WHITE ALBUM2(cc~coda)~coda
『心の永住者 ~coda』
春希 3月14日 月曜日
暦の上ではもうすぐ3月だというのに、冬物のコートは手放せない。
それでも冷たく身にしみる北風が吹くことも少なくなってきている分、
春が近づいてきているはずだ。それに、
大学受験シーズンも終わり、街でもほっとした若者たちが陽気な声を奏でている。
なかにはどんよりと来年への決意を胸に予備校選びに駆け巡ってるかもしれないが、
新生活に向けての準備をするせわしなさは平等に訪れるのだろう。
俺も4月からは大学4年生。学生でいられるのもあと一年。
いつまでも学生気分ではいられない。
ただ、今日は3月14日。ヴァレンタインデーの熱気とはいかないまでも
街はそわそわして微笑ましい。
さすがにヴァレンタインデーのような期待と不安に満ち溢れたイベントでは
ないのだけれど、それでも世間を巻き込んでのイベントともあって賑わっていた。
俺も、今年は3個だけチョコレートを貰うことができた。
そのうち2個だけは、あらかじめ3月14日に本人達に届くように預けてある。
本来ならば直接渡すのが筋というものだが、あいにく俺にチョコレートをくれた全ての
相手が海外居住ともあって、直接渡すことができない。
一つ目の相手は、かずさの母親でもある冬馬曜子さん。
もちろんこれは義理チョコでもあるわけだが、意味が深い「義理」だけに
貰った時には、どう反応すればいいか迷ったものだ。
ヴァレンタインコンサートのDVDを届けに冬馬邸に行った時のこと。
コンサートの運営側としては、まだ編集できていないのでもう少し待ってほしいと
お断りを受けたが、自分達の部分だけでいいと無理をいって手に入れたDVDを
どうしても曜子さんがウィーンに帰る前に直接渡したかった。
その曜子さんももうすぐウィーンに帰るらしい。
だから、ギターの練習に付き合ってもらったお礼を兼ねて訪ねてきていた。
曜子「はい、一日遅れだけど、ヴァレンタインチョコね。
義理は義理だけど、「義理の母親」からの義理チョコよ」
ヴァレンタインのチョコレートらしきものが包まれたプレゼントを差し出してきたが
どう受け取ればいいか判断がつかない。
春希「えっと・・・・・・、なんといえばいいかわからないのですが、
ありがたく頂いておきます」
曜子「遠慮なんかしないで、素直に貰っておけばいいのよ。
それとも、将来の義理の母親からのチョコレートは受け取れない?
かずさとの将来の事、真剣に考えてくれているのよね?」
春希「本気です。本気じゃなかったら、ここまでギターを頑張ってこなかったですよ」
毎日寝る時間を削って冬馬邸の地下スタジオに通い詰めた日々。
練習から解放され、ほっとする気持ちもあることはあったが、
今日からは来なくてもいいと思うと寂しい気持ちで一杯であった。
曜子「それもそうね。毎日きっちり時間一杯練習していたものね。
信用してあげるわ」
春希「ありがとうございます」
曜子「だからというわけでもないけど、これもあげるわ」
曜子さんの手には、もうひとつチョコレートらしい包み紙が握られていた。
これが誰からだなんて俺でも想像がつく。
ここで、事務員の女性からの義理チョコだなんておちがつくんなら、笑い話で
終わるんだろうけど、曜子さんの凛とした眼差しが冗談ではないと物語っていた。
春希「かずさ・・・・からですよね」
曜子「ええ、そうよ」
春希「いつになるかわからないけど、かずさが笑って直接渡してくれる日を待ってますって
伝えてくれませんか」
曜子「必ず伝えるわ」
こうして間接的ではあるが、二個目のヴァレンタインチョコレートを手にした。
ウィーンまで直接お返しに行ければいいのだが、バイトで忙しい。
なによりも先立つものがない。冬馬家の財務状況ならば、たった数時間の滞在の為に
飛行機に乗ってウィーンまで行って帰ってこれたかもしれないが、
北原春希の財布事情に春はきそうもなかった。
というのは建前であり、本当の理由はもっとシンプルだ。
曜子さんと約束したから。かずさが成長して、
コンクールで納得がいく成績を残すまで会わないって、約束したから。
俺もかずさに負けないように成長しようと日々編集部で仕事にいそしんではいるが
仕事だけがすべてではない。かずさを全て受け止められる男にならなくては。
だから、日本にある冬馬曜子事務所にお返しの品を預けてきた。
そこで待ち受けていたのがニューイヤーコンサートの時に
お世話になった女性職員であった。
彼女の名は、工藤美代子さん。日本の事務所で働く唯一の職員。
曜子さんの演奏活動のメインが欧州だから、日本ではCDや年に一度あるかくらいの
コンサートだけなので、平時は割と暇らしい。
それでも、あの曜子さんのもとで働いているとなると、その根性はすさまじい。
なにせ、たった一カ月ばかりではあったが、曜子さんのすさまじさは経験済み。
それを長年曜子さんの下で働いているとは恐れ入る。並大抵の精神力ではないはず。
それと、あの曜子さんが日本の事を任せていることを考慮すると、
美代子さんはきっと優秀な人材なのだろう。
一人で欧州での名声を勝ち取り、積み上げてきたのだから、その人を見る目も
たしかなはず。なにせコンサートは一人では成功できない。
ピアノを弾くのは一人ではあるが、コンサートを企画して、コンサートホールを手配し、
スタッフを準備し、そして、観客を迎え入れる。
他にも俺が知らないコンサートの仕事がたくさんあるだろうが、
ステージの上ではピアニスト一人ではあるが、その後ろにはたくさんの人が
ピアニストである曜子さんを支えているのだ。
そして、曜子さんの母国でもある日本の担当を美代子さん一人に任せているのだから
それだけの信頼があるのだと推測できた。
さて、最後の三つ目のヴァレンタインチョコは、麻理さんからである。
ヴァレンタインコンサート直後に貰った思い出の品。
これは、麻理さんとの約束もあって、お返しは直接手渡しが大前提だ。
だけれども、3月14日の現在。北原春希がいる国は日本。
あいにくNYへは行けていない。今俺がいるのはバイト先の開桜社編集部。
俺が来年から就職する予定の出版社であるが、ある意味就業時間が存在しない。
夜中に来ても誰かしら残っているし、早朝であっても同様。
唯一明りが消える日があったとしたら、大晦日と元日くらいだろう。
しかし、それも去年は俺が出社していた為に、明りは消えはしなかったけど。
内定はまだ貰えてはいないが、麻理さん経由の情報によれば、
ほぼ確実に内定が出るとのこと。
NYにいても俺のことを気にしてくれているあたりありがたいことだ。
麻理「同期なんて、使い倒す為に存在するのよ。それに、普段は私が面倒みまくって
いるんだから、たまには貸しを返してもらっても罰はあたらないでしょ。
それと、人事と編集部でちょっとした問題になってるのよね。
北原の新人研修をどうするかでもめちゃってね」
春希「どうしてです?」
麻理「編集部としては、形だけの新人研修なんてやらないで、とっとと編集部で
仕事してほしいのよ。だって、今さら新人研修なんてする必要ないでしょ」
春希「それは、社の方針に従うしかないのでは?」
麻理「でもね。編集部も万年人手不足だし、使える人材がいるんならひと時でも
手放したくないのよ。それも、新入社員とは名ばかりの頭数に数えられる
優秀な人材ならなおさらね」
春希「そこまで評価していただけているのは嬉しいのですが、それでも新人研修は
やっておいた方がいいのではないでしょうか」
麻理「それって、私が教えてきたことを疑ってるって思ってもいいのか?
私の教えよりも、誰だかわからない新人研修教官を信じるってことでいいのね?」
麻理さんは、語気を強めて、脅迫じみた勢いを見せ始める。
でも、NYにいる麻理さんの表情は、きっといたずらじみた事を言ってやったと思って
ニヤニヤしているに違いない。
春希「そうは言ってませんよ。麻理さんの教えはきっちり体に叩き込まれていますし、
誰よりも麻理さんを信頼していますから」
麻理「そう? だったらよろしい。でもまあ、おそらく新人研修はないと思うわ。
たぶんテキスト配られて終わりかしらね。あと健康診断くらい?」
春希「入社式を忘れていますよ」
麻理「それこそ必要ないわ」
とのこと。
麻理さんの同期人事部職員からの情報だから、信憑性もあるが、
今まで積み上げてきた実績と、なによりも麻理さんからの信頼の為にも、
ホワイトデー返上で仕事にいそしんでいた。
日はすっかり暮れ、街灯の光が街を浮かび上がらせていた。
窓の外は、日の光とは違った人工のまばゆい光が規則正しく明りをとぼす。
夜になろうと人の活動は衰えず、むしろせわしなく動き回っていた。
俺はというと、外界のささいな変化など気に留める余裕もなく、
目の前の仕事に没頭していた。
外が暗くなったのを知ったのは、与えられた仕事が終わった9時すぎではあったが
そんなのはいつものことだ。
この分であれば待ち合わせの時間には間に合うだろう。
新たな仕事が回ってこなければだが。
待ち合わせのバーにつくと、佐和子さんは既に何杯目かのグラスをあけていた。
春希「すみません、遅くなってしまって」
佐和子「ううん、いいのいいの。遅くなるって連絡貰ってたから、
ちょっと寄り道してからここにきたし」
あのあと、帰ろうとした俺に浜田さんがよこした仕事を終えたのが11時30分頃。
約束の時刻が11時なのだから、間に合うわけもない。
俺は急ぎ佐和子さんにメールを送り、返送メールを確認する間もなく仕事に入る。
俺も佐和子さんも仕事で約束の時間に間に合わないことがしょっちゅうある。
だから、返事を見なくとも「了解」と簡素なメールが来ると予想ができた。
仕事が終わり携帯を確認すると、予想通り「了解」と返事が来ていた。
「了解」の後に、ハートの絵文字が入っていたことは
見なかったことにしておいたが・・・・・・。
春希「ペリエお願いします」
俺は店員に炭酸水を注文すると、佐和子さんの隣に腰掛ける。
麻理さんがNYへ行って以来、定期的に佐和子さんと会うようになっていた。
麻理さんを交えて3人で会うことはあったが、二人でというのは異色だ。
一緒にいるのが嫌だというわけでもなく、むしろ会話を楽しめてもいる。
だけど、なんで佐和子さんが俺を誘うのかは疑問であった。
何度目かの食事の時、おもいきって聞いてみると、理由は単純であった。
佐和子「麻理から頼まれているのよ。北原君が仕事頑張りすぎていないか
様子を見てくれって。会社の方でも聞いてるんじゃないかな。
でも、私に春希君の近況を探ってくれっていうのが一番かな」
と、笑いながら話してくれたものだ。どう反応していいか困り果てて、
それをさらに笑いのネタにされたのは、いい思い出にそろそろなってほしい。
佐和子「バイトだっていうのに頑張るわね。
今日だって、NYに行こうと思えば、行けてたんじゃないの?」
春希「勝手にバイトのシフト入れられてたんですよ。
しかも、逃げられないように厳重に」
佐和子「それはご愁傷様」
春希「そんな佐和子さんだって、今日はホワイトデーですし、デート・・・・・・・」
俺の言葉は最後までいわせてはもらえなかった。
なにせ、それ以上言ったら殺すと、隣の方が殺気をみなぎらせている。
俺が言葉を飲み込むのを確認すると、殺気をしまい込んだ佐和子さんは、
話の軌道を戻すがごとく新たな話題を振ってきた。
佐和子「普通、バイトだったら比較的自由に休めるものじゃないの?
正社員にもなると難しいけど、ほぼ内定が決まってるとはいえ
北原君はまだバイトの身でしょ」
春希「そうなんですけどね。でも、仕事の頭数に入れられてもらえてるようで。
そのことは感謝しているんですけど、バイトのシフトを作るからって
大学の時間割を決めたら提出するようにと言われてもいるんですよ」
佐和子「それは、おめでとうと言ってもいいのかしらね。
仕事で認められるのって時間がかかることだし、みんなの期待にこたえたいって
いう気持ちもわかるわ。
でもね、北原君。あなたはまだ学生なのだから、そのことも忘れないでね」
春希「はい。だから、ゴールデンウィークには、必ずNYへ行けるように
調整してもらってます」
佐和子「はぁ・・・・。それはすでに正社員の行動だから。
でも、麻理の奴も北原君が行ったら喜ぶわね」
春希「そうだといいのですが。佐和子さんがNYへ行くのは、再来週ですよね」
佐和子「ええ、そうよ。麻理が会えない分、私が北原君に会ってるから
相当やっかみを受けると思うわね」
春希「ははは・・・・・・・」
どう反応すればいいかわからず、わざとらしい笑いでごまかすしかない。
ありがたいことに佐和子さんは、隣にいる俺ではなく、ターゲットを麻理さんに
定めた用で、意地汚い笑みを浮かべていた。
佐和子「絶対返り討ちにしてやるんだから。北原君ネタで散々いじりまわしてやるわ。
待ってなさい、麻理!」
腕を高らかに突き付けると、グラスを掲げ、今日2度目の乾杯をかわした。
春希 開桜社 4月4日 月曜日 昼
来週から大学の授業が始まるが、今年はバイトの方を重点的に活動しようと思っている。
お金が欲しいからというわけではなく、早く一人前の編集部員になるべく現場での
仕事を優先した。
もちらん大学での講義も大切だが、めぼしい講義は既に受講済みであるし、
あとは卒論を仕上げればいいだけだ。
それも一年あるわけだから、比較的のんびり大学生活はすごせそうではある。
浜田「北原。こっちのほうも頼む。さっき渡したのよりも、こっち優先で頼む」
春希「わかりました。すぐに取りかかります」
いつもの編集部。いつもの騒々しい仕事場。活気に満ち溢れた雰囲気が俺の背中を押す。
俺をいつも見守ってくれていた麻理さんはもうNYにいっていない。
それでも俺は元気にやっている。
今頃麻理さんは寝てるのかな? いや、あの人のことだから、まだ仕事か。
と、思いをはせていると、携帯のバイブが震え、着信を伝えてくる。
携帯の液晶を見ると、佐和子さんからであった。
これは珍しい。佐和子さんからは、電話がかかってくることがあっても、
朝か夜がほとんどだ。たまに昼食時をねらってかかってくることがあっても
就業中にかかってくることはまずない。
たしか今日NYから帰ってくる予定だったか。
それでも、就業時間にかけてくるなんて、よっぽどのことなんだろうか。
俺は、ざわつく胸を押せえきることができず、席を立ち、廊下に向かい、電話に出た。
春希「もしもし?」
佐和子「北原君、ごめんなさい。バイト中だったよね」
春希「少しなら大丈夫ですよ。それと、おかえりなさい」
佐和子「ただいま・・・・・・・」
佐和子さんは、要件があって電話をしたはずなのに、何も言ってはこない。
沈黙が俺にのしかかる。何も語らない時間が引き延ばされるほど、
嫌な予感が増大してしまう。
春希「佐和子さん?」
俺は、努めて冷静を装って問いかける。どこまでできているかは疑問だが、
声を荒げなかっただけ、ましかもしれない。
佐和子「うん。・・・・・・うん、あのね北原君。
電話で話すような内容でもないから、今夜会って話せないかな。
何時だっていいの。でも、できるだけ早く話さないといけない事だから
本当に何時でもいいから、会えないかな?」
春希「おそらく10時には行けると思います」
佐和子「ごめんなさいね」
春希「いえ、かまいませんよ。それで、いつものバーでいいんですか?」
佐和子「できれば、北原君の家か、私の家がいいかな。
でも、私の家は帰って来たばかりで散らかってるの。
だから、悪いけど、北原君の家でもいい?」
春希「それはかまいませんよ。それならば、駅前のカフェで待ち合わせでいいですか?」
佐和子「ええ、それでいいわ。・・・・・ふぅ、麻理ったら」
春希「麻理さん? 麻理さんになにかあったんですか?」
予想はしていたけれど、実際麻理さんの名が出ると動揺を隠せない。
佐和子「ふぅ~・・・・・・。それは会ってから話すわ。
こんな電話なんかしたら心配させてしまうってわかってはいるんだけど、
そうも言ってられないのよ」
春希「わかりました。できるだけ早く仕事を終わらせますから、待っててください」
佐和子「ありがとね、北原君」
電話をきると、暴れ狂う動揺をかみ殺し、デスクに戻る。
さあ、仕事だ。今俺に出来ることは、素早く、かつ、丁寧に仕事を仕上げるのみ。
そのかいもあって10時前には待ち合わせのカフェにつくことができた。
自宅に着くと、佐和子さんの上着もハンガーにかけ、部屋の奥へと促す。
普段から掃除しているから、いつ来客が来ても問題ない。
最近では、武也と千晶くらいしか寄りつかないが、
もともと人を呼ぶこともなかったから、相変わらずの静けさだ。
春希「コーヒーでいいですか?」
佐和子「ええ、ありがと」
キッチンに向かい、お湯をかける。しばしの沈黙がこの場を支配しようとするが、
俺は荷物を片づけたり、カップを用意したりとせわしなく動き回る。
別に、部屋に着いたらそのまま話を聞くことだってできた。
コーヒーくらいは用意しただろうが、聞くことだけならできたはずだ。
しかし、今の俺はそれをできるだけの準備が不足している。
昼に電話がきたのだから、心の準備くらいできたはずだけれど、
ついさっきまでいち早く仕事を終わらせる為に仕事だけに集中していた。
だから、佐和子さんの話のことは、一切考える余裕がなかった。
いや、考えないようにしていたという方が正しいかもしれない。
だって、どう考えてもNYから帰国した佐和子さんが暗い声で伝えようとしていたら、
麻理さんに関わることだってわかってしまう。
コーヒーの香りが部屋に漂い出す。安物のインスタントコーヒーでもそれなりの味だ。
しかし、俺の心の準備をできるまでの時間稼ぎにはならなかった。
俺は、無理やり勇気を奮い立たせ、佐和子さんの正面のテーブルの位置に腰を下ろす。
春希「コーヒーどうぞ」
佐和子「ありがと」
味はともかく、温かい液体が心をほぐす。佐和子さんも同じようで、
少しは落ち着きを取り戻したようだ。
佐和子「うん。回りくどいことは抜きにするわね。
単刀直入に言うわ」
春希「はい」
佐和子「このままだと、麻理、駄目かもしれない。仕事もやめなくてはならなくなるわ」
春希「え?」
俺の顔から表情が滑り落ちる。どう反応すればいいのか、どんな顔をすべきかわからない。
佐和子「仕事でミスったとか、職場でうまくいってないとかじゃないのよ」
春希「そうですか・・・・・・・・」
仕事はうまくいってるのかな。でも、仕事が原因じゃないとすれば、なにが?
そこまでいうと、佐和子さんはちょっと困った感じの表情をみせる。
佐和子「単刀直入に言うって宣言したけど、どこから話せばいいかな」
春希「最初から話してくだされば助かります。答えだけを言われても
変な先入観を抱くかもしれませんし」
佐和子「わかったわ。じゃあ、私がNYに着いて、麻理と再会した時から話すわ」
佐和子さんは、マグカップを両手で包み込むように握り、
黒く濁った水面を覗き込むように語りだす。
底が見えない水面が、これからのことを暗示しているようで、
あがけばあがくほど、どこまで続くかわからない水底へと沈みゆく感じがした。
麻理 空港 3月29日 火曜日
麻理「はぁ・・・・・・・・」
今日何度目のため息だろうか。
いくらため息をつくこうが佐和子がやってきてしまう。
渡米を先延ばしにしてもらおうとも考えはしたが、結局は来てしまう。
それだったら、少しでも体調がいいときに来てもらったほうが
佐和子は気がつかないかもしれない。
しかし、それも気休めにもならないって自分でもわかっていた。
ため息と同じように何度も確認している服装を再びチェックに入る。
やっぱり首元までしっかりと隠れているのにした方がよかったかも。
でも、普段あまり着ないような服装の方が、
かえって佐和子に気がつかれるかもしれない・・・・・・。
今着ている麻理の服装は、いたってシンプル。
ロングダウンを羽織り、パンツスタイルにブーツ。
多少は着膨れしているかもしれないが、この時期のNYであれば、
いたって無難で地味な格好ではある。
しかも、やってくるのは佐和子である。
これが北原だったら、かなり気合が入った服装になるが、今日は佐和子しか来ない。
だから、麻理が服装を気にする必要などないとも言えた。
佐和子「麻理~。元気してた?」
飛行機は予定通りに到着し、佐和子も予定通りに待ち合わせ場所にやって来る。
ここまではいたって順調。時間通りで予定通り。
このあと、私がいつも通りに軽く挨拶して、佐和子から北原ネタでいじられて、
その後私がちょっと拗ねながらも、マンションに連れて行くだけ。
なにも問題ないし、疑われるような行動もない・・・はず。
でも、その後の事は考えてはいない。
だって、ダウンを脱いでしまったら気がつかれてしまう。
ちょっとくらい先延ばしにする作戦だけど、ちょっとくらいはいつもの佐和子との
気軽な関係を満喫しても罰は当たらないはず。
もしかすれば、その場の軽いノリで佐和子もわかってくれるかもしれない・・・・・、
と思いを巡らしながら、ぎこちない笑顔で挨拶をしてしまった。
麻理「まあまあかな。そっちは長旅で疲れたんじゃない?」
私が出迎えの挨拶をするところまでは、ちょっとぎこちなさがあっても、順調だったはず。
だって、佐和子も笑顔だった。
・・・・・・でも、佐和子は今は、心配そうに私を見つめている。
佐和子「ちょっと、麻理。しっかり食事してる?
いくらなんでも痩せすぎ・・・・・・・」
佐和子は、持っていた荷物を両足で挟み込むと、
今度は空いた両手で私の顔を挟みこんだ。
佐和子のしっかりと冬用にハンドケアされて潤いに満ちた指先が
かさかさに乾いた私の頬をなぞり、さする。
そして、指先が首元まで下がってくるころには、佐和子の顔は豹変し、
焦りがにじみ出していた。
私は佐和子にされるがままだった。だって、もうばれたんだもの。
隠したってしょうがない。佐和子の気が済むまで調べてもらうしかないだろう。
最後に佐和子は、私のダウンの袖をまくりあげると、細すぎる腕を見て驚愕した。
佐和子「麻理?」
佐和子が何を知りたいかだなんて、明確すぎる。
私が逆の立場だったら、同じことを気になるはず。
麻理「とりあえず、私のマンションに行こうか。ここで話すような事でもないから」
私の薄暗い笑みに、佐和子はぎこちなく頷くだけであった。
佐和子は、私の先導にしたがって後からついてくる。
タクシーに乗り込んでも、マンションについても、一言も言葉を紡がない。
ただ、私の体に触れた手を確かめるように手のひらを見つめているだけであった。
佐和子をリビングに通すと、予想通りいぶかしげな眼で私を見つめてくる。
玄関は綺麗に掃除されており、脱ぎっぱなしの靴など溢れてはいない。
しかも、リビングまでの廊下も拭き掃除がされ、綿ぼこり一つない。
そして、リビングにいたっては、雑誌や書類などは綺麗に整理整頓され、
脱ぎっぱなしの服などは存在していなかった。
佐和子「一応確認しておくけど、ハウスキーパー雇った?」
麻理「雇ってないわ。・・・・・・・コート貸して。掛けておくわ」
佐和子「ありがと」
佐和子からコートを受け取ると、
佐和子の為に用意しておいた部屋のクローゼットにしまいこむ。
佐和子も自分の荷物を部屋に持ってくるが、いくら部屋を見渡したって、
ベッド以外の調度品は存在していない。
佐和子「ねえ、この部屋・・・・・・ううん。これも後で説明してくれる?」
麻理「あとでね」
荷物を部屋の隅に並べると、リビングに戻り、ソファに腰をかける。
本来ならば、コーヒーでもいれるべきなんだけど、
そんなものを用意してしまったら、話などできやしない。
佐和子が何も言ってこないから、このまま話を進めるようかしら。
麻理「全部話すわ」
佐和子「ええ、私が理解できるように話してくれると助かる」
麻理「まず、病気ではないわ。不治の病ってわけでもないから心配しないで、
って、このありさまじゃ無理か」
佐和子「そうね。病気って言われた方が納得できたかもね」
麻理「一応病気ってことでもあってるんだけどね」
佐和子「一応?」
麻理「心因性の味覚障害」
佐和子「味覚障害って、味が変になっちゃうやつでしょ。
詳しくは知らないけど、病気じゃないの。
ん?・・・・・・・心因性って?」
麻理「その名の通り、心の問題・・・・・・・かな」
佐和子「NYでの仕事が原因ってわけではないわよね?」
麻理「仕事の方は、いたって順調よ。順調過ぎて怖いくらい」
佐和子「それって、体調が悪いのを忘れる為に仕事に没頭しているだけでしょ」
さすが佐和子。私の事をよくわかってらっしゃる。
そんなに心配そうに見つめないでよ。こうなるってわかってたけど、
心配されるのには慣れないな。
麻理「まあ、そんな感じかな」
佐和子「笑い事じゃないわ。原因は?」
原因か・・・・・・・。そうよね。心因性ってことなら、理由がはっきりしてくるはず。
このまま目をそらしても、数秒の時間稼ぎにしかならないかな。
私のぎこちない笑顔をみると、佐和子は膝をついて、私に詰め寄ってくる。
けっして責めているわけではない。むしろ心配してるんだろうけど、
私にとっては、大した差はなかった。
だって、どちらにせよ理由をいわなきゃならない。
理由を言ってしまえば、きっと北原がNYに来てしまう・・・・・・・。
佐和子「北原君ね? そうでしょ」
麻理「そうよ。北原が原因。でも、こんなことになってしまったのは私のせいだから」
佐和子「違うでしょ。あなたも言ってたじゃない。
北原君があなたに依存してきて、それがとても心地よくて、
いつのまにかに麻理が北原君に依存するようになってしまったって」
麻理「その通りよ。でも、味覚障害までなってしまったのは、私の責任。
北原は悪くない」
佐和子「でも! ・・・・・・・・今さら責任がどうのとかいってられないか。
で、具体的には、どんな症状なの?
ううん、いつから自覚したか、そこから話してくれないかしら」
麻理「一番最初に自覚したのは、北原が泊まりに来た翌日の夜かしら。
仕事から帰って来てみると、北原が食事を用意しておいてくれたから
それを食べたの。すっごくうれしくて、でも、とても悲しかったのを覚えてる」
佐和子「そう・・・・・・」
麻理「でね、食べてみたら味が薄いの。
北原も料理は得意ではないって言ったし、これからしっかり料理覚えていくって
宣言もしていたから、今回は失敗したのかなって思ったわ。
でもね、前の日に作ってくれた半熟のオムライスは美味しかったなぁ。
また作ってくれないかしら」
佐和子「ゴールデンウィークにNYに予定だし、その時作ってもらえばいいじゃない」
麻理「駄目っ! 今のこの状態の私が会えるわけないじゃない。
きっと北原の事だから、責任感じちゃうでしょ」
佐和子「麻理が会わなくても、私が帰国したら全部話すわよ」
麻理「そう・・・・・・」
佐和子「その表情見ると、今のあなたの不安定さがにじみ出てて、心配になるわ」
麻理「え?」
佐和子「鏡見なさい。あなた喜んでいるわよ」
佐和子の言葉をやや納得できない私は、壁にかかったインテリアミラーで
自分の顔を確認する。
そこには、佐和子が言うほどではないにしろ、やや口角が上がっている自分がいた。
健康的な笑顔はそこにはない。病的なまでもうつろで、すがるような笑顔。
けっして北原が喜んでくれるような私は既に存在していなかった。
佐和子「ごめん。言いすぎたわ。こっちに戻って、話を続けてくれると助かる」
麻理「ううん。佐和子がいてくれて、助かってるから」
佐和子「私には、いくらだって依存したっていいから、全部話しなさいね」
麻理「ありがと。・・・・・・・どこまで話したのかしら。
北原がオムライス作ったけど、一つは失敗しちゃって、私がそれを食べようとしたら
困った顔をして、そのお皿と自分の方に置かれた成功したオムライスと
とり変えようとした話だったかしら。
そういう気遣いはできるんだけど、女心がいまいちわかってないところが
傷なのよね。でも、そういう北原も可愛くて、あたたかいわ」
佐和子「はぁ・・・・・・。今のあなたには、仕事と北原君のことしかないみたいね」
麻理「それは駄目よ。私は北原から独立しないといけないんだから。
北原には冬馬さんがいるの」
佐和子「そうよね。でも、北原君が冬馬さんと再会するまでに、麻理も元気にならないと。
そうしないと北原君のことだから、心配して麻理のことを離してくれないわよ」
麻理「そうよね・・・・・・」
佐和子「そこ。うれしそうな顔しない」
麻理「仕方ないのよ。情緒不安定だって、自分でもわかってるんだから」
佐和子「今は仕方ないか。それじゃ、家に帰ってから北原君の料理食べて
味が薄かったってところから話してくれないかしら」
麻理「その時は、そんなものかなって感じで、特に気にはしなかったわ。
そして翌朝、といっても、帰ってきたのが朝方だったんだけど、
仮眠をしようとして、でも眠ることなんてできなくて、
その日は昼から北原が来るから、とりあえず起きて朝食をとったの」
佐和子「麻理。食事だけじゃなくて、睡眠障害まであるんじゃないでしょうね」
麻理「それは大丈夫。疲れて動けないくらい仕事してるから、家に帰ってきたら
すぐにぐっすり眠れているわ」
たとえ仕事に集中している理由が、北原を思い出さなくするためであっても。
これだと、仕事に逃げるなって言ったのは私なのに、上司失格ね。
でも、昔とは違うはず。だって、仕事をするのは楽しいもの。
はぁ・・・、変な言い訳ばかりしちゃって、泥沼かな。
佐和子「そっか」
麻理「うん。その日の朝食も北原が作っておいてくれたサンドウィッチだったんだけど、
今度は全く味がしなかったの。
見た目はすっごく美味しそうで、北原が作ってくれた料理なら、たとえまずくても
残さず食べられるのに、全く味がしないとなると変な気分になってしまったのを
よく覚えているわ。
まずかったら、それなりのリアクションも取れたはずなのよ。
でに、なにも味がしないとなると、困ったもので、なにも感じないの。
だけど、北原が作ってくれたんだから、すべて食べたけどね」
佐和子「その時からずっと味がわからなくなったってことでいいのね?」
麻理「ううん。昼になって北原が来て、その時北原が作ってくれた料理はすっごく
美味しかったのを覚えているわ」
佐和子「一時的には復調したってことか」
麻理「そうかもね。北原が帰って、一人で食事しても味はあったと思うわ。
多少は薄味になっていたかもしれないけど、気になるほどではなかったはず」
佐和子「でも、悪化していったのよね?」
麻理「そうね。NY行きが迫ってきて、北原に会えなくなるって考えるようになって
不安になればなるほど、悪化していったわ。
その頃北原、お弁当作ってくれるようになってね、お昼は一緒に食べてたのよ」
佐和子「見た目通りまめな男ね」
麻理「お弁当はありがたかったわ。これが唯一の繋がりにさえ思えたから。
そう思うと、その時は楽しくても、仕事から帰って一人で食事をすると
味気なかった。おそらくその頃から本格的に悪くなったと思うわ」
佐和子「日本にいた時からか。じゃあ、日本で病院に?」
麻理「ううん。あの頃は引き継ぎとか、NYでの仕事の準備で忙しくて時間がなかったわ。
病院に行ったのは、佐和子がこっちにくるって言ってきたときね」
佐和子「急に病院に行ったからって、治るような状態でもないでしょ」
麻理「ドクターにも言われたわ。これからはカウンセリングと精神安定剤を使って、
焦らずに治していこうって」
佐和子「薬は、どう? 効いてる?」
麻理「飲んでないわ。ドクターも調子が悪い時に飲めばいいっていってたし、
なによりも、精神安定剤を飲んだからって、治るわけでもないのよ。
ただ気持ちを落ち着かせるだけ」
佐和子「それで大丈夫っていうんなら・・・」
麻理「ううん。たぶん精神安定剤に依存してしまうのが怖いのかもね。
今は北原に依存しているけど、今度は精神安定剤に依存してしまう自分が
みじめになるのが怖いの」
佐和子「麻理・・・・・・・」
麻理「もう、十分みじめったらしい女なんだけどね」
佐和子「ついでに重い女よ」
麻理「まっ、悲劇ぶるのは私の性分じゃないから、戦っていくわ。
ありがとね、佐和子。いつも通りに接しようとしてくれて」
佐和子「違うわよ。他の接し方を知らないだけ」
佐和子は、恥ずかしそうに視線を外そうとしたが、ばっちり照れているのが見てとれる。
佐和子は、こっちを見ないようにして、居心地悪そうに足を組みかえたりもしている。
そして、気分を変えようとありもしないコーヒーカップを取ろうとした。
佐和子「コーヒーもらえないかしら? ちょっと喉乾いちゃって」
麻理「ごめんなさい。できれば、水か炭酸水で我慢できない?」
佐和子「それでいいわ。水お願いするわね」
佐和子の返事を聞いてから、ソファーから腰を上げ、冷蔵庫からミネラルウォーターの
瓶を二つ取り出すと、トレーにコップ二つと布巾ものせ、リビングへと戻る。
瓶のキャップを外し、コップに水を注ぐ。冷たい瓶の感触が、心地いい。
佐和子と話していても、どこか夢のような感触さえあったが、
冷気が私を現実に縛りつける。
覚悟していたことだが、佐和子がいつも通りなのを心から感謝した。
佐和子「ねえ、麻理。もしかして、コーヒーの香りも駄目なの?」
麻理「するどいわね」
佐和子「さすがにね。摂食障害の話なら多少は聞いたことあるわ」
麻理「仕事の時は集中しているから大丈夫なの。でも、外で食べり飲んだりするのは無理。
だから、食事は自宅でしかしてないわ」
佐和子「それじゃあ、一日二食ってこと?」
麻理「ううん。夜帰ってきても、疲れているから、そのまま寝てしまうことが多いわね」
佐和子「そんなことしていたら、いつか倒れるわよ」
麻理「サプリメントとか栄養ドリンクは飲んでいるから、多少は大丈夫なはずよ」
佐和子「そんなの一時しのぎよ。食事をしなくちゃ、痩せていって・・・・・・。
今、食事もできないの?」
麻理「できなくはないけど、食べても気持ち悪くなるのよね。
お腹が痛くなったり、吐きそうになったり。
味がわからないのは同じなんだけど、食べても気持ち悪くなるとなると
食事も億劫になってしまうわ」
佐和子「ふぅ・・・・・・。それも症状の一つってことでいいのよね」
麻理「ええ。でも、自宅でなら食事はできるのよ。
食べた後、気持ち悪くなるのも対処法がわかってきたし、
だから夜は疲れていて無理でも、朝食はしっかり摂るようにしてるわ」
佐和子「昼食は無理にしても、朝食だけって。夜もしっかり食べないと、
今度は仕事どころじゃなくなるわよ」
麻理「そんなことは絶対ならないように気をつけてるわよ。
私には仕事しかないんだから。
だからね、仕事も土日はしっかり休むようにしてるの」
佐和子「へえ。ワーカーホリックの麻理にしては、すごい決断したわね」
麻理「そういわれると心外なんだけど、土曜は自宅で仕事をするようにして、
日曜は完全休養にあててるわ。
だから、土日は、しっかり三食摂ってるわよ」
佐和子の反応も、日本での私を知ってる人なら当然の感想かもしれないか。
だって、休みなんてないも等しかった。
仕事の合間の休憩が休暇で、仕事が入れば休暇は即終了。
どこにいても仕事が最優先だったわね。
佐和子「それで、部屋の中も綺麗なわけか」
佐和子は興味深く部屋を点検していく。
さすがに日本にいたころの部屋を熟知しているだけあって、
この落差にストレートに驚きを見せた。
麻理「それはちょっと違うわ」
佐和子「なぁにかわいこぶってるのよ。あなたのちらかった部屋に何度行ったことか」
麻理「違うのよ。そういう意味でいったんじゃないの」
佐和子「じゃあ、どういう意味なのよ」
麻理「綺麗な部屋じゃないと落ち着かないのよ」
佐和子「はぁ? 体調壊しても、その辺の心境変化はよかったじゃない」
麻理「それも違うわ」
佐和子「だったら何よ?」
麻理「北原が・・・・・・」
佐和子「北原君が綺麗な部屋がいいって?」
麻理「ううん。北原が部屋を綺麗に掃除してくれたの。
大掃除でもしたんじゃないかってくらい綺麗に掃除していったわ」
佐和子「へぇ・・・。北原君らしいったららしいけど、あんた、掃除までやらせてたの」
麻理「違うわよ。勝手にやってくれたの。家に帰ってきたら、綺麗に掃除してあって
部屋を間違えたんじゃないかって、驚いたくらいなんだから」
佐和子「そりゃあ、あの部屋が突然綺麗になってたら驚くわね」
麻理「でしょう。よく小説とかでもあるけど、一旦玄関から出て、部屋番号確認
したんだから」
佐和子「ふふっ。それは傑作ね。でも、あの北原君なんだから、掃除したのも
一度きりってわけじゃないわよね。実際どうたっだの?」
さすが佐和子。腕を組み、なんでもお見通しですって顔をしている。
その顔、さすがにぐっとこたえるものがあるけれど、我慢我慢。
麻理「私がNYに行ってるときに、部屋の風通しをしてもらってただけよ。
それに、私がいないんだから、部屋もそんなには汚れていないはずだし」
佐和子「でも、麻理が日本に戻ってきても、麻理は掃除しないんなら、
結局汚い部屋を掃除するのは北原君じゃない」
麻理「そ・・・それはそうかもしれないけど」
痛いところをついてくるわね。
頼りにはなるけど、隠し事ができないことが難点ね。
佐和子「それで、実際はどうなの?」
佐和子は、早く吐けと詰め寄ってくる。こういう気さくなところはありがたい。
それでも、私にだってプライベートってものがあるのよ。
佐和子からの追及を逃れようと顔をそらそうとしたが、
佐和子の両手が私の頬を挟み込む。
ぐいっと強制的に引き戻された私の顔は、正面から佐和子と向き合うしかなかった。
麻理「ふぁなひぃてくぁあいほぉ、ふぁなせあぃ・・・・・・」
どうにか両手の圧迫で言葉が話せないとわかってくれたのか、頬を解放してくれる。
しかし、一人掛けの狭いソファに強引に割り込んでくてくるものだから、
佐和子は私の腰に体を寄せてくると、ゆっくりとソファーに侵食していき、
私が逃げられないようにと腕を腰に絡めてくた。
佐和子「さあ、白状しなさい」
麻理「別に大したことを頼んだんじゃないわよ。合鍵を渡したことがあって、
それを返さないでもいいって言っただけ。
それで、たまには部屋の風通しをしてって頼んだら、
掃除もしておきますよって言ってくれたのよ。
ね、大したことないでしょ?」
佐和子「大したことあるわよね」
佐和子は、にたっと盛大な笑みを浮かべると、頬がくっつくくらい迫りくる。
麻理「な・な・な・・・・・なんでよっ!」
佐和子「だって、麻理もその理由がわかってるから、顔を真っ赤にしてるんでしょ」
麻理「え?」
佐和子「え?って、気がついてないの?」
麻理「だから、なにに?」
佐和子「はぁ・・・・・・。ワーカーホリックをこじらせると、こうまで天然というか
悪女というか、面倒な女になっちゃうのね」
麻理「なに一人で納得してるのよ。私がわかるように説明しなさいよ」
佐和子「だからね、麻理。北原君に麻理の部屋の合鍵を返してもらいたくないから
部屋の換気を言い訳に、合鍵返さなくてもいいようにしたんでしょ」
麻理「あっ」
佐和子「あって、今頃気が付いたの。もう、うぶなんだか、天然なんだか、
このこのぉ」
佐和子は、私の頬を人差し指でぐりぐりと押し込んでくるが、
佐和子にかまっている余裕なんて私にはなかった。
きっと佐和子が指摘したように、私の頬は真っ赤なんだと思う。
耳や首まで赤く染まってるってかけてもいい。
それだけ北原のことを、北原との会話を思い出すと、体が熱くなるほど恥ずかしかった。
逃げ出したいとか、失敗したとかじゃなくて、もっと純粋に北原に私の内面を
知られてしまったことが恥ずかしかった。
もう北原は、私が北原の事を好きだってことは知ってるんだ。
ヴァレンタインの日に、告白したしね。でも、その前から北原には、
わずかな繋がりさえも手放せないほど好きってことを知られちゃってたんだ。
そっか・・・・・・。知られちゃってたのか。
佐和子「なぁ~に、乙女ぶって、ニコニコしてるのよ。
見てるこっちが恥ずかしいわ」
佐和子にも、そして、北原にも全て知られちゃったのか。
心因性味覚障害については、これから北原に知らせないといけないけど、
隠す必要なんてなかったのかな。
だったら、あの時無理なんてしなければよかったなぁ。
せっかくのチャンスだったのに・・・・・・。
春希 春希マンション 4月4日 月曜日 夜
佐和子「って、感じだったのよ。それでね、麻理ったら、
自分で部屋を綺麗にするようになったきっかけっていうのが、
綺麗な部屋の方が北原君を感じられるからなんだって。
もうのろけられまくちゃって、こっちが恥ずかしかったわ」
佐和子さんは、一息にNYでの麻理さんの様子を話しきると、
最後は笑い話で締めようとする。
しかし、その笑い話も笑い話にさえならないって、
佐和子さん自身も気が付いているはずだった。
俺を気遣って、少しでも俺の責任を軽くしようとしてくれているのかもしれないけれど、
俺は気がついてしまう。
だって、話を裏返してしまったら、麻理さんは、自宅であっても
俺を感じ取れない部屋であるのなら、食事ができないってことにほかならない。
もしかしたら考えすぎかもしれないけど、仕事で忙しいのは確かなのだから
掃除をこまめにする時間なんてないはずだった。
仮に食事は関係ないとしても、日常生活で、自宅でも俺を感じられなければ
安らげる場所がないんじゃないかって、大きくうぬぼれてもしまう。
春希「佐和子さん。勘違いならいいんですけど、部屋が綺麗じゃないと
俺を感じ取れなくなって、食事や日常生活に支障がでてるんじゃないんですか」
俺の指摘に、佐和子さんの顔から作り笑いが崩れ落ちる。
無表情になり、そして、うろたえた表情になりかけたところで
これ以上表情が壊れていかないようにとぐっと我慢していた。
佐和子「まさにその通りよ。別に綺麗な部屋が絶対必要ってわけでもないみたいだけど
麻理の中での思い出では、上位に位置するものらしいわ」
大学生になって、開桜社にバイトにいき、麻理さんの下で働きだした。
でも、そのただのバイトとしての思い出は多いかもしれないが、
クリスマスイブからNYへ行くまでのたった2ヶ月しかない思い出の方が
価値が非常に高かった。
比較にならないくらい濃密な時間ではあったけど、
時間が少ない分思い出の数も少ない。
だから、麻理さんの拠り所になる思い出も限られてしまうのかもしれない。
佐和子「それとね、3月の初めに日本での最後の引き継ぎに帰ってきたでしょ」
春希「あ、はい。でも、スケジュールが合わなくて、会えませんでした」
佐和子「私も会えなかったわ。でもそれって、
会わなくてもいいように麻理がスケジュールを調整していたのよ」
春希「それって?」
佐和子「もうそのときには痩せちゃって、私たちが見たら気がつくと思ったんでしょうね。
食べられないのに、仕事はハードなんだから。
それは一月もしないうちにガリガリになっちゃうわよ」
春希「そんなにひどいんですか?」
佐和子「今はまだ病的なまで痩せてるわけではないんだけど、
それでも痩せすぎているって感じかしらね。
このまま食べないでいるのなら、ガリガリになる前にハードな仕事のせいで
倒れてしまうでしょうね」
春希「でも、食べないでいるんなら、体がいうことをきかなくなって、
仕事に支障が出てきますよね?
だったら、その時点で仕事に厳しい麻理さんの事ですから、
質が悪い仕事をしない為にも
仕事をセーブするようになるのではないでしょうか?」
佐和子「それはないでしょうね」
春希「どうしてです?」
佐和子「だって、北原君の事を思い出す時間を削る為に働いているのよ。
もちろん麻理だって、仕事をするからには手を抜かないし、
仕事に逃げているだなんて思われないように、仕事とは真摯に向き合ってるわ。
それでもね、どう言葉で言い繕っても、結果的には仕事に逃げているって
思われても・・・・・・、ううん、麻理本人も認めているんでしょうね」
春希「俺がそこまで麻理さんを追い詰めていただなんて・・・・・・」
佐和子「そのあたりについては、麻理も口が堅くて詳しい事は知らないわ。
まあね、あの子との付き合いも長いし、断片的な話からでもおおよその内容は
わかっちゃうんだけどね。しかも、本人が無自覚なうちにのろけ話に
なってるし・・・・・・・、うらやましい」
あぁ、・・・最後の一言だけは、きかなかった事にしよう。
でも、麻理さんが・・・・・・。
佐和子「それで、北原君はどうするつもり?
あなたの事だけら、麻理の事、ほっとかないんしょ?」
佐和子さんは、姿勢を整えると、まっすぐ俺に向かって問いかける。
それは、お願いでも、プレッシャーでもない。
俺のことをわかった上での事実確認にすぎなかった。
佐和子さんは、俺の決断を尊重し、全力でサポートしてくれるに違いなかった。
春希「具体的に今すぐどうすればいいかだなんてわからないのですが、
それでもNYへ行こうと思います」
佐和子「開桜社の内定貰ったばかりだし、それに大学はどうするの?」
春希「大学は、卒論の提出時期を7月末までに速めれば、
後期日程は行かなくても卒業することはできますよ」
佐和子「それって、簡単にいっちゃってるけど、
本来なら一年かけて卒論を仕上げるものじゃない」
春希「普通はそうなんですけどね。俺の場合は、前期日程で卒業に必要な講義って
2つしかないんですよ。あとはゼミに行って、そして卒論頑張るくらいなので
卒論を早く仕上げること自体は問題ないと思います。
一応教授の了承が必要ですが、大丈夫だと思いますよ」
佐和子「それだと8月から行けるってことね。
でも、麻理が受け入れるかしら」
春希「そこは、これからNYにいって説得してみせます」
佐和子「行く日時決まったら言ってね。チケットとるからさ。
ホテルはいらないわよ。麻理んとこ泊まればいいんだし」
春希「それは・・・ちょっと、麻理さんがどう思うか」
佐和子「なぁ~に言っちゃってんの。麻理んとこの合鍵もらっちゃってるくせに。
もう何度も泊まってるんでしょ?」
春希「それは、そうかもしれませんけど」
佐和子「それに、きっと麻理は北原君の側にいたいはずよ。
もしホテルを用意してくれていても、断ってくれないかな。
それは、麻理の精一杯の強がりだから。
もう倒れそうなくらいボロボロなくせに、こういうところは意地っ張りに
なっちゃうのよね」
佐和子さんは、じっと自分の爪を見つめ話し続ける。
その見つめる先にある握られた手の中には、俺が知らない麻理さんとの思い出が
詰まっているのかもしれない。
親友だから話せる事。親にだけなら話せる事。恋人にしか言えない事。
だったら、俺は、麻理さんのどのような存在でいられるのだろうか?
佐和子「だからね、北原君。麻理の事、よろしくお願いします」
春希「はい、自分にできる限りの事はやるつもりです。
今まで受けてきた恩がどうとかじゃなくて、自分が麻理さんには幸せに
なってもらいたいから、NYへ行きます」
佐和子「ありがとう、北原君」
春希「でも、麻理さんのことだから、ただ身の回りの世話をする為だけにNYへ
行くと言っても、聞き入れてくれないでしょうね」
佐和子「そうねぇ・・・。それだと自分の為に大学やバイトまで休んで来てもらってるって
感じてしまうでしょうね。実際、北原君が調整して大学を卒業できるように
してあっても同じでしょうね」
春希「それでも、今のままでは駄目なんでしょうね」
佐和子「あの子ったら、変な所で頑固なのよねぇ」
春希「だったら、麻理さんがわざとらしい理由だと思ってしまっても、
それなりに筋が通った道筋を強引に作って、
もうそれが動き始めてるって教えてあげればどうにかなりませんか?」
佐和子「まあ、このさい強引でもいいから、やっちゃった勝ちかもしれないわね。
それでもなかなかいい案なんて都合よく思い浮かばないわよねぇ・・・」
俺に適当な案などあるわけもなかった。
仮に時間をもらったとしても、思い付くか微妙な所だ。
俺は、佐和子さんからの視線を逃れるために、本棚を適当に見つめる。
そこに俺が求める答えなどあるわけもないのに、できもしない問題の為に
時間稼ぎをしてしまう。時間だけが過ぎ去っていく。
佐和子さんであっても、都合がよすぎるあらすじなど、簡単には作れない。
俺もいくつか考えてみたが、あまりにも現実から乖離しすぎている内容であった。
もちろんNYへ行くとしても、バイトしなければ食べてもいけない。
麻理さんに養って欲しいと願い出れば、大学を卒業するまでは面倒見てくれるかもしれない。
でも・・・、俺が大学を卒業するまでに、麻理さんの症状が改善する保証など
どこにもないんだ。
俺が就職した後、麻理さんを見捨てて日本に帰国するのか?
そんなことできない。俺は、麻理さんを見捨てることなんて、できやしない。
・・・・・・・・・・・・・・・だったら、NYで就職するか?
それこそ都合がよすぎる展開じゃないか。
どこで都合よくNYでの仕事を見つけるっていうんだ。
俺は、いらだちを抑えようと、意味もなく本棚に並べられた本のタイトルを読んでいく。
そして、一冊の本の前で目がとまった。
その本は、麻理さんから渡されて、一度だけ読んだ冊子。
内容は、開桜社の規則が書かれているものであって、麻理さんに読めと言われなけば
ろく読みもせず本棚に納めていた自信がある。
バイトの休憩時間に編集部で読んでいると、松岡さんが後ろから覗き込んで
言ったものだ。
松岡「こんなの読んでるやつ、この編集部にはお前くらいしかいないんじゃないか?」
春希「麻理さんに一度は読んでおけって言われたんですよ」
松岡「なら訂正。この編集部には、こんなの読んでいる奴らは、
お前と麻理さんしかいないよ」
春希「もしかしたら他にもいるかもしれないじゃないですか」
松岡「いいや、わかるって。だって、それもらうのって、新人研修のときだぜ。
研修で疲れているのに、念仏みたいにぐだぐだと使いもしない規則言われても
寝てるだけだって。ほら、そこにいる鈴木にも聞いてみ。
絶対寝てたはずだから」
鈴木「え? なになに。私がどうしたって?」
自分の名前を呼ばれた鈴木さんは、生来の好奇心の強さもあって、話に加わってくる。
松岡「北原がさ、社の規則本読んでるんだよ。
俺達も新人研修の時聞かされたけど、寝てたよなぁって話」
鈴木「あぁ、寝てた、寝てた。熟睡してた自信あるよ」
春希「新入社員の為に時間を割いてくれているんですから、
寝ないでまじめに研修受けてくださいよ」
松岡「ならさ、お前は今さら新人研修なんて意味あるとでも思ってるのか?」
春希「え?」
松岡「だって、編集部での実際の仕事と、マニュアル通りの新人研修の教則なんて
まるで違うだろ」
春希「それは、・・・・・俺は新人研修受けてないですから、わかりませんよ」
松岡「だったら、普通の仕事に慣れてきた入社二年目のペーペーが
麻理さんのもとで麻理さん並みに仕事していけると思うか?」
春希「それは、無理ですよ。だれだって、不可能です」
松岡「だろ。仕事をただ覚えただけの新人なんて、使い物にならないんだよ」
鈴木「なんとなぁくまっちゃんの言いたい事は理解できるけど、
少し例え話がずれてる気もするなぁ」
松岡「え? 駄目?」
なんてことも今ではいい思い出か。
ほんとあの時麻理さんに言われて読んでおいて良かった。
必要な時に読むだけでいいはずで、必要なときなんてきやしないのが実情だが、
今、その滅多にない必要な時が訪れようとしていた。
俺は、音もなく立ち上がると、その本を取り出し、目的のページを探りだす。
佐和子さんは、興味深く俺を観察するだけで、俺が導き出す答えをじっと待っていた。
春希「これ見てください」
俺が広げたページには、インターン・入社前研修についての項目が書かれていた。
佐和子「これがどうしたの?」
春希「この項目の制度を使おうと思います」
佐和子さんは、俺が指差す項目を読み終わると、顔を上げて不敵にほくそ笑んだ。
佐和子「これだったら麻理も文句は言わないわね」
春希「ええ、きっと問題ないでしょうね」
佐和子「でも、よく思い付いたわね。ふつうこんな制度なんて知らないし、
使おうとする人なんていないんじゃないかしら?」
春希「うちだと珍しいと思いますけど、企業によっては、
最初から予定しているところもあるみたいですよ」
佐和子「へぇ~、時代も国際化に対応していってるのねぇ」
佐和子さんはもう一度本の項目を眺めると、感心したのかしみじみ呟くのであった。
春希「明日バイトに行ったときに、上司の浜田さんに相談してみます。
前例がないと難しいかもしれないですけど、これだったら来年入社しても
NYで勤務できるようになるかもしれませんからね。
来年の勤務地ばっかりは麻理さんに頑張って引き抜いてもらわないといけませんが
うまく流れは作っておけるはずです」
希望が見えてはしゃぐ俺をよそに、佐和子さんは冷静に俺を観察していた。
けっして冷たい目で見つめていたわけではない。
むしろ俺にすがっている感じさえ受け取れてしまった。
だから、佐和子さんが探るように俺に問いかけてのも頷けてしまう。
佐和子「ねえ、北原君。来年も、麻理の側にいてくれるの?」
春希「ええ、麻理さんが大丈夫になるまで側にいるつもりです」
佐和子「それって、いつ終わるかわからないのよ。
もしかしたら、治らないかもしれない。
ううん、麻理がもっと北原君に依存しちゃって、
あなたを離さなくなる可能性だってあるのよ。
それでも、・・・・・それを覚悟しているのかしら」
佐和子さんの疑問も当然だ。一時の感情で動きで、
それで将来を決めてしまう危うさが俺の発言には秘められていた。
だからこそ、佐和子さんはそれを危惧してしまう。
仮に、一時の感情でNYへ行って、そして、
俺が途中で麻理さんを投げ出しなどしてしまったのならば、
今以上に酷い症状になることくらい誰の目でも明らかである。
春希「俺は、逃げ出したりしませんよ。最後まで麻理さんの側にいるつもりです」
佐和子「でも、冬馬さんは、どうするつもり・・・なの?」
春希「それは・・・・・・」
かずさを待つ。かずさがいつきてもいいように準備しておく気持ちは今も変わりない。
しかし・・・・・・、
春希「かずさのことは、大事です。だけど、それ同じように麻理さんの事も大事なんです。
どちらか片方だけしか幸せにできないとしても、最後まで諦めるつもりはありません」
佐和子「それって、浮気者の言い訳じゃない」
佐和子さんは、心底呆れたように明るく呟く。
春希「いいんですよ。だれがどう思おうとかまいません。
俺が決めた未来の為に、突き進むまでです」
佐和子「まっ、かっこいいセリフなんだろうけど、しっかりと麻理を自立させて
くれるんなら文句を言わないわ。
でもね、北原君・・・」
春希「はい」
佐和子さんは、キッと、俺を睨みつけると、言葉を選びながら慎重に告げてきた。
佐和子「麻理の将来を、壊すことだけは、やめてね。
もし、麻理を投げ出すのならば、それは・・・、その時期は、早い方が
立ち直るのが、早いはずよ。その時は、私が麻理の面倒を最後までみるから。
だから、麻理を捨てるときは絶対に振りかえらないで。
あなたが振り返ったりしたら、
絶対麻理の中にあなたへの、未練が、こびり付いてしまうでしょうから」
春希「わかりました。約束します」
佐和子「ありがとね」
春希「でも、この約束は意味をなしませんよ」
佐和子「え?」
驚いたような顔を俺に見せるが、俺はその顔に笑顔で答えを返す。
春希「だって、俺ってしつこいんですよ。しかも、計画的で、押しつけがましくて、
いくら相手が嫌がっても、粘りに粘って相手に踏み込んで行くんです」
俺の宣言に、佐和子さんの緊張は解けていく。
春希「だから、計画を練ってNYに乗り込んだ時には、
後に引くことなんてありはしないんですよ」
佐和子さんの顔から緊張は消え去っていた。そして、新たに芽生えた表情は、
ちょっと困ったような、馬鹿な奴を微笑ましく見つめるような、
今の俺の感情に近いものを映し出していた。
佐和子「そうね。そのくらい強引なくらいがちょうどいいのかもね」
春希「8月からの方針は決まったとして、それまでの間はどうしましょうか?
さすがに何度も日本とNYを往復することなんて、金銭的に不可能ですから。
しかも、8月からの事を考えますと、出費も抑えたいですね」
佐和子「悪いわね。北原君にばかり負担かけさせてしまって」
春希「いいえ。自分がやりたいからやってるんですから、佐和子さんが気にすること
ではないですよ。でも、チケットとか、裏工作など助けてもらいますよ」
俺は、ちょっと意地汚い笑いを作り出すと、佐和子さんもそれにのっかって、
悪役さながらの笑みを浮かべる。
それは、今後の方向性が見つかり、少し気持ちが軽くなったせいでもあるのだろう。
一度動きだしてしまえば、止まることはできない。
計画的で、根回しを得意とし、安全重視の防弾列車。
動きだしは悪いが、目的地に着くまでの早さと確実性だけは、他を圧倒している自信がある。
佐和子「そのくらい任しといてね」
春希「ええ、頼りにしています。そうですねぇ・・・・・・・・、
まずは、ここのマンション引き払います」
佐和子「え? だって、いいの? 実家に?
お母さんとは・・・どうするつもり?
え? それとも、もっと安いアパートに?」
佐和子さんが慌てふためくのも無理はない。
なにせ大学に入って、しばらくして実家を出てからは、
母親とは顔を会わせる事すらしていないもんな。
けっして互いの事を嫌っているのわけではない。
互いに興味がないだけの関係。
その事を知っている佐和子さんならば、俺がこのマンションで暮らす意味を
理解できている。
俺は、落ち着いた口調で、佐和子さんに事情を語り始めた。
春希「実家に帰ります。別に母も問題なく了承してくれるはずです。
それに8月までの短い期間ですしね。
だから、5月からと言わないで、今すぐにでも実家に戻る予定です。
もちろん光熱費などの生活費は渡しますけど、それでも契約期間ギリギリまで
ここにとどまっているよりは節約できるでしょうから」
佐和子「北原君は、それでいいの?
そのくらいのお金だったら私が出してもいいのよ」
春希「大丈夫ですよ。佐和子さんだって、これからNYに行くことも増えるでしょうし、
なるべく出費を抑えたほうがいいですよ」
佐和子「そうかもしれないけど、私ができることなんて、たかがしれているのよ」
春希「それでもです。それに、高校時代の生活に、ちょっとだけ戻るだけです。
たった4か月の共同生活・・・・・、というよりも、間借りですかね。
そんな感じなので、全く問題ないんです」
佐和子「北原君が大丈夫って言うんなら、それでいいけど」
それでも佐和子さんは、まだ言い足りない雰囲気を漂わす。
しかし、俺はこの話題に終止符を打つべく、新たな話題を投下した。
春希「俺の方は、明日から動くとして、麻理さんの方はどうなんです?
8月に俺がNYへ行くまでの間、どうにかもたせないと意味がないですよ」
佐和子「そうだったわね。その辺のところは、北原君が8月からNYへ来るってことが
励みになるし、・・・・・あとそれに、どうにかなるかもしれないような
できないかもしれなくもない・・・・・・・・
えぇっと・・・、できるかもしれない・・・かな?」
どうも妙な言い回しに俺は首を傾げるしかなかった。
佐和子さんも、視線を泳がし、はっきりと言えないようでもある。
春希「この際隠し事はなしにしましょう。緊急事態なんですよ」
佐和子「そうなんだけど・・・さ。こればっかりは・・・・・・ねぇ」
春希「なにか麻理さんに口止めでもされているんですか?」
俺の問いかけに、肩を震わせ、動きを止める。
ゆっくりと俺に視線を向け、俺の鋭い視線を確認するや否や、
佐和子さんの挙動不審な行動はピークに達する。
春希「佐和子さん」
佐和子「もう・・・麻理も一応女の子って年でもないけど、女なのよ。
秘密の一つや二つくらいあってもいいじゃない」
春希「そうはいっても、時と場合によります。今は一刻を争う事態なんですよ」
佐和子「そう・・・なんだけど・・・ねぇ」
どうものらりくらりとうやむやにしたい佐和子さんは、要領を得ない。
だから俺は、佐和子さんに一歩詰め寄り、無言のプレッシャーを与え続けるしかなかった。
佐和子「もう、わかったわよ。そんな怖い顔でみないでよ」
春希「俺は何もしていませんよ。怖いと思ったのは、佐和子さんに後ろめたいことが
あるからじゃないですかね?」
佐和子さんは、小さくため息をつき、NYの方へ一度謝罪すると、俺と向き合った。
佐和子「あとで麻理には北原君が強引に聞き出したっていうからね」
春希「かまいませんよ。いくらでも俺のせいにしてください」
佐和子「なんか開き直り過ぎじゃない? もう怖いもの知らずって感じ」
佐和子さんは、ちょっと俺の行動に引き気味にもなり、俺から一歩体を引く。
春希「怖いものなんてありませんよ。麻理さんの今後が一番怖いですからね。
それ以上のことなんて、ありえません」
佐和子「そうね、ごめんなさい」
春希「いいんですよ。・・・・・・・・で、話してくれますね?」
佐和子「もう、降参。でも、これをきいて麻理の事引かないでよ」
春希「たいていの事なら受け入れますよ」
佐和子さんは語りだす。
NYでの出来事を、もう一度追体験するように、じっくりと。
それは、俺が思いもしないような光景であった。
嬉しくもあり、そして、なによりも、
俺の想像よりもひどくつらい現実に叩き落とされた瞬間でもあった。
麻理 麻理宅 3月29日 火曜日
いつしか日は暮れ、西日が差しこみ始めていた。
いくら深刻な話をしていようと、体は正直で、欲求をストレートに渇望する。
佐和子「ねえ、麻理。夕食ってどうする?
一応聞くけど、料理もするようになったの?」
麻理「あいにく料理だけは駄目だったわ。
人には向き不向きがあるのよ」
佐和子「そんなの自信満々に言われても、かっこよくないわよ」
1か月前より若干小さくなった胸を張る麻理に、佐和子はカウンターを見事にくらわす。
しかし、麻理はそれにもめげずにくらいついてくる。
麻理「掃除も料理も全くしない佐和子には言われたくないわね」
佐和子「はい、はい。自分がちょっと掃除するようになったくらいでえばらないの」
麻理「そんなことないわよ」
佐和子「は~い、わかりました。さて、食事はどうするのかな、
掃除はしっかりするようになった麻理ちゃん」
麻理「な~んか、馬鹿にしてない?」
佐和子「あっ、わかるぅ?」
佐和子は努めていつものように演じくれている。
演じるというよりは、これが佐和子と麻理の距離なのかもしれなかった。
なにがあっても揺るがない距離。
佐和子に面と向かって感謝なんてできやしないけど、
これが親友なんだなってしみじみ思ってしまった。
麻理「もう・・・。お弁当買いに行くわよ」
佐和子「お勧めはあるの?」
麻理「ついてくればわかるわよ」
佐和子「はい、はい」
佐和子「えっと、ほんき?」
麻理「なにか偏見もってない?」
佐和子「もってないし、悪くもないとは思ってるけどさぁ・・・」
麻理「だったら、いいじゃない。一度食べてみて、駄目だったら明日は違う店に
連れていくわよ」
佐和子「まあ、いいかなぁ」
目の前の店には、でかでかとショップ名とともに、ベジタリアン食と表記されている。
日本よりも各自の食文化と宗教を尊重するアメリカならではともいえる。
ただ、麻理がどうしてこの店を使ってるのか、佐和子には疑問が残った。
佐和子「一応聞くけど、ベジタリアンになった?」
麻理「なるわけないでしょ。味もわからないんだから、お肉を食べようと
野菜を食べようと、変わりはないわ」
佐和子「だったら、どうしてベジタリアン食?」
麻理「どうしてって、健康の為よ。さ、行きましょ」
佐和子「まあいいけどさぁ」
ちょっと不満そうな佐和子をよそに、麻理は店内に入るや否や、
すぐに注文に入る。
佐和子自身、NYでそれなりの食事も期待していたと思う。
だけど、本当に悪いけど、今の麻理にはその希望をかなえる事は無理だった。
佐和子「ちょっと麻理。さっさと注文しないでよ。
私は初めてなんだし、お勧めとか教えてくれないとわからないわ」
麻理「ごめん、佐和子。お勧めも何も、味がわからないんだから、
教えてあげることなんて無理よ。
・・・・・・私が注文したのは、あれ、だから。
たぶんそれなりに栄養バランスを考えられたお弁当だと思うわ。
・・・・・・ごめん、佐和子。はい、これお財布。
悪いけど、お金払って、お弁当も貰ってきてくれない?
ここのお弁当は、私が奢るから。
私は、外で待ってるわね」
そう佐和子に告げると、麻理は、店内から逃げるように出て行く。
口元を抑え、俯き加減で出て行く様は、事情をある程度知っている佐和子に
新たなる不安を与えるには十分すぎるる状況であった。
佐和子「はい、お財布」
二人分のお弁当が入った袋を片手に、佐和子は財布を差し出す。
麻理「急に店から飛び出しちゃって、ごめんなさい」
佐和子「気にしてないわ。でも、家に戻ったら、しっかり話してもらうわよ」
麻理「わかってるわ」
麻理は、財布を受け取ると、少し青白い顔で力なく答えるのであった。
家に着くころには、麻理の顔色も回復し、その足取りも軽くなっている。
麻理の体調が回復する一方で、佐和子の懸念は増すばかりであったが、
今の麻理に強引に全てを聞き出すことなんて、佐和子にはできはしなかった。
佐和子「本当に大丈夫? 少し休んだ方がいいんじゃない?」
麻理「大丈夫よ。いつもの事だから」
佐和子「そう? ならいいんだけど」
麻理「さてと、聞きたいんでしょ」
佐和子「まあ、ね」
麻理「だよね。・・・・・・外で食事できないのは、いったわよね」
佐和子「ええ」
麻理「食事を見るのも臭いを嗅ぐのも無理なのよ。
仕事の時は集中しているから大丈夫なんだけどね。
でも、オフのときは無理・・・かな」
佐和子「それって、そうとう・・・・」
麻理「重症よね。・・・野菜中心にしているのは、特に意味はないわ。
ただ健康に良さそうな物を選んでいるだけ。
できるだけ体が拒否反応を起こしにくい消化がいいものを選んでいるだけよ。
だから、お肉が無理ってわけでもないわ」
佐和子「そっか。色々考えてはいるのね」
麻理「まあね。でも、あまり意味はないみたいだけど。
さあて、そろそろ食事にしましょうか」
麻理の掛け声にあわせ、佐和子もお勧めのお弁当を若干の期待とかなりの不安と共に開く。
麻理は今まで味がわからなく、見た目でしか判断できていなかったが、
佐和子曰く、そこそこ美味しいらしい。
ダイエットに向いているし、毎日は無理でも、たまに食べる分には十分すぎる美味しさを
兼ね備えているらしかった。
佐和子「NYにまできて、精進料理みたいなの食べるとは思わなかったわ。
もっとジャンクで、おにくぅって感じのをガツガツ食べると思ってから、
これはこれで貴重な体験かもね」
佐和子は、一人お弁当の感想を述べ続ける。
麻理があまりにも無言でもくもくと食べるものだから、場を持たせようと佐和子も
必死であったのだが、それが今回のちょっとした失敗をおびき寄せた。
佐和子「私も日本に戻ったら、こういうお弁当探してみようかしら。
日本も健康ブームが飽きずに続いているし、案外美味しいのもあるかも・・・・・。
ねえ、麻理。顔色悪くない?」
麻理「ごめんなさい。・・・・・・ちょっと休ませて」
麻理は、弱々しい声で呟くと、ふらふらとソファーに倒れ込む。
小さく足を抱え込むように横になると、テーブルに置かれたリモコンをとろうと
必死に手をのばす。
佐和子「はい、このリモコンでいい?」
麻理「うん」
麻理は、リモコンを受け取ると、再生ボタンを押し、演奏が始まるのを確認すると
深くソファーに沈み込んでいった。
佐和子「大丈夫?」
返事はない。佐和子の声さえ聞いているのも疑わしかった。
けっして演奏の音量が大きいわけでもない。
そのギターの演奏は、静かで、ゆっくりと語りかけてくように音を紡いでいた。
佐和子「麻理?」
やはり麻理からの返事はなかった。
麻理は、世界を拒絶する。たった一つの光を除いて、大切な生きがいの仕事さえも
この時ばかりは外の世界に置き去りにしていく。
ここにあるのは、ギターの音のみ。
彼が奏でるギター演奏が、麻理の心を癒していく。
4分ほどのギターソロが終わり、リピート再生が始まった。
そして、同じ音色を規則正しく奏でていく。
何度となく聴き、すべての息遣いさえも覚えてしまった麻理にとっては、
全てが完璧に構成された世界であった。
三度目のリピート再生が始まるころ、麻理は、ゆっくりと体を戻し、
二人だけの世界から、通常の世界へと帰還する。
佐和子「麻理? 聞こえてる?」
麻理「ええ、もう大丈夫」
まだうつろな目をした麻理に、佐和子は心配そうにのぞきこむ。
いつの間にかに麻理の傍らに佐和子は寄り添ってはいたが、
麻理には佐和子が側にいた事さえ気が付きはしなかった。
佐和子「私は聴いた事はないけど、このギターって、北原君のよね?」
麻理「ええ、そうよ。北原に無理を言って送ってもらったCDのコピー。
本当はヴァレンタインコンサートのDVDだけだったんだけど、
私が無理を言って、ギターだけの音源も送ってもらったのよ」
佐和子「北原君なら、喜んでギター弾いてくれたんじゃないかな」
麻理「だったらいいわね」
佐和子「大丈夫よ。あの北原くんなんだから」
麻理「そうね・・・・・・。でね、精神安定剤飲まないって言ったでしょ。
その答えがこれなの」
佐和子「えっと・・・、どういうこと?」
佐和子は不思議そうな眼で麻理を見つめていたが、答えに気がつくと
急激に顔をこわばらせていく。
麻理「北原のギターを聴いているとね、心が落ち着くの。
ご飯を食べても、食べているときは大丈夫なのよ。
でもね、御覧の通り、食べ終わると、急に気持ち悪くなっったり
お腹が痛くなるのよね。
でも・・・・・・・、大丈夫よ」
佐和子「大丈夫って、それってつまり」
麻理「北原のギターを聴いていれば、気持ち悪いのも忘れてしまうのよ。
だから、精神安定剤はいらないの」
佐和子は、気がついてしまった。
だから、もはやこれ以上の言葉は絞り出せなかった。
だって、それは、精神安定剤以上に常習性が強くって、
一度取り入れたらやめることができない悲しい麻薬。
もはや北原春希に依存しなければ生きていけなくなってしまう。
もう後戻りなど、できやしなかったのだ。
麻理「電車もね、食事をしているわけじゃないのに、もし気持ち悪くなったら
どうしようって思っちゃって、それが自分で自分の首を絞めることになるというのに、
結果として気持ち悪くなることもあるのよ。
だから、何度も途中の駅で降りた事もあるわ。
だって、電車って密室で、急に降りたりできないじゃない」
もはや佐和子は、麻理の一人語りを聞くしかなかった。
麻理「でもね、北原のギターを聞いていると、今いる自分を忘れられるのよ。
電車に乗っているのも忘れられるし、気持ち悪いのもなかった事になる。
だから、電車に乗るときはいつも北原のギターを聴きながら乗ってるわ。
もう駄目ね、私。北原がいないと生きていけないかもしれない」
麻理も、佐和子に聞かせるのではなく、自分に語っていたのかもしれなかった。
北原春希という精神安定剤は、世界中を探しても、たった二人にしか効果はない。
でも、きっともう一人の彼女には必要はないはず。
だって、彼女には彼がいるもの。
今は離れていても、必ず彼は彼女の側に寄り添い、支えていく。
もし彼女に何かあったとしても、彼が直接癒せばいい。
まやかしによる精神安定剤など、必要すらないだろう。
強い依存は、さらなる依存を引く寄せる。
それは最初に依存してしまった者の意図とは異なっていたと思える。
こんな悲劇を引き寄せるだなんて、彼も思いもしなかったはずだろう。
日本にいる誰もが、NYにいる彼女が世界を拒絶していたなんて気がつかないでいた。
佐和子 麻理宅 3月29日 火曜日
麻理「殺風景だけど、この部屋使ってね」
佐和子がこの家に訪れ、荷物を置きに来た時も感じたことだが、
誰かを迎え入れる為に用意したとしか思えない部屋だった。
ベッドしかなく、物悲しい雰囲気を漂わせているものの、床を見れば綺麗に磨かれている。
ベッドの白いシーツは、新品を用意してくれていた。
他の部屋も見せてもらったが、物が置かれていない部屋はこの一室のみであった。
そもそも友人を泊めるにせよ、日本ではこんな部屋は用意していない。
あるのは予備の布団くらい。
普段使っていない部屋があっても、そこには荷物が山積みだったし
いくら部屋を掃除する習慣ができたとしても、荷物を置かない部屋などありはしない。
つまり・・・・・・。
佐和子「ねえ、この部屋について、まだ説明してもらってないんだけど。
・・・でも、言いたくないんなら、また別の機会でもいいわよ」
もはや麻理は隠し事をする気もなかった。
同様に、佐和子においても、強く説明を強要しようとなど考えてもいない。
順を追って、必要な時に必要な情報を開示する。
佐和子にとって、今一番恐れている事は、強引に麻理の心をこじ開け、
その結果麻理が二度と心を開かなくなる事であった。
だから、麻理のペースでやっていくしか道はなかった。
麻理「この部屋は、北原がゴールデンウィークに来るって言ってたから」
佐和子「そう・・・・・・」
麻理「うん」
佐和子だって、わかっている。
たった数日泊まるだけの為に部屋を一部屋多く用意するなどありえないと。
年に数回遊びにくるとしても、それはいきすぎた準備である。
たとえこの部屋で生活する事を前提にしてたとしても・・・・・・。
佐和子「そっか・・・。ねえ、麻理」
麻理の体が硬直する。これから佐和子が追及するかもしれないという恐怖心が
麻理の体と心を堅く身構えさせてしまう。
その目に宿った脅えの色に、佐和子はどうしようもないやるせなさを感じてしまう。
ここまで親友を変えてしまった彼を、恋愛面では評価できる面もあるが、
総合評価としては、どうしても偏った評価をせざるを得なかった。
たとえ麻理の休眠中の恋愛体質を引き出したにせよ、たとえ実らない恋であったにせよ、
もっとプラスの方向に引き寄せてあげられなかったのかと。
佐和子「今日一緒に寝てもいいかな。
ほら、NYって思ってたよりも寒いじゃない。
それに、まだもうちょっと麻理と話していたいかなぁって思ってね」
麻理「ええ、枕だけ持ってきて」
麻理はぎこちない口調で答えると、頼りない足取りで寝室へと佐和子をおいて
進んで行く。
その後ろ姿に、佐和子は一抹の寂しさを感じざるを得なかった。
佐和子「起きてる?」
隣に寝ている麻理からは、寝息は聞こえてこない。
暗い室内に薄っすら浮かぶ親友の横顔を見つめ、何度目かの決心をようやく言葉にできた。
佐和子の呼びかけに、麻理は瞬きを数度繰り返してから、天井をまっすぐ見つめた。
麻理「起きてるわ」
佐和子は、麻理の方にと体を沈ませ、体の向きを変える。
わずかに揺れるベッドのマットに、麻理は身じろぎひとつ起こさない。
でも、佐和子の言葉に、麻理の心は大きく揺れ動くのだろう。
けっして心穏やかにいられるはずもないが、麻理の親友として、
佐和子は言わなければならなかった。
佐和子「ねえ、麻理」
麻理「起きてるって」
佐和子「そのままでいいから、聞いてくれるかしら」
麻理「・・・・・・・・・・」
麻理の体が堅くなるのを、羽根布団から伝わってくる動きから敏感に察知する。
しかし、麻理は、佐和子に背を向けてしまう。
佐和子は、麻理の心の準備ができるまで静かに待った。
数分後、麻理が佐和子に向き合うと、佐和子はゆっくりと、努めて優しい口調で
厳しい現実を麻理に突き付ける。
佐和子「北原君はさ、きっとNYまで麻理を助けに来てしまうわね。
あの子の事だから、麻理が一人で歩いていけるまで側にいてくれるわ」
麻理「北原にだって、大学があるし、来年は就職よ。
そんなのは、・・・・・・無理・・・に決まってる」
麻理は、布団から半分だけしか顔を出していなかった。しかも、声も小さい。
だから、布団の中から発せられる麻理の声は、くぐもってよく聞こえるはずもない。
しかし、これだけの悪条件が重なっても、佐和子には、はっきりと麻理の声が聞こえていた。
佐和子「本当に、そう思ってる?」
麻理「・・・・・・」
佐和子「ねえ、麻理? 麻理は、絶対北原君なら来てくれるって確信してるんじゃない?」
麻理「来てくれるかもしれないけど、ずっとそばにいてくれるはずなんてない。
大学も仕事もあるんだから」
佐和子「ほんとうに?」
麻理「しつこいわね」
佐和子「だったら、私の方が北原君の事、よく知ってるって事になるわね。
最近仕事終わりに食事する事も増えてきてるからかしら」
麻理「ちょっと! たしかに北原の近況を知りたいから、佐和子に様子見てくれって
たのんだわよ。でも、佐和子。あんた、北原にちょっかい出してないでしょうね」
隠れていたと思ったに、突然勢いよく布団から出てくるんだから。
北原君の事となると、ブレーキが壊れちゃうのよね。
佐和子「ちょっかいなんて出していないわ。
彼ったら、目の前に麗しい美女がいるっていうに、話すことといえば
あなたのことばかりよ」
麻理「そう? なんて言ってたのかな?」
布団からせり出した体を布団の中に戻した麻理は、恐る恐る彼の情報を集めようとしていた。
佐和子「あんたねぇ・・・・・・。自分で言っちゃってなんだけど、
少しは突っ込み入れなさいよ。言ってるこっちの方が寒いでしょ」
麻理「え? 佐和子、何か言ったの?」
佐和子「はぁ・・・・・・・」
佐和子は、深く、深くため息をつくと、麻理と同じ目線になるべく布団にもぐる。
ただ、麻理と違って、口元を布団で覆ってはいなかった。
佐和子「何も言ってないわよ。あんたがNYへ行っても、ろくに連絡もしてこないから
心配してたわよ」
麻理「そうなんだ。心配してくれてたんだ」
佐和子「たまに私が電話しても、仕事で忙しいってことしか言ってこないでしょ、あんた」
麻理「それは事実だから、しょうがないじゃない」
佐和子「それはそうだけど、新しい住居がどうとか、食事がどうと・・・・・ごめん」
麻理「かまわないわ」
佐和子「うん。・・・・・・ねえ、麻理」
麻理「うん」
佐和子「本音では、来てくれるって思ってるんでしょ」
麻理「うん」
佐和子「きっとかなり無理目な難題だって乗り越えて、NYまできてしまうわよ、彼」
麻理「うん」
佐和子「責任感が強いってこともあるけど、それだけじゃないんでしょうね」
麻理「うん」
佐和子「愛情に近い感情かしら?」
麻理「・・・・・・うん」
佐和子「もうっ、のろけちゃって」
佐和子は、麻理に襲い掛かり、脇をつついたりくすぐったりして、
麻理の心を解きほぐす。
麻理も佐和子の攻撃に若干の抵抗はするものの、されるがまま身を任せていた。
佐和子「でもね、麻理」
麻理の頭を、胸で包み込んで優しく抱きしめている佐和子には、
麻理の体が堅くなっていくのが感じ取れた。
佐和子「北原君は、あなたの状態がよくなって、一人で歩いて行けるのを確認したら
冬馬さんの所へ行ってしまうわ」
麻理「うん」
佐和子「あなたの事だから、笑顔で送り出してあげるんでしょ」
麻理「うん」
佐和子「うん」
佐和子の腰に麻理の手が回され、佐和子の体は強く引き寄せられる。
佐和子もその力に合わせて、麻理の痩せすぎた体を壊れないように抱きしめる。
佐和子「私は、ずっと麻理の側にいるからね。
あんたがおばさんになって、おばあちゃんになっても、いつも側にいるから」
麻理「うん」
佐和子「うん」
麻理「でも、私がおばちゃんになったら、あなたもおばあちゃんよ」
佐和子「今、それ確認する必要ある?」
佐和子があきれ顔で呟くと、そっと麻理は微笑んだ。
儚くも美しい幼女のような頬笑みに、佐和子の心がざわついた。
今まで見たこともない表情に、驚きを隠せない。
それは、窓から差し込んだ月明かりの幻想だったのかもしれない。
もう一度佐和子が確認しようと、その顔をみつめようとするも、
麻理は佐和子の胸に顔をうずめていた。
佐和子「ほんと、北原君って不思議よね。
麻理との付き合いは長いって自負していたのに、
まだまだ知らない麻理がいたんだから」
麻理「え? 何て言ったの?」
佐和子「な~んにも」
麻理「なにか言ったわ」
佐和子「ん? 知りたい?」
麻理「別にいいわよ」
このちょっと拗ねた顔なら、何度も見たことがある。
普段はしっかりしているくせに、ちょっといじめるとふてくされるんだから。
それがかわいいってこともあって、いじめちゃうのよね。
だから、この顔を失わせない為にも、北原君、頼んだわよ。
佐和子「麻理って、かわいいなぁってことを言ったのよ」
麻理「ふぅ~ん。北原の事言ってたじゃない」
佐和子「こら、麻理。聞こえてたんなら、聞きなおすな」
麻理「全てが聞こえてたわけじゃ、ありませ~ん」
夜がにぎやかに過ぎてゆく。
この日初めて、この部屋から明るい声が漏れ響いた。
それは、小さすぎて、耳をすまさなければ聞こえないのかもしれない。
それは、小さく、儚く、そして大事そうに呟いた声色で、
そっと耳に記憶していかなければ聴きとることなんてできやしないのかもしれない。
聞く者によっては、彼女らの声は、儚すぎるほどの悲痛なしゃぎ声だったのかもしれない。
けれど、虚勢を張った小さな泣き声が聞こえない夜は初めてであった。
かずさ ウィーン 冬馬宅 3月14日 月曜日
ゆっくりとゆっくりとだがウィーンでも冬の終わり迎えようとしていた。
さすがに朝晩は冷え込み、冬の終わりなどまだ先だとコートの襟元をきつく締めるが、
昼間になれば、心地よい日差しが眠気を誘うようになってきている。
但し、一日中エアコンが効いた室内でピアノに向かっているかずさにとっては
もはや季節の移り変わりなど、とるにたらない情報にすぎないが・・・・・・。
それでも時間があれば毎日のようにやってくる母曜子の服装を見れば季節の移り変わりや、
その日のイベントなどがわかりもしたが、
それさえもかずさにとっては意味をなさない情報であった。
といっても、母が来ているときのピアノの音色は、
一人でいるときよりも陽気で小生意気な音色が混ざり合ってるのだが、
その事を知っているのは曜子ただ一人であり、
曜子もそれをかずさに伝えようとはしなかった。
なにせ曜子と同じようにちょっと捻くれている娘でもあるわけで、
仮に伝えたとしても決して認めないだろうし、かえって意固地にもなってしまうだろう。
だったら、曜子の心の中にとどめて、曜子一人がその小さな秘密を楽しんだ方が
建設的であり、そしてなによりも愉快でもあるともいえた。
そして、この日も曜子はかずさに季節のイベントを届けようとしていた。
かずさ「いつまでもそこに立っていられると迷惑なんだけど」
曜子「そう? いつも私がいても、いないのと同じような扱いじゃない?」
かずさ「ピアノに集中しているだけだ。
それでも、ずっとそんなところにつったっていられると目障りだ」
実際、曜子が立っていようが座っていようが、かずさが気にする事はない。
ただ、曜子の様子がいつもと違うから気になってしまう。
曜子が部屋に入ってきてからすでに一時間は過ぎたというのに、
いつまでもかずさから曜子の姿が全て見える入り口でずっと立っている。。
普段なら、黙ってそのままソファーに腰をかけている。
ときたま二言三言その日見つけたスウィーツの話題を振ってくるくらいで、
黙って入口の側で立っているなんて異常だ。
だから、かずさのピアノの音色には、陽気さも小生意気さも混ざらず、むしろ
疑惑や困惑がにじみ出てしまっていた。
そんな微妙な変化も、曜子にとっては格好の獲物であり、にやにやと娘を見つめるだけで、
その状況を楽しんでいるわけでもあるのだが・・・・・・。
曜子「そうかしら? 別に私がどこで演奏を聴こうが勝手じゃない。
それともコンサートやコンクールに、自分が気に食わない客がいたら
演奏がおろそかになってしまうのかしら?」
かずさ「そんなわけあるか。
あたしはいつだって同じ気持ちでピアノに向き合っている。
だから、どんな状況であろうと、たとえあんたがコンクール前日に
くたばったとしても、いつもと同じように演奏できるさ」
曜子「そっか」
曜子は、舐めまわすようにかずさを上から下まで視線を這わすと、すっと目を細める。
そして、おもむろにずっとかずさに見えるように持っていた白い紙袋を肩に這わせ
ソファーに向かっていく。
一歩、一歩、ゆっくりと進む様は、さらにかずさの心を逆なでする。
曜子の指先にかかった紙袋は、曜子が一歩足を進めるごとに揺れ動いて、
それされもなぜだか無性に腹が立ってしまった。
かずさ「座るんなら、とっとと座れってくれ。
そんなわざとらしく歩かれると、気になってしょうがない」
曜子「そう? 別に私のことなんて気にしないんじゃなかったかしら?
たとえ私が死んでも、いつも通り演奏するらしいんだから
たとえ私がわざとらしく歩いたとしても、いつも通り演奏すればいいじゃない」
しかも、今度は挑発的な笑みを従えて、挑発する言葉を投げかけてくるんだから
もはやピアノに集中などできやしない。
それでもかずさは意地でも演奏を止めないあたりは、似たもの親子であった。
たとえ本人達は認める事はないかもしれないが、彼女らを知っている者に聞けば
全員一致の解答を得られるはずだ。
かずさ「もう勝手にしてくれ。あたしは練習があるから、邪魔だけはするなよ」
そう宣言すると、曜子の返事も聞かずに演奏に没頭しようとした。
曜子「ふぅ~ん・・・・・・」
曜子は、わざとらしくつまらなそうにつぶやくと、ごそごそと白い紙袋から
金色のラッピングがされている箱らしきものを取り出す。
そして、するすると金色のリボンをほどいていく。
すると、ほどなくして中から金色の箱が登場する。
いくら曜子の行動を視界の外に追い出そうとしても、わざとらしく行動するものだから
かずさはその様子が気になってしょうがなかった。
曜子も、かずさが時折視線を向けるのを確認しながらラッピングを剥いでいったが、
かずさがまんまと曜子の作戦に乗ってきてくれるものだから、
曜子は笑みをかみ殺す方に必死であった。
そして、曜子は、箱におさまっている小さな物体を一つつまみあげると、
かずさに見せびらかすように聞く。
曜子「ねえ、かずさぁ。あなたも食べるぅ?
たぶん、すっごく美味しいわよ」
かずさ「いらない。あたしは練習に忙しいんだ」
曜子「そう? じゃあ、食べてもいいのね?」
かずさ「勝手にどうぞ」
曜子「ふぅ~ん・・・。あとで泣いても知らないわよ?」
かずさ「しつこいぞ。食べたいんなら、勝手に食べればいいだろ」
かずさは、そう切り捨てると、曜子に向けていた視線も全て打ち切ろうとした。
曜子「はぁ~い。勝手に食べますよぉ~だっ」
曜子は綺麗に小さな物体の包み紙を剥いでいくと、中の茶色い物体に軽くキスをする。
曜子「いただきま~す」
かずさ「はい、はい。どうぞ」
もはやかずさは曜子を見ていなかった。
見ていないどころか、目を閉じていたのだから何も見えないのだが。
曜子「うぅ~んっ。美味しいわね。さすがベルギー王室御用達のチョコレートね」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「2個目も食べちゃうわよ?」
かずさ「だから、勝手にどうぞ」
曜子「はぁ~い。・・・・・・・でも、春希君も律儀にもホワイトデーに間に合うように
お返しを送ってくるんだから、まめよねぇ」
ピアノの音が途切れる。
それもそのはず。なにせグランドピアノの椅子には演奏者がいないのだから。
つい数秒前まではいたはずなのに、曜子の言葉が終わるや否や、
椅子を押し倒して曜子が座るソファーへと駆け出していた。
かずさ「ちょっと待てっ! ねえ、ストップ!」
曜子はかずさが駆け寄ってくるのを確認すると、
今度もわざとらしくチョコレートを口に放り込む。
かずさは、それと止めようと必死に手を伸ばしたが、曜子のほうも、
かずさの動きを読んで行動しているわけだから、かずさの手が惜しくも届かないあたりで
わざとらしくチョコレートを口の中へと入れていた。
かずさ「あぁあ~~! なんで食べるんだよ。ねぇ、ねぇったら」
曜子「うん、美味しいっ」
かずさは、半泣きでその場に崩れ落ちそうになるが、曜子の手にはまだチョコレートが
詰まった箱が握られているのを確認すると、もう一度曜子に襲いかかろうとする。
曜子「はい、ストップ。そんな手荒い方法で掴み取ろうとしたら、
せっかくのプレゼントがぐちゃぐちゃになってしまうわよ」
この一言は、十分すぎるほどかずさには効果があった。
再び曜子にあと数センチというところまで迫ったというのに、
かずさは再び手を伸ばすのをやめるしかない。
かずさ「うぅ~・・・・・・・」
曜子「にらんだって無駄よ。だから、食べたいかって聞いたじゃない」
かずさ「春希からだなんて聞いてないっ!」
曜子「私は、食べたいかって聞いたじゃない?」
かずさ「春希からだなんて聞いてない」
曜子「だって、今日はホワイトデーよ。そのぐらい察しなさいよ」
かずさ「えっ? 今日、ホワイトデーだったの?」
かずさは、間の抜けた顔をして、曜子に今日の日付を尋ねてしまう。
なにせかずさは、本当に今日が何日かわかっていなかった。
もしかすると、何月かさえわかっていなかったかもしれない。
曜子「少しは外の事も知っておきなさい。
ほんっと、あなたはレッスンに行く時くらいしか外に出てこないんだから」
かずさ「それだけピアノに集中してるってことだろ」
曜子「練習も大事だけど、外から受ける刺激もピアノを上達させるには大切な事よ」
かずさ「それなら問題ない」
曜子「なによそれ。あなたの生活を見て、どうやったらそう判断できるのよ」
かずさ「たった二ヶ月ほどだったけど、日本での生活は何年分にも匹敵するはずだよ。
ううん、それ以上に大切な日々だったんだ。
だから、これから2年部屋に閉じこもって生活したとしても全く問題ない」
曜子「へぇ、言うようになったじゃない。
でも、何年分にも匹敵するって言っておきながら、
二年しか引きこもっていられないのね」
かずさ「そ、それは・・・・・・」
かずさは、曜子の視線から逃げるように顔をそらし、恥ずかしそうに呟く。
曜子も、最近ではかずさの扱いに慣れてきたのか、かずさから言葉を引き出す為に
余計な横槍を入れるような事はしなかった。
但し、かずさは恥ずかしさのあまり気が付いていなかったが、
かずさを見つめる曜子の視線は、いやらしいほどにニヤついていた。
かずさ「2年以上も春希にあえないでいるのは、あたしが耐えられないだろ。
だから、さっさとコンクールで満足がいく結果を残して、
胸を張って春希に会いに行くんだ」
曜子「へぇ・・・ふぅ~ん」
意外にもあっさり曜子が欲しい言葉を手に入れることができたので、
曜子はもはや手加減などしない。
横槍も入れるし、挑発もする。なにせ面白におもちゃが目の前に転がっているのに
遊ばないだなんてもったいなすぎる。
かずさ「な・・・なんだよ」
曜子「べっつにぃ。私は、相槌を打っただけよ」
かずさ「なんか含みがある言い方だったぞ。言いたい事があるんなら言えばいいじゃないか」
曜子「言ってもいいの?」
かずさ「いや、言わなくていい」
曜子「そう?」
かずさ「そうだ・・・って、チョコレートッ!
春希のチョコレート、勝手に食べやがって!」
話が逸れていたが、再び春希のチョコレートを思いだしたかずさは、
再び曜子に襲いかかろうと低く身構えたが、
春希のチョコレートを傷つけてはいけまいと動けないでいた。
かずさ「春希のチョコレートを盾にするだなんて卑怯だぞ。春希のチョコレート返せ」
曜子「返せって、心外ね。このチョコレートは、私のよ」
かずさ「何を言ってるんだ。春希からのヴァレンタインのお返しだって言ったじゃないか」
曜子「そうよ」
曜子がすまし顔でこたえるものだから、かずさの怒りはますます増すばかり。
あと数十秒このままの状態であったら、多少春希のチョコレートに傷がつこうが
襲い掛かって奪い取っていたかもしれなかった。
かずさ「だったら、あたしのチョコレートじゃないか」
曜子「な~に言っちゃってるの。
こ・れ・は・・・、
私が春希君にあげた義理の母親からの義理チョコに対するお返しよ」
かずさ「は?」
かずさは、意外な解答に怒りが霧散してしまう。
曜子が何をいっているのか理解できなかった。
自分宛へのチョコレートではないことは、どうにか理解できたのだが、
それ以外は頭で理解しようとしても、ぽろぽろと頭から抜け落ちてしまっている。
曜子「そういう顔していると、ただでさえお頭が弱いのに、余計馬鹿っぽくみえちゃうわよ」
かずさ「え?」
もう曜子の言葉を理解することもできなかった。
かずさは、首をかしげて、ぼけっと曜子が持つチョコレートの箱を見つめていた。
あたしへのチョコじゃないんだ。
えっと・・・、母さんへの、お返し?
義理の義理チョコ?
は?
ああ、義理の母親があげた義理チョコか。
なんだ、そうか。
じゃあ、その義理の母親の娘へのチョコレートは、どうなったんだ?
あたしも春希にヴァレンタインのチョコあげたのに・・・・・・。
なんで、母さんにだけはお返しがきて、あたしにはきてないんだ?
義理?
義理チョコだから、お返しがきたのか?
あたしのは、本命チョコだから、お返しくれないってこと?
それって、あたしのことが邪魔ってことなのかな?
だって、本命なんだぞ。
あたしは、春希が大好きなんだぞ。
それなのに、そんなあたしが渡した本命チョコはいらなかったってことなのか。
そうか、義理なら義理でお返しできるよな。
でも、本命だったら、好きでもない相手から貰っても、迷惑なだけ・・・・・・・
曜子「かずさ?」
曜子の呼びかかけにかずさは返事をすることはない。
もはや曜子の言葉など、かずさには届かないでいた。
曜子「かずさったら。ねえ、なんで泣いてるのよ」
かずさの急変に曜子は取り乱してしまう。
手に持っていたチョコレートの箱はソファーに置き、慌ててソファーの下に腰をおろして
かずさの様子を伺った。
かずさの顔を覗き込むと、頬にうっすらと細い透明な線が刻まれていた。
細い線だったのも数秒だけで、今はあふれ出た涙によって太く刻まれていく。
曜子「かずさったら」
かずさ「え?」
曜子に肩を揺さぶられることによってようやく今いる自分を取り戻す。
しかし、あふれ出る感情を押しとどめる事はかずさには無理で、
際限なく湧き出る悲しみに、嗚咽を漏らすしかできなかった。
曜子「どうしちゃったのよ。いきなり泣き出して」
かずさ「だって……だって、春希はあたしへのお返しはくれないんだろ。
それってつまり、あたしとは付き合えないってことじゃないか。
・・・・・・やっぱり大晦日の日の見栄なんか張らないで春希に
会っておけばよかったんだ。
そうだよ、ウィーンになんかに戻らないで、日本にいればよかったんだ」
曜子「ちょっと、ちょっと待ってよ、かずさ。ねえったら」
勝手に自己完結していくかずさに追いつけない曜子は、ただただ慌てることしかできない。
そうこうしているうちに、このままほっといたら、今にもかずさは家を飛び出して
本当に日本に行ってしまう勢いでもあった。
曜子「あるわよ。ちゃんとかずさの分のチョコレートもあるわよ」
かずさの目の前に突き出された紙袋の中身を恐る恐る覗きこむと
曜子のいう通りチョコレートの箱らしき包み紙と、もうひとつ細長い包み紙が入っていた。
かずさ「これ、春希からあたしに?」
曜子「そうよ、春希君からあなたによ。もうっ、ちょっとからかっただけなのに
見事に大暴走しちゃって。ちょっとは日付感覚くらいは持ちなさいよ」
かずさ「しょうがないだろ、コンクールに向けて頑張ってるんだから」
曜子「それはわかってるけど」
かずさ「母さんがいけないんだぞ。
毎日練習に励んでいるあたしをからかおうだなんてするから。
それも春希を絡めてくるだなんて最低だな」
曜子「ちょっと待ってよ。こうやってあなたの為に春希君にヴァレンタインのチョコを
渡してあげたから、今日ここにお返しが来たのよ」
かずさ「それはありがたいとは思ってるけど、やっていい冗談と悪い冗談がある。
あたしに対して春希関連は全て冗談にはならない」
曜子「そうはっきり宣言されちゃうと困っちゃんだけど、
たしかにそうだから困ったものね」
かずさ「だろう? だったら最初から素直にチョコレートを渡せばよかったんだ」
偉そうに説教をするかずさに、曜子は何か釈然としない。
さっきまでこの世の絶望に叩き落とされた顔をしていたと思ったのに
いまは鼻息荒くチョコレートを抱きかかえている姿を見れば、
だれだって釈然としないだろう。
曜子「もういいわ。私が悪かったわ。反省してる」
かずさ「わかればよろしい」
かずさの偉そうな態度に曜子は白旗をあげたが、
久しぶりに見たかずさの生き生きとした顔をみると、
ちょっとやりすぎたかなと本当に反省していた。
曜子「ねえ、チョコレートは同じみたいなんだけど、その細長い方のだけは
私のには入ってなかったのよね。
だ・か・ら、それちょうだい」
かずさ「あげるわけないだろ!」
曜子がにじり寄ってくる姿を見て、かずさは急いで逃げようとする。
その姿を見て、またしても曜子は子憎たらしい笑顔を見せる。
数秒前に「反省」したというのに、
どうやら曜子には「反省を生かす」という文字は存在していないらしい。
曜子「嘘よ、嘘。でも、中身は気になるから、教えてくれないかしら?」
かずさ「本当にあげないからな。見せるだけだぞ」
かずさは疑い深い目で曜子を観察するが、いたっていつも通りのひょうひょうと
している曜子の姿に、深くため息をつくしかなかった。
かずさ「……わかったよ。見せるだけだからな」
そうかずさが宣言すると、曜子はいそいそとかずさの隣に陣取って、
かずさが包み紙をあけるのと好奇心一杯の目でその時を待った。
かずさ「犬?」
包み紙を丁寧にあけると、中には棒付きのキャンディーが一つ入っていた。
何か犬のキャラクターみたいで、行儀よくお座りをしている。
かずさは、角度を変えてキャンディーを眺めるが、
これといってなにか特別なことがあるようには見えなかった。
それでも、春希がくれたものだから、とても大切なものには違いはないが。
曜子「なるほどねぇ」
かずさ「なにがなるほどねぇだ。わかったんなら、さっさと教えてよ」
曜子「へぇ。それが教えを請う者の態度なの?」
かずさ「おしえてくださいおかあさま」
一刻も早くキャンディーの謎を知りたいかずさは、なにも感情がこもっていない棒読みの
セリフではあるが、曜子に教えを請う。
そんなかずさの態度も計算通りなのか、曜子は一つなにか満足すると
素直にかずさに教えてるのであった。
曜子「教えるのはいいんだけど、その前にホワイトデーの品物の意味って知ってる?」
かずさ「意味って、マシュマロとかキャンディーをヴァレンタインのお返しとして
おくるだけだろ?
ヴァレンタインと違って、お返しだから、本命とか義理なんかはないと思うけど」
曜子「それだけ?」
かずさ「それだけ?って、ホワイトデーなんて、ヴァレンタインのお返しの日なんだから
他に何があるっていうんだ」
曜子「だから、お返しの品物自体に意味があるのよ」
かずさ「は?」
本当にかずさはわかっていないらしい。
間の抜けた顔をして、曜子を見つめていた。
曜子「まあ、俗説みたいなもので、あまり意識しない人も多いみたいだけど、
ホワイトデーのお返しって、何を思い浮かべる?」
かずさ「あれだろ? キャンディーやマシュマロくらいだろ?」
曜子「そうね。あとクッキーも定番ね。それを考えるとチョコレートを贈った春希君は
ちょっと異例だけど、チョコレートを贈るのも間違いってわけでもないのよね」
かずさ「何が言いたいんだよ」
なかなか話が進まない曜子に、かずさはいらだちを見せ始める。
そもそも曜子が素直にチョコレートを渡していればという根本にまで遡って
怒り出しそうな勢いも垣間見え始めていた。
曜子「だから、キャンディー、マシュマロ、クッキーには意味があるのよ」
かずさ「へえ・・・」
曜子「へえって、本当に知らなかったの?」
かずさ「だって、今回のヴァレンタインで初めてチョコレートを送ったんだから、
知るわけないだろ」
曜子「そうだったの?」
かずさ「そうだったんだよ。送った事もないんだから、お返しも貰ったことがない。
だから、貰いもしないお返しの意味なんて、興味を持つわけないだろ」
曜子「へえ・・・」
かずさ「へぇって、当たり前だろ。あたしは春希しか興味がなんだ」
曜子「なるほどぉ、そういう意味もあるわけだ」
曜子は、また勝手に自分一人理解するものだから、かずさのフラストレーションは
再び急上昇してしまう。
おそらく、そのすべての言動が曜子によって意図的になされ、
かずさをおちょくっているだけなのだろうが。
かずさ「もう、話さないなら母さんには聞かないからいい」
曜子「ちゃんと教えてあげるわよ」
かずさがいじけた顔をして顔をそらそうとするものだから、
曜子もそろそろ虐めるのはよしたようであった。
曜子「キャンディーはね、あなたのことが大好きですっていう意味よ」
曜子は、そのあともマシュマロやクッキーの意味も語っていたが
もはやかずさの耳には届いてはいなかった。
なにせ、遠い日本から愛のメッセージが届いたのだ。
今のかずさにこれ以上の重要事項があるだろうか。
曜子は、夢心地の愛娘を見て、今度は本気で虐めすぎたかなと
今日何度目かの反省をするのであった。
曜子 ウィーン 冬馬邸 3月14日 月曜日
曜子「ちょっと、かずさ。お~い、・・・戻ってきなさいよ」
かずさ「あ、なに?」
春希からのキャンディーをもらえた事で顔が蕩けきっているかずさの肩を
おもいっきり揺さぶることでようやく意識を取り戻したが、
相変わらずにやけきっているかずさに、少しあきれてしまう。
だって、キャンディー一つでここまで喜んでしまう経験なんて今まで一度も
経験したこともないし、そこまで純情な気持ちなど、とうに消えてしまっているもの。
曜子「あくまで可能性を言っただけよ。
ただなんとなく私へのお返しとの違いを出す為に、
なんとなく目の前にあったキャンディーを買っただけかもしれないのよ」
かずさ「別にそれでもいいよ」
曜子「えっ? そうなの?」
意外すぎるかずさの解答に、素で驚いてしまう。
どこまで色ぼけているのよって、さらにからかってもいいけど、
それさえも色ぼけた答えを返されそうで、こっちのほうが参りそうね。
日本から戻ってきてから、なんだかこの子変わったかしら。
なんかこう、言葉では表現しにくいんだけど、純情で、まっすぐで、
でも奥手で・・・・・・。
ううん、それは前からそうだったわね。
むしろ、それに磨きがかかったわね。
なんで私からこんなにも可愛らしい子が生まれたのかしら?
もしかして、放任主義が功を奏したのかな? なんて・・・。
まっ、ピアノにプラスに働いているうちは大丈夫そうね。
かずさ「だって、ここにキャンディーがあるってことが重要なんだ。
偶然でも、春希があたしにキャンディーをくれたっていう事実に
意味があるんだよ」
曜子「あぁ、はい、はい。のろけ話ね」
私は、運命なんて信じやしない。
チャンスがあるんなら、自分の力で勝ち取らないと成功などしやしないって
経験上何度も味わってきたから。
黙って行動しないで、幸運が向こうからやってくるのをひたすら待つだなんてナンセンスよ。
それでもこの子の事を見ていると、運命をちょっとは信じてもいいかなって思えてくる。
それに、この子も自分の力で幸せを掴み取ろうとしてるしね。
かずさ「いいだろ、別に。
こっちは会いたいのを2年も我慢しないといけないんだからな」
曜子「順調にいけば2年だけどね」
かずさ「だから本番のジェバンニ国際ピアノコンクールの前に
NY国際コンクールにでるんだろ」
曜子「たしかに曲目も似通ってるし、
ジェバンニの前哨戦として出場する人も多いわよね」
かずさ「だろ?」
曜子「だけど、NYはジェバンニの1年前の10月よ。
ジェバンニに絞って調整していくのもありだとは思うわ」
かずさ「そうかもしれないけど、いまのあたしにはコンクールの経験が不足してるだろ」
曜子「そうねぇ。NY以外のコンクールだと曲目が全く違うから時間の余裕が
なくなっちゃうけど、NYなら大丈夫か」
かずさ「だろ?」
曜子「それにNYって、スポンサーだけはいいのよねぇ」
かずさ「たしか1位になれば欧米のコンサートツアーやってもらえるんだっけ」
曜子「そうよ。むこうもジェバンニ前に優秀な演奏者を確保しておきたいっていう
下心がみえみえなんだけど、コンサートツアーは魅力的なのよね」
かずさ「ま、そのツアーも貰っておくよ。そうすれば事務所の社長としても
助かるだろ?」
曜子「それはそうだけど、まだまだあなたの稼ぎなんか期待していないわ」
かずさ「言ってろ。あと5年で逆転してやるから」
ほんと、今の調子でやられちゃうと、5年で私を追い抜きそうなのよね。
簡単には抜かされる気はないけど、伸びしろが違うっていうのは、年のせいなのよね。
成熟しきったといえば聞こえはいいけど、成長しにくくなってるっていうのは事実で、
ちょっとかずさが羨ましく思ってしまうわ。
って、年、年っていって、年齢のせいにするのはよくないわね。
チャンスと同じように、感性だって、ピアノの上達だって、
自分から動かないようでは、求めるものは得られないか。
そう考えると、かずさのこの頑張りようも、私にとってもプラス方面に動きそうね。
私は、密かにほくそ笑むと、ちょっと真面目な顔でかずさの話を進めた。
曜子「期待だけはしておくわ。でもツアーって、1位だけよ。
2位以下はお情け程度で数回演奏させてもらえるけど、
ゲスト出演程度で、まったく意味がないわ」
かずさ「わかってるって。そもそも1位しか狙ってない」
曜子「言うようになったわね。それだけの自信があるのは頼もしいけど、
たしかにNYで1位になれない程度じゃ、ジェバンニで上位に食い込めないのも
事実なのよね」
かずさ「ま、見てろって」
曜子「楽しみにしているわ」
いくぶん頼もしくなったかずさを微笑ましく見つめていたが、
それも数秒で霧散していく。
なにせ今目の前にいるかずさは、頬を赤く染めながら夢心地な表情をして、
北原春希について語っているときの表情そのものなのだから。
かずさ「それでさ、さっきの話なんだけど・・・・・・」
その言葉を聞いておもわず身構えてしまう。
たしかに春希君の話をかずさとするのは好きよ。
でも、それは春希君ネタでかずさをおちょくるとき限定。
これがかずさによる春希君ネタののろけ話になると、事態は一変しちゃうのよね。
まず、かずさは自分が満足するだけの会話量をこなさなければ私を離さない。
そして、その会話を途中で中断させようことなら、
あとあとが面倒すぎる事態になってしまう。
拗ねるし、話を聞いてくれなくなるし、機嫌を直すために、倍以上ののろけ話を
聞かなきゃいけないのよね。
本人はのろけ話などしているつもりはないみたいだけど、普段ピアノを通してのみしか
春希君と会話ができないのだから、その抑圧された欲求を一度解放してしまえば
その量が想像を絶する量となるのは当然なのかしら。
曜子「な・・・なにかしら?」
かずさ「だから・・・さ、お返しの意味だよ」
曜子「あぁ、あなたの心がどこかふわふわしちゃってたから聞いてなかったのね。
キャンディーが大好きでしょ。そして、クッキーが友達として仲良くしましょう。
で、マシュマロがごめんなさいよ」
かずさ「ちがうって、そっちじゃない」
曜子「どういうことかしら? だって、お返しの意味でしょ?」
かずさ「そうだけど、違うって。
だから、犬のキャンディーの意味が二つあるみたいな事言ってただろ。
一つ目の意味は大好きですだけど、二つ目の意味は何かなってさ」
曜子「それね。べつにたいしたことではないわよ」
よく覚えているわね。私も思い付きで言っただけなのに、春希君に関わる事だけは
記憶力が極限まであがるんだから、まいったものね。
かずさ「それはあたしが決めるから関係ない」
曜子「そうね。でも、これって私の思いつきにすぎないわよ」
かずさ「構わないって言ってるだろ」
曜子「わかったわよ。そんなに睨まなくてもいいじゃない」
かずさ「にらんでなんかいない。だから、さっさと言ってよ」
曜子「はいはい。犬ってご主人様に忠実なイメージがあるでしょ。
だから、春希君ってあなたのことを犬みたいに思ってるのかなって思っただけよ」
かずさ「そうなのか?」
曜子「そうなのかって聞かれても、あなたほど春希君に忠実な彼女はいないんじゃない?
だって、彼に会いたいがために一日中ピアノに向き合ってるんだもの」
かずさ「そう言われてみれば、そうかもしれないな。
でも、春希がそうあたしの事を思ってくれているんなら、
すごくうれしいかな」
曜子「でも、ほんとうに思い付きだからね。春希君がなんとなく買っただけって
こともあるんだから。むしろその可能性の方が高いくらいじゃないかしら」
かずさ「それでもいいって。これはあたしの気持ちの問題だ。
あっ・・・・・・・」
曜子「なに?」
かずさ「母さんも、あたしの誕生日プレゼントで犬のぬいぐるみをくれたこと
あったじゃないか。その時はどういう意味だったんだ?」
かずさの厳しい追及の視線にたじろいでしまう。
そんなプレゼントしたっけと、とぼけようとも一瞬思いもした。
しかし、かずさの部屋に飾ってあるのを何度も目にしているし、しかも、
かずさ自身が慣れない裁縫作業によって修繕しているのを聞いているのだから、
とぼけることなどできようもないか。
曜子「あれね、あれ・・・・・・」
かずさ「何だよ。もったいぶらずに言えよ」
曜子「だからね、・・・・・・あれは、ただ目にとまったから買っただけよ」
かずさ「ふぅ~ん」
曜子「ふぅ~んって、なんか意味深すぎる反応で、なんだか気になるわね」
かずさ「べつに。・・・・・・ただ、なんで目に留まったのかなって。
目に留まるって事は、なんだかの意識が働いているはずだろ」
曜子「なんだか最近鋭くなってきたわね」
かずさ「あんたと話していれば、自然とそうなっていくんだよ。
悔しかったら自分を恨む事だな」
曜子「ま、いっか。ほんとうに大した理由じゃないのよ。
私の後ろを健気についてくるあなたが子犬みたいだなって思っちゃって、
なんとなく目に留まったのよ」
私の解答を聞き終わると、かずさは手を顎にもっていき、無言で考えはじめてしまう。
そのあまりにも真剣な表情に、私はかえって心配になってしまった。
曜子「怒っちゃった? でも、悪い意味じゃないのよ。
健気に後ろを駆け回っている姿が、なんだか可愛らしいなって思ったのよ。
ね? 悪い意味じゃないでしょ」
かずさ「別に気にしちゃいないって」
曜子「そう? だったらいいのだけれど」
一応胸を撫でおろしはいたものの、まだなにか言い足りなそうなかずさを見て
完全には安心などできやしなかった。
曜子「まだなにか気になる点があるのかしら?」
かずさは顎にあてていた手をおろすと、まっすぐ私に視線を向けて語り始めた。
かずさ「あのさ、母さんも春希も、あたしのことを犬みたいに思ってるんだなって、
ちょっと思っただけだよ。
別に悪いイメージでもないから、悪い気分じゃないよ。
でも・・・・・でもさ」
そこまで一気に語ると、かずさはいったん視線を外す。
そして、再び視線を渡しに向けた時は、か弱い女の子がそこにはいた。
かずさ「いつもピアノを使ってあたしの気持ちを春希にぶつけてはいるけど、
生身の春希の気持ちは全然知らないだろ?
だから、今回のヴァレンタインのお返しで春希の気持ちがほんの少しでも
感じ取れたからさ、なんかちょっと恥ずかしいなって。
すっごくうれしんだけど、いつも一方通行だったから、
なんだから心が通じ合うのっていいなって」
曜子「もうっ」
私は思わずかずさを抱きしめてしまった。
だって、可愛すぎる娘がいるのだから、それを愛でたく思うのは当然よね。
こんなにも可愛い娘が私から生まれてきただなんて奇跡ね。
かずさ「苦しいだろ」
曜子「たまにはいいじゃない。親子のスキンシップも大切よ」
私の胸の中で暴れるかずさを無理やり抑え込んでいたけど、
しばらくすると観念したのか、かずさの体から力がぬけていく。
今は身を私に預け、少しぎこちなさが残るが、軽く抱きかえしてもくれていた。
そして、親子の距離を縮めるきっかけを作ってくれた春希君に対して、
私はそっと感謝した。
春希 春希マンション 4月5日 火曜日
昨夜の佐和子さんの話を思い返してみても、いまいち素直に受け入れられない部分がある。
俺のギターに麻理さんの心を癒すほどの効果があるとは思えないが、
それでも心の問題になると演奏の良しあしではないのかもしれないか。
・・・・・・依存か。
俺が麻理さんに依存してしまったから、麻理さんの日常を壊してしまった。
佐和子さんは話さなかったけど、
きっと気分が悪くなってしまうのは電車だけではないはずだ。
電車という閉鎖空間で、逃げ出すことができないから気持ち悪くなるって事は
言いかえれば、電車でなくても行動に制限がついてしまう状況なら
どんな場所でも同じってことじゃないか。
たとえば、車の渋滞なんてありえそうだな。
渋滞中に気持ち悪くなったら、車を路上に置いてどこかに休みに行くことなどできない。
そう考えると、極端な話、ビルの高層階でエレベーターが混んでいて
なかなか階下に降りられない状況だとしても、不安を煽る状態に自分で追い詰めてしまったら
たとえ閉じ込められた状態ではなくても危険って事じゃないか。
と、佐和子さんから聞いた麻理さんのとこを思い出しながら料理をしていると
危うく手を切りそうになる。
っと、危ない危ない。いくら最近料理をするようになったといっても、
考え事をしながらはまだ無理だよな。
しかも、考えれば考えるほど思考に没頭する内容だし、
今は料理に集中してさっさとこの後の面倒事も片付けるか・・・・・・。
麻理さんに料理を作ってあげた事をきっかけに料理をするようになったといっても
時間に余裕がある時しかしていなかった。
朝食は料理をするようになる前からも、適当に作って食べてはいたが、
最近では、コールスローやキャベツや玉葱の酢漬けなどを作るようにもなり、
テーブルの上も若干華やかさを持つようになってきている。
もちろん忙しい朝でもあるわけで、酢漬けを作っておくあたりが時間を
有効活用する春希らしい料理ともいえた。
昼のお弁当は、どうにかなるとしても、夕食が問題だよな。
バイトがない時は家で作るとしても、夕食はたいてい編集部で弁当だし、
こればっかりは夕食分の弁当を持っていくわけにはいかないしなぁ。
編集部の冷蔵庫に入れておいて貰うっていう手もあるけど、
個人が勝手に使うわけにもいかないし、さすがに夕食は弁当買うしかないか。
春希「うわっ」
今度こそ危うく手を切りそうになるも、今回もどうにか難を逃れることができた。
いくら料理だけに集中しようとしても、どうしても頭の中に考えるものを
詰め込んでおかなければ、考えてしまうことがある。
それは避けては通れない事柄でもあり、このあと電話をしなければならないことでもある。
佐和子さんの手前では簡単だし、事務的な連絡だから大丈夫とは言ったものの、
いざ実家の母に電話するとなると、いささか不安をぬぐいきる事は出来ないでいた。
お弁当を用意し、朝食も食べ終わると、
そろそろ母に電話するにはちょうどよすぎる時間が訪れてしまう。
高校時代までの経験ではあるが、今の時間帯ならば母に電話してもつかまるだろう。
今のタイミングを逃せば夜になってしまうし、そうなればかえって電話しにくく
なってしまうのも事実である。
だからこそ、気持ちに迷いがあったとしても、今電話しないわけにはいかなかった。
携帯をいじり、いつもは素通りする母のアドレスを呼び出すと、発信ボタンを押す。
発信ボタンを押して、呼び出し音が鳴っている今であっても、
母が電話に出なければいいと思ってしまう自分がいる。
そう、高校時代の自分ならば、大学に入って間もない自分であったのならば、
こうまでも母を意識することなどありえなかったはずだ。
なのになぜ今になって母を意識してしまうのか、自分ではわからずにいた。
春母「もしもし」
久しぶりに聞いた母の声は、自分の中にある無関心を装う母の声とは違っていた。
こうして母に電話をかけたのはいつ以来だったのか、
思いだそうとしても思いだせない。
そもそも高校時代であっても、いくら帰りが遅くなろうと母は関心をみせはしなかった。
だから、電話で遅くなると伝えることもなかったし、メールで連絡する事さえ
必要としていなかった。
今こうして考えてみると、母と電話で会話するのは、最後にいつしたのかさえ
完全に忘れてしまうほど珍しいシチュエーションといえる。
電話口から聞こえてくる母の声は、無関心を装う声でも、自分が小さいころの
温かい家庭であった時の母の声とも違う、まるで初めて聞くような母の声であった。
しかし、知らない母の声であるはずなのに、どこか懐かしさを感じてしまうのは
どうしてだろうか。
春希「朝早くからごめん。ちょっといいかな?」
春母「かまわないわ」
春希「ありがとう。それで、今夜会ってくれないかな?」
春母「大丈夫よ。でも、仕事があるから、少し遅くなるけど、それでもいいかしら?」
春希「こっちがお願いする立場なのだし、会ってくれるだけで十分だよ」
春母「そう?」
春希「じゃあ、今夜そっちにいくから」
春母「ええ、家で待っていてくれると助かるわ」
春希「うん、じゃあ、また」
春母「ええ・・・・・・・・・・・」
電話が切れない事にやや不安を覚える。こちらから電話を切っていいものなのだろうか?
こちらから電話をかけたわけだし、要件は既に伝え終えた。
電話のマナーとしても電話をかけた方から切るべきだ。
だったら、自分からとっとと電話を終了してもいいのだが、
どうも自分から電話を終了する気にはなれなかった。
もちろん、正しいマナーがあったとしても、上司や目上の人に対する礼儀によって
逆になる事もあるが、今はそれとも違う。
だったら何故?
そうこうやきもきしていると、電話口のむこうから再び声が聞こえてきた。
春母「ねえ、春希」
春希「はい?」
春母「もしかして、会ってほしい人がいるのかしら?」
春希「は?」
間の抜けた声が朝の物静かな部屋にぽつりと落ちる。
正直、母が何を意図して言ったのか、理解するまで数秒かかった。
だが、それも数秒後には、いっぺんに全てが理解できた。
はっきりいって、嫌な汗が体を這い廻り、母が言いたい事の意味が怒涛のごとく
頭の中を駆け巡ったほどだ。
たしかに普段まったく会話をしてこなかったわけで、
こちらから電話をかけた記憶もほぼない状態だ。
そんな親子関係でありながらも、朝から会ってほしいと電話したわけなのだ。
しかも、大学4年になって、就職だけでなく、もしかしたら結婚の話だって
あってもおかしくはない年齢でもあるわけで・・・・・・。
春希「違うから。結婚じゃないから」
俺は大慌てで否定するしかない。
もしかしたら、母が少しは好意的に電話をしていたのかもしれないのも
結婚話を念頭に入れてたからか?
そうならば、悪いことしたな。
春母「そうなの?」
春希「そうだよ!」
春母「そう・・・。まあいいわ。そろそろ時間だから切るわね」
春希「ごめん、時間とらせてしまって」
春母「いいわ、べつに。それじゃあね」
春希「それじゃあ」
今度はどちらからともなく電話を切ることができた。
ただ、電話が終わったと思うと、急に疲れた噴き出してくる。
これからバイトだというのに、一日分のエネルギーを消費してしまった気もする。
おもわずそのまま座りこみそうになったが、このまま座ってしまっては
もうバイトに行かず、再び携帯を手にして休みの連絡を入れてしまう誘惑と
戦わなければなりそうだ。
もちろんそんな誘惑には打ち勝つ自信はあるが、それでも誘惑に打ち勝つ為の
エネルギーを考えると、もはやバイトどころではなくなってしまう。
春希「さてと、行きますか」
俺は自分を奮い立たせる為に、わざとらしい掛け声をあげると、
勢いよく玄関に向かったのであった。
春希 開桜社 4月5日 火曜日
開桜社編集部。いつものように活気に満ち溢れ、せわしなく人が行き来している。
麻理さんがNYへ異動して一月が過ぎ去ったが、麻理さんがいたという形跡は
人の記憶にしか残っていないんじゃないかって思えてくる。
たしかに麻理さんが残していった武勇伝はみんなの記憶に刻み込まれはしているが、
企業としての開桜社からしてみれば、
麻理さんの功績などほんの数滴の雫にすぎないのだろう。
だから、もし俺が明日から編集部に突然来なくなったとしても、
編集部は動き続けると確信できる。
おそらく松岡さんや鈴木さんあたりはねちねちと不平を訴えるだろうし、
浜田さんもスケジュール調整に大あらわになってしまうことだろう。
しかし、それも数日も経てば、北原春希がいた形跡など開桜社からは消え去り、
ほんの数人の編集部員の記憶の片隅にへばりつくのがやっとだ。
もちろん、仕事帰りの飲み会で、俺の悪事を肴に盛り上がるかもしれないが、
それも一月も経てば麻理さんの存在と同じように、
北原春希がいないことが日常になってしまう。
少し感傷的に編集部内を見渡していると、松岡さんと目がかちあう。
俺の事を訝しげに見つめてくると、すぐさま俺の仕事を手伝えを訴えてくる。
だから、俺は曖昧な笑顔を向け、この後松岡さんの仕事を引き受けますと顔で返事をする。
仕事が一つ減った、いや三つ以上盛られる気もするが、
松岡さんは機嫌よく今ある仕事に戻っていく。
俺は、そんな「いつもの編集部の風景」を少し感傷的に体感すると、
決意を胸に上司である浜田さんのデスクへと向かった。
春希「浜田さん。少しお時間いいでしょうか?」
浜田「さっき渡した仕事に不備でもあったか?」
浜田さんから渡された仕事は、まだ半分も終わってはいない。
通常運転の俺ならば、もしかしたら終わっていたかもしれないが、
いつもの俺ではない俺にとっては、半分も終わったと言える。
でも、そんなことを伝えに上司の元にきたわけではない。
そして、浜田さんも俺のただならぬ雰囲気を察していた。
春希「いいえ、特に問題はありません」
訝しげに見つめるその目に、俺は言葉で態度を示さなければならない。
春希「会議室でお話しできないでしょうか?」
浜田「わかった」
そう短く返事をすると、浜田さんは無言で会議室へと進んで行く。
意外すぎるとほどあっさりと二人きりになれたものだ。
おそらく俺のただならぬ雰囲気から、なにかしら嗅ぎとってくれたのかもしれない。
途中、松岡さんや鈴木さんがなにがあったのか教えてくれと目で訴えてはきたが、
今は何も言えず、俺も無言で浜田さんを後を追うことしかできなかった。
あいにく小会議室は、他の本物の会議で使われており、
俺達は大会議室の片隅で向かい合うことになる。
時折廊下から聞こえてくる元気な声をよそに、大会議室は冷えきっていた。
これから話さなくてはいけない事を思うと、
寒さだけが俺の口を重くしているわけではないことは明らかであった。
俺は、これから浜田さんを裏切らなければならない。
それは決して開桜社の規則を逸脱する行為ではないにしろ、
浜田さんからの信頼を傷つける行為に他ならなかった。
俺は、手にしていた開桜社の規則本を広げ、広すぎる会議室に冷えきった声を響かせた。
春希「入社前海外研修制度を使いたいと考えています。
規定によれば、内定者が申告することによって利用できると書かれています。
もちろん厳しい審査があるみたいですが」
浜田さんは俺の顔を見やると、すぐさま規定が描かれている冊子に目を落とす。
ただ、冊子にかかれている内容を読んでいるみたいではなかった。
たんに入社前海外研修制度のページである事を確認したくらいだと思えた。
しかし、浜田さんがこの制度を知っているとは思えないが。
浜田「はぁ・・・」
浜田さんのため息が、ひっそりと漏れ出る。
覚悟をしてきたとはいえ、浜田さんの心情は手に取るようにわかってしまいそうで
それがかえって、俺を辛くする。
春希「自分の直属の上司になってくださったばかりだというのに、申し訳ありません」
浜田「はぁ・・・」
二回目のため息が俺の心にさらに重くのしかかる。
春希「すみません。でも、どうしてもNYに行きたいんです」
包み隠さず全ての事情を打ち明ける事は出来ないが、
情報開示を拒んで駆け引きをしている時間などはない。
俺は、駆け引きこそ浜田さんを裏切る行為に思えて、
開示できる情報は初めから全て開示するつもりでここにやってきていた。
頭を深々と下げて、浜田さんの返事を待っていたが、
俺を出迎えたのは三回目のため息であった。
浜田「はぁ・・・・・・」
俺は、さすがに不安に思えて、頭を上げると、さらに四度目のため息を目撃してしまい、
今日ここで行われるべき裏切り行為のシミュレーションとは違う方向へと
動きだしていることに、ようやく気がつく事が出来た。
春希「浜田さん?」
俺の呼びかけに、五度目のため息で返事をすると、浜田さんはようやく重い口をあけた。
浜田「風岡の言っていた通りだな」
春希「えっ?」
浜田さんを驚かす発言をするつもりで来たというのに、
結果としては俺の方が驚かされてしまう。
たしかにNYへ行きたいと言えば、麻理さんのことも話題にはなるが、
麻理さんが入社前海外研修制度について浜田さんに言っていたとは予想だにしていなかった。
浜田「だからな、北原はスケジュールがあわなくて、風岡が最後の引き継ぎに来た時には
会えなかったけど、その時風岡が冗談っぽく言ってたんだよ。
北原の事だから、この制度を使って、もしかしたらNYに行きたいって
言うかもしれないってな」
春希「麻理さんが・・・」
浜田「俺もさすがに冗談だと思ってたけど、風岡の読みはさすがだな」
俺は、驚きを隠せない。
浜田さんが知っていたというよりは、むしろ麻理さんが俺より先回りして
行動を起こしていた事に驚き、そして、嬉しくも思えてしまう。
どこまで俺を知り尽くしているんだよ。
俺をNYへ来させるために誘導していたのなら、別の反応をしたかもしれないが、
入社前海外研修制度を使うことに、ピンポイントで思い付くあたりがすごすぎる。
やはり仕事の上では、まだまだ追いつく事は出来ないかな。
まあ、仕事そのものじゃなくて、裏工作みたいなものだけど。
浜田「一応聞くけど、俺の下が嫌って事での申請か?」
春希「違います。今は詳しい事を言うことができませんが、けっして浜田さんの下が
嫌というわけではありません」
浜田「お前らしいな。こういうときは、嘘でも適当な理由をでっちあげればいいのに」
春希「そんな見え透いた嘘をついても、意味がないじゃないですか。
誠意というわけでもないですが、浜田さんには、とても感謝しているので
嘘はつきたくはなかったんです」
浜田「でも、本当の理由は言えないわけか・・・」
春希「はい。それだけは、すみません」
浜田「まあ、いいよ。風岡もその辺の事情についてははぐらかしていたしな。
一応このまま編集長に話しておくよ」
春希「ありがとうございます」
浜田「でも、俺もこんな制度聞いたことないし、使ってるやつなんて今までいるのか?」
春希「さあ? 俺もついこの間まで忘れていたほどですし」
浜田「いくら制度上あったとしても、形式的とまでは言わないけどさ、
前例がないと厳しいんじゃないか?」
春希「そうですよね。俺もそれだけが気がかりで・・・・・・」
俺も浜田さんも苦笑いを洩らすだけで、どうもこの制度の実効性に不安を覚えてしまう。
浜田「風岡の事だから、編集長にも根回ししていたりしてな・・・・・・」
浜田さんはそうぽつりと呟くと、豪快に笑おうとするが、俺の顔を見ると
笑うことができなくなってしまう。
俺が真剣な表情をして批難したわけではない。
むしろ、浜田さんの発言に同意している。
だから、浜田さんが冗談っぽくいった「風岡のことだから」が
あり得る事態だと実感してしまったわけで。
浜田「まさかな・・・」
春希「いや、あの麻理さんですよ」
浜田「でも、ありえるのか?」
春希「ありえるんじゃないですかね」
浜田「前例がないかもしれないんだぞ」
春希「前例がないんなら、制度の正当性と将来への投資を訴えそうですね」
浜田「はは・・・・・・」
乾いた笑い声が低く響くが、俺も浜田さんも笑うことなどできやしないでいた。
なにせ、前例がなくてもやり遂げるのが風岡麻理だ。
浜田「どう思う?」
春希「何がです?」
浜田「風岡がしっかりと根回しできているかだ」
そうですよね。それしかないとわかっているけど、聞かずにはいられないです。
春希「編集長が話を聞いていれば、根回しは完了しているでしょうね」
浜田「そうだな。だったら、編集長はすでに知っていると思うか?」
春希「もし賭けをするなら、編集長が知っているに全財産かけますね」
浜田「それだと賭けにならないだろ」
春希「ですよねぇ・・・・・・」
浜田さんが知っている時点で、全てが動き出していると判断すべきか。
もしかしたら、他にも手をうってるかもしれないけど、
その全てがNY行きと関わっているとは思えない。
むしろ逆方向の対策こそ入念に根回ししていると俺は確信できる。
NY行きを可能にする方法は、おそらくこれ一つ。
だったら、俺は、麻理さんとの賭けに勝ったってことか・・・・・・。
これは、喜ばしい事だけれど、それと同時に、選んではいけない選択だったのかもしれない。
浜田「なあ、いつからNYに行こうと思ったんだ?
NYに行きたいだなんてそぶりみせていなかっただろ」
浜田さんは、もうNYにいる麻理さんと勝負をしても勝ち目がないと諦めたのか、
目の前にいる比較的組みやすい俺へと目標を変えたらしい。
春希「昨夜思い付いつきました」
浜田「は? 嘘だろ。もし思い付きののりでNYに行きたいだなんていうんなら
風岡が何を言っても、俺は認めないからな」
春希「のりでとかそういうんじゃないです」
浜田「だよな。お前はそういうやつじゃないし」
春希「ありがとうございます。NYに行きたいと思ったのは昨夜なんですけど、
将来を考えたら、今しかないと思いまして」
麻理さんとの将来。そして、かずさとの将来を考えたら、今行動しなければ遅すぎる。
それがけっして皆が認めてくれるような結末ではないとしても。
浜田「若いうちしか無理はできないからな。
まあ、考えようによっては、今NYに行くのはキャリアを考えれば最善かもな。
運がいい事にNYには風岡もいるし、
向こうでの仕事もスムーズに入っていけるだろう。
それに、だな。俺もお前の事を評価しているんだぞ」
春希「はい、恐縮です」
浜田「もしこれが松岡みたいなやつが申請してきたら、説教して、
この場で申請を却下していたところだ」
春希「松岡さんだって、やるときはやる人ですよ」
浜田「それは、最近になってようやく危機感を覚えたからやるようになっただけだ。
しかも、その危機感も、危機に陥ってるのに慣れてしまって、
緊張感がなくなってきてるんだよなぁ」
浜田さんは編集部の方をちらりと見やると、
小さく今日何度目かわからないため息を漏らした。
春希「そ・・・それは、また新しい危機感を感じればきっと」
浜田「そうだといいんだけどな。風岡がいなくなって少しはやる気を見せてくれたのに
一カ月もたたないうちにだらけやがって。
今度北原がNYに行ったら、
また一カ月くらいは危機感を持ってくれればいいんだけどな」
それはご愁傷様です。
松岡さんも悪い人じゃないんだけど、浜田さんの気苦労を知ってるはずなのになぁ。
浜田「それで、いつから行く予定なんだ? 大学の方は大丈夫なのか?」
春希「一応8月からNYに行こうと考えています。
卒論もそれまでに終わらせますし、
卒業に必要な単位も前期日程で取り終わる予定です」
浜田「そうか。それなら、編集長にその旨も伝えておくよ。
話っていうのは、これだけか?」
春希「はい」
浜田「そうか。今度からは、もうちょっと早い段階から相談してくれよ」
春希「すみません」
浜田「風岡みたいにはいかないけど、一応お前の上司なんだからさ」
春希「はい」
少しさびしそうに編集部に戻っていく後姿を見ると、松岡さんだけでなく
俺も浜田さんの気苦労の一つであるんだと実感でき、少し嬉しく思えてしまった。