春希 春希自宅 4月5日 火曜日 19時前
今日は、夕方から用事があると言って、早々にバイトを切り上げていた。
実家に行き、母に引っ越しの了解を取らなくてはならない。
そして、麻理さんにも今週末にNYへ行く事を伝えねばならないでいた。
いきなりNYに行ったとしても、忙しい麻理さんの事だから会う時間が取れないとなると
何のためにNYに行ったのかわからなくなる。
そう考えると、火曜日という時点は、麻理さんが時間を調整できるギリギリのライン
ともいえるかもしれない。
NYとの時差は13時間だから、今は朝の6時前ってところか。
今の時間帯なら起きているはずだから、ちょうどいいかな。
・・・っと、電話をする前に、実家の鍵を探さないとな。
麻理さんと落ち着いて話をする為に自宅に戻ってきたともいえるが、
一番の理由は実家の鍵を取りに来ることであった。
実家の鍵なんて、実家を出てから一度も使っていない。
なによりも普段持ち歩く事もなくなっていた。
だから、実家に行くのならば、机の引き出しに無造作にしまいこまれている実家の鍵を
探し出さなければならないでいた。
厳重にしまいこんでいたのなら、念入りにしまいこんでいる分、わかりやすい場所に
鍵があるのだが、いかんせ机の引き出しに鍵がおさまるスペースがあったから
そこに無造作に入れていたとなると、その場所の印象は薄すぎる。
むろん鍵の存在を忘れる為に、意図的に行った行為なのだが、
今となってはその時の自分を呪いたいほどだ。
いつか使うかもしれないのに、それを母のと繋がりを消す為に、
子供じみたことをするなと、今の自分なら、何時間も過去の自分に説教できる自信がある。
もちろん過去の自分もその説教にまっこうから反論しそうだからやっかいだな。
俺は、過去の自分と今の自分が言い争っている光景を思いう浮かべ、
思わず苦笑してしまった。
と、誰もが遭遇したくない光景を妄想しつつ
机の中につまっている荷物を丁寧に机の上に並べていくと、ほどなく鍵は見つかる。
やっぱここか。予想通りの場所にあったことに、自分の諦めの悪さに再び苦笑する。
実家の鍵を忘れようとしても、実家の母を忘れようとしても、
どうしてもそれを忘れることができないと実感した瞬間でもあった。
さて、次は麻理さんか。
はたして麻理さんは電話に出てくれるだろうか?
佐和子さんから麻理さんの現状を聞かされていると、知っているはずだ。
だから、お互いなにか気まずい気がする。
電話の呼び出し音が鳴り始め、10コールくらいで出なければ諦めようかなと
デッドラインを心に決めかけたとき、それは無駄だと実感した。
麻理「もしもし」
春希「あ、あの・・・」
こんなにも早く麻理さんが出るとは思わなかった。
だって、まだワンコール目も鳴り終わってないぞ。
いささか気まずい雰囲気を自ら作り出してしまった事を後悔していると、
麻理さんは俺のそんな気持ちを気にする事もなく、話を進めていってくれた。
麻理「私がいなくなって、おはようの挨拶もできなくなったの?」
春希「いや、そんなことは。おはようございます。
でも、こっちはこんばんはですね」
麻理「そうだったわね。電話だから、ここがNYだなんて忘れそうよ」
春希「はい。いつも俺の側で仕事の指示を出してくれている状況だと、
錯覚しそうになってしまいます」
麻理「そうね。でも、この距離はゼロにはできないのよね」
春希「はい・・・・・・」
麻理「で、なんのよう? って、佐和子から聞いているんでしょ?」
春希「はい。今日は、NYに行く日を速めた事を伝えようと思いまして」
麻理「え?」
春希「ゴールデンウィークに行く予定だったのを前倒しにして、
今週末に行く事にしました。もし麻理さんの予定が会わないのでしたら
また変更します、ただ、元のゴールデンウィークの日程に戻すのは無理でしょうけど」
さすがに今さらゴールデンウィークを再び休暇にしてくれとは言えない。
俺と交換してくれた人の喜びようを見ると、どれだけゴールデンウィークに休暇を
とるのが難しいかが知ることができた。
それなのに、俺の都合で、それをなしになどできやしない。
麻理「それは大丈夫だけど、今週末っていうと土曜日あたりにくるのかしら?」
春希「金曜日の夕方に着く便があればいいかなって思っています。
このあと佐和子さんに連絡してみないとわからないですけど、
きまったら麻理さんにも伝えますね」
麻理「わかったわ。佐和子には、多少は無理をしてもチケットを取るように
お願いしておくわ」
なんだか、すっごく怖い笑顔をしている麻理さんが見えるのですが、幻想ですよね?
あまり佐和子さんに無理な要求はしないでくださいよ。
麻理「それで、北原。・・・・・・佐和子から私の事聞いているんでしょ?」
いつもの強気の発言も早々にトーンダウンし、今は一転して俺の出方を探るべく
弱気な口調に陥っていた。
春希「はい。佐和子さんから全部聞きました。
それと、佐和子さんは最後まで秘密にしようとしてたんですけど、
食後のギターのことも聞きました。
これは、本当に俺が無理やり聞き出したので、佐和子さんは悪くないです」
麻理「そう・・・・・・。別に秘密にしてって頼んだわけじゃないのよ。
たぶん佐和子が気を使ってくれたんでしょうね」
春希「そうですか。だったら、佐和子さんにもそう伝えておきます」
麻理「そうね。私の方からも言っておくけど、この後佐和子に連絡して
チケットとるんだったら、ついでに言っておいてくれると助かるわ。
でもなぁ・・・・・・」
春希「どうしたんです?」
麻理「うぅ~ん・・・。あのね、北原」
春希「はい」
麻理「北原は、あの話聞いてどう思った?」
春希「どう思ったと聞かれましても、俺のギターが役になってくれているんなら
嬉しい限りです」
麻理「それはそうかもしれないんだけどさ・・・・・・、あのね」
春希「はい?」
麻理「だからね・・・、重いとか思わなかった? 未練がましいとか」
そうか。だから、佐和子さんは、俺に話すのを躊躇したんだ。
麻理さんのかなわない思いを俺に背負わせない為に。
そして、麻理さんの思いを守る為に。
春希「そんなこと全然思ってないです。
むしろ、麻理さんに思って貰えるなんて歓迎です」
麻理「そういうことは、思ってても言うなぁ。
全く勝ち目がないってわかっていても、期待しちゃうだろ」
春希「すみません」
そうだよな。期待させるだけ期待させておいて、なにも叶えてあげられないんだ。
佐和子さんも言ってたな。しかも、強い口調で。
中途半端な態度は、麻理さんに失礼だ。
だけど俺は、何ができるんだろうか。
・・・・・・駄目だ。俺が迷っちゃ。
麻理「謝るな。私がみじめになるだろ」
春希「すみません」
麻理「だから、謝らないでよ。もう、自分でもみじめだってわかってるんだから
これ以上、これ以上私を・・・・・・・」
春希「麻理さん・・・・・・」
麻理さんの声が途切れる。
受話口を手で押さえているんだろうが、それでも麻理さんの嗚咽が聞こえてしまう。
泣かせてしまった。
大事にしようって決めていたのに。
守ろうって覚悟していたのに。
それなのに俺は、今なお麻理さんを傷つけてしまう。
迷っちゃ駄目だ。覚悟を決めたんだから、今一歩踏み込むしかない。
傷つくんなら、俺も一緒に傷ついて、少しでも麻理さんの痛みを和らげなければ。
麻理「・・・ごめんなさい。ごめんね、北原」
春希「俺NYに行きますから。8月になったら、入社前海外研修制度を使って、
NY支部に行きますから。それまで待っててくれませんか」
麻理「き・・たはら?」
春希「浜田さんから聞きました。麻理さんが根回ししてくれているって。
俺、麻理さんとの賭けに勝ちましたよ。
麻理さんは、俺が海外研修制度に気がつかないって踏んだみたいですけど
俺見つけましたから。
だから、俺の勝ちです。麻理さんがなんと言おうと
8月からNYに行きます。その為に今週末NYに行くんですから」
電話口からは、すすり泣く声は聞こえてくるが、一時のひっ迫した雰囲気は消え去っている。
声が少しかすれてはいるが、たどたどしく麻理さんが声を紡ごうとしていた。
麻理「なに、言ってるのよ。賭けに勝ったのは、むしろ私の方よ」
春希「麻理さん・・・・・・」
麻理「北原がNYに来る唯一の方法に期待していたのは、私の方なんだから。
もし、北原が大学や将来のキャリアをなげうってNYに来ようとしていたら、
私許さなかったんだからね。
絶対許さなかった」
春希「俺、間違った選択、しなかったんですね」
麻理「間違った選択にきまってるじゃない。
北原が選ぶべき選択肢は、ウィーンにいる冬馬さんに会いに行く選択肢よ。
だから、間違ってるに決まってるわよ」
春希「たとえ間違っていても、その選択肢を正しい結末にもっていく事は可能ですよ。
だって、俺は麻理さんに鍛えられてきましたから」
麻理「言うようになったわね」
春希「上司のおかげですね」
麻理「そうかもね。今度その上司に会わせてくれないかしら?」
春希「今週末なんてどうですか?」
麻理「そうねぇ・・・。ちょうど予定が空いているわ」
春希「それはよかったです。俺の上司も楽しみにしているはずですよ」
麻理「食事は、オムライスがいいわね」
春希「半熟なやつですね?」
麻理「それだとうれしいわね。それと、食後には、ギターを弾いてくれるとうれしいわ」
春希「ギターも持参していきますね」
麻理「・・・・・・」
再び嗚咽が受話口から漏れ出る。
だけど・・・・・・悲壮感はない。だって、喜びに満ち溢れた声が聞けたから。
たとえ、一時の痛み止めであっても。
麻理「待ってる。・・・待ってるから、春希」
春希「はい。待っててください、麻理さん」
俺がいる限り、麻理さんを癒すことができないってわかっている。
それでも俺達は離れられない。
麻理さんも俺を離さないでいてくれる。
それが心地よくて、お互いが求めあってしまって、かずさを傷つけてしまう。
俺は、かずさに誠実でいられるのだろうか・・・・・・。
麻理 NY 4月5日 火曜日 朝
北原からの電話が終わると、
その声が途絶えることに名残惜しさと一抹の不安を感じずにはいられなかったが、
それ以上の満足感が私を支配していた。
鏡は見てはいないが、きっと蕩けきった女の顔をしていた自分がいたにちがいない。
佐和子が見ていたら、いや絶対に佐和子にだけではこんな私は見せないけど、
その後一週間くらいはぐちぐちネタにされていたって自信を持って言える。
もうすでに電話は途切れはしているのに、電話を離すことができないでいた。
さっきまでこの電話から北原の声が聞こえてきて、
そして私の声を北原に届けてくれていたと思うと、
電話を見つめるたびに顔が緩みきってしまうわ。
・・・・・・・なんて、のろけている場合じゃない・・・か。
だって、北原から電話がきて、
思わずワンコールも鳴り終わってもいないのに電話に出ちゃったのよね。
つい反射的に出ちゃったけど、北原が気味悪がったりしていないかしら?
もし、北原がそんな風に私を見ていたら、私生きていけないわよ。
次電話が来た時は、2コールくらいは待った方がいいわね。
ううん、3コールかしら?
ふつうは、何コールくらいで電話に出るのがいいの?
え? 私って、今まで北原以外の電話の場合、どうしていたっけ?
あれ? 考えれば考えるほど、わからなくなってしまうわ。
通常モードの仕事をしている私からしてみれば、
想像もできないほど使えない私になってるわね。
どうしても北原が絡んでくると、一般的な事柄でさえ、うまく考えられなくなるのよね。
でもこれも全て、佐和子がいけないのよ。
もしかしたら北原から電話が来るかもしれないから、
心の準備だけはしときなさいねって言ったのが悪いのよ。
そわそわして、落ち着かなくて、なんとなく電話をいじってたら
本当に北原から電話がかかってくるんですもの。
もし北原から電話が来るとしたら、タイミングとしてはさっきの時間が一番可能性が
高いって思ってたけど、あまりにも計算通りで、私の方が驚いちゃったのよね。
相手の都合を気にしてしまうのが北原らしいっていったら、北原らしいのだけれど、
ある意味かたぶつって言うのかしら。いえ違うわね。マニュアル通りっていうわね。
だから、北原の行動は読めてしまう。
北原の行動が読めなかったのは、・・・読みきれなくなって制御不能になってしまったのは、
私が北原の事を愛してしまったことくらいかしら。
あぁ、もうっ。佐和子がいけないのよ。
佐和子が意識させるからいけないの。
って、なに一人で悶えているのかしら。
そろそろ編集部に行く準備をしないとしけないのに。
私は、一人上機嫌で朝の支度を進めていく。
朝からのスケジュールを頭の片隅で確認しながら、身なりを整えていく。
ただ、本当に頭の片隅でしか仕事のことは考えてはいなかった。
だって、ほとんどの領域で北原の事を考えていたんですもの。
最後に言った言葉が忘れられない。自分でも驚いているわ。
たぶん、これで二度目ね。
私が北原の事を、「春希」って呼んだのは・・・。
北原は、どう思ったのかしら?
こういう時、何も言ってこないのよね。
諦めて、適当に流しているって事はないわよね?
あぁ、もうっ。
なんだって朝から北原の事ばかり考えているのかしら。
そうよ。北原が朝から電話してきたのが原因よ。
・・・まあ、私の事を気遣って電話してきてくれたんだし、
しかも、大きな決断を北原に強制させてしまったのも私なのよね。
きっと、あいつのことだから、悩んで悩んで悩みきったに違いないわ。
でも、北原の事だから、私が育てた北原の事だから、今は真っ直ぐ進んでいるわ。
だって、大事に育てたんですもの。
・・・・・・・その北原のキャリアを台無しにしそうにしているのも私か。
何が正解で、何が間違いかだなんて、今の私には判断できない。
判断できないけど、彼女と同じように、私にも、
北原がいないと駄目だってことだけは理解できてしまう。
朝から大事な打ち合わせもあるのに、全然仕事モードに切り替わらないわ。
だから、私が春希の事を考えてしまうのは、北原が悪いんだ。
仕事モードに切り替わらないと、いつも北原の事を考えてしまうわね。
もう、ある意味病気ね。
今まで仕事ばかりしていたせいで、正常な恋愛ができなくなってしまったのかもね。
それとも、これが私の本質なのかしら。
本来の私は、恋愛に熱中するあまりに、男に溺れるタイプだったりして。
あまりにも笑えない冗談だから、いやよね。
本当に恋愛だけが私のすべてだとしたら、きっと北原は私を見てはくれないか。
そもそも開桜社で仕事をして、誰よりも仕事に打ち込んでいたから北原に出会えたのだから、
仕事人間ではない私とは、北原は出会うことができなかったわけか。
そう考えると、仕事人間になって、恋愛が下手でよかったとも言えるのよね。
まあ、そんな仮定の話を考えている時点で痛い女、か。
仕事があっての私で、仕事があるからこそ恋愛依存症の私が隠れていた。
だとしたら、仕事に打ちこめているからこそ正常な私を維持できているってことね。
そのバランスが崩れてきたって事は、誰のせいでもない。私のせい。
だって、北原のせいにしたって、佐和子のせいにしたって、それは言い訳でしかないわ。
一番悪いのは、心が弱い私のせいなのだから。
朝の忙しい日常は、思いにふけっていても、日ごろの習慣から無意識にこなされていく。
顔を洗い、食事をして、歯を磨く。いつもより時間がない分、無駄なく動いていた。
スーツを着て、メイクをばっちり終えるころには、いつもの出かける時間に
合わせるあたりが、麻理の仕事人間たる仕様だろう。
だから、麻理は気がつかなかった。
北原春希の事を考え過ぎていた為であるだろうが、
朝食を取っても、まったく気持ちが悪くならなかった事に。
麻理がその事を気が付いたのは、夕食のときであった。
春希 春希実家 4月5日 火曜日 夜
後ろ髪を引かれる中、麻理さんとの電話を切ると、そのまま佐和子さんに連絡をいれた。
色々聞かれると覚悟はしていたが、まだ仕事中だという事で、
チケットの手配だけをお願いして早々に電話を切ることになった。
おそらく佐和子さんは後で麻理さんに電話をして、
根掘り葉掘り俺との電話の事を聞き出すのだろう。
その辺の佐和子さんからの追及は麻理さんを生贄にするとして、俺は実家へと向かう。
若干責任放棄で責任のなすりつけを後ろめたくは感じてしまうが、
こういった話は男の俺とよりも女性同士の方がいいと思いこむ事で責任感を放棄した。
さて、実家まで来たが、母の言う通りまだ母は帰って来てはいないようだ。
一応マンションの下から電気がついているか確認しており、留守は確認済みだ。
もし、母が既に帰ってきているとしたら、それはそれで家の中に入りにくかったかもしれない。
これから会う約束をしている人物なのに、留守である事にほっとするなんで
ちょっと倒錯した感情を抱いてしまうのは、
やはり母子の間の距離感が生み出す溝みたいなものができながっていた。
だから、実家の鍵を鍵穴に入れるときは他人の家に勝手に入る印象を持ってしまった。
むしろ麻理さんの部屋に、部屋の風通しをする為に
麻理さんが留守中に入る方がよっぽど気楽で落ち着きをもてていたと思う。
それでも女性の部屋で、しかも麻理さんの部屋だという事で
違った意味でのドキドキ感が満ち溢れてはいたが・・・・・・。
しばらくぶり過ぎる実家は、多少の変化をもたらしているのではと多少身構えていた。
しかし、家の中に入ってみれば、高校時代と何も変わっていなく、
ある意味拍子抜けではあった。
高校時代のように、誰のいない部屋に踏み入れると、
そこには誰もいないいつもの空間が俺を待ち受けていた。
それは、何度も経験してきた儀式であり、誰もいない事が当たり前になるように
仕向けられた空間でもある。
それでも一か所だけは大きな変化をもたらしている。
俺がこの家から出ていくという大きな変化は、
俺が引っ越した時作り上げた変化のまま時が止まっていた。
静かな部屋を明かりをつけながら進んで行くと、
自然とかつての自分の部屋の前まできていた。
部屋の扉を開けると、そこはがらんとしていて、何も置かれていない。
一応明りをつけてもう一度しっかり確認したが、
家具どころか、小さな小物さえなかった。
それでも何も置かれていないかつての俺の部屋を見渡すと、
実家を出ていった日に見たカーテンだけが俺がいた痕跡を示している。
改めて俺の部屋だったこの空間を見つめれば、
なにかしら感傷的になるかともここに来る前に考えはしていた。
だけど、俺の想像外の展開に、感傷的になる事さえできないでいる。
どうして母はこの部屋を使わないのだろうか?
余っている部屋があるのなら、新たな目的の為に有効活用できるし、
新たな目的がなくても家の家具を分散することで、
今まで以上にゆったりとした住居空間が作り出せるはずなのに。
だから、手つかずのまま放置されるよりも、
なにか他の部屋に生まれ変わっている可能性の方が断然高いはずだと考えていた。
それなのに、俺の部屋は、俺が出ていた日のまま時が止まっている。
複雑な心境を整理できないままかつての俺の部屋に一歩踏み入れると、
定期的に掃除されているのが伺えた。
もしかしたら何かしらの為に使われているのかもしれないが、
使われていない部屋特有のじめっとした空気は感じられない。
掃除するくらいだったら、なにかしら有効的に使えばいいのに。
そう思いこまずにはいられなかった。
そう思いこもうとせずにはいられなかった。
しばらくすると母から9時過ぎには帰宅すると連絡がきたが、まだ9時までには時間がある。
普段の俺ならば、待ち時間に大学のレポートやら課題をやっているはずだ。
しかし、あいにくそういった時間つぶしのツールはない。
自分の部屋ならば、なにかしら見繕えるが、ここはかつての俺の部屋であるわけで
今は何もあるはずがない。
自宅から何かもってきてもよかったが、そこまで気がまわらなかったというのが真相だ。
だったら、掃除でも食事の準備でもしようとは考えはした。
麻理さんの部屋ならば、とくに考えることもなく体が動いたことだろう。
けれど、何度も確認してしまうが、ここはかつての俺の家だ。
好き勝手やれるわけではない。
この実家に戻ってこようってことさえ、自分勝手なことなんだ。
だから俺は、母が帰ってくるまで、
永遠と繰り返される自問自答を繰り返すしかなかった。
玄関のカギ穴に鍵が差し込まれる音が俺の耳が捉える。
時計を見ると、9時を少し過ぎたところだった。
部屋の中に入ってきた母は、特段変化があるわけでもなく、
高校時代に見た姿のまま現在の俺の前に立っている。
春母「話があるそうね」
ただいまも、久しぶりねもなしか。期待していたわけではない。
期待はしないが、挨拶くらいは人間関係を築く上には必要じゃないか?
だから、これがいつもの母子関係だと、かつての感覚を思い出させてくれた。
いや、この母子関係って、どちらから作り上げたんだろうか?
機械的に共同生活を送ってきてはいたが、円滑に事が進められるように、
それなりの人間関係を作るのが俺じゃないか?
それなのに、母を透明人間のように扱ってきたのは、俺だったのか?
春母「どうしたの? ぼおっとして」
春希「ごめん。久しぶりに戻って来たんで、ちょっと」
春母「そう。それで、話って?」
今は、実家に戻ってこれるよう、交渉の方に集中しないと。
やっぱり、久しぶりの実家は、俺でも感傷的になるんだな。
そう俺は無理やり結論付けて、目の前の母に意識を集中させることにした。
春希「いきなりで悪いんだけど、この家に戻ってきたいと思うんだ」
春母「いつから?」
春希「できれば来週から」
春母「わかったわ」
春希「ありがと・・・・・、えっ? いいの?」
あまりの交渉進行の速さに思考がついていかない。
実家という悪条件を加味しても、あまりにも俺の脳は減速していた。
それに、母がこんなにもあっさりと実家への出戻りを許すとは思いもしなかった。
いや、俺に関心を持ってない母ならば、同居人が戻ってこようと
関係ないって事なのだろうか。
春母「いいも悪いも、ここは春希の家でもあるのだから、私が反対するわけないわ」
春希「そう・・・。それなら、ありがたく戻ってこさせてもらうよ。
それはそうと、俺の部屋は何も使ってないんだね。
しかも、綺麗に掃除されているから、驚いたよ」
そう言ってしまった後に、しまったと気がつく。
饒舌すぎる。緊張しているといっても、あまりにも母に対して饒舌すぎる俺に、
俺は驚きを隠せなかった。
緊張が失敗をうみ、失敗が俺をさらに狼狽させる。
実家に戻ってくると決めてから、空回りしている自分がそこにはいた。
春母「あの部屋は、あなたの部屋なのよ。私が勝手に使うわけにはいかないわ」
春希「いや、でも。空いている部屋なんだし、何かしら使えばよかったのに。
しかも、使ってないのに、掃除までして」
春母「息子の部屋くらい掃除するものよ」
どうしてだろうか? なにかが昔とは違う。
こうして母を目の前にしてみると、違和感を感じずにはいられなかった。
それは、俺が大学に入学して、一人暮らしをし、バイトをして、
さまざまな大人を見てきたからだろうか。
麻理さんに出会い、仕事面においても、人間関係においても、
容赦なく鍛えあげられたって自負している。
その結果、まがりなりにも責任ある仕事まで任せられるようになったことで
高校生の俺と、今の俺とでは視野が違い過ぎていた。
だからこそ、母が高校生の幼稚に反抗している俺に合わせてくれていたんだって、
今の俺なら理解できてしまう。
でも、なんで今さら気がついてしまうんだよ。
顔がかっとあつくなってしまいそうであった。
高校時代までは、お互いの事に無関心だと思っていた。
正確に言えば、今の今までそう思っていた。
今までは、無関心なまでに、無関心を装うことを意識していたともいえる。
今朝、母に電話した時、
あの時は母の顔を見えないから油断していて、無関心を装う事を忘れていたのかもしれない。
しかも、今なお久しぶりの会話ともあって、昔の感覚を完全には取り戻せないでいる。
だからといって、今さら母と慣れ合うつもりはない。
母には、母なりの人生があって、今までも、そして、これからも俺が干渉する気はない。
俺が干渉してはいけないんだ。
ただ、今こうして母を目の前にしてしまうと、高校時代の俺は、必死に肩肘を張って
かたくなな態度を母に取っていたのではないかと感じてしまう。
大人であり、俺の母親でもある母は、大人の対応として無関心を装い、
浅はかな幼すぎる高校生をやっている俺に合わせてくれていたんだ。
そう考えてしまうと、もしかするとお互い無関心である母子を母に演じさせることを
強制させてしまったのは、俺の方なのか?
俺が母子関係を崩壊させた原因があると思えてしまう。
もちろん母も父との関係がうまくいかなかったことで、子供に対して母親としての
申し訳なさがあったのだろう。それが後ろめたくて、俺に合わせてくれたのかもしれない。
全ては推測だ。だけど、目の前の母を見ていると、この推測が正しいってわかってしまう。
だったら、俺が無関心を装うのをやめれば、
もしかしたら、良好な母子関係を築く一歩になるのか?
しかし、こんなにもひねくれ過ぎて育ってしまった俺には、今さら良好な母子関係なんて
築いてはいけないし、どうやって築いていくかもわかりやしない。
・・・・・・・なんだ。高校時代にかずさに偉そうに言っておきながら、
自分の方こそ親子関係に困り果てているじゃないか。
冬馬親子の関係のもつれやすれ違いを、馬鹿げた大したことはない事だって
言い捨てておきながらも、今になって自分がかずさと同じ立場になるなんてな。
但し、俺とかずさとの差は、かずさは母である曜子さんと仲を改善して、
今は仲良くやってる事か。
本人達にそれを指摘したら、きっと全力で否定されるんだろうな。
ほんと、素直じゃない親子だよ。
素直じゃないけど、俺達親子ほど捻くれているわけでもない。
だから、素直になれたかずさを、俺は尊敬するし、少し羨ましくもあった。
春希「ありがと」
春母「・・・・・・・」
少し驚いたような表情を見せる母に、俺は自分が言った言葉にようやく気がつく。
感謝の気持ちなんて、最後に言ったのはいつだったか覚えてもいない。
形式的な感謝の言葉なら、何度も言ったとは思う。
そんな形ばかりの感謝の言葉ではなく、
自然とこみあげてきた感謝の気持ちを母に向かって言葉にするだなんて。
でも、俺は今さら母との関係を修繕することなんてできない。
あまりにも遅すぎたし、母も望んではいまい。
それに、俺だって、どうやって修繕すればいいかなんてわからない。
・・・・・・えっ?
なんで俺は、母との関係を修繕したいって思ってるんだ?
無関心なまでに無関係な母親なんだぞ。
それは、今までも、そして、これからだって変わらないはずなのに。
だから俺は、逃げるようにして母の前から立ち去った。
春希 4月6日 水曜日
昨夜の事は思いだしたくはなかった。
母には、きっちりと伝える事は伝えたし、
帰る時も適当な理由をでっち上げて早々に実家をあとにした。
一応形の上ならば、うまく立ち回れた事になるはずだ。
だが、俺が気がつかない間もずっと大人の対応をしてきたあの俺の母親が
自分の子供の変化に気がつかないとは、どうしても思えなかった。
どうしても母の前だと、自分がみじめに思えてしまい、昨夜は逃げるように帰ってきたと
言ったほうがどうしても合っている気がする。
そんな子供すぎる俺は、家に帰ってきても、実家でのことを忘れる為に
引っ越しの準備や、木曜から始まる大学の準備など、考える暇を与えないように
寝ずに一夜を過ごすことになってしまった。
たしかに、急な引っ越しであるわけで、しかも週末にはNYに行くわけでもあるので
時間に余裕がないのは確かではあったが。
朝を迎えるころには、今日からNYへ行く日までのタイトすぎるスケジュールが
作り上げられて、予定がびっしりと埋められていた。
これで実家の母の事は考えないでいられると思うと、ホッとする自分がいた。
そのほっとする自分さえも消し去る為に、俺は行動を起こす。
さて、どつぼにはまって自問自答している時間はない。
この後、マンションの契約解除手続き、引っ越し業者への依頼、
そして卒論を前倒しして提出することの報告をしに出かけなければならない。
それらが終わったとしても、バイトもあるし、
引っ越しの準備も途中までしか終わってはいない。
だから俺は、母の事を無理やり思いださないように、
忙しい自分を作り上げることに努力した。
春希 4月7日 木曜日
今日から俺も大学4年生になり、学生生活も残り少なくなってきた。
しかも、夏からはNYへ行くわけで、周りのみんなよりも半年早く社会人になってしまう。
学生生活が名残惜しいわけではない。今となっては、一刻も早く社会人になりたいほどだ。
だからといって、残り少なくなった学生生活を惰性で過ごそうとは微塵にも思っていない。
なにせ、俺の真横に陣取っている「奇跡の4年生」を、
今度は無事に「奇跡的に大学卒業」へと導かなければならないのだから・・・・・・。
しかも、教授直々の、なおかつ、複数の教授達の泣きごと付きの、ご指名なのだから。
春希「ほら、しゃきっとしろ。これで今日の講義は半分終わったぞ。
和泉が大好きな昼食が終わったら、午後の講義だ。
ほら、いつまでもグダァッてしていないで、
さっさと起きて、学食にでも行って来い」
千晶「えぇっ?・・・もうちょっと休憩してからぁ。
だって、授業中にちょっとだけ休憩がてら仮眠とろうとしても、
春希が寝かしてくれないんだもん」
春希「当たり前だろ。俺には、お前をしっかりと講義に出席させて、
無事に卒業させる義務があるんだから」
千晶「えぇっ?・・・そんな義務、捨てちゃいなよぉ」
春希「捨てるかっ・・・って、いうか、全部お前のせいだろ」
千晶「えぇっ?・・・そうだっけ?」
春希「そうだったんだよ」
俺の目の前にいる奇妙な生物。
その実態を知ろうとはしてはいけない。
もし、この未確認生物に興味を持ってしまう人間が現れたのなら、
即刻逃げる事をお勧めする。
とにかく全力で逃げたほうがいい。
ほんの少しでもこの駄目人間に興味をもたれたら最期。
きっと、君は後悔することになるだろう。
もはや普通の生活など送れない事請け合いだ。
それは、大学三年を終える3月。
まだまだ肌寒い日が続いていたが、それでも明るい話題も増えてくる時期。
3年の後期期末試験を終え、みんなそれぞれ春休みの予定を立てていく。
就職活動の為に先輩から情報収集する者や、最後の春休みだからと旅行に行く者。
人それぞれの過ごし方ではあったが、どれも正しい新4年生になる前の春休みの
過ごし方だと思える。
まあ、俺は、バイトに明け暮れてはいたが、これはこれで正しい大学生の暮らし方だ。
でも、和泉の春休みだけは間違っていると断言できる。
なにせ、俺の春休みのバイト生活の予定を大きく狂わせたのだから。
はっきりいって、和泉を切り捨てて、見捨てようって何度も甘い誘惑にかられた。
それでも和泉に甘すぎる俺は、しょうもない和泉を助けてしまうんだよな。
貧乏くじだってわかってる。
あの時の教授の目。俺をいたわる目に、思わず涙しそうになった記憶は新しい。
あれは、3月上旬。
大学生の期末試験も、大学受験生の入学試験も一通り終息を迎えたあの季節。
教授たちも試験から解放されて、ほっと一息つく季節。
あの日。一本の電話から、地獄が始まった。
もし、タイムトラベルができるのなら、その電話に出ないで、
ゆっくりと寝る事を俺に助言したい。
きっと過去の俺は、未来からきた俺に、死ぬほど感謝するはずだ。
千晶 3月1日 火曜日
てっ、てっ、てぇっと。
は・は・は・・・・春希ぃっと。
私は、くるくると指先で器用に円を描きながら携帯を操作していく。
数秒後には、おなじみの愛しの春希のアドレスが表示された。
困ったときには、春希様一択よねぇっと。
テンポよく、タンって発信ボタンを弾くと、気持ちよく画面が私の指を跳ね返した。
千晶「あっ、おっはよう春希っ。女神さまからのモーニングコールだよ」
呼び出し音が数度なると、聞きなれた春希の声が聞こえてくる。
多少不機嫌そうな声色ではあるけど、まあ、いつも仏頂面だし許容範囲ね。
だって、ニコニコしている春希なんて、きしょいだけで、きもいだけだし。
春希「なにが女神だ。貧乏神の間違いじゃないか?
こっちは始発でようやくバイトから帰って来たばかりで眠いんだ。
午前中いっぱいは、睡眠時間だって決めてたんだよ」
そっか。不機嫌そうなのは、寝てたからか。
でもねっ、春希。たぶん、その計画は練り直しだよ。
だって、睡眠時間を確保できなくなっちゃうはずだからさ。
千晶「そっか。今自宅マンションで、睡眠中かぁ」
春希「そうだよ。今までも寝ていたし、これからも寝る予定。
だから、電話切るぞ・・・・。ごめん、来客だ。本当に切るな。
大事な用があるんなら、また後で電話してくれ。
できれば、昼前くらいに頼む」
千晶「ほ~い」
ほんと面倒見がよろしい事で。
最後の最後で私へのフォローを忘れないあたりが春希らしい。
春希が電話を切ると、私は電話を耳にしたまま、時を待つ。
目の前にある扉が開くと、生の春希の声が、直接私の鼓膜を震わせた。
千晶「よっ、春希。女神様のモーニングコールはいらない?」
春希「なんでお前がここにいるんだよ」
携帯片手に飛び出してきた春希は、じと目で私を睨む。
千晶「ここが春希の家だから?」
春希「何故疑問形で聞きかえすんだよ。こっちが聞いてんの」
千晶「じゃあ、私が春希に会いに来たからじゃダメ?」
春希「駄目じゃないけど、こんな朝早くからどうしたんだよ」
千晶「まあ、ね。とりあえず、部屋の中に入らない?
ほら、もう三月だけど、朝は冷えるし」
春希「それは、俺が言うべきセリフだろ。家の主人が言うべきセリフなの」
千晶「そう? だったら、家のご主人様は、訪問者がいても、さむ~い玄関先で
ながながと凍えながらお話をなさるおつもりで?」
玄関からは、温かい空気は漏れ出てこない。きっと本当に寝てたんだろう。
暖房をガンガンに効かせて、こたつでぬくぬく居眠りなんて春希がするわけないか。
でも、猫とか犬とか側にはわせて、こたつで温まりながらも仕事とかしていたら
なんか似合いそう。
きっと猫も犬も、春希の仕事の邪魔をしたくてうずうずしているんだろうな。
でも、ご主人様の仕事を邪魔しちゃいけないって、限界まで我慢して我慢して、
仕事が終わったら一斉に飛びかかりそうね。
春希はきっと疲れているんだけど、
疲れているのも忘れるくらい猫と犬を可愛がるんだろうなぁ。
春希「わかったよ。だから、朝っぱらから玄関先でわめくな」
千晶「はぁ~い」
私は春希のお許しを聞くと、春希の脇をするりとくぐり抜けて、部屋の中へと侵入していく。
うわぁっ。やっぱり、寒い。外も寒かったけど、部屋の中のこのひんやり感。
カーテン締めて朝日が入ってきていない分、部屋の中の方が寒いかも。
えっと、だ・か・ら、暖房、暖房。エアコンのリモコンはぁっと・・・・・。
春希「なにやってるんだよ」
千晶「寒いから、エアコンつけようかなって」
春希「リモコンならここにあるだろ」
そう言うと、春希は棚の上に整然と並べられていたリモコンの中の一つを取り上げて、
エアコンのスイッチを入れる。
そして、床に這いつくばっている私の両脇に手を差し入れると、私を引きあげ、
立ち上がらせてくれた。
なんか、まるで猫に対する態度っぽいのが気になるんだけど、まあ、しゃあないか。
春希「床を這いつくばって探したって、リモコンが見つかるわけないだろ?」
千晶「だって、リモコンっていったら、床に転がってて、
テレビやらエアコンやらのリモコンが入り乱れて、
テーブルの下とかに転がってるものじゃないの?」
春希「どこの家の住人だよ。つ~か、俺の周りには部屋を片付けられない女が
集まってくるのかよ。やっぱり和泉の部屋も散らかってるのか?」
なにやら春希は一人事言ってるけど、どうして私の部屋が散らかってるって
わかってるのかな?
もしかして、春希ってストーカー?
まあ、私の魅力的すぎるボディーを毎日拝んでいたら、しょうがないか。
春希も年頃の男の子だし。
千晶「春希が部屋を掃除してくれるんなら、いつでもウェルカムだよ。
もう、毎日きてくれてもOK。
なんだったら、添寝も付けちゃうよ」
春希「添寝なんてしてくれなくてもいいし、掃除もやらない」
千晶「べ~つに、遠慮なんかしなくてもいいのに」
春希「遠慮も希望もしてないから」
千晶「そう? でも、気が向いたら、いつでも言ってね」
春希「それはないから、覚えておかなくてもいいぞ」
千晶「もう、春希ったら、照れちゃって」
春希「照れてもないからな」
千晶「そう?」
春希「そうだ」
な~んか、朝から春希もハイテンションになるなぁ。
まっ、寝起きに聞かせるような話じゃないから、このくらいのテンションまで
引きあげないとねぇ・・・。
千晶「でさ、用があってここまできたんだけど、要件言ってもいいかな?」
あれ? なんか春希のテンションが一気に下がってない?
なんか体中から力が抜けきって、心の底から脱力しきってる?
あれ? なんか変なこと言っちゃったかな、私?
春希「どうぞ、どうぞ。さっさと言ってくれ」
春希は、そう投げやりに言うと、その場に座り込んでしまった。
だから、私も春希と同じ目線になるべく、その場に座り込み、四つん這いになって
春希の顔を下から覗き込んだ。
千晶「じゃあ、言うね」
春希「はい、はい」
千晶「あのね、春希。
とりあえず、お腹すいたから、朝ご飯にしない?」
春希「はぁ? 朝ご飯? いきなり訪問してきたかと思ったら
今度はその迷惑すぎる訪問者に朝食をふるまえっていうのかよ?」
千晶「何言ってるのよ、春希。
朝食は大切なんだよ。朝しっかりご飯食べておかないと
一日が始まったぁって思えないじゃない」
春希「俺は、ついさっき一日が終わったぁって思ったばかりなんだよ。
これからしっかりと睡眠をとって、それからなら朝食をとる予定なの」
千晶「でも、昼まで寝る予定なんだから、それは朝食じゃなくて昼食じゃない」
春希「いいんだよ。そんな細かい事は。昼に朝食食べようが、一日の始まりの食事には
変わりがないじゃないか。
千晶が言っている朝食っていうのは、一日の始まりの食事の事であって、
時間的意味は指定されていないはずだ。
一日の始まりが昼ごろならば、その時しっかり食事をすれば何も問題ないはずだ」
千晶「朝からそんな屁理屈聞きに来たんじゃないんだけどなぁ」
春希「お前が言わせてるんだろ」
あれ? なんか春希お疲れモード? ちょっと息切れかけているよ。
春希はもうちょっと楽をすることを覚えるべきだよねぇ。
千晶「言わせてるも何も、ほらっ。春希の顔を見ると、つい言いたくなっちゃうのよ。
だから、私のせいっていうよりは、春希のせい?・・・かな?」
春希「それ違うから、絶対違うから」
そうかなぁ・・・? これ以上つっこんじゃうと、本当に朝食抜きになりそうだから
この辺が潮時かな。それに、早く朝食をゲットして、本題も言わなきゃいけないしね。
千晶「じゃあ、春希がそう言うんなら、それでいいよ。
もうっ、春希ったらむきになっちゃって。
そういうところは、子供っぽいのよねぇ」
春希「断じて違うから。誰がなんて言おうが、あり得ないから」
あれ? 火に油注いじゃったかな?
もう、ほんとうにお腹すいちゃったんだけどなぁ。
私がしょんぼりとしていると、春希は立ち上がって背を向けてしまう。
そして、そのまま部屋から出ていこうとしちゃってるじゃない。
やばっ。本当に春希を怒らせちゃったかな。
まあ、しょんぼりしていたのは、お腹が空いてただけなんだけど、
しょんぼりしているか弱い女の子をほっといて逃げちゃうなんて、
春希、見損なったぞ。
だから、私は抗議の視線を送ろうと顔を上げる。
すると、そこにはいつもの春希がいた。
春希「朝だから、あまり手が込んだものは作れないぞ」
ちょっとぶっきらぼうな言いようだけど、さすが春希。
すがる千晶をほっとかない所がかっこいいよ、春希。
もう、愛しちゃってもいいくらい。
千晶「じゃあ、親子丼とナポリタンで」
春希「なんで、そんな朝っぱらからヘビーなメニューを二つも作らないといけないんだ」
千晶「心外だなぁ。本当は親子丼じゃなくてカツ丼にしたかったのよ。
でも、朝だから揚げ物はやめようかなって」
春希「それでも、朝から親子丼とナポリタンの組み合わせはないだろ。
仮に、どちらか一つならあり得るかもしれない。
でも、二つもいっぺんに朝から食べるな」
千晶「もう、注文が多い春希よねぇ。じゃあ、いいよ。春希のお任せで」
春希「最初からそう言えばいいんだ」
春希はテキパキと料理の準備に入っていく。
あれ? なんか料理の手際がよくなってない?
前は、もっと手際が悪いっていうか、料理慣れしてないかんじだったのに。
最近料理でも始めたのかな?
だとすると、女かな?・・・・・・なんてね。
私は、春希の料理をする後姿を眺めながら、失礼すぎる妄想を繰り広げていた。
後になって知ることになるんだけど、料理を覚えたのが本当に女がらみだったとは。
やっぱ春希も男の子だったのねぇ。
私はもっと近くで春希を観察しようと忍び足で春希の後ろまで近付く。
そおっと後ろから春希の手元を覗こうとしたんだけど・・・。
春希「おわっ! 急にひばりつくな。驚くだろ。刃物を扱っているんだから
くっつくのは禁止」
千晶「えっとぉ、まだくっついてないと思うけど?」
たしかにまだくっついていないはず。春希の料理をこっそりと、じっくりと
観察してやろうと、わざわざ気配を消して忍び寄ったんだから。
もしや、春希。対千晶用レーダーで気配を察知した?
春希「その・・・な。なんだ」
千晶「なによ?」
春希「言いにくいんだけど」
千晶「いつも言いにくい事でも、いらないおっ説教を上乗せして言ってくるのが春希じゃない」
春希「それは心外なんだけど、そのな。・・・・・・・胸が背中に当たってるんだ」
あ・・・、これは失礼しました。春希も多感なお年頃だもんね。
こんな肉の塊だろうが男受けだけはいいのよね。
春希もその一般大衆の一人なのかしら・・・ね?
春希には、色々お世話になってるし、多少はサービスしてもいいけど、
今回のは私の失策か。
やっぱ、せっかく料理してもらってるんだし、へたに邪魔をして怪我でもされたら
たまったもんじゃない。
美味しい料理を食べ損ねるなんて、私が許せるはずないもんね。
だから、偶然だけど、春希の背中に胸を押しつけちゃってごめん、ごめん。
でもね・・・・・・。
千晶「いやぁ、朝早くから春希に手料理ご馳走になるんだし、
私の方からもお礼くらいはしないといけないと、考えたわけよ。
だから、春希も素直に私の善意は受け取ってね」
春希「善意の押し売りは、はた迷惑なだけだ」
千晶「じゃあ、悪意の押し売りだから、素直に受け取ってね。・・・えいっ」
私は、心の中とは真逆の謝罪を春希に押しつけるべく、その背中に飛びつく。
そして、その背中に胸の形が崩れるくらい力強く押しつけた。
ま、いっよね。春希もけが予防のために、包丁をまな板の上に置いているし。
こういった危機管理は超一流よね。
春希「やめろって。危ないだろ」
千晶「包丁持ってないからだいじょぶだって。
だってさ、こうなることがわかっていたから包丁置いたんでしょ?」
春希「それは違うぞ、千晶。こういった事態になっても対処できるようにする為に
包丁を置いたわけで、こういった事態を望んでいたわけではない」
千晶「そう? 同じ事じゃない?」
春希「全然違う。予想して対処することと、予想してそれを望む事とは
大きな隔たりがあるだろ」
千晶「予想はしていたんだ」
春希「いちおう、これでもお前との付き合いは長いからな」
千晶「だったら、予想できたんなら、私が飛びつく前に拒否する事もできたんじゃない?」
ちょっと強引だけど、私の主張が正しいって訴えるべく胸をこすりつける。
頭が堅過ぎる春希には、逆効果で、なおかつうっとおしがられること必至だけど、
春希にはもうちょっと砕けてほしいのよね。
これはこれで春希らしくて、私は好きなんだけどさ。
春希「一つの行動パターンとして予想はできても、まだ行動もしてないときに
拒否することなんてできないだろ」
千晶「言う事だけならできるんじゃない?」
春希「言ったら言ったで、胸の事ばかり考えてるって言いかえしてくるだろ。
それと、さりげなく胸を擦りつけてくるのもやめろ」
千晶「え? いやだった? これでも罪滅ぼしのつもりだったんだけど」
顔では名残惜しい雰囲気を作りつつ、春希の背中から離れる。
これ以上は、本当に怒らせかねないか。
それでも、だいぶリラックスできたかな?
なんだか年を開けたあたりから、ずぅっと表情が堅かったんだよね。
最近はだいぶ調子が元に戻ってきたみたいだけど、
それでもたまに思い詰めてる顔を見せてるのよね。
本人は隠しているつもりでしょうけど。
春希「お前なぁ。俺だからいいけど、他の男連中にはやるなよ。
勘違いして、押し倒されているぞ。
お前は十分魅力的なんだから、その辺のところは認識しておいた方がいい」
千晶「それって、・・・つまり」
春希「なんだよ」
ちょっと、ううん、おもいっきり厭味ったらしい顔を作ると、
これまた春希が一歩身を引くぐらいタメを作ってから、私は言い放つ。
千晶「それって、つまり、春希は私の体に欲情してるってことだよね?」
春希「一般論を言ってるだけだ。一般論であって、俺の個人的な意見じゃない」
そんなに顔を真っ赤にして、両手を激しく振って否定しても、
春希の個人的な意見も一般論に賛成しているって言ってるものじゃない。
普段は自分の感情を押し殺して、そして、理屈っぽいと所がありまくりのくせに、
リラックスしているときは駄目ダメなのよね。
感情だだ漏れで、論理も破綻。
鋼鉄の理性も、こうなったら無意味ね。
千晶「ま、いいか。おなかすいたぁ。まだできないのぉ?」
おどけた声で催促をする。
これ以上つっついても、いいことないしね。
それに、・・・・ほんとうにお腹すいたぁ。
春希「お前が邪魔をするからだろ。お腹すいたんなら、黙って見ていろ」
千晶「はぁ~い」
私は素直に春希の料理姿を観察する。
けれど、それも数分で飽きちゃって、冷蔵庫の中やら戸棚の調味料なんかを確認する。
うん、やっぱり調味料やストック食材が増えてる。
さすがに腐りやすいものは少ないけど、長期保存できる調味料や乾物なんかは
以前来た時にはなかったものが多いかな。
女、できた? でも、寝室兼勉強部屋をかる~くチェックしたけど、
女の影はないのよね。
この家には連れ込んでないから?
たしかにこのマンションって大学から近すぎて、大学の友達に見つかりやすいのよね。
だからかな?
でもなぁ、春希が彼女できたからって、大学の友達に隠すかな?
彼女を見せびらかすようなタイプでもないし、だからといって秘密にもしないし。
そもそも、人の目なんて気にしないタイプよね。
やっぱ、ここは直球勝負するしかないかな。
千晶「ねえ、春希」
春希「なんだ? 部屋を勝手に漁るのはいいけど、散らかすなよ」
千晶「散らかしてないから、大丈夫だって」
春希「だったらいいけど。で、なんだよ」
千晶「うん。・・・・・ねえ、春希って、彼女できた?」
うん? 無反応?
手元はさっきまでと同じように野菜をフライパンで炒めてはいる。
これといって、大きな動揺は、一応、表面上は、見せてはいない、か。
うん、見た目だけは、いつも以上に、普段以上に、冷静さを作り出している。
春希「今はバイトで忙しいんだぞ。しかも、就活も始まるし、卒論だってある。
どこに彼女と楽しむ時間があるっていうんだ」
千晶「そっか。忙しいか。今日もバイト?」
春希「ああ、そうだよ。午後からな」
千晶「へぇ。変なこと聞いてごめんね」
春希「ったく」
そう小さく悪態を吐くふりをして、春希は今まで以上に料理に没頭していく。
ごめんね、春希。
これってやっぱり、彼女できたんだね。
ウィーンにいる冬馬かずさかな。
小木曽雪菜とは完全に駄目になったみたいだけど、だから彼女の事を隠してる?
同じ大学だし、一応は筋は通っているのよね。
でもなぁ、な~んかちょっと違う気がするのよねぇ。
そんなこんなで春希の近況を詮索していると、フライパンから食欲をそそる香りが
私を誘惑してくる。
春希「くっつくなっていっただろ」
千晶「だってぇ。美味しそうな匂いがぷんぷんしてきたから、ついぃ」
これは私も予想外。あまりにも美味しそうな匂いがしちゃうものだから、
春希の背中から、春希の肩に顎をのせて覗き込んでしまった。
春希は背中から襲ってくる強烈な邪念を無視して、お皿に盛りつけを始める。
ケチャップ以外にも、オイスターソースやマヨネーズ、それにハーブの調味料なんかも
おいてあるし、けっこう期待出来ちゃったりする?
おや? これは目玉焼きじゃない。
ナポリタンの上に、半熟の目玉焼きをのせてくれるだなんて、
春希ったら、こんなところでお胸のお礼をしてくれなくてもいいのに。
春希「ほら、運ぶの手伝えって」
千晶「イエッサー」
元気よく返事をすると、春希の指示に従ってお手伝いをする。
うん、食欲の前では逆らえません。
しかも、美味しそうな料理の前だったらなおさらね。
さすが私の鼻。美味しい臭いをかぎわける能力の高さはすさまじいね。
予想通り春希が作ってくれたナポリタンは最高だった。
今もお代わりで貰った目玉焼きが二つのったナポリタンをもうすぐで完食するところだ。
お腹も十分満たされてきたし、そろそろ本題に移らないといけないか。
春希の方も、いつ私が本題を話すのかって気をもんでいるみたいだしさ。
千晶「あのね、春希」
春希「そろそろ話す気になったか?」
千晶「うん、話そうとは思うんだけど、その前にお茶のお代わりいいかな?」
春希は無言で頷くと、私のカップにお茶を注ぐ。
のんぶりと漂う湯気が、ほのかに温かさを匂わす。
私は、そおっとカップを手に取ると、ちょっと大げさに「ふぅ、ふぅ~」って
飲みやすい温度まで下げる仕草をしてから一口お茶を喉に流す。
春希「もう十分か?」
千晶「OK、OK。じゃあ話すね」
春希「そうしてくれると助かるよ」
千晶「うん。とりあえず、時間ないから手短に話すね」
春希は、私の「時間ない」発言を聞いた直後に、すっごく嫌そうな顔をする。
もうわかったのかな? 春希君。
そう、君の期待通りの言葉が続くと思うよん。
千晶「大石教授がね、今日、朝一で春希と一緒に教授の部屋までこいってさ」
春希「は?・・・・・え?」
春希は、きっかり五秒間だけフリーズするが、すぐさま再起動する。
瞬間的に脳をフル起動させると、勢いよく時計の方に振り返った。
そこで、なんと再度のフリーズを起こしてしまう。
えらい、春希。今度は三秒のフリーズですんだみたいだよ。
春希の視線が壁時計から私にへと戻ったころには、
春希が淹れてくれたお茶も飲みやすい温度まで下がり、うぅ~ん飲みやすいぃ。
きっとスーパーで買ってきた特売の緑茶だろうけど、
美味しいナポリタンの後に飲むお茶は格別よね。
春希「のんきにお茶なんて飲んでいる時間なんてないだろ」
千晶「そう? でも、朝一っていっても九時に行けばいいんだよ」
ちょっと、春希さん。痛い子を見るような悲しい目で見ないでよ。
なんか、恥ずかしいじゃない。そんなにぎゅっと見つめられちゃうと。
春希「なにを言ってるんだ。どこの世界での尺度で考えれば大丈夫なんだよ。
今、もう八時四十分を過ぎているじゃないか」
千晶「大丈夫だって。ここからなら、走っていけば五分もかからないじゃない」
春希「大学の正門まで五分以内についても、
お前の計算では教授の部屋までの時間は考慮されていないだろ」
千晶「一応全力疾走すれば五分でつくんじゃない?」
春希「だったら、俺が大学に行く支度をする時間は?」
千晶「うん、ごめん。春希なら、もう起きている時間だと思っていたよ」
春希「だったら、朝食なんかねだらないで、部屋に来た時、一番最初に伝えるべき情報だろ。
それをお前って奴は、ゆっくりと食べて、お代わりまでも」
千晶「それは、春希が悪いんだよ」
春希「なんでだよ」
千晶「だって、美味しかったから、お代わりしなきゃだめでしょ?」
春希「そ・・・れは、どうも」
千晶「どういたしまして」
春希「って、違うだろ」
千晶「うん、そうだね。もう四十五分になりかけているよ」
春希は私の指摘で再び壁時計を確認すると、今度は私の方には視線は戻ってはこなかった。
その代わり、素早く立ち上がると、テキパキと身支度を始める。
春希「食器は流しに水をつけておくだけでいいから。
帰って来てから洗う。お前も今すぐ大学に行く準備しろよ」
千晶「アイアイサー」
春希の言いつけ通りに流しに食器を持っていき水につけると、そのまま玄関へと向かう。
まあ、私の場合、コート来て靴履けば準備完了なのよね。
春希「・・・・ええ、すみません。今すぐ向かいますので。
・・・・・・・・・・はい、わかりました」
千晶「どうしたの、春希? 時間がないって言ってた割には、ゆっくりと電話なんかして」
春希は携帯電話を鞄にしまうと、私に続き、靴を履き始める。
止まって話をする時間も惜しいみたいで、私の顔を見ずに、靴の準備と共に
私への説明も始めた。
春希「大石教授に連絡したんだよ。今から行くから少し遅れるって」
千晶「まめだねぇ、春希も」
春希「お前がもっと早く言ってくれれば、こんなに慌てることもなかったんだよ」
春希のお説教タイム第二ラウンドが本格的に始まるころには、部屋の鍵をかけて、
早足でエレベーターへと向かい始めていた。
千晶「一応昨日の昼に電話して、夕方にもメールしたんだけど?
でも、春希からは返事来なかったから、こうして今日直接きたんじゃない」
春希はすぐさま携帯を確認すると、ほんの少しすまなそうな顔をにじませる。
でも、急いでる事もあるし、今朝ゆっくり朝食なんて食べてたもんだから、
やっぱり春希は釈然としないみたいね。
春希「すまない。昨日は特に忙しくて、電話もメールもきていた事は気がついていたんだけど
後回しにしていた。ほんとうにすまない」
千晶「いいって。こうして今一緒に行ってくれているんだし」
春希「そうはいっても、俺がしっかり確認していれば、遅刻しないで済んだのに」
千晶「もういいじゃない。春希が教授に電話してくれたおかげで
十分間の全力疾走は免れそうだしね」
春希「そうだな。なぁ、ところで、なんで教授に呼ばれたんだ。
さっき教授と話していても、こっちが遅刻するって言ってるのに
なんだか教授の方が申し訳なさそうな感じだったんだよな」
千晶「気のせいじゃない?」
春希「そうか?」
千晶「ほら、急がないとねぇ」
ここで春希が余計なこと考えてユーターンなんてしだしたら、たまったもんじゃない。
こっちは春希のせいでこうなったんだから、ね。
私としてはどうでもよかったのに、春希がどうしてもっていうからさぁ。
千晶「急ぎますよ~」
私は、春希の背中を両手で押して、その足を加速させる。
ただ、デスクワーク中心のバイトらしいので、その加速も、私が手を離すと即座に失速した。
けれど、どうにか話題の修正だけはできたので、よしとしましょうか。
教授は待たせておけばいいのよ。
なんたって、こんな朝早くに指定するのが悪い。
なんて、春希からすれば、大変不届きモノの発言らしいけど、
とりあえず素直に春希の背中を追い越し、その隣へと並ぶ事にした。
春希の部屋とは違い、暖房がしっかりと効きすぎている教授の部屋は、
その暖気以上に、目の前の二人の熱気がみなぎっていた。
朝からヒートアップするだなんて、春希はともかく、大石教授はお年なんだし、
リラックスしないとねぇ。
春希「どういうことでしょうか?」
大石教授「つまりですね、和泉さんはこのままだと四年生に進級できないのですよ」
春希「でも、出席日数は余裕があったはずですよね?
それとも試験の出来が悪かったのですか?」
大石「そのどちらもです」
春希が思わず私の方に振り返るが、どういう表情で出迎えた方がいいかな?
やっぱ苦笑いをしつつ、申し訳なさそうにするのが春希好みだよね。
じゃあ、それでいこっかな。
というわけで、春希好みの「頑張ったけど、ちょっと失敗しちゃった女の子」を
演じることにした。
千晶「ごめんね、春希。前半春希がしっかりサポートしてくれていたから
大丈夫かなって思ってたんだけ、年明けてから油断しちゃった」
というのは、嘘なんだけどね。
ヴァレンタインライブの為に、練習に気合を入れ過ぎたのがいけなかったか。
結果としては、ライブは大成功して、春希との関係も破綻せずにはすんだ。
それとは引き換えに、劇団公演の方は私の脚本が没になって、急遽代わりの脚本で
私抜きで公演やってるみたいなのよね。
一応最初の公演の方で主役だったし、代わりの公演の方も主役でって団長が言ってたけど、
それはやっぱ、春希優先でライブをとっちゃったしなぁ。
春希「それって・・・」
千晶「違うよ」
私は、春希が言おうとした事を察知して、それを遮る。
なんだって春希は、馬鹿正直なんだろう。
それが春希のいいところなんだけど、今は教授の前でしょ。
絶大なる信頼を得ている春希だからこそ、これからチャンスをもらえそうなのに、
その春希自身が自らの評価を落として、そのチャンスを台無しにしたらどうなっちゃうのよ。
まあ、私は最初から進級なんてどうでもよかったんだけど、そうなんだけど、
最近は春希と一緒に卒業するのもいいかなって思ってあげているのよ。
だから、その辺の私の事情も察しなさいよね。
この鈍感春希めが。
春希「和泉・・・」
千晶「浜口教授には、今日会えるんですか?」
春希には悪いけど、ここはさっさと話を進めさせてもらうわね。
大石教授「この後会う予定ですよ。ですけどねぇ。浜口教授は・・・」
この浜口のおっさんのせいで春希が引っ張り出されたわけなのよね。
そもそも私とは、そりが合わないことが必然すぎて、顔を合わすべきでもない。
春希も苦手ってわけでもないみたいだけど、好んで相手をしたい人間だとは思っては
いないみたいなのよね。
もっとも、向こうの方は春希のことをえらく信頼しているみたいだけど。
一方通行の恋も、相手によっては、はた迷惑極まりない例の極致かな。
春希「なにか問題でもあるんですか?」
大石「先ほども話しましたけど、和泉さんは四年生に進級するには二科目足りません。
そのうち一科目は昨日レポートを提出することで決着がつきました。
もちろん北原君が責任をもってサポートすることが条件なのですけど」
大石教授は、自分の事のように申し訳なさそうだ。
このおじいちゃん、面倒見がいいのよね。
ただ、私に対してだけは春希に丸投げだったけど。
それだけ春希を信用していたってことかな。
それとも、自分がやるより春希が面倒見たほうが効果的って考えたのかな?
だとしたら、けっこう人を見る目があるおじいちゃんよね。
今はのほほんと気が弱そうなおじいちゃんしているけど、
昨日の私のレポート提出を勝ち取る手腕は見事な手さばきであることながら、
その根回しの周到さも春希以上だと感じ取れた。
もし春希がこのまま育ちに育ったら、こんなおじいちゃんになるのかも。
それに、あの口うるさい浜口のおっさん対策として、春希を連れてくるあたりが
抜け目がないと評価できた。
まあ、昨日はほんとうにあのおっさんの予定がきつきつで、
面会時間がとれなかったんだけどさ。
春希「千晶のサポートは、もともと任せられていたのですし、問題ないです。
むしろ、こんな事態になってしまって、申し訳ありません」
大石教授「いやいや、頭を上げてください。私も北原君に全てまかせっきりにしたのが
いけなかったのです。君はいつも頑張っているから
つい頼ってしまったのがいけなかったのですよ。
それにね、ヴァレンタインコンサートの方の評判も聞き及んでいるんですよ。
大変すばらしかったとか。言ってくだされば、私も見に行ったのに」
そう、意外すぎる人物からのコンサートの賛辞に、春希は面を喰らう。
たしかに、このおじいちゃんがヴァレンタインコンサートなんて似合わなすぎる。
春希の事だから、こんな失礼な意味で驚愕してるんじゃないと思うけどさ。
春希「俺はたいしたことやってないですよ。
すごかったのは、和泉の歌とピアノで参加してくれた冬馬かずさなんですから。
だから、俺なんておまけみたいなものなんですよ」
大石教授「そうですか? でも、北原君も頑張ったから、
メンバーの二人も頑張ってくれたのではないでしょうか」
どこまで知ってるの?って勘ぐっちゃいそうだけど、きっと一般論よね。
たしかに、春希が頑張っていなかったら私は参加してないわね。
ただたんに、冬馬かずさとの記念ライブってことなら、私が参加する意味がない。
でも、冬馬かずさの映像出演なんて、私が勝手にやっちゃったわけで、
もともとは音源だけだったわけだし。
と、考えると、春希がライブで冬馬かずさといちゃいちゃするためだけっていう考えは、
そもそも成り立たないわね。
いやぁ、策士千晶さまも色ぼけちゃったかな。
春希「逆ですよ。二人が頑張っているからこそ俺も頑張ろうと思ったんです。
だから、俺が頑張らなくても二人はきっとみごとに成功させていたはずですよ」
大石教授「そうでしょうかね。あなたが本当にそう思っているのならば、
それでもいいでしょう。さてと、そろそろ浜口教授のところへ行きましょうか。
いつまでも待たせておいても失礼ですしね」
大石教授は、そう言うと、テキパキといくつかの資料を手にして席を立つ。
おそらく私の成績とかレポートとかなんだろうなぁ。
昨日も同じようなの持っていたし、きっとそうなのだろう。
こういった根回しっていうか、事前準備の部分も春希そっくりね。
ほんとうだったら、私なんて留年させて、とっとと大学から追い出しちゃえばいいのに。
いらぬお節介で、いらぬ荷物をしょっちゃうあたりも、ほんとそっくり。
気苦労が絶えないから出世しないような感じもするんだけど、
これでも学部長なのよね。
見た目はどこにでもいるおじいちゃんなのに、抜け目がない。
おじいちゃん、おじいちゃんって、心の中では言っちゃってるけど、
こう見えても意外と若いしなぁ。
となると、春希も気苦労を重ねて、将来老けるの速かったり?
ただまあ、食えない性格ってところが春希とは違うかな。
おそらく春希は、このおじいちゃんみたいな隠れた野心家ではないと思うしさ。
春希「教授。行く前にちょっといいですか?」
大石教授「どうぞ」
春希「事情はどうにかわかってきたのですが、あの浜口教授がレポートくらいで
単位をくれるでしょうか?」
大石「おそらく難しいでしょうね」
春希「自分も同じ意見です、浜口教授は、良くも悪くも厳格な方です。
授業点に関する配点さえも公表するくらいですから。
その授業点とテストの点の合計点で、合格点に満たなければ
きっとどのような理由があっても単位はくれないと思います」
大石「でしょうね。しかし、このままでは和泉さんは留年してしまいます。
留年してしまえば、一年棒に振ってしまいますし、なによりも北原君がいなければ
このまま授業に出なくなり、そして退学してしまうのではないでしょうか?」
大石教授の細い眼が私を捉える。
よく見てるなぁ、このおじいちゃん。
春希じゃないけど、私も同意見ですよ。
春希がいるからちょっと頑張って一緒に四年生になろうとも思ったんだけど、
最後の最後でへましちゃったのよね。
年が明ける前までは、春希に色々文句を言われながらも、どうにかギリギリの線で
頑張っていた。
でも、年明けて、ヴァレンタインライブが決まったところで、事態は急転する。
・・・・・・冬馬かずさ。あの子、何者なのよ。
あの子をトレースしようとしたら、この私が全くトレースできないんだもの。
それでもライブまでには形にはできたんだけど、私としては不完全燃焼で
不完全すぎるお芝居だった。
まったく冬馬かずさを演じられなかった。
けれど、ライブで春希と冬馬かずさのセッションを見て、なんか納得しちゃったかな。
偽物だろうが、冬馬かずさにはなることはできない。
偽物に近い偽物を演じる事ならできるだろうけど、
それだと私のプライドが許さなかった。
偽物は偽物らしく、本物にならなくちゃいけない。
どこまでもふてぶてしく、本物以上の偽物をやらなくて、なにが女優よ。
こればっかりは、私の意地ね。
なぁ~んて、私が考えていたことなんて知らずに春希はライブで
あの冬馬かずさといちゃこらしてたんだろうけどさ。
春希「教授は、和泉を卒業させたいと考えているのですね」
大石教授「そうですよ。だからこそ、北原君に預けたのですが、
最後の方で失速してしまったようですね」
春希「すみませんでした。自分の監督不行き届きです」
大石教授「いいのですよ。先ほども言いましたけど、コンサートの為に頑張るのも
大学生の本分だと、私は思っていますからね」
春希「ありがとうございます。それで、教授は、このままただ和泉を留年させるだけでは
来年からの和泉の勉強に取り組む態度が悪化するとお考えで、
その為に俺のサポートがフルに受けられる四年生への進級を
無理にでも推し進めようと考えているのですね」
大石教授「おおむねその通りですよ。レポートで単位をくれると納得してくれた教授も
北原君が言ったような事を私が昨日言ったら、どうにか納得してくれましたよ」
春希「そうですか。でも、それが浜口教授に通用しましかね?」
大石教授「どうでしょうか。一応和泉君のテストの点は、
どれも合格点を超えていたんですよ。
けれど、昨日レポートを勝ち取った科目も、浜口教授の科目も
どれも出席日数が一日足りないのですよ。
しかも、レポートの提出や課題の提出があまりにも遅れて提出されて
いるのです」
春希「それは、単位をくれるにしてもグレーゾーンすぎますね」
大石教授「そうですね。だからこそレポートで手を打ってもらえたのですがね。
けれど、浜口教授は、あまりにも厳格で、このグレーゾーンも
黒に近いグレーですね」
春希「でしょうね」
大石教授「だからこそ、今日は君に来てもらったのですよ」
春希「え?」
大石教授「聞きましたよ。あの浜口教授のお気に入りの生徒らしいですね」
春希「え?」
春希は、大石教授の情報源であろう私を睨みつけてくる。
正解、春希。ご明答。春希のご想像通り、私がおじいちゃんに教えたんだけどさ、
でもね、そうでもしないと、このおじいちゃん、昨日帰してくれそうになかったのよ。
なにかしら手を打たないと、確実に私は必修科目である浜口教授の単位を落としちゃう。
その結果、進級要件の必修科目を取得していない私は、来年も必然的に三年生さ。
だからね、春希。お願いっ。一緒にライブをやった仲でしょ。
春希「わかりましたよ。俺が責任を持ってサポートすれば、
どうにかレポートになるかもしれないですし」
大石教授「いえ、それは無理でしょうね」
千晶「え?」
思わず大声で出してしまった。だって、レポートでかたをつけるんじゃないの?
それともなに? それ以外の方法でもあるっていうの?
私の声に驚いた二人は、私の方に振り返るが、それもすぐに興味を失い、
すぐさま二人の会話に戻ってしまった。
たしかに私が会話に参加しても、なにもいい意見をだせるとは思わないよ。
でもね、こうもあからさまに残念そうな表情を見せないでよ。
春希「だとすると、仮単位ですか?」
大石教授「はい」
千晶「仮単位?」
大石教授「仮単位ならば、どうにか浜口教授も納得してくださるでしょう」
千晶「そなんだ。それで四年生になれるの?」
大石教授「はい、なれますよ。レポートもしっかり提出してくださればね」
千晶「それは、ばっちりOK。なにせ春希が責任を持って監督してくれるからねっ」
春希「そこは、お前が責任を持ってレポートに取り組むっていうべきだろ」
千晶「私が言ったところで、だれも信用してくれないでしょ。
だったら最初から春希が責任を持つって言った方がいいってものよ」
春希「そうかもしれないけど、これは気持ちの問題だろ」
千晶「そう? でも、そんな気持ちの問題を大切にするよりは
とっとと見切りをつけて現実的に対処すべきでしょ」
春希「だけど、・・・・・・もういいか」
春希もようやく納得してくれたみたいね。
これで、どうにか私も来年からは四年生か。
って、その前にレポートかぁ。こりゃ徹夜だな。
ん?・・・・・・仮単位って、なに?
千晶「ねえ、春希」
私は、思わず力がない手で春希の服の裾を引っ張ってしまった。
だって、ここまで来たっていうのに、怪しすぎる「仮」単位なんて、
聞き慣れない言葉が出るんだもん。
いくら図太い神経の持ち主の千晶様であっても、弱気になっちゃうわよ。
春希「どうした?」
やっぱ、私が急にしおらしくしたから、春希であっても心配するか。
そうか、心配するか。今度からは、この手も使ってみよっと。
でも、乱発すると効果がなくなるから、今回みたいなここでって時のだけの必殺技だな。
千晶「仮単位って何? 仮って、どういうこと?」
春希「ああ、その名の通りだよ。仮に単位を認めてくれるだけ。
単位は認めてるから、いちおう来年からは四年生になれるぞ」
千晶「ねえ、その「いちおう来年からは」って、どういう意味かな?」
私の額からは汗がゆるりと流れ出ているかもしれない。
だって、ここにきて、みょうにこの二人が怖い。
なにか、すっごく面倒な事を私に押し付けようとしてるって、びんびんと肌から
感じ取れるもの。ぜったい何かとんでもない事を最後にとっておいてるでしょ。
春希「それも、その名の通りだよ。いちおう来年からは和泉も四年生になれる」
千晶「でも、その後に「だけど」がつくんでしょ?」
春希「よくわかったな」
よくわかったなじゃな~い。
なによ、その偉そうな顔。これがどや顔ってやつか?
ねえ、そうなんでしょ?
くぅ~っ、むかつく~・・・・・・。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。
・・・・・・・。
春希「落ち着いたか?」
千晶「春希のくせに」
私は肩を落として、ぜえぜえと肩を揺らしながらも、顔だけ上を向いて春希をにらみつける。
でも、春希ったら、涼しい顔で私を見下ろしてきていた。
もうっ、春希のくせに。
千晶「で、「だけど」の先はなんなの?」
春希「ああ・・・、一応四年生にはなれるけど、
浜口教授の講義だけはもう一度受けなければならない。
たぶんこれなら浜口教授も許してくれると思うよ」
大石教授「たぶん大丈夫でしょうね。
なによりも、和泉君の世話をしたいと思う先生はおりませんでしたし」
なによそれ。今頃になっての新事実?
つまりは、今年留年して、来年私の面倒をみたくないから、ていよく四年生に
させるってこと? そして、春希にぜ~んぶ面倒みさせるってことか。
春希「なんだか不満そうだな」
千晶「そう見えるんなら、そうなんじゃない?」
春希「いちおうこれも言っておくけど、大学は義務教育じゃないんだぞ。
だから、留年するのも退学するのも、基本的には自由なの。
ここまで親身になって世話をしてくれている大石教授が特別なんだよ」
大石教授「私はそこまでお人よしではありませんよ。
なによりも、北原君に和泉さんの事を丸投げしてしまいましたからね」
ううん、違う。本当は大石教授が面倒をみるつもりだった。
私を大学に引き止める為に、大石教授が拾ってくれたって、あとになって聞いていた。
私としては、春希と一緒のゼミになれてラッキーぐらいだったし、
どうやって春希と同じゼミになろうかって悩んでもいた。
そもそも、あの春希が入っちゃうゼミなんだから、入室倍率は高い。
普通に入るんなら、かなり優秀な成績を収めていないと不可能だ。
それなのに私が入室できたのは、特別枠の、特別待遇。
だれも引き取ろうとしなかった問題児を、緊急処置で引き取っただけにすぎない。
だけど、ここで誤算があったのが、大石教授が急遽忙しくなってしまった事だ。
これもあとになって知った事だけど、入試改革をして、大学の価値を上げるために
学部長たる大石教授が責任者になってしまった。
今の世の中、力のない私立大学は廃業していってしまう。
募集定員割れも、うちの大学でも起こっているらしい。
都心にあって、そこそこのレベルのうちの大学が、今すぐ経営危機に直面するわけでは
ないだろうけど、それでも、大学経営が厳しくなっている事は事実なんだろう。
そこで大石教授が責任者として改革チームを率いていくわけなんだけど、
そうなると今までも忙しかった大石教授が、改革チームと問題児を両方面倒見る事
なんてできようもなかった。
だから春希が私の後継人になったわけだし。
教授達からも、生徒からも信頼が厚い春希ならばっていう当然の選任なのだろう。
春希「それでも色々と影から支えてくれていたじゃないですか。
レポートの提出期限なんかでは、よく大石教授が直接お願いに来たって
言っていましたよ」
大石教授「あれだけ内緒にして欲しいと言っておいたのに、しょうがないですね」
春希「一応和泉にプレッシャーをかける為でしょうかね。
まあ、主に交渉していたのが自分ですので、和泉には教授達の思いは
全く届いていなかったみたいなのですが」
大石教授「そのあたりも痛いほどわかっていると思いますよ。
だから北原君に言って、和泉さんの手綱を引き締めておいて欲しかったのだと
思いますよ」
春希「そうだとすると、ますます申し訳ないです。自分が油断したあまりに
こんな結果になってしまって」
大石教授「もうよしましょう。そろそろ時間ですしね」
春希「はい」
そう二人はこの話を締めくくると、部屋をあとにする。
なんだか臭い芝居を見たあとみたいな気がして釈然としない。
もう、ほんとうにうっすらと涙さえ浮かべているか確かめてやりたいほどだ。
・・・・・・そんな面倒な事はしないけどさ。
だけどっ、なんなのよ。いちばん釈然としないのは、仮単位ってなんなの。
レポートはやらないといけないけど、結局は来年もう一度あの浜口のおっさんの
講義を聞かないといけないってことじゃない。
ほんと、春希じゃないけど、朝一で疲れる報告聞いちゃったな。
私は、とぼとぼと、尻尾をだらりと力なく引きずりながら、二人のあとを追った。
再び大石教授の部屋に戻ってきた私たちは、思い思いの恰好で椅子にもたれかかっていた。
中でも一番疲れきっているのは私だって断言してもいい。
この部屋を出る前に見た春希と大石教授の猿芝居が子供のお遊戯だって思うくらい生易しい
精神的ダメージであった。
今思い返しても腹が立つ。
なんなのよ、あの浜口のおっさん。
あんなんだから、いつまでも独身で、出世もできないでいるのよ。
春希「どうにか予想通り仮単位認定にできましたね」
大石教授「だいぶ渋い顔をしていましたけどね。
そこはさすが北原君というところでしょうかね」
春希「どうでしょうね」
二人して喜びを分かち合ってるみたいだけで、忘れてないでしょうね。
千晶「なんで単位もらえないのにレポートやらないといけないのよ」
そう。やっぱり仮単位を貰う条件がレポートだった。
さすがに無条件には仮単位といえどもくれないらしい。
来年もあのおっさんの顔を見ないといけないのかぁ・・・。
これだって、私からしたら、非常に不本意なのよ。
それなのに、単位がもらえないばかりか、レポートをやらないといけないなんて。
春希「その顔は不満ですって感じだな」
千晶「当たり前でしょ。
なんで貰えもしない単位の為にレポートやらないといけないのよ」
春希「それは、浜口教授の講義が必修科目だからだろ。
これを落としたら、四年生に進級できない」
千晶「でも、なんでレポートやらないといけないのよ。
来年も受けるんなら、意味ないじゃない」
春希「だから、仮単位といえども、一応は単位認定されているんだから、
ただで認定するわけにはいかないだろ」
千晶「わかってるわよ。わかってるけど、あのくそ親父の顔を思い出すたびに
むしゃくしゃするのよ」
私のヒステリーに、春希も同情の色を見せてくれる。
これは珍しい事もあった事だ。
普段だったら、ここぞとばかりにたたみかけてお説教モードに突入するはずなのに
今回だけは鬼の春希にも優しさが灯したらしい。
春希「あれだけねちねち言われたら、わからないでもない」
大石教授「正論なので反論しにくいのもありますね。
こちらが無理を言っているので、強くも言えませんし」
春希「そうなんですよね。浜口教授の言い分が正しいから反論できないんですよね。
これが少しでも感情的な言い分でしたら対処のしようがありましたのに、
一貫して感情論ではなくて正論で押し通しましたからね」
大石教授「それが浜口教授のいいところでもあるんでしょうけどね。
あくまで公平で明確な基準をモットーにやられてきましたし」
春希「でも、最後はこちらの粘り勝ちでしたね」
大石教授「いえいえ。最初から大石教授も仮単位を認めるつもりでしたよ」
春希「え? ある程度は認めてくれるとは思っていましたけど、最初からですか」
大石教授「そうですよ。あの理論派の浜口教授なのですよ。
和泉さんが今年留年してしまったら、退学してしまうってことも
わかっていたはずです。
だからこそ北原君のサポートが必要だとわかっていましたし、
北原君がいたら卒業も可能だと思っていたんでしょうね」
春希「だとしたら、何故ああまでしても、なかなか認めてくれなかったのでしょうか」
大石教授「それは、和泉さんの心構えでしょうね。
なにせ、最初から北原君に頼る気満々だったのでしょう?」
痛いところを突くおじいちゃんだよね。
私の事を春希以上にわかっているのかもしれない。
ぶっちゃけ、大学なんて退学してもいいって思っていたし、四年生に進級することだって
最近までは全く興味を持てなかった。
だけど、この前のヴァレンタインコンサート。
あれで、北原春希と冬馬かずさのことを知っちゃったからには、
この先も見てみたいって思ってしまったのよ。
だとしたら、今、春希の側から離れるのはよくない。
このまま春希と一緒に大学四年生になって、大学を卒業するべきだ。
卒業後は、あれだ。まあ、なんだ。予定も未定で、なにも計画はないけど、
最悪、春希のマンションの側に部屋でも借りて、ご飯目当てに転がりこめばいい。
春希にも会えるし、ご飯にもありつける。
これで一石二鳥ってかんじよね。
千晶「頼る気はあったけど、なんとかしようとは思っていたのよ。
私も進級したいって思ってたから」
大石教授「そうですか。今度からは、もっとわかりやすくやる気を見せてくださいね。
そうすれば、浜口教授ももっと早く解放してくれたでしょうから」
千晶「は~い。わかりましたぁ」
もういいや。お腹すいたし。
早く家に帰って、春希のご飯が食べたい。
絶対に食べたいっ。
ほんとっ、春希の料理の腕あがってたよね。
こりゃ、昼食も期待しちゃうでしょ。
春希「では、期日までにレポートを二つ提出させるように頑張ります」
大石教授「いいえ、違いますよ」
春希「え?」
大石教授「私の講義も少し危なくてですね、その分も入れてレポートは三つなんですよ」
春希「わかりました。善処します」
あの春希でさえ苦笑いを浮かべて大石教授から最後のレポートの課題を受け取る。
もうここには用はない。
とっととおさらばしたい気持ちでいっぱいだった。
さっきまで親身になって手助けしてくれたから、ちょっとだけ尊敬しちゃったじゃない。
それなのに、私の気持ちをもてあそんで。
最後の最後になって、大石教授のレポートだなんて。
この際他の二科目のレポートはよしとしましょう。
でも、大石教授のレポートだけは勘弁してほしいな。
なにせ、普段のレポートも学科、いや大学トップクラスの面倒くささを有しているのに。
しかも私が受講した大石教授の講義。
二コマ連続の講義で、なんと一年間の通年講義なのよね。
つまり、この講義。
たった一つの講義であっても、たった一つで四講義分の分量があるっつ~のっ。
もうっ。私を殺すつもりじゃないかしら。
こうなったら、春希の料理でやけ食いだからね。
これは確定事項っ。絶対引かないんだから。
私達は、自然と春希のマンションの方へと足が向かう。
そもそも大学のカフェは春休みで休業中だし、わざわざ学外のカフェで打ち合わせを
するのも金銭的にもったいない。
それに、なによりも外食では春希のご飯にありつけないのだから、自然なふうを装って
既成事実的に春希のマンションへと向かっていた。
部屋に着くと、春希が年寄りくさく床に座るものだから、
一言ちゃちゃを言ってやろうという誘惑にかられる。
きっと普段の私ならば言った事だろう。
だけど、今日の春希の頑張りようや、これからお世話になることを考えると
今日のところはおとなしくしとこっかな。
さて、ここは女の子らしくコーヒーでも自発的に淹れるべきだろうか?
でもなぁ、そんなの私のキャラっぽくないし、困ったものだ。
それに、もう和泉千晶を演じる必要がないっていうのが問題なんだよなぁ。
ヴァレンタインコンサートの時に、春希と冬馬かずさを観察していたって
ぶっちゃやはしたけど、和泉千晶という人格は、春希に近づく為に作り上げたって
事までは教えてはいない。
だったら、このまま和泉千晶を押し通す?
それもいいかもしれないし、なんとなく私と春希の関係においては居心地がいい。
ん~ん・・・・・・。そもそも私って、どんな人格なんだろ?
冷酷非道の女?
演劇の為なら何でもする非常識人間?
劇団の花形?
脚本家?
それとも、それとも、和泉千晶?
やっぱ、和泉千晶かな。
性格なんて、時間と共に変化するものだし、これから和泉千晶の性格が
変わっていっても、春希はそんなものかな程度で違和感を感じる事すらないだろう。
げんに、北原春希という人間も、ここ数カ月で劇的に変化を見せている。
私としては、なんとなくいい風にも、悪い風にも変化をしてるって気がする。
プラスの方向に行こう行こうってもがいてるんだけど、
ふとしたきっかけで折れそうで、危うい。
それでもなぁ、なんかしっかりしようって、頑張ってるのよね。
ま、頑張ってとしかいえないか。
だから、和泉千晶という人間も、劇的にとはいわないまでも、変化をみせたって
不思議ではないはずだ。
春希「どうしたんだ、和泉。らしくないじゃないか?
やっぱり図太い神経を持っているお前でもこたえたか。
ほら、コーヒー淹れたから、これでも飲んで切り替えろって」
いつの間にかにテーブルを用意してコーヒーまで用意していた春希が
私の顔を覗き込んでくる。
そんなに近くまで顔を寄せて、なんか顔が熱くなっちゃうじゃない。
きっと、気のせいだね。春希がそばにいるくらいで体温が上がるなんてありえない。
きっと、ふいをつかれたせいに違いないって。
さてと、私は、和泉千晶。
憎たらしくて、それでいて憎みきれない春希の女友達。
千晶「さすがにねぇ・・・。浜口のおっちゃんの厭味ったらしい顔をずっと視界に
入れてたんだから、気もめいるわよ。
それに、なんなの。大石のおじいちゃんの最後の爆弾発言。
いらないわよ、あんなお土産。聞いてなかったんだから」
春希「俺も教授のレポートだけは勘弁してほしかったかもな。
レポートの提出期限が11日の金曜日の正午までだから実質10日切ってるな。
これから提出期限までは、劇団の方も休みにしてレポートに打ちこめよ」
千晶「その辺は大丈夫。今やってるのは、私タッチしてないからさ。
だから、時間ならたっぷりあるのよ」
これは、本当。今準備している公演には、私は関わっていない。
私が書きあげる予定だった脚本は、結果的には完成する事はなかった。
脚本家の自分としては名残惜しい部分もあるけれど、和泉千晶としては後悔していない。
後悔どころか、これからのことを考えるとワクワクしてしまっている。
だからこそ、こんな面倒っちいレポートを身を削ってでもやろうとしてるんだし。
春希「だったらいいんだけど、でも、他の事に気を取られて、
レポートに集中できないなんてことにならないようにしろよ」
千晶「わかってるわよ。なにせ、春希のお世話になるんだし、
春希の顔に泥を塗らないようにしてあげるわよ」
春希「俺はどう思われようが気にはしていないけど、お前の場合は進級がかかってるんだから
まじめにやれよ。・・・・・・なあ、ヴァレンタインコンサートに
引っ張り出して、悪かったな。
あのコンサートさえ参加していなかったら、レポートなんかやらないで
すんなりと進級できていたかもしれないのに」
怒るよ、春希。
私は、私の意思で参加したいって決めたんだよ。
それに、あのコンサートがなかったら、今の私もいなかった。
そんなの、絶対嫌だ。今の私がいないなんて、たとえ進級できていたとしても
なんの意味があるっていうのよ。
千晶「あれは、私が勝手にヴォーカルやっただけじゃない。
しかも、春希に内緒で」
春希「そうだけどさ。でも・・・」
千晶「でもは、もうなし。私がいいって言ってるんだから、これ以上言わない事」
春希「和泉・・・」
千晶「それにぃ、春希が責任もってレポートのサポートをしてくれるんでしょ」
私は、厭味ったらしい顔を作り上げて、春希に献上する。
この顔だったら、春希の重荷も取り除けるかな?
春希「もちろん、責任をもって最後までサポートするつもりだ」
千晶「そかそか。だったら、まずは昼食をお願いするね」
春希「すまん。もうそろそろバイトの時間なんだ。
だから、食事を作っている時間はない。
それと、レポートの詳しい打ち合わせは明日にしてほしい。
どうにか明日のバイトだけは休み貰って、
レポート作成の方向性だけは作り上げるからさ」
千晶「えぇ~。ほんとに? ほんとに食事なし?」
これは、千晶ちゃん、大ショックっ!
大学でのうっぷんを、春希の料理で解消しようって思ってたのに、これは大誤算。
今朝食べた春希の料理があまりにも美味しかったから、期待していたのに。
それに、なによりもお腹が空いたぁ。
春希「食事を作っている時間は本当にない。カップ麺なら大丈夫そうだけど、
それでもよかったら食べるか?
その間に俺は、バイトに行く準備するけど」
千晶「今の私の食欲脳は、春希の手料理なんだよ。
それをカップ麺で代用しようだなんて、到底無理。
無理むりムリ無理むりムリぃいいいいいい~」
春希「無理言うなよ。悪いとは思ってるんだけど、こればっかりはな」
千晶「そっかぁ。じゃあ、はい」
私は瞬時に気持ちを切り替えると、春希に向かって右の手のひらを差し出す。
春希「はいって?」
千晶「ん?」
春希「いや、わからないって」
千晶「わからないの? きまってるじゃない。この部屋の合鍵貰わないと
出入りできないじゃない」
春希「は?」
あっ・・・。春希、固まった。
ここでレポートやるに決まってるじゃない。わざわざここまで通うのだって
時間かかるんだし、時間がもったいない。
そして、なによりもここでレポートをやっていれば、春希の料理が食べられるぅ。
千晶「だから、レポートのサポートをしてくれるって、言ったじゃない。
だから、ここでレポートやるんだから、合鍵ないと不便でしょ。
どうせ春希はバイトにも行かないといけないんだから、
春希が外出中、ずっと部屋の中にいろっていうの。
それは、まあ、私をこの部屋に拘束する方法としてはいいかもしれないけど、
私を信頼してくれすぎじゃない?」
春希「いやいやいやいやいやいや・・・。ちょっと、待てって。
どうして俺の部屋でレポートやるんだよ。
自分の家でやればいいだろ」
猛烈な勢いで不平を訴えてくる春希に、私は理屈を組み上げて言い返してあげよう。
それにしても春希。時間ないんじゃなかったの?
バイトに行くんでしょ。だったら、とっとと白旗あげて、合鍵をよこしなさいって。
千晶「この部屋でやれば、春希のノートとかも使えるでしょ」
春希「ノートくらいだったら、言ってくれれば貸すって」
千晶「それに、わからない個所があったら、春希に直接聞いたほうが早いじゃない。
今回は提出期限まで時間がないんだから、お互いの家を行ったり来たりする時間の
余裕なんてないはずだよ」
春希「それはそうかもしれないけど」
千晶「それに、春希の監視がなかったら、私、怠けちゃうかもよ」
春希「その辺は、和泉のやる気っていうか、進級かかってるんだから、真剣にだな」
千晶「うん。もちろん、真剣にやるつもり。だから、春希も全力でサポートしてくれると
助かるな」
春希「もちろん俺がやれる事はなんでもやるつもりだ。
教授からのお願いじゃなくても、協力していたと思うし」
千晶「そかそか。ありがとね、春希」
春希「いいって。コンサートだけじゃなくて、それ以外のことだって
今思えば和泉に助けられたなってことも多いからな」
千晶「そっかぁ。だったあ大恩人には、恩を返さないとね」
私は、にっこりと、特上の笑顔を作り上げると、再び右の手のひらを差し出した。
春希「はぁ・・・。負けたよ」
千晶「そう?」
春希は、大げさに三流役者レベルのため息をつくと、私の手のひらに合鍵をおいてくれた。
やった。勝った。これで春希のご飯にありつけるっ。
本音をいうと、春希のご飯がなかったら、自分の家でやってもよかったとさえ思っている。
ネットカフェっていう手もあるけど、今回はまじでやばいし、
レポートのことを考えると、春希の部屋が最善かもね。
春希「うっ、やば。もう時間がない。俺はもう行くからな」
千晶「いってらぁ~」
春希「できるだけ早く帰ってくるから、レポートの要旨を掴んでおけよ。
それから、必要となりそうだと思うところを重点的に復習しておけ。
ノートはそこの棚にあるから、勝手に探してくれて構わない。
あと、レポート作成にはまだ手をつけなくていいからな。
方向性決めてからやらないと、二度手間になるし、時間もない」
千晶「わかった、わかった。春希の仰せのままに」
春希は、私の返事を聞いているのかもあやしかった。
自分の言いたい事だけ言うと、玄関で靴を履いてるんだもん。
たしかに時間がないみたいだけど、もう少し私にかまってくれてもいいじゃない。
と、私が春希の背中に向かって怨念をぶつけていると、それが通じたのか、
春希は私の方に振り返った。
千晶「なにか忘れ物でもした? とってあげよっか?」
春希「いや、大丈夫。なあ、和泉」
千晶「ん?」
春希「冷凍庫に、時間がない時用に作り置きしていおいたのがいくつか入ってると思う。
もし、お腹が空いたんなら、それを食べても構わないぞ。
あと、冷蔵庫の方にも少しくらいは残ってるかもな。
あぁあそれと、ご飯は自分で炊けよ」
もうっ、春希ったらぁ。そういうことは、もっと早く言ってくれないと。
千晶脳は、渋々とコンビニ弁当を許容しようとしていたんだからね。
そこに春希から、春希の手料理をぶらさげられちゃったら、もう食べるしかないでしょ。
春希「どうした? 冷凍しておいたのじゃ不満か?
冷凍してあっても、それなりに美味しいはずだぞ」
あまりのご馳走にフリーズしてしまった。
早く春希に返事をしないと、不審がられてしまう。
最悪、冷凍の春希料理さえも取り上げられる可能性もあるし、それは絶対阻止。
千晶「ううん。春希ったら、料理するようになったんだなって感心していただけ。
どういう心境の変化があったのかなってさ」
春希「まあ・・・な。ちょっと料理も覚えてみようって思っただけさ」
ふぅ~ん。なにかありそうね。そこのあたりも、レポート期間中に調べ上げるかな。
なんとなくだけど重要そうなのよね。
春希の顔にも、何か隠していますって、でかでかと書かれているし。
千晶「そっか。それはいいことだね。なによりも私のお腹が満たされるしさ」
春希「これからずっと食事をねだるんじゃないだろうな?
変なのを餌付けしてしまったんじゃないか」
千晶「ふ、ふ~ん」
春希「おい、本気か?」
千晶「さあ、ね。ねえ、春希」
春希「なんだよ」
千晶「バイト行かなくていいの?」
春希「やばっ。じゃあ、行ってくるな」
千晶「いってらっしゃ~い」
私は、春希の足音が聞こえなくなるまで見送ると、
さっそく冷蔵庫探索へと意気揚々で取りかかった。
レポート?
うん、食事をしてからやりま~す。
だって、春希の料理だよ。食べないとね。
千晶 3月2日 水曜日
春希が帰宅したのは、終電ギリギリの深夜。
私が家で首を長くして待っていなかったら、
おそらく昨日と同じように始発以降で帰ってきたに違いなかった。
千晶「おっかえりぃ」
春希「あぁ、ただいま」
千晶「元気ないね」
春希「まあ、な。誰かさんのせいで、ほとんど寝てないからな」
春希は心底疲れているようで、このままベッドに倒れ込みたそうであった。
でも、そうしないのは、私が健気にレポートの準備をしていたからかな?
その見栄っ張りな所は、さすが男の子。
春希は、いちおう女の私の前では頑張っちゃってる気がした。
千晶「私が春希を離さなかったのがいけなかったんだよね。
嫌がる春希を無理やり縛りつけて、体力の限界まで頑張っちゃったから」
春希「・・・おい」
千晶「でも、いくら若いからといっても、睡眠時間を削ってまでやるのはよくないか。
でも、朝の目覚めからっていうのは、サプライズで興奮しない?」
春希「はぁ・・・。どうしてわざとらしく性的意味合いでとれるうような喋り方を
するんだ。こっちは疲れていて、つっこみを入れるのさえおっくうだというのに」
千晶「やだっ、春希。つっこみだなんて」
春希「もう、いいって。使い古されたネタすぎて、聞いているだけ頭痛がしてくる」
千晶「えぇ・・・。なんだか春希ののりが悪いぃ。
ボケなんて、使い古されてネタの方がいいんだって。
春希みたいな古代の化石相手に、新作のネタを披露しても理解してくれないし
つっこみもいれてくれないでしょ」
春希「おおむねその認識であってるんだが、ほんとうに疲れているから、やめてくれ」
千晶「ふんっ。わかったわよ。こっちは春希の言いつけ通りに、まじめぇに勉強していたから
ちょっとは気分転換をしたかっただけなのに」
春希「悪いな。それも含めてレポートも明日にしてくれ。
今は、死ぬほど眠い」
春希は、そう最後の気力を振り絞って呟くと、ふらふらとベットに歩み寄っていく。
途中、私が床に広げたノートや参考資料などを踏みそうになるが、
私が急いでどけてあげなかったら、
今の春希はそのまま踏んづけて進んで行ったかもしれない。
つまり・・・、それだけ疲れていたってことね。
でも、私は春希がベッドにダイブする前にその肩を引き止めた。
千晶「ちょっと待った。寝るの待った」
春希「なんだよ」
振り返った春希の目は、ほぼ閉じかかっており、不機嫌さが顔に滲みでている。
千晶「夕食は? 私、まだ食べてないんだけど?」
今の時間からすると夜食かな。
私は、春希がなるべく早く帰ってくるっていう言葉を信じて、夕食を我慢してるんだよ。
・・・・・・といいつつも、冷蔵庫を漁って飢えを忍んできてはいるけどさ。
でもそれは、お腹が減っては勉強ができないから。
勉強する為に仕方がなくちょこちょこっと食べただけで、本命の春希の料理を食べる為に
今の今まで、春希が帰ってくるのを待っていたんだよ。
だから、帰宅した春希に食事の催促をして、何が悪い。
春希「そっか、冷蔵庫の物を適当に食べてくれ」
千晶「えっとぉ、春希は夕食食べたの?」
春希「適当に菓子パン食べた気がする。いや、おにぎりだったかな?」
千晶「じゃあ、なにも食べないの?」
春希「俺はいいや・・・。和泉が食べたいんなら、俺を気にせず勝手に食べていいぞ」
呆然とする私を見て、春希はもう話が済んだと結論付けたのか、
春希は再びベッドに潜り込もうとする。
千晶「私が春希の手料理を食べたくて、何も食べないで頑張っていたって言っても
何も作ってくれないの?」
春希「冷蔵庫に作り置きがあるって言っておいただろ?」
千晶「それは食べたけど、さぁ」
春希「なら、いいじゃないか。今お腹すいているんなら、また冷蔵庫の物食べてもいいからさ」
千晶「そうじゃないでしょ。私は、今、春希が作ってくれた手料理を食べたいの」
春希「冷蔵庫のも俺が作った奴なんだから、同じだろ。
もういいか。本当に眠いんだ。おやすみ」
あぁ、もうっ。本当に寝ようとする。
私は、最後の抵抗として、春希の体と入れ替えるようにしてベッドの前に立ちふさがった。
けれど、そんなむなしい努力も、春希は私の肩越しをすり抜けるようにして
ベッドに潜り込んでしまった。
千晶「春希っ!」
私が春希の名を叫んでも、深夜の静まりに吸い込まれていくだけであった。
これ以上駄々こねても無意味か。春希も活動限界まで動いていたんだし、
私だって、脳みそをフル稼働させて疲れている。
こう見えても私は、普段から脳みそを使って考えて行動している。
考えなしで、ふらふらっとした和泉千晶は、私が意図的に操って出来上がった和泉千晶
なのだから、考えなしで作り上げることなんてできやしないじゃない。
いわば、計算して男に媚びる女の逆バージョンが和泉千晶っていうこともできるかもね。
ある意味男に媚びない女を作る方が、媚びる女よりも頭使ってるんじゃないかって
思えたりもしている。
だって、媚びない女であって、男に無関心な女ではない。
男に無関心な女だったら、そりゃぁいくらだっているし、男と距離を取ればいいだけだ。
でも、男に媚びないけど常に側にいて、女を感じさせないわけではないけど
女として意識しないで済む女。
な~んか、面倒な注文をする春希さんなんだけど、やってみたら意外と心地いいかもって
思ってしまった。
さて、春希が眠ってしまったんだから、私も寝ますか。
とりあえず、自分の寝床を確保しなくちゃね。
私は、床に散らかったノートなどを部屋の隅に追いり、テーブルも壁に立てかける。
あとは、春希の布団をしっかりと掛け直してから、昼間のうちに持ち込んだ寝袋に
寝ればOKなんだけど、気持ちよさそうな寝顔を見せる春希を眺めていると、
無性にむしゃくしゃしてしまう。とくにお腹の方から、思いっきり。
だから私は、春希の寝顔と手に持つ寝袋を見比べると、寝袋の方を手から離した。
そして、部屋の電気を消すと、春希が眠る布団の中へと、すすすっとネコのごとく
潜り込んだ。
やっぱり温かい。ひんやりと冷え切った寝袋ではありえない心地よさね。
春希の体温で温められた布団に包まれた私は、なれない勉強疲れもあってか
すぐに夢の中にも潜り込んでいった。
せめて夢の中では春希の手料理が食べられますように。
とりえず、これだけは祈っておこう。
なにやら悲鳴が聞こえる。朝っぱらから何を騒いでいるんだろ?
私が言えた義理でもないけど、近所迷惑はよくないよ、春希。
・・・ん? 春希?
この声って、春希の声か。春希が朝から大声でわめいているなんて、大事じゃない。
早く私も起きて加勢したほうがいいかな。
役には立たないかもしれないけど、日ごろの恩をこういうときに返しておかないとね。
と、感動的な決意表明をしているっていうのに、誰かが私の肩を大きく揺らしてくる。
千晶「あぁ、誰? 朝から騒々しい」
こう言っちゃなんだけど、春希の声はけたましく鳴り響く目覚まし時計の代りにはなるけど、
モーニングコールには向いてないね。
やっぱりモーニングコールっていったら、私みたいな女神じゃないと。
目を開けて、最初に飛び込んできた光景は、慌てふためく春希であった。
一応私の想像はあってたか。で、何があったんだい、春希君?
春希「なんだって和泉が俺と一緒のベッドに寝てるんだよ」
千晶「一緒のベッド・・・・・?」
事態を確認するかな。
今の私の状況は、春希の腰に腕をまわして、くっついている。
まだまだ寒い朝にはもってこいの春希湯たんぽである。
春希は慌てていて、怒っている感じでもある。
そして、私と絡みあってベッドの中で朝を迎えた。
・・・・・・あぁ、昨夜、憂さ晴らしと寒さ対策で春希のベッドに潜り込んだんだった。
どおりで寝袋にはない快適さと温もりが提供されたわけだね。
春希「ちょっとまて。俺達・・・え? 疲れてバイトから帰って来て、
そこまでは覚えているんだ。ふらふらで・・・」
千晶「覚えてないの?」
春希「え?」
千晶「(食事を作ってくれない事を)嫌がる私を無視して、そのままベッドへと
(春希だけが)倒れ込んだんだよ。
何度も何度も(料理してって)お願いしたのに、春希は(眠りたいっていう)
欲望のまま、朝までベッドで二人、過ごしたのに。
それはそれは、体験したことがないほど気持ちよかったのに。
それさえも、春希は思い出せないの?」
あたしの意図的な衝撃発言を聞き、春希の顔色は目覚ましく変化していく。
朝の寝ぼけた頭脳であっても、あまりの驚きように、あたしのほうが驚いてしまう。
機嫌をよくしたあたしは、もう一度眠りを誘う温もりを求めて、体温が上昇中の
春希の体を引き寄せる。
あったかぁい・・・・・・。
顔を擦りつけるたびに春希の体温を奪ってくる。
頬から伝わる胸板の感触は、やや男としては頼りなさげなのに、
こうも心を穏やかにさせてくれるのは、アロマ効果でもあるのだろうか?
なんて、小難しい事を考えるのは、やっぱりパスかな。
ただ、彼氏とか、恋人とか、そんな面倒な人間関係はごめんだけれど、
まだまだ寒い冬の終わりには、人の温もりがあっても悪くはない。
春希「こらっ、離れろ。お前が勝手に俺のベッドに潜り込んできただけだろ。
思い出したぞ。ほら話を作りやがって」
ありゃりゃ・・・。あたしが春希から体温を奪いすぎたせいで、春希の頭まで
冷やしてしまったか。
冷静で、頼りになる春希も悪くはない。むしろからかいがいがあるってものよ。
でもね、朝はやっぱり、のんびりとぬくぬくぅってしたいし、してもらいたい。
千晶「嘘は言ってないよ。事実を言っただけなのに」
春希「意図的にミスリードするような言い方するな」
千晶「あれぇ? どう解釈しちゃったの春希?」
春希「どうって・・・」
千晶「あたしは、料理を作ってほしいってお願いしたのを、春希が無視して
寝ちゃったって言っただけなのに、あれれぇ?」
春希「それこそ、和泉は料理なんて言葉は、一言も言ってないだろ」
千晶「でも、春希は、エッチな方の事を想像しちゃったみたいだよね」
春希「黙秘します」
千晶「黙秘してもいいけど、それ言っちゃったら、エッチな事考えてますって
言ってる事とと同じじゃない」
春希「うっ」
やっぱり寝起きだと、春希であってもポンコツ脳みそレベルにランクダウンしちゃうんだね。
寝起きからフル回転も可能なあたしからすれば、ここぞとばかりに春希を
虐めてもいいんだけれど、やっぱあたしにとっての最大級の欲求を解消すべきだな。
千晶「ねえ、春希」
春希「なんだよ」
てぇっれちゃって、もう。かっわいいんだから。
頬を赤く染め上げる春希の顔は、少し幼くて、日ごろの大人になろうと急ぎ過ぎている
自称苦労人を忘れさせてくれる。
こういう男の子っぽい顔もするんだね、春希。
なんだか普段の春希こそが作り上げて演じている和泉千晶同様の北原春希という役に
思えてしまうよ。
それはそれでいいんだけど、同じ演者としては、お勧めできない生き方だね。
千晶「うん、重大な事を思い出したのよ」
春希「なんだよ」
千晶「うん、あたしね・・・、お腹すいちゃった」
春希「はぁ?」
春希の盛大なため息は、春希が内包する熱と共に吐き出される。
再びあたしを睨みつけるその瞳には、戸惑いも、うろたえもない。
いつもの春希そのものであった。
千晶「だってさぁ、春希の料理を食べたくて、一生懸命勉強してたんだよ。
それなのに春希ったら、帰ってきたらすぐ寝ちゃうじゃない」
春希「勉強は自分のためだろ」
千晶「そうだけどさぁ」
春希「今日は、バイトの休みを貰えたから、レポートにとりかかるぞ。
もし嘘ついていたら、食事なしだからな」
千晶「それって、逆の意味だと、ちゃんとレポートに取り組んでいたら
料理作ってくれるって言う事だよね?」
春希「そう解釈してくれても、構わない」
もう、不器用なんだから。冬の外気が身を堅くするっていっても、
そこまで器用に不器用さを演じなくてもいいのに。
まだまだ朝日は部屋の中までは足を延ばしてきてはくれないけれど、
あたしがそっと足を隣に熱源に絡ませれば、春の陽気を運んで来てくれた。
心地よい温もりが、眠気と共に顔を見せてくる。
これは料理以外にも、寝るときは春希湯たんぽも提供してもらうしかないかなぁ。
食事を終えた私は、何故だか春希のジャージを無理やり着せられてから、
テーブルの前でレポートと格闘を始めていた。
たしかに朝布団をまくったら、スカートまでまくれていたのは私の不手際だけれど、
あそこまで怒らなくてもいいじゃない。
私だってレポートで疲れていたわけで、寝るときの服装なんて気にする余裕なんてない。
春希だって、帰って来てから着替えもしないでそのまま寝たくせに、不公平じゃない?
私は、大きすぎる紺色のジャージの袖をもう一度まくりあげながら、不平を噛み殺していた。
正面の春希の様子を盗み見ると、先ほどシャワーを浴びてきて、今朝まであった髭は、
綺麗に剃り落とされていた。
寝不足気味だった顔色も、私という湯たんぽでぬくぬく眠れたおかげで
すっきりとした印象を見てとれる。
私の視線を機敏に察知した春希は、とっととレポートに戻れと訴えかけてくるので
おとなしくレポートに集中した。
春希「ほら、食事にするぞ。テーブルの上のものを片付けてくれから、
これでテーブルを拭いてくれ」
エプロン姿の春希が台所から顔を見せると、私に台布巾をほおってよこす。
千晶「OK~」
私は、春希の声に反応して台布巾をキャッチしようとした。
しかし、無情にもレポートで全ての体力を使いきった私には、腕を上げるのさえ一苦労で、
放物線を描いた台布巾は減速する事もなく、私の手のひらをすり抜けて、
見事私の顔へと着陸した。
千晶「ぶっ」
春希「大丈夫か? 強く投げたつもりはなかったんだが、悪かった。
でも、綺麗に洗ってあるから、汚くはないぞ」
春希らしい見事なフォロー付きの謝罪を、嫌みつきのにこやかな顔で受けながそうと顔を作る。
千晶「大丈夫、問題ないよ。春希も、厄介事に巻き込まれてストレス溜まってるよね。
だから、台布巾くらい私に投げつけても問題ないって」
・・・・・・・あれ?
なんで春希は黙ったままなの?
いつもだったら、ちょっと困った顔をして、お説教付きで言いかえしてくるのに。
今は、俯いたまま神妙な顔をしていた。
春希「そんなこと思ってないから。それは前もって言ってくれた準備もしやすいし、
スケジュールも確保しやすいかとは思う事もある。
でも、ストレスがたまるとか、和泉と関わるのが嫌だなんて、思った事はない。
ましてや、女性の顔に向けて、台布巾であっても投げつけたりなんてしない」
なんなのこの雰囲気。いつもと違いすぎない?
本来だったら、笑いながら食事の準備を進める場面じゃないの?
それなのに、なんでこうなったんだろう。
私はなにもミスをしていない。それとも、私が春希と会っていない間に、春希に大きな変化でも
あったのだろうか?
わからない。ぜんっぜん、わからない。
とりあえず、ちょっと困った感じで、反省しています風の顔を作るか。
あとは春希の出方を見ながら、軌道を修正するしかないかな。
千晶「いやぁ~、ごめんね。私もそんなつもりで言ったんじゃないよ。
いつもの軽い冗談のつもりだったんだけどさ・・・」
春希の動きが鈍い。私が入れたフォローも不発。
それどころか、ますます春希の顔が厳しくなっていった。
どこか腫れものに触るような目つき。違いよ。違うって。
私は、こんな春希は求めていない。
春希「ごめんな、和泉。いつも冗談を言いあってたけど、和泉も女の子だもんな。
男友達っていうか、性別を感じさせないから、それに甘えていた。
でも、それは間違っていた。ごめんな」
なんで? 私は、春希が望む女友達を演じてきたのに。
どうしてこうなったの? わからない。わからないって。
千晶「どうしてそんなこと言うの?」
私の低い声が春希に突き刺さる。楽しい夕食の時間になるはずだったのに、
重い空気が部屋に満たされていく。
キッチンから匂ってくる美味しそうな香りも、どこか別の空間の出来ごとのようで、
なんだか自分の空間を侵食してくるみたいで癇に障った。
春希「どうしてって?・・・それは」
千晶「どうして!」
私は怒鳴りつけるように思いを吐き出すと、春希に詰め寄ってしまった。
あと少し判断が遅れてしまったら、春希の胸ぐらを掴んでしまっていたかもしれない。
春希を押し倒していたかもしれない。
目の前に、春希の悲しそうな顔がなければ、私は理性を失っていたと思う。
春希「それは、・・・和泉が悲しそうな顔をしていたから。
言葉とは裏腹に、寂しそうな顔をしていたから。
だから、俺が悪かったんだって、思うじゃないか」
千晶「え?」
春希の告白を聞き、力が抜けていく。膝から崩れてゆき、そのまま座り込んでしまった。
なんなのよ。そんなお芝居していないって。
いつもの和泉千晶を演じていたはずなのに。
両手で顔を確認してもわかるはずなのに、指で顔なぞって何度も確認しようとしてしまう。
春希はきっと、困った顔をしてるのだろう。
だけど、どんな顔をして春希と向き合えばいいっていうの。今は無理。
私は、顔を手で隠しながら立ちあがると、バスルームに駆け込んで、鍵を閉めた。
春希は追ってこなかった。声をかけてくる事もなかった。
けれど、バスルームの前にいる気配だけはしていた。
心配はしているけど、声はかけない。
春希らしい気遣いに感謝しつつ、私は鏡に映る私を確認する。
・・・・・・なによ、これ。春希が心配するに決まってるじゃない。
疲れきった顔。力ない表情。そして、悲しそうな瞳。
こんなの私じゃない。私が作り出した和泉千晶じゃないって。
どうして? どうして? どうして、こうなった?
なんなのよ。なにがあった? わからない、わからないって。
落ちつけ、落ちつけ、私。舞台の上でもこんなミスしたことはない。
舞台の上で、パニックになったことなんてない。
ここは舞台の上。場面は、春希のマンション。
夕食前の楽しい一時。登場人物は、北原春希と和泉千晶。
仲がいい友人で、冗談をいいあって、じゃれあっている場面。
レポートを手伝ってくれる春希。料理をしてくれる春希。
レポートで疲れきっている和泉千晶。春希の手料理を楽しみにしている和泉千晶。
さあ、これから春希の手料理を食べる和泉千晶を演じるんだ。
私は、ゆっくりと顔を上げ、鏡の中にいる和泉千晶を確認する。
ぜんっぜん、駄目。どうしちゃったの、私。こんなの和泉千晶じゃない。
いくらレポートで疲れているからといって、演じられないなんて。
とりあえず、落ちつけ。いつまでもバスルームにこもっていたら、春希が心配するだけ。
時間が立つ分だけ、春希が自分が悪いって思ってしまって、自分を傷つけてしまう。
それだけは絶対しちゃだめだ。春希を傷つけるのだけは、やっちゃ駄目だ。
かちゃりとバスルームのドアを開けると、目の前に立っていた春希が顔を上げる。
目を合わせる事はできないけど、顔をそらすのだけは駄目。
私は、ゆっくりと自分の体を操縦しながら、この場をやり過ごすことにした。
千晶「心配掛けさせちゃって、ごめんね」
春希「いや、俺がわるかった」
千晶「違うんだって。なんだか慣れないレポート作業を根詰めてやったせいで
つかれちゃったみたい」
春希「そうなのか? 夕食作る前に確認した分までだけど、予想以上に進めていたよな。
この分なら予定より早く終わりそうだって思っていたんだけど、
無理はするなよ。
いくら短期間でやらないといけないといっても、2、3日で終わるものじゃ
ないんだからさ」
千晶「そだね。休憩がてら、春希お手製の夕食でもいただきましょうか」
春希「そうだな。・・・本当に無理だけはするなよ」
千晶「わかってる」
春希「今日は食事したら、ゆっくり風呂にでも入って寝たほうがいいかもな。
レポートの方は、一度俺が直し入れてからの方がいいかもしれないし。
ほら、もし勘違いしている部分なんてあったりしたら、そのまま進めてしまうと
直しも大仕事になってしまうからさ」
いかにもっていうフォローね。春希らしくあり、気を使っているのがわかってしまう。
だから、今の私は素直にその台本を演じる事にした。
ううん、そうじゃない。私には、それしか選択肢がなかった。
千晶「うん、そうする」
なんだか空々しい台詞が、どこか遠くの方で聞こえるような気がした。
千晶 3月3日 木曜日
真面目人間和泉千晶は、北原春希という看守がいなくとも、一人春希宅にて
レポート作業に没頭する。
内心、昨日の失態を思い出したくない思いが強く、目の前に転がっているレポートに
逃げているともいえるかもしれない。それはそれで仕方がない。
だって、あんなミス初めてだったし、リカバリーさえできなかった。
さてと・・・、いつまでも落ち込んでいたってしゃーないか。
これを糧にして、次失敗しなけりゃいいのよ。
そ・れ・に、今日は3食とも春希が作った食事が用意されている。
昼食用のお弁当。これは、無理を言ってお弁当箱に詰め込んでもらったものだ。
なんとなく、お昼御飯といえばお弁当かなと。ま、気分の問題ね。
で、夕食と夜食はレンジで温めればいいように準備されている。
まさにオアシスよね。もし春希が作った食事がなかったら、きっとテンション低かったし、
適当にレポートを仕上げてたね。
以前レポートを手伝って貰った時はカレーだったけど、あれはあれで文句はない。
美味しかったしね。だけど、今回の食事は、毎回違うし、その分楽しみでもある。
だからこそ、つら~いつらいレポートを真剣にやっているわけで。
だけど、深夜バイトから帰ってきた春希が下した評価は、私の予想をやや下回るものであった。
春希「昨日よりはペースが落ちているけど、これでも想定よりまだ早い。
このままやっていけば、十分余裕を持って仕上げられるぞ」
千晶「そ・・・っか。うん。昨日は頑張りすぎて最後は失速しちゃったもんね。
だから今日はペース配分をしっかりしてみましたぁ」
春希「だな。これでいいよ」
千晶「春希は食事すんだの?」
春希「ああ、食べてきた。仕事しながら食べてたから味なんか全くわからなかったけどな」
千晶「それって消化に悪いぞ」
春希「わかってるって。でも、急ぎの仕事だったんだよ。
松岡さんも急ぎの仕事だってわかってるんなら、もっと早く俺に回してくれれば
いいのに、ギリギリまで黙ってるんだもんな」
千晶「そんなギリギリの場面で頼ってくれているんだし、ある意味春希の仕事が
認められたって事じゃないの」
春希「だったら、いいんだけどな。誰かさんみたいに、いいように利用しているだけって
いう場合もあるから、用心しないとな」
うまく和泉千晶を演じられているはずなのに、なんで苛立ってるのよ。
春希だって、違和感なく私と話しているのに。
この胸を締め付けようとする痛み、いったいなんなのよ。
私は、体の内側で暴れまわる不快感を覆い隠し、春希との会話を演じ続ける。
今日の演技はうまくいっている。うまくいっていると感じること自体が
演者としては落第点なんだけど、今はうまくいってくれと願うしかなかった。
千晶 3月4日 金曜日
誰よ、肩をゆするのは。せっかく人が気持ちよく寝ているっているのに、
なんだって安眠をじゃまするのよ。
ぬくぬくと暖まった布団を手繰り寄せ、外界からの侵入を試みようとする。
けれど、いくら布団を掴もうとしても、手は空を掴むのみだった。
春希「和泉、和泉ったら。寝るんだったらベッドで寝とけよ。
風邪引くぞ」
春希? 眩しい光が私の眼球を刺激する。強すぎる刺激は私の脳をショートさせ、
視覚を半分以上奪っていた。
寝ぼけながらも自分の身の回りを確認すると、寒いはずだ。
なにせ毛布一枚羽織らないで寝ているんだもん。
エアコンはついているけれど、あまり温度が高すぎると眠くなるからという理由で
やや低めに設定してあったのが裏目に出てしまった。
春希の心配ではないが、これじゃあまじで風邪ひいちゃうって。
げんに寒いっ。少しでも暖を取ろうと体を震わせて、両腕でぎゅうっと身を抱きしめたが
そんな横着すぎる暖の取り方では、冬の夜にはまったく効果を果たさなかった。
春希「ほら、とりあえず毛布でも着ておけって。
この部屋寒すぎるぞ。エアコンの設定上げておくな」
春希は、私が起きたのを確認すると、私の暴君的要求を聞く前に行動を始めていた。
毛布を頭からかぶって待っていると、ホットミルクが目の前に差し出される。
おずおずと毛布から左手を引き出すと、私が取りやすいようにと
取っての部分を私の方へと向けてくれた。
春希「熱いから気をつけろよ。ハチミツとバニラエッセンスを勝手に入れたけど
甘いの苦手じゃないよな?」
千晶「だいじょぶ。バニラエッセンスなんて入れてるの?」
春希「バニラエッセンス苦手だったか?」
千晶「苦手じゃないけど、春希が入れてくれるなんて意外だったから」
マガカップを両手で掴んで暖を取りながら中身もちょうだいする。
うん、懐かしい。体がぽかぽかする冬の味。
かなり甘めになるけど、寒い日にはこれよね。
春希「そうか? まあそうかもな。俺も最近料理を勉強し出して覚えたばっかだしな」
千晶「でも、これってかなり甘いから、春希は苦手じゃない?」
春希「甘いのが苦手ってわけではないから、嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、俺が飲む場合は、もう少し蜂蜜の量を減らすけどな」
千晶「そう? だったら、私の好みに合わせてくれたってわけね」
春希「散々食事をねだられたからな。いくら学食で貢いだと思っているんだ。
しかも、それ以外でも奢らせようとして、行きもしない店の情報まで
わざとらしく話していたしな」
千晶「そうだっけ?」
春希「そうだったんだよ。そのおかげで和泉の好みはわかったつもりだ」
千晶「だったら、私の努力も実ったじゃない」
春希「役に立ってほしくはなかったけどな」
千晶「勉強もいつ役に立つかわからないけど勉強するんでしょ?
それと同じように、私の好みをしっかり勉強したほうがいいわよ」
春希「いかにもっぽく言ってるけど、勉強と食事をたかるのを同列にするなよ。
・・・うん、今日の分のレポートはできているな。
この分だと、予定通りに終わりそうでよかったじゃないか」
春希は、私との会話をしながらも、目と手だけは私のレポートチェックを進めていた。
本格的なチェックはあとになるはずだけれど、ざっと目を通して、今日の成果を
吟味していた。
千晶「頑張ったからね。春希が食事の準備をしっかりしてくれたおかげかな。
明日も春希が3食分作っていってくれたら、今日みたいな成果が期待できると
思うんだけどなぁ・・・」
私は体一つ分だけ春希に詰め寄ると、首をかしげながら下から見上げる。
春希「わかったよ。作ってやるから明日も頑張れよ」
千晶「りょ~かい。じゃあ、お風呂入ってくるね」
春希「帰って来る時、かなり寒かったから、しっかりあったまっとけよ。
今夜も冷えるぞ」
千晶「じゃあ、一緒に入って、私がしっかりとあったまるか春希が監視でもする?」
春希「馬鹿言ってないで、とっとと風呂に入れ」
千晶「はい、はい。鍵はかけないでおいてあげるから、いつでも入ってきていいからねぇ」
そう言うと、春希のお小言を遮るようにバスルームの扉を閉めた。
・・・鍵はかけないでおいてあげよう。
あの春希が入ってくることなんてあり得ないけど、万が一ってこともあるしね。
千晶 3月6日 日曜日
体が熱い。喉が痛い。頭が痛い。目を開けているはずなのに、なんだかぼやけてない?
しかも、私をゆすっているのは誰よ。こっちは体中が痛くって動きたくもないのに
そんなに揺したら、体に響くじゃない。
だから私は文句を言ってやろうと声を出そうとしたんだけど、
その声は目の前にいるはずの人間に届く事はなかった。
なにせ、私の声ったら売り切れだったのか、声が出やしない。
わずかに残った残高分だけかすれ声漏れたんだけど、そんなの役に立つわけないじゃない。
もう誰よ、ほんとうに辛いんだから、やめてったら・・・。
最後の力を絞って抗議してやろうとしたんだけど、出たのは激しい咳のみ。
喉が焼けるような痛みが走り、息が詰まりそうになる。
それでも咳が止まる事はない。咳をするたびに体が揺れ動き、ただでさえ頭が
痛いっていうのに追い打ちをかけてくる。
しまいには涙まで出ているんだから、これはちょっとやばめかも。
春希「しっかりしろ。背中さすってやるからな」
ん? 春希?
咳が収まらぬ中、声の主を探ろうとすると、なんとか春希だということだけは確認できた。
心配そうに見つめる様は、私の症状の悪さを物語っている。
こりゃ、かなりやばめってことか。
春希「水と薬持ってくるからちょっと待ってろよ。
その前に体温計だな。たぶん風邪だと思うけど、今日は日曜だし病院が
救急外来しかやってないか。
とりあえず、風邪薬飲んで様子見て、やばそうだったら、うちの大学病院
で救急外来やってるから、行ってみるか」
春希はなんだか忙しそうに動いているらしいんだけど、私に薬を飲ませてくれたところまで
しか意識を保つ事が出来なかった。
う~ん・・・、和泉千晶一生の不覚。体調管理さえできないなんて、女優失格じゃない。
なんだか美味しそうな匂いがしてくる。
鼻がひくひくと小動きして、臭いの発生源を探ろうとする。
なんか美味しそうな匂い嗅いじゃうと、お腹もすいてくるじゃない。
お腹がぎゅるるぅって鳴ってしまうのは、私のせいじゃない。
この美味しそうな匂いのせい。だとすれば、その原因とやらを確認しないとね。
ゆっくりと瞼をあけると、部屋は薄暗く、台所の方からの光がわずかに漏れてきていた。
窓の外を見ると太陽はおらず、かすかに伝わってくる街の光が灯されている。
ゆっくりとだが脳が再起動してくれたおかげで自分の状況がわかってきたのだが、
それに伴い体の不調も再認識してしまった。
まず、頭が痛い。で、喉も痛い。さらに体の節々も痛いし、なおかつお腹が空いた。
とりあえず前3つの不調はどうしようもないか。
だったら最後の4つ目の不調を解消すべく、あたしはふらつく足取りで
美味しそうな匂いの方へと歩み寄っていった。
春希「もう起きても大丈夫なのか?」
千晶「大丈夫じゃないけど、お腹が空いたぁ」
春希「もうちょっと待ってほしい。これでも飲んで待っててくれ。
風邪にはいいんだぞ」
春希は、鍋の中身をマグカップに入れると、私に差し出した。
ショウガの香りがつう~んときて、お腹がすいた私の食欲を掻き立ててしまう。
とりあえず春希の勧め通りに一口喉を通すと、いがらっぽい喉が拒否反応を起こすが、
蜂蜜のどろりとした感触が、うっすらと喉に膜を作ってくれるようで
痛みが緩和されていゆく。
一口、また一口の飲み進めていくと、鼻から柚子の香りが抜け出てくるのが
頭の痛みをやや緩和してくれた。
春希「ほら、これも着ておけよ。エアコン少し強めにしてたけど、温かくしたに
こしたことはないからな」
春希は、紺色のフード付きフリースの上着を私の肩にかけると、
すうっと私のおでこに手をあてた。
ひんやりとした感触が心地いい。
けれど、春希はすぐに手を離してしまうものだから、もう少し手で冷やしてよって
無言の要求を目で訴える。
うつろな意識のせいで、とろんとした目で見つめ、
熱のせいで上気した頬になってしまう。
けれどこれは演技ではなく、自然に体が反応してしまった結果。
体が熱いんだから、仕方がないじゃない。
だって春希の手が冷たくて、気持ちがいいんだもの。
あっ、わかった。私は風邪ひいたんだ。
ようやくここ数日の不調の原因を認識した瞬間であった。
キッチンからの漏れ出てくる人工の光を浴びながら
春希が料理をしている後姿を観察していると、お腹がきゅぅっと悲鳴をあげる。
ぐつぐつと煮える鍋から湧き出てくる香りに、体が自動的に反応してしまった。
最後に食事をしたのっていつだっけ?
風邪をひいてもなお空腹を訴えてくるんだから、相当な期間食べていないのかもしれない。
春希のエプロンがせわしなく揺れ動くのを目で追いながら、
自分の現状を把握しようとしても、いっこうに思いだせないでいた。
春希「冷蔵庫には、俺が用意していた食事がほぼまるまる残っていたから、
昨日の朝から調子が悪かったんじゃないか?
それだったら、俺がバイトに行く前に言ってくれればよかったのに」
千晶「朝は、う~ん・・・、特に問題ないって思ってたんだけどなぁ」
春希「俺もとくに調子が悪いようには見えなかったな。
じゃあ、昼前くらいから悪くなったのか?
昼食用の食事は、少しだけしか手をつけられていなかったら、
たぶんそのあたりからだと思うんだけど」
千晶「ほんとに?」
私は思わず大きな声で聞き返してしまう。
私が楽しみにしていた食事を食べないだなんて、異常すぎじゃない。
たしかに集中しているときは、食事も睡眠も忘れちゃうけど、レポートごときと
天秤にかける必要なんてないし、そもそも春希の食事だけを楽しみに頑張っていたんだから、
食事をしないなんてよっぽどのことが起きない限りあり得ない。
春希「ほんとだって。昨日作ったものだから今日も食べられるけど、
さすがに病人に食べさせるわけにはいかないから、あとで俺が食べるよ」
千晶「春希が食べなくても、私が食べるって」
春希「無理するなよ。胃が受け付けてくれないぞ」
千晶「もったいないじゃない」
春希「風邪が治ったら、また作ってやるからさ」
千晶「ホントに?」
春希「ほんとだって」
千晶「嘘つかない?」
春希「つかないって」
千晶「条件付けたりしない?」
春希「そんな面倒なことしないよ」
千晶「じゃあ、じゃあねえ・・・」
春希「声かすれきているから、あまり無理して喋るなよ。女優なんだし、喉は大切にしろよ」
千晶「は~い」
春希はちらりと私が頷くのを確認すると、再び鍋の中に視線を落とす。
ぐつぐつと煮える鍋のお米をゆっくりとかき回して、
とき卵を入れるタイミングをみていた。
そして、とき卵を鍋にたらし終えると、鍋のふたをしっかりとしてガスの火を消す。
低く唸っていた換気扇も消されると、もともと静かだった部屋が重苦しいまでもの
静けさに満たされていった。
春希「・・・・・・ごめんな、和泉」
千晶「ん?」
春希「だから、しゃべるなって。だまって聞いているだけでいいから」
私は、春希の言いつけ通り無言で頷く。背中を向けている春希は、私が頷いたのが
見えないはずなのに、私が頷いたのを確認したかのように話を進めた。
春希「昼食も食べられなかったってことは、昨日の昼前から体調が悪かったってことだよな。
いつごろ倒れたか覚えているか?」
今度はしっかりと春希は振り返り、あたしの返答を確認しにくる。
だから私は、首を振り、わからないと返事をした。
春希「そっか・・・。昼食の皿はラップをかけ直して冷蔵庫に入っていたから、
その後倒れたんだろうな。夕食を食べた形跡はないし、昼間のうちに倒れたのかもな。
それとも、夕方くらいまでは起きていたか?」
私は首を振り、否定する。
春希「だったら、丸一日くらい倒れていたのか。エアコンも眠くならないように
温度が低めに設定されていたし、しかもお前、薄着だったんだぞ」
春希の発言を確かめるべく着ている服を確認するが、春希がいうほど薄着ではない。
むしろしっかり着込んでいるといえるんじゃないかな。
春希「それは、俺が着させたんだよ。・・・あぁ、もともと着ていた服の上に着させたから
脱がせてはないからな。変な誤解はするなよ」
するわけないじゃない。熱もあって現状把握事だって大変なのに、
春希をからかうことなんて、できないって。
ん? 丸一日倒れていた?
私は、自分の目で現実を確認すべく窓の外を見ると、しっかりと窓は黒く塗りつぶされていた。
春希「もう夜だよ。午後7時になるところ。昨日は遅くなるって言っておいたけど、
帰ってきたのが翌日の昼の1時になってしまって、本当にごめんな。
俺が早く帰って来ていたら、ここまで風邪が悪化しないですんだのに。
俺が和泉のサポートするって言ったのに、それなのに風邪引いていたのを
見過ごすなんて、保護者失格だな」
千晶「そんなことないって。春希は、しっかり、ごほっ、ごほ・・・」
急に大声出したものだから、喉に無理がかかって咳が止まらなくなる。
喉はひりつき、咳のせいで酸素がまわってこない。
かすれた咳を繰り返していると、涙で視界がかすんでいった。
春希「ほら、無理するなって」
千晶「無理なんて・・・ごほっ」
春希「それが無理しているんだって」
春希が甲斐甲斐しく背中をさすってくれるものだから、睨みつけて春希は悪くないって
伝えようとも考えたが、ここはおとなしくしておく。
春希「明日までバイトは休みだから、明日中には風邪治してくれよ。
昨日無理やりバイト時間延長させられたから、明日までの休暇でチャラらしいんだ」
今度こそ本気で睨みつけてしまった。
だって、昨日遅くなる事は伝えられていた。
もしかしたら、今日の昼ごろまでかかるかもしれないってことも伝えられていた。
しかも、今日は昼ごろ戻って来て、再び夜にはバイトに戻らないといけない事も。
そして、明日も昼前からバイトがある事も事前に教えてもらっていた。
だから、今春希が言った事は、嘘だってわかってしまう。
春希「さてと、お前はもう少し柚子茶でも飲んであったまっててくれよ。
もう少しでおじやできるからな。味噌味に卵を加えたのでいいか?」
春希は、私が春希の嘘を見破っているってわかっているはずなのに、
もう話は終わりだと、一方的に宣言してガス台の前へと戻っていく。
私におじやの味付けを聞いてきたくせに、私の返事をみようともせず戻っていく。
だから、私の記憶は正しいって、春希が示した事になってしまう。
千晶「春希」
春希「もうしゃべるなって。喉痛いんだろ。声がますますかすれてきているぞ」
春希は、黙々と料理を再開する。私にこれ以上しゃべる隙をあたえないように。
春希は、結局料理が出来上がるまで、一度も私の顔を見る事はなかった。
相変わらずキッチンからは美味しそうな匂いが漂ってくるくせに、
私の食欲だけは衰退していくような気がした。
千晶 3月7日 月曜日
千晶「お風呂入りたいぃ」
春希「駄目だって。熱も完全には下がりきってないだろ。
今みたいな治りかけの時油断するのが一番よくないんだ。
お前みたいにちょっとよくなったからって動きだすと、また熱が上がって、
結局は風邪が長引くんだからな」
春希のベッドを占領している私は、掛け布団から顔と手を出して大きくアピールするも、
即時却下される。
だから、不満たらたらですっていう顔を見せてやっているのに、春希ったら涼しい顔で
私の対応を続けていた。
千晶「それって春希の経験談? いかにも動けるときは多少は無理をしてでも動きますって
感じだもんね、春希って」
春希「うるさい。病人は黙って寝ていればいいんだ」
千晶「だから、汗かいちゃったせいで服がはりついて気持ち悪いのぉ。
こんな状態じゃ、気持ちよく寝られないぃ。
それにぃ、せっかく回復してきているのに、汗で体冷やしたら、
また悪化するんじゃないの?」
ここで私が折れたらお風呂が遠のくじゃない。
病人だし、見栄っていうか、綺麗な私だけを見て欲しいなんていう乙女チックな感情は
ないんだけど、さすがに汗をかきすぎていて体を動かずたびにねっとりと肌にへばりつく
感触には辟易している。
だから、ここは強きでいくしかない。お風呂を勝ち取る為には。
春希「そうかもしれないけど」
千晶「春希が過保護すぎるんだよ。いくら温かくしておいた方がいいからってさぁ。
できることなら、ベッドのシーツも変えて欲しいところよ」
春希「シーツくらないならいくらでも交換してやるけど、お風呂はなぁ」
もうひと押し? 春希の場合は、正論で押すのが一番ね。
春希が言っている事も間違いではないんだろうけど、正解が一つとは限らない。
だから、もうひとつの正解の有効性を証明すれば、春希だって納得してくれるはずだ。
千晶「私がゆっくりお風呂であったまっているときにシーツを交換してくれればいいじゃない」
春希「でも、駄目だ。さっきようやく38度を下回ったばかりじゃないか。
熱が下がれば風呂に入ってもいいけど、高熱で体力が消耗している今は駄目だ」
私は、春希の顔を見て、肩を落とす。こりゃ駄目だ。
春希の決意は堅過ぎる。これを捻じ曲げるには、強引な正面突破しかないだろうけど、
今それをやるだけの体力は、私にはない。
それに、バイトを休んで看病してくれている春希に、これ以上の迷惑はかけたくもないかな。
千晶「わかったわよ」
口をとがらせて渋々納得してあげたのに、なによその自分は正しいでしょっていう顔は。
実際問題として、このままだと汗で体冷えちゃうじゃない。
春希「その代わり、タオルで体拭けよ。今桶にお湯くんできてやるから」
春希はそうぶっきらぼうに告げると、てきぱきと体を拭く準備に取り掛かった。
春希「お湯を絞る時は気をつけてくれよ。こぼしてもいいけど、なるべくだったら
そっとやってほしい。でも、体は本調子じゃないんだから無理はするなよ。
あと、体が拭き終わるまで、俺はバスルームに消えているから、終わったら呼んでくれ」
噛みそうなくらい早口で私に注意事項を押しつけてると、くるりと回れ右をして
バスルームに逃げ込もうとする。
だから私がちょっと可愛いなと思ってしまってもしょうがないじゃない。
きっと春希の事だから、顔を真っ赤にして、私にその顔を見られないようにと必至なはず。
うん・・・、少しは具合がよくなってきたし、ここは一ついつもの調子でやってみよっかな。
千晶「ねえ、春希。ちょっと待ってよ」
春希「ん? なんだ? 桶のお湯は熱いといっても、手を突っ込んでも問題ない温度だぞ」
もう明らかに安全地帯たるバスルームに逃げ込みたいっていうオーラが出ているじゃない。
まだ服を脱いでもいないっていうのに、振り返りもしないし、どこまで用心しているのよ。
千晶「そんなことで呼びとめたんじゃないって。
ちょっとお願いしたい事があってね。どうもこればっかりは私じゃ無理みたいだから、
悪いんだけど、春希にお願いするしかないかなってね。
ほんとうは自分でできればいいんだけど、風邪のせいか、うまく体が動かないのよ」
弱々しく、たどたどしく、それでいて力強く、
病気でふせっている感じをにじみ出しながら言葉を吐く。
いくら春希が振り返っていないからって、観客が私を見ていなくても演技は全力で行う。
声だけじゃなくて、目、口、頬、あご、手・・・
体全部を使って病気で困っている和泉千晶を演技していく。
ほら、私って女優だし、風邪をひいていても女優は女優。
とはいうものの、本当に風邪で体のいう事が効かないのよね。
春希「俺に出来る事なら何でも言ってくれてかまわないぞ。
迷惑だとか、面倒とか思っていないから、風邪をひいている時くらい遠慮するなよ。
あ、でも、普段は少しは遠慮してくれると助かるんだけどな」
あ~ら、春希ったら、冗談をいうくらいには余裕があるみたい。
でも、その余裕、いつまで持つかしらね。
千晶「うん、ありがとね、春希。だったら、お願いしたい事があるから
こっちを向いてくれないかな? まだ服着てるから問題ないよ。
それとも、脱いでいた方がよかったかな?」
私の方に振り向いた春希を、ニヤリと底意地が悪い笑顔で出迎えると、
可愛い事に、春希はピクリと体を震わせる。
もう、春希ったらぁ、もう余裕がなくなっちゃったのかなぁ?
千晶「そんなに警戒した顔をしなくても、無理難題を押し付けたりなんてしないって」
春希「すでに大学4年進級という難題を押し付けられているけどな」
千晶「それはそれ。これはこれだって」
春希「ふぅ~・・・。まあ、いいか。で、俺に頼みたい事って?」
千晶「うん、背中拭いてっ」
やばっ。つい春希との会話のノリで明るく言っちゃったじゃない。
ここは力ない声で言わないといけない場面だったのに。
やっぱり本調子じゃないのかな。
と、反省していると、私の相手役たる春希君は、呆然と私を見つめていた。
見つめているというよりは、虚空を見つめている、かな?
そんなに私のお願いが嬉しかったの?・・・・・なわけないか。
千晶「うまく力が入らないんだって。タオルも絞りにくいから、できれば春希に
しぼってほしいんだけどな」
ここは、背中を拭くだけじゃなくて、タオルもしぼれないのコンボ。
これなら春希だって、折れるしかないでしょ。
千晶「春希? 聞いてる?」
春希「ああ、聞いてる。大丈夫、理解してる」
春希ったら、何度も瞼をぱちくりさせながら落ちつこうとがんばってるじゃない。
でも、どこまで効果があるかしらね。
千晶「そう? だったら、背中拭いてくれない? はい、タオル」
タオルを差し出すと、私の手に吸い寄せられるように春希は手を差し出し、
タオルを受け取る。
タオルを手にしたのはいいんだけど、まだ何故タオルを持っているのか理解して
できていないみたいだった。
千晶「じゃあ、背中拭いてね」
さっそく背中をはだけ出すと、春希はようやく今の状況に理解したみたいで
肩越しで見る春希は、落ち着かない様子であった。
千晶「ほら、早くぅ。いつまでも裸でいると熱が上がっちゃうでしょ」
春希「わかったって」
背中に温かい感触が伝わるのと同時に、タオルで汗をぬぐいさった個所には、
ひやっとする爽快感を残していく。
それと同時に丁寧に痛くしないように配慮する春希の気遣いも伝わってもきて、
お風呂に入れない間にため込んだぬめりも全て取り去ってくれるようでもあった。
千晶「うぅ~ん、気持ちいぃ~。首の後ろのあたりもよろしくぅ」
首の後ろのあたりなんて自分で拭けないわけでもないのに、
春希ったら、甲斐甲斐しく文句も言わずに私のリクエストにこたえる。
春希は肩にかかっている髪を左手ですくいとり、優しくタオルを首にあてていく。
あまりの気持ちよさに気がつかないでいたんだけど、ふと前を見ると今は夜であった。
夜って事を忘れていたんじゃないのよ。夜だってことは知っていたしね。
夜って事は、闇によって黒く塗りつぶされた窓は鏡のようになってしまう。
つまり、窓には私が春希に背中を向けて拭いてもらっている姿が写し出されていた。
千晶「あっ・・・」
私が不注意で漏らした声に反応した春希は、私の真意を探るべく顔を上げる。
すると自然と窓に写った私の目とあうわけで。
千晶「あ・・・ぁあ・・・、ひっ!」
ここにきて、春希を挑発しようと胸を隠していない事でしっぺ返しをくらうなんて、
この台本、出来過ぎじゃない。
どこのラッキースケベ主人公なのよ。
私の悲鳴を察知した春希は、視線を徐々に下げてゆき、ぷるんとした胸へとたどり着く。
大きくてもなお重力に逆らって形を崩さないでいる私の胸を、間接的にとはいえ、
春希に見られてしまった。
顔がほてり、体がピンク色に上気しているのさえ、風邪のせいだけとは思えない。
心臓もバックバクで、春希に聞こえてしまっているんじゃないかと焦りも感じてしまう。
焦りが焦りを生み、どつぼにはまっていっているのに、どこか期待している私もいる。
って、何を期待しているっていうのよ。
ここでも、本調子の私だったら、見たいんならいくれも見せてあげるって
軽口を言えるはずなのに、今の私は、可愛い悲鳴を上げるのが精々だった。
千晶「あのさ、春希。いくら私の胸が立派だからといっても、いつまでも見られていると
恥ずかしいんだけどな」
春希「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。突然の事で驚いてしまって、
俺も状況判断ができない状態っていうか、つまり、パニクっててよくわからん」
千晶「うん、私もだから落ちつきなさいって」
春希「ごめん」
千晶「私が頼んだこと何だし、春希に落ち度はないよ」
春希「ごめん」
千晶「ごめんって、誤っている割には、いつまで私の胸を見ているつもり?
春希にだったら見せてもいいんだけど、でも、そんなに凝視されちゃうと
さすがの私も恥ずかしいかも」
春希「ごめん!」
春希は盛大なごめんをはじけ出すと、
今度こそ安全地帯たるバスルームに逃げ込んでしまった。
ちょっと意地悪しすぎたかな?
でも、ここまでは計算していなかったしなぁ・・・。
とりあえず、このままだと寒くて熱あがっちゃうから、とっとと体拭いて
服を着替えるかな。
千晶「春希ぃっ。恥ずかしがっているところ悪いんだけど、タオルだけは返してくれない?
早く体拭いて、着替えたいから」
と、私が催促すると、春希は上半身だけバスルームからだして、タオルを私に
投げ渡してくれた。
春希「タオルを催促するんなら、上着くらい着ておけよ!」
あら? 顎を引いて今の服装を確認すると、見事な二つの胸が抜き出しで出迎えてくれた。
つまり、春希ったら、今度こそ直接私の胸を見ちゃったわけか。
さっきは窓に写ったのを見ただけでもあんなに取り乱していたんだから、
今度はさすがにやりすぎたかな?
でもね、春希。今回のは、まじでアクシデントなんだよね。
だって、私の顔も春希と同じくらい真っ赤に染まっているはずだから。
なんとなく気まずい。
体を拭いて、着替えもして、ベッドのシーツまでも交換したっていうのに、
体にまとわりつくもやもや感が私を悩ませていた。
わかってる。何が原因かってわかっているんだけど、どうも風邪をひいてからは、
うまく台本を作れないでいた。
いつもの和泉千晶ならどうすればいいかってわからなくなる。
でも、今いる私も和泉千晶に違いない。
だったら、難しい事を考えないで本能で体を動かすしかないのかな?
千晶「あのさ、春希」
春希「なんだ? 喉でも乾いたか?」
私のレポートを確認しつつ、これから書いていく部分についての要点をまとめていた春希は
いかにも素人くさいなんでもないですよっていう顔を無理やり作って返事をしてくる。
こんなへたれ俳優が舞台に上がっていたら、蹴り飛ばしてやるところだったけれど、
今は春希のへたくそな演技に救われていた。
春希の困っている顔を見ていると、すうっと肩の力が抜けていくんだもの。
千晶「さっき私の胸見た事なら、まったく気にしてないから、春希もとっとと
オナニーのネタくらいにでもして、忘れちゃってね」
春希「なっ・・・」
千晶「にひひひひ」
私も春希の真似をして、へたくそな笑顔を見せつける。
春希「女性がオナニーとか言うんじゃない」
千晶「それは、私の照れ隠し?」
春希「う・・・んっ」
こういってしまえば、春希も黙るしかないか。
こちらとて、余裕があるわけじゃないのよね。
千晶「それに、レポートだけじゃなくて、風邪の看病までさせちゃって、
こればっかりは本当に春希に悪いと思ってるんだ。
バイトだって、休ませちゃったでしょ」
春希「それは」
千晶「私と春希の間には、遠慮なんて必要ないじゃない」
春希「そうかもしれないけど」
千晶「だったらいいじゃない。わざとらしく嘘をつかれるよりも、
はっきりとお前のせいだって言われた方が気持ちがいいわよ」
春希「お前のせいだとはいってないだろ」
千晶「それは、今頭が働かなくて、言葉が出てこないだけだって。
でも、私が言いたい事は、春希にならわかっているでしょ?」
私は自然と笑みを浮かべている。
もはや今の私は私がキャラ設定した和泉千晶ではなかった。
春希が見てきた和泉千晶であり、私の中に根付いた和泉千晶であった。
春希「なんとなくだけどな。下手な気を回させるなら、しっかりと真実を伝えて、
余計な気苦労をかけさせるな。
俺達の関係では、建前や遠慮なんかするなって事だろ?」
千晶「まあ、だいたいあってるかな」
春希「だったら、和泉も俺に変な気を使うなよ。
レポートだって、風邪をひいたことだって、何一つ面倒とか思ってないからな。
さすがにレポートは、もう少し前に言ってくれさえすればスケジュール調整が
できて余裕を持てたとは思っているけど、関わりたくないとか、
和泉の側にいたくないとか思った事はないからな」
あまりにも真剣に春希が言うものだから、きょとんとした顔で春希の演説を
聞いてしまった。
多少はうざい奴って思われていたと思ったのに、こんなの卑怯じゃない。
これは、風邪で弱っている女は落としやすいってやつなのかな?
なんて下世話な事を考えている場合ではないか。
うん、まあ、春希らしいかな。
そんな今の私には、この一言を言うのがやっとだった。
千晶「ありがと」
この言葉を聞いた春希の顔は知らなし、知りたいとも思わなかった。
何せ私は、頭まで布団をかけて逃げてしまったのだから。