によって安全に排除されただろう。襲撃によって強化されたように見えて逆に柔軟性を失った警備、ボスの到来による警備の1点集中の弊害もあっただろうが、流れてきた風船への対処が出来ていなかった。

 

「あれは毒ですか?」

 

「そんなつまらないモノではない。あの一帯を呑み込める広範囲に威力を発揮する爆弾だ。高レベルのプレイヤーならば生存するだろうが、それでも野次馬の大半とスイレン嬢は命を落としていただろうね」

 

 ……ほう。つまりは低VITのオレでは即死もあり得たというわけか。さすがはヤツメ様だ。ヤツメ様が胸を張っているのも頷ける。まぁ、背後で狩人がモツ抜きの準備をしているんですけどね。

 

「しかし、キミはどうして風船の正体が分からずに野次馬まで巻き込む広範囲攻撃だと読めたのかな?」

 

「勘です」

 

「……キミは相変わらずだな。だが、それでこそキミなのだろう」

 

 何処か嬉しそうにセサルは笑い、グラスに照明の光を浴びせて揺らし、内容した酒と氷をより深く交わらせるように躍らせる。

 

「ですが、狙いが分かりません。黄龍会は……いいえ、ボスであるシャイはスイレンさんに熱を上げていると耳にしました。それなのに、わざわざ大ギルドと組んで暗殺ですか?」

 

「前提が間違っているな。シャイは確かにスイレン嬢に強い興味を示していた。だが、それは情欲によるものでもなければ、真摯な愛情でもない。彼女が持つ唯一無二の『力』をどうにかして奪い取れないかと目論んでいたからだ」

 

 ブリッツが今度はポテトを勧めたが、それもやんわりと断る。食べても味はしないし、食欲は無い。死なない程度に食事は摂取してあるので無用だ。

 

「シャイは何処で知ったのか、スイレン嬢が持つ『力』を奪い取る事を目論み、それに向けて準備を進めていた。だが、どうやっても上手くいかない。それどころか、自分の拙速が大ギルドに嗅ぎつかれてしまった」

 

「……大ギルドにかかれば、黄龍会程度の規模は造作もなく潰せる。だから、エバーライフ=コールを敵に回すことも厭わずに攻撃を仕掛けた」

 

「命懸けもあるだろうが、相応の見返りもあっただろうがね。そうでもなければ、育てた組織が滅ぶかもしれない博打はできんよ。たとえ、相手が大ギルドであっても生き足掻くというものだ。犯罪ギルドとは、表のギルドとは違い、存外にしぶとい。私はそうした強かさが嫌いではない。形振り構わぬ強さとは見ていて飽きないものだ」

 

 時として醜いだけで呆れることもあるがね、ともセサルは付け加えた。まぁ、概ね同意だな。

 

「前々から黄龍会は動く時を見計らっていた。それが今日であり、情報を掴んだ私はこうして観覧に来たのだよ」

 

「止める気は無かった……と?」

 

「私には無かった。だが、ブリッツは首を縦に振ってくれなくてね」

 

 部下に押し切られて、防衛の準備は行っていた、という事だろう。つまりはオレが動かずとも凶行は防がれていたわけか。

 

「さすがに『アレ』を渡すわけにはいきません。彼女が死ねば、次なる継承資格を持つ者が手にします。いずれの大ギルドであれ、黄龍会を唆して動かしたという事は、既に準備が整ったという事でしょう」

 

「そうだな。キミの判断は正しい。やはり信頼に値する。よくぞ育った、ブリッツ」

 

 ブリッツを褒めたセサルは完全に他人事であり、彼女の気苦労が知れた。このような上司を持てて、彼女は働き甲斐を感じているのだろうかと悩みたくなるが、口振りと態度はどうであれ、その口元だけはとても嬉しそうな笑みを描いている。つまりはそういう事なのだろう。オレにはよく分からないな。

 

「さて、【渡り鳥】くん。キミの方こそわざわざ変装してあのような場にいたのは、よもや高級娼婦を尋ねに来たわけではあるまい? 君は性欲に乏しそうだからね」

 

「人並みにはあるつもりですよ。ケダモノのように従順ではないだけです」

 

「欲望に従順なのは悪かね?」

 

「悪とは言いません。ですが、『獣』に堕ちる要因にはなるでしょう」

 

 酒ではなく水ならばと、炭酸水をグラスに注いでくれたブリッツに、仕方なく受け取って口にする。水の味はせずとも炭酸の刺激は悪くない。

 

(アナタは生まれた時から今日までずっと『獣』よ。哀れに、愚かに、虚しく『人』の皮を被り続けるだけ。もう破れて中身は見え初めてしまっているのに、後生大事に被り続けてる。もう『人』の皮は腐敗して悪臭すら漂わせているのにね)

 

 ヤツメ様がセサルを興味深そうに観察しながら嘯く。たとえ、そうだとしても、オレは……オレは……オレは……

 

「キミのような価値観の人物と戦場で会った事がある」

 

「……え?」

 

「とても強い男だった。私も人間離れしている自覚はあったが、あの男も負けず劣らずだった。私が銃撃を浴びせれば、あの男は時代遅れのように、キミと同じように日本刀を振るって斬りかかってきた。驚いたものだ。その切れ味もそうだが、あの剣技……いいや、狩りの業は……実に素晴らしかった。無論、刃に固執せず、銃でも何でも使ってきたがね。その点もキミとそっくりだ」

 

 見た目こそ40代半ばから後半と若々しさすらも感じるが、その言動はまるで萎びた老人のようだった。この男は外見年齢以上の実年齢なのだろうと感じさせる。それこそ、病ではなくとも命はもう僅かなのかもしれない。

 

「決着はつかず、次の戦場では味方だった。初めて戦友が頼もしいと思ったのもその時だ。だが、彼は既に全盛期を過ぎていた。技のキレは素晴らしかったが、体は既に追いついていなかったのだろうな。それもあってか、ある傭兵と戦い、重傷を負って故国に戻った。私は戦友と肩を並べられる日々の終わりに悲しみ、同時に彼すらも退けた傭兵が気がかりだった。そして、別の戦場で出会うことができた。それも喜ばしい事に敵としてね」

 

 老人が繰り返し語る昔話だと言わんばかりにブリッツは聞き流している。スカーフェイスも同様だ。だが、オレにとっては、仮に灼ける前に聞いてるとしても、初めて聞くセサルという人物の背景だ。自然と耳を傾ける。

 

「彼を退けたのも納得する程の強さだった。初めて『死』を直感したよ。ああ、彼が全盛期であったならば……いいや、それでも私には『死』を感じさせてくれなかっただろう。その傭兵の強さはあらゆる意味で桁違いだった。私は生まれて初めて致死にも至りかねない怪我を負い、だが奴にも決して軽くはない傷を負わせた。もはや、どちらが死んでもおかしくなかったが、私の見立てでは3:7で私の不利だった。私の武器はナイフ1本のみ。奴にはまだ残弾十分のAK-74があった」

 

「ナイフしかないのに、3:7は勝ち目を見積もり過ぎでは?」

 

「そうでもない。屋外とはいえ、地形が複雑でね。懐に入れば、私の方が有利だった。奴の利き腕は負傷していたからね。私も肺と腹に穴が開いて出血量も酷かったとはいえ、近接戦に持ち込めるだけの体力は温存していたし、両腕は健在だった」

 

「……なるほど」

 

「なるほどで済ませられる【渡り鳥】さんも大概ですね。普通は肺に穴が開くことを致命傷と言います」

 

 何故かブリッツに呆れられる。いや、セサルは何も不思議なことを言っていないだろう? まぁ、確かに肺を負傷したら厳しいだろうが、オレの……あれ? オレの……オレの……そう……『誰か』も似たような話をしていた。肺を吹き飛ばされても生き残って一泡吹かせてから仕事の割に合わないので帰ったとかそんな話だ。

 

「だが、奇しくも決着をつけようとした間際に一報が入った。私達が敵対した理由……冷戦が終わってしまった。私達はそれぞれの陣営に雇われた身だった。そして、闘争を求める私とは違い、彼は傭兵として徹底的にプロフェッショナルだった。後は分かるだろう?」

 

 戦う理由が無ければ退くのみ。セサルが戦った傭兵はあっさりと、それも鮮やかに撤退したのだろう。彼の闘争心を満たす機会は失われてしまった。

 

「その後、傭兵と再び戦場で出会うことはなかった。故国に戻った彼に名残惜しいと話をしたら大笑いされたものだよ。美人な妻を娶らせてやるから家族にならないかとも誘われたが、私は妻帯者でね。断らせていただいた。その後も彼とは話をする機会は幾らかあったのだが、もう彼は戦場には立たず、疎遠になっていった。彼は私のように闘争をひたすらに求める者ではなかった。彼は……彼が為すのは『狩り』であり、故に依頼を受けることがあっても獲物は己で定める。ただひたすらに戦場を欲しているのは私だけであり、彼は理解こそ示しても、それ以上はなかった」

 

 そして、それはあの傭兵も同じだったのだろうな、と消えそうな声で呟いたセサルは何処か寂しそうに目を細めた。懐かしい過去にしか、自分を心行くまで溺れさせてくれる夢は無いかのような物悲しさがあった。

 

「キミは彼の考え方にとても似ている。彼も『獣』と『人』……その在り方と境界線を特に重要視していた」

 

「……そうですか」

 

「そして、同時に私にも似ている。戦場こそが安寧の地。戦場こそが故郷。戦場こそが魂の場所。そうだろう?」

 

 肯定も否定も出来ない。今のオレに、長い年月の末に『答え』に辿り着いただろうセサルに応じられるだけの言葉はない。仮に紡いだとしても、それは彼に対する非礼であり、彼が祈りの末に至った『答え』への侮辱になる。

 オレの沈黙をどう受け取ったのかは分からない。だが、セサルは大きな深呼吸を挟んだ。

 

「あの傭兵の名を私は知らない。多くのコードネームで呼ばれていたが、本名は手を尽くしても暴けなかった。もしかしたら、最初から名前など無かったのかもしれない。だが、最も有名な通り名として、彼が最後に雇われていた勢力がある土地に由来し……アナトリアの傭兵と呼ばれていた。そして、全てを真っ黒に焼き尽くすような強さから、古き伝承に倣い、【黒い鳥】とも恐れられていた。最強のイレギュラーだとね」

 

「黒い……鳥」

 

「そうだ。そして、私は彼と相対して唯一勝つか負けるか、生きるか死ぬかの瀬戸際まで殺し合った実績と、数多の敵を惨たらしく殺して血と炎の海を作った恐怖も含めて、【赤い鳥】と呼ばれるようになった。本来ならば同じ時代にいてはならない、【黒い鳥】に比肩しうるイレギュラーとしてね」

 

 まるでお伽噺のようだ。だが、何処か惹かれる物語だ。セサルには悪いが、特に【黒い鳥】について気になるな。

 

「あらゆる時代、あらゆる土地に前触れなく現れる規格外の存在。ドミナントの極致の1つであり、あらゆるイレギュラーを葬るべくして生まれるイレギュラー。それが【黒い鳥】だ」

 

 オレの興味を察知してか、セサルは敢えて【黒い鳥】について教えてくれた。

 

「時代は変わった。仮想世界でこそ羽ばたく【黒い鳥】は生まれているかもしれない。そう、たとえば、キミが親しくしている友人とか……ね」

 

 現状でも剣聖レベルでありながらまだまだ発展途上の剣の腕前。人間の域を超えつつある反応速度。そして、心意。なるほどな。セサルが【黒の剣士】を【黒い鳥】と見立てるのも分からないでもない。だが、コイツがそれを本音で言ってるようには思えない。

 

「キリトが仮想世界における【黒い鳥】だとして、貴方はどうするんです?」

 

「どうするも何もない。彼はまるで足りない。ああ、実力という意味ではないよ。アナトリアの傭兵も、結局は大切な何かを見つけ、戦場を渡り歩くことはなくなった。だから、最優先で闘争を求めることこそが【黒い鳥】の条件でもない。彼には決定的に足りないものは精神だ。敵であるならば、最も親しい友さえも一切の容赦なく葬れる容赦の無さとも言い換えられる」

 

「確かに、キリトはビックマウスですけど、あれは己を奮い立たせるものですからね。アイツは……誰かを守る時が最も力を発揮するタイプですから。だからこそ、アナタの言う、親しい誰かでも敵と判断すれば即座に殺せる容赦の無さとは最も程遠いかもしれません」

 

 敵ならば切り捨てられる。だが、情を抱いた相手が敵に回った時はなかなか踏み切れない。アイツが根本的に人間関係を広げられない理由の1つは、そうした自分の弱さを本能的に察しているからなのかもしれないとも分析している。甘さとも言い換えられるが、それはとても『人』らしい迷いだとオレは賛美したい。

 まぁ、だからこそオレと本気の殺し合いもなかなか出来ないんだがな。オレはキリトが敵ならば全力を尽くして容赦なく殺せるが、アイツはあれこれ理由がなければ戦うことさえなかなか踏み切れない。戦ってもまるで力がセーブされてしまう。だからこそ、戦う理由が正当化されていて、命を奪う必要が無いデュエルでは割と好調なんだろうな。オレとは正反対だ。

 

「でも、キリトならなれるかもしれませんね。アイツは『強い』ですから。本当に守りたい者を選ぶことができたら、迷い抜いた末なら、きっと親友だろうと斬れる。泣きながらでも……全力で斬れる。そういうヤツですから」

 

「ふむ、私が思う【黒い鳥】の姿からはかけ離れているが、キミがそこまで言うならば、期待はしておこう。【黒の剣士】という通り名もおあつらえ向きだからね」

 

「しないでください。アナタに期待されたらその分だけアイツが不運になりそうです」

 

 オレの切り返しにセサルは若干の不満を示したようであるが、大いに納得したようにブリッツとスカーフェイスは首肯した。どうやら、この2人は主人の性質に心当たりがあり過ぎるようだ。

 部下2人の態度に肩を竦めたセサルは改めてオレを見つめる。

 

「【渡り鳥】くんはどうだろうな。【黒い鳥】の面影が見えるのは確かだ。だが、同時に余りにも異質だ。そう、全てを焼き尽くす暴力にして、全てを喰らい尽くす……かつて彼が語ってくれた『獣』のようだ。故に私はキミを王にしてみたい。世界を踏み躙り、変革を起こし、存在そのもので支配して新たな秩序の象徴となる暴虐の王にね」

 

「……暴虐の王の意味が分かりかねます」

 

「なに、簡単だよ。『ただ存在する』だけでいい。人間は技術と社会を発展させ、本来あるべき生物間のヒエラルキーを覆して頂点に君臨した。霊長類としてそれだけの素質が元より備わっていた。だからこそ、不可欠なのだよ。人間を含めたあらゆる生物の頂点に立つに相応しい暴力の権化……個の存在で万物を屈服させる暴虐の王がね。それこそが金だの地位だの何だのを自分の力だと思い上がって支配者だと気取る豚共を殲滅し、人類をあるべき健常なる姿に戻すのだ」

 

 セサルの思想は物騒過ぎるし、尖り過ぎだ。まぁ、単純に資本主義を批判しているだけでもなく、共産主義を推奨しているわけでもなく、民主主義を拒絶しているわけでもなく、社会主義を崇拝しているわけでもないのだろう。彼の言い分は至極明快だ。人類も含めた生物の頂点がいる社会こそが必要不可欠だと述べているのだ。

 

「国家間の戦争も、民族間の紛争も、個人間の喧嘩も好きにすればいい。だが、誰もが無意味を悟るだろう。自分たちの上には最強の存在がいる。あらゆる存在を屈服させ、滅ぼすことが出来る暴虐の王がいる。それだけで世界は秩序を手に入れるだろう。闘争の中で無駄な暴走をして世界を荒廃させることなく、血に塗れた清く正しい競争の中で成長できるだろう」

 

「まるで神様を欲しているようですね」

 

「逆だ。人間の都合で闘争の象徴として振り回され、愚行の言い訳となる神などは要らない。神は道徳心と死生観にのみあればいい。私が求めるのは確固たる存在として、自分たちと同じように呼吸する生物として君臨する絶対強者にして最強の捕食者なのだよ」

 

(おぉ……面白い考えに到達する人間もいるのね。ねぇ、これ悪くないんじゃない? ワタシ、アナタが暴虐の王になるの、悪くないと思うわ。毎日が楽しそう! きっと、血と悲鳴と恐怖で塗れた日々になるわ!)

 

 ヤツメ様も興味を示した通り、きっと悪くない日々なのだろう。気ままに戦場に出向いて殺し回り、歯向かうヤツは片っ端から食い尽くせばいい。ただ存在するだけで、暴虐の王に遣える者達が敷かれた新たな秩序を下に世界をより健全なる闘争の世界として育むのだろう。それは闘争こそが生きることである生物としての在り方に人間が回帰する正しい『命』の姿の1つに違いない。

 だが、きっと……多くの血と涙も流れる世界だろうから、キリトは絶対に剣を向けるのだろうな。ん? だったら余計に悪くない提案だな。

 

「私は自分が暴虐の王になれるかと試したが、老いてもいるし、何よりもまるで足りなかった。だが、君には資格があると見た。かつてと同じように問おう。私の後継としてヴェニデの王となり、そして世界に君臨する暴虐の王となる気はないかね?」

 

「オレは……」

 

 即答できない。してはならない。だって、オレはまだ『答え』に至れていないのだから。曖昧な態度しか示せない、愚かな子どものような姿を見せるのは、何であれ、オレにここまで期待を寄せてくれるセサルに対して恥ずべきことだと分かっているのに。

 そんなオレに、セサルは優しさすらも感じさせる笑みを描いた。

 

「ここでキミの『答え』を求めるのは節操が無かったな。そうだ。忘れていた。もうすぐクリスマスか。確かにキミは暴虐の王の素質と資格がある。だが、同時に暴虐の王を否定する……慈悲と慈愛で恐怖ではなく安息を与えることができる聖女の器でもあったな」

 

「誰が聖女だ。オレは男だ」

 

 オレは染色体XYである! 目を見開いて脊髄反射で反論すれば、セサルらしからずに目をパチクリさせ、やがてブリッツやスカーフェイスと一緒になって大笑いした。

 

「いやはや……! キミは本当に……! ああ、こんなに笑ったのは久方ぶりだ!」

 

「ええ、まったくです。ププ……セサル様を……ここまで笑わせる方など……何年ぶりでしょうか」

 

「やはり聖女だ」

 

 そこのスカーフェイス、繰り返すな! 思わず牙を剥いたオレに、セサルは両手を叩いて静寂をもたらす。

 

「キミを不快にさせたお詫びをしよう。話を戻そうじゃないか。さて、黄龍会、それに奴らと組んでるいずれかの大ギルドだが、彼らが求めるモノは既に分かっているだろう?」

 

「……≪ボマー≫ですね?」

 

「正解です。エバーライフ=コールがパトロンを務める高級娼婦スイレン……それは新たな名前であり、かつてはリンネと名乗っていました」

 

 ブリッツがアイテムストレージより実体化させたファイルをオレに手渡す。中身はクラウドアースが長きに亘って追跡していた≪ボマー≫の暫定保有者であるリンネだ。写真には茶髪でキャスケットを被った素朴な女であり、遠目とはいえ、華やかさを極めたようなスイレンと同一人物とは思えない。

 

「【渡り鳥】さんがそうであったように、たとえ造形を弄らずとも、態度や表情、髪型や服装で幾らでも変わります。ましてや、女性は『化ける』のが得意ですから。ヴェニデもまんまと『目』を欺かれました。まさか探し回っていたリンネが堂々と高級娼婦になっていたとは。灯台下暗しとはまさにこの事です」

 

「男である私には化粧をして振る舞いを変えたくらいで、優秀な部下たちを欺けるものかと理解し難かったが、キミを見ているとなるほどと納得できる」

 

「ええ、まさしく」

 

 ブリッツの力説を実証する存在としてオレが提示され、何故かセサルとスカーフェイスは同意を示す。うん? コイツら、何が言いたいの? あれだけ主張してるのに、まだオレを女だと思ってるのかな?

 

「≪ボマー≫の継承条件はリンネ自身が資料・関係者の全員を爆破したことで不明です。ですが、彼女はクラウドアースを強く憎んでいます。如何なる譲歩してもクラウドアースに戻ることはないでしょう。たとえ、貴方に『尋問』されたとしても……」

 

 そう言いきるブリッツの目には哀れみとは違う儚い光が宿っていた。それが何なのか、オレには理解できない。

 

「ですが、いずれかの勢力がついに謎を解き明かしました。リンネを殺害する事で≪ボマー≫は次なる継承条件を満たしたプレイヤーに移動することになるでしょう」

 

「ユニークスキルは保有者を殺害する事で奪取できるのだが、継承条件があって、それを満たせていない場合は、条件を満たしたプレイヤーが獲得することができる。≪ボマー≫も当初は殺害だけで奪取できるタイプのユニークスキルだと思われていたが、最近の調査でどうやら別の条件があると分かってね」

 

「……別の条件、ですか?」

 

「≪ボマー≫は『過去にPKしたプレイヤーには継承されない』のだよ」

 

 それは……実力派程になかなかに厳しい条件だろうな。なにせ、場数を踏んだプレイヤーは何らかの形で同じプレイヤーを……人間を殺している。善性の塊のようなラジードでさえ殺しの経験がある。

 

「正確に言えば、≪ボマー≫を殺害したプレイヤーがこれまでPKの経験が無かった場合は奪取可能です。これが満たされてなかった場合、≪ボマー≫は別の獲得条件を優先してプレイヤーに与えられるものだと我々は分析しています」

 

「そして、どうやら≪ボマー≫には大きなデメリットがある。なにせ、戦略級のユニークスキルだ。それも当然だろう」

 

「デメリットとは?」

 

「≪ボマー≫獲得後にPKすると、HP、魔力、スタミナの『上限』が永久的に減少する」

 

 正直に言おう。≪ボマー≫って聞く限りで最強のユニークスキルじゃんって思ってました。オレが保有する要らないの権化である≪妖精王の権能≫と取り換えたいとも思っていました。前言撤回します。これ、最悪のユニークスキルだ。こんな使うだけで生存力が欠落するユニークスキルなどあっても困るだけだ。やっぱり汎用性の塊っぽい≪二刀流≫とか純粋に強力な≪絶影剣≫とかが最高ですわよ、奥様!

 

「これだけの情報を与えて、オレに何を求めるのですか?」

 

「なに、老人の退屈な昔話に付き合わせた挙句に困らせてしまったお詫びもあるが、それ以上にキミが動いたという事は何かしらの依頼があっての事だろう。それもキミの口ぶりから察するに、ターゲットは黄龍会ではないかね?」

 

「……黙秘します」

 

「依頼主は大よそ予想出来ている。サインズを通さない依頼には違いあるまい。そして、先の野犬騒動の情報は私にも入っている。これらから推測するに、チェーングレイヴ……クラインからの依頼だろう?」

 

「……この水、美味しいですね」

 

「クラインは私がチェーングレイヴを切り捨てにかかっているのに不服ではなかったかね? まぁ、これもテストの1つだ。彼が私に反発して新たな路線に向かうにしても、組織の拡充は避けられない。大義を掲げた少数精鋭の必要悪が、はたしてどのような変遷を経て、初心を遂行できるのか。実に興味深いではないかね。彼はまだまだ若く活力に満ちている。どのような選択をするのか、楽しみでならない。是非とも私に歯向かう選択をしてもらいたいものだ」

 

 コイツ、知ってはいたけど性格悪いな。いや、オレもあまり他人事は言えないけどね。

 つまりはクラインの反発、更にはクラウドアース……もっと言えばヴェニデを捨てて他の大ギルドと組むのもセサルからすれば予想の範囲内。むしろ、そうでなければ面白くないといったところか。この男がまるで読めないな。刹那的な生き方をしているように見えて、だがオレを暴虐の王にも従っている。今しか見ていないのか、それとも未来まで見据えているのか、まるで分からない。

 

「別の獲得条件を既に発見している勢力がいて、だからこそリンネを殺害して≪ボマー≫を継承したい。だから黄龍会を使って動いた。そういう事ですね?」

 

「黄龍会もスイレン嬢がリンネであり、≪ボマー≫の保有者だと見抜いた。そして、リンネをどうにか我が物にして利用しようと考えて準備を進めた。だが、黄龍会ではどう足掻いても高級娼婦の身受けなどできない」

 

「そして、大ギルドと組んで暗殺ですか。それにしては派手過ぎるのでは? 野次馬も巻き込む大爆破など、暗殺者を送り込んで密やかに殺した方が確実性は高いでしょうに」

 

「高級娼婦の館の警備は大ギルド幹部の邸宅にも匹敵、あるいはそれ以上です。潜入してターゲットだけを暗殺するなど、それこそ【渡り鳥】さんクラスに暗殺に秀でたプレイヤーでもない限りは無理かと」

 

 うん、褒められてるんだよね? ブリッツに褒められてるんだよね? まるでそんな気はしないけどさ、褒められてるはずなんだよね? だけど、なんか棘のある言い方ですね?

 

「あの風船に使われていたのは、かつてリンネがクラウドアース所属時に生産した揮発性の高い爆薬です。ヘリウムのように空気より軽く、風船に入れて飛ばせるのは強みなのですが、任意のポイントで爆発させるのは非常に難しい。だからこそ保管されていたのですが、何者かが強奪し、それを我々が追跡していたところ、今回の件が発覚した次第です」

 

 なるほどな。あらましは理解できた。それで、単なるお詫び以上に、オレがクラインの依頼で動いていると見抜いた上で、ヴェニデは……いや、セサルは何を望む?

 

「キミの依頼の手助けをしよう。黄龍会……まぁ、大方だがシャイだろう。彼の暗殺に協力しよう。とはいえ、シャイの命は今回の件で風前の灯火だがね。だが、まだ利用価値がある。彼の死を最大限に利用するのは我々にとっても大きなメリットになる。それまでは生かしてやるとしようではないか」

 

「その対価は何ですか?」

 

「リンネを護衛して守り抜き、そして時が来たら引き渡してもらいたい。我々の望むとおりに≪ボマー≫が継承されるようにね」

 

 つまりはヴェニデの誰かに≪ボマー≫を継承させる為にも、他の継承条件を満たしたプレイヤーを皆殺しにするまでの間、リンネを誰にも殺させるなという事だろう。そして、準備が整ったら≪ボマー≫を継承させる為に、ヴェニデはリンネを殺すのだ。

 

「……1つ条件があります」

 

「ほう、何かね?」

 

「リンネは……オレが殺します。それが条件です」

 

「ですが、それは……!」

 

 ブリッツが驚いて反論しようとするが、セサルは手を伸ばして彼女に沈黙をもたらす。

 

「キミが望むならば、リンネの殺害は任せよう。ただし、キミには≪ボマー≫を継承させないのが承認の条件だ。もっとも、キミ自身もデメリットが大き過ぎて要らないだろうがね」

 

「感謝します」

 

「いいや、それはこちらの方だ。シャイの暗殺については私の方で手筈を整え、最高のタイミングを準備しよう。リンネ……いいや、スイレンの護衛になれるように、手は回しておく。キミはリップスワンに贔屓されていたはずだ。今回の件は彼女の耳にも入るだろう。私ならばリップスワンに護衛としてキミを推薦させるなど造作もない」

 

「ですが、リンネの殺害はどのように?」

 

 仮に護衛がサインズからの正式な依頼として入るならば、オレはこの場での契約と並列してリンネの護衛を行う事になる。傭兵として、セサルとの取引を優先してリンネを殺害することはできない。

 

「キミの評価が下がらないように配慮しよう。護衛依頼が終了された時こそ実行のタイミングだと心得てくれたまえ」

 

「分かりました」

 

「今後、キミの障害となるのは2つ。リンネを暗殺しようとする勢力。そして、彼女のパトロンであり、まず間違いなく正体を知ってるだろうエバーライフ=コールだ。カリンを中心とした上層部だけだろうが、リンネの≪ボマー≫を利用して組織拡充を図ってるのは間違いないだろう。彼女がわざわざ襲撃された高級娼婦の元を訪れたのも、その本心はリンネの無事を直に確認する為に違いないだろう」

 

 護衛中はエバーライフ=コールを欺き、リンネにも悟られることなく護衛する。そして、時が来たら暗殺する。

 どうでもいい。こんな依頼、別に珍しくもない。護衛という仕事は完遂する。護衛後は改めて暗殺という仕事を請ける。それだけの事だ。

 問題はクラインの方か。クラインも≪ボマー≫を欲しがってるからこそオレに探りを入れろと言ってきた。だが、≪ボマー≫を確保しろとは言われていない。ましてや、あくまで仕事はシャイの暗殺であり、≪ボマー≫の調査は二の次だ。

 さて、クラインには今回の情報をどう伝えるべきかな。スイレンがリンネであり、≪ボマー≫だと教えるか? それはそれでヴェニデを裏切ることにはならない。オレがこれから引き受ける依頼はリンネの護衛だ。だから、チェーングレイヴがリンネの強奪・暗殺を目論むならば、オレは全力で始末する。

 それに≪ボマー≫争奪戦にチェーングレイヴが加わるならば、確保を狙うヴェニデは継承条件を満たしたチェーングレイヴのメンバーも始末の対象にするだろう。ならば、敢えてヴェニデが既に嗅ぎ付けている事と継承条件について通達するのが先か。

 

「期間はどれくらいになりそうですか?」

 

「捕らえた暗部から得られる情報など僅かだろう。ますは継承条件を明確にしなければならない。だが、遅くともクリスマスまでには決着が付くはずだ」

 

「……そうですか」

 

 クリスマスまであと約3週間。長丁場になりそうだな。オレは立ち上がり、セサル達に背を向ける。

 

「では、サインズを通しての正式な護衛依頼……お待ちしています」

 

 フードを深く被って顔を隠し、VIPルームを出たオレはそのまま店外に出る。

 スイレンことリンネを守り、そして殺す。そうすれば、クラインの依頼であるシャイの面倒な条件だらけの暗殺も実行できる。

 快楽街を離れ、オレは旧市街に向かう。ここはまだ星が見える。月明かりを浴びられる。それなのに廃墟で、静かで、とても心地が良い。

 

「殺し、殺し、殺し……いつも殺してばかり、か」

 

 だが、そんなオレの殺しの日々に……こんなどうしようもない存在に……セサルは意味を与えてくれるのか。

 暴虐の王。それになれば、オレ自身は何もできずとも、夜明けの向こう側で存在することが許されるのか。

 そもそも、暴虐の王になるとは夜明けをもたらす事と共存できるのか。

 何も分からない。だけど、灼けた記憶の中でも聞いたかつての誘いは今もオレの中で燻っていて、だからこそ……悪くないかもしれないと興味を抱けるのだ。

 たとえ、キリトが最も憎み、最も否定する存在になるとしても、それはそれで殺し合える理由として望ましい。アイツが全力を尽くすに足る敵になれる。きっと、最高の殺し合いができる。

 だけど、何故だろう。キリトとは最高の殺し合いがしたくて、アイツならばきっと泣きながらでもオレを殺す覚悟を持って剣を向けられる時が来ると信じているのに、不思議なんだ。

 キリトには泣いてほしくない。オレを殺す時は友など思わず、バケモノを殺す英雄として殺伐と挑んできてもらいたいんだ。

 本当に不思議だね、ヤツメ様。とても矛盾している。アイツがどういうヤツなのかこんなにも分かっているはずなのに、アイツが涙を流すことなくオレを純然たる敵として斬れるなんてありもしない殺し合いを望むなんてさ。

 でもね、それでもね、キリトには……涙1つ流すことなくオレに剣を向けて欲しいんだ。

 

 

 キリトにはもう……苦痛と悔恨の涙なんて流してほしくないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、同じくらいに、恐怖と絶望で涙を流しながらもオレに挑むキリトを想像すると……飢餓の奥底で殺意が滾って、蕩けるように甘く切なくなって胸が締め付けられるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、不思議だね。不思議だよ、ヤツメ様。何もかもが矛盾している。

 でも、この矛盾さえもいずれは灼け尽くされるのだろう。

 人間性を全て失った時、オレはどうなるのだろう。人間性が無くなっても暴虐の王になれるのだろうか。

 

「ああ、静かな夜だ」

 

 明日からはまた忙しくなるだろう。月に右手を伸ばし、だが元より手は届かないのだと自嘲し、だからオレは腕を下ろした。




堕ちていく。

かつて倒したはずの悪は忘却の亡霊となって英雄の正義を問うだろう。

堕ちていく。

鬼の道を行くならば、戦に酔いしれ、そして修羅の影を知らねばならぬ。

堕ちていく。

飢えた獣よ、哀れな美姫を守りたまえ。いつかお前の顎で噛み殺す為に。


それでは、347話でまた会いましょう。

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