心の永住者   作:黒猫withかずさ派

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第70話/第71話

 

 

 

 

「本当に俺が同行してもいいんですか?」

 

 かずさがフランスでの公演を終えてニューヨークに戻ってきた12月。

 かずさたちを空港で出迎えた俺にかずさが寒い寒いと言いながら抱きついて暖をとり、フランスにたつ前に見せた「子供」の件をひとまず保留にしてくれていた事に、俺はほっと胸をなで下ろす。

 かずさは何度も寒い寒いと不平を述べてはいるが、俺が出迎えた場所は寒くはない。そもそも空港の中なのだから暖房はしっかりと効いている。実際かずさもコートは手に持っているだけで着てはいなかった。

 一応かずさをフォローしておくと、窓の外を見れば今にも雪が降りそうなほど寒々としていて精神的には寒いのかもしれない。…………人によるけれど。

 それにかずさが素直に甘えてきているのを俺が拒むことなんてありえなかった。

 ただ、いつまでも空港でかずさの温もりを享受しているわけにもいかない。しかも、隣にはにやにやとしているだけで、いつなにか言ってくるかわからない不気味な曜子さんが待ち構えている。だから、俺は強い精神でかずさは胸から引き離し、ぐずるかずさの手を引きながら早々に自宅マンションへと移動した。

 そしてようやくフルメンバーがそろった自宅兼冬馬曜子事務所応接室で、俺は今後のスケジュールについて曜子さんに再度の確認度取っている。

 

「フランスに行く前に伝えてあったと思うけど?」

 

「それはそうなんですけど……」

 

「それにこの件はけっこう前からスケジュールを抑えていたと思うわよ。その辺の調整は風岡さんにお願いしてあったわけだしね。ねっ、風岡さん?」

 

「はい、冬馬事務所と開桜社との取り決めで、春希が取材するという形でかずささんに同行することになっています」

 

「だ、そうよ?」

 

「でも、俺なんかが行っても役に立つんですか?」

 

「大丈夫よ。そもそも今回の公演は、ジェバンニのお披露目公演とニューヨーク国際ピアノコンクールの方がスポンサーとしてやってくれる公演なわけだし、面倒な事は向こうがほとんどやってくれるわ。だから春希君は、かずさのおもりをしてくれるだけでいいのよ」

 

「だったらなおさら失礼がないように美代子さんあたりが行くべきではないでしょうか?」

 

「それは無理よ。だって私もニューヨークでコンサートがあるんですもの。美代ちゃんだってわざわざ日本からニューヨークに来て大忙しよ。……というわけで、信頼してかずさを預けられる春希君にかずさを任せるんじゃない」

 

「信頼してくださるのは光栄なんですけど……」

 

「それに今私すっごく忙しいのよ。知ってるでしょ?」

 

「それは知っていますけど……」

 

「なにせジェバンニで2位になったかずさよりも忙しいんじゃないかしら」

 

「それはヨーロッパで活躍していて、知名度も人気もある曜子さんがウィーンからニューヨークに活動拠点を移せば、ニューヨークのスポンサーだけでなくアメリカ各地からのオファーが届きますよ」

 

「ま、ね。でもこれもかずさのジェバンニで活躍してくれたおかげかな」

 

「たしかにそれはありますけど、いくらジェバンニで好成績を残そうが自分の所で演奏してくれなければ意味がありませんからね」

 

「よっぽど人気があるか、なにかしらの話題がないとクラシックなんて普通の人は聴きに来ないわけだしね。それにスポンサーがメインとする都市との接点がない奏者なんて客を呼べないのよね。コンサートを告知しても、誰それ?って感じでしょうし」

 

「そこを言うと、今話題の美人ピアニスト親子がニューヨークに来るんですから、スポンサーもこぞって手をあげますって」

 

「まあ「美人親子」で売れるのは最初のうちだけよ。誰だって話題になれば一回くらいは聴いてみようかなくらいは思ってくれるでしょうしね。でも、一回聴いてくれたお客さんを手放さないでいるためには、私のピアノに酔ってもらわないといけないわ。そうしないと、本当にただの見た目だけいいピアニストで終わってしまうもの」

 

「でも、曜子さんはヨーロッパでの勝ちえた評価もあるじゃないですか」

 

「そんなのは評論家だけにしか通用しないわ。実際聴いてくれる人の心を掴まなければ意味がないもの。というわけで、私は私のピアノに集中したいから、かずさのことは春希くんに任せるわ。それとも、かずさと二人でボストンに行くのは嫌だっていうのかしら?」

 

「そういうわけではないですよ」

 

「大丈夫よ。電車で行けばすぐにつくわ。それに、ボストンにつけばタクシーで移動するだけだし、距離はあっても楽だと思うわよ? まあたしかに狭い所に押し込まれて移動するのは退屈かもしれないけど」

 

「それはむしろピアノの練習ができないかずさのほうがストレスがたまるんじゃないですか?」

 

「ん? かずさはどうなの?」

 

 しばらく俺と離れていた寂しさを埋める目的なのか、かずさは俺が曜子さんと話し合いをする最中もおとなしく俺の腕に絡みついておとなしくしていた。というか、空港からここまで、一度も離れようとはしなかった。

 そんな二人分の温もりを享受していたかずさに問いかけても、半分眠りかけている姫君には今後のスケジュールなど些細な懸案にすぎないようだ。

 

「あたしは春希に全部任せるから大丈夫だって」

 

「その辺のことはあなたには最初から期待してないわよ」

 

「んぅ……、じゃあ、なに?」

 

「だから春希くんは、移動でピアノの練習ができないことがあなたの負担になるんじゃないかって」

 

「たしかにいつもの日課通り練習できないのは嫌だけど、これからもコンサートのたびに移動しなければならないんだから、あたしとしてはこんなものかなって感じかな?」

 

「だそうよ、春希君?」

 

「えぇっと、かずさがそういうのでしたら。たしかにこれからは飛行機での移動が増えるわけですし、もっと慣れていかなければいけないんでしょうね」

 

 俺もかずさとボストン公演に行きたくないわけではない。むしろわくわくしているほどだ。

 だけど、ふたりっきりの旅行というわけではないけれど、ふたりだけでボストンまでいくことは、ふたりだけで数日間生活することとなる。

 しかも生活能力ゼロのかずさをささえるのが俺だけであるとなれば、曜子さんの代りに俺がずっとかずさのそばにいることになる。

 俺とかずさが待ち望んでいた関係だ。若干かずさにも常識の範囲内での生活能力は身につけて欲しいところだが、二人で前に進んでいく事を俺達は望んでいた。

 ただ、どうしても現実的な雑務を考えるよりも、気を抜くと二人でいる事に舞い上がってしまいそうだった。

 望んでいる関係を成就し、充実した時間に身を浸す。

 長年望んでいた状況に誰が不満を抱くというのだ。幸せに決まっているじゃないか。

 でも、だからこそ俺は、油断しそうで怖かった。

 

「じゃあなにも問題はないわね?」

 

「いや、俺としては願っていた事ですから最初から何も問題はないですよ」

 

「ということで春希君。かずさのこと、よろしくね」

 

「はい」

 

「もちろん…………ホテルでは襲っちゃってもOK。むしろ推奨だから」

 

「移動の疲れもありますし、到着後の打ち合わせは軽くして、改めて俺が打ち合わせに参加しときますね」

 

 嬉しそうな顔でとんでもない事を提案してくる曜子さんに、俺は真面目な顔を作ってスケジュールの確認を再開させる。

 曜子さんの攻撃にはだいぶ慣れたと思う。慣れはしたけれど、いまだに対応しきれない事案も多々あるのも事実ではある。それでも今のように深みにはまらないように避ける事ができるようになったのは当然の結果だろう。

 これを進歩とか学習などというんだろうが、こんな嬉しくもない進歩は願い下げではあったが。

 

「もう春希君ったら真面目すぎるんだから。というか、春希君が襲わなくても、かずさが春希君を襲っちゃうから結果的には同じ事なのかな? だから別に春希君がってことは関係ないと?」

 

「ちょっ……! 曜子さんっ。仕事でボストンに行くんですから、あまり酷い事は言わないでくださいよ。しかも実の娘の目の前で言うような内容じゃないですよ」

 

「じゃあこっそりとかずさに助言する方がいいっていうこと?」

 

「えっとその……」

 

「夜這いは知らない方がドキドキ感があって盛り上がるのよねぇ。まあ夜這いといっても最初から同意しているわけだしぃ、ん~……、こういう場合はどうなんだろ?」

 

 変な所で疑問に思わないでくださいよ。そもそも最初から同意している仲なら、たんなるサプライズってところじゃないですか。

 …………って、なにを真面目に応えてるんだよ、俺。

 

「もう……、春希くんったら真面目なんだから。顔を真っ赤にしてくれるあたりは相変わらず可愛いわね。かずさと二人で顔を赤くしていると、ますます可愛くって抱きしめたくなっちゃうわ」

 

 俺は曜子さんの指摘に、隣にいるはずのかずさの顔を覗きこむ。

 指摘され意識してみれば、かずさが俺を腕を掴む力はやや強くなっている。なによりも先ほどまで眠そうにしていた顔は覚醒していて、目がはっきりと覚めているとわかるくらい顔が真っ赤であった。

 俺の視線に気がついたかずさは、さらにぎゅっと俺の腕にしがみつき、顔に腕を引き寄せて隠れようとする。

 それでも俺の視線からは完全には逃げないところは、なんというか、俺の体温をますます上昇させてしまった

 

「はいは~い。仲がよろしいお二人さんは、仲良くボストンに行ってらっしゃい。コンサートの方はなにも心配はしていないけど、あまり春希君を困らせるような事はしないのよ。あなたってばすぐに拗ねてしまうんだもの。喧嘩なんてすると寂しいわよ?」

 

「わかってるって。もう、子供じゃないんだからな」

 

「そういうところが子供なんじゃない。それに二人っきりなのに一人でふて寝なんてしていると、寂しくて泣いちゃうかもしれないわよ?」

 

「……ふんっ」

 

 あまりかずさを刺激しないでくれませんか? これからかずさと二人っきりなんですから、気まずい雰囲気にしないで下さると助かるのですが?

 まあ、かずさも出発さえすれば、曜子さんの言っていたことなど些細な出来事になってしまうんだろうけど。

 こうして俺とかずさは、二人でボストンへ行く事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 ニューヨークから出発するちょっと前から降り出していた雪は、ボストンに入ってもあいかわらずゆらゆらと宙を舞い、車内から見る景色の色を奪っていく。これが大雪となれば電車であっても到着時刻に不安を覚えるが、今のままならば問題なくボストンまで行けるだろう。

 さて、そろそろ休憩も終わりにして仕事に戻るかな。いくらボストンにかずさを連れていけばいいだけど言われていても仕事ならいくらでもある。かずさ絡みの仕事はもちろん開桜社の仕事もあった。

 一応かずさに対する密着取材となっているわけで、その仕事もしなければならなかった。

 寒々とする景色を身ぶるで別れを告げ、俺は目の前のノートパソコンに意識を集中しようとした。しかし、寒い景色ばかり見ていたせいか、体は冷えてはいないはずなのに寒いと感じてしまう。

 そうなると自然と温もりに意識がむかうわけで、俺は肩にぴったりと身を寄せるかずさに意識を奪われてしまった。

 

「ん……んん。春希、どうしたんだ?」

 

「起こしちゃったか?」

 

「もう着いたのか?」

 

「いや、あと30分くらいかな?」

 

「そっか……」

 

「起こしてしまって悪かったな。降りる駅が近くなったら起こしてやるから、もう一度寝ていいぞ」

 

「ううん。大丈夫だって」

 

 大丈夫だというわりには、まだ寝むそうじゃないか。

 そんな無防備のかずさに見惚れていると、俺の右腕はかずさの両腕に抱きよせられてしまう。そして当然の展開というべきか、かずさは残り少ない睡眠時間をフルに使うべく寝息を漏らし始める。

 まあ、仕方ないか。移動中は寝てばかりいるからって、その分ニューヨークではピアノを弾いていたんだもんな。

 プロとしての意識が芽生え始めた事を喜ぶべきなんだろうな。その方法がちょっと子供っぽい考えではあるんだけれど、ピアノの事は俺が考えてもしょうがないか。

 仕事をする手段を奪われた俺は、外の景色に見あきた代わりに、見飽きる事のないかずさの寝顔を駅に着く直前まで見続けていた。

 

 

 

 快適な電車から降り、そして寒さをしのげる駅から外に出ると、当然ながら冬の寒さが身にしみてくる。先ほどまで綺麗だと思っていた雪化粧は人の足に踏みにじまされ、寒さだけを残していた。

 しっかりと保温効果が高いコートを着てきたはずなのに寒さを忘れる事はできないようだ。そして俺よりもインドア派であるかずさといえば、文句を言うのさえ諦め、俺にしがみついて暖を取ることだけに集中しているらしい。

 もちろん俺もかずさからの温もりも得られるわけで、不満などありはしなかった。

 ただ、いくら雪が降っていて寒いといってもそれは空調が効いていない外でのことだけであるわけで、タクシーに乗ってしまえば寒いわけはないはずだった。

 

「なあ、かずさ?」

 

「なんだよ? まだタクシーに乗ったばかりだから着かないだろ?」

 

「それはそうなんだけど、いやさ、かずさは寒いのかなって思ってさ」

 

「外は寒かったけど、今は大丈夫かな。うん、問題ないよ」

 

「そうか、それならよかった」

 

「そっか、じゃあ着くころになったら起こしてくれると助かる」

 

「それは任せておけ。かずさはゆっくりと休んでいればいいよ」

 

「ありがと」

 

 と、かずさは今にも寝落ちしそうな表情でつぶやくと、枕の位置を合わせるかのように俺の腕を引き寄せる。

 

「…………あのさ、かずさ?」

 

「ん? まだなにかあるのか?」

 

「寒くないんなら腕を解放してくれると助かる。ホテルに着く前にスケジュールの確認をしておきたいからさ」

 

「あぁ悪い。あたしがひっついていたら邪魔だよな」

 

 寂しそうな笑顔で離れていくものだから、俺としてはかずさを引き離すことなんてできないわけで……。

 

「手を動かす事ができるなら、問題はないかな。その、肩に寄りかかるくらいなら大丈夫だと思うぞ。でも、手は動かすわけだから寝心地は悪いかもしれないけど」

 

「それで十分だって」

 

 甘やかせすぎだって、たぶん俺にかずさを任せたあの人は言うんだろうけど、俺はかずさの前では甘やかすことしかできないんだろう。

 でも、さすがの俺でさえ今の発言は甘ったるすぎたようで、かずさを直視する事は出来なかった。ただ、視界の隅で捉えたかずさは甘えるように俺の肩に頭をのせるのだけは確認できた。

 こうなってしまうと、俺としてはかずさに快適な睡眠?を提供したいと思ってしまい、かずさの許可はとってあるというのになるべく片手だけでタブレットを操作していくことになった。

 

「ねぇ春希」

 

「寝にくいか? もうちょっとで終わるから、あと少しだけ我慢してくれると助かる」

 

「ううん、大丈夫」

 

「そっか」

 

「うん」

 

「ホテルまではもう少しかかると思うぞ」

 

「…………そうじゃなくて」

 

 解放されたはずの腕を再度引き寄せられ、かずさはその腕で顔を隠しながら話すものだから、なんだかこそばゆくもあり、かずさの吐息があたる個所からじわじわと体温が上がっていく気さえしてしまう。

 

「なんだよ?」

 

 なもんだから、俺の声も上擦ってしまうのは当然の結末であった。

 

「…………うん」

 

「言いたくなったらいつでも聞くから、言いたいときで……」

 

「ううん。そんな覚悟を決めて話さなきゃいけないような内容じゃないよ」

 

「……そっか」

 

「んとね、なんかこうやって二人だけでいるとさ、初めて家に来てギターの練習をしたときのことを思い出して。あの時は学園祭まで時間がなかったからゆっくりしていられる時間なんてなくて、今みたいに余裕なんてものはなかったな」

 

「かずさのピアノが期待されているっていうのは今と変わらないけどな」

 

「今では一応プロだからな。でも、高校生で、しかも練習もろくにしていなかったあのときのあたしと今のあたしへの期待を比べるっていうのはどうなんだ? ちょっと失礼じゃないのか?」

 

「俺にとっては、冬馬かずさの評価は高校生のときから最高評価で、これ以上上がる余地なんてないんだよ」

 

「それはありがたい評価ではあるとは思うけど、これからもっと腕を磨いていかなきゃいけない身としては、上昇余地がないって言われるのは、あまり嬉しくないような気も」

 

「だったら、これから上がる予定の腕前も含めて評価しているって事にしておいてくれ」

 

「それはかなりプレッシャーなんだけど」

 

「俺にとってかずさは特別なんだよ」

 

「なら許す」

 

「でも、あまり負担に思うなら言ってくれよな。かずさにはのびのびと演奏してほしいんだからさ」

 

「その辺は問題ないよ。だって春希が聴いてくれているからこそあたしは演奏できるんだからな」

 

「あぁ、ずっとかずさの演奏を聴いているよ」

 

「絶対だぞ」

 

「絶対だ」

 

「…………それと、二日目のコンサート」

 

「ニューヨーク国際コンクールがスポンサーの方か?」

 

「うん、そう。……そっちのほうは特別だから、しっかり聴いてくれよ」

 

「うん? 初日のジェバンニがスポンサーのほうもしっかりと聴くけど、かずさがそういんなら、もっと真剣に聴いてみるよ」

 

「ん。それなら安心だ。じゃあ、ホテルに着いたら起こしてくれよ」

 

「それは任せておけ」

 

「んあぁ……、もうちょっと寝るかな」

 

「おやすみ」

 

「おやすみ春希ぃ……」

 

 もう一度眠りに落ちたかずさを気遣って、今度こそ肩を揺らさないようにタブレットを操作していく。

 外を見てみると、どこら辺まで来たのかはわからないが、渋滞しているようなのでもう少し時間はかかるのだろう。雪もやや多く降り出したのも影響しているのかもしれない。

 道ゆく人の顔も、やや強張っているような気もする。おそらく駅でタクシーに乗ったときよりも気温は下がっているのだろう。

 だけど、俺の腕から上がってくる熱で、俺は今にも溶けそうなくらいのぼせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 俺達より前にボストンに入っていた事務所スタッフのサポートもあり、俺は目立ったミスをすることなくコンサートを終える事ができたと思う。もちろん先輩スタッフにいつまでも頼っていられない事はわかっている。

 それでも今回の働きに関してはよくできた方だと思っていた。とはいうものの、曜子さんが見ていたらもっと頑張ってねって、笑顔で圧力を加えてきそうだけれど。

 もちろん新米マネージャーの活躍は、かずさのピアノの前には霞んでしまうだろう。「だろう」ではなく、初日、二日目のコンサートにやってきた観客の興奮を目にすれば霞んでしまうどころか役に立っているのだろうか?と思い悩んでしまいそうだ。

 特に二日目の演奏は、アンコールが終わってコンサートが終わってもなお席を立とうとする客がいなかった。俺は、かずさのことだから再度のアンコールには応えるはずもないと思っていて、俺が席を立つ最初の一人になろうとした瞬間、俺だけが客席でただ一人立つのを待っていたかのように舞台袖からかずさが登場した。

 呆気に取られている俺に、かずさは小さく舌を出して微笑みかけてきたのは気のせいではないと思う。

 かずさがピアノの前に座り、再度俺の方に視線を向けてくる。俺はそこでようやく気がついたのだった。

 今度の視線はなんて言っているか、はっきりとわかる。

 「早く座れ馬鹿」

 俺はかずさの要求通りいそいそと席に座ると、座るのを確認したのか、ピアノの音色が弾み始めた。

 

 

 

「ほんとうに春希ってば場のノリってものがわかってないな。一番の関係者なのにわかっていないって大丈夫なのか? しかも客席にいたっていうのに再度のアンコールさえわからないんだからな」

 

 二日間あったコンサートも終わり、俺とかずさはコンサートの熱気がおさまることなくホテルへと戻って来ていた。

 かずさは履いていた靴をベッドの横に放り投げ、この二日間のプレッシャーを開放すべくベッドに身を沈めている。

 いつもの俺だったら、せっかくのドレスにしわがついてしまうから脱いでからベッドで横になれよって注意していただろう。

 でも、今日くらいはいいか。どうせコンサートが無事に二日とも終わったのだから、ドレスはクリーニングにだせばいいだけなんだし。

 と、今の心のつぶやきをかずさが聞いたら、せこい理由でお小言を言わないんだなって嫌味されそうである。でも、今日はそんなお小言も嫌味も全部なしとしよう。だって最高のコンサートを終えたばかりなんだから、気分を害することなんて願い下げだ。

 

「悪かったって」

 

「一番の関係者のくせに、客席でただ一人突っ立ってるんだもんな。こっちが恥ずかしくなったんだからな」

 

「かずさは堂々としていたじゃないか。俺の方がこっぱずかしかったんだからな」

 

「春希に注目している人間なんて精々隣と後ろの席の数人くらいだろ? そんなのは注目されているうちには入らないよ」

 

「たしかにみんなかずさに注目していたもんな」

 

「だろ?」

 

 厭味ったらしい笑みのはずなのに、こいつが笑うと爽やかに感じてしまうのは、俺が惚れているせいなのかな? どちらにせよかっこいい冬馬かずさなのはたしかだな。

 

「まあ、な。みんなかずさが再度のアンコールをしてくれるとは思っていなかったと思うぞ。というか、スタッフもやるとは思わなかったし、予定にもなかったはずだよな?」

 

「うん、そうだな。あたしがもっと弾きたいと思ったからもう一回出てきたんだよ」

 

「観客は喜んでいたからよかったけど、本来なら進行プログラムが狂ってスタッフに迷惑をかけるところだったんだぞ」

 

「でも誰も怒ってなかたじゃないか」

 

「…………そう、だけどさ」

 

 実際には観客以上にスタッフの方が興奮していたんだよなぁ……。短い期間とはいえ、普段のかずさをしっているからこそって感じなのか? 

 

「大成功したコンサートの後でさえもお小言を言ってくるのは春希くらいなもんだよ」

 

「別に俺はお小言なんていいたくなんてないって。俺も今日のかずさの演奏に酔っていたいと思ってるよ」

 

「そっか。…………そうか。うん、それでいいと思うよ」

 

「だな」

 

 ここでこの話は終わりと宣言とばかりに、俺はパンッと両ももを叩くと、かずさが脱ぎ捨てた靴などを拾い始める。

 実はかずさのピアノに酔っているどころではなかった。かずさの宣言通りに二日目のコンサートの演奏は特別だった。

 初日のコンサートは、もともとジェバンニ主催のコンサートであり、ジェバンニ出場者の上位数人が出演していた。

 しかし二日目のコンサートはニューヨーク国際コンクール主催のコンサートであり、その1位であるかずさの為のコンサートであり、かずさだけが主役である。そのこともあり、演奏プログラムはかずさが最初から最後まで組み立てているという事で一つのまとまりとなって心を揺さぶってきたのだろう。

 コンサート後、会場から出ていく観客たちは満足げな顔をしていた。とくにカップルで来ていた観客は特にのぼせあがっていたような気さえした。

 まあ、俺自身がかずさの演奏に酔いしれていたせいもあるかもしれないけど。

 だからコンサートが終わってから、どうもかずさを直視できないでいた。

 体がむずむずするといった感じというか、熱にやられでぼぉっとするというのか、あの演奏を聴いてからはドキドキしっぱなしだ。特に最後の曲目はかずさだけしか目に入らず、仕事で来ている事さえ忘れて一音たりとも聴き落とさないようにと耳を傾けてさえいた。

 そういう事情もあって、かずさを前にして今日のコンサートの感想を言うのが照れくさくもある。

 

「そんなの後にすればいいじゃないか。今は隣にいろって」

 

 かずさは俺が片付けをするのがご機嫌斜めらしく、隣にいろとベッドを叩いて催促する。

 今日最大の功労者の要請であれば、俺もそれに従うしかなく…………いや、むしろ隣にいたいんだけど。

 でも、どうしてもかずさに見つめられてしまうと俺の心を読まれそうで、気恥ずかしい気持ちが同居してしまう。

 

「わかったって。そう目くじら立てるなよ」

 

「あたしは怒ってないって。ただ、今はこの余韻に浸りたいというのかな。わかるだろ?」

 

「まあ、なんとなくな。今日の演奏を目の当たりにすればそういう気持ちもわからなくもない」

 

 俺は、かずさの靴と俺の靴を綺麗に並べると、かずさの隣で横になる。するとかずさは待ちわびていたようで、俺の腕にじゃれつき始めた。

 

「で、どうだった?」

 

「どうって?」

 

「そんなの決まってるだろ。あたしのピアノを聴いてどう思ったかって事だっての」

 

「だよな…………」

 

 俺もそんなことはわかっている。わかってはいるけど、どうしても心をさらけ出せない。

 

「よかったと思うぞ」

 

「それだけか?」

 

 急激に不機嫌そうな眼差しに変化してくるかずさに、俺は急いで追加の感想を述べるしかなかった。

 

「初日のもよかったけれど、やっぱ今夜の方が数段心に響いたって感じかな?」

 

「そうなのか?」

 

 どうやらかずさが求めている感想を掘り当てたらしく、再びふにゃふにゃっと俺の腕でじゃれつくのを再開させた。そして、それに安堵した俺が少し饒舌になっても、当然なのかもしれない。

 

「素人の感想で悪いけど、俺にはそう聴こえたかな。たしかに初日のもよかったけど、ぶつぎりっていうか、一つのコンサートとしてのまとまりがないっていうのかな? 色々な曲を聴けるのは楽しみではあるけれど、やっぱ全体としての完成度はテーマが一貫している今夜のコンサートの方が楽しめるんじゃないかと」

 

「それはしょうがないって。なにせ初日の方が弾き手が全部違うんだから。弾きたい曲目を勝手に弾いていればまとまりなんてものは期待できないからな。まあ、最初からそういう趣旨のコンサートなんだから、それはそれでありなんじゃないか?」

 

「ジェバンニ期待の新人お披露目の舞台だからな」

 

「それで、今夜の方はどうだった?」

 

「だからすごかったって。俺はもちろん観客も喜んでいたぞ。みんな満足げに帰っていってたようだったしな」

 

「観客の方は満足していたってわかってるって」

 

「そうなのか?」

 

「舞台の上にいればなんとなく、な」

 

「へぇ……」

 

「ほんとなんとなくなんだけど、うん、母さんも言っている事なんだけど、コンサート中でも観客の息遣いっていうの? そういうのがなんとなくわかるんだ。今日の観客は満足している。今日の観客は寝むそうだな、とかさ」

 

「神経が鋭くなっているからかな?」

 

「そんなところだろうな。でも、演奏に集中しているから、なんとなくだからな」

 

「わかってるって」

 

「観客の反応はわかったけど、春希、は、どうだった?」

 

 俺の腕をきゅっと抱き寄せると、俺の肩越しに見上げてくる。じっと見つめてくるその瞳は、観客の反応を言っていた時の力強さはなく、俺の感想を聞きたいけれど聞くのも怖いという感じが伝わってきた。

 

「俺は…………、俺はさっきも言ったようにすごかったとしか言えないな。こうやってかずさのコンサートに来たのは初めてでもあるし……、やっぱコンクールとは違うよな。コンクールは息が詰まる感じがして……って、もちろんかずさのことは信頼しているけど、やっぱ順位がついてくるから気が気じゃないんだよな。そういう点を考慮すると、やっぱかずさの演奏だけに集中できるコンサートはいいよな」

 

「…………それだけか?」

 

「えっ……、あとはそうだな。演奏が終わってもドキドキしっぱなしだったってくらい、かな?」

 

 感想ならもっとある。赤裸々過ぎて恥ずかしすぎる感想ならば、たぶん一時間くらい話せるんじゃないかとさえ思えてしまう。…………もちろん話せればであり、なおかつ途中恥ずかしすぎて言葉が詰まってしまう事も加算してだが。

 

「それだけ?」

 

「他にもスタッフの反応もよかったとか、運営面でもスムーズにいってたとか、あとはそうだなぁ……、新米マネージャーとしては大きなミスをしなくてよかったってこと、かな?」

 

「…………」

 

「えっ?」

 

「……ぃい」

 

「かずさ?」

 

「もういいっていってるんだっ」

 

 かずさは俺の腕を突き返すと、ぐるりと背中を俺に向け、膝を抱えて小さく丸まってしまう。

 

「かずさ……」

 

「だからもういいって」

 

「今日の演奏はよかったとしか言えないんだ。もっと気のきいた言葉が出てくればいいんだけど、これだと編集部員失格だな」

 

「最初から春希に気のきいた誉め言葉なんて求めてないっ」

 

「…………ごめん」

 

「もういいって言ってるだろっ」

 

「……わかった」

 

 俺はベッドから静かに降りると、かずさが脱ぎ捨てたコートを手に取りハンガーにかける。

 コンサート会場からホテルまではタクシーだし、距離もわずかだからって着替えもしないでかずさは帰ってきた。そういうわけだから、演奏で流れた汗も全部はぬぐえていないはずだった。

 このまま着替えないでいると風邪ひいてしまうかもな。いくら暖房が効いているからといっても汗かいてるし、とりあえず風呂の準備をしておくか。

 …………くそっ。

 どうして俺はこうなんだよ。かずさにそっぽを向かれるのも俺が一番よくわかるっての。

 しかもかずさが怒っているのことから逃げるようにマネージャーとしての仕事に逃げようとしてるんだもんな。こんなのかずさがウィーンに行ってしまってからの大学生活と同じ事をしてるんじゃないかよ。

 わかってはいるけれど、俺はやはり時間がほしいという気持ちにはさからえず、バスルームに行き、かずさがお風呂に入る準備をするしかなかった。

 部屋に戻ってくると静けさだけが俺を出迎えてくれる。光量が抑えられた室内は暗いわけではないはずなのに部屋を出たときよりも暗く感じられてしまう。部屋の中央に置かれたベッドには、かずさが無言のまま出迎えてくれた。

 

「そのままだと風邪をひいてしまうぞ。今風呂の準備をしたから入ったらどうだ?」

 

 当然というか、俺の予想通りというべきか、かずさは返事さえしてはくれない。少し希望があったとすれば、俺の声に反応してほんのわずかだけ肩が揺れたくらいだろうか。

 

「コンサートが終わったとしても、次のもあるわけだから風邪をひいたら大変だぞ。…………ほら」

 

 肩を揺らそうとした手を最後の最後で引き止めてしまう。負い目があるから強くは出られない。

 わかっている。

 かずさが欲しかったのは上辺だけの言葉ではなく、俺の素のままの感想だったはずだ。

 いくらバイト時代を含めればすでに新米編集部員だとはいえないくらい口が達者になった俺だとしても、かずさが求めているのは技巧をこらしたお世辞ではない。かずさが求めているのは稚拙なまでも生々しい俺の感情なんだから。

 

「………………ごめん、かずさ」

 

 今度は迷いなくかずさの背中に手をあてる。背中が小刻みに揺れ、そして小さな足の指にも力がこめられた。

 

「今夜の演奏を期待してくれって言ってくれたよな。俺、すっごく楽しみにしてたんだ。だってさ、初日のコンサートでさえわくわくしてたんだからな。そんなとんでもない演奏をしたのに、もっと期待してくれだなんて、かずさらしいなって思ったよ。そしたら期待以上に演奏を当然だろって顔をしてやり遂げちゃうんだもんな。だから俺、すごく誇らしかったんだ。高校の学園祭で歓声を受ける冬馬かずさじゃなくて、世界でピアノを認められる冬馬かずさなんだって、俺だけじゃなくて、高校の中だけじゃなくて、世界がかずさを求めてるんだってさ」

 

「……………………春希。あたしはそんな大層なピアニストじゃないよ。ただ聴いてもらいたい人がいるから弾いているだけだって」

 

「かずさはそういうかもしれないけど、俺にとっては最高のピアニストなんだ」

 

「うん……ありがと。でもさ、でもね、あたしは最高じゃなくてもいいんだ。春希の心に響く演奏がしたい。春希と約束してからピアノに真正面から向き合ったよ」

 

「あぁ、曜子さんからも聞いた。今までも頑張っていたけど、取り組み方が違うってさ。観客を意識した弾き方になってきたとも言ってたかな」

 

「それは意識してたよ。だって聴いてくれる人がいるからこそあたしは演奏するんだからな。だけどさ、やっぱりあたしは最終的には春希の為ってことになっちゃうんだ。それだと駄目だから春希と会わないでいたんだけど…………やっぱりさ、冬馬かずさは冬馬かずさの演奏しかできなくて」

 

「……かずさ」

 

「そんなに落ち込むなっての」

 

 ずっと背中しか見せていないのに、なんで俺の顔がわかるんだよ?

 事実俺のせいでって落ち込んではいるんだけど、俺の声に出てたのかな、やっぱ。

 

「でもね、あたしのピアノを突き詰めると、やっぱ春希なんだよ」

 

「なんだよそれ?」

 

 呆れてしまうくらいののろけ話だって千晶にからかわれそうだぞ。

 

「呆れちゃうよな? うん、あたしも同じだったよ。母さんもそうだったかな?」

 

「曜子さんはなんて?」

 

「母さんがあたしを置いて海外に行っちゃったときはさ、あたしのピアノは母さんに誉められたいから弾いてる部分が強かったって言ってた。実際あたしもそうだったと、思う。それが今は春希の、為。春希に聴いてもらいから弾いてるんだから、あたしって成長してないんだなって落ち込んだよ」

 

「でも、ピアニストとしては成長してるんだろ?」

 

「うん、母さんもそう判断してくれたよ。誰かのために弾くピアノでいいってさ」

 

「でもそれだと、かずさが求めているピアノには……」

 

「あたしも最初はやばいって思った。だけど、春希の為でいいんだって結論が出たんだ」

 

「えっ?」

 

「春希と会わないで頑張るって決意するまでは、春希を思って、春希への気持ちをピアノにぶつけていただけだったんだ。でも今は違う。春希が誇りに思えるようなピアニストになりたい。世界で認められるようなピアニを演奏をしたい。観客が何度でも聴きたいって思えるような演奏をしたい。その為に頑張ってきたんだ」

 

「俺の為?」

 

「あぁそうだ」

 

 でもそれって…………。

 

「でもそれは、高校時代の曜子さんに誉められたいからというのと同じじゃないのか?」

 

「あぁそうだ」

 

「あぁそうだって威張って言うような事じゃないだろ?」

 

「あたしにはそれしかないからさ。誰かの心を揺さぶる演奏をしようにも、母さんみたいにたくさんの心を狙って揺さぶることなんて器用なまねはできない。あたしにできるのは、たった一人の心を揺さぶることだけ。その結果として他の観客の心も揺さぶれるんなら、それはそれでもうけものって感じかな?」

 

「簡単に言っちゃってるようだけど、それでも大変な事じゃないか」

 

「うん、……そう、だな。あたしはたった一人の心も揺さぶることができなかったみたい、だしさ」

 

「…………えっ?」

 

 だんだんと声から力が抜けていき、最後は涙声になっていたような気がした。実際かずさは両腕で体を抱きしめて、泣いてしまうのを堪えているようにさえみえた。

 

「春希は悪くないよ。あたしのピアノがまだまだなんだ。だから春希は悪くない。あたしが勝手に思いあがっていただけなんだって。ジェバンニで2位になったくらいで母さんと同じくらいうまくなったって自惚れていただけなんだ。…………それだけだから」

 

 やはりかずさは泣いている。だけど、かずさのプライドが、涙で言葉をかき消えないように持ちこたえていた。

 

「だから、ごめん。春希の心、まだ、遠いみたい。あの時は調子にのって再度のアンコールに応えてみたけど、あたしだけだったみたいだな。春希にあたしの気持ちが伝わってるって思ってたんだけどな…………」

 

「かずさ」

 

 俺の声に呼応して振り抜いたかずさは、涙を隠そうともしないで懸命に微笑もうとする。かずさの背中に触れていた俺の手をそっと両手で包み込み、そして自分の心臓の部分に押し当てる。

 ふわりとする弾力が俺の手が押し返すが、かずさの両手がさらに深いところまで導く。

 ドキっドキっと、鼓動が加速していくのがよくわかる。俺の鼓動も連動するように早くなっているのだろう。

 

 

 

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