+ 番外編『それでもサンタはやってくる』
WHITE ALBUM2(cc~coda)closing chapter
『心の永住者 closing chapter』
かずさ ウィーン冬馬邸 12月上旬
東京の冬と比べるとウィーンの冬は寒い。
今年で3度目のウィーンの冬であったが、いまだ慣れることができない。
体が寒いだけなのか、心が空虚で何も受け付けないだけなのか、
それともその両方なのかは分からないが、かずさは冬を喜べなかった。
なによりも、冬が来るとどうしても3年前の日本での冬を思い出し、
よりいっそう心が苦しくなってしまう。
そんな3度目の冬であっても、かずさの心の傷は、ふさがることも、
対処することもできずにいた。
ふと時計を見上げると、もうすぐ6時を過ぎようとしている。
朝食をとったのが午前10時ごろ。
その後ずっとピアノを弾いていたとこともあって空腹を感じてしまう。
キッチンに行けば、ハウスキーパーが用意した食事があるはずだが、
どうしてもこの防音処理がされた窓がない部屋から出たくはなかった。
この部屋を出たら、窓の景色を見てしまう。
そして、冬を感じてしまう。
だから、空腹を感じるのを忘れるくらいピアノに没頭するしかなかった。
ふいに部屋の空気が乱れる感覚を覚え、部屋の入口を見ると、
曜子が「ただいま」の挨拶もなしに部屋に入ってくる。
いつものように何も言わず、いつものソファに腰掛け、
しばらくかずさのピアノの演奏を聴いてから、そのまま出て行くのだろう。
しかし、どうも今日はなかなかソファから動こうとはせず、
かずさのことを興味深そうに眺めている。
かずさにその視線がまとまわ付き、くすぐったく感じてしまう。
別に、曜子にみられることが嫌なわけではない。
むしろ嬉しく思う。
いつも何も言わず聴いてくれているだけであったが、
それでも曜子が興味をもってくれていると分かり、安心してしまう。
だから、今日みたいに見つめられると、心がかき乱され、
つい内心とは反対のことを言ってしまう。
かずさ「なんだよ、さっきからずっと。」
曜子「なんだよ?って、それは、あたなの演奏を聴いてるんじゃない。」
かずさ「それはそうなんだけど、いつもはちょっと聴いて、
すぐどっかいってしまうだろ?」
拗ねた子供みたいな発言だと気が付き、曜子から視線をそらす。
若干顔が赤くなってしまったかもしれない。
顔を隠すように俯くが、それがかえって曜子の心を刺激してしまう。
だから、なにもなかったかのように演奏を続けるしかなかった。
でも、曜子には、そんな行動も全てお見通しなんだろう。
これ以上刺激しても、面倒だし、何も言わないほうがいいだろうか。
あとは胸に秘めておくことにした。
曜子「それはそうなんだけど、今日はあなたに用があったのよ。
それと、ちょっとじっくりとあなたのピアノ聴いてみたかったって
いうのもあるかな。」
かずさ「・・・・・ふぅん。」
今のかずさにとっては、曜子が自分のピアノに興味を持ってくれるのならば
素直に嬉しかった。それが、どんな意味を示そうとも。
かずさ「で、・・・・どうだった?」
さすがに誉め言葉だけを期待できるわけではない。
むしろ自分に足りない部分を指摘してもらった方が、これからの為になる。
それでも、誉め言葉を求めてしまうのは、仕方がないといえよう。
少し考えるそぶりをしたが、かずさの方を見つめると感想を述べ始める。
かずさも、それを遮らないように、曜子の声が聞こえるのと同時に演奏をやめ、
じっと鍵盤を見つめ、曜子の声に集中した。
曜子「いつもそうなんだけど、ここにはいない誰かに向かって演奏しているみたい。
目の前にいる観客なんて関係ないって感じで。
それはそれでかまわないわ。だって、何かを想って演奏することは、
私だってあるんだから。でもね、かずさ・・・・・。」
そこで言葉を閉じ、続きを言おうとしない。
曜子の言葉の続きが予想できてしまい、それがかずさの心を乱してしまう。
しかし、曜子の言葉の続きが気になり、曜子に視線を向け、先をうながす。
かずさ「でも、なんなんだよ。」
少し荒げた言葉になってしまったかもしれないが、できる限り冷静な言葉で
先をうながそうとした。それでも、かずさのいらだちを覚えた顔を見てしまえば
それが強がりだと曜子にはわかってしまう。
曜子「うぅ~ん、そうね。艶っぽくて、色気を感じる演奏だとは思うのよ。
これはこれで演奏家として成長はできてる。このまま続けてても
きっとお色気全開のピアニストが出来上がって、それなりに評価も
されるんじゃないかしら。」
かずさ「あたしは、そんな評価望まないけどな。」
そう言うと、不本意だとばかりに視線を背ける。そんな態度をとることも
曜子には予想できていたのか、かずさにかまわず話を続ける。
曜子「で、ね。こころから本題なんだけど、あなた、私と一緒に年末日本に行かない?
ちょうど大晦日に日本でニューイヤーコンサート企画してて、
12/20~1月末まで日本にいく予定なの。」
「日本」という言葉にぴくっと肩を震わせてしまう。
忘れようとしても忘れられない故郷。
いや、日本そのものに興味はなかった。
彼がいる場所ならば、そこがアメリカでも南極であってもどこでもよかった。
ただ、「日本」という場所が春希と結びつけてしまうために、反応してしまう。
しかし、忘れようとしてはいるものの、曜子の指摘通り、
いつも日本にいる春希に向けて演奏しているかずさは、まさに矛盾を含んだ行動をしていた。
ピアノの演奏後しばらくしたら春希を忘れようとするも、朝になったら
もう一度ピアノと向き合って見えない春希とピアノを通じて会話をする。
いや、忘れること自体、春希を忘れるふりをして、
春希を思い出していただけかもしれないが。
そんな矛盾に満ちた毎日が3年も続けられていた。
かずさ「あたしは、ここに残って練習してるからいいよ。
日本に行っても寒いだけだしさ。」
曜子「こっちに残っても寒いじゃない。」
穴あきだらけの防波堤は簡単に崩れていく。
かずさ「ここから出なければ、寒くないだろ。」
それでも、必死に穴をふさごうと応戦するも、相手の方が一枚も二枚も上手で
穴をことごとく打ち壊される。
曜子「日本に行っても、あなたのことだから、部屋にこもってるだけじゃない。
いい年した若い娘がこんな部屋にこもってないで、たまには外に出なさい。」
かずさ「そのいいよう、年寄り臭い。」
曜子「うるさいわね。」
少し照れくさそうに横を向く曜子を見て、してやったりと思うかずさではあったが、
結局は曜子に圧倒されてしまう。
曜子「私としては、このままあなたが小さくまとまってしまうのは避けたいのよ。
一応私を目標に頑張ってるんでしょ?」
わざとらしくかずさに挑戦的な目線を送ると、まんまとはまったかずさが
曜子に反骨的な目線と言葉をぶつける。
かずさ「今だけだ。あと5年。いや3年であんたの尻尾くらいは掴んでみせるさ。」
曜子「だったら、私の言いつけに従って、日本に一緒に行きなさい。」
かずさ「それとこれとは・・・。」
ほんの数秒までの勢いはなくなり、声が小さくなってしまう。
それと同時に体も小さく丸まっていく。
曜子「今のままが全て悪いってことじゃないのよ。
でも、今のままもよくないって感じるのよ。
それに、もうハウスキーパーには20日から1月末まで休暇だしちゃったし。」
かずさ「なっ!?」
日本という言葉に受けた衝撃以上のショックを受ける。
これはもやは死刑宣告とかわりがない。
生活能力ほぼゼロのかずさに一カ月以上も寒いウィーンで
一人生き抜くことなんて不可能といってもいい。
そもそも、曜子はかずさにお伺いをするためにやってきたのではなく、
決定事項を伝えに来ただけだとわかってしまった。
曜子「それでもあなたがここに残りたいって言うんなら、もう止めはしないわ。」
これでもかっというほどわざとらしい演技がかずさの神経を逆なでする。
かずさ「その場合は、ハウスキーパーを呼びもどしてくれるんだろうな。」
曜子「それは無理よ。彼女も、もうクリスマスの予定をいれてるだろうし。
日本人でもクリスマスの予定をキャンセルさせたらがっかりさせてしまうのに、
この国でそんなことしたら、もっとかわいそうなことになるんじゃない?」
かずさ「それわかってて、計画立てたんだろ。」
だんだんと曜子にたてつくのが、馬鹿らしくもなってしまう。
これ以上たてついても自分の言い分が通ることはないと経験上わかっているから。
かずさ「わかったよ。でも、練習は休みたくない。」
曜子「大丈夫よ。ピアノは用意してあるわ。日本の自宅、まだ売れてないから
そこ使えるようにしておくわ。そのほうがあなたも気が楽でしょ。」
日本の自宅という言葉で、本日3度目の衝撃を受ける。
日本の話が出てから身構えているものの、受け流すことができない。
それだけかずさにとって大切な事柄と言えるが、
それさえも自覚しないようにしてしまっていた。
かずさ「そっか・・・。」
そうつぶやくと、もうこれ以上聞くこともないだろうと主張してか、
ピアノの演奏を再開する。心は既にここにはないという感じの表情で、
どこか遠くを見つめているようだった。
ただ、その視線の先には、はっきりと見えているものがあるのだろう。
曜子にも何が見えているか推測できはしたが、あえて尋ねようとはしなかった。
そして、これ以上の話をすることを諦め、そっと部屋を後にした。
かずさは、曜子が部屋を去ったことにも気がつかず、午後9時30分すぎまで
練習を続けた。
かずさ「お腹すいたな・・・。」
そう一人つぶやくと、のそのそとキッチンに向かう。
窓の外を見ても、真っ暗でよく目をこらさないと何も見えない。
しかし、閑静な高級住宅街といっても、昼間に出歩けばクリスマスを意識できる。
そんなわずかな冬の情報さえも拒絶するかのように、窓の外をあまり見ない。
そんな自分が小さい人間だと、逃げている人間だと自覚してしまう。
外は暗く、廊下の寒さだけが冬を伝えてくる。
それさえも振り払おうと、冬の寒ささえも自分から切り離そうとした。
かずさ 成田空港 12/20 月曜日
空港内は空調がきいているおかげで冬を肌に感じることはない。
しかし、空港内の人々を見ると当然だが冬の装いをしているせいで、
いやでも視覚から冬を感じてしまう。
しかも、ここは日本。ウィーンならば、日本人、アジア系の人間をこれほど
見ることもないので、日本の冬を思いだすきっかけにはなっても、
なんとか押しとどめることができた。
だけど、・・・・ここ日本ではそれはできそうもない。
曜子の少し斜め後ろに付き、何も考えないように曜子の後姿だけを追って
進んでいったものも、ふと前を見ると、その曜子の姿がない。
周りを見渡してみるが曜子を見つけることは出来なかった。
どうしたものかと考え、案内掲示板を見上げると、3年前に彼と通ったはずの
場所をさしているようだった。
ここまま進めば、あの時迎えに来てくれた彼と乗った電車で東京に行くこともできる。
それも魅力的な選択だと思えたが、すぐに選択肢から除外した。
ここには、そんな思い出を追想するためにきたわけではない。
そう自分に言い聞かせ、いつもピアノを通して語り合っていた彼を頭から
追い出そうと必死にもがいた。
彼を意識しないようにするために、意識して彼を頭から追い出そうとする。
「意識しない」為に「意識する」なんて
終わりのないイタチごっこを繰り返すしかない。
曜子がどこに行ったかわからず、どこに向かえば分からないように、
ただその場にたたずむしか、かずさには選択肢が残されていなかった。
曜子「どこ行っちゃったのか探したわよ。
久しぶりの日本だからといって、・・・・・・。」
かずさの肩の手をかけ、軽く振り向かせようとすると、そのまま曜子の胸に
かずさが倒れこんでくる。そこまで強く引っ張ったわけではないので少し驚く。
もう片方の手も肩にやり、顔を見ようとかずさを少し引き離し、尋ねる。
曜子「どうしたの?」
その問いかけに反応して、かずさがゆっくりと顔を上げるが、
その顔を見た曜子は何も言えず、かずさを抱きしめることしかできなかった。
かずさ 日本・冬馬邸・地下スタジオ 12/24 金曜日
成田空港から直接タクシーで冬馬邸に来たかずさは、
その日から一歩も外に出ることはなかった。
しかも、ハウスキーパーが用意した食事を食べるときや、
トイレ、入浴のとき以外はずっと地下から出てくることはない。
寝る時も地下スタジオのソファーで横になり、毛布を頭からかぶって寝ていた。
どうしてもこの部屋にいると、あの二人の事を強く感じてしまう。
楽しくもあり、身を引き裂かれそうな辛い思い出を思い出さずにはいられなかった。
何度もこの部屋から飛び出し、家の外に逃げ出そうと考えもした。
しかし、どうしても最後の最後で、部屋のドアの前で立ち止まってしまう。
一歩でも家の外に出たら、駈け出していただろう。
あの日、あの雪の日見上げた、彼と抱き合ったマンションに行ってしまう。
いまさらどんな顔をして、彼に会えばいいのだろうか?
彼は、何も言わずあたしを抱きしめてくれるだろうか?
彼は・・・・・・、春希はあたしを忘れないでいてくれてるだろうか?
春希の腕に抱かれたい。そして、思いっきり春希の匂いを吸い込み、
春希に満たされたい。何もかも忘れ、春希だけを感じていたかった。
だけど・・・・・。
どうしても、春希に寄り添う自分のことを親友だって言ってくれた彼女を
思いだしてしまい、ドアノブにかけた手をおろしてしまっていた。
雪菜は、きっとあたしのことを許してなんかくれないだろう。
もう親友だなんていってもくれないはずだ。
そんな雪菜が春希の側にいるかもしれないのに、春希がいるマンションに
行く勇気なんかかずさには持ち合わせていなかった。
世間ではクリスマスイブで盛り上がっているが、そんな日付の感覚さえ忘れ
地下にこもっていたかずさであったが、久しぶりの訪問者によって
今日がクリスマスイブだと思いだす。
曜子「元気にしてた?」
かずさ「あいかわらず突然だな。」
曜子「クリスマスイブだっていうのに辛気臭いわね。」
かずさ「ほっとけよ。」
数日ぶりに発した言葉は、うまく声にすることができた。
成田からここに連れられ、そのまま放り出されたが、あえて干渉してこない曜子に
感謝を覚えていた。
たしかに、少しは、いや何度も薄情な母親だと呪ったが、
なにも言ってこない曜子の対応は助かっていた。
もし、なにか言われたとしても、
どんな顔をして、何を言えばいいかわからなかったから。
今も、何を言えばいいかわからない。だけど、こんな軽口くらいなら言えるくらい
回復していると思えた。
曜子「あなたをほっといたのは、悪かったと思ってるわ。」
かずさ「本当にそう思ってるならな。」
曜子「まあ、いいわ。忙しかったのは確かなのよ。調整にリハーサル。
それに、うんざりするような取材、取材・・・・・取材。
美代ちゃんったら、久しぶりの日本公演だからって、張り切りすぎなのよ。」
曜子は、取材が嫌いなわけではない。
かずさが知っている曜子は、派手な行動をマスコミに隠そうとはしていない。
いや、むしろ自分に注目を集めるために
わざと目立つ行動をしていると思えることもある。実際そうなんだろう。
その曜子がうんざりするような取材の量って、ちょっと興味を覚える。
もし自分だったら、最初の取材で椅子を蹴飛ばし、部屋を去っていたと確信できるが。
かずさ「それで、今日はどんな用で来たんだ?
クリスマスプレゼントでもくれるのか?」
別にクリスマスプレゼントが欲しいわけでも、期待しているわけでもない。
ただ曜子との軽口を続けようとしただけ。
それなのに返ってきた言葉は意外なものだった。
曜子「なんでわかったの?」
曜子はほんとうに驚いたのか、わざとらしい演技をみせる。
かずさ「え?」
曜子「なにを自分でふってきた話題で驚いてるのよ。
ちょっとしたプレゼントを用意したのは本当。
でも、それよりも食事に行かない?
今日はイブだし、親子で食事といきましょう。」
かずさ「食事に行っても、カップルばかりでうざいだけだ。」
曜子「別にむこうじゃ家族で過ごすのが普通なんだし、どうでもいいんじゃない?
誰と過ごそうが、自分が過ごしたいと思う人と一緒にいるのが一番よ。」
かずさ「自分が一緒にいたい人か・・・・。」
そう小さくつぶやくとピアノの鍵盤に目を落とす。
そして、ピアノの向こうにいる春希を見つめようとするが、
曜子はかずさのつぶやきを聞こえないふりをして、話を続ける。
曜子「さ、私お腹すいちゃった。早く行きましょ。
そんな服装じゃ風邪ひくから、とっとと着替えてきなさい。」
部屋のエアコンの温度が高めに設定しているため、かずさは半袖のシャツに
7分丈のデニムといった夏の装いをしている。
ウィーンの自宅でも、一年中同じような服装だが、
さすがに真冬の東京に身をさらさなければならないのならば、着替えなければならない。
かずさ「わかったよ。」
そう短く答えると、思考を中断して着替えが入ったトランクをあさり、
冬服を身に付けた。
これ以上考えると深みにはまるし、それで曜子に心配を
かけさせるのも嫌だった。
そして、心配した曜子から、かずさの思考が言語化されて目の前に突きつけられるのは
なによりも避けたかった。
かずさ 御宿・宿泊ホテル・レストラン 12/24 金曜日
クリスマスイブということもあって、レストランは満席だった。
普段は値がはる価格設定のレストランともあって若い客は多いとはいえない。
しかし、今日という特別の日のために予約しただろうカップルが
いつも以上に陣取っている。
逆に、曜子とかずさのような親子連れの方が目立ってしまうほどである。
この目立つ要因が二人の人並み離れた美貌によるもののほうがでかいが。
そして、今まさにワイングラスを掲げ、今日という日を祝福される言葉を
ささやく絵は、映画のワンシーンのようでもあった。
曜子「乾杯。」
かずさ「なににだよ。・・・・じゃ、あんたのコンサートの成功を祈って。」
本来メリークリスマスと言うべきところを、そのことを既に忘れているあたり
冬馬親子らしいと言えばらしかった。
かずさは、そっけなく曜子のコンサートの成功を祈り
ワイングラスを軽く傾け、一気にワインを喉の奥に流し込んだ。
その様子を面白そうに眺める曜子は、自分もと軽くグラスに口をつける。
曜子「私のコンサートの成功なんて祈らなくてもいいのに。
どうせ大成功よ。」
たしかに曜子がコンサートで失敗する姿など想像もできない。
自分が描く曜子は、はるか上をお気楽な顔をして優雅に歩いている。
その土台となる鍛錬や精神力は、この3年、目の前で見てきて、
これでもかというほどの実力の差を実感させられてきている。
だから、コンサートについてなにも不安などあろうはずもなかった。
かずさ「それならそれでいいよ。ただ、なにも言うセリフがなかっただけだ。」
曜子「そっかぁ。」
そうため息にも似た返事をした曜子は、つまらなそうに付け加える。
曜子「じゃあ、あなたの成長と成功を祈って。」
かずさ「それこそなんなんだよだ。あたしは成長してるさ。
毎日練習だってしてる。」
曜子「それは当然のことでしょ?」
かずさ「そうだけどさ。」
毎年何人ものピアニストが、自分の実力に見切りをつけてピアノから去っていく。
そういう人間をウィーンでも何人も見てきている。さすがに恩師のレッスン以外は
自宅に閉じこもっているかずさであっても、コンクールに出れば、
世間のピアニスト事情を垣間見てしまう。
何人ものピアニストがコンクールに挑み、そして、夢破れて去っていく。
自分ももしかしたら、その一人になっていたかもしれない。
それでも、今まで生き残れたことについては、自信を持っていたし、
なにより母曜子に感謝していた。
自分が言ったことが、いかに幼稚だったかを隠すようにグラスの淵を指でなでる。
かずさ「そんなこと言いたかったんじゃないんだ。」
曜子「わかってるわ。あなたの3年間を見てきたんだから。」
かずさ「ありがとう。」
何についての「ありがとう」かは、かずさ自身分からなかった。
ウィーンに連れ出してくれたことにか。
ウィーンで最高のレッスン環境を用意してくれたことにか。
曜子の才能を受け継げたことにか。
日本に連れ戻してくれたことにか。
それとも、別の何かかもしれない。だけど、曜子に感謝の気持ちを伝えたかった。
曜子は何についての感謝の言葉か理解しているのだろうか?
ふと気になりもしたが、これ以上追及すると再び闇に飲まれそうになりそうなので
再び食事に意識を集中させた。
おおむね食事が終わり、デザートの時間になっていたが、この二人のテーブルだけは
違っていた。今からがメインともいえるような品ぞろえといえる。
テーブル狭しと言わんばかりに、店の全メニューのデザートが並べられている。
そして、今日という日の象徴の一つであるクリスマスケーキもホールごと
テーブルの中央に存在感を醸し出していた。
曜子「ところで、あなたに渡さなきゃいけないものがあったわ。」
そう言うと、今までずっと忘れられていたクリスマスプレゼントを差し出す。
もちろんかずさも、そのプレゼントがずっと視界に入っていた。
だからといって、自分から催促するのも癪なので黙っていたが、
ここでようやくその中身がわかる。別になにか期待したわけでもなかったが
曜子からのプレゼントとなれば、自然と嬉しくもなる。
かずさ「ありがと。」
曜子「メリ~クリスマス。」
にこやかにほほ笑みウィンクするあたり、きざすぎるが、さまになっているので、
我が母親ながらなんともいえない。
ちょと恥ずかしそうに下を向きながら受け取ると、そのまま中身を確認する為に
包装紙をはぎ取る。
中身は包装紙の上から予想した物の一つであったから、驚くことはなかった。
しかし、その雑誌の表紙を見ると、いやでも顔に血が昇っていくのと感じ取れた。
かずさ「な、な・・・・・・・・、なんなんだよ、これ!。」
静かに落ち着いていたレストランにかずさの声が響く。
それと同時に、全ての人の目がかずさに向けられる。
しかし、そんな視線など気にもせず、言葉を続ける。
さすがに他人のことを気にはしないが
自分に注目がこれ以上集まるのはうっとうしく思え、声は抑える。
かずさ「なんであたしが載ってるんだよ?」
曜子「この前のコンクールであたなが2位になったから。
それと、これの前にのった記事も評判良かったかららしいわよ。」
端的にかずさの質問に答えていく。
つまらないこと聞くのねといったふうに、フォークでケーキを口に運ぶ。
そして、気にいらない味だったのか、そのケーキの皿をかずさの方に押しやる。
かずさ「それで、表紙にもなった雑誌を見て、あたしに喜べって言うのか?」
曜子は話を聞きながらも、ケーキの物色を続ける。
かずさ「こんな雑誌貰っても、うれしくなんかない。
どうせあることないことおもしろおかしく書かれているだけだ。
そんなの見ても、気分が悪くなることがあっても、嬉しく思うことなんてない。」
今度のケーキは好みなのか、すぐに皿を空にし、追加注文をする。
かずさ「聞いてるのか?」
曜子「聞いてるわよ。ちゃんとね。
そんなこと言わないで、読んでみなさい。
えっと、たしか12ページから16ページだったかな。」
そう言われると、コンクールで撮られただろう写真がアップで載っているページを
いくつかとばし、指定されたページを開く。
どうやらかずさの生い立ちから学生時代について書かれている記事のようだった。
その見出しを見ただけでも、どんな内容かかかれているか予想でき
眉間にしわが寄っていく。
曜子「そんな顔しないで、読んでみなさい。」
かずさ「・・・・・・・。」
高校入学時から始まり、母曜子とのすれ違いによる確執についてまで、
こと詳細に触れられている。ここまで突っ込んだ内容を書くとなると、
膨大な時間と労力が必要だったと、かずさ自身でもわかる。
それは、かずさについて知っている人物が限られていることに起因する。
ましてや、かずさを知っている人間でさえ本人の深層心理まで知っているわけではない。
だから、この記事を書いた記者は、よっぽどのキレ者か、それとも、・・・・・・。
それとも、初めからかずさの身近にいて、かずさをよく知っているただ一人の
人物でしか書くことができない。
そう、春希が記者にかずさのことを話したとしか。
かずさ「これって、春希がインタビューに答えたのか?
いや、春希が・・・・・、でも。」
ここにいない彼に話しかけたのか、そのままかずさは一人記事を読み進める。
曜子は、そのかずさの何度も変化していく表情を、興味深く観察しているだけだった。
何も言わず、ただ、心の奥を覗き込み、かずさの真意を解き明かそうと。
指定された16ページまでを一気に読み終えると、もう一度12ページから読み直す。
今度はじっくりと、記事の言葉遣いまで理解するように頭に叩き込んでいく。
かずさの本能が、ウィーンで3年間恋焦がれていた彼の言葉だと察知し、
心に刻んでいく。
そして、最後まで読み終えると再び最初から、今度は心に刻んであった彼の声と
雑誌の文章を照らし合わせるように読みこんでいく。
そこまでの作業は終わり、ほっと一息つき、窓の外の見ると雪が舞っている。
ホテルに来る時も降っていたのかもしれないが、その時はとくに気にしていなかった。
気にしなかったのではなく、見ないようにしなかっただけだが、
今は彼との思い出を強く結び付けてくれた。そっと指で唇を撫で、
雪の日の彼の唇の感触を思い出そうとしたが、窓に映る曜子の視線を感じ、
急ぎ手をテーブルの下に隠した。
曜子「どうだった?」
かずさをじっくりと観察していた曜子は、満足した顔を隠しつつも、いつもとは違い、
かずさを冷やかすこともせず、記事の感想を求めた。
かずさ「これ書いたのって、春希だろ?」
曜子「どうして、そう思うの?」
かずさ「春希が人に話すはずがない。もし話すとしても、自分が直接書くはずだ。
それに、こんな上から目線の、説教じみた記事を書く奴なんて
あいつくらいしかいない。」
曜子「別に、上から目線で、何も分かってないのにえらそうな記事書く記者なんて
たくさんいるわよ。」
わざと揺さぶりをかけようとしているのか、かずさの反応を見逃さないように
視線を固定する。
かずさ「そうじゃない。この言葉遣い、間違えるはずがない。」
そういうと、自分の正しさを証明する為か、もう一度記事を確認する。
そして、その正しさを伝えようと曜子の顔を見ると、自分がしていることに気づく。
かずさ「あっ・・・・・。」
曜子は慈愛に満ちた顔をしていた。
それは、ただの親心か、それとも、同じ女としてなのか。
そもそも「普通の女」と規格が外れている二人であるから、常識に照らせばだが。
曜子「そのクリスマスプレゼント気にいってくれた?」
かずさ「・・・・・・。」
なにも返事がないことは、気にいった証拠とみなし、次の話題をふる。
曜子「それでね、その記事を書いた彼。今度のニューイヤーコンサートに
招待したから。ちょうどあたなの隣の席を用意したから、
ゆっくり話すといいわ。」
かずさ「春希が・・・・・。」
曜子の言葉に心が躍ったが、すぐさま心が冷え込む。
テーブルの下で右の指で左の指を確認するように一本一本いじるまわす。
だが目は伏せ、迷走する指さえも見てはいなかった。
曜子「かずさ?」
かずさ「ああ、聞いてるよ・・・・・・・・。」
かずさが聞いているわけがない。
それでも、もう一度言葉を投げてみる。
曜子「私は、春希君が書いたなんて一言も言ってないわよ?」
そのボールはかずさを素通りして、遥か後ろに転がっていくだけだった。
曜子が窓を見上げると、雪はさらに強くなっている。
窓の隅から雪が溜まりつつあった。
春希 有海インテグラルホテル前 12/25 土曜日 午前0時30分頃
クリスマスイブも終わり、クリスマス当日をむかえていた。
結局、嘘で固められた俺のもとにはサンタはやってくるわけもなく、
みごと女神にも嘘を見破られてしまった。
今までさんざん俺の嘘を飲み込んでくれていたが、今夜だけは許してくれなかった。
それも当然と言ったら当然かもしれない。
もし雪菜が全てを見ないふりをして俺を受け入れていたとしても、
俺は雪菜を見て抱くことはできなかっただろう。
誰の顔でもない、ただの女としての記号しか持たない体を相手に抱かなければ、
少しでも気を緩んでしまえば、きっとかずさを思い出してしまう。
そのためだけに雪菜の体を生贄にするなんて俺にはできない。
雪菜を通して、3年前のあいつの温もりを求めてしまう。
そして、きっと雪菜はそれを見抜くだろう。
だけど、何も言わず、胸の奥にしまいこんでくれる。
そんなこと、俺にはできなかった。
もしかしたら、俺は雪菜に拒絶されて、ほっとしているのかもしれない。
空を見上げると、雪は既にやんでいる。
もうサンタはやってこない。
残ったのは、踏まれ黒ずんだ雪の塊しかなかった。
もう元には戻らない。あとは黒く濁っていくしかない。
それさえも、いつか消え去ることができればと、願わずにはいられなかった。
春希 開桜社 12/25 土曜日 午前2時前頃
編集部からは、ありがたいことに明りが洩れている。クリスマスイブ、
もうクリスマス当日だけど、こんな日まで働いているとは恐れ入る。
そんなワーカーホリックの巣窟でも、今の俺に頼るべき場所はここしかない。
少しでも、誰でもいいから、人の側にいたかった。
誰かに必要だって証明してほしかった。
近くの24時間営業のスーパーで買ったケーキの差し入れを片手に、
何度もトイレの鏡の前で練習した顔でドアを開ける。
編集部には、一人しかいなかった。それも、心の奥で願っていた、でも、
それは叶ってはいけない人物がいてくれた。
最後の最後で、お情けでサンタがクリスマスプレゼントをくれたみたいだ。
こんな最低な男にプレゼントをくれるだなんて、どうかしている。
俺のところになんかこないで、
一人ホテルに残された彼女のもとに行ってくれたらよかったのに。
偽善に満ちた願いをしても、俺は、目の前の彼女にすがってしまうのだろう。
麻理「どうしたんだ一体? こんな日の、こんな時間に。
しかも、こんな天気の中わざわざ。」
PC画面から顔を上げ、若干驚いた表情でたずねてくる。
春希「こんな天気だからこそ、こんな時間でも来れました。」
頭の中で何度もシミュレーションした言葉を吐き出す。
言えた。大丈夫だ。
麻理「「こんな日」に関しての答えがまだのようだけど・・・。」
麻理さんは、一口も飲んでいない香りも温かさも抜けきったコーヒーを一口ふくみ、
渋い顔をみせる。仕事に集中してしまい、今回もせっかくいれたコーヒーを
無駄にしてしまってるようだった。
春希「他には誰もいないんですか? 麻理さんだけ?」
麻理「今から嫌み言うつもりなら、
私もそれ相応の態度をとらせてもうつもりだけど?」
春希「遅くまでお疲れ様です。
・・・・・新しいコーヒーいりますか?」
ここまでは、いつもの仕事の上司と部下の会話ができているはず。
なにもおかしい発言も顔をしていない、と思う。
上司を慕う部下として、さりげなくコーヒーを入れ替え、そして、
差し入れのケーキを渡す。こうやって、自然となにげないクリスマスイブの
編集部での会話を作り上げれば、きっと不自然なことはないはず。
・・・・・・・・何が大丈夫なんだよ。
一瞬だが表情が固まってしまったかもしれない。
麻理さんになにか勘づかれたか確認しようとコーヒーカップをとるついでに
顔を確認したが、とくに変化はなかった。
ただ、麻理さんは軽く首を振り、手でカップを軽く押さえ、
コーヒーのお代わりを断った。
麻理「そっか・・・・・。言っておくが誘いがなかった訳じゃないぞ?
ただ、仕事より魅力のあるイベントじゃなかっただけだ。」
春希「はは・・・。」
俺のわざとらしい乾いた笑いと、それ以上にわざとらしい話のそらし方にも、
麻理さんきちんとのってきてくれた。
心地よい距離感のまま、俺を放置してくれる。
本当によかった。この人がいて。・・・この人しかいなくて。
麻理「ところで北原・・・お前、それどうするつもりだ?」
春希「その先の24時間営業のスーパーで千円だったんですよ。」
麻理「あ~、確かに売ってたなぁ。昼間はまだ二千円だったのに。」
春希「最近は叩き売るの早いんですね。まだ明日の25日だって立派に
クリスマスなのに。あ、もう今日になっちゃったか。」
麻理の表情が曇っていく。
じっとケーキを凝視したあと、春希の顔を睨みつける。
麻理「・・・・・・・。」
春希「イブでないともう価値がないんでしょうかね。
それとも単に賞味期限が切れかけてるだけ・・・・。」
そんな麻理さんの表情の意味はわかっていたけど、あえてそれにのせてもらう。
そうしないと、自分が保てそうもない。
麻理「・・・・。」
春希「・・・・麻理さん?」
麻理「・・・嫌みか?」
ほら。しっかりと麻理さんは、俺が望んだ返答をしてくれる。
だから、この人なら安心して会話を続けられる。
鏡を見なくても、きっといつもの上司と部下の顔をしているはず。
春希「何がです?」
麻理「24を過ぎたらもう価値がないとか、賞味期限切れとか・・・」
春希「・・・・・あ~。」
そういえば、麻理さんも25オーバー・・・・。
麻理「自虐を素で同情されたり馬鹿にされたりすると、普段より余計に傷つくんだぞ?
お前、そういう女の気持ちがわかって・・・・・。」
春希「麻理さん、本気で言ってます?」
この人が本気で愛する人は、どんな男なんだろうか?
年を気にするそぶりは見せるが、それを超える美貌を持ち合わせているワーカーホリック。
いつも仕事を最優先にしていて、男を優先する姿なんか想像もできない。
麻理「・・・ま、今のはネタだけど。男にも結婚にも興味ないし。」
春希「両立するんじゃなかったんですか? 恋と仕事。」
麻理「あれは若手の話だ。」
春希「麻理さん・・・・、やっぱり若手じゃないって自覚して・・・・。」
麻理「北原・・・、お前いい加減にしろよ?
いつの間に、私に対してそこまで遠慮がなくなった?」
春希「麻理さんだから遠慮なく言えるんです。」
麻理「それは誉め言葉ってとらえていいのか困るところだが、
今日のところは誉め言葉として受け取っておく。
さて、・・・北原は、そのケーキを切り分けてこい。
それと、コーヒーも頼む。」
春希「わかりました。ブラックでいいですよね?」
麻理「それでかまわない。」
俺は、麻理さんの冷たくなったマグカップを持って、
コーヒーのお代わりを取りに向かう。
湿った革靴が歩くたびに不快を伝えてくるが、足取りは軽かった。
その理由は自覚している。麻理さんのおかげで、癒されているって。
食器棚のガラスに映る俺の顔は、ぼんやりとしかは形作っていないが
きっと笑顔を無理やりひねり出す必要なんてなくなっていると感じられた。
編集部に戻ると、麻理さんが席にいない。
深夜の為照明が落とされている窓際に立っている。
何をしているのか気になり、近寄っていくと、窓に何かを描いていた。
麻理「あ、北原戻ったか。」
春希「なにをやってるんです?」
麻理「見てわからないのか?」
春希「わかりますけど、・・・・意外な才能ですね。」
麻理「うっ・・・・。笑いたければ、笑ってもいいんだぞ?」
白く曇った窓ガラスに、でかでかと「Merry Christmas」と描かれている。
そして、デフォルメされたかわいらしすぎるサンタクロースと
今まさに制作中のトナカイも登場していた。
あまりにも麻理さんが描くとは思えないコミカルなイラスト。
意外な才能を垣間見てしまった。
麻理「そんなにまじまじと見るな。・・・・・・・恥ずかしいだろ。」
春希「見せるために描いたんじゃないんですか?」
麻理「そうだけど、お前が少し苦笑しながら、つっこみを入れて終わりかと
思ってたから。」
春希「今まで知らなかった意外な一面を見られてよかったです。」
麻理「意外なっていうところが引っかかるけど、よしとするか。」
春希「かわいいですね。」
麻理「えっ?」
麻理さんの肩が弾み、トナカイを描く指が止まる。
麻理さんの想定外の反応に戸惑いを覚え、沈黙が訪れる。
こちらに振り向いた麻理さんは、部屋が暗いせいだけでなく、
下を向いていることもあって、顔色を伺うことができなかった。
麻理「北原・・・・。」
吐息を洩らすような呼び声に、編集部にいることを忘れそうになる。
春希「ト・・・トナカイもかわいいですね。」
麻理「トナカイ?」
顔を上げた麻理さんは、驚きと非難の視線を向けてきた。
春希「ええ、こんなにも愛らしいイラストを描けるだなんて、
麻理さん、可愛いですね。」
麻理「!?」
今度こそ声にならない悲鳴を上げる。
麻理「変なこというな。」
麻理さんの顔色を確認したい気持ちがわき出てきたが、
いつもより若干高い声を確認できただけで満足することにして、
麻理さんに逃げ道を提供することにした。
今、麻理さんに踏み込みすぎたら戻れない気がする。
俺の身勝手が麻理さんを振りまわしているって自覚していてもやめられなかった。
春希「でも、水滴が垂れ始めてて、もうホラーですね。」
涙目どころか血の雨をかぶったサンタクロースは、可愛さと相まって
笑いと恐怖をプレゼントしてくれそうだった。
麻理「お前が余計なこと言うからいけないんだぞ。
せめて乾杯が終わるくらいまでは、もつ予定だったんだから。」
春希「それは、すみませんでした。・・・・・あっ。」
麻理さんの濡れた手のひらを見て、その手をハンカチで包み込む。
ハンカチ越しで麻理さんの手を両手で握る格好になってしまうが、
これは手を拭いているんだって、頭の中で言い訳なんかもしてしまっていた。
春希「手が濡れていますよ。」
麻理「ありがとう、」
小さくつぶやく声に目を向けると、頬を赤く染めた顔がそこにあった。
細長い指先からは、普段の偉大な上司を感じられない。
ここにいるのは、気になる女性が一人いるだけ。
次第に、もっと触れていたい欲望が出現し、指に力が入ってしまう。
麻理「っつ。」
顔を少し歪ませた麻理さんは、俺を気遣って非難などしなかった、
麻理「もう大丈夫だ。拭いてくれてありがとう。
さて、ケーキを食べるとするか。」
ハンカチから手を引き抜き、何事もなかったように俺の横を通り抜けていく。
通り抜けざまに、肩を軽く叩いていく感触に引き寄せられて
俺は麻理さんのあとを追った。
席に戻ると、コーヒーが温くなってきているようだが、問題はないだろう。
シャンパングラスの代りにマグカップを掲げる。
麻理「・・・・メリー、クリスマス。差し入れありがとう。正直嬉しかったよ。」
春希「~っ!」
麻理「・・・じゃ、いただきます。うん、美味しそう。」
もう、どうしても普段通りの自分が作れなくて、とうとう麻理さんに背中を向けて、
体を震わせてしまう。
二人きりで、こんなふうにあからさまに顔を背けてたら、今自分がどんな状況で
いるかなんて、気づかれないはずがないのに。
麻理「・・・バタークリームくどいな。しかもすんごい甘い。
そりゃ早々と値引きするよ。こんあもの売り切れる訳ないだろ。」
それでも麻理さんは、俺にかまうことなく、ケーキをぱくつき、
忌避なき感想をのべてくれる。
だから俺も、背中を向けたままケーキを口に運び、
彼女の言った通りの甘さとくどさにむせそうになる。
・・・・・本当に、ここに来て良かった。
麻理「北原は年末年始、バイトどうするんだ?」
春希「一応バイトに来る予定です。ほかにやることもありませんし。」
麻理「あまり大学生らしい冬休みとはいえないな。
旅行とか遊びに行かないのか?」
春希「苦学生にとって、こういう時こそ稼ぎ時なんですよ。
麻理さんこそ、仕事してそうですね。」
やっといつもの口調に戻れた。これなら大丈夫なはず。
麻理「私は、仕事もあるけど、ヴァカンスでグァムに行くんだぞ。
そんな仕事中毒患者みたいな扱いするな。」
さも不愉快ですというポーズをとるが、自分が仕事中毒患者である自覚はあるらしい。
春希「・・・いつから行くんです?」
自分でも声から生気が抜けていってるのがわかった。
心の拠り所をほんのひと時でも失いたくはない。
目の狼狽を隠すように目を伏せがちにして、コーヒーを飲むふりをする。
麻理「28日に出発して、NY、LAで仕事を片付けてから、グァムでバカンスだ。
・・・・あぁっ、勘違いするなよ。佐和子と行くんだ。
女同士でホテルで飲みまくってるだけだぞ。」
春希「それはそれでどうかと・・・・。」
麻理さんが何を否定したいのかわからないが、両手を大きく振って否定する。
それが、あまりにもいつもの麻理とはかけ離れた女の子らしい仕草だったので
思わず微笑んでしまいそうになったが、女同士でホテルで飲みまくってるだけ、
という落ちを聞き、いつもの苦笑いしか出てこなかった。
麻理「いや、まあ・・・、そのなんだ。どうせ佐和子の相手しかしてなくて
暇だから、なにかあったら、いつでも電話してこいよ。
コレクトコールでかまわないからさ。」
麻理さんの気遣いに癒されてしまう。もともと姐御肌ではあったが、
どうしてここまで俺を心配してくれるんです?
麻理「それと・・・・・、なにもなくても電話してかまわないからな。」
さりげなく付け足したようだったが、麻理さんを意識してしまう。
本人は俯き、空になったケーキの皿を見つめているため、
どんな顔をしているかわからない。
でも、きっと麻理さんのことだから、くさいい台詞を言ってしまったって
顔を赤くして後悔しているのかもしれない。
春希「ありがとう、ございます。」
一息ついてから、一番聞きだしたいことを尋ねる。
春希「あの、それで・・・・、いつ帰ってくるんですか?」
麻理さんから出された薬がなくなる前に戻ってきてほしい。
この薬がなくなったら、俺が俺でいられなくなるかもしれないから。
ここで、致命的な失敗に気がついてしまった。
「いつ帰ってくる」かではなく、「いつから出社するか」を聞かなければ
意味がない。たとえ帰国していても、会社に来るかはわからない。
すぐにでも言い直したいけど、自然に聞けるか疑問だった。
麻理「5日には戻ってくる予定。だから、6日から仕事だな。
戻ってきても、山のような仕事があるんだろうなぁ。
長期休暇とっても、休んだ意味ないよな。」
ニカッと笑いかけてきたので、苦笑いを返す。
俺の失敗は、取り越し苦労で終わってくれた。
しかし、ほっとしたのもつかの間、これ以上会話をする元気が俺にあるはずもなく、
麻理さんが話しかけてこない以上会話は続かない。
室内には、麻理さんの力が入ってないキータッチの音だけが静かに鳴り響く。
それっきり麻理さんは話しかけてくることもなく、仕事に戻ったようだ。
しかし、いつものような仕事の勢いもなく、パソコンのキータッチの音も遅く、
あまりはかどっていない。
という自分も、任されている仕事があるわけもなく、パソコンを起動しても
なにもないスケジュールを何度も確認して、無意味に時間を消費させていた。
麻理「あぁっ、もう!」
最後の会話から5分も経過していなかったが、うやむやした雰囲気に我慢できなく
なった麻理さんが沈黙を破る。
麻理「何か言いたい・・・・、いや、聞いてもらいたいことでもあるんじゃないか?」
麻理さんが一歩俺に踏み込んでくる。
俺に介入してこない距離から、一歩だけど介入してくる距離に。
介入してこない麻理さんを求めていたのに、
今は介入してくれる麻理さんに喜びを感じている。
ほんと俺って弱いな。だけど、その弱さを無視してでも、今は求めてしまう。
春希「そんなことは・・・・。」
今までの俺と同じ返答をする。しかし、麻理さんはそれを許さないだろう。
そして、俺も麻理さんが許してくれないことを望んでいる。
麻理「ま、クリスマスの夜中に、いきなりこんなところに来ることからして、
何かありますよって言ってるようなものだったし。
悩みがあるんなら言ってみろ。
・・・まぁ、言いたくなければそれでもいいけど。」
ほら。
麻理さんは、俺の望み通り踏み込んでくれる。
最初は雪菜が少しでも癒されることを望んでいたのに、
そして、一人にいたくないから、踏み込んでこない距離感でいてくれる麻理さん
といることを望んでしまったのに、
挙句の果てには、今は麻理さんに癒されることを望んでしまった。
春希「言いたくないこと・・・・ないです。」
麻理「そ・・・そうなんだ。」
俺の素直にすがられて、麻理さんがほんのちょっとだけ慌てる。
きっと、俺がそんな簡単に弱みを見せるはずがないって、
たかをくくっていたところもあったんだろうな。
麻理「なに、どうしたの。
クリスマスのせいで、昔の恋人のことでも思い出してしまったとか?」
春希「・・・そんな感じです。」
けれど今のおれは、こんな絶好の機会を逃せない。
麻理さんの優しさに付け込まないとどうしようもない。
だって今日を逃したら、麻理さんとしばらく会えない。
こんな気持ちを抱えたまま年を越すなんて・・・・、嫌だ。
麻理「へ、へぇ・・・、冬馬かずさのこと?」
春希「・・・・・。」
麻理「・・・・もしかして、クリスマスにデートした時の思い出とか?」
春希「旅行に・・・・行きました。泊りがけで。」
麻理「・・・・・ええっ!?」
麻理の声が静かな部屋に響く。
俺は、その驚きの声を無視して話を続ける。
春希「・・・と言っても二人きりじゃないですよ。友達と、北関東の方に。」
麻理「な、な、な・・・なんだぁぁ・・・・、脅かすな。
・・・・それとも、この後に更に驚愕の展開があるのか?」
照れ隠しか、麻理は、机にあったボールペンをカチカチといじりだす。
話の続きも気になるらしく、ちらちらを俺の方を伺うが、
まっすぐ見ることはまだできないらしい。
春希「何もなかったですよ。
露天風呂に入って、浴衣で酒飲んでどんちゃん騒ぎ・・・・。」
麻理「それも何て言うか・・・・、クリスマスにあるまじきパーティだな。」
自分のいやらしさに、少しだけ嫌悪感を抱く。
肝心なところを少しだけぼかして、あの旅の本当の意味を伝えることなく、
それで自分の今の気持ちを分かってもらおうなんて・・・。
春希「ねぇ、麻理さん。」
麻理「なんだ?」
春希「俺、冬馬かずさのこと、今でも好きなんです。」
麻理「そ、そうか・・・・。」
それでも、この言葉を言いたかった。
春希「それに気づいてしまったんです。。」
俺がこんなこといってしまったら、きっと麻理さんは自分のせいだと自己嫌悪に陥る。
でも、麻理さんには俺のことを分かってもらいたかった。
春希「気づいちゃいけなかったのに、気づかされてしまったんです。」
麻理「・・・それって、私のせいだよな。
私が冬馬かずさの記事を書くようにって、北原に。」
春希「それはきっかけでしかないですよ。
ほんとうに、きっかけに過ぎなかっただけです。
あの記事を書かなくても、きっと同じ結果になってたはずです」
いつの間にか、キータッチの音はやんでいた。
それでも俺たちは、お互いの端末から目を離さず、
だから、二人の視線が触れあうこともなく。
麻理「あ、あのさぁ、北原・・・・。」
春希「いいんですよ。」
麻理「な、何が?」
春希「何てアドバイスしていいかわからないんでしょう?
・・・・・まさか俺はこんな話するとは思わなかったから。」
麻理「お前、本当に私のこと何だと思って・・・・。」
春希「別に、アドバイスが欲しくて話したわけじゃないんです。
ただ、麻理さんには、どうしても聞いておいて欲しかっただけなんです。」
麻理「・・・なんでだ? 報告・連絡・相談は、
上司に次の指示を仰ぐためのものだろ?」
春希「上司に報告した訳じゃないです。
麻理さんに聞いてもらっただけです。」
麻理「同じ事だろ。私は北原の上司なんだから。
ああ、でも。私でよかったら、いつでも話ぐらい聞いてやるから。
役に立てるかは保証できないけど」
またくさいセリフを言ってしまったと後悔するように顔を背ける。
春希「俺・・・麻理さんのそういうとこ、好きですよ。」
へんに肩肘張るところ。
上司風邪を吹かせてるように見せかけて、実は単なる親分希質なところ。
仕事は完璧なのに、プライベートは結構抜けたところがあるところ。
女性としてすごく魅力があるくせに、そのことを押し隠そうとして、
逆にかわいくなってしまうところ。
もうこれ以上は無理だった。
これ以上俺から踏み込んでしまったら、戻れなくなる。
俺は麻理さんに依存してしまう。
俺の話が終わったと判断したのか、麻理さんはこれ以上話を聞いてこない。
俺は麻理さんが踏み込んでこないことに、ほっとしてまっている自分に気がついた。
そのあと、麻理さんから少しばかりの仕事を貰い、始発電車が動き出す頃帰宅した。
春希 開桜社 12/27 月曜日
やっと月曜になり、麻理さんに会えると思うと足が軽くなる。
しかし、バイトに来てみると麻理さんは今日は外回りの挨拶だけで、
開桜社には顔を見せない。
そればかりか、今週分の仕事さえ指示してくれてなかった。
先日の影響かもしれないが、仕方がなく他部署から仕事をかき集め、
持って帰ってくると、松岡さんから呼びだされた。
最近では、こんな仕事まかれれても大丈夫かなというものが増えてきたが
松岡さんの直接の上司である浜田さんが注意してくるまでは、
いや注意はされているが、ありがたく頂戴する。
だが、なにか仕事かなと思い赴くと、予想に反して封筒を渡された。
松岡「これ冬馬曜子オフィスから。さっき麻理さんから電話あって、
直接北原に渡してくれってさ。」
松岡さんが封筒をひらひらと振っているのを、ひょいっと抜き取る。
封筒の宛名を見ると、開桜社宛てにはなっているが、北原春希と記載されている。
また、切手が張られていないところを見ると、直接渡されたのだろうか?
アンサンブルの編集長が冬馬曜子と親しいらいいので、曜子さんだろうか?
かずさの母・曜子と会ったのは3年前の一度きりだし、
俺のことを覚えてるとは考えられない。
だから、他の書類と一緒に送られてきたかもしれない。
それでも、もし、曜子さんが直接渡したならば、
俺は、期待してもいいのだろうか?
松岡「聞いてるか? 北原。」
封筒を凝視してしまい、松岡の話を聞いていなかったらしい。
すぐに松岡の方を向き、謝罪する。
春希「すみません。冬馬曜子オフィスがなんでかなって、考えてしまって。」
松岡も同じことを考えていたのか、俺の言い訳に納得してくれる。
松岡「よっぽど気にいったんじゃないか?
俺の同級生も取材するようなことしてくれないかな。」
春希「ははは・・・・。」
作り笑いをして、さりげなく気になっていたことを質問する。
春希「それで、麻理さんは、他に何か言ってましたか?」
松岡「特に何も言ってなかったな。」
春希「そうですか。」
暗くなる気持ちを抑えて、返事をする。ぐっと腹に力を入れなければ
今にも崩れそうになる。
松岡「何か用事でもあったか?」
春希「用事がなかったから聞きたかったんですよ。」
松岡が意味がわからないという顔をする。
春希「麻理さん、今週分の仕事の指示してくれてないんですよ。
だから、他部署まで仕事をかき集める羽目になったんです。」
かき集めてきた成果を見てよという仕草をわざとらしくして、自分の机を指す。
松岡「そうだったな。北原が席外す時そんなこと言ってたから、
麻理さんから電話来た時も誤魔化しておいてあげたぞ。」
春希「え?」
得意げに、気がきく先輩という表情を見せつ松岡であったが、この時ばかりは
今にも殴りかかってしまいそうであった。
そんな俺の事情も知らず、松岡は続ける。
もちもん、松岡さんに落ち度はない。普段だったら、ありがたい対応だった。
でも、今だけは。
松岡「お前、他部員からの仕事は勝手にとるなって、この前も麻理さんから
きつく言われてたろ?」
春希「そんなことも言われたかもしれませんね。」
松岡「お前なぁ。」
あきれ顔の松岡。
どうやらいつもの北原春希を演じられている。
春希「松岡さんも、なにかあったら仕事下さいよ。」
松岡「上司も上司なら、部下も部下だな。」
理解できないと言いつつも、松岡さんはごっそり仕事を与えてくれた。
席に戻ると、封筒を開け、中を確認する。
冬馬曜子ニューイヤーコンサート
開桜社協賛
12/31 20時開演
コンサートに行けば、かずさに会えるのか?
俺のことを覚えていてくれているのか?
俺が会ってもいいのか?
チケットをいくらくいるように見つめても、かずさが答えてくれることはない。
あまり長い時間チケットを見ていると怪しまれるので、
気持ちを押しこむようにチケットを鞄にしまった。
春希 自宅 12/28 火曜日 午前8時
春希は、開桜社のバイトに行く準備をすると、携帯を確認する。
メールフォルダには、まだ送信していない武也宛と依緒宛のメールが表示されていた。
昨晩何度も読み返しながらも作成した12/24の出来事の報告書。
今まで俺たちの仲を取り持ってくれた友人だけあって、
小さな言葉遣いまで気を使ってしまう。
それと、ホテルに誘ったのは雪菜だったとか、ホテルまで行く経緯は省略した。
二人に俺の気持ちが全て伝わるとは思わないけど、
俺が全面的に悪いということだけは伝えたかった。
だって、雪菜に振られたのは、俺がかずさを忘れることができなかったせいだから。
アドレスから武也の番号を検索する。
大学に入ってから、武也からはほとんど着信履歴ばかりで、
発信記録に表示されることは少なくなってしまった。
12/25早朝に一度。午前10時過ぎに2度目の着信。
それからは、武也と依緒からの電話やメールが何度も来ていたが
全て無視していた。
二人になにを話せばいいかまとまってなかったといえば聞こえがいいが、
ほんとうに頭の中が真っ白だった。
それでも、昨日松岡さんから冬馬曜子ニューイヤーコンサートのチケットを
渡されて、このままじゃいけないって、強引に覚悟を決めた。
俺がうじうじしていたら、武也だけじゃなく、バイト先でも迷惑をかけてしまう。
そしてなによりも、雪菜に対して申し訳ない。
3年間も俺がはっきりした態度を取らなかったから、逃げてしまったから、
雪菜の3年間を灰色にしてしまった。
俺なんかに関わらなかったら、きっと雪菜は輝いていたはずだ。
合コンやミスコンなんかは、苦手で敬遠してたかもしれないけど、
今よりはもっと活動的で、そして、家庭的な一面を知る友達も増えていたはずだ。
武也に直接会って話すことができなくても、せめて電話で話すのが筋だとは
わかっていたけど、今でさえ何を話せばいいかまとまっていない。
何度も読み返し、何度も何度も書き直して、今朝やっと完成した報告書。
だから、せめてメールを送ることだけは、武也に伝えたかった。
携帯電話の発信ボタンを押す。すると、2コール目で武也は出た。
いかにも驚いた風で、急いで着信ボタンを押した感じある。
武也「春希! 生きてたか?」
春希「生きてたよ。それよりもなんだ。それが電話に出る対応か?」
武也がそんな対応するのも俺だってわかる。
もし逆立場なら、同じような言葉を言ってたはずだ。しかも、説教付きで。
武也「そりゃ生きてたか心配もするさ。依緒なんか、おまえんちに乗り込もうと
してたんだからな。」
春希「心配掛けて、ごめん。」
武也「それはいいって。俺たちがけしかけたんだから。」
春希「それでもさ・・・・。」
武也は、ちょっと言うべきか迷った風であったが、
はっきりした口調で春希に告げる。
武也「依緒が雪菜ちゃんに会って来たんだ。」
春希「雪菜に?」
武也「ああ。お前と同じで最初は電話にも出なかったんだけど、26日の夜やっとな。
その時は夜遅かったから、詳しいことは翌日ってことで、
依緒が会いに行ったんだ。」
春希「そっか。」
雪菜が依緒に会えるくらいには回復していたことに、ほっとしてしまう。
今が冬休みでよかった。
武也「でもさ、雪菜ちゃんは何もなかったってしか言わないんだよ。
しかも、全部雪菜ちゃん本人が悪いんだって。
それしか言わないんだ。なあ、春希。何があったんだ?」
何もなかったから、雪菜が悪い。雪菜からしたら、そうなのかもしれない。
誰から見ても、そんなことないってわかっていても、
今まで俺の罪を認めてこなかった雪菜なら自分のせいにしてしまうだろう。
春希「・・・・たしかに、何もなかったよ。」
武也「何もなかった訳ないだろ。」
春希「武也。・・・あの日、何があったか出来る限りに詳細にメールに書いた。
俺もまだ頭の中がぐちゃぐちゃでさ。うまく話せないと思う。」
武也「春希・・・。」
あの理屈屋の俺が言葉で話せないなんてって、ショックを受けてるかもしれない。
でも、今、武也には伝えたい。
これ以上隙伸ばすことなんてできないんだ。
春希「依緒にも同じメールを送るつもりだ。
俺は大丈夫だから、雪菜のこと頼むな。」
武也「おい、春希! 俺は雪菜ちゃんだけじゃなくて、お前の味方でもあるんだぞ。」
春希「ありがとうな。でも、俺は大丈夫だから。」
武也「大丈夫じゃないだろ。現に今だって。」
大丈夫じゃないからメールにするのに、最初から俺の論理は破たんしてる。
武也にも気がつかれるなんて、相当やばい状態だって、自覚してる。
いや、武也は論理とかじゃなく、純粋に俺を心配してくれてるのか。
春希「俺は、冬休みが終わるまでには立ち直るからさ。
大学始まったら、いつもの俺に戻るから、それまで一人にしてくれないか。」
武也「でも・・・・。」
春希「頼むよ。」
武也「わかった。でも、大学始まっても、お前の調子が戻ってなかったら
そのときは有無を言わさず介入するからな。」
春希「その時は頼むよ。じゃあ、雪菜のこと頼むな。」
そう言って、これでおしまいって意思表示で会話終了ボタンを押す。
そして、武也と依緒にメールを送信した。
かずさ 冬馬邸地下スタジオ 12/30 水曜日
曜子がスタジオをドアを開けると、いつも以上にテンポが速く、荒々しい演奏が
鳴り響いていた。力強いタッチを通り越して、鍵盤に指を叩きつけている。
演奏というよりは、純粋に感情を吐き出しているだけだが、
そうであっても聴きいってしまう誘惑にとり付かれてしまいそうだった。
何時間演奏したかは見当はつかないが、汗だくのかずさをみれば
指だけではなく、体力面でも、精神面でも限界を迎えようとしているのは明白だった。
曜子「今日は、ここまでにしなさい。」
曜子は、力強くかずさの手を握り、演奏を強制的に止める。
かずさは、驚き、顔を上にあげるが、ここでようやく曜子が来ていたことに気づく。
ばつの悪そうな顔を隠すため、顔を背けた。
かずさ「どうかしたのか?」
曜子「どうかしたのかじゃないわよ。どうしちゃったの?
そんなふうに弾いてたら、指を痛めるわ。」
あきれ顔でかずさを眺めていたが、心配する気持ちが勝ち始め、表情も変化していく。
かずさも、曜子に指摘されようやく理解したのか、手の握力がなくなっているのに
気が付き、そっと手を握る。
かずさ「どうしちゃったんだろうな・・・・・・。」
静まり返った室内が、熱気を失った瞬間温度を奪い始める。
エアコンのスイッチがついていなかった。
かずさのエネルギーだけで温めていた部屋がその火元を失ったせいで冬の侵入を許す。
数秒前まで情熱的な演奏をしていたかずさであったのに、
今や肩を震わせ、体を小さく丸めている。
曜子「かずさ。」
曜子はかずさの手を握り、軽くマッサージを始めた。そのままかずさの前に
腰を落とし、マッサージをしながらかずさの顔を下からのぞきこもうとするが、
かずさは顔を背けたままだった。
しばらく曜子のマッサージが続くが、二人とも声を発することはない。
それでも、マッサージが終わると、かずさの気持ちも落ち着いたのか、
ぽつりぽつりと語りだす。
かずさ「うれしかったんだ。・・・・・・あの記事読んで、うれしかったんだ。
春希があたしのことを忘れてないって知って、うれしかった。
それだけじゃない。すぐにでも会いに行きたかった。
でも、できなかった。
もしかしたら、いや、きっと、彼女がいるかもしれない。
それなのに、昔の女がのこのこと会いに行っていいのかって考えてしまうんだ。
そんなことしたら、あいつを困らせてしまう。
でも、・・・・でもぉ、
会いたくてしょうがないんだよ。」
涙ながら切なげに訴える。今ここにはいない春希に向かって。
曜子「会いに行けばいいじゃない。困らせたっていいじゃない。」
かずさ「そんなこと、できるわけないだろ。」
曜子「後悔しない?」
かずさ「・・・・・・・・・・・。」
かずさは息をのんで、じっと考え込んだが、結局何も答えず、
ゆらゆらとした足取りで、シャワーを浴びにいった。
曜子は、かずさが消えていたドアをにらみ、一人ごちる。
曜子「いつまでも逃げてたんじゃ、幸せになんてなれないわよ。
って、逃げてるのは私か。」
両手を腰に当て、何もない天井を見つめる。
曜子「ギター君。このままじゃかずさ、駄目になっちゃうかもね。」
曜子は、防音加工されたこの部屋に、わかっていても八つ当たりしたかった。
誰の声も、防音加工されたこの部屋からは、外に響くことはなかった。
春希 開桜社 12/31 木曜日 夜
大晦日。いつも忙しいが口癖のこの編集部も、この日ばかりは閑散としていた。
残っている人たちも切り上げる準備をして、家路につこうといている。
バイトの俺を一人残すのを気にしていた浜田さんも、
今しているので終わりという条件で残ることをしぶしぶ了解してくれた。
俺も7時にはここを出る予定だったし、今日ばかりは仕事をセーブしていた。
というか、バイトをして、お金をもらっている身なのに恥ずかしいのだが、
仕事に全く身が入らなかったというのが実情。
PCの時計を何度も確認し、そして、さっき確認した時から5分も経っていない
ことに気がつくようなことが何度もあった。
でも、うけもった仕事はきちんとこなさないといけないと、
わずかに残った集中力を絞り出す。今やってるのは、年をまたいでもよかったけど、
仕事を来年に持ち越したくなかったことと、今やるべきことがなくなって
しまうのが怖かった。
だって、コンサート会場に行ったからって、かずさに会えるとは限らないけど、
かずさのことを考えずにはいられない。
自分に都合がいいかずさなんて想像もできない。
俺のことを忘れて、ウィーンで曜子さんとうまくやって、そして、
向こうで新しい友達を作って、・・・・そして、・・そして、彼氏だって。
こんな後ろ向きだけど、ありえる現実を考えないようにするためには仕事を
しなければならない。
気を緩ますと表面に出てきてしまう。麻理さんが今の俺を知ったら、
仕事に申し訳ないって仕事を取り上げてしまうかもしれないけど。
春希「さてと、これで終了。」
任された仕事をデスクに提出して時計を確認すると7時15分。
今からゆっくり歩いていっても十分すぎる時間がある。
自分の机に戻り、帰り支度をし、まだ残っていた編集部員に挨拶をしてから
エレベーターにのった。
外に出ると、北風が身にしみるが、いつもより人が多いので若干暑苦しくも思える。
年末特有の浮かれモードといった雰囲気をよそに、俺はセンター試験に
行く受験生って感じなんだろうな。実際には推薦で大学決まったから受けてないけど。
今から結果を知りに行く合格発表じゃなく、試験。
だって、俺はまだ、何もしていない。
雪菜だけではなく、かずさにも、3年間何もしなかったから、今からが本番。
遅すぎるってわかってるけど、雪菜が気がつかせてくれたから。
雪菜のかえり血がべったり付いた俺の本心だとしても。
腕時計を見ると、まだ7時31分。
思ってたより早くコンサート会場についてしまった。
それもそのはず。いつもと同じペースで歩きだしてけど、気がつけば、
ずいぶん早い早歩きになっている。いつもは無理をして渡らない信号だって
立ち止まるのを避けるためのに走って渡ってしまった。
武也に、なんのげんかつぎかって言われそうだし、俺自身何が何だか
わからないけど、もう立ち止まりたくなかった。
日本でも有数の規模を誇るコンサート会場。
さすがにドームや国立競技場みたいなキャパはなけど、クラシックコンサートで
チケットがネットで高値で取引されているって聞く限り、大盛況といえる。
今はヨーロッパを中心に活動している冬馬曜子だけど、クラシックに疎い俺でさえ
名前ぐらいは知ってるんだから、クラシックファンならば、久しぶりの日本公演、
ネットで定価の数倍のお金を払ってでも聴いてみたいと思う気持ちを分からなくもない。
そんなファンには申し訳ないけど、俺は曜子さんの演奏を聴く自信がない。
かずさのことが気になって、耳にピアノの音色は入ってこないだろう。
失礼だと分かっていても仕方がない。
このコンサートに来たかった浜田さんにも悪いと思ったけど
すぐに浜田さんの顔は消え去った。
雑誌アンサンブルの名前を言えば、コンサート前に楽屋に通してもらえるだろうけど、
さすがにコンサート前で集中しているピアニストに会いに行く無神経さは
持ち合わせてない。
たかが4時間弱。俺がかずさから逃げていた3年に比べれば大したことない。
そう自分に言い聞かせて、係員にチケットと差し出した。
春希 コンサートホール内 12/31 木曜日 午後8時
舞台に冬馬曜子が現れる。3年前にあったときと少しもかわらない若さで輝いている。
いったいいくつになるんだって計算しようとしたけど、麻理さんの顔を
思い浮かんでしまったので途中でやめてしまった。
そういや、あと数時間で麻理さんの誕生日か。
お祝いの電話しても大丈夫かなって、物思いにふけっていると演奏が開始された。
途中休憩が2度挟まったが、どの観客も満足している。
興奮やまずに連れと語り合うものや、CDを買い求める客であふれているようだった。
俺は、一斉に消えていく観客をよそに一人席に座っている。
右隣の席は、コンサートが始まっても誰も来なかった。
もしかしたら、途中休憩のとき、ひょっこりかずさが現れるんじゃないかって
期待もしたけど、そんな夢物語、簡単には実現しない。
開演前は4時間どうやってすごそうかって、ふてぶてしい事考えていたけど
そんな必要はなかった。20年後のかずさがいたら、こんな風になってるのかなって
考えてしまい、気がつくと夢中で聴いていた。かずさにこんなこと言ったら
けり飛ばされて、あたしは母さんみたいにはならないって言われそうだけど、
考えずにはいられなかった。
あんまりゆっくりしていると、曜子さんが会場から出てしまう恐れもあったが、
そんな心配はないはずだ。なにせ、開演前に事務所スタッフを見つけ、
アンサンブルの名前を出して、コンサート後に会えるかどうか聞いてほしいって
伝えてある。コンサートを聴いて、逃げ出してしまわないように自分で退路を
断つ意味を兼ねてお願いしておいたが、そんなのは杞憂に終わりそうだ。
今も心臓がバクバクいっている。早く会いに行きたいって。
かずさがいるとは思わないけど、曜子さんに会えば、会わせてくれるかもしれない。
その興奮を鎮めさせるために、誰もいなくなった会場で自分を見つめていた。
楽屋前に行くと、先ほどお願いした事務所スタッフが何やら他のスタッフと
話している。割り込んでは失礼なので、話が終わるのを待っていると、
むこうがこちらに気が付き声をかけてきてくれた。
美代子「アンサンブルの方ですね。」
春希「素晴らしいコンサートありがとうございました。」
美代子「それはよかったです。冬馬のほうに伺ったところ、大丈夫とのことです。
さ、どうぞお入りください。」
話がすんなり通ったことに安心し、ほっとする。軽く会釈をして感謝の意を伝えると、
スタッフのあとについて楽屋に入る。
美代子「失礼します。
先ほどお伝えしたアンサンブル編集部の方がいらっしゃいました。」
楽屋は花が所狭しと飾られていた。それと同じように、ケーキなどのスウィーツ類も
多種多様に積み上がっているところが冬馬家の血筋って思え、
緊張していた俺の精神を和らげてくれる。
春希「このたびは、コンサートにお招きいただきありがとうございました。
クラシックに精通しているとはいえない自分でさえ、興奮しました。」
興奮した理由が違うところにあるのは事実だけど、言えるわけもない。
スタッフは、先ほど話していたスタッフとまだ仕事があるのか、俺を曜子さんに
会わせると楽屋から出て行く。
曜子「やっぱりあの時のギター君だったのね。
アンサンブルの編集がクラシックに疎いっていうのはどうかと思うけど、
正直な子は好きよ。」
クラシックに疎いことにまったく気にしてないようで、笑い飛ばす。
クラシックに疎い俺をよんだところを見ると、ますます期待してしまう。
曜子「あのギター君が、アンサンブルで記事書いてるんだもの。
驚いたわ。まっ、驚いたというよりは、わらっちゃったけど。」
豪快に笑っているところを見ると、本当に俺の記事を気にいってくれたらしい。
かずさがこんなに笑ったところを見たことはないけど、やはり親子だなって思える。
そんな小さなかずさの面影を見つめていると、曜子は笑いすぎたと勘違いしてしまう。
曜子「ごめんなさい。でも、ほんとうによかったわ。」
曜子の笑いはなかなか収まりそうもない。
春希「そう言ってくださると、書き手としては幸せです。」
曜子「今は大学生よね? 峰城大学?」
春希「はい。大学の講義とバイトの毎日を謳歌しています。」
曜子「それを謳歌って言えるか疑問だけど。
たしかに、バイトの身でありながら記事を書かせてもらってるんだし
謳歌っていえるか」
曜子は、苦笑いを浮かべながらも、変に納得している。
笑えない冗談だったけど、少しは余裕が出てきた。
これなら、違和感なしにかずさのことを話題にできるかもしれない。
曜子「そんなに講義とバイト大変? 大学生って遊んでるイメージあるけど。」
春希「人それぞれですね。自分みたいな学生には暇なんてないです。
それに、大学入ってから一人暮らししたので、色々ものいりで
バイトの方も力をいれないといけないんです。
それでも、開桜社で働けていることは、幸せだって思っています」
曜子「若いころの人脈って大切よね。」
曜子さんも一人ヨーロッパで活動してきたので、人脈についての発言の意味が重い。
日本の価値観と全く違う国で戦うことなんて想像できないけど、
世間には見えない努力があったはずだ。
曜子「そんなに一人暮らししたかったの?
大学は高校の隣だし、通うのに不便はなかったでしょ?
あぁ~、女の子連れこむためか。」
なにやら下世話な視線を送ってくる。
それには、はっきりした態度で対応させてもらおう。
春希「そんなことしませんよ。
なによりも、そんな相手、この3年間いませんでしたから。」
嘘は言っていない、と思う。雪菜との関係は、恋人といえたのだろうか?
つかず離れずの微妙な距離感。うまく言葉で説明できそうにない。
曜子「そっかぁ。」
今度はなにか面白そうな答えを聞けたのか、曜子さんは、
誰もいない花の山に向かってニヤニヤする。
曜子「それで、今はどこに住んでるの?」
春希「大学の側のマンションです。」
曜子「南末次の?」
春希「ええ、はい。駅と大学の間くらいですかね。」
いつの間にか、記者と質問対象者が入れ替わっている。
曜子さんの質問に違和感を感じることもなく、俺は答えていってしまう。
曜子「けっこういいところに住んでるのね。」
たしかに家賃は高い。普通の家庭の大学生が、しかも、わざわざ一人暮らしを
する必要もないのに、高い家賃を支払うなんて、馬鹿げてるって言われるかもしれない。
春希「小さい部屋ですけどね。それでも、大学の側なので便利です。」
曜子「それでバイトかぁ。
なんか期待の新人が入ってきたって聞いたわ。期待されてるのね。」
春希「それは、俺がついた上司がよかったんですよ。あんな風になりたいって
思える目標みたいな人で。でも、けっして越えられないような人ですけど。」
曜子「かずさも、私を超えるんだっていつも意気込んでるわよ。
あっ・・・・。」
曜子さんは、俺の顔を変化を見逃さなかった。いや、この部屋に入ってから
ずっと俺の顔を見つめている。曜子さんなりに、なにかしら俺から情報を
引き出そうとしていたのかもしれない。
春希「・・・・・・・・・・。」
楽屋に入ってきてから、曜子さんに失礼にあたらないように、隙があらば
部屋の中を探っていた。
でも、やはりかずさはいない。そんな俺の心を見透かしたのか、
曜子「ごめんなさいね。かずさ来てないの。来るように誘ったんだけど、
どうしても無理だって。今も一人ウィーンにいるわ。」
そう俺が一番聞きたかったことを伝えてくれた。
予想していた中でも期待度合いとしては下の方にランクしていた答えともあって、
露骨に顔に出てしまった。麻理さんに対してもそうだったけど、
最近年上の女性に対してポーカーフェイスができなくなっている気もする。
曜子「そんなに残念だった? かずさがいなくて。」
春希「・・・・はい。」
俺の気持ちを隠しても意味がない。だから、正直にまっすぐな気持ちを打ち明ける。
曜子「そっか。」
春希「それで、その。かずさは・・・・、かずささんは日本に来る予定は
ないんですか?」
曜子「それは、開桜社の編集部員としての? それとも、北原春希としての質問?」
曜子さんが俺の目を覗き込んでくる。その視線にひるみそうになったけど、
逆に曜子さんの真意を見つけ出そうと見つめ返す。
春希「北原春希としての質問です。」
曜子「それなら、答えてあげる。答えは、NOよ。」
目の前にいたはずの曜子さんが黒くぼやけていく。
足にも力が入っていかなくなり、ふらついてしまう。
背筋から嫌な汗が流れ、あれほどまで高まった興奮が冷める。
曜子「ちょっと、大丈夫?」
椅子が机か何かにぶつかる音が重なる。
俺の反応が予想外だったらしく、あわただしく立ち上がり
俺を支えようと手を貸そうとするが、俺は手を前に出し遠慮した。
春希「大丈夫ですよ。今頃になって、立ちくらみが来ただけです。」
今さら立ちくらみなんて起きやしない。
曜子さんも、わかっているが、それ以上追及はしてこなかった。
春希「今日はありがとうございました。
後日、アンサンブルの方でもご挨拶に伺うと思いますが、
そのときはよろしくお願いします。
それでは、失礼します。良いお年を。」
早口になってしまったが、これ以上曜子さんの言葉を聞いていられなかった。
もう、自分の足で立つ気力さえなくなっていっている。
ここで倒れる訳も行かないので、早くここから去らないと。
みじめな昔の男を、かずさの母親に見せる訳にはいかない。
曜子「本当に大丈夫? ちょっと休んでいっても。」
春希「大丈夫です。それでは。」
曜子さんの申し出も言葉早に断り、楽屋を逃げ去る。
楽屋を出ると、誰もいなかった。
誰にも俺の顔を見られなくてよかった。
誰にも俺の顔を見られないよう下を向き、
コンサートホールに来た時以上の早さで立ち去る。
外は全く寒くない。
俺の方がむしろ冷たいほどだった。
かずさ 楽屋 1/1 金曜日 午前0時20分頃
静まり返った楽屋に、曜子ではない誰かが立てた音が鳴り響く。
春希が出て行ったドアをしばらく見つめていた曜子は、物がぶつかる音に反応して
誰もいない花束にむかって声をかける。
曜子「だってさ。
ギター君、なんか誤解したまま出て行っちゃったけど、
このままでいいの?」
花で埋め尽くされた花の壁が崩れ落ちる。
高い胡蝶蘭やら、普段目にしないような鉢植えの花さえも問答無用にひっくり返る。
その倒した主は花など気にもせず、テーブルの間から這い出てくる。
曜子の方も、花のことを気にするそぶりは全くなかった。
花びらが舞い散り、かずさの頭や肩に舞落ちる。いっけん幻想的なシーンではあるが、
当の這い出てきた本人の顔色を見れば、夢も覚めてしまうだろう。
服のシワや汚れを気にすることもなく、眉間にしわを寄せ、曜子を睨みつける。
圧倒的なまでの存在感を醸し出す。
まさしく冬馬曜子の娘といった貫禄だったが、曜子はまったく怯むこともない。
曜子「そんな睨めつけたって、あなたが居留守をするからいけないんじゃない。」
曜子は首を振り、やれやれといったポーズをわざとらしく見せつける。
それを見たかずさは、さらに目をきつくして、曜子を批判する。
かずさ「あたしは、あんなこと言ってくれなんて言ってない!」
春希が出ていったそのドアに向かって投げられた花瓶が
大きな音とともに砕け散る。
曜子「あなたがいないことにしてくれって言ったんじゃない。
ギター君には、日本に来ていないことにしてって、あなたが頼んだのよ。」
かずさ「それはそうだけど。あれじゃぁ、春希が・・・。」
かずさは、悔しそうに歯を食いしばり、俯く。
脚が体を支えられなくなり、その場に崩れ落ちる。
しかし、きつい目だけは、そのままに、曜子を睨みつけることだけはやめない。
曜子「あれじゃあ、春希君が誤解しちゃう?」
かずさ「そうだよ。あたしが、春希に会いたくないみたいじゃないか!」
今にも曜子をつかみ倒しそうな勢いで答えるが、曜子は冷たい目でかずさを諭す。
曜子「でも、ああ言えって言ったのは、あなた。
春希君から、逃げ出したのもあなた。
私が春希君に会えるチャンスを作ったのに、それを台無しにしたのもあなたよ。」
曜子の冷酷な姿にひるみ、負けじと維持してきたきつい眼さえも失われつつある。
それでも負けじと曜子に噛みつく。
かずさ「そうだよ。せっかくのチャンスを台無しにしたのはあたしだよ。
3年前もそうだった。まったく成長してないんだよ。
だけどさ・・・・・、会えないだろ。今のままのあたしじゃ。」
かずさの目から涙があふれ、爪で絨毯を引っ掻く。
曜子を見つめる目には既に力強さはなく、焦点がぼやけていく。
かずさ「あいつは、成長していた。
あんなすごい雑誌に記事が載るくらいになってた。
しかも、バイトなのにさ。普通ありえないだろ。
それくらいすごく成長していた。
それに、ちゃんと前に進もうとしていた。
あたしなんか、3年前から、一歩の前に進んでないのに。」
曜子「かずさ。」
曜子からも冷淡さが消え去り、かずさを心配そうに見つめる。
曜子「もういいの?」
曜子がなにについて「もういいの?」と聞いているのかわからない。
でも、答えは決まっている。
もういいわけあるわけないって。
かずさ「わからない。」
答えは出ていても、どうやったら春希にたどり着くかわからない。
でも、答えが出ていなくても、前だけは見つめていようと決心した。
曜子は、かずさに舞落ちた花を、優しく取り除いていった。
春希 1/1 金曜日 午前1時頃
どうやって開桜社編集部に戻ってきたかわからない。
守衛に鍵をもらうとき、嫌な顔をされたが、家に戻ったら突然電話で叩き起こされて
編集部に急ぎ戻るよう指示されたことを伝えると、気の毒そうに鍵を渡してくれた。
俺の疲れ果てた顔を見た守衛は、去り際には励ましの言葉をくれ、
同情までしてくれた。
まだ少しだけど、頭は機能しているようだ。
誰も傷つけない程度の嘘ならまだできる。
だけど、もう自分を守る嘘なんてつけそうにない。
編集部に行くと、当然だが部屋は暗く、誰もいない。
必要最低限の明りだけつけ、自分の机を素通りして、麻理さんの机の前で立ち止まる。
あのイブの日は、麻理さんがいてくれた。
どんなに俺の心が救われたことか。
だけど、今はこの椅子の主人は南国でヴァカンス中だろう。
普段は物で溢れているデスクなのに、今は綺麗に片づけられており
物悲しく感じられる。
そっと椅子をなでる。冷たく硬くなった椅子には、麻理さんの温もりなど残ってなどいない。
椅子をそっとひき、躊躇なく座る。
俺が普段使っている椅子と代わり映えがない椅子。俺より身長が低い分
低く設定されているだけの、それだけの椅子。
こうもこの席の主がいないだけで心もとなく感じてしまうのは
麻理さんに依存しているってことなんだろうか?
1時間前は、あんなにかずさを求めていたのに、俺ってこんなに節操無しだったのか
って思い知らされる。
今頃、麻理さんは日ごろの疲れを癒し、ぐっすり睡眠をとってるんだろうな。
グアムだと、今午前2時だから、まだ佐和子さんとお酒でも飲んでるかも。
あの二人が普段どんなことを話してるか想像できないけど、
きっと楽しく飲んでるに違いない。
椅子の背もたれに身を任せると、体中の力が抜けていく。
ただ目を閉じることだけはできなかった。
まぶたに浮かんでくるのが、もし麻理さんだったらと思うと怖くてできない。
ちっぽけな俺の最後の抵抗だった。
眠ることもできず、天井を見つめていると、鞄の中から携帯の着信音が鳴り響く。
コンサート会場を出た時に、無意識に携帯の電源だけは入れ直したところをみれば、
ワーカーホリックの一員としての癖は抜けていないみたいだ。
無視しようと鞄にさえ目を向けなかったが、急に麻理さんかもって
身勝手な思い込みをして、急ぎ携帯を取り出し、通話ボタンを押す。
春希「もしもし?」
少し上ずった声だったが、しっかりと聞こえたはず。
女「もしもし、春希君? ハッピーニューイヤー。
もしかして、寝てた?」
春希「起きていましたので、気にしないでください。
ところで、どなたです?」
いつもなら誰からの電話か確認してから電話に出るのに、
あまりにもあわてていて、見るのを忘れてしまっていた。
声の主も、聞いた声ではあるはずだが、名前が出てこない。
佐和子「麻理の友達の佐和子。もしかして、忘れちゃった?」
春希「覚えていますよ。あけましておめでとうございます。」
佐和子さんからということは、麻理さんが近くにいるはず。
そう思うと、声に力が戻っていく。
佐和子「明けまして、おめでとう。今何してたの?」
春希「一人で、ぼ~っとしてました。」
さすがに麻理さんがいるかもしれないのに、編集部にいるなんて言えない。
しかも、麻理さんの椅子に座ってるなんて、絶対に言えない。
佐和子「なにそれ。」
笑い声が受話器から響く。よくきくと麻理さんの声も聞こえてくる。
(ちょっと、代わりなさいよ。)
(あとで代わるから、もうちょっとだけ。)
(なんか余計なこと言いそうだけら、駄目だって。)
(あ、わかる?)
しばらく受話器の向こうでもめていたが、ようやく俺が求めていた声が
遠いグアムから運ばれてきた。
麻理「すまない。佐和子が突然電話かけるっていいだしてな。」
春希「かまいませんよ。ちょうどひましてましたから。」
いいえ。待ち望んでいました。
麻理「そうか。それならよかった。・・・・明けまして、おめでとう。
今年もよろしく頼むな。」
春希「はい。明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。」
いつも世話になって、・・・・依存してるのは俺の方。
春希「それと、誕生日おめでとうございます。今年で、にじゅ・・・。」
麻理「言わなくていい。祝いの言葉はありがたく受け取っておく。」
俺に年を言わせないために、声をかぶせてくる麻理さん。
年の差なんか気にならないくらいかわいらしい人なのに。
春希「麻理さんが帰ってきたら、またケーキ用意しておきますね。
今度は、美味しいのを探しておきます。」
麻理「本当か?」
春希「自分で買ってきておきながらいうのもあれなんですが、
あれはまずかったですね。」
麻理「私は、そうでもなかったぞ?」
春希「たしか、さんざんな酷評をいただいた気もしますが?」
心が軽くなっていくのが自分でもわかる。
麻理さんからの声が体中にしみわたっていく。
麻理「そうか? そんなこといったかな。」
春希「だったら、同じケーキ用意しますね。」
今の俺だって、麻理さんとなら軽口も言える。
麻理「や・・・・、そ・・それはやめていただきたい。」
この返答も予想通り。
気がつけば、麻理さんの椅子で足を組み、椅子を軽く回転しながら電話している。
春希「だったら、どんなケーキがいいんですか?
麻理さんが好きなのを用意しますから。」
麻理「イチゴがのってるショートケーキ。」
消え去りそうな声でリクエストをしてくる。
目を閉じると、真っ赤な顔をして、ショットケーキとつぶやく麻理さんが
はっきりと現れてしまった。
俺の油断が、最後の最後で崩壊する。
目を閉じて、麻理さんが浮かぶのを必死で避けてたのに。
組んでいた足を戻し、席を立つ。
そして、今までの声の調子から外れないように細心の注意を払って演技をするしか
俺には選択肢が残っていなかった。
春希「でっかいの用意しておきますね。
以前使ったケーキ特集ありましたから、それ参考にして選定しておきます。」
麻理「楽しみに待ってる。」
春希「はい。期待していおてください。」
一呼吸置き、
春希「すみません、友達に誘われて、初日の出見に行くので、申し訳ないですが。」
麻理「悪かったな、突然電話かけて。」
春希「そんなことないです。うれしかったです。」
麻理「そうか。うれしかったか。」
春希「はい。」
麻理「じゃあ、またな。
あと、なにかあったら電話しろよ。」
春希「はい、わかりました。おやすみなさい。」
麻理「おやすみ。」
電話を切ると、手から携帯が抜け落ちていく。
そのまま床に座り込み、膝を抱えるように座った。
見上げると、今まで座っていた椅子が見える。
何を夢見てたんだろう。
見ちゃいけない夢だったのに。
今夜は夢も見れそうにない。
もう、眠ることなんてできそうになかったから。
夢の中にまでも麻理さんが現れてしまったらと思うと、眠ることなんできなかった。
春希 開桜社 1/5 水曜日
目の前に立つ麻理さんが静かに俺を見降ろしている。
海外から戻ってきた麻理さんは、今年初めての挨拶をしてくる同僚をも視界に入れず
まっすぐ俺の前までやってきた。
麻理さんの顔を見ることはできない。
麻理さんが横にいるのを気が付いているが
集中しているふりをして液晶画面を見るふりを続ける。
顔を見なくたって、何を言いたいかはわかっていた。
それだけのことをこの数日やってきた自覚があるからなおさらだ。
麻理「何をやってる?」
無視を続ける俺に、ふだんより低い声が発せられる。
編集部内は、自分の作業をやめ、みんな俺たちの動向を気にしていた。
麻理さんのただならぬ雰囲気が、空気をより一層重くする。
麻理「何をやってるんだと聞いてるんだけど。」
春希「お帰りなさい、麻理さん。申し訳ありません。
勝手に麻理さん以外から仕事を貰ってしまって。」
麻理「わかってるんなら、何故だ?」
春希「それは、俺が麻理の出張前に仕事の指示を貰うのを忘れてしまったからです。
本当に申し訳ありませんでした。」
立ち上がり、頭を下げる。
麻理さんの顔をまだ見てはいないが、さらに逆上させてしまっているはずだ。
麻理さんが、編集部にきた瞬間に俺は既に詰んでしまっている。
もう何をやっても逃げることはできない。
あがけばあがくほど、見苦しい失点を増やしていくだけなのに、
俺はなおもあがこうとしてしまう。
麻理「それは、私のミスだ。北原に仕事の指示を出すのを忘れてしまったことは
すまなかった。だけど・・・・・。」
麻理さんが言いたいことはわかってます。
だけど、そうしないと俺が壊れてしまっていたから。
そんな俺を作ってしまったのは、麻理さんなんですよ。
逆恨みに等しい言い訳が浮かぶけど、言えるはずもなく。
麻理「勝手に私以外の他の部員から仕事貰うなって約束したよな。」
春希「はい。」
麻理「それはな、お前がこなせる仕事量を自分自身で把握できないからだ。
いや、仕事そのものはこなしてしまっているか。
でもな、このままじゃ、つぶれてしまうぞ。」
春希「・・・・・・・。」
麻理「鈴木から聞いたぞ。お前、大晦日からずっと編集部にいるみたいだな。」
春希「そんなことはないですよ。家に帰ってます。」
風呂に入って、着替える為だけだけど。
麻理「ここ数日の睡眠時間は?」
春希「そんなに多くはとってないと思いますけど、具体的な時間までは。」
おそらく3時間も寝ていない。これが5日間の合計睡眠時間。
一日の睡眠時間だとしても、不健康すぎるって理解できる。
理解できるけど、寝ることができなかった。
麻理さんのいらだちが増し、ついには俺の腕を掴んでくる。
麻理「お前、他の部署に入り浸っているときもあったそうだな。
さっき確認してきた。ここにずっといたら、怪しまれるからな。
そういうところにはまだ頭が働くんだな。」
春希「そういうところだけって。与えられた仕事はしっかり仕上げてますよ。」
麻理「ああ、それも聞いた。だけどな、北原。
そんな風になってしまったお前を心配する奴もここにいるって
覚えておいてくれ。」
切なく訴えてくる声に我慢できず、麻理さんの顔をとうとう見てしまった。
麻理さんの瞳が俺の目を捉えると、俺はもうその瞳から逃れることはできない。
この人を求めてしまう。
この人を求めてしまった。
麻理「なんで私に電話してこなかった。
何かあったら話くらい聞いてやるって言ったよな。
そんな程度の関係だったのか?」
春希「・・・・・・・・。」
今すぐにでも視線を外したいのにできなかった。
声に出して何があったか全て吐き出したかったのに、それさえもできない。
俺に出来ることは、麻理さんを見つめながら、
麻理さんにむかって崩れ落ちていくことだけだった。
春希 タクシー 1/5 水曜日 昼過ぎ
編集部員たちはみな、俺の手を引き、
無表情でエレベーターに乗り込む麻理さんに恐る恐る目をむける。
怖いもの見たさもあったはずだが、この俺の対しての後ろめたさもあったかもしれない。
俺の異変に気がつかずに、仕事を割り振っていたことに対して。
しかし、それに気がつけって言う方が気の毒だ。
気がつかれないように演技してたんだから。
もし気がつくとしたら、よっぽど俺のことを普段から注意深く見ていないと
わかりっこない。
俺は、その演技を一瞬で見破ってくれた麻理さんに感謝さえしている。
ちゃんと俺のことを見ていてくれた。
災悪を自ら引き起こして起きながらも、そんな俺を気遣ってくれる麻理さんに
愛情に近い感情を抱いてしまっていた。
タクシーの窓の外を眺めると、南末次駅前まで来ている。
俺がマンションの住所をかたくなに言わないから、麻理さんは仕方がなく
記憶を頼りに最寄駅をタクシーの運転手に伝えていた。
麻理「北原。ここからどこへいけばいい?」
これ以上は俺の指示がないと無理だと、早く教えてくれとせかしてくる。
そんな麻理さんのいらだちさえ、自分に対してむけられる感情だと思うと
退廃的な嬉しさを感じてしまう。
春希「ここでいいですよ。あとは歩いて帰れますから。」
嘘だ。
引き止めてもらいたいから、麻理さんが食いつく言葉を投げかけてしまう。
困った顔をする麻理さんに、さらに困らせる言葉を投げかけてしまう。
麻理「ここまで来たんだ。家まで送ってやる。
大した差じゃない。」
春希「寄るところもあるんですよ。」
麻理「だったら、私もそれに付き合ってやる。」
春希「麻理さんに、そこまで付き合ってもらう価値なんて俺にはないですから。
それじゃあ、送ってくれて、ありがとうございました。
それと、仕事のこと、すみませんでした。」
俺は、麻理さんの方を見ることもなく、謝罪と謝礼と別れの挨拶をして、
タクシーから降りる。
麻理「待ちなさいったら。」
ほら。
麻理さんなら、落ちていく俺を見捨てることなんてできないってわかってた。
自分が今、何をしているのかもわかってる。
麻理さんを利用してる最悪な男になり下がってるって。
麻理さんが俺を追ってタクシーを急いで降りる。
俺を手放さない為に、俺の背中から力強く抱きしめてきた。
絶対に離さないっていう強い意志が感じられるけど、
そんな必死にならなくても大丈夫なんですよ、麻理さん。
だって、麻理さんの手を振りほどくことなんて、絶対にない。
麻理さんの手を誘導する為の演技なんだから。
麻理「何があったのか知らないが、壊れかけているお前を一人になんかできるものか。
悪かった。一人にして。もう大丈夫だから。」
春希「麻理さん。」
俺の胸まで回された手を、包み込むように握りしめる。
やっと手に入れたという感動しかなかった。
病的で、独善的で、詐欺まがいの愛情をついに掴んでしまった瞬間であった。
俺は、麻理さんに寄り添ってもらいながら、再びタクシーに乗り込む。
麻理「須黒まで。」
麻理さんの肩に頭をうずめ、独りよがりの幸福を堪能する。
いつの間にかに俺の心に住み着いていた麻理さんが、
やっと俺に踏み込んできてくれた。
純粋にそれが、うれしかった。
本当にうれしかったんだ。
心に触れられることがこんなにも温かいんだって。
3年も閉ざしていた心の扉を、麻理さんが解き開けてくれた。
いや、違うな。
俺の心は、未だに閉ざされている。
でも、ほんの僅かに空いた隙間から、麻理さんだけが入り込んできてくれたんだ。
だから、俺の心の中には麻理さん以外入ってこれてない。
最初から俺の心に住みついているあいつを除いて・・・・・。
かずさ「春希。・・・・・・・なんで、いつも、こうなっちゃうんだよ」
幸福に酔いつぶれている俺は、俺を見つめる瞳に気がつかない。
こんなにも俺の間近までやってきてくれた心の永住者に気がつくことができなかった。
かずさ 冬馬邸 1/5 水曜日 早朝
元日の早朝に母さんが宿泊するホテルから帰ってきて以来、
4日ぶりに母さんが会いに来た。
たぶんどう接したらいいか、わからなかったんだろうな。
春希が楽屋を出て行ったあと、自分でも驚くくらい荒れたし。
母さんもあたしの顔を見るのがつらいのかもと思いはしたけど、
そんな杞憂はすぐさま吹き飛んだ。
曜子「何やってるの、こんな早朝から?」
怪訝な顔をして、まるで理解できないっといった態度をしている。
リビングに広げられている新品の荷物の山。
注目するなという方が無理だといえるが、母さんの態度が少し気にいらない。
かずさ「見てわからないのか?」
曜子「朝からハイキング?」
ソファーに置かれた新品の厳寒用ブーツを、恐る恐る突いたりしている。
かずさ「真冬のこの時期に、ハイキングなんか行くわけないだろ。」
曜子「そうよねぇ。」
見るからに温かそうなブーツに興味を持ったのか、実際に自分で履いたりして
「うわぁ、温かい」などと、自分では使うことがない靴に感動を覚えたりしている。
そもそも母さんが寒い外を歩くとは思えない。
外出はするが、車での移動。実際寒い外を歩くのは、車から建物までの数歩のみ。
だから、真冬の登山靴なんて、必要になることなんてないはずだ。
曜子は、テーブルに山積みにされているチョコバーを一つつまみあげ観察する。
コンビニで買いこんできた特別なものではないから、そのままテーブルに
戻すのかと思いきや、おもむろに袋を破り口に運ぶ。
母さんが、あたしを見て驚くのも無理がないと思う。
あたしも母さんの立場だったら、同じことを言うか、見ないことにして
そのまま立ち去っていただろう。
だけど、あたしはいたって大真面目であった。
テーブルには、チョコバーをはじめとするカロリー高めの携帯食。
他には、水筒・ホッカイロ・登山用ダウンジャケットやタイツなどの装備一式。
どうみても、冬山登山か真冬のハイキングに行く挑戦者にしか見えない。
かずさ「寒いから、防寒機能が高い服を買っただけだよ。
あたし寒がりだし。」
曜子「そうだけど、あなた、外に出ないじゃない?」
たしかに、冬山どころか、近所のコンビニにさえ行こうとしないでいる。
必要なものがあれば、ハウスキーパーに頼めばいいし、
それに、たいていのものは全てそろえられているから、外に出る必要もない。
かずさ「たまには出るから、その時用だ。
それにしても、母さんこそ、こんな時間にどうしたんだ?」
時刻はまだ、午前4時になったばかり。
こんな時間にかずさが起きていることはもちろん、
曜子が訪ねてくること自体異常だった。
曜子「ちょっと寝付けなくてね。
それで、かずさどうしてるかなって。」
母さんに心配かけてるな。
それだけのことをやってしまった自覚はあるけどさ。
かずさ「どうしてるって、今から出かけるところだ。
閉じまりよろしく。」
テーブルに用意した食料などをバッグに詰め込み終わったあたしは、
昨日買ったばかりの防寒具を身に付け、これ以上詮索されるのを
逃げるようにして家を出た。
曜子「ちょっと、・・・どこに行くかくらい言ってくれてもいいのに。
・・・・って、行くところなんて、あの子には一つしかないかな。」
かずさが消えていったドアを見つめ、成功を祈り、頬笑みを送った。
床を見てみると、かずさがバッグに入れ忘れたチョコバーが落ちている。
曜子「そそっかしいんだから。」
チョコバーを拾い上げ、封を切ると、中から砕けたチョコクッキーが
こぼれ落ちてくる。
曜子「もう。」
かずさが床に落として踏んでしまったのか、中身はボロボロだった。
曜子は、手に持っていたチョコバーをゴミ箱に捨て、床にぶちまけたほうは
そのままにしして部屋を出る。
かずさが散らかした部屋を含め、あとはハウスキーパーに任せることにした。
昨日は、寒さで凍死する寸前だった。
手足は寒さで感覚が消え去り、帰りのタクシーの中では、運転手が悲鳴を上げるくらい
ガンガンに暖房を強くしてもらったのに、微塵も温かさを感じられなかった。
春希が住んでいるって言っていた最寄駅で春希が来ないか張り込んでいたが、
そう簡単に会えるわけもなく、空振りに終わる。
家を出るときは、コンビニに行くついでと、誰にも言い訳をする必要がないのに、
わざわざコンビニでお菓子類を買い込む。
コンビニを出ると、駆け足で駅まで行ってしまったが、
服装はコートを一枚着ているだけ。
これで長時間冬空のもと張り込みをするのは難しい。
6時間ほど粘ってみたが、寒さで感覚がなり、震えが止まらない。
それよりも、駅前で人通りも多いこともあって、ナンパをしてくる連中が
なによりようざかった。
寒さでいらだちも格段に増しているのに、そこにハエのごとくまとわりつくナンパ。
何度も春希を恨んだことか。
だけど、その数だけ春希に自分の弱い心を詫びた。
ついに寒さとナンパの我慢の限界(主にナンパだが)を迎える。
そこで、明日からの備えをするために御宿まで出て、
登山用の防寒装備一式を用意したわけだった。
もちろん顔を隠す為のニット帽とマフラーも買いこんだ。
さすがにこの服装なら、誰も言い寄ってこないな。
ニット帽を深々とかぶり、マフラーで鼻の上まで顔を隠す。
周りから見れば、怪しさ満点だけど、寒さとナンパ回避には変えられない。
ナンパしてくる奴が50人突破したら、春希が現れるっているんなら
いくらでもナンパされてもいいんだけどな。
それよりも、春希がナンパしてくれたら・・・・・、って
あの堅物がするわけないか。
寒さで思考さえも寒々とした妄想に陥っている事にため息をつく。
温かい息がマフラーで覆った口元に充満するが、すぐさま寒さが忍び寄る。
すでに朝6時前から7時間も張り込みを続けていたんだから、
いくら防寒に気をつけていたと言っても、足もとは寒さに蝕まれている。
見回しがいい場所を選んだおかけで春希を探しやすいが、
その分突き刺さるような冷風の前に体をさらすことになっていた。
疲れを癒そうとバッグの中からなにか食べるものをと探していると、
10メートルほど離れたところにタクシーが止まる。
春希がタクシーで駅までやってくるとは思えないが、一応確かめようと
目を向けると、扉が開かれる。
中からは、楽屋で見たあの春希が降りてきた。
手にしていたバッグが地面に落ち、中からお菓子がばらまかれる。
そんな些細な事は気にせず駆け寄ろうとしたところで、タクシーからもう一人、
綺麗な女性が降りてくる。
そして、その女性は春希を抱きしめた。
力強く、春希を離さないように。
春希の顔は、はっきりとわからない。
だけど、春希が女性の手を包み込むように握りしてたところで
あたしの思考は停止する。
目の前の現実に、心が砕け散っていくのが理解できた。
でも、春希から目が離せない。
これ以上、こんな残酷な現実を見たくないのに。
見てる時間が長引くほど、自分が傷つくって分かってるのに、
愛しい春希から目を離すことなんでできやしなかった。
そして、その綺麗な女性は、春希に寄り添うようタクシーに乗り込み、
タクシーはすぐさま走り出していった。
あたしは、タクシーが視界から消え去っても、
いつまでもタクシーの影を探し続けていた。
春希 麻理のマンション 1/5 水曜日 昼
タクシーに再び乗車した俺たちの間には会話はなく、沈黙が支配していた。
どんな言葉だろうと、お互い過剰に反応してしまう気がしたからかもしれない。
それだけ感情が静かに高ぶっていた。
マンションに入ると、麻理さんに手を引かれるまま10階最上階にある部屋まで
連れられていかれた。
タクシーに乗ってから、ずっと握られていた手は、支払いの時一度離されているが、
それ以外の時はずっと堅く握られたままでいる。
麻理さんの心遣いが俺の心を溶かし、罪悪感まで溶かしつつあった。
部屋に入ると、麻理さんは、素早く電気をつけ、
部屋を暖めるためにエアコンにスイッチを入れる。
俺が座る場所を確保する為に、ソファーに脱ぎ散らかした服などを
隣の部屋に放り投げた。
麻理「あまり部屋の中を見るなよ。
帰国して、そのまま編集部に顔を出してるから、掃除していないんだ。」
目につくものを隠すように、散らかった部屋を少しはきれいに見せようと努力している。
しかし、それぐらいでは綺麗になるとは思えない惨状だったが、
言わないほうがいいのだろう。
春希「すみません。俺のせいで。
・・・・・・・、
あのタクシーの運転手の人。年上の魅惑的な女性に捨てられそうになって
自暴自棄になってる情けない男だって思ってるんでしょうね。」
麻理「そう思ってくれたんなら、光栄だな。
私としては、その逆だと思ってたんだが。」
春希「そんなことないですよ。
麻理さんは、魅力的すぎる女性ですから。
あまりにも眩しすぎて、すがってしまうほどに。」
麻理「気にするな。私が好きでやってることだからな。
それに・・・、悪かったな。お前が大変な時に、側にいてやれなくて。」
違うんです。
麻理さんが俺の心に住み着いてしまったから、どうすればいいかわからなくなったんです。
それを忘れるために、仕事に没頭しただけ。
春希「それこそ、麻理さんに心配かけさせてしまって、すみませんでした。
全て俺が招いたことなんですから。」
そんなむなしい努力も、麻理さんを目の前にしては、無駄だったけど。
麻理「部下の心配をして何が悪い。上司は、部下が仕事がしやすいように
職場環境を整えるのも仕事のうちだ。」
春希「ただの部下のために、ここまでしてくれるんですか?」
卑怯だって、分かってる。
こんなこと言ったら、麻理さんがどういう反応をするかわかってて
言ってるんだから。
麻理「なにがあったんだ?」
その言葉じゃないです。
欲しいのは、もっと俺を求める言葉だから、沈黙で答えるしかない。
麻理「今度は、だんまりか。」
春希「俺の質問の答え、もらってないからですよ。」
麻理さんは、ため息をつきキッチンに向かう。
戸棚からカップを二つ用意し、インスタントコーヒーをいれ、
一つを俺に渡してくれる。
麻理「ブラックでよかったよな。」
うなずき、礼を伝える。
しかし、意図したわけではないが、言葉で礼をしなかったことが、
麻理さんの答えを貰えるまで口をきかないとも受け止められると気がついてしまう。
必要以上に麻理さんにプレッシャーをかけるべきではないと反省したが
麻理さんの方が先に折れてくれた。
麻理「ただの部下じゃい。特別な部下だ。
お前が私をどう思っているか分かりかねるが、
お前が一人前になってもらわないと、私が困る。」
春希「じゃあ、その部下が大変な時は、自宅まで連れ帰って、
面倒みてくれるですか?」
もう引く気はなかった。だって、癒されたいから。
麻理「それは・・・・・・、分からない。
私だって、混乱しているんだ。」
俺がついに、麻理さんの心の奥に踏み込んでしまった。
俺が麻理さんの心をかき乱してしまってると思うと、
今までの勢いは消失して、罪悪感が俺を支配してしまう。
わからない。なんで急に怖くなったか、わからなかった。
春希「ごめんなさい、麻理さん。こんなはずじゃなかったんです。
なにやってるんだ、俺?」
持っていたカップが手から離れ、床にシミを作る。
勢いよくソファーから立ちあがり、手で顔を覆い、
情緒不安を垂れ流しながら歩き回る。
春希「ごめんなさい。ごめんなさい、麻理さん。
こんなとこしちゃいけないって、分かってたのに。
弱みに付け込んでるだけじゃないか。」
麻理「北原、落ちつけ。
とりあえず、座って、深呼吸でもしてみろ。」
俺の急変に驚いた麻理さんであったが、落ち着きを装って、俺をなだめようとする。
しかし、俺の変貌には、ついてこれなかった。
麻理さんが俺の肩に手を置き、ソファーに座らせようとしたが、
その手を払いのける。勢いあまって麻理さんが倒れてしまう。
春希「ごめんなさい。・・・・・失礼します。」
麻理「待て、北原!」
見下ろした麻理さんの表情は、困惑しきっている。
俺は、麻理さんを心から追い出す為に麻理さんを振りかえりもせず、
マンションの出口に向かった。
しかし、ドラマみたくかっこよく逃げ出せるわけもなく、
エレベーターが来るのを待っているところで、麻理さんにつかまってしまう。
あまりにも現実的で、情けない。
そのおかげか、とり乱していた心が覚めてしまった。
春希「かっこ悪いですね。映画だったら、このまま逃げ出せていたんですけど。」
麻理「悪いな。これは映画じゃなくて、現実なんだよ。」
二人して見つめ合い苦笑いをする。
苦笑いもいつしか安心からの笑いに溶解していく。
麻理「部屋に戻るぞ。嫌だって言ったら、引きずっていくからな。」
春希「もう逃げませんかよ。」
俺は、麻理さんの手を握ることなく、今度は一人、麻理さんの部屋に向かった。
部屋に戻ると、まずは床にこぼしたコーヒーの処理をするあたり、
落ち着きを取り戻せていると実感した。
ついでに、散らかった部屋も少し掃除しますかと提案したら、
さすがに丁重にお断りされたけど。
麻理「顔色は悪いけど、いつもの北原らしくなってきたな。」
春希「俺にどんなイメージあるか聞きたいですね。」
麻理「いいぞ。今度、今日の礼として飲みに連れてけよ。
それじゃあ、よくないな。回帰祝いとして、私が奢ってやろう。」
春希「いえ、お礼として俺が奢ります。」
麻理「そうか? ま、どっちでもいいか。」
緊張していた麻理さんから力が抜けていいく。
いくら俺がいつもの通りの行動をしてみても、
実際話してみなければ信じられなかったのだろう。
春希「ありがとうございます。」
麻理さんの目を見て、心からの感謝の意を伝える。
こんな言葉だけじゃ足りないってわかってるけど、俺の手持ちはこれしかないから、
いつか必ず恩返しをしないとな。
麻理「好きでやってるんだから、いいよ。」
春希「麻理さん・・・・・、聞いてもらいたい話があるんです。」
麻理「時間はある。気が済むまで話しなさいよ」
俺は、高校時代のことから、去年のニューイヤーコンサートに起こった出来事で
どう正月を過ごしていたかを全て麻理さんに打ち上げた。
かずさのこと。
雪菜のこと。
そして、麻理さんに対する気持ちまで包み隠さず。
俺が全て話し終わったときには、既に夜になっていた。
明りをつけることもしてなかったので、室内は暗い。
暗闇に目が慣れて、外からの光もあったおかげで、麻理さんの輪郭ぐらいはわかった。
麻理さんは、俺の話を聞き終えた後も、ソファーに座ったまま、動かずにいる。
俺は、怖くないと言ったら嘘になる。
麻理さんに嫌われるんじゃないかって、今も心臓が締めけられながらも
麻理さんの判断を待っている。
黒い影が動き、ソファーから去っていく。
俺は、体を支えていた力が抜け、ソファーに沈んでいった。
しかし、すぐさま部屋に明かりがつき、目の前が白くかすむ。
目の焦点が戻ると、目の前には麻理さんがいた。
麻理「悪かった。お前が苦しい時、側にいてやれなくて。仕事が終わった後
ヴァカンスなんか行かなければよかったんだ。」
春希「仕方ないですよ。決まってたことなんですから。
それに、これは自業自得なんですよ。」
麻理「それでも私は、側にいたかったんだ。」
春希「そう言ってくださるだけで、十分です。」
麻理「そうか・・・・・。これから、どうするつもりなんだ?」
春希「まずは、麻理さんへの依存をどうにかすることですかね。」
笑って言おうとしても、うまく笑えない。
演技なんて必要ないってわかってるから、体が拒否反応でもしたんだろうか。
麻理「私は、頼ってくれても・・・うれしいんだけどな。」
麻理さんは、赤くなった顔を一度は隠そうと顔をそらすが、
まっすぐと俺の目を見つめてくる。
春希「このまま頼ってしまったら、麻理さんにおぼれてしまう気がするんです。
それは、かずさへの裏切りだから、できないんです。」
麻理「そうか・・・・。」
春希「学園祭の後のことを思い出したんです。
目の前にいくら自分が求める幸せの一つがあったとしても、
自分が一番大切にしているものを裏切るのなら、手を伸ばしてはいけないって。」
麻理「私は、お前の求める幸・・・・・いや、なんでもない。」
麻理さんは、途中で言うのをやめてしまったが、
なにを聞きたかったかくらい理解できた。
しかし、麻理さんが言わないのならば、俺は答えないほうがいいのだろう。
春希「でも、麻理さんを頼りにしてますよ。
まだまだ教えていただかないといけないことが、たくさんありますからね。」
麻理「そんなの当然だ。これからだって、今まで以上に鍛えてやるつもりだった。」
演技ではない笑顔ができそうだったのに、麻理さんの言葉にひっかかりがあることに
気が付き、表情が固まってしまう。
春希「だったって?」
俺をまっすぐ導いてくれるはずだった目に、力が失っていく。
でも、目をそらさないでいてくれていることは、どんなことがあっても、
俺から逃げないでくれるんだと信じたい。
麻理さんは、俺の前まで来て、ゆっくりと床に座り、俺を見上げる。
麻理「今回の出張は、NY支部への異動を兼ねてなんだ。
今、記事をほとんど書いてないだろ?
もう向こうでの仕事の準備がメインになってる。
一応3月からNYってことになってるが、
準備の関係で向こうに行くことが増えると思う。
・・・・・・・こんなときに、すまない。」
春希「大丈夫ですよ・・・・とは、言えないですけど、
やけにならないでジタバタしてみます。
これでも、麻理さんに鍛えられてきたんです。
やれるところまで、やってみます。」
麻理さんを心配させないでNYに送りだすことなんてできやしない。
俺に出来ることなんて、麻理さんを心配させることぐらいだ。
だけど、心配させるんなら、前向きな心配くらいなら、今の俺にもできるはずだ。
麻理「やれるところまでやってみろ。いつだって、電話でなら相談にのってやる。
あ、でも、ギリギリまで我慢なんかするなよ。
お前のギリギリは、つぶれる寸前なんだからな。
そうなると、電話だけでは済まなくなって、
飛行機に乗って会いにこなければならなくなるんだからな。」
春希「麻理さんが会いに来てくれのでしたら、限界までやってみたくなりますね。」
麻理「そういうことはいうな。
まるで、お前が私に会いたいみたいじゃないか。」
麻理さんの頬が朱に染まる。麻理さんは、それを隠すように両手で頬を包み込む。
春希「会いたいですよ。」
麻理「なっ。」
麻理さんが、自分の発言に身を悶え、頬だけではなく目まで手で覆う。
春希「ある意味、愛の告白かもしれませんね。」
麻理「はいはい。もういいって。それでも、冬馬かずさが一番大事で
彼女を傷つけない範囲でってことだろ。」
これ以上赤くはならないってくらい上気した顔で、これ以上は言うなと
訴えかけてくる。
いくら麻理さんを大切に思っていても、
俺からは触れてこないって理解してくれているから。
麻理「何もなくても、電話くらいしてこいよ。
私の方もガス抜きくらいは必要だからな。」
春希「はい。NYのことも気になりますし、麻理さんに聞いてほしいことだって。」
その後、俺達は色気も何もない仕事のことや、NYでの準備について語り合った。
麻理「なあ北原、聞いてるのか?って、何日も寝てないんだから、無理もないか。」
意識の外から麻理さんの声が聞こえる。温かい陽だまりのようで心地がいい。
瞼が重い。もはや抵抗なんて無駄だ。
麻理「寝るんだったら、ベッドを使え。・・・・ほら。」
意識があまりない中、麻理さんの肩を借り、ベッドに崩れ落ちる。
柔らかい感触と、心地よい臭いが全身に伝わり、抱きしめてしまう。
麻理「私を押し倒してどうする。」
麻理さんは、俺を横に転がせ、俺の拘束から逃れる。
しかし、俺に体重をかけないようまたがり、俺の顔の横に両手をつき、顔を覗き込んできた。
麻理「なあ、北原。
私は、冬馬かずさの代わりだったのか?」
遠くの方から声が聞こえる。
囁くような静かな問いかけなのに、耳にはしっかり入ってくる。
春希「ちがい・・・ます。麻理さんは、麻理さんでしかないです。」
麻理「冬馬かずさのことを、愛しているのか?」
春希「愛してます。」
麻理「風岡麻理のことが、好きだったか?」
春希「今でも、大好きです。」
麻理「風岡麻理に、側にいてほしいか?」
春希「側にいてください。」
俺は、誰だかわからない彼女の問いに答えていく。
夢の中の彼女は、あまりにもリアルで、温もりや臭いがあるのがわかるのに、
顔だけはわからなかった。
俺は、そんな彼女の問いに本音で答えたと思うが、
俺がなんて答えたのかは覚えてない。
覚えているのは、柔らかな重みが唇に残っていることと、
大好きな彼女の香りが肺に満たされていることだけだった。
かずさ 冬馬邸 1/5 水曜日 深夜
かずさが目を覚ますと、見覚えがある天井が目に入った。
記憶がとんでいる?
たしか、春希に会うために、駅前で張り込みを・・・・。
涙が頬を流れ落ちる。
涙があふれるほど、昼間の光景を鮮明に思い出してしまう。
止めたいのに、止めたくない。
心の底から会いたかった春希が目の前にいたんだから、
見たくない現実であっても、春希を求めてしまう。
曜子「大丈夫? だいぶうなされてたみたいだけど。」
かずさ「母さん?」
曜子「心配したのよ。ハウスキーパーから連絡がきて。
あなたが帰ってきたら、いきなり倒れたって。
しかも、高熱出してて大変だったんだから。」
かずさ「あたし、倒れたのか。そっか・・・・。」
かずさは、他人事のようにつぶやく。
涙が止まった代わりに、表情が抜け落ちてしまっていた。
曜子「なにがあったの?って、その様子からすると、春希君には会えたみたいね。」
かずさ「ねえ、母さん。ウィーンに帰るよ。ここにいる必要がもうあたしにはない。」
曜子「春希くんに、あなたの気持ち伝えたの?」
かずさは、顔を背け、何も言わない。
言わないことがその答えだと、察してくれと言わんばかりに。
曜子「言えてたら、こんなことにはなってなかったか。」
曜子は、ベッドに潜り込む。かずさは、曜子の存在を察知し、身を固くするが、
後ろから抱きしめられることに拒絶を示さなかった。
むしろ、今まで緊張から身を固くしていた力が全て抜け落ちていく感触であった。
曜子「もう、いいの? 納得できた?」
かずさ「納得なんか、でき・・・・ない。
でも、受け入れないと駄目だって、わかってるんだ。」
涙声で声が詰まりながらも、ゆっくりと気持ちを吐露した。
曜子「でも、春希くん、彼女いないって、言ってたじゃない。」
どうも曜子は、かずさが見てきた光景を信じられないでいた。
あの北原春希が嘘をついているとは思えない。
しかも、コンサートの楽屋まで、かずさに会いに来たから、ますます謎が深まるばかり。
かずさ「タクシーから、女の人と一緒に降りて来たんだ。」
曜子「タクシーくらい女性と乗るくらいあるんじゃない?」
かずさ「しかも、・・・・抱き合ってたんだ。」
曜子「それは・・・・・。」
かずさ「年上で、すごくきれいな人だった。春希とお似合いだったよ。」
かずさは、見てきたことをこと詳細に語る。
まるで、自分に言い聞かすように、鮮明な映像を求めて。
曜子は、かずさが自嘲気味に語るその女性の姿が、
昼間アンサンブルの編集長から聞きだした春希の上司と一致してくる。
しかも、その上司は、春希を無理やり帰宅させている。
曜子は、かずさの話をさえぎり尋ねる。
曜子「それって、今日のことよね?」
かずさ「当たり前だろ。」
かずさは、むくれながらも答えた。
そのかずさの答えで全てが分かった曜子は、かずさの不機嫌さをあざ笑うかのように、
実際かずさを馬鹿にするように大笑いを始めてしまう。
曜子「かずさって、かぁ~わいいんだからぁ・・・。」
乱暴にかずさの頭を撫でくり回し、かずさを抱きしめる。
かずさも抵抗するも、曜子の勢いには勝てず、されるがままだった。
かずさ「やめろよ。・・・・・やめてくれよぉ。
もう、ほっといてくれたっていいじゃないかぁ・・・・・・。」
涙で濡らす声を振り切るように、背を向けているかずさを強引に正面を向かせる。
かずさ「なんだよ・・・。」
曜子「あなた、勘違いしてるわよ。」
かずさ「なにが勘違いだ。あたしは、この目で、はっきりと見てきたんだ。」
かずさの激昂に怯むことなく、冷静にかずさに伝える。
曜子「今日、春希くんの様子が気になって、開桜社に電話してみたの。
この前言ったアンサンブルの編集長ね。
そしたら、春希くんったら、大変なことになってて、驚いたわ。」
かずさ「なにがあったんだよ。」
曜子の肩を掴み、前のめりになって聞いてくるかずさをなだめめ、話を続ける。
曜子「ちょっと、そんなに強く掴まないでよ。話すから。
あなた、春希くんとなると、すごいわね、」
かずさ「いいから、早く話せ。」
曜子「はい、はい。・・・・・えっとね、大晦日のコンサートの後、春希くんったら
編集部に戻って仕事していたらしいの。
しかも、今日までほとんど寝ずにずっと働いてたんだって。
もちろんずっと編集部にいたら怪しまれるからって、家に帰って着替えたり、
別の部署で仕事貰ってたりしてたみたいなのよ。」
曜子の話を聞くことに全神経を集中させるかずさだが、話を聞くほど顔がこわばる。
曜子の肩を掴んでいた手も、その所在がわからなくなり、宙をさまよっていた。
かずさの様子が気がかりな曜子は、かずさの心を温めようと、かずさの手を握りしめる。
曜子「それでね、かずさ。あたなが見たっていう女性だけど、
それって春希くんの上司よ。」
かずさ「上司?」
曜子「若くて綺麗な人だけど、とても優秀な方らしいわ。
その分、部下に対しても相当なものを求めるみたいで、
よく春希くんがそれについていけるなって、編集部では有名な話みたい。」
かずさ「そうだったのか。」
かずさの手から力が抜け、安心したかずさだったが、目の前には真剣な表情の
曜子が見つめている。かずさの手を強く握りしめ、強く訴えかける。
曜子「でもね、かずさ。この数日の春希くんは異常よ。
普段も無茶はしてたみたいだけど、ここまでひどいことはなかった。
寝てないのよ、彼。大晦日からずっと。」
曜子の宣告に息をのむ。そのまま息ができなくなり、声が出ない。
肺に残ったわずかな空気を絞り出すように、かすれた声で問う。
かずさ「あたしが会わなかったから?」
曜子「そう考えるのが妥当なんでしょうね。」
かずさの顔が崩れていく。曜子もその顔を見るのがつらく、一度は顔をそらすが、
全てを見届けるため、かずさの姿を目に刻みこむ。
曜子「このままでいいの?」
かずさ「いいわけないだろ!」
ベッドの中で暴れるかずさを曜子は抑え込む。
必死に、そして、包み込むように。
かずさ「あたしが春希を傷つけた。また、傷つけたんだ。・・・うぅ・・・
どうして、あたしは春希を傷つけることしかできないんだ。」
曜子「傷つけたと思うんなら、癒しなさい。
あなたが持ってるもの全て使い果たしても、彼を救いなさい。」
慈愛に満ちていた曜子が一転、かずさを突き放しにかかる。
戸惑うかずさは、春希を救いたいと思っても、考えなんかまとまりはしない。
かずさ「わからないよ。わからないったら。
・・・・・・・もう、なにもかもわからないんだ。」
再び泣き出すかずさを、娘には甘いと反省しつつも、頭を撫でて心を落ち着かせる。
曜子「ほんと、泣き虫ね。」
かずさ「悪いかよ?」
曜子「悪くないわ。女を泣かせる男が悪いだけよ。」
かずさ「春希を、悪く言うなぁ・・・・。」
曜子は、泣き、ぐずりながらも、愛する彼をかばうかずさに、尊敬の念さえ覚えてしまう。
自分には、ここまで愛せる男がいただろうか?
幾人もの男を知っている曜子であっても、
かずさほど情熱的に男を愛したことなんてなかったかもしれない。
そう思うと、曜子はかずさに嫉妬してしまった。
曜子「今日は、もう寝なさない。
体を回復させてから、じっくり今後のことを考えましょう。」
曜子は、かずさが眠りについても、かずさを抱き続けた。
かずさが曜子の服を離さなかったこともあったが、
今はただ、かずさの寝顔を見ていたかった。
春希 麻理のマンション 1/7 金曜日 13時
目が覚めると、体中の節々が痛い。
起き上ろうにも体がいう事をきかないので、起き上がることを諦める。
わずかな首の可動範囲と、目だけを動かし周囲を見渡すと
隅の方に雑然と衣類が詰まれていた。
主に女性物の衣服であることが確認できたことで、ようやくここが麻理さんの
マンションであることを思い出せた。
春希「麻理さんに・・・・・・・。」
独りごちるもむなしく声が響き渡るのみ。
意を決して、体が悲鳴を上げるのを極力無視して起き上がる。
春希「っつぅ・・・・・・。」
軽くストレッチをするだけでも、ゴキゴキと体から音が鳴る始末。
ようやく一息つけるような体になったころには、空腹を覚えていた。
それもそのはずだった。リビングのテーブルには、今朝の朝刊があるが
その日付は2日後の1/7を示していた。
春希「まじかよ。」
新聞をめくるも頭に入ってこないので、読むのを諦め、テーブルに新聞を戻す。
その時、テーブルには仕事で見慣れている麻理さんの文字で書き置きが
残されていたのを発見した。
麻理「北原へ。
起きたら私に電話すること。
なにがあっても私に連絡がつくようにしておくから、必ず電話しろ。
風岡麻理 」
麻理さんらしい言いたいことのみを示した簡潔な文章に心が安らぐ。
俺に気を使っていながらも、絶妙な距離感を保ってくれる。
だけど、今までよりは一歩、いや、
二歩以上も俺に近づいてきてくれていると実感できた。
そんな新しい関係が心地よかった。
さすがに喉が渇ききっていたので、電話をする前になにか飲み物をとキッチンに
向かい、冷蔵庫を開けてみると、見ごとにビールを中心とした酒類と
申し訳程度のおつまみしかなかった。
どうにか炭酸水だけはあったので、瓶を取り出し、一気に喉に流し込む。
強い炭酸が喉ではじけ、大きくむせかえる。
炭酸水なのだから、いつもなら一気に飲むはずもないのに・・・・・。
食事もしていないから、栄養不足の脳が悲鳴を上げ、ストライキをしているらしい。
先に食事をして、脳に餌を与えてからの方がまともな会話ができるとも考えたが、
一刻も麻理さんに無事を、というか、麻理さんの声が聞きたかったので、
脳のブーイングをスルーして携帯を探すことにした。
麻理「はい風岡です。お世話になっております。
・・・・・・・はい、資料は用意できていますので、
後ほど折り返し連絡をいたします。」
麻理さんに電話をしてみたものの、意味不明な事務連絡を伝えられ、
あっさりと電話を切られてしまった。
たしかに麻理さんだと名乗っていたし、麻理さんに違いない。
もしかしたら、着信表示を見ないで出たのかもと考えていると、
麻理さんからの着信が鳴り響いた。
麻理「やっと起きたの。さっきは、すまなかったわね。
さすがに編集部内で話せる内容じゃないから。
ただでさえ噂になってるのに・・・・・。」
どうやら周りの目を気にしての発言だったらしい。
よく考えれば、「折り返し連絡いたします。」と言ってる。
麻理さんの声を早く聞きたく電話したが、やっぱり頭がまわっていない。
春希「麻理さん、おはようございます。色々ありがとうございます。」
麻理「それは私が好きでやってることだから、気にするな。
それにしても、「おはようございます。」って時間ではないだろ。
もう1時を過ぎているぞ。」
春希「それは・・・。新聞で二日も寝てたことは理解してたのですが、
時計までは。たしかに日が高いですね。」
窓の外の見上げると、太陽の光が心地いい。
眩しさが無理やり脳を活性化させているようだった。
麻理「寝すぎて脳が働いてないみたいだな。食事はとったか?」
春希「いいえ、まだです。早く麻理さんの声を聞きたくて、電話を優先させました。」
麻理「っつぅ~・・・・・。」
何かがぶつかり落ちる音がした。麻理さんの声にならない悲鳴も聞こえてきて
不安を覚える。
春希「大丈夫ですか?」
麻理「大丈夫なものか!」
春希「すみません。」
とっさに誤ってしまったが、麻理さんに何があったかわからずにいた。
麻理「すまん。北原が悪いわけじゃ・・・・・・ないってこともないか?」
春希「なにがあったんです?
俺に責任があるなら、教えてもらえないと対処のしようも。」
麻理「気にするな。」
春希「そうですか。」
なにか釈然としないが、これ以上この話題を引っ張ってもろくなことはない気もする。
それに、麻理さんの声も棘があるし、触らないほうがいいか。
麻理「体調の方はいいのか? 気持ち悪いとか頭が痛いとか
体の異変がちょっとでもあるんなら言ってくれ。
お前は、自分が思っている以上に体にも精神にも負担をかけてたんだからな。」
切り替えが早い麻理さんは、一瞬にして棘は抜け、俺をいたわる麻理さんになった。
人によっては事務的な会話に聞こえてしまうが、
俺にとっては最高に優さを感じる会話だと思える。
春希「寝てたせいで体が若干重いですが、体調面では問題ないと思います。
それに、精神面でも麻理さんに癒されましたから。」
麻理「そ・・・・そうか。」
裏返った声が聞こえたが、これも言わないほうが無難なんだろうな。
そう思うと、こっちも何を言ってらいいか迷ってしまっていた。
麻理「何か言ってくれよ。」
春希「・・・・あぁ、すみません。」
麻理「本当に体大丈夫なのか? 無理してるんだろ。
やっぱり今すぐ帰るから、そこでおとなしくしてろ。」
春希「大丈夫です。・・・・・・本当にだいじょ・・・・・・。」
俺が弁解しようとしたときには電話は切れた後だった。
話の途中で聞くのをやめ、反射的に行動するなんて、今までの麻理さんからは
想像もすることができなかった。
それだけ心配させることをしでかしてしまったかと思うと、情けなく思えてしまう。
それと同時に、許されないことだと分かっているけど、麻理さんの優しさが
なによりも嬉しかった。
春希「って、感傷に浸ってる場合じゃない。早く麻理さんを止めないと。」
俺はすぐさま麻理さんに電話した。
かずさ 冬馬邸 1/7 金曜日 13時過ぎ
曜子「かずさ、食事持って来たわよ。一緒に食べましょう。」
かずさ「ありがとう、母さん。・・・・・今日も仕事休んで大丈夫なのか?」
かずさが倒れて以来、曜子はホテルを引き払って冬馬邸に移っていた。
もともとコンサートが終われば、コンサート前ほどマスコミの相手をするわけでもなく、
仕事といってもニューイヤーコンサートのBD・CD発売に向けての打ち合わせが
ほとんどであった。
そのことを考えれば、かずさに気兼ねなく付きっきりになれる状況であったのは
幸いともいえる。
ただ、打ち合わせの調整を全て任された美代子さんの負担は計り知れない。
美代子さんも、曜子がかずさにつくことに積極的に後押しをしているので
曜子はかずさが全快するまでかずさ中心の生活を送るつもりでいた。
曜子「それは昨日も言ったでしょう。仕事は、もうそれほど残ってないの。
でも、日本での休暇を楽しむのも仕事のうちっていったら、
仕事は残ってるわね。」
かずさ「だったら、あたしなんか置いて、温泉でもどこでも行ったらいいじゃないか?」
曜子「温泉なんかより、かずさの看病している方がよっぽど充実した休暇になるわ。」
かずさ「人が病気になってるのを見て楽しむなんて、悪趣味だぞ。」
曜子「そんな趣味ないわよ。
・・・・・・・・・・たまには母親らしいこともしてみたいなって。」
曜子は、かずさの手を握り、少し恥ずかしそうに言った。
曜子「ダメかしら?」
あの自信家で、天真爛漫で、策略家の冬馬曜子が、下手に出て
かずさに甘えようといていた。
曜子を知るものが見たら、これさえも曜子の計画かを思ってしまうかもしれないが
かずさには、曜子の気持ちを素直に受け取ることができた。
たとえ3年間すれ違いをして離れて暮らしていても、
かずさは生まれてからずっと曜子のことを見てきている。
母親冬馬曜子に関しては、かずさ以上に知っている人間などいないのだ。
かずさ「駄目じゃない。むしろ、・・・・・・居てくれた方が助かる。」
曜子「ありがと。それと、私に気を使うんじゃないわよ。
好きでやってるんだから。それっじゃあ、食べましょうか。」
曜子は、屈託のない笑顔でそう宣言すると、持ってきたトレーをかずさに渡した。
曜子「そんなに美味しくない?」
あまりにもかずさが美味しそうに食べてないので、
曜子は、かずさのおじやを勝手に試食する。
たしかに、病人が食べやすいようにハウスキーパーが料理したが、
昨日よりも体調がよくなったかずさ用に味の調整はされているはずだった。
曜子「おじやなんて、こんなものじゃない?」
かずさ「病人なんだから、美味しそうに食べる訳ないだろ。」
曜子「そう?
でも、なにか一口食べるごとに土鍋を睨んじゃって、
見てる方としては美味しくないんじゃないかって疑っちゃうわよ。」
かずさ「ほんとうになんでもないんだ。
・・・・・なんでも・・・・・・・ない・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わけない。」
かずさがれんげを落とし、土鍋の淵に当たり鈍い音が響く。
曜子がれんげを拾い、かずさのトレーを取り除いてあげると、
かずさはそのまま泣き崩れた。
曜子は、かずさになにがあったなんてわかるはずもなかった。
しかし、なにが原因で泣いているかだけは確信できている。
かずさが思い悩むことなんて、北原春希以外にありえなかったから。
曜子は、かずさが泣きやむのを黙って待つ。
春希のことを聞きだすのでも、慰めるのでもない。
曜子には、自分にできることの限界があることが分かっていた。
今は待つことしかできなかった。
春希 麻理のマンション 1/7 金曜日 14時頃
結局のところ、麻理さんに再び電話してみたが、電話に出てもらえることはなかった。
麻理さんのことだ、仕事を抜け出してくるとしても、
そのまま放り出して来ることはないはず。
ならば、来るまでにはもう少し時間かかるかな?
それにしても、あの麻理さんが仕事より優先するものがあることに驚きだ。
でも、部下の管理も仕事のうちか・・・な?
と、麻理さんが来る時間があるので、部屋の掃除をすることにした。
恩返しにもならないけど、やらないよりはましだ。
麻理が帰宅すると、部屋の中は静かだった。
リビングは綺麗にかたずけらている。寝室に行くとベッドはシーツはとりかえられ、
掛け布団は干されているのか寝室にはなかった。
キッチンものぞいてみたが、使った皿類が洗われシンクも掃除され、
自分の部屋ではない感じがする。
春希がいないのも自分が部屋を間違えたからではと疑ってしまう。
麻理「北原?・・・・・・北原いないのか!」
春希を呼んでみたが、返ってくる返事はなかった。
もしやトイレなら、とかすかな希望をもって点検したが、やはりいなかった。
最後にいないとは思うがバスルームもチェックしておくかと扉を開けたところ、
春希「麻理さ・・・・・ん、お帰りなさい。」
タオルで体を拭き、バスルームから出てくる春希と遭遇した。
麻理「ただいま。」
春希を凝視する麻理。春希が裸であることを認識し、
春希の顔から視線を動かせないでいた。
麻理「すまない!」
慌て謝罪する麻理さんだったが、あまりにも気が動転していて、
目を瞑ることさえできないでいた。
春希も動揺していたが、あまりにも慌てふためく麻理を前に、自分が動揺することさえ
忘れてしまい、冷静さを取り戻していた。
春希「できれば後ろを向いてくれませんか。」
麻理「どうして?」
春希「どうして?って、俺、今裸なんですけど・・・・。」
ここまで麻理さんの思考が停止してるとは。
呆けた顔で俺を見つめていた麻理さんは、俺の声に反応したのか、
視線を顔からゆっくり下に移していく。
そして、俺の下半身で目が止まると、後ずさりをし、勢いよく扉を閉めた。
麻理「北原すまない! 私は今の状況が呑み込めていないんだが、
どうして北原は裸なんだ?」
春希「2日も風呂に入ってなかったので、肌がベトベトだったんですよ。
さすがに麻理さんが戻ってくるんなら、臭いも気になりますし
勝手に風呂借りるのは悪いと思ったんですが、勝手に使わせてもらいました。」
ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえる。
声からの推測にすぎないが、わずかだが落ち着きを取り戻してくれたみたいだ。
ドアから布が擦りながら落ちていく音がした。最後に堅いものが打ち付けられる音が
したことから、きっと麻理さんがドアに寄りかかって座っているのだろう。
麻理「そうか。・・・・別にバスルームくらい勝手に使ってもいい。
とり乱してすまなかった。
それと、・・・・・・裸見て悪かったな。」
今さらながら俺の方が恥ずかしくなってきてしまった。
麻理さんが落ち着いてきた分、それが俺の方に乗り移ってしまったのかもしれない。
春希「いえ、気にしないでください。」
麻理「気にするなって言われてもな。」
春希「はは・・・・・。そうですね。」
麻理「そうだ。」
麻理さんも再び恥ずかしさを取り戻したようで、お互い気まずい雰囲気になってしまう。
このまま裸でいる訳にもいかないので、落ち着いたふりをして、声をかけた。
春希「なにか着替えるものありませんか?
このままだと、さっきまで着ていた汗だくの服を着ないといけなくなるので。」
言い終えた瞬間に、俺は馬鹿なことを言ってしまったと気がつく。
麻理さんの部屋に男物の着替えがあるとも思えない。
麻理「すまない。あいにくお前が着られそうなものはない。
ちょっと待ってろ。すぐに着替え買ってくるから。」
麻理は床から立ち上がり、すぐさま出ていこうとしたので、
俺は慌てて引き止めた。
春希「麻理さん! ちょっと待ってください!
俺も行きますから。」
麻理「それはかまわないが、その服着ていかないといけないし、
気持ち悪くないか?」
春希「買ったらすぐ着替えますから大丈夫ですよ。」
麻理「そうか。だったら、向こうで待ってるよ。」
そう言うと、麻理はリビングに消えていった。
さすがに麻理さんに俺のパンツを買ってもらうわけにはいかないだろ。
麻理さん気がついてないのかな?
麻理さんが照れながらもパンツを選んでいる姿を想像すると、少しおかしかった。
春希 カジュアル衣料店 1/7 金曜日 15時前
麻理さんに連れられ、麻理さんのマンションからほど近いカジュアル衣料店に来ていた。
お金を節約したい学生としては、無駄な出費は抑えたい。
だからといって、安くても2度と着ないような服は買いたくない。
それを考慮して連れてきてくれた結果がここというわけだ。
麻理「これなんか似合うんじゃないか?」
春希「そうですか? あ、ちょっと待ってくださいよ。」
北原に似合う服を見繕ってやると宣言され、今や俺は、麻理さん専用のマネキンに
任命されてしまった。
俺に服をあてては真剣に悩む麻理さんは、仕事場とは違った無邪気さをはっきしていて、
かわいく思えてしまう。
麻理「私のセンス疑ってるんだろ?
私がスーツしか着てないなんて思ってないだろうな。」
春希「思ってませんよ。今着ている服だって、とても似合ってて綺麗ですよ。」
麻理「そうか? だったら、よし。」
麻理さんは、鏡で自分の服を確認し、両手で小さくガッツポーズなんてするものだから、
あまりにもおかしくて、あまりにも愛らしい。
かずさへの想いを最優先にするなんて言っておきながら、
目の前の麻理さんといることに喜びを感じてしまうなんて、
俺って薄情だなと思いながらも、麻理さんに再び夢中になりかけていた。
散々とっかえひっかえ着せかえられ、1時間かけてようやく麻理さんが
納得するコーディネートが完成される。
寝まくって睡眠不足は解消されたが食事がまだの俺には、少々きつかった。
しかし、楽しそうなはしゃぐ麻理さんを見ていたいという気持ちが勝り、
俺も時間が過ぎ去るのが気にならなかった。
麻理「こんなものかな。どうだ、北原? 私もやるもんだろ?」
俺と服とを繰り返し見て、自慢げに訴える。
春希「ありがとうございます。あともう一つ買いたいものがあるので、
ちょっと待っててもらえませんか?」
麻理「なんだ北原。ここまでやったんだ。最後まで私が見てやろう。」
早く案内しろと訴えてくるが、俺はその場を離れることができなかった。
なにせ、欲しいのは下着だし・・・・。
そんな俺の気持ちを察してくれるわけもなく、なかなか動こうとしない俺に
業を煮やして、ついには俺の腕を引っ張っていこうとする始末。
これ以上ここで押し問答をしても解決するわけもないので
麻理さんがどんな反応をするか予想がつくけど、
ストレートに俺が欲しいものを伝えよう。
春希「麻理さん!」
意を決した俺の声は、勇気を振り絞って声を出してしまったため、
大きくなってしまう。
そんな俺を見て、麻理さんは、きょとんとして俺を見つめかえす。
この人は、本当に気がついてない。
平日の昼間ということもあって店内には客は少ないが、注目されてしまったのは事実。
どうしたものか・・・・・。
春希「麻理さん、ちょっと。」
麻理さんの手を引っ張り、人がいない場所に移動する。
訳も分からず連れて行かれた麻理さんは、頬を染めながらも困惑気味であった。
麻理「北原、どうしたっていうんだ。」
春希「大声出してしまって、申し訳ありませんでした。
それで、俺が買おうとしている品なんですが・・・・。」
麻理さんの耳元に寄り、小声でささやく。
春希「下着が欲しいんです。」
お互い密談しているというシチュエーションもあって、照れてしまうが、
俺の発言を理解した麻理さんは、俺の比ではない。
麻理さんは、その場でフリーズするも、風呂場での一件でわずかな耐性ができたらしく、
すぐさま再起動を開始できたようだ。
麻理「察してやれなくて、悪かった。・・・・・外で待ってるから。」
春希「はい。支払いを済ませた後、すぐ行きます。」
俺の返事も聞き終わらないうちに、麻理さんは、なぜかロボットのような歩行で
駆け去って行く。
いまどきの中学生でも、もっと落ち着いた対応できるはずなのに、
恋愛に大きなブランクがあるとここまで退化するのかなと、ほほえましく思えた。
人のこと言えないのが痛いけど。
かずさ 冬馬邸 1/7 金曜日 14時頃
曜子は、自分の食事をとることもなく、かずさの気持ちが落ち着くのを待っている。
話しかけることも、かずさを見つめることもせず、
ただかずさに背を向けて窓の外を眺めていた。
心地よい日差しが曜子をくるみ、静かな午後が眠気を催そうとしていたが、
ようやく重たい口が開く。
かずさ「作ってくれたんだ。
学園祭直前、あたしが倒れた時、春希が雑炊作ってくれたんだ。」
かずさの声で瞬間的に覚醒した曜子は、かずさの方に振り向く。
かずさは、春希の幻でも見ているかのように語ってくる。
かずさ「料理へたくそなくせに作ってくれたんだ。
あいつの料理を食べたのなんて、あれが最初で最後だったけど
今でも覚えてる。
すごく美味しいってわけでもないし、全然普通の味だったけど、
脳が記憶しちゃって、忘れることなんかできやしないんだ。」
ときたまかずさの視線が曜子と重なることがあっても、
かずさの視線の先には曜子はいなかった。
曜子は、自分の方が幻なんじゃないかと錯覚してしまう。
かずさ「優等生のくせに、朝あたしが来ないからって、学校抜け出して
あたしを探しに来てくれたんだ。
電話に出なくても、それくらい気にしないでほっとけばいいのに、
わざわざ来ちゃうんだ。
風邪で弱ってるあたしに付け込んでくれればよかったのにって
腹立たしく思ったりもしたけど、そんなことしたら蹴り飛ばしてたかもな。」
曜子「もう少し素直だったらよかったのにね。」
かずさ「母さん? ああ、そうだな。
もう少し素直で、もっとずる賢かったらって思うこともあるよ。」
かずさが曜子の存在に気がつく。
本当に曜子の存在を忘れていたと分かった曜子は、苦笑いするしかなかった。
曜子「あなたには、ずる賢い女なんて似合わないわよ。
でも、素直になるのは必要ね。」
かずさは、曜子の提案に深くうなずく。
かずさ「そうだな。あの時、あたしの方から迫って、もし駄目だったとしても
弱ってたから近くにいたお前にすがってしまったなんて
計算づくで演じることなんて、あたしには無理だろうからな。
後になって、あの時ああすればよかったって考えることはできても
あたしには、それを実行することなんて、この先もできそうにないな。」
曜子「そんな計算づくのあなたなんて、魅力的じゃないわよ。
きっと春希くんも、そう思ってるんじゃない?」
かずさ「どうだか?」
一通り話すことは話したのか、かずさは口を閉ざし、幻と会話を始める。
その姿が、曜子が見たこともない女の顔をしていて、
同じ女であったとしてもドキリとした。
艶っぽくて、そして、彼に素直に接している姿は、さっきまで素直になれないと
嘆いていた少女だとは思えなかった。
曜子「それで、この先どうするつもりなの?
なにもしないでウィーンに戻るのは、お勧めできないわ。」
かずさ「母さんに頼みがあるんだ。」
かずさは、幻と別れ、曜子をはっきり見つめて告げた。
春希 スーパー 1/7 金曜日 16時頃
支払いを済ませ外に向かうと、何もなかったかのように麻理さんは笑顔で俺を
迎えてくれた。
といっても、俺の顔を見ようとはしてくれないけど。
俺も、もし視線が交わってしまったら、どうしたらいいかわからなくなって
しまうと思う。しかも、お互い街の真ん中でフリーズ状態で見つめあってるなんて
考えただけでも恥ずかしかった。
麻理「さあ行くぞ。私がよく行くスーパーで、ワインの取り扱いも豊富なんで
重宝してるんだ。24時間やってるのも助かる。」
出かける前にキッチンを見てきたが、麻理さんがワインやビールがメインなのは
明白である。麻理さんの需要からすれば、そのスーパーは麻理さんのリクエストに
見事応える店なんだろうと思っていたが、思いのほか、野菜や魚、調味料まで
豊富に取りそろえている。
麻理さん、偏見を持ってごめんなさい。
でも、麻理さんがいうように、酒類の取り扱いも素晴らしく充実してたけど。
春希「麻理さんは、ここのお弁当をよく買うんですか?」
麻理「なんでお弁当限定なんだ? 野菜とか肉とかも、たくさん売ってるだろ?」
麻理さんは心外だという顔を見せ、むくれてしまう。
今日は、いろんな麻理さんの表情を見られる日だなって、嬉しく思っていると、
その表情が馬鹿にしていると感じた麻理さんは、眉間にしわが寄ってきた。
春希「すみません。そんなつもりはなかったんです。」
麻理「そんなつもりってどんなつもりだ?」
春希「それはその・・・・。」
墓穴を掘った俺は、素早く敗戦処理をしなくてはならなく、
春希「ここのスーパーのお弁当美味しそうじゃないですか?
それに外食ばっかだと飽きるし、それに・・・・・・。」
麻理さんの視線を見ないように顔を背け、本当に言いたかったことを
付け足しのようにつぶやく。
春希「麻理さん、料理全くしていないみたいでしたし・・・・・・。」
麻理「聞こえてるぞ、北原。」
麻理さんは、俺を睨めつけながら、俺が逃げないように腕をからませてきた。
麻理さんの柔らかい感触が俺の腕に押し返されて形を変え、じかに温もりを伝えてくる。
なんで俺はここにいるんだっけ?
そもそも、麻理さんが編集部から戻ってきた時点で、俺が家に帰れば済む話じゃ
なかったのだろうか?
着替えなんか買いに来なくても、電車で帰るくらい我慢できたはず。
現に、今だって服は買っても着替えないでいるし。
俺が難しい顔をしていると、逆に麻理さんの方が気を使って自虐ネタを披露してきた。
麻理「悪かったな。料理できなくて。だから、男にも振られるんだ。
お前の言う通り、ここのお弁当だって全て制覇してる悲しい女だよ。
栄養だって偏ってるし、年を重ねるごとに肌の張りだって・・・・・・。」
自虐ネタを演じようとしたら、本当に落ち込みだした麻理さん。
これはやばいと感じた俺は、笑顔を引き出して、フォローに回る。
春希「料理できなくたって、それ以上の魅力が麻理さんにはありますよ。」
麻理「例えば、何があるんだ。」
ぐずった声で、上目遣いで迫ってくるのは反則ですよ、麻理さん。
春希「えっと、仕事ができること。アネゴ肌で面倒見がいいところ。
先頭きって突っ走る強いところ。・・・とか?」
麻理「それは全部仕事のことじゃないか。」
涙目になって今にも泣きそうになってるのは、
ここが酒コーナーに近いからだからですか。
酒なんか飲んでいないのに、感情の起伏が激しくなってる気がした。
いつもは感情をコントロールして、仕事に徹しているあの麻理さんが、
素顔の風岡麻理を俺に見せてくれてるのか?
それは、大変光栄なことだけど、それって、つまり、そうなんだろうか・・・・・・。
春希「あとはですね・・・・。」
俺の頭に、今日見てきた麻理さんがよぎる。
春希「例え勘違いであっても、大変な時には仕事を放り投げても助けに来てくれる
ところですかね。それに、普段は熱血漢でクールに仕事してるのに、
ちょっと抜けてるところがあって、それがなんか見ていてかわいいなって、
思えてしまうんです。顔を真っ赤にするところなんて、
中学生かよって言いたくもなるくらい愛らしくて。
・・・・えっと、まあ、そんな感じです。」
妙に恥ずかしいことを語ってしまった俺は、最後だけはぶっきらぼうに締めた。
麻理「そうか。」
俯く麻理さんは、まさしく俺が言った中学生そのものだった。
しかし、腕から伝わる感触は、まさしく大人の魅力そのものであって、
大人と少女の魅力を両方兼ね備えた麻理さんは、暴力的な魅力をふるっていた。
俺は、これ以上はまずいと思い、話を切り替える。
春希「そういえば、編集部の方は大丈夫なんですか?
麻理さんが突然抜けたら、泣き出しそうなメンツがそろってる気も。」
麻理「その辺は大丈夫だ。しっかりと割り振ってきたし。
それに、普段からこういう時があっても大丈夫なように、鍛えてきたつもりだ。」
春希「それはそうですけど、麻理さんが仕事を抜け出してくるなんて、
想像できませんでした。」
麻理「それは私自身も驚いてる。この私が嘘をついてまでして
仕事を放り投げたんだからな。」
春希「すみませんでした。」
麻理「いや、いい。私の勘違いもあったんだし。
それに、嘘をついたのも私がしでかしたことなんだから。」
春希「麻理さん。」
麻理さんは、本当に後悔なんてしていないって伝えようと、笑いかけてくる。
俺、はそれにどう応えればいいか、わからなかった。
麻理「それで、北原は何を御馳走してくれるんだ?」
もうこれで仕事の話は終わりってことなんだろう。
麻理さんの優しさに素直に乗っかることにしよう。
春希「難しいものじゃなかったら、リクエストにこたえますよ。」
麻理「本当か? う~ん・・・・。なにがいいかなぁ。」
考えに集中してるせいか、俺に体重を預けてくるせいで、
ますます麻理さんの温もりが伝わってきてしまう。
そんな俺の苦労なんてつゆ知らず、麻理さんは真剣に悩んでいた。
麻理「オムライスがいいな。卵が半熟なやつ。
これだったら、できるだろ?」
春希「うまく半熟にできるかわかりませんが、オムライスくらいなら作れますよ。」
麻理「よし、決まりだ。そうと決まれば、さっさと買いものを済ますぞ。」
春希「ちょっと待ってください。そんなに引っ張らなくても・・・・。」
元気よくぴょこぴょこ揺れる黒髪を見つめながら後を追う。
普段からは想像もできないはしゃぎようにうれしい戸惑いを覚えていた。
春希「そういえば、麻理さん。」
麻理「なに?」
勢いよく振り向くものだから、組まれていた腕が引っ張られてバランスを
崩しそうになる。
麻理「あっ・・・、すまない。」
春希「大丈夫ですよ。」
麻理「それで、なに?」
謝っておきながら、全然反省しているとは思えない。
笑顔で謝るなんて反則すぎます。
思わず見惚れてしまいました。
春希「あっ、はい。台所を見たところ、フライパンなどの道具は揃ってたんですが、
調味料とかは全くないですよね?」
麻理「砂糖と塩くらいならあるんじゃないか?」
春希「それだけで、どうやって料理するんですか。」
この人の壊滅的な生活能力にため息が漏れる。
洋服も脱いだまま散らかってたし、俺の周りには、
生活能力がゼロか100かのどちらかに偏っている人物しかしないのではないかって
本気で信じてしまいそうだ。
麻理「あとは、えぇ~と・・・・・、マスタードとか?」
春希「マスタードをどうやってオムライスに使うんですか?」
麻理「世の中にはいるかもしれないぞ。」
春希「だったら、麻理さんのオムライスにはマスタードを入れますね。」
麻理「北原が、い・じ・め・るぅ」
甘えた声で訴える麻理さんをみていると、
なんか、俺が勝手に作っていた風岡麻理のイメージが壊れていく。
大人の女で、面倒見がいい姐御肌。
仕事に情熱を注ぎ、誰よりも自分の仕事に厳しい。
生活能力はないけど、そのマイナス面でさえ魅力だと感じてしまうほどの安心感。
だけど、今、目の前にいる麻理さんは、そのどれにも該当しなかった。
あまりにも無邪気で、どこまでも愛らしい姿をしている。
そんな風岡麻理の全てを見逃すまいと目が追っていた。
春希「それにしても、フライパンだけじゃなくて、包丁まですごいのそろってますね。
それほど料理に詳しくなくても、名前を聞けばわかるような高級器具でしたし。」
オレンジ色のホーロー鍋や、有名フライパンセット。
包丁にいたっては、用途別にそろえられた包丁セットだけでなく、
見るからに切れ味が抜群そうな輝きをもつ鋼の日本包丁。
しっかりと製作者の名前まで掘られていて、調べればすぐに名前が出てくるのだろう。
そんな一流器具が新品のまま埃をかぶっていた。
麻理「ああ、あれね。あの部屋に引っ越した時に、佐和子とそろえたのよ。
使うわけないのに、この部屋だったら似合うだろうって。」
春希「なんとなく想像できます。」
麻理「誉めてないだろ。馬鹿にしているのがまるわかりだぞ」
怒ってないのに怒ったふりをする麻理さんを、ほほえましく思える。
この数日抱えていた溶けない悩みを、優しく包みこんでもらっている気がした。
けっして解決できない悩みを無理やり解決するのではなく、
寄り添って痛みを忘れさせてくれる。
それは依存であって、誉められた対処法ではないのかもしれないけど、
今の俺には必要だって思えた。
結局麻理さんは、レジで会計をするまで腕を離してくれなかった。
俺も、それを指摘することはない。
それにしても、あんなにお腹すいていたのに、
麻理さんがいてくれるだけで空腹感を忘れてしまうなんて、現金なものだな。
曜子 冬馬邸地下スタジオ 1/7 金曜日 17時頃
曜子「病み上がりに録音しなくてもいいんじゃない?
練習不足もあるだろうし。」
かずさ「大丈夫。・・・・・今の気持ちを残しておきたいんだ。
それに、無理言って機材用意してもらった美代子さんにも悪いだろ?」
そう宣言するかずさの顔色は、けっして良いとは思えなかった。
透き通るような白い肌は、今は寒々しいほど白い。
しかし、鍵盤を走り抜けるかずさの指先は、病気だったことを感じさせなかった。
むしろ邪念が抜けた分だけ余計な力が入っていない。
以前、曜子がお色気全開のピアニストと揶揄したことがあったが、
その評価は今も変わっていない。
ただ、一つ変わったことがあるとしたならば、
・・・・・・・・・・・・いや、以前から全く変わってなどいなかった。
かずさは昔も今もまっすぐ北原春希のみを見つめていたのだ。
それを意識して全面的にピアノで表現しているかいないかの違いがあっても、
かずさの本質は変わることなどない。
聴く者によっては不幸の谷底に叩き落とされる音色。
あまりにも純粋すぎる吐息は、人の建前や社会的地位などを崩壊させてしまう。
それほど一途なピアニストを見て、曜子は寒々しいほどの興奮を覚えた。
一方で、母親としては、力になりたいと思う気持ちがわいたが、
それと同時に、女としては、北原春希に強い関心が芽生えた。
曜子「別に今すぐ録音する為に、美代ちゃんを呼んだわけじゃないのよ。
たまたまスケジュールが空いてただけなんだから。
それでもあなたやるつもり?」
我ながら建前すぎるセリフを吐くもんだと辟易していたが、
手だけは録音の準備を進めている。
この瞬間のかずさを切り取りたいという願望の方が強かった。
今この場にいられることに感謝さえしている。
コンサートで、身が震えるほどの感動を覚えた演奏に出会ったことはあった。
なんども繰り返されるコンサートであっても、その時その時によって
演奏は微妙に変わってくる。
気候によっても音色は変わるし、奏者の精神状態によっても変わる。
ただ、そんな違いがあっても、何度も繰り返されるコンサートのなかの一回にすぎず、
いずれ感動も薄れていってしまう。
この瞬間でしか聴くことができないという演奏には出会ったことがない。
たった一度。冬馬かずさのこれから演奏される音色は生涯で一度きりだろう。
それも、特別すぎるほどに特別な演奏。
だから、これから始まるここにはいないたった一人ためだけに開催されるリサイタルに
第3者としであっても居合わせることができて、これほどまでの幸運はないと思えた。
かずさ「準備できた?
早く始めたいんだけど。」
曜子「もうできるわよ。一応美代ちゃんがいたときに全て準備は整えたから。
だけど、もうちょっとだけ待ってちょうだい。」
そう言うと、曜子は録音開始ボタンを押し、
最高の演奏が聴ける席に移動させたソファに身を沈める。
曜子「じゃあ、始めてもいいわよ。」
かずさは、返事の代りに一つ深呼吸をする。
吐き出した空気さえも演奏の一部だと感じてしまうのは、
かずさの存在そのものが芸術へと転化してしまっているからだろう。
曜子は、二つの呼吸と二つの鼓動を、一つの呼吸と一つの鼓動にしてしまいたいジレンマ
をかかえつつ、歓喜の瞬間を待った。
そして、かずさが最初の音色を紡ぎ出す。
春希 麻理宅 1/7 金曜日 17時30分頃
チキンライスの食欲をそそる香りがキッチンに充満する。
腹ぺこの俺だけではなく、麻理さんも臭いにつられて俺がふるうフライパンを
俺の邪魔をしないようと後ろから覗き込んでくる。
しかし、俺の両肩に手をのせるのはいいのだが、
背中に柔らかいふくらみを押しつけるのはやめてもらいたい。
ただでさえ俺の首元から覗き込む横顔にどぎまぎしてしうのに。
胡椒やケチャップを取ってほしいとお願いすれば、
喜んでサポートしてくれる。
でも、それが終わると麻理さんの定位置となった俺の背中に戻ってくるのは
もうどうしようもないのだろう・・・・。
揚げ物などをやるとなると危険なので注意する必要があるけど、
今回はそれほど邪魔にもならないので、強くは言えない。
どんな言い訳をしても、こんな状態を喜んでいる自分がいることは
否定などできやしないのだけれど。
春希「チキンライスをよそうお皿用意してくれませんか?」
麻理「これでいいのか?」
あらかじめ用意していたお皿をガス台の側に2つ並べる。
それに手際よく盛り付けると、今回の最難関、半熟玉子の制作に入らなければならない。
春希「さすがに半熟玉子は自信ないので、ちょっと離れていてくれませんか?」
麻理「あぁつ、そうか。そうだな」
麻理さんは、意識しないで俺の背中にへばりついていたことに初めて気が付き、頬を染める。
俺としては、背中から追い出したいわけではなかったのに、
結果的に追い出してしまったことを名残惜しく思えた。
麻理さんのことだから、意識してしまえば、
俺の背中に自分の意思でやってくることなんて皆無に等しいだろう。
なんて邪念を持っていると、本当に卵を失敗しそうなので意識をフライパンに
堅く結びつけた。
半熟オムライスの成績は、俺としては満足がいく1勝1分けであった。
最初のオムライスは我ながらうまくいったと思う。
だけど、気を良くした俺は2回目の盛り付けで、最後の最後で失敗してしまった。
半熟具合は申し分ないが、形が崩れて卵がやや右寄りになっている。
食べる分には問題ないので、半失敗作は俺の目の前に鎮座している。
麻理さんは、オムライスを並べるときに麻理さんの方に半失敗作を持っていこうとしたが、
それは丁重に遠慮してもらった。
味は問題ないけど、麻理さんには見た目でもオムライスを堪能してほしい気持ちが
あったから、押し問答の末、どうにか俺が半失敗作を手にすることができた。
麻理「北原は、料理もできるんだな。一家に一人欲しいくらいだよ」
春希「ちょっとは自炊するんじゃなかったんですか?」
麻理「そうだなあ、結局独りだと自炊しないくなる気も」
春希「それじゃあ、最初から駄目じゃないですか」
麻理「私に女の魅力が欠如しているっていいたいんだな。
どうせ私には仕事しかないし・・・・・・」
春希「そんなこと言ってないじゃないですか。
もし料理を始めるんでしたら、俺も手伝いますから。
といっても、俺も人に教えるほどうまくないですけど」
麻理「本当か?」
忙しく表情を変える麻理さんであったが、そろそろ今の笑顔で定着させて
食事に移りたい。
考えてみれば、俺だけじゃなくて、麻理さんも昼食抜きだったはず。
春希「本当ですよ。俺ももっと料理覚えたいと思っていたので。
それよりも、早く食べましょう」
麻理「そうだな。いただきます」
春希「いただきます」
昼食兼夕食となったオムライスは、空腹以上のスパイスが目の前にいてくれるおかげで
最高の味となった。
麻理「なかなか美味しいな」
春希「よかったぁ」
麻理「何度も味見してたじゃないか。そういう用心深いところは評価できるけど、
もう少し大胆さも普段から持ち合わせたほうがいいわよ」
たしかに麻理さんの言うことは的を射ている。
普段は用心深すぎるくせに、なにか問題が起きれば、周りの迷惑など度外視して
行動にでてしまう。今までは致命的な失敗をしてきていないから
周りも強く責めはしてこなかったが、社会人となって、社の看板を背負っての
行動となると、そうもいかないだろう。
自分一人の責任ならいくらでも受け入れるが、会社の問題にまでなると
俺一人の問題ではすまなくなる。
春希「そうですね。麻理さんを見習って覚えていきます」
麻理「そうだな。もう少しお前の側にいたかったよ」
麻理さんが春からNYに転勤になることをすっかり忘れていた。
あまりにも今が楽しすぎて、あまりにも麻理さんがいることが当たり前すぎて
目の前にあったはずの現実を見ないようにしていた。
春希「これで会えなくなるわけじゃないですよ。
いつか日本に戻ってくるんですよね?」
麻理「その予定だが。それでも、3年から5年くらいは向こうだと思う」
春希「だったら、休みをとって会いに行きます」
麻理「北原・・・・・・」
おだやかな頬笑みを浮かべる麻理さん。
年上の女の人だって思えないくらいの無邪気な姿は、
小さいころから隣にいる幼馴染とさえ思えてしまう。
その柔らかい瞳に吸い寄せられていくが、
突如として変化したきつい目つきに驚きを覚える。
麻理「そんな口説き文句は、一番大切な相手に言ってやれ」
春希「麻理・・・・さん」
目の前が鮮やかな色彩から灰色に変わっていく。
俺が選んだ選択肢だったはずなのに、俺が現実に追いついていけない。
麻理「お前は、冬馬かずさを選んだんだろ。
だったら、これ以上私に優しくするな」
突き付けられる現実に、俺は何も言えないでいた。
かずさを傷つけたくないからって、一度は麻理さんの前から逃げ出しておきながら
今になって麻理さんにすり寄っているなんて、どうしようもない馬鹿男だ。
俺だけじゃなくて、麻理さんも傷つけてしまうってわかっていたのに。
春希「そんなつもりじゃ・・・・・・」
麻理「どんなつもりだったんだ?
お前は、私に嘘をつかせて会社を抜けさせたんだぞ。
こんなこと前代未聞の出来事だ」
春希「すみませんでした。でも、俺は・・・・」
灰色となった世界は、今は何色になってるかさえ判断できない。
麻理さんらしき人が目の前にいるはずなのに、
今は別人がいるみたいだ。
麻理「すまない。嘘をついたのは私自身の判断だ。
北原の責任は全くない。忘れてくれ」
春希「忘れらるわけないじゃないですか!
こんなにも優しくされて、なかったことになんかできるわけないですよ」
麻理「だったら、どうすればいいんだ。
お前は、冬馬かずさを愛しているんだろ?
それなのに、私は、・・・・私がお前の側にいちゃ、駄目だろ・・・・・」
触れただけでも消え去りそうな麻理さんに、近づくことさえできなかった。
今まで作り上げてきた心地よい距離が、今やどう距離を取ればいいかさえ
わからなくなってしまっている。
一歩踏み込めば、離せなくなる。
一歩遠のけば、一生会えない気がした。
しかも、今のままでいることは許されないだろう。
春希「でも、・・・・・麻理さん!」
麻理「北原は、もう大丈夫。進むべき道が決まったから。
ここにいちゃ駄目なのよ。
これを食べたら、家に帰りなさい」
春希「帰りません」
麻理「帰れ」
春希「嫌です」
麻理「頼むから」
春希「麻理さんの側から離れません」
麻理さんが目を見開き悲しい喜びを受け取る。
最悪な選択だってわかってる。麻理さんを傷つけるだけだって、わかってるのに。
俺の一方的な我儘で、その手を離せないでいた
麻理「お願いだから、私を喜ばせないでくれ。
それとも、私を愛人にでもするつもりか?
別に、私は構わないぞ。どうせ仕事ばかりで、家庭に割く時間なんて
ほとんどとれないんだ。
気が向いたときに会うなんて、素晴らしいじゃないか」
最低な自虐を披露する麻理さんだったが、一言つぶやくごとに自分を鋭くえぐる。
いつもの自虐ネタなどではない。
自分を傷つけるために言ってるとさえ思えた。
春希「そんなことできるわけないじゃないですか。
麻理さんを傷つけることなんて、できやしない」
麻理「ふざけるな!
北原が今していること自体が私を傷つけているのよ。
散々私を喜ばせて起きながら、最後の最後で絶望に突き落としてるのが
理解できないでいるつもり?」
全てを、俺のことさえも理解している麻理さんに何も言えない。
沈黙しか許されていなかった。
麻理「もういい」
そう小さく愚痴ると、俺の横まで歩み寄り、俺の肩に手を置く。
春希「麻理さん?」
麻理「もういいや。今夜だけでいい。今夜だけ、私のものになって。
そうすれば、私が全てを抱えてNYまで行ってやる」
そういうと、麻理さんは、かがみこみながらキスをしようとせまってくる。
何も言えず、何も考えられなかった時間が動き出す。
3年前の光景が鮮明に脳裏に映し出す。
長い一日だったはずなのに、1秒で全てが再生され頭に叩き込まれる。
かずさの本当の想いを知らずに抱いたあの夜。
喜びをかみしめていた俺の横で、一夜限りの契りを胸にやってきたかずさのことなど
気が付きさえできなかった。
今度は、麻理さんがかずさと同じ道を行こうといいる。
春希「できません。麻理さんが一人で全て抱えてNYに行くっていうなら、
キスなんてできません」
麻理「私は、それで満足だっていってるんだぞ」
春希「それだと、かずさと同じじゃないですか!」
先日の俺の身を切りさく告白を思い出し、麻理さんもショックを隠せない。
麻理「冬馬かずさが・・・・・そうだったな」
春希「ええ、そうですよ。俺は、かずさの気持ちに気が付きもせずに、
他の女性と付き合っていたんです。
かずさが俺のことなんて、好きになるわけないって自分で決めつけて
結果的には、彼女もかずさも二人とも悲しませてしまったんですよ。
そして、今、麻理さんがしようとしていることは
3年前のかずさと全く同じことだったんです」
麻理「そうか。・・・・そうだよな。そうするしかないんだ」
焦点が定まらず、痛々しい笑いを洩らす麻理さん。
そんな麻理さんを、ほっとけるわけもなく・・・・。
麻理「北原・・・・・」
俺の腕の中にいる麻理さんが、顔を上に向け、俺を見つめてくる。
俺はついに麻理さんの手を掴んでしまった。
一度手にしたら、離すことなどできないって理解しているのに。
俺と視線が交わると、麻理さんは視線を外し、俺の胸に頬を擦りつけてきた。
麻理「もういいよ。わかったから。
お前は、とってもひどい男だって理解してしまったよ。
だから、お前は私を離してくれないんだな」
春希「そんなつもりじゃ・・・・・」
麻理「だから、もういいって。
半分だけNYに持っていってやる。
だから、お前は責任もって日本で半分管理しろよ」
春希「え?」
麻理「別にキスしろっていうんじゃないぞ。
私に少しでも好意をもっていたことを忘れないでいてほしいんだ。
私も、お前が好きな気持ちを忘れずにNYに行くからさ。
一人で持つには、重すぎるだろ?」
一人で背負うには重すぎる荷物。
そんな荷物を作り出してしまった。
一人で担ぐには重すぎるけど、二人だったら・・・・・・。
春希「俺が責任をもって大切に持ってます」
麻理「確認だけどさ、私は冬馬かずさの代わりじゃないわよね?」
妙な強気でいた麻理さんであったが、今の発言だけは少女そのものだった。
震える瞳が、俺の返事を待っている。
春希「麻理さんは、麻理さんでしかないです。
俺の腕の中にいる風岡麻理が全てですよ」
麻理「そうか。ならよし」
春希「はい」
麻理「もうこれ以上望まないから、今夜だけは側にいて。
お願い」
春希「俺も、今日は、一人は嫌です」
他人からしたら、まやかしの幸せだっていうのかもしれない。
自分だって、そんなのわかりきっている。
だからといって、それを認めないなんていうのは、他人の都合でしかない。
げんに、俺達はまやかしであろうと、強く求めてしまったのだから。
体から力が抜けていく。
二人して、寄り添うように絡み合う。
もうハンカチ越しに手を触れる必要なんてない。
触れたいと思ったら、こう、自分の手で直接握りしめればいいんだ。
ほら、麻理さんも俺の手を握り返してくれる。
強く抱きしめなくても、麻理さんはいなくならない。
NYへ行くとしても、会えなくなるわけではなく、
会いたいと思えば、いつだって会いに行けるんだ。
緊張の糸がほどけると、脳は2番目の欲望を優先させる。
麻理さんにいたっては、朝から。
俺にいたっては、2日以上も食事をとっていない。
だから、俺達の腹の虫が大騒ぎしても、いたって自然なことで・・・・。
麻理「色気もロマンスもあったものじゃないな」
春希「はは・・・・、俺達らしいっていったら、らしいかもしれませんね」
麻理「せっかく北原が作ってくれたんだ。冷めないうちに、って、もう冷めてるかも。
でも、食べよう」
春希「そうですね」
ぎくしゃくしながらも抱き合う手をほどきながら、自分たちの席に戻っていく。
食事を再開するものの、視線は絡み合うが、会話のとっかかりが見つからない。
俺は、沈黙したままでも、うれし恥ずかしい食事を楽しめていた。
しかし、麻理さんは、沈黙そのものに耐えきれず、
麻理「北原、なにか話す話題くらいないのか?」
春希「そんな器用な真似できましたら、苦労しませんよ。
あいにくプライベートに関しては、つまらない人間なので」
麻理「それって、暗に私のことも仕事馬鹿だって揶揄ってるのか」
春希「前から思っていたんですが、仕事人間であることも、プライベート壊滅なことも、
そして、年齢のことも、俺にとってはマイナスな面は一つもないですよ。
むしろ、プラス評価でしかないです」
麻理「そ・・それは嬉しい評価だけど」
麻理さんの食事の手は止まり、スプーンを握る手が震えている。
次の言葉を紡ぎだそうとしてるようだが、口をパクパクするだけで
声を発することができないようだった。
春希「麻理さん?」
麻理「お前が心臓に悪いことを言うからだ。
それに、年齢については、どう言い繕ってもかわりようがないだろ」
春希「年齢そのものは変えようがないですけど、麻理さんに関しては
年齢なんか関係ないくらい綺麗じゃないですか」
麻理「お世辞を言っても信じないぞ」
疑う気満々の目を俺にぶつけてくる。
こんな子供っぽい表情さえも、魅力の一つだって、この人は気が付いていないんだ。
だったら、今から一つ一つ伝えていけばいい。
春希「今の表情なんか、とてもかわいらしいですよ。
大人の魅力に無邪気さが相まって、破壊力抜群です」
麻理「な・ななな・・何を言ってるんだ」
顔から首まで朱に染まっている。
俺が麻理さんの魅力を全て伝え終わるころには、指先まで赤く染まるかもしれないと
思うと、少しおかしく思えた。
麻理「やっぱり冗談だったんだな。笑うなんてひどい奴だ」
春希「違いますよ。麻理さんが、かわいすぎて。
仕事を誉められるのは慣れすぎているのに、
プライベートの方では、全く耐性がないと思うと、愛らしくて、
ほほえましく思えてきたんですよ」
麻理「そ・・・・そうか。だったら、いい」
俺達は、食事が終わっても、夜遅くまで語り合った。
仕事しか共通の話題がないって杞憂してたのは、たちまち霧散していく。
麻理さんの高校時代、大学時代、そしてこれから先のことだって、
話す話題は尽きることがなかった。
春希 麻理宅 1/8 土曜日 6時00分頃
昨夜、というか今朝何時に寝たかわからないが、体内時計が強制的に体を叩き起こす。
午前6時。
寝たのが、おそらく午前3時過ぎだと思うから、3時間も寝ていないはずだった。
寝不足状態で朝日を浴びるのはつらいが、冬の優しい朝日なら
ちょうどいい覚醒ツールとして使える。
ソファーで寝こけてしまったが、風邪を引いていないのは麻理さんが
毛布をかけてくれたからだろう。
窮屈な体制で寝てしまい、悲鳴を上げている節々をほぐす為に体を伸ばす。
それと同時に、近くにいるはずの麻理さんの様子を探ろうと見渡すが
いる気配がなかった。
といっても、麻理さんの消息はすぐに判明する。
置手紙によれば、すでに出社したとのこと。
昨日の仕事の遅れを取り戻す為に早く行くと書いてあるが、
それも真実だろうけど、俺と顔を合わせた時、どんな顔をしたらいいんだろうって
迷いに迷って逃げ出したんじゃないかって思えてしまう。
麻理さんは、気が付いていないのだろうか?
今顔を合わせるんなら、自宅だから、どんなに気まずくても二人しかいない。
でも、編集部でだったら、好奇の目にさらされてしまうのに。
って、あまりにも自信過剰な妄想をしてしまったけど、
あながち間違いではないんだろうな。
さてと、顔を洗ってから掃除でもしますか。
ながらくお世話になったこの部屋を本来の主に返さないとな。
顔を洗い、少しばかり冷蔵庫から拝借して腹ごしらえでもと思いキッチンに
行ってみると、テーブルにはサンドウィッチが用意されていた。
ざっと見たところ、昨日の余り物のトマトとハムとチーズが挟まれているようだ。
インスタントコーヒーをいれ、昨夜と同じテーブルの席に着く。
目の前には麻理さんはいないけど、料理を全くしない麻理さんが作ったサンドウィッチ
が目の前にあると思うと、顔が緩んでしまう。
春希「いただきます」
編集部にいる麻理さんに届くようにと、しっかりと手を合わす。
麻理さんが、料理をしないという危うさを忘れて、
ためらいもなく大きくサンドウィッチを頬張る。
春希「うっ!」
辛い!
食べられないわけじゃないけど、マスタードが効きすぎている。
パンをめくるとたっぷりとマスタードが塗られていた。
他のはどうかと確認したところ、マスタードが異常に塗られていたのは
最初の一つだけで、他のは適度の量しかぬられていない。
春希「あぁっ・・・・・、ははは・・・・」
もう笑うしかない。
朝だというのに、腹がよじれるほど笑えてしまう。
春希「子供かよっ」
麻理さんは、昨日のスーパーでのことを覚えていたんだ。
オムライスにマスタードを使えばなんて暴言への仕返しなんだろう。
しかも分かりやすいように、俺が座った席から一番取りやすい位置に
トラップサンドウィッチが置かれていた。
だから、これを食べて思い出せよ的な思考なのだろうな。
でも、俺がこの席に着くっていう麻理さんの根拠なき自信は、本当にありがたい。
その根拠なき自信は正解ですよって、今すぐ言ってあげたかった。
俺が昨夜の席に座って、麻理さんのことを思い出しながら
食べるんだろうって麻理さんは妄想して用意してくれたのだろうか。
あぁっ! 麻理さんのことばかり考えてしまってる。
俺は、マスタードがたっぷりのサンドウィッチを口に放り込み
麻理さんのことも押しこもうとした。
ぐふっ!
といいうものの、爆弾マスタードは俺の予想範疇を飛び越えていて、
俺の意図は見事に破られてしまう。
だから、俺が麻理さんのことを考えてしまってもいいんだって、
誰に言い訳するわけでもないのに取り繕おうとしてしまった。
そして、俺は、コーヒーを一口すすり、2個目のサンドウィッチに手を伸ばした。
春希 麻理宅 1/8 土曜日 13時00分頃
部屋の掃除を終えてマンションをあとにするころには、日は既に高く上り終え
傾き始めている。
心地よい午後の日差しと、掃除をして適度に体を動かしたせいで眠気が襲う。
人通りも多いことから、あくびをかみ殺しつつも、数日間放置していた携帯の
確認を始める。
とりあえず、道のど真ん中で立ち止まるのも迷惑なので、ビルの陰に身を寄せた。
発信履歴は、もちろん昨日の麻理さんへの電話が最後であったが、
着信履歴は、麻理さん以外にも入っていた。
一番新しい履歴には、珍しい名前が表示されていた。
和泉千晶。
同じ学部のさぼり魔。
ゼミの教授にはさじを投げられ、俺が教育係に任命までされてしまっている。
やればできるやつだと思うけど、やらせるまでが一苦労だし、
やったはやったで、持続させるのも骨が折れる。
もう一件気になる履歴といえば、武也からであった。
クリスマス直後に電話して以来、メールさえも着ていない。
それもそのはず、冬休みが終わるまでは一人にさせてくれと頼んであるのだから。
それを律儀に守ってくれて、ありがたかった。
それなのに、連絡をよこすとなるならば、よっぽどのことなのだろうか?
とりあえず、武也の連絡は昨夜であったので、
今朝電話をくれた千晶に電話することにした。
数コール待っても千晶は電話に出ない。
とりあえず留守番電話にメッセージでもと思っていると、
数日ぶりに聞く悪友の声が耳元に響いた。
千晶「もしもし春希。せっかく連絡したのに電話に出ないなんて薄情すぎない?」
春希「携帯なんてそんなものだろ。電話に出られれば出るし、出られない状態なら
放置するに決まってる。だから、出られないってことは、
出ることができない状態だって気がつくものだ」
千晶「あぁ、なんでいきなり説教になるのかなぁ・・・・。
まっ、いっか。それでね春希」
春希「いっかじゃない。って、おい聞けよ」
俺のお小言など慣れているせいか、見事にスルーされる。
そして、千晶の要件とやらを俺に押し付けてきた。
千晶「今日暇でしょ?」
春希「特にようはないけど」
千晶「今どこ?」
春希「須黒」
千晶「それなら、・・・え~と、3時に春希のマンションの側にあるカフェね」
春希「駅側の方の?」
千晶「そそ。じゃあ、3時にね。よろしくぅ」
千晶は用件だけ述べて、しかも、勝手に約束までさせて、さっさと電話を切ってしまった。
仕方ない奴だなぁと、頭の中で文句を二桁ほど並べたが、
足取り軽く駅に向かった。
南末次駅の改札口を抜けると、もう一件の武也からの電話を思い出す。
冬休み明けまでほっといてもらう約束はしていたが、だからといって、
無視することもできない。
千晶との約束の前に、いったん家に戻って荷物を置いてこようと考えていたが、
一本電話入れるくらいの時間の余裕はあった。
千晶に電話した時とは異なり、やや気が重く感じられる。
動きが鈍い手を強制的に動かし、武也に連絡をいれた。
武也「悪いな、春希」
春希「どうしたんだよ?」
武也「大学始まるまで待とうと思ったんだけど、その前にゆっくり話そうと思って」
春希「大学も来週からだし、俺はかまわないけど」
武也「そうか。ほんとうは迷ったんだけど、大学始まっちまったら、
ゆっくり時間取れないだろ? だから、大学始まる前の週末なんて
どうかなって考えていたわけよ」
俺が拒絶しなかったことで、武也は気が楽になったのか、饒舌になる。
俺も、武也に気を使わせてばっかりで、悪いなとは思う。
だから、こうやって俺との関係を取り持ってくれることに感謝していた。
武也「今お前どこにいるんだ?」
春希「南末次駅だけど」
武也「そっか。さっきお前んち行ってみたけど、留守だったからさ。
それなら、これから会えるか?」
春希「これからか? この後行かないといけないところがあるから、
1時間くらいなら大丈夫だけど」
武也「そうか、じゃあ、今からな」
携帯のスピーカーからの声と、リアルに空気を震わせ耳に届く声が重なる。
横を向くと、武也と依緒がそこにはいた。
武也「よう、春希」
春希「ああ、久しぶりだな武也。それに依緒も」
依緒「久しぶり」
武也とは対照的に、緊張した面持ちの依緒が俺を見定めている。
武也は、俺と依緒の歯切れの悪い状態を振り払おうと、わざとらしい明るい態度で
俺達の間を取り持ってくれた。
武也「ここで立ち話もなんだ。それに、春希も時間がないみたいだし、
そこの喫茶店で話そうぜ。春希んちまで行くのも時間がかかるしさ」
武也なりの気遣いだろう。俺のマンションで、たった3人で話すとなると
葬式以上に重い雰囲気になってしまうだろう。
ならば、BGMとして他人の会話が流れてくる方が、よっぽど気がまぎれるかもしれない。
だけど、今から向かおうとしている喫茶店に問題がある。
まだ千晶と会う時間には早すぎるけど、もし武也たちとの話が長引けば
最悪、千晶と鉢合わせになってしまう。
別に千晶が武也たちに会ってまずいことはない。
しかし、根拠はないけど、千晶を会わせてはいけないって気がしてしまった。
そんな俺の気苦労もしらず、武也は俺と依緒の肩を抱いて、喫茶店に歩み始めた。
春希 喫茶店 1/8 土曜日 14時00分頃
学校が始まっていないので、峰城大生も付属の高校生もほとんどいないようだ。
高校生にいたっては、部活で高校に来ていない限り私服なので判断できないが。
自分たち以外の客を観察しつつ、千晶がいないことを確認する。
無事いないことを確認すると、胸の中で小さく一息ついた。
さて、目の前の武也はともかく、依緒に関しては既に臨戦態勢だった。
依緒「メール読んだけど、もう一度春希からちゃんと聞きたいんだけど」
武也「最初からとばすなよ。物事には順序っていうのがあってだな・・・」
武やが依緒を必死になだめようとするが一向に収まりそうもない。
ここに来るまでだって、いかにも話したそうな視線を送ってきていたもんな。
その視線をうまく武也が遮ってくれていたけど、
ここまできたんだ、依緒が納得する答えは提供できないと思うけど
全てを吐き出す覚悟はできている。
春希「ありがとう武也。でも、もう大丈夫だから。
二人が気持ちの整理をつける時間くれたからさ。
だから、俺はもう大丈夫なんだ」
武也「そうか」
武也はなにかを悟ったような悲しい笑顔をみせた。
一方、依緒は依然として厳しい表情のままでいる。
春希「俺は、クリスマスイブの夜、雪菜に振られた。
原因は、俺がかずさを忘れることができないで、今もかずさを愛しているからだ。
だから、雪菜には、なにも非はない」
武也は切なそうに俺を見つめるだけで、何も言うことはないようだった。
今日は依緒を納得させるための仲裁役をかってくれたのだろうか?
いや、そんな甘い考えはよそう。武也にも悲しい思いをさせたことは事実だ。
依緒「雪菜が本気で別れたいって思ってるわけないでしょ。
そりゃ、冬馬さんのことは引きずってしまうけど、それはしょうがないっていうか。
春希も引きずってるんだから、これから二人で乗り越えればいいことじゃない」
必死に訴える依緒をみて、薄情ながら傲慢で冷酷な分析を下す自分がいた。
そうじゃないんだよ、依緒。全く違うんだ。依緒はわかっていない。
雪菜のことは好きだけど、それは、好きでしかない。
恋焦がれ、自分が壊れてしまうんじゃないかって思うくらい愛しているわけじゃない。
そう、自分が壊れてしまってもいいくらい愛しているのはかずさだけなんだ。
いつも俺の心の中にいるのは、冬馬かずさただ一人だけ。
それを依緒は、理解していない。理解しようとしていなかった。
いや、理解するのを拒否してたんだろう。
春希「俺は、かずさのことを引きずってるんじゃないんだ。
今も愛してるんだよ」
依緒「っ! どうして? 雪菜のなにが悪いっていうのさ」
春希「雪菜は悪くないんだ。俺がかずさを愛してるだけなんだ」
依緒「3年だよ。3年もつかず離れずいた雪菜も問題あるけど、
あんたたちの歴史はそんなものだったの? 違うでしょ」
春希「3年も曖昧な態度をとってきたことに弁解する気はない」
依緒「ならさ、なんでもっと早く雪菜を振ってあげなかったのさ。
雪菜を振ってあげてたら、今頃雪菜も新しい恋に向かっていたかもしれないのに」
依緒に言われなくても分かっていた。
雪菜の貴重な3年間を浪費させてしまった。大学の3年間という貴重な時間。
社会人になっても途切れることがない友人を作るチャンスを邪魔してしまった。
雪菜を内向的にさせてしまったのは、俺に責任がある。
春希「悪かったって思ってる。償うこともできないってわかってる。
だけど・・・・」
依緒「なに・・・?」
春希「俺に雪菜への気持ちがないのに付き合ったって、雪菜を苦しめるだけじゃないか?」
依緒の表情が変わりゆく。
理解するのを拒否している状態から、理解させられている状態に。
依緒が聞きたくない事実だとしても、俺は妥協を許さない。
このままじゃ、依緒の大切な時間までも浪費させてしまうから。
依緒「それは・・・・・」
春希「たとえかずさがウィーンにいようとも、俺はかずさを愛している。
報われない愛だって笑われようが、変わることはないんだよ」
依緒は、テーブルの上に所在なさげ放り出していた手を握りしめ、
最後まで諦めようとはしなかった。
依緒「ウィーンに行ってしまった冬馬かずさじゃなくて、今あんたのそばにいるのは
小木曽雪菜なんだよ」
春希「俺の側にいるかなんて、関係ないんだ。愛しているっていう事実は変わらない」
千晶「そうだよね。いくら常に隣にいて、好き好きオーラを彼氏が送っていても
彼女の方が気がつかないふりをして、友達を続けている人もいるからね」
俺の斜め後ろから、聞きおぼえがある声が聞こえる。
振り向くとそこには、千晶がいた。
依緒「何が言いたいのさ」
俺への戦闘モードから、千晶へ攻撃目標を変えた依緒は、千晶を睨みつける。
その攻撃対象の千晶というと、いつも通りのおちゃらけた様子は変わらないのだが、
今まで見たことがない棘のある表情を見せていた。
俺達のテーブルが修羅場っぽい雰囲気に激変したこともあって、
店内のざわつきもまし、俺達は注目を集めてしまったようだ。
千晶「自覚がないっていうなら救いようがないけど、自覚があるっていうなら
残酷すぎる仕打ちだよね。それも計算に入れてやってるんなら
・・・・・、あぁ、もうよそうか。そっちのほうには全く興味が持てないからさ」
依緒「あんたになにがわかるっていうんだよ。
そもそも部外者のあなたが、って、あなた、春希の友達?」
春希「すまん、依緒。こいつ口が悪くって」
千晶「ふぅ~ん。・・・・・たださ、あんたよりは理解しているつもりだけどね。
見ないふりをして現実を受け入れないなんて、しょうがないでしょ?」
依緒「私は、私は、雪菜と春希のことを思って」
悔しそうに手を握りしめる依緒は、すでに現実を全て受け入れさせられてしまっていた。
変わりようがないかなしい現実に身をさらされてしまった。
千晶「それって、ほんとうに春希達のため?
あんたたちの身代わりじゃないの?
自分の理想を他人に押し付けてるみたいで気持ち悪い。
そんなこと言うんなら、あんたら二人で理想の恋人を成立させればいいじゃない。
身勝手なのはあんたのほうでしょ?」
依緒「なにを!」
テーブルを激しく叩き、勢いよく立ちあがった依緒は、
今にも千晶を掴みかかろうとする。
冷たい目をした千晶は、激情に揺れる依緒を遥か上の彼方から見下ろしているようだった。
武也「もういいだろ。依緒もそこまでにしておけ。
そっちもそれでいいな?」
調停者は決め込んでいた武也であっても、意図しない訪問者が来てしまっては
黙っているわけにはいかなかった。
千晶「私はそれでかまわないけど」
依緒は悔しげに俯くだけで、崩れるように席に座り、肩を落としている。
武也「なあ、春希。今日はここまでにしとこう」
春希「そうしてくれると助かる」
武也「最後に一つだけいいか?」
春希「いいけど」
武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?
その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」
武也は、今日はこの問いだけを俺にぶつけるつもりだったのだろう。
俺と雪菜が恋人としてはやっていけないと分かっていた武也は、
苦肉の策というべきか、最後の最低な妥協案を提示するか苦しんでいたんだろうな。
春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。
そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」
俺は武也に正直な気持ちをぶつける。
俺の覚悟を受け取った武也は、悲しそうな笑顔を脱ぎ棄て、
覚悟を決めた男の笑顔をみせた。
武也「わかった。あとは任せとけ・・・・・、って言いたいとことだけど、
できる限りのフォローはするつもりだ」
春希「ありがとう武也」
武也「いいってことよ。それと、依緒もこんな感じだし、
悪いけど、先に帰ってくれないか」
春希「悪いな武也。支払いはしとくから。
それじゃあ、また大学で」
武也「大学でな」
笑顔で見送る武也を背に、俺は既に依緒のことなど眼中にない千晶を連れてカフェを
あとにした。
依緒は最後まで顔を上げることはなかった。
春希 大学 1/8 土曜日 15時00分頃
春希「おい和泉。どこまで連れいていく気だよ」
千晶「もうすぐだって。そこのホールが目的地だから」
和泉に引っ張られてこられたのは、大学の奥に位置する多目的ホール。
サークルがやってるものなら、このあたりも頻繁に来るかもしれないが、
あいにく俺はサークルに所属したこともない。
だから、連れてこられたホール自体も存在だけは知っていても、
利用することなどない。
普段はサークルの連中が行き来して、大学の奥地だとしても人気があるはずだが、
あいにく冬休みということもあって、人の気配がない。
古びた建物がよりいっそう寒々と感じさせ、身震いをしてしまった。
千晶「悪い春希。ここってエアコンないから、冬はとことん寒いのよ」
俺が寒さにまいっていると勘違いした和泉は、一応の気使いをしてくれる。
普段は、人に無関心って感じをする掴みどころのない奴だけど、
今日ほどこいつの意図と掴めなかったときはなかったと思う。
春希「お前、さっきは言いすぎだぞ」
千晶「え、なに?」
ホールの鍵を開け、中に進む和泉は俺の声に反応して振り返るが、
まったく俺の言葉は耳に入っていない。
春希「なんでもない」
仮に耳に入ったところで、まともな答えが返ってくる望みは低そうなので、
さらなる追及は無意味だろうな。
それよりは、こいつが何の目的でこんなところまで連れて来たのかの方が興味深い。
千晶「そう。さあ、こっちこっち」
俺の手を掴み、舞台の中央まで引っ張り出す、
客席には何もなく、がらんとしているが、人が入ればそこそこの熱気に包まれそうだ。
だけど、真冬に長時間拘束されるのは、遠慮したいかも。
春希「なんなんだよ。ここになにかあるのか?」
俺の手を離し、舞台の中央、観客席に一番近いところまで歩み寄ると、
芝居がかかったまじめくさった表情をみせる。
千晶「2月14日。ここでヴァレンタインコンサートがあるんだけど、
春希に出演オファーがきてるんだ」
春希「なにいってるんだよ。俺が歌なんて歌えるわけないだろ」
ヴァレンタインコンサート。たしか、放送部も関わってるイベントだったはず。
去年武也がなんか騒いでいた気がする。
放送部ということは、『届かない恋』を演奏してくれってことなんだろうけど、
とぼけるしかないか。
千晶「春希は、ギターでしょ」
背筋が伸び、嫌な汗がわき出てくる。
こいつは、どこまで知ってるんだ?
目の前にいる和泉千晶は、俺が知っている和泉千晶とは別人に思えた。
手に力が入り、身構えてしまう。
和泉が舞台の端から俺の方へと近寄ってくる。
千晶「なぁに怖い顔してんの。普段からくそまじめで辛気臭い顔してるのに
眉間にシワまで寄せちゃったら、幸せも逃げてくよ」
と、生意気なことをほざいて、俺の額を軽く小突く。
春希「これは生まれつきだから。で、なんで俺がギターなんだよ」
主導権を握られっぱなしはやばい。早く主導権を握らないと、まずい気がする。
千晶「だって、この前春希んちいったとき、写真立ての写真みたよ。
あれって高校の学園祭でしょ。ギターもって、かっこつけちゃって、このこの」
肘で俺を小突くのを半歩横にずれてかわす。
いつもの和泉のようで、なにか違和感を覚えるのは、場所のせいだろうか?
千晶「隠すことなかったのに」
春希「隠してなんかいない。聞かれなかったから、言ってないだけだ」
和泉がこんなにも俺に踏み込んでくるなんて、気さくで女を感じさせない女だと
思っていたのに、今日に限って何故?
千晶「一緒にうつってたのって、冬馬かずさでしょ。
今話題のピアニスト。だからさ、春希」
春希「なんだよ」
かずさのことまで知ってるとは。たしかに、かずさは雑誌に載ったけど、
和泉が知ってるとは誤算だった。
千晶「そんなに邪険にしなくても」
春希「してないって」
千晶「ま、いっか」
最初っから気にしてないだろ。
千晶「冬馬かずさと交渉して、春希と二人、コンサートに出演してくれない?」
途中から予想できてたけど、自分が受ける衝撃を受け止める準備はできていなかった。
いくら時間をくれたって、準備なんかできやしないだろうけど、
和泉の目の前でうろたえるのだけは回避できてたかもしれない。
春希「無理だよ」
千晶「なんで?」
春希「そもそも、冬馬が出演してくれるはずもない。ウィーンいるんだぞ」
千晶「母親の冬馬曜子は来ているんでしょ?」
春希「そうだけど、冬馬本人は来ていないよ」
俺の心をチクリと針が刺される。じわじわと痛みを忘れさせないように。
春希「それに、仮に冬馬が出演したとしても、ギターとキーボードだけじゃ
ライブにならないだろ」
千晶「写真に写ってたもう一人の女の子?」
春希「そうだよ。ヴォーカルがいないんじゃ、話にならない。
まずはヴォーカルを連れてきてから依頼に来い」
千晶「ヴォーカルがいるんだったら、問題ないってことね」
春希「そうだよ」
雪菜が出演するとは思えない。
それに、冷戦状態の今、交渉すらできそうにないっていうのに。
千晶「OK、OK。ヴォーカルのあてはあるから、これで春希は出演OKってことね」
春希「は?」
千晶「だから、ヴォーカルのあてはあるんだってば。
ギターは春希に頑張ってもらうとして、あとはキーボードか。
これはちょっと時間くれないかな」
春希「おい和泉ったら」
俺の声など聞こえないふりをして、舞台を飛び降り、出口に向かう。
出口の前で振り返った和泉は、ホールの端から端まで届く声で言う。
けっして怒鳴ってるわけでもないのに、よく通る声ではっきりと。
千晶「ここの鍵、開けといたままでいいから。
じゃあ、放送部には出演OKって伝えておくね!」
手を大きく振って別れの挨拶を強引にした和泉は、俺の返事などきかずに
扉の外へと消えていった。
春希 大学 1/8 土曜日 15時30分頃
和泉がホールから出ていった後、俺は、しばらく何をすることもなく客席を
眺めていた。
舞台から脚を投げ出し、底冷えする舞台の上で座り込む。
これから何をすべきかなんてわからない。
だから、まずは、わかっていることから整理していくか。
ヴァレンタインコンサートは、去年武也から聞いたことがある。
うちの大学の生徒が参加する、わりと人が集まるイベントらしい。
お金をかけなくても女の子を口説けるイベントだって、武也が言ってたはず。
女の子がそんな裏事情を知ってしまったら、幻滅しそうだけど。
そのイベントで、俺がギターを演奏?
馬鹿げている。最近全く弾いていないのに、人前で弾けるはずもない。
・・・・・今から練習すれば、一曲くらいなら、間に合うか。
って、俺一人がどうしようが、意味がない。
ヴォーカルは、和泉が手配するみたいだけど、雪菜以外のヴォーカルでいいのか?
それに、キーボードのかずさもいないわけだし、一番へたっぴだった俺のギターが
あっても、コンサートなどできるはずもないだろ。
雪菜か・・・・・・。
武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?
その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」
春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。
そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」
さっき武也にえらそうに言っておきながら、何も行動を起こしてないな。
たしかに、冬休みを使って、雪菜への気持ちの整理はできた。
だけど、「雪菜への気持ちの整理」イコール「雪菜との関係」ではない。
いくら俺の中で気持ちの整理ができても、雪菜との関係が改善できたわけではない。
俺と雪菜との関係は、クリスマス・イブの夜から停滞している。
このまま自然消滅でいいのか。
雪菜が俺のことをこのまま忘れ去って、過去のことだと割り切ってくれるのだろうか。
・・・・・・分からない。なにもなかった3年は、長すぎた。
だったら、俺は、
・・・・・・・・・・・友達として、最初からやり直すか。
そうと決まれば、やることは一つだ。
俺は、舞台から飛び降り、ホールの出口に向かう。
出口を開けると、眩しい光が俺を迎え入れる。
暗闇に慣れきった目が、明るい世界になじんでいく。
北風が俺を撫でるが、舞台の冷たさに比べれば、温かいものだ。
俺は、携帯電話を取り出し、冬馬曜子オフィスに連絡をいれた。
美代子「冬馬曜子オフィスです」
春希「私、開桜社アンサンブル編集部員の北原春希と申します。
先日のニューイヤーコンサート後に楽屋の方に伺った者なのですが、
その時のことで、一点確認したいことがありまして、
冬馬曜子さんとお話しすることは可能でしょうか?」
美代子「あのときの方ですね。覚えています」
男性で楽屋に通されたのは、俺一人ってことなのかな。
覚えていてくれたほうが、話を通しやすい。幸先いいな。
春希「無理を言って冬馬さんに話を通してくださり、ありがとうございました」
美代子「いえいえ、あらかじめ冬馬の方から、北原さんがいらっしゃいましたら、
お通しするよう言われていましたので」
思いがけない発言に体に衝撃が走る。
曜子さんは、俺が楽屋に来るってわかってたのか。
いや、来てもいいように準備をしていたってことか。
つまり、かずさがらみの話を最初からするともりだったととるべきか。
春希「そうだったのですか」
美代子「ええ。北原さんの写真まで渡されていましたから、間違えようもないです」
俺の写真って、どこから手に入れたんだよ。
開桜社からか? それとも高校のときの・・・・。
卒業アルバムって線もあるか。
どうも曜子さんは、俺の数歩先を行ってる。
出し抜こうとかかは考えていないけど、何を考えているかわからないのは
危険かもしれない。
もし、曜子さんが俺とかずさの仲を快く思っていないのなら、
俺がかずさに会うチャンスは限りなく小さくなってしまう。
弾むように軽かった心は鉛のごとく地面に這いつくばり、
携帯を握る手には汗がにじんでくる。
美代子「すみません・・・少々お待ちください」
春希「はい」
電話は素早く保留音に切り替わる。
陽気なメロディーの保留音が鳴り響く。
まだか、まだかと、数秒も経っていないのに、焦る気持ちがかき乱れる。
携帯を持っている方の人差し指で、携帯を何度も小突き続ける。
いらだちの濁音が耳に響き、いらだちを盛り上げる。
曜子「もしもし? 北原君」
俺の名を呼ぶ電話主の声が、先ほどとは違う。
この声は、忘れようもない。
春希「はい、北原です」
曜子「私、冬馬曜子。お久しぶりね」
春希「お久しぶりです。コンサートの後、楽屋にお招きいただきありがとうございました」
曜子「ううん。私もあなたと話してみたかったの。
だけど、心配しちゃったのよ。だって、あなた、すっごく体調が悪そうだったから」
春希「心配をかけさせてしまい、申し訳ありませんでした。
でも、もう大丈夫です」
曜子「そう? でも、かずさのことを聞いてから体調が急変したから、
もしかしてって勘ぐっちゃったわ」
この人は・・・・。
どこまでわかって、なにをたくらんでいるんだ?
下手に小細工をしても、意味なんてないんだろうから、
だったら、まっすぐ突っ込むしかない。
春希「その通りです。かずさに会えなくて、落ち込んでいました」
曜子「え?」
一瞬だが、曜子さんがうろたえる。
俺の正攻法すぎる突撃は、予想していなかったとみえる。
曜子「そっか。今も会いたい?」
春希「会いたいです」
曜子「ふぅ~ん。・・・・・で、今日はどういったご用件で?」
最後の最後で調子を崩されてしまう。
うまくいってるようで、まったくうまくいかない。
曜子さんの意図なんて、一生理解なんてできないのかもしれない。
春希「はい。今度うちの大学でヴァレンタインコンサートがあるんです。
そこで自分もギターとして参加する予定です」
曜子「へぇ~。ギター君復活かぁ」
春希「えぇ、まあそんなところです」
曜子「今でもギター弾いてるんだ」
春希「いえ、最近はまったく。ですから、家にあるアコギで練習再開しようと
考えていまして」
曜子「エレキギターではなくて、アコースティックギターの方が得意だったの?」
春希「いえ、家にアコギがあるので、アコギにしようかと」
曜子「でも、学園祭の時はエレキだったじゃない?」
春希「あれは、学校の備品でして、自分のではないんです」
曜子「ふぅん」
ピアノはともかく、ギターなど、楽器に癖がついてしまう楽器のレンタルなど
音楽家としては、許せないのだろうか?
まずい受け答えしてしまったかも・・・・・。
曜子さんは、なにやら考え込んでいるらしく、何も言ってこない。
春希「曜子さん?」
曜子「あ、うん。わかった、わかった。じゃあ、こうしましょ」
勝手に一人納得されても、どう対処すればいいかわからない。
そもそも聞いたとしても、真の意図まではわかる気もしないが、
今は黙って聞くしかない。
春希「なんでしょう」
曜子「アコギはやめて、うちにあるエレキにしなさい」
春希「はい?」
しょっぱなから、意味不明の言葉がアクセル全開に駆け巡る。
曜子「だから、私、コンサート終わって、少し暇なの。
だから、私がギター教えてあげるって言ってるのよ」
これが本当だとしたら、とんでもないことだ。
ピアノではなく、ギターというところは考えものだが、
あの冬馬曜子のレッスンとなれば、世界中から受けたいという申し出がきてしまうはず。
そんなプラチナチケットがただで貰えるのか?
変に勘ぐってしまう。
春希「それは、ありがたいお誘いです。で・・・・・・」
曜子「そう! だったら、話は早いわね。
来週の月曜時間ある?」
俺の決まりきったビジネス会話はかき消され、曜子さんの決定事項を伝える声が
携帯から流れ出る。
春希「はい、ありますけど」
曜子「そうねぇ、午前10時で大丈夫?」
春希「はい、大丈夫です」
曜子「じゃあ、10時に、うちに来て」
春希「うちって、日本に住んでいた時の家ですか?」
曜子「そうそう。あの家、売りに出したんだけど、買い手がいなくて、
今使ってるの。だから、ちょうどよかったわ。
運がいいわね、ギター君」
なにが運がいいのかわからないが、曜子さんが描いた大きな渦に巻き込まれて
しまったのだけは、理解できた。
春希「わかりました。月曜の10時に伺います」
曜子「うん、待ってるから。それじゃあね」
春希「はい、それでは」
って、それじゃあねじゃないって!
一方的に電話を切られてしまった。
月曜日になれば、詳しい事情が聞けるはずだ。
だけど・・・・・・・・・・・・・・・、
俺の方の要件は、まったく話してないじゃないか。
人の要件を全然聞かず、自分の方の要件のみって。
しかも、俺の方から電話したっていうのに、あの人は。
散々文句が頭の中で駆け巡って入るが、
顔は緩み、笑みが浮かんでいると思う。
和泉にしろ、曜子さんにしろ、俺を引っ張り回す人物ばかりだ。
だけど、それが悪いだなんて思いはない。
むしろ、俺の中の価値観を全てひっくり返すほどのパワーを持つ二人に
感謝してもよいほどであった。
武也に知られれば、お前ってマゾ?っておもいっきり引かれそうだけど
今はその名誉、潔く引き受けよう。
澄み渡る空のもと、俺を次の連絡先を携帯から引き出す。
と、その前に、和泉にコンサート了承のメールを一応送る。
勝手に俺のコンサート参加を決められてしまったけど、
今度こそ俺の方から正式に参加了承を告げることにした。
麻理さんのアドレスを表示し、発信ボタンに手をかける。
和泉に、曜子さんときて、麻理さんか。
やっぱ麻理さんも一筋罠にはいかないのかも。
今日は絶対に女難の相が出ているだろ。
でも、それさえも快く引き受けよう。
俺は、えいやって、勢いよく発信ボタンを押す。
数コール後に出た麻理さんは、事務的な口調ですぐに折り返すと述べ、
すぐさま電話をきる。
やっぱり仕事中はまずかったかなと後悔をしだしたが、
麻理さんが仕事をしていない時間を見つける方が難しいかと思い悩んでいると・・・。
その言葉通り、数分も経たないうちに、麻理さんからのコールバックがくる。
その声は、編集部で聞くような頼りになる声色ではなく、
先日一緒に買い物や食事をしたときの、愛らしい声色であった。
麻理「移動したから大丈夫よ。ここなら誰もいないし」
春希「朝食ありがとうございました。
パンチが効いた朝食だったので、眠気も一発で吹き飛びましたよ」
麻理「あぁ、あれか」
ふざけすぎたのではないかと、後悔でもしてるのだろう。
あの麻理さんが、今日もうろたえている。
春希「マスタード、美味しく頂きました」
麻理「北原が悪いんだぞ。私をいじめるから」
春希「俺は、リクエスト通りにオムライスを作っただけなんですけどね」
麻理「それでもだ。・・・・・北原と一緒にいると、調子を崩されっぱなしだ」
春希「すみません」
麻理「いいのよ。そんな私も、嫌いではないから」
俺だけが知っている麻理さん。
知れば知るほど、俺の想像を裏切り続ける愛しい人。
麻理「ところで、今頃起きたの? さすがに寝すぎではないか?」
春希「いいえ。少し用があって、大学の方へ。今は、大学にいるんです」
麻理「そうか」
春希「それですね、麻理さん」
麻理「なに?」
春希「来週から、編集部のバイト出ようと思ってるのですが、
その前に一度会えませんか?」
麻理「ひゃい?!」
人がいない場所で話しているって言ってけど、さすがに今の奇声は注目を
集めてしまうんじゃないかって心配になる。
普段の麻理さんしか知らない編集部の人たちならば、麻理さんが知らぬふりを通せば
誰も麻理さんが声の主だって、信じないかもしれないけど。
麻理「私に会いたいの?」
春希「これからも会いたいですけど、今回会うのは、会っておいた方がいいと思いまして」
麻理「それはどういう意味?」
麻理さんは、全然自分の状態を分かっていない。
自分の状態が分かっていないから、何も気にせず編集部に顔を出せるともいえる。
春希「さっきの麻理さんの驚きの声もそうなんですが、編集部でいきなり俺と
顔を会わせるのって、危険じゃないですか?」
麻理「それは・・・・」
麻理さんも少しは自覚していたのかもしれない。
春希「ひょっとして、今朝早く出社したのも、俺の顔を見るのが照れくさかったって
ことないですか?」
押し黙っているところを見ると、正解だったみたいだ。
といことは、少しではなく、おもいっきり自覚してたってことになる。
だから、頭がショートして、編集部で俺といきなり会う危険性を考慮できなく
なってしまったってことか。
春希「明日、会えますか? 少しの時間でもかまいませんから」
麻理「あ、・・・・・・うん。今日どうにか仕事を片付けておけば、時間作れると思うわ」
春希「場所は、麻理さんの家でいいですか?
それとも、俺の家でもいいですけど」
麻理「ふぁい?!」
本日2度目の奇声となると、さすがに編集部の人たちも勘づくんじゃないか。
そこまで、麻理さんを驚かす発言はしてないつもりなんだけどな。
春希「外で会ってもいいんですが、今の俺達の状態を考慮しますと、
外だと大変気まずい気がしませんか?
それこそ、他人には見せられないような事態になりかねないかと」
麻理「そ、そうね。それは、まずい。うちにしよう。
そうだな、お昼も兼ねて12時はどう?」
春希「はい、いいですよ。なにか食べたいもののリクエストありますか?」
麻理「そうだなぁ・・・。どうせ難しいものは作れないんだろ?」
春希「簡単なものだと助かります」
麻理「北原に任せるよ。今は、ぱっと思いつかない」
春希「わかりました。なにか考えておきますね」
料理の勉強始めるか。家に帰る前に、本屋で料理の本でも買っていくかな。
自分が食べるだけの料理だと、エネルギーをとることのみを考えてしまうけど、
人の為に作るとなると、それだけで気持ちが高ぶり楽しくなる。
麻理「期待してるわ」
春希「期待なんかしないでくださいよ」
麻理「いや、期待させてくれ」
春希「わかりました。でも、味の保証はできませんからね」
麻理「別にいいよ。文句だけはいうけど」
春希「それって、意味ないですから」
二人の笑い声が響き渡る。
電話する前は、気まずい雰囲気になるんではないかって不安にもなったが
まったくそんな心配はいらなかった。
麻理「あまり席を離れていると鈴木の奴に勘ぐられるから戻るわ」
春希「はい。では、明日」
麻理「ああ、明日」
電話を切ろうと切断ボタンに手をかけたところで、急ぎ麻理さんに声をかかる。
春希「麻理さん」
麻理「ん?」
間一髪電話は切れていなかった。
電話を切られてもおかしくもない時間は経っていたはずなのに。
ひょっとして、麻理さんは、俺が切るまで待っててくれたのではと、
うぬぼれてしまいそうになる。
春希「朝食は、マスタードたっぷりのサンドウィッチでかまいませんから」
麻理「ほぇ!?」
本日3度目の奇声を耳に、今度こそ切断ボタンを押そうとする。
しかし、一応もう一度確認ということで、携帯を耳にあてる。
麻理「き~た~は~ら~~!」
奇声を飛び越えた絶叫がかき鳴らされているが、今度こそ切断ボタンを押す。
麻理さん、もう他の編集部の人たちに気がつかれてますって。
この後、麻理さんが鈴木さんたちの好奇の視線を集めてしまうと思うと、
いたずらしすぎたかなって、ほんのわずかだけど後悔の念が押し寄せる。
ごめんなさい、麻理さん。
マスタードの仕返し、してしまいました。
・・・・・・あれ?
俺がバイトに行った時、俺にも火の粉が降りかかってこないか・・・・・・。
俺は、甘い係争を思い浮かべ、ほくそ笑んだ。
麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前3時
午前4時。あと数時間経つと朝になってしまう微妙な時刻。
北原が来る前に準備する時間が欲しいから、あまり睡眠時間はとれないか。
でも、気持ちが高ぶっていて寝むれそうにはないか。
玄関の扉を開けると、自分の部屋ではない。
脱ぎ散らかした靴は一足もないし、
読みもしないで放り投げているダイレクトメールの山も消え去っている。
部屋の鍵はあっているわけだから、部屋を間違える訳もない。
玄関を出て、部屋番号を確認もしたが、たしかに自分の部屋であった。
なるほど。これが汚部屋ビフォーアフターってやつか・・・・・。
たしかに掃除はしてなかったけど、人を呼べないほどじゃないよな?
北原も、何も言ってなかったし。
だけど、自分の部屋じゃないって思うほど綺麗に掃除されてると
感謝よりも女としてのプライドが傷つけられるって事をあの馬鹿は知らないんじゃないか。
この掃除の仕方、北原らしいな。
麻理は、部屋の掃除具合を確かめるために、玄関から確認していく。
別に、難癖つけようと言うわけではない。
むしろ、北原が頑張って掃除している姿を思い浮かべたいほどである。
革靴は、新品のまま隅に追いやられていた靴墨を使って磨きあげられ、
向きをそろえて並べられている。
玄関の床など、ワックスで磨いたのではないかと見受けられた。
うちにそんな掃除用具はないから、買いそろえたのかもしれない。
そして、バス・トイレ・キッチン・リビング・・・・・と、北原の足跡を辿るように
北原の影を追っていった。
私だったら、大掃除をやっても、こんなには綺麗にできないわよ。
いや、私だったら、ハウスクリーニングを頼んで終わりか。
本当に北原の主夫力は、すさまじいな。
あいつがいてくれたら、プライベートも充実するのかな?
いやいや、掃除をしてほしいってわけじゃなくて、一緒にプライベートも楽しめて、
・・・・・・・・・そうではない・・・・・な。
北原には、冬馬かずさがいるんだし。
はぁ・・・・・・・・・・・・・・・。
麻理は、独りで喜び、勝手に落ちこみながらも、部屋の確認を進める。
最後に寝室に入ると、ベッドのシーツは変えられ、
昨夜までいた北原の痕跡を一つも残してはいなかった。
麻理は、ベッドに倒れ込み、あるはずもない彼の温もりを探し始める。
冷え切ったベッドは、麻理から体温を奪うばかりで、温もりなど与えてはくれない。
臭いくらいはと、大きく吸い込みはしたが、柔軟剤の香りしかしなかった。
どこまで私をいじめれば気が済むんだ、あいつは。
はぁ・・・・・・、ん。すぅ~・・・・・。
もう一度再確認のためと大きく息を吸いはしたが、やはり柔軟剤の臭いしかしなかった。
どこかに一つくらいは、痕跡はないかと室内を見渡すと、服の山を発見する。
ベッドから降り、服の山を確認すると、脱いだままにしておいた服と下着が・・・。
クリーニングに出さなければいけないものは、畳まれて別に置かれていたが、
下着は、服の山の下の方に隠すように置かれている。これは女としては痛い。
北原。主夫力は高いかもしれないけど、もう少し女心をわかってくれないか。
まあ、洗濯までしてあったら、今日どんな顔をして会えばいいかわからなかったはず。
いや、会えないだろ。
はぁ・・・・・・。
今日何度目になるかわからないため息をつくと、洗濯ものを抱え、
洗濯機に放り込む。とりあえず乾燥までやっとけば、あとで畳むだけだし。
そこまですると、大した労力をつかったわけでもないのに、疲労感が押し寄せる。
とりあえず、水を飲もうと冷蔵庫を開けると、ラップにかけられた食事が鎮座していた。
ハンバーグにポトフ。それにサラダ。
しかも、こっちは朝食用なのかサンドウィッチまで用意されていた。
テーブルに、レンジで温めるだけのご飯が置いてあった、最初はなんだろって
疑問に思いもしたが、これでようやく疑問が解ける。
私に依存してるだって?
私を北原に依存させようとさせてるのは、あいつの方じゃないか。
やばいって。もう、抑えきれなくなる。
駄目だって、わかってるのに。辛いだけだってわかってるのに、引きかえせなくなる。
冷蔵庫から、冷え切ったおかずを取り出し、レンジで温め直す。
その間にお茶の用意を済ませ、全てが温もりを取り戻したころには、
食欲をそそる香りが部屋に充満されていた。
麻理「いただきます」
さっそく箸をとり、ハンバーグを口に運ぶ。今度はスプーンに持ち替えて
ポトフを食べてみるが、美味しいはずなのに、味がわからない。
サラダを食べても、なにを口にしているのかわからず、
市販のご飯を食べてもただ熱いということしかわからない。
あいつが作ってくれただけで、とてもうれしいはずなのに、
いくら食べても味がわからなかった。
麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前9時
目覚ましを止めると時計は9時を示している。
あまりにも遅い夕食を食べ終わった後、シャワーを浴び、ベッドに潜り込んだものの
朝日が昇っても寝付けなかった。
遮光カーテンから漏れ出る朝日を眺めつつ、
この部屋にいた北原の姿ばかり思い出している。
だから、目覚ましも、9時のアラームが鳴るのをカウントダウンをして待ち、
鳴り始めた直後にスイッチを切っていた。
カーテンを開けても、さそど眩しくはない。カーテンの隙間からの陽光だとしても
日の出から太陽の光に目を慣らしていたおかげだった。
キッチンに行き、うがいをしてから、冷蔵庫からサンドウィッチを取り出す。
おもむろに一つつまみあげ、ゆっくりと味わって食べる。
中身をみると、卵、トマトとレタス。それにアクセントとして
炒めたみじん切りの玉ねぎが挟まっていた。
料理は得意ではないと言いながらも、できる限りの料理をしてくれるのが心にくい。
一つ目を食べ終わると、次のサンドウィッチに手を伸ばし、
一つ目とは違い、勢いよく食す。途中喉に詰まりそうになるが、
水を流し込み、サンドウィッチを喉に流し込む。
そして、お皿にあったサンドウィッチは、またたく間に麻理の胃袋に収まった。
食事が終わると麻理は、すぐさま春希を迎える準備にとりかかる。
まずは、夜セットしておいた洗濯物を片づけ、春希の目にとまるとやばいものを
クローゼットの押し込んでいく。
春希が掃除してくれたおかげで、綺麗だった部屋は、とくにいじるところはない。
むしろ麻理が触ると余計なゴミが発生しそうなほどである。
なので、部屋の片づけは早々に切り上げ、自分の準備に取り掛かった。
まずは歯を磨き、次にバスルームにこもって、念入りに体を洗い、シャワーで流す。
本当は湯船にもつかりたいところだけど、北原のことだ。時間より早く来るに決まってる。
だから、ゆっくり湯船につかる時間はないと断念する。
服選びに時間を取られ、メイクもばっちりしたところで、時刻は11時40分。
あと10分もすれば、あいつのことだからやってくるはず。
麻理は、インターフォンの受話機がよく見えるところに陣取って、
いまかいまかと春希の訪れを待ち望んだ。
時刻は11時50分ちょうど。待ち望んでいたチャイムが鳴り響く。
時間ちょうどに鳴ったところをみると、マンションの前で時間調整したのが読みとれる。
そう思うと、自然と笑みがこぼれおちる。
インターフォンに向かう足取りも軽く感じられた。
インターフォンに映しだされる北原を確認すると、
すぐさまエントランスの解除キーを操作する。
麻理「北原。今開けたから入ってきていいぞ」
春希「はい。ありがとうございます」
北原の声が聞けただけなのに、麻理の心は躍る。
急いで玄関に向かおうが、すぐに北原が来るわけでもないのに、早足になってしまう。
玄関の扉を開けて待とうか、それともエレベーターまで迎えに行こうか迷う。
結局どちらも北原に重い女と思われるのが嫌なので却下されるが、
迷う時間があったおかげで待ち時間でじれる必要がなくなり好都合であった。
春希 麻理マンション 1/9 日曜日 午前11時53分
春希「こんにちは、麻理さん。今日の料理考えてきました。
お気に召すかわからないので不安ですが」
昨日、本屋で今日の料理候補を決め、本を購入し、そのままスーパーで
食材のチェックを済ませてある。
しかも、第3候補まで考えてあるんだから、どれかしらOKがでるはず。
麻理「いらっしゃい。ちゃんと考えてきたんだな。えらいぞ、北原」
春希「難しい料理ではないので、期待されると困るんですが、失敗する可能性だけは
下げてきました」
麻理「それを聞くと、いかにも北原らしい発想の料理理論だな」
麻理さんから笑みが漏れるとこで、俺も気が少し楽になる。
どうしても実際会って話すまでは、身構えてしまっていた。
どう接していいか戸惑うところがあったが、今の雰囲気ならば杞憂に終わりそうだ。
春希「あまり誉められてない気がするのは、気のせいですかね」
麻理「誉めてるぞ。ふふっ・・・・ははは・・・・・」
麻理さんがお腹を抱えて笑うようなことは言っていないのに。
いつもの二人の距離感のはずなのに、なにか違和感を感じずにはいられなかった。
春希「そんなに笑わなくても」
麻理「いや、すまない。・・・・ふふ。で、何を御馳走してくれるんだ?」
春希「はい。エビと鶏肉の黒酢あんかけにしようかと思っています。
それに、みそ汁とサラダをつければいいかなと。どうです?
一応他の案も考えてきたので変更もできますよ」
麻理「それでいい。楽しみにしているぞ。では、行こうか」
麻理さんは、靴を履き、そのまま俺の腕を取って、玄関の外に引っ張っていく。
俺は連れて行かれるまま、エレベーターに再度乗り込むことになる。
春希「どこに行くんです?」
麻理「決まってるだろ。スーパーに買いだしに行かないと、材料なんてないんだから」
麻理さんが、質問すること自体馬鹿げたことだと言わんばかりの表情を見せる。
いかにして料理を作るかを考えてばかりいて、食材を買ってくることを忘れていた。
あれだけスーパーで材料の吟味までしていたのに、買うこと自体を計画に
いれるのを忘れてしまうとは。
やはり俺の方は本調子とはいかないみたいだ。
エレベーターが1階に着き、エレベーターの扉が開くのを待つ。
扉が開ききり、だれも正面にはいないことを確認してから動きだそうとするが、
その前に左腕が引っ張られる。
あまりにも自然すぎて、あまりにも俺がその位置にいてほしいと思ってしまう彼女が
俺の腕に絡まっている。
柔らかい温もりを左腕から伝わり、心が揺れる。
俺は麻理さんに腕を組まれたままスーパーに向かった。
平日とは違い、休日の昼間ということもあって、スーパーは賑わいに満ちていた。
いくら買うものが決まっていようと、人が多ければ動きも鈍くなる。
しかも、右手に買い物かご、左腕には麻理さんという動きが制限される状態ならば
なおさらである。
買い物かごに商品をいれようとしても、麻理さんは腕を離してくれることはなく、
俺がとってほしい商品を告げるしかなかった。
別に麻理さんが俺に寄り添ってくることが迷惑と思うことはない。
むしろ嬉しかった。だからこそ、嬉しいと思ってしまう自分が許せずにいた。
マンションに戻ると、麻理さんは腕を解放してくれた。
スーパーでも、レジや荷を詰めるときは離してくれている。
麻理さんが俺の左腕が所定の位置であり、なおかつ、
俺がそれを受け入れていること自体が問題なのだ。
だけど、簡単に解決策など見つかるわけもなく、今目の前にある料理という難題に
取り組むことしか道はなかった。
料理を始めると、とくに問題などなく、スムーズに料理が完成されていく。
料理の本を参考にいして、自分なりにノートにまとめたのが功を奏したらしい。
麻理「料理まで自分なりにまとめてくるなんて、面白いやつだな」
春希「失敗できませんからね。必死なんですよ」
麻理「そうなのか? 私は失敗してもいいと思ってたけど」
春希「失敗作なんて食べてもらえませんよ」
麻理「お前は、彼女が失敗作を作ったら食べないのか?」
春希「そんなことしませんよ。美味しいって言って、全部食べると思います」
麻理「だったら、今も同じよ」
つまり料理の良しあしも重要だけど、
作ってくれるという過程と心遣いが大切ってことか。
逆の立場のことなんか考えもしたことがなかったから、気が付きもしなかったな。
春希「そうなんですかね。できれば、美味しいって思ってほしいですよ」
麻理「そうだな。では、私もはりきって手伝うよ」
春希「あ、それ。入れる順番違います」
麻理「す・・・・すまん」
立派な大演説をしてたかと思えば、可愛いミスをしでかす。
ほんと、見てて飽きない人だ。ほんとうに愛らしい女性だと思える。
いつまでも見守っていられるんなら、どれだけ・・・・・・。
春希「そういえば、昨日作っていった料理どうでしたか?
自信はないですけど、食べられないでほどではなかったと・・・思うのですが」
麻理「ああ、美味しかったよ。また作ってくれると助かる」
春希「それはよかったです。サンドウィッチも大丈夫でしたか?」
麻理「あれも美味しかった。仕事の差し入れで今度作ってきてほしいほどだ」
春希「それは構わないですけど、鈴木さんになにか言われますよ?」
麻理「大丈夫だって。隠れて食べるから」
笑いながら言ってるけど、本気なんだろうな。
作ってあげたい。それに、NYに行くまで日数も限られているし。
それにしても、マスタードがほんの少し増量したサンドウィッチが一つ用意しておいたけど
麻理さんは辛くなかったのかな?
辛いものが好きなら問題はないだろうし、自分がやった罠に自分が返り討ちに
あったのを隠しているのか?
ふと疑問にも思いもしたが、目の前の料理に集中すべく、疑問を頭の片隅に追いやった。
綺麗に空になった皿を目の前にして、ようやく肩の荷が下りる。
いくら美味しいって言ってもらえても、食べてもらえなければ自信をもてるはずもなく。
麻理「北原は、なんでもできるんだな。料理はあまり得意ではないと言いながらも
こんなにも美味しい料理を作ってしまうのだから、まいるよ」
春希「誉めてもらえるのは嬉しいのですが、そこまで誉めてもらえるものは
作ってないですよ」
麻理「謙遜するな。私が満足してるんだから、それでいいじゃないか」
春希「そうですか。今度作るときは、もっと腕を磨いてきますから
その時は、もっと自信をもって作れるようにしてきます」
麻理「そうか。また作ってくれるんだな。楽しみにしてるからな」
春希「ええ。あっ、そうだ。麻理さんに部屋の鍵返そうと思って、持って来たんです」
俺は鍵を取り出し、麻理さんに差し出す。二人の視線は、自然と鍵に集まる。
麻理さんの部屋の鍵。
麻理さんのプライベートに立ち入ることが許される免罪符ともいえる心の鍵。
もう、麻理さんに返さなければならない。俺にはもつ資格などないから。
しかし、麻理さんは鍵を受け取ろうとはせず、ただ鍵を見つめるだけであった。
春希「麻理さん?」
麻理「その鍵は、北原がもっててくれないか」
突然の申し出に俺は戸惑うばかり。
一方、麻理さんは真剣な眼差しなのだから、俺をからかってるわけではないみたいだ。
春希「でも、な・・・・いえ、俺が持ってて大丈夫なんですか?」
何故なんて、分かり切ってる。それを聞くなんて、麻理さんを傷つけるだけだろうな。
麻理「あまりかしこまると、こっちが困る。いや、困らせてるのは私の方か」
自嘲気味に笑う麻理さんが痛々しい。
春希「俺は、困りなんかしませんけど、でも・・・・」
麻理「これから、NYにいったり来たりで部屋を留守にするからな。
だから、たまに空気を入れ替えてくれると助かる。
それに、家に誰もよりつかないとなると物騒だろ」
麻理さんが言うことがこじつけだっていうことは、俺にだってわかる。
それを指摘するのも簡単だけど、俺は・・・・、
春希「わかりました。時間ができたら、空気の入れ替えだけではなく
掃除もしておきますね」
麻理「そこまでする必要はないって言っても、お前のことだ。掃除するんだろうな」
春希「分かってるんなら遠慮しないで下さいよ」
麻理「なら、掃除も頼むわ」
春希「はい、喜んで」
その後、二人並んで食器を片づけたり、ソファに二人寄り添って
今後のNY息の予定や、大学の試験の日程やバイトのシフトを話し合う。
すでに二人でいることに俺は違和感を感じることはなくなっていた。
そこにいるはずの存在が、当然のごとく存在している。
それに何故違和感を感じるのだろうか。
だけど、そんな甘えは、いつまでも俺には許されてはいない。
今日麻理さんに会いに来たもう一つの理由が、俺を引きとめる。
春希「2/14なんですけど、NYに行く日を一日遅らせませんか?
その日大学でヴァレンタインコンサートがあるんですが、俺も出演するんです。
だから、できれば麻理さんにも見に来てほしいです」
麻理さんの表情が移り変わるのが見てとれる。
穏やかな頬笑みから、驚愕と戸惑い。そして、諦めと決意へと。
俺は、その一つ一つの心の変化が手にとるように理解できてしまう。
理解できてしまうからこそ、心が痛む。
今は、その心の痛みこそが、心の支えとなった。
麻理「どうしても見てほしいのか?」
春希「はい、是非麻理さんに見に来て欲しいです」
麻理「そうか。わかった。スケジュールは調整しておくわ。
ヴァレンタインを過ぎたら、今度日本に戻ってくるときは、
最後の引き継ぎだろうし。
ま、最後の引き継ぎといっても、顔見せと書類の提出程度だろうけどな」
春希「最後なんですね」
麻理「そう暗い顔するな。NYまで会いに来るって約束しただろ」
春希「はい。きっと・・・・、そうですね、ゴールデンウィークには行きます」
麻理「気が早いな」
懸命に笑いを作り出す麻理さんの心が俺に突き刺さる。
そして、俺は、喜んで痛みを受け入れる。
春希「計画的って言ってほしいですね」
麻理「計画的な北原は、その次はいつの予定なんだ?」
春希「夏休みにでも」
麻理「そっか。・・・・・・就職は、うちにするのか?」
春希「できれば」
麻理「お前なら大丈夫か。もし落とすようなら、うちの方が危ないな。
その時は、私も転職を考えないと」
春希「そこまでは・・・・・」
麻理「冗談だって。いや、冗談ではすまない事態かもな」
麻理さんは、笑いを込めて真剣に悩む。俺は、どう反応すればいいか迷ってしまう。
麻理「ま、大丈夫だろ。人事にも同期がいるし、北原のこと高くかっていたしな」
春希「そうなんですか?」
麻理「お前は、私が育てたんだ。だから、自信を持ちなさい」
春希「はい」
夜は更けていく。深夜になろうが、始発電車が走り出そうが、
二人寄り添いソファーで朝を迎える。
もうじき朝日が昇ろうとするころ、俺達は少し早い朝食をとって、
俺は自宅へ、麻理さんは開桜社へと戻っていく。
麻理さんが、駅で名残惜しそうに俺の腕から手を離していく姿が脳裏に焼きつき、
いつまでも忘れることができなかった。
集中が途切れるたび、月光の中、身をよじる麻理さんの温もりと柔らかさを思い出す。
肺いっぱいに吸い込んでいた麻理さんの香りは、肺から抜け出すことはなく、
細胞の奥までしみ渡っていた。
春希 冬馬邸 1/10 月曜日 午前9時49分
約束の10時まで、もうすぐちょうど10分前。
チャイムを鳴らそうとすると、玄関の扉が開く。
中からは曜子さんが顔を出し、俺の顔を確認すると目を丸くする。
曜子「ほんとに10分前に来るのね。言ってた通りだわ」
春希「誰が言ってたか追及しませんが、おはようございます」
曜子「おはよう、北原君。さ、あがって」
曜子さんに俺のことを話すやつなんて一人しか思い浮かばない。
しかも、悪口込みで言ってそうだから、曜子さんの俺の評価を聞くのが恐ろしい。
曜子「なにをしているの? 寒いから中に入ってちょうだい」
春希「すみません。久しぶりに来ましたけど、すごいお屋敷だなって」
曜子「そう? ウィーンの方がでかいわよ」
春希「そうですか・・・・。おじゃまします」
とっさについた出まかせだったのに、その嘘のせいでびっくりするとは。
冬馬家の財務状況ってどうなってるんだよ。
曜子「さっそくで悪いんだけど、説明していくわね」
曜子さんは、玄関に上がるとすぐに今後の方針について話し始める。
色々俺のことやかずさの事を聞かれるよりは、ましだけど、
どうも話のリズムがつかめずにいた。
歩きながら説明を続け、リビングまで行く。
部屋の中は、意外と生活感が残っている。ウィーンに越してしまっているから
家具などはないと思っていたけど、以前来た時よりは断然殺風景だが、
最低限暮らしていくには必要なものは揃っていた。
だけど、ここにかずさはいない。
一番必要なピースが欠けているこの部屋は、俺が知るかずさの家ではもはやなかった。
曜子「この家にあるものは、なんでも使っていいわ。
お腹がすいたら冷蔵庫の物を食べてもいいし、疲れたならソファーで寝ても
いいし、お風呂に入ってもいいわ。掃除なら気にしなくても
昼間ハウスキーパーが来て掃除するから、なにもしなくてもいいわ。
あ、でも、2階には上がらないでね。
仕事で使ってるから、色々まずいものもあるの」
春希「はい、わかりました」
曜子「よろしい」
そう言うと、地下スタジオに独り向かう。俺は置いていかれないようにと
慌ててついていく。
地下スタジオに入ると、こちらも記憶に残るスタジオとは異なっている。
部屋の中心に陣取るピアノは同じなのだが、部屋に複数設置されている集音マイク、
ビデオカメラ、PCなど、最新の機材が設置されていた。
曜子さんが言うように、この家を使って仕事をしているのだろう。
もともと本格的なスタジオだったから、少し手を加えれば録音くらいできるだろうし、
マスコミの目も気にしなくていい分、レンタルスタジオよりは断然使い勝手がいい気がした。
曜子「はい、このギター使ってね」
曜子さんが差し出すギターは、俺でさえ知っている有名ギター。
しかも、見てからして高級そう・・・・・・。
春希「もっと安いギターでよかったんですけど」
曜子「そう? 御希望なら、安いギターを改めて用意するけど」
春希「いいです。それでいいです」
俺は、慌ててギターを掴み取り、安いギターを辞退する。
この人、絶対俺の金銭感覚わかってて言ってるはず。
安いギターだとしても、1万はするし、それを改めて買うなんてもったいない。
俺が、このギターを使うのももったいないことだけど、
このギターの腕に見合った人が使ったほうが有意義だと思うけど、
無駄遣いだけは遠慮したい。
曜子「ふぅ~ん」
俺を細部まで観察する曜子さんの目がこそばゆい。
俺の今の反応さえ予想の範ちゅうなのだろうか?
かずさは、どこまで俺のことを曜子さんに話しているんだろうか?
ふと疑問に思いもしたが、それよりも、かずさが曜子さんと俺の事を話題にするにせよ
会話ができる親子をやっていることに、胸をなでおろした。
曜子「じゃあ、ギターの練習について説明するわ」
春希「はい」
曜子「曲は、『届かない恋』1曲だし、そもそも弾けてたわけだから
反復練習しかないわ。そこのカメラ見える」
曜子さんが指差す先には、2台のカメラが設置されていた。
曜子「そこの椅子に座ってくれれば、あなたとギターの手元が映るように設定
されているわ。あとで微調整しなくちゃいけないけど」
春希「そうなんですか・・・・」
曜子「別に、ずっとその椅子で座って練習しなくちゃいけないわけじゃないけど、
細かい指示を貰いたいなら、そこに座ってくれると助かるわ」
カメラにマイク。俺を撮影するためみたいだけど、いまいち事態が読みきれない。
曜子「その顔をみるところ、どうやらわかってないみたいね。ごめんなさい、
とばしすぎて」
春希「いえ、説明を続けてくだされば、理解していきますし、
それでもわからないことがあれば、後で聞きます」
曜子「そう? じゃあ説明を続けるわね。
私は24時間付きっきりで練習見てあげてもいいんだけど、
それだと春希くんも気まずいでしょ?」
春希「そんなことは・・・・」
あるわけだけど、言える訳はない。
かずさの母親と2人きりで、かずさのことを考えるなという方が無理だ。
曜子「安心して。私も少しは仕事があるし、練習しているところを録画しておいてくれれば
後で見直して、そこのノートパソコンに気がついたことを
メールしておくから」
春希「なるほど、わかりました」
曜子「だけど、リアルタイムでも見ているときもあるから、気を抜いたらだめよ」
春希「そんな時間ありませんって。それに、ずっと録画されてるのに
気を抜くも抜かないもないじゃないですか」
曜子「それもそうね。春希君のほうも、聞きたいことがあったら、パソコンで
メールしておいてくれれば、なるべく早く解答するわ」
もともと反復練習がメインだけど、プロの目からのアドバイスはありがたい。
曜子「それと、ここを使っていい時間だけど、夜の8時から朝の8時まで。
だから、悪いけど8時前には出ていってくれると助かるわ。
ハウスキーパーがそのあと掃除に来て、昼間は事務所として使うし、
スタジオもね。夜中しか使ってもらえないのは心苦しいけど、ごめんなさいね」
春希「そんなことないです。スタジオを使わせてくれるだけでも感謝しているのに、
しかもアドバイスまで頂けるのですから。
でも、こんなにも甘えてしまっていいんでしょうか?」
曜子「かまわないわ。私が好きでやってるんだから」
ここで合宿が始まる。
ピアノの主はいないけど、大切な思い出の地に戻ってきた。
俺を見つめる曜子さんの視線は気がかりだけれど、今はここに戻れただけで幸せだ。
さっそくギターの音を出してみようと奏でてみたが、
調子っぱずれの音に、俺も曜子さんも失笑を漏らすしかなかった。
春希 冬馬邸 1/10 月曜日
曜子「ところで、北原君」
春希「なんでしょうか?」
冬馬邸、地下スタジオ。かずさの母親だと思うとプレッシャーを感じずには
いられなかったが、いまはそんなことを考える暇もない。
早くギターが弾けるようにならないといけないという新たなプレッシャーの前に
一人思考にふける時間もなくなるだろう。
曜子「北原君の他には、誰が出演するのかしら?」
この人は、根本的な事を全く気にしていないとは。
それに、俺が電話した時の要件さえいまだに話せてはいない。
もはやあきれることさえ、意味をなさない。
こういう人だと割り切って付き合わなければ、今後疲労していくのは俺だけだ。
春希「ボーカルはいるらしいです。ベースとドラムは、どうなんでしょうかね」
今は、ほぼ何も決まっていない。ボーカルは、和泉が用意するとは言ったものの、
なにも決まっていないといってもいい。
俺のギターさえ、まだまだ人前で演奏できる代物ではないのだ。
ましてや、高校の学園祭とは違い、二人の頼りになる存在さえいない。
だけど、今も昔も、俺がやるべきことは決まっている。
俺は、ギターを弾けるようになればいい。
他人任せだってあきれるかもしれない。言いたいやつには、いわせておけばいい。
俺は、本来自分勝手なんだよ。
曜子「ボーカルは別として、北原君のギターだけで、演奏成り立つの?」
春希「それは、俺も心配してるところなんですけどね・・・・」
乾いた笑いがこぼれ落ちるしかない。だって、事実だし。
仮に、和泉が連れてくるボーカルが雪菜級であっても、俺のギターだけで、
演奏を成り立たせられるなんて思えない。
それこそ、大学やバイトを全て休んで、一日中練習しなければ間に合わない。
曜子「そっかぁ・・・・」
曜子さんは、考えるそぶりを見せつつも、笑みを絶やさない。
きっと面倒なことを考えているに違いないって、思えてしまう。
曜子さんと話す機会なんて、わずかしかなかったけど、そのわずかな時間だけでも
和泉千晶レベルの問題児だって、認識できてしまう。
曜子「ここにいい案があります」
にやっと不敵な笑みを俺に突き出す。おもわずたじろぐ俺をみて、
さらなる笑みをにじみ出す。
春希「なんでしょうか?」
曜子「これよ、これ」
曜子さんの手には、DVDかCDのケースが一枚。
俺がぽかんと見つめる中、俺にはかまわずTVに映し出す用意を始める。
曜子さんは、用意ができるとソファーに座り、俺を呼び寄せる。
突っ立っていても邪魔になるし、他に座る場所といっても限られる。
それに、わざわざ呼んでいるのに、それを無視して違うところに座るのも
機嫌を損ねてしまう。機嫌を損ねるだけならいいけど、その後の仕返しが怖いし。
俺は、観念して、曜子さんからなるべく離れたソファーの隅に身を沈める。
曜子さんは、一瞬むっとした顔を見せたが、それも一瞬。
とりあえず、納得はしてくれたか。
そうこうするうちにTVに映像が映し出される。
画面に映されたのは、
春希「かずさ」
ピアノに向かいあうかずさ。場所は・・・・・、おそらくこのスタジオ。
映像は、かずさをアップにして撮ってるため、場所を特定するのは難しい。
だけど、この背景。見間違えるはずもない。だって、今俺もその場所にいるんだから。
映像とスタジオを交互に確認する。やはり間違いはない。
と、確信を得ると、演奏が始まる。
これは・・・・・、『届かない恋』。
かずさが奏でる音色は、まったく色あせていない。
むしろ洗練されていて、艶っぽく成長している。
郷愁と夢想が俺の心を駆け巡り、俺を虜にする。
くいるように画面を見つめる俺は、いつしか前のめりにソファーに腰掛けていた。
一瞬一瞬のかずさの演奏を、一つも見逃すまいとくらいつく。
たった5分の演奏は、あっという間に終わりを迎える。
たった5分だというのに、永遠にも等しい時間。
3年もかずさと離れていたというのに、まったく色あせぬかずさへの想い。
俺は、再生が終わった画面の向こうのかずさを想い続けた。
曜子「そろそろいいかしら」
曜子さんにとっては十分すぎる時間。俺にとっては、一瞬だったが、
かずさの演奏を聴いてから、すでに30分は経過していた。
春希「すみません」
曜子「いいのよ。私も初めて聴いたときは、あなたと同じだったし」
いつ撮った演奏なんだろうか。曜子さんに聞けば、教えてくれるのだろうか?
春希「これって、いつ撮った演奏なんですか?」
曜子「それ聞いて、なにか意味でもある?」
春希「聞いて何かできるわけではないかもしれないですけど、俺は知りたいです」
曜子「そう・・・・・。三日前よ」
春希「え?」
三日前。ということは、かずさが日本に来ていた?
このスタジオにかずさが・・・・・?
曜子「ごめんなさい、北原君。ニューイヤーコンサートだけど、あの時も
かずさ来ていたのよ」
俺は、もはや言葉さえ発せられずに、曜子さんを見つめていた。
喉が渇き、唇も乾燥していく。握りしめた手には、汗がにじみ出て、
焦点もぼやけていく。俺の混乱をよそに、曜子さんは、事実を俺に叩きつける。
曜子「あの子、今は会えないって。コンサートの時も、この演奏を撮ったときも、
今は、会えないって・・・・・・」
春希「そう・・・・ですか」
声にできていいるかわからない。切なそうに見つめる曜子さんが、俺を包み込む。
そっと抱きしめられるが、いやらしい気持ちなど一切抱くことはなかった。
けっして魅力がないってわけではない。むしろありすぎる。
年齢を感じさせない若々しさ。強烈に女性らしさを演出する体の曲線。
だけど、今の俺には、曜子さんの全てがかずさと結び付ける。
曜子「もう少しだけ待っててあげて。あの子、今大きく成長しようとしてるの。
無理やり日本に連れてきて正解だったわ。
きっとあと数年で開花するはずよ。あと3年。ううん、あと2年。
その時、かずさに会ってくれないかしら」
春希「かずさは、俺に会ってくれるんですか?」
曜子「あの子が会いたくないわけないじゃない。今も会いたい気持ちを我慢してるのよ」
春希「そうですか」
曜子「私とかずさの我儘に付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
春希「いいですよ。3年もかずさを待たせたんです。あと2年や3年くらい待ちますよ」
曜子「ありがとう」
春希「そうだ。一つ言い忘れていたことがあったんですけど、いいですか」
曜子「なにかしら」
春希「この前電話した時言おうと思ってたことなんですけど、
今度のヴァレンタインコンサートのDVDをかずさに渡してくれませんか。
それを伝えるために電話したんですよ。それなのに、まったく聞いてくれずに
今日ここにひっぱりだされてしまいました」
曜子「そうだったの。DVD、必ず渡すわ。でも、今日ここに来てよかったでしょ」
この人は。人の話を聞かなかったことに、まったく悪びれもしないで。
春希「来てよかったです。ほんとうによかった」
その後、さらに30分かけて平常心を取り戻す。ようやく曜子さんのレッスンが始まるが
まさに地獄。かずさの指導が優しすぎるって思えるくらいであった。
ブランクがあるとはいえ、厳しすぎるレッスンに、かずさへの想いの余韻に
浸ることさえできずに、時間が過ぎ去る。
今夜はゆっくり寝られそうだ。かずさの温もりが側にあるから。
かずさ「おつかれさん」
曜子「なかなか骨が折れそうね。でも、根性だけはあるから、間に合うかな」
かずさ「大丈夫さ。春希なら」
曜子「それもそうね」
かずさ「それよりもさ・・・・・・」
曜子「なにかしら・・・・・・」
かずさの鬼気迫る迫力におびえる曜子。なにに怒っているかなんて明白すぎる。
うまくスルーしてくれそうだと思っていたのに、それは無理だったか・・・・・。
かずさ「春希に抱きつくなんて、やりすぎだ。何を考えているんだか。
この色情魔め。年を考えろ、年を」
曜子「あら、年なんか関係ないわ。春希くん、ちょっといいかもしれないわね。
3年前にあったときは、なにも感じなかったけど、今は・・・・・」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「うそよ。うそ。娘の彼氏を横取りなんかしないから。
ねっ、ねっ」
うろたえる曜子を睨みつけ、かずさの怒りはおさまりそうもない。
朝までみっちり北原君の練習をみていたっていうのに、まだ寝られそうにないか。
曜子は、朝日を眩しそうに見つめ、嬉しいため息を漏らした。
春希 春希自宅 1/11 火曜日
今日から大学も始まる。ギターの練習で夜はバイトができないし、
今後のこともある。今できることは、今のうちに手をまわしておきたい。
そうしないと、ギターに集中できないし、俺に振り回されている人たちにも
申し訳なかった。
まずは、こいつからかな・・・・・・。俺は携帯を取り出し、アドレスを呼び出した。
武也「おう春希。この前は、痛いところをつかれたよ。
依緒の方は、まあ、なんとかな・・・・・・・・」
春希「悪かったな。依緒のフォローまったくできなくて、すまない」
武也「いいってことよ。俺の方も考えるとところもあったし、春希が出てきても
かえって感情的になってかもな」
春希「そうか。・・・・・それで、今日から大学始まるけどさ、
出席日数ギリギリで出ると思うから、あまり大学では会えないと思う。
だけど、それは決して雪菜に会いたくないってことではないんだ」
武也「OK、OK。今度は雪菜ちゃんのフォローしておけよってことだろ」
春希「話が早くて助かるよ」
武也「いいってことよ。春希が俺に頼ってくれてるうちは、大丈夫ってことだからな」
春希「いやな判断基準だけど、ありがとな。」
武也「おう」
和泉の乱入でひと騒動あったというのに、軽口をたたけている。
こいつが親友でよかったと、しみじみ思えた。だからこそ、雪菜を任せられる。
武やが親友でよかったなんて、口が裂けてもいうことなんでできやしないけど。
春希「うちの大学で毎年やってるヴァレンタインコンサートって知ってるよな?
お前が毎年女の子とデートしてるやつ」
武也「知ってるけど、後半の情報は余計だ。チケット欲しいのか?
2枚くらいなら顔がきくと思うけど、
今年はなぜか既にチケットが全てさばけたらしい。
隠れた人気があるコンサートで、値段の割には質もいいしな。
今年はチケットとれるか微妙だったけど、春希の頼みなら全力で奪い取ってきてやる」
春希「いや、チケットはいい」
俺は思わず苦笑いをするしかなかった。
既に裏では『届かない恋』の噂が広まってるのだろう。
自信過剰な評価かもしれないけど、あながち過大評価とはいえないとも思える。
武也はまだ知らないみたいだけど、明日から大学が始まるし、きっと噂を嗅ぎつける。
だから、雪菜も・・・・・・・、知ってしまう。
武也「そうか? じゃあ、なんだよ?」
春希「俺が出場するんだ」
武也「は? 聞いてないぞ。雪菜ちゃんは? って、出るわけないか」
春希「ああ、雪菜はでない。それに、まだ俺が出るって言ってもない。
だから、武也が雪菜を誘ってほしいんだ。
今、雪菜に顔をあわせる準備もできていないし、申し訳ないけど」
そう、主にかずさと麻理さんのことで、雪菜に顔をあわせるなんて、できやしない。
かずさと麻理さんの間で、微妙なバランスをとっている今、雪菜まで加えて
バランスを取る自信なんてありはしない。
自分勝手だってわかってはいるけど、誰に対しても不誠実でいなければ
全てが崩れ去ってしまう気がしていた。
武也「それはいいけどよ、それでも春希が直接誘ったほうがいいんじゃないか?
まあ、依緒も誘って、3人でいくことになるだろうけど」
春希「すまない。俺の我儘なんだ」
武也「わかった。俺に任せておけって。でも、チケットよろしく頼むな。
出演者枠で何枚か貰えるだろ? ほんとは、今年どうしようかって
考えてたところなんだよ」
春希「わかった、わかった。3枚でいいんだな。聞いておくよ」
武也「おう。・・・・・・・あのな春希」
春希「なんだよ?」
武也「お前の方は大丈夫なんだよな?」
春希「大丈夫・・・・・・だと思う。大丈夫になるようにコンサートでるんだし」
武也「そっか。わかった。雪菜ちゃんのことは俺と依緒にまかせろ。
コンサート楽しみにしているからな」
春希「ああ、まかせろ・・・・って言いたいところだけど、ぎりぎりだな」
武也「そっか。お前がギターのことで任せろだなんていう方が心配だ。
ギリギリって言われた方が、なんとかしそうだから、頼もしいよ。
・・・・・・、そういや、なにを演奏するんだ?」
話の流れとしては、聞いてくる話題だって、わかっていた。
わかっていたけど、携帯を握る手に力が入る。
口の中が乾き、口を緩やかに動かすだけで、声が出ない。
武也「春希?」
春希「あ、ああ。ごめん、ちょっとぼうっとしてた。徹夜明けなんだ」
武也「そうか。で、なにやるんだよ?」
武也は気がついてしまったはず。苦しい言い訳だからこそ、
いつも通りに語りかける武也に感謝せずにはいられない。
春希「『届かない恋』なんだ」
武也「そっか・・・・・。で、誰が歌うんだ?」
春希「文学の友達が用意するって話なんだけど、とりあえず、
ギターの俺に声がかかったってところかな」
武也「雪菜ちゃんにはどう説明する気なんだ?」
武也の声も堅くなるのが、いやでもわかる。俺のほうなど、震えてないか心配するほどで。
春希「そのまま言ってくれてかまわない。たぶん、明日になれば大学で
噂くらいは聞くと思うし」
武也「なるほどな。今年のチケットの売れ行きが良すぎると思ってたら、
こんな裏事情があったんだな」
春希「チケットのことは俺も初耳だったけど、人が集まりそうだな。
・・・・・なあ、武也。嫌な役回り押しつけて、悪いな」
武也「そう思ってるんなら、雪菜ちゃんとのこと、しっかりけじめつけろよ。
やっと中途半端な状態から動こうとしたんだ。
お前が雪菜ちゃんと友達になるって宣言したんだし、俺はそれを応援するよ」
春希「ああ、頑張ってみるよ」
武也「ああ、頑張れ」
春希「じゃあ、また大学で」
武也「大学でな」
電話を切ると、心地よい疲労感で満たされる。
どうにか一人目は、クリア。次は・・・・・。
和泉に電話をしてみたが、留守電に繋がるのみ。
この勢いのままって、意気込んだけど、出鼻をくじかれるとは。
さすがは和泉だって、つまらない関心をする。
とりあえず、コンサートのことで話があるから、いつでもいいから電話がほしいと
留守電にメッセージを残す。
さてと、少し仮眠をとるか。
起きたらバイトだ。長時間の練習で疲労困憊ではあったが、
充実した時間に、体は動きたくてうずうずしていた。
春希 開桜社 1/11 火曜日
意気込んでバイトにきたが、思いのほか平和そのものだった。
見た目の上でだが。
気持ちの切り替えができた麻理さんは、いつも以上に仕事に精を出す。
NY行きのことは、編集部内では皆知るとこるところとなり、
エースが抜けた穴を埋めようと、引き継ぎ作業に没頭する。
だから俺も通常業務の負担を減らそうと、麻理さんのお咎めがない程度にみんなの
仕事を引き受けていた。
もう無理なんかはしないって、心に決めている。これ以上の不安要素を麻理さんに
持たせたままNYへなんて行かせるわけにはいかない。
麻理さんがいない開桜社でも仕事をしていけるって証明したい。
麻理「北原、それ終わったら、こっちのほうもよろしく」
仕事を机に置き、一言声をかけるだけ。
たったそれだけの行為なのに、特別な行為だと意識する。
だって、俺の肩にそっと手をかけて、振りかえった俺に頬笑みを向けてくれるんだから、
意識するなっていう方が無理だ。
今までだって、肩をぽんっと叩くことぐらい何度もあったはず。
しかし、今日の麻理さんの行為は、今までとは全く性質が異なる気がする。
たったひとつ、頬笑みが加えられただけなのに、それが大きな意味を持つ。
でも、麻理さん。俺はとてもうれしいんですけど、ここには情報通で
噂好きの鈴木さんがいるってこと、忘れていませんか?
さっきから、俺と麻理さんが近づくたびに妙に視線が感じられるんですよね。
ほら。鈴木さんが麻理さんの後姿を追っていたと思ったら、
俺の方を見て、にたぁって笑みを浮かべてるし。
だから、「こほん」と、わざとらしく咳をする。
これ以上深入りしてこないで下さいと警告を込めて。
だけど、俺に注目している人物は一人ではないと覚えておくべきだった。
麻理さんは、俺のわざとらしい咳払いに反応し、ちらりと俺に視線を送ると、
手をキーボードの端に移動させ、指だけ上げて、手を振ってくる。
ほんの一瞬の出来事であったが、すかさずチェックをいれる鈴木さんがいるんですよ、
って、今すぐ席を立って教えてあげたい。
麻理さんは、数秒の休憩は終わりとばかりに仕事に集中してるし・・・・・。
これはもう、諦めるしかないんだろうな。
ま、いいか。俺のバイトのシフトも、麻理さんが日本にいるときに合わせて
入れられているだけだし。鈴木さん以外だったら、俺の上司は麻理さんですから、
大学の試験もあるのでそれに合わせただけですっていう言い訳も通用するのにな。
ここは、鈴木さんが噂をバラまかないことを祈るしかないか。
俺は、もう一度麻理さんの姿を少しの間見つめると、
再度気合を入れ直し、仕事に立ち向かった。
昼の休憩を済ませ、昼食から帰ってくる部員をよそに、俺はまだ仕事にいそしんでいた。
麻理さんの休憩に合わせて一緒に食事でもと企んではいたけど、
とうの麻理さんは、打ち合わせに出て、編集部にはいない。
食事のタイミングを逃した俺は、砂糖を大量に投入したコーヒーをちびちび飲んで
飢えをしのぐ。5時にはあがる予定だし、あと数時間だ。
このまま食事をしないでも大丈夫かなと考え始めたころ、突然声をかけられる。
麻理「北原。食事まだだって聞いたのだけれど、これからのバイトスケジュールや
今後のことを話しながら食事でもどうかしら?」
春希「はい。食事に行きそびれていたので、お腹すいてたんですよ」
麻理「そうか。じゃあ、行くか」
いつもの上司と部下を演じているつもりらしいけど、麻理さんの声は堅く、
手足の動きもぎこちない。
今までさんざん自然を装って俺の肩や腕に触れてきたっていうのに、
ここにきてなんなんですか。
こればっかりはフォローのしようもありませんよ。
これ以上編集部内に麻理さんを晒さない為にも、俺は、急ぎ出かける準備をする。
春希「さ、行きましょう」
麻理さんは、返事の代りに俺の腕に自分の手をからめようとするが、
すんでのところで、ここが編集部であることに気がつく。
自分のミスに気がついた麻理さんは、誰かにばれていないかと急ぎきょろきょろと見渡す。
そして、だれも見ていないとわかると、急ぎ足で編集部をあとにした。
麻理さん。もう遅いです。鈴木さんが見てましたよ。
ほら、麻理さんが行った後、俺に向けて親指を立てて、にへらぁ~って笑ってます。
俺は、鈴木さんの応援を振り払い、麻理さんの後を追った。
俺のバイトの時間は終わり、帰り支度を始める。
編集部内を見渡すと、いまだ仕事に精を出している部員の人たちが見受けられる。
麻理さんも、食事から戻ってからは、2度ほど仕事の受け渡しに乗じてスキンシップを
とったきり、あとは仕事に没頭している。
今は午後5時すぎ。本来の俺だったら、深夜まで仕事をしているけど、
8時からギターの練習があるので、ここまでにしてもらう。
仮眠もとなければならないし、そもそも昨夜もほとんど寝ていない。
そろそろ活動限界に近いけど、とりあえず携帯の着信だけは確認しようと
携帯をいじる。
すると、今朝留守電を入れておいた和泉千晶からの連絡が来ていた。
俺の眠気など、一瞬で吹き飛んだ。
春希 開桜社前 1/11 火曜日
麻理さんに仕事の終わりと帰りの挨拶を済ませると、俺は急ぎビルをでる。
留守電を確認すると、千晶からいつでもいいから電話をくれとのこと。
要件は既にメールでも伝えてあるので、メールでもいいかなと考えはしたが、
電話が欲しいとのリクエストがあるのならば、電話がいいのだろう。
千晶「もしも~し、春希。もしかして、私からの電話無視してない?
ちっとも電話に出てくれないじゃない」
開口一番文句とは。しかも、この前俺が言ったことさえも忘れてるし。
春希「前にも言ったよな。電話に出られない状況だから、電話に出ないんだ。
電話に出られるんなら、すぐに出てるさ」
千晶「そう? 私からの電話に反応して、すぐに出るって、
春希にもかわいいところがあるじゃない」
あぁ、もうっ。ちっとも話しが進まない。いきなり話の脱線とは、恐るべし。
春希「もう本題に入っていいか?」
ここは心を鬼にして、話を切り出すべきだな。
俺は、感情を込めずに、事務的に切り返した。
千晶「あ、いいよ」
ほんとめげない奴。厭味も通じないのかよ。って、わかってて受け流している節もあるか。
春希「コンサートの件だけど、ピアニスト見つかったぞ」
千晶「まじで? 冬馬かずさの出演交渉成功したんだ?」
春希「冬馬かずさ本人は出ないよ。でも、音源だけは確保した」
千晶「えらいっ、春希。音源だけでも大したものだよ。
これでコンサートも無事出演できるね」
春希「ギターとピアノだけだけどな。ヴォーカルの方は、どうなったんだよ?」
千晶「ああ、ヴォーカルねぇ・・・・・・」
こいつ、俺が聞かなきゃ、すっとぼけようとしたな。
春希「どうなってるんだ? ヴォーカルがいないだなんて、ライブ成立しないぞ」
千晶「大丈夫だって。あと、もうちょいだから。もう少しで、いい感触掴めそうでさ」
春希「そうか? だったら、お前を信用して待つとするよ」
千晶「ありがと、春希。愛してるぅ」
春希「やめろ。気軽に愛してるなんて言うべきじゃない」
千晶「えぇ~。・・・・・・私は、本気と思ってもらっても、いいんだけど」
春希「だったら、なおさらやめろ」
一瞬垣間見た千晶の女の顔。声だけなのに、妙に現実味を帯びた声に、背筋が凍る。
女を感じさせない女友達だったはずなのに、一瞬だがそれを忘れるほど
俺に近づいてきてる感じがして、思わず飛びのきそうになってしまう。
千晶「ま、いっか。でね、その音源って今から聞きたいんだけど」
春希「悪い。これからギターの練習なんだ。明日は大学行くし、講義のあとでいいか?」
千晶「それでいいよ。そういえば、春希、今日大学来てなかったでしょ」
春希「お前も大学行ってないだろ」
千晶「え? 私は春希と違ってまじめ君だから、大学に行ってるって」
春希「俺が知っている和泉千晶は、まじめからは遠く離れた存在なんだけどな。
それに、お前が大学に来てないから、明日は大学に来るように伝えてくれって
メール来てたんだけどな」
千晶「え? それは・・・・・その」
春希「お前は、課題も出していないし、このままだと進級も危ういぞ。
明日俺も一緒に行ってやるから、明日はちゃんと大学こいよ」
千晶「うぅ~ん・・・・・・。こっちもちょっと忙しくてさ」
春希「できる限り俺もサポートするから、一緒に進級しようぜ」
千晶「そう?」
俺がサポートを申し出た途端に明るい声を出しやがって。
してやったり顔をしている千晶が目に浮かぶよ、まったく。
千晶「だったら、一緒に進級してあげようかな」
春希「あげようかなじゃない。進級するのは、自分のためだろ」
千晶「今日はお説教はいいからさ。・・・・・・ま、いっか。進級するから、
講義の後、冬馬かずさの音源聴かせてね」
春希「講義の後、俺の家で聴かせてやるよ」
千晶「じゃあ、カレーでいいから」
春希「は?」
千晶「だから、食事はカレーでもいいって、言ってるの」
春希「だから、なんで音源聴くのが、カレーになるんだよ」
千晶「それは、春希だから?」
俺を何だと思ってるんだ。俺は、千晶の飼い主ではない。
そもそも俺が飼い主だったら、しっかり勉強させて、進級が危ういとか
そういう状況にはさせやしない。毎日しっかり大学で勉強させて、
課題も提出期限ぎりぎりではなくて、余裕を持って提出させるはず。
千晶「お腹がすいてたら、冬馬かずさの演奏に集中できないし、
これからのことだって、ちゃんと考えられなくなるでしょ。
やっぱ、腹ごしらえして、脳にしっかり栄養与えないと」
春希「あぁ、もう。わかったから、カレー用意しておくよ」
千晶に甘いってわかってるけど、いつの間にか千晶のペースにさせられてしまう。
千晶「やった。そうこなくっちゃ。春希、愛してるよぉ」
春希「はい、はい」
今度の愛してるは、いつもの女を感じさせない千晶でほっとしている自分がいる。
もしかしたら、さっきの千晶は聞き違いかもしれないと思えてもくる。
だけど、聞き違いなんて、あろうはずもないくらい、
しっかりと俺の脳には千晶の声がこびり付いていた。
春希 春希マンション 1/11 火曜日
教授の元に千晶を連行し、長々とためになる話をしてくれたというのに、
千晶はすでに教授の努力を忘れ去っている。
今千晶が夢中になっているのは、大盛りによそわれたカレーライス。
俺が大学に行く前に作っておいたものだが、このままの勢いでいくと
二杯目に突入しそうだ。
春希「演奏聴かなくていいのか?」
千晶「ん?」
俺に呼ばれた千晶は、スプーンを置き、一口水を飲んでから、俺に向き合う。
話しながら答えないところをみると、存外育ちがいいのかもしれない。
でも、・・・・・・・今までもそうだったか?
千晶「もうちょっとで食べ終わるから、あと少しだけ待ってよ。
しっかり栄養取ってからじゃないと、演奏に集中できないでしょ」
春希「まあ、時間もあるし、ゆっくり食べろよ」
現在午後3時。どう多く時間をみつくろっても、ギターの練習までには聴き終わる。
聴かせる部分は『届かない恋』だけでいいんだし。
ほかにも何曲か収録されてはいたけど、それは誰にも聴かせたくはない。
曜子さんと一緒に聴いたというのに、人目を気にせず号泣してしまった。
心を鷲掴みにされる感覚というのだろうか。
丸裸のかずさが俺の心に入り込み、それと引き換えに俺の心を全てもっていかれる。
気がついたときには魅了されていて、心地よい脱力感が俺を支配していた。
千晶は、返事の代りにスプーンを持ち上げ、食事に取り掛かる。
俺は、そんな千晶の食事の風景を眺めつつ、ほんのひと時の仮眠へと落ちていった。
千晶「春希。春希ったら。起きてよ」
春希「ごめん。寝てた?」
千晶「うん。気持ちよさそうに熟睡してた」
春希「まじで? 今何時?」
掛け時計をみると、午後3時30分。あれから30分しか経ってはいない。
春希「少ししか寝てないじゃないか」
千晶「そう? でも、いくら呼んでも起きないから、DVDの準備しておいたよ。
これでいいんだよね?」
スプーンではなく、TVのリモコンをもつ千晶は、再生ボタンを押す。
TV画面には、色あせないかずさが演奏に入ろうとしていた。
演奏が始まると、千晶の顔色が変わる。今まで見たことがない表情に鳥肌がたつ。
かずさの演奏に触発された部分もあるが、俺の視線はかずさではなく、
千晶に注がれている。別に、女としての千晶に興味があったのではない。
千晶の圧倒的な存在感が俺の目を引きつけてしまったのだ。
けれど、得体のしれない存在であるはずなのに、妙に引き付けられ、
そして、どこか懐かしい感じを醸し出していた。
千晶「もう一回見ていい?」
演奏が終わると、千晶は俺の返事を聞く前に、最初から聴きなおす。
俺もアンコールを断るつもりはなかったので、黙って千晶を見続ける。
いや、まだ千晶を見ていることができることに感謝さえしていた。
もう少しで何か分かりそうなのに、掴むことができない。
千晶の目線。瞬き。呼吸したときの胸の動き。ピアノに合わせて揺れ動く肩や
なめらかに踊る指先。
あと少し。あともう少しで、なにかが・・・・・・・・・。
千晶「ありがと、春希。これでいけるって・・・・・って、春希?」
突然目の前に俺を覗き込む千晶を認識して、思わず後ろに倒れそうになる。
どうにか片手で支えて難を逃れることができたけれど、
面白そうに俺を見つめる千晶に、もう少しで掴めそうだった感覚が霧散してしまった。
春希「もういいのか?」
千晶「うん。でも、これのコピー貰えるんだよね? もう一度聴きたいし、
ヴォーカルの子にも必要だしさ」
春希「それは構わないけど、CDの方だけな。映像が入ってるDVDは遠慮してくれ。
もう一度見たいんなら、俺のところにきたらいつでもみせてやるからさ」
千晶「ふぅ~ん。自分の大切な彼女は、誰にも見せたくないってことかな」
春希「誰にもって、お前に見せているだろ。・・・・・・・・、まあ、
外に出したくないっていうのもあるかもな。
CDの方も、ヴォーカルの子以外、誰にも渡すなよ。コピーは厳禁だからな。
お前を信用して渡してるんだから、頼むな」
千晶「そこまで言われちゃ、春希の信用に応えないとね。
でも、ライブの時、DVDの映像もあったほうが盛り上がるんだけどなぁ」
春希「そりゃ今話題の冬馬かずさが出てきたら、盛り上がるさ。
でもさ、冬馬かずさという名前で聴いて欲しくないんだ。
冬馬かずさの演奏そのものを聴いて欲しいのかもな」
千晶「そっか。じゃあ、もし観客が冬馬かずさの演奏そのものが聴きたいっていったら
DVDの映像も流してもいいってこと?」
春希「そうなるかな。そんなこと無理だろうけどさ。もしできたのなら、
流してもいいよ。ま、仮定の話は置いておいて、ベースやドラムの方
なんとかしないか?」
千晶「え? いらないでしょ」
春希「ピアノとギターだけでやるつもりなのか?」
とんでもない提案に俺の声も大きくなってしまう。
だって、かずさのピアノはともかく、その相棒が俺のギターだけって、
釣り合いがとれないだろ。
千晶「そのつもり。というか、前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて
確信した。だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。
だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならないって。
ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえもいらないのかもしれないけど・・・・・・」
千晶の鋭すぎる指摘に、言葉を失う。
たしかに、かずさの演奏は他の音色を寄せ付けない。
かずさのピアノそのもので、完成された曲を形作っている。
でも、うぬぼれかもしれないけど、
仮にピアノの音色に申し訳程度に寄り添うことができる音色があるとしたら、
俺のギターだけかもしれないって、思ってしまった。
だって、かずさが俺を呼んでいる気がしたから。
俺の中に入り込んだかずさが、俺にギターを弾いてくれって呼びかかけていたから。
春希「千晶がそうしたいんなら、それでいいんじゃないか。
俺は雇われの身だし、それに、俺やヴォーカルがいなくても
ピアノだけでも観客を沸かせられる気もするしな」
千晶「そだね。圧倒的すぎるかも。下手なヴォーカル連れてきたら、
あっという間にのまれるね」
春希「なあ、ヴォーカルの子は、本当に大丈夫なのか?」
千晶「大丈夫だって。これ聴いたら、きっとうまくいくから」
春希「千晶が大丈夫っていうなら、信じるよ」
千晶「じゃあさ、カレーもう一杯おかわりしていい?」
元気いっぱいに空の皿を突きだす千晶に、俺は苦笑いを浮かべ、受け取るのであった。
本当に大丈夫なのか?
大丈夫だと思うんだけど、なんか心配になってしまうのが千晶の特性かもな。
俺は、もう一皿棚からとりだし、自分の分のカレーをよそって、
夜からの練習に備えることにした。
春希「そうだ。忘れるところだった。千晶に頼みがあったんだ」
千晶「ん?」
千晶は、カレーをパクつきながら俺を見つめてくる。
千晶「なぁに?」
春希「話す時くらい、食べるのはよせって」
千晶「だって、美味しいんだもの」
春希「すぐに終わるから、ちょっとくらいいいだろ」
千晶「春希がそこまで言うんなら」
千晶は、いやいやスプーンを置き、豪快にコップの水を飲み干す。
そして、水のお代わりとばかりに俺にコップを差し出す。
俺は、コップを受け取り、水を入れに行くついでに、自分の要件を千晶に伝える。
春希「ライブのチケットなんだけどさ、4枚手に入らないか?
どうしても欲しいんだけど、もう手に入らないらしくて」
千晶「お、サンキュ」
水のお代わりを受け取った千晶は、コップをテーブルに置くと、その代わりというべきか
スプーンを手に取る。
千晶「うん、4枚だったら大丈夫。それだけ?」
春希「それだけだけど」
千晶「じゃあ、もう食べてもいい?」
春希「いいよ・・・・・・・」
俺の要件、ちゃんと千晶の頭に入ってるのか?
カレーにしか興味がないんじゃないかって、心配にはなるけど、
俺が作ったカレーをこんなにも美味しそうに食べてくれるのは、なんかうれしかった。
とりあえず俺も、エネルギー補給といきますか。
もう半分以上食べ終わっている千晶を横目に、
俺も大きく口を開いて食べ始めるのであった。
春希 冬馬邸地下スタジオ 1/11 火曜日
今日から一人での練習なわけなのだが、カメラで見られていると思うと
指に力が入ってしまう。
たとえ曜子さんに見られていなくても、コンサートまでの時間もないわけで、
気合の入らない練習などする気は毛頭なかった。
しかし、妙に視線を感じてしまう。
カメラ慣れしていないということを差し引いても落ち着かない。
二時間ほど練習をしたころ、休憩がてらに水を飲む。
スタジオを見渡すと、かずさのことばかり思いだしてしまう。
この前は曜子さんと一緒だったし、感傷に浸る時間などはなかった。
スタジオに一人でいる今、誰も俺の追憶を邪魔する者などはいない。
ただ、かずさがいたころと同じものは、このスタジオ自体とピアノのみ。
もしかしたら、ピアノも別物かもしれないけど、かずさがいたという事実のみで
俺がかずさを思い出すには十分すぎるほどであった。
さて、そろそろ練習に戻ろうかと、ペットボトルをテーブルに置くと、
これもまた新しく設置されたパソコンが目に留まる。
そういえば、何か質問したいことがあれば、このパソコンを使ってメールしてほしいって
言ってたよな。今日が初日だし、挨拶もかねてメールしてみようかな。
まあ、あの曜子さんがどんなメールを送ってくるかの方が気になるんだけど。
もし、あの性格に似合わず、几帳面なメールが来たら、それはそれで貴重かもしれない。
案外、対外的な性格とは違い、内面は几帳面で計画性にすぐれているのかもと、
あれこれ夢想していると、すぐさま返事のメールが届く。
春希「え? 早すぎないか。ということは、今、リアルタイムで見ているってことか?」
俺は、おそるおそるカメラに目を向ける。じっとレンズを見つめると、
その向こうの曜子さんの瞳が俺を見つめている気がして恥ずかしい。
何をとち狂ったのか、俺は、カメラに向けて手を振ってみる。
やばい。練習を始めるときも緊張してたけど、しっかりと見られていると分かった今の方が
断然緊張している。なにやってるんだよ、俺。手なんか振っちゃって。
と、脳内でぼやいていると、再びメールの受信音が鳴り響く。
俺の肩がピクリとふるえる。カメラからの視線を気にしつつ、
パソコンのカーソルを最新のメールにあわせ、内容を表示させる。
曜子(カメラに手を振って、ふざけている暇があるんなら、とっとと練習しろ。
お前はいつまで休憩しているつもりだ)
春希「あっ」
勢いよく振りかえり、思わずカメラを見てしまう。じっとカメラを見ていると
また何かメールがきそうなので、すぐにパソコン画面に視線を戻す。
やっぱり見てるんだ。もう一度メールを読み返すが、怒ってるのか?
なにが几帳面なメールかもだよ。リアルの曜子さん以上に口が悪いじゃないか。
もしかしたら、面と向かって話す時は、目の前に相手がいる分セーブしているのかもな。
メールだと相手の顔が見えないし、曜子さんの本心がストレートに出てしまって・・・・・。
ゆっくりと休憩している暇なんてないか。とりあえず、最初に来たメールを確認して、
練習に戻ろう。
曜子(練習だというのに、なにを緊張してるんだ。今はあたしだけが見てるだけだけど、
本番ではたくさんの観客が見てるんだぞ。今のままでは先が思いやられるな。
でも、あたしはお前の敵じゃない。お前を見守っている味方なのだから、
緊張などせずに、胸を借りるつもりで練習に励むといい)
曜子さんは、最初から練習を見ていたのかもしれないな。
味方か・・・・・。そうだよな。せっかく練習を見てくれるって言ってくれたんだし、
駄目なところをばんばん指摘してもらう方がいいに決まってる。
変にかっこつけて、緊張なんかしてたら時間がもったいないし、曜子さんにも申し訳ない。
俺は、感謝のメールの代りに、ギターを手に取り、練習へと戻っていった。
春希 冬馬邸からの帰り道 1/12 水曜日 午前8時頃
練習が許された約束の午前8時よりも10分早い時刻に俺は冬馬邸の門を出る。
そろそろハウスキーパーさんがやってきて、掃除が開始されるかもしれない。
親切でスタジオを貸してもらっているんだ。掃除の邪魔などしたくはない。
本音を言えば、時間ぎりぎりまで練習していたかったけど、
曜子さんの信頼を裏切りたくはない。
俺は、自分が持ち込んだゴミだけはまとめて、冬馬邸をあとにした。
通勤通学の時間ともあって、人も多い。身が入りすぎた練習で体力を減らしまくった俺には
満員電車は少々こたえる。人と波に揺られること数分。自宅への最寄り駅に着いた俺は、
これから大学に向かうであろう生徒と共に電車を降りた。
ちょっと前までの俺だったら、大学をさぼってギターの練習したり、
バイトに行ったりなんかしてしなかったよなぁ。
俺の本質が変わったわけでもないし、要は優先順位が変わっただけ。
今は、ギターとバイト。これに全力を注ぎたい。
じゃあ、ギターとバイト。どっちの優先順位が高いのか?
・・・・・・・・・それは、答えを出すのが怖いので、考えないようにした。
俺は、大学へと向かう生徒たちの流れに身を任せて、自宅へと進んで行った。
そういえば、麻理さんの誕生日パーティーするって約束していたけれど、
正月に電話したまま、あれっきり何も計画立ててないな。
たしか、イチゴがのってるケーキだっけ。
麻理さんがNYに行く前に、しっかりとお祝いしたいな。
俺は立ち止まり、人の波に逆らう。
急に立ち止まったために、訝しげに俺を見つめて過ぎ去っていく人々を見送る。
どこか人の邪魔にならないところは・・・・・・。
それに、人に聞かれてしまうのも。
さすがに朝の通学時間ともあり、一人になれる場所などはない。
どこを見渡しても、大学生やら高校生がひしめいていた。
しょうがない。急いで家に戻るか。
そうすれば、始業前に麻理さんと電話できるかもしれないしな。
いくら始業前といっても、
麻理さんに始業前なんか存在しないきもするけど。
俺は、練習の疲れなど忘れ、軽い足取りで家へと急いだ。
麻理 春希マンション 1/15 土曜日 昼
綺麗に片づけられている部屋。こまめに掃除がされているのがよくわかる。
よくいえば清潔感が感じられるといえよう。しかし、悪く言えば物が少ない。
麻理が初めて春希の部屋を見た感想は、こんなものだ。
もちろん春希の部屋に初めてあげてもらったことへの感動や、
自分の部屋の汚さへの落胆、わずかながらも抱いてしまう下心も入り乱れてはいたが、
春希らしい部屋。自宅が住人の性格をよくあらわしているとよくいったものだと
感じずにはいられなかった。
麻理「綺麗にしているのね」
春希「物が少ないから掃除も楽ですよ。この部屋には、
寝に帰ってきているようなものですからね」
麻理「そう・・・・・・・」
私も自宅には寝に帰ってるようなものだけどね。
同じような生活環境で、こうまで部屋が違うとは、同じ人間とは思えない
と、自嘲気味に笑いをこぼしてしまう。
春希「これにコートかけてください」
麻理「ありがと」
麻理からコートを受け取った春希は、裾のしわを丁寧にのばしてから、
コートをかける。
細かい気配りが、この部屋の清潔感の維持に繋がってるのかもしれないか。
あまり部屋をじろじろと観察するのは失礼だとはわかっているが、好奇心には勝てない。
北原春希という人物を知りたい。ただその一点だけは、止めることができなかった。
本棚は、その人物の趣味をよくあらわしているというが、あいにく大学のテキストや
参考資料しかない。これはこれで北原らしいといえばらしすぎるのだが、
いささか拍子抜けで落胆を隠せない。すすっと横に目を走らせていってもテキストのみ。
ふとテキストがない空間が出現する。
そこには、写真立てと、その中におさまった写真が一枚鎮座していた。
好奇心に負けて、本棚なんか見なければよかった。
写真の中の北原は、麻理が見たこともない自信に溢れて、ちょっときざっぽくギターを
構えている。いや、一度だけ見たことがあったか。
峰城大付属高校から送られてきた学園祭のDVD。
その映像の中の北原も、この写真と同じように光り輝いていた。
今の自暴自棄に陥りやすい北原とはまったくの別人。
春希「麻理さん? ちょっと待っててくださいね。
今すぐ準備してしまいますから」
麻理「ああ、わかった」
急に現実に引き戻された麻理は、見てはいけないものを見てしまった気がして
後ろめたかった。
細かいところまで気にかける北原のことだから、見られて困るものではないか。
私にしっかりと、冬馬かずさが好きだって、宣言している。
だから、私が入り込む隙間などない。
今私が北原の隣にいるのは、リハビリ期間。
北原から自立する為に許されたほんのわずかな時間にすぎない。
テーブルの席に座ろうと部屋の奥に進むと、
バラの花束と綺麗にラッピングされた小さな箱が置かれている。
限られた小さな部屋といっても、バスルームに隠すとかぐらいはしてほしかったかも
しれない。
女心に疎いところさえ愛らしく感じられてしまうけれど、
バラの花束とプレゼントの小箱を渡してくれた時には、おもいっきり喜んでやるかな。
そう自分に誓いはしたが、すでに笑みがこぼれ出ていることに
麻理が気がつくことなどありはしなかった。
春希 春希マンション 1/15 土曜日 昼
春希「誕生日おめでとうございます」
麻理「ありがとう」
満面の笑みを浮かべる麻理さんをみて、ほっとする。
なにせ誕生日だ。
年齢を気にする麻理さんにとって、一才年が増えるのは
耐えがたいイベントだろう。
それでも、俺のエゴに付き合って誕生日を共に祝らせてくれているんだ。
精一杯のもてなしをしたい。
テーブルには、鳥の空揚げ、ポテトフライにサラダ。
春希としては頑張ったといえるパエリアが並んでいる。
ある意味ファミレスの食卓。子供が大好きなメニューが並べられていた。
麻理さんをレストランに連れて行くとなると、これと同じメニューが
ならべられている店へは連れて行けやしない。
もし行くとしたら、もっと落ち着いていて、大人っぽい雰囲気の店を選びたい。
だけど、俺の料理スキルと相談すれば、テーブルの上に鎮座するメニューが限度。
これ以上手の込んだ食事となると、
店で買って来たものを温め直すことしかできやしない。
自分が料理して、麻理さんに食べて貰いたいという、俺のエゴを貫いたせいで
麻理さんにはがっかりさせてしまうかもと杞憂していたけど、
どうにか喜んでもらえて心底うれしかった。
麻理「このローソクを消せばいいの?」
春希「はい」
テーブルの真ん中におさまっているのは、イチゴがのった誕生日ケーキ。
麻理さんからのリクエストにこたえたケーキではあるが、
ろうそくの数には頭を悩ませた。
やはりろうそくの火を消すイベントは避けられないし、ろうそくの数を減らすのも
わざとらしくて使えない。
ならばと、苦肉の策を打ち出した結果が目の前にある。
ケーキの上には、ろうそくが一本。小さな火を灯して揺らめいていた。
麻理「一応聞くけど、何故一本なんだ?」
春希「俺と麻理さんが二人で祝った最初の第一回目の誕生日って意味です。
だから、来年は二本になる予定ですよ。
ほら、麻理さんの誕生日って元日ですし、どんなに忙しくても休みとれるじゃ
ないですか。もちろん毎年恒例の佐和子さんとの旅行へ行かれるのでしたら
別の日になりますけど」
麻理「佐和子との旅行なんていつだっていいのだけれど、
来年も祝ってくれるの?」
春希「ええ。麻理さんが嫌でなければ」
麻理「そうか。なら、お願いしようかな」
遠慮がちにほほ笑む麻理さんに、心が痛む。
麻理さんもわかっているのだろう。いつまでも一緒になどいられないって。
俺は、かずさを選んだのだから。
麻理「ろうそくの火を消すわね」
ろうそくに顔を寄せ、ふっと息を吹きかける。
ちょっと照れくさそうに笑みを洩らす麻理さんは、
いつもの俺にだけに見せる麻理さんに戻っていた。
そうだな。いつまでも続くかわからないとしても、今を精いっぱい楽しまないとな。
春希「誕生日おめでとうございます。これプレゼントです」
すでに目にとまって知っていただろうけど、
バラの花束と小さな箱におさまったプレゼントに麻理さんは喜びをみせる。
バラの花束なんて、ちょっときざすぎるけれど、こういう特別の日くらいはいいだろう。
花屋で買う時、すっごく恥ずかしかった。普段の俺の行動範囲を明らかに超えている。
それも麻理さんの誕生日という日が俺の心をマヒさせてくれていた。
麻理「開けてもいい?」
バラの香りを一通り堪能した麻理さんは、もうひとつのプレゼントに興味を移す。
バラの花束とは違い、いくらプレゼントの存在がわかってはいても
ラッピングの中身までは、見ることはできない。
ただ、過剰な期待だけはしてもらっては困るけれど、その辺は学生の
懐事情を察してくれると助かります。
麻理さんは、丁寧にラッピングを剥がしていくと、むき出しになった箱のふたを開ける。
中からは一本の赤いボールペン。
Waterman カレン。ずっしりと重さを感じる書き心地がなめらかなボールペン。
色々となにをプレゼントしようかと迷ったのだけれど、貴金属類は意味深すぎて
手が出せない。ならば、日常使えるものはと考えてみたが、一向に決まらず、
最後の最後にようやく以前麻理さんがボールペンをなくしたエピソードを思い出し、
プレゼントはボールペンと決まった。
なくしたボールペンは、見つかりはしなかった。
そもそもコンビニで買った安物のボールペンだから、愛着もないし、
くまなく探して時間を消費するくらいならば、新しいボールペンを買ったほうが
麻理さんらしい。
麻理「ありがとう」
そっと箱から取り出したボールペンを指で撫でる。
愛おしそうに見つめる姿を見たら、選んだかいもあったといえる。
貴金属に及ばないけれど、普段見につけるボールペンとなると、それはそれで
意味を持ちそうだ。その辺は深く考えないようにしていた。
春希「気にいってくれるといいのですが」
麻理「ちょっと試し書きしてもいい?」
春希「なら、この紙使ってください」
差し出したコピー用紙になにやら書き込んでいく。なんて書いているのかなって
気になって覗き込むと、さっとコピー用紙を隠されてしまった。
麻理「見るな。・・・・・・・照れくさいだろ」
春希「試し書きなんですし、アルファベットでも、今日の日付でもいいじゃないですか」
麻理「そ・・・そうなんだけど、ぱっと思いついたのを書いてしまって」
頬を朱に染める麻理さんは、紙を背に隠すと、ボールペンをケースに戻す。
麻理「手になじんで書きやすいわね。大事にするわ」
春希「ちょっと重いから、好みが分かれそうなのが気がかりだったのですが、
気にいってくれてよかったです」
麻理「ほんとうに女心には疎いわね。仮に手になじまないボールペンだとしても、
手になじむまで書き続けるに決まってるじゃないか。
北原からプレゼントされたんだぞ」
下を向き、小さくつぶやく麻理さんの声は聞きとりにくい。
ぱっと上を向いたその顔は、はにかんでいたのだから、
全ては聞きとれなかったけど、きっと悪い内容ではないはず。
だから、俺はもう一度聞きなおすことなどしはしなかった。
俺の意識は、俺の手に握られているチケットに向けられてもいたから。
春希「これは誕生日プレゼントというわけではないのですが、
コンサートのチケットです」
俺が差し出すチケットを笑顔のまま受け取る。
その笑顔からは何を思っているかは読みとれない。
麻理「この前言っていたヴァレンタインのコンサートね。
ちゃんとスケジュール調整したから大丈夫よ」
きっと思うところもあるだろうけど、全てを押しこむように鞄にしまい込む。
チケットと一緒にボールペンと試し書きをした紙も鞄にしまったのだが、
運よく?なにが書かれていたか読みとれた。
別に隠すような内容は一切書かれてはいない。
ちらっととしか見えなかったので、もしかしたら他にも書かれていたかもしれないが
俺が見えたのは、人の名前だけ。
「北原」と「麻理」。
ただ俺達二人の名前が書かれていたのに、どうして恥ずかしがる必要があったのか
首を傾げるしかなかった。
春希 冬馬邸 1/25 火曜日
春希「よっと」
休憩がてらに夜食をと冷蔵庫を漁る。
曜子さんからは勝手に食べてもいいと言われてはいるが、勝手に人の家の冷蔵庫を
漁ることに抵抗がないといえば嘘になる。
しかし、そういった性格を先読みしてくれているのか、夜食用の食事が
あらかじめ用意されていたのは嬉しいかった。
かずさは、どこまで曜子さんに俺のことを話しているのだろうか。
この合宿も、俺が気持ちよく練習を打ちこめるようにと、
細かい心づかいがなされていた。
俺のことをよく観察して、長い間俺のことを見続けている人間にしかできやしない。
春希「今日もありがとうございます」
おそらくハウスキーパーさんが作ってくれた料理であるから、仕事のうちなのだろう。
しかし、そうであってもわざわざ曜子さんが指示をして夜食を用意してくれたことには
感謝せねばなるまい。
そこで、心ばかりのお礼として、サンドウィッチを持参してきていた。
最近バイトに行く時は必ずといっていいほど、麻理さんへの差し入れ弁当を作っている。
そのかいもあって、自分で言うのもなんだが、少しは料理の腕も上がってきた気もする。
今回作ってきたサンドウィッチは、渋谷の某デパート前のパン屋のパクリ。
ちょっと小ぶりのフランスパンに、具材を挟み込むだけのいたって平凡なものなのだが、
具材とパンの堅さが病みつきになる。
小ぶりのフランスパンなのだが、製法や大きさによって名前が違うみたいだが
ここでは割愛しよう。なにせ料理初心者。見よう見まねで作っているわけで、
具材の秘密の方に意識を集中したほうが建設的だといえる。
そして、今回どうにか味は全く違うけれど、自分としては美味しい物を
作り上げられたので、お礼としてもってきたわけだ。
あとで冷蔵庫に感謝の品を入れておきましたとメールすればOKかな。
さてと、急いで夜食を食べるか。
なぜか休憩に入り、スタジオに戻ってくるとお怒りのメールがくる。
トイレ休憩くらいの短い時間ならば大丈夫だけれど、夜食タイムとなると
必ずといっていいほどお叱りのメールが来る。
ここまで見てくれているのなら、一緒にスタジオに入ればいいのにって思うこともある。
俺の下手なギターをずっと聴きながら自分の仕事をするのは
苦痛なのかもしれないのかもな。
なにせ、いつもだれもが聴きほれるほどの演奏を耳にしているわけだ。
そこに、半日近くも調子っぱずれの雑音を耳にしては、仕事もはかどらないだろう。
スタジオに戻ると、今回も例にもれずにお小言メールが到着していた。
曜子「いつまで休憩している。お腹が減ったとしても、
お腹が減ったことを忘れるくらい演奏に集中しろ。
お前がお腹が減ったと感じたってことは、
それだけギターに集中できていないってことの証だ」
とまあ、もっともな事を仰るから反論もできない。
俺はパソコンに向かい合い、
さっそく感謝の品を冷蔵庫に入れておいたことをメールする。
すると、いつもだったら即座に返事が来るはずであるのに、返事のメールがこない。
しばらく待ってみたものの、返事が来ないので、スタジオにいたとしても
あまり休憩を長くしていると再びおきついメールがきそうなので、練習に戻ろうとする。
しかし、電子音が鳴り、メールが来た事が表示される。
立ちかけた腰を再び椅子に戻し、急ぎメールを表示させた。
曜子「冷蔵庫に入ってるの?」
たったそれだけであった。ちょっと意外な質問ではあるが、質問が来たのならば
返送せねば失礼にあたる。
春希「冷蔵庫に入れてあります。
弁当箱の方は使い捨てですし、捨ててくれて構いません」
とメールする。すると、さらに短いメールが即座に届く。
曜子「ありがとう」
俺は、カメラの角度を確認すると、カメラに隠れるようにそっと笑みを浮かべる。
どうにか喜んでくれるみたいだ。でも、まだ食べていないし、油断はできないか。
俺は、奥歯を噛み締め、笑みもかみ殺す。
さて、そろそも本当に練習しないとな。
俺は、カメラ中央の席に戻り、邪念を叩きだすように練習を再開させた。
かずさ 冬馬邸 1/25 火曜日
春希からのお弁当。どうしたものか。
今すぐ食べたいけど、春希にばれないか?
今は練習に集中しているし、一度練習に入ってしまえば、しばらくスタジオから
出てくることもない。
しかも、さっき夜食を食べに行ったし、トイレに行くこともないか。
だったら、多少物音がしても防音処理をしているスタジオならば気がつかないだろうな。
よしっ。行くか。
自分の欲求を抑えきれない。なにせ同じ家に何日もいるというのに、
直接会うことができない。毎日カメラ越しで様子を伺っているけど、
本心では、今すぐ春希の胸に飛び込みたかった。
でも、自分で決めたことだし、コンクールが終わるまでは我慢だ。
きっと春希が変われたように、あたしも変わってみせる。
だから、今だけは冷蔵庫に向かってもいいよな。
もし春希に見つかったときは、そのとき考えればいい。
むしろ、偶然のハプニングを望んでしまいそうだけど、まあ、あれだ。
偶然なら仕方ないよな。
あと、冷蔵庫からサンドウィッチがなくなっていることを春希が気がついたとしても、
その時は、春希が練習に集中していて、
母さんがいったん家に来たことに気がつかなかっただけ
とでもメールしておけばいいか。
細かいところにまで意識してしまって、
あたしのことに気がついてしまうかもしれないけど、
それもまた、偶然のハプニングだ。仕方ないよな。
あたしは獲物を確保すべく、閉ざされていた扉を開ける。
そっと聞き耳を立てるが何も物音はしない。もう一度モニターで春希の様子を確認するが
練習に集中している。さ、行くか・・・・・・。
行ってしまうと、拍子抜けなほどあっけなかった。
部屋に戻ってくると、心臓の鼓動が落ち着かない。まだ早鐘のごとく鳴り響いていた。
目の前には春希が作ってくれたお弁当が鎮座している。
おそるおそる手を伸ばすが、あと数センチのところで手が止まる。
本当に今食べて大丈夫か? やっぱり冷蔵庫に戻してきて、
春希が帰ってから食べたほうがいいんじゃないか。
でも、もう目の前にあるわけだし、いまさら戻したところで・・・・・・。
しばし目の前の欲望と葛藤する。じりじりと重い手をお弁当箱に伸ばし、
欲求が自制に勝ち始める。ぴたりとお弁当箱に人差し指と中指が触れると
欲望は抑え込むことができなくなる。
蓋を開けると、メールの通り、サンドウィッチが入っている。
食パンではなく、フランスパンか。
この大きさだとフィセルかな。生意気な。春希にしては、こじゃれたものを。
目の前のご馳走に笑みを隠せない。春希がこの家にいなければ、気が抜けて
よだれさえこぼしていたかもしれない。
もちろん口内には、食欲がそそられて、唾液が充満していたが。
とりあえず、このまま食べたとしても喉が渇きそうだし、飲み物を用意しないとな。
マックスコーヒーを一度手に取るが、元に戻す。
せっかく春希が作ってきてくれたお弁当を、別の味で上書きなんかしたくはない。
そこで隣にある炭酸水を手に取り、席に戻る。
さて、準備は整った。食べるか。
かずさ「はぁぁ・・・・・・」
艶めかしい吐息が漏れる。この3年間で最高の時間だったと断言できる。
十分すぎる喜びが体を走り廻るのと同時に、新たな欲求が沸き出てしまう。
空になってしまったお弁当箱を睨みつけるが
食べてしまったものが元に戻ることはない。
かずさ「はぁぁぁ・・・・・・・」
もう一度春希以外には聞かせられない妖艶すぎる吐息を深く吐く。
至福な時間は、あっという間に終わる。時計の針を見ると、さほど進んではいない。
もったいなすぎて、あれほどゆっくりと食べようと心掛けたのに、
自分が食べるペースにブレーキをかける威力はなかった。
物足りない。一度叶えてしまった願望は肥大して、さらなる欲求を求めだす。
駄目だ。決めたんだ。自分が春希の隣に立てるだけの自信と実績をつくるまでは
会わないって決めたんだ。
このお弁当の味を糧に、あたしは成功してみせる。
だから、春希。待っていてくれ。
でも、お礼のメールくらいは出すのが人の礼儀だよな。
おもむろにパソコンに向かい合い、メールを出そうとするが、送信ボタンを押す寸前に
指を止める。さすがに今メールを出すのはまずい。
今は家にいないことになっているのだから。
明日の9時頃ならいいかな。それまでは、送信しないでおこう。
メールには、こう書かれていた。
曜子「心がこもったお弁当ありがとう。とても美味しかったし、
とても料理がうまくなっていて、びっくりした。
他にもどんな料理ができるか、気になるところかな」
最後の一文は、付けるか付けないかで一時間以上考え続けてたが、結局は入れることにした。
結果としてはそれは成功だった。なにせ、その戦利品として、
翌日からは差し入れのお弁当が冷蔵庫に入れられるようになる。
ただし、今回みたいに春希がいる間に取りに行くことは諦めた。
これ以上自分の欲を求めても、きっといいことはない。
だったら、今の現状に我慢して、十二分にそれを満喫すできである。
それに、冷蔵庫にご馳走があるのに何時間も「待て」を指示されるわけだ。
忍耐を鍛えるには十分すぎるお預けであった。
春希 大学 2/6 日曜日 昼
ヴァレンタインコンサートまで、あと一週間と迫った日曜日。
大学の定期試験もあと数日で終わる。
それなのに、俺ときたら、これから初のヴォーカルとの顔合わせを予定していた。
千晶がようやく会わせてくれると連絡が来たのが今日の朝。
俺の方のギターの腕も心配ではあったが、ヴォーカルの方も気がかりではあった。
今心配がないものといえば、かずさのピアノしかない。
しかも録音だから、風邪をひく心配もないだろう。
静まり返ったサークル棟を歩み進める。さすがにのんきなサークル活動に情熱を
注ぎ込んでいる連中であっても、試験期間ともあって、誰もいない。
今いるのは、試験そっちのけでギターに情熱を燃やす俺と
試験にはどうにか顔を見せている千晶。それにヴォーカルの子くらいだろう。
目の前には、プレートに劇団ウァトス書かれた扉がある。
千晶が指定した部屋はここであってるはずだった。
千晶とこの劇団との関係は知らされてはいないけど、今日この部屋を使う許可は
おりていることだけは確認済み。
詳しいことは、これから会うヴォーカルの子についてと一緒に聞けばいいか。
それとも、ヴォーカルの子がこの劇団に所属しているのだろうか?
ともかく部屋に入ればわかるか。
俺はやや強めにドアをノックし、千晶の返事を待った。
千晶「さすが春希。約束の時間のちょうど10分前。
約束の時間を10分遅く教えておいてもよかったね」
扉の中から顔を出した千晶は、とんでもない挨拶とともに現れる。
春希「お前は俺を信頼しすぎ。もし俺が時間に遅れてきたらどうするんだよ」
千晶「そのときは、そのときでしょ。私が10分待てばいいだけじゃない」
春希「そういうことをいいたんじゃなくてだな」
千晶「今日はお説教はなしね。早く歌とギターをあわせたいし」
春希「時間も限られてるしな。って、ヴォーカルは、まだ来ていないのか?」
狭い部屋を見渡しても、千晶一人しかいない。
千晶は、にひひっと意地悪そうな笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。
なにがそんなにおかしいのかわからないけど、早くあわせたいっていったのは
お前の方じゃないのか。
千晶「目の前にいるでしょ」
春希「目の前って・・・・・」
千晶が指差し、俺が指差した先には、千晶一人しかいない。
つまり、そういうことなんだろう。
俺に会わせたいヴォーカルとは、和泉千晶その人だったわけだ。
千晶「そっ。私が歌うの」
春希「あぁ・・・・・そうか。なんか、すべて納得できたというか」
千晶が話を持って来た時から胡散臭いとは思ってはいたけど、
千晶が全て仕組んでいたのかもしれない。
春希「全部話してくれないか? ここの劇団についても全部」
俺が千晶の瞳を覗き込むと、ついっと視線をそらし、パイプ椅子を勧めてくる。
俺に座れってことか。俺が荷物を置いて、椅子に腰をかけると、目の前の席には
千晶が座る。そして、テーブルに筋を突いて、じっと俺を見つめてくる。
千晶「全て話しても大丈夫?」
春希「大丈夫って? 話を聞いてみたいとわからないだろ」
千晶「そうなんだけどぉ・・・・、まっ、いっか」
春希「なんだよ」
ネコのようにコロコロ表情が変わるやつ。とらえどころがないってわかっていたけど、
今目の前にいる千晶ほどわからない存在は出会ったことがなかった。
踏み込めば、ただではいられない。なぜかそう確信できる。
漠然とした感覚を、明確なビジョンにするためにも、今踏み込むべきなのだろう。
千晶「なにから話せばいいのかなぁ・・・・・・・」
春希「全部聞いてやるから、話しやすいところから話せよ。
わからないとことがあったら、そのつど俺が質問していくから」
千晶「OK、OK、じゃあ始めるね。
まずは出身高校だけど、春希に教えたのは嘘」
春希「は? いきなりとんでもない告白だな」
千晶「一応春希と同じく、峰城大付属高校出身なんだけど、
春希は私の事知らないみたいだよね」
春希「一学年でもそれなりに人数いるし、全部が全部知ってるわけでもないからな」
千晶「そこんところは別にいいよ。ただ、学園祭のとき、
私もそれなりに注目されてたんだけどね」
春希「それはすまん! ライブ当日の朝まで練習だったし、
学園祭当日もバタバタしてた」
俺が悪いことをしているわけではないが、なぜが手を合わせて誤ってしまう。
千晶の方も全く気にしていなく、むしろ、事実をたんたんと述べていってる感じさえする。
千晶「私は演劇部で主演やってて、自分でいうのもなんだけど、高評価だったと思う。
それでも春希達のライブに観客の興奮を全部もっていかれたけどさ」
春希「へぇ、千晶が出てた劇か。見てみたかったな」
千晶「演劇はこれからも続けるし、そのうち見る機会もあると思うよ。
春希がみたいと思うなら」
春希「今度やるときは教えてくれよ。見に行くからさ」
千晶「それはありがたいんだけど、今度の公演延期になっちゃって、当分は白紙かな」
春希「え? どうして?」
千晶「まあ、さ・・・・・・・。それをこれから話すんだけどね」
思いつめるように俺を見つめる千晶の瞳には、さまざまな感情が入り乱れていた。
千晶「はぁ・・・・・・、たぶん怒られるんだろうなぁ」
深くて軽いため息を吐くと、いつもの千晶がそこにはいた。
体を机に投げ出し、ぐたーっと這いつくばる。くるっと顔だけ上をあげ、
俺を見つめる瞳には、悪戯がばれた子供そのものだった。
ほんと、お前じゃなくて、俺の方がため息を突きたくなるよ。
千晶「春希達がやったライブからヒントを得てさ、そこから脚本書いたんだ。
でもさぁ、肝心なところでわからなくなっちゃって、
もう、どうしたらいいんだってところよ。
座長なんか泣きながら公演延期の手続き始めちゃったけど、
まあ、それは仕方ないよね。座長の仕事だし」
軽く言ってのけるけど、脚本を書く労力と時間は、相当なもののはず。
俺も作詞経験がある。書きたいイメージがあっても、それを形にするのは難しい。
たとえ自分がイメージした内容を形にできたとしても、それを100%相手が
理解することなどありえない。俺は、そこまでのレベルを目指したわけでもないし、
目指すほどの実力も経験もなかった。それでも、大変だった記憶が残っている。
もちろん俺の作詞と千晶の脚本を比べるだなんて
おこがましい。なにせ大学の劇団で採用されるわけだし。
千晶の知られざる才能に関心してしまった。
もしかして、大学の授業がさぼりがちなのって、劇団のほうが忙しいからか?
春希「座長さんも災難だな」
千晶「別に同情しなくたっていいって。こういう後始末をする為に存在してるんだから。
でね、座長の話はもうよくて、脚本煮詰まっちゃって困ったなぁって思ってたら
ヴァレンタインライブの話が出てさ。これだって思ったわけ。
春希と小木曽雪菜・・さん、は、峰城大にいるでしょ。
でも小木曽・・さんは、ちょっと駄目かなって思ったから、
春希にオファーを出したんだ」
これで全部か? 全て話して晴れ晴れしたって顔してるけど、
これくらいだったら別に怒るようなこともない。
春希「そんな事情があったのなら、最初から全部話してくれればよかったのに」
千晶「ほんと?」
がばっと起き上がり、元気一杯の笑顔を見せる。
目がらんらんと輝き、なにかよからぬことを考えていそう・・・・・だが。
なんか俺、まずいこと言ったかも。
今度は俺の方が机に突っ伏しそうだ。
春希「俺の方に時間があったらだけどな」
千晶「でも、今もギターの練習してくれてるんだし、きっとやってくれていたはずだよ。
それが春希だし」
春希「どうだかな」
あまりに信用されすぎて、なんだかこそばゆい。
思わず視線を外しそうになったが、千晶がにたぁっていたずらネコっぽい笑みを
浮かべるものだから、意地になって目を背けるのをやめてしまった。
千晶「それでも春希なら、きっとしてくれたよ」
今度はしおらしく言葉を発する千晶に、俺の方が追い付いていけない。
どれも千晶なんだろうけど、こんなに感情が豊かだったのか?
千晶「ヴァレンタインコンサートはさ、初心に帰ってみようって思ったんだ。
やっぱ一番最初の学園祭ライブの感動をもう一度生で味わえば
なにか掴めるはずだし」
春希「ふぅ~ん、・・・・・そっか。だったら、俺に何ができるかわからないけど
協力させてもらうよ。こっちもこっちで事情があるし、お互い様ってことで」
千晶「そう? そういってくれると助かる」
春希「じゃあ、時間も残り少ないし、練習しようか。
俺はまだ千晶の歌、聞いたことないしな」
千晶「大丈夫だって。だいぶいい感じに仕上げられてきたから。
ほんと冬馬かずさ様様だよ」
春希「かずさが?」
千晶「この前見せてくれた演奏で、びびっときちゃった感じ。
もう電流が流れる感じで頭ん中に感情が流れ込んできて、
あの時本当はパニックになりそうだったんだから。
ほんと、まじやばすぎるでしょ、あの子・・・・・・・・。
どれだけ春希を独占したがってるんだって。
あんなの聞いちゃった他の女なんか、泣き崩れちゃうんじゃないの。
ううん。私がもう少し春希に本気出してたら、廃人になってたかも」
千晶は自分に言い聞かせるように話すものだから、半分以上は聞きとれなかった。
しかも、千晶の真剣な顔つきが、俺に聞きかえすことをためらわす。
これが芸術家ってやつなのかもな。いったんスイッチ入ってしまうと
周りが見えなくなるっていうか。
千晶「さてと、私の美声を聴いて驚くなよ」
春希「はい、はい。俺のギターはもう少しだから、お手柔らかに頼むな」
すっと立ち上がり、千晶が息を整える。
狭い室内の空気を震わせ、俺に感動を直接叩きこむ。
手が届く距離にいる千晶からは、全ての息遣いが読みとれる。
激しくもあり、切なくもある歌声に、雪菜とは違った衝撃が駆け巡った。
それは、聴いたことはないはずなのに、懐かしくもあり、温かいぬくもり。
俺が長年求めていた何かが、そこにはある気がした。
春希 ヴァレンタインコンサート 2/14 月曜日
暗闇から現れた彼女に、俺は心を奪われる。
ステージ中央のマイクスタンドの前にいる長い黒髪の女性は、
艶やかな髪をなびかせ振りかえる。
肩にかかった黒髪を軽く払いのけて、少し心配そうに俺を見つめた。
懐かしい峰城大付属高校の制服。首元には、リボンではなく男子生徒のネクタイ。
きりっと俺を睨みつける瞳に、おもわず吸いこまれそうになる。
ふらっと足が彼女の元へと歩み出しそうになるが、天井から降り注ぐスポットライトが
ステージの上だと認識させ、俺を思いとどめた。
なんで、かずさが?
まばゆい光の中にいる彼女を見つめ続けると、ようやく目の焦点があってくる。
かずさ?・・・・・ではなく、千晶か?
暗闇から突然スポットライトの強烈な光のせいで視界がぼやけていたが、
はっきりと見ることができるようになった今なら、千晶であると断言できる。
あれはカツラか。衣装はステージの上まで内緒だっていってたけど、
とんだサプライズを用意してくれたものだ。
それと、かずさの真似をしているのなら、そのにやけっつらはやめろ。
俺の中のかずさのイメージに傷がつくだろ。
俺に想像通りのサプライズがおみまいできて喜んでいるようだけど、
歌がメインだからな。
俺が睨みつけると、千晶は顔をひきしめて、軽くうなずく。
客席と向き合った千晶は、後ろからでもわかるくらい安心感が感じられた。
観客席からの話声が聞こえなくなる。
会場内が静まり返ったタイミングですかさずピアノの演奏がスタートされた。
俺は、かずさの演奏に遅れまいとリズムに合わせる。
きっとうまくいく。だって、俺以上にギターがうまい奴は山ほどいる。
しかし、この曲に限っては、誰よりもかずさの演奏に合わせられるって胸を張って言える。
だって、かずさが俺を導いてくれるから。
ピアノの音色にギターの音色が混ざり合う。
そして、千晶の歌声が合わさり、俺達の演奏が完成する。
それは、俺が思い描いた『届かない恋』ではない。
だって、俺の想いを届けたい相手が歌ってるのだから。
かずさに俺の恋心を届けたいのに、なんでかずさ本人が歌ってるんだ?
千晶らしいいたずらに、俺も最初聴いたときはしっくりこなかった。
もちろんかずさが『届かない恋』を歌っているところなんて、一度も聴いたことはない。
だけれど、千晶の歌声を聴いた瞬間に、かずさだってわかってしまった。
俺は、その時やっと千晶が怒られるのを覚悟して、全てを話そうとした意味を察した。
でも、千晶のやつ、全部話すとか言っておきながら、一番肝心なところを話してないよな。
たぶん、お前が作ってる脚本って、俺達のこと題材に書いてるんじゃないか?
直接聞きだしてはないけれど、きっとそうだって思ってしまう。
だって、こんなにもかずさに近い千晶がそこに出来上がっているのだから。
しかし、残念だけど、千晶は千晶だと思うぞ。
いくらまねようとしても、かずさにはなれない。
かずさはかずさだからって、言ってしまえばそれまでだけど、
それだけじゃないんだ。
かずさは、きっと届かない恋に気が付きやしない。
自分に好意が向けられているだなんて思いもしないんだよ。
だけど・・・・・・・・、
届かないんだったら、直接届けにいくしかないよな。
な、そうだろ千晶。
いつまでも立ち止まってなんかいられない。
時間は有限なんだから。
だから、俺は行くよ。
前に進むって決めたんだ。
千晶、ありがとう。
ピアノの最後の音色が響き渡る。
音色の余韻が消え去っても、観客の熱気は冷めやまない。
それは、舞台にいる俺達二人も同じで、息を乱していても興奮は静まらない。
千晶が観客に向かって大きく手を振ると、静かだった観客席が一気に騒ぎだす。
ひとつひとつの言葉は聞きとれはしないが、おおむね良好な反応のようだ。
それはそうだよな。俺のギターはともかく、かずさのピアノと
千晶の歌声は十分すぎるほどの合格点だろうし。
むしろ、かずさと千晶だけでもよかった気もする。
千晶が一通り観客への挨拶を終えると、舞台袖に向かって何か合図を送る。
すると照明が落ち、ホールは闇に包まれる。
俺はこんな演出聞いてないぞ。アンコールはあるかもって思いはしてたけれど
これから何が起きるんだ?
突然観客席が沸きたつ。光が俺の後ろに浮かび上がる。
俺は光の方へ振りかえると、そこには、スクリーンに映し出されたかずさがいた。
これは、千晶にも見せたかずさの映像。
あの時は、純粋にかずさの演奏だけを観客に聴いてもらいたくて
映像はNGにした。
だけど、条件付きでOKもだしている。
それは、観客がかずさの演奏そのものが聴きたいって思えたら映像を出していいって。
ま、千晶にしてやられたな。
最初の演奏はかずさの映像なしで、純粋にかずさのピアノだけで観客を盛り上げて
感動を植え付けたんだから。
でも、勝手にDVDを持ち出したことは、あとで説教だ。
千晶がカレーを食べているときに、ちょっと寝てしまった。
きっとその時にこっそりコピーされてたな。
それと、DVDとCDは確実に回収して、コピーがあるんならそれも回収だ。
悪いけど千晶。俺も独占欲が強いんでね。
正面を振りかえり、ピアノに合わせて演奏を始める。
俺の方にもお情け程度に照明があたる。
最初の演奏の時よりは弱い光だけれど、しょうがないか。
だって、主役はかずさなんだから。
それにしても千晶のやつ・・・・・・・と、千晶がいるはずの
舞台中央を見ると、マイクスタンドごと消え去っている。
俺は、初めて千晶にDVDを見せた時のことを思い出してしまった。
千晶「前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて確信した。
だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。
だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならない。
ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえいらないかもしれない・・・・・・」
まさしく有言実行だな。自分の想い描いたことを真っ直ぐと実行するところが
お前らしくて、羨ましくもある。
観客も喜んでいるみたいだし、いっか。
俺は脇役らしく、かずさのエスコートをやらせてもらいますよ。
俺は、かずさの音色に身を任せ、誰よりもかずさの音色に酔いしれていった。
たくさんの観客がいるはずなのに、みんなが俺達の曲を聴いているはずなのに
俺には観客なんて見えやしない。
俺の目に映っているのはかずさだけ。
もちろんスクリーンに背を向けているから、スクリーン上のかずさを見てるわけでもない。
だけど、俺にはかずさが見えている。
かずさならきっと小生意気な態度で呆れた目をして俺を見つめてくる。
だけれど、誰よりも信頼できるパートナー。一生隣を歩いていくって誓った生涯の伴侶。
今は会うことができないけれど、きっと俺達は再会できる。
だって、こんなにも息があった演奏ができるんだぜ。
きっとかずさは、まだまだ練習が足りないって文句を言ってくるんだろうけど、
いいよ、何時間でも、何日でも、何年だろうと、かずさが納得するまで
一緒に練習してやるよ。
だって、俺達の未来には、一緒に過ごしていく時間が待ってるんだからさ。
コンサートの熱気が冷めやまぬ中、俺は観客席の間を突き進む。
皆かずさの音色に心を奪われ、俺のことなど眼中にない。
それも当然だ。なにせ初めて曜子さんにDVDを見せられた時から感じていたことだ。
ときたま友人たちが手を振ったり、声をかけてくる程度で、かずさのオマケの俺など
誰も見向きなどしない。
そんな中、俺に熱い視線を向けている瞳を見つける。それは、必然であり、
舞台の上からもひしひしと感じていた視線である。
彼女の隣には、武也と依緒がわきを固めていた。
再会した時に何を言おうか何度も考えていたのに、その全てのセリフが手のひらから
こぼれ落ちる。何も言わず、何もしない俺に、雪菜は笑顔を曇らす。
唇を軽く噛み締め、悲しそうに手を振る。
俺は、雪菜と友達になる為に武也に雪菜を連れてきてもらった。
それなのに、泣かせてどうする。
なにやってんだよ、俺。
せっかくさっきまでは少しはかっこよくきめていたのに、ステージから降りた瞬間に
駄目男に逆戻りか?
違うだろ!
春希「雪菜!」
俺は、両手で大きく手を振る。力いっぱい、俺の気持ちが届くように。
俺の必死すぎる行動に、雪菜は驚き、笑みを取り戻す。
やっぱり、雪菜には笑顔が似合う。下を向いている雪菜なんて、似合わない。
春希「また明日、大学でな」
会場は、人で溢れ、俺の声が雪菜に届いているかなんて、わからない。
隣にいる奴の声ですら、うすぼやけて、聞き取れないほどだった。
だけれど、俺には雪菜の返事が聞こえる。
きっと雪菜なら、こういったはずだってわかるから。
俺は、雪菜が小さく手を振るのを確認すると、俺を待っている彼女の元へと急いだ。
何度も雪菜の返事をかみしめながら。
会場の外は既に暗く、会場内の熱気も及ばない。
舞台で沸騰した体も北風を浴びるたびに体温を奪い去っていく。
会場から少し離れた街灯の下に、柔らかな光を浴びる麻理さんを発見する。
わずかしか離れていない距離であっても、すぐさまゼロにすべく駆け始める。
俺が駆け寄ってくるのに気がつく麻理さんは、頬笑みと共に俺を迎え入れた。
春希「お待たせしました」
麻理「走らなくても、よかったのに」
春希「会場の出入り口からですから、ほんのちょっとですよ」
麻理「そんなわずかな距離でさえも走ったっていうことは、
そんなに早く私に会いたかったってことか?」
冗談でも、照れ隠しでもない。素の風岡麻理がそこにはいた。
だから、俺は、正直に答えなければならない。
それが、俺を大切にしてくれている麻理さんへの精一杯のお返しだから。
春希「はい。早く会いたかったです」
麻理「そうか」
俺を見つめる瞳には、陰りはなかった。
春希「俺は、諦めませんから。麻理さんと、上司と部下の関係だけではなく、
それ以上の関係、築いてみせますから」
麻理「うん・・・・」
春希「俺は、かずさを愛しています。でも、俺の身勝手かもしれないけど、
麻理さんとは・・・・・、麻理さんとは、
生涯付き合っていけるパートナーになりたいです。
麻理さんの隣で肩を並べられる、誰よりも信頼してもらえるパートナーに」
麻理「身勝手なやつだな」
春希「すみません」
麻理「いいわ」
春希「えっ?」
麻理「だから、パートナーになってやるっていってるんだ」
春希「本当ですか」
麻理「嘘なんか、言うわけないだろ」
春希「ありがとうございます」
麻理「だけど、今すぐってわけには、いかないかな。
・・・・・・だって私は、北原春希を愛しているから」
春希「・・・・・麻理・・・・さん」
麻理「そう身構えないでよ。クリスマスからのほんのわずかな時間だったけど、
幸せだったよ。苦しい時もあったし、それも後悔はしていない。
だって、最高に幸せだったんだから。だから、この幸せな時間は、
誰にも否定させない。北原にだって、否定なんてさせないんだから」
麻理さんの強気が剥がれ落ちていく。強い意志で塗り固められた瞳は、
涙で洗い落とされ、今、目の前にいるのは、
純粋な瞳でまっすぐ俺を見つめる麻理さんのみ。
麻理「心配しなくてもいい。
きっと、北原と正面を向いて付き合っていけるようになる。
でも、それまでの間だけでいいから、
ちょっとの間だけでもいいから、
冬馬さんの邪魔なんかしないから、
私が一人で立っていられるようになるまで、
そのときまで、
隣にいて・・・・・、春希」
無邪気でいられる時間なんて限られていた。人は成長し、そして、現状を把握する。
そっと未来を見つめ、自分を顧みる。
自分の立ち位置を確認しないで、人を好きになんてなれない。
身勝手に好きになってしまえば、
自分たちだけでなく、俺達を大切に思ってくれる人たちさえも苦しめてしまう。
無邪気な目で俺を見つめていた麻理さんは、ずっと先の未来を見つめていた。
そこになにがあるかなんて、俺にはわからない。
だけど、その未来に、俺が隣にいる為の努力くらいしたっていいだろ。
春希「隣にいます。麻理さんが必要ないっていっても、ずっと隣にいさせてください」
麻理「ありがとう。・・・・あと、今日で最後だから」
俺にそっと近づくと、俺の両肩に手をかけ、俺の頬に軽くキスをする。
ほんの一瞬。麻理さんから伝わってくる温かさは、唇が離れた瞬間に
夜の冷気が奪い去る。
まるで幻でも見ていたかのような感覚であったが、
頬を染める麻理さんが、現実だって証明する。
麻理「それと、これヴァレンタインのチョコ。
手造りではなくて買ったもので悪いんだけど」
オレンジ色の小さな紙袋を差し出してくる。
いくら夜であっても、オレンジ色の紙袋は目立つ。
しかも、ヴァレンタイン。意識しないでいる方が難しい。
光沢があるオレンジの紙袋は、目立つ色の割には落ち着いた雰囲気を形作っている。
それが妙に麻理さんに似合っていて、麻理さんの為にある紙袋とさえ思えてくる。
さすがにそれは言いすぎだってわかってるけど、絵になるほど目に焼き付いてしまう。
春希「かまいませんよ。誰がくれたのかが、一番重要ですから」
麻理「そういってくれると助かる。でも、味は保証する。
このチョコレートは、私が一番好きなものなのよ」
ガレー。そう紙袋には印刷されていた。たしか麻理さんの部屋にもあった気がする。
中身はなかったけれども、紙袋が散乱していたような・・・・・・・。
今ここで麻理さんの名誉の為にも、不名誉な室内を思う返すのはやめておこう。
なによりも、麻理さんとは、過去よりも未来を見つめていきたいし。
春希「大切に食べますね」
麻理「ふふっ・・・・・。大切に食べたまえ」
春希「ホワイトデーは、たぶん編集部も忙しい時期ですし、
会いに行くのは難しそうですね」
麻理「いつでもいいわよ。でも・・・・・・・・」
言葉を詰まらせ、俺を見つめる。瞳は揺らめき、ためらいを感じられた。
なにをためらってるなんて明らかだ。だって、俺も同じ気持ちだから。
春希「ホワイトデーは無理でも、きっとNYまで直接渡しに行きますから、
待っててください」
俺の言葉で麻理さんの瞳に力がよみがえる。
肩から力が抜け落ち、そっと俺に寄り添ってきた。
麻理「うん、待ってる。来年のヴァレンタイン前日までに来てくれればいいから。
それまで気長に待つとする」
春希「俺はそこまで気長に待てないので、もっと早く行ってしまいますよ」
麻理「なら、なるべく早く来てくれることを願っているわ。
さて、もう行くかな。
また今度ね、北原」
春希「はい。NYに行きますから、待っててください」
麻理「じゃあ」
春希「はい」
麻理さんは、一度も振り返りもせず去っていく。まっすぐ前だけをみて、突き進む。
それでいいんだ。未来をしっかり見据えていれば、きっと再び再会できる。
それに、今振りかえられたら、泣き顔を麻理さんに見られてしまう。
こんな情けなく、涙もろい俺なんか見られたら、幻滅しないまでも、
俺のことが気がかりでNYにいけないんじゃないかって、身勝手な妄想もしてしまう。
口づけを確かめようと、手を頬にあてても、なにも足痕跡は残ってない。
ほんのわずかだけれど、たった今、そこに麻理さんがいたっていう証拠の残り香を
肺に満たし、麻理さんの残像を思い出す。
俺は、今日この日を忘れない。
数年後、今日という日を思い出す為にも、前に進もうと決意する。
曜子「どうだった?」
ソファーに腰掛け、今さっき帰宅したかずさを出迎える。
曜子は、かずさの様子をみて、かずさの返答を聞く前だというのに
満足そうな笑みを浮かべていた。
かずさ「よかったよ」
曜子「そう」
かずさ「あたしが鍛えたんだ。当たり前だろ」
今日はちょっと饒舌になってるのかな?
それなら、一緒にワインでも・・・・・・・。
って、この子にはワインよりもピアノかもね。
曜子は読みかけの本を閉じ、一度はキッチンにワインとグラスを取りに
向かおうとしたが、再びソファーに身を沈める。
そして、挑発的な顔つきで、かずさに問う。
曜子「決心できたの?」
かずさ「あたし、コンクールに出るよ」
そう宣言するかずさの目には、陰りは一つもなかった。
『心の永住者 closing chapter』 閉幕
『心の永住者 ~coda』
NY マンハッタン島の、とある一室
麻理「北原、まだ準備に時間がかかる?」
毎朝、今の時間帯のこの部屋の住人達は忙しい。
慌ただしく動き回り、身支度を整える。
だからといって、雑に行うことはない。ひとつひとつ確実に丁寧に進めていく。
それがここの住民達の性格をよくあらわしていた。
春希「お弁当もできましたし、あとは閉じまりだけです」
麻理「そうか。なら、私が見ておくわ」
朝の微笑ましくもあり、慌ただしいいつもの一コマ。
これから始まる開桜社NY支部での仕事は、日本以上に忙しい。
そうであっても、健康に気遣ってお弁当を作るあたり、北原春希も成長していた。
春希「もう行けます。閉じまりは大丈夫でしたか?」
麻理「大丈夫よ。さて、行きましょうか」
春希「はい」
俺は二人分のお弁当と仕事道具が入った鞄を手に、俺達が暮らす部屋をあとにした。
静かになった二人の部屋は、深夜になるまで静かなままだろう。
慌ただしく突き進む足音が、扉の向こうでこだましていた。
『心の永住者 ~coda』 開幕
クリスマス特別短編(2014)
『それでもサンタはやってくる』
あたしにとっての高校最初で最後の学園祭が終わった夜。
興奮と熱気がおさまらない中、リビングのソファーであのキスの瞬間を思いだしていた。
ひんやりと伝わるなめらかな革の感触がいくらあたしの重みを受け止めようとも、
幾度となく繰り返される寝返りを黙って受け止めてくれている。
あたしは気にも留めていないが、さすが母さんが集めてきた家具といったものらしい。
値段を聞いてもピンとはこないが、それなりの高級品みたいだ。
さすがに成金趣味の家具を買い集められていたら、母さんに黙ってすべて処分して
新たに買い集めていたかもしれないが、母さんのお金を使う姿には力が入っていない。
これは元々母さんの実家の財力の高さと教養によるものだろうが、
落ち着いた雰囲気のリビングに仕上げてくれた事には感謝してやってもいい気がした。
時計を見ると、もう10時をすぎようとしていた。
家に帰って来てしたことといえば、ゆっくりとお風呂に入ったことくらいで、
あとはリビングにいたのだから、ほぼすべての時間で北原のことを考えていたに違いない。
・・・・・・仕方ないか。初めてのキスだったんだ。
あたしから北原に、北原には内緒でキスしてしまった。
いけないことだってわかっている。
だけど、しょうがないじゃないか。だって、この好きな気持ちは抑え込むことなんてできない。
不安と期待を胸に寝転がっていると、時間が過ぎ去っていくのは早い。
再び時計を確認すると10時30分になろうとしていた。
こんな時間に誰だ? インターホンが鳴らされて、不審に思って時計を確認したが
こんな夜中にやってくる訪問者などいない。
いつだって、この家にやってくる奴なんていなかった。
だけど、・・・・北原?
学園祭直前までこの家で合宿していた北原なら、もしかしたら・・・・・・。
あたしは、インターホンの画面で誰が来たかを確認もせずに玄関へとかけていった。
12月に入り、冬休み前の関所をくぐり抜けたつわものたちの顔色は明るい。
今日でようやく期末試験も終わり、誰しもがほっと一息をついていた。
これが一般的な高校であれば、高校三年生の教室であるのだから
これから始まる大学受験にピリピリとした雰囲気で支配されていたはずだ。
しかし、ここ峰城大学附属高校の生徒のほとんどが、その上の峰城大学に
そのまま進むわけで、他大学に進むマイノリティー以外は、
これからやってくる冬休みに心を奪われていた。
一応あたしもマイノリティーの一人ではあったが、いたって平常運転である。
あたしは、来年からウイーンにいる母の元へ行く。
そこで母の師でもあるマーティン・フリューゲルに弟子入りすべく試験を受けるのだが、
大学入試と違ってピアノの実力の身というところはあたしにあっていた。
ピアノを弾くのは嫌いじゃないし、あたしがピアノを弾くのを喜んでくれる彼氏が
いるのだから、他の受験生と一緒にはされたくもなかった。。
親志「春希なら、なんだか担任に呼ばれて職員室行ったぞ」
かずさ「そっか、ありがとう。えっとぉ・・・・・・」
急に呼びとめられてしまい戸惑ってしまう。
同じクラスで、席も近く、今は名前が思い浮かばないが、春希とよく話している男子生徒。
春希を介して何度も話した事があるし、今日みたいに声をかけてくる事もある。
親志「親志だよ。早坂親志。春希ばっか見ているのは止めないけど、
俺も席が近くのご近所さんなんだから、名前くらい覚えてくださいよぉ」
かずさ「すまない。早坂だろ? 覚えているよ。春希から、早坂に声をかけられたら
からかってやってくれって頼まれてたんだ」
本当は、突然話しかけられてびっくりして、ど忘れしただけ。
いくら顔見知りであっても、どうしても身構えてしまう。
それだけ人との接点に疎くなってしまったのかもな。
親志「ほんとかよ? 今度春希に文句言ってやる」
かずさ「それは、やめてくれ」
親志「おうおう、夫婦愛が深いねぇ」
かずさ「そういうわけじゃないんだ。さっきのは、・・・・・・・冗談だ」
あたしの冗談発言に、失礼にも笑い転げる早坂親志。
くったくのない笑顔で、くしゅっと笑うその表情は人との壁など作らないって示している。
事実、人付き合いが苦手なあたし相手に、何度ともなくチャレンジしてくるあたりが
早坂の人の良さをよくあらわしていた。
ただ、首に巻いているどぎつい紫色のマフラーはどうにかならないか?
マフラー自体は、悪くはない。巻く人が巻けばおしゃれだと思う。
だけど、この男が巻くと、どう甘く採点してもチンピラにしか見えなかった。
親志「冬馬も冗談を言うようになったか。いい傾向だな。
学園祭前だったら想像もできなかったしな。これも旦那さんのおかげかもな」
かずさ「春希は、旦那じゃない」
親志「学園祭以降、誰もが認める夫婦漫才カップルじゃないか」
かずさ「誰が夫婦漫才だ」
親志「ボケが冬馬で、つっこみが春希だろ。つっこみっていうよりは、世話係?」
かずさ「あたしは、ぼけてなどいない。でも、春希が世話係っていうのは
あながち否定できないから痛いな」
親志「だろ?」
面白そうにけらけら笑っているけど、ここだけは事実過ぎて反論できない。
嘘がまじっているんなら、蹴りの一発くらいかましてやったのだが、
しかし、いつも春希の世話になっているしな。
今回の期末試験だって、春希が泊まり込みで家庭教師をしてくれたおかげで
どうにか突破できそうだし、
食事だって、春希による監修が続いている。
作ってくれているのは、ハウスキーパーの柴田さんなんだけど、
食事を作るのを再開してほしいとお願いした時は喜んでくれたっけ。
こちらがお願いする立場なのに、喜んでもらえるなんて思いもしなかった。
親志「そういや、一緒にウィーンに行くんだって?」
かずさ「一緒に行く予定だ。あたしの方としては、向こうでの試験が終わってないのに
話がどんどん進んじゃって、困っているんだけどな」
親志「フリューゲル先生だっけ? 冬馬のかぁちゃんのお師匠様」
かずさ「そうだよ」
親志「ピアノのことはよくわからないけど、これってすごいことなんだろ?」
かずさ「どうなんだろうな? あたしもその辺の事情はくわしくないからさ」
親志「春希によれば、入門するだけでも難しいらしいっていってたな。
何人も有名ピアニストを育てているとか」
かずさ「らしいな」
親志「らしいって、自分の先生になる人なんだろ」
かずさ「春希が詳しすぎるんだ。あいつったら、あたし以上に向こうでの事を勉強
してるんだからな。しかも、ドイツ語だって、すでに日常会話くらいは
できるようになってるんだぞ」
さすがに春希がドイツ語を少し話せることには、早坂も驚きをみせていた。
なにせ春希ったら、母さんとの初対面以降、あたし以上に母さんと会話をしているもんなぁ。
あたしの知らないところで、どんどんとウィーン行きが決まっていく。
親志「春希ものぼせているな。まっ、しょうがないか。
結婚はまだだとしても、婚約くらいはしたんだろ?」
かずさ「いや、婚約してない」
親志「そうなのか?」
かん高い声で出すものだから、あたしまで驚いてしまう。
けっして結婚や婚約というキーワードで顔が赤くなったのではない。
あたしは、この男の声に驚いて、顔を赤くしてしまったんだ。
親志「それは意外だな。てっきり婚約だけはしていたと思ったからさ」
かずさ「・・・・・・・あたしはしてもかまわないけどな」
親志「ん? なんだ?」
かずさ「なんでもない。独り言だ」
親志「ならいいんだけど」
あたしの小さな願いを聞き逃した早坂ではあったが、この男の関心は春希そのものへと
向かっていた。
親志「あいつもこのまま上の大学に行くと思ってたら、いきなりウィーンの大学だもんな。
ドイツ語も覚えなきゃいけないし、高校の成績がいくらいいからといっても
むこうでの試験とか大変そうだな」
かずさ「らしいな。向こうでの試験日程も、ぎりぎりのタイミングって言ってたな」
親志「俺みたいな凡人がいうのはあれだけど、安全策っていうの?
いったんこのまま上の大学行っておいて、あまり詳しくは知らないけど、
大学の留学制度とか使ったほうが安全だろ。
ウィーンの大学が制度範囲外だとしても、色々とサポートくらいはしてくれるだろうし。
それを突然上への進学を取り消したんだから、そりゃあ担任も驚くよな。
さっき担任に呼ばれたのだって、その話だろうし」
かずさ「かもな」
親志「ごめん。冬馬を責めているわけじゃないんだ。
ただ、春希のことだから、結婚とか、そのくらいの覚悟をしての
決断だったのかなと思ったからさ」
早坂に言われるまで、考えもしなかった。
あたしは春希と一緒にいられる事に喜びを感じていて、
春希が置かれている状況を確かめもしないでいた。
そうだよな。いくら優秀な春希だといっても、簡単にウィーンの大学に行けるわけじゃない。
もちろん母さんのサポートがあるのだから、来年の進学は無理だとしても、
その次の入学ならば、ほぼ確実に入学出来てしまうと思う。
でも、留学だけじゃないんだよな。
これからさきの春希の人生。あたしとともに進む春希の人生。
きっと春希のことだから、寝ずに考えて、たくさん悩んで決断したんだろうな。
春希「おい親志。かずさをいじめるなよ」
親志「虐めてないって」
春希「だったらなんでかずさが暗い顔してるんだよ」
親志「いやいやいや・・・。世間話していただけだって。
しかも春希を探していた冬馬に、春希の行き先まで教えてたんだぞ」
春希「そうなのか?」
かずさ「まあ、そんなところだよ」
心配そうな顔で覗き込むなって。
嬉しすぎて顔に出てしまうだろ。こんなにも愛されていて、
こんなにも先の事まで考えてもらっていて、幸せじゃない女がどこにいる。
北風が体温を奪っていく中、あたし達はあたしの家へと歩いていく。
黒い通学用のコートだけでは心もとなく、春希に身を寄せてお互いの熱を補っている。
春希もあたしと同じような黒いコートをきているはずなのに、
どうして差が出てしまうんだ?
通学用のコートなのだから、華美なデザインではない。
それでも、高校生が着れば、寒さの中元気よく闊歩する高校生にみえるはず。
けれど、春希がきてしまうと、どうしても公務員にみえてしまうのは、どうしてだろうか?
春希「どうしたんだ。浮かない顔をして。やっぱり親志となにかあったのか?」
かずさ「ううん、関係ない。関係ないよ」
春希「だったら、どうして暗い顔をしてるんだ。・・・・・・もしかして、
そうとうテストの出来が悪かったのか?」
かずさ「それもちがうって。テストの方は、春希の頑張りもあって、大丈夫なはず」
春希「だったら、どうしたっていうんだよ」
春希の問いに、春希の腕を掴む手に力が入ってしまう。
春希には、隠し事なんてできないな。だって、あたしのことをあたし以上に見ているから。
かずさ「あたしは、春希の負担になってないか?
あたしのせいで、春希の人生が駄目になってないか?」
春希「なってないよ」
そう短く答える春希に、あたしは甘えてしまう。
やわらかい笑顔で囁くその声に、あたしはこの男のことをどこまでも信じてしまう。
春希「俺は、かずさと一緒にいる人生を選択したんだ。それに留学自体はプラスだよ。
元々留学には興味があったし、その選択が早まっただけ。
だから、かずさがそのことで悩むことなんてないんだよ」
かずさ「だけど、急だっただろ?」
春希「たしかに、曜子さんから話を聞いたときは驚いたし、迷ったよ。
だけど、曜子さんは進路のアドバイスだけじゃなくて、金銭的なサポートまで
してくれてるんだから、感謝しているよ」
かずさ「それは、母さんが強引に話をもってきたんだから、
そのくらいのサポートは当然だ」
春希「それでも、ウィーンで事務所職員見習いとして雇ってくれるのはありがたい」
かずさ「そんなのは、母さんの思い付きだ。
まあ、春希がドイツ語を覚えるのには、実際使う方がいいだろうっていうのも
あるみたいだけどさ」
春希「それも含めて感謝してるんだ。
俺一人で決めたんなら、こうもスムーズにことが進まなかったはずだよ。
それを曜子さんが俺がやりやすいように軌道修正してくれて、
感謝って言葉じゃ足りないくらい感謝してるんだ」
かずさ「それって、母さんへの感謝だけか?」
春希「違うよ。俺の側にいてくれるって言ってくれたかずさには、
一生感謝し続けるよ」
あたしは、返事の代りに、春希の腕を掴む力を強くして、身を擦りつける。
ここは、あたしの場所なんだ。あたしだけの特等席。
これからもずっと。なにがあろうとも、その事実だけは変わらない。
あたしを家まで送り届けた春希は、
今日もうちのリビングでドイツ語の勉強をしている、らしい。
らしいというのは、あたしはその時間、地下スタジオでピアノの練習をしているから
実際春希が勉強している所を見ていないのである。
春希のドイツ語の上達速度をみれば、そうとう集中してやっているのはわかるけど、
同じ家にいるんだから、春希も地下スタジオで勉強すればいいのに。
あたしの練習の邪魔をしないようにとも配慮だろうけど、
あたしだったら全く問題ないのにな。
それでも、同じ家にいるって思うだけで、胸がぽかぽかする。
この気持ち、防音処理された地下からは聞こえないだろうけど、
きっと春希には聞こえているんだと思えてしまう。
さてと、もうちょっとで夕食の時間か。
柴田さんが夕食を作り上げるまでのひとときから、
夕食を食べるまでが一緒にいられる時間だって決めている。
期末試験前の泊まり込みは緊急処置だったんだけど、それ以外はずっと
春希がこの家に泊まることはなかった。
それは、春希との約束。
あたし達が二人でウィーンにいられる為の試練。
あたしはピアノ。春希はドイツ語と大学入試。
けっして強制ではないし、他の選択肢だってある。
でも、二人で決めたんだから、やり遂げる覚悟はあるんだ。
だから、あたしは、春希との食事タイムを楽しみにして、
時間ぎりぎりまで練習に打ち込むことにした。
終業式なんて形だけだし、出なくたっていいんじゃないかって春希に抗議してみたものの、
当然のごとく叱られ、朝早く家まで迎えにまできた。
あたしとしては、毎朝玄関まで出迎えてもらいものなんだけど、
時間節約もあって、通常は駅での待ち合わせだった。
とくに用がないのに学校まで行くんだから、出迎えのご褒美があっても罰は
当らないんじゃないかって、春希にいってやりたい。
まあ、いいさ。数時間ピアノの練習を休んで得られる春希との時間。
通学途中は春希の腕に絡まって温もりを感じ、
電車の中では、その温もりを抱いて仮眠して、
学校での退屈な終業式には、春希を眺めてその姿を目に焼き付ける。
まったく充実した半日だ。
今日で2学期も終わって、冬休みに入る。
休み中は、春希もうちにきて勉強するって約束してくれたし、
楽しい休暇を送れそうだ。
かずさ「色々気にかけてくれて、ありがとう」
親志「なんだよ、いきなり」
あたしの感謝の気持ちに驚くとは失礼すぎるな、こいつ。
せっかく今年世話になったお礼をしようと思ったのに。
終業式も終わり、あとは帰るだけとなった放課後の教室。
二日後に控えたクリスマスイブや年末・年始の予定を立てるべく賑わいを見せている。
この早坂親志もその例に漏れず、なにやら友人たちとの予定を立てようとしていた。
さすがのあたしも、友人達と話しているところに話しかけるなんてできないから、
話すタイミングを探っていたのだが、この男が自分の机にバッグを取りに来たところで
どうにか話すチャンスが巡ってきた。
かずさ「早坂には世話になったからさ。一応な」
親志「別に大したことはやってないぞ、俺」
かずさ「あたしにとっては、大した事なんだよ。
自分が人見知りだってわかってるんだ。でも、どうしようもなくて、
つい強く言ってしまう」
親志「そうか? 最近は丸くなってきたと思うぞ。
それに、学園祭のライブを終えてからファンになったって奴が多いじゃないか。
とくに音楽科の後輩女子からの人気は絶大で、よくここまで見に来てるし。
それだけかっこよかったってことだよ」
かずさ「それはそれで大変なんだぞ。したってくれて来てくれてのはわかってるけど、
どう対応していいかわからなくてだな」
親志「いいじゃないか。けっこううまく相手していたと思うぞ。
一緒に写真撮ってやってたりもしてたじゃないか」
かずさ「あれは、・・・断れなくて」
今思い返しても恥ずかしすぎる。あたしは見世物じゃないんだぞ。
誰もいないところでなら、まあ、一緒に写ってもいい、かもしれない。
でも、教室の前の廊下で、蹴っても蹴っても蹴り足りないくらいのギャラリーの
目の前で写真だなんて・・・・・・。
親志「色々困ることで、人間成長していくんだよ」
かずさ「できれば、困ることなんて遭遇したくない」
親志「そういうなって。イブは、春希とデートなんだろ?」
かずさ「デートなのかな?」
早坂の問いに、無意識に首をかしげてしまう。
最近のあたしたちは、二人でいることが当たり前すぎるから、
デートの定義がわからない。
そもそもあたしに恋愛について語らせようっていうのが間違いなんだ。
あたしにとっては、同じ家で、しかも違う部屋であっても
お互いがやるべき事に取り組んでいるとしたら、それはデートといってもいい気がする。
春希を感じていられるのなら、春希があたしをみてくれているのなら、
春希と同じ時を過ごしているのなら、それは、奇跡で、すばらしいことなんだ。
親志「いくら春希の奴が唐変木の朴念仁だとしても、彼女とのイブデートは計画してるだろ」
かずさ「一応うちで食事する予定ではあるけど・・・」
親志「かぁ・・・、春希らしいな。羨ましいったらありゃしない」
少々オーバーすぎるリアクションだが、どうもこの男がすると馬鹿っぽくて許せてしまう。
・・・・・・そうだな。こういうやつだからこそ、
あたしから話しかけられるのかもしれない。
親志「最近春希の奴がそわそわしていたのは、この事だったのかもな。
こりゃあ、何かあるかもな」
かずさ「なにかって?」
あたしの問いかけによって、この男の動きがフリーズする。
どこか明後日の方を向くと、ぎこちない動きでこちらに振り向く。
もしかして、適当に言ってたのか?
たまにその場のノリで発言するからな、こいつ。
それが悪いって事じゃあないんだけど、今回ばかりは期待してしまったから、責任とれ。
と、内心怒りに燃えてしまい、その炎があたしの瞳に宿ってしまったらしい。
親志「にらむなって、出まかせで言ったんじゃない。
ほら、プロポーズとかするには最適だろ。イブにプロポーズって定番だし、
春希なら、やりそうだしな」
かずさ「ほんとうか?」
この男の適当すぎる発言に、心が反応して身を乗り出してしまう。
そんなあたしの反応を見て、早坂は二歩ほど身を引いてしまったが。
親志「なんとなく、だけど、さ」
そんなに慌てるほどあたしが怖いか? そんなに鬼気迫ってる顔をしているかな?
たしかに最近のあたしは、春希絡みになるとリミッターが外れているっていわれてるから
もしかしたら今もそうなのかもしれない。
かずさ「なんだよ、なんとなくとは、ずいぶん適当だな」
親志「まあ、あまり深く考えないで発言したのは悪かった。
でも、まったくのあてずっぽうってわけでもないと思うぜ」
かずさ「そうかな?」
思わず一段高い声で聞き返してしまう。
喜びに満ちた声を出してしまって、なんだか恥ずかしい。
この男の発言によって、一喜一憂してしまっているとは、なんたる不覚。
親志「春希なりの考えがあってウィーン行きを決断したんだし、
春希みたいな性格だと、なんらかの区切りとかイベントの時に
大事な話を切り出すかもなって思っただけさ。
だから、イブなんてもってこいのイベントだろ?」
かずさ「たしかに・・・」
春希「おい、こら。なんだかお前ら、クラス中から注目されているぞ。
なにを騒いでいるんだ」
突然声をかけられて顔を上げると、春希がいつの間にやら戻って来ていた。
春希の指摘通り教室内を見渡すと、既に帰宅した生徒が半数近くいるが
残りのほとんどがあたし達を見つめている。
そして、あたしがそれらの視線に気がついたとわからる、みんな一斉に顔を伏せたり、
教室から出ていこうとしていた。
ゴシップ好きの高校生だもんな。
あの堅物の春希がデートするだけじゃなくて、プロポーズだったり、
ウィーン行きだったりとか、普段の春希からは想像できない恋愛劇を展開させていたら
誰だって気になってしまうな。
親志「担任の用事はもういいのか?」
春希「ああ、こういう仕事はクラス委員の仕事なのに、
どうして引退した俺がやらなくちゃいけないんだろうな? いいんだけどさ」
親志「それだけ信頼されているってことだよ」
春希「それだけだったらいいんだけどな。なんだかいいように使われているだけだって
最近思うようになることもあるんだけど」
親志「気のせいだって」
春希「だったらいいけど。で、なんで注目されていたんだ」
親志「ああ、それね」
まったく使えない男だな。ここで春希がプロポーズの事を知って、
意識してしまったらどうするんだ。
話をそらすんなら、最後までしっかりやってくれ。
あたしは自分勝手な要求を早坂に突き付けてしまいそうになった。
春希「どうせ俺達のクリスマスデートについて聞いていたんだろ?」
親志「ん? あぁ、そんな感じかな」
かずさ「そうだな、そんなかんじだ」
春希「かずさも親志には、馬鹿正直に教えなくていいんだからな。
ただでさえかずさは目立ってしまっているんだから、彼氏としては気が気じゃない
っていうか」
ん? なんだか春希が暴走してくれてる?
見当はずれな方向に話がいってないか。ま、いいか。
かずさ「いや・・・、その」
親志「あの名物委員長様がどんなクリスマスデートプランをたてているか
気になるのは人のサガだってものよ」
春希「そうなのか? たいしたプランじゃないぞ」
親志「それでも、冬馬は楽しみみたいだぞ」
かずさ「あっ・・・」
ほんとうのことだけど、春希とのクリスマスを心底楽しみにしていたけど、
ここで言わなくてもいいじゃないか。
体が火照って、うまく口が回らなくなる。
春希「あまりうちのかずさをいじめるなよ」
親志「わりぃな。邪魔者はそろそろ退散するよ。
メリークリスマス、春希。楽しんでこいよ、冬馬」
春希「ああ、メリークリスマス。また来年な」
親志「おう、じゃあな」
かずさ「メリークリスマス」
あたしは、肺の中に残ったわずかの空気を絞り出すように小さく呟くのがやっとだった。
クリスマスイブ。
クリスマスだからといって都合よく東京の空に雪が降ることなんてまずない。
そもそも東京の雪というと、年が明けてからというイメージさえあるんだから、
だれがクリスマスと雪を結びつけたんだろう。
日本のイベントではなかったんだから、北欧とかその辺かな?
雪を見ている分には綺麗だし、あたしは部屋の中からしか見ないから
雪なんて、あってもなくても別にいいかって思いもある。
寒い雪の日に、外に出るやつの気がしれない。寒いのによくやるよ。
高校だって、自主休講まっしぐらだ。
ただ、来年雪が降っても自主休講は不可能そうだけどさ・・・。
あたしは、来年の1月か2月あたりに雪が降ったときの状況を思い浮かべてしまう。
ぜったいあいつは朝早くうちまで迎えに来るな。
かけてもいい。あいつもあたしが自主休講をするはずだって賭けているはずだ。
まあ、あたしは、せっかく迎えに来てくれた春希の為に、寒い寒い雪の中、
文句を言いながら高校へとついていってしまうのだろう。
春希は春希でお説教していそうだな。
今は受験シーズンで、受験生はただでさえ精神的に不安定なのに、そんな中、
はらはらした思いで電車を待っている受験生の事も考えてみろっていわれそうだ。
春希「どうしたんだ? 俺、なにか面白いこと言ったか?」
かずさ「ううん、別に」
春希「そうか?」
かずさ「ああ、なんかクリスマスに恋人と一緒にいたいっていう気持ちが
ようやくわかった気がしただけだ。
今までは、クリスマスなんか関係ないって思っていたし、
クリスマスなのに、なんで人ごみの中デートしなければいけないんだって
思ってもいた。でも、今年は違う」
春希「俺は、まったく憧れみたいなのがなかったとは言わないけど、
こうして初めて経験してみると、TVとかで騒いでいる理由がわかった気がする」
かずさ「だな」
二人の意見と視線が交わったところで、自然と頬笑みが灯される。
一応世間並みに今日のクリスマスデートを期待していた春希は、
いつもよりも幾分服装に気を使っているようだ。
普段はモノトーンで、地味な顔つきをさらに地味な服装で上塗りしているのに、
今日は珍しく、ほんの少し赤を取り入れていた。
グレーのパンツに、白のポロシャツ。
襟と袖のところに赤いラインが入っているのが特徴だと思う。
春希なりの冒険なのだろうが、赤を入れればクリスマスってわけでもないのに、
ちょっとだけ頑張った春希の服装に、あたしはさらなる笑みを春希に送ることになった。
たしかに、あたしもかなり服装には気を使っているけど、
それは、まあ、女としてのたしなみだ。
ピアノの休憩がてら外に出た時に買った春希へのクリスマスプレゼントのついででしかない。
たまたま通りかかった店で、偶然にもあたし好みの服がディスプレイされていただけで、
本当は買うつもりはなかった。
でも、春希が喜んでくれるかなと思うと、やはりちょっとは着飾ってみたくはなるのは
しょうがないよな。
黒のワンピースというところが地味すぎるかもしれない。
あの店員が似合うからって、しつこかったな。
あたしも気にいっているから、いいんだけどさ。
それにしても、肩や背中が露出し過ぎていないか?
今日は外に出る予定がないからいいものの、こんな服着て外に出たら
きっと五秒で家の中に戻ってくる自信があるぞ。
春希「でも、どこにも行かなくてよかったのか?
今日は練習時間を短縮させたんだから、
少しくらいは外出してもよかったんじゃないか?」
かずさ「いいんだよ、別に。あたしは春希と一緒ならどこだっていい。
むしろうちの中にいる方がくつろげるしな」
春希「たしかにな。レストランだって、今さら予約できないし、
どこにいっても混んでいそうだ。
しかも、クリスマス価格っていう名の値上げもしているから、
どこにいっても値段が高いって気がしてしまうよ」
かずさ「そういう細かいところを気にするあたりが、せっかくのムードをぶち壊すんだぞ。
今日くらいは、日常を忘れろよ」
春希「そうはいってもな。一般庶民の俺からすれば、クリスマスといえども
財布のひもはしっかり引き締めておかないといけないんだよ」
かずさ「悪かったな。世間の常識が全く通用しないお金持ちのお嬢様で」
春希「それに、料理と掃除も出来ないのも付け加えないとな。
あと・・・、そうだな。まとめてピアノ以外の生活能力がゼロでもいいか」
かずさ「それは、・・・いいすぎじゃないところが痛いところだけど、
好きでこうなったわけじゃない」
春希「いいよ、それで。かずさは、今のかずさのままで」
これって、もしかして早坂が言っていたプロポーズへの布石?
そういえば、春希が家に来てから、ずっとそわそわしていたよな。
食事の準備もあるからそれまではピアノの練習しておけってスタジオに押し込まれた時も
なんだか落ち着きがなかったし。
だとしたら・・・・・・。
あたしの鼓動が加速する。あたし達二人しかいない静かな部屋だというのに、
心臓の音が盛大に雑音を撒き散らす。
凍てつく夜の外気がそっと身を寄せ、
街中でかき鳴らされている陽気なクリスマスソングと混ざり合い、
テーブルを挟んで対峙する最愛の彼から、
あたしと同じようにプロポーズを待っている彼女がいるのだろう。
彼女はどうやって、彼の言葉を待っているのだろう。
息が苦しい。瞳も熱っぽくて、ぼやけてきてしまう。
この彼の言葉が告げられるまでの数秒間を、どうやってあたしは待てばいいんだ。
期待してしまう。嬉しいに決まっている。
でも、とても不安なんだ。
春希「かずさ・・・」
かずさ「はいぃ?」
春希の呼びかけに、声が裏返ってしまう。
春希「そのさ、今日の料理はどうかな?」
かずさ「え?」
春希「さっきからずっと上の空だったから、食事が美味しくなかったのかなって」
かずさ「そんなことないよ。美味しいよ」
なんだ。プロポーズじゃなかったのか。
あいつのせいだ。早坂が変な事を吹きこむから意識してしまったんだ。
本音をいえば、かなりがっかりした。
春希と結婚したい。それは、春希からの告白を聞いた学園祭の夜から思っていた事だ。
漠然としていた恋心が、現実まで降りて来たあの日、
あたしはふがいもなく春希の胸で泣きじゃくってしまった。
急ぐ事はない。あたし達はずっと一緒なのだから。
あたしは、とりあえず気分を切り替えようとパエリアを一口分だけスプーンですくう。
かずさ「そんなに見つめられると食べにくいだろ。それに恥ずかしい」
春希「ごめん」
春希は謝ってはいるが、視線はそのままなんだよな。
一応見ていませんって感じで顔はそらしているけど。
春希「どう?」
かずさ「どうって?」
春希「そのパエリア美味しいかって?」
かずさ「美味しいよ。美味しいけど、ちょっと意外なメニューだな。
柴田さんは、クリスマス特別メニューだって言ってたのに」
春希「気にいらなかったか?」
かずさ「ううん。美味しいし、嫌いじゃないよ。
このローストチキンは本格的だけど、あとのメニューは、なんだか家庭的だな」
ローストチキン以外にテーブルに展開されているディナーは、パエリア、ポテトフライ、
アサリとホタテの蒸し野菜、コーンスープ。
けっして出来が悪いわけではない。
けれど、柴田さんだったらもっとクリスマスを盛り上げる見栄えがある料理が
できるんじゃないか?
春希「ケーキは買ってきたやつだけど、他のは全部手作りだぞ」
かずさ「うん、美味しいよ。それに、なんだか温かい雰囲気の食事で、
なんかいいな」
春希「そっか、よかった。もっと食べてくれよ」
かずさ「あぁ・・・、あたしばかりじゃなくて、春希も食べろよ」
春希「大丈夫だって。俺も食べているよ」
春希は食べているっていってるけれど、あたしのことを見てばっかりじゃないか。
今だって一口食べたら、そのまま手が止まって、またあたしの事を見ている。
春希「他のはどうだ?」
かずさ「美味しいよ」
春希「実はさ、今日の料理は俺が作ったんだ」
かずさ「春希が?」
春希「柴田さんに頼んで、ずっと特訓していた」
かずさ「今日の為に?」
ドイツ語の勉強だって忙しいのに、料理の練習までしていただなんて驚きだ。
柴田さんもあたしに内緒にしていたのか。
今日、柴田さんが食事の支度を終えて帰る時、なんだか陽気だったのは、
このことが原因だったのかもしれない。
春希「それもあるけど、ウィーンで日本食食べたくなるかもしれないだろ?
いくらハウスキーパーを雇うからといって、日本食は無理だろうしさ。
かずさも曜子さんも料理はできないだろ?」
春希の言うと通りだけど、今までは気にもしなかったな。
母さんはおそらく、まったく気にしていない。
今までも普段の食事に気をつけていないと思う。
もし日本食が食べたくなったら、日本食を提供するレストランに行くし、
それで満足できなければ、日本まで飛行機にのってやってきているはずだ。
日本に来てもあたしに会う事もせずに、そのままウィーンに帰国していただろうけどさ。
かずさ「ありがとう」
春希「俺がしたくてやったんだ。感謝してくれると嬉しいけど、なんだか照れるな」
かずさ「ありがとう」
春希「やめろって。ほら、このプリンも手造りなんだぞ。
かずさはプリン大好きだろ? でも、いつも食べているプリンはウィーンでは
売っていないだろうから、柴田さんと協力して再現してみたんだ」
春希が差し出すプリンを一つ頷いてから受け取ると、脇にあったスプーンを手にとった。
耐熱グラスに入ったプリンは、すも入っていなくて、手造りって言われなければ
買ってきたものだと思ったままだっただろう。
春希「どうかな?」
あたしのことをくいるように見つめる春希の視線が気にならないってわけではない。
むしろ食べる姿をじっくり見られるなんて、スプーンを持つ手を震わせる。
けれど、春希が一生懸命作ってくれた。あたしの為だけに作ってくれたんだ。
こんなにも嬉しい事はないよ、春希。
かずさ「美味しい・・・。言われなければ、あのプリンだと思ってしまうよ。
ううん、あのプリンよりも美味しいって。最高だ」
春希「なに泣いてるだよ。大げさだな」
かずさ「泣いてないって」
あたしは、涙を隠すように下を向いてプリンを食べ続ける。
春希が今日そわそわしていたのは、プロポーズの為じゃなくて、
料理を披露するからだったのか。
だから、あたしが食べるところを気になっていたんだな。
そうだな。春希は、形だけのプロポーズじゃなくて、その先にある未来を
しっかりと考えている。
料理ができれば体調管理もしやすいし、日本食だって食べられて、
食生活のリズムを崩す事もないだろう。
ドイツ語だって頑張ってくれている。
春希は、あたし以上にあたしとの将来を考えてくれていたんだ。
大粒の涙がプリンの中に雫となって落ちてゆく。
もったいないな。でも、ちょっとだけ塩味がついたプリンも悪くはないか、な。
あたしが大泣きしだしたんで、春希のやつ、慌ててるな。
いい気味だ。あたしを感動させた春希が悪いんだ。
こんなにも素敵なクリスマスプレゼントは、初めてだよ。
かずさ「ありがとう、春希。最高のクリスマスプレゼントだ。
今年だけじゃなくて、来年も、再来年も、・・・もうずぅっと先まで、
毎年クリスマスを一緒に祝ってほしい。
あたしには、春希にしてあげられることなんて、ピアノを弾くくらいだけれど、
それでも、あたしは死ぬまで、・・・ううん、死んでも一緒にいたい」
春希「ずっと側にいるよ。かずさの側にいたいから頑張れるんだ」
かずさ「ありがとう。あたし今、世界一幸せだ」
春希「まるでプロポーズだな」
春希はとくに意識して発言したわけではないのだろう。だけど、あたしはずっと
プロポーズという言葉を意識してしまってたわけで、その言葉に非常に大きく反応してしまう。
あたしは、体を小さく震わせると、体まで小さく縮こまらせてしまう。
だって、春希からのプロポーズを待っていたのに、いつの間にかに、
あたしの方からプロポーズしていたじゃないか。
もちろん無意識にだ。意識していたなら、絶対に、ぜぇったいに言えるわけがない。
春希がクリスマスに淡い幻想ともいえる期待を抱いていたように、
あたしもプロポーズに壮大なる夢を持っていたわけで。
顔に似合わない乙女っぽい理想があるんだなって、笑いたいやつらには笑わせておくし、
他人はもちろん、春希にだって秘密にしておきたい夢でもある。
おずおずと顔をあげると、春希はあたしの顔を見つめてくる。
その真っ赤な顔を見て、あたしは鏡を見ているんじゃないかって疑ってしまった。
かずさ「なあ、春希」
春希「な・・・んだよ?」
かずさ「あたしのプロポーズ。イエスって言ってくれたんだよな?
ずっと側にいるって、あたしの側にいたいから頑張れるって。
・・・・・・その、どうなんだ、よ?」
春希「結婚か・・・」
春希の呟きに、あたしはこくりと頷く。
春希は、あたしが頷くのを確認すると、椅子を座りなおして、姿勢を正した。
ピンと伸ばしたその背中に、まっすぐ迷いがない瞳があたしを射抜く。
春希「俺と結婚してください」
かずさ「はい」
あたしが想像していたプロポーズとはだいぶ違うけど、
これはこれであたし達らしいのかもな。
あと、さっき最高に幸せだって思ったけれど、あれは訂正だ。
だって、今、プロポーズされて、もっと幸せだしな。
そう考えると、春希と一緒ならば、今よりも、明日よりも、
もっともっと幸せな未来を見つけられる気がする。
もちろん楽しい事ばかりじゃないってわかっている。
レッスンや春希の勉強。ピアノに仕事。いつも一緒ってわけにはいかない。
きっとあたしは春希がいなくて、寂しい思いもするはず。
それでも、春希は、いつもあたしの隣にいてくれてると思うと、
それだけで幸せなんだ。
誰だ? まだ眠いって。
?「春希君。春希君、起きて。これに名前書いてくれないかしら?」
ん? 誰かが春希の名前を呼んでいるみたいだけど・・・。
たしか昨夜は、春希と遅くまで騒いでいたような。
・・・そうだ、昨日の分のレッスンは今日朝早くからやるってことにしてあったんだよな。
それにしても、ちょっと寒いぞ。春希動くなって。あたしの暖房役なんだから、
あたしの隣でじぃっとしていろって。
?「それでいいわ。あと、ここは拇印でいいから」
春希「は、・・はぁ。ん・・・んん~」
春希? 誰と話してるんだ?
あたしは、夢とも現実ともわからないまどろみから抜け出すべく、重い瞼をこじ開ける。
さすがに明け方まで起きていたせいもあって、頑丈すぎるあたしの瞼は、
強制的に開けようとすると激しく抵抗してきた。
曜子「これで完成っと。あとは、かずさの所を記入すればOKね。
ほらほら、かずさ。起きなさい」
ようやく瞼の抵抗をはねのけると、目の前には、あたしの母さん、
つまり、冬馬曜子がなにやら一枚の紙を持って、あたしを起こそうとしていた。
あたしの隣にいた春希は、先に起こされた事もあり、
あたしより早く脳を再活性化できたようだった。
春希「なんですか、それ? というか、寝ぼけていた俺に何を書かせたんです?」
曜子「婚姻届だけど。証人は、私と美代ちゃんが書いておいたからOKよ。
それと、春希君のお母さんにあってきて、婚姻の同意書も貰ってきているから
気にしなくてもいいわよ。未成年だし、同意書も必要だったけど、
親としては結婚する前にご挨拶しておきたかったしね」
さあ、区役所に行くわよ」
いきなりの訪問。責任能力なしの状況からの強引な署名。
そして、区役所?
目の前の出来事が、あたしの想像を飛び越えすぎていて理解できない。
婚姻届って、どういうことだよ。
かずさ「いつ来たんだ?」
曜子「メリークリスマス、かずさ。プレゼントは、この婚姻届ね」
かずさ「いつ来たんだって聞いてるんだ」
まったく悪びれもしないで、自分の言いたい事だけ言いやがって。
真っ赤なドレスに、手首や襟元の白いファー。
これって、サンタのつもりか?
こんなサンタがいたら、子供が驚くぞ。いやらしい中年男は喜びそうだけれど、
春希は違うよな?
曜子「昨日の昼頃からよ。春希君が愛を込めて料理をしているあたりかしらね。
プロポーズのところは、ばっちし録画してあるから、あとで一緒に見ましょうね。
あ、かずさは録画のコピーが欲しいわよね。ちゃんと用意してあるわよ」
かずさ「ありがとう」
春希「って、違うでしょう。なんなんですか。いつから・・・、って、
最初からずっといたってことじゃないですか」
曜子「ほら、一応親だし、これから二人は、ウィーンで勉強しなきゃいけないでしょ。
大人の対応として、春希君には、
これをクリスマスのプレゼントにしようと思っていてね。
それと、春希くんのお母さんも、結婚喜んでいたわよ」
母さんは、むき出しの箱を春希に手渡す。
あまりにも直接的なパッケージに、あたしも春希も、顔を赤くするしか選択肢がなかった。
それにしても、いつの間に春希の母親とあったんだよ。
根回しが早すぎるだろ。
春希「コンドームじゃないですかっ」
曜子「今子供ができたら大変でしょ。二人が昨夜、ことをしだしていても、邪魔するつもり
はなかったから安心してね。その辺の空気は読めるから。
ちゃんと枕ものとに、そおっとコンドームを置いて、消えるつもりだったのよ。
でもねぇ、なにもないとは意外だったわ。
二人とも純粋っていうのか、頭が堅いっていうのかわからないけど、
二人でいるだけで幸せだなんて、見ている私の方が胸やけしそうだったわ」
そう大げさなジェスチャー付きでほざきやがると、母さんはおもむろに脚を組み直す。
すると、母さんが持っていたペンと何か別の何かが一緒に床に落ちた。
春希は律儀にも、その二つを素早く拾うと、母さんに返そうとしたが。
春希「盗聴器じゃないですか。そういえばさっき、録画したとかいってましたよね?
今も録画してるんじゃないですか?」
かずさ「娘の情事を盗み聞くつもりだったのかよ」
曜子「そんな悪趣味はないわよ。これはリビングでの会話を聞くのに使っただけ。
録画の方は、もう撤去してあるわよ。でも、昨夜リビングで始めちゃったら
どうなってたかわからないけどね」
いやらしい顔で、厭味ったらしい顔をするんじゃない。
ここまでする親だったとは。今まで放任主義だったから油断していた。
春希「やめてくださいよ」
曜子「でもでも、親としては、娘にクリスマスプレゼントを渡したいじゃない?」
かずさ「とんでもないプレゼントを用意していたけどな。
どこの世界にコンドームをクリスマスプレゼントとして娘に渡す親がいる」
曜子「それだけじゃ悪いと思って、こうやって婚姻届も準備してきたじゃない」
春希「寝ぼけているときに書かせないでください」
曜子「じゃあ春希君は、かずさと結婚する気はないの?」
春希「ありますけど・・・」
曜子「じゃあ、いいじゃない」
春希「結果としては同じかもしれないですけど、過程が間違いまくっていますよ」
曜子「なんか頭が堅過ぎじゃない、春希君?
しょうがない。そんな春希君には、これをあげましょう」
またもや大げさなジェスチャーで語ると、今度は手のひらに収まる小箱を春希に渡す。
今度の箱は高級そうな装飾もされていて、
さっきのコンドームみたいなことはないと思える。いや、思いたい。
春希は、疑り深く受け取ると、ゆっくりとその蓋を開けた。
その中には、白銀に光る白い輪と、ひと際美しく輝くダイヤが収められていた。
春希「これって・・・、婚約指輪ですか?」
曜子「そうよ。あたしのお古。かずさの父親に貰ったもので、
たった一日しか、はめてなかったものだけどね。
でもね、かずさには、私が叶えられなかった幸せを実現してほしくて。
身勝手な女の押し付けで悪いわね」
春希「そんなことないです。光栄です。でも、いいんですか?
こんな大切な物を」
曜子「いいのよ。二人が使ってくれるっていうんなら、あの人も賛成するはずよ」
春希「自分は、曜子さんが納得しての決断でしたら、なにもいう事はありません。
かずさは?」
かずさ「あたしも、なにもないよ。でも、ほんとうにいいの?」
曜子「いいって言ってるでしょ。それとも、あなたの父親の事を聞いておきたい?」
かずさ「それは、どうでもいいよ。母さんが話したくなったら、しょうがないから
聞いてやる」
曜子「そう? だったら、そのうち聞いてもらおっかな」
春希「本当ならば、俺が用意すべきものなのに、申し訳ありません」
曜子「いいのよ。それに、プロポーズも、この子の暴走がきっかけだったんだし。
春希君のプランだと、まだ先だったんでしょ?」
春希「そうですけど、早まっても全く問題ありませんよ。
むしろ光栄です。・・・ただ、なにからなにまで全て曜子さんに用意して頂いて、
申し訳ない気持ちでいっぱいです。ウィーン行きも、曜子さんの協力なしでは
実現は難しかったですし」
曜子「あんなのは大したことではないのよ。大変なのはこれからよ」
春希「大した事ですって。俺は今回の曜子さんの協力を一生忘れることはありませんし、
一生かけても恩返しができないほどです」
曜子「恩返し出来ないほどだったら、素直に受け取っておきなさい。
それが親孝行っていうものよ。
親がね、娘と息子の為にしてあげられることなんて、たかがしれているのよ。
途中で娘をほったらかしにした無責任な親が言うべきではないんだろうけどね」
かずさ「ふんっ。あたしを置いていった時は、頭が真っ白になって、
どうしたらいいか途方に暮れたさ。でも、今は春希と出会って、
手をつなぎ、どこへ進めばいいかはっきりしている。
あのとき母さんがあたしを突き放してくれなかったら、
いつまでも母さんの背中ばかりおって、成長できないでいたと思うしさ」
曜子「そうね。あなたのピアノ、変わったわ。いい意味でね」
かずさ「でも、感謝はしないからな。怒っていたのも確かなんだし」
曜子「わかっているわよ。いつまでもしつこいのね」
かずさ「悪かったな」
曜子「そう? だったらいいわ」
あたしと母さんとのやり取りがひと段落すると、春希は先ほどの話を蒸し返す。
あたしからすれば、二人の生活を最大限援助してくれるんなら、大歓迎するだけだ。
だけど、春希からすれば、莫大な資金と時間を注ぎ込んでくれる義母に、
感謝だけでなく、多大な困惑を感じてしまうのかもしれない。
春希「いくら親だとしても、俺にまでここまで親切にしてくれるだなんて」
曜子「そうね、もし春希君がかずさを不幸にするんだったら、なにもしていなかったかも
しれないわね。でもね、かずさも、そして、私も、春希君のことを認めているの。
あとこれは親のエゴかもしれないけれど、旅に出る娘達には、
旅に出る前に、出来る限りの援助をしてあげたいのよ。
いったん旅に出てしまえば、親なんて無力よ。
コンクールでピアノを弾いている時、私が代わりに弾いてあげることなんて
できやしないのよ」
春希「それはそうでしょうけど」
曜子「極端な例え話かもしれないけど、私が伝えたい事はわかってもらえたかしら?」
春希「はい」
曜子「かずさは?」
かずさ「わかってるよ」
曜子「だったらいいわ。だから、もう少しだけ、
あなた達が私の手から離れていってしまうまでの、そのわずかな時間だけでもいいから、
私の我儘に付き合ってくれないかしら?」
春希「はい、宜しくお願いします」
かずさ「母さんの我儘に付き合うよ」
曜子「ありがとう、春希君。・・・かずさも、ありがとう」
なんだか、照れくさいじゃないか。母さんが、母親らしい事をするだなんて、
これは雪でも降るんじゃないか?
曜子「それじゃあ、区役所に行くわよ。
外は雪が降っていて寒いから、しっかりと着込んでらっしゃい。
あ、でも、ハイヤー用意してあるから、車までの距離しか寒くないけどね」
あたしは、そっと窓の外に視線を向ける。
今まで母さんのごたごたに付き合わされていて、外がいつもより白く光っているのに
気がつかないでいた。
いつの間に雪が降ったのだろうか?
降り積もった雪が乱反射していて、目を細めておかないと眩しすぎる。
目の高さにかざした指の隙間からのぞく世界は、今までとは違う。
どこか幻想的で、それでいて現実を突き付けられる世界。
昨日と今日。あたしと春希の関係が一歩進んだだけなのに、それだけなのに
別世界にいるみたいだった。
この日、北原春希は冬馬春希になった。
あたしにとって、これ以上のクリスマスプレゼントはありえないだろう。
・・・・・・これ以上はありえない?
そうじゃない。だって、昨日も最高に幸せだって思っていたら、
数分後には、それを上回る幸せが待っていた。
そして、今日も。
だったら、今日も春希と、そして、母さんと最高の幸せを探しに行こう。
そう心に刻み、母さんに見つからないように、春希にキスをした。
クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる』 終劇