それは、今より十年以上前──
ラウ・ル・クルーゼという男が、老いてゆく肉体を隠すため、まだ仮面を付けるよりも前の話だった。彼が彼の生涯において数少ない友と呼べる者と、何の気なく言葉を交わしているときのことだった。
『しかし、すごいものだな……』
とあるプライベートの一室、チェスボードが置かれたテーブルを挟んで、ラウの対面に坐す黒髪の男。理知的な光をその目に湛え、ギルバート・デュランダルは、呟くようにそう漏らした。
ラウは口元に笑みを浮かべ、問う──『何がだ?』と。
デュランダルはモニターから流れる、世界各地のニュースへと深く視線を送った。そこでは昨今で巻き起こる世界中の事件──差別、迫害、弾圧──について、絶え間なく報道し続けていた。
『争い──人々の、戦いだよ』
ナチュラルとコーディネイターの対立は、世界各地で留まることを知らない。
現状を憂うような声音で、デュランダルが云ったのだ。
『人は本当に、戦うのが好きだな』
『きみは、違うのか?』
『私は勝ちたいだけだ。戦いたいわけではない』
『だが、勝てないものもある。どんなに望もうと、得られないものもある──きみはその理を、良く知っているはずだ』
嘲るようにラウが云い、デュランダルは憮然として押し黙る。
────その当時、デュランダルは、彼の愛しんでいた人間関係を清算し終えた直後だった。
彼はその生涯を賭けて、一人の女性だけを愛すると決めていた。
しかし、婚姻統制を敷く〝プラント〟においては、子を産めないペアによる婚姻は認められておらず──そして相手側の女性は、人生をより豊かにするために伴侶との子供を欲しがった。そのため、彼の方が身を引くという悲恋の一幕があったのだ。
彼には可能性が無かった。女性との間に子を設け、共に育むという希望の未来を、己の遺伝子──細胞の中に潜む、小さな螺旋に拒絶されてしまった。
しかし、そのような男女の離別の局面において、お互いを罵り合い、涙に暮れるような愁嘆場はなかった。デュランダルは内心に抱えた激情はどうあれ、せめて女性の前ではと大人ぶって穏やかに微笑み、物分かった顔で手を差し出し、握手を交わして女性と別れたのだ。
──ああ、それからだったろうか。
──それまで熱を持って輝いていた男の瞳に、深い蔭りが挟まるようになったのは……?
ラウは、そんな友人の変化にもいち早く気付いていた。
どんなに望もうが、願いが叶わないことはある。どんなに強く愛そうが、決して実らぬ恋だってある──そんな悲劇を回避するために、人は「初めから正しい道」を選ぶべきだという論理。人は初めから決められた相手と結ばれるべきであり、その他の可能性など与えられるべきではない。失恋による深くて昏い絶望の闇が──あの青年と同じように──友人をその道に突き落としたのだと、ラウは気付いてしまっていた。
『なら、人はなぜ生きる? なぜ生まれる? どうせ得られないものを、なぜ目の前に差し出される?』
『云った筈だ。ただ〝それ〟を──絶望を知るためにだと』
彼は勝ちたがっていた。遺伝子の型が合うという──たったそれだけの理由から、愛した女の肩を抱き寄せ、まるで見せつけるように彼の許を勝ち誇った顔で去っていった、名も知らぬ男に負けたあのときから。愛する者と別れ、奪われた──あのときから、負けることを嫌がっていた。
『きみは、気に入らんかも知れんがね』
『ああ、気に入らないね』
絶望。それを生む温床になっているのは、不完全な人生、不完全な世界──?
現状に対する、確かな激情と憎悪を瞳に湛えて、デュランダルは唾棄してみせる。
『私は御免だ』
惨めでしかない人生から、自分自身を──人類全体を救い出す。
この腐り切り、歪み切った世界を正し、より公平で、平等な新世界を築くのだ。
『だから、私が変える。この世界と、人類を全て』
『……相変わらず、きみは夢想家は止まらないな』
『いいや、私は科学者だ。
そうして彼は、声高に謳った。
『人はいずれ生まれ変わる。もう二度と同じ過ちを繰り返さないために──私達は叡知の力で、人をも創り変えることができるんだ』
『……人を……?』
『ああ。それは新しい世界を、背負って立つに相応しい新人類だ』
遺伝子解析を専門としていたデュランダルは、過去、遺伝子研究の聖域とも云える〝メンデル〟に籍を置いていた。ラウに託されたテロメアの摩耗を抑える錠剤もまた、当時の彼の研究による副産物だった。
『〝全てにおいて卓抜した能力を示す人間〟──? ああ、これはヒビキ博士の研究方針だったな』
デュランダルよりも年上の、研究所の先輩と云って良いだろう。
だが、ヒビキ博士は世界のことなど一顧だにせず、ただ一心に己の好奇心と欲望を満たすことのみに終始した。みずからの崇高な遺伝子を受け継ぐ者を──恋人のヴィアとの間に生まれる双子の受精卵のうちの一つを、最高のコーディネイターとして造り変えようとしたのだ。
『──ならば私は、彼とは全く違う道を往こう』
世界のために身を捧ぐ、高潔なる自己犠牲──
理知と英知をその目に湛え、デュランダルは、人類のこれからの理想像について語り明かした。
『〝洞察に満ちた優しさを持つ人間〟──? いや違うな。私が望むのは、それ以上の
彼らが目指したのは、感応による人間の認識力の拡大──
テレパシー、サイコメトリー、透視、千里眼、読心術──
現代的表現上のエスパーと呼ばれる者達が行使する、不可思議な能力を意図的に付与できるまでに、当時の〝メンデル〟の科学と叡知は至っていた。
『それは遺伝子操作の段階で、時空をも超越した、非言語的
その素養を持った子ども達の育成計画は、当時において、滞りなく進んでいた。
いずれは『彼ら』の台頭により、世界はヒビキ氏の理想した未来とは全く異なる英雄を擁立する事になるだろう。世界再編という大いなる目的の達成のために、デュランダル達は、新時代の真の担い手──正当な意味での調停者を、その手に創り出していたのだ。
『
デュランダルの研究部屋には、女性の遺伝子研究員も数多く参画していた。その内のひとりはラクスによく似た桃の髪の女性で、もう一人はステラのような輝かしい金の髪をした女性だった。
彼女達は、ヒビキ博士の同僚でもあった。
だからこそ、彼らはその友誼を利用し、ヒビキ氏の研究から技術的フィードバックを賜り、結果としてスーパーコーディネイターという〝個としての完璧な完成形〟に
そのような試行錯誤の果てに生まれたのが、全てにおいて卓抜した能力を持ち、デュランダルの築く公平で公正な世界を導き、管理する者達である。
『それは正しく〝
絶望ゆえに未来を熱望し、そう語った友人のことを、このとき、ラウは不思議と思い出してしまった。
ジョーカー。
かつて中世ヨーロッパで宮廷道化師として王に仕えたそれらは、
「遺伝子こそが王となって君臨する世界。──そこに、叛逆の
その迂遠な表現に顰蹙するマユやスティングであったが、ネオはさらに滔々と続けた。
「アスランから初めて名を聞いたときは、思いもしなかったのだがな……」
淡々と事実を確かめるような声音で、ネオは云った。
いま、彼の目の前にいる少女の存在は、ネオにとって──いや違う──この世界に生きるすべての者にとっての大誤算であるに違いなかった。誰もが彼女という人間の価値を軽んじ、それを見誤っているに相違ない──かつての自分自身も含めて、だが。
──私と同じ〝出来損ない〟だと、そう思っていた。
黄道同盟の創設メンバーである、パトリック・ザラの第二息女。生まれながらの天才、アスラン・ザラの妹にして、スーパーコーディネイターであるキラ・ヤマトの幼馴染み。
これだけでも歴史の中心に駆り出されることを余儀なくされる身の上だというのに、そこに更なる拍車を掛けるように、齢十三でブルーコスモスに拉致された、まさしく時代を象徴する悲劇のヒロインでもある。
歪な戦闘教育により兄にも並ぶ戦闘力を獲得した強化人間でありながら、その実態ははるか昔、とある母親同士の密約から創られた、デュランダルも携わった
(なかなか、どうして)
創作物にしたって盛り過ぎな設定だと、ネオは呆れを通り越して笑ってしまう。ここまでくると、彼女は神に愛されているのではないかとさえ思う。
父に等しい存在でありながら、パトリック・ザラもシーゲル・クラインも、この真実には遂に辿り着くことなく死んだ。だとすれば、彼女はこれまでずっと母親の愛に守られ続けてきたという意味で──そんな母親による隠蔽工作は、思わずラウも敬意を払ってしまう程に徹底されて完璧だったという事だ。少なくとも、この真実に独力で辿り着くのは不可能に近く、創造主以外は絶対に知り得ないだろうという確信すら持ててくる。
「…………?」
けれども当の本人は、今もネオの目の前できょとんとしていた。まるで一切の自覚がないように──だが、世の中には知らない方が幸せという場合も往々に存在するものなのだろう。
少なくとも、それらの肩書きは、一人の人間が全て抱えきるには重すぎるものだ。一度道を踏み外し、これらを全力で悪用する方向に舵を切れば、彼女は間違いなく、新時代を象徴する
(だが、やはり因果は度し難い。度し難いからこそ、面白い……)
かたや闇に堕ちた怪物がいれば──
かたや光に導かれた天使もいる──ということなのか?
──この世界は必ずどこかで帳尻が合い、均衡が保たれるように出来ている。
母親の愛と献身により、少女の中に守られ続けた無垢の気質。それは傲岸不遜とは対極の位置にあり、仮にも真実を知ったところで、彼女には世界をどうこうしたいという野心が芽生えることなどないだろう。
一人の人間には大きすぎる力──だが、却って彼女のような無欲な人間の手に渡っている方が世界にとっては安全で、ネオは改めて、少女が辿る運命の数奇さに感心してしまっていた。
……まあ、それでも多少不憫に思わなくもないのは、いずれの肩書も、いずれの能力も、本人は全く望んでいないという点であり、本人の意思とは全くかけ離れた場所からの人間の恣意が働いていることではあったが。
「この先、世界がどのように傾くかは、ほとんど彼女の選択に賭かっている」
結局のところ、ラウはこの真実について遂に誰にも明かさなかった。
少なくとも、ラウは己を既に一度死んだ身と捉えており、それでいて、遠からずこの世界を去る者であると考えていた。
であるなら、この真実はこれから新しい時代を担っていく若者達が、自力で辿り着くべき問題なのではないか。別に辿り着かなくとも良いが────要は、死に損ないの老害風情が余計な御節介を発動すべきではなく、知るも知らぬも、今後の時代の審判に委ねる方が〝正しい〟と、彼なりに結論づけた結果でもあったのだ。
──ただ、それでも一つだけ云えるのは。
それでも、彼は心のどこかで期待してしまったということだ。
白の女王──ラクス・クラインと同じように。
遺伝子研究における、かの禁断の聖域で創り出された究極の生命体が、その生い立ち故に理念に反して運命にも抗うのなら────
この世界もまだ捨てたものではないと、そう感じ、昂ってしまったのは事実でもあったのだ。
「あなたはそうやって、ぜんぶ私に丸投げするんだね」
柄になく熱を持っているネオに対し、ステラの反応は冷ややかだった。白けた目でネオを睨んでおり、そして、それは当然かも知れなかった。
ユーカーやトランプにおいては切り札として用いられるジョーカーであっても、今の自分は、どこまで行っても〝ファントムペイン〟の副長に過ぎず、そして、隊の指針を決めるのは隊長の仕事だった。
だがスティングは、そんなネオの言葉に頷いて、次いでステラを見ていた。その切れ長の瞳が、真っすぐ彼女に問いかける。
「じゃあ、オレの方から改めて確認させてもらうぜ、ステラ」
「スティング……」
ステラは彼の名を呼ぶが、そんな少年の変わり身の早さに、内心ではため息を吐いていた。
本当に彼は──彼らは自分で考えるという行為をしないものだ。
だが、親の庇護下にある子供など、普通はその程度なのかも知れなかった。
「さっきの話を踏まえて、オマエはザフトに就くのか? それとも、このまま〝ファントムペイン〟に残って、ザフトと戦うのか? ──デスティニープランってやつを、オマエは承服するのかよ?」
結局のところ、話の論点はそこなのだ。
ステラは口淀み、一方で、後方にいるマユからも熱望の眼差しを感じていた。マユもまたステラの解答を待っており、しかしながら、ステラはその責任の重さに怯んで、助けを求めるようにネオの方を見てしまった。人のことを批判しておいて、結局、彼女もまた親に選択を委ねきることに慣れてしまっていたようだ。
だから、ネオは優しく首を横に振り、幼い子供に云い聞かせるような、柔らかな声音で次のように告げる。
「怖がることはない、独り立ちの時だよ」
このとき、ネオはもう、ステラに是非を判断するだけの材料を提示し、選択肢を与えてもいた。
──後は、ステラが
結局のところ、ネオは次なるコイントスを行ったその結果を、ただ期待して待つだけだったのだ。
「デスティニー、プラン……」
ステラは、茫として呟いた。
「私は、そんな未来、受け入れられない」
後になって思えば、彼女の答えなど、とうの昔に決まっていたのかも知れない。
「遺伝子なんて──そんな見たこともないものに縛り付けられるなんて、私はイヤ」
遺伝的な特質に応じて、人々の職業や生活を決定し、それを強いる社会──あまりに非現実的で、はっきり云って、ステラには想像することだって困難だ。
だが、そんな彼女にも判っていることがひとつだけある。もしもそんな社会を認めてしまったら、かつて自分が人に向けて投げかけた言葉を、彼女は自分で裏切ることになるということだ。
『何になるべきかじゃなくて、何になりたいかで道を決めたくなること、誰にだってあるでしょ?』
イングリット・トラドール。ファウンデーションの聡明なる青い髪の女性に、そう訴えたことがある。
女帝アウラ・マハ・ハイバルは、かの国の方策として『優秀な人材を積極的に登用する制度』を採用していると云っていた。それが具体的に何なのかは──まあ、当時は興味が無かったので訊かなかったが。
少なくとも、そんな女帝の言葉に嘘偽りはなかったのだろう。徹底的な能力主義を尊ぶ国策を用いたからこそ、あの国はあそこまで奇跡的な復興と発展を遂げた。である以上、国の閣僚として宰相補佐を務めるイングリットも有能であるに疑いなく、無能であって許される筈がないとさえ思えてしまう。
──でも、なんというか……。
イングリットは優秀な女性ではあったにせよ、決して器用なタイプではなかったように思える。
少なくとも、ステラはそう感じていた。彼女はきっと不器用な人間で──何が不器用なのかと問われると微妙だが──そうだ、おそらく彼女も自己表現が苦手だ。ステラと同じ。あのとき彼女に憶えた奇妙なる親近感は、おおよそ自分と似た弱点を持つ同族に対する同情だった。
──彼女は、自分の役割に誇りを持っていた。
それはいい。
それは分かっている。
でも、
──それは本当に、彼女がやりたいことなのか?
云わずもがな、ステラは他人と議論するというのが苦手だ。彼女はどちらかと云えば肉体言語担当であり、今の軍隊でも、物理的手段で相手を〝分からせる〟ことが役割だった。
まあ、それは隊長のネオがあまりに口達者で、話し合いの席なら彼に任せてしまえばどうにでもなってきたという環境のせいでもあるのだろう。実際、ステラが動いたのはネオから要請があったときだけ、彼が持ち出す論理や交渉では解決不能な部分、つまりは暴力に頼ってしまった方が手っ取り早く話が進む場合が大半だった。
要するに、ステラは戦後においても、対話能力の苦手を苦手のままに放置してきた傾向があって、真摯に言葉を尽くし、自己主張を行った上で、相手とのコミュニケーションを図るというのがどうにも不得手だった。
だから、まさか、こうして自分達が『運命』というテーマで議論する破目になるとは予想しておらず──いや、初めてその言葉を持ち出したのもイングリットだったか? ──こんな事態になるのであれば、イングリットの話をもっと踏み込んで訊いておくべきだったと、今になってステラは後悔してしまった。
(随分と、居心地は悪そうだったな)
ブラックナイツ。あのクソ傲慢な近衛師団の一員であるイングリットに対し、ステラがどのような好悪を抱いていたのかは分からない。だが、少なくとも彼女に──彼女に対してだけは、ステラがそんな印象を向けていたのは事実だった。
オルフェが整然と何かを発言する度に、イングリットは見惚れたように身悶えしていた。本人は胸に秘めたその想いを誰にも悟らせまいと心を閉ざしていたが、ステラから見れば駄々洩れで、その内の大半は気取ることができていた。あの場合は単純に、ステラの方が目敏すぎただけなのかも知れないが。
でも、イングリットはそれを表現しないのだ。あるいは、表現することを許されていないのか? まあ、同じ職場で『そーいうの』が効率上禁止であるとか、世の中はそーいう場所もままあるみたいだし──いや、ステラはよく知らないし、割とそれはどーでもいいのだが。
ただ思ったのは、曝け出してしまえばいっそ楽になれるだろうに、という感想だった。淑やかな見かけに反し、彼女はかなり強情でもあるようだ。一体どれほどの間、彼女はその真心を隠して、自分を偽り続けてきたのだろうかと、その点にこそ、ステラが興味を惹かれたのは事実だった。
「だから、私は──」
彼女みたいに、懸想の相手がいるわけでもないが。
あんな風に肩身の狭そうな思いを、自分は耐えられるとは思えない。
良くも悪くもマイペースな性分なのだ、ステラは。
「だから私は、デスティニープランなんて認めない」
──是と云えば是であり、非と云えば非。
はっきりとステラそう宣告したその瞬間、スティングの目の色にも変化が生まれた。
彼は縋るように、次の問いも発する。
「ネオのことは?」
「……信じるしかないよ。これから、
ステラは、これまで議論の中心で扱われていた
──人類最強の戦士。
──史上最高のコーディネイター?
非常に大仰な物言いで、まるで現実感を伴わない冗談のようだ。けれども、実際それに
──ファウンデーション王国の剣、
どう頑張っても好感が持てそうになかったアイツらの、その尋常ならざる戦闘を見てきた。
たとえどんなに気に入らなくとも、連中の強さはステラも認めるしかなくて──何故だかは分からないが、正攻法で挑む限り、奴らには絶対に敵わないのではないか。今だってそんな気がしている位なのだ。
勿論、こんなのは仮定の話でしかないが──いざというとき、あんなバケモノみたいな連中が一斉に敵に回るなら、今の自分達に間違いなく勝ち目は無い。それは危機感に伴う実感だった。
「そんな軍隊を統率できる、
平時と戦時において、指導者に求められる資質は全く違う。
その人間に治世の能力があるか、頂点に立つに相応しい資質があるかは二の次で、戦時においては、
だが、たとえば前の戦争で、三隻同盟を率いたラクス・クラインは好例だった。彼女には彼女の旗下で戦う者に、勝利の希望を抱かせるだけの求心力があった。たとえ詐欺紛いの暗示であろうと、圧倒的寡兵、絶望的に苦しい状況の中でも、彼女の指揮の下でなら命を捨てても戦えると、大勢に希望を与えて回る
──ああ、そうか。
ステラは気付いた。その点、現在の地球連合を率いるロード・ジブリールは、此度の戦争指導者としては最低の不適格者だ。どれだけ資産家として名を馳せようが、思想家として名を挙げようが、傘下の者に勝利の幻想を抱かせることすら期待出来ず、そればかりか他人依存と他責思考で不満や不信を与えて回る戦争指導者など、やはり無能の烙印を押されて軍人に背中から刺されても仕方がない。ムルタ・アズラエルの死後、必然的に弱体化の一途を辿ったブルーコスモスを立て直した辺り、あの男もまた盟主としては相応の手腕を持つのだろうが、戦時の今はお呼びでないし、偏に彼には生まれた時代を恨んで貰う他にない。
「ネオになら──それができる、気がするの」
戦後の三年間。ネオと積み重ねてきた交流を念頭に置いて、ステラは本心からそう云った。
──良くも悪くも、
暗躍は彼の得意とするところであり、時に腹が立つほど口が立つ。人を動かす──まあ彼の場合は操っていると表現した方が正しいのか? ──という点で黒幕の資質があり、その能力を悪用さえしなければ、この男の下でなら
「ブルーコスモスじゃないよ。ステラ達は、だから、これからもネオの下で戦っていくべきだと思う」
──ネオが事前に云っていたのは、このことだったのか。
たとえステラが、彼を軽蔑しようとしまいと同じ。この先の未来を思えば、ステラは彼の下に帰ってくるしかない──しかし、そんなところに声を上げたのはマユだった。
「ダメだよ……! ステラお姉ちゃん!」
咄嗟に声を荒げて、マユは息を詰めてそう云った。
「どうして──どうしてこの人を信じるの!?」
ステラにも言い分があるように、一方のマユにも、言い分というものがある。
「前の戦争で、この
少なくとも、それだけは真実だ。
今は『ネオ・ロアノーク』と名乗るその男が、これまでステラを騙して、彼女に対する嘘の背信行為を重ねてきたのは事実なのだ。ついでに云えば、彼は戦後にキラが抱えた煩悶へ見て見ぬ振りを行い、為すべきことを為さず、勝手な都合で問題と脅威を放置した──その不誠実と不正義を、マユはやはり見逃すつもりは無い。
「騙してた──。うん、そうだね」
──その点は本気で軽蔑している。
きっぱり、あっさり、ステラはそう云った。
云われたネオの方は、流石に面の皮が厚く、何の痛痒もない様子だったが。
「それでもネオは、ステラに良くしてくれた」
そう云われて、マユはひどく複雑な表情になる。
だがマユにとって、その男は仇敵だ。だから必然、糾弾する声も荒くなる。
「ステラお姉ちゃんはまだ、本当の意味で、この人の素性をよく分かってないんだよ……っ!」
「そうなのかも知れない。都合さえ合えば、ネオはまた、ステラに嘘を教えるのかもしれない」
「なら!」
「でも、これまでステラと一緒にいて、ステラに優しくしてくれたネオは、本当なんだよ……?」
その言葉に、とうとうマユは返す言葉を失ってしまった。
マユにとって最も理解して欲しい人物に、理解して貰えないことがもどかしく、悔しくあったのだ。
「それは……っ! 本当……かも、知れないけど……っ」
──けれど、それすら男の、邪な気持ちが動機だったとしたら……?
云いかけて──しかし、云うべきことと、云ってはいけないことの区別くらいマユにも判断ついた。マユは思わず出かけた人格非難の言葉を呑み込み、積み上げた信頼を決定的に損なう事態までは辛うじて回避した。
ステラの記憶が戻っているのであれば、そんなことは今さら説明する必要もなかったろう。ステラは自身の記憶に基づいて男に対する裁定を下し、きっと生来の価値観の下に、彼を否定してくれたに違いない。だが今は違う──今の彼女は記憶を失っていて、マユの口から全てを説明するにも大いに時間が必要だ。
(それに、一番の問題はそんなことじゃない……)
最大の問題は、そんな悪しき男に対して、今のステラが恩を感じてしまっていることだ。
戦後から今までの二年以上、ステラはたしかに『ネオ・ロアノーク』という人間の世話になっていて、それは単純な上官と部下という表現では済ませられないほど濃密な関係だったのかも知れない。そして、その期間の彼らを、マユは知らない。
(三年──三年、か)
言葉にしてみると実感する。とても長い時間をかけて、それは彼らの間に積み上げられた信頼関係だった。今のステラは男に信頼を向けていて、そのことが言葉や表情から読み取れてしまう。
であるなら、ここでマユがいくら男を咎める言葉で騒いだところで、本当の意味ではステラには響かないし、届くこともないのだろう。寧ろ男を糾弾すれば糾弾する程に、逆にマユの方がステラからの信用を損なう結果に繋がりかねない。非常に悪質な遣り口で、厄介なジレンマだった。
「だから、ステラを拾ってくれて、いろんなことを教えてくれたネオは──これまでのネオは、決して
親代わり──親代わりか。
ステラはひとり、その言葉を思い出して
(たしかに、〝ファントムペイン〟の中で……ロアノーク隊は特別だった)
ロアノーク隊の隊員達の間には、軍隊には似つかわしくない、相互救済的な一種の絆がある。
そして、それは他の隊には無い。アウルがネオに対して躍起になって反発するのも、ステラに対して積極的に絡んでくるのも、形は違うが両者に対して甘えているからであり、これが無機的な上官と部下の関係であれば、彼はあそこまで子供っぽく振る舞うことは出来なかったし、逆に自制出来ていた事だろう。
そして、そのような疑似家族的な雰囲気を隊の中に作っていたのは、間違いなく隊長であるネオの父性めいた懐の深さが一番で、ステラではないのだ。……実際には、彼はステラがいるから〝それ〟を用意しようと思い至った訳であるが、彼女の目線からは、そうと分かるものでもない。
「だから私は、ネオを信じるよ」
──たとえ彼の動機が、間違った理由に基づくものであったとしても。
世界は常に動いていて、取り返しがつかないのなら、正しい目的のために立ち上がるしかない。
「──なら、俺もステラに賛成するぜ」
スティングが続く。彼もまた同じだったのだ。
スティングの世界は、ロアノーク隊の外には無い。ステラの真実に目を瞑ってもお釣りが来るほどに、彼は筆舌に尽くし難いものを、すでにロアノーク隊から受け取っていた。借りたものは返すし、受けた恩も同じだ。彼はそういう主義だった。
「ネオの云う通り、俺はこの先、何があっても
「わ、わたしもっ! わたしは……もともと……!」
決意を新たにするスティングの言葉に、メーテルも続いた。
「わたしも、何があってもステラお姉ちゃんについていくって、はじめから決めてたから……っ!」
スエズ基地で初めて出会ったときから、メーテルの忠誠はステラにあった。
彼女は唐突な闖入者であるマユへの対応には困っていたようだが、しかし、それは当時の決意を鈍らせるほどの出来事ではない。
「みんな……」
仲間達のその思いを、ステラは有難く思った。
自分のような者であっても、信じてついてきてくれる、彼らの存在が心強かった。
一方で──
「──アウルは?」
「……まだ回復してない」
ロアノーク隊の最後の一人、アウルがどう反応するかが、ステラとしては気掛かりだった。
相変わらず、アウルの身体は不自然に制圧されたままで、いつになったら回復してくれるのか。最も気掛かりな彼の意思確認は、どうやら、この会談の最後になりそうな気配があった。
「──それで、きみはどうするのだ?」
それまで隊員達の意思確認を待ち、一言も発さずに傍観者となっていたネオが、やっと口を開いて話に水を向けた。話せるような状態にないアウルは仕方がないとして、黒い仮面はマユを真っすぐに見据えている。
そんな彼女は、このとき返答に詰まっていた。
「私だって同じです。私だって、デスティニープランなんて受け入れられない」
マユの答えも、とっくの昔に決まっている。
その根拠も明白だ。
「私は、ステラお姉ちゃんみたいに強くなりたくて、この道を選んだんだ。それを適性が云々って云われて、別の道に行けって他人から云われても──ハイそうですかなんて云って、従ったりはできませんよ」
まったくもって、アトラは良く我慢しているものだ。
──いや。
彼女の怒りも、割と爆発寸前だったような気がしないでもないが。
「だから本来なら、この場でステラお姉ちゃんについていくって、私だって云いたいです……!」
今、己の立場を改めて表明した他の二人と同じように──
だが、そんな二人とは決定的に違う点が、マユの中にはあるのだ。
ネオは惚けたように云う。
「──なるほど。つまり、私が問題というわけだ」
「ええ、そうです、貴方ですよ! 貴方が話をややこしくさせてます!」
マユはいまだに、男の真意を疑っていた。
それほどの嫌疑と警戒を抱くだけの理由が、やはり目の前の男には存在する。信じて貰えないのは男の自業自得で、マユからは当然の用心だった。
「これが貴方でなかったら、私は何も深謀せずに頷いていられた……!」
しごく当然の結論だと、マユは訴えかける。
「でも、貴方では無理です!」
「まあ、そうだろうな」
彼にも自覚があるようで、そして、自覚して貰わなければマユも困る。
「どうして、どうして貴方なんですか……? もっと、他の人が動いてくれていたら──」
口に出たのは、最早ただの恨み言でしかなかったが、つくづくマユはそう思う。
──もっと、別の人がいてくれたら……!
情報収集能力に長け、デュランダル議長の目的を誰より早くに知れる位置に在籍していた過去を持ち、世界中で暗躍できる独自のバックドアを備え、実際に数々の交渉をこなせるほど口達者で、努力家な人間。それでいて、ステラ達からも篤い信頼を寄せられるぐらい面倒見が良く、実際の戦場をも知り尽くしているそんな凄腕の指揮官が、他にも居てくれたら──!
(──ああダメだ、やっぱりこの人しかいない!)
考えれば考えるほど、巡り合わせというのは不思議なものだ。
やはり因果は度し難く、マユは現実を呪うしかなかった。
「……………………」
前の大戦で黒幕として世界を破滅に導いてきた男が、今度はそのネットワークを駆使して、世界を救済する側の
──それに……。
つい本人も忘れがちだが、マユはこれでも今はザフトの軍人なのだ。勝手な脱走や離反は重罪であり、かと云って、復隊しても活路が見えないのが救えない。だからだろうか──彼女はひどく疲れたような、やさぐれた表情で、先程から完全に俯いてしまっている。
「マユ……」
気遣わしげに視線を送るステラ。彼女としてもネオは信用しても良い人という言い分があるが、しかし、これは発したところでマユには響かないし、やはり届きはしないのだろう。
それから、どれほど時間を置いただろう──
「……私が、貴方の云う『陣営』に就くと云ったら──」
「──ん?」
長い沈黙の後、絞り出すように、マユから言葉が紡がれた。
「貴方はその『組織』について私に情報を明かし……軍を抜けることになる私に対しても、最低限の保証をしてくれますか?」
ファウンデーションに〝アリアドネ〟を貸した時とは違う。
明確に〝アリアドネ〟を異邦に持ち出す以上、最早言い逃れは不可能だ。
彼女は先の大戦で〝クレイドル〟を持ち出したステラと、全く同じ道を辿ろうとしている。
「それは無論、そうだな。そうなった場合には、きみのために私が出来る最大限の弁護と擁護の限りを尽くす──その旨を、残された私の寿命に誓うとしよう」
さも当然という風に、整然とネオは答えてみせた。
軍を抜け、相応のリスクを背負ってまで行動した義勇の士に対し、誠意に欠いた対応など出来はしない──いや寧ろ、この男は相手にリスクを背負わせてこそ、その上で為された決断に価値があると考える側の人間だ。他人を平気で試すことも厭わない冷酷さを備えており、マユにもなんとなくだが、この男の性格が読めてきた。
「……後からではなく、今、明かしてもらうっていうのは?」
「その口振りでは理解しているとは思うが──まあ駄目だ」
完全なる味方に引き入れていない以上、最低限の情報漏洩も許さないというスタンスだろう。
要するに、この男はマユの覚悟を試しているのだ。
「……しかし、そうだな」
だがその瞬間、またも気紛れでも起こしたように、ネオは云う。
「きみは
気紛れに、ネオはヒントとなる言葉を云い放った。
「私がこれまで方々に嘴を突っ込んだ結果として、既に『歌姫の騎士団』はこちらの陣営にいる──その程度は述べておこうか。今は、まだ言葉にしか出来ないがね」
見せた方が早い。
そのような暴露に対し、率直にマユは大いに驚いていた。
歌姫の騎士団? ──考えられるとすれば、かねてよりラクスと親交のあったクライン派のシンパを指しているのか? 「もしかして、バルトフェルドさん達が……?」と訊ね返したが、それ以上の返答は返って来ない。
けれども、目の前の男と同じく、先の大戦ではザフトに帰属し、しかしながら最終的には離反した〝エターナル〟のクルーの面々こそ、マユにとっては筆頭であるように思えた。
──いや。
彼らの存在だって、クライン派の規模からすれば氷山の一角でしかない。先の大戦中以降、水面下でひそかに裾野を広げていたクライン派の規模は、決してその程度では済まないのだ。
──差し当たっては……それで十分な気がしてしまった。
もっとも、この仮面の男が妙な見栄を張ったり、何らかの策謀のために嘘を吐いているのでなければの話だが──それでも今の彼女に、やはり選択の余地などなかったのだ。
「──分かりました」
そしてとうとう、マユは顔を上げて云ったのだ。
「貴方の事は……やっぱりまだ信用できませんが──今の私達には、それ以上にやらなきゃいけないことがあるみたいですからね」
そうだ──マユは開き直ったように、自分に云い聞かせる。
──結局、悩んだところで仕方がないのだ。
地球連合にも、ザフトにも活路がないと判っているなら、マユは他の道を選ぶしかない。
──たとえ、道化の札を引くと判っていても。
他に選択肢がないのであれば、彼女は目の前に差し出された悪魔の札を取るしかない。
「だから私も、貴方の札を取ることにします。貴方の部隊に加えて貰い──貴方がたと、同じ陣営で戦います」
幻肢痛──『
──なんとも悪趣味な名だ。
それなら『
「そうか。それはまた、随分あっさり決心したものだ」
声には微妙な驚きが混じっており、ネオにとっても予想外の変わり身だったのかも知れない。
一瞬だけ虚を突かれるが、暫くの間視線を合わせても嘘を吐いているようには見えない。
となれば、ネオは話が早く済んで結構と思うべきだった。
「こういう場合、歓迎すると云っておいた方が、互いにとっては良いのだろうな?」
「そんなの要りません。余計なお世話ですよ」
良くも悪くも、マユは男に取り付く島を与えなかった。
彼女はやはり目の前の男を簡単に許すつもりはなく、だからこそ、気を遣われるのも心外と云わんばかりに、唐突に擦り寄ってくるような動きをみせた、男の言葉を跳ねのけた。
「──でも」
ただし──だ。
「お気遣い頂けるというのなら、その代わり、私からも条件があります」
ネオは唖然として「条件?」と訊ね返してくる。──組織について、詳細を明かすという話ではなく?
「あー、条件っていうのは少し違いました。私の方にも、貴方に言い分があります」
マユは、訂正するように云った。
彼女はそうして、その瞬間に居ずまいを正していた。
……油断していたのだろう。少女が途端に纏った剣呑な気圏により、そのときネオの姿勢と表情に警戒の色が戻ったのを認める。だがもう遅い。
はぐらかそうとしても無駄である。騎士団の話については煙に撒くのを認めたが──こちらは駄目だ。
「ええ、私は、私達は陣営を決めました。にも拘わらず、この中で貴方だけが唯一、曖昧な立場であることに甘えている──私達に、
はて、と首を傾げるネオの様子にも構わず、マユは毅然とした態度で続けた。
「私にはそれが、やっぱり気に入らない。ここらではっきりさせたらどうでしょう?」
「…………。と云うと?」
挑戦の言葉を投げつけられたネオは、しかし意表を突かれたような、彼にしては本当に意外な角度から切り込まれたような顔になった。まあ顔は見えないわけだが、辛うじて見える塞がらない口が、彼の心情をそのように物語っていた。
「勿論、名前の話です」
絶・対・に、逃がさない。
挑むように、マユはそう云った。
そしてネオの反応はと云えば、やはり意表を突かれていた。
「──なるほど。やけに従順だとは思ったが……」
それが理由かと、ネオはこのとき、相手の意図を正確に読み取ってしまった。全てを語られる必要はなかった。彼は頭が切れ、指針さえ提示されれば、この問答が最終的にどこに着地するのか勝手に結論へ辿り着く。
ネオは肩を竦め、次の瞬間には降参というポーズをわざとらしくマユに見せつけていた。だが、マユはそれで許す気はない。真実、彼女はこの話を突きつけるために、男の傘下に敢えて潜り込んだようなものだから。
「貴方が、その特殊な境遇から人間を嫌っていて、人類を恨んでいるのはよく分かりました」
よく分かりましたと云いながら、その言葉の中には理解や共感といった賛同の色が一切見えず、むしろ男に対する猛反発と不同意が隠しきれていなかったのが面白い点だった。そんなマユは人間の善性を信じており、逆に相手の性質には特に興味も無さそうに、努めてぶっきらぼうに云い放つ。
「だからなのかは分かりませんけど。貴方は
少なくとも、マユはそう判ずる。
この男と会談する機会を得、真正面から言葉を交わす内、彼女は目の前の人間の本質に触れてしまった。壮絶だったことは想像に難くない男の人生──その闇の深淵までは覗けずとも、表面に浮かび上がった悪癖くらいなら、彼女の目線からも判ずることができてしまった。
「貴方は
何がコイントスだ? 表も裏もなく、未来を創るのは人々の自由な意志決定に他ならない。依怙贔屓も、偏見もないが、それは決して運や運命などではない。
「でも、貴方の陣営に〝乗る〟と決めた身からすれば、貴方一人だけが、そうやって
先刻、自分には「ネオ・ロアノークで在り切れない部分がある」と、男が自分で云ったのだ。仮面を脱ぎ、自身が何者であるかを証明する際に。
けれども反対に、ラウ・ラ・フラガの名前が出たときは? あのとき、この男は他人事を話すみたいなお行儀の良さを発揮していた。あれは彼自身のことを語る話だった筈なのに、まるで他人の不幸──今の自分には関係のない話ですと、割り切らんばかりだった。
──名は、その存在を表すものだ。
──だったらこの男は、自分という存在から逃げている。
改めてマユは思う。伝道所でのキラの行動を肯定する訳では無いが──それでも彼の選択には、一定以上の理解と敬意を示すことはできる、と。
あの場所で
にも関わらず、それだけの覚悟と矜恃を抱えるあの男と戦いたがっているこの男が、野望のために自らの欲望を隠そうともしないこの男が、打って変わって都合よく自分の名を使い分けている有様では、この男は戦う前から彼に負けているようなものだ。
「自分で気付いているかどうか。貴方もまた、この世界に生まれてきた人類の一人なんです」
「────」
「この世界の未来を、真剣に憂うべき
マユは真っすぐに、みずからの指揮官となった男を睨みつける。
「なのに貴方は、この期に及んで偽名を名乗り、責任逃れの保身に走る。ただ脇から見ているだけで、人を弄ぶような真似に走ろうとする。──だとしたら、それは卑怯ですよ。ステラお姉ちゃんは貴方に三年の恩があるから強く出られないかも知れませんが、私は違う」
寧ろ、そんな男の本質を知ってしまったばっかりに。
言葉が届く場所に迫ってしまったばかりに、マユとしては目の前の男の半端な姿勢に、猛烈な反発と抗議の意を示させて貰う。決して容認することは出来ないと、その甘えきった態度に軽蔑と嫌悪を抱く。
「前の戦争で、貴方の策謀に巻き込まれて亡くなった人達の無念を想うからこそ、私が絶対に、貴方のその身勝手な甘えを許さない」
罪を犯した人間は裁かれなければならない。
──他の誰も裁かないというのなら、その役割は自分が引き受ける。
それは男にとって、真っ向から叩きつけられた、新世代からの挑戦状だった。
「だから、私から改めて質問します。
「…………」
「ラウ・ラ・フラガ。名乗った方がすっきりします」
男が少女を試したように、それは少女が男を試すための問いだった。
痛い所を突かれたとばかりに、男は憮然とした表情になる。思わず出かけた呻き声を抑えきったのは流石だったが、彼にしてみれば、みずからの急所を射抜いた危険な問いであることに変わりはなかったのだ。
自分で紡いだ問いでありながら、男の立場を図りつつ、意趣返しも兼ねるには良い質問だと彼女自身も感じているのが表情から伝わってくる。すでに形勢は逆転しており、正しくこの問いから逃げることは許さないと、その血を薄めたような赤い瞳が全霊で訴えていた。
……だからこそ、これは少女からの挑戦なのだ。
たっぷりとした沈黙、逡巡を挟んだ後に、男は解答せざるを得なかった。
「みずからの生まれの不幸を呪い、世界を道連れにしようと画策した男──ラウ・ル・クルーゼは、先の大戦で死んだ」
その言葉が孕む些細にして微妙な違和感に、マユの眉間がピクりと揺れた。
だが、ネオはあくまで滔々と続ける。
その素晴らしき厚顔無恥さを、目の前の少女が見逃してくれることを祈りながら。
「今の私は、自らをネオ・ロアノークと定義している。それ以上でも、それ以下でもない」
「っ──!」
ありったけの思い、恨みを込めて、そのときマユは勢いよく走り出した。
「歯ぁ食いしばれ! そんな大人、修正してやる!」
次の瞬間、ラウもよく知るザフト仕込みの鉄拳制裁が、ネオの顔面にクリーンヒットした。少女の言葉を借りるところの戦死者達の無念を乗せた一撃が、世の中を一方的に舐め腐っている男の顔を捉えたのだった。
──裁きの一撃!
その衝撃の拍子に、男の黒い仮面が宙を舞った。以前のものと違い、ただ頭から被るだけのマスクのようで、案外簡単に取れるのだなと、殴った本人もそのとき意外に思ったくらいだった。
目の前で行われた暴力劇を、周りにいた者達も唖然として見届けた。ステラは最初呆気に駆られていたが、ネオが殴られているその光景も、殴られた瞬間に仮面が弾け飛んだその様も、妙にシュールで噴き出しかける。吹っ飛ばされたネオの方は仰向けに熨びていた。どこか観念したように。
「これが若さか……っ」
その洗礼を、早速こんな形で発揮されるとは思ってもみなかった。
マユは叫ぶ。
「ネオ・ロアノークなんて、この世界にいないんだから!」
改めて至近距離で見てみると、金髪で端正な男の素顔はレイ・ザ・バレルとよく似ていた。人間らしい顔をすれば、かなり美丈夫な点も意外だ。
「……すごいや、マユ……」
ステラは率直に云っていた。何が「すごい」のかは、うまく言語化できなかったようだが。
一方で、男はむくりと上体だけ起こす。と、何かのため息を一息ついた後に、改めて取れた黒のマスクに手を伸ばした。……そう何度も何度も、白日の下に曝したい素顔ではないのだ。
「人には恥ずかしさを感じる心があるということを──ん?」
怪訝がる声を上げたネオの視線の先、アウルが立ち上がっている。さっきまで介抱が必要な状態だったはずだが、もう一人で立てるくらいにはなっていたらしい。
そんなアウルは、すぐ傍で彼を介抱していたメーテルを突き飛ばしていた。小さな少女が短く悲鳴をあげて尻もちをつく。その声に反応し、マユやステラも驚いて視線を向けた。
「認めねえ……っ」
ぼそりと、呟くように少年は云った。
「俺は、ゼッタイに認めねえっ!」
食ってかかるような喧嘩腰。不貞腐れたような彼の声音には、しかし、たしかに受けてきた教育に対する恭順があり、コーディネイターに対する悪意が入り混じっていた。
このとき拳銃こそ取り上げていたが、少なくとも、本当に取り上げていて良かったとスティングが思ったくらいだ。アウルは激昂のまま手当たり次第にわめき、自分達への敵意を隠そうともしない。
「俺はゼッタイに、コーディネイターと一緒に戦うなんて認めねえからな!」
意識はしっかり保てていたのか、彼の口振りは、今までネオらの交わした会話を聞き、念頭に置いた上で拒絶するものだ。
云うだけ云って、彼は踵を返すと、その場にいる全員に背を向けてしまった。
ステラが声を上げる。
「え……まって、どこ行くの、アウル!?」
「付き合ってらんねえ! 俺は抜けさせてもらう!」
「はぁ……っ!?」
突き放されるような言葉に、ステラはショックを受けていた。
抜ける? それは、自分達の隊を──という意味か?
愕然としているステラを尻目に、アウルは斟酌せず先を続けた。
「だいたい何だよ! みんなして〝世界がどう〟だとか、マジなカオになっちゃってさ!」
斜に構え、現実を小馬鹿にでもしたように、アウルは云いたい放題に云った。
どいつもこいつも深刻そうな顔をして、まだ起こってもないことでマジになってやがる! ──アウルは、そういうのがとても「カッコワルイ」と信じていた。その点、自分は
もっとクールにやるんだ! そう意気込んでいるアウルへ、しかし疑問を差し挟んだのはメーテルだ。
「で、でも隊を抜けて、それでどこへ行くの……? わたしたち三人、これまでずっと一緒にいて──行くアテなんてないじゃない!」
「……っ! う、うるっせえな! オレにだって──!」
四の五の云っているアウルであるが、要は、図星を突かれてしまったらしい。
そして、それは当然なのだ。云われた所へ行き、云われたことをやってきた──そんな彼らにとって、これまで活動の指針を与えてくれた隊から抜ける行為は、そう簡単なものではない。
要するに、これはアウルの意地なのだろう。それが兄貴分として、スティングには判ってしまった。
「意地張ってんじゃねよ、アウル……」
呆れたように糾弾するが、返ってくるのは語気の強い否定の言葉ばかりだった。
アウルは子どもが学校の先生でも呼びつけるように云った。
「
「──。ああ、それは別に構わないが」
ネオは本心から応答する。マユ・アスカが手に入った以上、彼はもうジブリールの子飼いであることに必要性など感じてないからだ。
──しかし……。
報告か。どうにも、アウルはそれをあの男にすることで、どれだけ自分の首を絞めるかまで想像が及んでいないらしい。遅めのエディプス・コンプレックス──そう表現すれば可愛らしいが、あまり褒められたものではない。
「悪いことは云わないよ、アウル。きみも、こちらに来ておくべきだ」
「オレはもうアンタの隊を抜けたんだ! ここから先は、オレの勝手だ!」
「…………」
取り付く島もないのはマユも同じだったが、それでも彼女とは別種の反応であり、こうも感情に流されて容易く理性を失う十代特有の『そういう時期』には、得意の弁も通じない。
だからこそ、彼は「忠告はしたよ」と、相手に云い残すしかなかった。
どのみち、これには時間に解決して貰う以外の解決手段はないのだ。アウルも男の子である以上、一度張った意地をそう簡単に取り下げることは出来ないだろう。そのような行いは、男としてのプライドが絶対に許さない。良くも悪くも、それは軍隊らしい雰囲気を作ってこなかった、ネオの落ち度でもあったのかも知れないが。
「──アウル!」
怒ったように去っていく背に、ステラは手を伸ばす。
しかし、それきりアウルは「フンッ!」と鼻を鳴らすと、振り返ることもしなかった。
追いかけられるのも嫌と云わんばかりに、それきり足を止めず、坑道の外へと走り去ってしまう。
「アウル……っ」
悄然として、ステラはその名を呼ぶしかなかった。
彼は本当に、ステラ達の前から去ってしまってしまったのだから。
「……えーと、追いかけなくていいんですか?」
唐突なアクシデントだったからか、その人間を殴った直後であることも忘れ、マユはネオを見上げて訊ねていた。彼もまた、さっきのことは気にした風もなく答えた。
「……忠告はした。それにあれも、一度張った意地を取り下げるのは本望ではなかろう」
「でも家出男子の『探さないでください』って云うのは、それ『探してください』って意味ですよ?」
「それでこそ男の子か……」
女子特有の目線でもって、マユは呆れたように男子の生態を解説する。
追わないでくれというのは、追ってくれという意味でもある。あんなことを云いながら、彼は本当は止めて欲しかったのではないかと、マユは打診した。要は、心配して欲しいのだ。
ネオはほとほと付き合いきれんと深いため息をついたあと、飄然と云った。
「まあ、手は打つさ」
そう云って、ネオは今回の話を締めくくった。というより、そう云って締めくくるしかなかったのだが。
アウルは、そうして〝ファントムペイン〟を離脱した。彼はその判断を──みずから選び取ったその選択の結果を、後にして死ぬほど後悔することになるのだが。
当然の帰結として、このときの彼らに、そんなことは知る由もなかった。
マユ達はそれから、ネオ・ロアノークの意に従うままに、スカンジナビア王国へ指針を取った。
────これは後になって判明したことだが、洞窟の外に出てから、どうやらアウルは〝アビス〟を置いていったと判った。そのときアウルが何を考え、愛機としていた機体を置いていったのかは不明だ。だが、こんな機体はもう要らないと、ロアノーク隊に情けや未練などないという、それは彼なりの意思や意地の表明だったのか? それによって、アウルがどこへどう向かったのかも不明になったが、なんにしても、乗り手が居なくなって放置されたネイビーブルーの機体を、ネオは当然に戦力的に惜しんだ。彼は彼のために用意されたホワイトグレーの〝ウィンダム〟をあっさりと廃棄すると、彼自身が〝アビス〟に乗り込んで、これを運搬したのだ。
ネオは、ジブリールの息が掛かっていると揚陸艇〝J.P.ジョーンズ〟に一方的に別れを告げると、その瞬間をもって〝ファントムペイン〟を離脱──既に〝ロゴス〟の傀儡となっている、大西洋連邦からの正式な独立を内外に表明した。
云ってしまえば、それは造反だった。
しかし、そんな男の根回しは、やはり周到であったと云わざるを得ない。
暴力に訴えることもなく、いずれ来るその日に備え、大西洋連邦の勢力下には彼の意に乗じる将や兵も点在していたようで、それらが指揮する揚陸艇を丸ごと奪取するような形で、彼らはスカンジナビアへの航路を取った。
そこに何があるのか? その答えというのは、案外すぐに分かることになった。
「スカンジナビア王国って?」
艦内のレクリエーションルームにて、ステラは首を傾げる。
彼女にとっては、聞いたことも無い国の名だったのだろう。それには居合わせていたマユが答えた。
「北ヨーロッパにある国だよ、あそこはもともと、オーブの友好国だったんだ。──だから、私もよく知ってる。あの国の王家とオーブの首長家が、代々親交が深かったんだよ」
「……だった?」
「ああ、うん。最近は地球連合の傘下に加わった──ていうか、加えさせられたって、ニュースで見た。だから今は、連合寄りのはず」
『世界安全保障条約機構』──
ごく最近、大西洋連邦がブレイク・ザ・ワールドによる反コーディネイター運動の高まりを受けて、地上各国に働きかけている同盟のことだ。
表向きは「各国連携による円滑な被災地への支援・援助」を目的とした同盟だが、その実態は、大西洋連邦による独裁的支配であり、要するに「〝プラント〟を敵対国と見做し、一緒にザフトと戦いましょうキャンペーン(※マユ意訳)」であると、政治に詳しくない彼女でも見通せるくらいには明け透けな運動だった。
「今、そんな大西洋連邦からの呼びかけを立派に拒否しているのは、まずファウンデーション王国。──流石の大西洋連邦も、あの国にはそう強引な手は打てないみたい」
それはそうだろうと、ステラも思った。
あの国の異常に聡すぎ、そして不気味すぎる。考える頭を少しでも持っている人間なら、ユーラシア連邦の二の舞──いたずらに女帝を怒らせて、強かな逆撃を被るような真似はしないだろう。
「そして、オーブ連合首長国の
マユは祖国の名を呼び、今度のステラはそちらにこそ、怪訝がる反応を示した。
ファウンデーションは理解できるのだ。あの国が独立
なら、オーブという国は? その国もまた、それほどの力を持つ国なのか……?
「よく知らないけど、オーブも軍事力には定評があるの?」
「軍事力がどうかは分かんないけど。代表首長のカガリ様は、あの『
マユは個人的に、カガリのことが好きだ。あの竹を割ったような性格は見ていて胸がすく思いになるし、国のお姫様だというのに、男勝りで、話していると全然そんな気にならない──寧ろ、ずっと昔から友人であったかのような、そんな身近ささえ憶えてしまう。
共に三隻同盟にいたときに、そう感じたことがあるのは事実だった。ラクスのカリスマ性とはまた違う。ラクスがさながら天上から人々を引っ張り上げる、無瑕の女神なら、カガリは地上の人々と痛みを分かち合って共に進む、瑕だらけの女神のようだ。
「──でも……」
そう謳ったマユの表情が一瞬だけ蔭ったのを、ステラは見逃さなかった。
「みんな口を揃えて云うのは、『まだ若い』とか『直情的すぎる』とか、そんなことばっかり。たしかにまだお若いのに、この情勢で政治を執るなんて難しすぎるとは思うけど……」
たしかに彼女は実直すぎ、そもそも政治家に向いていないという意見も多い。
少なくとも、マユから見ればネオ・ロアノークのような人でなし的な冷酷さを持っていないことは確かで、良くも悪くも裏工作には向いてなさそうだ。それで政治家が務まるのかと、危ぶむ声が大きくなるのは無理からぬことだろう。比較対象が『オーブの獅子』で、稀に見る傑物であったのなら猶更だ。
「それでも、カガリ様は今もまだ大西洋連邦の魔の手を搔い潜って、同盟条約を押し除けてる。あの方もあの方で、獅子の娘として頑張っていらっしゃるってことなんだ」
大西洋連邦は、やはり世界安全保障条約機構にオーブを加盟させようと色々画策しているようだが、どうにも成功には結びついていないようだ。
そもそもスカンジナビア王国は、上述の二国と同じく、最初こそ大西洋連邦へ断固不服従の意思を表明していた。かの王家がそう簡単に外部からの圧力に屈するはずがないので、おそらく〝内部から切り崩された〟のだろう……そのまま内政の敵に摘ままれる形で、王家はなし崩し的に同盟条約の締結へと採択を押し切られてしまったに違いない。
これは予想でしかないにしろ、おそらく大西洋連邦が買収等のお得意の汚い手を使ったのだ。オーブで置き換えてしまえば、
セイラン家は、先の大戦で五大氏族の自決に伴い、その座に繰り上がった下級氏族の出だ。以前は連合寄りだったはずが、何があったのか、今はアスハ家と共に断固として連合への不服従を貫いていると聞いている。
「──おいおい、そんなところに、ネオは何の用事があるってんだ?」
話が脱線しすぎたか。自販機から炭酸ドリンクを買ったスティングが戻ってきて訊ねてきた。
ステラは「分からない」としか答えようがない。連合からの独立を宣言した自分達が、どうして、その連合に加わったという国、敵対国へ向かっているのか──?
やがて艦は、スカンジナビア半島に深く繰り込まれたフィヨルドへ到着した。到着のアナウンスが流れるや、いきなりネオがマユの許を訊ねてきた。
「──マユ・アスカ。きみの訴求に答えよう」
相変わらず。男は真意を伺わせない声色で、そうとだけ短く云った。
「云っただろう。見せた方が早い、と」
その言葉の意味を確かめる間もなく、マユ達は潜水艇への移動を求められた。
彼女達が呆然と乗り込んだ小型艇が、水底の景色に完璧に偽装されたハッチから、切り拓かれた地下水路にもぐりこんでゆく。秘密基地──そんな表現が似合いそうな通路を抜けると、潜水艇はやがて得体の知れないドッグへと辿り着いた。
そのまま係員スタッフに案内される。ネオは到着するなり、その人間にステラとマユ達を任せてどこかへ姿を消してしまった、やはり掴みどころのない男だった。
「造船場……?」
誘われるまま、完璧に排水された空間に降り立つ。
プラットフォーム上から見下ろせる異様な景色に、ステラは疑念の声を漏らした。目下では技師や作業員らしき者達が、様々な艦艇の整備作業を行っていたのだ。
後に続くメーテルもスティングも、この得体の知れない空間と待遇には唖然とした様子だ。マユは「お姉ちゃん達も来たことがないの?」と訊ねたが、やはりステラは首を横に振った。てっきり、ネオを筆頭として彼女達も既に認知した空間だと思っていたのだが。
「スカンジナビア王国に、こんな場所が……?」
マユは唖然として声を漏らす。
──この国が、オーブの友好国というのは聞いていた。
だが本当の意味では、マユはその言葉を理解していなかったのだろう。それが表す現実の深さと重さを、次の瞬間、マユは目の当たりにすることになる。
「──え」
その艦影の中に、ひと際異彩を放つ白の巨艦を見つける。マユはその艦影に、不本意ながらもドキッとして、胸に熱いものを憶えた。どうしてこの艦が、こんな海の底にあるというのか……!?
「〝アークエンジェル〟……!?」
白亜の〝大天使〟──かつて戦争を止めるために戦った、三隻同盟の内の奇跡の戦艦だ。
──どうやら、男の云う『歌姫の騎士団』は、彼女が想像する以上に裾野を広げているらしい。
その白い天使を一目見だけで、マユはその事実に、戦慄を憶えたという。
軍部からの通達を受け、ジブリールは旗艦〝J.P.ジョーンズ〟へと足を運んだ。足を運んだというより、呼びつけられたに等しいのだが。
「何なんだ、コレはァッ!?」
このときの彼の目は血走っており、廃棄されたホワイトグレーの〝ウィンダム〟──現在はモビルスーツ・デッキの上で、乗り手を失ったように無様にも擱座しているネオの専用機──に向けられていた。
〝ジョーンズ〟艦長の男から秘匿通信で連絡があり、ロアノーク大佐が「軍から逃げた」と報告を受けたのだ。挙句、彼に続くように〝カオス〟〝ガイア〟〝アビス〟のパイロットまでもが行方を晦まし、不審に思った艦長がポイントまで偵察機を送ったところ、付近で適当に廃棄されていたこの機体を見つけたという。
「ネオ・ロアノークが! ──いったい何故!? どういうことなのだね、コレはッ!?」
ジブリールはギリギリと歯を噛み締めながら、将校の男に喚き立てる。
「単身でポイントに向かっただと? なぜ誰も監視を付けなかった!? これは、キミの責任問題だな!」
ジブリールは、例によって他責に走った。
乗り捨てられた〝ウィンダム〟のコクピッドの中からは、どういう意味か、一枚のトランプカードが見つかった。こちらに舌を見せつけ、人を小馬鹿にするようなカートゥーン調の道化が描かれたカードであったのだが、その絵柄の脇に、はっきりと自分達の離反を示す挑発的なメッセージまで書き残されたオマケ付きだ。
馬鹿にされた!? 私が? あのような男に!? ジブリールの怒りの理由は、それが一つでもあった。そのトランプを押し付けられた将校は、昂然として云い返す。
「しかし、ロアノーク大佐のこれまでの功績を鑑みれば、監視など! 彼を疑う余地などありませんでした! ──だからこそ、貴方もあの男に全権を任せていたのありましょう!?」
将校は、そのトランプをさらに渡し返す。
そうなのだ。将校の云う通り、これまでジブリールは『ネオ・ロアノーク』という男に対し、ある意味で全幅の信頼を置いていた。あの男に施した精神操作は完璧なものであるし、あの男がジブリールの命令に背いたことなど、ただの一度もなかったから。
──常に〝ロゴス〟に忠実な犬として、あの男は期待以上の成果を成し遂げてきた。
少なくとも、ネオはジブリールが求めた仕事は淡々とこなしてきたのだ。憎きコーディネイター達が浮かれきっているからと〝アーモリーワン〟の軍事式典を台無しさせ、戦争再開のための口実が欲しいからと〝ユニウスセブン〟の真犯人を突き止めさせた──その他にも、これまでの任務はずっとだ。
それもこれも、ジブリールには具体的な方法など何も思い浮かばなかった。まともな軍事の心得もない彼に、軍事作戦の考案や指揮など出来る筈もなく、式典の件にしても「アレを何とかしろ」と乱雑に伝えたに過ぎない。ネオはそれを独自の経験と機転で軍事作戦に昇華し、コロニー内で開発されていた新型機の強奪という形で解決した。しかも、奪った機体を使った強襲作戦で〝ミネルバ〟まで討ち取ろうとしたのだ。
──なんと手際が良く、なんと素晴らしい作戦を思いついてくれるのか……!
ヤツらが造り出した兵器で、ヤツらを撃つ! ああ、なんと美しいプランだろう?
当時のコーディネイター共が浮かべたであろう苦渋の表情を想像し、ジブリールも大いに溜飲を下げたものだ。その日の夜に傾けたボトルワインの味ほどに格別なものはなく──だったら、それで良いではないか。
──あの男に任せてしまえばいい。そのことに、何の問題があったという?
結果論で云えば、ジブリールは楽観的すぎた。精神操作技術の完成と、あの男と少女を使った権威と軍事力の獲得。役に立たない〝ロゴス〟の老人達を黙らせ、自身が目指す秩序ある『蒼き清浄なる世界』の実現は、彼らの活躍を贄として早々に実現できるはずだった。そうした裏で、ネオが叛逆の爪を砥ぎ上げていたことなど、露ほども想像しなかった。
端的に云えば、彼は『ラウ・ル・クルーゼ』という男の力を見縊っていたのだ。それほどの男が、いつか嵌められた首輪を勝手に挽き千切って逃げ出し、いつか己をも脅かす脅威になるとは、本気で一度も考えなかったのである。
「……ッ、黙れ!」
──軍人風情が、この私に指図するとは!
付き合い切れないと云わんばかりに、ジブリールは顔を背ける。そのあまりの剣幕に、さっきまで彼が抱いていたはずの彼の愛猫がどこかへ行ってしまっている。
彼はそれを認めて、一瞬唖然としてしまった。
「まったく、飼い猫に手を噛まれるとはこのことですな……っ」
──仕事はまだ、山ほど残っているというのに!
ジブリールは語気も荒く吐き捨てる。
将校は「仕事……?」と訊ね返す。
「ええ、そうですよ! 今やヒーローのように持て囃されている、忌々しい〝ミネルバ〟の討伐! 貴方がた軍人はみな牙を抜かれたように乗りたがらないファウンデーション王国への征伐! そして、今もまだ難航しているオーブの懐柔──」
どれもこれも、ジブリールにとっては意のままにならないものばかりだ。
──腐った部分は、いち早く取り除かなければならないのに!
そうでなければ、世界はどんどん、醜い汚濁で広がっていってしまう。
「──そして、ユーラシア北側の鎮圧も、ね」
ユーラシア北側──? ベルリンをはじめとした、反連合感情の根強いザフト駐留下の地域か?
将校は凝然として、目の前の男を見る。
この男は、いずれの仕事も、ロアノーク隊にやって貰うつもりだったのか……?
「ロアノーク隊が使えないのなら、それはまた、別の隊にやってもらう他にありませんな」
このときのジブリールの頭の中では、急速に『計画』の練り直しが図られていた。
ザフト期待の〝ミネルバ〟を墜とし、先だって独立を果たし調子に乗っているファウンデーション王国を叩き潰し、またも独立不羈を貫こうともがいているオーブを取り込み──最終的には、ベルリンをはじめとしたユーラシア北側を戦略兵器で焼き払う。
既にネオ・ロアノークという頭脳と、ステラ・ルーシェという軍事力を喪失してしまった今、彼は早々に、その任に耐えられるだけの走狗を必要としたのだ。
「ジブリール様」
そんなとき、随員の一人が声を掛けてきた。
なんでも、行方知れずだった〝アビス〟のパイロットが、一人だけ艦に戻ってきたというのだ。
艦に戻ったアウルを待ち受けていたのは、将校らによる容赦なき制裁だった。まず最初に事情を聴取されるわけでもなく、機体すら持ち帰って来なかった下級士官に対し、大柄な将兵達は、複数人で寄って集って暴行に走った。
その対処にアウルは納得がいかず、反撃に出ようとした。だが結論から云えば、それは敵わなかった。能力で云えば個人では劣るはずがないのに、結局のところ、人数差に勝てるものではないのだ。将校達は思い々いに聞き分ける意味も言い出せない罵声を浴びせた後、地に転がされたアウルの腹部を足で蹴り飛ばした。
「ぐっ、あぁっ!」
顔を踏みつけられ、足裏でグシャグシャにされる。それは彼らによる報復であり、大いに腹癒せの面があった事は否定できないだろう。
これまで特殊部隊の隊員として、少尉階級とは思えないほどの特権的位置にいたアウルだが、彼は今回、その権力を失ったことに気付かされたのだ。今までは『ネオ・ロアノーク』という男によって辛うじて保たれていた艦内のパワーバランスが崩れ、庇護者を失った今の彼に、通せる自我などありはしない。
そして反対の立場からすれば、これまでずっと特権意識に思い上がっていた者へ逆襲へ踏み切れる局面だった。最大の庇護者を失った『ロドニア上がり』など、最早人間扱いするのも馬鹿馬鹿しいといった風情だった。
「『ロドニア上がり』──!? てめぇ! いま何て云いやがったッ!?」
「何度だって云ってやる。貴様らは出来損ないだ!
これほど卑しく、悪意に満ちた言動が、まさか自分の所属していた陣営の上官の口から零れ落ちるとは思ってもいなかった。自分達は今までそんな風に思われていたのかと、現実に直面させられたアウルが受けた衝撃は言葉以上のものがあった。
たしかに、ロドニアのラボは閉鎖され、その影響でアウル達は予定されていた『
だからこそ、アウル達はこれまで人間らしく、自由気ままに振る舞えてきたのだ。少なくとも、ロアノーク隊の中ではそうだったが──しかし、そのワガママは外の世界では通じないということなのか……? 尊厳は踏み躙られ、積み上げて来た自信は、文字通り目の前の男によって蹴り崩される。
「俺は──俺達は、でき損ないなんかじゃねえっ!」
だが、アウルは唇を噛み締め、男に向かって吠え続けた。
拘束を抜け出し、身を起こして飛び掛かる。
──ネオは!
少なくとも、あの男は。
──ネオはそんなこと、絶対に云わなかった!
俺達を〝出来損ないの失敗作〟だなんて、絶対に、そんな風に貶めたりはしなかった!
その瞬間になって、アウルは、己の捨てたものの重みを知った。
「フンッ!」
「ぐあっ!」
膝が腹部に叩き込まれ、アウルの体は強かに投げ飛ばされた。もはや立ち上がる体力も気力すら残されず、少年の体は冷たいデッキの床の上、ボロ雑巾のように打ち棄てられた。
海に投げ捨ててしまえ──そんな言葉が兵達の間で交わされ出した始めた頃になって、そのときキャットウォークの上から、一人の男が姿を現した。軍艦には不釣り合いな、高級スーツに身を纏った男──ジブリールだ。アウルは擦れた視界でその姿を捉えた。
「待ちたまえ」
ひと言の下に兵士達を黙らせるその男こそが、自分達の『主人』であると、アウルはそのとき理解する。
けれども、血色の悪い顔。下卑た笑みを浮かべたその性根の歪んでそうな顔は、どうにも自分を救いにきた殊勝な人間であるようにはとても見えなかった。実際、将校の疑念の声に応じるように、その男はやけに艶のある唇を動かして云った。
「私はね、裏切り者に容赦をするほど、そんな生温い男ではないのですよ──その小僧、ここでこのまま殺すには惜しい。世の中には、死ぬよりも辛いことなどいくらでもあるのですからね」
不穏な言葉とは裏腹に、ジブリールは慇懃な口調で話を続けた。
「では、どうしたものかと思ったのだが……幸い、『
それは、頓挫していた『強化人間』製造計画。ロドニアのラボの閉鎖を受けて、消えたと思われた計画が、再び火勢を得て動き出したらしいのだ。
ジブリールは曲がりきった、いや矯正不可能なほどに歪み切った笑みを口元に浮かべ、憎しみと怒りと共に云い放つ。
「ネオ・ロアノーク、あの男にはツケを払わせますよ! ──部下の命を用いて、ね!」
この屈辱を晴らさずにいられるか──!
既にジブリールの中では、自身の美しいプランを邪魔した『敵』への憎しみの方が、はるかに凌駕していているようだった。
「連れていけ」
引っ立てられ、そうしてアウルは、いずことも知れぬ研究所へと連れ去られていく。
起きない頭で、アウルは考えた。
──冷たい……おぞましい、あの場所に似たところへ……?
やさしく笑う、金の髪をした女性──あの人は、そこにいるだろうか。
──ねえ、かあさん……?
そのとき自分の足元に、一枚のトランプカードがはらりと舞い降りてきた。ジブリールが投げ捨てたものだが、そこにはこちらに舌を見せつけ、物事を小馬鹿にしたような態度の道化が描かれている。
それが、まるで何も知らなかった自分の姿であるように思えた。
ジョーカー、いやこの場合は、ババといった方が正しいか──?
──誰も引きたがらない。
──でも、結局は誰かが引くしかない。
そして間違いなく、自分がソレを引いたのだと、アウルは確信してしまった。
──道化? 違う、これは悪魔だ。
自分こそが、悪魔の札を引き当ててしまったのだと、アウルは気付いてしまった。
作者の中で、運命篇序盤はこれにて終了。
これまではDESTINY組をメインで焦点に当てるように心掛けて来ましたが、次回からは、これまで全く出てこなかったSEED組が少しずつ登場する予定です。まずはカガリ、アスラン辺りを予定。