心の永住者   作:黒猫withかずさ派

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第68話/第69話

 

 

 光量が抑えられているレストランの雰囲気は贅を尽くした内装ではないように見えるのに、落ち着きと品をうまい具合に醸し出している。

 ニューヨークに来てからというもの、レストランに行く機会などほとんどない。食事はたいてい自宅で食べるし、外で食べるときは弁当を用意している。

 だから一流レストランがどういったものなのかは、取材での知識しかなかった。正確にいえば、レストランに行って美味しい食事にありつけるのは先輩方であって、俺はというと先輩方が取材してきたものをまとめるだけである。

 そんな実戦経験皆無の知識しか持たない俺であっても、このレストランの研ぎ澄まされたもてなしは理解できた。

 テーブルや調度品。そして肝心の食器類も、どれも一流のものであるはずだ。機能と価格重視の俺なんかは一生買う事はないだろう。

 そもそも一生手にすることなんてないと思っていた高級食器であれど、使う機会があったら手が震えてしまうかもしれないと思っていた。もちろん料理の事よりも食器の方が気がかりで、味なんてわからなくなってしまう事だろう。

 まあ、これは言いすぎかもしれないけれど、身分不相応の物を手にするときは過度に緊張する事はたしかである。

 けれど今日招待されたレストランは、贅を尽くした一流レストランのはずなのに、俺に緊張を強いらせない。もちろんどの料理も味わった事がないくらい美味しかった。

 今夜の為に用意されたワインも名前だけは知っている某有名ヴィンテージものであり、値段も聞く事を放棄したものではあるが、今夜の主役を祝う為なら、その価値に見合うワインだった。

 ………………まあそのワインもすでに空になり、似たような価格のワインがさらに2本空になっているのを横目で見ることになれば、目の前にいる二人にとってはワインの価値など大したことではないのではないかと思ってしまうのだが。

 

「ほんとあいつったら執念深いのよね。私の時だってあいつがいなかったらもっと上位にいってたはずなのよ」

 

「あたしは別に順位なんてどうでもいいかな」

 

「そりゃああなたは春希くんにいいところを見せられたから満足しているでしょうけど、でも事務所の経営者としては、一位と二位とではぜんっぜん価値が違ってくるのよね。まあ、日本企業の食いつきは良かったら仕事の依頼だけは来ているから良しとしておきましょうか」

 

 かずさはジェバンニ国際ピアノコンクールにて、堂々の二位の成績を収めた。母であり師匠であり、なおかつ所属事務所の社長でもある冬馬曜子が以前獲得した四位を超える成績に、日本だけでなく世界中から注目されたのは、その卓越したピアノの才能だけでなく、母子ともに人目を引くその容姿もあったことは本人たちも十分に認識していた。

 もちろん二人ともピアノの腕を評価してほしいと思ってはいる。だけど、低迷する音楽業界で、なおかつそれほど売れるわけでもないクラシック業界においては、曜子さんはピアノの腕だけでは売れない事を理解していた。なおかつ自分の事務所経営もあるわけで、使えるものは使う方針である。

 一方かずさとはいえば、気にしていない。それに尽きる。

 どうしてかといえば、……なんといえばいいか、ピアノ以外に関しては他人の評価にまったくといっていいほど興味がない。本人いわく、俺がかずさに見惚れていれさえいれば満足だとか。

 そんな美女二人と庶民代表の俺の三人がコンクールの祝いを兼ねてニューヨークのレストランで食事をしており、ここが日本でなくてよかったと心底思えていた。

 

「あたしは母さんの指示通りにピアノを弾いているじゃないか」

 

「でも、日本国内の仕事だけは受けないじゃない」

 

「日本で仕事をしなくても、他にも依頼があるんだから問題ないだろ?」

 

「今はそうかもしれないけど、日本のお客さんもしっかりと確保しないと、あとあと痛い目にあうのはあなたなのよ?」

 

「日本はいいんだよ。母さんだって日本を捨てて海外に出たじゃないか」

 

「私はいいのよ」

 

「どうしてさ?」

 

「だって、日本に帰れないわけではなかったもの。いつでも帰れたし、今も日本での仕事はしているわ」

 

「あたしだって日本に帰れないわけではないよ。ただ、今はピアノに集中したいんだ。ピアノと春希だけに集中したい」

 

「かずさ……」

 

「まあまあ、今日はいいじゃないですか。今日はせっかくのかずさの二位入賞を祝う席なんですから、そういったことはよしておきましょうよ」

 

 俺は嘘を言っているわけではない。たしかにこの場で日本のことを掘り起こして気分を暗くしたくないことはたしかである。

 でも俺としては、ジェバンニの前にニューヨークでかずさに会ったのを最後に、最近までかずさに会えなかったのだから、できることなら楽しく食事をしたい。

 ジェバンニ国際ピアノコンクール直前は、かずさがピアノに集中する為に会う事はよそうと電話で話し合いをしていた。でも、コンクールを終えても会えないとは思いもしなかったのだ。

 一応ニューヨークでの約束通り独占インタビューの予定は入っていた。編集部もその予定で紙面を確保してくれてもいた。麻理さんも俺と共にポーランドまで取材に行きもした。

 二人で取材をする為に、どれだけ根回しをしたことか。

 根回しといっても、コンクールだけに集中できるように他の仕事を入れられないようにしただけであるが。そもそも独占取材は冬馬曜子事務所が俺と麻理さんを指名しているので、他の部員が行くわけにはいかない。それに今までの取材も俺と麻理さんが担当していたので、ジェバンニという晴れ舞台で他の部員が行く事はありえなかった。

 だけど、そこは日頃から人の二倍以上の仕事をこなす俺と麻理さんを手ぶらでポーランドに送り出してくれるわけもなく、ジェバンニに集中できるように他の仕事を片付ける事が一番大変であった。

 

「それもそうね」

 

「あたしは最初から日本での仕事の事はもちろん、仕事そのものの話なんかしたくなかったんだよ。やっと春希に会えたんだからな。あたしは春希だけを見ていたんだ」

 

「それは俺も同じだよ」

 

「はるきぃ」

 

「ジェバンニ二位入賞おめでとう」

 

「ありがとう春希」

 

「でも、残念な事に二位になってしまったのよねぇ……」

 

 あっ、やばい。二位という言葉は禁句だった。

 かずさは気にしてはいないようだけど、曜子さんはあくまで一位だと思っていたようだしな。

 

「母さん。もういいじゃないか。昨日のコンサートで母さんも気分が晴れたって喜んでいたじゃないか?」

 

「それはそれよ」

 

「母さんがジェバンニの順位発表のあと、インタビューを全てすっぽかしてウィーン帰るなんて凶行をしたおけがで、世間のあたしへのイメージが悪くなったんだからな。あたしは母さんみたいにヒステリーじゃない」

 

「なにを言っているのよ。そもそもあなたがインタビューを受けたとしても、いつもむすっとしているだけで、ほとんどしゃべらないじゃないの?」

 

「まあまあ曜子さんも、今日はめでたい席なんですから……」

 

「たしかに、ニューヨークのコンサートに割り込んできた、一応今回の一位であったロシア人は、その師匠とは違って礼儀がある女の子だとは思うわよ。でも、師匠が駄目ね。わざわざ実力差を知って嘆く為だけにニューヨークにまで来るなんて、とんだマゾヒストよね」

 

「演奏自体は無難だったって、演奏直後は曜子さんも誉めていたじゃないですか?」

 

「そりゃあいい演奏を聴けたら評価はするわよ?」

 

「そうなんですか?」

 

 でも、さっきまで怒っていましたよね?

 なんて、無謀な事は聞きませんけど。

 

「たしかに演奏は評価するけど、今回のコンサートの主役はかずさなのよ。しかもかずさの単独演奏だったはずなのに、必要もないゲストとしてあの娘が割り込んできたんじゃないのよ」

 

「それはスポンサーに文句を言って下さいよ」

 

「まあ、そうなのよね。でも、そのおかげでかずさのほうが上だって、観客もわかったはずよ」

 

「…………そうですね」

 

「あら? 春希君は私とは意見が違うようね?」

 

「そんなこと言ってないじゃないですか。俺はかずさの演奏がいつだって一番なんですよ」

 

「あら? それってのろけ?」

 

「そうですよ。のろけでけっこうです」

 

「言うようになったわね。成長したのねぇ」

 

「曜子さんと付き合ってたらいやでも成長しますよ。ジェバンニの順位発表のあと、うちとのインタビューもしないでウィーンに帰国してしまった大人げない人と比べれば、きっとすごい大人だと思いますよ」

 

「あ、あれはしょうがないじゃない。勢いよ、勢い」

 

「その勢いのおかげで紙面に穴があきそうだったんですよ」

 

「あれは大変だったな。美代ちゃんなんて青白い顔をしながら母さんの後始末をしていたもんなぁ。睡眠なんてほとんどできなかったとか、泣きながらあたしに愚痴を言ってきたんだぞ」

 

「あれはかわいそうだったな」

 

「あれは、そうね。でも、あのあとしっかりとボーナスも出したし、休暇もあげたわよ?」

 

「でもその休暇も、すぐに返上させたんですよね?」

 

「そ、それは……。ねえ、かずさ。今日の春希君、なんだか意地悪よ?」

 

「そう? あたしには優しいけど?」

 

「だれかさんが体調不良を理由に外に出なくなってしまいましたよね。コンクール後に企画されていた曜子さんのコンサートも体調不良を理由にキャンセルしましたし、美代子さんは後始末で大変だったようですよ。一応公式発表では体調不良ですけど、実際は怒りをピアノにぶつけ続けていて、観客には聴かせられない演奏だったとか。でもいいんじゃないですか? ジェバンニでの曜子さんの怒りは報道されていましたし、その時の感情だだ漏れの演奏を聴きたいっていう人も多かったと思いますよ?」

 

「ねえ、かずさ。やっぱり春希君、意地悪すぎるわ」

 

 こういうときだけかずさに頼らないでくださいよ。しかも、弱々しい姿の演技までして。

 誰が曜子さんに演技指導したかはこの際不問だ。

 …………家に帰ったら、千晶にお説教だな。

 でも、最近千晶の帰りが遅いんだよなぁ。公演前だからしょうがないか。……はぁ、だったらお説教じゃなくて弁当の差し入れでもするしかないよなぁ。

 

「でも、しょうがないじゃない。あの娘の師匠は、私とかずさの師匠でもあるフリューゲル先生とも因縁があるのよ」

 

「でもそれって、一方的に向こうがライバル視してたんじゃないのか? フリューゲル先生があの男のことを話すときも、べつに嫌っているようには見えなかったぞ。たしかに派閥争いばかりしないで教育の方に力を入れて欲しいとは言ってたけどさ」

 

「ほらみなさい。それを嫌っているというのよ」

 

「でも、人に教える技術に関しては一流だって誉めてたと思ったけど?」

 

「それは、フリューゲル先生が温厚な人だからよ。あの男が一方的に先生につっかかってきて、私がジェバンニに挑戦した時もあの男ったら、私情をはさんで審査していたはずよ」

 

「たしか今回も審査委員でしたよね?」

 

「そうよ。今回は私たちへの恨みだけじゃんくて、ロシアの政治事情が絡んでいたみたいだけど」

 

「どういうことだよ?」

 

「あなたには話したと思うけど?」

 

「そうか? なんかいつも早口で文句ばっかり言っていたから、聞き流していたんだと思う」

 

「あなたねぇ……」

 

 まあ、かずさの対応が正解なんだろうけど。

 

「近年アジア勢の台頭でロシア、ポーランドが上位に食い込めないでいたのよ。だから強いロシアを世界に示す為に、今回なんとしても一位を取らせたかったらしいわよ。一応あの男もロシア人なわけだし、審査委員としての発言力も強いしね」

 

「その辺の裏事情は今夜はやめておきましょうよ。昨日のかずさの演奏を聴いたことで満足しておきましょう」

 

「まあ、いいわ。春希君がそこまでいうんなら」

 

「ありがとうございます。それで、しばらくはニューヨークにいられるんですよね?」

 

「どうだったかな……。母さん?」

 

「自分のスケジュールくらい自分で確認しておきなさいよ。……えっと二週間後にはフランスでのコンサートがあるから、それには参加しないといけないわね。かずさもジェバンニで二位なわけだから、いくらなんでもいつも依頼を断るわけにはいかないのよね」

 

「はぁ……。二位になった事は悪くはないけど、コンサートツアーだけは面倒なんだよね」

 

「これも期待の新人を紹介する為にジェバンニが用意してくれたコンサートツアーなのだから、かずさもあまり邪険にするなよ」

 

「春希はいいのか?」

 

「なにが?」

 

「やっと会えるようになったというのに、あまり会えなくて」

 

「それは寂しいけど、ツアーは一年もやらないだろ?」

 

「そうだけど、やっと落ち着けると思っていたからさ」

 

「もうちょうっとの辛抱だって。それにツアーが終わっても、今度は世界を相手に演奏していくんだろ? だったら今と同じような感じになるんじゃないのか?」

 

「うっ…………」

 

 こいつめ。何も考えてなかったな。かずさらしいといえばかずさらしいけど、ほんと演奏以外は駄目な奴なんだから。

 

「ねえ、春希君。そのことなんだけど、考えてくれた?」

 

「専属のマネージャーのことですよね?」

 

「ええそうよ」

 

「もう少し考えさせて貰っていいですか?」

 

「いいわよ。でも、あまり待てない事は理解してくれているわよね?」

 

「わかっています」

 

「ならいいわ」

 

 たしかにはかずさには演奏だけを考えて欲しい。それに、演奏以外は駄目だっていうのもある。

 美代子さんは曜子さんの方で手が回らない。ウィーンの方にも職員はいるけれど、かずさとうまくやっていけるかは未知数すぎる。

 かずさも丸くなったとはいえど、プライベートの方もかなり混ざったスケジュール管理を、かずさが任せるとは思えない。だとすれば、かずさが心を許した相手がマネージャーをするのが一番いいに決まっている。

 だけど…………。

 

「春希?」

 

「そんな顔するなよ」

 

 不安な顔をさせているのは俺のせいなのに、なにを言ってんだよ、俺は。

 

「……うん」

 

「悪い返事はをするつもりはないから」

 

「うん」

 

「でも、もう少し待ってほしいんだ」

 

「わかった。春希が納得する形で仕事についてほしいからな」

 

「ありがとう」

 

「それはこっちの台詞だから」

 

 

 

 

 

 

 

 武也あたりからすれば、冬馬と食事に行ったレストランと同じくらいお前が今住んでいるマンションは足がすくむって言われそうな気がしてしまう。

 実際武也がニューヨークに来て、俺が住んでいるマンションをみた時に似たようなことを言われている。

 お盆休みを利用して武也は一人ニューヨークまで俺に会いに来てくれた。依緒はというと、日本にいる親友と温泉旅行だとか。

 一応武也と依緒の仲はうまくいっているらしいが、お盆休みくらいは男は男同士。女は女同士で楽しむべきだとか。いうまでもなく依緒の親友を気遣っての配慮なのは俺でもわかる。

 だけど、こうして遠く離れた地まで武也が会いに来てくれた事に俺は深く感謝した。

 千晶がニューヨークで本格的に活動することが決まった直後、千晶は曜子さんの依頼によって俺と麻理さんと一緒に住む事になった。

 新米社員でもある俺からすれば、曜子さんが家賃を全てもってくれるという破格の条件に歓喜しても誰も責められないはずだ。しかもそれが編集部そばの超高級マンションであればなおのことである。

 というのは建前で、これも麻理さんのリハビリに関係していた。いつまでも俺とだけ一緒にいるわけにはいかない。だから千晶の世話をしなけばいけないとしても、麻理さんと千晶が一緒に暮らす事はプラスに作用すると思っていた。

 曜子さんが帰る前に、この雑居生活は千晶の発案だと聞いたときには驚いたものだが、いざ一緒に住んでみればこれでよかったと思わずにはいられなかった。

 

「千晶さん、出てきなさい」

 

 この家の主人がメイドを呼ぶがごとく曜子さんは千晶を呼び立てる。

 自宅マンションに帰って来て、曜子さんの最初の一言はこれだった。

 普段は俺と麻理さん。そして千晶が住んではいるが、部屋を借りているのは曜子さんである。そして、曜子さんがニューヨークにいるときはホテル代わりにこのマンションを利用するのは当然の流れでもあった。

 

「なんでしょうか奥様?」

 

 急いで自室から出てきたであろう千晶の服装は乱れている。きっと寝ていたんだろうが、それでも曜子さんのけっして大きくはない呼び声に反応して出てきたところは評価したい。

 俺としては、普段から俺のお願いも少しは聞いて欲しいと強く思ったが、千晶を抑えつけるのもどうかとは思い、千晶矯正計画は今年何度目かのお蔵入りとなった。

 

「奥様ってあなた。いつもは曜子さんとか、魔女とか魔王とか、あとは悪魔とか言っているくせに、どうして今日に限っては奥様なのかしらね? どうみても後ろめたい事がありますって言っているように思えてしまうわよ?」

 

 普段の千晶なら絶対にしないようなミスだ。

 本当に千晶は曜子さんに弱いよな。一応事務所の社長ってわけだけど、千晶がそんな肩書を気にするわけないよなぁ。つまりは、根っこの部分から曜子さんにはかなわないって思ってるのかもしれないよな。

 それでもいつもは馴れ馴れしすぎるほど曜子さんと仲がいいんだから、よくわからない二人だよな。

 

「滅相もない。今日はずっと部屋にこもって稽古してたんだから、なにもやらかしてはいないはず、だと思うかな?」

 

「それが問題なのよ」

 

「はい?」

 

「今日取材だったでしょ?」

 

「そだっけ?」

 

「朝出かける前にも伝えたはずよ」

 

「あぁ……、そんな事もいってたような」

 

「たぶん部屋にこもっていましたから、直接顔を見て言わなければ千晶には聞こえてなかったと思いますよ」

 

「返事はあったわよ?」

 

「返事だけです」

 

「なるほど、ね。私もよくやるわ」

 

「春希っ。裏切ったわね」

 

「事実を言ったまでだ」

 

「でもしょうがないじゃない。のりのりで稽古していたんだから、稽古中はそれ以外は見えないっていうかさ」

 

「それならしょうがないわね」

 

「それでいいんですか? 取材があったのを忘れていたんですよ」

 

「練習中だったのよ?」

 

「練習中であろうが仕事は仕事ですよね?」

 

「だって、私だって取材だけじゃないけどピアノを弾いていて約束を忘れた事が何度もあるし……」

 

「美代子さんから聞いていますよ」

 

「あらそう? だったら話が早いわね」

 

「それだけですまないから問題なんですよ。だれが後で謝りに行くと思っているんですか? 今日の取材はうちの取材だったらから俺が後で千晶からコメント貰っておくことで話をおさめることができましたけど、これが他社の取材でしたら信用を失ってしまいますよ」

 

「そこは春希君みたいなスタッフの腕のみせどころじゃない」

 

「そういうことをするためにスタッフがいるわけではないんですけどね」

 

「まあまあ春希も家に帰ってきたばっかりなのに、そんなにもテンションあげなくてもいいじゃない」

 

「千晶っ。お前が言うなよ。お前が取材を受けなかったのが悪いんだからな」

 

「さぁってと……。インタビューするんならちゃっちゃとやってよね」

 

「はぁ……。ほんとにもう」

 

「というわけで、春希君。がんばってねぇ」

 

 ひらひらと手を振る曜子さんを横目に俺は千晶の取材をするためにリビングへと向かう。

 実は今回みたいなトラブルは今日に限った事ではなかった。

 そもそも曜子さんが和泉千晶をニューヨークに一人放り出すなんてことはしない。俺と麻理さんに家賃ゼロを餌にしたのも食事などの家事を任せる為だけではなかったのだ。

 曜子さんが俺達に任せたもの。それはニューヨークでの活動そのものである。もちろん仕事の調整・営業は曜子さんが専門のスタッフを用意してくれている。

 だけどそのスタッフは仕事を取って来て管理するだけであり、和泉千晶の管理は含まれていない。

 千晶を押し付けられてすぐに日本にいる美代子さんに聞いた話によると、やはりというか当然というのだろうか。美代子さんは千晶の生活面を含めたマネージメントをしていたらしい。

 芸能面の仕事は専門のスタッフを雇っていたらしいが、その仕事に千晶を連れていくのは美代子さんであり、仕事に熱中しすぎる千晶を制御するのも美代子さんの仕事だった。

 もちろん仕事に熱中すればプライベートの面。つまり食事などにもしわ寄せがくるわけで、俺も知ってはいたが美代子さんは苦労したらしかった。

 そしてニューヨークに送り込まれた千晶の世話をすることになったのは、当然俺になるわけで……。

 

「はぁ……。俺は出版社の編集部員だったはずなんですけどね。いつからマネージャーになったんでしょうか」

 

「一応開桜社には籍はあるわよ?」

 

「退職した覚えはないですからね」

 

「だから出向って感じかしら?」

 

「裏でなにをやったんですか? 麻理さんも突然の人事で困っていたんですからね」

 

「それは悪い事をしたとは思ってはいるけど、それでも春希くんは風岡さんの直属の部下には変わりはないと思うわよ?」

 

「たしかに麻理さんの下での仕事もしていますけど、それは千晶のおもりの空いた時間でやっているようなものじゃないですか」

 

「でも春希くん」

 

「なんですか?」

 

「和泉さんは、朝稽古場に送り届ければ勝手に稽古していてくれるし、保育園に子供を連れていくくらいの仕事しかないじゃない」

 

「そうかもしれませんけど、実際そうなんですけど……、はぁ、もういいですよ。ほら千晶。取材するからな。だから寝るなよ」

 

「わかってるって」

 

 俺も千晶の世話が嫌なわけではない。千晶にはプライベートの面では俺達が世話になっているのだから、俺も麻理さんも千晶のことを面倒だとは思ってはいなかった。

 だけど、こうも曜子さんの手のひらの上で転がされていると実感させられると、どうしても反発したくなってしまう。まあ、自分の不甲斐なさを目のあたりにさせられてしまっていることに対する幼稚な反発だろうが……。

 曜子さんの言う通り、俺の仕事は自宅での千晶の世話と、稽古場へ千晶を運んで行くことが増えただけで、麻理さんと二人だけで暮らしていた時と仕事面での大きな変化はないといってもいい。

 だから、かずさのマネージメントの仕事だけは今みたいな中途半端な状態にはしたくはなかった。おそらく曜子さんは、俺に逃げ道を用意してくれたのだろう。

 かずさのマネージメントも、仕事を取ってくる部分は俺がやるよりは専門のスタッフがやる方が効率もいいし、なによりも能力の差がありすぎる。

 出版社の編集部員としてどうにか仕事になれてきた俺が、どうしてクラシックの仕事という初めての仕事を一人で受け持てるというのだ。

 おそらく曜子さんも最初から全ての業務をこなせる事を求めてはいまい。俺に求めているのは、今千晶に対して行っているような日常のサポートであり、精神面でのケアを求めているはずだ。

 そしてゆくゆくはクラシックの仕事も覚えてもらえれば恩の字なのだろう。

 だけど、だからこそ俺は、中途半端にはしたくはなかった。麻理さんの事も、かずさの事も、そして仕事の事だって、一人の人間がやれることには限界があるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 生活する人間の数が増えればそれだけ必需品の量も増えるわけで、ふだん買い置きしてあるストックも早く消費されてしまう。また、冷蔵庫の中身の減りが早いのも同様だ。

 だからなくなった分は補充しなくてはならないし、それはふだん全ての家事をハウスキーパーに任せている上流階級の冬馬親子も同じである。

 

「こんなの全て配達してもらえばいいじゃないか」

 

「そもそもなんでハウスキーパーを雇っていないのよ。春希君も風岡さんも仕事で忙しいはずよね? どこに家事をする時間なんてあったのかしら?」

 

 家事をまったくしない二人を買い物に連れだせば不平を言うのは当然であり、比較的軽い荷物を持ってもらっていても文句を言いだすには時間はかからなかった。

 

「家事は時間があるときにちょこちょことやっているだけですよ」

 

「ちょこちょこというわりには綺麗にしているわよね?」

 

「気分転換にもなっていますからね」

 

「春希はどういう神経をしてるんだよ。掃除なんて面倒なだけじゃないか」

 

「どうせ生活するなら綺麗な部屋で生活したいだろ? 汚い部屋で暮らすよりはよっぽど気分が晴れるだろ?」

 

「それはそうだろうけど……」

 

「かずさだって汚いレッスン部屋でピアノなんて弾きたくないだろ?」

 

「そりゃそうだけど……」

 

「だったら掃除はこまめにすべきなんだよ」

 

「ほらっ、ハウスキーパーに掃除してもらえばいいじゃないか。うん、そうだよ。うちは毎日掃除してもらっているから綺麗なんだからな」

 

 解決の糸口が見えたとばかりに胸を張るかずさに、俺は小さくため息を洩らしそうになる。一緒にいる麻理さんは意外にも100%俺に賛同しているわけでもなく、何かを含んだ苦笑いを浮かべていた。

 

「そうよ春希くん。適材適所っていうじゃない。私やかずさが掃除をしたって散らかすだけよ」

 

「いばって言うことですかっ」

 

「事実でしょ?」

 

「そうだぞ春希。できることとできないことを認識することは大切なんだぞ」

 

 その認識は間違ってはいない。たしかにできることとできない事を認識することはとても大切だ。だけど、その認識の前に、しなければいけない事としなくてもいい事があるっていうことを認識して頂きたい。

 そりゃあ俺も人間だ。怠けたい時もあるし疲れているときもある。俺も見栄を張って掃除は気分転換だって言いはしたが、その認識は間違いではないにせよ、したくないときもあるのだ。

 だけど快適に生活する為にはしなくてはならない事がある。しかもそういった生活に密接な事ほど後回しにしてしないでいると生活に支障が出てきてしまう。それに、一度狂った生活習慣を元の生活に戻すのは大変苦労してしまうというおまけつきだ。

 

「それは家事をこなそうと頑張ってから言ってほしいぞ」

 

「あたしだって掃除くらいしたことはある。母さんじゃないが、あたしも掃除をすると散らかるだけなんだって」

 

 ピアノと同じく遺伝って恐ろしいな。

 まあ、実際は遺伝じゃなくて、親を見て育ったって言うべきなんだろうけど。

 

「麻理さんだって最初は掃除は苦手だったけど、今ではしっかりとするようになったんだぞ。だからかずさだって最初のうちはうまくいかないかもしれないけど、頑張って続けていればできるようになるって。……ねぇ麻理さん、そうですよね?」

 

「えぇ、まあそうかもしれないわね?」

 

 援護を期待して麻理さんに話を振ったというのに歯切れが悪かった。むしろ話を振られて迷惑だという顔さえ見え隠れする。

 実際は俺に迷惑ですなんて顔は見せないけれど、話を振られて困っている事だけはたしかであった。

 

「麻理さん?」

 

「ううん、なんでもないわよ。うん、掃除はまめにするべきよね。そうすれば掃除をする習慣ができて、慣れていくわ」

 

「ですよね」

 

「へぇ、掃除をしなかった麻理さんも、今ではできるようになったというわけか」

 

「そうよねぇ。汚い部屋でも平気で生活できていた風岡さんも心を入れ替えたんですもの。掃除は大切よね」

 

「…………えっと、そ、そうよねぇ」

 

 麻理さん、どうしたんです?

 かずさと曜子さんもわざとらしい指摘に麻理さんはじりじりと後退していく。その反応をみたかずさたちはにやりと笑みを浮かべるものだから、さらに麻理さんは逃げ腰になってしまった。

 

「たしかに日本にいた時はまったく掃除らしい掃除をしてこなかった麻理さんだけど、今はまめに掃除するようになったんですよ。だからかずさも曜子さんもやれば掃除ができるようになるはずです」

 

「へぇ、そんなにひどかったの?」

 

「えっ? えっと、そうですね。綺麗だったは言えなかったと……」

 

「へぇ~」

 

「あっ…………」

 

 だから麻理さんは歯切れが悪かったのか。たしかにお世辞にも日本では麻理さんの部屋は綺麗ではなかった。それを指摘されれば麻理さんだって恥ずかしいと思っても不思議ではない。

 でも、どうしてかずさと曜子さんはその事を知っていたんだ?

 

「大丈夫よ春希くん。べつに私たちは風岡さんをいじめようとしているわけではないのよ?」

 

 今している事がいじめです、とは言わないけど。

 

「この前風岡さんから聞いたのよ。それに私は仕事をばりばりやりながらも家事をしっかりとやっている風岡さんを尊敬しているわ」

 

「そうなんですか?」

 

「だって私には家事は無理だもの。ピアノに夢中になりすぎて、他の事はまったくね」

 

「たしかに母さんはピアノしかないよな。子育てさえほどんどしてこなかったからな」

 

「でも、あなたはしっかりと育ったじゃない?」

 

「母さんと同じくピアノしかできないけどな」

 

「それでも私はここまで育ってくれたことを感謝しているわ」

 

「まあ、あたしも母さんには感謝しているよ」

 

「かずさぁ……」

 

「そりゃあ母さんに日常的な面倒を見てもらった記憶は皆無だと言ってもいい」

 

「かずさ……」

 

 そこは落ち込む所なんですか? 自分でも家事はしてこなかったって言ってたじゃないですか。

 

「でも母さんはあたしにピアノを与えてくれた。今もピアノを弾くには最高の環境を与えてくれている。その事にはすごく感謝しているんだ。それに、もしあたしがピアノを弾いていなかったら春希とこうして一緒にいられなかったかもしれないからな」

 

「たしかにあなたからピアノをとったら何も残らないわよね。一応私の遺伝子をもっているから容姿だけは、いいか。あとは私の財産もあるわけだからお金にも困らないわね。よかったわね、かずさ。私が母親で」

 

「母さん……」

 

「に、睨まないでよ。ほんの、冗談よ冗談。本気で言っているわけではないって、あなたもわかっているでしょ?」

 

「母さんが言うと冗談に聞こえないんだよ」

 

「そ、そう?」

 

「まあかずさもそのへんにしとけって」

 

「春希が言うんなら……」

 

「かずさも大人になったっていうことね。もうピアノだけじゃなくて、子供だって産める年齢になったのよねぇ」

 

「か、母さんっ」

 

 かずさんのかん高い悲鳴に周りにいる通行人も視線を向けてくる。かずさにしては珍しく、顔を真っ赤にして両手を振って戸惑いをみせている。

 俺もかずさほどではないけど、きっと顔を赤くしているのだろう。……だって、かずさの子供となれば、必然としてその父親は…………。

 

「べつに間違っている事を言っているわけでもないでしょ? たしかに今すぐ子供が欲しいって言われても事務所の社長としては困ってしまうわよ。もちろんピアノの先輩としての意見としても今子供を産むのは反対かな」

 

「あたしだって今は子供が欲しいなんて思っていないよ」

 

「私も今はその時期ではないと言っているだけなのよ。子供を産むことでピアノの質が向上する事もあるわけだしね。…………まあたしかに子供を産んで引退しちゃう人もいるから人それぞれかな? そうよね。子供がっていうよりは、子供を産んだあとの環境ってことかしらね」

 

「心配するなって。あたしは…………、その。子供は育てられない。だから産みたいとは思っていない」

 

「かずさ?」

 

 俺は具体的な何かは掴めはしないが、不安が俺の背中を押し、かずさの肩に手をかけようとする。しかし、目に見えない拒絶が俺が触れる事を拒む。

 

「春希っ、違うんだ」

 

 かずさ自身も俺の事を拒んでしまった事に驚く。おそらく俺以上にかずさの方が驚いているに違いなかった。

 

「かず、さ?」

 

「本当に違うんだ。いや、違くはないんだけど、その、えっと、子供は欲しい。春希との子供なら欲しいよ。だけど、子供は育てられない。子供を育てる事ができるなんて、あたしには思えないんだ」

 

「ごめんなさい春希くん。たぶん私が育児をしてことなったせいね」

 

「それも違うよ。母さんのせいじゃないっ」

 

「でも、私がかずさの世話をした記憶はないわ。生まれた時から人任せで、かずさにしてあげたことはピアノだけ。そのピアノにしたって私が直接指導することなんてほとんどなかったもの。ピアノを与えて、優秀な指導者を付けてあげただけよ」

 

「だから、母さんのせいじゃないんだって。あたしの気持ちの問題なんだ」

 

「じゃあどうして子どもはほしいけど育てる自信がないっていうのよ?」

 

「それは…………」

 

「すっごく人任せの言い方をしてしまうけど、私もかずさが育児を完璧にこなせるとは思っていないわ。むしろ人にまかせっきりになってしまうでしょうね」

 

「曜子さん、さすがにそれは言い過ぎなのでは?」

 

「春希くんは黙ってて。それに、お世辞にもこの子が育児を一人でこなせるとは思えないわ。もちろんお金で解決することはできるわよ。でも、この子の場合はそのお金で解決する手段さえ使えない気がするわ。えぇと、言っておくけど、お金の問題ではないのよ」

 

「えぇ、まあそうですよね」

 

 普段から派手にお金を使っているし蓄えも十分にある。それに今も稼ぎもいいわけだからお金の心配はないくらい俺だってわかる。

 たしかに曜子さんが言う通りかずさはお金があっても、その使い方を知らない場合が多いんだよな。ベビーシッターを雇うにしても、どう契約すればいいかさえわからないだろうしな。

 

「この子はね、普段の生活さえ一人では無理なのよ。食事だって自分では用意できないし、一人にしておいたらきっと一週間は生きていられないわよ」

 

「それは言いすぎ…………ではないですね。切実に心配です」

 

「春希っ! それは言いすぎだろっ」

 

「いや、そのな。お前ここから一人でウィーンに帰れって言われたらできるか?」

 

「えっと、どうかなぁ……」

 

 あっ、目をそらしたな。

 予想通りの反応過ぎて不安がさらに急上昇してしまった。

 

「一応聞いておくけど、ここからうちのマンションまでは帰れるよな? ここからだったら歩いてでも帰れる距離だからな」

 

「タクシー使ってもいいのなら」

 

「はぁ……。今お金持っているのか?」

 

「…………ない、かな」

 

「わかった。お金はあるとする」

 

「なら、大丈夫?」

 

「住所は知っているのか?」

 

「…………知らない」

 

 ぷいと横を向き拗ねる姿を単純にかわいいなんて思っていられるほど俺は能天気ではなかった。むしろ心配症の俺の保護欲が急上昇するほどだ。

 わかってはいたけど、かずさを一人にはできないんじゃないか?

 

「とりあえず俺から離れないように手を握っておけ。こんな所で迷子だなんてなられたら最悪だからな」

 

「そこまで言うのかよっ」

 

「俺と手を握るのは嫌なのか?」

 

「…………嫌じゃないけど」

 

「だったら、ほら」

 

「わかったよ」

 

 温かくて細長い指が俺の手に絡みついてくる。

 どうやら俺もかずさも手をつなぐ事は嫌ではないらしい。手をつなぐ事によって、俺は恥ずかしさを、かずさは拗ねていたのを忘れたほどなのだから、手をつなぐという行為は些細な事を忘れさせてくれるようだ。

 

「おのろけ中に悪いんだけど、ねえかずさ。どうして子どもは駄目なのよ? 春希君があなたがまったく子育てできない分も含めて子育てしてくれるわよ。いっそのことあなたも含めて二人分まとめて育ててくれるほどだと思うわよ」

 

 曜子さんが言いたい事はよくわかる。間違ってない。間違ってないけど、かずさにそれを言ってしまったら、また拗ねるじゃないですか。

 

「それもわかってる。でも、あたしが心配しているのは、そういうことじゃないんだ」

 

「あらそうなの?」

 

 かずさの反論に、曜子さんも肩透かしをくらったようだ。そして俺も、かずさには悪いけど似たような気持であった。

 今は和泉千晶っていうでっかい子供まで世話してるんだ。ここにかずさと子供が加わったらどうなってしまうかと内心不安にもかられる。

 でも、千晶の世話にせよ、俺は嫌だと思った事はない。…………まあ、面倒だとは思う事はある。たまに頭をひっぱたきたくなるようなこともある。もちろん叩かないけど。

 それでも一緒にいる喜びが俺を動かしてくれるわけで、それがかずさとその子供ならば、俺を元気よく動かしてくれるはずだ。

 

「あたしは母親になるのが怖いんだ。あたしなんかが母親になったらいけないとさえ思ってる」

 

「それを言っちゃったら私なんかあなたを産んでもなお母親になんてなれなかったわよ。でも、それでもあなたは育ったじゃない? だったらかずさが子供を産んでも大丈夫よ」

 

「たぶん母さんの言う通りだとは思うよ。実際子供なんてほっといても育つと思う。母さんが海外に行ってからもあたしは何不自由なく生活できていたからな。あたしの場合は金銭面では全く不自由しなかったし、ピアノだって好き勝手やることができた。そういう面では充実しすぎるほど充実していたし、この環境が恵まれ過ぎているっていうことも理解できている。だけどさ、そういうのでもないんだ」

 

「俺だって自分が父親になれるかどうかなんて自信はない。だけど、この人とならって人との間の子供なら、この人の子供を育てたいっていう相手となら大丈夫なんだじゃいのか? そりゃあ全てがうまくなんていきやしないだろうけど、俺だってまともに育ったとは思えはしないけど、こうして生きていけてる」

 

「理屈ではわかってるんだ。わかってるよ。だけど…………どうしても駄目なんだ」

 

「…………かずさ」

 

 かずさは曜子さんのせいではないとかたくなに認めようとはしないが、根本的には曜子さんが中学生のかずさにした決断が原因だと俺は判断してしまう。

 今まで世界の中心だった母親に捨てられたと思いこまされてあの広い屋敷に一人で高校生活を送らければならなくなったかずさの心境は、極端な言い方をすれば虚無だといえるんじゃないだろうか。

 これがいっそ地獄ならば生きていこうと強くなれたかもしれないと思えてしまう。だけどかずさに用意されたのは、今までの世界を否定された何もない世界。

 なにもなければ動けはしないし、心も死んでいってしまう。

 それが感情を表現するピアノであれば致命的にかずさの心を引き裂いてしまったのだろう。

 その高校時代を経験したかずさにとって、自分が経験した耐えがたい高校時代を自分の子供にも経験させてしまうのではないだろうかという不安は、きっとかずさの心に深い傷として残っているのではないだろうか。

 

「…………春希君、ごめんなさい」

 

「曜子さん」

 

「かずさはああ言っているけれど、やっぱり私のせい、みたいね」

 

「……それは」

 

 俺は、それが違うとは言えない。心の底では曜子さんが原因だと思ってしまっているから。それに、ここで気を使った言葉をかけても何も解決はしないだろう。

 

「だから母さんのせいじゃないって言ってるだろっ」

 

 かずさの必死の訴えも、どこか空々しく聞こえてしまう。

 たとえ母親の事を今は恨んでいなくても、恨みがなくとも傷は残ってしまっているから。

 

「…………かずさ」

 

 秋風が俺達を追い越していき、肌寒さだけが体の芯に響かせてゆく。まだ秋であって冬ではない心地よさを届けてくれるはずの秋が、どんよりと俺達の心を冷たくしてゆく。

 俺も曜子さんもかずさの元気な姿ばかり見ていたせいで忘れていた。高校時代のかずさを知っている俺でさえかずさが隠していた傷に気が付けないでいたんだ。

 いや、俺はかずさが本当につらい時を見ていない。俺がかずさを意識しだしたのは、かずさが普通科に移って来てからの高校三年からでしかない。

 音楽科で一人孤独であった高校一年、反発しても虚しいだけの高校二年。その高校生活における大部分を占める二年間はほとんど武也から聞いた話でしか理解していないかった。

 もちろんかずさからも少しは聞いてはいるが、それは事実の羅列であって感情の吐露には至っていなかった気がした。

 俺達は成長して社会人になった。かずさはジェバンニで二位にまでなり、今話題のピアニストにまで駆け上がった。

 だけどかずさの心の一部は、今もあの音楽室で一人でいるとは思いもしなかった。

 

 

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