「今度のコンサートってわけにはいかないだろうけど、近いうちに春希がぼろ泣きするような演奏をしてやるからな。待ってろよ」
心からそう思っているのだろう。しかも、できることを疑っていないよな。事実既に俺の心を揺さぶって虜にしているのだから、今の勢いのまま成長したらどうなってしまうんだよ。
だけど、ピアノの演奏だけじゃない、ひたむきまでに真っ直ぐと俺を見つめる瞳に、とうとう俺は安っぽい見栄を打ち壊されてしまう。
「かずさっ」
「はっ、春希?」
戸惑うかずさをよそに、俺はかずさを抱きかかえるように引き寄せる。
愛おしくてしょうがなかった。自分に正直になろうと懸命になっているかずさが羨ましくてしょうがなくもあり、同時に自分の心を正直に伝えてらない自分が情けなくもある。
無意味な見栄のために素直な感想を伝えなかったばかりにかずさを傷付けてしまう愚かな行為までしてしまうなんて、どうしようもなく愚かだ。
愛おしくてしょうがないのに、抱きしめて愛をささやきたいのに、どうしてかずさが歩み寄ってくれた時に俺は逃げようとするんだよっ。曜子さんだって、俺だけじゃなくて麻理さんにも配慮した形での今後の仕事を用意してくれているっていうのに、俺はここでも無意味な見栄のために躊躇しているんだもんな。
俺のこだわりなんてかずさの側にいるための条件の前には無意味な存在なのにさ。
「伝わってたんだ。かずさの演奏を聴いて心が熱くなった。愛おしくなった。抱きしめたくなった。聴いているのが恥ずかしくなるほど熱っぽい演奏だった。それが嬉しかった。たまらなかった」
「そ……そっか。伝わってたんだ」
「そうだったんだ。でも、かずさが無防備に俺の心に飛び込んでくるから、俺、どうしていいかわからなくなったんだと思う。今の俺がかずさの隣にいていいのかって不安に思うところがあるからな」
「あたしが春希の隣にいたいって言ってるんだ。素直に身をまかせればいいんだって」
「そう、だよな。そっか。簡単なことだったんだな」
「あぁ、簡単すぎて、シンプルすぎる行動だから、できない、のかもしれない」
「かずさ?」
「高校の時、あたしが素直になっていれば、って何度も後悔した。好きだって、一言言えばいいのに、それさえできないで、さ」
「それが、一番難しいのかもな」
「そうかもな。だけど、一番シンプルな行動だろ?」
「俺は…………」
「春希」
「かずさ?」
「好きだよ。……あたしは、冬馬かずさは、北原春希が大好きなんだ。高校の時からずっと好きで、今は世界中のだれよりも春希の事を愛してるって自信がある。だからさ、春希もあたしのことを、愛してくれると、うれしい」
俺が何度も計画を立て、そして何度も実行に移せなかった事を、かずさは見事に実行してしまう。しかも俺のどの計画よりも美しく、感情に訴えかける言葉を投げかけてくる。かずさから流れていた冷たい涙はいつしか熱っぽい涙に変化し、頬も上気しているように見えた。
「なんだよ、のぼせちゃって。……でも、簡単だろ? 一度行動に出ちゃえばさ、簡単な事なんだよ。あたしは春希が好き。何度だって言えるし、この胸に飛び込むことだってできる」
「……かずさ」
「春希が口下手だって忘れてたよ。普段はうるさいくらい小言を言ってくるのに、肝心の愛の告白だけはできないんだもんな。まあ春希が詩を歌うように愛を語っちゃってたら、それはそれで気持ち悪いんだけどな」
「それは、俺も気持ち悪いと思う。想像したくもないな」
「だな。でも、こうやって、たまにでいいからさ。あたしが不安になってしまわないように、本当にたまにでいいから、愛をそそぎこんでほしい。…………駄目、かな?」
なんだよ。ほんとなんだよって叫びたい。
いつだって冬馬かずさはかっこいいんだから。俺の憧れであり、俺の誇りでもある冬馬かずさは、やっぱり最高だ。
「たまにじゃない。毎日だって言ってやる」
「ちょ、ちょっと春希?」
お互いの顔まで数センチということろまで引き寄せると、こつんと額をすり合わせる。鼻と鼻がかすかに触れ合うのもくすぐったいし、かずさの熱すぎる吐息が噴きかかるたびに心臓は跳ね上がった。
「かずさが好きだ。かずさが俺の事を愛してくれるように、俺もかずさのことを愛していきたい。ずっとずっと一緒に、小言だって毎日うるさいくらい言ってやる」
「それは毎日楽しそうで最高だな」
「最高に決まってるだろ」
「あぁ、最高だ」
「最高なんだ」
「簡単だったろ?」
「え?」
「愛の囁き」
「そうだな。一度言ってしまえばもう躊躇しないで済みそうだな。でも俺の場合はかずさに背中を押されてだったから、最初に踏み出してくれたかずさは、ほんとに勇気があるよ」
「…………ううん、違うんだ。それは違う」
「違わないよ」
「春希はあたしのことを美化しすぎ」
「俺の最愛の人だからな」
「それでも美化しすぎだって」
「……でも」
「本当に違うんだ」
「かずさ?」
「あたしさ、喧嘩別れって感じではなかったけど、フランスに行く前、子供のことでちょっとごたごたがあったろ?」
「あぁ、あったな」
かずさの傷が深いって再認識した出来事であり、俺がかずさのことをわかってないと打ちのめされた出来事でもあるから、忘れることなんてない。
「あの時さ、高校卒業してウィーンに行った時とは状況が違うけど、でもなんというかさ、心がすれ違ったままというか、心が向き合えないまま離れてしまったって感じだったじゃないか。なんかすっきりしないままフランスに行っちゃったから、あたし、ニューヨークに帰ってくるとき、すごくこわかった」
「俺は、かずさが沈んだ心のままでコンサートに行かなくちゃいけなくなって心配だった。でもフランス公演の後、曜子さんがすぐに大成功だって連絡くれて、ほっとしていたかな」
「こういうところが春希って女心がわかってないって言われるんだろうな」
「ご、ごめん」
「謝らなくたっていいって。こういうのが春希なんだから。…………で、ね。ニューヨークに帰ってくる飛行機の中でさ、どうやって話を切り出そうかとか、どうやって謝ろうかとか、どうやったら自然に振る舞えるかとか、ずっと悩んでたんだ。でもさ、春希ったらいつもと通りにあたしを出迎えてくれちゃってさ。あたしは真剣に悩んでいたというのに、すっごく不公平だなって思って、悔しくなったんだぞ」
「ごめん」
「だから謝るなって」
「ごめん。いや、わかった」
「まあいいよ。それでさ、もうこんな気持ちにはなりたくないって思ったんだ。だからあたしは春希の側にいるって決めたんだ。何があろうと素直に隣にいようと思ったんだ」
「あっ、だから俺の腕にずっと……」
「あぁそうだよ。あたしが愛の行動に出たというのに春希はいつも通りに振る舞ってたけどな」
「そうはいっても、俺もずっとドキドキしてたんだぞ」
「知ってる」
「知ってる?」
「だって春希の心臓もドキドキしてたから」
「なるほど」
「春希の体は春希の頭と違って案外正直なのかもな」
「そうかもしれないな」
「なあ春希」
「うん?」
「愛してる」
「俺もかずさのことを愛してる」
本当に簡単だった。こんなにもシンプルな行動を、なにを怖がってたんだって数分前の俺に言ってやりたいほどだ。できることなら数時間前のコンサート終了直後に、もっと願うなら数年前の高校時代に。よくばればいくつものチャンスが思う浮かぶが、それを願い通りにやり直せる事はない。
だけどこれからのことなら俺が実行に移すだけでいいんだ。
このシンプルすぎる愛の行動を、かずさにむけて行動するだけで俺の心は晴れていく。
それはかずさの心も朗らかに晴れわたらすことに結び付く。
やはりかずさはかっこいい。なにせ俺の憧れだったんだもんな。でも、俺はこれからはかずさに俺の理想を押し付けはしない。俺はかずさの隣にいることを選んだのだから。
これからはかずさと一緒に悩み、そして喜んでいくんだ。かずさだけに選択させてはいけないんだ。
二人でいると選択した俺たちならできるはず。きっとかずさも俺と同じ気持ちでいてくれるだろう。
重なり合っていた二つの影は、いつしか一つになっていた。温もりも感情も、そして不安さえも一つになった俺達は、一晩かけてゆっくりと愛を語り合う事にした。
ボストンからニューヨークに着いても空からは雪がゆらゆらと舞い降り続けている。途中雪が強くなった事もあり、電車も予定時刻をやや過ぎて到着した。だけど、遅く着く事にかずさは気にしていないようだ。そもそもずっと俺の腕を抱いて寝ていたようだったので、各駅の到着時刻が段々と遅くなっている事さえ気が付いていないと思う。
途中気にしたことといえば、車内でも仕事をしている俺に休憩だとばかりにチョコレートを束させようとしていたことぐらいだろうか。ちなみにかずさによるチョコレート作戦は二度ばかり発令され、その二回とも俺の敗北で終戦を迎えている。
俺も今日一日は移動日として捉えているわけで、別段ニューヨークに急いで帰らなければいけないわけでもないし、仕事の方もやらなくてはいけないものは全て終わっているので、早々に白旗をあげてかずさの温もりを有難く享受していた。
しかしいくら甘ったるいほどに温かい車内といえども、駅に着いて外に放り出されれば寒いわけで、かずさはタクシーに乗る数分は俺の腰にしがみつき、熱を奪う事に精を出していた。
「ただ今戻りました」
「…………ただいま」
静かに俺達を出迎えてくれた自宅マンションの玄関は冷房が全く効いてはいない。いくら断熱効果が高い素材を使っていても、冷気が俺達から熱を奪っていこうとする。
しかし、ようやく自宅に着いたという安堵が俺達を柔らかく包み込む。
俺のあとに続きかずさも照れを混じらせながら帰宅の声を投げかける。きっと今まではしてこなかった挨拶なのだろう。曜子さんも忙しくて帰宅しない事も多かったと聞くし、そもそもかずさはレッスンルームにこもっている事がほとんどで、曜子さんが帰宅した事さえ気がつかない事が多かったとか。
だから、普段使わない家族の挨拶に戸惑いを覚えているのだろう。
「おかえり、かずさ」
「なんで春希が「おかえり」って言うんだよ? 普通は家にいる人間が言うんだろ?」
「あぁ、そのことか。俺が言ってもおかしくはないと思うぞ」
「なんでだよ?」
「俺の方がかずさよりも先に帰宅したからな」
「数秒くらいの差だろ? そんなの誤差のうちだろ」
「そうとも言うけどな。でも、俺が言いたかったんだからいいだろ? な?」
「まあ春希が、言いたいんならしょうがないから聞いてやる」
やはり慣れてないんだな。薄っすらと頬が赤く染まっているのは、今まで雪空の下にいたからではないだろう。とはいうものの、極寒の雪空の下に放り出されたのは、タクシーからマンションまでの数歩。しかも、マンション管理人によって歩道はしっかりと雪かきまでされていたんだけど…………。
「あとは、そうだな。今はみんな仕事に出ていて誰もいないっていうのもあるかもな」
「おい春希。だったらそもそも「ただいま」なんて言う必要がなかったじゃないか。誰も聞く相手がいないんなら虚しいだけだろ?」
「だから俺がかずさに言いたかったって言ったじゃないか」
「そうだけど、さ」
「それにな。こういう挨拶というのは相手がいるから言わないといけないんじゃない。「いただきます」とか「ごちそうさま」も同じように誰が聞いているわけでもないのに言ってるだろ?」
「ん~ん、たしかにそう、かもしれない。でも、「ただいま」は相手がいる事が前提じゃないのか? ほら、「おかえりなさい」があとにつづくし」
「かずさにしては珍しく正論を言ってくるんだな」
「あたしを馬鹿にしてるだろ?」
「馬鹿にしてないって。感心しているだけだって」
「それを馬鹿にしてるっていうんだよ。この馬鹿が」
「……まあ、そうとも言うのかもな」
「それより寒いな。早く中に入ってあったまろうって。春希が馬鹿な事を言いださなければ、とっくにあったまっていたんだろうになぁ」
かずさは靴を脱ぐと、スリッパに履き替えパタパタと廊下の奥へと進んでいく。けれど、一つ荷物を忘れたようですぐに戻ってきた。
「ほら、早くいくぞ」
「わかってるって」
かずさは俺の手を握りしめると、再び廊下の奥へと進んでいく。そもそもかずさが持っていた荷物など一つしかなかった。かずさはボストンからずっと俺だけを持ち続けていたんだから。
まあ、ほとんどの荷物はボストンから配送してもらっているし、俺が持ってきたのも片手で持てるバッグが一つだったから、かずさに手伝ってもらう事自体必要なかったのだけれど。
こたつ。人を堕落させる究極兵器の威力はすさまじく、我が家の住人のほぼ全ての心を掌握しよとしている。あの麻理さんでさえ骨抜きにされ、帰宅して手洗いうがい、コートやジャケットをハンガーにかけるとすぐにこたつの住人へとおちてしまう。
「冷え性なんだからしょうがないじゃない。足元を冷やすのはよくないのよ。美容だけじゃなくて健康にもわるいんだから。だから、けっして年寄りじみた行動だってみないように」
「いや、俺はけっしてそんなふうには思っていませんよ」
「そうかしら?」
「麻理さんの思いこみにすぎませんから」
「でも春希。なんだか生温かい目で見ていなかったかしら?」
「違いますよ。なんだかこたつにみんなが集まっていると、家族みたいだなって思って」
「なるほど」
「でしょう。わたしがこたつを日本から取り寄せたのを誉めて欲しいってものよ」
千晶に限っていえば、自分の手柄を誉めて欲しいってわけではないのは俺にはわかるぞ。そもそも自己顕示欲が高くないくせに。
「お前の場合はこたつに入っている正当性を主張したいだけだろ。こたつを出してからは、ほとんどこたつで暮らしているようなものだしな」
「日本人だからねぇ…………。ほぉら、ぬっくぬくで、ほっかほかじゃない」
「はぁ…………」
俺も千晶に毎度毎度小言なんて言いたくはない。
千晶は帰宅しても、手洗いさえもしないでこたつに直行してしまう。そして小言ばかり言う北原春希にこたつから追い出され、しぶしぶ手洗いに行くのが毎日の光景となりつつあった。
だもんだから、当然かずさもこたつの魔力には勝てるわけもなく、俺に背を預けこたつを満喫していた。一応曜子さん達の目を、とくに麻理さんに遠慮して北原春希座椅子は二人っきりの時しか使用していない。
だけど二人っきりの時はここぞとばかりに甘えてくる。とくにフランスから戻ってからは顕著であった。
思い返せば、かずさの言う通り、かずさの危機意識が俺を求めていたのだろう。
「母さんは帰ってくるかはわからないけど、和泉さんと麻理さんはもうすぐ帰ってくる時間だな」
「千晶はどうだろうな? 俺がボストンに行っている間は美代子さんが世話をしてくれているらしいけど、今千晶は本番前でかなり役に入っちゃってると思うからなぁ……」
「じゃあ帰ってくるかわからないって事?」
「どうだろうな? ここは日本じゃないから安全のためにも帰ってくるはずだとは思うぞ。いくら千晶でもそこらへんで寝てしまうってことはしないからさ」
「それって日本だと寝ていたってことだよな?」
「まあ…………千晶、だから?」
「そ、そうだな。…………じゃあ麻理さんの方が早く帰ってくるかな?」
「そうだなぁ……。なにもトラブルがなければそうだと思うぞ」
「なんだよ春希? 一人で笑っちゃって」
「あぁ悪い。麻理さんも日本では深夜まで編集部にいたからさ。千晶も麻理さんも、俺もそうだし、かずさや曜子さんだって同じなんだなって思ってさ。なんだかみんなワーカーホリックなんだと思ったら、みんな似た者同士なんだなって」
「わーかーほりっく?」
「仕事中毒ってところかな」
「間違ってはないけど、あたしにとってもピアノは生活の一部だし、春希だって同じようなものだろ?」
「そうかもしれないけど、まわりからみたら俺達はれっきとしたワーカーホリックだと思うぞ?」
「勝手に言わせとけばいいんだ」
「そうだな」
とりとめのない話題で盛り上がっては沈黙が訪れ、そして新たな話題へと移っていく。ボストンにいたときも二人っきりではあったが、やはりコンサートの事が一番であり、のんびりする余裕なんてなかった。
唯一二人の為のだけに過ごした時間は、コンサートが終わった夜から翌日の朝までだった。
「麻理さん遅くないか?」
「編集部でトラブルでもあったのかな?」
「大丈夫か?」
「一概にトラブルって断定できるわけでもないからな。最近は麻理さんもだいぶ調子を取り戻してきているみたいで、仕事の量も増えてきているみたいなんだよな」
「おっ、おい春希。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思うぞ? 俺も体の負担にならないようにと見張っているから」
「ほんとうか?」
「絶対大丈夫ってことはないけど、俺が見た感じでは大丈夫、だと思うけど?」
「…………そっか」
本当に大丈夫なのだろうか? かずさに言われるまで疑問にさえ思わなかった。
ずっと麻理さんを見てきたことで麻理さんのことを知ったつもりになってしまったのではないだろうか?
そう考えると、なんだか不安になってしまうのが平凡な精神構造をもつ俺であって……。だけれど、かずさに不安を感じさせない為に俺は平静を装おうと顔の筋肉に力を込めた。