「……………」
博麗神社、その境内にてーー博麗霊夢は真剣な表情で佇んでいた。
雪が降っているにも関わらず、腋が大きく開いた寒そうな巫女服を着ている彼女は、しかし額に玉の様な汗をかいている。
吹き荒ぶ風も寒気も、今の彼女には一切気にならなかった。少しでも油断すれば、“何が起こるか分からない“。今霊夢は一種の賭けをしている様な物だった。
「…………くっ」
限界は唐突に訪れる。まだ安全といえるギリギリまで結界を緩めていたが、そろそろ本当に危ない。境目が壊れ、幻想郷そのものが無くなってしまう可能性もある。安易に危険な行動を取ってしまったというのは分かっている。しかし、そもそもここまでしたのにあのスキマ妖怪が現れないというのが異常なのだ。
「普段ならちょっと緩めるだけでもすぐに飛び出てきて注意してくるのに……」
思わず溜息を吐く。これでも紫とはそれなりの付き合いであるつもりだ。心配もする。
そこで思考を切り替え、再び結界に意識を送る。
「…………!」
結界を緩めるということはこちら側とあちら側の境界を緩めるということ。こちら側から何かが零れ落ち、あちら側から何かが流れ着いてしまう可能性もある。が、四の五の言っている間に幻想郷に何か危険が迫っているのかもしれない。それだけは、幻想郷を守る博麗の巫女としては避けなければならなかった。
目を瞑り、意識を集中させる。が、それは肩を叩かれたことと声をかけられたことで一度途切れた。
「そんなことをしたって無駄だ。紫様は目覚めない」
「ーーそんなこと分からないじゃない、藍」
振り返った霊夢は不満気にそう呟く。対する藍もそうは言ったものの可能性としては否定できないと考えていた。
ーーしかし、あの方はこんな形での目覚めは望んでいない筈だ。みすみす幻想郷を危険に晒してまで目覚めようとは思わないだろう、きっと。
「……玲亞は?」
話題を変えるために霊夢がそう聞くが、藍は無言で首を横に振る。その様子を見て再び溜息が零れる。
「……今ここに、何が起きてるのかしら」
そんなの此方も聞きたい位だ、と藍は思う。自分にだって何が起きてるのか全然把握出来ていない。主は目覚めないしもう一人の式は目下行方不明。生きているのか死んでいるのかも分からない。そして何より分からないのが、今もなお幻想郷に春が帰ってこない現実である。
ーーーー異変を解決した筈なのに、春は帰ってこなかった。無論西行寺幽々子や魂魄妖夢にも話を聞いたが、本人達にも理由は分からないそうだ。幻想郷の春を集め、束ね、西行妖に注入していたのだから、それが消えた今それらは散らばり在るべき場所に還らなければおかしい。が、そうはならなかった。
正に八方塞がり。それでいて五里霧中。しかし、そんな状況の活路になるかもしれない物を藍は今日持ってきたのだった。
「……霊夢、我が家でこんな物を見つけた」
「……これは………何かの式?」
渡された紙には英語と数字で何かの数式がかかれている。不思議そうにそれを見る霊夢に藍が内容を説明した。
「その数式を要約すると、要するに結界をギリギリまで緩めれば玲が帰ってくる、ということが書いてある」
「へえ……でも、もしそうだとしてもそれは誰が書いたのかしら?案外紫は狸寝入りなんじゃないの?」
「恐らくそれは無いと思うが……書いたのは紫様で間違い無いと思うぞ。筆跡同じだし」
「流石紫ね。未来予知でもしたのかしら?」
「何でもお見通しなんでしょう、あの天下の大妖怪様には」
皮肉気に笑う霊夢の後ろで懐かしい声が響いた。振り返ると、そこにいたのは我らが主人公名雲玲亞だった。
「れ……玲亞!?どうしたの、何があったのよ!?」
「色々あったんですよ………色々と、ね」
☆★☆★☆★☆★
そこは何も無い空間だった。物はなく色も無くかといって白でもなく黒でもない。己の意識がそんな場所に存在するのが不思議だった。
「………もしかしてここは」
「そう、貴方の考えている通りよ」
スキマが開き、そこに紫様が現れた。それだけで世界が紫様の色一一つまり紫色に染まっていった。なんか影響力高いね。
「ここは自分の意識の境界の境目。自分という存在を形成する境界と境界の間に存在する場所。貴方は今、そういう場所に立たされているの」
「ここが………」
境目という割には本当に何もなく味気ない場所だ。
「貴方は今選択を迫られている」
「選択……?」
紫様の目は真剣だった。聞きたいことは色々あったが、ひとまず話を聞く。
「春雪異変を経て、貴方は大きく変わった。そう、“変わった“。決して成長した訳ではなく、ただ変化しただけ。肉体的に一一精神的に」
「……どういうことですか?」
変化、と言った。いやしかし、ただ幽々子さんと戦っただけなのにそんな大きな変化があるわけ………
「あら、貴方は覚えていないのかしら?自分が生と死の境界を越えたことに」
「あー、そういえばそんなこともあったような無かったような」
思い返してみると謎の行動だ。生と死の境界を越える、ってどういうこと?無我夢中でやってたし覚えてないなー。
「要するに貴方は一時的に死なない……いや死ねない体になってたのよ。人間に限らず生物は皆常に生と死の境界を彷徨っている。なのにその境界を越え、完全な“生“の状態になっていた貴方は、つまり人間の境界を越えていた」
「え、僕そんな高度なことしてたの!?」
「例え意識していなかった状態だったとしても、貴方のしたことは十分体に影響を及ぼした。そのおかげであんな無茶な駆動が出来たのだろうけど」
「無茶な駆動……?」
心当たりは無いんだけど何だろう。あ、あれか。一度死に誘われた後の話か。確かにあれは霊夢達の助けが無ければ危なかったかも。
紫様はコホンと咳払いして話を続けた。
「……私にもよく分かっていないのだけれど、今、貴方の中のある境界が薄まってきているようなの」
「ある境界……?」
「……人と妖の境界よ」
鈍器で頭を叩かれた様な衝撃を覚えた。紡がなきゃいけない次の言葉が思い浮かばない。質問するべきなのか取り乱すべきなのか泣き喚くべきなのか。今まで紫様達と過ごしてきて妖怪に対する印象は良い方向に傾いていた筈だ。悪い妖怪だけじゃない、良い妖怪だっている。頭では理解したつもりでいた。和解したつもりでいた。打ち解けたつもりでいた。しかし、脳内でフラッシュバックするのは奪い蹂躙し暴れ回るケダモノ達の姿だった。
一一あんなモノに成り果ててしまう?僕が?人の幸せを壊す、化物に?
「……完全な“生“の状態。それに限りなく近いのは私達妖怪。病は患わず怪我はすぐに治り寿命は限りなく長い。人に認識され一一一人を、その命を糧にする限りはほぼ完全な“生“の状態でしょう。だから貴方の体は咄嗟に限りなく人と妖の境界を薄め、短時間だけど妖怪となった。今は再び人間に戻れてきているけれど…………境界を越えるというのは境界を薄めるという事でもある。次に同じことになった時は間違いなく一一こちら側に戻って来れなくなるわ」
無慈悲に突きつけられる現実。受け止めきれないその衝撃の中で、ふと気づく。
ーーそうだよなぁ、この人も妖怪だったんだよなぁ………
「ついでに言えば妖怪になるということはこの幻想郷で生きていけなくなるということを意味する。人が妖怪になるということはこの幻想郷の根本を崩しかねない。だからそれは禁じられているの」
「あの……紫様」
「何かしら?」
聞こうと思えばすぐに聞ける。『貴方は今まで人を何人食べてきましたか?その時どんな気持ちでしたか?』と。しかしそれに対する回答のことを考えると、何故か頭の中が真っ白になった。
が、喋らない僕を見兼ねてか、紫様が諭すように優しく囁く。
「……玲亞、不安だろうけど大丈夫よ。能力さえ使わず過ごしていれば妖怪になることはない。何ならどうにかして能力を封印することも出来なくはないかもしれないわ」
「あの……紫様」
「何かしら?」
そこでどうしても聞きたいことができてしまった。話の先よりも、僕はそれを聞くことを選んでしまった。
「……もし、もし僕が妖怪になってしまったら………紫様はどうしますか?」
何故そんなことを聞く?回答なんて分かりきってるのに。
「……この幻想郷から追い出すしか、ないわね」
何を期待していたのだろう。何に期待していたのだろう。自分なら助けてもらえるとでも思ってたのか?この人に見捨てられる筈がないと妄信してたのか?
だとしたら一一自分は甘過ぎた、としか言えないだろう。
この人が何より大事なのは幻想郷であり、別に僕なんてぽっと出の一外来人に過ぎない。たまたま能力の都合が良かっただけ。近いから、似てるから相性が良い、そんな理由で一緒に居させてもらっただけなのだから。
一一そうだよね。妖怪だらけの八雲家で、一人だけ人間で、男だった僕は、完全に邪魔者だったのかもしれない。
「…………玲亞、」
彼女は心配そうな表情を浮かべる。どこか見透かされているような気がして怖かった。気持ち悪かった。
名前を呼ばないで欲しかった。呼ばれる度に縛られる様な感覚を覚えた。何かを言おうとしているのが見えたが、それを遮るように一一逃げるように淡々と言う。
「すいません、一人にさせてください」
明確な拒否。それを行った瞬間世界の色は塗り替えられた。紫から黒へ、そして紫様も気がついたら消えていた。目を瞑り、この空間に身を任せる。次第に溶けていく感覚。どうせなら、本当に溶ければ良いのになんて思った。
【子供の頃に 少し無茶をして 通りがかった道すがら
始まった小さな冒険を 覚えているかしらね
意気揚々の出だしも 段々と勢いを失い
しまいには迷子になって 立ち尽くしたこの景色を
覚えているかしらね
さぞかし心細かったでしょうね
綻びを見る度に
心の何処かで思い出しなさい
どうしようもない程
世界は理不尽に塗<まみ>れている事を
見るな。来るな。
知るな。渡るな。
それ以上こちらに歩みを進めるな。
聞くな。寄るな。
理解<わか>るな。探るな。
手に入れる価値のあるものなどどこにある
変わりきってからしか気付けはしないのだ
後戻りなど出来ない事に
夜が覆い隠す
非常識のその裏側を覗き見てはいけない】
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
気がついた時には博麗神社の境内で、聞き慣れた二人の話し声が聞こえてきた。
話しかけたのは良いが、その瞬間気づく。藍さんと一緒にいると紫様の元へ戻らなくてはならない。ひとまずどこか遠くへ行きたいと思った。
「すいません、僕用事があるので」
引き止める二人の声が聞こえたが、気にはしていられなかった。スキマを開き境界を越える。
何処か、何処か遠くへ行かなければ。そう思いながら飛び出した先は大きな大木の前で、止まることも出来ずそのまま衝突。強い衝撃を受け、目の前が真っ暗になった。
今まで目を逸らしてきた問題に向かい合わせてみた話でした。さあ、玲亞は妖怪を認めることが出来るのか?紫と分かりあうことが出来るのか?っていうか妖怪になっちゃうのかなっちゃわないのか!?作者にも行く末は分からないっ!←