「ボストンから戻ってきたら少しは休みがとれるはずだったのに、日本にまで来て仕事を手伝うはめにしてしまってごめんなさいね」
「いや、べつに…………」
麻理さんが手放しに俺の訪日を喜んでくれる姿を目の当たりにすると、数時間前までの緊張感を思いだし、背中に冷たい汗が這いまわる。けっして悪い方向に物事が進んでいるわけではない。むしろ喜ぶべきほどの理由で。……松岡さんや浜田さん。それに編集部のみんなには悪いけど、俺からすれば最高に近い理由での麻理さんの日本帰国とも言える。
でも、俺もこうしてみんなの手伝いをしているんだ。このくらいの報酬くらい喜んでも罰は当たらないはずだ。…………恨みはかうだろうけど。
「でも、さすが春希ね」
さらに笑顔で攻勢をかける麻理さんに、俺は編集部に漂う編集部員の疲労感さえどうでもいい気がしてきてしまう。しかも、かずさのマネージメントを始めてから久しぶりの編集部本来の仕事に、懐かしい疲労感に酔ってもいた。
「どういうことです?」
「だって、私も突然日本から連絡があって、とにかく日本に来てくれって言われて、なにもわからないまま日本に行ったのよ。私が担当していた案件で大きなトラブルがあった事だけはわかってはいたけど、詳細がわからなかったから不安ではあったわね。だから千晶さんも曜子さんも心配してくれて、自分たちの事はどうにかするから大丈夫だ。春希達の事も任せておいてって言われてね」
「そうだったんですか」
「だから春希が来てくれたんでしょ?」
「……え?」
まっすぐな笑顔に俺は顔が引きつりそうになるのを奥歯を噛み締めて耐え抜く。麻理さんの事を心配したのは本当であるし、事実をそのまま教えたとしても、きっと麻理さんは怒る事などありえない。
むしろ喜んでくれると思ってしまうのは、けっこう自惚れているんじゃないかと自嘲までしてしまう。
だけど、今この場で話すような事実ではない。明日、きっちりと仕事が終わってからでも遅くはないはずだ。
「……えっと、ボストン公演の原稿はニューヨークに戻ってきたその日の夜には仕上げてしまったので、時間の余裕はあったんですよ。そのおかげで、記事を書く予定だった日程が白紙になり…………、まあその、日本に来たという感じです」
「流石春春希ね」
「今回はたまたまですよ。むしろボストンでは役立たずだったので、記事をまとめてばかりいましたからね」
「そうなの? 春希だったらどこに行っても即戦力になりそうだと思うけど?」
「ええ、まあ……。ボストンには先入りした事務所のスタッフがいましたからね。俺みたいな新人がいても足を引っ張るだけですから、今回は先輩スタッフの方々に甘えて仕事を覚える事に専念することになったんです。ただ、次からはしっかりと働いて貰うとは言ってましたけどね」
「春希も新人らしく可愛らしい所もあったわけね」
「可愛らしいかはわかりませんけど、俺も最初は新人なんですよ」
「でもねぇ……春希って、開桜社で初めて私の下についた時から新人バイトっぽくなかったわよ? どこか達観しているって言ったら聞こえはいいでしょうけど。なんというか可愛くはなかったかな」
「それは申し訳ない事を……、でも、俺に可愛らしさを求める方が無謀ですよ」
「それは春希を見ていたらわかったわ。この男に可愛らしさを求めては駄目だって」
「はは……、まあ、麻理さんの印象も最初と比べれば変わっていきましたけどね」
「えっ? ……理由聞いていいかしら? でも、聞くのはちょっと怖いわね。でも、やっぱり聞いておこうかな」
「それは、構わないですけど…………」
構わないですけど、腕が……痛いです。
最初の戸惑いを見せながら、下から俺の顔を覗きこもうとする仕草は可愛らしいとは思いましたよ。でも、それと同時に逃がしはしないと俺の腕を握りしめるのは相当俺の扱いを覚えたと喜んだほうが、いいのか?
まあ、俺は口がたつほうだし、逃げるのがうまいって思われているからしょうがないんだろうな。
「じゃあしっかりと聞くから、どうぞ……。あっでも、お手柔らかにお願いね」
「大丈夫ですって」
「そうかしら?」
「そうですよ。……最初は人並みの評価ですが、仕事には手を抜かない人だと思いました」
「ほんと人並みの評価ね」
「だから最初はって言いましたよね?」
「……続けて」
「仕事は妥協しないし、他人にも妥協は許さないけど、だからといって無理強いする人ではなく、うまく人間関係を築いている人だと思いました。上司にするならこういう人がいいなって思いましたしね」
「それを言ってくれるのは春希くらいよ。鈴木だって懐いてはくれたけど、私の下は嫌だっていうし」
「それは麻理さんが求めている仕事の水準が高すぎるから……」
「でも春希だって無理強いしてないって言ったわよね? 現に私は仕事に真剣に向き合えとは言うけど、できないことをやれとまでは言わないわよ」
「たしかにそうですけど、まあ、麻理さんの仕事っぷりを見ていると一緒にやるのは大変だなって思ってしまうんでしょうね。俺の場合は志願して麻理さんの下で働く事になりましたけど、これが普通の人だったらプライベートを潰すしかないだろうなと思った事がありましたしね。……ただ、あの編集部にいたら、というか出版業界全体がそうなのかもしれないですけど、プライベートはけっこうな確率で潰されますよね」
どの仕事にせよ定時で終わる仕事など限られているんだから、自分がやりたい仕事をやれている事に感謝すべきだよな。そういう点から考えてみれば、麻理さんが言う「仕事に対して真摯に向き合うべき」っていうのはあながち間違いではないと思える。
ただ、麻理さんが求める水準が人とは違うだけで。
「………………え?」
「えっ?」
じわっと、麻理さんの目元に涙が溜まり始める。少しでもその身を触れてしまえば決壊しそうな雫は、天井からの光を白く吸収していた。
俺、なにか言ってはいけない事言ったか? たぶん言ったんだろうな。そうじゃなければ麻理さんが泣きそうな顔をするわけないし。
やばい。というか、やばいよな。俺が鈍感で無神経なのは千晶に言われなくても自覚してる。だからこそ言葉を選んで発言するように気をつけるようにしてきたつもりだ。でも、鈍感で無神経だからこそ気をつけていてもぽろっと棘がある言葉を吐き出してしまうだろう。
となれば、俺の問題点を見つけ出し、それを対処するしか俺にはできない。武也からすれば、この俺の行動こそ女の子の気持ちをわかってないと嘆かれるだろうが、俺には武也みたいなフットワークの軽い臨機応変の行動はないんだよ。
「最初に謝っておきます。ごめんなさい」
俺はここにはたくさんの編集部員がいるっていうのに直立姿勢から頭を下げ謝罪する。目立つなんてものではない。今もきっと注目されているはずだ。
だから俺は長々と頭を下げたままにはせずに、すぐさま顔をあげて関係修復に立ち向かう。
「俺は女の子の扱いがなってないって友達に言われているんですけど、やはり今も苦手で、傷つけるような言葉を言ってしまう事があると自覚しています。でも俺は、少なくてもさきほど麻理さんに言った発言の中には悪い意味の内容はなかったと思います。俺の方も悪い意味で言ったつもりはありません。それでも麻理さんが不快に思ってしまった事は事実でしょうから、なにが悪かったか教えてもらえないでしょう?」
真剣に、そして誠実に、俺は今度こそ言葉を選んで麻理さんに訴えかける。
すると麻理さんは、呆気に取られた顔を見せたかと思えば顔を赤らめ、ともすれば表情が薄らいで行き無表情に至る。
「春希って、そういう人だったわよね」
「すみません」
「まあいいわ。それで…………一応確認しておきたいんだけど」
「どうぞ」
きりっとひねる胃の痛みを素直に享受して審判をまつ。
「私も春希の言う「女の子の扱いがなってない」っていう女の子の中に含まれているのよね?」
俺は小さな表情さえこぼさないように顔の筋肉を引き締め固定させる。言葉だけじゃない。表情もコミュニケーションツールなのだから、麻理さんに気がつかれていけない。
そもそも俺が武也に女性の事で上から目線で説教を言われたのは高校生の時くらいだ。大学生になったらあれだったし、社会人になってからは武也は人の事よりも自分の事で大変らしいし。
だから「女の子」と表現したのは高校時代の言葉をそのまま使ったまでで、麻理さんのことを女の子扱するために使ったわけでは…………・。
「仕事の面では上司ですけど、プライベートでは女の子。それと同時に女の人というくくりですよ」
「そ、そう。そっか。うん、そうなんだ」
ほらそこっ。鈴木さん。親指を立てないっ!
「それで、俺が無神経な言葉を言ってしまった事についてなのですが」
「そう、それよ。…………あのね春希」
「はい」
「春希も私の下で働いて、辛かった? やめたいって思った?」
なるほど。俺が麻理さんの下で働くのが嫌だと思ったわけか。たしかに一般的仕事量から言えばきつい上司だろうけど、俺にとっては最高の上司だ。それが大学生時代の俺が現実から逃げる為であろうと、その後の仕事の楽しみを知ってからであろうと、麻理さんへの感謝は変わりようもない。
「ないですよ。一度もないです」
「本当に?」
「むしろ働きすぎて、もう仕事をするなって家に追いかえした事がありましたよね?」
「それは春希が悪いのよ。自分の限界を超えて仕事をしたっていい仕事はできないもの。むしろ周りに迷惑をかけるだけだし、あとで自己嫌悪にもおちいってしまうだけよ」
こういうときだけは冷静なんだから。やはり仕事に関しては一生頭が上がらないかもな。
「そのせつは大変申し訳ありませんでした。今なら自分がしてきた愚行を取り消したいものです」
「それは無理よ。だってどんな人間でも失敗はするもの。なにも失敗しないで成長する人なんていないわよ」
「たしかにそうですね。でも、恥ずかしいものははずかしいんですよ」
「大丈夫よ。周りのみんなは気が付いてもいないし。むしろ春希をワーカーホリックに私が陥れてった、私の方が後ろ指を指されていたほどよ」
「それは初めて聞きましたね」
「初めて話したかもね」
「そんなには昔の事ではないのに、この通い慣れた編集部に来ると、無性に懐かしく、なってしまいますね」
「いろいろ、あったわね」
「そうですね」
天井から照明の光が降り注ぎ、夜に塗りつぶされた窓を背景に麻理さんを覆う白い輪郭部をよりいっそう浮かび上がらせる。はつらつと仕事を続け、並々ならぬ集中力を持続させる。
それは、職場をニューヨークに移してからも陰りは見せない。俺の目もあるし、麻理さん本人も体調を気遣っていても仕事に注ぐ情熱は変わりなかった。ただ、どうしても日本にいた時とは違い、無条件にその後ろ姿を目で追う事が出来ない。
そこは麻理さんの病状もあるわけだから当然ではあるが、俺が麻理さんに向ける視線の色に変化が起こったからなのだろう。
いつも追いかけていたこの人を、俺はいつから違う視線で見ていたのだろうか。
かずさに対する愛情とは違う感情を抱いている事を、俺は否定しない。すぐに武也をたとえにするのは本人にも、依緒にも悪いから最近ではしないように心がけているが、俺は武也みたいに器用に人付き合いなどできやしない。ましてや心の深いところの繋がりができてしまえばなおさらだ。
そりゃあ上辺だけの付き合いで、仕事だけを前提とするならそこそこ良好な関係を築くことだけなら得意だと思う。まあ、俺の場合は仕事優先で、相手の心情まで読み切れていない部分があったと若干自嘲気味の判断もできてしまうが。そのやりすぎた行動のために、高校時代には疎まれた事もあった。
でも、麻理さんには疎まれたくない。そしてなによりも、仕事のだけの関係から、今はプライベートでも深い関係を築いてしまった。
俺はここに来て怖気ついてしまう。
この真っ直ぐと俺を見つめる愛らしい人を、俺はどうしたいのか。どうできるのか。そして、幸せになってほしい、と願っていいのか。
「あぁ……、私が押し付けた面倒すぎる仕事を思いだしているんでしょう? でも、春希がのぞんだ事でもあるのよ? きっつい仕事を下さいって最初に頼んできたのは春希の方なのよ?」
「え?」
「ほら。一番きつい仕事をくれる上司がいいって春希が希望を出して私の下に来たって話よ」
「あぁ、そうでしたね」
話をそらされた?
それとも俺の表情を見て、なにか勘違いでもしてくれたのか? ……よそう。都合がいい方向に考えてもいいことなんてないよな。
だけど俺は、適切な解答を見つけ出していない為に麻理さんが差し出した手に手を伸ばしてしまった。
「…………あのね春希。しつこいように思ってしまうかもしれないけど、私の下で働いていることを後悔してない?」
駄目だ、この人には敵わない。俺の優柔不断な態度なんてきっとお見通しなのだろう。そういう俺の態度を含めて俺の事を心配してくれているのだから、しかも麻理さんと出会わなければとまで遡って自分をせめようとしている人なのだから、俺も腹をくくって前を見る勇気をそろそろ持たなければいけない。
「むしろ麻理さんに出会えなかったかもしれない事を考える方が嫌ですよ。今の俺の仕事のスキルは、そのほとんどは麻理さんが鍛え上げてくれたものですからね。俺も他のバイトの経験から少しはどんな職種でもやっていけるっていう自信は持っていたんですけど、根底から覆されてしまったというか、学生気分を取り去ってくれたと言うべきなのでしょうね。本当の意味で働くということを一から教えてくれたのは麻理さんなんですよ。今俺がここにいられるのも、ニューヨークにいきなり行けたのも、麻理さんが鍛えてくれたからです。だから、麻理さんの下で働ける事を感謝しています」
「そこまで言ってくれると、私も、とてもうれしいわ。鍛えがいがある部下を持てて、上司としてもこんなに嬉しい事はないわ」
「ただ……、仕事ばかり頑張りすぎてしまうためにプライベートがガタガタなのも愛嬌なんでしょうね」
「それはっ…………」
「しかも、一人で仕事を抱え込んでしまって、たまににっちもさっちもいかなくなってしまうこともありましたよね? 普段は効率的にやるんだって言って仕事をかき集めてきますけど、やはり人が集まればイレギュラーな事も起きて当初の計画なんて崩壊してしまいますしね。そうなると当然プライベートの時間を削ることになってしまって、ますますワーカーホリックをこじらせてしまうんですよね」
「……っ!」
散々持ちあげておいて最後と落とすという古典的手法に、麻理さんもこれもまた古典的な返答として苦笑いで返してくれる。はたから見れば息があった夫婦漫才が始まったかとちゃちゃをいれられそうでもあるが、その筆頭たる鈴木さんがにんまりと沈黙を保っているので、この編集部には虎の上司の尾を踏もうとするつわものはいなかった。
「でも最近わかってきたんですよね」
「なにがよ?」
その涙目になりながら可愛らしく睨みつけてくる事とか?
「そうですね。プライベートは壊滅的なわりには少女漫画みたいな趣味をもっていて、いつかは自分も華々しい生活を送りたいとか、ですかね。たしかに仕事面では最高に輝いてはいますけど……、ね」
「それ、嫌味かしら?」
なおも睨みつけてきてはいますけど、可愛らしいだけですよ?
「とんでもない」
「どうせ仕事でしか成功しない人生なのよ」
俺が言うのはどうかとは思うけれど、でも、麻理さんって実際自分が少女漫画みたいなヒロインの立ち位置になってしまっても、そのことを気がつかないんだよな。どうしても仕事面で鍛え上げた理性がブレーキをかけてしまって、感情を殺してしまう。
だからこその今の病状なのだろう。
今さら後悔してもしょうがないけど、麻理さんがニューヨークに行く前に少しでも麻理さんの感情を受け取っていられれば、今とは違う結果がでていたはずだ。少なくとも食事を苦痛とは思わないでいられたはずだと思う。
「その仕事であってもなかなか成功する人はいないんですよ。たいていの人は周りに流されて仕事を続けるといいますか、生活のために仕事を続けていますからね。そう言う点からすれば、好きな仕事にうちこめている麻理さんは、貴重な成功例だと思いますよ」
「そうはいっても、プライベートを削って勝ちえた仕事の成功を、人は評価してくれるかしら?」
「そんなのは人の価値観によって違いますからね。でも俺は、麻理さんの生き方、好きですよ」
「……春希」
熱っぽく見上げる麻理さんの視線に、俺はひきこまれそうになり、喉を軽く鳴らす。それでも胸の鼓動は収まらず、体は硬直してゆく。
その緊張は俺だけではなかったようで、ガタリと椅子が机にぶつかる音で、一斉に編集部にいる者たちの拘束を解きはなつ。
つまり、俺と麻理さんは目立ちすぎていたというわけで。
…………たしかに日本にいることから一部で噂になっていた二人が突然日本に戻って来て、しかもそのうち一人は片方を追いかけて来日している。そしてニューヨークで育んだだろう新密度をだだ漏れにしていれば、多少興味を持っていた人間ならば注目しないわけがなかった。
「そ、そういえば千晶さんが日本で大ブレイクしていたの知ってた?」
「えっ、千晶が?」
さすがの麻理さんも編集部員達の好奇の視線に気がついたようで、あまりにも露骨に話題転換を測る。多少声が上擦っていても、可愛らしすぎるその少女の反応は、観客たちに後ろを向かすだけの効力を秘めていた。
まあ、見ているあちらも恥ずかしすぎるほどのうぶさに見ていられなくなったかもしれないけど。