この場を支配した静けさが肌をぴりつかせ、何もない平穏こそが不気味だと感じさせてくる。
編集部に隣接するこの会議室は、けっして上等な防音設備を備えているわけではない。そもそもこの会議室は会議室とドアの上部にプレートが貼りついてはいるが、応接室と言ったほうが正しいと思う。
げんに編集部員たちはここで本格的な会議などしたことはない。編集部に訪れた人と打ち合わせをするのに使ったり、編集部内でもやるには手狭なときに使う部屋であり、扉一枚挟んだ向こう側ではふつうに編集部でみんなが働いていた。
だから、「普通なら」先ほどまでざわついていた声が壁をすり抜けて聞こえるはずなのに、俺達が会議室のドアと閉じた瞬間に全ての音を消し去ってしまった。
この意味を俺と麻理さんは理解している。ただ、かずさにはきっと気にも留めていないだろう。なにせこの小さな部屋に入るまでの降り注いでいた好奇の視線をすべて最初からなかったもととしてふるまっていたのだから。
「ちょっといい?」
「あ、はい。どうぞ」
最初に口を開いたのは麻理さんだった。
たぶん麻理さんだけが俺とかずさが日本に来た本当の理由を知らない。今かずさが編集部にやってきた理由。俺がかずさをほったらかしにしてしまったという情けない理由になら気がついたようだが、かずさが開桜社にくるまでは、俺は麻理さんを手伝うために日本に来たものだと麻理さんは思っていたはずだ。
でも、その勘違いも、そろそろ軌道修正するころだろう。勘がいい麻理さんのことだから、なにか変だと気が付いてもおかしくはなかった。
「春希って、私を手伝うために日本に来たんじゃないんでしょ? たしかにね、私は春希が来て欲しいって願っていたし、事情を知った春希なら来てくれるかもとは思っていたわよ。でもね、日本の事情を知っている春希だったら、本来なら日本に来る前に私に連絡をよこすはずなのよね。だって飛行機に乗っている時間も有効活用するのが春希でしょ? それもしないで来るなんてありえないわよね?」
まさにその通りです。
と、言う前に、かずさが麻理さんに詰め寄ってしまう。
かずさの行動には俺も驚いてしまった。高校時代かずさにしつこくせまって蹴りを入れられた経験がある武也あたりすれば当然の行動かもしれないが、かずさはけっして好き好んで実力行使に出るわけではない。
当時のかずさの心がすさんでいたというか、母親である曜子さんに見捨てられたと思いこんで拗ねてしまって、自暴自棄になっていた時期であれば、今のように麻理さんに詰め寄っていく姿を見ても不思議だとは思わないでいられたかもしれない。
しかし、俺が知っているかずさは自分が大切にしているものを守る以外で実力行使などしない。
そして、かずさにとって、好意の反対は嫌いではなく無関心なのだ。
「なんで日本に帰えろうなんて考えてしまったんだよ。ボストンに行く時、麻理さんはニューヨークで待ってるって言ってくれたじゃないか。春希を独り占めできていいねって拗ねてたじゃないか。ニューヨークに戻ってきたら春希を少しだけ貸してねって、恥ずかしそうに頼んできたじゃないか。あたしも麻理さんの気持ちがわかるから、できるだけ麻理さんの力になりたいと思ってたんだ。やっとできた友達だって思っていたんだ。そりゃあ歪な関係だと理解してるよ。春希をとりあっている間柄だからな。でも、麻理さんはあたしのこともちゃんと考えてくれていて、春希をあたしの元にかえそうと、してくれている。すっごく辛くて、逃げ出したいのもよく理解できるよ。あたしも日本にいられなくなって、ウィーンに逃げた経験があるからさ。でも逃げたって駄目なんだよ。逃げたって春希への想いは消えないんだ。消えないどころか強くなって、会えない事が辛くのしかかってくるんだぞ。その辛さ、日本で一緒にいたときよりも辛いんだぞ。何度あたしが泣いたかわかってるのか? 数え切れないほど春希の名前を叫んで、何度自分を呪って、何度春希のことを…………」
「かずさ」
呼吸をすることさえ忘れていっきに感情を吐露していくかずさも体の限界には勝てず、呼吸を整えようと肩を揺らす。俺はとっさにかずさの肩を抱こうとしたが、かずさは俺の手を振り払った。
きっとかずさの視線の先には麻理さんしかうつっていないのだろう。いくら俺の事を愛していても、今対峙しなければいけないのは麻理さんであり、俺ではない。
一度逃げ出した事があるかずさだからこそ、麻理さんを逃がしまいと必死なのだろう。
「なるほどね。何故春希が日本に来たのか、なんとなくだけどわかってきたわ。…………だけど、春希が? それはないか。だとすれば、かずささん?」
麻理さんが真実に近づきだしたことに俺は気が付かずに、ただただかずさを見守ることしかできないでいた。
どう考えても俺が悪い。かずさがなによりも大事だとわかっていても麻理さんを突き放せないでいるから。誰から見てもひどい男をやってしまっているのに、かずさは俺を非難もしない。しかも麻理さんに歩み寄ろうとまでしていた。
かずさは知っている。今かずさがしようとしていることは、麻理さんにとって地獄だと。
高校時代俺がかずさとは違う女の子と付き合っていて、しかもかずさの友達でもあった女の子と付き合っていて、それでもかずさは俺達の側にいてくれた。
だから、この心を引き裂くような残ごくな仕打ちの辛さをかずさは誰よりもわかっている。
だけど今、かずさは同じようなことを麻理さんに押し付けようとしているのだろうか?
「これ。このボールペン、麻理さんの大事なペンだろ? ニューヨークに置いていくなんて、駄目じゃないか。いつも持ってないと駄目だよ。大切な物は手元に置いておかなくちゃいけないんだ。どんなに辛くても、どんなにみじめでも、絶対に手放しちゃいけないんだ。手放しちゃいけないんだ。だってさ、絶対後悔するよ。あたしは後悔した。あの時手放さなければよかったと何度も後悔した。しかも叶わないとわかっていても、もっと早く素直になってたらよかったと泣きもした。だから麻理さんにはあたしみたいになってほしくはない。だから、ほら、このボールペン。受け取ってよ」
かずさの胸のポケットから取り出したのは、俺が麻理さんに贈った赤いボールペンだった。そして俺が麻理さんから贈られた青いボールペンの色違いでもある。
俺が麻理さんにペンをプレゼントして以来、ずっと麻理さんはこのペンを愛用してくれていた。常に手に届くところに置かれていて、なんだかこそばゆい気持ちになった事さえある。
そんな大事にしてくれていたペンをニューヨークの自宅に置き去りにしていったことを目撃した時、俺は覚悟してしまった。もう麻理さんは限界なのだと。
だから俺は麻理さんを無理やりにでも連れ戻そうとは考えてはいなかった。
かずさに連れられて日本にまできたが、それは気持ちの整理のための部分が強かった。
もちろん麻理さんが一緒にニューヨークに戻ってくれるのなら、それは嬉しい事であり、これからも麻理さんをサポートしていく覚悟もできてはいた。でもそれは儚い願望であり、叶えられる可能性は低いと思っていたのだ。
「持ってきちゃったの?」
「当たり前だろっ。だってこのペンは、麻理さんの大事なペンで…………」
「ええそうね。だから置いてきたのよ」
「駄目だよ。大切なものは絶対に手を放しちゃいけないんだ」
「そうね。だからこそ置いてきたのよ」
「でもっ」
「ねえかずささん。この紙になんでもいいからそのペンで書いてみてくれないかしら?」
「はぁ?」
「いいから」
「わかったよ」
麻理さんが差し出すコピー用紙を手元に引き寄せたかずさは、すらすらっとペンを走らせていく。この曲線はおそらくファンにせがまれた時書くサインだろう。
いつものように数秒後には完成されたそのサインは、コピー用紙に溝を作っただけで、白紙のまま机の上に置かれていた。
「え?」
再びサインを描くも黒いインクは出てはこない。何度かいても白い用紙に溝が刻まれていくだけであった。
「ね? インクがきれて書けないでしょ? だからニューヨークに置いていったのよ。だって考えても見てよ。今回の日本行き。どう考えても面倒な事になりそうじゃない? 何も情報はないし、とにかく早く日本に戻ってこいだなんて、どんだけ大きなミスをしでかしたのよって、気が重くなったわ。ミスがあって、手伝ってほしい事だけはわかってはいたけどね」
きっと俺が同じような立場だったら、しばらくは家に帰れないのを覚悟していただろうな。かずさは不満を募らせるだろうし、千晶なんて露骨に嫌味を言ってきそうだよな。それよりも食事、大丈夫か? 部屋がちらかっても生きられるだろうけど、食事はなぁ。
「しかも春希がいないのよ。私をフォローしてくれる春希がいないのに、私は身の回りを綺麗に片づけていられるなんてできないでしょうね。最近では部屋も綺麗に片づけるようになったけど、どたばたしている現場に放り出されたら、きっと私はすべてには気がまわらなくなってしまうでしょうね。そんな現場に大事な物を持っていける? だって目が回るくらい時間が足りないでしょうし、現に自分の体力が落ちているのを忘れるほど働いたしね。それに今も机の上はちらかってしまっているわよ。まるでニューヨークに来る前の自分のデスクよ。なんだか違和感を覚えているのに懐かしくもあるのよね。えばる事ではないのでしょうけど、そんな環境に大事なものは持って行けないわ。なくしてしまうかもしれないもの」
「そう、だったの?」
「そうよ。大事だからこそニューヨークの、春希がいるあの家に、かずささんがいるあの家に置いていったの。あそこならなくさない。みんながいるから大丈夫だって思える場所だもの。だから置いていったのよ」
「そうか。あたし、てっきり……」
「ううん。ありがとう。たしかに受け取ったわ。私の大切な宝物。持ってきてくれてありがとう」
「……いや、そんなことは」
「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」
「あぁ、うん」
当事者の一人であるはずの俺は、一人蚊帳の外に置かれたまま事の次第を見守った。麻理さんはその言葉の通りすぐに会議室に戻ってきた。
ただ、手に小さな紙袋を持っていた。
「これをかずささんにプレゼントしようと思っていたのよ」
「あたしに?」
「そうよ、開けてみて」
「あぁ」
するすると包装紙を剥いでいくと見覚えがある小箱が現れる。俺はこの箱を2度だけ見る機会があった。そしてその箱の一つはニューヨークの俺の机の引き出しの中にしまわれているはずだ。
「これって」
「このペン。かずささんに贈ろうと思っていたの。だっていっつも私と春希のペンを見て羨ましそうな目をしていたんですもの」
「でもいいのか?」
「私がかずささんにも使ってもらいたいの。私と春希が持っているペンの色違いのペンをかずささんにも使ってもらえたらなって、ぞっと考えてたのよ」
箱の中に収められていたのは、黒く輝くボールペンであった。
俺が使っている青いボールペン。そして麻理さんが使っている赤いボールペン。そして今かずさが手にしたボールペンは、俺が麻理さんのプレゼントを買いに行ったときに見た、ガラスケースの中で並んでいた3本のボールペンのうちの最後の一本であった。
「編集部に帰ってくるときにちょっとだけ時間があってね。替えのインクを買いに行ったのよ。そしたらそのペンがあって、衝動買いしちゃった。まあ、衝動買いといってもいつか買うつもりでいたから衝動買いとも言えないのかしら?」
「ほんとうにいいのか?」
「いいのよ。でもほんとうは、ずっと悩んでいたの。買おう買おうと思っていても、何度店に足を運んでいても、ニューヨークでは買えなかったの。かずささんたちがボストン公演に行って、帰って来た時プレゼントしようと思って店に行った時も買えなかったのよ。でもなんでかしらね。日本で見た時は買わなきゃって思ってしまって、気が付いたらこの紙袋を持っていたってわ。………………これでよしっと」
紙袋に入っていたもう一つのものを取りだした麻理さんは、手際良くその物体の有るべき場所へと入れ替えていく。
かずさに贈ったものとは違い、店のシールだけ貼られた替えのインクは、俺も一度だけ見た事があった。
「おそろいね。どうかしら? 気にいってくれた?」
「気にいらないわけないだろ。だけど、これは」
「だからぁ、言ったじゃない。私がそうしたかったって、ね。ほら春希。春希のペンも出しなさいよ」
「あっ、はい」
完全に尻に敷かれている俺は、黙って言う事を聞くしかない。まあ、初めから頭が上がらない人と、憧れの人を前にしていては、最初からかなうはずなどないんだけど。
「ありがと。大切にするよ」
「私もよ」
「ねえ、麻理さん。あたし決めたよ」
今まではとは違う決意に満ちた声を聞き、麻理さんは静かに次の言葉を待つ。その声色は、迷いながらも嬉しさがこぼれ出していた先ほどまでの弱さを少しも混ざらせてはいなかった。
「あたしさ、麻理さんが春希の側にいても大丈夫になるまで、これ以上春希には求めない。春希に全く甘えるなって言われてしまうとあたしの日常生活が破滅しちゃうから全部は無理だけど、あたしはこれ以上春希との関係を進展させない。もちろん結婚もしないよ」
「それで、かずささんはいいの?」
「うん、これしかないと思ったんだ。だって春希がいなくちゃあたしは生きていけないから、春希を譲る事は絶対にできない。でも、彼女だからそんなたわごと言えるんだって批難されても、あたしは麻理さんにも幸せになってほしいんだ。だってさ、あたしが今春希と一緒にいられるのは、麻理さんがあたしを引き止めてくれたからじゃないか。ニューヨーク国際コンクールの時、あたしは麻理さんと春希の関係を見て、醜く嫉妬して、逃げ出そうとしたからな。そのときあたしの手を掴んでくれたのは、麻理さんじゃないか。だからあたしは、今度はあたしが麻理さんの手を掴む番なんだよ」
知らなかった。ニューヨーク国際のとき、かずさがまた逃げ出そうとしていたことに、また俺がかずさを追いこんでいた事に気がつかなかった。
最低だな、俺。またかずさを知らない間に傷つけていたんだな。
…………そっか、麻理さんがかずさを。
俺も腹をくくらないとな。
ただ、何度腹をくくっても実行できないでいる俺が決意しても信頼されないか。
幸せにしたいと願うだけじゃ幸せにはなれない。
幸せになりたいと願い、そして幸せになろうと行動するものだけが、その願いをかなえられるって、俺は何度も見てきたじゃないか。
「かずさ、さん。…………無理してない? 無理しなくてもいいのよ?」
「無理しているに決まってるだろ?」
「そう、よね……」
「でもさ、あたしが大好きな春希は、どういうわけかかっこいう冬馬かずさをご要望みたいなんだよな。ほんとうのあたしなんてみっともなく足掻いている弱虫なのにさ。でも春希があたしのことを見ていてくれるから、無理したいんだ」
「でも無理をしたら、きっとどこかで駄目になってしまうわ。私みたいに体に症状がでるかもしれない。ピアノだってひけなくなるかもしれないのよ?」
「ピアノも春希が望むものだから、ピアノが弾けなくなるのはこまるよなぁ。…………だからさ、あたしはできない無理はしない」
「でも、私が大丈夫になるまでって、もしかしたら死ぬまで無理かもしれないのよ?」
「うん。だからあたしは長くは待たない。麻理さんが春希の側にいても辛いままなら、その時は春希に男の責任ってやつをとってもらう予定だ」
「男の責任って、まさか?」
男が女性に責任をとると言ったら、あれしかないよな。
「それであってると思うよ。だってさ、女を二人も駄目にしちゃったんだぞ。だったらその二人を、二人とも幸せにしなきゃだめだろ? そのときはあたしも覚悟を決めるっているか、我儘を言ってばかりじゃいられないって思ってさ」
「本気?」
「本気だよ。だって言ったろ? あたしも高校時代に同じ経験をしてるんだぞ。自分の気持ちを消して、初めからなかった事にしてそばにいるなんて無理なんだよ。たぶん麻理さんが春希のそばにいて幸せになる方法は、これしかないんだと思う。あまり難しいことを考えるのは苦手だけどさ、あたしの勘?ってやつがこれしかないと言ってるんだ。たぶん二人が結婚して、ちょっと離れた所から友達としてつきあっていてもさ、絶対春希への気持ちは消えないよ。それくらい強い気持ちだから体に変調がでてしまうし、他の事が見えなくもなってしまうんだと思う。あたしだったら、たぶん二人の結婚を祝っても、そのあと二人との距離を取るようになるはずかな。二人は違う世界に生きるようになったしまったから、もう自分の居場所はないんだって実感できるしさ。そうなれば自然と自分は違う世界で生きていくんだと思う。だけど、これって幸せ? あたしは幸せだとは思わない。だって自分を殺してるだろ? だからあたしはこの選択肢は選ばない。あたしが選ぶのは、幸せだけど辛い世界。春希がいる世界だけなんだ」
「…………でも」
「だから、あたしに少しだけ時間をください。春希を幸せそうな顔で見つめる麻理さんを見ていても大丈夫になるまで、少し時間を下さい」
「本当にそれでいいの? 後悔しない?」
「後悔は、すると思う」
「だったら……」
「違うって」
かずさは麻理の言葉を遮るように言葉をかぶせる。
「違うんだって。後悔はすると思うよ。だって春希が好きだからさ。そりゃあ独り占めしたいに決まってるじゃないか」
「だったら」
「だからこそだって」
「でも」
「春希の隣にいるとさ、春希がなにを考えているかが気になってしょうがないんだ。もちろん会えない時も気にってしょうがいないけれど、側にいる時はなんとなくだけど春希が何をかんがえているかわかってくるんだ。だってさ、春希があたしのことをどう見ているのか、いつもきになってるだろ? だから春希の変化には敏感になってしまうというか」