心の永住者   作:黒猫withかずさ派

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第62話/第63話

「まあいいわ」

 

 曜子さんに似てきたのではないだろうか?

 麻理さんも曜子さんも見た目は若々しくて、同世代の女性と比べるのがかわいそうなくらいなんだよな。

 でも中身は魔女って感じで、ある意味内面が外面ににじみ出てしまったとも言えるか。

 

「ねえ、春希?」

 

「なんでしょうか?」

 

「今、失礼な事を考えていなかったかしら?」

 

 半眼で睨んでくるその美しすぎる人は、俺の心を覗いているようで……。

 

「いいえ、そのような事はないと思いますよ」

 

「そうかしら?」

 

「ただ、麻理さんは年齢の事を気にしているみたいですけど、俺がからすれば気にする必要がないくらい綺麗で、しかも活動的だなって思っていただけですよ」

 

「ほんとうにそれだけかしら?」

 

「それだけですよ」

 

 なおも半眼で俺の黒眼の奥を覗き込んでくる魔女は、俺をとられて離してはくれない。

 これこそが曜子さんばりの魔女っぷりなんだろうけど……、これ以上こんなことを考えていると、本当にやばそうだな。

 

「まあいいわ。そう言う事にしておくわ」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼をしてくるなんて、やっぱり後ろめたい事を考えていたのね」

 

「……あっ」

 

 やっぱり曜子さんレベルの魔女じゃないですか。

 

「まあいいわ。それに、春希が綺麗だって誉めてくれたのだから、それだけで満足しておくわ」

 

 今度こそこの話題は終わりのようで、俺をからかって大変満足しましたという顔を俺に見せつけてくる。

 その笑みを見てしまうと、これも悪くはない関係だと思えてしまう。むしろ今後も続けばいいとさえ思えてしまった。

 それほど穏やかで、かけがえのない時間であった。

 

「その……年齢の事を話題にした後で悪いのですが、麻理さん。誕生日おめでとうございます」

 

「いつか言われると思っていたけど、ありがとうと言っておいた方がいいのかしらね」

 

「誕生日を共に祝う事が大事じゃないですか。佐和子さんだって仕事がなければニューヨークに来る予定だったのですから。あとで電話くらいは来るかもしれませんね」

 

「佐和子は……、その、ね。仕事は……」

 

「なんですか?」

 

 どうも麻理さんの様子がおかしい。

 先ほどまでの曜子さんばりの態度が一変してしまっている。今や曜子さんにからかわれている時のかずさ並みにうろたえていた。

 ……両方見られてラッキーとか思ったら、さっきみたいに心を読まれてしまう気もするからよしておこう。

 

「……はぁ。いいわ。どうせあとで佐和子がわざとばらしてしまうでしょうから、私の口から言っておくわね」

 

「はぁ……? 麻理さんがそうしたいのでしたら」

 

「佐和子は日本で一人悲しく正月を迎えているわ」

 

「急に仕事が入ったのですからしょうがないじゃないですか。それだけ責任があるポジションについたわけですし。ただ、管理職も辛いとか言ってましたから、こういうときは大変ですよね」

 

「管理職も辛いと言っていたのは本心でしょうけど、仕事は休みよ」

 

「ほんとうですか? 休みがとれるようになってよかったですね。それでしたらニューヨークにきてもらえばよかったじゃないですか。それともサプライズでニューヨークにくるとかですか? いや、俺にサプライズしても意味ないか……」

 

 どうもさっきとは違うため息を深々と麻理さんがついていた。

 どこかでみたことがあるため息で、きょとんとしている俺を見るほどテンションが下がっていくようでもあった。

 

「違うわよ。佐和子は最初から急な仕事なんて入っていなかったのよ」

 

「はぁ……」

 

「まだわからないのかしら?」

 

「予定通り休みが取れて良かったですよね?」

 

「それだけなの?」

 

「あとは、どうしてニューヨークに来なかったんですかね? 来る予定でしたよね? ……あっ、麻理さん。佐和子さんと喧嘩したんですか? 早く謝ったほうがいいですよ。いや、麻理さんが悪いという意味ではなくてですね。喧嘩はどちらかが一方的に悪いという事はないんです。たとえ佐和子さんの方に非があるとしても、麻理さんの方から歩み寄ってですね。仲直りをすべきです。それに、今日はちょうど元日ですから、新年のあいさつを口実に電話することもできるじゃないですか。今電話とってきますね。ちょっと待っててください……」

 

「あっ、春希っ。電話はいらないから」

 

 勢いよくソファーから立ちあがった俺を麻理さんは慌ててひき止めようとする。

 振り返ると、麻理さんが手にしていたグラスの中の水が波打ち、こぼれそうになっていた。だから俺は手を伸ばしてグラスを抑え、水がこぼれるのを防ごうとした。

 けれど、俺の行動に驚いたのか、今度は麻理さんの体自体が揺れ動いてしまった為に、なかなかグラスの中の水の揺れは収まりそうになかった。

 そういうわけでというのだろうか。俺は緊急処置として麻理さんの腰に手を回し、麻理さんの体を固定させる。これでどうにかグラスの水をぶちまけるという新年早々からの水害を回避できた。

 ただ、俺の腕の中にいる麻理さんの状況はというと、平穏であるとは言えないようであったが。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……えぇ」

 

 体が熱い。おそらく麻理さんもだろうけど、新年早々何をやっているんだっていう状況だ。

 ここに佐和子さんがいたら何を言われるか簡単に想像できてしまう。

 ここにきて、俺はようやく佐和子さんが何故ニューヨークにこなかったかを理解する。

 だから麻理さんは電話する必要がないっていったのか。

 つまり佐和子さんは、麻理さんと俺を二人っきりにする為にこなかったのだろう。

 

「早合点してすみませんでした。佐和子さん。気を使ってくれたのですね」

 

「えっ。……えぇ、そうよ」

 

「それなのに俺ときたら……」

 

「春希らしいとも言えるから気にしていないわ」

 

「本当に新年早々お騒がせしてすみませんでした」

 

「別にいいわよ」

 

「そうですか?」

 

「ええ、そうよ」

 

 そして麻理さんは、新年早々俺の心臓を鷲掴みする発言を囁いてきた。

 

「それに、新年早々春希に抱きしめてもらえたもの。幸先のいい一年になったわ」

 

「あっ……」

 

 俺は今の状況に気が付き、逃げるように麻理さんから身を離そうとするが、今度は麻理さんの腕によって俺は拘束されてしまった。

 

「駄目よ」

 

「麻理さん?」

 

「誕生日プレゼント。これでいいわ。もうちょっとでいいから、私だけを抱きしめて」

 

「麻理、さん……」

 

「ね? お願い。少しだけでいいから」

 

「わかりました」

 

「ありがとう」

 

「でも、麻理さんが手に持っているグラスだけはテーブルにおいてくださいね」

 

 麻理さんは俺の腰にまわした腕をほどくと、手に持っていたグラスをテーブルに置く。

 そして言葉通り俺に抱きついてくるのかなと待っていたが、いっこうに動く気配はなかった。

 顎をあげ、麻理さんの瞳の先には俺がいるはずなのに、瞳だけは俺を捉えはするが、体全体で抱きしめてはこない。

 怪訝に思って真意を探ろうと麻理さんの瞳を覗きこむが、あいにく俺には相手の気持ちを読む能力は著しく欠けているようである。

 むしろ麻理さんの瞳に吸い込まれそうになり、そのまま細い腰を抱き寄せたいほどであった。

 

「春希……」

 

「はい」

 

「誕生日、プレゼント。…………くれないのかしら?」

 

「あっ……」

 

 そういうことか。麻理さんから求めるのでなく、ましてや偶然でもなく、俺の方から抱きしめて欲しいってことか。俺からのプレゼントであるわけだし。

 だったら最初から言って下さいよ、というべきではないことくらいは俺でもわかる。

 だから俺は、返事の代りに麻理さんの体を抱き寄せ、光沢が織り込まれた黒髪に顔をうずめた。

 

「誕生日、おめでとうございます」

 

「ありがとう、春希」

 

「こうして誕生日を祝えてよかったです」

 

「去年は色々と迷惑をかけてごめんなさい」

 

「そんなことはないですよ。俺の方がたくさん麻理さんに頼っていますから」

 

「でも、今年も迷惑をたくさんかけてしまうと思うわよ?」

 

「俺は迷惑だと思っていませんよ。むしろ俺を頼ってくれて嬉しく思っているほどです。だからこの大役、他の誰であっても譲る気はありませんからね。それが佐和子さんであっても」

 

「そう……。ありがとう」

 

「だから、ありがとうは俺の方なんですって」

 

「そう、ね……。でも今は、ありがとうと言わせてほしいわ」

 

「麻理さんが望むなら」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

「それと、これも一緒に祝っておこうかしら」

 

「何をですか?」

 

「春希のニューヨーク支部勤務内定を。……しかも、このまま私の部下。幸せすぎて怖いわ」

 

「幸せすぎるという事はないと思いますよ」

 

「そうかしら?」

 

「幸せなんて、幸せになろうと足掻いた人間のみが得られるものですよ。何もしないで願うだけでは幸せにはなれません。ましてや、幸せになろうとさえ願わない人間は、ずっと暗い闇の中で停滞するだけですから」

 

「どうしてそう思うのかしら?」

 

「俺が幸せになろうとしてこなかったからです」

 

「……春希」

 

「でも、今は大丈夫ですよ。幸せになりたいと思っていますから」

 

「ほんとうに?」

 

 俺の胸に埋めていた顔をそのまま上にあげて見上げてきた麻理さんの表情は、心から俺の事を心配している事が見受けられる。

 人の事を心配するよりも自分の事だけを大切にしなければならない状態であるのに、麻理さんはどうしようもない俺をいつだって見捨てないでくれてきてくれた。

 日本で立ち直れたのは麻理さんのおかげだ。

 だからこそ俺は、幸せになりたいと思った。北原春希を幸せにしないといけないと決意した。

 

「本当ですよ」

 

「嘘なんてついていないわよね?」

 

「麻理さんに嘘をついてもすぐにばれるじゃないですか。だから麻理さんの前ではいつも正直になれるんです。虚勢を張る必要もなくなったんですよ」

 

「虚勢を張る事はなくなったかもしれないけど、頑張りすぎるところは変わらないのよね」

 

「その辺は根っからの性分ですから。自分を構成している根っこの部分は、そう簡単には変えられませんよ」

 

「それもそうね」

 

「俺は、幸せになってはいけないと思っていました」

 

「……春希。幸せになってはいけない人間なんていないわ」

 

「俺の悪友もそう言ってくれていましたよ。だけど、当時の俺は聞く耳を持たなかったんです。というよりも、幸せになる事が怖かったともいえますね」

 

「どうして怖かったのかしら?」

 

「傷つけた人がいるんです。大切にしていた人を傷つけたんです。それも酷い裏切りで」

 

 麻理さんは俺から視線をそらさず、真っ直ぐとした瞳を俺に向けてくれていた。

 高校時代にあった事は、麻理さんには説明してあった。だから、俺の言葉が意味する事はすぐにわかったはずだ。

 そして、北原春希という人間をそばで見てきてくれた人間であるば、その北原春希がどう行動するか、どう行動してきたかを理解してくれる。

 

「大切な人を傷つけた事は罪よ。でも、だからといって春希が一生幸せになってはいけないという理由にはならないわ。もちろん春希だって傷ついたからそれで十分よ、なんて甘い慰めはしないわ。罪を償ってきたからそれでいいじゃない、とも言わない。だって、いくら罪を償おうとしても、結局は自己満足だもの。傷つけた結果は消えないわ」

 

「……そうですね」

 

「でも、傷ついた人もいつまでも傷ついたままではないわ。その人も、その人の力で立ちあがるわ。時間がかかるかもしれないし、周りからの協力が必要かもしれない。いつかはその人も、自分から幸せになろうと思わなければならないわ。傷ついてもまた幸せになろうとしない人間は、幸せにはなれない。そして今回の出来事においては、春希は手助けをする立場ではなかっただけよ」

 

「俺が側にいたら、また傷つけてしまいますからね」

 

「それも考えすぎよ。どんな人間であっても、人を傷つける事はあるわ。それに、春希がもう一度その子を本気で幸せにしたいと望んでいたのなら、側にいたはずよ。でも、そうはしなかった」

 

「俺には他に幸せにしたい人がいましたから」

 

「そうね。ようは、自分から行動しない人間は救われないって事よ。幸せになるうとしない人間は幸せにはならないし、傷を治そうとしない人間も傷はいえない。だからというわけではないけど、傷つけてしまった加害者も、傷つけた事実を忘れてはいけないけど、幸せになってもいいはずよ。これが刑事事件にもなってしまう加害者・被害者の関係までいってしまうと私の理論は破綻してしまうけど、友人・恋愛くらいなら通用するはずよ。だって、人って思っているよりタフだもの」

 

 麻理さんの言っている事はわかる。麻理さんが必死に俺を励まそうとしている事が伝わってくるから。

 麻理さん本人も、ちょっと反論を挟まれたらたじろぎそうな論理を組み立てているってわかっているはずだ。ましてや、恋愛関係のもつれで体を壊してしまった麻理さんがいるではないですか、なんて俺は責めるつもりもない。

 

「もう大丈夫ですよ」

 

「そう?」

 

 なおも心配そうに見つめてくる瞳に、俺は安心させたくてしょうがなかった。

 なにせ麻理さんが幸せになる為には、この不安を解消させなければならないから。

 

「俺が幸せになってほしいと願う人間は、かずさと麻理さんです。でも、二人とも俺が幸せにならないと幸せになれないって駄々をこねるんですよね」

 

「人聞きが悪いわね」

 

「でも、事実ですよね?」

 

「……そうだけど、ちょっと心外かな」

 

 口をとがらせて不満を述べるその姿が愛らしくて、だからこそ俺はこの人を幸せにしたいと強く望んでしまった。

 日本にいる彼女を不幸にしたことについて、武也たちは心のどこかで俺を裏切り者だと今でも思っているはずだ。ましてや、麻理さんとかずさを幸せにしたいと選んだ事を恨むかもしれない。

 武也は納得してくれるかもしれないが、依緒はきっと許せないだろう。

 だけど、俺が幸せにできる人なんて限られている。しかも、かずさと麻理さんの二人を同時に幸せにすることなんて不可能に近いとさえ思えてしまう。

 だからこそ俺は、今手にしている二人を幸せにすることだけを選んだ。他を切り捨ててでも、今手にしている二人だけはと願ってしまった。

 

「でも事実ですよね?」

 

「そうだけど……」

 

「だったらいいじゃないですか。俺はもう不幸自慢をするのはやめたんです。幸せを掴むことだけを考えることにしたんですよ。それが難しい事だとしても、です。だから俺はこの手を離しません」

 

 そう麻理さんの耳元で告げると、腰にまわしていた腕に力を込めた。

 麻理さんからの返事はない。だけど、俺の腰にまわされた腕の力が強まった事は、肯定の意味なのだろう。

 そして俺達はちょっとの間抱き合った後、一人掛けのソファーで二人のんびりと正月を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

8月上旬

 

 

 開桜社に入社してもうすぐ半年。ニューヨークにやってきて1年。

 それに加えて、開桜社でバイトを初めて麻理さんの下で働くようになった期間を加算してしまうと、もはや新入社員とはいえないのではないかと自分でも思ってしまう。東京にいる編集部の先輩方なんて、遠慮せずに新人という名の名札を剥がしてきそうだ。

 もちろんそれはニューヨークでの編集部でも同じで、編集部での俺への対応は容赦なく、これが普通の新入社員の扱いかと同期新入社員が怖がるほどである。おそらく数年後には同じような対応をされるのだろうと怖がっているのだろう。

 ただ僭越ながら俺も一言言ってあげたい。偉そうな先輩風を吹かせるつもりもないけれど、数年後と言わず、半年後、遅くても来年には同じような対応になっているはずだと言ってあげたかった。企業もいつまでも新人に優しくしていられるほど余裕があるわけではない。

 力がない社員はそれ相応のポジションに送られてしまうし、使える社員はこれもまたそれ相応のポジションに送られる。どちらのポジションが幸せかは人それぞれであろうが、企業が優しくしてくれるのは、厳しいようだが使える人間のみである。

 そんな環境で働いてはいるが、また、アメリカだからというわけでもないが、俺も休日はしっかりととるようにしている。

 まあ休日といっても今日は土曜日で、自宅で仕事をする日であるのだが。

 というわけで、俺も麻理さんも今日は自宅で仕事をしていた。

 自宅への連絡は基本メールがだが、携帯にかかってくることもしばしばある。ただ、携帯にかかってくるという事は緊急事態の場合が多いわけで、今も携帯の着信音を聞いた瞬間俺も麻理さんも身を固くした。

 ところが、麻理さんが携帯を手に取ると携帯の呼び出し音は鳴らされてはいない。

 不審に思って俺を見てくるが、携帯の呼び出し音はまだ鳴り続けていた。

 そこで俺の携帯電話を見る。どうやら俺の携帯電話が鳴っていたようだ。

 そもそもこれが平日ならば驚きはしない。俺が担当している仕事もあるわけで、俺に直接かかってくる事もある。

 しかし土曜日の自宅での仕事は、俺は麻理さんの仕事のサポートのみであり、俺の直接の上司は麻理さんであるわけで、俺に何か伝える事があるとしたら麻理さんは携帯ではなくて口頭で伝えてくるはずだ。

 もちろん他の仕事に関しての連絡もあるかもしれないが、そもそも俺に指示を出すのは麻理さんであるので、俺に聞くよりは麻理さんに聞いたほうが確実だ。それに、編集部にいない俺に聞くよりは、編集部にいる他の部員に聞く方が早いとも言えた。

 いつまでも電話に出ないで待たせるわけにもいかないので携帯の表示を見ると、知らない番号が表示されていた。

 

「お待たせしました。北原です」

 

「冬馬曜子事務所の夏目ジュリアと申します。開桜社の北原春希さんの携帯でよろしいでしょうか?」

 

「はい、そうです。どのようなご用件でしょうか?」

 

 電話からは流ちょうな英語を話す女性の声が聞こえてくる。

 美代子さんじゃないんだな。ウィーンの方にも事務所があるらしいし、ウィーンからなのか?

 それにしても綺麗な英語を話す人だな。

 ニューヨークにきて、色んな地域からくる人間と話す機会があり、方言とまではいかないが英語の話し方の違いくらいはわからるようになってきた。といっても、俺の英語もつたないせいか、ニューヨークにきたばっかりのころは何度も聞き返されるレベルではあったが。もちろん麻理さんによる英才教育のおかげで、スパルタ教育ともいうが、二週間もしないうちに解決はした。

 俺は冬馬曜子事務所の名を聞いて、すぐさま電話がかかってきた理由を考えてしまった。

 冬馬曜子事務所からの電話ならば、きっとかずさがかかわってくる。それ以外は考えられないと言ってもいい。

 しかも、かずさからとなると、それなりに気持ちの整理というか心構えも必要なわけで。

 だから、俺の声には緊張がにじみ出てしまった。

 俺は電話の向こう側にいる女性に意識が向かってしまい、麻理さんが不安そうな顔をしているのを、俺は気づくことなどできないでいた。

 麻理さんが俺の声の変化に気がつかないわけなんてないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 空港での短い電話でのやり取りの後、タクシーで指示通りにやってきたマンションはテレビで紹介されるような高級物件とは言わないまでも、それなりにお高い物件であった。

 マンションについた事を伝え、中に入って進んでいくと品のよさようなコンシェルジュがわたしを出迎えてくれる。高級物件に詳しいわけではないけれど、コンシェルジュがいるマンションなのだから、それなりにお高い物件である証拠だと思う。

 セキュリティー面を考えればニューヨークという場所柄も加味すれば、しっかりと管理されている方がいいに決まっている。日本での無料配布の安全をアメリカで求めてはいけない。

 お金で解決できる事ならば、ケチらずに支払うべきである。といいたいところだけど、それができるのはそれなりの稼ぎがある人に限るんだけど。

 でも、どうしてこうもお金持ちばっかりと縁があるんだろ?

 わたしはマンション入り口にいるコンシェルジュに頬笑みを送りながらエレベーターへと向かっていく。コンシェルジュの男性も特段わたしを不審には思ってはいないようだ。

 その証拠に、私の頬笑みを見てほんのわずかだがだらしのない笑みを浮かべていた。ただ、さすが高級物件のコンシェルジュ。すぐさま背筋を伸ばしてすまし顔を取り戻している。

 こうなると悪戯心がくすぐるっていうもので、わたしは肩にかかるブルネットを髪を指先で軽く払い落とし、追い打ちとばかりに最上級の頬笑みを立て続けに送る。

 そして、コンシェルジュのぽかんとしただらしのない笑みを確認したわたしは、今度こそ本来の目的地たる北原春希が現在住んでいる部屋へと向かっていった。

 

「どうぞ中に入って下さい。わざわざ来てもらって申し訳…………ありません?」

 

 玄関でわたしを出迎えてくれた春希の顔は、さっきのコンシェルジュ以上にぽかんとしていて、何とも言えないほどの大量の苦笑いを提供してくれる。

 一応春希の名誉を守るというべきか、それともフォローにもなってもいないフォローをしておくと、だらしのないスケベ心を垂れ流した笑みを浮かべていないところだけは誉めてあげよう。

 …………服の上から舐めまわして見るどころか、春希には裸も見られているんだから今さらって気もしないでもないかな?

 

「やっほー春希っ。元気してた?」

 

「元気にしてはいたけど、今疲れた」

 

「それはひっどいんじゃないかな?」

 

「悪かったな」

 

「わかっているんなら許してあげようかしらね」

 

「訂正するよ」

 

「うんうん」

 

「これからもっと疲れる予定だ」

 

「やっぱり春希ってわたしのこと好きすぎだよね」

 

「どうかな?」

 

「だってわたしに対して遠慮がなさすぎるもの」

 

「…………そうかもな」

 

 と、春希はここで言葉を切ると、私に一歩近づいて顔を覗きこんでくる。

 せっかく近寄ってきてくれたんだから、このままむぎゅ~っっと抱きしめてもいいんだけど、なんだか冷気が漂ってくるのよね。

 どこからかなんて考えるまでもないけれど。

 まっ、見なければいいかな?

 

「…………千晶、だよな?」

 

「ん? なに寝ボケた事を言っているのよ。和泉千晶ちゃんに決まっているじゃない。それとも幽霊かなにかと見間違えたとでも?」

 

「いや、そのさ。だって、その。いや、どうなんだ? いや、えっと……」

 

 やっぱり春希は面白い。わたしの期待通りの反応を見せてくれる。

 これぞ北原春希。わたしの大好きな春希はこうじゃなくっちゃね。

 たしかにブルネットのロングの髪の毛のかつらをかぶっているし、メイクで印象も変えてはいるけどさ。

 

「ねえ春希。とりあえず中に入ってもらえば?」

 

「そうですね」

 

 私は春希と麻理さんのお許しを貰って、ようやく玄関の外の客人から玄関の中の客人へと格上げされる。

 でも、なんだか麻理さんは歓迎していないような声色なんだけど、それは最初から飛ばす過ぎたからかな。一応拒絶はしていないみたいだから大丈夫だよね?

 

「あっ麻理さんいたんだ?」

 

「えぇ最初からいたわよ。ここは私と春希の家ですしね」

 

 しかし、わたしのわざとらしい挑発に麻理さんがのっかってきてくれたおかげで、玄関の客人でわたしの地位上昇はひとまず棚上げになりそう。

 どうやらリビングの客人になるためにはもうしばらくかかりそう。それとも、面倒すぎる来訪者はとっとと退場してもらいたいのかな?

 

「そういえばそうだったよね。春希やるじゃんっ」

 

「はぁ、なにがだよ?」

 

 とりあえず笑顔いっぱいで春希の肩をばしばし叩いてあげたのに、やはり春希ののりはやはり悪い。

 

「しっかりと若いツバメやってるじゃないのってことだよ」

 

「はぁ?」

 

 麻理さんのほうはしっかりと理解してくれているんみたいだけど、春希はなぁ……。まっ、麻理さんがしっかりと反応してくれているから、それで満足しておこう。

 

「なに僕にはわかりませんって顔をしてるのよ」

 

「いや千晶。俺はお前が言っている言葉の意味がまったくわからないんだけど」

 

「そう? でも、麻理さんのほうはしっかりと理解してくれているみたいだけど? ねっ、麻理さん」

 

 攻撃対象が春希から麻理さんへと移し、極上のいやらしい笑みを麻理さんに送ると、可愛い事に麻理さんはピクリと肩を震わせる。

 きっとわたしがもうしばらく春希をからかっているだろうと思っていたようね。でも、春希も面白いけど麻理さんも十分すぎるほど面白いだな。

 

「えっと……。どうかしらね」

 

「もぅっ、麻理さんやるじゃん。春希をうまいことかこっちゃって。年下の彼氏を自宅に連れ込むなんで同棲だなんて、麻理さんが大好きなレディコミに出てくる展開だよね。一応この前発売した最新刊をお土産として持ってきたんだよ。あっでも、もう買ってあるとか?」

 

「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ。……ちがうわよ。違うから。私は読んでないわ。信じて春希。ねっ、ねっ」

 

 春希が疑惑の目を麻理さんに向けると、いままで赤く染まっていた麻理さんの顔は青白く沈んでいく。しかも、今にも逃げ出してしまいそうな雰囲気さえ醸し出していた。

 ただ、今逃げたらわたしのいい分を全肯定するここと同義だし、反論というか言い訳をする為にここから逃げ出せないみたい。いや、それよりも、これ以上わたしがなにか言ってくるかもしれないという恐怖で逃げられないのかもしれないみたい。

 

「あれぇ……。でも佐和子さんから聞いた話だと、そういう本ばかり読んでいるって聞いたんだけど?」

 

「佐和子のやつぅ……」

 

「ねっ。だから白状しちゃったら?」

 

「読んでませんっ」

 

「本当に? 正直になろうよ」

 

「しょ、正直だもの」

 

 体を小さくしていじけている麻理さんが可愛くて、抱きしめたい衝動にかられてしまった事はこのさいなかった事にしよう。

 これじゃあ春希も保護欲がなくならないかな。だって可愛すぎるものね。

 仕事は真面目すぎるほどにしっかりとやっていて、春希の目標でもある。プライベートも一見真面目そうだけど可愛らしい部分もあって、一途で健気で弱々しくて強くもある。

 春希は冬馬かずさと風岡麻理は似ているって言ってたけど、わたしの印象からすると全く違うかな。

 たしかに表面上は似ている部分は多いけど、根っこの部分が全く違う気がするんだよね。まっ、クローンでさえ同じ人間を作り出す事は不可能だろうし、春希が似ていると思ったのも、よくて出会ってすぐの印象くらいかな。

 おそらく今春希に冬馬かずさと風岡麻理は似てる?って聞いてみたら、似ていないってこたえるだろうな。

 あっでも、強いけど弱いってところは似てるか……。ただ、どんな人間も強い部分と弱い部分があるわけだし、その両方の面をどんな風に人に見せているかが問題なのよね。

 

「なぁ千晶。本当に佐和子さんが言ったのか? もし言ったのなら、その時の事を教えてくれないか?」

 

 さすが春希ぃ、切り返しが早いね。麻理さんのピンチをさっそうと助けに入るって、男だねぇ……。

 おっと麻理さんの顔色も若干桃色っぽくなってほてってきちゃったかな?

 

「えっとねぇ……」

 

「どうなんだよ、千晶? 怒らないからちゃんと話せよ」

 

 怒らないからって言って実際怒らない人っているのかな?

 ほら、今回は春希は宣言通りに怒らないかもしれないけど、お隣にいる麻理お姉様がお怒りになるんじゃない? その辺の手綱もしっかりと握っててくれる?

 

「和泉さん。どうなの?」

 

「どうだったかなぁ……」

 

「千晶」

 

「わかったわよ」

 

 春希に睨まれちゃったら言わないわけにはいかないかな。

 といっても、最初から話す予定だったけどさ。

 

「えっとね、ちょうど舞台があって役作りのためにレディコミ読んでいたのよ。見た目は清純そうでお高くとまっている女なんだけど、心の中はえっろいことばっかり考えている女でさぁ、まっ、どこにでもいる女を演じることになったのよ」

 

「お前の判断基準については今は何も言わないけど、それがどう関係するんだよ」

 

「ねえ春希」

 

「なんだよ?」

 

「今は言わないけどって言ってるけど、その言いようがすでに言ってるんだけど」

 

「悪かったよ。謝罪するから話を進めてくれないか」

 

 わたしがわざとらしく顎の下から詰め寄ると、春希はすいっと顔をそらして私に話を進めろと促す。

 今は麻理さんの名誉回復が大切だしね。

 

「はぁ~い。……でね、あと一応言っておくけど、役作りのために麻理さんを観察していたってことはないからね」

 

「え?」

 

 やっぱわたしが春希たち3人のことを題材にして台本を書いていたって事は麻理さんにはいってないか。べつに隠さなくてもいいんだけど、こういう気遣いは春希って感じがするな。

 

「誰もが認めるワーカーホリックなのにレディコミ大好きだってところを役にいかそうと麻理さんを観察した事はないっていっただけだって。近くに役を演じるうえで参考になる人がいたら観察することがよくあるからさ。それで一応麻理さんを参考にはしていないよって言っておいたって事よ」

 

「そ、そう? 別に私を見て役に活かせるのだったら、参考にしても構わないわよ?」

 

「うん、今度なにかあったら参考にしてみる。だけどこの舞台、もう終わっちゃったから」

 

「そうなの?」

 

「うん。わりとうまく演じられたかな」

 

 レディコミ自体はいくら読んでもまったく興味はもてなかったけど、今回は女の醜い部分を演じるだけだったし、今まで集めたストックで十分だったのよね。

 だけど劇団の女連中がレディコミが面白いっていってたから気になったんだよね。わたしからすると女連中の妄想欲望よりも、男連中が隠している秘蔵コレクションをこっそり覗き見る方が大変有意義な時間をすごせるんだけどさ。

 あとで色々とおちょくれるしっ。

 

「和泉さんの舞台、見てみたかったわね」

 

「今度やるときはみにきてよ」

 

「そうさせてもらうわ」

 

「うん」

 

「………………それよりも私、レディコミなんて読んでないからねっ。レディコミが好きなキャリアウーマンって、私を参考にしても役に立たないからっ」

 

 話が終息していきそうだったのに、ここでまた蒸し返すかなぁ……。麻理さんが話してほしいって言うんならいいんだけどさ。

 それとも、きっちりと白黒つけておきたいタイプ?

 

「あぁ……、だから麻理さんは参考にしていないって言ったじゃない」

 

 だからわたしは苦笑いとともに一応助け船を出しておくことにした。

 でも、最初にわたしが攻撃したせいなんだけど……。

 

「それもそうね……」

 

「で、千晶。佐和子さんが言ったのかって話はどうなったんだよ?」

 

 さすが春希ぃ。またもや麻理さんをさりげなくサポートするんだね。

 

「それね。ちょうどニューヨークに行く為に佐和子さんに相談してたのよ」

 

「そういえば旅行とかするときは佐和子さんに相談してみたらって教えたんだっけな」

 

「そうそう、それ。麻理さんがせっかく紹介してくれたんだから使わない手はないかなって」

 

「はぁ……。あとで佐和子に電話しておかないと」

 

「べつにお礼とかはいいって言ってたよ。これも仕事だからって」

 

「はぁ…………」

 

 今度はさらに大きなため息をついたけど、麻理さんどうしたのかな?

 

「どうしたのですか? 千晶がいうように佐和子さんも仕事ですし、それほど負担にはなっていないと思いますけど?」

 

「違うのよ、春希」

 

「といいますと?」

 

「だって和泉さんを紹介してしまったのよ。佐和子に和泉千晶を押し付けてしまったの」

 

「あぁ……、なるほど」

 

「なにがなるほどなのかな?」

 

「そりゃあ佐和子さんも千晶の相手をするのは災難だったかなって……」

 

 わたしはわざとらしく柔らかい笑顔を作りだす。だれもが聖母だと崇めるべく日だまりのような笑顔をわざとらしく形作る。

 すると、今の状況をどうにか理解できた春希は苦笑いを浮かべ、逃げ場なんてないのに壁に体を押し付けて後退しようとする。

 でもね、春希。もう遅い……。

 

「……ちょっ、無理無理。というか暴れるな千晶っ。玄関だし狭いから」

 

「大丈夫だって。春希がちょこ~っと我慢してくれていれば問題ない」

 

「問題ないといいながら、首を絞めるの……、まじで苦しいって」

 

「なにが苦しいのよ。頭はわたしのおっきな胸で抱きしめてもらえているんだから、気持ちのいいの間違いじゃない?」

 

「だぁ……本当に苦しいからっ」

 

「和泉さんっ。私が悪いのよ。ほんとうにごめんなさい。だから春希を離しなさい」

 

「うん、わかってる。だから麻理さんが一番ダメージを受けそうな事をやってるの」

 

「わかっているのなら本当にやめなさいよ。春希に手を出すなんて卑怯よ」

 

「大丈夫だって。見た目ほど強く絞めてないし」

 

「そうなの?」

 

「そうだって。春希も慌てて混乱しているみたいだけど、実はこっそりとわたしの胸を堪能してるんじゃないのかな?」

 

「はるきぃ……」

 

 あっ、こわっ。

 さっすが麻理さん。春希のしつけをよくわかってらっしゃる。

 鬼の形相とはこういった表情をいうんだね。それにしても男に浮気された女の表情かぁ。生で見られてラッキーってことにしておこう。

 

「麻理さんっ。違いますよ。違いますって。いや違くはなくてですね……」

 

「どっちなのよ。はっきりしなさい」

 

「だからですね……」

 

「わたしの胸が気持ちいいって事でいいんじゃない?」

 

「千晶は黙っててくれ」

 

「和泉さんは黙ってて」

 

 こういうときも仲がいいんだから。ちょっと見ない間にさらに仲がよろしくなってない?

 

「はぁ~い、っと」

 

「それで春希。どうなのよ?」

 

「だからですね。千晶が言った通りパニック状態に陥ってしまって、首を強く絞められているって思ってしまったんですよ」

 

「ふぅ~ん。……それで?」

 

「だから千晶の胸がどうとかってこともないんですよ」

 

「そう。……それで今は冷静さを取り戻したと?」

 

「はい、どうにかやっとってところですかね」

 

「ふぅ~~~ん」

 

 麻理さんは春希の言葉を聞いてさらに不機嫌そうになる。

 春希と一緒に真正面から見ているからよくわかる。若干春希より上からだけど。

 

「人ってパニックになったらどうしようもないじゃないですか。普段できることもできなくなったりしてですね」

 

「別にパニック状態の時のことは責めないわ」

 

「ありがとうございます」

 

「でもね。今の状態の事は別問題かしらね」

 

「だから今こうして心をこめて謝罪しているじゃないですか」

 

「ふぅ~ん。謝罪ねぇ」

 

「はい、謝罪です。パニック状態だったとはいえ、麻理さんに不快な思いをさせてしまいましたから」

 

「だから、別にそのときのことは怒ってないわ」

 

「じゃあ、どうしてまだ不機嫌なんですか? 教えてくださいよ」

 

「ねえ、春希?」

 

「すまん千晶。今は麻理さんのほうを優先したいんだ。せっかくニューヨークにきてもらっているところで悪いけど、少しだけ待っていてほしい」

 

「わたしはべつにいいんだけど、ね」

 

「そうか? だったらあとでな」

 

「でもね春希」

 

「なんだよ?」

 

「一応大学でたくさんお世話になった春希にだから教えてあげるんだけどさ」

 

「だからなんだよ?」

 

 ようやく春希はわたしの声が聞こえる方に顎をあげる。後頭部を大きな胸にさらに沈め、その柔らかい感触をじかに受けながら。

 つまりは、春希は今までわたしの胸に頭を預けていたってことになる。さらに詳しく説明すると、わたしは春希を後ろから抱きしめながら床に座っている状態であった。

 

「ねえ春希。いつまで和泉さんの胸に埋もれているのよ」

 

「えっ?」

 

「これも一応言っておいてあげるけど、わたしはもう春希の首は絞めていないよ。でもさ、春希。いくら首を絞める時床に座り込んだからといって、そのままわたしを最高級ソファー代りにして身を埋もれさせるのは最高のアイディアだと思うよ。やっぱりわたしの胸が恋しいんだね。日本にいた時から春希はわたしの胸が大好きだったからねっ」

 

 わたしは今まで拘束を解いていた春希を再度両腕で抱き寄せると、麻理さんに挑発的な笑みとを送る。

 すると麻理さんは予想通りの悔しそうな顔を見せるものだから、ここぞとばかりに春希を抱き寄せる力を強める。

 

「ちょっと和泉さん。春希を解放しなさい」

 

「でもね、麻理さん。春希は自分からわたしの胸を選んだんだよ。わたしは春希をおさえつけていなかったじゃない」

 

「でも今は抑えつけているわ」

 

「せめて抱きしめてあげてるっていってほしいかな」

 

「同じ事よ」

 

「そう? まっいっか。でも、わたしは春希の首を絞めてはいたけど、首を絞めるのをやめた後は何もしていないよ」

 

「そうだけど……」

 

「春希が自分からわたしの胸に頭を預けてきただけだって。それに、春希って日本にいたときからわたしの胸で抱きしめてもらうのが大好きみたいなんだよね。いっつも口うるさいのに、胸の中では静かなんだよね」

 

「春希、そうなの? というか、いいかげん千晶さんから離れなさいよ」

 

「す、すみません」

 

 今度こそって言うか、わたしは春希をそれほど強く拘束していたわけでもないので、春希はぱぱぱっとわたしの胸から巣立ってゆく。

 ちょこっとだけ胸のあたりが寂しくなったけど、春希が立ちあがったのを見た後、わたしものそのそっと立ちあがった。

 

「もういいわ。とりあえずリビングに移りましょう」

 

「そうですね」

 

「狭い玄関でなにをやっているのかしらね」

 

「ですよね」

 

「寸劇ってところじゃない?」

 

「千晶。とりあえず中入ろうか。荷物はこれだけか?」

 

「うん、それだけかな」

 

「先行くわね」

 

「はい。……ほら千晶。リビングに案内するから」

 

「はぁ~い」

 

 ちょっとぉ……、ふたりとも冷たいんじゃない?

 たしかに再会と同時に全速力の喜劇は素人にはきつすぎたかもしれないけどさ。

 でも、二人ともとっとと中に入っていくので、観客がいない舞台ほど寂しいものはなく、幕が下がっては次の舞台に行くしかないのよね。

 ちなみに、わたしは空港から春希に電話したときと同じように流ちょうな英語を話している。アナウンサーばりの滑舌の良い発音は心地よく耳に響き、せまい玄関の隅々まで響き渡る。

 ただ、いくら狭い玄関っていってもここは高級物件らしく、それなりの広さはあるのよね。

 ほんと冗談じゃなくて、春希ってつばめの素質があるんじゃないの?

 麻理さんもお金持っているけど、冬馬かずさはもっとお金持ちなのよね。春希がねらって近付いているわけでもないんだろうけど、天性のものかな?

 まっ、わたしはどっちでもいいんだけどさ。

 女の話にお金の話。どうして話している内容は下世話なものなのだろうか。

 それが和泉千晶だからといってしまえばそれまでだけれど、綺麗な英語の発音に下世話な会話の組み合わせって、なんかくるものがあるのよね。

 とりあえずこれで玄関の客人からリビングの客人に格上げかな。

 

 

 

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