A. アリアドネ作ったのは本物で確定なので、時系列的にそれ以降です。
Q. 本物のラクス様今どこにいるんですか?
A. 知りません。
Q. 生きてますか?
A. 知りません。
少女からの自己紹介を受けて、シンは固まっていた。
「ミーア……?」
聞き間違いではない、目の前の少女は、はっきりとそう口にした。
シンは耳を疑った。だってこのコは、さっきまでステージの壇上で、大勢のファン達に「ラクス様ー!」と呼ばれていたではないか。
──ラクス・クライン……?
それが彼女の名であるべきで、では、先のミーアとは何なのか? 芸名という可能性もシンの頭を過ったが、少女は、それでは説明のつかないほど青褪めた顔をしていた。
「あああっ、どうしようっ!」
咄嗟に離された手が、少女の頭に向かう。
いかにもやらかしたと云った様子で、彼女は頭を抱え始めた。
「絶対に!
「えっ? あのっ、えっと……?」
シンの頭の中もパニックだ。
慌てふためく他人を見ると、自分は却って冷静になるというのは嘘だったのか。まるで少女の混乱が伝播するように、動揺の波がこのときのシンまでを呑み込んでいる。いや、それほどまでに少女が大騒ぎしているからだろうか。
──俺、また何かやっちゃったのか……?
どう対応していいか分からずにいるシンだったが、次いでミーアは、飛びつくようにシンへの距離を詰めてきた。握手とは違う。今度は縋りつくように、両手でぎゅっとシンの手を握り締めてくる。
「え、ちょっ──」
「──おねがい! 誰にも云わないで!」
懇願するような叫びに、シンはますます当惑する。
「なんでもいうこと聞くから! ね?」
「えっ、なんでも!?」
甘美な響きに思わず訊ね返したシンであるが──いやいや違う、ソウジャナイ。咄嗟に湧き出た己の邪念を払うように、シンは勢いよくかぶりを振った。
まるで時代劇に出てくる悪代官にでもなったような気分ではないか。事情もよく分かっていないのに。
「──あっ」
シンの反応に、ミーアも今しがた、自分がどんな発言をしたのか考え至ったのだろう。シンが諭すような顔をしたのもあってか、彼女の方もばつが悪そうに顔を背ける。
「できれば、ひとつだけにしてくれたらぁ──」
「じゃなくて! ちょっと待ってくれよ、わけ分かんないよ、俺……っ」
シンは、さっきから自分の腕を挟み込んでいる柔らかな感触を意識しないようにして、少女から距離を作った。
「ミーアっていうのが、あんたの名前なんだろ? アイドルなんだから、それこそ芸名がラクスとか──そういうんことだって、あるんじゃないのか?」
「はえっ……? あなた、ラクス様のこと知らないの?」
尋ねられるが、本当にシンは知らないのだ。オーブで生まれ育った限り、彼女の名はそこまで伝わってこない。
「知らないし──じゃ、じゃああんたは、そのラクスって人を〝演じている〟ってことなのか……?」
──平たく云えば、その人の『ニセモノ』……?
シンには信じられない話だった。
しかし、その言葉を責められていると受け取ったのか、ミーアは取り乱したように説く。
「だって、しょうがないじゃない! ホンモノのラクス様は
思考を余所にするシンの前で、ミーアは一転して絶望的な表情になっている。
血の気を失った顔、膝から崩れ落ちているその体は、さっきとは比べ物にならないぐらいに震えていた。挙句、シンにとっては不明瞭な言葉まで撒き散らしている始末だ。
「でも、それももうおしまいよ……っ。こんなにも早くバレちゃうなんて──」
「な、なあ、ちょっと待てって。一回、落ち着いて話を」
シンが気遣わしげに声を掛けるが、それが届いているかも怪しい。
「マネージャーに怒られて……それだけじゃないわ、議長にだって呆れられて、見放されちゃう……!」
「お、おい──」
「そうよ、そうだわ……? サラに……サラにこのことが知れたら、もう、私っ──」
「──だから、待てって!」
ああ、もう! 業を煮やしたように、シンは声を張り上げた。
思い詰めすぎた少女の怯え顔──下手をすれば自死の道でも選び取ってしまいそうなくらいに只ならぬ雰囲気を感じ取り、シンは慌てて少女への距離を詰めていた。華奢な少女の肩を掴み、呼びかける。
はっきりと云い聞かせるように、相手の目を見て、シンは力強く告げた。
「大丈夫! 大丈夫だから!」
それまで恐怖で歪んで、微妙に焦点の合っていなかった少女の目が、血を薄めたようなシンの赤い瞳をしっかりと捉え返してくれる。シンは神聖な気持ちで続けた。
「俺は別にそのことで、あんた……きみを脅すとか、そんなよこしまなことを考えてたわけじゃないんだ!」
「……えっ……?」
「俺が黙っていれば、それは守られる秘密なんだろ? だったら、俺は黙ってるよ。約束する。誰にも口外しないって」
少女の背後に何が隠されているのかを、シンは知らない。
だが、自分の行動が原因で──自身の軽率な行いのせいで、目の前の少女が不幸になるような事態なら、シンは御免だ。そうであるなら、自分は口が裂けても『秘密』を外に漏らさない。たとえミナやギナが、この種の『秘密』を欲しがっていたとしてもだ。
「で、でもでもでもっ、私、ラクス様の身代わりなんてやっているのよ? 演説も、ライブも……こんな大きなスキャンダル、滅多にないのよ?」
──それなのに、いいの?
「いや、さっきも云ったけど俺、その歌姫様のことよく知らないし──その情報にどれだけ価値があるとか、正直、ぜんぜんピンと来ないって云うか」
「──まって。そもそもラクス様を知らないだなんて……あなた本当にザフトの人なの?」
「うぐッ」
積もる疑念でもあったのか、今度のミーアは胡乱げな、怪しむような顔で云ってきた。本物のザフト兵なら、それこそラクスの名を知らないなんて有り得ないと思ったのだ。
ギクリ。そのときミーアが投げた質問は、図らずもシンにとっての急所を的確に突いていた。今度はシンの番だった。互いに互いの急所へ指を掛けたような格好で、二人は揃って黙り込む。
「ああッ、ちッきしょう!」
──もう、まどろっこしい真似はやめだ!
ミーアがびっくりするほどの大きな声を出した後、半ばヤケクソ気味に、シンは平謝りした。
「ゴメン! じつは、俺にも秘密があって! じつは俺、きみの云うようにザフトの人間じゃないんだ!」
シンは忌々しげに軍服のボタンを外し、緑色の制服のジャケットを乱雑に脱ぎ捨てた。
もう、こんな
「俺、自分でもなに口走ってんだろうって思う! でも、俺も君も、秘密を抱えたまま会話するのはムリ! もームリ!」
そして口にしてしまった以上、後はもうヤケクソだった。
「ここに来たのは、その、俺の師匠に偵察を頼まれたからというか──」
「つまり、
「そんな大それたものじゃあ! ……ないけど」
否定したシンであるが、実態としては変わらないだろう。敵情視察とまでは云わないが、これは異国の軍部を視察するための偵察任務だ。
「でも、俺は秘密は守るって云ったろ!? だから、スパイじゃないよ!」
ミーアは言葉の意味を吟味しているようだったが、まあ、たしかに云う通りかも知れない。仮にもシンがそのような職業の人間であったなら、彼はやはり、先に仕入れたミーアの『秘密』を喜んで武器にしているはずなのだから。
シンはおずおずとして云った。
「ほら、これで
「おあいこ?」
「あー、つまり、お互い様ってこと」
互いに勝ち負けがなく、損得や優劣のなくなった状態を、彼の祖国では「あいこ」というらしい。
説き明かされ、ミーアはきょとんとしている。シンは大真面目に説明を続けた。
「俺があんたの秘密を知ったように、これであんたも、俺の秘密を知った! だから、これで少しは安心──できるんじゃないか!?」
──少なくとも今は、お互いがお互いの〝弱み〟を握り合った状態になったわけだ。
客観的に見て公平な状態であり、シンの思惑としては満足だ。少なくとも、女のコの秘密を一方的に握ったままでいるより、はるかに居心地がいい状態に落ち着いたことは確かだった。
「……自分で気づいてるかわかんないけど」
ミーアは、まるで珍獣でも見るような目をシンに向けた。
「……きみ、相当ヘンな人だよ?」
「うるさい! 云ってろ!」
二人だけの空間に、シンの怒声が木霊する。一方でミーアは、ふっと吹き出して笑っていた。
結果的に、ミーアは叫びを上げなかった。得体の知れない異邦の人間が、ザフトの軍事基地の中を触れ回っているのだと、シンの身柄を突き出すような真似はしなかった。
それは、結論から云えば、シンの目論見通りといってよかった。
公平性を保つために、自身の秘密を曝け出すという奇行──ああ、奇行だ。ミーアの目線からすれば、シンが取った行動は奇行以外の何物でもない──を経て、ミーアもまた、シンの言葉をかなり信用するようになっていた。
ミーアはシンの発言──特に出身の話が気になったらしく、前のめりで訊ねてくる。
「オーブって、あのオーブ?」
「どのオーブのことを云ってるのか分かんないんだけど。たぶん、そのオーブだとは思う」
「へーっ!」
ぱああと、まるで擬音語でも聞こえてきそうなほどの表情の変わりようだった。
ミーアは感心したように、朗らかに云った。
「そっか、はじめからザフトの兵士さんじゃなかったのね」
「だから、そう云って──」
「──でも、それなら納得! だってあなた、さっき男の人と戦ってたとき、とても『緑』とは思えない! ってカンジだったもの!」
意外なことに、ミーアからは先程までの狼狽っぷりは消えていた。……先の恐慌具合からして、混乱はもっと尾を引くものだと思っていたが、今は完璧に、生来の明るい性格に戻っている。
案外、立ち直りが早い方なのか? あるいは、シンがリスクを冒してでも踏み切った暴露行為は、結果に結びついて信用を勝ち取ることに繋がったと考えるべきか?
「『緑』とは思えない──まあ、そうだな」
謙遜は美徳であるが、その点に関して、シンはあまり謙遜しなかった。
今のシンは、正直なところ『緑』どころか『赤』にだって負ける気がしない。何しろサハク姉弟に拾われてから、約二年以上も彼らの手を煩わせてきたのだ。その程度に後れを取るようであれば、シンも自分を許容できない。
「ねえねえ、ザフトじゃないってことは、あなたってつまり、この基地の外側から来たってことよね?」
「そりゃあ、そうだけど」
──それがどうかしたのか。
興味津々と云った様子で、ミーアは質問を重ねてくる。
「ふむふむ。それで、今はザフトの基地に潜入している──と」
「……?」
「ねえ、お話、聞かせてよ。外から来た人とお話するのなんて、滅多なことじゃないんだもの、私!」
たしかに、滅多なことではなかった。そもそも自分達は出会い方からして最悪だと思っていたが、まさかその最悪をさらに更新する事態にまで発展するとは思ってもいなかった。
しかし、今は二人して乗り越えられただけに、不思議と蟠りもなく、どこか正面から向き合えている気もしている。だが、それにしたって限度というものがあるだろう。
「あのなあ──」
「
ミーアの方はけろりとして云いやがったので、シンはげんなりした。渾身の思いで彼女に伝えた言葉を、そんなにも軽々しい調子で返されるなんて。
──こんな子に「ヘン」って云われたのか、俺……?
どうにも納得いかないが、想像しているよりも、ミーアという少女は強かであるのかも知れなかった。
「それで、異国の
もはや完璧に開き直った様子で訊ねてくるので、シンはもう諦めることにした。これはもう、彼女の気の済むまで付き合うしかないと観念したのだ。それが後にどれほどの苦労を齎すかということを、このときのシンは考える由もなかった。
「アー、抜け道だとか、そんな都合のいいもんは見かけなかったな──あ、でも」
ふと、思い至る。ここに来る道中で、見かけた部分もあった。
「抜け道ってほどじゃないけど。人通りの少ない場所なら、少しは分かるかも」
「──ほんと!?」
それを聞いて、ますますと云った風にミーアは目を輝かせた。ぱっと輝いたその顔に、シンは一瞬だけ目を奪われる。
そんなミーアは、このとき何故か正面の玄関ドアではなく、夏風を入れるために半開きになっている楽屋裏手側の窓を見つめている。ちょうど人が通り抜けられる大きさがあって……なんとなく、嫌な予感がした。
「ふふふ、いいことを思い付いたの」
その表情も言葉も、このときばかりは不吉な予感しかしなかった。一国を代表するアイドルに纏わるスキャンダルに巻き込まれた現在の状況自体がシンにとって既に面倒事であるのは云うまでもないが、それでも彼女は更なる面倒──いや災厄を、自分のところに呼び込もうとしているのは明白だった。
「ねえ、シン・アスカ!」
まるで宣言するみたいに、ミーアは、彼の名を改めて呼びつけて云った。
「──私を、外の世界に連れ出してよ」
それからしばらく経ち、シンはおずおずとした様子でミーアに訊ねた。
「なあ、本当にやるのか……?」
現在、シン達はミーアが差し示した楽屋裏手の窓から脱け出し、シンが事前に特定していた、緊急時の脱出用経路を抜けている最中だった。
────シンがリサーチしていた通り、そのルート上は、たしかに人通りが少なかった。
道中、何組かのザフト兵らしきカップルと出くわしたが、お忍びスポットであるのをいいことに熱烈なキスやスキンシップをおっ始めたくらいだ。偶然とはいえ、鉢合わせしまったシンとミーアは互いに顔を赤くして、目を見合わせて一貫して微妙な空気にはなったが、それさえ除けばトラブルもなく経路を辿ることができたと云えるだろう。
楽屋を出る前に、ミーアは再度の着替えを挟むことをシンに要求し、白いタイトTシャツにショートパンツという、動きやすい私服に着替えていた。もっとも、その格好では彼女の曲線的なプロポーションが却って目立つし、目立ち過ぎるピンクの髪や、その美麗な風貌ばかりはどうしようもない。それについては、楽屋から引っ張ってきたコートのフードを被って対応していた。
二人はそうして、基地外縁のフェンスがあるところまで辿り着く。それさえ乗り越えてしまえば、後は彼女が目指す外の世界が待っている。投げかけられたシンの質問に対し、ミーアが答えたのはそのときである。
「だって、せっかく地球に来たっていうのに、マネージャーったらスケジュール管理厳しくって、全っ然どこにも行かせてくれないんだもの! 私、地球って初めてなのよ? せっかくだったら、色んなところを見て回ってみたいじゃない?」
それはつまり「この後のスケジュールも詰まってるってことじゃないのか?」と、シンは危ぶんで訊ねたが、別にそういうことではないらしい。単にマネージャーの過保護な性格の問題で、今日この後に限って云っても、ライブが終わった後は、公的な予定は何もなかったはずだ。議長は〝ミネルバ〟のパイロット達を召集して食事会を催すと仰っていたが、それにしたってミーアには関係のないことだ。
そうであるなら、午後からの自由な外出時間くらい欲しいというのがミーアの本音で、しかし彼女の立場からすれば、どうもそう簡単にはいかないらしい。
「アイドルって大変なんだな」
他人事のようにシンは云うが、ああ、そうである。シンがこうしてミーアの突き付けた無謀な要求に大人しく付き従ってやっているのは、そんな彼女に内心でちょっと同情してしまったからだ。
地球生まれのシンはもう慣れているが、それこそ〝プラント〟からやってきたという人間にはディオキアの澄んだ海すらも鮮烈な体験であるはずで、叶うのであれば、その美しい光景の数々を心ゆくまで堪能させてやりたいという親切心がくすぐられたというのもある。
そして、異国からやってきたという諜報員がその立場を利用して、囚われの姫君を外に連れ出してくれるという
女のコは、やっぱりそういった『物語』が大好きだった。
そんな未来を期待して、ワクワクと輝いた面持ちになっているミーアの笑顔を壊すのがシンには躊躇われたというのが何よりで、端的に云うなら、それはアイドルとしての女の子に見惚れた者の〝弱み〟というものに違いなかった。
フェンスを越え、外の世界に出ていったシンがまず連れ出されたのは、ディオキアの街中だった。
かねてより外出したがっていたというミーアだが、別にそこでなければ出来ないという用事や、行きたいという目的地があるわけではないらしかった。
ミーアの方は目的もなく、ただぶらぶらとウィンドウショッピングをしているだけでも十分に楽しめるタイプで、打って変わってシンは逆だった。基本的に目当てのものがなければ買い物には行かないし、目的もなく歩き回る時間などは退屈でしかない。
だからこそ今回の外出は、シンにとっては〝あてもなく連れ回される〟という地獄のような時間であり、それに嫌気が差したからと云って、次に何をしでかすか分からない有名人のミーアを街中で一人にするわけにもいかない。
──聞けば年齢は、彼女の方が一つ年上だという話だ。
しかし、どのみち彼女はシンデレラのように、いずれ時が来れば
そのように念押しされた彼女はやはり不服そうだったが、逆に云えば、日が沈むまでは何をしても許されると思うことにしたらしい。
開き直った彼女は、その興味と好奇心の赴くままに、あちこちへとシンを引っ張り回した。
ストリートの服飾店や化粧品店をひやかし、マーケットでは目についたものを片っ端から買い食いした。その代金を死んだ顔をして支払ったのは勿論シンである。
レコードショップを見つければ、今度は一転して真剣な顔で地球のアイドル事情を調べ始め、運河沿いを連れ添って散歩していれば、傍に立ち並ぶ邸宅群の建築アートに大いに刺激を受けて堪能して回る。
「シン、次はあっち!」
散策中にまた何かを見つけたミーアが、少し先から振り返って手を振っている。
「……はいはい」
呆れながら追いかける自分の口許がいつの間に緩んでいることにも、シンは気付かなかった。
──何を見るにも、ミーアはいちいち楽しそうで。
間違いなく、シンにとっては地獄の時間。財布の中身まで考えれば、なおさら。
しかし、その辛抱と苦悩に見合う──いや、お釣りが返ってくるほどの対価を、そんな彼女の笑顔から貰ったような気分になれたのは、まあ云うまでもないことだった。
運河を下ると、そこは市民向けに開放されたビーチになっていた。恋人同士や子連れの家族などが多く、誰もが目の前の鮮やかな景色と海水浴を楽しみながら、思い思いの平和な時間を過ごしている。
──夕陽に照らされたディオキアの海は、それはそれは美しかった。
日が沈む前のマジックアワー。傾いた陽によって、ゴールドやブルーに彩られた空が、刻一刻と表情を変えてゆく時間帯を指す言葉だ。シンの故郷には、似た頃合いを
傍らのミーアは、今日一番といっていいほど目を輝かせていた、思い返せば、今までの時間や出来事が全て夢だったのではないか──そう思える程、二人で過ごした時間は一瞬にして過ぎていった。
──そしてそれは同時に、魔法が解ける時刻が近いことを告げる景色でもあった。
高らかな鐘の音が響くとき、シンデレラは、元いた場所へ帰らなければならない──
海洋に面するディオキアのザフト軍基地は、いま彼らが立っているビーチからも視認できる場所にある。歩けば二〇分とかからない距離だ。どこか名残惜しく、不本意な思いを抱きながらも「じゃあ──」と短く声を発しようとしたシンの腕を、ミーアは後ろから掴み止めた。
「もう少し──もう少しだけ。おねがい」
俯きがちに発された言葉。垂れた前髪に隠されて表情までは伺えなかったが、その声はわがままというにはあまりにも弱く、どこか祈るように響いた。
だからシンとしても、もう少しだけ──彼女の云う通りもう少しだけ、その時間を延ばすことにした。
すぐ近くに停泊していたキッチンカー式のソフトクリーム屋に立ち寄り、それぞれに食べたいフレーバーを選んでソフトクリームを注文する。シンが頼んだチョコクッキー味を一口でいいから食べたいとミーアが云い出したときは流石にぎょっとしたが、彼女が頼んだラベンダーミント味も一口あげると云われた後に、
「それで、
としたり顔で云われてしまえば、シンとしても一枚食わされた気分で、大人しく負けを認めるしかなかった。
しかし、ラベンダーに加えて、ミントときたか。自分では絶対に頼まないフレーバーだと思っていたのだが、お言葉に甘えて口にさせてもらうと意外とおいしかった。思わずもう一口欲しくなったシンを見て、ミーアは「でしょ?」とでも云いたげに得意な顔になったのが印象的だった。
その後は沿岸を囲っている堤防に座り込み、何というわけでもなく、ソフトクリームを食べながら、夕陽に照らされたディオキアの海を眺めた。
「──♪」
波の音と一緒に、ミーアのハミングが聞こえた。気の落ち着くような声で、それは図らずも、昼前のコンサートでこんな歌も聴いてみたいと思った、シンの願いそのままの調子だった。
(いい、声だな……)
シンは知らない。そのハミングが、ラクス・クラインの『静かな夜に』という曲で、ミーアの
しかし、そのときシンは思い出したようにはっとして、ミーアに呼びかけた。
「あっ、そうだ。俺からもひとつ、お願いがあったんだけど」
「──お願い? きみが? ……あたしにするような?」
「いや、そんな身構えるほどのものじゃないんだけど」
彼にしては珍しい申し出だと思ったのか、ミーアは最初こそ意外がり──というか、なぜか警戒していた様子であったが、内容と程度次第では受け入れられるだろうとも考えたようだ。
なんせ、これまで散々わがままに付き合わせてきたのだ。ひとつくらい願いを聞いてやって、ようやく本当の〝おあいこ〟というものだろう。
「ただ歌を、なんか、聴かせてくれたらいいなって思って」
ミーアはきょとんとする。なんだ、そんなことでいいのかと顔に書いてあるが、場所が場所だけに、彼女は気になったようで「アカペラでもいいの?」と訊ねてきた。
シンは首肯しながら「むしろそっちがいいかも」と説明した。ライブ中も彼女の楽曲を聴いたが、あのときはどれもバックサウンド強めのアップテンポばかりだった。
彼女の声質であるなら、もっとゆったりとしたヒーリング調や、バラード調──そんなものも合うだろうと思うと付け加えると、そこまで聞いた途端、ミーアの目がぱっとして輝いた。
「やっぱり、やっぱりきみもそう思う!? あー、そうだよねえ! あたしもねぇ、ほんとーはラクス様みたいに、ゆったりとした曲調が好きなんだぁ」
「……そういう個人の希望って、受け入れてもらえないもんなのか? だって、歌うのはあんた自身だろ?」
「芸風に合わないってさ。ま、でもそれがお役目だもの、きっとそういう運命なのよ、あたし」
本当はおしとやかな芸風でもやってみたかったが、性格的に向いていないのも自認するところだ。ラクス様の着ていた服だって合わないし──本人には失礼かも知れないが、ホンモノよりも、その……特に胸が大きいのだ。
そう云ったミーアは、何かを思い出したようにいたずらな笑みをシンに向けた。シンは慌てて目を逸らす。
「いいよ、そういうことなら。ちょっと恥ずかしいけど、歌ってあげる」
──それは、ほんのささやかなリサイタル。
そこから、シンのためだけに独唱された原典の『静かな夜に』は、たしかに彼女が云う通り、昼頃のコンサートとは芸風や曲調が大いに違っていた。ポップでリズミカルなアレンジではなく、静謐な雰囲気で発される歌詞のひとつひとつが、想い人の帰りを、ただひたむきに待ち続ける──そんないじらしい乙女の気持ちを表現しているようで。
──本当に、これを直接聴けて良かった。
ついさっき出会う前までは、ステージの上にいる遠い世界のアイドルだった少女が、今は自分の隣で、自分が聴きたいと願った歌を歌ってくれている。
そして、これは『ラクス・クライン』として求めた歌ではなく、ミーア自身が好きだと云う歌だった。
そう思うと、シンには妙に嬉しかった。ミーアの方にもその思いは通じたらしい、彼女もまた今だけは、みずからの自由を表現するように、万感の思いでリクエストに応えてくれたのだった。
リサイタルが終わり、シンが改めて感謝を述べた後、ミーアは恥ずかしそうに笑った。彼女はそれから海を見つめ、ぼそりと呟く。
「きみの故郷も、こんな風に海、綺麗なんだろうな」
あのオーブ──そう云えば、ミーアがシンの祖国をそのように表現していたのを思い出す。彼女にとってはその「あの」の中に、海が綺麗という特徴が含まれていたということか。
「いい国だって聞くもんね、
「いい国か。……いい国だった、かな」
そう呟いたシンの表情を見て、ミーアは思わず言葉を止めた。
愛憎が入り混じっているとでもいうのか? ひどく複雑そうな面持ち。怒ったり笑ったり、呆れたり驚いたり、まるで子どもみたいに七変化する彼の表情を、ミーアはこの一日を通して沢山見てきたつもりだ。
けれども、そんな彼が明確に、辛そうな顔を浮かべたのは、これが初めてだったのだ。
「好きじゃないの? 自分が生まれた国のこと」
思えば、ミーアの方はシンのことを何も知らなかった。とても生粋の軍人であるようには見えないが、そんな彼が、どうして現在は諜報員なんかをやっているのか──
「俺、孤児なんだよ。前の戦争で、故郷のオーブが攻め込まれたとき、家族をみんな喪ってさ」
唯一の救いは、その後になって、やさぐれるまでには至らない良好な環境に恵まれたことか。それゆえに語るシンの口調にはどこか軽いものがあり、しかしながら、それは語られる内容の軽さと比例しない。
シンの両親──そして彼にとって最愛の妹だった、マユ・アスカは、あの国を信じ、その結果として死んだ。
──いや、殺されたのだ。
──俺の目の前で、墜ちてきたモビルスーツの残骸に潰された。
少なくとも、シンにとってはソレが全てだった。今まで祖国に抱いていた愛着や望郷を上回り、オーブという祖国に怨恨と憎悪を向けるには充分で、彼の怒れる瞳の奥には、未だあの日の戦火が燻り続けている。
「それは……」
話を受けてミーアは気まずそうだったが、シンとしては気に病まれる必要を感じなかった。話すと決めたのは自分であり、そもそも今日のような出来事がなければ、シンは彼女に対して口を開いてはいない。
だが、たしかに、今日一日の締め括りには似合わないと感じたのだろう。シンはみずから話を切り上げることで、ミーアからのその先の言葉を封じた。
「それはそうと、あんたの家族は?」
「あたし? あたしはー」
ミーアは最初は軽そうに顎に手を当てて考えた素振りを見せたが、やがて、その表情から軽さが消えた。口を開く前から、触れてほしくない何かがあることだけは伝わってきた。
「連絡、取ってないんだ。──というか、もう取れない。合わせる顔がないから……」
その言葉に、シンはハッとした。
そうだ、今日一日の体験が鮮烈すぎてすっかり忘れていたが──容姿や名前まで偽っている彼女の人生には、おそらく、今のシンの想像さえ及ばない激動が存在していたに違いなかった。
「あっ、でも、きみの境遇に比べたらちゃんと健やかだし、全然だよ」
けれども家族の話は、そこで終わりということだろう。ミーアも自分から切り上げるように、その話題を続けさせなかった。その代わりに彼女は居ずまいを正すと、改まったように、シンを正面で捉える。
「今日は、本当にありがとう。本当に……すごく楽しかった」
「……なんだよ、急に。しおらしくなって」
「うん、今日のあたし、思ってた以上にはしゃいじゃって。でもそれは、久々に『ラクス様』じゃなくて……『ミーア』としての自分らしい時間を楽しめてるって、そう思えたからなんだ」
「……。今まで、あえて聞いてこなかったけど」
いつまでも、話を先延ばしにしておくのにも限度というものがある。
「その『お役目』ってのは、本当に、あんたがやらなきゃいけないことなのか……?」
つまり、本当にミーアをこのまま、ザフトへ帰すべきなのかどうか。
身代わりの役割。シンにとってはそれほどまでに信じがたく、同時に
──かねてより彼女が大ファンだったというラクス・クラインの写真を、さっき見せてもらった。
本当にそっくりで、まるで生き写しだ。声と体付きだけは彼女の生来のものだというが、仕草、作法、立ち振る舞い──それら全てを短期間で再現できるよう猛特訓したというし、それにしたってまだ道半ばだ。
──でも。
もし、その道半ばが終わってしまったら? 彼女が本当にラクス・クラインという歌姫の、完璧な
(それじゃあ『ミーア・キャンベル』ってコは、いったい、どこに行っちゃうんだよ……?)
その問題は、ミーア自身が最も痛感しているのかも知れない。ミーアが送る毎日は『ラクス』としての毎日であり、彼女は片時も、ラクス以外の存在になることを許されてはいないのだ。
だからこそ、ミーアはこの外出を──
何となくそれが分かってしまったから、シンも一緒にいる間は、せめて彼女の自由にさせた。
──でも、もうそろそろ良いだろう。
シンの価値観においても、許容しがたい例というのはあるものだ。ギルバート・デュランダルという男のやり方は、ミーアという一人の人間を、まるで道具みたいに扱っている。シンにはそうとしか思えなかった。
しかし、ミーアは決然として答える。
「あたしじゃないと──できないことなんだよ」
「…………」
「いま〝プラント〟はスゴく大変な時期で、戦争まで始まっちゃって……だからあたしは、いま、いらっしゃらないラクス様の代わりに、議長やみんなのためのお手伝いができたら、それだけで嬉しい」
熱心な訴えかけだが、その熱とは裏腹に、語るミーアは少しだけ寂しそうでもあった。
「今は……ううん、きっと今だけじゃないわ。ラクス様は、いつだってみんなに必要な方なのよ」
平和の歌姫という偶像だけが持つことを許される、遺伝子上の特権。
──ラクス様には、不思議とそれだけの〝力〟がある。
憧れと共に語った少女の表情が、嘘みたいに蔭った。
「ミーアは別に、誰にも必要じゃないけど……」
「──! そんなことない!」
シンは思わず、身を乗り出して強く云った。我ながら凄い剣幕だったのが分かって、我に返った後、すぐに恥じるように身を引っ込めたが。
「あっ、いや、俺は──」
「……?」
「俺が、そうは思わない、から」
シンは、虚を突かれたような表情のミーアの蒼い目を見て云った。
「俺、世間知らずで、そのラクスって人のこととか全然分かんないけど──でも、今日聴いたあんたの歌は、すごく綺麗だった」
とても、貴重な経験だったと思っている。
手の届かない世界の偶像に過ぎないと思っていたアイドルは、いざ関わってみれば等身大で、身近さすら感じさせるただの
「だから、俺が好きになったのは、あんたなんだ。ラクスって人じゃない!」
それだけは胸を張って云える。
今日、初めて彼女のコンサートを見て、シンは彼女に心を奪われたのだ。可憐で無邪気な、アイドルとしてのミーアを好きになったのだ。
まるで愛の告白みたいで、知り合ってからまだ数時間だというのに、面と向かって云うのもどうかしていると思う。だが、一人のファンとして云わなければ──伝えなければならないと思った。自分の存在価値を自分で見下げ、目の前で寂しそうな笑みを湛えた少女のことを、シンは放ってはおけなかった。
「ふふ……」
云われたミーアはしばし唖然としていたが、そのとき優しく流れてきた風に髪をなびかせ、小さく笑った。
また、揶揄われると思ったのか。
シンは「な、なんだよ」と照れたような顔をするが、彼女はかぶりを横に振って、そう答えた。
「そんなふうに云ってくれた人、きみが初めてだよ」
沈黙が降り、切り出したのはミーアだった。
「──ねえ、シン。私ね、もうひとつだけ、みんなに隠してる秘密があるんだ」
「え……?」
「お守りってわけじゃないんだけど。自分の荷物の中に、昔の自分の写真を一枚だけ隠し持っているの」
打ち明けられ、シンは唖然とした。それはつまり『ラクス』ではない──生来の『ミーア』の姿を納めた写真ということか? ミーアはその写真の存在について、ぽつぽつと事情を話し始めた。
「議長には止められたし、マネージャーにも勿論止められたんだけど、いつか、きみにも見て欲しいな。私の本当の姿」
昔の自分の痕跡など残すべきではないという、彼らの言い分も分かる。だから、その殆どを自分で処分してきたわけだが、ミーアにはその一枚の写真だけが、どうしても捨て去ることが出来なかった。
それは現存している最後の写真であり、自分という存在──『ミーア・キャンベル』という人間が、たしかにそこに生きていた証だった。咄嗟に楽屋を抜け出してきたせいで、今ばかりは手許にないけれど。
自分で云うのもなんだが、決して綺麗な方ではない。この世界の片隅で、アイドルになることを夢見てたちっぽけな存在だった。デュランダル議長以外の、誰の目にも留まらない、本当に冴えない頃の自分の写真。
でも、それでも、見てもらいたいと思った。
「今の姿に比べたら、全然キレイじゃないし……幻滅されちゃうかも知れないけど」
「おい怒るぞ、そんなこと云うなって」
やってみなければ分からないだろう、そう言いたげなシンの表情。何より、その程度の人間だといまだに思われていることがシンにとっては心外だった。
ミーアは笑った。ぶっきらぼうに云ってくれる、そんな彼の優しさが嬉しかった。
「やっぱり……やっぱり、ダメだよ! こんなこと、もうやめるべきだ!」
ミーアに──そして自分自身にも言い聞かせるように、シンは云った。
「あんたがただの〝プラント〟のアイドルなら、俺は応援した! ああ、勿論そうさ! これからもファンのひとりとして、あんたのこれからを応援したし、歌だって聴き続けられた! ──でも、これは違う! 本当のことを知った今、俺はあんたのことを、心からなんて応援出来ないよ!」
今日一日、ミーアと関わってよく分かった。
レコードショップで芸能の研究をしているときの彼女の横顔は真剣で、熱意と意欲に溢れていた。彼女にはアイドルになりたいという生来の〝夢〟があり、その素質だって充分にあった。ダンスパフォーマンス、歌唱力、ルックス? そんな目に見える才能だけじゃない。屈託なく笑える明るさ。誰かの役に立ちたいと、心から願える優しさ──
「あんたには、あんたの〝夢〟があったんだろ! なら、それを信じれば良かったんだ! できないってあきらめて、誰かの歌を借りるんじゃなくて! ──誰かに、利用されるんじゃなくって……」
──それらは結局、今は
国のため、人々のため、平和のため……? だから何だ。どんなに正しく、心地よく聞こえる大義でも、手段を間違えているのなら、それはただの間違いだ。
純真な少女の夢につけ込み、都合よく操って、その間はずっと間違った夢を叶ったように見せ続け、その気にさせるなど詐欺師の所業と変わらない。このまま彼女が間違った道を進めば、彼女はいずれ、彼女ではなくなってしまう──それは言葉通りの意味だ。
「そうかもね。きっと、きみの方が正しい」
今はラクス様の身代わり。──でも、将来は?
ニセモノは、どこまでいってもニセモノ。では〝それ〟が必要なくなったとき、そのときはどうなるだろう? 私は、どうすればいい……?
その言葉に、シンは同意を得たと受け取って、さらにその先を云い募ろうとした。
「じゃあ!」
「でも、あたしはきみよりも先に、デュランダル議長に出会ってしまったのよ?」
──彼の方が、先に私を見つけてしまったの。
「顔も、名前も、全て変えてしまった。家族だっていたのに、その全てを、あたしは捨ててしまった!」
泣き叫ぶような声には、異常なほどの感情の昂ぶりがあった。取り返しの付かないことをしてしまったのだという、少女の心の慟哭があった。
「だからこれは、もうどうしようもないことなの……」
──もう戻れない。
ただのミーアだった、あの頃の私には。
「なのにきみは、そんなあたしの選択が〝間違ってる〟って云う。眩しいくらいに正しく、真っすぐ私に伝えてくれる! どうせ聞くことになるのなら、その言葉を
因果というものは、つくづく残酷だ。何かを得れば、そのぶん何かが手から零れていく。あちらを立てればこちらが立たず、デュランダル議長が私を見つけ出す前に、シンが私を見つけ出してくれる世界──そんな都合のいいものは、きっとどこにも存在しない。
ミーアがラクスに成り代わっていなければ今の状況は無く、彼女は得たものの全てを失っている。偽りの名声を手にした上でステージに登っていなければ、今日はシンとの接点さえ持てなかった。全てを望み、欲するがままにできる世界なんて夢幻で、妄想の類でしかない。
今になって、ミーアは己の捨てたものの大きさを思い知る。そこに未練はないし、後悔だってないつもりだった。だというのに、なぜ今になって、こんな風に考えてしまうのか。
──どうして、自分をもっと大切にしなかった……?
できないと決めつけて、勝手に夢を諦めた。ホンモノのラクス様のようにキレイでなくとも、自分の良い所に気付いてくれる人、自分だけの歌を聴いてくれる人は、この広い世界には沢山いたはずなのに。たとえばそう、目の前の男のコのような──
──どうして私は、『私』を捨ててしまったんだろう……?
沈黙の帳が降り、先に口を開いたのはシンだった。
「その……ごめん」
「ううん……。こっちこそ、八つ当たり」
謝罪の言葉を口にするシンであったが、本当にその言葉を云いたかったのはミーアだった。
彼が悪意で云っているわけではない。そのくらい最初から分かっていた。
だからこそ、謝らせてしまったことが苦しかった。
それなのに心のどこかでは、この謝罪をきっかけに話が終わってくれることに安堵している。
そんな自分が、ミーアには少し嫌だった。
「でも──でも、ね、そこまで気に病まなくたって、本当に大丈夫なんだよ」
──私は私で、いま、なんだかんだ楽しくやれてるんだから。
から元気とはまた違う、流石
「あたし、みんなのお役に立てるの、本当に好きよ? これからもいーっぱい歌って、たくさん踊って──今度、地球のお店にも私のアルバムがズラっと並ぶくらい、がんばるんだから!」
「っ…………」
「──だから、あたしからもおねがい。もう、そんな顔をしないで?」
──今日、
指摘されたシンであるが、本人は何のことか分からずにいた。
そのまま、ぐいっと両頬を摘ままれる。無理やりに口角を持ち上げられ、しばらく弄ばれた後、彼女はゆっくり額と額をくっつけてきた。その距離の近さと触れ合った部分から伝わる体温の温かさに、シンは思わず泣きたくなった。
「──ありがとう。あたし、きみに出会えて本当に幸せだった」
まるで今生の別れのような云い様であるが、そのとき、視界の片隅で夕陽が沈んだのが認められた。
黄金の空は一瞬の暗闇に包まれた後、その姿を名状しがたい碧色へと変える。その色が彼らの熱を冷ますように静寂を運んできたとき、気が付けば、周囲にいたはずの人影は一切として消えていた。それは子どもの帰る時間──ただいまの時間が、ついに訪れた証拠だった。
「……お互いの居場所に戻りましょう」
それまで触れ合わせていた肌を離した後、唐突な義務感に駆られたように、彼女はどこか冷たい声で云い放った。
「今のザフトは、あなたが来ていい場所じゃない」
所属が違う。それ故に当然の言葉にも聞こえるが、その口振りからは意図的に相手を遠ざけるような、特別な恣意すらも感じ取れた。
そう思ってしまったのは自惚れで、深読みのしすぎだろうか? シンは改めて、ザフトの軍事基地の方に目を遣った。昼間はそうは見えなかったというのに、今、遠くに見えるその基地は、暗がりの圧迫感もあって一つの城砦のようにすら見える。その無機的で禍々しいお城へと、硝子の靴のお姫様はみずからの意志で帰るのだ。
立ち上がり、ミーアはこれまで一貫して被っていたフードを取った。ピンクの長髪が露になり、結われていたものも同時に大きく広がった。風に吹かれて舞い上がったその髪の甘い香りが、シンの鼻先をくすぐる。
「また会えるかな?」
そう問うたシンの表情は切なげで、まるで飼い主に置いて行かれる子犬のようだった。──また、どこかで。
────けれども、投げかけられた質問に、ミーアは答えなかった。
その代わり、切なげな彼を揶揄うように、今度は指で軽く鼻を小突いてきた。薄く、どこか相手を愛おしむような笑みで返される。その手の笑みは今日一日の中でシンも見たことがなく、けれども、どういうわけか、彼女を最も美しく引き立たせる笑みの一つであるように思えた。
そんなものを目の前で唐突に見せられて、シンはやはり困惑するしかない。相手が質問に回答する気がないことも同時に悟り、ちょっとだけ恨めしい気持ちにもなった。今まで散々お転婆娘のキャラクターで振る舞ってきたくせに、こういうときだけ物分かりの良い年上感を演出するのは……正直ズルいと思う。
女の子というものは、きっとあまねく魔性であるに違いなく、そんな彼女の新たな一面を今になって思い知ることになるなんて、シンからすれば全くの不本意だったのだから。
──もっと、知りたい部分は他にあったのに……。
少年に背を向けるように、ミーアは歩き出した。シンにとっては異邦の地。ディオキアのザフトの軍事基地へと、硝子の靴を脱ぎ捨てて、慌て帰ってゆくシンデレラのように。
「バイバイ、シン」
一度だけ──たった一度だけ振り返り、ありがとうと付け加えられる。
声としては聴けずとも、その形のいい唇が、次のように動いたように、シンには捉えられた。
「──さようなら」
──そう、きっと。
たぶんだけど──。
ゆっくりと小さくなっていく背中が、小さくなって、黄昏の闇に溶けて見えなくなる。
そうして、等身大の歌姫は去った。シンにとっても、ミーアにとっても、
──この日の思い出を胸に、私は、今日からまた頑張れる。
残されたシンは、碧く染まった闇の空を見上げた。憮然として己の無力を思い知る。
──俺は変わった。
師を仰ぎ、 大いなる力と強さを手に入れた。だが、そうであるはずの今になっても、結局、今日は何もできなかった。最終的に何も止められず、ただ闇の中に呑まれてゆく少女の背中を見送ることしかできなかった。
「──俺は、何のために……」
結局、無力な子ども。
暴漢を制圧できるから、モビルスーツを人より上手く動かせるから? でも、そんな強さが何になった?
きっとミナの云う通りなのだ。世界は一人の思惑だけで動いているわけではない。無数の人間の意志と都合が絡まり合い、連鎖しながら動いている。
そんなものを、シン一人の力で止めることなどできない。世界の都合のために利用され、操られた少女を、たった今説得することすら出来なかったように。
それでも──今、この世界を誰より強く動かそうとしている人間がいるとしたら?
「ギルバート・デュランダル……」
シンは、今日の中で最もよく名を耳にした者の名を呼んだ。
──その男を探れば、きっと〝答え〟が見つかるのか?
ミナの目的はいまだ分からないが、それでも、収穫がなかったわけではない。数ヵ月前のテロ事件を切欠に失踪したという『本物のラクス・クライン』──そんな彼女の〝力〟と〝役割〟を重んじた彼は、代理の偶像としてのミーアを擁立し、そんな彼女に笛を吹かせて人々を思いのままに煽動している。
そこにミーア自身の意志がまったくないとは、もうシンにも思えなかった。彼女は確かに、自分から誰かの役に立ちたいと願っている。
だが──その願いを利用し、進むべき道を用意し、本人にそれを〝自分の選択〟だと思わせているのだとしたら?
それは果たして、本当に自由と呼べるのか。
──その先で彼がやろうとしていることは、いったいなんなんだ……!?
それを見極めることが、今、自分がやるべきことだった。
海風に吹かれながら、シンはいつまでも、少女の背中が消えた逢魔の闇を見つめ続けていた。
【ミーアの家族設定】
今話ではシンとの話の都合上「家族」の話に少しだけ触れましたが、アニメ本編および小説版の描写を見る限り、ミーアの家族についてはどこにも言及されている部分がありませんでしたので、存在自体がオリジナル設定になります。
整形前のミーアの過去や詳細については、アニメ版47話『ミーア』でより詳しく描写されており、ラクスに成り代わること自体「思っていたデビューとは違う」と言及している部分があったため、もともとアイドルか歌手を志望して活動していた人なのではないかと想像しています。楽屋で黒服達に声を掛けられているシーンもありましたし。
…………それはそうと、何で日本語の「好き」ってこんなに解釈難しいんですかね? 原作ステラの最期の言葉もそうだし。まあ小説を書く上では割と好都合で助かってますけど。