麻理さんと北原
世界中に向かって叫びたい
心はいつもあなたのそばに ~ white album 2 かずさN if(ver.手を離さない)プロトタイプ~
かずさN手を離さないバージョン
ただいま合宿中
誕生日プレゼント~夢想(2014)
やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。(2015)
番外編 『その瞳に映る光景』
何をやっているんだ。
あたしが春希から待ってくれってお願いされた期限は、遥か昔に過ぎ去っている。
もうかれこれ1時間も持っているんだぞ。
そもそもなんで春希は、自分のミスでもないのに、他人の仕事を一週間も
徹夜続きでやっているんだ。
そんなことだから、あたしが春希に甘えられないじゃないか。
それは一週間前のこと。
今でもあの電話をかけてきたスタッフに蹴りを入れたい気持ちは収まっていない。
たぶん、今度のコンサートで顔を合わすんだろうけど、きっと春希があたしとそのスタッフを
接触しないように配置しているんだろうな。
そういう細かいところはしっかりしているのに、なんであたしに関してはずぼらなんだ。
こんなにも待ち望んでいるのに。
一週間も「待て」を命令されて、お預けを喰らっているのに。
春希ときたら、のんきなものだ。
きっと今も、自分がやる予定ではなかった他人の仕事を、
テキパキと頑張っているんだろう。
でも、今朝の約束では、11時には終わるって言ってたじゃないか。
それなのに、今は12時だぞ。
春希のことだから、もしかしたら早く終わるかもしれないと思って、
10時までには、シャワーを浴びて、ばっちりとメイクをして、
春希がこのまえ選んで買ってくれた服も着て、いつでもデートに出かけられる準備を
完了させたというのに、春希はまだ部屋から出てこない。
それは、寝室兼仕事部屋なのだから、あたしがベッドで寝転がって待っていても
いいんだけどさ。
それだと早くしろって、催促しているみたいじゃないか。
実際、今朝の段階でも、散々文句を言って、催促しまくったけど、
春希が仕事をしているときには邪魔したくない。
その辺の我慢は、覚えたからな。
なにせ、あたしが構ってほしいオーラを出すと、春希はあたしに夢中になってしまうからな。
・・・・・・まあ、構ってくれないと、噛みついたり、ぐずついたりして、
春希が困り果ててしまうってこともあるんだろうけど、
あたしに夢中ってことに間違いはない・・・、はず。
と、仕事部屋へと続くドアの前で2時間も、もんもんと待っているわけだけど、
そろそろ我慢の限界に近付いている事はたしかだ。
あたしは、静まり返った廊下を見渡し、異常がない事を確認してから
ドアノブを回すかチャリという音さえもたてないように、そっとドアを少し開ける。
ドアから覗き込んでも、この角度からは春希は見えやしない。
だから、すっと耳を近づけてみるが、物音ひとつしていなかった。
普段ならば、心地よいキータッチの音が鳴り響いているはずなのに、
物音一つしないだなんて、おかしくないか?
たしかに、春希がこの部屋に入っていくのは確認したし、他の部屋にもいないはず。
あたしは、これ以上の考察は諦めて、行動に移す。
いくらあたしが考えたって、答えが出るはずもない。
それに、このドアの向こうに春希がいるかどうか確かめたほうが早いじゃないか。
というわけで、あたしは警察犬のごとく四つん這いになって中に侵入していく。
ベッド越しから覗き込むと、春希はいるが、ノートパソコンは閉じられている。
さらには、今朝はあったはずの床に詰まれていた書類も、テーブルの横にまとめられていた。
仕事は終わったのか?
でも、だったら何故春希は部屋から出てこないんだ?
ここからだと春希の背中しか見えないし、もっと近づくか・・・。
両手両足を巧みに使い、そろり、そろりと、音をたてないようにして忍び寄る。
春希が気がついた様子はない。
別に気がつかれたっていいんだけど、なんで忍び足なんてしているんだ?
ま・・・、いいか。そんなこと。
それよりも、春希の様子を確かめないとな。
・・・・・・寝てるのか?
春希は、ローテーブルに手をのせて、自分の腕を枕代わりにして寝ているようだった。
かずさ「春希?」
あたしは、ちょっとだけ声を抑えて春希に呼びかける。
しかし、春希は全く反応しなかった。
かずさ「春希?」
もう一度だけ、少しだけ声量を上げて呼びかけてみたけど、春希の声を聞く事は出来なかった。
やっぱり寝ているのか?
徹夜続きだったもんな。今朝も寝むそうだったし。
どおりで春希が部屋から出てこないわけだ。寝てるんだもんな。
でもさ、扉の向こうで、あたしがいまかいまかと待ちわびていたっていう事も
忘れないでほしいよな、ったくぅ。
いつまでも「待て」を命令を守っていると思うなよ、春希。
そんなにあたしをほうっておくと、いつか春希の前からいなくなってやるからな。
そうだなぁ・・・・・、10年。ううん。20年くらいの「待て」なら
待ってやってもいい。
泣きながら待っているんだろうけど、絶対迎えに来いよな。
ガタっ。
突然発せられた物音に、あたしは身を固くする。
春希を睨みつけながらニコニコしていたら、いつのまにやら、
春希の寝顔を魅入っていたらしい。
春希「う、うぅん・・・」
静けさが満たされていた室内に、
心地よい日差しに刺激されて寝返りを打ったようだ。
春希のくせに、脅かしやがって。
そんな姿勢で寝ているから、体を痛くするんだ。
どうせ寝るんだったら、ベッドで寝ればいいのに。
そうすれば、あたしもベッドに潜り込めたのに・・・、くそっ。
あたしの気持ちなんか知らないで、気持ちよさそうに寝てるな。
お疲れさん、春希。あたし達のコンサートの為に頑張ってくれてたんだよな。
こんなにも無防備な姿をさらけ出していたら、危ないぞ。
外での休憩中でも、こんなにもきゅんってくる寝顔を披露しているのか?
その辺の事情は、あとで春希に要確認だな。
・・・・・・そうだな。この寝顔をいつでも堪能できるように、写真に撮っておくか。
あたしが黙っていると、すぐにあたしをほったらかしにするんだよな。
ふんっ、あたし達の為の仕事だからっていう理由がいつまでも通用すると思うなよ。
でも、春希が起きる前に写真撮っとかないと。
1分後
あたしは、寝室のドアのところに置きっぱなしにしてあった携帯を手に取ると、
再び春希の元へと音も立てずに戻ってくる。
春希からの呼び出しがいつ来てもいいように握りしめていたのに、
結局はこの一週間、一度もかかってこなかったな。
でも、今こうして春希の写真を撮ることができるんだから、役には立ってるか。
あたしは、さっそく携帯のカメラを起動させて、フレームに春希を収めていく。
レンズのピントがあい、ここだっというタイミングでシャッターを押そうとしたが、
ギリギリのところでシャッターを押すのを思いとどめることができた。
・・・危なかった。こんなにも春希の耳元で携帯のカメラなんて使ったら、
シャッター音で春希が起きてしまうかもしれないじゃないか。
うかつだった。目の前に美味しすぎる獲物があったせいで、冷静さを失ってたな。
あたしは、気合を入れ直すと、今度は自宅スタジオへと向かっていった。
1時間後
かずさ「ぷはぁ~・・・。んふふふふ」
満面の笑みを浮かべながら大きく息を吐くと、溢れ出る喜びを隠すことができないでいた。
一週間我慢した甲斐があったな。至福の時間とは、こういうことをいうんだな。
もう13時過ぎってことは、1時間近く撮影していたのか。
今日もいい絵が撮れた。春希コレクションもだいぶ溜まってきたし、
これだと写真の個展も開けるんじゃないか?
ピアノだけじゃなくて、写真の才能もあったなんて驚きだけど、
でも、春希しか興味がないっていうのが問題だな。
それに、これ以上春希を表舞台に出すっていうのも気に食わない。
あたしだけの春希なんだから、あたしだけが見て楽しめばいいんだよ。
冬馬かずさコレクション。冬馬かずさの死後、遺族が発見したかずさコレクションは、
遺族が世間に発表した事で、絶大な人気を獲得することになる。
ピアニストとしては世界的に有名だった冬馬かずさではあったが、
死後、写真家として成功するなど誰も予想していなかった。
それもそのはず。なにせ、冬馬かずさが被写体に選んでいたのは、9割以上が夫の
冬馬春希だったのだから、その偏った選択では、成功を予想するなど不可能である。
そもそも家族でさえ、そのコレクションの存在は秘匿されていた。
そして、残り一割の被写体は、子供たちや母曜子の姿であったが、
かずさコレクションの中には、かずさ本人が映っている写真は一枚しかなかった。
それは、母曜子が、初めてかずさが出産したあとに撮った、子供、春希、そして、
かずさの三人を写したものである。
ただ、膨大なかずさコレクションの中でも、絶大な人気を誇り、一番人気となった写真が
母曜子が撮った、たった一枚の写真であると冬馬かずさが知ったのならば、
あの世で親子喧嘩をしているのかもしれない。
あの世でも冬馬親子は元気にやっているはずだ。
なにせ、娘冬馬かずさがピアニストを引退した後も、
母冬馬曜子は100歳まで演奏を続けたのだから。
あたしは、手に持っているミラーレス一眼カメラに収めた画像を確認し終えると、
撤収作業に入る。
春希の周りに設置されている機材を、音をたてないように撤去していく。
撮影用の4K対応カメラレコーダーや高性能集音マイク。
見る者が見れば、その価値を一目でわかるほどの一流品らしい。
その辺素人のあたしであっても、その無骨な存在感と使用目的に特化された機能に
一般使用の物との違いを感じとれた。
これらの機材は、春希が自宅でも収録や撮影ができるようにと集めたものであるから、
プロ仕様の品であり、値段もはるのだろう。
あたしは、最初のうちは自宅での撮影であっても拒み続けていた。
だって、あたしがピアニストであって、グラビアアイドルじゃないんだぞ。
いやらしい視線の前にさらされるだなんて、我慢できない。
なんて、不満たらたらだったけど、結局は春希に丸めこまれてOKしちゃったんだよな。
でも、あたしは以前の何もできないあたしではなかった。
ただじゃ起き上がらない。この高性能機材。春希を撮影するにはもってこいじゃないか。
そうとわかったわたしは、率先して機材の使い方を春希から習ったものだ。
最初は訝しげに見ていた春希も、熱心にあたしがきいているものだから、
あたしが満足するまで説明してくれたっけ。
使い慣れた機材は、手慣れた手つきで音も立てずに片付けるのだって習得していた。
その技術を発揮してあたしが最初この部屋に入ってきた時と同じ状態に戻すと、
あたしが巻き散らかした熱気さえも全て拭いとられていた。
体の内にこもった熱気も、春希の隣でクールダウンしてはいるが、
さらなる熱気が沸いてきそうで、困ったものだな。
散々撮影したけど、やっぱり生で見る春希が最高だ。
今度はレンズ越しじゃなくて、この目でしっかりと見ておかないとな。
と、そう決めて、10分ほど蕩けきっていたが、人間の欲は底がしれない。
そう、見ているだけでは満足できない。
一週間もかまってもれえなかったのだから、見てるだけで満足なんかできなやしない。
あたしは、頬にキスしようと、そっと近寄っていく。
手でしっかりとテーブルを握って、春希に寄りかからないように気をつけて、
慎重に事を進めていく。
あたしと春希の距離がゼロになったとき、この上ない幸福感があたしを襲う。
写真やビデオや録音なんて、やっている場合じゃなかった。
とっととキスしたり、抱きついたりすべきだったんだ。
そう後悔しだしたけれど、それでもコレクションは大切なんだよなと、
あとでこっそり後悔は取り消した。
今度は口だな。キスといったら、口と口でするものだし。
あたしはそう決断すると、さっそく行動に移ろうとした。しかし・・・。
春希「ん・・・むぅ・・・」
春希が寝返りを打つ。この時ばかりは、自分の欲求よりも罪悪感があたしに絡みついてきた。
だから、音を立てずに身をしならせると、ふわりとその場から遠のく。
二メートルくらい春希と間合いを取っても、警戒を緩める事ができなかった。
両手を前に伸ばして、しっかりと両手両足で床を掴んで身を低くする。
どうやら今度も寝返りを打っただけか。
そうとわかれば、警戒モードを解除していき、前方でしっかりと床を掴んでいる両手の
方へと体重を移していく。
そして、両手両足を器用に使ってペタペタと再び春希の元へと戻っていった。
脅かすなよ、春希。でも、いけない事をしているみたいで、ワクワクするのも事実なんだよな。
カメラだって、春希に頼めば撮らせてくれるだろうけど、
このスリル、やめられない、かも。
そう艶っぽく惚けると、再度キスをしたいという欲求をかなえるべく行動する。
しかし、今度は完全に断念するしかなかった。
なにせ、この角度からではキスができないのだから。
春希が寝返りを打ったせいで、キスができないじゃないか。
どうしてくれようか。
あたしは、ローテーブルに両腕をのせて顔をうずめると、じぃっと春希を見つめながら
考えを巡らせていく。
こうしてあたしが困っているっていうのに、暢気なもんだな。
あたしが困っていたら、いつでも助けに来るって言ったじゃないか。
まあ、今助けに来られても、困るだけなんだけどさ。
あたしは、無意識のうちに春希に手を伸ばしていた。
春希の髪は柔らかくて、すぅっとあたしの指と溶けあう。
何度味わっても飽きることがないんだよな。
これが幸せっていうんだろうけど、気持ちよすぎて、やめられないのが玉に瑕だな。
でも、あたしがこんなにもそばにいるっているのに、なんで寝てるんだよ。
そんな気持ちよさそうにして寝ている春希を見ていると、あたしまで眠くなっちゃうだろ。
・・・まあ、いいか。春希のそばにいられるだけで幸せなんだから。
でも、もうちょっと近寄って、春希を感じたいな。
あたしは、春希の体に身を密着させると、そのまま春希がいる夢の世界へと潜り込んだ。
あたしが目を覚ますと、すっかりと日は暮れかけ、西日が忍び寄り始めていた。
日が暮れ出したというのに温かいというのは、
春希に身から温もりを分けてもらっているだけではなかった。
どうやら春希がタオルケットをかけてくれていたようだ。
まめな男だな。こういうまめなところができるというのに、
どうしてあたしをほうっておくことができるんだ?
不思議だよな・・・。ん? タオルケット?
ということは、春希が起きたのか?
あたしは、うっすらと開けていた目をしっかりと開くと、
目の前には春希の顔が迫って来ていた。
細く開かれていた春希の目が、あたしの瞳とかちあう。
春希の肩がぴくっと震えると、春希は気まずそうにあたしから離れていった。
春希「おはよう、かずさ。寒くはないか?」
かずさ「あぁ、おはよう、春希。うん、寒くはないよ」
つい数秒前までは、気まずそうな顔をしていたっていうのに、今はなんでもないですって
いう顔をするんだもんな。切り替えがはやすぎるって。
これが春希の時間短縮術で、仕事をする時間を確保する術なんだろうけど、
あたしとのプライベート時間にまで持ち出すなって言いたい。
余韻ってものがどれほど大切かって、春希はわかっていないんだ。
そんな唐変木な春希だってわかってるあたしだから我慢できるんだぞ。
そこんとこ、忘れるなよ。
・・・と、文句をたらたらに心の中でぶちまける。
一方で、寒くはないって春希に言いながらも、身をこすりつけているあたりは、
母さんからすれば、ずるがしこい女になった証拠だそうだ。
あたしほど最愛の人に忠実な彼女はいないと思うんだけどな・・・。
この辺の感覚ばかりは、世間様の感覚はよくわからないって思ってしまう。
春希「ごめんな、かずさ。仕事が終わったと気を緩めたすきに、寝ちゃってさ」
かずさ「それはしょうがないよ。春希が一人で頑張りすぎたんだからさ」
春希「どうする? 時間も時間だし、食事でも食べに行くか?」
春希は、遅刻してしまったデートを、今までの余韻も忘れて再開させようとする。
だから春希は春希なんだよ。
春希「どうしたんだ? 機嫌直してくれよ。せっかく仕事もひと段落したんだから
かずさと仲良くしたいんだけどな」
春希は、ぶすくれるあたしの原因がデートの遅刻だと思ってるんだから。
違うって。そうじゃないんだよ。
春希「なぁ・・・。この通り、反省してます。かずさとの約束を破って、
かずさを一人にしてしまって、寂しい思いをさせてしまって
申し訳ないって思ってる」
たしかに、春希が言うこともあるけどさぁ。ちょっとは察してよ。
かずさ「それは、まあ、なんというか、理解してるよ。
春希があたし達の為に頑張ってくれてるんだから、一応我慢できる範ちゅうかな」
春希「そうか。・・・だったら、なにをむくれてるんだよ」
かずさ「・・・キス」
春希「キス?」
かずさ「おはようのキスを途中でやめただろ」
春希「あぁ、そのことか」
かずさ「そこのとか、じゃない。こっちは、心待ちにしていたのに、
途中でやめるだなんて、あんまりじゃないか」
春希「それは、なんといいますか。・・・突然かずさが目を覚ますもんだから、
タイミングがな」
かずさ「だったら、ほらっ」
あたしは、顎を上げて、キスをせがむ。
ちょっとぶっきらぼうで、可愛げがない催促だってわかってるけど、
これが照れ隠しだってことは、春希だけがわかってくれているんなら、それでいい。
春希「じゃあ、ほら」
春希は、聞きわけがない子供をなだめるような口調であたしの頬にキスをする。
ふわりと漂う春希の臭いがあたしを酔わそうとする。
でも、軽い頬へのキスは、さらなる刺激を求めさせる効果しかなかった。
かずさ「それだけか?」
春希「おはようのキスだろ? だったら、これでいいんじゃないか?」
かずさ「そうかもしれないけど、さっきは違うところにしてくれようとしてたじゃないか」
春希「さっきは、さっきだ。
それに、未遂だから、どこにキスしたかなんて、確定していないだろ」
かずさ「いいや。口にしようとしていた」
春希「それは推測だろ? もしかしたら、鼻かもしれないし、おでこだったかもしれない」
かずさ「むぅ~・・・」
屁理屈で武装しだした春希には、あたしの全面的な我儘攻撃でしか突破できない。
ただ、今それをやるべきか?
あたしとしては、心地よい目覚めからの余韻たっぷりのキスを求めただけなのになぁ。
かずさ「もういいよ。・・・このタオルケットは、春希がかけてくれたんだろ?
ありがとう」
春希「コンサートも迫ってるしな。ここで風邪をひかれちゃ、頑張って仕上げた仕事が
吹き飛んでしまうからな」
かずさ「それだけか?」
春希「もちろん、かずさに風邪なんて、ひかせないよ」
かずさ「だったら、ベッドの上で裸のままにするなっていうんだ」
春希「それは、かずさが服を着ないからだろ。
俺が着させようとすると、いつも文句を言ってくるのはかずさの方じゃないか」
かずさ「それは、春希が悪い」
春希「なんでだよ」
かずさ「余韻っていうものを、春希はわかっていない」
春希「かずさほどじゃないけど、俺も大切にしてるよ。
でも、ほっとくといつまでも俺に絡みついたままじゃないか」
かずさ「それも春希が悪い」
春希「なんでだよ。それこそ言いがかりじゃないか」
かずさ「違うって。春希の温もりから離れられないんだって。
春希の心臓の音を聞いていると、心が落ち着くんだって。
だったら、春希から離れられなくなるのが当然だろ」
春希「なんだか赤ん坊みたいな感覚なんだな」
ん? 赤ん坊が母親の鼓動を聞くと、ぐっすりと寝てしまうっていうやつか?
たしかに近い感覚かもな。
春希を感じられると、心が蕩けてしまうものな。
かずさ「でっかい赤ん坊で悪かったな」
春希「悪いなんて、一言も言ってないだろ」
かずさ「そうか? なら、いいけど。
・・・・・・・なあ、春希」
春希「ん?」
かずさ「春希もさ、寝るんだったら、ベッドで寝ればよかったんだよ。
テーブルで寝てたんじゃ、疲れが取れないだろ」
春希「寝る予定じゃなかったからな」
かずさ「だったら、あたしにだけは甘えていいんだからな。
疲れているんなら、デートの約束をしていても、寝てもいいんだからな」
春希「今度からは、そうさせてもらうよ」
かずさ「うん。・・・でも、春希はわかってない」
春希「かずさ?」
かずさ「デートなんかよりも、春希が健康で、元気にあたしにかまってくれるのが
一番大切なんだからな」
そうだよ。デートなんて、べつにどうだっていい。
外に食事なんて行かなくたって、春希が作ってくれる料理が最高なんだぞ。
そういうところが、春希は全くわかっていない。
春希「ありがとう、かずさ」
かずさ「うん、・・・・・・でも、でも、春希は全くわかってない」
春希「まだあるのか? この際全部まとめていってくれよ」
かずさ「キスだ」
春希「キス? キスだったら、さっきしたじゃないか」
かずさ「違う。あたしが頬にだけで満足できるわけないじゃないか」
春希「それは、だな・・・」
かずさ「なんだよ?」
春希「かずさは、フライングで俺の頬にキスをしたろ?
俺の頬へのキスは、その返事っていうか、そんな感じなんだよ。
だから、口づけをかわすのは、デートに行ってからにしようかなと思ったんだよ」
春希の衝撃的な告白が、あたしの体をぶるっと震わせる。
春希の動きがスローモーションどころか、
あたしの体が100倍速で動きだしそうな勢いであった。
だって、春希は、あたしが12時にこの部屋に来た時、起きてたって事だろ。
いつから起きてたんだよ。このポーカーフェイスめ。
だったら、あたしが、春希の寝顔に見惚れていた事も、
春希の頬にキスした事も、
口にキスしようとしてできなかったことも、
そして、寝顔の写真を撮りまくってコレクションを増やしていた事も
全部知っていたってことか?
・・・・・・逃げ出したい。いや、逃げるとしても、春希の胸の中って決めているんだから、
このままひっついていればいいか・・・。いや、よくないだろ。
かずさ「どこから起きてた?」
春希「どこからって、かずさがこの部屋に来た時から・・・かな」
かずさ「それって、最初からって事じゃないかっ」
春希「まあ、そういうことに、なるかな」
かずさ「だったら、寝たふりなんてしないで、起きてくれればよかったじゃないか」
春希「そうなんだけどさ、ちょっとした好奇心?」
かずさ「ちょっとした好奇心でも、そんなことするなよ」
春希「悪かったって」
かずさ「全く反省してないだろ?」
春希「してるさ。それに、半分寝ぼけていたっていのもあるんだから、仕方ないだろ。
・・・・・あと、スタジオの機材を積極的に覚えようとした理由もわかったし、
目的がどうあれ、仕事にいかされるんなら文句はないよ」
かずさ「っつぅ・・・・・・・」
体が焼けるようにに熱い! 体中の血液が沸騰して、皮膚が真っ赤に染め上がっているはず。
それなのに、体は凍りついたまま、動けないでいた。
春希「かずさ?」
あたしが体を硬直させていると、春希はあたしが困り果てていると察してくれたのだろう。
そっとあたしの体を引き離すと、デートに行こうと準備を始める。
春希「ほら、デートに行くぞ。俺も楽しみにしてたんだから」
行動目標を決めた春希の行動は早い。テキパキとテーブルの上を片付けると、
出かける準備をすべく部屋から出ていこうとする。
かずさ「春希っ」
とっさの行動で、自分でも何をしたかったのかわからないけど、
春希がこの部屋から出したくないって事だけは理解できた。
春希「かずさぁ。ちょっと、重いって」
かずさ「重いっていうな。これは、幸せの重みだ」
あたしは、春希の行動を止めるべく、春希の背中に飛びついていた。
春希もいきなりでおどろいたものの、あたしが振り落ちないように
絡みついた足を丁寧にすくい上げると、しっかりとおんぶをしてくれる。
だから、あたしもそのお手伝いとして、春希のお腹に足をまわしてがっちりと挟み込む。
春希「これじゃあ、動けないって。危ないだろ」
かずさ「だったら、春希がしっかりあたしを支えていればいいんだ」
春希「もうやってるって」
かずさ「春希が悪い」
春希「またか? 今度は何が悪いんだ?」
かずさ「あたしは、デートがしたいんじゃない。春希と一緒にいたいだけなんだよ」
春希「か・ずさ・・・」
かずさ「それに、外に行くよりも家の中の方がいいんだ。
だってさ、外だと、あたしがひっつこうとすると、春希は照れて嫌がるだろ。
でも、家の中だと、春希はあたしの我儘を聞いてくれる」
春希「いやいや。外でもひっついて離れないだろ」
かずさ「それでも十分に自重してるんだよ。
・・・・・・それに、春希はわかっていない」
春希「今度は、何がわかってないんだ?」
春希は、別段怒っている風でも、呆れているわけでもない。
優しく微笑みかけてくれるから、あたしは心から甘えられる。
だから、春希は、あたしのことを誰よりもわかっている。
かずさ「デートまで、キスの「待て」は、我慢できない。
あたしがいつから「待て」を喰らっていると思っているんだ。
一週間だぞ。一週間も待っているのに、それなのに、さらなるお預けを
するだなんて、あんまりじゃないか」
春希「それは・・・」
かずさ「そりゃあ、さ。春希のためだったら、何時間でも、何日でも、何年でも
待っていられる自信がある。
でも、今回の「待て」は、春希の為のものじゃない。
春希の思い付きで、しかも、あたしを虐める為の「まて」にすぎないじゃないか。
そんな「待て」を命令するだなんて、あんまりじゃないか」
春希「そんなつもりで言ったんじゃ・・・」
かずさ「わかってる。わかってるけどさぁ。
・・・それでも、それでもあたしは、一刻も早く、春希に構ってもらいたいんだ」
そこまでしか、あたしの理性は保てなかった。
春希の自由を奪っていた足を離すと、その背中から降り立つ。
でも、すばやく春希の前に回り込むと、再び春希を拘束した。
かずさ「春希が悪いんだからな。春希がわかってないから悪いんだ」
一週間貯め込んだ春希欲を解放させたあたしは、ここまでの記憶しかない。
あとは、キスを繰り返したっていうところまでは、なんとなく覚えているけど、
昼食? いや、夕食とデートは、延期だな。
あとで、夜食を作ってもらえばいいや。
春希は、わかっていない。あたしの春希欲は、まだ始まったばかりだということに。
春希が悪いんだ。一週間もあたしをほうっておいたから、こんなにも甘えてしまう。
つまりあたしは誰よりも春希を愛している。
『その瞳に映る光景~かずさの場合』・・・・・・・・・終劇
『麻理さんと北原』
開桜社NY支社にほど近いマンションの一室。
さすがマンハッタンにあるということもあって家賃が高い。
しかし、通勤時間を考えると会社に近いほうが便利ということもあって
小さいながらもマンハッタンに居を構えている。
その辺は、居住者たちの性格が反映されていた。
夕食というには、まだ早い時間。
しかし、朝食をとった時間を考えれば、・・・・・・、というか、
昼食をとった時間を考えれば、ほどよい時間といえる。
日本であっても、NYであっても、決まった時間に食事を取れることなんかない。
春希「麻理さん。もう少しで食事の準備ができますから、食器用意してもらえます?」
麻理「あぁわかった。こっちもきりがいいから、
・・・・、って、もう少し待ってくれる?」
春希「いいですよ。そっちやっちゃってください。
食事の準備できましたら、呼びますから。」
麻理「すまないな。」
春希「お互いまさですよ。」
食事にかぎらず、掃除、洗濯、家事全般に関して、最初は時間があいている方が
やるという取り決めをしたが、結局は、麻理に時間の余裕があるわけもなく、
春希がほぼすべてをやることになった。
それでも、麻理は時間があれば家事を手伝ってくれる。
ただ、一人でやったほうが効率がいいのだが、その辺は
二人でやったほうがいちゃいちゃしながらやれるので、問題ない。
というか、普段の仕事べったりの日常を考えれば、
家事も一種のコミュニケーションといえよう。
料理が完成し、ワインの準備でもと考えていたら、麻理がやってきた。
麻理「なあ、北原。」
春希「なんです? なにか問題でもありましたか?」
麻理の真剣な表情をみると、いつもの条件反射で自分も仕事モードに
切り替わっていく。
麻理「そういうわけではないんだけど・・・・・。
いや、問題がないってわけでもないというか。」
しかし、いつもの麻理とは違い、歯切れが悪い。
仕事モードも、ゆっくりとリラックスモードに落ち着いてくる。
春希「・・・?」
落ち着かない麻理を見ても、どう反応すればいいかわからず、首を傾げるしかない。
麻理「あのさ・・・。その。」
春希「どうかしましたか? まさか、なにか大きなトラブル発生ですか?」
麻理「いや、そういうのではないんだ。いたってプライベートなことで。」
しばらく同じようなやり取りを繰り返すことしかできず、
普段の麻理との違いに困惑するしかない。
いつまでもこんな押し問答をやっていてもしょうがないと思い、
おもいきって切り込んでみると、
春希「麻理さん。はっきり言ってください。何を言われても驚きませんから。」
麻理「いやさ、、、、でも」
麻理の様子から、ある一つの結論が思い浮かぶ。
それだったら、切り出しにくいはず。
春希「もしかして、・・・・・別れ話ですか?」
麻理の顔から血の気が消えたかと思ったら、
一瞬で取り乱したようで必死に否定してくる。
麻理「な、な、な、なななななな、、、何を言ってる。
別れるなんてあるわけないじゃないか!」
春希「でも、なかなか話を切り出せないところをみると、そう考えるのが妥当かと。」
麻理「それは、ぜったいに、ない。」
両腕をつかまれ、麻理のその必死で訴えかけてくる目をみれば、嘘とも思えない。
というか、腕が痛い。
マジで痛い、痛い、痛いったら!
爪が食い込んで、おそらく血も出ているはず。
それに、顔が近い。
今にも泣きそうな顔が目の前にある。
最初は涙目のようだったが、今はしっかりと涙が見えていた。
そして、腕の痛みなのか、麻理の顔を迫力なのか、それとも、その両方かもしれないが
自然と自分の重心が後ろに傾いていく。
麻理の最大級の必死さが伝わってくるが、その辺はあえて言わないでおこう。
ただ、そっと腕を離してもらったが、腕の爪の跡がずきずきと痛んだ。
春希「だったら、なんなんです?」
麻理「いや、そのな。」
ここまできてもはっきりしない。だから、つい強く出てしまう。
春希「はっきりしてください。」
こちらの顔をみて、これ以上は引き延ばせないと観念したのか、
一つため息をついてから、語りだした。
麻理「この前佐和子が来ただろ? それで、帰る時言われたんだ。
相変わらず北原だなって。」
春希「それは、まあ、日本にいた時と代り映えしないってことですかね?
もう少し仕事もできるように・・・。」
麻理「いや違う。そうじゃないんだ。」
春希「え?」
麻理「私のお前に対する呼び方が相変わらず「北原」だなって。
それに、お前も私のことを「麻理さん」っていうだろ。
だから、・・・・・いまだに名前を呼び捨てで言い合わないんだなって。」
最後の方はだんだんと小さな声になっていったが、かろうじて聞きとることはできた。
麻理さんの顔を見ると、これでもかっていうくらい顔が赤くなっている。
それにしても、名前の呼び方以上に恥ずかしい行為を夜に色々してきているのに
名前の呼び方でこうまで照れるとは。
春希「別に、人それぞれじゃないですか?
俺は、麻理さんに「北原」って呼ばれるの好きですよ。
ずっと「北原」でしたし、いろんな思い出もありますし。」
麻理「私もそう佐和子に言ったさ。でも、・・・佐和子のやつ。」
佐和子さんに言われたことを思い出したのか、表情が愚痴モードになりつつある。
それだけ気を許した相手ともいえて、ほほえましく思えるが、
それを今指摘すると、話が脱線する上に、
お小言が長時間続きそうなので言わないでおこう。
麻理「佐和子のやつは、私とお前に壁があるっていうんだ。
そんなのはないっていってるのに、・・・・そしたら、
そしたら・・・・・。」
どうも禁句を言われたらしく、愚痴モードから怒りモードに切り替わりそうだったので
話を進めるようにうながす。
春希「それで、なんて言われたんです?」
麻理「年の差のせいだって。」
自分でも言いたくなかったのか、今はしゅんとなっていて、かわいい。
春希「それは、佐和子さんがわざと言っただけですよ。
麻理さんをけしかけようとしただけといいますか。」
麻理「そうだよな。・・・・うん、やつはそういうところがあるからな。」
ぱっと明るい表情に切り替わったところを見ると、年齢問題はどうにか
麻理さんの中で処理できたらしい。
たしかに年齢差はあるけど、俺としては麻理さんが思ってるほど
気にはしていない。
俺が早く麻理さんの隣に立てるだけの男になればいいだけで、
今では年齢が直接問題になるとは思えないでもいる。
それでも、女性としては、年齢問題は重要らしいので、
その辺の扱いの距離感はつかめてきたと思う。
春希「麻理さんは、「春希」って呼びたいんですか?
俺としては麻理さんが好きなように呼んでくれればいいと思いますよ。」
どうもこの答えはご不満らしく、何も言ってこない。
春希「はぁ・・・・。麻理さんは恋人なんですから、
自分のかわいい彼女が親しみをこめて呼んでくれるんなら
なんだっていいんです。
俺は、麻理さんが俺の名前を呼んでくれるという行為の方に
意味があると思ってるんですから。」
まだ納得はしてはいないらしいが、どうにか合格点らしく
やれやれといった表情で答えてくれた。
麻理「お前らしい回答だな。
でも、女心は分かってないから、再度検討しておくように。
・・・・・・・・・・それから、
それとな・・・・・・・・・・・・・、
は、は・・・・はる。」
ピピピピピ ピピピピピ ピピピピピ・・・・・・
けたましくなり響く携帯の着信音で会話は中断された。
素早く麻理が携帯を確認すると、仕事モードの顔つきになり携帯にこたえる。
麻理「Hello? This is KAZAOKA speaking.」
やはり仕事の連絡らしく、麻理は仕事部屋に行くと、しばらく戻ってこなかった。
麻理「悪い。ちょっと私じゃないと対応できないみたいだ。」
春希「食事をする時間もないですよね?」
麻理「すまない。」
春希「大丈夫ですよ。遅くなりそうですか?」
麻理「わからないけど、たぶんそうだろうな。だから、悪いけど一人で食べてくれ。」
そう連絡事項を伝えると、着替えに行ってしまった。
これがいつもの日常とはいえ、やはり麻理も久しぶりのゆっくりとした食事という
こともあって、残念そうだった。
顔には見せないではいるが、一緒に生活していくうちに、なんとなくだが
麻理の心はわかるようにはなっていた。
仕事とプライベートの切り替え。たしかに仕事ができる大人の対応だけど
それを繰り返すうちに、擦り切れて何も感じないようになってほしくはなかった。
もちろん俺も仕事とプライベートの切り替えは、しっかりできる。
でも、だからといって、日々のメンテナンスとして、心の安らぎは必要だと思う。
俺は、麻理さんの安らぎになっていきたい。
数分のうちにスーツに着替え戻ってきた麻理は、
そのまま足早に出かけようとしていた。
春希「ちょっと待ってください。これ持っていってください。」
麻理「これは?」
春希「弁当ですよ。どうせ、どんなに遅くなっても食事はすることになるわけですし、
もし必要じゃなくても持って帰ってくればいいだけですから。」
麻理「・・・ありがとう。」
ちょっと意外だったのか、面をくらったような表情だった。
たしかに今まで、こんな風に弁当を渡したことはない。
だたそれは、今みたいに食事の準備をしていて、弁当の準備ができるタイミングの
ときがなかっただけすぎない。
いつだって、麻理さんの力になりたいという気持ちはあるのだ。
春希「さ、急いでください。」
麻理「そうだな。お弁当ありがたく持っていくよ。」
そう言うと、弁当を鞄にしまい、そして、玄関のドアを開けようとした。
春希「頑張ってきてくださいね。麻理。」
麻理「ああ、がんばってくるよ。・・・・え?」
ドアを半分ほど開けたところで動きが止まる。
そして、ゆっくりとこちらのほうに振り返ってきて、
さらにゆっくりと顔をあげてこちらを見上げる。
麻理「えっっと、「麻理」って言ったよね?
聞き間違いってことは。」
どうも現実を受け入れられていない様子であった。
麻理さんの脳の処理速度は、限界まで減速しているらしい。
もしかしたら停止寸前かもしれない。
春希「間違いじゃないですよ。」
ちょっといたずらをしたくなって、麻理さんが望んでいる言葉をあえて言わないで
おきたくなる。
麻理「だから、その。今、呼んだよね?」
上目遣いで、言ってほしい言葉を求める視線を送ってくるが、
それがかえって顔がにやついてきてしまい、さらに言葉にしたくなくなる。
麻理「嫌なやつだな、お前って。ニヤついて。
ベットの上だけじゃ満足できなくて、ここでも私をいじめるんだな。」
これ以上じらしても麻理の機嫌を損ねるだけだし、
ご希望の言葉をささやくことにした。
春希「いってらっしゃい、麻理。
でも、行く前に、俺にも言ってほしい言葉があるんですけど。」
麻理「そうだな。」
ようやくお預けが解除され満足したのか、晴れやかな顔で囁いてくれた。
麻理「春希、いってくる。でも、春希のせいで5分だけ遅刻する予定だ。
5分くらいいいよな。ちょっとだけ春希を感じていたいんだ。」
そう言うと、きっかり5分だけ抱き合った。
『麻理さんと北原』・・・・・・・・・終劇
番外編 『世界中に向かって叫びたい』
1 かずさ マンション
マンションを見上げると部屋の明かりはついていない。
自分の部屋は見向きもせず春希の部屋のチャイムを鳴らすが
予想通り春希はいない。
鍵を開け、電気もつけず中に入る。
月明かりと街灯の明かりのおかげでうっすらと
部屋の中を見渡せるが、足元は危うい。
かずさ「っつ・・・。」
ローテーブルに脛をぶつけ、痛みが走る。
しかし、痛みを無視して、いないと分かっているはずの春希を探す。
探すと言っても、バス・トイレくらいしか他に探す場所もなく、
1分もかからなかった。
結わいていた髪をほどき、そのままベッドにダイブし、枕に顔をうずめる。
わずかに残った春希の匂いをかぎとれるが、満足できそうもない。
かずさ「春希。・・・・早く帰ってきてくれよ。
あたしを温めてよ。」
枕を抱え、しばらくゴロゴロしていたが、
かずさ「・・・・・うぐ!」
ベッドから落ち、涙で視界がかすむ。
壁にかかった時計を見ても、帰ってきてから10分も経っていないことに気が付き
さらに涙があふれてくる。
這いつくばって鞄を手に取り、携帯を取り出す。
慣れてた手つきで、この携帯の利用目的の9割を占める電話番号の短縮番号を押す。
5回、6回・・・・。
いつもなら、気にもしないコール回数。
でも、今日ばかりは長く感じられた。
春希「もしもし?」
かずさ「・・・春希。」
心を温めてくれるあいつの声を数時間ぶりに聞けた。
たった数時間しかたってないのに、何年も聞いていないようにさえ思えてくる。
春希「もう帰ったのか?」
かずさ「・・・・・・。」
なにかよそよそしさを感じる春希の対応に不安を覚える。
もしかして、もしかしないよな?
でも、雪菜が、・・・春希にあの後電話して会う可能性も・・・・・。
春希「もしもし?」
かずさ「・・・・・・・。」
春希「何かあったのか? 今すぐ戻るから。」
春希の声に焦りが混じる。
かずさ「いや、こっちは大丈夫。もしかして、まだ職場?」
春希「今、職場の先輩が送別会してくれているんだ。」
申し訳なさそうに春希が答える。
雪菜ではないようで、安心してしまう。
かずさ「そっか。ゆっくりしてこいよ。」
心にも思ってない言葉が形になる。
今すぐ抱きしめてほしいのに。
携帯を握る手に力が入る。
春希「ありがとう、かず・・・・。」
同僚の耳を気にして、名前が途切れてしまうことに、身勝手な怒りを覚える。
あたしは、ばれたっていいのに。
ううん。
大声であたしが春希の彼女だって叫びたいのに。
かずさ「一応聞いておくんだけどさ。もしものときのためにさ。」
春希「なんだよ、あらたまって。」
かずさ「春希どこにいるんだ? ほら、飲んでるみたいだし、もしもの為に。」
声が震えそうになるのを、必死に抑える。
春希の様子をうかがおうと、耳に携帯を力づよく押し当ててしまう。
春希「えっと。御宿駅新南口から、ドーナツ屋通って、陸橋渡ってすぐのビルだよ。」
かずさが分かるように、目印になるものを指示してくる。
酒で酔っている口調だけど、春希らしい対応に心が躍る。
かずさ「わるかったな。楽しんでるところに電話して。」
春希「いいよ。」
かずさ「おやすみ。」
春希「おやすみ。」
春希が通話を切るのを確認してから、かずさは携帯を下した。
2 春希 バー
松田「それでは、北原の新しい門出を祝して!」
鈴木「かんぱーい。」
今日何度目になるかわからない乾杯が行われる。
鈴木さんは、松田さんの音頭にあわせて楽しそうにグラスを掲げる。
木崎「乾杯。」
木崎さんは、さすが大人といった雰囲気だが、小さくグラスを掲げるところは
最後まで付き合う気配を感じ取れる。
春希「ははっ。・・・ありがとうございます。」
俺も何度目になるかわからない感謝の言葉を伝える。
何度だって伝えたかった。
一万回ありがとうっていっても、俺の感謝の気持ちを伝えられるとは思えない。
それだけ、今日集まってくれたことに感謝していた。
鈴木「いつまでたっても、かたいよなぁ。今日くらい無礼講で。」
春希「十分打ち解けていますよ。ほんと、自分にはもったいないくらい。」
鈴木「ほ~ら、そういうところが堅いんだって。」
数年かけて築き上げた信頼を、たった数日で崩壊させた俺を、
まだ仲間だと思ってくれている。
すでに決壊している涙腺から、涙があふれてくる。
松田「また北原を泣かせやがって。」
鈴木「しかたないでしょ。今日の北原君の涙腺ゆるゆるなんだもん。」
松田さんの追及に、自分の責任はないと訴える鈴木さん。
こんな光景も、もう見ることはなくなるんだな。
木崎「ほら、今日は飲んどけ。」
まだ半分以上も入っているグラスに、ビールを注ぐ。
春希「はい。」
当たり前のように受け取っていた優しさが、心にしみる。
鈴木「それにしても、最後まで北原君のプライベートって謎だったよね。」
松田「ほんと、こいつ付き合い悪かったよな。」
春希「大学のほうも忙しかったですし。」
松田「大学なんて、適当にやっても就職できるって。
ほら、ここに見本がいるでしょ。」
鈴木「あまり、見習いたくない見本ね。」
松田さんの自虐ネタと、それを煽る鈴木さんを見てるのが、
こんなにも心地いいんだって、今頃になって気がつくなんて、馬鹿だよな。
騒がしい二人を眺めていると、ふいに背中から覚えがある柔らかさと
香りが押しつけられた。
かずさ「春希。」
さらに、俺が愛する声が重なる。
首に抱きつき、ほほを合わせてくるかずさに視線だけ向けて、
その存在を確認する。
間違えるはずもなく、かずさだった。
春希「ど、・・・・ど・ど・ど、・・・どうして?」
俺と同じように松田さんたちも、思いがけない人物の登場になにもできないでいる。
かずさ「どうしてって? それは・・・・。」
かずさが俺の目を覗き込む。
すでにかずさの右腕が俺の胸に回され、抱きしめられている。
それだけではあきたらず、テーブルにあった俺の左手にかずさの左手が重なり、
指をからめてくる。
かずさ「会いたかったから?」
春希「なんで疑問形?」
かずさ「じゃあ・・・・・、う~んと、本当のこと言ってもいいのか?」
かずさの目から怪しい光がさす。
春希「それは、なしでお願いします。」
本気で何を言ってくるかわからない。
いや、わかっている。だけど、こんな場所で、何を言い出すか想像したくなかった。
過激すぎるから。
かずさ「じゃあ、罰として、このままでいさせろ。」
当然の権利だとばかりに、俺を抱きしめる腕の力が強くなる。
春希「それって、罰じゃないだろ?」
むしろ、俺が望んでること。
かずさ「そっか。」
春希「そうだよ。」
かずさ「喉乾いたな。走ってきてやったんだ。
それ飲ませろ。」
かずさが俺のビールに視線だけ送って、要求してくる。
春希「かまわないよ。」
かずさ「・・・・・・・・・・・。」
不機嫌そうな顔が俺に押し付けられる。
春希「飲んでいいって。」
かずさ「あたしは、手が、つ・か・え・な~い。」
春希「手って?」
たしかにかずさの手は、俺を抱きしてるためと、手を握るために使用中。
かずさ「使えないなぁ。」
甘い声が、俺を誘惑してくる。
春希「俺に飲ませろと?」
かずさ「ぶぶ~。」
春希「どうしたらいいんだよ。」
面白いいたずらを見つけたかのような目をして、俺を陥落してくる。
すでに陥落しかかってるけど。
かずさ「半分正解で、半分不正解。」
春希「もしかして・・・・?」
かずさ「口移しで。」
やはり俺はかずさに陥落されてしまっている。
右手でグラスを取ろうと手を伸ばす。
鈴木「ストーーーーープッ!」
バー中に響く声が俺を正気に戻してくれる。
鈴木「なにやってるの? というか、冬馬かずさよね?
なんで、ここにいるの?」
松田「北原、説明しろよ。って、なんなんだよ。
もしかして、付き合ってるのか?」
バーにいた人全員が疑問に思っていることを、代表者のごとく質問攻めしてくる。
鈴木「ほら、私たちがわかるように説明しなさい。」
松田「そうだ。こんなうらやましい・・・、いや、大スクープ隠しやがって。」
可動範囲がかずさによって制限されている首を回し、店内を見渡す。
正面切ってこちらをのぞいてくる客はいなかったが、
耳だけはこっちに集中していることだけは理解できた。
木崎さんは、何も言えないでいるが、俺への追及は鈴木さんと松田さんに
任せたといった感じである。
そして、かずさは。
かずさ「ほら、説明しろ。」
楽しそうに、俺にしがみついたまま甘えてくる。
頬から伝わる外気で冷やされたかずさの頬が心地いい。
かずさ「その前に、喉乾いたんだけど?」
春希「少しは場を考えてくれよ。」
かずさになにがあったか、俺には分からない。
でも、俺を求めてくれていることだけはわかった。
だったら、こんな騒ぎの処理くらい、これからも、何度だって処理すればいい。
春希「もういいよ。で、どうしたんだよ?」
かずさ「ちょっと、世界中に向かって叫びたくなっただけだ。」
春希「それは奇遇だな。俺もちょうど叫びたくなってたんだ。」
かずさ「似たもの夫婦だな。」
なにかをふっきったかずさの笑顔がまぶしかった。
追伸
朝まで皆にかずさについて聞かれ、翌日の夕刊一面を飾ったことは余談である。
3 春希 バー
時計を見ると、もうすぐ始発電車も動き出す頃だ。
かずさは、俺の隣に席を用意してもらい、俺の手をにぎったまま鈴木さんに
開桜社での俺について聞いている。
最初は警戒していたかずさも、鈴木さんの人懐っこよさに警戒心をとき、
だいぶ打ち解けた様子であった。
松岡さんは、まあ・・・・、俺より下の存在と認識されてしてしまったようだ。
木崎さんについては、木崎さんの方が恐縮してしまって、あまり話せてはないけど、
うまくいってると思う。
俺が必要以上に警戒してしまったのかもしれない。
俺がもっと柔軟に対応できていれば、かずさを追い詰める必要もなかったと思え、
胸が苦しくなる。
鈴木「でね、その麻理さんっていうのが、北原君の上司だったんだけどさ。
ああ、そっか。麻理さんが、冬馬さんの記事を書けって、
北原君を任命したんだよ。」
どうやら、ここにはいないNYの麻理さんにまで話題が及んでいるみたいだった。
鈴木さんの声をBGMにして、かずさを眺めながらグラスを口につける。
しかし、急に握られていた手に力が込められ、現実に引き戻された。
春希「痛いって。」
かずさをみると、目が据わっている。
さっきまで、あんなにニコニコしていたはずなのに、どうして?
不機嫌になった原因がわからず、その原因になりそうな一番の要因に視線を向けると
鈴木さんは手を合わせて、全然反省していない謝罪を送ってくる。
さっきまで麻理さんについて話してたから、麻理さん関連だと思うけど・・・。
春希「かずさ。どうしたんだ?」
かずさ「・・・・・・。」
かずさは、何も答えず顔を背けるだけだった。
しかし、テーブルの下で握られている手の握力は弱められはしたものの、
はなされないところをみると、どうにか改善の余地は残されているらしい。
春希「ちゃんと言ってくれないとわからないだろ?」
なるべく刺激しないように尋ねる。
かずさ「春希は、麻理さんって人と、とっても仲がいいみたいだな。」
やはり麻理さん関連だった。
何をかずさに吹き込んだかわからないけど、相当でかい爆弾を仕込まれたらしい。
身内であるはずの鈴木さんに。
春希「バイト時代に世話になった直属の上司だよ。」
かずさ「それは知ってる。」
春希「それだけだって。」
かずさ「公私にわたって世話になってたらしいな。」
握られていた手に鋭い刺激が走る。
かずさの指が立てられ、爪がゆっくり食い込んでくる。
改善の余地はないかもしれない。
せめて、執行猶予だけは勝ちとらねば。
春希「別にやましいことなんて、一つもない。」
被告人としては、無実を訴えたいところだが、かずさ裁判官に対しては
心証を悪くする行為にしかみえない。
だけど、無実なのだから、他に言える言葉もなく・・・・。
かずさ「それだけか?」
冷酷な裁判官は、死刑を選択したいらしい。
春希「鈴木さん。何を吹き込んだんです?」
鈴木「吹き込んだなんて。あった事実をそのまま教えただけだって。」
俺が裁判官だったら絶対に証拠採用しないだろう証人が心外だという顔をみせる。
傍聴席の松岡さんからの野次は、この際無視して、目の前の裁判官に意識を
集中させる。外野が何を言ったって構わない。
この裁判官さえどうにかすれば・・・・・、
かずさ「春希が、麻理さんにとても世話になったのは事実だろ?」
春希「それは事実だけど。」
鈴木「プライベートでもね。」
春希「そこ! 口を挟まない!」
証人の容赦ない証言が、俺の立場を回復させてくれそうにない。
かずさ「じゃあさ。プライベートで話一つもしたことはないのか?」
春希「あるけど・・・。」
かずさ「プライベートで会ったことは?」
春希「プライベートっていうか、食事に行ったり、飲みに行ったりとかは。」
かずさ「ふぅ~ん。それって、公私にわたってっていうんじゃないか?」
いまや立場が逆転してしまっていた。
いつもは俺の方が理詰めで話しているのに、今はかずさの方が理詰めで俺を追い詰める。
春希「でも、仕事のあとに食事に行くことってあるだろ?」
松岡「俺が誘っても、いつも断るくせに。」
春希「だから、松岡さんは黙っててください。お願いしますから。」
まじでお願いします。
このままだと、本当に死刑宣告されてしまう。
鈴木「だったらさ、麻理さんに電話してみようよ。」
自分の顔が青ざめていくのがわかる。
かずさの手を握る手に力が入らない。
でも、かずさの温もりを感じているってことは、
かずさが俺の手をはなしていないことの裏返し。
もし、この手が離される事態になったら。
それだけは、考えたくなかった。
ちゃっかりとかずさから携帯を借りて国際電話をかける鈴木さん。
このあとどうなるかわからない事態だから、さすがに自分の携帯を使おうなんて
考えてはいないようだ。
俺もどうなるかわからないのに、国際電話に自分の携帯を使おうなんてしたくない。
いや、それで許されるんなら、喜んで携帯を差し出したいが。
鈴木さんが、自分の携帯から麻理さんのアドレスを呼び出し、
番号を確認しながらダイヤルする。
春希「今仕事中だから、迷惑じゃ・・・。」
鈴木「大丈夫だって。麻理さんが仕事していないときなんてないんだから。」
それはそうなんだけど。麻理さんも忙しければ、電話を断るはずだ。
呼び出し音が鳴り、2コール目で麻理さんが出る。
携帯から懐かしい声が漏れて聞こえる。
と、顔がわずかに緩んでしまったのか、残酷な裁判官は強く手を握りつける。
かずさの顔を見ようとしたが、こちらを見てはくれなかった。
鈴木「麻理さん? 開桜社の鈴木です。お久しぶりです。」
麻理「なんだ。鈴木か。知らない番号だったから。」
鈴木「すみません。この携帯借りものなので。」
麻理「借り物の携帯で、国際電話かけてくるなんて。」
苦笑いをする麻理さんの顔が浮かんでくる。
鈴木「その辺は、大丈夫ですって。了解取ってますんで。
他のみんなもいるんですよ。」
松岡「お久しぶりです。」
木崎「元気にしていますか? 木崎です。」
鈴木さんが、携帯をスピーカー対応にして、皆の中心におく。
麻理「私は元気にやってるよ。木崎も元気にしてるか?
それと、その声は松岡だな。」
松岡「そうで~す。」
麻理「相変わらずだな。」
麻理さんも、久しぶりのメンツの声が聞けて、声が弾んでいる。
鈴木「今日は、スペシャルゲストがいるんですよ。」
麻理「どうせ、北原なんだろ?」
鈴木「よくわかりましたね。」
麻理「お前のすることだからな。」
春希「お久しぶりです。」
麻理「お前の噂は、ちょくちょく聞いているぞ。」
春希「どんな噂か怖いですね。」
麻理さんの笑い声が、スピーカーから広がる。
鈴木さんは、私の言う通りでしょっていう顔を見せているが、
いまだかずさの顔は見れていなかった。
かずさが俺の手を握る力が弱まっていく。
しかし、顔を見せてくれないかずさを安心させるために
俺の方から力を込めると、かずさもそれに応じて、いくばくか力を入れる。
鈴木「麻理さ~ん。今日はもう一人スペシャルゲストがいるんですよ。」
麻理「この流れからいうと、浜田じゃないか?」
鈴木「違いますよ。浜田さんは、今日のスポンサーだけど、来ていません。」
麻理「それじゃあ、佐和子とか?」
麻理さんが正解を導くことなんて、できやしない。
3年前、少し話題にはなったけど、そこからかずさを想い浮かべることなんて不可能だ。
鈴木「麻理さんも名前だけは知ってますよ。
しかも、もうすぐ「北原夫人」になるかたです。」
麻理「そいつは・・・・。」
麻理さんの声が弱くなっていく。
鈴木「正解は、冬馬かずささんでーす。」
能天気な声がバーに響く。
今すぐ立ち去りたい。欠席裁判でもかまわなかった。
でも、かずさだけは、連れ帰るけど。
麻理「冬馬・・・、かずさ。」
麻理の小さなつぶやきを、携帯のマイクが拾う。
かずさ「冬馬です。」
お互い落ち着いた口調で挨拶をはじめる。
麻理「初めまして、風岡麻理です。」
かずさ「初めまして。」
麻理「ご結婚おめでとうございます。で、いいのかな。」
かずさ「いや、まだ結婚したわけじゃ。」
麻理「そうなんだ。でも、いずれはって感じ・・・なんでしょ?」
かずさ「そう・・・・だと思う。」
探り探りの会話を聞いていると、胃が痛くなってくる。
外野のギャラリーといえば、好奇心丸出しで聞き洩らさないように、
耳を携帯に近付けている。
麻理「そっか。」
かずさ「はい。」
かずさは、どう思ってるんだろうか?
麻理さんから話を聞きたかったんだろうか?
それとも、俺の所有権を確認したいだけだったか・・・。
それっきり麻理さんから話しかけることもなく、沈黙が続く。
鈴木さんでさえ、話に割り込む勇気がなく、傍聴人になりさがっている。
春希「麻理さん。」
麻理「ひゃい・・・・。なんだ・・・、北原。」
裏返った返事が聞こえてくる。やはり麻理さんも緊張している。
春希「今度、かずさと二人で、NYに挨拶に行きます。
麻理さんに、かずさを紹介したいんです。
きっと麻理さんなら、かずさと仲良くなれると思いますよ。」
麻理「そうか。楽しみにしてるよ。・・・・・待ってる。」
春希「はい。」
かずさ「・・・・・。」
やっと俺の方を見てくれたかずさの顔は、涙が目からあふれそうだったけど、
俺のことを信頼してくれて、全てを捧げてくれる、あの笑顔をしていた。
麻理「本当に結婚するんだな。」
春希「はい。かずさと結婚します。」
麻理「おめでとう。」
春希「ありがとうございます。」
麻理「・・・・・・・・・・・。」
春希「麻理さん?」
今度の沈黙は、爆弾発言によって、締めくくられた。
麻理「北原!
ずっと好きだった。
それだけだ。
NYで待ってるからな。
絶対、絶対、来るんだぞ。」
そう言い残して、通話終了ボタンを押したようだった。
もうスピーカーからは、なにも聞こえてない。
隣のかずさを見るまでもなく、判決は想像できる。
だって、死刑判決しかありえないから。
証人や傍聴人を見る気力なんてない。
手に食い込むかずさの爪の痛みだけが、これが現実なんだって教えてくれた。
かずさ「なあ、春希。大丈夫だよな。」
俺とかずさを今までつないでいた手がほどかれる。
ついに見放されてしまった手を見つめると、いくつもの爪の跡だけが刻まれていた。
もう、かずさを感じる手段は、その傷跡のみ。
おそるおそるかずさの顔を確かめる。
春希「かずさ?」
かずさは、最初から怒ってなんかいなかった。
ただ、俺に見捨てられるんじゃないかって、おびえていただけ。
だって、こんなにも震え、まっすぐな瞳で俺を見つめている。
俺は、かずさを安心させるための言葉をかけて、抱きしめるだけでよかったんだ。
そんな単純なことを忘れるなんて。
かずさの頬に手をあて、指で涙をぬぐってやる。
恥ずかしそうに嫌がるかずさを無視して、両手でかずさの顔を包み込むようにして
俺に引き寄せる。
かずさ「なんだよ。」
春希「かわいいなって。」
かずさ「ふざけるな。」
ぐずった声さえも、愛らしく思えてしまう。
春希「ほら。」
かずさの手をとり、俺の腰にまわさせる。
もう片方の手もって引き寄せようとしたが、かずさは自分から俺に抱きついてきてくれた。
しばらく俺の首に頭をこすりつけてくるのを、くすぐったくも、うれしくも感じられた。
かずさ「・・・・ばか。」
数分、いや、20分は俺を堪能して満足したかずさは、腰にまわしていた手をほどき、
今度は俺の腕にからませ、身を寄せてくる。
かずさの臭いを俺に刷り込ませるように、しっかりと。
春希「俺には、かずさしかいないんだからな。」
もうわかりきった決定事項を再確認させる。
かずさ「わかってるけど、心配なんだよ。」
春希「ごめんな。」
かずさ「いいよ。
あたしが不安になったときは、
いつも側にいてくれるんだろ?」
春希「ずっと一緒だ。」
かずさの側を離れられないのは、俺の方。
不安に思ってしまうのも、俺。
俺たちは、似た者同士だから、永遠に離れられない。
かずさが不安だっていうんなら、何度でも不安をぬぐってあげればいい。
それと同じ数だけ俺もかずさに救われるんだから。
横を見ると、鈴木さんたちは既に帰ったあとだった。
書き置きのみ残して、さよならも言わずに。
北原君へ
私たちは先に帰ります。
支払いは、北原君もちっていうことで。
浜田さんから預かった軍資金は、
今度、婚約パーティーをやる為にとっておくね。
お幸せに。
それと、麻理さんへのフォローしっかりしておくように。
ほんとうに「書き置きのみ」しか置いていかなかった。
支払いをしなければ、今度の飲み会で使わなければならない。
さよならを言わなければ、もう一度さよならを伝えに行かなければならない。
鈴木さんたちらしい心遣いに、今日何度目になるか分からない感謝の言葉を
聞こえるはずもない人たちに向かって囁いた。
追伸
アメリカの翌日の朝刊・芸能面の片隅に、冬馬かずさ婚約の記事が小さく掲載される。
ネットでは、お祭り騒ぎだったみたいだが、見ないことにした。
『世界中に向かって叫びたい』・・・・・・・・・終劇
『心はいつもあなたのそばに
~white album 2 かずさN if(ver.手を離さない)プロトタイプ~』
かずさ 御宿 2/22金曜日
リポーター「こちら御宿駅前では、雪が本格的に降りだす前に帰宅しようと
する人々が増えてきました。
まだ雪は降り出してはおりませんが、
今にも降り出しそうな・・・・・・・・・・・。」
TVクルーが寒い中、放送に追われている。
ふだんならば、物珍しそうに眺める人が多いだろうが、雪が降り、
交通機関に影響があるかもしれないとあって、
立ち止まって場所占領するをTVクルーを
迷惑な訪問者であると思うものも少なくない。
みんな普段よりも早足でホームに消えていく。
一方、駅改札口から少し離れ、少し人が少ないところにいる二人を
気にする人物などほとんどいなかった。
それが、今注目の美人ピアニストであっても。
春希「お前が手を引けば、すぐに解ける。
お前は、どこへでも行ける。」
かずさ「・・・意地悪、言うなよ。
お前から、離してもらいたかったのに。」
春希「いや・・・だ。」
春希がやっと絞り出した声を聞くだけでも、自分の決心が揺らいでしまう。
本音を言えば、今すぐにでも抱きしめて、冷え切った体を、
そして、なによりも心を春希のぬくもりであたしを温めてほしかった。
それでも、
かずさ「あたしを、ふってほしかったのに、さぁ・・・。」
自分の本心とは正反対の言葉が続く。
春希「できるか、そんなこと・・・。」
かずさ「意地悪・・・。」
春希「どっちが、だよ・・・。」
春希は、自分から手を離してはくれない。
あたしが望めは、春希はきっとあたしの望み通り動いてくれる。
でも、あたしが動かなければ、春希は動けないままか。
それじゃあ、あたしが手を離すしか、ないじゃないかよ。
あっ・・・・。
最後にからまっていた一本の指がはなれていく。
それだけなのに、泣きだしそうになり、
手を離したその勢いで背を向ける。
春希の顔をもっと見ておけばよかったな。
決心が鈍りそうで、帰りの電車ではほとんど見てられなかったけど、
もう一生見られないんだから、目に焼きつくまで見ておけばよかった。
心が折れそうだ、春希。
春希が残した最後の手の温もりを胸にそっと抱きしめようとしたが、
かずさの心が反映したかのように、空が泣きだし、
彼の最後の温もりさえも奪い去ろうとする。
冷たい風がすべての温もりを消し去る前に、
なくさないようにポケットしまいこむと
ほんの少しだけれども、ほっとしてしまった。
それと同時に、背後にいたはずの彼の気配がないことも気がつく。
かずさ「・・・春希?」
もういないか。
かずさ「春希!」
振りかえると、春希は数メートル先をゆっくりと歩いていた。
かずさ「バイバイ。・・・・春希。」
聞こえないか。
コンサート絶対聴きに来てくれよ。
心だけはいつも春希の側にいるからさ。
そして、春希がいなくても、しっかり生きていけるって、証明してみせるよ。
あぁーぁ・・・、帰りたくないな。
とういか、どこに帰ればいいんだよ。今、帰る場所を手放したばかりだしな。
・・・・そっか、ウィーンに行けばいいのか。
そうだよ。今も昔もウィーンがあたしの帰る場所じゃないか。
でもさ、春希の温もりを知ってしまった今、
どうやって眠れない夜を過ごせばいいんだよ。
どうやってさびしい気持ちを乗り越えればいいんだよ。
もう残っているはずもないポケットの中にしまいこんだ春希の温もりを探すが
見つかるはずもない。それでも、かずさには、そこに温もりがあると思い込んだ。
不安な気持ちが近づいてくるのを振りきるために、必死に温もりを握りしめた。
なあ、春希。
教えてくれよ。
儚い想いが募るほど、切ない願いが手のひらからこぼれ落ちていく。
必死に集めたポケットの春希の温もりさえも夢であったと思える。
この今の現実の方が夢であったらと、願わずにはいられない。
雪が降り始め、空が白に覆い尽くされていき
かずさの夢と現実の境界が薄れていった。
それでも、最後の意地で泣き崩れはしなかったが
春希の前で見せなかった涙を止めることはできない。
声は届かないけれど、春希ならば、きっと、あたしを感じているはずだと
かずさは手を振り続けていた。
春希 御宿 2/22金曜日 同時刻
春希「・・・・っぁ。」
かずさは手を離すのと同時に、背を向けてしまい、
最後にもう一度顔を見たかったけど、それもかなわなかった。
かずさは、泣き顔さえも見せまいと隙をみせなかったのだから
それに従い自分もここを去るべきなんだろうな。
空を見上げると、雪がついに降り出してしまった。
ゆらゆらと歩きだしてはみたものの、どこへ向かえばいいかわからず、
急いでいる通行人には迷惑そうな顔を向けられるが、
春希にとっては、どうでもよいことだった。
かずさが去って、自分が帰る場所がなくなってしまった。
雪菜のもとには、もう戻れない。
重大な裏切り行為をしてしまったから。
5年前とは比較にならないほどの、大きな裏切り行為だ。
自分たちの大きな分岐点には、いつも雪が降る。
春希 成田空港 5年前
互いの体の感触を忘れまいと抱き合っていても、時間だけは過ぎ去る。
おそらく、今感じているかずさの感触は思い出すことなんてできないだろう。
きっと、第2音楽室に侵入しようとして落ちかけた時に支えてくれた手の感触、
初めてキスをした時の冷たい体と切ない表情、
そして、初めて抱き合った時の温もり。
今、必死にかき集めようとしている温もりなんて思い出すことなんてできないのに
それなのに、やめることなんて、できやしない。
かずさ「もう・・・時間だ」
春希「冬馬?」
かずさ「もう出発の時間。だから、行かなくちゃ」
春希「行くな!冬馬。・・・・・・いかないでくれ」
周りの見送り客に、必死に女にすがる情けない男と思われようとかまわない。
かずさを失いことに比べれば。
かずさ「そんな顔するなよ。笑って送ってくれよ。
ううん。いつもの説教している時の顔?
いや、まじめくさった面白くもない顔でもいいか?
まあ、・・・今みたいに泣いている顔じゃなければいいよ」
春希「お前も泣いているじゃないか」
なんとか言葉をつむぐかずさを見ると、自分の醜さを痛感して
かずさを引きとめる権利がないことを思い知る。
かずさ「仕方ないじゃないか。
どうしようもないじゃないか。
もう、会えなくなるんだから。
でも、・・・でも、最後が泣いている顔なんて、いやだ!
いやだよぉ。はるきぃ」
春希「ごめんな。かずさ。」
本当に謝罪すべき相手は、かずさではなく、雪菜であるのに
それさえできやしない。
この数カ月積み上げてきた雪菜に向き合う自信が崩壊し
雪菜の顔を見ることさえ出来やしないだろう。
お互い、都合がいい展開がこの先待っているなんて考えられない。
二人は咎人であって、神に奇跡を求めるなんてできない。
今許されたささやかな幸福で我慢するしかないって理解している。
かずさ「いいよ。泣き顔でも。
でもさ、時間ぎりぎりまで、その顔を見せてくれよ」
This is the final call for austrian Airlines,
flight four zero five, departing to Wien.
Please proceed to the gate 12, IMMEDIATELY
ファイナルコールが伝えられ、強制的に別れの時間を迫られてたが、
そうであっても、ほんのわずかな間でも顔を見ようと、かずさは
何度も振り返りながらゲートに消えていった。
春希「かずさ!・・・・かずさぁ!」
最後の言葉を届けたい相手には届かず、
それを聞きたいはずもない雪菜にだけは届いた。
雪菜が、今どんな顔をしているかは想像はできるけど
想像しようとさえしなかった。
春希 御宿 2/22金曜日
なんだよ、俺。
5年前見た雪と同じ雪を見てるじゃないか。
そして、なにもできないでいる。
俺は、かずさを捕まえるために行動したことなんてあったのかな?
根回し上手で、用意周到な事前準。計画的行動がモットー?
そんな評価なんて、俺の上っ面の評価でしかない。
本当に望むことに対しては、何も行動しない。
その場の雰囲気で行動。
そして、最後には、相手にすがる。
そんな俺には、本当に欲しいものなんかつかめない。
このまま全てを忘れられるように、雪で記憶を覆い尽くしてくれないかな。
立ち止まり、空を見上げる春希を通行人がいぶかしげに見るものの
誰も気にせず通り過ぎる。
それさえも、人の記憶にさえとどまらないと感じられ春希には気持ちよかった。
目の前が、白く歪んでいく。
そして、真っ白の世界にたたずむ、雪原にいるかずさを思い出す。
最後までかずさにすがる自分を憐れみながらも、それでもかずさを求めてしまう。
春希 雪原 2/22金曜日 早朝
真っ白な世界にたたずむかずさは、それだけで幻想的であった。
白を拒否するかのような黒をまとった姿は、それだけで美しい。
昨夜、自分の腕の中にいたことさえ幻であるかなように思えて
不安は増していく。
かずさ「本当に、本当に・・・これからも、一緒にいてくれるのか?」
春希「・・ああ」
かずさ「あたしがいくところに、ずっと、ついてきてくれるのか・・・?」
春希「どこへ、でも」
かずさ「もっと北にでも・・・それとも、このまま海外にでも。」
春希「お前が望むなら。だって俺たちは、もう・・・。]
かずさ「このまま・・・地獄にでも?」
春希「ああ、どこまでも一緒だ」
かずさがいる世界こそが自分のいる世界だと伝えたかった。
かずさこそが自分が帰る場所であると伝えたかったが、
かずさ「なんてな・・・お断りだ。あたしはお前と一緒には行けない。」
そんな夢みたいな話は、実現しない。
頭の片隅では、いつも理解はしていたけれど、遠くに追いやった現実を
かずさはつきつけてくる。
まだ陽が昇ったばかりで、温かさがない雪原が、より春希の心を凍てつかす。
かずさ「いつもの通りの・・・春希だって?」
春希「ああ、そうだよ、いつも通りの、お前だけを愛してる
ずっとお前の側にいることを望む、いつもの俺。」
かずさ「そんなのが・・・いつもの春希なものか。」
春希「え・・・?」
必死ですがる俺をかずさは寄せ付けない。
雪原にたった一人でいるかずさが、雪原にできたたった一つの黒い世界に見え
それが他を寄せ付けないかずさだけの世界に思えてくる。
かずさ「あたしのために全てを捨てるって・・・?
一緒に地獄に堕ちるのもいとわないって・・・?
そんなのが・・・そんなぶっ壊れたお前が
本物の、あたしの春希でなんかあるもんか」
春希「・・・え?」
かずさ「そんな・・・そんないい加減な嘘に騙されるもんか!
あたしの気持ちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
必死の叫びが胸に突き刺さる。
かずさ「本当は、ずっとずっと、お前と一緒に二人だけの世界に
閉じこもっていたかった。
でも壊れていく!
あたしといると春希がどんどんこわれていくんだよ」
胸に突き刺さり、痛いのに、かずさの優しさを感じられて温かかった。
かずさ「あたしは春希に幸せになってもらいたい」
俺がかずさとの幸せな未来なんて
なにも具体的に考えてなんてなかったことに絶望した。
かずさは俺の将来を考えていながら、かずさを守りたいと言っていた自分が
なにも行動にしていなことを後悔した。
俺は、この5年間、なにをしていたんだ?
3年間、雪菜が側にいることで罪を受け止めるふりをして、
そして、そのあとの2年間は雪菜の優しさにおぼれていただけだ。
雪の冷たさも相まって、心と体が急速に冷え、
全てが凍りつくことだけは理解できた。
それが、雪原の思い出なのか、今御宿で降っている雪なのかは
わからない。
かずさ 御宿 2/22金曜日
春希を見送るために振っていた手が鈍くなる。
頭が今何が起こったかを理解するのを拒否してしまう。
通行人が急に倒れた男性に気づき、遠巻きに様子をうかがい始める。
かずさ「・・・春希?」
さっきまで感じていた春希の温もりがポケットからこぼれ落ちていく。
あぁ・・・。
春希が、
あたしの春希が、壊れていく。
あたしの?
かずさ「あたしの春希?」
そっと自分を抱きしめ
自分の言葉をゆっくり理解するように、もう一度声に出す
かずさ「あたしの?・・・・・でも。」
駅前ということもあって、倒れた人間を気にする人も多く、人が集まってくる。
あと数分も待てば、救急車も呼ばれるだろう。
自分がかかわっていいものか決めかねて、なかなか春希に手を差し伸べる者は
いないが、それも時間の問題となっていく。
かずさ「春希!」
人だかりができ、自分の視界から春希が消えていくことで、かずさを現実に引き戻す。
それと同時に春希に駆け寄る。
雪で路面が滑りやすく、何度も転びそうになりながらも
人をかきわけ、春希を抱きしめる。
かずさ「春希? 春希! どうしたんだよお前。
返事をしてくれよ。」
知り合いがいたと分かり、人だかりも小さくなっていく。
それでも、倒れた男が気になるのか、人はなかなか減りはしなかった。
かずさ「頭うったのか? なあ、返事をしてよ、はるきぃ。
・・・かずさって呼んでくれよっ。」
泣きだ、とりみだした彼女だと思ったのか、声をかけてくる人もいたが
春希には届かない。
かずさは、心配そうに春希の顔だけを見つめるだけだった。
かずさ「はる・・き・・・。ひっく、ぅぅ。」
春希「かずさ?」
うっすらと瞼を上げる春希であったが、焦点が定まっていない。
それでも、かずさを見つめようとしてくれていることだけは理解でき、
かずさの心を落ち着かせる。
愛おしそうに髪に積もった雪を払いのけ、少しでも温もりを与えようと
春希の顔をなでる。
春希に温もりを与えるためなのか
かずさが春希の感触を思い出す為の行為かは、本人でさえわからなかった。
かずさ「春希。 どうしたんだよ? なにがあったんだ?
あたしが別れるって言ったからか?」
春希「夢か?」
かずさ「夢じゃないよ。」
春希「行かないでくれよ、かずさ。」
恋人同士の痴話喧嘩であるとわかってきた見物人は、救急車を呼ぶ必要もないと
わかると、一人また一人と駅に消えてく。
春希「俺を一人置いて、遠くに行かないでくれよ。」
弱弱しく訴える春希を見ると、もう離せない気持ちでいっぱいだった。
何があっても離すつもりがないといわんばかりに抱きつく春希を
拒むことなんてできなかった。
できないというよりは、春希の行動に心が躍ってしまった。
かずさ「いかないよ。どこにも。ずっと側にいるからさ。」
春希「だって、・・・だって、もうわかれるって。」
かずさ「それが夢だよ。悪い夢を見ていたんだ。帰ろう、春希。」
春希「早く帰ろう。寒いよ。・・・寒いよ、かずさ。」
かずさ「大丈夫。あたしが温めてあげるよ。
あたしが、春希を守るから。」
安心したのか、そのまま春希は胸の中で意識を失っていった。
慈愛に満ちた表情で見つめるかずさだけが、その場に残っていた。
もう誰も、かずさたちを気にする人は誰もいなかった。
かずさ「さてと。」
携帯のアドレスから曜子を表示させるも、発信ボタンをなかなか押せない。
春希の為。あたしが春希を守るんだから。
そのためだったら、もう一度裏切り者にだってなれる。
かずさ「ふふっ。何言ってんだよ、あたし。
もうずっと裏切り者じゃないか」
携帯画面とにらめっこした後、春希の顔を見て、
そのまま画面を見ずにボタンを押す。
曜子「もしもーし。どーしたのかなぁ?
旅行は楽しかった? それとも進行形?」
かずさ「今、どこにいる?」
曜子「それは、こっちが聞きたいところなんだけど。」
かずさ「ふざけないでくれ。こっちは切羽詰まってるんだ。」
曜子「こっちもあなたがいなくて、
コンサートどうしようか困ってるんだけどねえ。
美代ちゃんなんて、毎日青ざめているわよ。」
はっと、息をのむかずさ。
かずさ「それは、ごめん。
これから戻って、ちゃんと練習してコンサートやるよ。
でも、その前に助けてほしいんだ。
お願いだ。母さん。助けてください。
お願いします。」
曜子「いったいどうしたの、かずさ。」
動揺しているかずさであっても曜子の気配が変わるのがわかる。
同様に、曜子もかずさの尋常ではない様子がわかってきた。
かずさ「春希が。春希が
・・・・・・・・・・・・。」
やっと自分を助けてくれる母親の声が聞けたことで、冷静さが消えていく。
携帯電話を握る強さが増していき、雪で寒いのに、手に汗をかき
ますます携帯が握りにくくなる。
そして、さらに強く携帯をにぎるという悪循環に陥る。
曜子「ギター君がどうしたの?
泣いてたら、わからないわ。」
かずさ「春希が倒れた。」
春希を守る使命感だけで声を絞り出す。
曜子「今どこにいるの?」
かずさ「御宿駅前」
曜子「怪我? それとも病気かなにか?」
かずさ「わからない。わからないんだって!
急に倒れて、それで、・・・それで。」
電話にすがるが、返ってくるのは冷静な曜子の声だけだった。
冷静に考えれば、冷静な救援者ほど頼もしいものはいないが、
今のかずさにとっては、自分を突き放す冷たい人間にしか思えない。
曜子「あたながパニクってちゃ、ギター君助からないわよ。
あなただけが頼りなのよ。」
かずさ「母さんはいつもわかったような顔をする。
今回の日本だって、母さんのせいじゃないか。」
曜子「私はあなたの味方よ。
それだけは、わかって。春希君を助けてから、文句なら聞くわ。」
かずさ「ごめん。母さん。」
曜子は、かずさの声色が落ち着いていくのがわかった。
そして、ひとつずつ、かずさがパニックにならないように先を続ける。
曜子「大丈夫よ。それで、怪我はないの?」
かずさ「怪我はない。倒れた時、どこかうったかもしれないけど
血とかは出てない。」
春希の体を探りながら質問に答える。
曜子「それじゃあ、病気? 風邪でも引いてた?」
かずさ「それも違うと思う。」
曜子「それじゃあ、なんで倒れたの?」
かずさ「・・・・・・・・・・・」
曜子「・・・・・・・・・・・・」
かずさ「・・・・・・・・・・・」
かずさが答えるのをじっくりまったが、返事がないので
曜子「いいわ。タクシーに乗せることはできる?
それとも、迎えに行ったほうがいい?」
かずさ「タクシーに乗せることはできる。
ちょうどタクシー乗り場の側だし。」
曜子「でも、雪降ってるからタクシーいないんじゃない?」
タクシー乗り場の方を見ると、長い行列はできているが
それに対応するタクシーの数が足りなすぎる。
かずさ「タクシーは無理みたい。」
曜子「いいわ。こっちから行くから。
そこを動くんじゃないわよ。」
詳しい場所を教えると、すぐに電話は切れた。
それと同時に不安な気持ちがわきあがってきたが
腕の中にいる春希を見ることで勇気を奮い立たせた。
春希。
あたしがずっと側にいるから。
もう、離れるなんて言わないからさ。
だから、元気になってよ。
雪が二人の存在を世界から隠すかのように、二人を包みこんでいった。
曜子 ホテル 2/22金曜日 夜
曜子「ほんっと、びっくりしたわ。
日本最大の駅前で雪に埋もれて、遭難しているんだもの。」
二人の存在を確認したのか、
先ほどの電話の時よりもリラックスしているのもよく自分でもわかる。
病気になってから、自分の状態を確認する習慣ができたのか
以前より自分を客観的に評価できるようになったのはプラス材料。
でも、子育てのスキルだけは上達しようもないか。
本当に、この子はピアノ以外全く駄目ね。
それだけ放置してきたんだから、しょうがないか。
ただ、まだ話せないでいる病気のことを思うと、
やっとリラックスしかけた気持ちが沈んでいく。
かずさ「遭難なんてしてない!」
慈愛に満ちてきた曜子の表情が、現実に戻される。
曜子「ご主人さまを必死に温めて、救助を待ってる忠犬みたいだったわよ。
自分は雪で全身真っ白になりながらも、ご主人さまの雪だけは
きれいにはらってあったしねぇ。」
かずさ「倒れている人間のケアをするのは、人として当然だろ。」
曜子「「春希くんのお世話をするのは、かずさにとって当然」
の間違いじゃないの?」
ちょっと春希くんのことでからかうと、のってくるんだもの。
あまりにもかわいいから、からかってみたくなっちゃうわよねぇ。
でも、少しはリラックスできたかしら?
かずさ「ぅぅ・・・・・・・。」
小さく唸るだけで、言い返えそうもない。
曜子「あなたが道端で倒れている人を見かけても、
救急車を呼ぶくらいじゃないの?
それも、だれか他の人がいなければという条件付き。
まあ、あなたは根は小心者なのよねぇ。」
かずさ「うるさい。」
ちょっと意地悪いいすぎちゃったかな。
曜子「さてっと、かずさもリラックスできたようだし
春希君のこと聞かせてくれる?
できれば、包み隠さず全部。」
かずさ「それは・・・・・。」
曜子「私はね、あなたに幸せになってほしいの。
私のエゴだけど、そのためだったらなんだってできる。
それが、いろんな人を不幸にしてでもね。」
曜子の真剣なまなざしに、かずさはぽつぽつと今までの春希との数日間を
全て告白した。
突然、春希の密着取材が決まり、戸惑いながらも、とてもうれしかったこと。
それと同時に、切なく、どうしようもなく悲しかったこと。
その生活も、コンサートで春希に全てをぶつけて、春希を諦める決意をしていたこと。
でも、春希がコンサートに来なかったために、それができなくて悔しかったこと。
コンサート後、逃げ出したあたしを春希が見つけ出してくれ、その後、
現実を二人で忘れて過ごしていたこと。
最後には、マンションを飛び出し、旅に出たこと。
でも、春希の幸せを願って、春希に別れを告げたが、
そこで春希が倒れてしまったことを、赤裸々に、内容細かに告白していった。
もし、この告白を雑誌に載せたのならば、春希の密着取材以上の売り上げを
叩きだせるかもしれなかった。そんなきわどい内容までも全て
母に伝えるかずさは、曜子を信頼している証ともいえた。
曜子「うーん、そっかぁ。
春希君、壊れかけちゃったのかなぁ。
なんでも一人で抱え込んじゃう感じだったし。」
かずさ「あたしが悪いんだ。」
曜子「だから、別れようとした?」
かずさ「・・・・・・・・・・・。」
曜子「でも、別れようとしたら、こうなっちゃったか。
それで、あなたはどうしたいの?」
かずさの瞳の奥を覗き込み、真意を見極めようとする。
かずさもそれにこたえようと、まっすぐ見返す。
かずさ「あたしは、春希が欲しい。
一生あたしの側にいてほしい。」
曜子「結婚して、公私ともに過ごしていこうってことでいいのね?」
かずさ「そう思ってかまわない。」
曜子「春希君はなんて? って、別れようとしていたのに、そんな話してないか。
あぁでも、そんな感じの話もしていたわね。
どこへでも一緒に行くって言ってたか。」
かずさ「たぶん、大丈夫だと・・・・、思う。
障害さえなくなれば」
曜子「障害ね。・・・・・・・・・それが一番のネックね。」
降り続ける雪を眺めながら、今後のことに思いをはせるしかなかった。
春希 ホテル 2/23土曜日 早朝
朝というには、まだ早い時刻。
朝日はまだ昇っていなく、うす暗い
フットランプの光が、うっすらと部屋の輪郭を形作っていた。
ここ、どこだ?
ホテルの部屋みたいだけど、それにしては高そうな部屋だな。
たしか、御宿駅でかずさと分かれて・・・・。
急に思い出したくない現実に直面し、頭が真っ白になりそうだったが、
背中から回された手と、背中からつたわるかずさの胸の温もりで
いつものかずさの存在を確認でき、春希を正気に戻させた。
かずさ。
そっとかずさを起こさないように首だけ後ろに回すと、
寝息を立てるかずさを確認でき、胸をなでおろすことができた。
服は、着ていたやつじゃないな。
かずさが着替えさせてくれたのか?
それでも、ホテルまで俺を連れてくるのは大変だっただろうに。
俺、あのときどうなったんだ?
現実をゆっくりと確認するにつれ、恐怖が忍び寄ってきて、
体を震えさせ、体温を奪っていく。
たまらず、ゆっくりとかずさを起こさないように体の向きを
かずさのほうに向け、かずさの顔を見ることによって
心を落ち着かせようとした。
かずさを失うかもしれないという恐怖が、
昨夜の出来事で、脳裏に焼き付いてしまっていた。
かずさ。
俺を置いていくなんて、言わないよな。
俺には、かずさしか。
かずさの存在を一つ一つ確認するように黒髪、頬、そして唇と触れていき、
何度見ても見あきることがない顔を目に焼き付けていく。
たとえ、昨夜の別れが本当だとしても、かずさのことを忘れないように。
かずさ「なんで泣いているんだよ。」
春希「・・・・、起きてたのか?」
かずさ「いや、まあ・・・今起きたとろ。
おはよう春希。」
春希「おはよう、かずさ。」
かずさ「泣くなよ。
あたしがずっと側にいてやるから。
ううん、あたしが春希の側にいたいんだ。
だから、だから、泣くなよ、はるきぃ。」
俺、泣いてたのか?
そうか。かずさがいなくなるかもしれないって思ってたから。
かずさがそっと、春希の涙を手でぬぐう。
春希「かずさ。かずさ!
どこにも行かないよな?
昨日のことは嘘だったんだよな?」
かずさ「そうだよ。昨日のことは幻だ。
あたしがお前の前からいなくなるなんてことはない。
これからも、ずっとずっと一緒だ。」
春希「俺の側に一生いてくれよ。
もう、どこにも行くな。」
かずさ「どこにも行かないよ。
春希があたしが帰る場所なんだから。」
春希の涙をたどるように、かずさはキスをしていく。
耳元、頬、目元、唇。
そっと触れるだけのキス。
大事なものを、癒すように、愛おしく。
そんなかずさの愛撫に、春希の心は癒されていった。
かずさ ホテル 2/23土曜日
春希が落ち着いたのを見計らって、
かずさは昨日の出来事をできる限る詳しく伝えていった。
自分自身昨日のことを思い出すのは苦痛であったが
春希の現状を教えるために言葉を続けた。
苦しい想いを顔に出さないようにはしていたが、
春希の顔を見ると、それはうまくいっていないことは明白であった。
もしくは、春希自身が苦痛だったのかもしれないが、
かずさにとって、春希の苦痛は自分の苦痛だと感じられた。
曜子に助けを求め、今後公私ともに春希と生活していきたいことを
伝えるあたりになると、春希の顔色は若干だが良くなってきたようだった。
最悪期と比べればとなるが、それでも少しは安心はできた。
今は、しっかり自分の気持ちを伝えないと。
できるだけ具体的に。
そうしないと・・・・・。
5年前と同じになるのだけは、いやだ。
かずさ「でさ、・・・春希はどうなのかな?」
春希「どうって?
ああ、気分はだいぶ良くなったと思う。
本調子というわけじゃないけど、しっかり判断はできる。」
かずさ「いや、・・さあ。そういう意味じゃなくて。」
照れくさそうに、だけど、しっかりとした口調で続ける。
かずさ「春希は、あたしと一緒にいてくれるよな?
もう、あたしから離れていったりしないよな?
一生あたしの側にいてほしいんだ!」
春希は、予想はしていたかずさからの告白を受け止めはしたものの
自分の手を見つめ、返事は返ってこなかった。
その反応がかずさへの拒絶と感じられ、
かずさに静かな恐怖を与え、沈黙に耐えられなくなる。
かずさ「本気なんだ。思い付きじゃない。
母さんにも相談して、これからの道筋もしっかり考えた。
春希さえ「うん」って言ってくれれば・・・・。」
昨日は、どこまでも一緒に行ってくれるって言ったよな。
地獄だって平気だって。
あたしを愛し続けてくれるって。
・・・・・・・・・・・
あ。
・・・・・・・・・・・
昨日あたしが春希を捨てようとしたから。
あたしが春希を見捨てようとしたから、春希はあたしを信じられないんだ。
あたしが春希から離れたいわけ、あるわけないじゃないか。
いつだって、春希の幸せを願っているのはあたしなんだ。
昨日の別れ話なんて、本心じゃないって春希ならわかってくれるだろ?
自分で作り出す恐怖で涙が止まらない。
たまらず、這いつくばって春希の足にすがりつく。
そして、恐る恐る春希の顔を見上げると、
普段より精気ははないが、いつものかずさを安心させる春希の顔があった。
春希「なんて顔をしてるんだよ。」
かずさ「だって、だって。・・・・・だってさ。」
春希を確認するかのように、春希の顔を手で触れ、その存在を確かめる。
かずさ「なにも言ってくれないじゃないか。ずっと黙って。
だから、春希はもう嫌なのかなって。」
春希「そんなこと、そんなことあるもんか!
たださ、俺が現実から、社会から逃げまくっていたのに
かずさや曜子さんは現実を見て、これからのことをしっかり考えて
くれていたんだなって思って。
だから、このままの俺じゃいけないんだって。」
かずさ「春希。」
春希「昨日かずさ言ったよな。
今の俺は本物の俺じゃないって。
壊れてしまっているってさ。
これ、本当だなって実感して。」
かずさ「昨日は、あたしも変だったし。」
春希「いや。かずさはしかっかりしてたよ。
変だったのは俺の方」
かずさ「そんなこと・・・。」
そんなことないとは言えない。
でも、今の春希は、大丈夫って言える。
だって、いつもの、いつもの、あたしの大好きな春希の顔をしてるから。
しっかり前を見て、慎重で、リスク回避を常に考え、根回しをしっかりして、
誰よりも行動的な春希だ。
疲れている顔をしているけど、それでも、安心できるいつもの春希。
春希「心配させて、ごめんな。
これからは、心配させないようにするから。
だから、もう俺を置いていていかないでくれよ。」
かずさ「これからも、すっと心配するに決まってるだろ。
どこにいたって、春希のことを考えているんだから。
だから、いつも心配しているに決まってる。
でも、春希を置いてなんて行かない。
引きずってでも、春希が痛いって泣いても連れて行く。」
春希「泣き叫んでも、腕が引きちぎれそうになってもついていくよ。
これからは、死ぬまで一緒だ。
もう離さない。」
二人は、これが夢ではなく現実であるのを確認するよう、抱きしめ合う。
何度も何度も春希の顔を触れ、胸に顔をこすりつけ、春希の匂いを嗅ぎ、
背中に手を回し、春希の存在を、春希の温もりを思い出していく。
それと同時に、春希に自分の存在をすり付けていった。
まだ母さんが起きてくるには早いな。
もうちょっとだけ、甘えてもいいよな?
せめて朝日が昇るまでは。
日が昇り始めるころ、二人はこれからのことを話し始めた。
お互いの本心を伝え、これからどうしたいかを具体的に。
曜子がいなければ、詳細な内容はわからないことが多かったが
それでも、今後の方針と覚悟を決めなくてはならない。
曜子が起きてきても、曜子はこれといって春希を咎めたり
昨日までのことを追求したりはしなかった。
曜子はただ一つ、これからのことだけを見つめていた。
曜子 ホテル 2/23土曜日
かずさが練習に行き、曜子と春希の二人きりになると
曜子は、最後の確認とばかりに切り出す。
今は時間がない。
もともとの性格もあって、回りくどいことはしなかった。
曜子「さてと、ギター君。引き返すなら、今しかないわよ。
もし、あなたがやっぱりやめますって言って、今から帰るんなら
それはそれで、恨んだりはしない。
あの子は、落ち込むと思うけど、その辺は気にしなくていいわ。」
春希「コンサートどうするんですか?」
曜子「それも気にする必要ないわ。どのような結果になろうと
私が命削って守っていくから。
だけどね、春希君。」
そこで言葉を切ると、じっと春希の目を覗き込み、最後の最後で判断に迷う。
春希「大丈夫ですよ。続けてください」
ほんっと、勘が鋭い子ね。
開桜社での評価も、あながち過大評価ってわけじゃないみたい。
曜子「もし、あたながここに残るっていう選択。
かずさと一生ともにする。つまり結婚して、
公私ともにかずさを支えていってくれるっていうなら、
あなたが今抱えている問題、私も一緒に解決するわ。」
春希「自分が抱えている問題は、とてもプライベートなことで・・・。」
曜子「わかってるわ。婚約者がいるんでしょ。
あの子から聞いてる。」
春希「そこまで知ってたんですね」
曜子「それも含めて、手を貸すわ。」
春希「そこまでしていただくわけには。」
曜子「これから私が話す内容っていうのはね、婚約解消なんて、っていうと
あなたには悪いけど、私の人生の中でも、かなりやっかいな出来事なの。」
春希「自分の中では、婚約解消は最もやっかいな出来事なんですがね。」
苦笑いで顔がひきつってるわね。
春希の顔を見て、ほくそ笑む。
ここまでいえば、覚悟もできるでしょうね。
曜子「ほんとうに、婚約解消なんて、大したことじゃないって感じるわよ。」
春希「それは、かずさにも関係あるんですね?」
今度は春希が曜子の目の奥を覗き込み、真偽を確かめようとする。
だが、曜子は何もこたえず、ずっと春希を見つめるままだった。
春希「あとは、自分で判断しろってことですか。
でも、そこまで言われると、もう結論でちゃうじゃないですか。」
曜子「そう?」
面白いものでも見つけた猫のような目で春希を見つめると、
春希はびくっと体を震わせる。
その春希の反応さえも、興味のくすぐる対象になってしまう。
春希「俺がかずさを見捨てられるわけないじゃないですか。」
曜子「でも、高校卒業後、なにも連絡してこなかったじゃない?」
春希「その件については、弁明の余地はありません。
しかし、だからこそ、かずさの手を離すことができないんです。
いや、かずさの手を、俺が、離したくないんです。」
挑戦的な口調で、春希は曜子に宣言した。
曜子「そこまでいうんなら、ここに残るってことでいいの?」
春希「はい。」
まっすぐな瞳で、そう答えた。
覚悟を決めたのか、曜子が春希の覚悟にこたえる。
曜子「わたしね、もうじき死ぬの。」
ちょっとそこのコンビニに行ってくることを告げるような口調で告白した。
かずさ ピアノレッスンスタジオ前 2/23土曜日
曜子がいつかずさが戻ってきていてもいいように、
スタジオは抑えておいてくれたのは助かった。
もともと、2回目のコンサート終了まで使える契約だったが、
スタジオに行かなくなったことを考えれば、
いつスタジオを放棄していても文句は言えない。
といっても、あの曜子がそんな小さなことを気にしてないと
わかってはいたが、それでもピアノに関して
見捨てられていないと分かったことに、かずさは安堵を覚えた。
繁華街から少し離れた場所にあるスタジオだが、それでも通行人は多い。
別に、誰かに自分の正体がばれても気にはしないが、
今、マスコミに介入されるのだけはやっかいであることだけは
かずさにも理解できていたし、
これ以上曜子に迷惑をかけたくなかった。
もちろん、出かける前に春希にも厳重注意されている。
あいつは、自分がそのマスコミだったってことを、忘れているな。
今まで自分がしてきたことを、なんだと思ってるんだろ?
って、その仕事を辞めさせるのは、あたしか・・・・。
自問自答し、その答えに悲しさを覚え、つい春希が今朝結わえてくれた髪をなで
春希の温もりを求めてしまう。
かずさ ホテル 2/23土曜日 朝
かずさ「やって!」
春希「やってって?」
かずさ「やって!」
春希の目の前に、変装セットとブラシを突き付けると、
それを見てようやく理解したのか、素直に受け取る。
春希「わかったって。ほら、座って。」
曜子のニヤニヤした視線を気にしつつも、
春希が優しく手ぐしをかける気持ちよさには、勝てない。
春希の手が髪を触れ、そっと髪に指を通すだけで、
自然と顔がゆるむのが自分でも判る。
鏡を見なくとも自分がどんな顔をしているかわかり、
実際それを見るのは羞恥心により拒絶される。
しかし、春希が自分の髪にブラシをかける姿を眺めるのも好きなので
自分の姿は見たくはないが春希は見たいという葛藤に悩まされる。
だから、かずさのもやもやは、違う方向へ発散され、
かずさ「こっち見るな。」
曜子「なにも言ってないじゃない。」
かずさ「そのいやらしい視線が語ってるんだ。」
結局、自分の姿を見たくないという理由で、
その不満を曜子にぶつけるしかないかずさであった。
そんなかずさの葛藤も、曜子にはお見通しなのか、やれやれといった感じで
自分の準備に戻っていった。
二人きりになると、かずさは安心したのか、さらに顔がゆるんでくる。
かずさ「ん・・・。ぅん。」
朝はこれだなぁ。
やっぱ自分でやるのとでは、大違いだ。
毎日の日課にしたいなぁ
っと、鏡を通して春希を見ると、こちらの気持ちを見すかれたような気がして
顔が赤くなり、下を向く。
春希「おい。下を向くなって。
ほらっ、まっすぐしないと、ちゃんとできないだろ。」
かずさ「わかってるって!」
春希がそっと頭をつかみ、上に向けるだけでもドキドキしてしまう。
ますます顔が赤くなるのがわかるが、これ以上春希に注意されると
髪をとかしてもらえなくなると思ってしまい、照れ隠しもできず、
ただただ身を任せるしかできなかった。
春希「ほら。綺麗な髪が傷んじゃうだろ。
ほんと、きれいな髪だよな。」
かずさ「邪魔なだけだって。」
春希「俺は好きなんだけどなぁ。」
かずさ「そっか。・・・・でも。手入れが大変なんだよ。」
春希「だから、こうして俺が手入れしているじゃないか?」
かずさ「一回きりの手入れじゃなくて、毎日が大変なんだって。」
春希「これから毎日だってできるさ。」
かずさ「そっか。」
春希「そうだよ。」
鏡越しに視線をからませ、微笑み合う。
今まで顔が赤くして照れたのを隠すために顔をそらしていたことが
バカげたことに思えてくる。
もっと早く素直になっていれば。
もっと早く。
もっともっと早く。
2年前一時帰国した時?
いや、高校時代?
もしもは、ないか。
今ある幸せを、しっかり手にしないと。
幸せな思いが心に積もっていくほど、過去を後悔せずにはいられない。
この幸せな時間が、5年という歳月を癒してくれるほど、
昨日のような自分から別れを告げることは2度とできないと確信してくる。
かずさ「んんぅん。・・・いい気持ちだ。」
手ぐしで髪のからまりを取り終えたのか、ブラシをかけはじめる。
そのひとつひとつの作業で触れる手が心地いい。
春希の温もりを、かずさはかき集めるので夢中であった。
かずさ ピアノレッスンスタジオ前 2/23土曜日
そんな物思いにふけっているかずさには、
あとはスタジオに入るだけということもあって
自分を見つめる視線には気がつかなかった。
春希 ホテル 2/23土曜日
曜子「わたしね、もうじき死ぬの。」
春希「え?」
全てが崩れさる感覚しかなかった。なにも理解できない。
脳が理解することを拒否しているような感覚だった。
そして、なによりもかずさのことを思うと、体が思うように動かず
脳にいたっては、活動を停止していく。
曜子「そんな、この世の終わりみたいな顔をしないでよ。
死ぬのは私であって、春希君じゃないんだし。」
春希「・・・ぁ。・・・あぁ。」
うまく声が出ない。
曜子「優しいのね。そして、この後の展開、
かずさの今後を理解してしまったってとこかな。」
曜子さんは俺のほほをなでると、ゆっくりと胸に抱きしめていく。
一瞬かずさに申し訳ないという気持ちもわいてきたけど
いやらしい感覚などなく、これが母親なのかなって、
小さい時の自分を思い出したりしていた。
優しく頭のなでられていると、自然と落ち着いてきて、ようやく声が出て、
春希「もう、大丈夫です。・・・本当に。」
そっと曜子さんから離れようとしたが、
曜子「もうちょっと、そのままでいなさい。
かずさも、もうちょっと素直だといいんだけど。
やっぱ、男の子と女の子の違いなのかなぁ?」
逃げてもしょうがないと思い、力をぬくと、
曜子さん逃げないように力が入っていた手も力が抜け、
柔らかく抱きしめてくれる。
これも親孝行の一つなのかな。って、自分の親は捨てたも同然だけど、
こうやって新しい家族ができ、新しい義母さんができるのもいいな。
春希「こうやってると、お母さんって感じがしますね。」
曜子「何を言ってるの? あなたは、もう私の息子なんだから。
甘えられるときは、しっかり甘えなさい。
そして、その後、しっかりと親孝行してくれればいいから。」
春希「って、倍返しじゃきかないきも・・・・・。」
曜子「もちろん!」
この場の雰囲気にはにつかわない明るい声が響いた。
春希「ですよねぇ。」
だんだんと調子が戻ってくるのも自分でも分かり、曜子さんもそれを感じたのか。
曜子「もう大丈夫そうね。」
そっと頭を離してくれ、もとの距離よりは少し近い位置に戻った。
春希「はい。話を聞いて、理解する程度には。
それで、もうじき死ぬっていうのは?」
曜子「白血病。」
シンプルに病名だけを告げてきただけだが、
それがかえって、病気の重みを感じさせる。
春希「骨髄移植は?」
曜子「かずさにさせると思う? 絶対に安全ってわけじゃないのよ。
もしかしたら、あの子からピアノさえも奪ってしまうかもしれない。
そんなこと、私にはできないわ。」
そんなこと当然でしょっていう顔で言われても、返答に困ってしまう。
春希「骨髄バンクは?」
曜子「もちろん一致するのを探してはいるけど、こればっかりはなかなかね。
それに、今すぐ死んじゃうってわけじゃないし、
あの子が一人で生きていけるまでは、死ぬつもりはないわ」
そこで一息つき、こちらの顔を見て、何かを確認するかのように目を覗き込む。
春希「わかってます。」
曜子「よろしい。」
納得したのか、短い返事はかえってきた。
つい先日までは、かずさと現実を忘れ、かずさにおぼれていたのに。
それのしっぺ返しなのか?
いや、現実をみてなかっただけか。しっかり、自分の置かれた状況、
かずさの立場を確かめていたら、もっと早く手を打てたのに。
自分のしてきたことに腹が立ってしまう。
そんな俺をみて、なんでもお見通しの曜子さんは、
俺の自分への腹立たしささえも、許容しようとする。
曜子「いいのよ。そんなに早く一人前の大人になろうとしなくても。
今のうちは、先輩の大人にすがりなさい。」
春希「でも。・・・でも、かずさは。」
曜子「あの子にはコンサートが終わるまで、内緒にする予定。
今知ったら、コンサートどころじゃないでしょ。
それにしたって、色々たてこんでるのに。」
春希「すみません。」
曜子「すみませんは、もうなし。」
母親が子に言い聞かせるような声色だったので
不謹慎だが、うれしい気持ちがわいてきてしまう。
春希「はい。でも、かずさも知っておいた方がいいんじゃないですか?
後から知らされるのは、つらいですよ。」
曜子「それも重々承知してるわ。
それでも、今は無理かなぁ。」
春希「それに、もし突然倒れたらフォローのしようがないですし
それこそ事前に伝える以上のショックを与えてしまいますよ。」
曜子「それもあるのよねぇ。」
どこか他人事のような返答に、ちょっと強く言い返してしまう。
春希「わかりました。コンサートまで、俺が毎日フォローします。
送迎に病院、食事まで全部面倒見させてください。」
曜子「よろしくね、春希くん。」
どうも曜子さんにしてやられたらしい。
あの顔は、この返答を引き出したことに満足してるって顔だ。
どうも曜子さんの思惑通り踊らされている気もするのは、
考えすぎでもないようだ。
春希「調子が悪い時の兆候とかってあるんですか?
そうだ。一度俺も病院で話を聞いてみたいですね。
あと、食事とかどうなのかな?」
曜子「ちょっと、ちょっと、そんなにはりきらなくても。
まるで私が病人みたいじゃない、って、病人か。
それでもね、・・・それでも、そんなに早く死なないってば。
ほんと、死んでなんていられない。」
自分に言い聞かせるようにつぶやいたのを聞くと
曜子さんの悲痛な気持ちを少しだが理解できた。
いや、理解なんてできていない。
母親が大事な娘を残して死ぬことの残酷さなんて、俺にはわかりっこない。
それでも、かずさのために自分も動かないといけないことだけは理解できた。
曜子「さてと、これからのことを話していきましょうか。時間も限られてるし。」
春希「そうですね。もっと早く、曜子さんのところに来ていれば。
今後のことだって。」
曜子「そんな後ろ向きな考えはやめましょ。
今をしっかり生きるほうが有意義よ。」
春希「はい。」
力強く返事をしたが、曜子の提案を聞き、
さらなる混迷の海へと投げ出されてしまった。
曜子「じゃあ、春希くんは、今から冬馬春希でいいよね?」
春希「え?」
間抜けな顔でつぶやく、力の抜けた返事がホテルの客室に静かに響いた。
かずさ スタジオ前 2/23土曜日
それは突然だった。
予想もしていなかった声が聞こえた。
いや、東京に来ていれば、もしかしたら、偶然出会うかもしれないと思っては
いたけれど、そうであっても身構えることさえできなかった。
雪菜「かずさ?・・・・・かずさだよね!
この前のコンサート行けなくてごめんね。
でも、こんなところで。・・・・あ、ここのスタジオでレッスンかな?」
かずさ「雪菜・・・。どうしてここに?」
雪菜「どうしてって、この辺でこれから打ち合わせがあるからだよ。」
かずさ「ああ。そうなんだ。」
雪菜「かずさは、ここのスタジオで練習だよね?
今入ろうとしていたし、それにコンサートも近いしね。
この前のコンサートは行けなかったから、今度こそはって
チケット手に入れたんだよ。」
かずさ「そっか。コンサート来てくれるんだ」
かずさも声をかけられた時は驚いたが、
昨夜春希にさんざん言われたことを思いだすと
自然と臨戦態勢に入っていった。
かずさ ホテル 2/22金曜日(昨夜)
春希「いいか。雪菜に雪菜が聞きたくない話をするときは、
一番最初に言いたいことを言うんだぞ。」
どうも委員長だったころの説明口調になってるな。
なぜか、高校の定期試験のとき勉強教えてくれたことを思い出す。
あの時は、雪菜もいたんだっけ。
春希「ちゃんと聞いてるか? 今とっても重要なことを言ってるんだぞ。」
かずさ「聞いてるって。」
どうも昔を懐かしむ時間はないらしい。
委員長の逆鱗に触れないようにしないと。
昔を思い出し、少しうれしそうな顔をするかずさをみて、
怪訝そうな顔をする春希だが、春希に余計なことを聞かれる前に先をせかす。
かずさ「それでなんだっけ?」
春希「ちゃんと聞いてないじゃないか。
雪菜は、自分が聞きたくないことに関しては敏感なんだ。
だから、強引にでも一番最初に言うしかない。
それさえも、こっちの雰囲気で感じ取ってしまうから、逃げようとする。
いっそのこと、挨拶の代りに本題を伝えてもいいくらいだ。」
かずさ「ふーん。」
春希「ふーんって?」
やっぱ春希は春希だよな。
たとえ雪菜のことであっても、他の女のことなんて聞きたくないのに。
そういうところは鈍感で、変わってない。
かずさ「挨拶の代りに言いたいことを伝えるなんて強引すぎないか?」
春希「そのくらいの意気込みじゃないと失敗するんだよ。」
かずさ「わかったよ。肝に銘じておく」。
春希「本当にわかってるのか、心配だな。」
かずさ「春希は、あたしを心配するのが仕事なんだから、仕方ないじゃないか。」
春希は、ぎょっとした顔をしたが、仕方がないとい顔を見せるが
それを見てかずさは安心した。
雪菜 小木曽家自室・電話 2/23土曜日 早朝
女「もしもし? 例の彼女なんだけど、今日からくるみたいよ。」
雪菜「本当ですか? ありがとうございます。」
やっとつかんだ情報に、声が弾む。
女「昨日夜遅くになって、明日から使う予定だから、準備しておいてほしいって
事務所の人から連絡あったの。
まあ、もともとコンサート終わるまで部屋を抑えてあっただけどね。」
雪菜「・・・やっと、やっと会える。」
女「あーでも、何時頃来るかまではわかないな。」
雪菜「大丈夫です。そこまでわかったんなら、後は自分で何とかします。
ありがとうございました。」
女「いいよ。いつもお世話になってるし。」
電話を切ると、仕事に行くにはまだ早い時間だが、準備を始めた。
仕事のつてでかずさのレッスンスタジオを探しだしたが、
行ってみれば当の本人は一度も訪れることはなかった。
マスコミ対策に用意したフェイクのスタジオかなと諦めかけた時に
待望の連絡が来た。
ちゃんと話さないとね。
今度こそ、逃げたり、表面上の関係じゃなくて、本当の親友になれるかな。
かずさ スタジオ前 2/23土曜日(現在)
春希と母さんとの約束では、雪菜と話をするのは、
もっと下準備ができてからだったけど、この際いいよな。
それに、これはあたしと雪菜の問題だから。
決意を胸に雪菜に切り出す。
かずさ「ちょっと話す時間とれないかな?
少しでいいんだ。
雪菜はあたしなんかと話したくないかもしれないけど。」
雪菜「ごめんね、かずさ。この後、打ち合わせもうすぐなんだ。
あっ、でも、かずさと話したくないからじゃないんだよ。」
ああ、やっぱり春希の言う通り、雪菜はあたしが放つ空気に敏感なんだな。
春希の忠告を思い出し、失敗したという顔をしないように努める。
雪菜「そんな顔しないでよ。本当に仕事なんだって。
もしかずさが都合いいんだったら、今夜でも会えない?」
どうも雪菜は、微妙にしかめた顔を別の意味でとらえたようだった。
かずさ「今日は、夜までここで練習しているから、雪菜の仕事が終わったら
ここに来てくれると助かるよ。
受付には言っておくから、大丈夫だと思う。
雪菜「うん。楽しみにしてるね。」
かずさ「ああ。夜に。」
そして、両者の思惑が交差する。
春希 ホテル 2/23土曜日
ソファーに深く座り直すと、曜子はゆっくりと今後のビジョンを話はじめる。
それは、昨夜考えたのか、それとも日本に来る前に考えていたプランの一つかは
わからないが、少なくとも思い付きではないようだった。
曜子「だから、今後仕事をしていくうえでは、
北原よりも冬馬のほうが都合がいいのよ。知名度の問題でね。
それに、あの子だって、北原と冬馬を使い分けるのなんて
納得しないだろうし。
だったら、最初から冬馬で統一すれば、問題ないじゃい?」
春希「それは、かまわないですけど。とくに北原の姓にこだわってませんから。」
曜子「あの子が、自分が北原の姓を名乗るのもいいかもしれないけど、
仕事とプライベートで使い分けることを考えると、
やっぱ、統一した冬馬の方があの子もフラストレーション
溜まらないだろうし。
それに、あの子、独占欲強いじゃない? だったら自分が北原名乗るよりも
春希君が冬馬の名札つけくれた方が、自分の所有物ってかんじがして
よっぽど独占欲が満たされると思うのよねぇ」
なんとなく想像できるかも。
口では何でもないって言っても、独占欲強いんだよな。
このまま曜子さんの話をつづけられても苦笑いしか出来そうもないので
話を変えてみる。
春希「あぁ、・・・・・あの、婚約発表はまだなんですよね?」
曜子「そうね。婚約発表はコンサート後の予定。
べつに日本でアイドルやらせるつもりはないから、いつ発表してもいいけど
それでも、コンサートだけは、純粋にあの子の演奏をみんなに
聴いてほしいの。」
それは、まぎれもない本心だと思うし、
俺もかずさのピアノを日本のファンに聴いてもらいたい。
今後の活動とかじゃなくて、純粋にかずさはすごいんだって、
わかってもらいたい。
春希「そうなると、コンサートの熱が冷めたあたりですかね?」
曜子「うーん。そこんところは微妙なのよね。
あの子はすぐにでも発表したがるだろうけど。」
曜子は、あきれたような顔をみせ、
曜子「細かい日程は、開桜社との話し合いによるかな?」
開桜社という言葉に反応してしまったが、曜子はそれに構わず話を進める。
曜子「まずは、開桜社に春希君の引き抜き交渉ね。
さっき電話したら、どうにかこの後時間取れたわ。
開桜社の問題が片付いたら、雪菜さんね。
それと、昨夜、かずさが雪菜さんと一対一で話したいって言ってたけど
これは、私としてはどのタイミングがいいか判断しかねるわ。」
春希「やはり、俺が雪菜と一度話してから小木曽家に謝罪っていうのが
いいのでしょうか。」
曜子「それは無理よ。だって、あなた思いっきり汗かいて、震えてるわよ。
気づいてなかった?」
春希「・・・・・・・・・・・・・。」
自分の手をみると、手のひらには汗でびっしょりだった。
無意識で膝のあたりをつかんでいたせいか、ズボンも手の汗で湿っている。
顔や首を触ってみると、全身が汗でびっしょりわかる。
体の震えも自分でもわかるようになり、
不安で心が押しつぶされそうになっていく。
どうしたんだ、俺は。
これって、かずさに別れを告げられた時と同じ症状か。
そっか、こんなんだから、かずさは俺を捨てられなかったんだ。
自己嫌悪におちいっていると、再びやわらかい感触に包まれる。
曜子「大丈夫よ。私もかずさもいるから。」
同情や憐れみではない家族の声を聞き、
呼吸がわずかだが落ち着くのが自分でもわかる。
曜子「あなたは、一人でなんでも抱え込みすぎよ。
今までなんでも一人でやってきたことは、かずさから聞いている。
といっても、あの子はそんなには話してくれないから寂しいのよね。
大変な時は頼りなさい。頼るのも人生をうまくやっていく手段よ。
なによりも、家族は、そういうことで頼りにされるのがうれしいもの。」
春希「ありがとうございます。」
胸に押し付けられ、うまく話すことはできないが、どうやら伝わったようだ。
こんな短期間で2度も曜子さんに抱きしめられるとは思いもしなかったが。
曜子「まあ、さんざん子育てを放棄してきた私が
言うセリフじゃないかもしれないけど
ウィーンであの子と生活するようになってからは、
思うようになったかな。」
春希「そうなんで・・・。もう大丈夫ですから。」
と言って、遠慮がちに胸から離れるが、曜子は物足りなそうな顔を見せる。
こんなのかずさにみられたら、どんな反応するかわからないな。
曜子さんに対しても嫉妬するのかな?
ただ、きっつい視線を向けられることだけはたしかだ。
春希「ありがとうございました。もうだいぶ平気です。
それは、見ていてわかりますよ。
高校のとき、かずさから聞いた話だと、子育てを放棄した薄情な人だと
思っていましたけど、会ってみると違いましたし。」
曜子「へえ。」
春希「高校の時会った時も、そんな冷たい人だとは思いませんでした。
でも、今は、すっごく過保護な母親だなって思います。」
曜子「そっか。まあ、今まで子育てしてこなかった分が濃縮されたかな。
でも、時々うざがれるのよねえ。」
春希「それはないですよ。照れ隠しですって。」
曜子「だったら、いいんだけど。」
そうさ。高校時代のあいつは、自分の気持ちを隠してきたんだ。
それが、どんな気持ちであっても。
曜子「ちょっと脱線しちゃったわね。ウィーンでのあの子のことは
コンサートが終わってから、ゆっくりしてあげるわ。」
春希「楽しみにしています。」
曜子が渡してくれたタオルも、もう必要がないようだ。
汗が止まり、震えも止まったのを自分でも判った。
曜子「さて、話を戻すけど、春希君が雪菜さんと二人で話すのはNGね。
私の病気のことがマスコミにばれるのと同じように
あなたのその症状が雪菜さんに知られるのは、よろしくない。」
春希「弱みを見せることになるからですか?」
曜子「それもあるにはあるけど、
・・・・・どっちかというと雪菜さんが同情して、
あなたから離れられなくなるんじゃないかって思うのよ。
あの子から聞いた雪菜さんしか知らないけど。
春希君はどう思う?」
春希「そうですね。その通りだと思います。
こちらが悪くても、こちらのことを心配しますから。」
どうも雪菜のことになると歯切れが悪くなるのが自分でもわかる。
曜子「となると、いきなり小木曽家に行くしかないか。
かずさが雪菜さんと話をするのは、その後がいいかな。」
春希「そうですね。」
曜子「じゃあ、できるだけ早く、話し合いの段取りつけてくれる?
私はいつでもいいから。」
春希「わかりました。
明日だったら、ご両親もいるはずですし、電話してみます。」
曜子「その辺はお任せするわ。
それと、春希君。その格好で開桜社行くのは、
いくらなんでもまずいから、スーツ用意しておくわ」
きっと曜子さんが用意するスーツだから、自分が持っているスーツとは
桁が違う値段なんだろうけど、反論もできず
苦笑いをするしかなかった。
自分が今まで避けていた事柄が、自分が理解するよりも早く進んでいく。
もしかしたら、自分で行動していても、こうなふうなスピードだったかも
しれないけど、今の自分にはついていくのがやっとだ。
まだまだリハビリが必要だと感じた。
曜子 開桜社 2/23土曜日
春希にとっては思い出深いビルであっても、曜子にとっては、
解決しなければならない問題がある場所にすぎない。
二人の表情は似ていても、内心は全く違っていた。
曜子「そんな渋い顔していたら、せっかく似合ってるスーツも台無しよ。」
春希「なんか普段着ないレベルのスーツを着ていると
落ち着かなくて。」
二人の服装は釣り合いがとれていても、着ている人間そのものは
浮足立っている。
曜子の新しいヒモと紹介されても、みんな納得してしまうだろう。
曜子「ふぅ。・・・これからは見栄えも気にしないといけないんだから
早くなれなさい。」
春希「はい。」
でも、今の春希くんには無理なことか。
こればっかりは、経験を積むしかないけど、仕事に関するコミュニケーション
の優秀さを考えれば、あっという間かな。
曜子が春希を値踏みしながら眺めているのを、
じっと耐えるしかない春希であった。
しかし、それもすぐに興味をなくし、ビルの中にある問題に意識が移っていく。
曜子「さ、行くわよ。」
春希をひきつれ、誰にも病気であるなんて感じさせない歩きで約束の部屋へ
向かっていった。
道中、春希が目だけを動かし、知り合いに会うのを警戒していたが
それに気がついてないふりをいた。
なにか励ましても効果も薄いし、
甘やかしてばかりではかずさを預けられない。
それでも、
曜子「胸を張りなさい。別にやましいことをしにきたんじゃないでしょ。
これはビジネスよ。」
春希「・・・・はい。」
ちょっと甘やかしすぎかな。
でも、どうもこの子たちをみていると、ほっとけないっていうか。
あぁーあ、これじゃあ簡単には死ねないじゃない。
曜子は小さい子供を見つめるのと同じような顔をしていたが、
春希はそれを別の気持ちであると解釈したのか、引きしまった顔になった。
女「こちらのお部屋です。」
通された部屋には既にアンサンブル編集長、開桜グラフ編集長、
春希直属の上司浜田の3人が待ち構えていた。
開桜社の面々もこれからのことを身構えているのか
5人で使うには十分すぎる部屋だというのに、すでに息苦しい雰囲気であった。
その中でも一番つらそうな春希の様子を見て、浜田が怪訝そうな顔をしていたが
曜子もここでは何もサポートできない。
それを知ってか、いや、それさえも考えられない春希は、歯を食いしばって
前を向いてるのがやっとのようだった。
曜子「急にスケジュール開けてもらって、本当にすまないわね。」
アンサンブル編集長(以下、アン)
「いつもこんなかんじなんで、気にしてませんよ。」
この中でも曜子一番になれているせいか、表情は硬くはない。
慣れは重要だが、慣れのせいで、曜子の変化を見落としている。
それを親切に教えるほど曜子には余裕がなかった。
曜子「開桜グラフさんも、今日はありがとうございます。」
開桜グラフ編集長(以下、グラフ)
「いえいえ。わざわざお越しになってくれて、歓迎しています。
それで、今回お越しになってくださった要件といますと?」
社交辞令のあいさつを進むが、浜田は春希の方が気になっている
ようだった。ただ、春希は浜田の視線に気がつかないふりをして
自分を保っていた。
曜子「色々回りくどいことをいうのは、しょうに合わないので
ストレートにいいますね。
ここにいる北原春希をうちの事務所に引き抜きたいの。
もちろんタダってわけじゃなく、それ相応の対価は用意して来たわ。」
浜田「北原!」
今まで沈黙を続けていた浜田が気持ちを抑えきれず声を上げるが
グラフ「浜田。」
浜田「すみません。」
開桜グラフ編集長が、ここは抑えろと浜田を制す。
それでも、浜田の視線は春希をとらえ続け、説明を求め続けた。
曜子「いいんですよ。突然のことですし。」
アン「たしかに、私でさえ驚いていますよ。
説明してもらっても、よろしいでしょうか?」
浜田と同じく驚いたアンサンブル編集長であったが、
曜子とのつながりがあるせいか
いち早く気持ちを戻し、場の進行をかってでてくれる。
曜子「簡単に言うと、かずさが本格的に活動を始めるにあたって
マネージメントをする人材が必要ってことなの。
ただ、あの子は気難しいから、誰でもってわけにはいかないから
そこであの子とコミュニケーションがとれる北原くんが
適任だと判断したの。
それに、彼の仕事の処理能力や交渉能力の高さも魅力的ね。
だから、彼をどうしても引き抜きたい。」
グラフ「といいましても、はいそうですと引き渡すことはできませんよ。」
曜子「だから、交渉に来たんじゃない?」
はたから見れば、曜子の方に圧倒的な余裕を感じられるが、
曜子自身はそうではなかった。
どうも気持ちを入れないといけない場面だと、薬のせいか気持ち悪い。
こんなことだったら、さっき薬飲まなきゃよかった。
でも、そんなことしたら、今頃床に倒れていたか。
ままならないって、本当に面倒で、嫌ね。
曜子の背中は汗で滲んでいたが、女優顔負けの演技で、顔には汗をみせず
交渉を有利に進めていく。
隣にいる春希でさえ気がつかなかったが、その春希といえば
自分のことで精一杯で、曜子の変化など感じる余裕すらなかった。
アン「交渉ですか・・・。」
曜子「2つ大きな対価を持って来たわ。
これ二つあれば、北原君に見合う対価のはずよ。」
グラフ「うーん、たしかに魅力的な提案ではなるのですが
わが社の社員を引き換えにというのは。」
曜子「そこは重々承知しています。だから、穏便に済ませたいんです。」
アン「編集長。ここは、冬馬さんの要求にのったほうがいいです。」
グラフ「なぜ?」
先を読む能力が優れているのか、曜子の行動に慣れているせいかは
わからないが、いち早く曜子の要求の意図を理解したのは
長年の付き合いがあるアンサンブルの編集長であった。
アン「つまりですね、このまま北原くんは自分で退職することが
できるんですよ。
たしかに規定にのっとて手続きをしていく必要はありますけど
別に冬馬さんが対価を支払う必要もないんです。」
全てを理解して、これ以上の交渉は諦めたのか、開桜グラフ編集長は
曜子に話を進めるようにうながす。
グラフ「ふぅ。というと、穏便に済ませたいってことでいいのでしょうか?」
曜子「理解してくださって、大変うれしく思います。
これからも開桜社のみなさんとは協力関係を続けたいですから。」
グラフ「それで、対価といいますと?」
すでに北原へ執着を失ったか、対価の方が気になるようだ。
曜子「まず、この情報を聞いてしまったのならば、必ず北原君を
もらいうけます。もちろん、それ相応の情報であると確信してます。」
開桜グラフ編集長を情報の重大性を判断しきれず、アンサンブル編集長に
判断を求める視線を向ける。
アン「冬馬さんがここまでおっしゃるのならば、信用できます。」
それを聞いて安心したのか、話を続けるよう求めた。
曜子が提示したのは条件付きであったが、開桜社としてはこれ一つで
春希との取引を成立させてもよかった。
具体的内容は
まずは、曜子の白血病独占インタビュー。
そして、雑誌の発売時期はコンサート後の3/6木曜日であり
それまでお互い沈黙を守ること。
今注目の冬馬かずさの母親の白血病の独占取材だけでも
大いに賑わうだろう。
ただ、それだけでは曜子には不十分だった。
アン「これは、私でも驚いたというか・・・体の方は?」
親しい間柄ということもあって、情報の重要性よりも曜子の体の方を
気にしてくれたのがうれしかった。
曜子「今は大丈夫よ。今は死ねないから。」
浜田「それで、やめるのか? 北原!」
編集長に注意され黙っていたが、ついに我慢できなくなり、春希に答えを求める。
春希「はい。かずさを、・・・冬馬かずさを一人にはできないんです。
自分勝手なことだとは分かっていますが、申し訳ありません。」
浜田「それなら、こうなる前に相談してくれても」
グラフ「今は、この辺にしておけ。」
浜田「すみません。」
まだ浜田は言い足りなそうではあったが、しぶしぶ引き下がる。
曜子「それから、もう一つの情報なんだけど。」
グラフ「いやぁ。冬馬さんのインタビューだけでも十分すぎますよ。」
こうまで油断してくれると助かるわね。
不敵な笑みを隠しつつ話を進める。
曜子「もうひとつの方は、順番からすると、私の記事の後にしてほしいの。
ただ、私の記事もデリケートでしょ。だから、発表する時期を
決めかねているから、その辺は無理をしてもらうかもしれないけど。」
グラフ「大丈夫ですよ。」
上機嫌な開桜グラフ編集長はなにも疑問に思わず、話を求めた。
ただひとりアンサンブル編集長は気が付いたようであったが、
アン「あの・・・」
その声を遮って、曜子は話をすすめる。
曜子「北原君とかずさの結婚発表についてお願いしたいの。」
ここで全てを理解したのか開桜グラフ編集長はしてやられたという顔しか
できなかった。
アンサンブル編集長も、やられたぁという顔を見せたが
すでに諦めモードであった。
ただ、春希と浜田だけは、全く理解していないようであったが。
つまりのところ、曜子は開桜社を巻き込んで、
春希とかずのの結婚を隠すようにしたのだった。
開桜社としては、こんな美味しい記事は見捨てられない。
曜子たちも結婚を今すぐ発表はできない、
ならば、信用できる相手に隠ぺいを手伝ってもらう方が好都合。
しかも、もともと結婚発表を任せるつもりの開桜社なのだから
問題もなかった。
問題があるとしたら、開桜社が隠ぺいを助けなければならなくなってしまった
ことくらいだが、曜子の策略にはまったほうが悪い。
全てが終わって満足そうな顔の曜子と微妙な顔の春希。
してやられたという開桜社の面々であった。
グラフ「それでは、北原くんは浜田と引き継ぎについて打ち合わせてくれ。
冬馬さんは、インタビューの段取りについて。」
お互い疲れる会談で会ったが、各自の仕事へと意識を向けていった。
春希 車中 2/23土曜日
春希の発案で用意してもらったレンタカーのおかげで、
移動が容易になっただけでなく、曜子さんの病気へのケアができるように
なったのは大きなプラスだった。
ハイヤーやタクシーという手段もあったが、秘密を守るという点で危うい。
たしかに、それなりのハイヤーとなれば、顧客の情報を外部に流すとは
考えにくいが、それでも絶対とはいえない。
それに、かずさの送り迎えができる点も、春希にはうれしかった。
レンタカーといっても、このクラスだと気を使うよなぁ。
あまり目立つ車はダメだけど、この車だったら国産だし
とくに目立たないか。
レンタカーにするか、曜子好みの車を買うかでもめたことを
思い出すと、金銭感覚の違いにめまいを覚えた。
たしかに、譲歩してくれて、曜子さんが納得してくれた車が来るまでは
レンタカーになったけど、レクサスとはなぁ。
これもクラウンだし、運転する人の技量ってものを考えてほしい。
免許を取ったものの、ほとんど運転していない春希であったが
安全運転で「少し」ゆっくりな速度ではあるが、
少し運転してみれば勘をとりもどし、特に問題はなかった。
あまりにも安全運転で、曜子がたまにいらっとくることがあったくらいは
問題のうちには入れなくてもよいといえる。
曜子「だいぶ運転慣れたみたいね。」
後部座席で横になり、声色だけは元気な声がかかる。
春希「おかげさまで。」
曜子「でしょう。やっぱ、やすーい車よりは、そこそこの車の方が運転
しやすいでしょ?」
春希「比べられるほど運転してないので、わからないですけど
確かにブレーキの効き具合やそのときの制動がいいですね。」
曜子「気にかかるところが、いかにも春希君らしいわね。」
バックミラーには映らないが、曜子が気分がすぐれないでいるのが
なんとなくわかってしまう。
だいぶ無理させちゃったな。
早くホテルに戻って、安静にしてもらわないと。
春希「それに、座り心地がいいのも良いですね。」
曜子「寝心地もいいわよ。」
春希「それはなによりです。」
会話はそれほど続かなかった。
お互い開桜社でのことを話したいとは思えない。
必要なことは話すが、だからといって感想を交換したいだなんて
思える心境ではなかった。
ピピピピピ・ピピピピピ・ピピピピピ・・・・・・・
携帯の着信音が沈黙をやぶる。
曜子「どう、調子は?」
かずさ「ああ・・・・、うまくいってる。」
曜子「こっちも、さっき無事終わったわ。」
かずさ「そっか。」
曜子「それだけぇ?」
かずさ「いや、ありがとう。ちょっと気がぬけちゃって。」
曜子「たしかに私も疲れたかも。それと、
小木曽家のみなさんとの話し合いは、明日になったわ。
雪菜さんとの話し合いは、もうちょっと待ってね」
疲れて、気分がすぐれなくても、曜子は声には出さなかった。
ただ、かずさが開桜社のことで電話してきたのであれば、それなりの
うれしさが声に出るはずではあったのに、それが全くなかった。
まるで、意外なことを言われて驚いている風でもあった。
しかし、それを曜子の様態が曜子が気がつくことを妨害してしまった。
かずさ「わかってるよ。母さんにまかせるよ。
あ、でも、まだ何も雪菜の両親には言ってないんだろ?」
曜子「さすがに電話ではね。
明日、私と春希くんが伺う約束をしただけよ。
話しは、向こうについてからね。」
かずさ「そっか。母さん、ありがとう。
こっちは、調子がいいみたいだから、今夜少し遅くなるかもしれない。」
曜子「いくら調子がいいからって、飛ばしすぎてはだめよ。」
かずさ「なにいってんだよ。もうコンサート間近なんだから
できる限りのことはやるよ。」
曜子「そっか。でも、体だけは気をつけなさいよ。」
かずさ「わかったよ。じゃあ」
曜子「じゃあね。」
曜子は、携帯を鞄にしまうのもおっくうで、そのまま座席に携帯を手放した。
曜子「かずさ、今日遅くなるかもだって。」
春希「そうですか。あまり遅くなるようだったら迎えに行きますね。」
曜子「よろしくね。」
それきり曜子はぐったりとして、ホテルに着くまでしゃべらなかった。
調子のいいときの曜子であれば、かずさが開桜社のことが気になって
電話してきたのではないことに気が付いたかもしれない。
かずさがいつもと様子が違うと気がついたかもしれない。
もし、かずさの異変に気がつくことができれば
あんな後悔なんてすることはなかったと、
のちに曜子は深く苦しむことになった。
かずさ レッスンスタジオ 2/23土曜日 夜
夕方になるにつれ、かずさの意識は外へ向けられていく。
練習に集中できない。
気分転換にストレッチやコーヒーを飲んでみるものの
まったく改善させることはできなかった。
次第に、時計や入口を見る時間の方が、ピアノを弾く時間よりも
増えていくほどであった。
来た!
7時ちょっと前に待望の待ち人が現れる。
早く会いたい気持ちも強いが、それと同時にできれば会いたくない存在。
こればっかりは、避けては通れない。
雪菜「お待たせぇ。ごめんね、かずさ。
出る前に少しつかまっちゃって。」
かずさ「いいさ。こっちも練習してたし。」
いかにも今まで練習していましたとう感じをみせようとしたが
うまくいったかわからない。
そして、なによりも雪菜の顔を見ることができなかった。
かずさ「あ、あのさ、雪菜。」
雪菜「もうすぐコンサートだもんね。練習大変だよね。
ほんとうに、有名人になっちゃったんだね。」
かずさ「有名人って。」
雪菜「有名人だよ! 私、かずさが載ってる雑誌全部買っちゃったもん。
それと、コンクールおめでとう!
すごく権威があるコンクールなんでしょ?」
かずさ「1位になったわけじゃないし。」
雪菜「そんなことないって。十分立派だよ。」
雪菜が自分のことのように喜ぶが、どう反応していいかわからない。
かずさ「日本人が騒ぎすぎなんだよ。」
雪菜「そんなことないよぉ。」
雪菜が喜ぶ顔を見ても、自分は喜ぶ気持ちにはなれない。
雪菜を見ていると、雪菜の隣にいた高校生の春希を思い出し、
つらい気持ちがよみがえる。。
あっ!
これか、春希。
雪菜が聞きたくない話をさせないってやつか。
かずさは下を向き、じっと靴を見ていたが、やっと決心したのか
この日初めて、いや5年ぶりに雪菜の顔をしっかり見た。
きれいになったな、雪菜。
5年で磨きがかかったというか。
これじゃあ、春希もほっとかないよな。
でも。
雪菜「ねえ、聞いてる? かずさ?
私ばっかり、話しちゃってごめんね。」
かずさ「あたし、春希と婚約したんだ。」
雪菜「え?」
叫んだわけでもないが、よく通る声でかずさで言う。
かずさ「昨日、春希と結婚することになった。
そして、春希はあたしの仕事を手伝うことになって
母さんの事務所で働くことになったんだ。
それで、今日春希の会社の上司とも話し合って了解ももらった。
雪菜には悪いと思ってるけど、あたしは
あいつを、・・・春希を手放すことはできない。」
かずさは、いっきに伝えた。
途中、息が苦しくなったが、それでも言いきった。
一気に言わなければ、途中くじけそうにもなったし
雪菜に話をそらされてしまうとも思った。
たったこれだけを伝えただけなのに、息がきれ、酸欠状態になりそうであった。
雪菜「なにを、・・・・なにを言ってるのか、わからないよ。」
息が苦しくても、かずさは続ける。
かずさ「明日、小木曽家に行く予定だ。
母さんと春希が直接説明しに行く。」
雪菜「春希くんが来るの?」
かずさ「そうだ。」
雪菜「・・・・・・・・・」
かずさ「・・・・・・・・」
二人とも言葉が見つからず、かといって、お互いの顔を見るのも気まずかったが
雪菜「ぁ、・・・・・まだうちの親には話してないんだよね?」
かずさ「さすがに電話で話す内容じゃないから、話してはない」
雪菜「そっか。」
かずさ「要件はそれだけだ。
雪菜。・・・・・ごめん。」
雪菜「かずさ。」
もう言葉を発するのも苦しくなったかずさは、これ以上雪菜を見ていると
泣き叫んでしまいそうだった。
かずさ「もう行くから。」
それだけ言い残すと、雪菜を残して、逃げるようにホテルにむかって駈け出した。
雪菜がどんな顔をしているか考えるだけでもつらい。
最後は雪菜の顔を見ることもできなかった。
だから、雪菜が泣いていないことを、かずさは知らなかった。
春希 ホテル 2/23土曜日
夕食はなにを食べるか相談していたが、たまたまホテルの部屋にキッチンスペース
があったのを思い出し、そのことを聞いてしまったのが運の尽きだった。
料理はできないことはないと告げると、今後の栄養管理とかずさへの食事
の練習も兼ねて俺が作ることになってしまった。
べつに作ることに不満もないし、曜子さんに付き合って馬鹿高い料理を
食べに行くよりは気は楽だけど、それでも、曜子さんに料理を披露するとなると
緊張してしまう。
押し問答の末、どうにかすき焼きで落ち着いてくれたのは、ありがたかった。
最初は鍋をおしたけど、そこは力が出る料理ということもあり鍋は即却下される。
鍋もすき焼きも基本鍋なんだし、同じだと思うけど、そこは肉のボリュームの
違いらしい。
ホテルに曜子さんを送ってから、御宿のデパートで材料を買いに行く予定だったが、
曜子さんが張り切ってしまい、一緒に行くことになってしまった。
開桜社を出たすぐ後は、体調を悪さを心配したが、体調が良くなたことは
うれしいが、また体調を崩すのではないかと心配だった。
しかし、気分転換も必要といいはられては、反論でできない。
買い物を初めてすぐに、さすが親子だと実感してしまう。
金銭感覚が自分とは違いすぎる豪快な買い物。
それだけでなく、やはり買うのは肉中心で、10人前はある高級牛肉。
そして、野菜はほんの気持ち程度。
この野菜さえも最初は見向きもしなかったのだから、食事の偏りは、
しっかりとかずさが小さいことから「教育」されていたのがよくわかる。
曜子「こんなものかな?」
春希「こんなのもかなって、肉ばっかじゃないですか。」
曜子「すき焼きといったらお肉でしょ?」
春希「たしかに、肉がメインですけど、しっかりと野菜も取ってください。
健康のためにも。」
曜子「はい、はい。野菜もお肉のように美味しく料理してくれたら
考えてもいいわよ?」
春希「ちゃんと記憶しましたからね。
あとで食べないなんて言わせないですから。」
曜子「はーい。」
と、気のない返事をして、別の売り場が気になったのか
ふらふらと歩きだした。
手のひらで転がされてるよな、これって。
つまるところ、しっかり料理も覚えろってことだな。
やっぱ親子って似るんだな。
と、一人ニヤニヤしていると、遠くで曜子が呼ぶ声が聞こえる。
曜子「春希くーん。こっちお願い。」
春希「わかりました。今行きまーす!。」
ちょっと目を離したすきに、大量のスウィーツを買われてしまい
ため息をつくしかなかった。
春希「これ持てばいいんですね?」
曜子「そ。」
春希「一つだけ、お願いがあるんですが。」
曜子「いいわよ。でも、スウィーツ食べるなって言うのは無理だから。」
春希「いいえ、それは無理だってわかってますから。
ただ、今度買うときは、持ち帰ることができる量にしてください。」
結局、デパートの従業員が駆けつけてきて、ホテルまで全て運んでくれたが
それさえも当然っていう顔を見せる曜子に圧倒されるだけだった。
かずさ ホテル 2/23土曜日
どうホテルに戻ったのか曖昧だったが、部屋のドアを開けると急激に
生活感を感じさせる美味しそうな匂いで現実に引き戻される。
雪菜との会話をここでは忘れ、暗い表情を見せないためには
切り替えるしかない。
食欲を刺激するこの匂いは、かずさの助け船になってくれた。
かずさ「なにやってんだよ。
ドア開けたら、すごい匂ってきたぞ。」
春希がうどんを入れつつ返事をしてくる。
春希「お帰り、かずさ。思ってたより早かったな。
こんなに早いんなら、待ってればよかったかな。」
曜子「おかえりー、かずさ。
いつ帰ってくるかわからない人を待つ必要なんてないわ。
食事は戦争よ。」
春希「大丈夫だからな。あらかじめかずさの分も用意してあるからさ。
手を洗って来いって。」
かずさ「あたしの分もあるのか?」
春希「当たり前だろ?
お前がお腹をすかせて帰ってきたら、すぐ食べられるようにしてたさ。」
さも当然だと言わんばかりの顔を見ると、ほっとしてしまう。
かずさ「そっか。じゃあ、手を洗ってくる。」
かずさが手を洗いに行くのを見送ると、曜子は無理して食べていた時の汗をぬぐい、
今食べていた分も春希に受け渡し、コーヒーとケーキを食べる準備を急いだ。
春希は何も言わず、曜子に合わせて素早く用意を手伝うしかなかった。
曜子は、病気のせいで痩せただなんて思われないように
今までどおりに食事量をとるものの、その姿をかずさに見せることなんてできない。
額に汗をかき、苦しい表情で食べる食事なんて、かずさにはみせられなかった。
かずさ「お待たせっと。
なんだ、母さんはケーキ食べてるのか。
あたしの分もある?」
曜子「いっぱい用意したから大丈夫よ。
ケーキの前に、愛しのダーリンお手製のすき焼き食べなさい。」
と、ウインクまで送ってきたが、恥ずかしいあまり
かずさ「うるさい!」
と、素直にうれしさを伝えることができなかった。
母さんが悪いんだ。
素直になるって決めたのに、こんなふうに冷やかされたんじゃ無理だって。
春希「熱いから気をつけろよ。」
かずさ「野菜ばっか入れるなって。肉をもっと入れろって。」
春希「肉もいいけど、野菜もな。」
いつもの受け答えで少しは余裕ができ、
熱いから顔が赤かったとしてもしょうがないよな。
せっかく作ってくれたんだから、お礼を言うのが礼儀だし。
かずさ「ありがとう。」
自分のお皿から見上げるように春希に向かってつぶやいたが
どうにか感謝の気持ちは届いたようだった。
春希「料理もっと、覚えるからさ。
かずさが肉と同じように美味しいって感じる野菜を使った料理たくさん
つくれるようになるから、期待しておけよ。」
かずさ「そこは、肉と野菜を使った料理にしてくれよ。」
春希「考えておくよ。」
春希の笑顔がまぶしかった。
春希が食事を用意できる喜びを感じるように、
春希が喜んでくれることをしていきたいな。
あたしに何ができるかな?
まずは、雪菜と。
一瞬苦い顔をしてしまったが、春希も曜子も気がつかなかったようで、
それを忘れるために、一段と大きな声でおかわりを要求した。
かずさ「もいっこ。」
春希 ホテル 2/23土曜日
かずさがすき焼きを食べ終わるのを見計らって、
曜子はタンブラーに入れたコーヒーをかずさを受け渡す。
くすんだシルバーのステンレスタンブラーのだったが
どうみてもこの部屋の高級感とつりあっていない。
年季が入った代物のようで、かずさの私物なのだろうか?
かずさ「なにをじっと見てるんだよ。
あたしが甘当なのは知ってるだろ?」
いぶかしげな表情を向けてくるので、とっさに受け答える。
春希「いや、それは知ってるけどさ。
ただ、そのタンブラー使いこんでて、この部屋の備品にしては
変だなって。
もしかして、アンティークかなんかか?」
かずさ「アンティークのタンブラーなんてあるんなら見てみたいものだ。」
何を馬鹿なことをいっているという表情をみせるので、
軽くへこんでしまったが、
曜子「それ、かずさの私物よ。」
かずさ「母さん!」
思わぬ声に、かずさは急激に顔を赤くしていく。
春希「え?」
もしかしたらかずさの私物なのかとは思っていたが、
それにしては、かずさの反応が大げさすぎる。
曜子「どうせすぐにわかるんだし、いいじゃない?
こういうのは最初に伝えておいた方が気が楽よ。
後になるほど、どつぼにはまるんだから。」
かずさ「そんなことはない。」
顔をそらすかずさに追撃を加える。というか、とどめかもしれないが。
曜子「そうだったから、面倒なことになったんでしょ。」
かずさ「うるさい。」
自分が悪いとわかったのか、消えるような声でしか反撃はできなかった。
春希「けっこう年季が入ってますよね?」
曜子「そうよ。
もう5年は使ってるんじゃないかしら?
ねえ?」
曜子は、面白いものが始まるのを期待する目をかずさに向ける。
かずさ「そうだよ。」
春希「もの持ちいいんだな。
よっぽど大切なものなのか?」
なにか癇に障ったのか、かずさが噛みついてくる。
かずさ「忘れたのか?」
春希「え? 忘れたって?」
かずさとの思い出の品だったのだろうか?
思いだそうとしても、なにも浮かんでこない。
そうすると、やれやれといったあきれ顔で
かずさ「やっぱり忘れてたのか。」
と、がっくり肩を落とすかずさであった。
曜子「それはひどいわねぇ。春希君。乙女心ってものをわかっちゃいない。」
春希「俺に関係ある品だったんですか?」
曜子「そのタンブラーはね、かずさが長期間家を空けるときは
必ず持ち歩いていたのよ。
しかも、ペアとなるもう一つのタンブラーは、今もウィーンの
かずさの自室の3種の神器として飾られているわ。」
春希「かずさ、ほんとうなのか?」
かずさ「3種の神器はともかくとして、持ち歩いてるのは本当だ。」
曜子「3種の神器も大切じゃない?
犬のぬいぐるみに、よれよれになった参考書。
そして、新品同様のタンブラー。」
かずさ「母さんは少し黙ってろよ。」
曜子「はい、はい。」
曜子は邪魔者は退散しますというポーズなのか、ケーキを食べ始めた。
春希「どういうことなのか、教えてくれると助かるよ。
それと、忘れてしまったことは謝罪させてくれ。」
かずさ「いいって。春希も実際使ったのは、ほんのわずかの間だったし。」
春希「俺も使ったことあったのか?」
かずさ「完全に忘れたみたいだな。
学園祭の時、うちでギターの特訓した時しただろ。
そのとき、うちに行く前にコーヒーショップ寄ったんだ。
それくらいは覚えてるだろ?」
春希「その辺は何となく。」
かずさ「はぁ・・・・。」
かずさのため息を聞くほどに、自分が悪いという気持ちが強まってきていき、
やりきれない気持ちになってしまう。
かずさ コーヒーショップ 5年前
かずさがコーヒーと一緒に買うケーキとドーナツを選んでいると
春希はコーヒーショップオリジナルのマグカップやタンブラーを
物珍しそうに眺めいていた。
かずさ「なにか面白いものでもあったのか?
ないなら、とっとと注文を済ませるぞ。」
春希「これ見てみろよ。」
春希が見ていたのは、ステンレスでできている保温にすぐれたシルバーの
タンブラーであった。
かずさ「普通のくすんだシルバーのタンブラーにしか見えないが?」
春希「そりゃ、タンブラーだからな。」
なにを馬鹿なことを言ってるんだ?
そんなわかりきったことを聞いてるんじゃない。
春希「そんな人を馬鹿にするような目は、ギターの練習の時
だけにしてくれよ。」
かずさ「そうさせるのは、お前のせいだ。」
春希「ちゃんと説明するから、せめて聞いてから、馬鹿にしてくれ。」
結局馬鹿にしていいのかよ。
かずさは、ちょっとあきれたような表情をとったが
黙ってるからとっとと話を進めというポーズをとる。
春希「このタンブラーさ、武骨な色合いで、実用性重視の保温に優れた
スレんレス性ってところが俺に似ていないか?」
かずさ「たしかに、効率ばかり気にして、実用性重視ってところは
北原に似ているな。」
春希「な! そう思うだろ。」
そんな笑顔を見せるなよ。
つられて笑顔になりそうになったじゃないか。
こいつ、気がついてないよな?
と、変なところを気にしているかずさのことなど気にもせず
春希は説明を続ける。
春希「でも、違う見方をするとさ、このタンブラーも、
落ち着いたくすんだシルバーなところがかっこよくて
クールな感じがしないか?」
かずさ「ものはいいようだが、・・・・そうともいえるな。」
かずさが共感したのがうれしかったのか、ますますうれしそうに話をする。
春希「だろ?
このシンプルでクールなところが、なんか冬馬に似ているなって
思ったんだよ。
同じ商品なのに、見方によっては違う印象だけど
それでも、なんか、・・・・・・似た者同士じゃないけど
なんか一体感みたいなのがあっていいかなって思ってさ。」
後半、照れが入ったのか声が小さくなってきたが、かずさには
しっかり聞こえ、自分も顔が赤くなってくるのがわかった。
かずさ「それだけか。
それじゃあ、注文済ませるぞ。」
春希「ちょっと待ってくれよ。・・・・え?」
かずさ「気にいったんだろ?
ちょうど練習の時に使えるし、買っていって損はないだろ。」
ぶっきらぼうに伝えることで照れを無理やり隠し
うれしい気持ちも隠しつつ、
クールで実用的なタンブラーを二つ購入した。
春希 ホテル 2/23土曜
なるほど! あの時のタンブラーか。
でも、あの時は同じ色のを買ったから、かずさのを間違えて飲もうとして
えらい目にあったよな。
かずさ「その目は、やっと思い出したみたいだな。」
春希「思い出したよ。
そうだな。大事な品物だな。
大切な思い出の品を大事にしていてくれて、ありがとう。」
かずさ「そんな、あらたまって礼を言われるようなことじゃあない。」
曜子「素直に感謝の気持ちを受け取っておきなさい。
そういうところは乙女らしくないんだから。」
やれやれといった表情の曜子を、目で「だ・ま・れ」と静まらせるかずさ。
曜子「わかったわよ。うん、もう。
でも、ウィーンにあるもう一つのタンブラーは受け取ってもらうんでしょ?」
かずさ「それは・・・・。」
春希「もし、かずさが許してくれるんなら、俺は、そのタンブラーを使いたい。」
かずさ「春希が使ってくれるなら、いいよ。」
春希「今度は同じタンブラーでも、間違いようがないから安心だな。」
かずさのは、使いこんでいるせいもあって、あのときよりも色もよりくすんで
傷もあるし、間違いようがないよな。
かずさ「別に間違えたっていいよ。
あたしは春希が飲む苦いコーヒーは飲めないけど
春希があたしのコーヒーを飲む分には問題ない。」
それって、関節キスはしていいっていう許可だよな。
たしかに、それ以上のことをしまくってきたけど、
どうどうと宣言されるのは、気恥かしいな。
しかも、曜子さんがニヤニヤ笑っているし。
春希「脳がつかれて、甘いものを欲した時は
遠慮せず飲むことにするよ。」
かずさ「口移しだっていいのに。」
聞こえてるぞ。
聞こえないくらい小さな声だけど、しっかりと聞こえてる。
たぶん、曜子さんも聞こえてるはず。
ニヤニヤ度がさらに増してるから、きっと聞こえてる・・・・。
すき焼きを片づけ、かずさがまだプリンを食べているのを
コーヒーを飲みながらくつろいでいると
曜子が話を切り出してきた。
曜子「春希君には了解とったんだけど、春希君、冬馬春希になるから。」
かずさ「え? 何言ってるんだよ。春希は北原だろ。
もし、なるとしたら、あたしが北原かずさになるのが普通じゃないか。」
曜子「ふつうならね。
でも、あなたの場合、北原になっても仕事では冬馬を名乗ることに
なるわよ。」
かずさ「別に、北原でやっていっても問題ないだろ。」
曜子「問題があるから冬馬春希にするのよ。
冬馬の名前を使わないと、日本はともかくヨーロッパじゃ
仕事にならないじゃない。
まったくの無名からやるなんて、馬鹿げてるわ。」
やっぱり何も分かってないという目をする。
そして、こちらの方にもアイコンタクトで、あとはよろしくって、
最後は丸投げかよ。
たしかに、かずさがこだわってるのは、俺のことだろうけど。
春希「かずさもプライベートと仕事で名前を使い分けるのは嫌だろ?
だったら、冬馬で統一した方がいいと思うんだ。
俺は北原にこだわりはないしさ。」
かずさ「だけどさ、北原かずさっていいだろ?
春希も、あたしが北原かずさで演奏してほしいと思わないのか?」
理屈ではわかってるんだろうな。
でも、踏ん切りがつかないというか。
曜子さんじゃないけど、乙女心ってやつなんだろう。
春希「俺は、かずさが演奏して、世界に認められるんなら、
冬馬でも北原でもいいんだ。
でも、曜子さんがいうように、北原は無名だし、仕事を取ってくるのさえ
難しくなる。だったら、名前が知られている冬馬のほうがいいじゃないか。」
かずさ「でもさ。」
やっぱ理屈じゃダメか。
だったら、
春希「俺は、北原かずさも魅力的だと思う。でもさ、冬馬春希も魅力的じゃないか?
冬馬っていうとクールなイメージがあって、それに俺も冬馬ファミリーの
一員になれてった思えて、うれしいし。」
かずさ「クールって。そんなの周りが作ったイメージだろ?」
もう一息。
春希「かずさも知ってると思うけど、俺は家族っていうものが希薄で
いることにはいるけど、ちゃんとした家族はいない。
だから、冬馬家に入ることで、家族ができるんだなって思えて
すごくうれしいんだ。
かずさだけじゃなく、曜子さんもお義母さんになるわけだし
なんか心が温かくなるんだ。」
かずさ「・・・・・」
かずさの棘が抜けたようで、なにも言ってこないが、もう反論はないみたいだった。
それと、曜子さんもなんかお母さんっていう表情になっていく。
春希「それにさ、冬馬春希だと、冬馬かずさの春希って感じがするだろ。」
曜子「そうよねぇ。春希くんがかずさの所有物って感じが強く出ていて
あなた好みじゃない?
なにせ、あたな独占欲強いし。」
春希「曜子さん。」
ほんと最後の最後で横槍を入れてくるんだから。
たしかに、もうかずさの心はしっかり冬馬に傾いているけど
それでも、ここでちゃちゃを入れなくても。
かずさを見ると、わなわなとふるえて、顔を真っ赤にして、
今にも噛みついてきそうだ。
もし噛みつくとしても、曜子さんじゃないのは確かだろうが。
かずさ「冬馬春希でいいよ。
仕事とプライベートで使い分けるの面倒だし。」
納得はしたけど、余計なひと言で、ちょっと、
いやおもいっきり拗ねたみたいだが、一件落着となりそうだ。
かずさは気まずそうに、照れ隠しにコーヒーを飲み、
この話を打ち切りたそうだったが、
かずさ「あたしは、春希に家族を作ってあげられるのが一番うれしいかもな。」
これが最後だという意思表示か、それだけいうと背をそむけてしまった。
曜子さんは、やれやれという目でかずさを見つめていたが、
やれやれなのは曜子さんに対してだと思っていても、
口に出せずに押しとどめるしかなかった。
これから先、ちょっとやっかいで、だけど、お互いを信じあってる
こんな家族の会話が増えていくんだと思うと
うれしさがこみ上げてきた。
春希 小木曽家前 2/24日曜
何度も訪れたとこがある雪菜の家。
今までこんなに重苦しい想いでチャイムを押すことはなかったはずだ。
大学で離れていた3年間であっても、こんなにも苦しい想いで
雪菜に向かい合わなければならないことはなかった。
それだけ覚悟がいるっていう証とも思えた。
曜子「いつまでそうしているの?
さすがに、こればっかりは私一人でってわけにはいかないわよ。」
呼び鈴のボタンに指を置きながらも、押すことができずにいるのを心配して
声をかけてくる。
決して、せかしているわけでも、非難しているわけでもないのはわかる。
ただ、覚悟を確認しているだけ。
春希「わかってます。」
そう伝えるのと同時に、ボタンを押す。
しばらく待つと、家の中からこちらのことを確認したのか
玄関が開かれた。
だが、そこに現れたのは、思いもしない人物で現れた。
武也「春希遅かったなぁ。もう始まってるぞ。」
依緒「ささ。入って、入って。冬馬さんはもう来てるぞ。」
武也「冬馬のお母さんも外は寒いから、早く中にどうぞ。」
重苦しい想いでいた自分たちとは真逆の雰囲気で話す武也と依緒に
二人とも面をくらって、ただただ現状を理解できないでいた。
依緒「武也。テンション高すぎ。
二人とも、ぼーぜんとしちゃってるじゃない。」
武也「だってさ。雪菜ちゃんと春希の婚約パーティだぜ。
そりゃ、テンション高くなるでしょ。」
依緒「それもそっか。」
雪菜との婚約パーティー?
そんな予定聞いてない。
そもそも、今日は雪菜の両親と話をするために予定を空けてもらっていたんだし。
そのことは、ご両親だってわかってたはずなのに。
どうなってるんだよ?
状況がわかってきても、判断ができず、唖然とするしかできなかった。
それでも、状況を整理していると、
曜子「かずさ? かずさが来ているの?」
春希「え?」
たしか依緒が「冬馬さんも来ている」って言ってたはず。
さっきは、武也たちの登場で理解できなかったが、かずさが来てるってことか?
依緒「冬馬さん、・・・あ、かずささんも来ていますよ。
1時間前? それよりもうちょっと前だったかな?
ねえ、武也。」
武也「そーだな、たぶん1時間半前くらいじゃなかったかな。」
曜子「そう。」
曜子は、そうつぶやくのがやっとだった。
春希「ここにいても、状況がわかりませんし、中に入りましょう。」
曜子にそう告げると、黙って後をついてきたが、
曜子さんがなにを考えているのかは、わからなかった。
そんな春希たちを見ても、武也たちは緊張でもしてるのかと
勘違いしてくれたのだけは助けになった。
状況がわからないままであったが、
ただ、一つ分かったことは、この状況は絶望的だということだけは理解した。
武也「今日の主役の片割れがいらっしゃいましたぁ。」
陽気な声が室内に響く。
部屋にいる一人の人間以外がこちらを注目し、祝いの声をあげる。
朋「おそーい。せっちゃんが一人でさびしがってたよ。
主役なんだから、もっと早くこなきゃ。」
孝宏「おめでとうございます。しょうもない姉ですが、よろしくお願いします。」
雪菜の父は、何も言ってこないが、祝ってくれてはいるようだ。
雪菜の母も料理やワインを用意し、忙しそうに動いている。
そんな祝いの席にいて、雪菜はうれしそうに微笑んでいるのをみると
心苦しかった。
かずさ ホテル 2/23土曜 夜
着信履歴をみると、雪菜から電話があったことが表示されている。
もう話したいことは伝えたので、これ以上会う必要もない。
会えば泥沼に、はまっていくのは明らかで、
駆け引きができないかずさであっても、それは理解でした。
それでも、言いたいことだけを言って逃げるように帰ってきたことを、
雪菜への後ろめたさが、かずさに折り返しの電話をかけさせてしまう。
ちょうど春希もお風呂だし、大丈夫だよな。
母さんは別の部屋だし。
発信音が鳴ると、すぐに通話表示に切り替わり、急いで携帯を耳に当てる。
雪菜「電話ありがとう。もう、電話も出てくれないって思ってた。」
かずさ「マナーモードになってて、今着信に気がついたんだよ。」
つい言い訳が出てしまう。
ほんとうは、もっと前に気が付いていた。
マナーモードになってたのは本当だけど、着信には気がついてても
気がつかないふりをしていただけ。
雪菜を遠ざけていたかったことが、かずさを追い詰める。
雪菜「それじゃあ、仕方ないよね。
でも、かずさは、私を仲間外れになんかしないよね?」
かずさ「ごめん。」
雪菜「いじわる言っちゃって、ごめんなさい。
私もわかっているの。
でも、でもね、・・・最後に明日、もう一度だけ会えない?」
必死に訴えてくる雪菜を邪険にはできない。それでも、
かずさ「明日は、春希たちが会いに行くだろ?
だから無理だよ。
その後だったら、会うことができると思う。」
雪菜「それじゃ、ダメ。」
かずさ「ダメっていっても、無理なものは無理だよ。」
雪菜「たぶん明日春希君たちが来たら、もうかずさに会うことは
できなくなると思う。
お父さんも許してくれないだろうし、私も会う勇気がない。」
かずさ「雪菜。」
雪菜「だからね、明日春希君たちがくる前に会いたいの。」
かずさ「・・・・・・・・」
雪菜「お願い、かずさ。」
もし立場が逆だったらと思うと、雪菜の願いをかなえたいと思ってしまう。
かずさ「わかった。どこに行けばいい?」
雪菜「明日、私は家の外に出ることはできないと思うから
悪いんだけど、うちに来てくれると助かる。ダメかな?」
かずさ「雪菜のうち? それは、ちょっと。」
雪菜「大丈夫だって。まだ、なにも春希くんたちが話をしていないんだし。
それに、かずさときちんと別れの話をしたいだけだから
そんなには時間とらせないから。」
かずさ「わかった。」
このとき、春希にあれほど言われた雪菜のペースに乗せられるなと
何度も言われたことを、きれいさっぱりかずさの頭からは抜け落ちていた。
かずさの雪菜への罪悪感と、春希と曜子に内緒で雪菜と話している後ろめたさが
かずさの平常心をむしばんでいた。
春希 小木曽家 2/24日曜
曜子「かずさ。」
春希にだけ聞こえるような小さい声だったが、その視線をただると
ただ一人、この状況に耐えているかずさを見つけることができた。
かずさ、どうして?
朝、練習に行くって言ってたのに。
どうして、かずさがここにいるんだ。
状況がつかめず、曜子に目を向けると、
曜子の目は暗く、冷たい感情があふれるのを感じられる。
表情だけはその場の雰囲気に合わせてにこやかにしているのが
頼もしくもあり、そしてなによりも、恐怖を覚えた。
春希「かずさ!」
そう声をかけると、やっと春希と曜子が来たことに気がついたのか
かずさ「・・・・・ごめん。」
そう答えただけであったが、助けを求めているのは明らかだった。
かずさ 小木曽家 2/24日曜(春希達が到着する前)
もう訪れることはないと思っていた親友の家。
すでに親友とはいえない間柄だけど、それでも懐かしい思いがこみ上げてくる。
雪菜の最後の願いを叶える為に、インターホンを押す。
待ち構えていたのか、すぐに玄関の扉が開き、雪菜が飛び出してくる。
雪菜「時間ちょうどだね。
さ、中に入って。外は寒いでしょ。」
かずさ「いや、ここでいいよ。寒くないし。」
かずさの返事が気にいらないのか、ちょっとむくれた返事が返ってきた。
雪菜「私が寒いの。それに、家の中じゃないと話せないこともあるでしょ?」
かずさ「わたった。中に入るよ。」
玄関で靴を脱ごうとしたとき、来客でも来ているのか、
玄関のはじに並べられてある靴の多さが気になった。
かずさ「だれか来ているのか?
それだったら、どこか別の場所でも・・・。」
雪菜「かずさ、こっちこっち。」
かずさ「雪菜・・・?」
リビングのドアを雪菜が開けると、クラッカーの音がはじける。
武也「コンサートおめでとう!
そして、今さらだけど、コンクールおめでとう!」
依緒「おめでとう、冬馬さん。」
孝宏「おめでとうー!」
朋「冬馬さん、おめでとう。
そして、雪菜もおめでとう!
雪菜と北原さんの婚約おめでとう!」
武也「春希のやつは、まだ来てないけど、こうして同好会のメンバーが
また勢揃いするなんて、部長としては、うれしいかぎりだ。」
依緒「なかなかスケジュールが合わなくて、できなかった春希と雪菜の
婚約パーティーができて、私もうれしいよ。」
孝宏「学園祭で見た冬馬先輩と、こうして会えるなんて、感激です。
あとでサインもらえませんか?」
雪菜「こら孝宏。かずさがびっくりしてるじゃない。」
かずさ「雪菜、これって・・・。」
雪菜「なに? かずさ。」
かずさ「いや、なんでもない。」
そうか。
これが雪菜が求めた、あたしへの罰か。
部屋を見渡すと、雪菜の両親もいる。
父親はどこか落ち着かない雰囲気だが、母親の方は料理で忙しいながら
今日という日を喜んでいるようだった。
こんなに楽しそうにしているのに、心から祝福しているのに
これをあたしに壊せっていうのか・・・・。
かずさ「あ・・・あの・・・・。」
言葉が続かない。声が出ない。
武也「どうした冬馬。 緊張してるのか?
今日は昔のことはなしにして、楽しくやろうぜ。」
かずさ「そうじゃないんだ部長。・・・・そういうことじゃなくて。」
あたしたちの過去を知っていても、それでも仲間に加えようとする部長に、
悲しい顔なんてさせられない。
依緒「そんなところに立ってないで、こっちのソファーに座って冬馬さん。」
雪菜のことを自分のことのように喜んでいる雪菜の友達に、
雪菜が泣き崩れるところを見せることなんかできない。
雪菜「もうちょっとで春希君もくるし、ゆっくりしていってね。」
あたしには、なにも言えない。なにもできない。
やっぱり、雪菜のことは、春希や母さんの言うことを
守らなければならなかったんだ。
あたしが意気込んで行動しても、からまわりして、
結局は、春希や母さんに面倒をかけてしまう。
でもさ、こんなあたしでも、罰だけは受けさせてくれよ。
雪菜が用意した罰を、喜んで受けたいんだ。
それが雪菜が望んだことだから。
あたしが雪菜にしてあげられる最後のことだからさ。
ホテルに戻ったら、いっぱい叱ってくれよ。
何時間でも我慢して聞いててやるからさ。
だから、早く来てよ、春希!
こんな罰って、あんまりだよ、雪菜。
春希 小木曽家 2/24日曜
どうして、かずさがここにいるのかはわからない。
考えてきた段取りも最初から壊滅的といえる。
だから、この場を収集するには、これしかない。
初めから悪者になるつもりだったし、武也たちにも伝えなきゃいけないこと
だったんだから、それが速まって、一緒になっただけって思えば。
一度部屋を見渡し、雪菜の父である晋さんを見つけると、
そちらを向き、両膝をつき、頭を床にこすりつけ、
春希「申し訳ありません。
雪菜さんとは結婚できません。
婚約したのに、このような結果になってしまい
弁解の余地はありません。」
曜子「本当に申し訳ありませんでした。」
隣を見ると、曜子さんも土下座をしていた。
曜子が土下座したことを驚いたというよりは、
やはりかずさの母親なんだなという点を感心してしまった。
かずさ「春希。母さんまで。」
春希「俺は、そこにいる冬馬かずさと結婚します。
だから、雪菜さんとは結婚できません。
今日は、そのことを伝えるために来ました。」
晋「どういうことか説明してくれないか?
今日は、婚約パーティーだと聞かされていたんだが。」
雪菜の母の秋菜も困惑を隠せない。
秋菜「冬馬さんも忙しいなか来てくださるって聞いていて、
・・・・・どういうことなのか。」
やはり、なにか情報の行き違いがあったのか?
いや、情報をすり替えられたというべきか。
そんなことができるのは一人しかいない。
春希「雪菜。どういうことか説明してもらえないか?」
かずさを雪菜の家に呼ぶことも、婚約パーティーだといって皆を集めることも
そんなことができる人間なんて、雪菜本人しかいない。
どんな意図があったかは、わからないが。
雪菜「あーぁ。やっぱり春希君はかずさを選んじゃうんだ。
最後の賭けだったのに。」
晋「雪菜。どういうことか説明しなさい。」
最も困惑している一人であろう雪菜の父が、冷静な言葉で雪菜に
説明を求めた。内心は、驚きと怒りで爆発しそうなはずなのに、それを
表に出さないようにしているのをみると、どうにか平静を保てているようだった。
雪菜「昨日、全部聞いていたの。
春希君が私と結婚できないって。
だから、婚約パーティーして、春希君の背中を押したら
私の元にもどってくるかなって、淡い期待くらい持ったっていいじゃない。」
最後の方は、涙声になっていたが、それでも強い口調で主張する。
春希「昨日って、誰から聞いたんだよ?」
だれからって?
そんなの一人しかいない。
俺や曜子さんが知らないっていうんだから。
雪菜「昨日かずさに会ったの。
ううん。ずっと会いたいと思って探していた。
それで、昨日になってやっと居場所が分かって会いに行ったんだ。
それでね、私・・・・もう気づいていたの。
春希君の心には私がいないって。
春希君の心にいるのはかずさだけだって。
春希君の心には私の残像があって、それが春希君を苦しめているだけだって。
そんなのわかってた。
それでも、好きなの。
大好きなの。
しょうがないじゃない。」
一気に全てを吐露する迫力に、誰も何も言えなかった。
雪菜「もう帰っていいよ。
かずさ、ごめんね。
私、ひどいことしちゃった。
もう親友だなんて言えないよね。」
かずさ「あたしの方こそ、雪菜を裏切ってるから、
親友だなんて言ってもらう資格なんてない。」
かずさも雪菜も、言いたいことは言いきったのか、
もう言うべき言葉も吐き出すことも耐えたれないのかはわからないが
これ以上は話すことはないといった顔であった。
晋「春希君。それに、冬馬さん。
今日のところは、お引き取りください。
状況も状況ですし、今は話せる状態ではない。」
曜子「わかりました。後日、そちらの都合がよい日で構いません。」
晋「いえ、それはけっこうです。」
曜子「と、いいますと?」
晋「もう、どのような要件かは理解しましたから。
これ以上会って話しても、傷つけあうだけでしょう。」
曜子「こちらとしては、小木曽さんの方針に従うまでです。」
晋「こちらもここまで素直に譲歩したんです。
ですから、今後一切うちとは関わらないでください。
お願いします。」
深々と頭を下げる晋。
一家の長として、家を守る姿勢がよく分かる。
雪菜と春希が一般人であったとしても、
かずさは今最も注目されているピアニストでだ。
そんなかずさともめていると世間に知られてしまっては
小木曽家もマスコミに注目されてしまう。
ましてや、雪菜のルックスもあいまって、
ゴシップの格好のネタにされることは間違いない。
そんな危険を切り離そうとするのは、親として当たり前だ。
曜子「わかりました。
今後一切、小木曽家とは関係を持ちません。
もし万が一、報道関係でトラブルになったときは
全力で対処いたしますので、ご連絡ください。」
晋「それも、けっこうです。
そのようになっても、うちの問題ですから。」
曜子「わかりました。
それと、大変申し訳ありませんが、かずさと春希君の結婚は
正式に発表するまで秘密ということでお願いします。」
晋「冬馬さんとは関わりを持たないといったのですから
こちらから関わりを作ってしまうようなことはしません。」
曜子「それでけっこうです。
では、今日はご迷惑をかけ、申し訳ありませんでした。」
武也や依緒は、なにか言いたそうであったが、場の雰囲気がそれを許さない。
ただ一人、雪菜の弟の孝宏だけが、家族ということもあって
最後に言葉をかけてきた。
孝宏「本当の兄貴同然だと思ってたのに、裏切るのかよ。
ねえちゃんだけじゃなく、ここにいる全員をうらぎるのかよ!」
晋「孝宏。黙っていなさい。」
春希「ごめん。」
裏切り者。
孝宏君が言ったこの言葉をみんな言いたいってわかってる。
言葉が違っていても、
言いたい内容は裏切りものを糾弾する言葉であることには違いがない。
この一つの意味を訴えるために、たくさんの言葉と
たくさんの時間を使いたいはずだとわかっているけど
晋さんがもうやめてくれというのならば、みんな受け入れるしかない。
俺に出来ることは、下を向き、何も言わなくなったかずさを引き連れて
この場を離れるしかなかった。
それでも、玄関を出て、車に向かおうとすると、武也がやってきた。
いつも俺を気にかけててくれて、雪菜との仲を一番心配してくれたんだから
さっきは気が気じゃなかったろうに。
武也「春希! ちょっとだけいいか?」
春希「先行っててください。かずさを頼みます。」
そう言って、抜け殻のようなかずさを曜子に預け、車のキーを渡す。
曜子「車で待ってるから。」
そういうと、かずさの肩を抱き、車へ向かっていった。
武也「本気なのかって、本気なんだろうけど。」
春希「ごめん。」
武也「ウィーン行くのか?」
春希「おそらく。」
武也「そうだよな。」
春希「でも、日本での活動もあるし、今後どうなるかは未定みたいだ。」
武也「未定か。」
春希「怒らないのか?」
武也「怒ってほしいのか?」
春希「怒ってほしいわけじゃ・・・。」
責められて、楽になりたいだけかもしれない。
武也「怒ってるよ。だけど、それと同じくらい、お前を理解してる。
お前が冬馬のこと忘れられてないって高校の時からずっとわかってた。」
春希「そんな前からか。」
武也「女に関してはお前より上だからな。お前が雪菜ちゃんと付き合ってる時も
迷ってるって知ってた。
それでも、色々あって、復縁したときは、
自分のことのようにうれしかった。」
春希「ごめん。」
武也「だから、別にいいって。
たしかに、今回の雪菜ちゃんとのことは、納得もしてないし
怒ってもいる。
だけど、それで全て終わりってわけじゃないだろ?」
春希「武也。」
武也「今は、次からどんな顔でお前と顔を合わせればいいかわからねーよ。
でもさ、半年後、一年後、いつだっていいんだ。
俺たちの縁は切れてないってことだけは覚えていて欲しい。
もちろん雪菜ちゃんだってそうさ。
朋なんかは、縁が残ってたら引きちぎってしまいそうだけどな。」
春希「確かに。」
俺との縁を見つけたら、即座に切ろうとする朋の姿が目に浮かび
二人とも苦笑いするしかない。
武也「だろ?」
何度この笑顔に救われたんだろうか。
武也とこうしてくだらないことを話して、苦笑いをする日がまた来るんだろうか?
そんな日が来ればいいと願わずにはいられない。
武也「だからさ、あまり難しいこと考えるなよ。
お前はいつも理詰めで判断しちまうところがある。
友達とかって、理屈じゃないところがあるだろ。」
春希「・・・・・」
武也「まあ、今はいい。」
春希「ありがとう
・・・・・・あのさ、武也・・・・・。」
武也「なんだよ。聞きたいことあるんなら、全部ぶちまけていけよ。」
春希「かずさ、どうしてた?」
武也「どうしてたって? お前の方が知ってるんじゃないか?」
春希「そうじゃなくて、俺たちが来る前、かずさ一人でいたんだろ。」
武也「ああ。別に来た時あいさつして、あとは座ってただけだな。
なにか話しかければ、答えてたけど。」
春希「それだけ?」
武也「そうだよ。だから、こんなことになるなんて思いもしなかった。
たしかに、冬馬も来づらいだろうなって思ってたから
多少よそよそしさがあっても、誰も気に留めなかったよ。」
春希「そうか。教えてくれて、ありがとう。」
武也「やっぱ気にするところは雪菜ちゃんじゃなくて、冬馬なんだんな。」
春希「ごめん。」
武也「もういいって。これで、春希の決心がはっきりわかったしさ。」
春希「そうだな。・・・・・そろそろ行くよ。
あまり待たせるのも。」
武也は、まだ話していたいという顔を見せてはいる。
まだ親友であったと思う人間を手放したくはないが、
それでも、笑顔で春希を見送ろうとする。
武也「そうだな。
・・・・いつになるかわからないけど、
また会おうな、親友。」
春希「まだ親友でいてくれるのか?」
武也「そうだよ。お前が絶交するっていっても、俺はしつこいんだ。」
春希「ありがとうな武也。」
武也「後のことは任せろ。」
春希「ああ、頼むよ。」
武也「じゃあ、またな。」
春希「ああ、またな、親友。」
これ以上顔を見せられなかった。
あいつのことだから、気がついてたかもしれないけど、
俺が泣いてるところなんて見せたくない。
たぶん武也以上の親友なんて今後現れることなんてないだろう。
こんなにも俺のことを思ってくれている親友の存在を
次会えるかわからない状況でわかるなんて、
人生ままならない。
それでも、武也の言葉が俺の心を慰めてくれた。
第十話 終劇
第十一話につづく
第十一話
春希 ホテル 2/24日曜日
ホテルに戻ると、かずさはベッドに入ったきり何も反応しない。
俺も曜子さんも、今日のことはショックがでかかったし、
ましてや一人小木曽家で堪えていたかずさならば
想像以上のショックがあったはず。
だから、かずさをしばらく一人にしておいたが
夕食になっても、夜になっても、反応がないのが心配だった。
寝ているのならば朝までそっとしておくのだが、寝ている様子もないことが
二人にさらなる不安をつのらす。
春希 ホテル 2/25月曜日
結局、翌朝になってもかずさは起きてこなかった。
そして、一睡もしていなかった。
かずさが寝ていないことを知ってるということは、春希も寝ていないことなのだが。
曜子「少し眠りなさい。
側についていても、あの様子じゃ。」
春希「大丈夫ですよ。
それに、どんなときだって、かずさの側にいるって約束しましたから。」
曜子「でも、かずさに引きずられて、あなたまでも倒れたらおしまいよ。
あの子の側で寄り添っていることだけが、
あの子の側にいることにはならないわ。」
春希「そうですね。でも、眠くないんですよ。」
曜子「はぁ。・・・・じゃあ、ちょっと相談したいことがあるから
来てくれる?」
春希「わかりました。」
曜子さんに呼ばれても、かずさのことが気になり続けていたが、
隣の部屋に移った。
ソファに座る曜子さんも、さほど睡眠をとっていないのか疲れが見える。
病気のこともあり、申し訳ない気でいっぱいになる。
春希「申し訳ありませんでした。」
曜子「なんで春希くんがあやまるのよ。」
春希「昨日のとこは、俺がもっとかずさを見ていれば。
なにかしら、異変に気がついて、かずさが雪菜のうちに行くのを
防げたかもしれないのに。」
曜子「それは、私も同じよ。
ここ数年一緒に暮らしていた私でも、かずさが一昨日
雪菜さんと会ってたなんて気がつかなかったわ。」
春希「・・・・・。」
曜子「思うようにはいかないわね。」
これ以上言ってもしょうがないと判断したのか、相談話を始める。
曜子「相談っていうのはね、かずさのレッスンスタジオを変更しようと思うの。
さすがにこのまま周りに筒抜けのスタジオを使うのは危険だし。
美代ちゃんには、昨日のうちに連絡しておいたから
たぶん今日中には新しいスタジオが見つかるはずよ。」
春希「そうですね。
かずさも、同じスタジオ使うのはつらいですよね。」
暗に雪菜のことを指すが、直接話した二人でなくても雪菜のことを
口にするのははばかられる。
曜子「あと、スタジオへの送り迎えをお願いね。
もうコンサートまで時間がないし、できる限り不安要素は排除したいから。」
春希「わかりました。」
ただ、今直面している最大の不安を取り除かなければ、前に進めない。
まだ見ぬ不安よりも、今ある不安を解決できないことにいらだちを覚えた。
そのままかずさを一人きりできなく、交代で様子をうかがっていたが
なにも変化ないまま夕方を迎えた。
春希は、少しでも頭のもやもやを解消しようとシャワーを浴びたが
まったく効果はなかった。
曜子「ちょうどよかった。
新しいスタジオ見つかったわ。」
コーヒーを飲みに来た曜子さんに出くわす。
コーヒー飲む?って問われ、お願いすると、二人分のコーヒーを用意してくれたが、
春希の分も曜子と同じ数の砂糖を入れようとしたののには、素早く遠慮した。
春希「車を置きやすいところだと助かりますね。
せめて、近くに駐車場があればいいんですが。」
曜子「その辺は大丈夫。
スタジオまで車で入っていけるから、ばっちりよ。」
春希「スタジオなんて、使わないからよくわからないのですが、
駐車場完備のところが多いんですか?
前のはなかったですよね?」
曜子「どうなのかしらね?
日本のスタジオ事情に詳しくないし、
今後のことで知る必要があるんなら、美代ちゃんに相談してみるといいわ。」
春希「いや、そこまでする必要は・・・。」
曜子「それに、このスタジオは春希くんも使ったことがあるわよ。」
びっくりさせようとする子供のような笑顔をしてくるので
自然と防衛反応をおこし、身構えてしまう。
春希「俺なんて、高校の時ちょっと使ったことがあるくらいで。」
高校のとき?
武也に連れられて小さなスタジオに行ったことがあるが、
そこを美代子さんが用意したとは考えられない。
そうなると、俺がもうひとつ使ったことがあるスタジオとなると
思い出が詰まったあの場所しか思いつかない。
曜子「その顔は、わかったみたいね。」
春希「まさか。」
曜子「うちよ。」
結局のところ、初めから冬馬邸の改装は予定されていた。
ただ、スタジオだけは、マスコミ対策もあって、
もしもの場合のために最優先で準備を進めていたのだった。
そもそも、冬馬邸は日本に帰国する前に買い戻す話が進められており、
改装は、最初のかずさのコンサート後の出来事で
急きょ行われることになる。
俺がかずさのコンサートに行かず、雪菜のところに逃げたせいで
最悪のコンサートになってしまい、かずさが行方不明になったのが原因だった。
さんざん探したが、最初からかずさには行くあてもなく、
自分がかつて住んでいた家に窓をやぶって侵入していた。
そして、窓が壊れたまま放置することもできず、
予定よりも早く改装工事が始まったというわけであった。
それが運よく、今の状況にぴったしのスタジオになるとは
あの時は思いもしなかったが。
曜子「まだ改装は終わってないけど、コンサートまで練習する分には
問題ないはずよ。
美代ちゃんが、泊りこんで練習できるように準備もしてくれたから
外に出る必要もなし。
最高のスタジオでしょ?」
春希「ははは・・・・。」
もう笑うしかない。
どうなってるんだ、冬馬家の財力は。
デパートの買い物やスーツを用意してもらったときに垣間見た支払いなんて
些細なことだってわかってしまう。
曜子「あとは、あの子次第ね。」
扉の向こうのかずさを心配することしかできない。
段々と今できることがなくなっていた。
春希「もう使えるんですか?」
曜子「大丈夫なはずよ。鍵もさっき報告に来た美代ちゃんから預かったから
今すぐにでも使えるわ。」
春希「・・・・・、あとは、俺に任せてくれませんか?」
曜子「何か作戦でもできた?」
春希「そんなものありませんよ。でも、あの場所だったら、
不可能を可能にできる気がするんです。」
曜子「そんな大層な家じゃないわよ。」
あの豪邸が大層な家じゃなかったら、他の家は犬小屋じゃないか。
俺も曜子さんもそんな意味で言ったわけじゃないけど、
あそこは、俺たちにとって特別な場所だ。
俺を学園祭でかっこよくギターを弾けるようにしてくれたかずさのように
今度はかずさをコンサートでかっこよくピアノを弾けるようにしてやりたい。
曜子「なんか自信がありそうね。」
春希「そんな大層な自信じゃないですよ。
でも、大丈夫です。」
曜子「それなら、明日から泊まり込む?」
春希「いえ。今から行きます。」
曜子「ふふ。そっか。じゃあ、私の出番もひとまず終了かな。
私は今夜から入院してコンサートまで体調を整えておくから。
なにかあったら美代ちゃんに連絡して。」
春希「はい!」
自分の荷物は少なかったので、かずさの荷物を二人でまとめ、
車に積み込んだ。
ここまではスムーズに事が進むが、最大の問題が一つ残る。
春希「さて、どうしましょうか?」
曜子「どうしましょうか?って、強硬手段しかないんじゃない?」
春希「ですよねぇ。」
あらかじめわかっていたことであるが、気が進まない。
かずさを連れ出すこと自体は賛成なのだが、
ホテルから車まで連れて行く方法が気が進まないのだ。
できれば、やりたくない。
あとでかずさに何を言われるか予想できるし、
2度とこのホテルに戻ってこれなくなる気もする。
それでも、
曜子「さあ、男の子でしょ。
こういうときは、びしっと決めなさい。」
ただ一人、曜子さんだけは、すごく乗り気であった。
見た目でも、ワクワクしていて、テンションが高いのがよくわかる。
春希「はあぁ、ちゃんとサポートしてくださいよ。」
曜子「はぁーい。」
なんとも楽しそうな声なので、調子が狂いそうになるが、
覚悟を決め、ベッドルームのドアをそっと開け、中に入っていった。
春希「かずさ?」
念のために声をかけてみるが反応はない。
仕方ないな。
春希「ごめん、かずさ。」
勢いよく布団を引き離し、そして、
強引にかずさの足と背中に腕を差しこみ抱え上げた。
一瞬の出来事であったので、なにも抵抗はなかった。
幸運にも、といっても、昨日着ていた服を着たままだったので
このまま運んでも支障がない。
曜子「さ、行くわよ。」
春希「はい。」
と、前に進もうとしたが、
かずさ「なにが「はい」だ。
どこに誘拐するつもりだ、この変態。」
どうやら抵抗する気力はあるらしい。
春希「誘拐もなにも、曜子さんの許可をもらってるから、誘拐ではない。」
かずさ「親と共謀して誘拐だなんて、何を考えている。」
曜子「誘拐だなんて。あぁ、でも、
ウィーンにいたころは、いつも春希君が迎えに来て、
強引に連れ去ってほしいって思ってたじゃない?
お姫様だっこで連れ去ってもらって、
ようやく念願がかなってよかったんじゃない?」
かずさ「だれもそんなこと言ってない!」
春希「あんま暴れるなって。落として怪我でもさせたらどうする。」
かずさ「だったら、さっさとおろせ。」
曜子「うちの子をキズものにしたら、しっかり責任とってもらうからねぇ。
でもでも、キズものにならなくても、しっかり責任とってもらう予定だけど。」
ニヤニヤと、楽しむのだけはやめてください。
こっちは抱えているだけでも大変なのに。
かずさ「うるさい!」
曜子「もう春希君、ちゃっちゃと運んじゃいなさい。」
といい、一人先へ進んでしまうので、黙って後を追うしかなかった。
幸運にもエレベーターに乗るまでは誰にも会わなかったのだが
それも一時の幸運でしかなく、途中一人の中年男性がエレベーターに乗り込んだ。
そして、3人の賑やかな一行と、それを気まずそうに眼をそらす一人を見て
5人の乗客予定者がエレベーターに乗るのを見送った。
一階ロビーに着くと、中年男性は素早くその場を立ち去って行くのを見て
すまない気持ちでいっぱいだった。
だが、そんな気持ちも最大の難関を前に消え去っていく。
曜子「なにしてるの? 早く行くわよ。」
先をせかすが、どうしても足が進まない。
人が多いロビーを突っ切って、車まで行くなんて考えると、
さっきまでの恥ずかしさがどうしようもなく大したことではないと思えてしまう。
俺の考えと緊張を感じ取ったのか、かずさももう暴れようとはしなかった。
ええい、ままよ!
恥を捨て、前に進むしかなかった。
ホテルの客は物珍しそうに眺めている。
従業員は教育がしっかり行われてはいるみたいだが、それでも目だけは追っている。
つまり、この場にいるすべての人間が注目しているといってもよかった。
もう何人みているとか、笑っているとかを考えると
頭がおかしくなりそうだったので、思考を止めるしかない。
ただまっすぐ車に向かって行った。
かずさ「もっと早く歩けないのか。」
耳元で囁いてくる。
春希「だったら、ここで降りて、自分で歩けよ。
その方が、よっぽど早い。」
かずさ「いやだよ、そんなの。
ここで降りたほうが、注目されるだろ?」
春希「それでも、降りたほうが早く注目から解放されるだろ。」
かずさ「あたしを誘拐したんなら、最後まで面倒みろ。」
そう言うとかずさは、顔を俺にうずめ、顔を隠す。
この卑怯者。
自分だけ顔を隠しやがって。
そんなピエロ状態の中、悠然と歩く曜子さんはさすがだと思えた。
ま、あの迫力のおかげで、誰も近づいてこないから感謝しないといけないが。
曜子「さ、早く乗って。」
用意しておいて車のドアを、こちらに気がついたドアマンが開けてくれる。
春希「頭ぶつけるなよ。」
かずさは、もう諦めたのか、素直に従って車に乗り込んでくれたのは助かった。
ロビーでの試練を経験した二人としては、
このホテルには二度と来たくないと思わずにはいられなく、
もし何事もなく再び来られるのは、
ただ一人、悠然と歩いていた曜子さんぐらいしかいない。
しかし、また俺たちも何事もなかったかのように強引にホテルに連れてこられ、
この小さな願いも打ち砕かれるんだろうなと思い、落胆するしかなかった。
第十一話 終劇
第十二話につづく
第十二話
春希 車内 2/25月曜日
車に乗り込むと、かずさは何も言わず黙り込んでいた。
それでも、冬馬邸までは、比較的近い距離であったために
かずさもどこに向かっているか、分かってきたようだ。
それにしても曜子さん、よくホテルに一人で残ったよな。
あんなに注目されている中、一人だけ残されたら
注目の視線が全て一人に集まるようなものだろうに。
しかも、あの冬馬曜子なんだから、顔も知られているだろし。
明日の新聞に載らないことだけを祈るしかないな。
俺はともかく、かずさは顔を隠していたし大丈夫だよな?
ああ、でも、もし俺があの場に残されるんだったら
たぶん立ち直れないだろうな。
かずさ「なにニヤニヤしている。気持ち悪い。」
どいやら、曜子さんのことを考えていたら、顔に出てしまったようだ。
春希「いや、悪い。
ホテルのエントランスに残された曜子さんを思うと
あの後どうなったのかなって考えてさ。
そしたら、ちょっと笑えてきて。」
かずさ「それは、愉快だな。当然の報いだ。」
と、俺につられてかずさも笑みを浮かべる。
そのことが、なによりもうれしく思える。
ずっとふさぎこんでいたかずさが、元気になれるんなら、またピエロにだって
なってやるって思えた。
かずさ「どこに向かってるんだ?」
春希「この辺は、お前の方が詳しいんじゃないか?」
かずさ「まさかと思うが、うちに向かってるんじゃないだろうな。」
春希「そのまさかだよ。」
かずさ「なんで?」
春希「なんでって、これからコンサートまで、冬馬邸で合宿に決まってるだろ。」
かずさ「聞いてない。」
春希「そりゃ、俺もさっき冬馬邸が使えるって聞かされたばかりだし、
なによりもお前、ずっとベットから出てこなかっただろ。」
かずさ「そりゃ、仕方ないじゃないか。」
春希「ごめん。いつも一緒にいるって言っておきながら
大切な時に一人にして。」
かずさ「いや、あれは、あたしが勝手にやったことだから。
あたしの方こそ、黙って雪菜に会ってて、ごめん。」
春希「それでも、力になれなかったことが悔しいんだ。」
かずさ「それは言いっこなしだ。
それに、覚悟してたんだ。
どんな目にあっても、それは自分が悪いんだって。
それでも、覚悟していても、・・・・・やっぱつらいものだな。」
明るくなってきた空気も沈み、一転重苦しい雰囲気に様変りする。
春希「そうだな。」
これ以上言葉が出てくることはなかった。
開桜社をやめると告げた時の浜田さんの顔。
昨日久しぶりに会った雪菜の顔。
さんざん心配させてきた親友であった武也の顔。
雪菜のご両親の顔。
孝宏君、依緒、朋、そして、開桜社でお世話になった人たち。
たくさんの人を傷つけ、これからまだ傷つけないといけないことを
覚悟してきたのに、それでも、・・・つらい。
覚悟してきたから、これくらいですんでいるけど、
曜子さんの病気のことをコンサート後、かずさに伝えたら、
どうなってしまうんだ?
それは、今考えるべきことじゃない。
いや、今考えだしてしまうと、暗闇から向け出せなくなる。だから、
頭の隅に追いやることで、今目の前の問題に集中するふりを続けるしかなかった。
春希 冬馬邸 2/25月曜日
家に着くと、なにも示し合わせたわけではないのに地下スタジオに足が進む。
かずさ「美代子さんも、このピアノを用意するだけでも大変だっただろうに。」
かずさはピアノが気になるのか、ピアノに触れる。
軽く弾いてみるのかと思ったが、ただ指を置くだけで
そこで止まってしまっていた。
5年前に来た時は、雑然と高級そうな機材が並べられていたが、
今はピアノが一つあるだけだった。
この部屋も改装されているかもしれないが、
自分には違いがわからなかった。
玄関から直接ここへきたが、どこが改装済みで、どこが改装前なのかが
全く分からないところをみると、痛んだところがあれば直すというスタンス
なのだろか。
それでも、このスタジオを使えるようにしてくれた曜子さんと美代子さんに
感謝せずにはいられなかった。
春希「ピアノ以外なにもないな。」
かずさ「この前来た時は、なにもなくて、なんかさびしく思えたな。」
先日のコンサート後の失踪のことをさしているのはすぐにわかった。
あのとき自分もこの家にきていたが、真っ暗だったし、家の様子を
気にする余裕もなかったので、なんとも言えない。
でも、あの寒い中、何もないこの広い家で一人堪えていたかずさを
思うと、自分のふがいなさを責めずにはいられなくなった。
かずさ「そんな顔するなって。」
春希「ごめん。」
これ以上春希を心配させないためか、すかさず話を切り替えてくる。
かずさ「さてと、他の部屋も見ておくか。
あと、着替えとか食糧はあるのかな?
できれば、シャワー浴びたいんだけど。」
春希「たぶんシャワーも使えるはず。曜子さんがコンサートまで
ここで寝泊まりできるようにしてあるっていってたしさ。
必要なものがあれば、あとで買ってくる。
かずさがシャワー浴びてるとき調べておくから。」
かずさ「その辺はまかせるよ。
それにしても、完全にあたしを外に出さない気だな。」
春希「それは・・・・。」
かずさ「わかってるって。」
そう言い残すと、他の部屋を確認しにいった。
一通り部屋を確認したところ、一階はリビング、キッチン、バス、トイレ
と、きれいに掃除はされているが、まだ改装はされていないと
かずさが教えてくれた。
長年住んでいたこともあり、その辺の違いはわかるらしい。
どうやら、改装はまだ行われなく、とりあえず使えるようにしただけみたいだ。
なお、先日かずさが侵入したさいに壊した窓は、
しっかりと取り換えられてあった。
他に気が付いた点といえば、
新品の大型冷蔵庫には、めいっぱいの食糧が詰め込まれており、また、
ミネラルウォーターの段ボールやお菓子類がたくさん詰められた段ボールが
キッチンの隅に並べられている。
さすが美代子さんというべきか、お菓子類をたくさん用意しているところは
冬馬親子の嗜好をよく理解しているといえた。
ほかにも、生活必需品がリビングに積まれている。
ここまでそろえてあると、なにも買いに行く必要はなさそうだな。
もしかしたら、曜子さんは、かずさだけじゃなくって
俺も外に出したくないのかもしれない。
俺の心の揺れが直接かずさにも伝わってしまうから。
かずさ「どうだ? なにか足りなそうなものとかあったか?」
シャワーを浴びたかずさがリビングにやってきたのはいいが
その姿に目をそらすしかなかった。
春希「服を着ろ。服を。そんなかっこうをしていたらコンサート前に
風邪をひくだろ。」
かずさ「髪を乾かさないと服がぬれるだろ?」
さも当然のことだろという顔をみせる。
そして、もちろん両手には、
俺に髪を乾かしてもらうためのドライヤーとブラシが握られていた。
バスタオルを巻いているとはいえ、直視できる状態ではない。
今までさんざんかずさの裸を見てきてはいるが、
こうもオープンな態度を取られると、恥ずかしさが噴き出してくる。
春希「ああ、もう! ちょっと待ってろ。
エアコンの温度あげてくるから。」
ホテルから連れ出すまでとは違い、
かずさのペースでいられることが心地よかった。
もしかしたら、というか、自分でもうすうす気が付いているのだが
かずさに振り回されることに喜びを覚えてしまうらしい。
かずさが風邪をひかないよう素早く髪を乾かしていると
かずさ「お腹すいたな。なにか食べるものない?」
春希「そりゃあるけど、丸一日食べてないからな。
髪乾かしてから用意するよ。」
かずさ「また鍋? 鍋でもかまわないけど、野菜は少なめにしろよ。」
春希「さすがにこれからもずっと鍋だけってわけにはいかないから
他の料理も覚えないとな。」
いつもの調子に戻ってきたと思えても、
会話がなかなか弾まない。
俺も何を話していいか、そして、なにがダメなのかの判断が
つかないこともあり、積極的に話すことができない。
かずさもホテルでふさぎこんでいたこともあり、どう話していいか
戸惑っているようだった。
かずさ「あのさ。・・・・・あたしがピアノの練習再開できるか
聞きたいんだろ?」
今一番聞きたいことを切り出してくれたことは助かるが
それと同時に、かずさもそのことを一番気にしているということかもしれない。
春希「大丈夫なのか?」
かずさ「ほんとうは、朝になったらベッドから出ようと思っていたんだ。
それなのに・・・。」
春希「・・・・・・・・・。」
かずさ「それなのに、お前たちときたら、寝ずにあたしを監視してただろ。
そんなことされたら、ベッドから出たくても、出にくい。」
腕を組み、当然の結果だと主張してきた。
たしかに、あんな対応されたら、出るに出られないかもしれない。
そう考えると、苦笑いしかできなかった。
春希「それじゃあ、ピアノ弾けるんだな?」
かずさ「それがさ。・・・・さっき弾こうとしたんだけど
弾けなかった。」
やはり、さっきかずさがピアノに触れるだけで音を鳴らさなかったのは
ピアノを弾ける状態ではないってことを意味していた。
春希「やっぱ昨日のことが、つらいか?」
かずさ「雪菜のつらさに比べれば、大したことじゃないってわかってるんだ。
それに、どんな罰だって受け入れるって覚悟もしていた。
だけど、覚悟していても、頭で理解していても
うまくいかないものなんだな。」
春希は、どうかずさを導けばいいかわからなかった。
何を言っても、今のかずさの気持ちを理解しきることはできそうにない。
だったら、自分に何ができるだろうか。
春希「俺さ。お前がウィーン行ってからの3年間は、
詰め込めるだけ大学の講義とって、空き時間はバイトして
何も考える力が残らないようにして、かずさを封印しようとした。」
もちろんかずさは、春希と離れていた5年間の春希を知りたかったが、
それが今なにを意味することなのかわからず、
黙って聞いているしかなかった。
春希「次の2年間は、雪菜と付き合って、かずさを胸の奥に押し込んだ。
それでも、ちょっとした隙があると、お前のことを思い出してしまうんだ。
雪菜とセックスしているときでさえ、お前の顔がよぎることさえあった。」
春希の最低すぎる告白さえも、かずさには心地よかった。
そして、少しずつだが、春希が何を言いたいのか分かってくる。
雪菜に対し、最低な行為をしてきたこと。
それでも、好きな人を忘れることができなかったこと。
春希「どんなにかずさのことを忘れようとしても、俺には無理なんだ。
それで、俺は苦しむ。
そしてそのことで、自然と俺が周りの人を傷つけてしまう。
だったら、俺の側にかずさを置いておくしかないだろ。」
そして、その大好きな人を手に入れるためには、自分の周りの人間を
傷つけなければならないことを告げたかったのかもしれない。
かずさ「・・・ふふっ。ははは。」
春希「何笑ってるんだよ」
かずさ「いやさぁ・・・ふふっ。・・・ん。ごめん、ごめん。」
かずさの突然の変化に、春希はついていけない。
春希「だからなんなんだよ・・・・。」
かずさ「うん。それって、あたしの呪いのせいだ。」
春希「呪いって、ウィーンで魔術師でも雇ってたのかよ。」
かずさ「そんなことはしてないって。
あたしにしかできない、最高の呪いがあるんだ。」
春希「お前が?」
かずさ「そっ。一日十時間かけて呪いをかけてやったのさ。
ピアノを使って、毎日毎日春希に話しかけてやったんだ。
遠いウィーンから日本に向けて。
こんな執念深いあたしが毎日やってたんだ。
春希があたしのことを忘れることなんて、
できやしないんだよ。」
春希「それは、最高の呪いだな。」
かずさ「だろ? 重いだろあたし。」
いつの間にか重い空気がなくなり、
いつものふたりの空気に戻ってゆく。
二人は、そのことに気がつかず、笑っている。
そして、二人の心が重なり合う。
春希「ああ。でも、お前の呪いは俺にしか効果ないぞ。」
かずさ「当たり前だ。」
春希「それじゃあ、呪いをかけた責任とって貰おうか。」
かずさ「それは・・・。」
春希「それは?」
かずさ「これから、ゆっくり考えるよ。
まだまだ死ぬまでは、時間がたっぷりあるだろ?
春希が死ぬまでに、なにができるか考えておくよ。」
春希「なんだよそれ?」
かずさ「いいだろ別に。一生あたしの側にいるんだから
今すぐ決めなくてもいいだろ。」
少し恥ずかしさがあるのか、視線をそらす。
春希「そうだな。
俺たちには、時間があるか。」
かずさ「そうだ。
さて、とっとと食事をすませて、練習再開するぞ。」
どうにかかずさがピアノを弾けそうになったので、一安心といったところか。
でも、かずさの言葉がひっかかる。
かずさと俺には時間がある。
でも、時間がない人はどうすればいいんだ?
第十二話 終劇
第十三話につづく
春希 コンサート会場 2/29金曜日
結局俺たちは、コンサートのリハーサル直前まで冬馬邸から一歩も外に
出ることはなった。
様子を見に来た美代子さんのおかげで、
かずさリクエストの大量のケーキやプリンの差し入れが手に入ったことも一因である。
そして、なによりも二人だけの空間が心地よく
この世界から抜けだしたくないというのもあったが、
この世界に依存してはいけないことは、一度逃げ出した二人にはよくわかっていた。
これは誰にも言うことはできないことだが、とくに曜子さんには秘密にしないと
なにを言われるかわからないことだが、かずさの春希に対して
オープンすぎる行動がますます加速していた。
最初は、髪を乾かしたり、とかしたりする程度だと思っていたのだが、あまかった。
入浴後は、バスタオルさえ巻かず裸でいる。
まあ、かずさの髪を洗ったり、体を洗ったりしなくてはならなくなったので、
どこで裸でいようとも、それが当然と思うようにもなってしまっていた。
もちろん最初は拒んだが、すねるかずさを見ていると拒否することもできない。
そうやって、ひとつひとつ言い訳を作るにつれて、言い訳するのさえ面倒になり、
かずさの言われるままに尽くすことになってしまった。
数日前、二人で逃げ出した時もただれた肉欲の日々を送っていたが、
それ以上に刺激的で健全な日々を送っていたと、今なら思える。
曜子「リハーサルを聴いたところでは、調子もよさそうだし、
今日は大丈夫そうね。」
数日ぶりに会った曜子さんは、入院して体調を整えていたかいもあって
顔色もよさそうである。
ただ、差し入れでプリンを持ってきてくれたが、
曜子さんは一つも食べなかった。
かずさ「きっとうまくいくさ。かあさんが認めてくれる演奏をするから
安心して聴いててほしい。」
春希「大丈夫ですよ。さすがに練習時間は少なかったですが
その分密度が濃い練習ができていたと思います。」
曜子「春希君と二人っきりの共同作業だったものね。」
と、冷やかしてくるが、
かずさ「そうだよ。春希がいたおかげで、思っていた以上のできになった。」
と、冷やかされても簡単にかわせすくらいになっていた。
なにせ、このぐらいの冷やかし程度ではびくともしない甘い生活を
送っていたと確信できる。
そのくらい俺たちの心は通じ合っていると思っていた。
曜子「そっか。」
かずさの様子をみて安心したのか、曜子は多くは語らなかった。
曜子「そろそろ戻るわね。春希君はどうする?」
春希「俺も、もう少ししたら客席に戻ります。」
曜子「楽しみにしてるわ。しっかりね。」
かずさ「まかせておけって。」
そして、コンサートは、大成功で幕を閉じた。
もしかしたら、雪菜がかずさの演奏を聴きに来ているかもしれない、
武也がこっそり会場に紛れ込んでるかもしれないと考えもしたが
俺たちは一切探してみようとしなかった。
かずさが客席にいる俺たちの方を見たとき、曜子が隣の席に座ってる主治医の
高柳先生が寝てしまったのを起こすのを見て怪訝そうな顔をしたが、
どうやら曜子の日本にいるボーイフレンドの一人か旧友の一人くらいに
思ってくれたらしい。
近いうちに曜子の病気のことをかずさに話さなければならないが
今はかずさの成功を祝っていたかった。
かずさ コンサート会場・楽屋 2/29金曜日
大量の祝いの花が飾られているが、それ以上にかずさは輝いていた。
満足のいく出来と、観客の興奮がまだかずさの中に残っていて
テンションが高いままであるのも自分でもわかった。
春希たちが楽屋に駆けつけてきても、扉が開き、春希たちだと分かると
感想を聞かずにはいられない。
かずさ「どうだった? 今までも最高の出来だと思う。
まだ何時間も弾いていたいくらいだ。」
曜子「短い準備期間で、これだけの演奏ができるなんて、それくらい当然だと
思っていたわ。さすが、私の自慢の娘ね。」
かずさ「なんだよ。自分自慢じゃないか。」
曜子「素直に誉めてるわよ。
春希くんも御苦労さま。」
春希「俺はなにも。がんばったのは、かずさですから。」
曜子「ううん、そんなことない。あの子の演奏を聴いていたらよくわかるわ。
あなたのことを心底信じて、二人でどんな困難でも突き進もうって
いうのが伝わってきたから。」
春希「・・・・・。」
かずさ「母さん。」
曜子「これで、後のことは任せられるかな。」
かずさ「引退? 今日の演奏聴いたからって、まだ早いだろ。
母さんには、まだあたしの目標として活躍してもらわないと。」
曜子「そうできれば、・・・・よかったんだけど。」
急激に曜子の顔色が悪くなっていく。
かずさの演奏を聴いて安心したのか、それとも、最後の力を絞って会場に
来たのかはわからない。しかし、張りつめていたものがぷっつりきれ
崩れるように曜子は床に倒れていった。
かずさ「母さん? 母さん、どうしたんだよ?」
急に倒れた曜子を見て、かずさの表情が一転する。そして、なにが起こっているのが
理解できないでいる。
春希「美代子さん、高柳先生を。廊下にいますから。」
春希と美代子が素早く対応し、曜子を介抱していく。
なにが起こってるんだよ。
なんだよ春希。なんで、そんなに落ち着いてられるんだよ。
高柳先生?
医者がなんでいるんだ?
なにもできないでいると、高柳先生がやってきて、曜子の様態を調べていく。
美代子は戻ってこないで、車の手配にいっていた。
あ、・・・母さんの隣にいたあの男が医者だったのか。
なんだよ、この医者。春希の事知っているみたいじゃないか。
春希も、母さんがなにか病気だったって、知っていたのか?
わからない。
わからないけど、あたしにだけ知らされてなかったんだ。
かずさ「春希。どういうことなんだ?」
春希も一瞬かずさの冷たい声に、聞き違いかと思い反応できないでいた。
春希「それは・・・。」
かずさ「何か言えよ春希! 黙ってたら、わからないだろ。」
春希「・・・・・・・。」
目をそらすなよ春希。
そうやって黙るほど、母さんの様態が悪いって思っちゃうじゃないか。
高柳「おかあさん、大丈夫だから。ちょっと疲れて倒れただけだから。」
気休め程度の言葉では、落ち着くことはできない。
かずさ「でも! あんな風に倒れるなんて。どこが悪いんだよ。」
曜子「ちょっとうるさいわよ。そんな大声出さなくても聞こえるわ。」
意識は戻ったが、顔色は悪いままだった。それでも、なんとか話そうとする。
曜子「また、やっちゃったか。」
かずさ「かあさん。かあさん。」
曜子「だから、あなたを一人にできないのよ」
高柳を押しのけ、曜子にすがりつこうとするが、
高柳もそれをとがめることはしない。
かずさ「どうしたんだよ。これからまだ教えてもらうことだってたくさんあるのに。
コンサートの共演だってまだしてない。」
かずさは、曜子の様態が非常に悪いことをその場の雰囲気から、
春希たちの様子から感じ取っていた。
曜子「まだ、死なないわ。
ただ、ちょっと頑張りすぎて疲れただけよ。」
かずさ「かあさん。」
あとは泣くしかできなかった。
美代子「車の準備できました。いつでも行けます。」
春希「高柳先生お願いします。」
少しでも早く病院へ行こうと準備を進めるが、
曜子「ダメよ。今は行けないわ。」
かずさ「どうして?」
曜子「今出ていくとマスコミに捕まってしまうじゃない。
春希くんを引き抜くときに、私の病気の独占インタビューを取引につかったの。
その雑誌が発売されるのが今度の木曜。
だから、それまでは隠さないと。」
かずさ「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
曜子「そうであってもよ。」
春希「俺たちがマスコミを引きつけます。」
かずさ「春希?」
曜子「任せてもいい?」
春希「任せてください。
そのためには、かずさの協力がいる。」
春希がちょっとした作戦を提案した。
といっても、予定通りあたしがインタビューを受けるだけだ。
それでも、マスコミの目は、今日の主役に向けられるはず。
母さんも美代子さんも、他の案が思い付かないようで、
確実そうなのはこれしかないという顔だった。
ただ一人を除いて。
かずさ「無理だよ。そんなの無理だって!
会見中、泣きだすかもしれない。
今だって自分が何を言ってるかさえわかったものじゃない。」
春希「俺もかずさと一緒に会見にでるから。
かずさがインタビュー受けているとき、ずっと隣にいるからさ。
もうちょっとだけ、がんばってくれよ。」
かずさ「春希。・・・途中で泣きだすかもしれないぞ。」
春希「コンサートで感情が高まってしまったって、フォローするさ。」
なんだよそれ。
かずさ「わけがわからないこと、口走るかもしれない。」
春希「興奮状態だって言ってやるよ」
それがフォローのつもりかよ。
かずさ「緊張に耐えきれなくなって、お前に抱きつくかもしれない。」
春希「婚約したって言ってやる。」
それは、まあ許してやる。
かずさ「はるきぃ・・・・。」
春希「二人ならうまく切り抜けられる。」
かずさ「わかった。いくよ。・・・でも、何があっても責任取れないからな。」
春希があたしをリラックスさせるために軽口をたたいのがよくわかった。
それだけ、あたしが切羽詰まった顔をしていたんだろう。
そんなあたしのリラックスさせてくれる春希は、
やっぱりあたしのかけがえのない存在だと再認識できた。
二人が会見場に行くと、ちょっとざわついた。
あたしが母さんと来るものだと、皆が思ってたはず。
皆突然あたしと一緒に現れた若い男性に興味を覚えていた。
冬馬曜子オフィスには、曜子とかずさのほかには美代子しかいなかったので
ここで今まで現れなかった若い男性が出てくれば、驚きもする。
よく見ると、春希の同業者で春希の事を知ってたものもいたようで、
どう反応すれば分からないといった感じで、微妙な顔を見せる者も数人いた。
だからといって、春希について質問する者はいなかった。
それだけかずさの演奏がすばらしく、そちらの方に関心が向かっていたのが幸いした。
会見が始まってしまえば、かずさの心配をよそに、
スムーズにインタビューを終えることができた。
途中何度か春希のフォローがあったが、これといって問題もなかった。
かずさたちが婚約したなんて爆弾発言も必要なかった。
会見終了後、婚約発言がなかったことに、春希に文句を言ってやって
けりを一発くわえたが、そんな雰囲気もすぐに消え去り、
かあさんの様態が気になった。
春希 ウィーン冬馬邸前 3/3月曜日
成田から半日をかけ、ウィーンへとやってきた。
いつウィーンへ行くことになっても大丈夫なようにパスポートは用意してあったし、
オフィスで美代子さんから家の鍵や地図なども預かり
準備だけはしていたのが功を奏した。
行く準備だけはいくらでもできたが、
いくら考えてもかずさに言うべきことだけは準備できない。
どんな慰めの言葉であっても、かずさの心には届きそうにはないと思えた。
ここか。
東京の家もすごいけど、ここはさらにすごいな。
地図をタクシーに見せ、やってきた場所なので間違いはないはずだ。
それでも、かずさに会うプレッシャーからか、中に入れない。
高級住宅街ということもあり、あまり長く門の前にとどまっていると
警察を呼ばれかねないので、もうなにも考えずにかずさに会うことにした。
一応呼び鈴を鳴らしてみたが、反応がなかったので、そのままドアのカギを
開け、中に入ると、かずさの靴が脱ぎ散らかされていた。
靴は日本スタイルなのか?
それとも、かずさが日本での習慣で靴を脱いだだけかな。
春希は靴を脱ぐかどうか迷ったが、かずさにならって脱ぐことにした。
春希「かずさ。かずさいるのか?
いるんだったら、返事くらいしてくれよ。」
無言で入っていくと泥棒と勘違いされ、かずさを怖がらせると思い、
声をかけながら、曜子から教えられたかずさの部屋へとまっすぐに向かって行った。
部屋のドアは閉まっていて、中の様子はうかがえない。
春希「かずさ、いるか? 入るぞ。」
家の前にいた時は、かずさに会うのが怖かったが、家の中に入ってしまえば
少しでも早くかずさに会いたいという気持ちがあふれいき
なにも躊躇せず行動に移せるようになっていた。
春希「かずさ。」
一歩中に踏み込むと、かずさによってぼろぼろにされた部屋が目に入る。
楽譜や本は部屋中に投げ捨てられ、本棚は倒されている。
観葉植物や衣類なども、ひどい状態で乱れ散っていた。
そんな中、一人かずさが椅子に腰かけ、何かを見つめている。
その視線をたどっていくと、そこだけは無傷の状態であった。
そこには、曜子さんが話していたかずさの3種の神器だろうか。
犬のぬいぐるみ。英語の参考書。
そして、くすんだシルバーのタンブラーが飾られていた。
春希「怪我はないか、かずさ?
それにしても寒いな。暖房は入ってないのか。」
足元を選んで進んでいくこともできないので、かまわず突き進む。
かずさに近づいていっても、なにも反応をしめさないことに不安を覚える。
たまらず、かずさの肩を掴んで揺さぶってみても、焦点が定まらないず
美しく、そして儚い表情の人形が飾れているのかと錯覚してしまいそうだった。
春希「かずさ。しっかりしてくれよ。何か言ってくれよ、かずさ。」
何度もかずさの名を呼び、力強く抱きしめていると、
かずさ「やめろ、春希。あたしに触れるな!」
突然かずさが春希を跳ねのけようと、腕で突き放そうとするが
それを上回る力でかずさをさらに強く抱きしめる。
春希「そんなことできない。俺はかずさを離すことなんてできない。」
かずさ「やめろよ。やめてくれよ。・・・・・・あたしには、
あたしには、春希と幸せになる資格なんてないんだ。」
静かだったのが一転、涙を流しながら感情的に訴えてくる。
かずさ「あたしの幸せは、母さんの命と引き換えだったんだ。
そんな幸せなんて欲しくはなかった。
もし知ってたら、望みなんてしなかった。」
それは違う。違うんだかずさ。
春希「その幸せを望んだのは、俺なんだよ、かずさ。」
かずさ「そんなことはない。」
春希「あの日、ホテルに運ばれ、曜子さんに会ったときに言われたんだ。
引き返すんなら今しかないって。
それでも、俺はかずさを選んだんだ。そして、曜子さんの病気のことを
聞いても、曜子さんに頼ったのは俺なんだよ。
かずさのことだけじゃない。雪菜と別れることだって、
開桜社をやめることだって、すべて曜子さんに頼り切ったのは俺なんだ。」
かずさ「それでも、それは母さんがあたしのためにしてくれたことだ。
あたしが春希の側にいたいから、春希に力を貸してくれたにすぎない。」
いつの間にか抱きしめるのをやめ、
お互いの顔が数センチしか離れていない状況で言い合っていた。
春希「それでも、最終的に曜子さんが動く決断をしてのは俺だ。」
かずさ「そんなのは、春希お得意の詭弁だ。」
春希「詭弁で結構。でも、論理的に考えれば、俺が決断させてった言えるだろ。」
かずさ「はい、はい。こんなのは論理的に考えるんじゃなくて、感情が重要なんだ。」
二人とも譲る気がなく、何度も同じことを繰り返し主張し続けた。
どのくらい言い合ったかわからないが、気持ちよりも先に何も食べずに衰弱していた
かずさの方が根をあげた。
かずさ「ごほっ、・・・ごほっ。ぅぅん。」
と、喉も乾ききっていたためにむせる。
春希「無理をするから。ほら、ペットボトルの水があるから、飲めよ。」
気まずいのか、ぱっとペットボトルを奪い取って、こちらを見ないように
喉をうるおす。
春希「なあ、かずさ。いつまでも自分のせいだって言い合っても、きりがないだろ。」
かずさ「それは、春希が引かないからだろ。」
水分補給ができたのか、再び臨戦態勢なる。
しかし、それをなだめるように違う話をかずさになげる。
春希「そうだ。曜子さんから遺書を預かってきたんだ。」
東京でかずさを探していた時、かずさを説得するのに役立つかもしれないからと
病院で曜子から渡されていたビデオカメラがある。
これは、ちょうどホテルですき焼きを食べた日、買い物時に
家電量販店で購入したものであった。
その時は、かずさの練習をチェックする為かなと思っていたが、
こんなとこに使うだなんて思いもしなかった。
かずさ「母さん、いつ死んだんだ?
あの後すぐにか?」
曜子が死んだと早合点したかずさは、もう涙目になっている。
そんなかずさがかわいそうになり、すぐにその思い違いを訂正する。
春希「死んでない。死んでないって。少し疲れた様子だったけど
意識ははっきりしていたから。
高柳先生も、しばらく安静にしておけば、
退院できるって保障してくれたから。」
かずさ「ほんとうか?」
春希「ほんとうだって。」
かずさ「だってさ、春希はあたしに隠し事するからなぁ。」
春希「もう隠し事なんて、金輪際しない。
なにがあってもかずさに話すから。」
かずさ「ほんとうだな。嘘ついたら、一生その腕に絡みついて、はなれな・・・。」
さっきまで俺を遠ざけようとしていたことを思い出したのか、言葉に詰まる。
俺は、それを察し、曜子さんから預かった遺書を見るために
ビデオレターを見る準備を始める。
春希「このTV映るのか?」
かずさによって倒されていたTVを起こし、TVの状態を確認する。
かずさ「どーだか。」
春希「大丈夫みたいだ。コードはこれっと。」
かずさは、自分は悪くないといったオーラを放ち、我関せずといった
スタンスをとっていた。
初めて扱う機種であったが、迷うこともなく用意はでき、
春希「はじめてもいいか?」
かずさ「どうせ見るんだろ。だったら、はじめていい。」
春希「俺もどんな内容か全く知らないからな。」
かずさ「そんなの春希の反応を見ればわかるから、
そんなに身構えなくてもいいじゃないか。」
どうもこの遺書も自分だけ秘密にされているのではないかと疑ってるようだった。
春希 ビデオレター 3/3月曜日
映っている背景を見ると、どうやら病室らしい。
取った日付は、コンサートのために冬馬邸で合宿していたころだ。
曜子さんの表情は、晴れやかであった。
曜子「かずさ、元気にしてる?
私は死んでるから、元気ってわけじゃないか。
これを見ているということは、私は死んでいるはずだから。」
やはり死を覚悟しての遺書のようであり、手に力が入っていく。
かずさも画面にくぎつけであった。
曜子「あ、でも、私のことだから、あの世で新しい男でも作って
元気にしているはずかな。」
かずさ「母さん。」
遺書だというのに、軽口をたたくあたりが曜子さんらしい。
曜子「あなたのことだから、コンサート成功させているはずね。
そこは信頼しているから。でも、もしうまくいかなくても
へこむことはないからね。
あなたは、まだ成長途中なんだから、これから、たくさんのオケや
観客に出会って、どんどん成長していけるはず。
春希君に任せておけば、ばんばん仕事取ってきてくれるはずよ。
プライベートも春希君に任せておけば、問題ないわ。
かずさは、ピアノしか能がないんだから、料理や掃除なんて
する必要はない。あなたがひがんで掃除なんてやったら
かえって春希君の仕事が増えるだけよ。
最後に春希君にかずさを任せられて、ほっとしてる。
これで、心おきなく死ねるわね。
あなた一人残して死んでたら、未練で死にきれなかったはずね。
今、春希君は色々な物を一人で抱え込んでいて、つらい顔をするときが
きっとあるはずだから、その時はあなたが癒してあげなさい。
すねたり、照れたりするんじゃないわよ。
あなたが春希君をほっといたら、雪菜さんに奪われかねないからね。
彼女はあなたと違って、まっすぐに気持ちをぶつけてくるわ。
だから、一回振ったくらいじゃ諦めないと思うの。
そーいうわけだから、しっかり春希君を捕まえておきなさい。」
曜子さんの独白が続くが、ピアノのことよりは、かずさと春希の仲のほうが
よっぽど心配していることがよくわる。
ピアノに関しては、絶対的にかずさを信頼しているといえた。
曜子「あぁー、それとかずさ、覚えてるかな?
5年前あなたをウィーンに連れてきて間もないころだったかな。
あのとき、心ここにあらずといった感じでピアノ弾いてたでしょ。
だから、無理やり私が割り込んで、連弾したの覚えてない?
あなたは迷惑そうな顔をしていたけど、私はけっこう楽しかったな。
またあんなふうに弾けたらいいのに。
ピアノ弾いててあんあにワクワクしたの久しぶりだったんだもの。」
勘違いをしていた。
曜子が段々と話すのが苦しそうな表情になっていくが、それは、
病気のせいではないのは明らかだった。涙目になり、声がかすれてきているのは
ピアノに未練があるからだ。
かずさ「覚えてるよ。あたしも楽しかった。
小さい頃母さんと遊んだ記憶なんてなかったけど、
もし遊んでたとしたら、こんか気持ちになったんだろうなって。」
曜子さんは、しばらく気持ちを落ち着かせてから、独白を再開させた。
曜子「もう一度ピアノ弾きたいな。
かずさと共演まだしてなかったから、してみたいなぁ。
美人「姉妹」夢の共演って、世界中で話題になるわ、きっと。」
かずさ「「親子」じゃないのかよ。」
たしかに、曜子さんの化け物じみた若さもってすれば、
美人姉妹でいけるかもしれない。
曜子「最初に私が演奏して、会場を盛り上げて、そのあとかずさが弾くの。
もちろん私の後だからといって、緊張するかずさじゃないでしょ。
でね、アンコールであのときの曲を連弾するの。
素敵だと思わない?」
なにか子供がまっすぐな目をして将来を語ってるようで
曜子さんが病気だなんて忘れてしまいそうだった。
曜子「ま、初回はこんなものかな。
また機会があったら、録画していくから。」
ここで終わりなのかなと思ったが、映像は止まらない。
曜子さんは下を向き、なにか考えているようで、カメラの方を向いても
言うべきか迷っている感じであった。
そして、
曜子「私、やっぱりかずさを置いて死んじゃうのはつらいなぁ。」
涙を流しながら、曜子さんが本当は話したかった事を、
死ぬまで言わないでおこうとした本音を語り出す。
曜子「だって、あたな、なーんにもできないんだもの。
ピアノだって、まだまだだし、ほっとけない。
マスコミだって、うまく対処できないし、オケとうまくやってけるかも
心配でならないわ。」
かずさ「大丈夫だって、うまくやっていくから。」
かずさをみると、涙を流し、曜子の言葉をのがしまいと聞きいっている。
曜子「それに、もっともっとたくさん私もコンサートがしたい。
かずさが越えられない目標でい続けていないと
すぐあなたは油断して、さぼりそうだから。」
かずさ「毎日気持ちを込めて練習しているって。」
曜子「あーあ。あなたと春希君の子供も見たかったし、
英才教育して、親子3代のコンサートなんて話題沸騰よ。
きっと私に似て、美人でピアノも優秀なはずだし。
歌舞伎とかだと、子供を舞台に上げてるみたいだし、
そういうのも面白そうね。」
かずさ「あたしや春希じゃなくて、自分に似ているってなんだよ。」
曜子「そうね。私がもうやり残したことがなくて、
この世に未練がないっていうのは大ウソ。
でもね、かずさ。
無理にとは言わないけど、私の未練かなえてくれるとうれしいかな。
親子で共演なんて素敵じゃない?
私は無理だけど、あなたが子供を産んで、そして、その子がピアノを
やりたいっていったんなら、そのとき、もし気が向いたら
親子共演やってほしいな。
親子3代のコンサートは無理だろうけどね。」
かずさ「きっとやるよ。だから、死なないで見守っててくれよ。」
日本にいる曜子に届くはずのないのに、懸命に訴えかける。
曜子「でもね。
きっと、私の心は、いつもあなたのそばにあって、
会えない日が続いても、
きっと、あなたの心も私をそばに感じていて
同じ気持ちでこの世界を見ているはずよ。」
そこで録画は終わっていた。
映像が終わっても、かずさは画面を見続ける。なにも映っていないのは
わかっているのに、そこにはまだ曜子さんがいると信じてるかのように。
かずさが落ち着くまで待つことにした。かずさの心が整理できなければ
何も始まらない。だから、俺は待つしかなかった。
日が傾きかけたころ、かずさはようやく声をかけてきた。
かずさ「ありがとうな。これ持ってきてくれて。
母さんの本音聞けてうれしかった。」
春希「俺も聞けて、よかったと思うよ。」
かずさ「あたし、母さんのこと、全然理解してなかったんだな。」
春希「これからでも遅くない。日本で曜子さんも待ってるから、帰ろう。」
かずさ「ああ、わざわざウィーンまで来てくれて、ありがとう。」
春希「そんなことないって。言っただろ。かずさとだったら、海外だって
地獄だって、どこまでも一緒に行けるって。
かずさ「そうだったな。」
春希「でもさ、かずさ。」
かずさ「なんだよ?」
ここで、いままでのかずさを見ていて、思ってしまったことを吐露する。
春希「かずさが逃げるときって、たいてい自分の家だよな。」
かずさ「そんなことないって。」
春希「最初のコンサートで失踪した時も、日本で住んでいた実家だろ。
そして、今回はウィーンにある家だしさ。」
かずさ「そんなのは偶然だ。」
どうも図星をつかれて顔を赤くしている。どうやら自分でも納得しているらしい。
春希「だったらさ、今度からは俺のところに帰ってきてくれるとうれしいな。
ウィーンにある家でも、日本にある家でもなくて
俺のところがかずさにとって一番大切な帰るべき家になりたい。」
かずさ「はるきぃ。
・・・・・・・ただいま、春希。」
そう言うと、かずさは俺の胸に抱きつき、ようやく帰るべき家に帰ってきた。
春希 タクシー 3/4 火曜日
半日かけて行ったウィーンから、その日のうちに飛行機に乗って
翌日には再び日本に帰ってくる強行軍となると、さすがに体が悲鳴を上げる。
それでも、早くかずさを曜子さんの元へ届けたい思いの方が強い。
かずさを見ると、今も何か考え事をしている。
ウィーンを発つ前に
かずさ「ちょっとやってみたいことがあるんだ。
そのときは手伝ってほしい。」
春希「それは構わないけど、なにをやるんだ?」
かずさ「もう少し待ってくれ。うまくいくかもわからないし、
考えがまとまったら、教えるから。」
そう言うと、何か言えば返事はするが、基本ずっとかずさは一人思考を続け、
今に至るわけである。
春希「かずさ、そろそろ何をするか教えてくれないか?」
今もなにか上の空であったが、今度はこちらの疑問に答えてくれるようだった。
かずさ「演奏したいんだ。」
春希「またコンサートやるってことか?
それだったら、曜子さんに相談して・・・。」
かずさ「そうじゃない。母さんに聴かせたいんだ。
それも今すぐに。」
春希「今すぐって言われても、入院しているし、無理じゃないか。」
かずさ「そうだけど。だけど、後悔したくないんだ。
今すぐ死ぬって思わないけど、もしかしたらって思うと、怖いんだ。
だから、今すぐ聴かせたい。」
かずさの気持ちはよくわかる。
あんな曜子さんの遺書を見せられては、後悔しないよう行動したいはず。
春希「そうだなぁ。」
かずさ「うちのスタジオであたしが弾いて、それを病室で流せないかな?
うちにあった機材は処分されていてないけど、レンタルとか。
いや、全て買ってもかまわないから、できないか?」
必死な姿をみせるかずさの気持ちになんとしても答えたい。
でも、自分は、そういう音響設備について詳しくない。
春希「誰かそういうの詳しい人がいれば。」
かずさ「美代子さんに頼んで、誰か紹介してもらうっていうのは、どうかな?」
春希「それは無理だと思う。」
かずさ「なんで。」
せっかく見つけた光を否定され、強く反発する。
春希「美代子さんが紹介してくれる人って、クラシック関係のプロの音響の人
だと思うんだ。
それだと、曜子さんのこともよく知っているし、病気のことを
知られないとしても、なにか勘づかれるかもしれない。
そんなことになれば、せっかく曜子さんが雑誌の発売日まで隠してきた
苦労も台無しになってしまう。」
かずさ「それは・・・。」
春希「かずさも曜子さんの気持ちわかるだろ。」
かずさ「そう・・・・だな。」
音響設備のプロか。
そういった知り合い知ればいいんだけど。
麻理さんか浜田さんに頼むか?
そうなると、ますます大がかりになってしまって、リスクも高いか。
舞台とか、そういうのやってるやつかぁ・・・・。
千晶「はーるきっ。」
なぜか大学時代、色々とお世話をした同級生の顔を思い出す。
ほっとくと授業をさぼりまくって、レポートさえ提出しない問題児であったが
どうしても憎めない奴。
女を感じさせない奴だったので、あの頃の俺はそんな千晶に救われた。
本人にそんな感謝の気持ちをいえないけど。
もし、面と向かっても、さんざんレポートの手伝いをさせられたことや
食事の面倒をしたことを、がみがみいってしまうのだろう。
たしか、舞台のチケットもらったよな。
あいつがいなくなって、もう忘れかけた時ひょっこり現れて、渡されたんだよな。
あいつが主演の舞台だったみたいだけど、観に行かなくて悪いことしたな。
春希「もしかしたら、どうにかなるかもしれない。」
かずさ「ほんとうか?」
春希「いや、大学の時の友人で、今は全く連絡取ってないから、
どうなるかわからないけど。」
かずさ「でも、どうにかなるかもしれないんだろ。」
かすかな希望が見え、かずさの表情も明るくなる。
春希「根はいいやつなんだけど、何を考えているかわからないところもあって。
でも、真剣に頼めば、力になってくれると思う。だけど・・・・。」
かずさ「なにか問題でもあるのか?」
いまいち煮え切れない春希にいらだちを覚える。
春希「問題は、ない・・・・・ことない、というか。」
かずさ「どっちなんだよ。」
春希「それは。」
かずさ「女なんだな。」
だから嫌だったんだ。
きっとこの後、ひと波乱あるに違いない。
しかも、千晶をかずさにあわせたら、なにを言われるかわかったものじゃない。
それと、そんな千晶を見て、かずさも機嫌を損ねて、ピアノどころじゃなくなる。
かずさ「その顔は、やっぱり女なんだな。」
春希「誤解するな。あいつは女だけど、女を感じさるような奴じゃないんだ。
いつも研究室で寝泊りして、しかも、授業はさぼりまくるどうしようも
ない奴なんだよ。
だから、教授に千晶担当なんてお守りを命じられて、レポートの面倒とか
してただけなんだ。」
後ろめたいことなんて少しもないのに、話さなくてもいいことが
どんどん口から出てしまう。
かずさ「へぇー。ずっと面倒見てたのか。
それはそれは、寝食を共にする仲だったんだろうなぁ?」
かずさの目が据わってる。何故だか知らないけど、後ろずさってしまい
窓際に追い込まれる。
春希「うちに泊まったといっても、俺はバスタブで寝てたからな。
しかも鍵もかけてあったし。」
かずさ「泊ったのか!」
かずさも、千晶が実際うちに泊っているとは思っていなかったのは明らかで
つい口に出てしまった言葉に過ぎかったようだ。
だから、俺の答えにひどく驚いている。
春希「だから、レポートの追い込みで、遅くまでやっていて、終電もなく
仕方がなくってやつで。」
かずさ「そんなに親しい奴なら、助けてくれるかもな。」
春希「かずさも会ってみれば、俺とあいつがお前が疑ってるような関係じゃないって
わかるからさ。」
かずさ「勝手にしろ。」
反対側の窓をむき、著しく機嫌を損ねたのは明白だった。
ここでうやむやにしても、忘れたころにまた何を言われるものかわかったものでは
なかったので、ここはひとまず千晶に会わせたほうが無難だと思える。
仕方ない。
このアドレスを使うのも、何年ぶりになるんだろうな。
久しぶりに呼び出した千晶のアドレスを見て、感慨深い表情なんてかずさに見せたら
かずさをまた怒られる危険があったので、素早く発信ボタンを押した。
3コール、4コール、と出る気配がない。5コール目になって、
千晶「やっほー春希。元気してたぁ?」
春希「久しぶりに電話をかけた友人に言うセリフがそれなのか?」
千晶「なによぉ。こっちもいろいろ気を使ってるっていうのにさ。
私だって、春希からの電話出るのに勇気が必要だったんだよ。」
春希「それは、悪いことをしたな。
だったら、最初から、そういうのに見合った対応をすべきだ。」
何年も会っていないのに、大学時代の感覚がよみがえる。
そんな感覚が心地よかった。
千晶「で、なにか用があったから、連絡くれたんでしょ?」
春希「実は、そうなんだ。」
千晶「私って、春希にとって都合がいい女なんだよねぇ。
悔しいけど。」
春希「何言ってるんだ。こっちがさんざん面倒見てやったのを、忘れているぞ。」
大学時代のやりとりも名残惜しいが、音響設備にくわいい人と紹介してほしい
ことを伝えた。すると、以外にも、すんなり人を紹介してくれた。ただ、
千晶の返事を聞いていると、まかせるのに不安を覚える気もしたが
それでも、千晶が太鼓判をおすのだから、信頼できるのだろう。
春希「今、高速で、東京入ったばかりだから、もう少しかかる。」
千晶「だったら、座長呼んでおくから、現地集合でいい?」
春希「そうしてくれると助かる。でも、急な用事なのに、迷惑にならないか?」
千晶「だーいじょぶだから、私に任せておいて。」
どこか不安を覚えたが、千晶に任せるしかないんだろう。
横で話を断片的に聞いていたかずさも了承したし、
あとは、実際やってみるしかなかった。
春希 病院 3/4 火曜日 夕方
なんだかんだいっているうちに音響設備の設置は無事終了した。
俺がスタジオにいても役に立ちそうになかったので、曜子さんや
短い時間だがうるさくしてしまう病院への根回しに走っていた。
春希「すみません、帰ってきてそうそうこんなことになってしまって。」
曜子「別にかまわないわよ。ちょうど退屈していたところだし。」
春希「そう言ってくださると助かります。」
曜子「それにね、あの子が無事帰ってきてくれて、
ピアノをまた弾いてくれることが何よりもうれしいの。」
春希「曜子さん。」
曜子「それと、なんか変わった子もいたし、なにかやってくれるんでしょ?」
春希「それは、その。なにかマイクテストの代りにやるみたいですよ。」
曜子さんは軽い口調とは裏腹に、急に厳しい顔をみせ、
曜子「でもね、春希君。浮気はダメよ。千晶さんだったかしら。
とても綺麗な娘ね。ほんっと、あなたの周りには綺麗な娘が集まるから
心配だわ。」
春希「あいつはそんなんじゃないですから。ただの同級生です。」
曜子「ほんとう?」
春希「本当です。」
曜子「なら、よろしい。」
いつもの曜子さんに戻ったが、どうやらからかわれているにすぎなかったらしい。
千晶「あーあー、テステス。どう春希、聞こえる?」
設置されたスピーカーから千晶の声が流れてくる。
春希「大丈夫だ。しっかり聞こえてるよ。」
こっちにはマイクがないので、携帯で千晶に返答する。
千晶「じゃあ、マイクテスト始めるから。」
春希「思うんだけどさ、これがマイクテストにならないか?」
千晶「ほんーとに春希は、頭が固いんだから。細かいことは気にしないの。
じゃ、始めるよ。」
そう宣言すると、かずさが奏でるピアノが聞こえてきた。
そして、、千晶の透き通る歌声が重なる。
千晶「あなたとの思い出の中だけで過ごしながら
弱い心が 砕ける前に そっとあなたの前から逃げだした
あぁこんな気持ちつらすぎるよ
・・・・・・・・・・・・・・・
忘れられない 拒絶できない でもあきらめてた
もうこれ以上 嫌いになれない 嫌いになるほど好きになるから
・・・・・・・・・・・・・・・・
隣にいさせて それだけでいい 素直にはなれないけれど
・・・・・・・・・・・・・・・
あなたの心 傷つけてでも この気持ちにだけは 嘘をつけない
・・・・・・・・・・・・・・・・・
そばにいたいと 伝えたいだけ それさえ叶わない願いだけれど」
歌が終わり、胸がしめつれられる。
曜子さんも聴きいっていたのか、何か思うことがあるみたいだった。
しかし、歌っていた時のしとやかさをぶち壊す陽気な声が
室内の雰囲気を現実に戻してしまう。
千晶「どうだった? 冬馬かずさをイメージして作ったんだけど。」
春希「感動したっていうか、すごいなお前。」
千晶「でしょぉ。そ・れ・に、冬馬かずさになって歌ってみたからね。」
実際かずさが歌っているところを見たことは数回しかない。
その時のイメージと重なるというよりは、自分に中にあるかずさが歌ったとしたら
こうなるというイメージに深く重なる。
まさしく、かずさよりかずさらしいかずさといえた。
それは、俺の中にいるかずさを千晶が知っているってことになるのか?
その辺気になりはしたものの、メインはこの後のかずさの演奏だったので
千晶のことは頭の隅においやった。
かずさ「さて、本番初めていいか?」
マイクテストのおかげでテンションが高まったのか、早く始めたいようだ。
春希「OKだ。はじめてくれ。」
しばらくの静寂の後、かずさのピアノが始まる。
曲はもちろん、曜子がアンコールの時かずさと連弾をする予定のあの曲だった。
かずさ ウィーン自宅スタジオ 5年前 6月
東京の梅雨は、不快な空気がまとわりつき、好きではない。
ウィーンには梅雨がなく、天候に関しては快適であったが、
気分は東京の梅雨に似ていて、不快だった。
恩師のレッスンがなければ自宅にこもり、エアコンが効いた部屋でずっと
ピアノに向かい合っていたのだから、天候など気にもしていないのだが、
それでも東京の梅雨が懐かしく思えてしまった。
ピアノの音色は正直だ。
心をこめて奏でれば、ピアノは素直に答えてくれる。
自分の心は素直にさらけ出すことなんてできないのに、
ピアノに対してだけは心を素直に開くことができた。
だから、そんな自分の心の中をのぞくみたいで、
自分が奏でるピアノの音が嫌いだ。
かずさが刻むピアノのメロディーにさらなる不快音がまざり、
一瞬眉をひそめるが、いつもの冷静な顔を作ると、不快音の元凶たる、
ドアを開け、部屋に入ってきた曜子に目を向ける。
曜子「今日もご機嫌斜めって感じね。
天気いいわよ。少しは外に出てみたら?」
かずさ「用事もないのに、外に出る気なんかしない。」
曜子「言葉はもう大丈夫なんだし、ショッピングや食事でも行って
気分転換でもしてみたら?」
あの冬馬曜子がかずさに気を使っている。
母親なんだから、当たり前というかもしれないが、
かずさにとっては、どう対応したらいいかわからない行動でしかなかった。
曜子が気を使うほど、愛そうとするほど、かずさは困惑していくしかなかった。
かずさ「べつに言葉がどうかとかじゃない。読み書きだって、
もう少ししたら問題なくなる。」
曜子「ドイツ語の家庭教師クビにしたそうね。
あなたが必要ないって判断したんなら、それで構わないけど、
やつあたりなら、やめなさい。
もし、何か言いたいことがあるんなら、私に直接言いなさい。」
かずさ「・・・・・・・・・・急に母親面するんじゃない。」
ピアノを強くたたきつけ、抗議する。
曜子「そうね。・・・・急に母親面されたら、私でも反発するわ。」
かずさ「ごめん。そうじゃないんだ。そんなこと言たかったんじゃないんだ。
母さんには感謝している。
最高の環境で、ピアノを好きなだけ弾いていられる。
だから、母さんにはすごく感謝しているんだ。」
曜子「かずさ。」
曜子には、そうは思えなかった。たしかに感謝はされれている。
恩師のレッスンも刺激があるし、ピアノのレッスン自体は満足しているはず。
でも、かずさのピアノの音色が語っていた。
日本に残してきた罪と未練を。
かずさから具体的な話を聞いたわけではない。でも、推測ならできる。
かずさが話してくれるのなら、喜んで聞いてあげたいが、
その時が来るまではじっと待つつもりでいた。
曜子「ちょっと右にずれなさい。」
そういうと、かずさの左側に無理やり座ってきた。
かずさ「ちょっと。・・・・わかったってば。」
曜子「この曲知ってる? あなたは高音ね。」
かずさに高音パートを押しつけると、曜子は低音パートを勝手に弾き始める。
かずさも曜子に遅れまいと高音パートを弾き、メロディーを重ねる。
かずさ「ちょっと、テンポ早くないか?」
曜子「いいのよ。今はそんな気分なんだから。」
かずさ「そんなんでいいのかよ。」
荒々しく、だけど、精密に。
ますます低音パートの主張が強くなってくる。
かずさもそれに負けじと、曜子に対応していく。
曲が本来持つイメージなど、もはやそこにはない。
だけど、聴く人が聴けば、心が温かくなり、
そして、ほほえましく思えたかもしれない。
ただ、親子がじゃれあってるだけにしかみえないのだから。
演奏が終わり、一息つき、曜子をみると、満足げな顔が鼻につく。
かずさ「なんだよ。」
曜子「なーんでもなーい。」
かずさ「だったら、そんな顔するな。」
曜子「私は久々にとっても楽しい演奏できたから、満足してるの。
だから、いいでしょ?」
かずさ「楽しい演奏か。」
ピアノを弾くのは楽しい。だけど、・・・・。
曜子「そんな難しい顔をして、脳みそが入ってない頭で難しく考えないの。
好きなように弾けばいいだけよ。
なにか想いをのせたいのなら、そうすればいいだけじゃない。
ただ、自分のピアノを受け入れなさい。たとえ、どんな音であっても。」
かずさ「厳しいこと言うんだな。」
曜子「なにか未練があるのなら、まずはピアノにぶつけてみなさい。」
かずさ「なんか母親らしいこと言うんだな。」
曜子「たまにはね。」
もうすぐ夏がやってくる。
東京も梅雨が明け、夏がやってくるのだろう。
かずさ 冬馬邸地下スタジオ 3/4火曜日
室内に設置されたスピーカーから、ピアノの音色が流れてくる。
臆病者がおどおどと舞台に上がってくるかのような出だしで始まる。
相手のことが知りたい。
自分のことも知ってほしい。
それができない臆病者。
誰よりも望んでいるのに、
言葉に、そして、行動に移せない小さな女の子。
だから、いつも一人ぼっちでいた。
だから、いつも孤独と仲良くしていた。
でも、いつも甘えたかった。
一息つき、今度は、弾むような陽気なリズムが奏でられる。
力強く、太陽のような眩しい存在。
身を焦がすような熱さはなく、優しく包まれたい温もり。
その温もりを届けたい相手がいるのに
素直になれず、いつも強がって、お調子者を演じてしまう娘。
誰よりも望んでいるのに、
言葉に、そして、行動に移せないおてんば娘。
だから、いつも女の子を遠ざけていた。
だから、いつも遠くから眺めていた。
でも、いつも抱きしめたかった。
そのままの勢いで、次は、激しいぶつかりあいが聴こえてくる。
相手のことをいくら求めていても、反発してしまう。
何度繰り返しても、手が届かない。
その手を握りしめたいのに、
たった一歩前に踏み出みだすことができないでいる二人の少女。
誰よりも望んでいるのに、
言葉に、そして、行動に移せない二人の少女。
だから、もう強がるのはやめた。
だから、もう自分を偽るのはやめた。
だって、怖がることなんて必要なかったから。
春希には見せたことがない荒々しくもちょっと甘えたメロディーが流れてくる。
今は、ほんの少し甘えられるから、手が届く。
今は、ほんの少し正直になれたから、抱きしめられる。
もう、この手を離さない。
もう、抱きしめた手を緩めない。
だから、いつでも甘えられる。
だから、いつでも抱きしめられる。
もう、悲しむことなんて何もない
母さん、聴いてくれたか?
直接ピアノを聴かせてあげたかったけど、今は無理だよな。
でも、今度からは、歯を食いしばってでも舞台まできやがれってんだ。
そのためだったら、あたし、何でもするよ。
今まで守ってくれていた母さんのために、あたしの命使ってよ。
母さんは、あたしの一部なんだから、
母さんが死んじゃったら、あたしも死んじゃうんだよ。
だから、なにがなんでも生きてよ。
そして、もっと甘えさせてくれよ。
今日のこの曲は、まだ半分足りないんだ。
だって、甘える相手がいないじゃないか。
抱きしめてくれる相手がいないじゃないか。
母さんが大好きなこの曲を、未完成のままにしておくのか?
だから、元気になって一緒にピアノを弾いてくれよ。
曜子「生意気なこと言ってんじゃないわよ。」
ここにはいないけれど、かずさには聞こえているのかもしれない。
たった数十キロの距離なんて問題じゃない。
たとえ、月の裏側からだって聞こえているはずだ。
だって、見えない絆で結ばれているから。
曜子「ピアノを弾く楽しさを忘れられなくなっちゃったじゃない。
ううん。
いつだって、忘れてなんていなかった。
あなたのピアノを聴いていると、じっとしていられなくなるの。
嫉妬していたのね。
ピアノに愛されているあなたに。」
いつの間にかに、エネルギーあふれる顔つきで
ここではない地下スタジオをにらんでいる。
曜子「みてらっしゃい。
私の方がピアノに愛されているんだから。
こんな楽しい気持ちを思い出してしまったんだから、
死んでなんかいられないじゃない。
なにがなんでも、もう一度ピアノを弾けるようになってみせるわ。」
そして、最後に笑顔でつぶやいた。
曜子「ありがとう、かずさ。」
春希 病院 3/4 火曜日 夜
演奏終了後、曜子はしばらく席をはずしてほしいと願い出たので、
かずさを迎えに行くと伝え、病院をあとにした。
冬馬邸に着くと、いつの間に仲が良くなったのか、二人して座長と呼ばれる男性を
極限までこき使って、機材の撤収作業を行っていた。
哀愁を感じさせ、どこか自分と重なる部分もあったせいか、黙って撤収作業を
手伝った。
春希「千晶は、歌もやってるんですか?」
座長「今回のは特別だな。女優しかしてないけど、千晶曰く、
あの歌も演技の一貫らしい。
あいつの行動は読めんよ。」
春希「大学時代にいやというほど経験してるからわかります。」
座長「たぶん、それ以上だと思うから、もし今後もあいつと関わるなら
300%増しで覚悟しとくんだな。」
心底そう思っているらしく、今回千晶に助けてもらったことを後悔する日が
くるのかもしれない。
座長「あいつの才能に惚れてなきゃ、俺も逃げ出してたさ。
今日歌った『closing』の作詞はあいつが書いたし、
曲の方も千晶作曲っていってもいいほどだ。」
春希「作曲までやるんですか、あいつ。」
これは、ひどく驚いた。音楽をやっていたなんて、大学の時聞いたこともない。
座長「曲を作ったって言うか・・・・。」
どこか遠い目で話す座長から、なんとなくこれから話すことが予想できるのは
なんでだろうか・・・。
座長「最初は、あいつは作詞だけの予定で、
作曲は知り合いのつてでお願いしたんだよ。
だけど、あいつに聴かせたら、ことごとくやり直しの連発。
それで、作曲を頼んだ先生を怒らせて、3人目でようやくOKがでた。」
座長から漂っていた哀愁は、まぎれもない本物であった。
そんな座長をみると、本気で千晶と再会したことを後悔しだしていた。
春希「3人目で。
人ができた方だったんですね。
座長さんも気苦労が絶えないようで、大変ですね。」
座長「そーなんだよ! 俺の気持ちわかってくれるか。
あの先生に対しても、NG出まくりだったんだけど、千晶が鼻歌歌って
いろいろ注文つけてくるんだよ。そしたら、あの先生が
千晶の中では既に曲が出来上がってるみたいだから、
千晶の鼻歌から曲を完成させようってきたもんだ。
で、完成したのを聴いたら鳥肌が立ったのを覚えているよ。」
今もその時の興奮が忘れられないといった感じが伝わってくる。
病院で聴いた千晶の歌で感動を覚えたけど、目の前で聴いた座長は
きっとそれ以上の感動を覚えたのだろう。
春希「すごいですね。」
座長「ああ。すごいっていう表現では足りないくらいだ。」
その後、千晶の舞台のことや、大学の時レポートを手伝うはめになったことを
話しながら、撤収作業を進めていった。
二人で作業したせいか、思っていた以上に早く作業が終わったのだが、
女性陣2人は最初から頭数に入っていない。
もし手伝ってもらっても、足手まといになるのは確実といえたからだ。
だから、女性二人には甘いものをぱくつきながら談笑していただいていた。
そして、きちんとしたお礼は後日にするということで、
急ぎかずさを曜子の元へ届けた。
病室に入ると、かずさを待ち構えていたのか、いつもより表情が若干厳しい
曜子さんが出迎えてくれた。
曜子「来たわね。」
かずさ「来たよ。どうだった?」
曜子「まだまだ足りないとことがあったけど、それでも心に響いたわ。」
かずさ「そっか。それはよかった。」
かずさは、ほっとしたのか、表情が軽くなる。
そんなかずさの表情をみて、自分も気持ちが軽くなったが、曜子さんの表情が
堅いままなのが気がかりだった。
曜子「この前のコンサートもよかったけど、私好みなのは、さっきの方かな。」
かずさ「ほとんど練習する時間がなくて、
ぶっつけ本番もいいところだったんだけどな。」
どうも素直には喜べないみたいだが、心底うれしそうだ。
曜子「コンサートは、それはそれで、心を打つ演奏だったわよ。
傷つきながらも、二人で幸せをつかみ取りに行く決意みたいなのを感じられて。
でもね、なにか儚さを感じずにはいられなかったの。
それがとても物悲しい思いにさせられてしまったわ。」
かずさも曜子が言いたいことがわかっていたのが、黙って話を聞く。
曜子「今の幸せもいつか散ってしまうんじゃないか、
永遠の幸せなんかないんじゃないかっていう不安みたいなのがあって。
あれはあれで、共感して魂がひかれる思いで聴いてた人も
たくさんいたと思うわ。そういう点では、最高のできっていえる。
でも、私としては、あなたのことが心配になった。」
かずさ「それは。」
それは、雪菜のことを気にしていたのかもしれない。
もし、かずさと雪菜が逆の立場だったなら、幸せだったかずさの生活から
雪菜が幸せを奪って行くことになる。
だから、この幸せもいつか終わるか知れないという恐怖。
曜子「でもね、さっきの演奏聴いて、安心しちゃった。」
ここでようやく厳しい表情をしていた曜子から、堅さが抜けていくのがわかる。
曜子「なんかね。あなたの演奏聴いていると、ピアノが弾くのが楽しいって
いう気持ちが満ち溢れてきたの。
へっただなぁって思うところもあったし、出来は最高とは言えなかったけど
それでも、私にピアノを弾く活力を与えてくれたわ。」
かずさ「母さん。」
曜子「だからね、かずさ。私を助けてほしいの。
骨髄移植だって、高くてつらい薬だってばんばん打って
もう一度ピアノが弾きたい。」
かずさ「あたし、検査受けてみるから。適合したら、移植して
そうしたら、ピアノだって。」
曜子「ありがとう、かずさ。私に生きる希望を与える演奏をしてくれて。
最高のピアニストだわ。」
もちろん俺も曜子さんのためにできる限るの力を貸すが、
今はかずさと曜子さんの親子二人だけの時間を優先させるために、
静かに部屋をあとにした。
春希 エピローグ
あれからすぐ、かずさの骨髄適合検査が行われた。
もちろん俺も検査を行い不適合だったが、
驚くことに、かずさは適合検査に合格した。
血縁者は適合確率が高いというのは有名であるが、それは兄弟姉妹間に限る。
親子間となるとぐっと適合確率が低くなってしまう。
それでも、かずさが適合したのは、曜子が遺書たるビデオレターで言っていた
曜子とかずさが美人「姉妹」というのも、あながち嘘ではない気がした。
もちろん遺伝子レベルの確率で、そんな妄想は当てはまりはしないが
奇跡が起こったことに何度も神に感謝したほどだった。
今その曜子さんは、アンコールの舞台に行くために舞台そでで
かずさの息が整うのを待っている。
曜子さんの演奏はかずさの前だったので、その分しっかりと休憩が取れてるため
疲れはみえない。
曜子「もう疲れたの? もうちょっと体力つけたほうがいいんじゃない?」
かずさ「うるさい。いつもの半分しか弾いてないんだから、
疲れてなんかいない。」
春希「ほらかずさ、水飲んでおけ。」
かずさ「ありがと。」
曜子「春希君とかずさって、息がぴったりねぇ。
これが阿吽の呼吸ってやつかしら?」
かずさ「だから黙ってろって。」
春希「汗ふいて。」
曜子にからかわれながらも、
かずさの世話を焼くのが最近の春希の日課となってしまった。
しかし、時間がない時くらいはやめてほしいものだ。
かずさ「前から思ってたんだけどさ。」
春希「なんだ? かずさ。」
かずさ「いや、さあ。仕事とプライベートで名前を使い分けるのが嫌で
春希が冬馬を名乗ることになったけど、実際は、皆春希の事を
冬馬って呼ばないよな?」
春希「そりゃ、冬馬が3人もいたら名前で呼ぶだろ。冬馬じゃ、
誰を呼んでるのかわからないし。って、これって今必要な話か?」
かずさ「あたしにとっては、重要なんだよ。
なんか騙されたような気がしてさ。」
春希「わかったから、後でゆっくり聞くらかさ、今はアンコールに集中してくれよ。」
かずさ「わかったよ。そんなにせかせなくても大丈夫だって。」
曜子「さ、行くわよ。観客が待ってるわ。」
春希「おもいっきり甘えてこいよ。」
かずさ「わかってるって。今日だけは、おもいっきり甘えてきてやる。」
曜子「私は、いつまでも甘えてもらってもいいんだけど?」
かずさ「後5年で、いや7年くらいで追い越してやるから。」
曜子「頑張りなさい。でも、最近の私、調子がいいみたいで
世間の評価もさらに上がっているわよ。」
たしかに、不死鳥のごとく復活した冬馬曜子として、注目は高い。
しかも、俺とかずさと曜子さんの絆を深めるきっかけとなった騒動で
ピアノへの情熱と表現力が格段に上がったのも事実であった。
春希「もう、そろそろ時間ですよ。かずさも突っかからない。」
かずさ「春希、行ってくるよ。」
曜子「世界を魅了してくるわね。」
かずさと曜子の連弾が始まる。
この広い会場を探せば、もしかしたら、雪菜が来ているかもしれない。
でも、雪菜と生きる世界は捨てた。
俺は、かずさの世界を選んだ。
だけど、2人だけの世界ではない。
曜子さんがいて、美代子さん、麻理さん、開桜社のみんな、千晶に座長、
たくさんの人が俺たちの周りにはいる。
これからも俺の世界は、かずさを中心に広がっていくと思う。
どこでだれと出会い、そして別れ、また再会するかなんてわからない。
俺たちの世界はちっぽけなのかもしれない。
それでも、まだまだ広がっていくはずだ。
ゼロではないが、雪菜の世界と再び交わるのはむずかしいだろう。
失ったものはでかいが、後悔はしていない。
一番大切な人がいつも側にいるから。
『心はいつもあなたのそばに ~ white album 2 かずさN if(ver.手を離さない)プロトタイプ~』・・・・・・・・・終劇
番外編 『かずさN手を離さないバージョン』
雪原
かずさ「本当に、本当に・・・これからも、一緒にいてくれるのか?」
春希「・・ああ」
かずさ「あたしがいくところに、ずっと、ついてきてくれるのか・・・?」
春希「どこへ、でも」
かずさ「もっと北にでも・・・それとも、このまま海外にでも」
春希「お前が望むなら。だって俺たちは、もう...]
かずさ「このまま・・・地獄にでも?」
春希「ああ、どこまでも一緒だ」
かずさ「なんてな・・・お断りだ。あたしはお前と一緒には行けない」
かずさ「いつもの通りの・・・春希だって?」
春希「ああ、そうだよ、いつも通りの、お前だけを愛してる
ずっとお前の側にいることを望む、いつもの俺」
かずさ「そんなのが・・・いつもの春希なものか」
春希「え・・・?」
かずさ「あたしのために全てを捨てるって・・・?
一緒に地獄に堕ちるのもいとわないって・・・?
そんなのが・・・そんなぶっ壊れたお前が
本物の、あたしの春希でなんかあるもんか」
春希「・・・え?」
かずさ「そんな・・・そんない加減な嘘に騙されるもんか!
あたしの気持ちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
かずさ「本当は、ずっとずっと、お前と一緒に二人だけの世界に
閉じこもっていたかった。
でも壊れていく!
あたしといると春希がどんどんこわれていくんだよ」
かずさ「あたしは春希に幸せになってもらいたい」
翌日・御宿駅前
春希「お前が手を引けば、すぐに解ける。
お前は、どこへでも行ける」
かずさ「・・・意地悪、言うなよ。
お前から、離してもらいたかったのに」
春希「いや・・だ」
かずさ「あたしを、ふってほしかったに、さぁ・・・」
春希「できるか、そんなこと・・・」
かずさ「意地悪・・・」
春希「どっちが、だよ・・・」
俺たちの手が、とうとう離れ・・・それて、
二人の身体の向きが、ずれていく。
俺は、また、かずさの手を離すのか?
5年前・成田空港
かずさ「もう・・・時間だ」
春希「かずさ?」
かずさ「もう出発の時間。だから、行かなくちゃ」
春希「行くな!かずさ。・・・・・・いかないでくれ」
かずさ「そんな顔するなよ。笑って送ってくれよ。
ううん。いつもの説教している時の顔?
いや、まじめくさった面白くもない顔でもいいか?
まあ、・・・今みたいに泣いている顔じゃなければいいよ」
春希「お前も泣いているじゃないか」
かずさ「仕方ないじゃないか。
どうしようもないじゃないか。
もう、会えなくなるんだから。
でも、・・・でも、最後が泣いている顔なんて、いやだ!
いやだよぉ。はるきぃ」
春希「ごめんな。かずさ。」
お互い、都合がいい展開がこの先待っているなんて考えられない。
二人は咎人であって、神に奇跡を求めるなんてできない。
今許されたささやかな幸福で我慢するしかないって理解している。
かずさ「いいよ。泣き顔でも。
でもさ、時間ぎりぎりまで、その顔を見せてくれよ」
現在・御宿駅前
5年前、成田空港で手を離して、
その後3年間どうなったのか忘れたのか?
今の俺は、5年前からまったく成長していないじゃないか!
いや、むしろ退化している。
かずさに守ってもらってる・・・・。
そんな俺が、かずさを・・・・
全てを敵に回すかずさを守ってなんかいけやしない。
今の俺には、かずさの手をつかむ資格なんて・・・ないんだ
でも
春希「かずさ!」
俺は離しかけたかずさの手をもう一度つかむ。
かずさ「はるきぃ・・・ダメ・・だよ」
もう、かずさは泣いている。
泣かないんじゃなかったのか、かずさ?
決心はできても、心は追い付いていかない。
そんな俺も、たぶん泣いているんだろうけど。
心は、ほんと正直だな・・・、な、かずさ。
かずさ「ダメだよ。・・・・だから・・・」
春希「今の俺は、かずさを幸せにできない」
かずさ「え?」
春希「だから・・・・、だから、さよならだ。
今の俺は2度とかずさに会うことはない、
さよならだ、かずさ」
かずさ「それって・・・・?」
一瞬、俺が何を言ったのかわからないという顔をしていたが
全てを理解したのか、悲しそうで、切なそうで、
そうであっても覚悟を決めた顔を俺に向けてくれた。
かずさ「・・・・ちゃんと振ってくれて・・・ありがとう」
春希「かずさ?」
かずさは、俺の返答も聞かずに走りだしていた。
俺の手を振りほどいて。
ちゃんと俺の言葉を最後まで聞いてから行けよ。
5年前に初めてキスしたときも、お前は逃げたよな。
あの時のおれも、かずさを追いかけることができなかった。
そして、今のおれも、かずさを追いかけることはできない。
だって、今の俺じゃ・・・・
かずさを一生守っていくことなんて、できないのだから。
同日・御宿駅前
tel
曜子「ギター君?」
春希「お久しぶりです。曜子さん。
・・・・かずさはそちらに帰りました。」
曜子「そっか。」
春希「色々ご迷惑をかけました」
曜子「それは、あの子が自分で決めてしたことだし、迷惑だなんて思ってないわ」
春希「それでも」
曜子「それでもよ」
春希「何も聞かないんですね。」
曜子「聞いて欲しいのなら、聞いてあげるけど?」
春希「お願いがあって、電話しました。」
曜子「なにか決意でもしたのかな? 私の息子になる気になった?」
春希「はい。そのために力を貸してください。」
曜子「え? かずさはなんて?」
春希「よろしかったら、直接話すことはできませんか?」
曜子「ふぅー・・・・。なにかやっかいごとがありそうね。
病室まで来てくれる? 受付には入れるように言っておくから。」
同日・曜子病室
曜子「ほんっと、二人とも頑固ね。
しかも、自分の主張ばかり押し付けてるし。
でも、エゴイストで、とっても素敵よ。ほんっと、私好み。」
春希「そんな面白い内容じゃないですよ。こっちは将来がかかってるんですから。」
曜子「お互いが相手の幸せを願ってるのに、
その二人が交わらないっていうのは、悲劇というしかないわね。」
まるでオペラか演劇のように大げさにみせる。
観客は俺一人しかいないけど。
ただ、いつもの曜子さんで頼もしい。
本当は病床の曜子さんの負担になることは
してはいけないってわかってるが、そうもいってはいられない。
曜子「それでも、二人が交わらないことで幸せになるんだったらいいのに。
でも、あたなは幸せにはならないって思ったから、
ここに来たってことでいいのよね?」
春希「はい。・・・・かずさは、俺がかずさの側にいると・・・・・、
俺が壊れていくって。だから、一緒にはいられない。でも。」
曜子「でも?」
春希「でも。・・・いや、かずさの言う通り、俺は弱いから、
たぶん壊れていくんだと思います。
だから、俺は弱いことを受け入れることにしたんです。」
曜子「弱ければ、かずさを守れないんじゃない?」
春希「弱いからこそ、俺はかずさのために戦えるんです。
どんな手を使ってでも。
問題から逃げず、どんな手段を使ってでも、かずさを幸せにしたいんです。
それが、俺の幸せにもなるから。」
曜子「それが他人を不幸にすることになっても?」
曜子さんは、俺が言いにくいことを言ってくる。
俺を試してるかのように。いや、実際そうなのかもしれない。
俺はかずさと一度逃げ出したのだから。
春希「はい。だから、病床の曜子さんの手さえも借りるためにここまで来たんです。」
曜子「本気のようね。・・・・で、私はなにをすればいいの?」
数日後・コンサート終了後・コンサート会場楽屋
曜子「かずさ? 入るわよ」
かずさ「どうだった?」
曜子「よかったわ。ちょっと私好みってわけじゃなかったけど。
それでも、心が揺さぶられるような悲痛と決意が伝わっててたわ」
かずさ「そっか。・・・じゃあ、明日にでもウィーンに帰るよ」
曜子「私は、もうちょっと仕事してからじゃないと帰れないから、
あなたに私のアシスタントをつけることにしたわ」
かずさ「いらないって。
これからは私一人でなんでもできるようにならなくちゃいけないんだ」
曜子「あなた一人に任せられるわけないじゃない」
かずさ「あたしだって、いつまでも子供じゃないんだ。今日の演奏だって」
曜子「はい、はい。あたなのピアノは認めるわ。
でも、私生活やマネージメントに関しては壊滅的よ。
もし、一人で何でもできるっていうなら、私に認められるようになって
アシスタントがいらないって証明しなさい。
それまでは、アシスタントが公私にわたってあなたの面倒をみるわ」
かずさ「さすがにプライベートまでは、いやだよ。
家には、お手伝いさんもいるし、大丈夫だって」
曜子「それでもよ。さっ。入ってきてちょうだい」
ドアの陰に隠れていた人物が入ってきた。
曜子さんが笑いをこらえているのが良く分かる。
途中、笑いださないか心配したほどだけど、大女優も顔負けの名演技だ。
演技というか、曜子さんそのものといってもいいかもしれないけど。
ただ、観客のほうは呆然としている。
見てはいけない者を見て知ったという感じは伝わってくる。
しかし、同時に喜びも隠すことができないでいる。
かずさの心には色々な感情が乱れまくっていた。
春希「本日付で冬馬曜子事務所に入社した北原春希です」
かずさ「なんでお前がいるんだよ!」
曜子「なーに言ってるの。
私が開桜社から、大きな借りをつくって引き抜いてきたっていうのに」
かずさ「そんな事、頼んでない!」
曜子「ふっ。・・・それでもね、社長として、あなたと同じ女として
そして、なによりもあなたの母親として
春希くんがあなたに必要だと判断したのよ」
春希「覚えているか?
「今のおれでは、かずさを幸せにできない」って、言ったのを」
かずさ「覚えているに決まってるだろ」
さも当然だという顔をするなよ。
うれしくて、抱きしめたくなるじゃないか。
春希「あのときの「今」の俺じゃ無理だとわかったんだ。
かずさを守ることもできず、かずさに頼って、
お互いボロボロになっていくしかない俺じゃダメだって。
だから、弱い自分を受け入れることにした。」
かずさ「受け入れたからって、何か変わるのかよ」
春希「それは、わからない。・・・・
わからないけど、あの時、かずさの手を離しちゃいけないってことは、
わかったんだ。
5年前、かずさの手を離してしまってことを思い出すと、
自分に怒りを覚えて、自分を殺したくなってしまう」
かずさ「・・・春希」
春希「この5年間、勉強して、働いて、色々なスキルを身につけてきたけど
一番俺に必要だったのは、かずさの手を2度と離さないために
どんなことでもしないといけないことだって、最後の最後でわかったんだ」
かずさ「あたしだって、
あたしだって、春希の手を離したくなんて・・・ないよぉ」
春希「2度とかずさの手を離さない為に、俺はどんな手段だって使う。
そのために、だれかが不幸になっても、かまわない。
かずさと俺が幸せになることだけを考えて行動することにしたんだ」
かずさ「最低だな、お前」
春希「最低だよ、俺は」
かずさ「最低なお前の決断を喜んでるあたしは、もっと最低だ」
春希「でも、最高に幸せだろ?」
かずさ「最高に幸せに決まってるだろ」
曜子「あー、ちょっといいかな? 二人で盛り上がってるところ悪いんだけど」
もう赤面して黙るしかない。
なにかしゃべったら、どんな言葉であっても曜子さんの餌食になってしまう。
かずさも、それを本能で理解しているみたいで、なにもしゃべらない。
曜子「なにかしゃべりなさいよ。
あなたたちをみているこっちが恥ずかしくなってくるわ」
曜子さんの横やりで冷静さを取りも出したのだろう。
いち早く冷静さを取りもどしたのは、俺ではなく、かずさのだった。
かずさ「雪菜は、どうするんだよ。今日も会場に来ていたんだろ?」
曜子「彼女、・・・来ていないわよ」
かずさ「え?」
曜子「あなた、春希くんと彼女を招待した席の方を見てなかったから、
気がつかなかったみたいね」
かずさ「そっか。雪菜は、あたしのピアノなんて聴きたくないよな」
春希「それは、違う!」
かずさ「違わなくないよ。あたしは、今も昔も裏切り者なんだからさ」
春希「そうじゃないんだって」
曜子「春希くんの言う通りよ。彼女は、来年のコンサートに来るって」
かずさ「何を言ってるんだよ?」
曜子「私と春希くんが、彼女の家に行ってきて、
話をつけてきたってことよ」
かずさ「春希? 嘘だよな? また、雪菜を傷つけたのか?」
すがるようなかずさの視線をそらすことはできない。
もう逃げないって決めたんだから、
かずさの全てを受け止めるって決めたのだから。
春希「俺は、・・・俺は、雪菜を傷つけてきた。一生消えない傷をつけてきた」
かずさ「春希ぃぃぃぃぃぃ!」
春希「俺はもう、かずさを離さないって決めたんだ。
かずさを幸せにするって決めたんだよ!
二人を同時に幸せにすることなんて、できやしないんだ」
かずさ「・・・・・・はる・・・き」
もう何も言えない。
全てを理解してしまったから。
あとは前に進むしかないって。
曜子「あー、それでね。一つだけ条件っていうか、お願いかな?
雪菜さんからお願いがあったの。」
かずさ「・・・・・・・・」
曜子「毎年一回でいいから、日本でコンサートしてほしいんだって」
かずさ「できないよ。もう2度と日本に来ることなんて、あたしにはできない」
曜子「彼女は、あたななら、そう言うだろうって言ってたわ」
かずさ「それが、雪菜が望んだ私への罰か。
・・・そっか、うん。やるよ、あたし」
春希「違うんだ、かずさ。雪菜は、罰なんて望んでない」
かずさ「じゃあ、なんで?」
春希「俺たち、もう3人でいられないから。3人でいるのはつらすぎるから。
それでも、1年に一回、数時間であっても、時間を共有したい。
かずさのピアノを通して、3人が、
あの文化祭の時のように一つになりだいんだって」
かずさ「せつなぁ・・・。ごめんな、・・・ごめんね。」
どれくらい時が経ったのかわからない。二人の泣き声が響いてただけだった。
実際の時間はたいしたことはなかった。
そして、強引に現実に引き戻される。
がしゃーーーん。
それは、突然だった。
二人が雪菜に許しをこう時間なんて、なかった。
かずさ「母さん? ・・・・・・母さん!」
春希「曜子さん?」
かずさは動けなかった。ヒステリーぎみに泣き叫ぶしかできなかった。
俺は、曜子さんに駆け寄り、怪我したところがないか確認してみたが、
どうやら体は大丈夫なようだ。
ただ、意識がはっきりしていない。
春希「曜子さん! 曜子さん!
かずさ、高柳先生を。・・・・・・・・・・・かずさ?」
かずさ「かあさん、・・・・・かあさん。一人にしないでよ」
かずさは、パニックになって、曜子さんにすがりつくことしかできない。
早く高柳先生をよんで、病院に送らなければ。
ドアを開けてみると、異変を察知したが、
どうしようか迷っている美代子さんがいた。
ほかのスタッフに気づかれないよう、美代子さんだけど中に招き入れ
高柳先生とタクシーの用意をお願いした。
高柳先生が診断していると、曜子さんの意識が戻ってきた。
曜子「また、やっちゃったのか」
かずさ「かあさん。かあさん」
曜子「だから、あなたを一人にできないのよ」
かずさ「死なないでよ。あたしを一人にしないでよ」
曜子「まだ、死なないわ。
ちょっと疲れただけよ」
春希「曜子さん。タクシーの準備できました」
曜子「今は行けないわ」
かずさ「どうして?」
曜子「今出ていくとマスコミに捕まってしまうじゃない。
春希くんを引き抜くときに、私の病気の独占インタビューを取引につかったの。
その雑誌が発売されるのが3日後。
だから、それまでは隠さないと」
かずさ「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
曜子「そうであってもよ」
春希「俺たちがマスコミを引きつけます」
かずさ「春希?」
曜子「任せてもいい?」
春希「任せてください。
そのためには、かずさの協力がいる」
ちょっとした作戦を提案した。
といっても、予定通りかずさがインタビューを受けるだけだ。
それでも、マスコミの目は、今日の主役のかずさに向けられるはず。
曜子さんも美代子さんも、他の案がないし、
確実そうなのはこれしかないという顔だった。
ただ一人を除いて。
かずさ「無理だよ。そんなの無理だって!
会見中、泣きだすかもしれないし、
今だって自分が何を言ってるか理解していない」
春希「俺もかずさと一緒に会見行くから。
かずさが、インタビュー受けているとき、ずっと隣にいるからさ。
もうちょっとだけ、がんばってくれよ」
かずさ「はるき。・・・途中で泣きだすかもしれないぞ」
春希「コンサートで感情が高まってしまったって、フォローするさ」
かずさ「わけがわからないこと、口走るかもしれない」
春希「興奮状態だって言ってやるよ」
かずさ「緊張に耐えきれなくなって、お前に抱きつくかもしれない」
春希「婚約したって言ってやる」
かずさ「はるきぃ・・・・」
春希「二人ならうまく切り抜けられる」
かずさ「わかったよ。いくよ。・・・でも、何があっても責任取れないからな」
俺たち二人が会見場に行くと、ちょっとざわついた。
かずさは曜子さんと来るものだと、皆が思ってたはず。
開桜社の人間は、わずかだが事情を知っているせいか、微妙な表情を浮かべている。
俺のことを知っている人も何人かいるようだが、
それぞれ色々な表情を浮かべていた。
会見が始まってしまえば、俺の心配をよそに、スムーズにインタビューを
終えることができた。
途中何度かフォローをしたが、これといった問題はなかった。
俺たちが婚約したなんて爆弾発言も必要なかった。
会見終了後、婚約発言がなかったことに、かずさが文句を言っていたが
それもすぐに曜子さんの様態が気になった。
同日・病院
タクシーに乗って、急いで病院に向かってみると、曜子さんは眠っていた。
とくに問題はないようだけど、精神的疲労が体に負担をかけたようだとのこと。
全てわかって曜子さんを巻き込んだはずなのに、
それでも、割りきれない部分がある。
かずさは、何も言わなかった。
ただ、俺の手を離さないで、曜子さんを見つめていた。
同日深夜・ホテル
かずさ「で、・・・・なんで、のこのこ戻ってきた。
あたしと一緒にいるとお前が壊れちゃうから別れる決心したのに。
もう、泣かないって決めたのに。」
泣かないって決めたくせに、もう泣いてるじゃないかとはいえない。
言ったら、その何倍もの文句がくるのはわかっている。
俺がかずさを泣かせている。
悲しい思いをさせている。
でも、それも今日で終わりだ。
俺がかずさを、どんな手段を使ってでも、幸せにするって決めたから。
春希「お前、ちょっと勘違いしてないか?」
かずさ「勘違い? なにを言ってんだよ。あたしが・・・あたしが・・・・
どんな思いをして、こんな決断をしたと思ってるんだ」
春希「かずさ・・・」
かずさ「お前はいつもそうだ。最初のコンサートの時も来なかった。
あたしがどんな思いでコンサートにのぞんだのか、わかっていなかった。
あんなに来てくれって頼んだのに。」
かずさのあふれる思いは止まらない。
もう、止めることはできない。
春希と別れる決意も、泣かないって決めた決意も、すべて崩壊して、
歯止めがきかない。
感情があふれる彼女のピアノのように言葉は続く。
かずさ「どんな思いで演奏したと思ってるんだ。それなのに!」
春希「そのことは、もう・・・・」
かずさ「だから、わかってないっていってるんだ!
今回のことだって、あたしが、・・・・あたしが・・・・。
春希の幸せを願って決意したのに。
あたしが愛する、たった一人の、・・・・
生涯でただ一人の男の幸せを願って何が悪い!」
春希「かずさ。・・・・・・・・・・・・それはありがたいことなんだけど
ちょっと違うんだよ。」
かずさ「なにが違うっていうんだ」
春希「俺の幸せっていうのは、今、2つしかないんだよ」
かずさ「ふたつ?」
春希「そう。俺が求めている幸せって言うのは2つしかないんだ。
一つ目は、俺がかずさを一生幸せにすること。」
かずさ「・・・・・・」
春希「二つ目は、今、曜子さんから受けている恩を一生かけてでも返していくこと。
大きすぎる恩だから、80年くらいかかりそうだけど」
かずさ「なんだよそれ。」
かずさに、わずかだが笑顔が戻ってきたようだ。
しっかりと俺の言葉を心に刻んでくれている。
そうじゃないな。
どんなときだって、こいつは俺とのやり取りを忘れたりなんかしない。
春希「だからさ。俺はかずさの側にいないと幸せになれないんだよ。
それに、かずさも曜子さんに恩を返していく予定なんだろ?
お前ひとりじゃ、曜子さんが生きているうちに恩を返しきれないぞ」
かずさ「母さんへの恩は自分一人でなんとかしてみせる」
春希「なんとかって、なんだよ?」
かずさ「なんとかは、なんとかだ。
そんなことより、あたしがいいたいのは、あたしの側にいると
春希が壊れちゃって、幸せになれな・・・・」
春希「それが勘違いなんだよ。
俺が幸せかどうかは、俺が判断することなんだ。
かずさが判断することじゃない。
たとえ俺が壊れようとも、俺が幸せだと判断したなら、幸せなんだよ」
かずさ「それでも、春希が壊れちゃう・・・」
春希「ああ。俺が壊れたら、かずさを不幸にしてしまう。そしたら俺も不幸だ」
かずさ「・・・・うん、そうだ」
かずさは、自分の言葉にショックを受けている。
自分で考え、導いた答えであるからこそ、かずさを傷つける。
春希「だから、俺は壊れないために何でも利用することにしたんだ。
もう、俺たちの幸せのことだけを考えて行動する。
俺は弱いから、かずさの力も借りないと生きていけないと思う。」
かずさ「あたしはいつだって、春希の力になるよ。
そのためだったらなんだってできる」
春希「ああ、期待してる」
かずさ「でもさ、そんなことしたら、まわりのみんなが不幸になる。
雪菜や雪菜のまわりの人たちが不幸に・・・・なってしまうじゃないか」
春希「俺たちのせいで、雪菜が。・・・・周りのみんなが不幸になってしまう。
でも、考えてみたんだ。かずさと離れていた5年間を」
かずさは、もう何も言えない。自分の5年間を思い出し、
これから春希がいない80年を考えただけで、
空虚で、意味がない人生を送る覚悟が揺らいでしまう。
春希「最初の3年間は、詰め込めるだけ大学の講義とって、空き時間はバイトして
何も考える力が残らないようにして、かずさを封印しようとした。
次の2年は、雪菜と付き合って、かずさを胸の奥に押し込んだ。
それでも、ちょっとした隙があると、お前のことを思い出してしまうんだ。
雪菜とセックスしているときでさえ、お前の顔がよぎることさえあった。」
春希の最低すぎる告白さえも、かずさには心地よかった。
春希「どんなにかずさのことを忘れようとしても、俺には無理なんだよ。
それで、俺は苦しむんだよ。
そのことで、自然と俺が周りの人を傷つけてしまう。
だったら、俺の側にかずさを置いておくしかないだろ」
かずさ「・・・ふふっ」
春希「何笑ってるんだよ」
かずさ「いやさぁ・・・ふふっ。・・・ん。ごめん、ごめん」
春希「だからなんなんだよ・・・・」
かずさ「うん。それって、あたしの呪いのせいだよ」
春希「呪いって、ウィーンで魔術師でも雇ってたのかよ」
かずさ「そんなことはしてないって。あたしにしかできない、最高の呪いがあるから」
春希「お前が?」
かずさ「そっ。一日十時間かけて呪いをかけてたんだよ。
ピアノを通して、毎日毎日春希に話しかけてたんだ。
遠いウィーンから日本に向けて。
こんな執念深いあたしが毎日やってたんだ。
春希があたしのことを忘れることなんて、できないんだよ」
春希「それは、最高の呪いだな」
かずさ「だろ? 重いだろあたし」
いつの間にか重い空気がなくなり、
いつものふたりの空気に戻ってることに気がつかず、笑っている。
二人の距離が、再びゼロになった。
春希「ああ。でも、お前の呪いは俺にしか効果ないぞ」
かずさ「当たり前だ」
春希「それじゃあ、呪いをかけた責任とって貰おうか」
かずさ「・・・・・それは」
春希「かずさ。・・・・・・・俺と結婚してくれ。
俺は、今後2つの幸せを求めることしかできないと思う。
かずさを幸せにして、そして、曜子さんに恩を返すことしか。
それでも、俺は、・・・俺はそれを一生かけてやり遂げたいんだ」
かずさ「ダメだ」
春希「・・・かずさ」
かずさ「それだけじゃダメだ」
春希「え?」
かずさ「母さんに恩返しするなら、
あたしをピアノストとして成功さないいとだめだな。
あたしは、母さんの最高傑作として、ピアノで成功しなくちゃいけない。
だから、2つじゃなくて、
3つのことを春希にとっての幸せにしてくれるんなら、結婚してもいい」
春希「でも、やるんだったら、世界一のピアニスト目指すからな」
かずさ「それでいいよ。
あたし、今最高に幸せだ」
でもね、春希。
あたしは、
お前さえいてくれるだけで幸せなんだよ
一年後・コンサート会場(日本)
曜子「さっ。準備はいい? かずさ」
かずさ「問題ない。いつも通り弾くだけだし」
曜子「ほんとっ、最近つまらなくなったわね。からかいがいがないっていうか」
春希「自信が出てきた証拠ですよ。それに、この前のコンサートも好評でしたし」
かずさ「当然だ」
曜子「でも、今日は特別なんだから、・・・大丈夫?」
やはり曜子さんであっても、緊張を隠せない。
かくいう自分も昨夜はほとんど寝られなかった。
かずさも目をつぶっているだけで、寝てはいなかったようだ。
ただじっと、今日を迎えるのを堪えていた。
それと同時に、わずかな希望を望みつつ、
俺にしがみつくように朝を迎えていた。
かずさ「大丈夫だって。今日は3人の日だ。
自分勝手な願望かもしれないけど、今日だけは神様だって
許してくれるさ」
春希「大丈夫。彼女はきっと、来てくれる
数時間だけだけど、「雪菜」に会えるさ」
俺は、もう客席から、かずさの演奏を聴くことはない。
俺は、かずさの国の住人になったから。
舞台袖から、かずさの演奏を聴く。
彼女は、きっと客席から聴いているのだろう。
手を伸ばせば、届く距離にいるはずなのに、近くて、もっとも遠い世界。
舞台と客席。
この二つの世界が交わることはない。
でも、
かずさのピアノを通してなら、俺たちは3人に戻れる。
一年に一度、彼女が望んだことだから、
それに
俺は、
かずさは、こたえたい。
かずさの演奏が始まる。
静かに、そして、情熱的であるのに、
おどおどとしていて、
たどたどしく彼女に手を伸ばす。
かずさ「・・・雪菜?」
雪菜「かずさ!」
『かずさN手を離さないバージョン』・・・・・・・・・終劇
番外編 『ただいま合宿中』
1 1日目 朝
いつもの時間。
いつもの電車。
この電車に乗れば、ギリギリ学校に遅刻しないですむ。
同じような考えの輩がいるもので、
峰城大学附属高校の生徒が割と多く乗車している。
ぎりぎりまで寝ていたのか、それとも、学園祭の準備で遅くまで
駆け回っていたのかもしれない。
学園祭の出し物の打ち合わせをしている者。
学園祭の為の荷物を重そうに持っている者。
いまだ寝ぼけてドアに寄りかかっている者。
色々な学園祭前の高校生らしい姿のもので溢れてはいたが、
ただ、眠そうな顔をしていることだけは、共通だった。
彼、及び、彼女が乗車してくるまでは・・・・・。
冬馬かずさ。
ピアノの天才にして、学園の有名人。
小木曽雪菜とは違った目立ち方をしているが、彼女の容姿を注目しない者はいない。
たとえ、近づくことができなくとも、いつも同じ電車に乗り合わせている者たち
にとっては、あこがれの存在であることには違いなかった。
彼女自身は、そういった視線を無視してはいたが。
かずさ「ほら、びしっとしろ!
いつまで寝ぼけているんだ。電車に乗るぞ。」
春希「起きてるって! ほら、降りる人もいるんだから、冬馬も端によらないと。」
春希が腕でぐっとかずさを引き寄せると、かずさは一瞬春希をにらもうとしたが、
何も言わず、下を向いたまま降りる客がいなくなるまで静かにしていた。
春希「乗らないのか?」
かずさが下を向いたまま動かないでいるのを不審に思って聞いてくる。
かずさ「・・・・・・・・。」
かずさは、春希に顔を合わせず、下を向いたまま電車に乗り込んでいってしまった。
春希「なんだったんだ?」
当然のようにかずさの隣の吊皮に陣取り、かずさに話しかける春希は
ある意味冬馬かずさよりも目立つ存在になっていた。
そういった視線を普段から無視していたかずさは気にもしていなかったが、
そういう視線に慣れていない春希は、まったく気が付きもしないでいた。
春希「なあ、こんな時間なのに、峰城生多いんだな。」
かずさ「そうか? みんな北原みたいに、なんでもかんでも余裕を持って
行動しているわけじゃないからな。」
春希「ある程度時間にゆとりがあれば、ミスも少なくなるし、結果として
満足する結果も出すことができるから、重要なことだぞ。」
朝から説教事が始まったことにうんざいりするかずさであったが、
ちょっと嫌味っぽい顔つきをすると、春希に言い返した。
かずさ「そうだな。時間は大切だよな。
誰かさんがもう少し時間にゆとりを持ってギターの練習を始めていれば
もっとクオリティーが高い演奏もできたんだろうな。」
春希「・・・・・・・・・・!」
かずさ「何か言ったか?」
春希「何も申し上げることはありません。」
ぐったりとうなだれる春希を見て満足したのか、
そんな春希の横顔を見てニコニコしているかずさであった。
高校に近づくにつれ峰城生は増えてきたが、
彼、及び、彼女が作り出す雰囲気によるものか、彼らのそばだけは
人が若干少ない気もする。
いつもの彼女の近寄りがたい雰囲気とは違うことに戸惑いながらも
彼氏に甘えるような彼女の雰囲気も遠くから見ていたいという
複雑な表情なギャラリーであったが、当の本人たちは気にもしていなかった。
下を向きながらも、かずさのことが気になるのか、ちらちらとかずさに
視線を向ける春希であったが、
春希「ほら冬馬。しっかりネクタイ閉めろよ。
いくら朝バタバタしてたからって、服装の乱れは気持ちの乱れにつながるぞ。」
と、かずさの返事を聞く前に、かずさのネクタイを勝手に直しに入る。
かずさ「・・・・なっ。」
春希「ほら直ったぞ。・・・・・どうした? そんな怖い顔して?」
かずさ「・・・・・・・・・きたはらぁぁぁぁぁぁ!!!!」
いつもの時間。
いつもの電車。
そんな気持ちがいい朝に、
敵をたくさん作っているなど全く気が付きもしないで
あこがれの彼女と登校しいる春希であった。
2 1日目 昼
いつもの時間。
いつもの学食。
学園祭前だからというわけではないが、今日の学食も生徒で溢れている。
若干いつも以上にうるさいのは、学園祭前独特の活気に満ちた雰囲気に
よるものかもしれない。
親志「春希、今日はちょっと多くないか?」
依緒「たしかに、いつもの春希からしては、このご飯の量は多すぎやしない?」
武也「それだけ、ギターの練習を頑張ってるってことさ。
俺の分もあるからな。」
春希「いや、朝食べる時間なかったから、ちょっとな。
それと武也。なんか嫌み混じってるから。」
そんな騒音で満たされている学食であっても、この一団は注目を集めていた。
声が大きいから注目されているわけではない。
ただ一人、学園のアイドルである小木曽雪菜がその集団の中に混じっていたからに
他ならなかった。
雪菜「北原君。頑張ってるもんね。でも、食事はしっかりとらないと元気でないよ。」
春希「ごめん、小木曽。今朝は起きたらとんでもない時間で、食べる時間も
なかったんだよ。明日からは、しっかり食事とるよ。」
雪菜「ギターの練習もわかるけど、体調だけは気をつけてね。」
親志「そんなこといっても春希のことだから、食事といっても時間がもったいない
とかいってコンビニ弁当で済ませるからなぁ。」
雪菜「ほんとなの北原君? お弁当ばっかりだと野菜不足になって栄養バランス
が良くないよ。」
依緒「あんたねぇ。」
武也「余計な心配ごとをこれ以上増やすような発言するなよ。」
春希がコンビニ弁当の比率が高いことを知っている親志にとっては、
とくに気にもしない発言ではあったが、それを非常に気にしてしまう相手が
いる場面で発言するなという非難の視線が親志を射抜く。
親志「え・・・えっ?」
春希「昨日はコンビニ弁当じゃなかったはず。・・・・そう昨日の夕食は
もっとあたたかい・・・・。」
無言のプレッシャーで春希を見つめる雪菜の追及に、視線をそらす春希であったが
そんなことで追及をやめる雪菜ではない。
雪菜「あたたかい、・・・なに?」
春希「えっと・・・・。」
春希(武也助けて。)
武也(すまん、春希。)
春希(依緒!)
依緒(骨は拾ってあげるから。)
春希(親志どうにかしろ。)
親志(ごめん、春希!)
雪菜「なにを目で会話しているのかな?
今大事な話を、北原君としているんだけど。」
武也・依緒・親志「なんでもございません。ごゆっくりどうぞ。」
笑顔の雪菜に、なにも言い返せないでいる一同であった。
春希(薄情者~。)
雪菜「それで、何を食べたのかな、北原君?」
春希「あたたかい・・・・・、あたたかいデリバリーピザ?」
雪菜「ふぅーん。カロリー高いだけで、ある意味栄養バランスも最高だね。」
春希「小木曽。ちょっとこわぃ・・・・。」
雪菜「なぁに?」
春希(その笑顔こわいって。
でも、周りの連中は、そんな風には見てないんだろうな。
なんか、すっごく注目されてないか?)
雪菜「よそ見しない。」
春希「ごめんなさい。昨夜も時間なくて、コンビニ行く時間もなかったし。」
雪菜「別に北原君を責めてるわけじゃないんだよ。
ただ、北原君が頑張ってるの知ってるけど、食事もしっかりして
ほしいって思ってるだけなんだから。
そんなんだと、なんだか心配になっちゃうじゃない。」
春希「わかったよ小木曽。これ以上小木曽を心配掛けるようなことはしないから。」
雪菜「北原君。」
武也・依緒・親志(ここにいるの辛いわ。)
いつもの時間。
いつもの学食。
特別なことがあるわけでない学食の日常場面。
そんな平和なひと時であったが、春希は確実に敵を増やしてしまったことを
実感せずにはいられなかった。
3 2日目 朝
いつもの時間。
いつもの住宅街。
閑静な高級住宅街ということもあって、通勤通学時間だからといっても
人はそれほど多くはない。
駅の近くともなれば、人も増えてくるが、今はひと組の男女しかいなかった。
かずさ「ほら、しゃきっとしろ。」
春希「そんな引っ張らなくても、しっかり歩けるから。」
知らないものが見たら、できの悪い弟を引っ張る姉にしか見えないかもしれない。
ただ、よく見れば、その姉の顔が少し赤くなってるを気がついたかもしれないが、
今は誰もいないし、ただでさえ目立つ顔立ちの冬馬かずさの顔をじっと
見つめる勇気がある者なんていない。
かずさ「今日は昨日より早く起きられたのに、なんでそんなにもぐずぐずしている。」
春希「そんなぐずぐずなんてしてないって。
朝方まで練習していて、睡眠不足もあるし、今日も朝食食べてないから
エンジンかかるまで少し時間かかっただけ。」
かずさ「そういいながらも、少しふらついてるぞ。」
春希「そんなことないって。」
実際、春希は疲れた顔をしてはいるが、ふらついてはいない。
かずさは、まわりに人がいないことを確認すると、
春希の腕に自分の腕をからませ春希を引っ張って歩き出す。
春希「ちょっと、冬馬?」
かずさ「なんだ? お前がふらついてるから、駅まで引っ張っていってやる。」
春希「・・・・・・・・。」
きっと睨みつけるかずさに、反論などできやしない。
かずさ「それに、今日は弁当を持たせただろう?
学校に着いたら、ゆっくり食べるといい。」
朝、春希がキッチンに水を飲みに行くと、かずさはなにやら料理をしていた。
といっても、食パンにジャムをたっぷり塗ったものをラップにそのまま包んで
いるだけであったが。
本人はもう食事はすんだと告げられ、登校前に玄関で渡された包み紙は
春希の鞄の中におさまっている。小さな水筒も渡されたが、おそらく
あまーいミルクコーヒーのようだが、しっかり全部飲む予定だ。
糖分が不足している今なら調度いいし、、弟子思いの師匠が
用意してくれた食事は残さず食べてしまいたい。
それに、あこがれの彼女が用意してくれた「手作り弁当」ならば、なおさらだ。
かずさ「ほら、行くぞ。」
いつもの時間。
いつもの住宅街。
誰も、彼、彼女を見てはいない。
ただそこには、幸福な空間があったことだけは確かであった。
4 2日目 昼
いつもの時間。
いつもの学食。
昨日と同じテーブルに、同じメンツ。
ただ違うことがあるとしたら、
昨日以上に誰もがその場にいたくないと思うのは共通認識であった。
雪菜「北原君。今日はお弁当作ってきたの。栄養も考えて作ってみたんだ。
少しは北原君の手助けになりたいなって。」
春希「ありがとう。でも、小木曽も歌頑張ってるし、俺だけが頑張ってるわけ
じゃない。なによりも、俺の進捗具合が悪いのが原因なんだからさ。」
雪菜「ううん。北原くんが人一倍頑張ってるの知ってるから。」
春希「それは、俺に才能がないから、人より頑張らないといけないだけで。」
雪菜「それでも、そこまで頑張れる人なんていないよ。
はい、お箸はこれつかって。」
春希「ありがとう。・・・・・・・・・イタッ!」
箸を受け取ろうとしたが、ギターの練習でつぶれた豆の痛みで
つい落としてしまう。
雪菜「大丈夫?」
春希「大丈夫。昨日つぶれた豆が少しいたかっただけだから。
ごめん、箸落として。洗ってくるから。」
席を立とうとする春希のブレザーの裾をつかみ、呼びとめる。
春希「小木曽?」
雪菜「お箸洗いに行かなくても、こうすれば大丈夫だよ。」
春希「え?」
雪菜「はい。あ~ん。」
春希「え?」
雪菜「だから、あ~ん。」
雪菜の箸で、春希の為に用意したお弁当のおかずをつかみ、
春希に食べさせようとする。
春希「小木曽?」
雪菜「指いたいんでしょ? だから、食べさせてあげる。」
春希「いや、豆つぶれたの左手だから・・・・・。」
雪菜「はい。あ~ん。」
春希(武也助けて。)
武也(すまん、春希。)
春希(依緒!)
依緒(骨は拾ってあげるから。)
春希(親志どうにかしろ。)
親志(ごめん、春希!)
雪菜「なにを目で会話しているのかな?
食事はしっかりとらないとダメだよ。」
武也・依緒・親志「なんでもございません。ごゆっくりどうぞ。」
春希(裏切り者~。)
雪菜「あ~ん。」
いつもの時間。
いつもの学食。
観念して雪菜に食べさせてもらう春希であった。
せめて少しでも早く食べ終わろうと画策してみたものの
しっかり噛まないといけないと雪菜に注意され、昼休みが終わるぎりぎりまで
学食に居座ることになる。
一つ分かったことがある。
それは、もうこれ以上敵を作ることはないってことだ。
なにせ学園には敵しかいないと思うから。
『ただいま合宿中』・・・・・・・・・終劇
ホワイトアルバム2 『誕生日プレゼント~夢想』(冬馬かずさ誕生日記念)
『誕生日プレゼント~夢想』
2009年5月28日木曜日
窓から吹き抜ける風が心地いい。
朝の空気を部屋にくぐらせると、夜中に充満した甘い空気が薄まっていく。
そんな朝と夜が混じり合ったけだるい空気を肺に充満させ、
今日一日のスケジュールを頭の中で確認する。
少し時間に余裕があることを確認すると、ベッドに再び潜り込み、
朝の新鮮な空気を嗅ぎつけて寝がえりを打つかずさの寝顔を堪能する。
今日も絶好の学校日和で、かずさが通う大学まで送っていく道のりも楽しくなりそうだ。
新緑が茂り、草木も夏の準備を始めている。少し暑がりなかずさも少し早い初夏の
装いになり、白い肌を覗かせるたびにどぎまぎしてしまう。
それをかずさもわかっていて、わざと見せつけるのだけはやめてほしい。
かずさ「だって、春希が見たそうにしていたから。」
春希「まあ、それは認める。」
かずさ「正直でよろしい。そういうところが、かわいいな。
でもさ、いつも体の隅々まで見てるだろ?」
俺に鞄を押しつけ、数歩俺の前まで踊り出ると、華麗なターンを披露する。
からかうように体を回転させ、俺に体を見せつけてくる。
風にのって鼻をくすぐるかずさの香りが、いっそう俺の体温を上昇させた。
ふわりと舞ったスカートから除く陶器のような脚に目を奪われてしまう。
俺の視線の先を素早く察知したかずさは、俺の腕に再び腕をからませ、
耳元に甘い誘惑をささやいてきた。
かずさ「見てるだけでいいのか?」
春希「だから、朝から誘惑するのだけはやめてくれ。」
かずさ「そうなのか?」
本気で心外だという顔を見せるかずさは、どこまで本気なんだろうか?
どこで覚えてきたのかわからないけど、
実際使う人がいるのかわからない台詞を言い放つ。
かずさ「でもさ、春希。春希の言葉を信じればいいのか、それとも、
春希の体を信じればいいのかわからないなぁ。」
春希「あぁっ、もう! 本当にやめてくれ。ここは公共の道なんだぞ。」
みごとにかずさの術中にはまり、体が反応してしまう。
だから、それを隠すためについ声が大きくなってしまった。
さすがにやりすぎたと思ったかずさは、耳としっぽが垂れ下がり、しょんぼりしている。
かずさの歩く速度が遅くなるにつれ、俺の腕に絡まった腕も徐々にずり下がる。
ついには手が離れそうになったところでかずさの手を掴む。
春希「だから・・・・、せめて家の中だけにしてくれると助かる。
それと、綺麗なかずさを皆に見せびらかしたい気持ちもあるけど、
それ以上に、誰にも見せたくない独占欲もあるんだ。
・・・・その辺を考慮してくれると助かる。」
下を向き、とぼとぼ歩いていたと思ったら、俺のはずかしい台詞で見事復活したかずさは
しっぽを振りながら俺の腕に再び腕からませ、所有権を主張するようにすり寄ってくる。
あとになって、俺も恥ずかしいセリフを言ってしまったことに気が付き、
授業中だというのに一人身悶えてしまった。
そんなふうに毎日の通学も大切な時間となっている。
ただ、今では、俺もかずさの大学の有名人の一人になってしまったことだけは
失敗だった。
かずさは、冬馬曜子の娘というだけでなく、実力も兼ね備えたピアニスト。
しかも、誰もが認める美貌とくれば、注目を集めるてしまう。
その美人ピアニストを毎日送ってくる男がいれば、在校生が見逃すわけもなく。
大衆の監視が厳しくても大学までかずさを毎日迎えにもいきたかったが、
こればっかりは時間割の影響で断念せざるをえなかった。
それでも、毎日のようにかずさの練習を聴きながら予習復習・レポートと、
自分の勉強をしている。
大学で会えない時間を埋めるために、わずかな時間でもかずさと触れ合っていたかった。
大学2年生になった俺たちは、今日も講義がある。
でも、今日だけは自主休校を余儀なくされた。
なにせ今日の主役であるかずさが、誕生日くらい一日中一緒にいたいとのことで。
俺も含め峰城大学附属高校の大部分の生徒は、そのまま峰城大に進学したが、
かずさだけは如月音楽大に一人進学した。
かずさを一人、別の大学に行かせるのは、いろんな意味で心配したが、
その心配通り、1年の夏季休暇まで友達ができなかった。
それでも、今では家に遊びに来る友人が二人ほどできたのだから、
おおいに進歩したといえよう。
ただ、夏季休暇中に、俺と一緒の時に偶然その二人に出くわさなければ、
後期日程も一人だった可能性も低くなかったと思えるが、
そんなこと考えても仕方がない。
きっかけは俺だったかもしれないけど、そのチャンスをものにしたのは
まぎれもなくかずさ自身なんだから。
そんなこんなで色々あったけど、充実した大学生活を送っている。
しかし、今なら笑い話にできるけど、できれば去年の誕生日のことは思い出したくない。
2008年5月28日水曜日
太陽の光が降り注ぎ、テーブルを埋め尽くす彩り華やかなケーキが輝いている。
これから食事だというのに既に胸やけを起こしていた。
今日の主役がうれしそうにテーブルを眺めているのを横目に
自分が食べられそうなものにチェックを入れる。
ほんのお飾り程度に添えられているサンドウィッチは食べられそうだ。
そう安心しきっていたが、手に取ってみるとフルーツと生クリームが
たっぷりのものだとあとになって気が付き、心が折れたことは省こう。
なにせ主役のかずさがこんなにも楽しそうにしているのだから。
もちろんケーキだけでかずさが喜んでいるわけではない。
かずさの誕生日に合わせて帰国した曜子さんが目の前にいることが
一番の要因だって思う。
口では悪く言ってるけど、本当は母親思いで、仲がいい親子なんだから。
その曜子さんに食事の準備を任せたのは失敗だったが。
曜子「どう? 美味しそうでしょ。
私が日本に来たら食べたいケーキを片っ端から取り寄せたわ。」
曜子さんが目を輝かせながら、ケーキの特徴を紹介してくれるが、
俺は適当に相槌を打つしかない。
けれども、かずさは口角が上がりっぱなしで、くいるように聞きいっている。
さすが親子だと納得してしまう。
かずさ「あたしの誕生日ケーキなんだからな。
母さんは、あたしに優先権があることを忘れるなよ。」
優先権がなくても、これだけの量があれば関係ないって言いたい。
そんな突っ込みを胸に押し込めつつ、俺が用意した平凡なイチゴのケーキに
ローソクを立てていく。
今日の為にあらかじめケーキを予約していたが、
曜子さんもケーキを用意するんなら、
キャンセルもできたのでいらないんじゃないかって言ったのが数日前。
それでも、二人で選んだケーキは外せないとのことで、
先ほど俺が受け取りにいってきたものだ。
春希「ほら、かずさ。ローソクに火をつけるぞ。」
ライターでローソクに火を付け、かずさをケーキの前に連れてくる。
曜子「やっぱり、誕生日の歌、歌わないといけないのかしら?」
かずさ「いいよ。恥ずかしい。」
曜子「そうは言ってもねぇ。」
曜子さんは俺の方を見ながら、テーブルの下からなにやら取りだす。
曜子「ギター君。はいこれ。」
春希「アコギですよね?」
曜子「そうよ。じゃあ、弾いてね。歌は、・・・・・あってもなくてもいいわ。」
曜子さんが突き付けるアコギは、どう見ても最高級品の一つだと思えた。
俺なんかが使っても、その性能の1割も発揮できない自信がある。
春希「いきなり言われても。」
援軍を求めて、かずさを見てみると、
かずさ「弾けよ、春希。久しぶりに春希のギター聴きたいな。」
春希「久しぶりだし、うまく弾けるかどうか・・・。」
かずさ「だったら、歌はいいよ。ギターだけでさ。」
主賓の希望に逆らえるはずもなく、曜子さんから渋々ギターを受け取る。
椅子に座り、ギターを試しにかき鳴らしてみても、
素人の俺には音の違いなんてわからなかった。
ピアニストを前にして、しかも、世界で戦う一流のピアニストを前にして
緊張すると思ったが、そんなこともない。
二人が俺にうまい演奏なんか求めてないって、初めからわかってるから。
つなたいながらも、かずさの為に、かずさを想って弾くことが大事だって
かずさに教えられてきた。
いつもかずさが俺のためにピアノを弾いてくれるように、
俺もかずさを想って演奏を始める。
二人とも真剣なまなざしで俺を見つめる。
曜子さんは一緒に歌ってくれるかもって、淡い期待としてたけど、
予想通り歌うことはなかった。
なんとかミスをしないで弾き終えた。簡単な曲だから当然なんだけど。
二人が俺に拍手をしてくれるが、俺にじゃなくてかずさにでは?と思ったが、
尊敬するピアニスト二人に誉められるのは、悪い気がしなかった。
かずさがローソクの火を消そうとケーキに顔を寄せる。
ローソクの火がかずさに反射して顔が赤くなっているが、
実際に照れて赤くなっていることに俺は気が付いていた。
微妙な違いを見分けないと気がつかないようなことだけど、
それに気がつくってことは、俺たちの親密さが深まったって喜ぶできなんだろう。
曜子「おめでとう、かずさ。」
春希「おめでとう。」
かずさ「ありがとう。」
俺は、曜子さんに感謝したかった。
かずさを産んでくれて。
まだ面と向かって言うことはできないけど、いつか言える日が来るんだろうか?
これからも、何度もかずさの誕生日を祝うんだ。
きっと、いつの日か言える日が来るんだろう。
食事が進み、話題の中心はいつしか俺のバイトについてに移っていく。
さすがに俺はケーキは一切れで遠慮して、冷蔵庫にある材料でパスタを作った。
二人にも一応食べるか聞いてみたが、食べるとのこと。
今も、ケーキとパスタを交互に食べるという離れ業を披露してくれている。
曜子「春希君、バイト増やすの?」
春希「はい。塾の講師の空きがあるそうで、それを紹介してもらおうかなと。」
曜子「へぇ~。春希君らしいバイトね。先生かぁ・・・。似合いそうね。」
どんな先生の姿を想像してるんだろうか?
おそらく俺の想像とは、かけ離れているに違いない。
春希「はは・・・・。ありがとうございます。」
曜子「春希くんのことだから、親身になって教えるんだろうなぁ。
でも、かわいい生徒に手を出しちゃだめよ。浮気は許さないからね。」
やっぱり想像とは違った。
曜子さんが、かずさを横目で見ながら俺に笑いかけてくる。
やめてほしいのは、その挑発のほうです。
俺の浮気なんかより、よっぽどたちが悪いです。
あれ?
なんか胸に雪でできたクギが突き刺さる痛みを感じる。
4本のクギが次々に突き刺さっていき、目の前が真っ白になりそうだった。
しかし、その痛みは一瞬のことだったので、痛みを押しのけて
かずさのフォローに走る。
春希「そんなこと絶対にないからな。
そんなことしたら、塾の評判も下げてしまうし、バイトもクビになる。」
かずさ「わかってるって。いつもの母さんの安い挑発だろ。」
口では納得してるって言ってくれてるが、顔が引きつってるのだけは隠せてはいない。
みごとに挑発にのってるって言ったら、火に油を注ぐだけだろうな。
曜子「でも、なんでバイト増やすの?
今もファミレスのバイトしてるんでしょ。」
春希「そうなんですけど、塾講師のほうが時給もいいですし。」
曜子「じゃあ、ファミレスはやめるの?」
春希「いいえ。それも続ける予定です。」
曜子「ふぅ~ん。」
曜子さんは納得してない様子で、俺の顔を覗き込む。
曜子さんの視線から逃げようとかずさの方を向くと、
かずさ「一人暮らしするためだろ?」
見事に仲間だと思ってた援軍から攻撃を受けてしまった。
曜子「へぇ~。なんか、そういう態度をとるところをみると、いやらしいわね。」
身をよじる曜子さんからは、色気が漂ってきたが、それに反応したら命が危うい。
自分の膝を力いっぱいつかみ、自制心を保ちながら否定する。
春希「そんなことは全然ないです。ただ単に、家を出たかっただけです。」
最後までは、曜子さんを見て話すことはできなかった。
下を向く俺に対して、曜子さんは少しだけ申し訳なさそうに謝罪してきた。
曜子「ごめんなさいね。」
ただ、そのわずかながらのしんみりさも一瞬のことで、
曜子「それなら、ここに引っ越してきなさいよ。」
爆弾発言を投下してくれた。
冬馬邸に俺が住む話は、3月にも一度あり、そのときは丁重にお断りしている。
親公認の仲とはいえ、俺自身、心の準備ができていなかった。
それに、高校の時の出来事も消化しきれていないっていうのが
主な原因だけど、それは、かずさも理解してくれている。
春希「それは一度お断りして・・・。」
曜子「うん、それはわかってるわ。でもね、
この子ったら、大学で友達作れてないでしょ。その辺がちょっと心配で。」
全然心配しているようには見えない。
むしろ大学の級友なんて、教授も含めて、
みんな蹴散らしちゃえって思ってるようにさえ見える。
冗談はさておき、
春希「それは、俺も心配してるんですけど、
俺が直接乗り込むわけにもいかないですし。」
曜子「でしょう。だったら、家で寂しくしているかずさを慰める相手が
必要じゃない? 心が癒されず、やさぐれたまま大学に行っても
友達なんてできやしないでしょ?」
春希「それはそうかもしれないですけど。」
かずさを見ても、自分には関係ないとばかりに美味しそうにケーキを食べている。
今日何個目のケーキか数えるのを途中でやめてしまったが、
仮にケーキが残ったとしても心配することもなさそうだ。
曜子「それに、年頃の女の子が一人暮らしっていうのも。
普通の子だったらいいんだけど、
私が有名すぎて、この子も目立っちゃうでしょ。」
春希「ええ、まあ。できる限りのサポートはさせていただいてます。」
曜子「でもねぇ、家までのりこまれてしまうかもって考えてしまうと・・・・。」
春希「それは・・・・。」
今度ばかりは助けてくれよと、かずさに「援軍頼む」と視線を送る。
かずさは俺の視線に気がつくも、それを無視して次に食べるケーキの物色を始める。
ここで重大な勘違いに気がつく。
かずさは、味方ではなかった。
最初から、曜子さんの仲間だったんだ。
どうもこの話はうまく進みすぎている感じがする。
バイトの話から、一人暮らしの話へ。
かずさと曜子さんが、あらかじめ準備していたのかもしれない。
力が体から抜けていくのを感じつつ、曜子さんとかずさをもう一度見る。
この顔は・・・・・・・・、
やはり、グルだった。
この瞬間、俺は敗北を認めた。
春希「わかりました。ここに引っ越させてください。」
曜子「そうしてくれると、助かるわ。」
かずさ「今日から、よろしく頼むな。春希。」
春希「ああ、よろしく頼むよ。・・・・・・え? 今日から?」
思いがけない台詞に心臓が跳ね上がる。
恐る恐るかずさの様子を確認すると、どうやら決定事項らしい。
その笑顔が物語っている。
曜子「安心してね。荷物の方は、今日春希君が家を出た後に業者がここに
運ぶ手はずになってたから。
今頃梱包が終わって、運んでいるころかしら?」
春希「はぁ~!? 家の鍵はどうやって?」
曜子「先日、お母様には挨拶に伺ったわ。とっても話がわかる方でよかったわ。
今度食事に行く約束もしたのよ。楽しい方だから、仲良くなれそうね。」
素早い。
迅速すぎる。
俺が関与できないうちに、全てを手早く処理している。
もう詰んでしまった。
朝この家に上がりこんだときには、全てカードがそろっていたんだ。
それにしても、母さんまで巻き込まれているとは。
何年ぶりになるか覚えていないけど、一度話あったほうがいいかもしれない。
お互い興味がないと言っても、曜子さんが関わってしまっているんだ。
なにかしら手を打っておかないと、気がつかないうちに結婚式の準備が
完了しているかもしれない。
結婚するのが嫌なのではなく、むしろ結婚したいけど、
かずさと二人で話し合いながら、新しい家庭を一つ一つ作り上げていきたい。
春希「もう降参です。すべて受け入れますから、
まだ隠していることがあるんなら話してください。」
全面降伏の白旗を上げてもなお、最後の抵抗はしてみる。
春希「でも、光熱費・食費・家賃がわりのお金は払いますからね。」
曜子「わかってるわ。そのことも考えているから。」
俺が降伏条件を出すことさえも予想していたなんて。
曜子さんの手のひらの上で躍らせれてしまっている。
曜子「悪いけど、塾講師のバイトは諦めてちょうだい。」
春希「わかりました。」
もはや敗残兵にできることはない。
曜子「やってもらいたい仕事は二つ。」
春希「二つかけもちですか。」
曜子「一つ目の方は、今は仕事が多くないの。だから、2つ目の方がメインかな。」
春希「わかりました。」
曜子「一つ目は、日本にあるうちの事務所スタッフ。
そして、2つ目は、開桜社っていう出版社の編集サポート。」
春希「出版社なんて、簡単にバイトできるんですか?」
曜子「その辺は大丈夫。ちゃんとコネがあるから。」
一人ヨーロッパで勝ち残ってきた凄味がある人だ。
今は欧州がメインだけど、日本にも深い人脈があるんだろう。
曜子「で、一つ目から説明していくわね。」
春希「わかりました。」
曜子「うちの事務所は、私がヨーロッパメインだから、それほど仕事はないわ。
それでも、美代ちゃん・・・・、うちのスタッフね。
美代ちゃんの下について、かずさがこれからどんな世界に挑もうとしているか
知ってほしいの。
もちろん、春希くんの将来は強制しないわ。
将来、春希君にかずさのサポートをしてもらえたら、頼もしいけど、
それを強制することはできない。だって、春希くんの人生なんだもの。」
春希「・・・・・・・・・・・・。」
わかってますと視線を送り、話の先をうながす。
かずさのサポート。何度も考えてきた仕事の一つではある。
曜子「それでもね、クラシックの世界をもっと知っておいてほしいの。
どのような将来があるにせよ。
でね、二つ目の開桜社なんだけど、
これはマスコミを知ってほしいってことかな。」
たしかに、これだけの美貌をもってすれば、実力との相乗効果で
マスコミもほっておくこともあるまい。
ましてや、日本のマスコミだったらと思うと、想像をぜっする過熱ぶりをうかがえる。
俺が先走った想像をして、げんなりした顔を見せると、
曜子さんは俺の想像に気がついたようで、
曜子「そんな顔しないで。マスコミとは、うまく付き合っていかないと
生き残れないのよ。」
マスコミが、どのように評価するにせよ、
かずさを売り込むにはマスコミは不可欠である。
曜子「アンサンブルっていう音楽雑誌の編集長と仲が良くてね。
そのつてで開桜グラフに潜り込めそうなのよ。」
春希「なんか、コネ入社みたいで、気がひけますね。」
曜子「それは大丈夫よ。
もし使い物にならないようだったら、叩き潰してでも使えるように
鍛えなおしてほしいって注文しておいたから。」
笑いながら話す内容ではなかった。
にこやかにほほ笑む曜子さんが悪魔にみえる。
「叩き潰してでも」って、それはすでにアウトだろ。
曜子「風岡さんっていう、若いけど優秀な人の下で働く手はずになってるわ。
今度面接があるから準備しておいてね。」
春希「面接ですか。」
曜子「顔見せと、仕事の説明を兼ねてのミーティングみたいなものだから、
安心して。」
春希「わかりました。」
このときは、知る由もなかった。
顔見せという軽い言葉は存在しないって。
昼ごろ面接に行き、家に帰るのに翌日の始発を利用するなんて。
もちろんかずさには遅くなるって連絡していたが、
寝ずに待っていたかずさによる眠気が吹き飛ぶような出来事が待ち構えていた。
それは、また別の話だが・・・・・。
曜子「それじゃあ、もう少ししたら、引っ越し業者が来ると思うから、
その時は春希君お願いね。
部屋は、かずさと同じ部屋を使ってね。」
春希「え?」
まだ爆弾を隠していたとは。
油断していた。
いや、もっと早く気付くべき内容だったのに。
しかも、わざとこの話を最後にとっておいたみたいだ。
曜子さんの意地悪そうな笑顔が、さらに輝いている。
曜子「最初は、寝室は同じでも勉強部屋は別に用意しようと思ってたんだけど、
かずさがねぇ。」
曜子さんが、この引っ越しの真の首謀者に視線を送る。
かずさ「母さん! って、もうばれてるだろうからいいか。」
今まで自分には関係ないって顔をしてケーキを食べていたかずさがついに顔を上げる。
悪びれる様子もなく、初めからこうなるの筋書きだと言わんばかりだった。
曜子「これね、私からの誕生日プレゼントだったの。」
春希「やはりそうでしたか。」
苦笑いさえできそうになかった。
ただただ策士たちを誉めたたえたい気持ちでいっぱいだ。
かずさ「母さん。
春希。
誕生日プレゼント、ありがとう。」
こんな笑顔を毎日みられるんなら、俺の気苦労なんて安いものだ。
かずさに家事なんて任せられないし、料理のレパートリーももっと増やしたい。
今でも夕食は毎日俺が作ってるけど、大学にもっていくお弁当にも挑戦したい。
やるべきことはたくさんある。
だけれども、かずさと一緒なら、
その全てが楽しいイベントになってしまうことだけは確信できた。
『誕生日プレゼント~夢想(2014)』・・・・・・・・・終劇
冬馬かずさ誕生日記念(2015)
『やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。』
半年前に購入したその家は、その本来の持ち主以上に持ち主らしい振る舞いとたたずまいを匂わす冬馬曜子を歓迎していた。一応はその持ち主の妻である北原かずさも念願のウィーンでの再会を果たし、母曜子に顔を合わせた瞬間のみは感動をみせた。しかし、今やその感動を返せて言わんばかりのため息を既に何度ともなく繰り返していた。
曜子「ほんとでっかい家に引っ越してきたわね。まっ、それだけの活躍をしてきたんだし、当然と言えば当然なのかしらね」
かずさ「あたしは別に今までのマンションでもよかったんだけど、子供もできるわけだしマンションよりは庭がある戸建てがいいって春希が張り切っちゃってさ」
曜子「ふぅ~ん・・・」
わざとらしく歯に引っかかるものいいと、舐めまわすように見つめる曜子の視線にかずさは座っていたソファーから無理だとわかっていても後ずさろうとしてしまう。ただそれも大きく膨らんだお腹のところで目が止まると破顔して笑みを隠せなくなる。
つまりは、念願の初孫ができたことではしゃぎまくっているだけなのだが、その喜びをあさっての方向に吐きだすあたりが冬馬曜子らしいと言えるかもしれない。
かずさ「なんだよ・・・」
曜子「だって、この家探していた時に春希君を通して色々とあなたのリクエストも聞いた気もするのよねぇって思いだしてて」
かずさ「そりゃああたしも住むんだし、それなりには意見も言うもんじゃないか」
曜子「そう?」
かずさ「なんだよ?」
かずさが語気を強めようが、曜子は素知らぬ顔していやらしい追及をやめようとはしなかった。
曜子「ん? べ~つにぃ」
かずさ「別にじゃないだろ。何かあるからそんな風な態度をとっているんじゃないか」
曜子「そうかしら?」
かずさ「そうだよ。そうにきまってるだろ」
曜子「ならそれでもいいわ」
やはり釈然としないかずさはさらに詰め寄ってやろうと一瞬頭をよぎったものの、そこは経験の差が歴然としてあるわけで、早々にかずさはこの面倒すぎる案件を切り上げることにした。
かずさ「・・・・・・で、なんなんだよ」
曜子「だからねぇ・・・、一番気になったのはピアノの練習をする部屋かしらね。ここはどう考えても春希君の意見って感じがしないのよね。もちろん春希君が専門家の意見や美代ちゃんに相談とかしていたんだろうけど、それにしてもあなたの好みが強くでているかなって思ってね」
かずさ「当たり前だろ。あたしが使うんだから、あたしの好みに合わせてリフォームする際に春希が注文してくれたんだよ」
曜子「でもそれって春希君の意見じゃなくてあなたの意見になるんじゃないかしらね?」
かずさ「細かいところをいちいちついてくるんだなぁ。そうだよ、あたしの意見を主に取り入れてリフォームしました。春希がわかるわけないだろ。ピアノに関しては素人なんだし。そりゃあ最近は現場スタッフとの打ち合わせをたくさんこなしてきたからそれなりの知識だけは増えたさ。でも実際ピアノを弾くとなるとからっきしで、理解なんてできるわけがない。だからピアノを弾くあたしが率先として意見を言ったとしても、それは当然の事だ」
矢継ぎ早に言いきると、かずさは肩を上下に動かし息を切らす。それを見ていた曜子はかずさの事よりもお腹の子に悪影響がないかしら、なんてかずさが知ったらさらに目の色を変えそうなことを考えていた。
そもそも曜子が種をまいた話のネタであるのに、それはちょっとあんまりじゃないですかと場を収めるはずの春希がいないことが、今の現状の根本的な間違いなのかもしれなかった。
曜子「まあ、当然の流れね」
かずさ「そ、そう?」
曜子「だって春希君にわかるわけないもの。ピアノについてはあなたの意見を聞いたほうがいいに決まっているわ。もちろん業者とあなたの間に立って詳細を詰めるのはあなたよりも春希君が担当したほうがスムーズに進むに決まってはいるけどね」
かずさ「誉められているのか、けなされているのかわからないんだけど」
曜子「安心しなさい。その両方プラス夫婦としても仕事のパートナーとしても順調でほっとしているってところよ」
かずさ「その辺については心配する必要はないよ。仕事面では働きすぎってほど働いてるからさ」
曜子「それもそうね。現に今だって最愛の妊婦をほっといて仕事にいってるんだものね」
その不用意すぎる曜子の一言でかずさの眉はつり上がる。曜子の方もこうなるとわかっていながら発言するあたり肝が据わり過ぎているのだろう。
かずさ「それは母さんのせいだろ。ほんとうは来年までは二人揃って活動を一時休止するつもりだったのに、それなのに母さんが日本でコンサートやって、しかもそのCDやらBDやらを世界販売なんてするから」
曜子「仕方ないじゃない。不死鳥のごとく復活した冬馬曜子の演奏を世界が求めているんだもの」
かずさ「それにしても現金なものだな。せっかくドナーが見つかって病気も治ってコンサートも再開できたというのに、あたしたちには会いにこようとはしなかったじゃないか」
曜子「それはあなたたちが東京に戻ってこないからでしょ? 出て行った人間相手にわざわざ会いに行かないといけない義務も義理もないわよ」
かずさ「それでも親かよ」
曜子「親だからこそヨーロッパで活動がしやすいようにと色々と手を貸してあげたじゃない」
かずさ「それはありがたいとは思っているよ。でもそれは事務所の社長としての仕事であって、実際に色々動いてくれたのは美代ちゃんじゃないか。しかも何度ともなくウィーンまで来てくれて、母さんよりも美代ちゃんの方が今では家族の一員だと思っているよ」
かずさ「それは、まあ、ね。美代ちゃんも結婚できないでいるし、かずさと春希君が受け入れてくれるんなら、家族として扱かえば喜んでくれるわよ、きっと」
かずさ「ああ、そうだな。娘を放置したままの母親と比べるまでもないな」
曜子「でもこうして会いに来てあげたじゃない」
すすすっとかずさのお腹に手を伸ばす曜子の手の甲を、お腹に触れる直前にかずさははたき落とす。ぱちんと心地よい音が鳴ったが、音の割には痛くはないのだろう。叩いたかずさも、叩かれた曜子も笑みを浮かべたままであった。ただし、両者の笑みには決定的にまでもの溝が存在してはいたが。
かずさ「会いに来たのはあたしたち夫婦ではなくて、お腹の中にいる孫に会いに来ただけだろ」
曜子「あなたに会いに来た事と孫に会いに来たことなんて、大した差はないわよ」
かずさ「だったらなんで出産予定日直前に会いに来たんだよ。いままではウィーンにくるそぶりさえ見せなかったじゃないか」
曜子「それ言っちゃうんなら、私のドナーが見つかった時でさえ戻ってこなかったじゃない。しかも、あなたのピアノが認められて世界ツアーもやったというのに、東京だけはコンサートやらなかったじゃないの」
かずさ「札幌、横浜、千葉、京都、大阪、福岡、岡山、沖縄でやったんだから問題ないだろ。しかも千葉では幕張メッセを使ってだなんて馬鹿げた企画を持ってきやがって。ただでさえでかいのに、これがどっかのバンドみたいに馬鹿でかい駐車場を借りきっての野外コンサートだったら日本に一歩たりとも踏み入れないつもりだったぞ。それに、そもそも東京だけが日本ってわけじゃない。それとドナーが見つかったときは行こうとしたけど、コンサートが決まっていたから来なくてもいいって言ったのは母さんの方じゃないか。春希がコンサート中止を進めようとしたのを止めたくせに」
曜子「それは社長判断よ。だってあの時はあなたの稼ぎしかなかったのよ。社長としては莫大な中止費用なんて出したくないわよ」
かずさ「そもそもこの話は箱根に行ったときに散々やりあって、今後は話題にしないって春希と決めたじゃないか。温泉に来たっていうのに口げんかばかりして休める事ができなかったって春希だけじゃなくて美代ちゃんまでもげんなりしていてさ」
曜子「でも、家族三人で露天風呂に入れたんだからいいじゃない」
かずさ「あれは母さんがいきなり乱入してきたんじゃないか。せっかく春希と二人っきりで入っていたのに」
曜子「あらぁ・・・・・・。やっぱりウィーンで一緒に住んでいない私は家族じゃないっていいたいのね。裸のつきあいでもして少しは家族のきずなを深めようと思っていたのに」
かずさ「家族であってもルールっていうものがある。どこの家族が嫁の母親と一緒に旦那がお風呂に入るっているんだ」
曜子「あらあら? ここにいるじゃない。しかも実際一緒にお風呂に入って実証済み。悪くはなかったでしょ」
かずさ「あたしは問題なかったけど、春希は委縮しちゃって大変だったじゃないか」
曜子「でも春希君、お風呂から出ていかなかったじゃない」
かずさ「それは母さんがいたからだろ。タオルもなかったし、出るに出られない状態だったって知ってたじゃないか。しかもタオル取ってくれって頼んでも知らんぷりで、あたしが取りに行こうとしたら邪魔までしたくせに」
曜子「あらあらあら、そうだったかしら?」
かずさ「都合が悪い事は都合よく忘れやがって。・・・・・・そうだったんだよ。母さんが邪魔したせいで出られなかったんだ」
曜子「でも、病人相手に力づくって酷いんじゃないかしら?」
かずさ「どこまで都合よく忘れるんだ。あのときは快気祝いだったじゃないか。ドナーが見つかって治療して、体調も安定してきたからお祝いに温泉に行きたいって言ったのは、どこのどの冬馬曜子さんだったんだろうな」
曜子「たぶん世界一綺麗で、世界一ピアノがうまい冬馬曜子さんだと思うわよ」
かずさ「自分でそんなことを平然と言える神経がわからないけど、世界で二番目に綺麗で、世界で二番目にピアノがうまい冬馬曜子さんが言ったんだよ」
曜子「あらあらあらあら・・・、世界で一番ではなくて?」
かずさ「二番目だ。今はあたしの方が注目されているからな。あんたが「今」一番注目されていられるのは、あたしが妊娠して休暇中って事と、今まで病気で活動できなかったけど、ようやく病気も治り、奇跡の復活をしたってマスコミが騒いでくれているおかげにすぎない」
曜子「あらぁ~、言ってくれるわね」
かずさ「時代は常に変わっていくんだよ。いつまでも母さんが世界の中心ってわけじゃないんだよ」
曜子「たしかに私はブランクもあるし、しかも今話題になっているのも不死鳥のごとく復活した絶世の美女ピアニストっていう面もあることは認めましょう。でも、あなたが言っているように、時代は常に移り変わっていくものなのよ」
かずさ「なにがいいたいんだよ」
曜子「つまりは、あなたが妊娠、出産、育児をしている間に世界も変わっていくっていうことよ。あなたが幸せいっぱいに休暇をとっている間に、私は命を削ってピアノに向き合うつもりよ。現に今だってピアノを弾いていたほどだもの。病気をしてよかったことなんてほとんどないけど、でも、病気があったからこそ今は昔以上に真摯にピアノに向き合えるし、ピアノを弾く時間がとても大切だってわかってしまったわ。それに、なんだか今まで心の中でくすぶって熟成されていた感情が一気に爆発してしまっている感じなのよね」
かずさ「いってろ。熟成しきって腐ってしまえばいいんだ」
曜子「ふぅ~ん。あなたもピアノが思うように弾けなくてストレスたまっているんじゃないの?」
かずさ「妊娠前みたいに半日通して弾き続けるなんてできないけど、弾く事は一応できるかな」
曜子「でも、お腹の子が気になって、意識を全てピアノにぶつける事ができないでいるってところかしらね」
かずさ「そうだな。そう言われればそれであってる気がするよ。悪いかよ?」
曜子「悪くないわよ。ぜんっぜん悪くない。むしろお腹の子供を無視してピアノを弾いていたら、あなたの事をひっぱたいていたかもしれないわね」
かずさ「よくいうよ。育児放棄して自分一人でヨーロッパに行ったくせに。どうせならヨーロッパじゃなくて、地獄に逝けばよかったんだ」
曜子「高校生になるあなたを置いていってしまった事については、さんざん謝ったじゃない。理由を詳しく告げないで行った事を謝ったわよね」
かずさ「一応は」
曜子「だったらもういいじゃない」
かずさ「子供の時に受けた傷は大人になっても消えないんだよ」
曜子「ほんと執念深いわね」
かずさ「あんたの娘だからな」
曜子「でも、子供をほっとく所だけは似ないでよね」
かずさ「それは問題ない。あたしと春希の子供だからな。ピアノも大切だけど、それと同じように家族は大切だから」
曜子「そう・・・・・・」
かずさ「そんな顔するなよ」
曜子「そんな顔って?」
かずさ「だから、悲しそうで、不安一杯って顔をさ」
曜子「してないわよ」
かずさ「してるって。安心してよ。母さんもあたしにとってかけがえのない家族であって、最も大切な人の一人だからさ」
曜子「ん、もう・・・。可愛くなっちゃって。これもあなたも母親になるからかしら」
かずさ「どうだろうな」
曜子「私もあなたの事が世界で同一2位で大切な人だと思っているわ」
かずさ「ちょっと待て」
曜子「なにかしら?」
かずさ「同一2位ってどういうことかって聞いているんだ」
曜子「その言葉通りに2位が二人いるっていう事よ。まあ、3人以上いても同一2位ってことにはなるけど、私の中では二人だから二人いるってことになるわね」
かずさ「そんな言葉の説明なんて聞くまでもなく理解している。だからなんで2位なんだよってことだ。娘なんだし1位じゃないのかよ。あ、あれか? あたしの実の父親が1位でしたっていうおちだったりするんだろ」
曜子「それはないから安心して」
かずさ「安心できないだろ。それ聞いちゃったらなんで娘のあたしが1位じゃないかってきになってしまうだろ」
曜子「そうかしら? 心配症なのね」
かずさ「だれのせいだ、だれの」
曜子「もちろんあなたのせいじゃない。あなたが勝手に心配しているだけで、私は何もしていないわよ」
かずさ「してるって。してるから気になってるんだろ」
曜子「だからなにが気になるっているのよ」
かずさ「同一2位ってところだよ」
曜子「ああ、安心しなさい。春希君が同一2位の相棒だから、夫婦そろって2位だなんて縁起がいいんじゃないかしらね」
かずさ「はいはい、だったら1位は誰なんだよ」
曜子「なぁんだ、1位が気になっていただけじゃない」
かずさ「そりゃあ気になるだろ。話の流れからすれば娘のあたしが1位だと思うにきまってるだろ」
曜子「あなたもどこまでも自信家なのね」
かずさ「まあね。自信過剰で情熱でうなされているピアニストじゃなければ世界でやってはいけないだろ。もちろん周りの声もきちんと聞ける謙虚さも必要だけれど、それでも舞台にたったら自信過剰じゃなければ表現なんてできやしない」
曜子「それもそうね。だったら訂正するわ」
かずさ「どうも」
曜子「そうねぇ・・・・・・、だったら甘えん坊ってことでいいかしらね」
かずさ「よくないだろ。自信家よりも悪化しているだろ」
曜子「そうかしら?」
かずさ「そうなんだよ」
曜子「でも、事実じゃない?」
かずさ「事実じゃない」
曜子「でも、春希君に対しては甘えまくってるじゃない。人の目を気にしないで」
かずさ「それは・・・・・・、仕方ないだろ。春希なんだから」
曜子「それもそうね。今さらの事だってわかっていたのに聞いて悪かったわ」
かずさ「なにか釈然としない言い方だけど、もういいよ」
曜子「ありがと。それはそうと、あなたの苗字が北原になって、でも仕事では冬馬を使う事について色々文句を言っていたわよね」
かずさ「なにをいまさら?」
曜子「ん? プライベートでは外野に邪魔されたくないからってプライベートでは北原。仕事では冬馬ってかんじで使い分けることにしたじゃない」
かずさ「まあ、そうだな。本当は仕事も北原がよかったけど、こればっかりは春希と母さんの方針に従うよ」
曜子「でね、あなた、プライベートでは目立ちたくないのよね? 一応確認でなんだけど」
かずさ「当たり前だろ。なんでプライベートでまで他人の目を気にしないといけないんだ。まあ、あたしはあまり外出しないから問題ないけどさ」
曜子「後半の発言にはちょっとばかし不安を覚えちゃうんだけど、おおむねプライベートを大事にしたいっていう意見であっているのよね」
かずさ「まあ、ね。それがどうしたんだよ」
曜子「ん? だからさ、空港にあなたも春希君と迎えに来てくれたじゃない」
かずさ「そうだな。春希は誰かさんのせいで仕事だし、3人で会える時間は限られていたからな」
曜子「でね、飛行機を降りて、ロビーであなた達二人を探そうとしたんだけど、すぐに見つかったのよ」
かずさ「それはよかったじゃないか」
曜子「見つかった事はよかったんだけど、でもね、かずさ。あなたは本当に目立ちたくないと思っているのかしら」
かずさ「思ってるけど?」
曜子「はぁ・・・・・・」
かずさ「な、なんだよ」
曜子「よく聞きなさい。この色ぼけ娘」
かずさ「はぁ?」
曜子「あなたたち、ロビーで目立ちまくっていたわよ。あんな人が多い所でベタベタいちゃいちゃ、きゃっっきゃうふふって、付き合い始めの発情カップルじゃああるまいし。なんなのよ。ウィーンで会ったら言ってやろうと思っていた事を、ぜぇ~んぶ忘れちゃったじゃないの」
かずさ「別に言いたいことなんてしょっちゅう電話で話しているし、それに会って話す内容だってこの前の箱根で散々言ってたじゃないか」
曜子「はぁ、だからウィーンと日本とでは意味合いが違うでしょ」
かずさ「そうかなぁ?」
曜子「まあいいわ。で、本当に目立っていると思っていないのかしら?」
かずさ「他人の目なんて気にしていないからなぁ」
曜子「じゃあ、春希君は?」
かずさ「春希はいつもあんな感じだよ」
曜子「そう・・・・・・。春希君苦労しているのね。もう諦めているのかしらね」
かずさ「なにかいった?」
曜子「ううん、なにも。独り言よ。あなたが聞いても理解なんてできないでしょうからね」
かずさ「そう? ま、いっか。あぁ、話をそらしたな」
曜子「ん? なにをかしら」
かずさ「だからあたしと春希が母さんにとって2番目に大切な存在って事だよ」
曜子「その事ね」
かずさ「じゃあ一番は誰なんだよ」
曜子「もちろんこのお腹の中にいる赤ちゃんに決まっているじゃない」
曜子はかずさの大きなお腹を愛おしそうに撫でる。それを見たかずさも最初こそ訝しげな視線を送ってはいたが、段々とその毒素は浄化されていった。
かずさ「ま、いっか。二番でも三番でもいいよ。あたしたち家族を大切にしてくれているってことだけはわかっているからさ」
曜子「大人になったわね」
かずさ「当然だろ。あたしは母親になるんだから」
曜子「でも、ほんとうに母親になれるのかしらね」
かずさ「なれるに決まってるだろ。目の前にいる出来が悪い母親でさえ母親になれたんだからな」
曜子「それもそうね。でも、大丈夫かしら・・・あなたを見ていると不安になってしまうわね」
かずさ「大丈夫だって。もちろん最初からちゃんとした母親になれるとは思ってはいないさ。でも春希と一緒にこの子を育てながらあたしも成長していくつもりだよ」
曜子「その辺のことは春希くんもいることだから心配していないわ」
かずさ「じゃあ何が心配なんだよ」
曜子「だから春希君にとっての一番があなたじゃなくて、冬馬かずさ、北原かずさではなくて、これから生まれてくる子供になってしまうんじゃないかなぁって・・・・・・」
かずさ「うっ・・・・・・。それは」
曜子「それと同時に、あなたも子供が一番になるんじゃないかなってね」
かずさ「うぅ・・・・・・」
曜子「あなた我慢できるかしら? 春希君があなたの事よりも赤ちゃんの事を優先するのよ」
かずさ「我慢するって」
曜子「ほんとうかしら、心配だわ」
かずさ「大丈夫だって、この子もあたしたちの家族なんだ。だから、もう一番とか二番とかじゃあないんだ。春希と一緒にこの子を愛するって決めたんだ」
曜子「いっちょまえに母親らしくなってきているのね」
かずさ「まあ、ね。でも母さんが言うように、たぶんあたしはこの子に嫉妬してしまうときがあると思う」
曜子「珍しくいやに正直ね」
かずさ「本当のことだからな。でも、この子はあたしの子であって、春希の子でもあるんだ。だから、たまには焼きもちをやいてしまっても、愛する気持ちだけは不変なんだよ」
曜子「そっか。そうね。やっぱりあなた成長したわ」
かずさ「いまさらなにをいってるんだか」
曜子「もうすぐこの子が生まれてくるのね」
かずさ「ああ、そうだな」
曜子「でも、出産予定日が5月28日って、変な感じがするわね。あなたと同じ誕生日だなんて不思議なものね」
かずさ「それは春希も驚いていたよ」
曜子「あなたは?」
かずさ「あたしは、こんなこともあるかなって感じで、とくになにもないかな」
曜子「あなたらしいわね。でも、そうなると、こうなるわけか」
かずさ「なんだよ。言いたい事があるんならはっきり言えって」
曜子「そう? なら遠慮しないで言っちゃうわね」
かずさ「どうぞ、どうぞ」
曜子「誕生日が同じって事は、この子をお腹に仕込んだ日にちも同じなのかなって。多少のずれはあるでしょうけど、だいたい同じでしょうし、そう思うと当時の事を思い出しちゃってね」
かずさ「なっ! ・・・・・・・・・やめろって! 想像しちゃったじゃないか。本当にやめてくれ」
曜子「ありゃりゃんりゃん、なにをうぶな事を言っているのかしら。散々愛しあってきているのに、今さらって感じがしちゃうわよ。箱根でも隣の部屋から聞こえてきてたんだから」
かずさ「あ~~~っ! 聞こえない。聞こえない。何も知らないっ」
曜子「まあいいわ。あなたたちの夫婦仲がいいってことはわかっていたんだしね。さて、そろそろ春希君も帰ってくる時間かしら?」
かずさ「たぶんね」
時計の針が7時を指す時、ちょうど玄関のチャイムが時と帰宅を告げる。
曜子「相変わらず時間に正確なのね」
かずさ「春希らしいだろ?」
曜子「ええ、そうね。だったら・・・・・・」
かずさ「ん?」
曜子「この子が仕込まれた日にちも、春希君の性格からすれば本当に一緒だったりしてね」
かずさ「なっ!」
冬馬かずさ誕生日記念 『やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。』終劇