SAO~デスゲーム/リスタート~   作:マグロ鉱脈

66 / 356
再びリズベットのターンです。
今回はそれほど進展はない……かも?


Side Episode2 VR犯罪対策室

 3年と7ヶ月。リズベットにとって、それは人生で最も濃く、また彼女の全てを変えてしまった時間だ。

 何故ソードアート・オンラインにログインしたのか、今の彼女には上手く思い出すことができない。単純に店頭での予約ポスターに目が惹かれた。その程度だったようにも思えるが、それ以外の情熱もあったような気がする。

 茅場晶彦が行ったデスゲーム開始宣言は今でも鮮明に記憶している。忘れたくても脳髄に焼き付いている。現実世界に帰還を果たしてから随分と時間が経った現在でも週に1回は必ず夢で見て魘され、酷い汗を掻いて飛び起きる。

 これでも随分と改善された方だ。パジャマが重くなるほどに汗を啜った我が身を、カーテンの隙間から漏れる陽光で目を細めながらリズベットは嘲笑う。現実世界に帰還したばかりの頃はほぼ毎日のようにパニック症状を引き起こし、最初の数ヶ月はベルトで全身を固定しなければならなかった。

 最近は安定しているが、それでも寝る時には刃物を周囲に置かないようにしている。その理由は彼女の左手首を見れば明らかだ。リストバンドで普段は隠しているが、そこには決して浅くない傷跡が複数刻まれている。

 ある種の自殺願望なのだろう。リズベット自身は死ぬ気など毛頭ないのだが、1度パニック状態に陥ると彼女は自傷行為に走ることが多い。故に、今でも眠る時は手首の片方をベッドと結んである。

 笑えない。リズベットは手首の紐を外し、片手で顔を覆う。そのどんよりとした目は、今自分が暮らす殺風景なアパートを映す。

 最低限の家具と味気のない調度品。本棚には統一性の無いジャンルの小説や漫画。およそ趣味やこだわりが感じられない。綺麗に整理されている以外に特筆すべき事が無い、個性が死んだ部屋だ。

 未だに空っぽのままの自分に相応しい部屋だ。パジャマを脱いだリズベットは風呂場に赴いた。こうしたネガティブな感情は熱いお湯で洗い流すのが1番であると経験から理解していたからだ。

 プロポーション自体は悪くないのだが、これまた特筆する事が無いとリズベットは鏡に映る裸体を見ながら思う。アインクラッドで親友と呼べた存在だったアスナは、同性でも憧れを超える容姿をしていた。あれ程の魅力があればもう少し自分にも自信が持てるのだろうが、たとえ今の自分がアスナと同じ外見をしていても、この死んだ魚のような眼が全てを台無しにするだろうことは簡単に想像が付いた。

 ゆっくりと時間をかけて体内で渦巻く倦怠感をシャワーで洗い落としたリズベットは、手早く着替えを済ませる。季節は11月だ。油断すれば風邪を引くだけの冬の寒さが既に訪れつつある。

 朝食は近所にあるファーストフード店で済ませようかとも怠惰な欲望が浮上するが、それを振り払って冷蔵庫を開けて食材を取り出す。

 今日は和食だ。リズベットは和食と洋食を繰り返すようにしている。こだわりではなく、自身にメリハリを付ける為だ。気を抜けば実生活に問題が起きる程度には堕落を免れない程に精神が病んでいる事をリズベットは自覚している

 両親が1人暮らしを反対するも当然だった。だが、かつての【篠崎里香】に戻れていない以上、彼女は【リズベット】として家族の前で振る舞うしかない。それがどれ程までに家族に負担をかけるのか、想像できない程に彼女は子供ではなかった。

 味噌汁と卵焼き、それに昨晩の内に予約してたご飯も炊き立てだ。梅干しがあれば完璧だったのだが、壺を開けると中には1つも入っていない。買い足すのを忘れたままだったようだ。

 

「いただきます」

 

 朝食を朝のニュースを眺めながらリズベットは腹に押し込んでいく。

 もはやニュースにDBO事件の文字から飾られる事は無い。既に世間はあのセンセーショナルな大事件を忘れたかのように、別の事柄ばかりに騒いでいる。

 たとえば、今日のトップニュースは、アメリカの大企業に有名な日本企業がグループ企業の1社として傘下に加わるといったものだ。経済に関しては門外漢以前の話であるリズベットにも、このニュース1つで日本経済にどれだけの波乱が巻き起こされているのか理解できる。

 この日本企業というのが江戸時代の刀工を祖先に持つ、重工業の老舗なのだ。平成まで生き抜いた日本のサムライ企業がアメリカ企業に跪いたとコメンテーター達は言い争っている。

 

『だからですね、有澤は日本の誇りなんですよ。かつては有澤財閥と聞けば皆震え上がっていたのに、それがこの体たらくとは情けなくて堪らないですよ』

 

『でもねぇ、これも時代の流れだと思いますよ。結局さ、21世紀になってから言われ続けてきたみたいに、日本もハードからソフトへの時代に移っているんだよ。時代遅れの見向きもされなくなった衰退企業が外資に買収されて、それから騒いでも意味が無いんじゃないですかねぇ』

 

 正直、こういった時事問題にはあまり興味が無い。リズベットはチャンネルを変え、気分が明るくなるようなニュースがないか探す。

 オーストラリアで最近巷を騒がすUMA【AMIDA】が発見された。面白そうだが、既にニュースが終わってしまった後だった。早めにこちらの番組に切り替えておけば良かったとリズベットは後悔する。

 続いて芸能ニュースだ。日本の若手女優に交際疑惑だ。これにはさすがのリズベットも驚いた。12歳で子役としてデビューして以来、清純派女優として一貫して高い人気を誇っていた彼女からこんなスキャンダルが出るとは思ってもいなかった。どうやら相手は先日ジャパンプレミアムで来日したグルジア出身のハリウッド俳優らしい。国際結婚も普通の時代とはいえ、大和撫子として老若関わらず日本男子から根強い人気があった彼女のこの交際疑惑はネット掲示板で阿鼻叫喚の大嵐を巻き起こしているだろうと、野次馬根性で後で覗いておこうとリズベットは心に決めた。

 しかし、寄りにもよってあのハリウッド俳優か。彼女も彼の演技はまさしく完璧だと素人目でも分かるのだが、とにかくプライド高くて皮肉屋である事で有名だ。その言動でトラブルを引き起こした事も1度や2度ではない。

 何にしても自分には関係のない、雲の上の世界の話だ。銀幕の世界の誰が結婚しようとリズベットの人生には何ら影響がない。

 

「ごちそうさまでした」

 

 洗い物は帰ってからで良いだろう。リズベットは歯磨きを済ませ、鞄を肩にかけて我が家を出発する。

 アパートの駐車場には彼女の愛車が待っているのだが、今日は運転する気分が無いと電車を使う事を決める。時間にルーズな生活を送っているのだ。この時間帯ならば渋滞に巻き込まれかねないと、駅前のカフェで時間を潰して出勤ラッシュの満員電車を回避しようと決める。

 

「Good morning! 今日も可愛いね、リズベットちゃん」

 

 だが、我が家を出て1分26秒で、やはり愛車を裏切るべきではなかったと後悔する。

 

「おはよう、光輝さん。何で、こんな所にいるわけ?」

 

「将来の奥さんのお迎えに来ちゃ駄目?」

 

 現実世界で暴力は駄目。傷害罪でも起こせば、ただでさえ経歴やら通院歴やら服薬やらでレッドカード出る寸前であるというのに、こうした細やかな日常生活すらも脅かされる事になる。必死に握った拳を堪え、リズベットは銀色のボディの自動車の前で缶珈琲を手に待っていた相棒、久藤光輝に痙攣した頬で笑いかけた。

 

「それはどうも。ところで知ってる? 世の中はそれをストーカーと呼ぶんだけど?」

 

「初耳だ。愛情表現も犯罪扱いの時代とは悲しいね。はい、モーニングブレンド。このメーカーの缶珈琲が好きなんだよね?」

 

 普通の女子ならば骨抜きにされかねない、人懐っこい笑みで光輝は赤色の塗装が施された缶珈琲を助手席に乗ったリズベットに手渡す。まだ熱いそれは買ったばかりである事は明白だった。

 別にリズベットが我が家を出た事を確認してから買ったわけではないだろう。1分26秒。つまり、リズベットの家からは数度角を曲がった先の、駅まで続く道のりの途中にある路上で光輝は待っていたのだ。

 盗聴でもされているのではないか。光輝と組んだばかりの頃はよく先回りされる事から業者を雇って盗聴器を探してもらった事もあったが、もちろんVR犯罪対策室の問題児とされる光輝も警察官の端くれだ。ストーカー疑惑はともかく、明確な犯罪行為には手を染めていなかった。

 

『うちの一族はさ、鼻が利くんだよ。直感が優れているって言うのかな? とにかく、僕も例に漏れずってわけさ。ちなみに特技は女の子の胸のサイズを言い当てる事だね! 今まで外した事が無い!』

 

 当時を思い出し、リズベットはスチール缶を握力だけで僅かに歪ませる。人間は感情によって時として思いもよらない力を発揮する生物なのである。

 駆け抜けていく窓の風景を眺めながら、リズベットは嘆息した。運転する光輝は相変わらず何を考えているか分からない、人をおちょくるような微笑みを張り付けている。

 

(出会った時はイケメンと思ったけど、本当に残念なヤツ過ぎ)

 

 態度は紳士というよりも軽薄。愛情表現は濃く、爽やかな好青年の顔立ちに似合わずオープンスケベ。世の女子のハートをつかむ為と日々女性の流行の研究を怠らない間違った方向への勤勉さ。そして、今日も今日とて光輝の体からは女性物の香水のニオイが漂っている。全てがストレスの塊だ。

 どうやら昨晩はお楽しみだったようだ。ただでさえ車内という密閉空間であるにも関わらず、漂ってくる香水に露骨にリズベットは顔を歪めた。

 

「ああ、コレね。誤解しないでくれ。朝方に高校時代の元カノが押しかけてきただけだよ。いやー、ストーカーって怖いねー。住所と電話番号変えたのにどうやって探し当てたんだか」

 

 表情からリズベットの思考を読んだのだろう。弁解する光輝に、リズベットは苛立ちを満面の笑顔に注ぐ。

 

「刺されて死ねば良かったのに」

 

「大丈夫大丈夫。僕を殺せるのはリズベットちゃんの笑顔だけさ。今も萌え死にしそう。写真撮って永久保存したいくらいに良い笑顔だよ」

 

 だからこの男が嫌いなのだ。苦虫を噛み潰したようにリズベットは露骨に舌打ちする。もちろん、こんな態度を取るのは光輝の前だけだ。彼以外には人としての礼儀くらいわきまえている。

 と、そこでリズベットは光輝の目元が薄く隈になっている事に気づく。安眠第一のマイペースの塊みたいなこの男が寝不足とは珍しいと少し驚いた。

 

「寝てないの?」

 

 短くだが、僅かな心配を込めてリズベットは問う。すると嬉しそうに光輝は苦笑した。全般的に彼の事が嫌いなリズベットだが、こうした子どもっぽい笑みだけは嫌いでなかった。

 

「少し資料の見直しをね。やはり、こうも進展が無いとさすがの僕も焦りを禁じ得ないってわけさ」

 

「それもそっか。もう捜査を開始して5カ月だもんね。あたしもアンタも役立たずってわけか」

 

 伸びた前髪を弄り、SAO時代にみたいなショートカットに戻そうかとリズベットは悩む。肩まで伸ばした髪は惰性にロングヘアを目指しているからなのだが、どちらかといえば堕落のウエイトが高く、単に切るのが面倒になって来たという女子あるまじき思考の産物である。

 アスナが聞けば3時間はお説教されそうだ。アインクラッドで出会った親友が女子の何たるかを高説しながら正座してそれのメモを取らされる自分の姿を簡単に想像できて、思わずリズベットは頬を緩ませる。

 何もアインクラッドでの思い出は全てが心を傷つける負の産物ではない。今でも帰りたいという【リズベット】としての感情が動く思い出も少なからずある。

 

「だから、少し捜査を幅を広げようと思ってるんだ」

 

「具体的には? あの2人は行方不明のまま足取りをつかめない。メディキュボイド関連は神代凛子がDBO事件の3ヶ月前に失踪して手詰まり。カーディナル関連はアーガスの知的財産権を持つレクトエレクトロニクスから情報貰ったけど大した手がかりはなかった。この期に及んでどう捜査を広げるの?」

 

「それはリズベットちゃんの気分次第かな。僕の離島左遷までの猶予は3年……正確に言えば残り2年と7ヶ月だ。まだまだ時間はたっぷりあるさ。はい、到着」

 

 VR犯罪対策室の本部は警視庁内にあるわけではない。VR犯罪を追う為には相応の設備が求められる。専用サーバーはもちろんだし、仮想世界にログインする人間の健康状態をモニターする必要もある為にある程度の医療設備も必要だ。その為、VR犯罪対策室は警視庁勤めと日本VR技術研究所勤めの2つに分かれて活動している。リズベットを始めとしたオブザーバーは双方を行き来するが、彼女は専ら日本VR技術研究所に通っている。

 真新しい3階建てのモダンなデザインをした日本VR技術研究所は、その外観から近未来的な印象が強い。エントランスも純白のタイルが敷かれ、最新技術の1つである立体映像によって観葉植物などの映像が本物のように存在している。

 

「「おはようございます。久藤捜査官。それに篠崎準捜査官も」」

 

「おはよう」

 

「おはようございます」

 

 2人の身長2メートルはあるガードマンに挨拶されるが、これも外観は人間であるだけで中身は機械の塊だ。人工皮膚を剥げば金属の本体が露出する。

 未来は常にそこにある。SAO事件以前は世界の技術がどれ程の勢いで進歩し、その技術の恩恵を受ける一般人はどれ程までに最先端から置き去りにされていたのか知らなかった。皮肉にもSAO事件こそがリズベットを最先端技術の世界へと誘ったと言える。

 ちなみにこのガードマンロボはフレームは日本製であるが、AIは海外製だ。件の朝のニュースになっていた米国企業が開発したものである。

 

(確か……UNACシステムだっけ? プログラム通りに動く『人工知能』か。なんだか気持ち悪い気もするけど)

 

 軍用として開発されたUNACシステムだが、それをいち早く民間に下ろした判断は当事国であるアメリカでも随分と話題になったようだ。もちろん、民間用としてダウングレードされているが、それでも各国が血眼になって開発に勤しんでいる人工知能である。本来ならば秘匿されてしかるべき技術だ。だが、それを民間用ソフトとして販売した同社の姿勢は高く評価される一方で、多くの『愛国者』の批判の的になったようである。

 だが、それも過去の話だ。というのも、このUNACシステムを解析して軍用モデルを開発した某国の実験機が大暴走し、多数の死者を出したのだ。UNACにはシステムトラップが仕掛けられており、これを解除する為には人工知能自体が破綻する。故に同社以外ではUNACを元にした人工知能の開発は事実上不可能だったのである。さすがは企業だ。慈善団体ではないのでえげつないトラップを仕掛けていたものである。

 まだ実験段階ではあるが、既に大企業では同タイプのガードマンが実験的に配備され、夜間警備から迷子の御世話までこなせると評判だ。医療の現場でも不足しがちなヘルパーの替わりを務めている。他にも日本では災害救助に念頭を入れたUNAC前提のロボット開発も進められているらしいが、それはVR技術研究所とは畑が異なる為にリズベットも雑誌で読んだ程度の知識しかない。

 カードキーの認証、指紋・網膜・静脈・声紋の4つのセキュリティをパスし、最後に1週間ごとに変更される16桁のパスワードを入力し、ようやくゲートを潜り抜ける。これだけの厳しいセキュリティが敷かれているのもそれだけVR技術を巡る熾烈なスパイ合戦が繰り広げられているが故だ。それを考えれば、いかにオブザーバーとして自由な立入許可が許されている自分が破格の待遇を受けているのかリズベットも実感する。

 

「久藤さん、おはようございます! それにリズベットちゃんもおはよう」

 

 ゲートを潜り、2階にある【VR犯罪対策室‐第1分室】とプレートが貼られた部屋に入ると、栗色の髪をした温和そうな女性がにこやかに挨拶する。今年の春から配属された新人の春日沙希である。リズベットと年が近く、何かと話す機会が多い同僚だ。

 

「おはよう、沙希ちゃん! あれ? 今日はコンタクトじゃないんだね」

 

「だ、だって、久藤さんが眼鏡の方が似合うって……」

 

 顔を赤らめる春日を見て、またこの男は口説き文句を吐いたのかと足の指を踏み潰してやろうかと踏みつけ攻撃を繰り出すが、悶絶することなく光輝は涼しい顔をしている。女の前では痩せ我慢もして表情も変えない根性だけは見上げたものであるとリズベットは内心でストレスゲージを引き上げた。今日はアルコールで1人乾杯をする基準値に達したところである。

 

「本部の捜査進展は?」

 

「特にないですね。相変わらず手詰まりらしいです」

 

 あくまでVR犯罪対策室の本部は警視庁にある。現在、捜査官の大半が本部の指揮の下で茅場晶彦の後継者捜索に全力を注いでいるが、未だに目ぼしい成果は挙がっていない。むしろ挙がっていたならば、問題児と非エリートのコンビを結成して自由に捜査させよういう発想が生まれるはずが無い。

 茅場晶彦が起こしたSAO事件は、何とか茅場晶彦の逮捕寸前まで至っていたという状況が警視庁の体面を守った。だが、DBO事件はそもそも首謀者が尻尾をつかませていない。アミュスフィアⅢの開発元であるレクトエレクトロニクスは全面的に捜査に協力しているが、それでも進展は無かったのだ。

 というのも、レクトエレクトロニクスがアミュスフィアⅢを開発した経緯自体が異常だったのである。アミュスフィアⅡで大コケし、何とか挽回しようともがいていたら社員の1人が突如として斬新なアイディアを出してアミュスフィアⅢの開発に成功したといったものだ。その社員だが、これまで目立った功績もない、いわゆる影が薄くて何処にでもいる『歯車』のような男だったらしい。ちなみにDBO事件後、捜査の手が伸びるより先にアミュスフィアⅢ開発主任として実名をリークされた彼はマスコミに激しく追い詰められて自殺した。

 ではDBOソフトの開発元はと言うと、これまたレクトエレクトロニクスなのだが、その中にあった『SAO代替案』という旧アーガスの【遺産】を利用して作られたものがDBOらしい。茅場晶彦がSAOと同時並行してデザインしていたものだったとの事だが、当時のアーガス社員の証言によって、アーガスは一切『SAO代替案』など手掛けていなかった事が判明した。

 まんまと利用されたのがレクトエレクトロニクスという企業だ。これはリズベットの直感だが、恐らくアミュスフィアⅡをアミュスフィアの……いや、ナーヴギアの血統の最新後継機として世に出された事が余程に茅場の後継者の逆鱗に触れてしまったようである。

 

「俺たちは俺たちにできる事をするだけさ。そうだろう、坊主にお嬢ちゃんたち」

 

 と、そこに話に加わって来たのは樽のような腹をした老齢の男だ。VR犯罪対策室の副長にして、分室のトップでもあるのだが、名前が難し過ぎてリズベットもよく憶えていないのだ。本人も小さい頃からそれを気にしているらしく、初挨拶の段階で『ファットマンと呼んでくれ。太った幸運の男だからな』と宣言した。なので、リズベットも失礼ながらもファットマンと呼んでいる。

 ハッキリ言って、公務員のくせに緩過ぎる組織なのではないかとリズベットは頭を悩ます時がある。いや、より規模が大きい警視庁本部の方はまさしく『刑事』といった人間が集まっているのだが、どうにも分室の方には若干以上にズレた者ばかりが配属されている。

 それも仕方ないと言えば仕方ない。まだVR技術が世に出て10年も経っていないのだ。その間にもVR技術は飛躍的に成長を遂げ、VR技術を応用した拡張現実……AR技術も進歩し、先日はドイツで眼球を事故で失った全盲の女性が本物と区別が付かない義眼を装着して社会復帰したと大いに話題になっていた。

 その先進技術の世界で起きる犯罪。それに対応する為にはより柔軟な思考を持った者……特に自由な発想ができる若年層が重視され、それを統率するのは彼らをストレスなく御して組織の1員として活躍させられる『大物』でなければならないのだ。

 

「それよりも光輝、お前また女たらし込んだだろ。俺も若い頃は遊んだ身だからあれこれ言いたくないが、職場は止めろ、職場は」

 

「えー、最近は誰も口説いてないけどな。特にリズベットちゃんに会ってからはね」

 

 ウインクする光輝に、リズベットは更にストレスゲージを上昇させる。今日は帰りにゲームセンター行き確定だ。仮想世界の流通によって廃れつつあるゲームセンターだが、それでもお手頃なパンチングマシーンだけは昨今のリズベットのお気に入りとして活躍してもらっている。

 呼吸をするように女を口説くこの男の何処が良いんだか。リズベットは自分の席に腰かける。ちなみに彼女は他の者と違って私服だ。それはあくまでオブザーバーという事もあるのだが、ファットマンが『スーツとか肩凝るだけだから止めろ』と言い放ったのが原因である。故に、今も分室にいる捜査官の半分は私服だ。もちろん、外部に出る時はスーツ着用せねばならないが、リズベットはその限りではない。

 

「それと篠崎ちゃん、欲してた資料だけど届いたぞ」

 

「本当ですか。ありがとうございます」

 

 ファットマンから分厚いファイルを受け取ったリズベットは早速自分の席でそれを捲る。ちなみにファイルにはUSBメモリが付随されており、PDFの電子化された資料も準備されている。

 資料はメディキュボイドに関する患者情報だ。現在医療現場で実験的に使用されているのは第2世代型であり、より小型化に成功したものだ。プロトタイプの第1世代こそが神代凛子が手掛けたものである。

 光輝の『嗅覚』はメディキュボイドを指し示した。リズベットの役割は彼の嗅覚が引き出した手がかりを繋ぎ合わせる事だ。その為ならば、あらゆる方向から捜査と推理のアプローチをする必要がある。

 これまでは技術者を追い続けてきたが、そこから茅場の後継者を追えない以上は別の視点に切り替える。1つに固執せず、常に柔軟性を発揮して真実を追い求める才覚が己にある事をリズベット自身は気づいていない。蛇足であるが、光輝もファットマンも、付き合いがまだ短い春日すらもリズベットの才能には勘付いている。

 赤いマーカーペンでリズベットは数人の患者に丸付けする。それはいずれも『死亡』が確認されている患者だ。

 

「光輝さん、この中に『臭う』のはいる?」

 

「どれどれ。ふーむ、これはこれは……随分と腐れたニオイがするな」

 

 やはり当たりか。この1歩もまたすぐに手詰まりになるだろうが、今は追うしかない。

 光輝が指差したのは『紺野 木綿季』という少女だ。姉の『紺野 藍子』にもリズベットは丸付けしたのだが、あくまで光輝が指差したのは妹だけだ。

 

「では、ちょっと紺野さんのご自宅までご訪問と行きましょうか」

 

 光輝に促され、リズベットは来て早々に捜査に出ねばならないと嘆息するが、それはポーズだけでやる気は十分だ。

 まだまだ真実は遠いが、1歩ずつ進む。それ以外にないのだから。




次回もまた現実世界編となります。
大体は2話で1回分といった感じでしょうか。

それでは67話でまたお会いしましょう。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。