心の永住者   作:黒猫withかずさ派

10 / 24
~coda 8

 

 

 

同日夜 麻理

 

 

 編集部で冬馬さん達との打ち合わせを終えると、かずささんはさっそく練習へと向かった。本来なら気持ちを乱す行為は避けなくてはならない時期であるのに、本当に申し訳なく思ってしまう。

 だから、早く練習に向かいたいというかずささんの要望を聞き入れ、打ち合わせも短めに終わらせることにした。細かい内容は曜子さんと直接話し合えばいいし、かずささんの取材も基本的にはその人柄を見る事が重要である。

 そもそも色々と質問したとしてもまともな回答を得られないだろうし……。これは春希からの情報だけど、きっとその通りなのだろうと、先ほどの対面で実感した。

 私は曜子さんから受け取った地図を片手に、かずささんが練習をしているスタジオに向かった。

 このスタジオなら、わざわざうちで寝泊まりするよりは当初のホテルから通う方がよっぽど時間を有効利用できるはずよね。それなのにうちでの生活を選んだという事は、やっぱり私と春希のことに起因しているはずね。

 建物の中に入り、スタッフに用件を伝えると、スムーズにかずささんがいるスタジオを教えてもらえた。

 このスタジオには他のコンクール参加者もいるようで、スタジオ内での取材はしないようにと念を押される。

 この事から、曜子さんが私の素性をスタジオスタッフに伝えてあることが分かった。自分から出版関係者であると名乗り出るほどでもないが、あとあと面倒事に巻き込まれるとも限らない。

 そう考えると曜子さんの抜け目のなさを改めて実感してしまった。

 私は曜子さんの指示通り挨拶もなしにレッスンスタジオに入っていく。

 かずささんは曜子さんのいう通り私の事など目には入っていなかった。その代わりというわけでもないが、室内に二つ用意されていた椅子のうちの一つに座っている曜子さんが私を出迎えてくれた。

 もう一つのほうの椅子に私に座れということなのだろうか。

 いつまでも立っているのもそれこそ練習の邪魔だと思うので、空いている椅子の方に座り、大人しく練習が終わるのを待った。

 

「今日はここまでにしましょうか」

 

「もう少しできるけど?」

 

「ううん。今日は荷物を風岡さんのお宅に運んでもらっているし、しばらくお世話になるんだからあまり遅くまで練習しなくていいわ」

 

「こちらのことはお構いなく、納得するまで練習してくだって構いませんよ」

 

「……わかったよ。今日はここまでにする」

 

「そ、じゃあ風岡さん後よろしくね」

 

「はい」

 

 曜子さんの練習ストップの要請にかずささんは最初こそ拒否の意思を示したが、それもすぐに撤回される。

 その辺の事情は特に問題はないのよね。問題があるとすれば、というか気になる点があると言えば、練習が終わったら曜子さんはすぐに部屋から出ていったけど、どういう事かしら?

 資料によると、曜子さんの師匠でもあるフリューゲル氏にかずささんも教わっていると記されている。それでも曜子さんによるなにかしらのレッスンもしているだろうし。

 だから、練習後にアドバイスや気がついた点を伝えると思っていのだけど……。

 それとも、私に聞かれると困る事があるとか? そもそもアドバイスは私が来る前に済ませてあったとか?

 曜子さんに策士としての印象を抱かずにはいられないけど、どうしてもその実態がつかめないのよね。

 

「あのさ……」

「はい?」

 

 顔をあげると、かずささんは既に帰る支度をしませたようで、部屋の入り口で私を待っていた。

 

「案内してくれないとわからないんだけど」

 

「すみません。今お連れしますね」

 

「あぁ、頼むよ」

 

 とても嫌われてしまうようなことをしてきたのに、これといって露骨に嫌そうな態度はみせないのよね。

 ……同時に、好かれているようにも見えないけど。

 私の方もできる限り好意的に接すように努めようとする。かずささんを自宅まで案内する途中、私の横に並んではくれないけど、斜めに一歩下がった位置を保ったまま付いてきてくれた。

 ただ、スタジオを出るときに交わした言葉を最後に、私も、そしてかずささんも言葉を発してはいない。

 外から見れば一見穏やかに見える二人の空間は、一歩二人の中に踏み込めば、おそらく混沌としていたのだろう。私たち自身がどうふるまっていいかさえわからないのだから当然とも言える。

 それでも私たちは共通の男性をこれ以上困らせたくない気持ちだけは一致しており、現状をより悪化させない事に尽くしていた。

 

「かずささんの荷物やベッドは届いているみたいです。そしてこの部屋がかずささんの部屋になります。狭くて申し訳ないのですが……。でも、部屋を交換したくなりましたらいつでも仰ってください」

 

 かずささんように用意した部屋には既にベッドと荷物が運び込まれ、掃除もされているようであった。

 春希がかずささんが気持ちよく部屋を使えるようにと掃除したようね。

 春希は打ち合わせの後、レンタルベッドの手配と荷物の受け取りの為に先に帰宅していた。

 その春希といえばは、現在スーパーに必要物資を調達に出かけている。メールでは、それほど時間はかからないとのことなのでもうじき帰ってくるのだろう。

 私との共同生活でも見せたまめな性格がここでも伺え、微笑ましく思えるのだけれど、最愛の彼女にしてあげているという事実を目の当たりにすると、私の胸はちくりと痛んだ。

 

「あのさぁ」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「ううん、なんでもない」

 

「そうですか? ……北原、でしたらもうすぐ戻ってくると思いますよ。かずささんに頼まれた品を買いに行っていますが、もうすぐ戻ってくるとメールがありましたから」

 

 近所の店で間に合いそうであるので、それほどは時間はかからないだろう。

 それに、編集部できっちりとかずささんから買うものを聞きだし、リストまで作ったのだから短時間で買い物は終わってしまうはずだ。

 編集部で、春希がリストを作る行為を見て自然と笑みが浮かんだ。ただ、かずささんも私と同様の表情を浮かべているのを見た時は心が痛む。

 きっと高校生の時の春希も同じようなことをしていたのね。そして、かずささんもその姿を何度も…………。

 

「あのさ……」

 

「はい?」

 

「あたしに対して敬語はいいから。しばらく一緒に暮らさないといけないのに、堅苦しい態度を取られると息が詰まるよ」

 

「かずささんがそうおっしゃるのでしたら、そのようにしますが」

 

「そうしてくれると助かる」

 

「はい」

 

「あとさ……」

 

「なにかしら?」

 

 ちょっとわざとらしい口調になったけど、しょうがないかな。

 でも、かずささんはいまだに何だか思い悩んでいるような表情を浮かべているし、私の口調、まだかたかったのかしら?

 それともやっぱり、春希が一緒じゃないと緊張してるとか?

 まあ、恋敵とまではいかないけど、私は邪魔ものだものね。

 

「うん、あのさ……」

 

「……ええ」

 

「……あのさ、無理に北原って呼ばなくていいよ。だって風岡さんも春希の事を春希って呼んでいるんでだろ?」

 

「……あっ」

 

 そうよね。気になるわよね。だって私が春希の事を北原って呼んだ時の口調は、かずささんに敬語を使わないとき以上に不自然だったって、自分でもわかったもの。

 

「別にあたしのことを気にして変えなくてもいいよ。そんなことをしたら春希も気を使うだろうし、あたしも気をつかっちゃうからさ」

 

「わかったわ。……ありがとう」

 

「風岡さんだけの為じゃないし、礼を言われるような事でもないよ」

 

「そうかもしれないけど、私は、……私はたくさん春希とかずささんに迷惑をかけてきたから。だから……、ごめんなさい」

 

「……謝罪もいらない。ここで謝罪されると春希を否定することになる。だから謝罪するのだけはやめてほしい」

 

「でもっ」

 

 春希から聞いていたかずささんとは別人のような気がしてしまう。 

 それはきっと春希の前だからこそ見せていた姿なのかもしれないけど、高校時代の冬馬かずさがクラスメイトや教師に見せていたような姿とも違うような気がしてしまった。

 そう、極論なのかもしれないけど、冷静さを保とうとする北原春希を真似しようとしているとも……。

 

「いいんだ」

 

「でもっ、私は……。かずささんから春希を引き離した。春希はすぐにでもかずささんの元に行きたいのに、私のせいでできなくなってしまったのよ。だから、私がっ」

 

「やめろっ!」

 

 両手のこぶしを握りしめ、何もない宙を叩きつける。

 さすがピアニストね。

 どんなに怒りを我慢できなくなっても手だけは痛めつけないのねって冷静に分析する自分がいるのと同時に、自分の認識が間違っていた事に気がついていく。

 かずささんは別に冷静さを保とうとしていたわけじゃない。

 私を許そうとかしていたわけでもない。

 すべては春希の為。

 春希を困らせないようにと必死だっただけなのね。

 だから慣れない環境であっても、この家にいるだけで胸が張り裂けそうであっても、自分が暴走するのを我慢していたのね。

 だって感情的に責めたら、春希が春希自身を許すことなんてなくなるってわかっていたから。春希をこれ以上追い詰めない為だけに、彼女は必死だった。

 そして最悪のケースとして、最愛の人、冬馬かずさを傷つけるのであれば春希は春希本人さえ消し去ってしまうだろう。それができる人だって、私たちは知っている。

 

「悪いけど一人にしてほしい」

 

「わかったわ。春希が帰ってきたら教えるわね」

 

 かずささんは返事の代りに右手をあげると、毅然とした態度で自室へと入っていた。

 ぽすんとベッドがきしむ音が聞こえてはきたが、あとは何も聞こえてはこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

数日後 かずさ

 

 

 風岡さんと暮らしてみて実感した事だけど、この人はすごい。それがすべてだった。

 あたしをこの家に連れてきた当日、あたしは感情的になってしまったのに、風岡さんはずっと冷静にあたしに対応してくれた。

 あたしの心が静まるのを待ち、その日の食事はあたしと春希の二人っきりでできるようにはからってもくれた。

 でも、あとから春希に聞いた話によると、風岡さんの病状は悪化していて、今はわずかに取り戻した味覚さえ失ったとか。

 あたしが家に転がってきた当日なんかは、昼も夜も食事ができない状態だったらしい。

 それでも翌日の朝は三人で朝食をとったのだから、その精神力の強さはかなわないと実感してしまった。

 今日は風岡さんも春希も編集部での仕事は休みだとか。

 それでも春希は自宅で仕事に追われていた。

 まっ、その仕事っていうのが、なかなかまともなコメントを残さない取材相手のせいでもあるんだけど……。

 一方風岡さんはというと、あたしの練習に見学に来ており、今は二人で昼食を取ろうとしていた。

 

「あのさ……すまない」

 

「ううん。これが仕事だし、コメントだって意識的に考えて出たものよりは、自然とこぼれ出たコメントの方が貴重なのよ。だから、かずささんはピアノに集中していればいいわ」

 

「いや、違くてさ……」

 

 スタジオの備え付け休憩室は小さいながらもあたし達以外の利用者がいないおかげで十分すぎるほどのスペースを確保できている。

 テーブルにはサンドイッチとミネラルウォーターが並んでいた。

 あたしが気にしてたことは、風岡さんが練習に付き合っている事でも、食事に文句があるわけでもない。

 問題があるのは、あたしの目の前で風岡さんがサンドイッチを食べようとしていた事だった。

 

「あのさ、大丈夫なの?」

 

 あたしの視線を追ってくれたのか、今度は意図が通じる。

 それと同時に、大丈夫だという意思表示なのか、風岡さんはサンドイッチにかぶりついた。

 

「あぁ、春希なしで食事ができるかってこと? 一応リハビリの一環として春希なしでの食事もするようにしているのよ。まだ週一回くらいのペースだけどね」

 

 それは聞いているけど、そうじゃないだろ。だって、この前まで吐いて、食べられない状態だって聞いているんだぞ。

 そりゃああたしの前では弱気な姿を見せたくはないだろうけど、……でも、でもこれって強すぎるだろ。そんな人が相手だなんて、勝てないって。

 無理だろうがなんであろうと平常心を作り出そうとするその姿に、あたしは勝てないと実感してしまう。

 この数日、風岡さんは無理に笑顔を作ろうとはしてこなかった。でも、笑顔は無理でも普通に生活できるようにと努力していた。

 あたしはといえば、気持ちが抑えきれなくなったら部屋にこもり、出来る限り汚いあたしを春希には見せないようにしていたにすぎない。

 

「そっか。あたしになにができるってわけでもないけど、無理だけはしないでほしい」

 

「大丈夫よ。無理をしたって意味はないもの」

 

「そうだな。…………あのさ、味覚がないってどんな感じなんだ? ごめんっ。無神経だった。今のは忘れて欲しい」

 

「別にいいのよ」

 

「でも……」

 

「そうねぇ……、最初は驚いたけど、味覚がない事自体は慣れたわ」

 

「そうなのか?」

 

「今はわずかだけど味覚が戻ってきたというのもあると思うけどね」

 

 たぶん風岡さんはあたしが春希から風岡さんが再び味覚を失った事を聞いているってしらないんだ。

 でも、あたしが来る前までは味覚が少し戻ってきたのはほんとらしいし、嘘ではないか。

 それに、言葉にはしてないけど、春希がそばにいるっていうのもあるんだろうな。あたしの前では言えないだろうけど。

 そんなあたしが考えている事に気がついたのか、風岡さんは微妙な照れ笑いを浮かべると、その笑みを打ち消すように話を続けた。

 

「でもね、味覚そのものは我慢できるけど、なんていうのかな、トラウマっていうの? 味覚がないだけで食べても気持ち悪くはならないはずなのに、一度気持ち悪くなってしまった恐怖なのかな。そういうのが残ってしまって食べるのが怖くなってしまったのはきついかな」

 

「それは…………」

 

「春希が私の前からいなくなるという事が原因だけど、それも大丈夫だから」

 

 風岡さんはあたしが口にできなかった言葉を代りに紡ぐ。

 結局はあたしが無理やり言わせてしまったことに自責の念を抱かずにはいられなかった。

 やはりこの人は強い。このあたしにすら弱いところを隠さないなんて、あたしなら絶対に無理だ。

 

「そんなに身構えなくてもいいわ。春希はかずささんのことを一番に考えているわ。私のリハビリも春希のニューヨークでの研修までって決めてるから。だから、それまでは我慢してくださいとしかいえないけど」

 

「ううん、いいんだ。あたしが春希から逃げたのも原因の一つだから。でも、春希は知ってるのか? リハビリが研修終了までって」

 

「まだ言ってないわ。だって私の体調が完全になおるのっていつになるかわからないもの。それなのに期限を決めるなんてことをしたら、春希にプレッシャーを与えてしまうわ」

 

「でも、…………研修が終わったらって」

 

「まあ私の中で決めていることだけどね」

 

 それって…………あたしと同じように突然春希の目の前から消えるってことかよ。

 そんなことしたら春希が傷つくに決まってるじゃないか。

 

「駄目だっ!」

 

 静かな休憩室に声が響く。廊下にも声が漏れただろうが、幸い防音処置がされている他の利用者がいるスタジオ内には聞こえてはいないようだ。廊下にいれば聞こえてしまっただろうけど、今は目の前の風岡さんに…………いや、あたしは春希の事を心配してしまった。

 風岡さんは、春希だけでなくあたしの事まで気にかけてくれているのに、あたしときたら体調を壊している人を目の前にしながら、ここにはいない春希のことばかり考えていた。

 どこであっても春希が世界の中心で、どこまでも行っても春希しかいない世界。

 最近では母さんやフリューゲル先生もいることはいるけど、それでも春希がいなければあたしの世界は成立しない。

 そんな独善的で独りよがりの世界は、あたし以上に春希を大切にしている存在を前にすると、あたしはあたしの世界の幼稚さに打ちひしがれてしまう。

 だめだっ、逃げ出したい。

 今はピアノさえも弾きたくない。コンクールなんて無理に決まってる。

 ましてや今のあたしの演奏を春希に聴かせるなんて絶対にいやだ。

 母さんはあたしの演奏を聴いて何か思うところがあるみたいだったけど、きっとあたしが今気がついた事に気が付いていたんだろうな。

 でも、なにも言ってこないって、放任主義にしてもやりすぎだよ。こういうときくらいは助けてくれても…………。

 駄目だ。

 あたしったら今も誰かに頼ってしまってる。風岡さんは一人で頑張ろうとしているのに。

 あたしが春希を奪い去っていこうとしているのに…………。

 

「大丈夫よ。いきなり春希の前から消えたりなんてしないわ」

 

 何も言ってないのにあたしの考えている事がわかるんだな。

 …………違うか。この人は、この女性は、あたしにそっくりなんだ。

 あたしができないことを実践してしまうところは大きく違うけど、やっぱりこの人も春希が世界の中心で、春希の為を思って行動してるんだ。

 だから春希の為にそばから離れようとして、春希が冬馬かずさの元に行けるように準備を進めているんだ。

 だとすれば、あたしの予想なんてあたってほしくはないけど、風岡さんの病状って、あたしが思っているよりもよっぽど悪いんじゃ…………。

 

「ちゃんと春希とは話しあうつもりよ。それも研修が終わる直前ではなくて、それなりに春希が気持ちの整理ができる時間もとるつもり。だから、春希が傷ついたままであることもないし、私の事が気がかりでかずささんのところに行けないなんてことはないわ。それに、私の職場は開桜社ニューヨーク支部だし、やめるつもりもないわ。だからね、どこかに消えようにも消えられないって言うのかしら? まあ、根っからのワーカーホリックだって言われそうだけど、こればっかりは自覚してるからしょうがないかな」

 

「あのさ……」

 

「ん?」

 

「あの……………………、風岡さんっ!」

 

 今さっきまで笑顔だった風岡さんから表情が抜け落ち、同性のあたしからみても華奢で女らしい肢体が目の前で崩れ落ちていく。

 腕か何かがに引っかかって椅子も倒れ、風岡さんの重さよりも椅子の方がよっぽど重いんじゃないかって思えるほどその体は静かに床で弾む。

 椅子が倒れ、ガンっと響く音が風岡さんの代りに泣き叫んでいるようで、ここでも風岡さんは自分の事を後回しにしているなんてどうしようもない事を考えてしまった。

 ようは、あたしは目の前で起こっている現実に理解が追い付いていっていなかった。

 今目の前で風岡さんが倒れ、助けが必要なはずなのに、あたしは何もできないでいる。

 そうか。そうだったんだ。だからか…………。

 あたしは、マンハッタンにある開桜社の会議室で春希に出会った時から現実を受け入れてなかったんだ。

 テーブルを見渡すと、ついさっきまで元気だった風岡さんが食べていたサンドイッチがおかれていた。

 それをよく見ると、パンには綺麗な歯型が残っていた。

 そう、歯型が綺麗に残っていて、パンを噛みきった跡など残ってはいない。

 つまり、風岡さんはサンドイッチを食べることができなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

かずさ

 

 

 手の震えが止まらない。大事なコンクールの本番前であろうとあたしの手が震えたなんて事はなかった。

 このままあたしも意識を失ってしまえばどれほど楽だっただろう。

 でも、そんなことはできない。

 春希が悲しむから。

 どこまでも独善的な理由で自分を奮い立たせようとするあたしに、あたしは自分が嫌いになってきていた。

 それでも震えながら椅子から立ち上がり、テーブルの下を見つめると、風岡さんが青白い顔をして倒れたまま動かないでいる。

 今さっきまであたしと話していたのに、どうして?

 元気ってわけでもないだろうけど、倒れるような雰囲気はなかったはずなのに。

 でに、サンドイッチ食べられなかったかの。そうだよな。だって、風岡さんはあたしが来てからは、まともに食事ができないでいたって春希が言ってたし。

 やっぱり、あたしの前では弱ってる姿なんて見せられないよな。春希にしかみせられないよな。

 あたしは風岡さんみたいに春希に弱ってる姿なんて見せられなかった。いつもかっこいい冬馬かずさを見せたいって思っていて、いっつも空回りして、空回りしかできないで、最後の最後で春希を困らせて傷つけた。

 もっとあたしが春希に甘えられていたら。

 もっとあたしが春希を信頼していたら。

 あのとき、あたしが素直になっていたら、彼女を深く傷つけることなんてなかったのかもしれないのに。

 

「…………んっ」

 

 かすかに漏れる出る苦痛の吐息にあたしは現実に引き戻される。

 この人を助けないと。春希が大切にしているこの人を助けないと。

 あたしになにができる? なにをしないとしけないんだ?

 そうだ。人を呼ぶんだよな。でも、誰を?

 あたしはいまだに震えが止まらない手を無理やり動かし携帯を手に取る。

 ウィーンでは何度も電話しようとしても最後までやり遂げることができなかった春希の番号を迷いもなく押す事ができた。

 

「もしもし? …………もしもし?」

 

 春希の声が聞こえるっていうのに、あたしはなにを話せばいいかわからないでいた。

 こっちが無言でいると、春希のほうもこっちに異常があったのではと声に焦りが混ざってくる。

 春希の焦りを感じてもなお、あたしは声を出せないでいた。

 

「かずさ? 今練習の休憩中か? ……かずさ?」

 

「……あ」

 

「かずさ? いるんだろ? なにかあったのか? なあ、かずさ?」

 

「かざ…………」

 

「かざ? かずさ?」

 

「だ、から…………」

 

「かずさ? かずさが言いにくい事なら麻理さんに代わってもらってもいいぞ。麻理さんいるんだろ?」

 

「だから、風岡さんが…………」

 

「麻理さんが?」

 

 ようやくあたしが言葉を紡げるようになったおかげで春希の言葉から焦りの色は消えていく。

 しかし、あたしの様子が変である事には変わりはなく、春希はあたしの異常を気にかけているようであった。

 

「いきなり倒れて、だから、どうしたらいいかわからなくて。助けて……助けて春希っ!」

 

「かずさ落ち着け。今麻理さんと二人なのか?」

 

「うん」

 

「スタジオにいるんだよな?」

 

「うん」

 

「スタジオのスタッフは?」

 

「いると、思う」

 

「わかった。誰でもいいからスタッフに携帯を渡してほしい。あとは俺が伝えるからさ」

 

「うん。……ごめん」

 

「いいって。俺もすぐ行くから」

 

「うん」

 

 春希が救急車よりも早く来て、病院へ風岡さんが運ばれていくのをあたしはそばで見ていただけだと思う。

 春希の声を聞く事ができて安心できたという事もあるけど、目の前で風岡さんが倒れたというショックもでかかったはずだ。

 いつの間にかに母さんも病院にやってきてあたしをホテルに連れ帰ろうとしたらしいんだけど、それはあたしが拒否したらしい。

 どうもそのへんの事情はあたし自身でさえあやふやだけど、あとで母さんに聞いた話によると、あたしが春希の側にいたほうがいいと思って無理には連れ帰らなかったとか。

 つまり、あたしの精神状態も相当やばかったんだと思う。

 錯乱状態で暴れまくったわけではなかったみたいだけど、今のあたしが考えつく答えとしては、もしかしたらあたしが風岡さんみたいになっていたかもしれない未来と重ねてしまったのだろう。

 

「かずさ、大丈夫か?」

 

 病室から出てきた春希は、あたしの顔を見て不安そうな顔で尋ねてくる。

 静まり返った廊下は人の気配はなく、ときおり遠くの方で響く足音がする程度であった。

 最初は風岡さんは処置後に大部屋に移される予定だったらしいが、母さんがあたしとの繋がりを隠す為に個室に移したとか言ってたけど、それだけじゃない気がする。

 きっと母さんなりに風岡さんに負い目があったんだと思う。

 あたしも母さんも風岡さんを追い詰めたって自覚があるから。

 もちろんあたしも春希も、そして風岡さんも加害者であり被害者ではあるはずだけど、誰よりも自分以外の二人を大切にしていたのは風岡さんだっていえる。

 

「あたしは大丈夫だよ。風岡さんは?」

 

「今日はこのまま病院に泊まって、明日には退院できるだろうって。幸い明日は日曜日だし、月曜日からは麻理さんの事だから出社しそうだけど、どうしたものかなって考えてはいる。普通なら家で休んでもらったほうがいいんだろうけど、麻理さんの場合は仕事をしている方が落ち着くのかなって」

 

「……そう。春希は?」

 

「俺? 俺は仕事に行くと思うけど」

 

「違くて……、ショック受けたりしてないのかなって」

 

「俺の場合は覚悟ってほどではないけど、麻理さんと一緒に暮らしていたからさ。だから、麻理さんの事を支える為の心構えくらいはできていたから大丈夫。でも、かずさはショックだったんじゃないか? 俺の事を気にするよりも、コンクールの事だけを考えていいんだぞ」

 

「コンクールは別に大した問題じゃないよ。本番は来年のジェバンニだし」

 

「でも、スポンサーとかあるって言ってたじゃないか」

 

「そうだけどさ、そのへんは母さんに任せてあるから」

 

「だったらなおさら今回のコンクールも頑張るべきじゃないか? 曜子さんも色々動いてくれているみたいだし、その期待には応えたほうがいいと思うぞ。その為の練習をしてきたんだし、今はコンクールに集中すべきだ」

 

「だけどさ、あたしのせいで風岡さんが…………」

 

「かずさだけのせいじゃない。俺のせいでもあるから」

 

「だけど、あたしの目の前で倒れたっていうのに、あたしは何もできなかった」

 

「それは仕方がないことじゃないか。誰だっていきなり人が倒れられたらパニックになるだろうし」

 

「でもっ、あたしが風岡さんを傷つけて」

 

「俺もかずさを傷つけた。日本で、かずさがいるって知らないでさ。…………駅前で見たんだろ? 俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところ」

 

「あっ……うん」

 

 あの時の光景は今でも夢に出てきて、うなされて起きる事がある。

 春希の前から逃げたっていうのに、しかも会いに来てくれたのに会わなかったというのに何を言ってるんだよって自分で自分を責めたいほどなのに、目の前で春希が離れていっているのを見せつけられてしまうと、あたしの覚悟の浅さを思い知らされてしまう。

 それと同時に春希への想いの深さを知ることにはなるけど、そんなの春希に伝えなきゃ意味がない事だ。

 

「あれさ、なぐさめてもらっていたんだ。俺の心がボロボロになって仕事に逃げて、体までボロボロになっていたところを麻理さんに救ってもらおうとしていたんだ。麻理さんから逃げようとすれば、必ず麻理さんが追ってきてくれるってわかっていてさ、わざと逃げて、そして、抱きしめてもらった」

 

「……そっか」

 

「俺は、ずるいんだよ。麻理さんを罠にはめたんだ。その結果俺の体調は良くなったけど、俺以上に麻理さんの体と心はボロボロになった。なにやってるんだかって話だけど、俺のせいで麻理さんを傷つけてしまったんだ。……最低だろ? だから、麻理さんが完全復帰とまではいかないまでも、ふつうに食事ができて、仕事に打ち込めるようになるまでは待っていてほしんだ。それまでは麻理さんを一人にはできない」

 

「そうだよね。あたしもその方がいいと思う」

 

「だから、もう少し待っていてほしい。必ずかずさの元に行くから、だから、もう少しだけ時間がほしい」

 

「春希…………」

 

「身勝手な話だってことは重々承知してる。曜子さんにも呆れられるだろうし、かずさを傷つけてしまうってこともわかってる。でも、頼む。麻理さんを助けたいんだ」

 

「春希……。わかったよ」

 

「ありがとう」

 

 あたしは春希の顔を見ることができなかった。

 春希はあたしが怒っていいるか照れ隠しをしているんだろうと思っているみたいだけど、実際のあたしはそんな綺麗なあたしではなかった。

 むしろ怒っていられればどれほどよかったことか。

 感情のままに春希に怒りをぶつけ、泣きさけんで春希を困らせる。そして、駄々っ子になりさがったあたしをあやしてもらって、一件落着?

 そんな単純で、純粋で、綺麗事だけで済ませられる自分でいたかった。

 だってあたしは、春希に伝えられなかった。

 風岡さんは春希の研修が終わったら、今のリハビリ共同生活を終わらせるつもりだって言ってたんだから。

 そのことを春希はまだ知らない。

 それなのにあたしは春希がしばらく待ってほしいという希望を聞き入れてしまった。春希の事をしばらく待つ必要もなく、半年もすれば共同生活が終わるのを知っていた。

 だから春希の要望を聞き入れる事が出来たって思えてしまう。

 そんな醜いあたしが、そんな汚らしいあたしを、どんな顔をしているかわかったものではないあたしを、春希に見せたくなかっただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

翌日 かずさ

 

 

 翌日春希と一緒に病院に向かうと、風岡さんの体調は回復し、今すぐにでも退院しようと準備を進めていた。

 その姿を見てほっとしたのと同時に、この強さの源はなにかなって考えてしまう。

 考えるまでもないか。だって春希に弱っている姿をいつまでも見せたくはないもんな。

 あたしだったらそうするだろうから、風岡さんならなおさらか。

 

「退院の許可は下りましたけど、今日いっぱいはしっかりと休んでくださいよ。医者もそうするように言っていましたし、もし休んでくれなければ、明日無理やりであっても休んでもらいますからね」

 

「わかっているわよ。それに今日はもともと日曜日だし、休みの日よ。仕事はしないわ」

 

「それならいいですけど」

 

「かずささんもありがとね。目の前で倒れられたらびっくりするわよね」

 

「あたしは何もできなくて、ごめん」

 

「いいのよ」

 

「……でも」

 

「それに、練習の邪魔しちゃって、こっちのほうが悪い事をしてしまったって思っているのよ。今日も練習あるのでしょ?」

 

「このあと行く予定」

 

「そう。……曜子さんに毎日練習を聴きに来るようにって言われているけど、今日は……」

 

「いいんだ。そのくらい母さんもわかっているから」

 

「ごめんなさいね。でも、春希医師の許可が下りでば行けるかもしれないから、その時はよろしくね」

 

「あぁ、でも無理はしないでほしい」

 

 春希は苦笑いを浮かべながら風岡さんの提案にさっそく不許可を示す。

 その姿がなんだか微笑ましく思えてしまう。ちょっと前までのあたしなら激しい嫉妬をだだ漏れにしてしまっているはずなのに、今は心静かにその姿を見つめることしかできないでいた。

 

「じゃあ支払いの方を済ませてきますね。その間に持ってきた服に着替えておいてください。あっでも、支払いに時間かかるだろうからゆっくりでいいですからね」

 

「わかってるわよ。でも、休日だし支払いはすぐ終わると思うけど?」

 

「だったらもう一度担当医師とお世話になった看護師の皆さんに挨拶してきますから、ゆっくり帰宅の準備をしていてください」

 

「はぁい」

 

「じゃあかずさ。後頼むな」

 

「あぁ、任せておけとは言えないけど、留守番くらいならできるかな」

 

「それで十分だよ」

 

 春希を送り出すと、さっそく風岡さんは着替えを始める。あたしが病室から出ていくべきか迷っていると、風岡さんはあたしがいるのに着替え始めた。

 まっ、女同士だしいいか。それに、着替えの最中に倒れられても大変だしな。

 と、あたしはとりあえずエチケットというわけでもないが、着替えを見ないようにと窓際まで進み、どことなく目を外へ泳がす。

 布が擦れあう音がしばらく続いたが、それもすぐに終わりを迎える。

 

「お待たせ。服は着替えられたけど、汗で体がベトベトなのは嫌よね。はぁ……、早くお風呂に入りたいわ」

 

「病院に来る前に春希がお風呂の準備していたみたいだから、家に帰ったらすぐにお風呂入れると思うよ」

 

「さすが春希ってところね」

 

「そうだな」

 

「春希って昔からこんな感じなのかしら?」

 

「こんな感じって?」

 

「女心には鈍感なくせに、他の事なら先回りっていうか事前準備が万全っていうのか。……そういう感じ、かな」

 

「それだったら昔からそんな感じだと思う。しかもお節介で、こっちの迷惑を考えないで行動するところがうざかったかな」

 

「うざかったっていうことは、今ではうざいほどにかまってほしいって事じゃない?」

 

「そんなことは…………」

 

 この人に嘘をついても意味はないか。虚勢を張っても絶対に見破られるだろうし、それにこの人には嘘をつきたくないっていうか。

 そうだな。日本にいるだろう彼女とは違うタイプ。そう、彼女とは正反対だけど、それでも素直でまっすぐで、春希の事を想うだけじゃなくて、しっかりと前をみて行動できる人。

 今はやややつれた顔色を見せてはいるが、それさえも大人の魅力だと思えるほど人を引きつける。

 気丈に振舞う姿もやせ我慢とは違う意思がこもった言動は、春希じゃなくてもそばで支えたいって思えたしまうんだろうな。

 そんな風岡さんが羨ましくて、逃げ出したくて、自分がみすぼらしく思えてしまう。

 でも、そんな人だから、春希だけじゃなくてあたしも認めたくなる人だから、あたしも病気を克服してほしいって思えてしまった。

 

「そうだな。春希は昔からうざくて、こっちが迷惑だって追い払ってもしつこく付きまとってきたけど、今ではそれも懐かしいかな」

 

「そっか。でも、私が知っている北原春希は、そんなねちっこさなんて見せはしなかったけど、物事の先を見て行動している奴だったかな。ほんとに大学生なのって思えるほどしっかりしていたけど、しっかりしすぎて自分の体っていうか、体調面なんて気にもせず働いてしまう部分は心配だったけどね。まあ、あとになって何故春希がそこまで体をいじめ抜いていたかを知ったら理解できたわ」

 

「春希は……、危うかったのか?」

 

「そうね。こちらが止めに入らなければ働き続けていたでしょうね」

 

「あたしのせいだ」

 

「自分だけを責める必要なんてないと思うわよ。失礼で、しかもお節介すぎるとは思うけど、春希から高校でのあなたたちのことは聞いたわ。身勝手な他人からの意見としては、みんな悪かったってことじゃないかしら? 当事者じゃないから適当なことしかいえないけど」

 

「お節介な奴には慣れているから大丈夫だ。それに、春希が教えたんなら、その必要があったってことだよ。だから、雑誌の記事にされるのは困るけど、風岡さんが知っている分には構わないよ」

 

「ありがとう」

 

「いいんだ。……春希は、どうだったんだ?」

 

「かずささんがいなかった間のことかしら?」

 

「あぁ……」

 

「私も大学での春希を知っているわけでもないし、編集部では仕事を一生懸命やっていたっていうことしか知らないのよね。かずささんのことを聞いたのもつい最近だっていってもおかしくないほどだし。でも、そうね。春希も認めている事だけど、仕事をすることで見たくない現実から逃げていたわ。くたくたになるまで仕事して、大学でもきっちりと勉強して、そして家に帰ったら何も考えずに寝られるようにしていたって教えてくれたわ。やっぱり私も春希も、そしてかずささんも周りの評価ほど強くはないのかもしれないわね。いっつも見栄張って強いふりしていても体と心はガタガタになってるし」

 

「そうだな。笑えないほど見栄張っちゃって、自業自得だ」

 

「見栄を張る事自体は悪くはないわ。そこそこでやめられるようにしないといけど」

 

「高校で一度やめたピアノも、春希に引っ張られて再開したんだ。結局は春希から逃げる為にピアノを利用してウィーンまで行っちゃったけどさ」

 

「春希は仕事で、かずささんはピアノかぁ。似た者同士ね」

 

「それは風岡さんもだろ?」

 

「かもしれないわね」

 

「でもさ、ピアノは春希の為だけに弾いてきたわけじゃないけど、やっぱりこのままコンクールに出ないでウィーンに帰りたいと思う」

 

 あたしからしたら衝撃発言だと思うのに、風岡さんは驚かない。

 この人はやっぱりわかっていたんだな。

 あたしが逃げ出したいってわかっていたんだ。

 すべてを見透かすような瞳は嫌いじゃない。だって、あたしを写す鏡みたいで、どこか応援したくなってしまうから。

 

「そう……。春希には?」

 

「まだ伝えてない」

 

「曜子さんには?」

 

「母さんは、わかっていると思う。あたしの練習を聴きに来ても何も言ってはこないけど、たぶん母さんは全てわかっていると思う。あたしが弱い人間だと誰よりもわかっているからさ」

 

「そうかしら?」

 

「なにが?」

 

「曜子さんはかずささんが弱いって知っていると思うわ。母親であり、先生であり、なによりもかずささんの一番の理解者だもの」

 

「そうだろうな。ぜったい母さんには言えないけど」

 

「そうね。いいお母さんね」

 

「外から見ている分にはそう思えるだろうな」

 

「そうかしら? ……でも、いつも驚かされないといけないとしたら苦労するかもしれないわね」

 

「だろ?」

 

「だけど、かずささんの将来を一番心配しているのも曜子さんだし、信頼しているのも曜子さんよ」

 

「あたしを過大評価しているだけだ。あたしは母さんみたいには強くはない」

 

「だからウィーンに帰る?」

 

「そうだ」

 

「あと半年もないわ。そうすれば春希はかずささんの元に戻るわ。だから……」

 

 風岡さんの魅力的すぎる提案にあたしの心は揺れ動く。

 弱いあたしは今すぐにでもあたしだけの幸せを求めようとしてしまう。きっとこの幸せを手繰り寄せても幸せになると思う。

 春希も風岡さんのことを気にしながらも、あたしの事を誰よりも大切にし、あたしだけを見ようとしてくれるはずだ。

 あたしも、たまに春希がニューヨークの方角によそ見をするのを気がつかないふりを続ければ、穏やかで愛され続ける日々を送れるはずだ。

 だけど、それが本当にあたしが求める幸せなのかな?

 あたしだけが幸せになるって本当にあたしが求めるものかな?

 だってあたしは、春希に幸せになってほしい。

 誰よりも愛していて、世界でただ一人愛する春希には、幸せになってほしい。

 それに、あたしが幸せにしてあげたいとさえ思ってるし、春希を幸せにするのはあたしの役目だって、誰にも譲れないって思ってる。

 だから、だからこそ、風岡さんが差し出す甘すぎる幸せは、受け取れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

麻理

 

 

「あたしは、……あたしは春希に弱っているところなんて見せられない。かっこ悪いところを見せる事ができなくて、いつも空回りするんだ。その点風岡さんは自然体の自分を春希にさらせていて、うらやましい、と思ってしまうんだ。わかってる。わかってるよ。あたしの考えがずるいってわかってるんだ。でもさ、しょうがないじゃないか。どうしたらいいかわからないんだ」

 

 かずささんは私の事を素直で正直な女だとも思っているのかしら?

 私だって恥ずかしいものは恥ずかしいし、病気の姿なんて見せたくはないのに。しかも、その原因が春希なんだから、その原因を知っている春希がどう感じているかなんてかずささんならわかるはずよね。

 春希が私の側にいていくれる理由が純粋に愛情だけだったら、それこそ喜んで病気だろうと、恥ずかしいほどの情けない姿だって見せてあげるわ。

 でも、春希が私の側にいてくれるのは責任感が大きく占めるのよね。

 それがどれほど辛いか。どれほど逃げ出したいか。

 どれほど春希から離れられなくなってしまうかなんて、かずささんはわかってない。

 ただかずささんは、このまま私がいなくなっても春希の気持ちがおさまらない、風岡麻理を元気にできないままではいられないって思っているのかしら?

 そんなことはないのに。私が春希のもとをさったら、今度こそ春希は私を一人にしておいてくれてしまう。

 私が春希の側にいるのが辛いという気持ちを理解してしまう。

 それに、春希はいつだってかずさんのことを一番に考えてしまっているのよ。

 

「私だって春希にいいところを見せたいと思っているわ。ただ私の現状を考えると、いくらかっこつけても意味がないってだけだから、わざわざ意味もないあがきをしていないだけ。だって、そんなことをしても春希が私に気を使わせるだけなのよ。だったら春希の為にも私は無様といわれようが情けない姿を春希にさらすわ。だから、かずささんが考えているみたいに自然体の私を春希に見せているわけではないわ」

 

「そんなことはないっ。だってあたしが風岡さんと同じような状況だったら、春希には見せられないよ。ぼろぼろのあたしなんて見せることなんてできない。それこそすぐに春希の元から逃げ出しているはず」

 

「じゃあ、今も逃げてしまうのかしら? たぶん春希は追いかけてはこないわよ。だって、春希がかずささんの側にいることでかずささんを傷つけてしまうのならば、春希は自分から身を引いて、かずささんの幸せだけを考えてしまう、はずね。春希は自分の事よりもかずささんのことを考える人だもの」

 

かずさ「だろうな。実際あたしがウィーンに逃げても、追いかけてくるどころかメールの一つもくれなかったからな。ただ、あのことは他の理由もあったことはあったけど…………」

 

 あぁ……、そうだったわね。

 春希も高校での出来事がなければ、自分の気持ちに正直になってウィーンに言ってるわよね。

 まあ、そんな「もし」を考え始めてしまったら、そもそもかずささんはウィーンに行ってはいないのかもしれないし。ううん、春希のことだから、春希がウィーンの大学にでも入学して、かずささんがピアノの勉強ができる環境を優先していたかもしれないわね。

 もしもの話はおいておいて、自分で言った事ではあるけど、今の春希はかずささんの為に自分の感情を押し殺す事を平気で実践することができるって理解してしまうと、春希は薄情な男って評価してしまいそうね。

 冷静に考えれば、春希の思いやりはただしいんだろうけど、女の立場からすれば、私の気持ちなんて考えないで追いかけてきてほしいって思ってしまうのよね。

 そんな乙女心っていうのかしら? そういう所は気がつかない人だったわ。

 

「だったら、今回は春希と向かい合うべきよ。プライドとか見栄とか考えないで、裸の冬馬かずさを晒せばいいのよ」

 

「それは……。あたしは春希の為なら、見栄とかプライドなんて捨てる事はできるさ。だけどさ、裸のあたしを春希に見せたら、きっと春希は困ってしまう。あたしも春希と一緒にいたいよ。一緒にいたいけど、一緒にいられない時間が辛いんだ。一緒にいられない時間がたくさんあって、それを突き付けられると辛い」

 

「でも、高校を卒業してから3年会えていなかったわけだし、それに比べればあと半年くらいは我慢できるはずよ」

 

「そうじゃない。そうじゃないよ」

 

「え?」

 

「あたしが知らない春希が増えていくことが辛い。わかってるよ。24時間ずっと春希の側にいられることなんてできないってわかってはいるけど、でもさ、春希と再会して、数年ぶりに春希への気持ちを再確認したら、前よりも春希の事を好きになっていたんだ。そうしたら春希とずっといたいって思ってしまった。それの何が悪いっ」

 

「悪くはないわよ。それが素直な気持ちなら」

 

「今までずっと我慢してきたのが、嘘みたいにできなくなっちゃって。これからは我慢なんてできそうにない。だから、だからさ。これ以上あたしの気持ちが制御できなくなる前に…………」

 

「逃げ出したい?」

 

 まるで私を見ているようね。

 私も春希から逃げるようにニューヨークに来たのよね。

 だって春希にはかずささんがいたわけだし、私が春希のそばにいたって報われる事はない。だったら一刻も早く春希の前から逃げ出すのが一番なのだけれど、でも…………。

 でも、おそらくかずささんもわかっているはず。

 春希の前から逃げたって自分の心を傷つけて、心のバランスが崩れるだけ。

 私みたいに味覚障害になるかはわからないけど、最悪かずささんの場合はピアノが弾けなくなる恐れがありそうね。

 それこそ春希が自分の事を許せなくなりそうではあるけれど。

 

「そうだな。このままウィーンに帰ったほうがいいと思う」

 

「私ね、思うのよ。春希はかずささんのずるい姿も見たいって思ってるって確信してる。だって春希ったら、私が人には見せたくもない弱っている姿を見ても態度を変えなかったわ。むしろ親身になって助けてくれた」

 

「何が言いたいんだよ?」

 

「だからね、春希はかずささんの弱っている姿も、ずる賢い姿も、我儘を言っている姿もすべて見たいと思っているはずだわ。だって、春希だもの。春希の高校時代のことを話してくれたわよね。お節介でねちっこくて、こっちの都合なんてお構いなしでかまってくる委員長タイプだったかしら。だったら今もその委員長さんに甘えてもいいのではないかしら? むしろ春希は積極的に甘えて欲しいと思っているはずよ」

 

「そう簡単にできるわけないだろ」

 

「どうして?」

 

「それは……」

 

 かずささんが私にむけてくる視線は、眉は下がり、いつも力強い意思がこもった瞳は今は影を落とし弱々しい。しかし、私がその視線に気がつくと、すぐさま視線を横にそらし、気まずそうに目を伏せ、落ち着きがなかった。

 …………そっか。そうよね。春希のお節介は、「今は」かずささんだけに向けられているわけではないのよね。

 それが期間限定であろうと、お情けであろうと、私が拒否しなければ春希は風岡麻理を最後まで見捨てることなんてしやしない。

 

「わかったわ」

 

「えっ?」

 

「私も半年で春希の前からいなくなるのをやめるわ」

 

「えっ? えぇぇぇえぇっっっ~?」

 

「そんなに驚かなくても」

 

「だって、だってさ」

 

「そんなに恋敵が消えないのが残念なのかしら? あぁそうね。そもそも恋敵の地位さえもらえていなかったわね」

 

「ちがうって。そんなこと思ってないって」

 

「じゃあ、私の事を恋敵だと?」

 

 やはり私の視線から逃げるように目をそらすかずささんであったが、目にいつもの力強い意思が戻ってくると、真正面から私を見据える。

 

「あぁ、最大の恋敵だ」

 

「それは光栄ねとでもいうべきかしら?」

 

「あんたもわかってるんだろ? 春希が同情や償いだけでここまで親身になったりはしないって。春希があんたを大切にしているのは、あんたを手放さないのは、愛情がこもってるからだってわかってるはずだ」

 

「ここでイエスと言ってしまうと自信過剰だって自己嫌悪に陥りそうだけど、たしかに春希から愛情を感じているわ」

 

「やっとあんたも素直になってきたな」

 

「あなたも遠慮がなくなってきたわよ?」

 

「こっちはいっぱいいっぱいで、遠慮なんてする余力なんてない」

 

「それもそうね。私も余力なんてありはしないわけだし」

 

「でもさ、ちょっと冷静に考えてみると、春希って、ただの浮気やろうだよな」

 

「極論すればそうかもしれないけれど、ある意味純粋に行動しているわけだし、なによりもかずささんを一番大切にすることはぶれていないのだから、ただの浮気と断罪するのはかわいそうかもしれないわ」

 

「なにいってるんだよ。こんなにも可憐な女二人を不幸にしているのに、なにが二人を幸せにしたいだ」

 

 あっ……、なんかかずささんのリミッターが外れちゃった?

 緊張が極限を超えてしまったから、こうなってしまったようね。ある意味ぎりぎりまで張りつめた緊張感を乗り越えて演奏をしてきたピアニストらしい言動とも考えられるけど、まっ、これは、ただの地ね。

 春希もかずささんはある一線を越えると遠慮がまったくなくなるって言ってたわけだし。

 

「そうだけど、二人とも幸せにしようと奔走している姿だけは誉めてあげてもいいのではないかしら?」

 

「いいんだよ。ちょっとくらい愚痴を言っても」

 

「でも、嫌いにはなれないのよね?」

 

「あたりまえだっ。それに、そっちもだろ?」

 

「ええ、そうよ。本当は春希の研修後には春希から離れようと思っていたけれど、かずささんを見ていたら無理だってわかってしまったわ。だから、もう遅いわよ? かずささんが駄々ををこねなければ邪魔ものが勝手に消えてくれていたのに、惜しい事をしたわね」

 

「ふんっ。そんな虚勢を張っていても、春希の前から消えて半年もしないうちに戻ってきそうじゃないか。あたしと違って我慢が出来ないようだからな」

 

 なにが我慢よ。どこかの忠犬みたいに、ずっとご主人様が来るのを待つなんて私には無理ね。

 どこかで諦めて忘れてしまうか、忘れる為に仕事に打ち込むか、それとも、自分に正直になって会いに行くか、かしら。

 そうね、前の二つは今の私には無理か。となると、必然的に最後の選択肢しかないのがまいってしまうところだけど。

 

「そうよ。悪い?」

 

「悪いなんて言ってないよ。むしろ羨ましくもある」

 

「なんだかいじらしいとも見る事もできるけど、じれったくもあるわね」

 

「言ってろ」

 

「そんなかずささんの為に、一つ提案があるわ」

 

「どんな提案だよ?」

 

「かずささんがニューヨーク国際コンクールに出るのは、調整の意味もあるけど、スポンサー獲得の意味合いもあるのよね?」

 

「たぶんね。スポンサーの方はコンクールで1位を取れば得られるのもあるけど、母さんはそれよりも数年単位でサポートしてくれるところを探しているみたいだな。あたしはタッチしてないから詳しいとこはわからないけどね。まあどちらにせよ、コンクールで1位をとる事は必然だな」

 

「でも、コンクールで1位をとる自信はあるのよね?」

 

「当たり前だろ。なにせ本番は来年だからな。ここでつまずくわけにはいかないさ。それに、ニューヨーク国際のスポンサーは1位じゃないと意味ないからな。2位や3位にもサポートしてくれるみたいだけど、1位と比べると待遇が全く違うらしい。まさに別次元の待遇っていってもいいらしいよ」

 

「だったらここでウィーンに帰るなんてできないわよね? 曜子さんが頑張ってスポンサーを探してくれているわけだし」

 

「それは……」

 

「それに、1位になれば、ニューヨークを拠点にして演奏活動ができるのではないかしら? もちろんヨーロッパが本場だし、コンサートやコンクールのたびにヨーロッパ遠征に行かなければならないけれど、それでも春希がいるニューヨークに拠点を構える事ができると思わない?」

 

「それは…………。ん? ちょっと待って」

 

「なにかしら?」

 

「春希はニューヨークでの研修が終わったら、日本に帰るんじゃなかったのか?」

 

「そんなことはいってないわ」

 

「でもあんた。半年たったら春希から離れるっていってたじゃないかっ」

 

「それは、私が春希から離れる準備をするっていっただけよ。そもそも春希はニューヨーク支部勤務志望だし、このままニューヨークに残ると思うわよ。実際その為に春希は実績を見積み上げているわ」

 

「だったらなんで春希から離れるって言ったんだよ。あんたもニューヨークにいるんだろっ」

 

「まあそうね。あたしが上司なわけだし、春希とは職場ではいつも一緒ね」

 

「だったら春希から離れるとはいわないだろっ」

 

「顔も見ないとは言っていないわ。共同生活をやめようと考えていただけよ」

 

「ちっさい決意だな。ぜんっぜん春希から離れようとしてないじゃないかっ」

 

「あなたには言われたくないわね。何年春希の事を思い続けているのよ」

 

「言ったな! あたしが春希のことだけを想っていて何が悪い!」

 

 ようやく過激な本音が出て来たわね。

 …………それは、私も同じか。

 だってね。私も春希から離れることなんてできやしないもの。

 

「悪くはないわ。だって、私もかずささんと同じ気持ちだもの」

 

「……そ、そうか。そうだよな」

 

「だからかずささん。ニューヨーク国際コンクールで1位をとって、ニューヨークのスポンサーを勝ち取ってください。そして来年のジェバンニ国際コンクールでも最低でも4位に入ってください。曜子さんと同じ4位ならば、スポンサーも認めてくれるはずよ。そうすればかずささんのニューヨーク進出が本格的に始動するはず」

 

「簡単に言ってくれるな」

 

「簡単だとは思っていないわ」

 

「でも、必ず結果を残せって思ってはいるんだろ?」

 

「ええ、当然よ。だって、春希と一緒にいたいのでしょ?」

 

「あたしがニューヨークに来たら、あんたは都合が悪いんじゃないのか? あたしが母さんとウィーンにいてくれた方が春希を独占できるんだぞ?」

 

「いいのよ。私が春希をかずささんの元に戻ってほしいという気持ちに嘘はないもの」

 

「でも、それだけではないんだろ?」

 

 あら? わかってしまうのね。……似たもの同士だからかな。

 

「かずささんがニューヨークで活動してくれれば、春希もなんの障害もなくニューヨークに居続けてくれるわ。そうすれば、私もずっとは春希の側にいられないとしても、春希がかずささんのことばかり気にかけていても、病弱な私の為に少しくらいはお情けをくれるはずかな?」

 

「だぁぁ……、したたかなやつだったんだな、あんた。もうちょっと大人の人だと思っていたら、実際はあたしよりもガキじゃないか」

 

「そうよ。春希が好きなんですもの。だから、側にいたい。…………かずささん。お願いします。春希の側にいさせてください」

 

 私は背筋をぴんと伸ばしてかずささんと向き合う。

 凛とした瞳で見つめ返すその瞳には、もはや迷いはなかった。

 おそらく私を映し出す効果もあるその瞳には、私にももはや迷いがないってわかってしまう。

 

「わかったよ。これも春希のためだからな」

 

「ありがとう、かずささん」

 

「だから、春希のためだって。春希がニューヨークにいられれば、あんたのリハビリも継続できるからな」

 

「そうね。早くよくならないとね」

 

「あんたの病気に関しては、あたしも協力するよ。この前あんたが倒れた時は何もできなかったけど、これからは違うからな。もう覚悟できたから、逃げたりしないからな。だからといって、しょっちゅう倒れられたら困るけどさ…………」

 

「ええ、宜しくお願いします」

 

 こそばゆい雰囲気が私たちの肌を撫でていく。

 これが友情だっていうのならば、これこそ歪な友情よね。

 だって、愛する男を介しての友情なんていつ崩壊するかわかったものではないもの。

 だけど、今はこれも悪くはないと思えてしまっている。冬馬かずさを知れば知るほど親近感がわき出てしまうから。

 いつかは本当に春希との別離を経験しなくてはならなくなるだろう。

 でもその時は一人ではないと思う。

 佐和子もいるけど、一番の敵であり理解者でもあるこの子がいてくれれば、きっと私は立ち直れるって思えてしまう。

 

「あとこれは言いにく事なんだけど、目上の人に対して「あんた」とか「そっち」はよしてくれないかしら? たしかにこちらの立場が下だとは思ってはいるけれど、もう少し人生の先輩を敬うとまではいかないまで丁重に扱ってほしいわね」

 

「だったら、……そうだな」

 

 かずささんは意地悪そうな笑みを浮かべている。

 これが冬馬かずさ本来の魅力だと、私は瞬時に理解した。

 いたずら好きで、自由奔放で、掴みどころがないくせに寂しがり屋。

 一人でいるのを求めながらも、愛する人や自分が認めた相手だけは手放さない。

 そういう可愛いらしい身勝手さを内に潜めた笑顔が、力み過ぎた私の肩から力を奪い取っていった。

 

「春希を好きになった後輩として、風岡さんのことを麻理さんって呼ばせてもらうよ。それと、麻理さんはあたしのことは元からかずささんだし、それでいいよ。もしかずさがいいんならかずさでもいいけど」

 

「ありがとう。でも、私も先輩に対して呼び捨てにするわけにはいかないから、かずささんって呼ばせてもらうわね」

 

「そうしてくれ」

 

「ええ、これからよろしく頼むわ」

 

「頼りにしてるよ」

 

 こうして私たちは協力する約束を結んだ。

 周りから見たら情けない女の同盟だっていわれそうだけど、同じ男を惚れてしまったのだからしょうがないじゃない。

 それに、こんな歪な関係も、今は心地よいとさえ思えてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

かずさ

 

 

 まっ、こんなものだろうな。

 ニューヨーク国際コンクルールの結果発表が行われ、歓声がこだまする中、あたしは静かにその光景を見つめていた。

 母さんは既にスポンサー候補だった企業担当者と今後のことについて話し始めているようだ。

 それなのにあたしとはいえばぽけっとしているだけで、このコンクールの勝者であるはずなのに静かに時に身をゆだねすぎていた。

 別に嬉しくないわけではない。1位を取る予定だってし、1位を取りたいとも思っていた。これで麻理さんとの約束も一部分だけだけど果たす事が出来た。

 といっても、ここからが本番であり、来年のジェバンニで勝つことこそ大仕事なのだが、今はその本番のことさえも頭から薄れていた。

 

「かずさ、おめでとう」

 

「おめでとうございます」

 

 この場の雰囲気に不釣り合いなオーラを撒き散らしていたせいか、1位をとったのはあたしだというのに誰も寄りつこうとはしなかった。

 もともと目つきがきついとか、人を寄せ付けないオーラがあるとか言われてはいたけど、こうも露骨にされてしまうとすがすがしくもある。げんに、1位のあたしを差し置いて2位や3位の奴らの周りには取材攻勢が盛り上がり、あたしの周りには春希と麻理さんの二人がいるだけだった。

 あとで春希から聞いた話によると、あの二人は地元アメリカの注目ピアニストで、つまりは地元の期待の星ってやつだったのだろう。

 こういっちゃなんだが、あたしが1位をかっさらっちゃって悪かったなってさえ、聞いた直後には言いたくもなったってしまった。まあ、あたし達はすでに帰宅したあとだったから、言うとしても春希と麻理さんにしか言えないんだけどさ。

 

「あぁ、そっちもお疲れさん。ほかの取材は終わったのか?」

 

「もともとかずさの特集記事を書く為に俺達があてがわれただけだから、ほかのピアニストのものは代表質問のだけで十分だ、それよかかずさ。お前、せっかく1位貰ったんだから、もうちょっと愛そう良く質問に答えろよ。お前のあとでインタビューされていた2位の人の方がよっぽど愛そうが良かったし、途中から参加した奴がいたとしたら、かずさではなくて2位の人が1位だったと勘違いするほどだったぞ」

 

「べつにいいだろ。あたしが1位だったことは変えようがない」

 

「そうだけどさ。もうちょっと嬉しそうにできなかったのか?」

 

 どうも春希はあたしが1位らしからぬ言動に、ご機嫌斜めらしい。

 春希からしたら、もっとこの場で輝いた冬馬かずさをみたかったのかもな。

 でもさ春希。あたしは春希だけに見てもらえればいいとさえ思ってるんだよ。ほかの連中になんて見てもらいたいと思わないし、見せたいとも思わない。

 なんて言ってしまうとさ、春希の事だからピアニスト失格だなんて、お説教しそうだよな。

 でも安心しろ。ピアノは別だ。ピアノの前ではあたしは正直でありたいし、誠実でもありたい。

 

「あたしも嬉しくないわけではないよ。でもさ、来年が本番なんだぞ。今回とは比べ物にならないほどのプレッシャーがあるし、参加者のレベルも高くなる。だから、ここで喜んでいる場合でもないのかなって」

 

「そ、そこまで考えてたのかっ」

 

 春希が馬鹿でかい声をあげるものだから、周りにいた連中がこっちを見てるじゃないか。

 それでも元々騒がしい会場とあって、すぐさまあたしたちへの興味は霧散していく。

 

「春希も大概だな。あたしをなんだと思ってるんだよ?」

 

「ごめんっ。かずさのことを馬鹿にしていたわけじゃないんだ。ただなんていうか、俺が知らなかった冬馬かずさっていうのかな。ピアニストの冬馬かずさと初めて向き合ったっていう感じだと思う。だけど、かずさのピアノの腕は昔っから尊敬しているし、ファンでもあるんだからな」

 

「わかってるよ。そんな急いで言い訳しなくてもわかってるさ。それに、あたし自身もあたしが冷静でいる事に驚いてるっていうのかな。ちょっと変な気分でもある」

 

「そうなのか? それはかずさがピアニストとして生きていく心構えができてきたって事じゃないのか?」

 

「かもしれない。あたしも母さんにひっついてコンサートに行っていたからな。やっぱプロってすごいよ。楽器の腕だけじゃなくて演奏に入るまでの準備もすごかった。あとはそうだなぁ……。スポンサーとかもそうだし、美代ちゃんみたいに支えてくれている人たちがいる事も少しはわかってきたかな」

 

「それ、記事にしてもいいのか?」

 

「うん? 別にいいよ。どうせ今まで一緒にいたけど、何が記事になって何が記事にならないかさえ分からなかったからな。それに、もし問題があったら母さんがストップを…………かけないだろうな、絶対。笑いながらゴーサインだすぞ。あぁ~、春希。わかってるよな。あたしに恥かかせるような記事は書くなよ」

 

「メインのライターは麻理さんだから、俺がどうこうできる立場じゃないよ。でも、麻理さんがかずさのことを悪く書くとは思えないから安心しておけ。もしかずさが悪印象をもった部分があっても、それはかずさが突かれたくはない部分であり、直さないといけない所だと思うぞ」

 

「自分のことじゃないからって好きかって言ってくれるな」

 

「自分ことだよ。かずさのことは他人事じゃない」

 

「春希ぃ……」

 

 授賞式の興奮よりも、今春希がくれた心の方が数倍嬉しかった。

 ウィーンに逃げ、春希との繋がりが消えていき、あたしの存在さえも春希から消えてしまう恐怖におびえてきたこの数年。今やっとその苦しみから解放された気がした。

 晴れ渡る空なんて陳腐な言葉で表現したくはないけど、元々語彙力が乏しいあたしには今の気持ちを表現なんてできやしない。

 春希や麻理さんなら、的確な言葉を選び、言葉だけであたしの感動を表現できるかもしれない。

 でも、あにいにくあたしにはその能力を持ち合わせてはいない。

 だったら、あたしにできる事といったらこれしかないよな。

 

「ちょっと待ってて。いや、こっちに来てくれ」

 

 あたしは春希の手を掴み、人混みをよけ進んでいく。

 行き先は決まっている。このコンクールで一番活躍したというのに、今は部屋の片隅でオブジェになり下がっている黒い相棒。

 黒髪に、黒のドレス。それに黒いピアノ。

 黒づくしで派手さなんてものは全くない。それでもいい。あたしの黒髪が好きだって言ってくれる春希がいればいい。

 この地味なドレスがよく似合ってるって誉めてくれた春希さえいればいい。

 そして、あたしの一番のファンでいてくれる春希の為なら喜んでピアノを弾いてやるよ。

 だから聴いて欲しい。言葉にはできないけど、きっと春希になら届くはずだから。

 あたしはピアノの鍵盤に指をのせ、春希に頬笑みかけると、春希の為だけに演奏を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしたちは会場から早々に引き揚げ、家に戻り最後のインタビューをしていた。

 会場ではあたしの演奏で火がついたのか、ほかの受賞者までも演奏を初めてしまい、会場はある種のパニック状態であった。

 まあ、会場にいた人たちは喜んでいたみたいだし、問題はないか。

 演奏後のあたしにインタビューしてこようとするやつやら、ただ話しかけてくるだけのやつやらとか、面倒事に巻き込まれそうにはなったが、人のうねりがあたしを助けてくれた。

 そして今、麻理さんと春希によるインタビューは終わり、これで全ての取材が終わった事になる。

 そうなるとあたしはここから出ていくことになるし、そもそもコンクールが終わったのだからウィーンに帰る事になる。

 別にここに残りたいって駄々をこねるつもりはない。あたしが成長していくにはニューヨークじゃ無理だから。

 今はウィーンで自分と向き合い、フリューゲル先生と母さんの教えに従って練習しなければジェバンニでは勝てやしない。

 それに……、今のあたしじゃここにはいられないよ。いたらきっと嫉妬するし、心が乱れまくってピアノどころじゃないだろうしな。

 

「これで取材はお終いとなります。かずささん、ありがとうございました」

 

「いや、こちらこそ世話になったよ。だから、こちらこそありがとうだ」

 

「記事については曜子さんのほうで処理するそうですから、かずささんもなにかあったら早めに言ってくれると助かるわ。差し替えしたい個所があるのなら、早めでお願いするわ」

 

「その辺は母さんに任せるとするよ」

 

「春希」

 

「はい?」

 

「明日かずささんはウィーンに戻ってしまうのだし、あとは二人でゆっくり話し合いなさい。私は今まで取材したのをまとめているわ」

 

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

「じゃあ、かずささん。素直になりさない」

 

「……善処する」

 

 ほんと、素直になれたらっていつも思うよ。

 麻理さんは、あたしと春希をリビングにおいて自室へと戻っていく。

 あらたまって話し合いをしろっていわれてしまうと、変に緊張してしまう。

 それは春希も同じようで、なんだか落ち着きがない。ソファーを何度も座りなおしているのを見ていると、なんだか可愛らしく思えてしまい、あたしの肩が軽くなってしまった。

 

「どうした?」

 

 きっとあたしは笑ってしまっていたのだろう。

 だって、春希の顔が微妙に引きつってるから。

 

「いや、さ。うん。春希も緊張するんだなって」

 

「そりゃあするさ」

 

「そうだよな」

 

「でも、かずさのほうがすごいじゃないか。俺だったらあんな大舞台で演奏なんてできやしないぞ」

 

「そうかな? 春希だって学園祭で演奏したじゃないか」

 

「あれは高校の学園祭だろ。かずさが今回演奏したのは世界的に有名なニューヨーク国際コンクールであって、規模が違いすぎるだろ」

 

 春希にとってはそうかもしれないよな。

 でも、あたしにとっては同じなんだよ。聞いて欲しい人がいて、その人の為に弾くんなら、どこで弾いても同じプレッシャーをうけるだけなんだ。

 

「会場に来ている客が違うだけだろ?」

 

「そんな単純なものじゃないと思うんだけどな」

 

「単純だよ。あたしは峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属の冬馬かずさであって、……いや、元峰城大であり、元軽音楽同好会所属かな。まあいいか。……えっと、その春希がよく知る第二音楽室でピアノを弾いている冬馬かずさにすぎないんだ。ウィーンに行こうがニューヨークで弾こうが、どこであってもあたしは春希がよく知る冬馬かずさなんだ」

 

「かずさ?」

 

「だからさ、その………………あたしは北原春希が大好きな冬馬かずさにすぎないんだ。いつも春希を盗み見て、春希の事ばかり気になって、春希にあたしのことだけを見てもらいたい冬馬かずさなんだ。今日の演奏も1位を取れたけど、やっぱ駄目なんだなって思う。母さんの演奏をそばで聴いていると、次元が違うと言ってしまえばそれまでだけど、冬馬曜子とは見ている世界が違うんだ」

 

「目指すべき目標みたいなものが違うってことか? それともピアニストとしての格が違うとか?」

 

「どうだろうな。母さんもあれはあれですごい人格者でもなく、最低な母親である部分もあるから、高尚な目標があるわけでもないんだとは思う。だけど、ピアニストとしては尊敬してる。あの人を追い抜きたいって思ってはいる」

 

「ピアノの技術とかの問題ではないんだろうな」

 

「もちろん技術的な問題もあるけど、やっぱり……見ている世界が違うのが大きな問題だと思う」

 

「そっか。いつかかずさも曜子さんが見ている世界を見られるといいな」

 

「あぁ、……そうだな」

 

 簡単に、言うなよ。

 

「俺に出来る事ならなんでもするからな。なんたって、俺は冬馬かずさの一番の大ファンなんだから」

 

 だから、そんな事を言うなって。

 春希にできることはあるよ。でも、それをしてしまうと、さぁ……。

 

「本当にあたしの為なら何でもしてくれるのか?」

 

「もちろん。かずさが曜子さんの領域に行けるのなら、俺は喜んでなんでも協力するぞ」

 

 嬉しそうな顔をして言うなよぉ。泣きたくなるじゃないか。

 って、泣いてるのかな、あたし?

 

「かずさ?」

 

「よしっ。今の言葉忘れるなよ。あたしの為になんでもしてもらおうじゃないか」

 

「ちょっと待て、かずさ。なんで泣いてるんだ? おい、かずさ」

 

「それ以上あたしに近寄るな。近寄っちゃ駄目だ」

 

 あたしの必死の抵抗も春希には効果はない。

 何度も泣きやもうと試みて失敗するあたしを見ては、春希はあたしに触れなぐさめようと前に進み続けてしまう。

 

「近寄るなっっっ!」

 

 自室に戻っている麻理さんにも聞こえているんだろうなぁ。

 きっとあの人の事だから、あの人だからこそあたしの気持ちをわかってしまうはずだな。

 そっか。麻理さん。こういう気持ちだったんだ。春希の為であり、あたしのためであり、麻理さんの為でもある決断。

 

「かず、さ?」

 

 怒りにも近い感情を呼び起こし、あたしの弱すぎる心を奮い立たせる。

 意味がわからず戸惑いを見せる春希に、悪い事をしたなって思いもある。

 でもさ、今は無理だよ。自分勝手な方法しか考えられないんだ。

 あたしのことなんて忘れくれ。そうしないと北原春希が尊敬するピアニスト冬馬かずさは誕生しないんだ。

 そして、そうしないと春希の隣に居続ける資格もない。

 甘えてばかりの冬馬かずさは今日でお終いだ。

 でも大丈夫だよ、春希。春希の隣には麻理さんがいるからさ。

 麻理さんなら傷ついた春希を支えてくれるはずだよ。

 そうだな。世界で二番目に春希のことを愛しているこの人なら、春希を前に進めさせてくれるはずだ。

 だから、…………さよなら春希。

 

「あたしたちってさ、恋人になったわけでじゃないよな」

 

「そうだけど、俺はかずさのことが……」

 

「言うなっ!」

 

「かずさ?」

 

「ごめん。今はごめんしか言えないんだ」

 

「……わかった」

 

 ごめんね、春希。今は春希の優しすぎる言葉は致死毒なんだ。

 ほんのちょっとでも触れてしまえば溺れてしまう。

 

「恋人ではない。でも恋人に近い関係だと勝手に思っていたから、いいよね。こうやって別れ話をしても、いいよね? ちょっと変だけどさ」

 

 もはや春希は口を挟まない。

 あたしの言葉を一言も、息継ぎの呼吸さえも聞き逃すまいと耳を傾けてくれる。

 

「峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属、冬馬かずさは、同所属の北原春希と、別れます。あたしと別れてください」

 

 あたしの言葉、届いたかな?

 届いたか。だって春希が絶望したって顔してるもんな。

 わかってるよ。なんでこんな残酷な仕打ちをしたのかって考えてるんだろ?

 あたしだって、あたしだって、さ。

 …………………こんなのやだよぉ、春希ぃ。

 

「本心か?」

 

「あぁ、そうだ」

 

「決めていたのか?」

 

「どうかな? 決心できたのはさっきかな?」

 

「さっき?」

 

「あぁ……、授賞式のあとでピアノ弾いた時」

 

「あれか」

 

「うん、そう」

 

「その決断は覆らなんだよな?」

 

「当然だろ」

 

「…………わかった」

 

 いやだっ! もっとあがいてよ。もっと身勝手になってよ。あたしをさらってよ。

 ピアノをやめろって言ってくれ!

 

「明日ウィーン帰るんだよな?」

 

「その予定」

 

 あたしは、あたしは春希が大好きなんだ。ここに残ってピアノだってやめたっていいんだ。

 でも、それじゃダメだんだ。

 今のままのあたしじゃ、ピアノをやめたとしても駄目なんだ。

 高校時代のあたしのままでは、素直に春希と向き合えない。

 だから、ここでさよならだ。

 

「一ついいか?」

 

「……どうぞ」

 

「ありがとう、好きでいてくれて。………………でも俺が、北原春希が冬馬かずさのことを、好きでいるのはいいよな? 俺が勝手に憧れて、勝手に好きでいる分にはいいよな。頼む、それだけは認めてくれ」

 

 ずるい。

 ずるいよ、春希。

 あたしに直接毒を送り込むなよぉ。不意打ち過ぎるだろ。

 

「かずさ?」

 

 春希がさらに困惑したって顔をしているかはわからない。

 わかってたまるか。春希が悪いんだ。あたしの決心をずたぼろにした、春希が悪いんだ。

 

「俺は近寄ってないぞ?」

 

「当たり前だ。あたしが春希に抱きついたんだからな」

 

 あたしは春希の胸に飛び込んでいた。

 しっかりと背中にまで腕を回し、けっしてほどけないようにと力を込める。

 あたしの弱さに気がついてしまった春希は、あたしをあやすように抱きしめてくれた。

 

「そうだよな。でも、なんで?」

 

「にぶいぞ春希」

 

「すまない」

 

「それが北原春希だから、しょうがないか」

 

「面目ない」

 

「いいって。そんな春希の事を愛してるんだからな」

 

「かずさ?」

 

「本当はもっと恰好よく別れて、そして、もっと恰好よく再会する予定だったんだぞ。それをぶち壊しにしやがって。どう責任とってくれるんだ」

 

「すまない。理解不能っていうか、よくわからない。できれば俺が理解できるように順を追って説明してくれると助かる」

 

「わかったよ」

 

「ありがとな」

 

 本当ならソファーに座ってゆっくりと話すべき内容なんだと思う。

 だけど今は一秒だって惜しいんだ。

 いくら本当の別れをしないとしても、明日ウィーンに戻る事実だけは変えようがないからさ。

 だから今は春希を近くで感じさせてもらうからな。

 

「春希と別れたいっていっても、今のあたしも高校時代のあたしも同じあたしだし、春希が大好きな気持ちは変わらないよ」

 

「ありがとうって、いうところか?」

 

「おそらく。まあ、今はいいよ」

 

「わかった」

 

「でもさ、高校時代のあたしっていうか、今のあたしは高校時代のあたしのままなんだ。春希だけを愛して、春希だけを見て、春希だけのために演奏している。それじゃあピアニストとしては死んでしまう」

 

「それが曜子さんと見ている世界が違うってやつなのか?」

 

「厳密に言えば、母さんだって男の為だけに演奏する事もあるよ。コンサートだっていうのに自分の酔いしれて、観客を無視して自分の為だけに演奏した事さえあったんだ」

 

「それはすごいな」

 

「でもさ、母さんはいつだって世界を見てる。いっつもただ一点だけを見ているって事はないんだ。だからピアニストとしての限界は果てしなく高い」

 

「つまり……」

 

 ここまで言えば、春希もわかってしまうよな。

 あたしのそばに春希がいることこそがピアニスト冬馬かずさにとっては害悪だって。

 

「あたしが春希だけを見続けている限り、あたしの演奏の幅はそこで死んでしまう。ピアニストとしては完成されちゃって、面白みがないピアニストになってしまう。そんな聴いていても興奮しない奏者なんて面白くないだろ? だれが馬鹿高いチケットを買ってまで聴きに来るっていうんだ」

 

「かずさの為、なんだよな?」

 

「そうだ」

 

「ピアニスト冬馬かずさは世界を目指すんだよな」

 

「そうだ」

 

「ジェバンニ。1位とれよな」

 

「それはぁ……、善処する。いや、春希の為に取るよ。…………ちょっとまて。春希の為って言っちゃ駄目なんだよな。あたしの為に取る。これでいいか?」

 

 笑うなよ。こっちも必死なんだぞ。

 

「その時はインタビューさせてくれるか?」

 

「独占インタビューだ」

 

「それはありがたいな」

 

「あたしの事を誰よりもわかっている記者だからな」

 

「そのためにも研修が終わっても、このまま編集部に残れるようにしないとな」

 

「ニューヨークにいてくれよ」

 

「ここに?」

 

「その予定なんだろ?」

 

「そうだけど」

 

「あたしはジェバンニで1位をとって、そしたら、ニューヨーク国際の副賞のコンサートで、ニューヨークに凱旋してやる。スポンサーも喜んでくれるだろうから、きっと盛大なコンサートになるぞ」

 

「楽しみだな」

 

「楽しみにしていてくれよ」

 

「あぁ。チケットも、一番前の席を買ってみせるよ」

 

「一番前は、演奏を聴く場所としてはあまりよくないんだぞ」

 

「かまわない」

 

「そっか」

 

「かずさに一番近い場所で聴きたいんだ」

 

「…………っ」

 

「かずさ?」

 

 ひどいよ。ひどいよぉ、春希ぃ。

 やっぱり、別れたくないよぉ……。

 でも……、でもさ、クラスのお節介焼きだった北原春希の好きな、かっこいい冬馬かずさを、見せてあげたいんだ。

 

「もし、……もしあたしたちが恋人になる未来があるのなら、きっとあたしたちは再会する」

 

「そうだよな」

 

 涙で春希の顔が見えないよ。

 ……でも、もういいよな。

 今からは素直な冬馬かずさでもあるんだから。

 

「なんて言ったけど、ジェバンニには聴きに来てくれるんだよな?」

 

「おそらく。今回の記事がよければだけど」

 

「その辺は麻理さんがメインライターだから大丈夫じゃないの?」

 

「そうだな」

 

「だったら、ジェバンニで待ってる」

 

「必ず行くよ」

 

「それに、時期は未定だけどニューヨークでのコンサートは決まってるから、春希がジェバンニにこれなくてもあたしの方から会いにくるけどな」

 

「そうなってしまうと、さすがにかっこ悪いから、絶対にジェバンニに行くからな」

 

「期待してるよ」

 

「あぁ、期待していてくれよ」

 

「最後にもう一ついいかな?」

 

「どうぞ」

 

「春希と再会して、あたしが春希の元に戻ってきた時。その時春希があたしの事を愛してくれていたら、そのときは、あたしがもうどこにも行けないように、ずっと抱きしめていてほしい。その時には、春希だけしか見えなくなっても大丈夫になっておくらかさ」

 

「約束する」

 

「あぁ、約束だ」

 

 こうしてあたしは春希と決別して、翌日にはウィーンに帰って行った。

 

 

 

 

 

 

 

麻理

 

 

 春希とかずささんがニューヨークでの最後の夜を過ごしている中、私は自室でインタビューしたものをまとめていた。

 冬馬かずさの人物像を組み立てていくほど、春希がこの子を好きになった理由がよくわかってしまう。

 かずささんに嫉妬していないといえば嘘にはなる。私も大人になったといっても聖人君子になったわけではないのだから、一人の大人の女性として、好きな男性が他の女性に夢中になっていればヤキモチを妬いてしまうのは当然のこと。

 綺麗事を言ってしまえば、この黒くなりきっていない嫉妬を表に出さないのは好きな男の為でしかないともいえる。でも、春希の為に行っている事とも言えるけど、本当はたぶん私が無理なんだと思う。

 かずささんから春希を奪ってまで幸せになりたいとは思えない。

 それをしてしまったら、きっと私は不幸になってしまうもの。

 もし春希を奪ってしまったら仕事ができなくなって退職して、春希以外のものには興味さえなくなってしまう気がしてしまう。

 そんな私を想像すると、嫉妬する事さえ怖くなってしまう。

 それと同時に、そんな甘美な世界なら溺れ死んでしまいたいという女の私もいる事は消しようもない事実なのよね。

 だけど、私が求める未来ではない。

 私は幸せになりたいけど、春希には、私以上に幸せになってほしいもの。

 だから春希を奪う事はしない。

 だから、…………奪わないから、今は、今だけは、ちょっとだけでいいから甘えさせてください。

 インタビューのチェックが進み、一区切りがつくころには日付が変わっていた。

 日本にいるときだったらあたりまえの工程日程であって、24時が過ぎてもまだまだ就業時間ではあった。

 ところがニューヨークに来てからは、体の不調もあって健康的すぎる睡眠をとるようにしている。

 だから、今の24時は本来ならばベッドの中にいる時間だった。

 そこに、控え目にドアを叩く音が告げられる。

 一番最初に頭に浮かんだのは春希だった。

 まっ、当然よね。一緒に住んでいるんですもの。だけど、春希が夜中に会いにくるかしら? よっぽどの緊急事態なら来るでしょうけど、基本春希は私の睡眠を邪魔しないのよね。

 だから春希という選択肢はすぐに取り下げられた。変わって浮上したのは、かずささんだった。

 候補は二人しかいないのだから、当たり前だけど。

 

「どうぞ」

 

「ちょっといいかな?」

 

 私の予想は当たり、ドアの隙間から顔を覗かしたのはかずささんだった。

 

「大丈夫よ。仕事の方ももう終わりにする予定だったから」

 

「お邪魔します」

 

 やっぱり仕事に逃げるなって、春希に言えなくなっちゃったわね。

 今日も春希とかずささんが一緒にいるってわかっているだけで落ち着かなかったもの。だから仕事をして、仕事にのめり込もうとしてしまった。

 皮肉にも、仕事の内容は冬馬かずさなのだから、嫌なめぐり合わせね。

 

「そこの椅子に座ってね」

 

「ありがとう」

 

「春希とは、しっかり話せた?」

 

「おかげさまで」

 

「……そう」

 

 かずささんは私の顔を見て、そして床を数秒ギュッと凝視してから勢いをつけて顔をあげると、内に貯め込んだ思いを一気にぶつけてきた。

 

「あたしには、力を貸してくれる母さんがいる。そして、ピアノもある。でも麻理さんは、春希がいなくなったら大切な仕事を失うかもしれない」

 

「大げさねっていえないところが辛いわね」

 

「あたしも似たようなものだからな」

 

 自嘲気味に笑うその姿に、親近感を覚えてしまう。

 きっとかずささんの言う通り、私たちは似すぎているのだろう。好きな人まで似てしまった事は残酷ではあるけれど。

 

「でも私にも佐和子っていう親友がいるわ。今は日本にいるけど、ちょくちょくこっちに来てくれるのよ。やっぱり旅行代理店勤務っていうのは、こういうときは便利よね」

 

 佐和子、ごめんっ。便利だっていうところには嘘はつけないけど、本当に感謝しているのよ。

 

「だけど今、仕事に支障をきたしているだろ?」

 

「そう、ね」

 

「今春希がいなくなったら麻理さんは駄目になってしまうよね?」

 

「ごめんなさい」

 

「いいんだ。あたしもこのままだとピアノが駄目になるかもしれないからさ。だから明日ウィーンに帰るよ」

 

「……そう」

 

「驚かないんだな」

 

「どうして驚くのかしら?」

 

「だってさ、あたしのことだから、このままニューヨークに残るって言いだすと思ってたんじゃないのか?」

 

「そうね。そういう可能性もあったのかもしれないわ。でも、かずさんは春希を幸せにする事を選んだのでしょ?」

 

 私の発言に、逆にかずささんを驚かせてしまう。

 はっと息を飲み、照れ隠しなのかすごくきつい目つきで睨んできたかと思えば全身の力が脱力してふにゃけてしまっている。

 こんな妹がいたのなら、きっと可愛がって恋の応援なんかしてしまうのだろうな。

 …………恋愛レベル平均以下の私がなにを偉そうにって佐和子に言われるかな。

 でも、自分の事じゃないからのめり込むっていうか、……まあ、今は関係ないか。

 

「聞こえていたのか?」

 

「かずささんが叫んだ声が一度だけ聞こえてきただけよ」

 

「やっぱりあれを聞いちゃったら全部わかっちゃうんだな」

 

「なんとなくだけどね」

 

 これも密着取材をして、なおかつ春希とかずささんが一緒にいてくれたからこそ見られた冬馬かずさであって、私一人では無理だったろうけど。

 恋敵とも言える私に見られてしまって嫌だったかもしれないわね。

 でも、謝らないわよ。私だってひっどい状況の自分を見せたと思うから。

 

「そっか」

 

「…………ええ」

 

 なんとなくどうなったかは想像できるけど、聞いてもいいのかしら?

 興味ないなんていい子ぶるつもりもないから、正直聞きたい。

 春希がどうなるか、すっごく聞きたい。

 だって、私にとっても死活問題なのよね。そもそも心の準備をする時間くらいは欲しいし。

 …………えっ?

 

「ごめんごめん。馬鹿にして笑ったんじゃないよ」

 

「まあ、そうよね?」

 

 もうっ……。私ったら顔に出てたみたいね。

 たしかに心の底から聞きたいのも事実だから、顔に出てしまうわよね。

 そう自分を慰めはしたものの、羞恥心が私に押し寄せ身を小さくさせてしまう。

 年下の女の子に、しかもかずささんに年甲斐もない姿を見られてしまった……。恥ずかしいすぎるわよ。春希にだったらいくらでも情けない姿を見せるのに慣れてしまったけど、……いやいや、そもそも春希に対してだって情けない姿は見せちゃいけないのよね。

 えっと、なんでかずささんの前でも無防備になってしまったのかしら?

 

「麻理さんってかわいいな。春希が好きになるのも頷けるよ。あたしにはできなかったからさ」

 

「かわいい? 年上をからかわないでよ。私からしたら、かずささんの方がずっと健気で可愛らしいと思うわ」

 

「そう思えるのは日本でのあたしを知らないからだよ」

 

「日本での……? 高校のときってことかしら?」

 

「春希から聞いているんだよな。そう言ってたし」

 

「ごめんなさい」

 

「いいんだ。前もあたしに謝ったけど、その時も気にしていないって言っただろ?」

 

「そうだったわね」

 

 春希が深く傷ついていたのだから、きっとかずささんも傷ついていたはずよね。

 自分を責めて、何度も逃げ出そうとしては捕まって、なおも自分を許せないという悪循環を何年も続けていたのに、どうして今はそんなにも気丈でいられるの?

 春希がいるから?

 私が春希と共に病気と闘っているみたいに、かずささんも春希と再会したことによって強くなったとでもいうのかしら?

 

「違うよ」

 

「ごめんなさい。やはり以前許してくれた事は……」

 

「それも違うよ」

 

 かずささんがなにが違うと言ってるのかわからない。

 だから私は訝しげな視線をかずささんに送ってしまう。でもかずささんは、私を見ても嬉しそうに肩をすくめるだけだった。

 

「ごめん。あたしの中だけで理解してたことだった。ちゃんと言葉にしないと伝わらないよな」

 

「そうね。できれば言葉で伝えて欲しいわね」

 

 ちょっと拗ねすぎた口調だったかしら?

 ……ちょっと待ってよっ。今の私たちって、私の方が年下みたいじゃないの。

 

「わかったよ。そのね、麻理さんが、あたしが春希と再会したから強くなれたって思ってるんじゃないかと思ったんだ。だからそれは違うと言ったんだ。いやさ、麻理さんがそういうふうに考えて、自分を責め出しそうな勢いだったから、それは違うよって先に言ってしまったんだ」

 

「シンパシー?」

 

 私も口から自然と言葉がこぼれてしまった。

 脳が理解する前に心が反応してしまったようね。それはかずささんも似たようなものかな。

 

「だと思うよ。春希っていう共通の大切な人があたしたちを結びつけているのかもな」

 

「嬉しいような、困ったような、判断がつけにくいところね」

 

「たしかにそうだな。こればっかりはしょうがないで済ませられない状況になってしまったけど、……そうだな。今ならしょうがないで済ませてもいいと思ってる」

 

「かずささん?」

 

「味覚がなくなって大変な目にあっている麻理さんを前にして言う言葉ではないけど、あたしは、ニューヨークにきて充実した毎日を送ったと思えているんだ。そりゃあ楽しい事よりも苦しくて切なくて、逃げ出したい事ばっかだったけど、麻理さんに出会えてよかったと思ってる。だからさ、…………春希のことをよろしくお願いします。あたしはウィーンに戻らないといけないから」

 

 目の前で深々と頭を下げられてしまう。このお願いが意味することろは、おそらくかずささんが私に会いに来たことの一番の理由なのだろう。

 これこそがシンパシーだとすれば、かずささんからこの後の理由を聞かなくても理解してしまえる。

 それでも私は聞かねばならない。かずささんの口から聞かないと、私はまた決心を覆してしまうから。

 

「どういう意味かしら?」

 

「あたし、春希と別れたんだ。あたしは、このまま春希の側に居続けたら駄目になるって理解してしまったんだ。だから別れた。別れなきゃならなくなった」

 

「……そう」

 

「ちゃんとあたしの気持ちは伝えたよ。春希もどうにか理解してくれたと思う。でも、あたしの我儘で別れたんだけど、春希は自分の事を責めてしまうと思うんだ」

 

「そうね。春希ならそうしてしまうでしょうね。それがわかっていても別れたのよね?」

 

「あぁそうだ。春希が傷つくとわかっていて別れたんだ」

 

「春希の事が好きなのでしょう?」

 

「好きだよ。大好きだ。こればっかりは麻理さんにも負けないって自信がある。もうさ、誰だろうと負けないって自惚れてさえいる」

 

「それなのに、どうして別れたの?」

 

 私っていやな女ね。かずささんが別れた理由をわかっていながら聞いてしまうんですもの。

 そして、そう聞かせるように仕向けているかずささんも酷いわね。

 これが、いわゆるけじめってやつかしらね。

 またの名を、女の執念?って感じかしら?

 

「春希の側にいる為だ。今のあたしでは駄目だけど、きっとすぐに春希の元に戻ってくる。今度はずっと離れないんだからな」

 

「身勝手な人ね」

 

「あぁそうさ。身勝手なんだよ」

 

「酷い人ね」

 

「酷い奴なんだよ」

 

「でも、頑張ってしまうのよね」

 

「そうなんだ。高校のときから要求するレベルが高すぎるんだよ」

 

「それは編集部でも同じだったわ」

 

「だろうな。あいつったら自分の理想を押し付けてくるんだよ。こっちは必死にやってるっているのに、あいつの理想は今あるあたしの現実を大きく上回ってるんだよ」

 

「そうねぇ……。彼ったら女性に夢でも見ているのかしら? 同じ人間だという事を忘れているわね、きっと」

 

「そもそもあいつの方が人間離れしてるよな。機械みたいに行動してるっていうかさ」

 

「それもあるわね。自分の心さえもロジカルに割り切ってしまうのよね」

 

「……あぁ」

 

「見ているこっちの方が辛くなってしまうわ」

 

「そのくせこっちの気持ちに気がつかないんだ。こっちはばれているとさえ思ってたのに」

 

「鈍すぎるのよねぇ。他の事なら知らなくてもいい事まで論理的に気がついてしまうのに、はたや自分の事に関しては、というよりも、恋愛関係に関してだけはわかってくれないのよ」

 

「一度蹴り倒す必要があるな」

 

「暴力はいけないわよ」

 

「じゃあどうするんだよ?」

 

「…………甘え倒す、とか?」

 

 うぁ……。自分で言っておきながら恥ずかしすぎるわね。

 鏡を見なくても顔が真っ赤なのがわかるもの。

 

「それは麻理さんがしたいだけなんじゃ……」

 

「違うわよっ」

 

 ……違わないけど。

 

「じゃあなんでだよ?」

 

「春希って、ほら? ……えっと、頼まれたら断れないところがあるじゃない」

 

「たしかにあるよな。高校の時も自分にはまったく関係がない事でさえ首を突っ込んでさ。しなくてもいい仕事を自分で見つけてさえくるんだ」

 

「それは簡単に想像できてしまうわね」

 

「それで?」

 

「だから、春希は甘えられても断れないと思うのよ。だから、こっちが満足するまでとことん甘え尽くす。春希が倒れてもうだめだって顔をしても、ギブアップって謝るまで甘え倒すのよ」

 

 強引だったかしら? でも、案外効果がありそうね。

 ………………いつか実行してみようかしら?

 …………………………あら? かずささんが睨んでる、わね。

 あっ、顔に出ていたのかしら?

 

「なにかしら?」

 

「なんでもない」

 

 綺麗な顔をしているんだから、そんな怖い目をしない方がいいわよ?

 ほら、綺麗な顔をしている人が怒っている顔こそ怖いって言うじゃない?

 私が逃げ出そうと体を捻っても、そこは椅子の背もたれに阻まれてしまうわけで逃げられないのよね。

 

「冗談よ、冗談。いくらなんでも恥も醜聞も捨て去って甘え倒すなんてできやしないもの」

 

「そうかな? 案外麻理さんならできてしまいそうだとは思うけど?」

 

「それをいうのならかずささんの方ができてしまうじゃない」

 

 この後お互いの弱点を抉りだすように言いあったのは割愛しておくわ。

 絶対春希には聞かせられない内容だし、お互い言われた事が事実過ぎて、さらにヒートアップしちゃったのよね。

 ようやくお互い落ち着きを取り戻せたときには肩で呼吸を整え、顔を真っ赤にして見悶えていた。

 

「そろそろやめにしましょう。不毛すぎるわ」

 

「……だな。でも、麻理さんも案外子供っぽいところがあるんだな」

 

「だからぁ……、もうやめましょうよ」

 

「これは違うよ。これはあたしが安心したっていうか、仲間意識みたいなものかな」

 

「と、いうと?」

 

「あたしはまだまだ大人になれてない。でも、社会人の先輩でもある麻理さんでさえ完全には大人になれてはいないんだなってわかって、安心したというか」

 

「それはどんな大人でもあることよ。なまじ社会的地位がある人が子供っぽい理屈で権力を振りかざすものだから、周りにいる人間にはいい迷惑よって話がよくあるわ」

 

「そういう輩は、とっとと大人になるべきだ」

 

 あら? 眉をひそめちゃって、誰か思い浮かぶ人でもいるのかしらね。

 

「でも、仕方ないわ。だって、大人と子供の明確な境界なんてないんだもの。人が勝手に境界線をひいているだけよ」

 

「それはそうだな」

 

「でしょう?」

 

 いつもきつい目つきをしているのに、こうやって柔らかい笑顔も見せるのね。

 コンクールの為にニューヨークに来たというのに、春希だけじゃなくて私っていう邪魔者までいたら気を抜く事が出来ないわよね。

 でも、最後にこの笑顔を見れたってことは、少しは許されたのかしら?

 …………ううん、許されることなんてない。

 

「じゃあさ、この境界も曖昧だよな」

 

「どんな境界かしら?」

 

「友達と恋人」

 

 やはり私は許されてない、か。そりゃそうよね。

 心のどこかで期待している気持ちがあったようで、落胆していくのがわかってしまう。

 さっきまでかずささんにつられて笑顔を見せていたはずなのに、私の体から熱が急激に奪われていっているのが実感できてしまった。

 これも罰なのだろう。許されることなんてない罪なのだから。

 だったら素直に罰を受けるわ。それを望んでもいたんだし。

 

「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」

 

 目の前でかずささんが困惑した顔で必死に手を振っているわね。

 どういう意味かしら?

 体温が下がってしまうと思考も落ちるって言うし、幻かしら? だって困惑した顔ではなくて怒っている顔をしているはずだもの。

 

「麻理さんっ。ねえったら。ちょっと」

 

 今度は強硬手段にでたらしく、私を両肩を激しく揺すってくる。ただ、私のことであるはずなのに、私の心と体は切り離されてしまっている。

 いくら揺さぶられようと心が暗闇の中に沈んでいくようで、それがむしろ気持ちよかった。

 もう何も考えなくてすむ。嫉妬も後悔も懺悔も何もない。

 でも、…………もう一度だけ春希には会いたかったかな。

 

「痛たっ!」

 

 頬が熱い。目もくらっとくるくらい熱くて若干ぼやけているような気もする。

 頬に手をあて冷やそうとしても効果がないってわかっていても手で頬を冷やし、現実を確認していく。

 目の前には息を切らせ肩で息を整えているかずささんがすごい形相で私を睨んでいる。

 なにかあったのかしら?

 あぁ……、私の事を恨んでいるのよね。だからか。

 でも私、なんて言ったのかしら?

 

「怒ってないから。恨んでもない。そりゃああたしも嫉妬くらいはするさ。ううん、すっごく嫉妬してる。でも、麻理さんがいなくなればなんて思ってないから。春希の前から消えてくれなんて思ってないから。だから、しっかりしてよっ。ちゃんと前を見てよ。あたしを見てっ」

 

 私がふわふわとした感じのままかずささんを見つめていたら、かずささんは私の両肩を掴む手に再度力を込めて揺さぶってくる。

 その必死さがこれは現実であると脳に刺激を与え続ける。

 そして私の焦点も定まり、何があったかをいっぺんに理解していった。

 

「大丈夫だから。大丈夫、だから……」

 

「ほんとうか?」

 

「本当よ」

 

「……そっか」

 

「ごめんなさい。私よりかずささんの方が傷ついているのに、私って弱いわね」

 

「あたしも負けないくらい弱いからいい勝負だって」

 

「あまり競いたくはない勝負ね」

 

「だな」

 

「ええ……」

 

「さっきは誤解するような質問して悪かった。友達と恋人の境界について聞いてみたのは、麻理さんのことじゃないんだ。あたしのことなんだ」

 

「かずささんの?」

 

「そうだよ。だってあたし、春希と別れたんだからさ」

 

「それって、別れても好きだってことかしら? もしくは好きだから別れたとか?」

 

「話が早くて助かるよ。一応区切りっていうかけじめって感じで別れはしたけど、気持ちの上では春希との絆はきれてはないと信じている。春希にもそう思っていてほしい。だけど、別れてはいるから恋人ではないだろ?」

 

「そうとも言えるわね」

 

「だろ?」

 

 嬉しそうに頷いてくるけれど、話している内容は深刻なのよね。わかっているのかしら?

 それとも私と意識を共有できたことが嬉しいのかしらね?

 

「ええ、まあ」

 

「そしてそれは麻理さんも同じだろ? 春希が好きって気持ちは変わっていない。そしてその気持ちはこれからも変わらないと思う」

 

「それは…………。私は春希と恋人の関係にはならないわ。たしかに離れられなくはなっているけれど、いつかは離れるわ。必ずね」

 

「それでもいいよ。恋人じゃなくてもいい」

 

「どういう意味かしら?」

 

「あたしの我儘だって自覚してるけど、このままあたしが春希の側にいると春希が壊れてしまうと思うんだ。もちろん麻理さんも一人のままでいたら駄目になってしまうと思う」

 

「春希が?」

 

「麻理さんも気がついてはいると思うけど、春希も弱いよ。いくら傷ついても普段通りに行動してしまうから気がつかない人が多いけど、春希はすっごく弱い。弱いからそれを隠すのがうまいんだ」

 

 言われてみればそうね。かずささんと会えなかったコンサートなんてぼろぼろだったし。

 それに、なまじ仕事が優秀すぎるから仕事に逃げている事に気がつかない人も多いのも事実ね。

 

「たしかにそうね」

 

「だから麻理さん。あたしがいない間、春希の側にいてください。春希を支えてください。あたしの我儘だってわかってる。残酷な事を頼んでいるのも承知している。だけど、麻理さんは春希と一緒にいるべきだ。そして同じように春希も麻理さんが必要なんだ」

 

「……でも」

 

「そのボールペン。春希とおそろいなんだよな?」

 

 かずささんに指摘され、とっさに隠そうと手が反応してしまう。

 しかし、隠したところで隠し通すことなんて無理だし、そもそもかずささんにこれ以上隠し事はしたくはなかった。

 だから、私の手がピクリと反応してところで手の動きを押しとどめた。

 

「お互いの誕生日に贈りあったものよ。といっても、私が先に誕生日に春希から貰って、その色違いを春希の誕生日に私が送ったのよ。……痛いでしょ? 情けないわよね」

 

「そんなことはない。麻理さんと同じように、春希も大切に使っていた。だから、そんなことはないよ」

 

「そうね。春希が大切に使ってくれている事実まで否定できないわね」

 

「だろ? お互い大切にしてるんだから、一緒にいるべきなんだ」

 

「でもそれでいいの?」

 

「あたしの事は気にするなとは言わない。でも、今は自分の事だけを考えて欲しいんだ。あたしも自分の事だけを考えてるんだしな」

 

「自分の?」

 

「そうだよ。今のあたしが春希の側にいるのはよくない。だけど麻理さんは春希の側にいなきゃいけないんだ。だったらいいじゃないか。あたしたちの利害が一致してるんなら、それに甘えたっていいだろ?」

 

「かずささんは、私が春希と一緒にいても気にしないの?」

 

「気にするに決まってるだろ。嫉妬しまくりだ」

 

「だったら……」

 

「それでもあたしは麻理さんも大切だから。これだったらあたし、麻理さんの事を知らなければよかったと思う事もある。一緒に暮さなければ情なんてわかないし、好きになんてならなかった。麻理さんの事をなにも知らなかったら、なにも考えないで春希のことだけを見ていた。だけど麻理さんのことを知ってしまって好きになってしまったんだから、しょうがないだろ?」

 

「かずさ、さん」

 

「そう言ってもらえるのは光栄だけど、本当に、本当にいいの、それで?」

 

「いいよ。それにあたしの醜い打算もあるからな。春希の心はあたしにあるから、ジェバンニが終わるまで一緒にいなくても大丈夫だって自惚れてもいるからな」

 

「すっごい自信ね。でも、事実だからしょうがないか」

 

「だから、麻理さんも春希に全力で甘えていいよ。甘えて甘えて、甘え倒せばいい」

 

「本気で言ってるの?」

 

「あぁ本気だ」

 

 本気だって目をしている。

 どこからそんな自信が沸いてくるのかしら?

 私には到底無理ね。

 

「どうしてよ?」

 

「もしそれで春希が麻理さんと恋人になっても、それまでだなって。春希がそこまでの男だったって事だよ」

 

「本当にそう思えるの?」

 

 私がにじり寄って下から覗きこむと、やはりかずささんは見栄を張っていたようで弱腰になってしまう。

 これが春希が言っていたかっこいい冬馬かずさの化けの皮が剥がれた姿ってところかしら?

 可愛いとは思うけど、鈍感な春希には逆効果よね。その点に関しては、かずささんに同情しちゃうかな。

 

「そんな目で見るなって」

 

「だって」

 

「わかった。わかったから」

 

「なにがわかったのかしら?」

 

「ほんと意地が悪いな」

 

「どうしてかしらね?」

 

「春希のせいだろうな」

 

「でしょうね」

 

「まあ、あたしも春希を見習って、うざいくらいに頑張ってみることにしたんだ」

 

「ピアノを?」

 

「それもあるけど、春希と麻理さんの事も頑張ってみることにしたんだ」

 

「私の事も?」

 

「そうだ。春希の事は当然として、あたしも春希と麻理さんの二人を幸せにする事に決めたんだ。もちろん傲慢だってわかってるよ。今の春希はあたしを愛している。もちろん麻理さんのことも大切にしているし、愛情もあると思う」

 

「傲慢な見解だけど、事実ね」

 

「うん。あたしもそう思うけど、上の立場にいるから提案しているんじゃないんだ。むしろ危険なかけだとさえ思えってるんだぞ。だってさ、麻理さんは女のあたしから見ても魅力的だし、仕事面でも春希の憧れの人だろ? そこにきて弱っている姿を春希にだけみせて甘えてるんだから、いつかころっと春希の心が移ってしまうんじゃないかって不安になってしまうよ。いくら傲慢な事実があったとしても、春希の隣にいるのは麻理さんであってあたしではないのは変えようがないからな」

 

「それでも私が春希の側にいてもいいの?」

 

「だから言ったろ? 春希の為だって。まずは世界を目指せるピアニストにあたしがなる。そして麻理さんの病気も治す。そしたら今まで我慢していた分春希に甘え倒すんだ」

 

「すっごく壮大な夢を語っているようで、最終目標が女の子なのね」

 

「悪いか?」

 

「ううん。いいと思うわ」

 

「だろっ?」

 

 ほんと、惚れそうなくらい綺麗な笑顔ね。

 こんなにも反則的な笑顔を見せられてしまうと、意地悪したくなってしまうわね。

 

「でも、私が春希の気持ちを奪ってしまうかもしれなのよ?」

 

「上等だ。さっきも言ったろ? あたしは春希並みにうざくなるって」

 

「春希みたいに?」

 

「そうさ。あたしから心が離れていったら、今度はあたしが春希の心に駆け寄って行くんだ。うざいくらいにしつこくな。きっと麻理さんがヤキモチを妬いて夜眠れなくなるくらい迫りまくるからな。覚悟しておけよ」

 

「それは……、あまりみたくはないわね」

 

「だからさ、麻理さんは素直に春希に甘えていいよ」

 

 かずささんの瞳が私を射抜く。今まで冗談交じりに言っていた心が削ぎ落ち、真剣な眼差しが向けられていた。

 これは覚悟とみることができるのだろう。

 春希とかずさささ二人の幸せではなく、春希とかずささんと、そして風岡麻理の三人の幸せを手に入れる覚悟。

 誰が見たって二人の幸せを求める方が現実的だって判断するだろう。

 だって三人の幸せなんて不可能だもの。春希とかずささんが結婚して、なおかつ春希を愛している私が幸せになる道なんてあるとは思えない。

 それはかずささんも理解しているはず。

 かずささんも高校時代に、今の私と同じ立場を体験してきたんだもの。

 春希が別の彼女と付き合っていた時、かずささんはいつも二人の隣にいた。

 それはきっと辛いという言葉で片付けられない体験だったと思う。私だったら、……といか、現在進行形で味覚障害になってるわね。

 それほどつらい体験をしてもなお三人の幸せを求めるなんて、ある意味傲慢な幸せ追求だと断罪されてもおかしくはない。

 でも私は、傲慢すぎるかずささんの計画に乗りたいと思ってしまった。

 もしかしらた病状が悪化するかもしれない。

 もしかしらた仕事を失うかもしれない。

 最悪、まともに生きていけないかもしれない。

 だけど、同じ体験をしてきた戦友だからこそ、その手を取りたいと思ってしまった。

 

「わかったわ。甘えさせてもらいます」

 

 こうして私は、春希とかずささんの手を掴むことになった。

 

 

 

 

 

 

 

翌年1月1日

 

 

 正月。日本であってもニューヨークであっても、俺が俺である限り大晦日の過ごし方に大きな変化があるわけではない。そして年が明けた元日も大晦日と同じような日常を送っていた。

 昨日の大晦日は、今年に限ってはいつもの就寝時間にはベッドに横になっていたし、元日の今朝もいつも起きる時間にベッドから出て朝食の準備を始めていた。

 ある意味規則正しい生活リズムともいえるが、これは麻理さんの生活リズムを狂わせないためのものであることが一番の要因であった。

 味覚障害のせいでまともに食事ができなくなり、なにがきっかけで症状が悪化するかわからない。だったら、うまくいっている生活パターンを繰り返すべきだ。過保護すぎるとも言われそうだが、用心に越した事はない。

 生活リズムは健康には大切であるし、今までうまくいっていたのならばその生活リズムを守るべきだ。それに、一度生活リズムが狂ってしまえば、その狂った生活リズムを正しい方向にもっていくのが時間はかかってしまう。

 だったら、できるかぎりいつもの生活を送り続けるのがまっとうな治療法だと言える。

 ピアノではないが、一日さぼったら、さぼった分を取り戻すのには数日とかずさが言っていたのと同じようなものだろう。

 とはいって、以前の俺であれば、武也に誘われれば初詣くらいは行っただろうし、そうでなければバイトか、それともまったく家からも出ずに勉強でもしていたと考える事ができる。つまり、以前の俺であっても自分からは自分の生活リズムを崩す行為などするとは思えない。まあ、以前の俺の生活リズムなんてものは、疲れ果てて何も考える事もなく寝られるまで働きまくるという、ブラック企業顔負けの生活パターンだったのだけれど。

 一方麻理さんはといえば、例年の年末年始は俺とは違っていて、旅の実情を知らない人間からすれば成功者のバカンスといえた。

 なんというべきか……、つまり、その。ビジネスクラスの飛行機で海外旅行に行き、それなりに有名なホテルで年末年始を過ごす。旅行プランだけ見れば優雅な休日とも言える。

 だが実情は違っていて…………。

 朝食後にのんびりとくつろいでいた時、ミネラルウォーター片手に麻理さんがしみじみ語ってくれた。

 自嘲気味に笑い話をしてくれたとも取れるし、ただたんに事実を述べただけとも言えるのだが、俺が口を挟める雰囲気ではなかった事だけは確かだった。

 …………でも、アルコールはまったくとってないんでないんだけどな。水で酔えるようになったのだろうか?

 

「去年までは年末年始は佐和子と旅行に行くのが当たり前だったけど、こうしてのんびり過ごすのもいいものね」

 

「そうですね。どこに行っても人が多いですし、家にいる方がつかれないとも考えられますよ」

 

「なんか春希の発言って、年寄りくさいわよね? 初めて編集部に来た時も大学生のバイトって感じがしなかったものね。本当は年齢誤魔化していたりしない?」

 

「俺の年齢に関しては履歴書と学生証を提示してありますから間違いはないはずですよ。それと、俺が年寄りくさいかはおいといて、別にイベント事に積極的に参加することが若者と定義できるわけでもないと思いますよ。インドア派であっても充実した生活を送る事が出来ますから」

 

「そうだけど、家の中に閉じこもっていると、なんだか世間からは年寄りっぽく見られる気がしないかしら?」

 

「そうだとすれば、俺たちなんてずっと室内にいるんですから、年寄り扱いになってしまうじゃないですか? 仕事中は編集部にいることが当たり前ですからしょうがないですけど、家に帰ってきたらもちろん室内ですよね? どこかにでかけるとしても、スーパーに買いだし程度ですし……」

 

 あっ……。

 地雷って、気がつかなくことなく踏むから地雷なんだろうな。

 踏んで爆発した後のことなんてどうでもいい。なにせ爆発してしまったら自分にはどうしようもないし。

 地雷での一番の恐怖は、踏んだとわかった瞬間から爆発するまでの数秒だろう。…………実際地雷を踏んだ経験も、地雷の知識もないから想像だが。

 でも、踏んでから爆発するまでの数秒で襲ってくる圧縮された恐怖は間違いないと思える。

 現に、今目の前で顔色を変えていく麻理さんを見て、俺の中でなにかがはじけたから……。

 

「それは、あんに私が年寄りだといいたいのかしら? それとも年増の女は頑張って外に出て若づくりなんてするなよってことかしらね? そうねぇ……、春希はそんなかわいそうな私を見て、憐れに思っているのかしらね?」

 

 ごめんなさい。いや、心の中で謝ってすむはなしじゃないけど、とりあえず謝らせてください。

 それと、地雷なんて甘い恐怖どころじゃなかった。

 数秒に圧縮された恐怖ならば、どれほど助かった事だろうか。なにせ数秒後には天国に行けるのだから。

 今俺に訪れているものは、じわじわとやってくる恐怖。確実に俺をしとめるとわかっていても逃げる事ができない絶望とでも言っておこうか。

 

「俺は麻理さんのことだなんて言ってませんよ。一般論……」

 

「一般論? そうね。一般的に見たら私はすでに若くはないわね」

 

「一般論ではないです。そうですね。仮定の話です。仮定です。論理的に考えるとした場合、室内でいることが多い事が年寄りだと定義すれば、そもそも人間は室内で過ごす時間が圧倒的に多いですから、どのような年代の人間であっても室内にいる時間が多ければ年寄りになってしまうという矛盾です。そう、そう言いたかったんですよ」

 

 あれ? そもそもそういう話をしたんだよな?

 

「でも、仮定の話であっても、私が室内にこもっていて、若々しく行動していないという事実は否定できないじゃない」

 

「それこそ……、ちょっと待ってくださいよ。そもそも俺の話をしていたんじゃないですか。麻理さんのことを話していたわけでは……。それに、今年は違いますけど年末年始は佐和子さんと海外旅行に行っていたじゃないですか。普段は仕事で忙しいから仕方がないですけど、休みの時におもいっきり充実した休日を取るのはいいと思いますよ」

 

「そうかしら」

 

 起死回生のフォローを入れたつもりなのに、麻理さんの態度は一向に改善する様子はない。

 むしろ悪化したとも見えるのはどうしてだろうか。

 これはまさかのいくらフォローしても悪化するしかないという悪循環に陥ったのか?

 

「仕事とプライベートを分けて楽しんでいるじゃないですか。もちろん鈴木さんなんかからすれば麻理さんは働きすぎだって言ってくるでしょうけど、仕事を楽しんでやっているんですから問題ないですよ。むしろ嫌々惰性で仕事をするよりはよっぽど有意義な時間の過ごし方です。いや、そんな仕事をする人たちと比べる必要なんてないほどです。麻理さんの隣でいつも仕事をしている俺が保証します」

 

「……そう?」

 

「ええ、そうです。輝いています。そして俺の目標でもありますから」

 

「仕事に関しては春希の目標であり続ける為に頑張っているところも最近あるのよね。それはそれで新たな目標になって励みにもなっているし」

 

「でも、あまり頑張りすぎないでくださいよ」

 

「わかっているわよ。仕事もしっかりやるけど、体の方もちゃんといたわるわ。休日をしっかり使う分プライベートの方も充実させないといけないわね」

 

「ええ、そうですね」

 

「でも、その肝心のプライベートががたがたなのよね。今までなんて佐和子と海外旅行に毎年行っていると言っても、ほとんどホテルの部屋で一日中お酒を飲んでいるだけだったもの」

 

 それは……、フォローできないほどに駄目な旅行パターンのような。

 いや、ここは何が何でもフォローだな。

 …………今日はまったくフォローできていないのが問題だが。

 

「それでもお酒を飲みながら佐和子さんと楽しく語り合っているんですよね? 別に旅行に行ったからといって代表的な観光施設に行く必要なんてありませんよ。本人たちが楽しんでいれば、それで旅行の目的は達成できているはずです」

 

「でもねぇ……、佐和子と語り合っていると言っても、だいたいが仕事の不満や愚痴なのよねぇ……」

 

 ごめんなさい。どうフォローしたらいいんですか?

 まったくフォローにもなりそうもない言葉が浮かんできては声に出す前に霧散することが7回。話題を変えようと切り出そうとして、麻理さんの愚痴によって遮られる事2回。あとは自分で何を伝えようとしたのかさえわからない事5回

 つまり、この場の状況を打開する手段は全くといって持ち合わせてはいなかった。

 あれ?

 麻理さんを見つめると、顔を伏せ肩を揺らしている。時折漏れ出る嗚咽は、悲しみでも怒りでもなく、むしろ…………。

 

「麻理、さん?」

 

 俺の呼ぶかけに応じてちらりと視線を向けてくるが、俺の慌てようを見て益々肩の揺れが激しくなっていった。

 

「麻理さん?」

 

 俺の再度の呼びかけに、今度は盛大の笑みで返事をしてきた。

 つまり、してやられたってことなのだろう。

 

「ごめんなさい」

 

「あんまりじゃないですか」

 

「だって、春希があまりにもまじめすぎる反応をしてくるんだもの」

 

「それは年齢のこともありましたから」

 

 あっ……。それは実弾だったんですね。

 しかし、まだ幾分笑みの余剰分があったおかげか、麻理さんは一睨みだけ残して話を続けてくれた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。