心の永住者   作:黒猫withかずさ派

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~coda 4

千晶「慰めて欲しかったの?」

 

春希「そうじゃないけど」

 

千晶「だったらいいじゃない。そういえば、NYへにも週末行くんじゃなかった?

   引っ越してからいくの?」

 

春希「引っ越しの手配だけはしたから、業者がやってくれるよ。

   武也に立ち会い頼んでおこうかなって思っているけど」

 

千晶「それ、私がしてあげよっか?」

 

春希「いいのか?」

 

これはラッキーといっていいのか?

別に武也に絶対頼まないといけないわけでもないし、

武也にはまだ、引っ越しの事を話してもいない。

いずれしっかりと事情を説明するつもりでいても、ごたごたしていた為に後回しになっていた。

それに、急いで武也に話すよりも、ゆっくり時間を取れるときに話したほうがいいとも

思える。ただそうなると事後報告になってしまう事が心残りだ。

そうだな。詳しい事はNYから帰国してから話すとしても、引っ越すことだけは伝えておこう。

 

千晶「いいよ別に。で、いつNYに行って、いつ引っ越す予定なの?」

 

春希「NYには明日金曜の夕方6時半の飛行機で行く予定。

   それで、帰国は火曜の昼になると思う。

   引っ越しは、日曜の午後からになるみたいだ。

   そんなには遅くならないみたいだけど、1時くらいまでには来るって言ってたよ。

   なにせ引っ越すと言っても近所だからな」

 

千晶「だったら、はい」

 

千晶は、さも当然という顔を作って俺に右手を差し出してくる。

これで3度目か?

もう、千晶が何を意味して手を出しているかわかってしまう自分が

ちょっとむずがゆく思えてしまう。

 

春希「あいにく合鍵持ってないから、いったん家に戻ってからな。

   夕食はいらないから、自分で何とか調達してくれよ。

   冷蔵庫の中身は勝手に使っていいから」

 

俺の切り返しに、千晶はぽかんと目を丸くしてしまう。

けれど、さすが和泉千晶。切り替えがお早い事で。

不敵な笑みを浮かべると、すかさず俺に斬りかかってきた。

 

千晶「どうせ冷蔵庫の中身なんて、ほとんど空なんでしょ?

   引っ越し前の春希が冷蔵庫にものを入れているとは思えないもの」

 

春希「よくわかったなと、誉めてやりたいところだったけど、あいにく入っているぞ」

 

千晶「うそ?」

 

春希「嘘をついてどうする。今日の弁当で使った残りの材料がいくらかあるから

   勝手に使っていいぞ。

   どうせ明日は、俺は大学の講義ないし、弁当も作らないからな。

   でも、明日の朝の分もあるから、あとで合鍵取りに戻った時に確認しておくか」

 

千晶「それだったら、冷蔵庫を確認して私が適当に買っておくからいいよ。

   どうせ日曜までお世話になるんだし」

 

春希「それでいいんなら、千晶に任せるよ」

 

千晶「りょ~かい」

 

春希「ほとんど引っ越し業者がやってくれると思うけど、

   ある程度は自分でまとめたいのもあって、段ボールが積まれているけど、

   それでもよかったら自由に使ってくれ」

 

千晶「うん、ありがとね。でも大丈夫だから、安心してNYに行っていいよ」

 

千晶は、NY行きの本当の理由を聞こうとはしてこなかった。

もしかしたらある程度の予想はしているのかもしれない。

いつか俺が話を聞いてもらいたい時、こいつはどんな顔をするのだろうか。

ひょうひょうとした顔をして、なんともないって片付けてしまうのだろうか。

それとも、重く受け止めて、怒ってくれるのだろうか。

どうなるにせよ、千晶は受け止めてくれるはずだ。

今日、俺と和泉との関係は終わりを迎えた。

そして、今日から俺と千晶との新しくもあり、

今までの関係の一部を引き継いだ関係が再スタートされる。

こいつには驚かされる事ばかりで、

今後どんな関係に発展していくかなんてわかったものではない。

わかりたいとも思わないけど、わからない方が面白いに決まっている。

千晶ならそういうはずだ。

これも千晶の影響かと、そう思えてしまう。

きっと他人から見たら歪な関係だって批難されるかもしれない。

批難されるかもしれないが、それがどうした。

何か問題でもあるのか?

俺と千晶が望んで得た関係に、誰であっても文句は言わせない。

これはいいすぎか。文句があっても、聞き流してやる。

これのほうが俺らしいか?

俺と千晶となら、退屈しない日常を送れるはずだ。

 

千晶「エッチ関係の雑誌とかは、引っ越し業者が来る前に処分しておいてあげるね。

   大丈夫だって。その辺のところは、私は寛大だから、春希がどんなアブノーマルな

   趣味を持っていても、全部受け止めてあげるからさ」

 

前言撤回。

前途多難のままNYに行かなければならないかもしれない・・・・・・と、思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

夕方という時刻は、既に過ぎ去っている。

俺が浜田さんに呼ばれて編集長の元へ訪れたのは、夕陽が消えかけの頃だったと思う。

そして、俺と浜田さんが編集長の元から会議室へ移った頃には、すっかり日は暮れていた。

けれども、編集部内に満ち溢れている活気は衰える事もなく、

今が夜だという事を忘れさせてしまう。

俺としては、静まり返った会議室に浜田さんと二人で放り込まれるよりは、

壁から抜けてくる喧騒に満ちた編集部の騒音をBGMに出来たほうが有難かった。

 

浜田「やはり入社前研修制度そのものは一般的だったとしても、

   海外まで行った奴はいなかったな」

 

春希「自分でも予想してはいましたけど、案外制度だけあっても知られていなく、

   実は使われていない制度がたくさんあるような気がしますね」

 

浜田「自分に関係ない制度ならばなおさらだからな。

   人間、必要を感じなければ気がつかないものさ」

 

春希「しかし、そういった使っていない制度こそ裏技とか言われるんでしょうね。

   本来は他の制度と同じ通常の制度であるにもかかわらず」

 

浜田「お前らみたいな奴がいるから裏技だっていわれるんじゃないか?」

 

どこかあきらめムードを漂わせている浜田さんの口調には、批難の色はない。

むしろ誉めているんだろうけど、俺と麻理さんをどこか規格外の人間だと

思っている気がする。

そんなに強い人間ではないのに。・・・そう、俺も麻理さんも弱い人間だから

こうして人が見向きもしない制度を見つけ出してきては、自分を守ろうとする。

自己分析をするにつれ、自嘲気味に自分を責め立てる影が俺を覆い尽くそうとしだす。

だから俺は、とっさに自己分析を終了させて、心の闇を心の奥深くにしまい込む。

見せられない。見せてはいけない。

俺と麻理さんの秘密を、今、編集部のみんなに知られるわけにはいかなかった。

 

春希「別に自分はそう思われてもいいんですけど、

   ただ、制度を捻じ曲げているわけでもないので

   ちょっと心外だと思ってしまうところもありますね」

 

浜田「お前は正論すぎる所があるから、NYへ行ったら、敵を作らないように気をつけろよ」

 

春希「え?」

 

俺は、浜田さんの突然の結論に困惑を示してしまう。

だって、編集長は浜田さんに任すとはいっても、

こんなにも早く結論が出るとは思っていなかった。

最終的にはNY行きを許してくれるとは思っていた。

それでも、NYへ行く理由や今後の進路について詳しく話さないといけないと考えていた。

だから俺は、浜田さんに話せる範囲を、矛盾なく的確に話せるように何度も計算していたのだ。

 

浜田「そんなに驚いた顔するなよ。

   編集長も、あとは俺に任せるって言って書類をくれただろう。

   それに、北原の事だから、俺よりも海外研修の規則を知っていると思ったんだがな」

 

春希「え?」

 

浜田「だからな、海外研修を希望する者は、直属の上司及び

   その部をまとめる責任者の許可があれば、その希望を許可するってあるだろ」

 

春希「あつ」

 

浜田「やっと気がついたのか。責任者は、編集長だから、すでに許可は下りているんだよ。

   いくら直属の上司の許可が必要だっていっも、上司が推薦もできない部下を

   編集長に推薦するわけないだろ。

   つまり、お前は編集長が書類をくれた時点でNY行きが決まっていたんだよ。

   それとも、あれか?

   俺がもうちょっとごねたほうがよかったか?

   あぁ、引き止めてほしかったとかか?」

 

浜田さんは一見おどけているような口調をしていても、その顔の固さをぬぐい切れていない。

きっと俺を気持ちよく送り出しらいのだろう。

その気配りが、よくわかってしまう。だって、俺は短い時間であっても、

この人の部下であったし、それに編集部に来てから、ずっとお世話になっている先輩でも

あるのだから。

 

春希「そ、そんなことはないです。

   ただ、もう少し理由とか聞かれるのかなと」

 

浜田「話せるのか?」

 

理由を聞いて欲しいのかとは、浜田さんを言わない。

一般的なシチュエーションならば、ここは上司が理由を聞いて欲しいのかと

普通ならばいうはずだ。

それなのに浜田さんは、「話せるのか?」と言った。

つまり、浜田さんは、浜田さんなりに俺の事情をくんでくれているってことなのだろう。

 

春希「今は話せません」

 

浜田「そうか」

 

春希「すみません」

 

浜田「いや、いい」

 

春希「ありがとうございます」

 

浜田「まあ、な。俺もお前の上司やってたから、お前が理由なしでNY行きなんて

   決めるとは思ってないよ。

   むしろ、こんなにも急に言いだしたんだから、よっぽどの事情だって推測できる。

   だから、今は聞かない。いつか北原が話せるようになったときに

   話してくれればいいよ。

   ・・・うん。別に話せなくてもいいけど、俺を頼ってくれよな。

   お前がNYへ行っても、東京の、この編集部が、お前のホームグランドなんだから、

   いつでも帰ってこられる場所だってことを覚えておいてくれればいい」

 

春希「ありがとうございます」

 

俺は、もう一度感謝の気持ちを伝え、深々と頭を下げる。

そして、再び顔をあげたその向こうには、顔を少し紅潮させた浜田さんがいた。

 

浜田「松岡の奴も、北原くらい行動してくれればいいんだけどな」

 

春希「最近は、以前より良くなったって言ってたじゃないですか」

 

浜田「それは、比較論にすぎない。目指すべき目標は、高い方がいいからな」

 

春希「そうですね。浜田さんも、俺が日本に戻ってくるまでには編集長くらいには

   なっていて下さいよ」

 

浜田「おいおい。いくら高い目標を持つと言っても、北原が日本に戻ってくるまでに

   編集長になるなんて無理だよ。

   それとも、北原は、ずっとNYにいるつもりなのか?」

 

自分が招いた失言に、表情を崩しそうになる。

俺としては、重い雰囲気を払しょくしたいだけだったのに、いつもの俺なら仕出かさない

失態に悪態をつきそうになってしまう。

けれど、悪態は再び喉の奥に押し込めて、

冷静を装って明るくなってきた雰囲気を維持しようとした。

 

春希「だって、俺が日本に戻ってくる時、編集部に席を確保しておいてもらわないと

   いけないじゃないですか。

   だったら浜田さんには、編集長くらいには出世して頂いてもらわないと困ります」

 

浜田「それは手厳しいな」

 

春希「まあ、冗談はともかく、せっかくNYへ行くのですから、

   向こうでの仕事をしっかりと覚えてから日本に戻ってくるのもいいかなって

   思っていたりしています。

   そう何度もNYへ行く機会などありそうもないですから」

 

浜田「たしかにな。俺もそうだが、松岡なんて、ずっと日本にいそうだな」

 

春希「たしかに。でも、松岡さんばかりを引き合いに出していると、

   松岡さんも拗ねてしまいますよ」

 

浜田「わかっているよ。でも、あいつもそんなことを言われないように頑張っているところ

   もあるから、ついな」

 

春希「期待しているんですね」

 

浜田「期待しているっていうか、可愛いんだろうな。

   ほら、馬鹿なやつほど可愛いっていうだろ?」

 

春希「そういうことにしておきますよ」

 

和やかな雰囲気がうまく流れていく。俺は、ほっと一息つきそうになった。

しかし、目の前にいる浜田さんは、一度俺から視線を外し、

再び俺の方に視線を戻した時には少し厳しい目つきで俺に尋ねてきた。

 

浜田「最後に一ついいか? 答えられないのなら、こたえなくてもいいから」

 

春希「わかりました。どうぞ」

 

浜田「俺の下じゃなくて、風岡の下がよかったのか?」

 

どういう意味で言ったのだろうか?

浜田さんの問いだけでは、その後ろにある意味が読みとれない。

俺のその疑問が伝わったのか、浜田さんは補足説明をしてきた。

 

浜田「俺は、風岡ほどお前を使いこなせていなかったと思う。

   それは仕方がないで片付けられないとはわかっているけど、

   俺も自分の身の丈はわかっているつもりだ。

   ないものはない。でも、ない事を嘆いているばかりじゃなくて

   俺が出来る精一杯の事はしてきたつもりだ。

   だから、・・・その、北原は、俺の下じゃ、物足りなかったのかなと、な」

 

春希「そんなことはないです。

   毎日が充実していて、与えられた仕事をこなすのに苦労していたほどですから。

   だから、仕事に関して、なにも不満もありませんし、それに

   上司としても、人としても、尊敬していました」

 

浜田「そっか、わかった」

 

浜田さんが本当に聞きたかった質問は、これだったのだろうかと、ふと気になってしまう。

一応最初に、俺がNYへいく理由は聞かないと言った手前、このような質問に

なってしまったとさえ思えてしまう。

・・・浜田さんが一番聞きたかった事。

そして、聞けなかった事。

それは、麻理さんが関係しているのか。その事なのではないかと、思えてしまう。

けれど、この問いを投げかけられなくてよかった。

だって、何度シミュレーションしても満足する回答が出なかったのだから。

嘘をつく事はできない。

ならば、回答拒否? それは、すでに麻理さんと関係ありますと明言しているだけだ。

だったら、話せる範囲で話すべきだったか?

それならば、どこまで話す?

NYへ、麻理さんを追って行く理由を、どこまで話せるというんだ。

一応、麻理さんのもとで、海外での仕事を覚えたいという理由も考えはした。

これは嘘ではないし、理想的な海外修業と言えるだろう。

しかし、平静を装って告げることができただろうか。

どうしても、最後の作り上げた理由を告白する場面でエラーが出てしまう。

嘘ではないのに。むしろ理想的な理由であるからこそ、悲しくなってしまう。

こんなにも幸せな理由を、俺は胸を張って言えるわけがない。

NYで、一人孤独と向き合っている麻理さんに、虚偽の笑顔を強要したくはなかった。

 

浜田「さて、もうそろそろ戻るとするか。

   鈴木あたりが、今か今かと待ち受けているから、お前の方から説明しろよ」

 

春希「はい、わかりました」

 

鈴木さんだけでなく、松岡さんや木崎さんにも伝えなくてはならない。

きっと鈴木さんの松岡さんは、俺と浜田さんのただならぬ雰囲気を察して

色々を推測しているに違いなかった。

これが単なる好奇心からであるのならば、適当にあしらう事も出来る。

しかし、きっと先輩たちはそれだけの為に俺の事を気にしているわけではないだろう。

ただ、NY行きを伝えたら、麻理さんをからめた追及をきっとしてくるだろうけど・・・。

 

 

 

 

 

鈴木「へぇ、NYかぁ。で、麻理さんとこに転がり込むの?」

 

みんなに差し入れとばかりに持ちこんだ編集部備え付けのコーヒーを

俺は盛大に噴き出しそうになる。

どうにか目の前にいる鈴木さんにコーヒーを口からぶちまける醜態は回避できたが、

コーヒーが入ってはいけないところに入りそうになり、むせかえしてしまう。

 

春希「どこを、どう考えれば、麻理さんの所で居候させてもらうって考えつくんですか?」

 

いきなり正解を引き当てた鈴木さんに対して、俺はいつもの調子で反論してみせる。

きっと噂好きの、勝手な想像なのだろうけど、核心を見事に突いてしまうあたりは、

油断できない。

 

鈴木「だって、麻理さんと付き合ってたんでしょ?」

 

春希「は?」

 

鈴木さんの切り返しに、今回ばかりは俺も対処ができなかった。

唯一助かった事といえば、コーヒーを口に含んでいなかったことくらいだろう。

もしコーヒーを飲んでいたら、コーヒーを吹きだしていたと断言できる。

それくらい俺にとっては衝撃的な追及だった。

木崎さんは、珍しくもないが、タイミング良く編集部に残っており、もちろん松岡さんも

いつものごとく俺に詰め寄っていた。

しかし、二人とも鈴木さんの発言に驚いてはいない。

驚いているのは、俺一人だけだった。

一応側に入るけど、自分のデスクに陣取っている浜田さんの様子も伺ったが、

これもまた驚いてはいなかった。

先ほどから浜田さんは、俺達の様子を見ているので、俺達の会話を聞こえていないわけはない。

聞こえていてもなお驚いていないという事は、浜田さんにとっても当然の事って

いうことなのだろう。

 

春希「ちょっと待ってください。いつ、俺が麻理さんと付き合ってる事になったんですか?」

 

鈴木「いつって、今年になってからじゃないかな?」

 

松岡「だよな」

 

さも当然という口調で、迷いがない発言であった。

 

木崎「北原は、ばれてないと思っていたのか?」

 

木崎さんまでも当然という顔を見せているので、確たる根拠があっての推論なのだろう。

でも、俺は編集部内で麻理さんと付き合ってるような態度をしたことはないと断言できる。

そもそも実際には付き合ってはいないのだから、断言できるというのは

少しおかしいのかもしれないが、俺と麻理さんのやり取りは、

今年になっても今までと変わらなかったはずだと思えた。

それに、俺は、そして特に麻理さんは、仕事にプライベートを持ちこむことはない。

・・・いや、プライベートを持ちこんだ結果が、NY行きか。

自嘲気味に、自分のふがいなさを猛省しそうになったが、

目の前に展開する好奇の目を感じ取り、

ぎりぎり意識を現実世界につなぎ止めておくことに成功した。

 

春希「どういうことでしょうか?」

 

鈴木「え? 本当に私たちが気がついてないと思ってたの?」

 

春希「だから、どういう意味です?」

 

松岡「察してやれよ。麻理さんに口止めされているんじゃないか?」

 

鈴木「なるほどね」

 

鈴木さんは、何か含みがある笑いをにじみ出すと、勝手に納得して、勝手に結論付けた。

 

春希「だから、どういう意味なんですか?」

 

松岡「本当にわかってないのか?」

 

さも意外そうな顔を見せるので、俺としては不安になってしまう。

この編集部で、俺と麻理さんの関係が、どう評価されているのか不安になる。

鈴木さん達の反応を見る限りは、NYでの真相にはたどり着いてはいないはずだが。

・・・俺だって、NYにいる麻理さんが、あんな状態になっているなんて

想像する事もできなかった。

現実は、想像を超えるとはよく言ったものだが、あまりにもひどいではないか。

俺に責任があるってわかっている。

ならば、俺にすべての責任を押し付けてくれればよかったんだ。

それなのに、麻理さんに責任が襲い掛かってしまった。

その方が、俺がショックを受けるって、最初からわかっていたかのように・・・。

 

木崎「その辺にしてやれよ。本人達は、いたって本気だと思うぞ。

   お前らだって、経験あるだろ?」

 

松岡「そうかもしれませんが、でも、あまりにもうぶで、見ている方が恥ずかしかったですよ」

 

木崎「まあ、な。あれは、ちょっと見ている方が照れたな」

 

鈴木「本当よ。中学生の恋愛かって、突っ込み入れたくなっちゃったもん。

   でも、麻理さんと北原君だし。まじめ過ぎる二人の事だから、

   まじめに隠そうとしてたんだと思うよ」

 

今度はなぜか鈴木さんに肩を優しく叩かれて、勝手に慰められてしまう。

本当に訳がわからなかった。

たしかに、麻理さんとのことは、隠さなければならない。

麻理さんの病状は、誰であっても気がつかれてはならなかった。

今、編集部は勘違いしてくれている。

俺が戸惑っている理由さえも、鈴木さん達の理想によって創造された理由に

すり変わってくれていた。

ならば、俺は、この状況を利用すべきではないだろうか。

けっして誉められる方法ではない。

むしろ、麻理さんの病状が回復して、笑って話せるようになった時、

俺がこれからしようとしている、つまり、鈴木さん達を騙そうとしている行為そのものに

反感を持たれてしまうかもしれない。

俺が有する選択肢は少ない。

既に浜田さんには、今は伝えることができない理由があることを打ち明けてしまった。

もちろん、麻理さんと付き合っているからという理由だけで、俺がNYに行くとは

考えてはいないだろうけど、

麻理さんが理由の一つとなっているとは考えているはずだ。

 

松岡「北原は、顔に出さなかったけど、麻理さんは、顔に出まくっていたからな。

   さすがに仕事中はいつも以上に鬼だったけど、北原が絡んでくると

   顔が違ったからな」

 

鈴木「だよね。いつだったか、北原君から電話がかかってきたときなんて

   編集部中が麻理さんが必死に隠そうとするのを生温かく見守ってたもんね」

 

松岡「あれは大変だったな。本人は隠せているって思ってたみたいだけど、

   編集部まで声が聞こえてきたし、声の質っていうの?

   最初は麻理さんじゃない別の人が、麻理さんの声を使ってるって思ったほどだしさ」

 

鈴木「うんうん。電話の後の顔なんて、仕事中の麻理さんからは想像できないほど

   デレまくってたからね」

 

松岡「あれは編集部でも話題になったな。仕事の鬼にも春が来たんだって

   みんな喜んでいたな。

   ま、少しは仕事の要求が楽になるんじゃないかって期待してただけなんだけど、

   まったく仕事量は変わらなくて、がっかりしたのを覚えているよ」

 

鈴木「当たり前じゃない。あの麻理さんなのよ。逆に仕事が増えてたんじゃないかな?」

 

松岡「たしかに。・・・俺達の方に仕事を振られなかった事は幸いだったけど」

 

・・・考えがまとまらない。

俺は、この人たちに、どういった態度をとればいいのだろうか。

俺は、曖昧な態度のまま、鈴木さん達の会話の聞き役に徹していく。

自分からは発言しない。求められれば、曖昧にうなずいて、確定事項は伝えない。

卑怯だってわかっている。

冷静な俺だったら、うまくこの場を切り抜けられたのかもしれなかった。

しかし、冷静ではいられない。

俺の事だけなら、なんとでも対処のしようがあったのに。

その為の模範解答は無数に用意してもいた。

それもこれも、全ては麻理さんが話題の中心まで持ちあげれらてしまったせいで

俺の計画は崩壊した。

麻理さんが表舞台まで出てしまっては、俺は不誠実な対応が出来なくなってしまう。

麻理さんをこれ以上傷つけるわけにはいかない。

麻理さんをこれ以上傷つけさせるわけにはいかない。

汚名は全て俺が引き受けるって決めていた。

だったら、俺は、鈴木さん達に嘘だってつけるはずなのに、それができないでいた。

 

鈴木「まあ、いいんじゃない。麻理さん、とっても幸せそうだったし」

 

松岡「だよな。仕事だけじゃなくって、プライベートでも幸せになってほしいって

   本気で思ったし」

 

木崎「たしかに、編集部のみんなも、似たような意見だったな」

 

俺を置いてけぼりにして話は進んで行く。

曖昧な笑顔を浮かべたまま、話を聞いているふりを演じていた。

いや、反応できないだけで、一応聞いてはいるが正しいかもしれない。

それでも、俺は、これらの発言に対しては、過剰なまでも反応してしまう。

鉄の棒で激しく叩かれる精神状態とは、こういうことだって実感してしまう。

麻理さんが幸せそうだった。

これは嘘ではないと、断言できる。

事実、麻理さんの口から伝えられた事でもあるのだから、否定できない。

そう、・・・俺が麻理さんとの事を、嘘で固めた曖昧な事実をでっちあげて

鈴木さん達に伝えられない理由は、気がついてみれば、シンプルな理由であった。

その理由とは、麻理さんが、光栄にも俺に向けてくれている好意を

たとえ話をそらす目的であっても、否定することなど出来なかったのだ。

麻理さんが注いでくれる愛情を、ほんのわずかでも汚す行為など

俺には到底無理な話であった。

それさえ気がついてしまえば、肩の荷が下りたも同然だった。

俺は、鈴木さん達の執拗なまでの追及に、のらりくらりとかわしていく。

麻理さんからの愛情を否定することなく、嘘を塗り固めていく。

その行為は、倒錯した愛情だってわかっている。

麻理さんの純粋な愛情とは、かけ離れているって、誰よりも理解していた。

俺は、いつもの北原春希を演じながら、そんな醜い自分を分析していた。

 

 

 

 

 

 

 

春希 4月8日 金曜日

 

 

 

ついにNYまで来てしまった。

青春の勢いって怖いなって、あとで苦笑いしてしまうかもしれない。

長時間乗っていた飛行機から降りて最初に考えてしまった事は、

本当にどうでもいい内容だった。

NY時間18時30分到着のJFK空港。

降り立った空港を見渡せば、当然ながら日本人はあまりいない。

一緒の飛行機に乗ってきたはずの日本人は、すでに各々の目的地に向かっている。

多種多様な人種が混ざり合った空港ロビーにおいて、俺は他の例にもれず、

人の中に埋もれてしまっていた。

視界を人の波で隠されてしまった俺は、とりあえずその場にとどまり、

腕時計で時間を確認する。

飛行機の中で時差は調整しているので正確な時間を示しているが、

秒針が進むごとに心細さが積み上がって来てしまった。

飛行機は予定通りに到着しており、待ち合わせの場所にも時間通りに来られたと思う。

しかし、初めて来た俺が目印を見つけられないのを防ぐために指示された場所は、

他の待ち合わせ客もよく利用するような目立つ場所であった。

その分人が混み合って、人の中に埋もれてしまうデメリットは避けられなかったが。

さすがに待ち合わせの場所と指定されているので、出会う事ができないとは思えないが、

若干心細くなってしまうのは致し方ないはずだ。

一人で来たNYで、気遅れしているわけではないのだけれど、

どうもアウェー感を感じてしまうのは、自分が島国から来た日本人だからだろうか。

しかし、そんな劣等感は、わずかな時間だけしか思いめぐらすだけだった。

だって、俺の目の前にいる人が、俺の意識を全て奪い去っていったから。

ずっと会いたいと思っていた人が、目の前にいる。

俺がどうでもいいような劣等感を感じている間に、

この人は息を切らせながら俺を探してくれていた。

こんな俺の為に、一生懸命動いてくれていたことが、

どうしようもなく愛しく思えてしまった。

 

春希「来てしまいました」

 

俺の声が届いているはずのなのに、麻理さんは返事を返してはくれない。

俺が呼ぶ声で、肩を少し震わせて反応していることから、

麻理さんは俺の声をしっかりと聞こえてはいるはずだった。

それとも、英語に慣れ過ぎて、久しぶりに聞いた日本語では、

反応が遅れてしまうのだろうか?

 

春希「麻理さん?」

 

再び名前を呼びかけて、数歩前に詰め寄る。

俺達を一万キロ以上隔てていた距離は、今や50センチほどまで縮まっている。

相手の表情どころか、息遣いさえ感じ取ることができるところまできていた。

 

春希「麻理さん?」

 

もう一度呼びかけても、返事はなかった。

麻理さんの長いと思っていたまつ毛は、小刻みに揺れ動き、

コートの上からでも息を整えようとしているのがわかるくらい胸を上下させていた。

けれど、俺を捉えた視線だけは動かない。

瞬きをする1秒に満たないほんのわずかな瞬間でさえ惜しむように俺を見つめてくれていた。

 

春希「麻理さ・・・」

 

さらにもう一度呼びかけてみようとしたところで、変化が生じた。

俺と麻理さんとの距離は、一瞬でゼロセンチまで縮まっていた。

麻理さんが俺の胸に無言で飛び込んできた。

飛び込んできたっていうのは、大げさか。

俺の心証としてはあっているのだけれど、実際は、それが当然の成り行きのごとく

俺の胸に静かに収まったという方があっている気がした。

麻理さんは、一歩俺の元へ踏み込むと、俺を放すまいと腰に腕をまわしてくる。

けっして力が入っているわけではないのに、俺はこの腕から逃れられないと実感した。

ただし、俺が自らこの腕をふりほどくことなどけっしてないが。

俺は、ゆっくりと現状確認の為に視線を下を向ける。

ちょうど麻理さんの頭のてっぺんしか見えないはしない。

黒くしなやかな髪が日本にいた時と同じように後頭部で束ねられていた。

今目にしている視覚情報のみならば、麻理さんは日本にいた時と同じと言える。

だけど、俺の腕から伝わってくる麻理さんの情報は、

明らかに日本にいた時の麻理さんとは違うと伝えてくる。

けっして抱き合った事があるわけではない。

麻理さんとリビングのソファーで寄り添ってのんびり過ごしたことはあっても、

抱き締め合う所まではいった事はない。

それでも、俺の体が記憶している風岡麻理の体つきが大きく変化している事だけは読みとれた。

キャラメル色のロングコートに隠された体であっても、

抱きしめてしまえば、コートの上からでも痩せてしまったとわかってしまう。

日本にいた時から細い細いと思っていた滑らかな曲線を描いていた腰は、冗談でもなく、

よくある比喩表現でもなく、

ほんとうにほんの少し力を強く入れてしまうと折れてしまいそうであった。

俺としては、俺の胸にうずめた顔を強引にでもひきあげて、

早く麻理さんの顔を見たいところでもある。

しかし、俺の存在を確かめるようにぴったりと頬を胸に張り付かせているわけで、

その行為を中断させる気にはならなかった。

だから俺は、麻理さんの鼓動を俺に刻みつけようと、

腕や胸から伝わってくる麻理さんの熱と息遣いを感じ取ることだけに全神経を動員した。

 

 

 

・・・再会から数分が過ぎ去ったと思う。

ハグが日常の一部分となっているアメリカであっても、俺達の抱擁は限度を超えていた。

さすがに日本でやっていたら目立ちまくっていたと思う。

まあ、アメリカであっても目立っていたが・・・。

一応、別れと再会の広場である空港であることが幸いだったと言えるのだろうか。

 

春希「麻理さん。・・・そろそろ俺に顔を見せてくれると助かります。

   こうやってずっと抱きしめていたい気持ちも強いのですけど、

   それと同じくらい麻理さんの顔を見たいんですよ」

 

俺の声に反応して、俺の胸にこすりつけていた頬の動きが止まったのだから、

一応は俺の声が麻理さんの耳まで届いてはいるようだった。

しかし、いっこうに麻理さんは顔をあげてはくれない。

佐和子さんの話によれば、佐和子さんがNYで麻理さんと再会した時も、

麻理さんは自分が痩せてしまった事を隠そうとしていたらしい。

ただ、今は俺に知られてしまっているわけで、今さら隠す事はない気がする。

まあ、こんな考えばかり浮かんでしまうから、

女心に疎いって言われてしまうのかもしれないけれど。

 

春希「麻理さん・・・、お願いですから」

 

強制はしない。強制はしないけれど、甘えるように語りかける。

その甘えが麻理さんにとっては、

どんな命令よりも過激な強制力をもっているなんて、俺は知らなかった。

 

麻理「うん、わかってる。・・・でも、もうちょっとだけ、お願い」

 

久しぶりに聞いた生の麻理さんの声は、俺が記憶している声と重なる。

それは、本人の声なのだから、当たり前といったら当たり前だ。

わかっているけど、確かめずにはいられなかった。

麻理さんは、俺の腰にまわした腕の力を緩めると、

ぴたりとはりつけていた頬も俺の胸から放す。

そして、俺の脇の下のあたりの服を握りしめ、やっとあげてくれると思っていた顔は、

おでこを胸に押し当てられる事によって、お預け状態が維持された。

 

春希「・・・麻理さん」

 

落胆の声が混じっていたとしても、俺は責められないはずだ。

だって、それだけ期待していたのだから。

 

麻理「気がついたんだけど」

 

春希「はい、なんでしょうか?」

 

麻理「私達って今、すっごく目立ってない?」

 

春希「そうですね。いくらアメリカだとしても、こんなにも長時間、空港ロビーの

   ど真ん中で抱き合っていたら、目立ちますよ」

 

俺の冷静を装った事実を聞き、俺を掴む手の力が強まる。

俺だって今すぐこの場から立ち去って、せめてタクシーの中に逃げ込みたい。

麻理さんを置いて行くことなんて論外だから、こうして一人顔をあげて

この場を通り抜けていく多くの人々の視線から耐えていた。

 

麻理「どうしようぉ・・・」

 

麻理さんは、ようやく俺の胸の中から顔をあげてくれたと思ったら、

可愛い悲鳴をあげてくる。

その顔つきがいつも見ている編集部での顔とかけ離れていて、20歳くらい幼く見える。

それがあまりにも俺の心をくすぐり、愛おしく感じさせてしまう。

 

春希「大丈夫ですよ。堂々としていればいいんです」

 

麻理「そうかしら?」

 

春希「それに、他人の抱擁なんて見たって、一瞬呆れて、数秒微笑ましく思うだけですって。

   しかもここは空港なんですから、俺たち以上の抱擁をしている人たちだって

   いるはずです」

 

麻理「うぅ~ん・・・」

 

春希「それとも、俺とはいやですか?」

 

麻理「そんなことはない」

 

春希「だったら、もういいじゃないですか」

 

麻理「そうね」

 

春希「麻理さん、約束通りNYまで来ましたよ」

 

麻理「うん」

 

春希「我慢できなくて、来ちゃいました」

 

麻理「うん」

 

春希「麻理さん?」

 

麻理「うん」

 

麻理さんの瞳には、薄っすらと涙の膜が出来ている。

やや肉がそぎ落とされた頬も、麻理さんの美しさに陰りを与える事はなかった。

これは不謹慎だと重々承知している発言だが、やつれているのが見え隠れする顔色さえも

艶っぽく感じてしまうほど、今の麻理さんは輝いていた。

 

春希「ただいま、麻理さん」

 

意識して発言した言葉ではない。麻理さんに見惚れていたら、つい出てしまった言葉だ。

声に出した後、麻理さんの元に戻ってきたのだから、ただいまもあながち

間違った言葉ではないと自己分析する。

どうも後付けくさい解説だけれど、感動の再開に理由なんていらない。

必要なのは、俺の腕の中に麻理さんがいるっていう事だけだ。

俺の「ただいま」発言に、麻理さんは目を見開き軽く驚きはした。

しかし、再び頬笑みを浮かべ、すんなり俺の言葉を受け入れてくれたようだった。

 

麻理「おかえりなさい、北原」

 

幸せを噛み締めるように語りかけるその声に、とうとう俺は降参して、

麻理さんを力強く抱きしめてしまった。

可愛い吐息が聞こえてきたが、麻理さんの腰が折れる事はなかった。

もはや空港ロビーから聞こえてくる雑音は一切俺の耳には届かない。

俺の耳は、麻理さんの鼓動とささやき声しか受け付けなくなってしまった。

あんなにも気にしていた周りからの視線も、気にならなくなっている。

これもまた、麻理さんだけを見つめていれば問題なかった。

もちろん麻理さんも、俺の要求を拒絶する事はない。

俺の脇の下あたりを掴んでいた麻理さんの手は、

自分の居場所を探るべく俺の腰へと回される。

そして、自分の居場所を見つけたその手は、自分の居場所を主張すべく

力強く俺を抱きしめてきた。

俺は加熱した俺の心が常温に戻るまで、腕の中に舞い降りた幸せを抱きしめ続けていた。

・・・ただし、タクシーの中で可愛い非難をずっと聞き続けなければならなかったが。

 

 

 

 

 

麻理「北原って、見かけによらず情熱的な所があるのよね」

 

タクシーを降りて、途中夕食の材料を買い、そして麻理さんのマンションについてもなお、

麻理さんの抗議は続いていた。

抗議は抗議だが、ニコニコして話しているのを見れば、誰だって怒っていないと判断できた。

ここに佐和子さんがいたら、いつまでもデレまくっているんじゃないわよって、

つっこみがあったはずだ。

 

春希「抑え込まれていた感情が、誰かさんのおかげで溢れ出てしまっただけですよ」

 

俺の反省の色が全く含まれていない弁も、タクシーの中で何度も繰り返されていたものだ。

何度も繰り返してきたやり取りなのに、俺達は飽きずに繰り返す。

ゆっくりと、ゆっくりと、今ある幸せを手さぐりで確かめていた。

時刻は既に夜の9時になろうとしていた。

空港についたのが6時30分頃。

道路はそれほど渋滞していなかったので、1時間もかかっていないはずだ。

あとはスーパーでの買い物も、買うものが決まっていたし、

本格的な買いだしは明日行く予定だから、時間がかかるはずもない。

だから、これらを考慮すると、

それなりの時間を割いて抱き合っていたことが示しだされていた。

 

麻理「その誰かさんって、誰の事なのかしら?」

 

春希「さあ?」

 

お互いわかりきっているのに、笑みを振りまき、とぼけながら部屋の奥へと進んで行く。

以前初めて日本の麻理さんの部屋に来た時の印象とは違い、

部屋の中は綺麗に片づけられている。

玄関には脱ぎ散らかした靴は一足もないし、今だって脱いだ靴は綺麗に並べられた。

そして、部屋の隅に積み上げられるはずの洋服は、何一つ存在していなかった。

他の部屋を見てみなければわからないが、おそらく他の部屋に行っても

片付けが出来ていない部屋はないと思われる。

また、部屋を飾るインテリアも必要最低限のもので抑えられているようにも感じられた。

一見マンションのモデルルームと勘違いしそうなリビングルームであったが、

それでもテーブルに積み上げられている書類の山を見ると、

麻理さんの部屋であると認識できた。

ようやく見つけ出すことができた麻理さんの鼓動に、俺は隠れて安堵する。

たしかに佐和子さんから麻理さんが部屋の片づけをしっかりするようになったとは

聞いていたが、極端すぎる変化に驚きを隠すのが難しかった。

けっしては悪い変化ではなく、むしろ部屋を綺麗に使っているのだから良い変化で

あるはずなのに、その変化の原因を知っている俺からすれば、素直に喜べないでいた。

俺が綺麗好きで、自分の部屋を綺麗にしていたから麻理さんはまねてしまった。

なにもない、俺の足跡一つないNYのマンションに、俺の気配を無理やり生み出そうと、

少しでも俺の温もりを感じ取ろうとした結果が、今の部屋の状態だ。

 

麻理「荷物はその辺にでも置いておいてね」

 

麻理さんは、俺に指示を出すと、自分はキッチンに行き、買ってきた食材をテーブルに置く。

俺も手伝おうと荷物を邪魔にならないように指示通りの場所に置き、

急いでキッチンに向かうが、すでに麻理さんはリビングの方に戻って来ていた。

 

麻理「とりあえず、コート脱ごうか。暖房もすぐに効いてくると思うし。

   でも、アメリカのエアコンって、非効率よね。

   家全部を暖めようとするんですもの。

   日本みたいに個別にエアコンを設置すればいいと思わないのかしら?」

 

麻理さんは、自分のコートをハンガーにかけると、俺のコートもかけてくれた。

 

春希「ダイキンも、一度は日本のエアコンをアメリカで売ろうとして失敗しましたけど、

   今度は念入りに準備をして再チャレンジするそうですから、

   今度こそ売れるんじゃないですか?

   省エネも強く意識される時代にもなりましたし」

 

麻理「そもそも部屋を暖める概念が違うのよ。家全部を一辺に暖めようってするのが

   いかにもアメリカって感じがするんだけどね」

 

春希「そうですね」

 

キャラメル色の仕立ての良いのがよくわかるロングコートを脱いだ麻理さんは、

よく観察したとしても服の上からは痩せた事を感じさせない。

服装はいたってシンプルで、ゆったりとした白いハイネックのセーターに、

こげ茶色のロングスカート。

黒いタイツを履いて、ちょっとこの部屋には似つかわしくない可愛らしいもこもこの

スリッパを履いているいるのが俺の心を和ませてくれた。

俺のスリッパも色違いの物なので、冬用に買いそろえた物なのだろうか。

毛並みがしっかりしていて、温かさを感じさせてくれていた。

たしかに麻理さんの頬の肉は落ちたが、かろうじて健康体を主張できる顔つきではある。

しかし、俺は知っている。

空港で抱きしめた時に、麻理さんは痩せてしまったとわかっている。

 

麻理「あのさ、北原」

 

春希「はい」

 

麻理「近くにホテルあるけど・・・、部屋、どうしようか?」

 

俺に選択権を与えてくれてはいる。くれてはいるけど、仕事では先を読んで

事前準備をしっかりとこなすあの麻理さんが、

ホテルを予約してあるとは言ってこなかった。

仕事であれば、確実にホテルの予約が取れていなければ、お説教ものの失態である。

つまりは、今回の麻理さんの意図はそういうことなのだろう。

 

春希「部屋が余っているのでしたら、ここに泊めてくださると助かります。

   これでも学生なので、出費はできるだけ抑えたいんですよ。

   春休み期間中ずっと編集部にいたので、自分が大学生だっていう感覚は

   薄れてしまいそうでしたけど」

 

麻理「あいつらは、北原があくまでもバイトだっていう事を忘れているだろ」

 

春希「一応内定貰いましたので、来年からは正社員になりますよ」

 

麻理「それでもだ。北原は私が鍛えたのだから信用しているわよ。

   でも、だからといってどんな仕事でも押し付けていいわけではないのよ。

   いくら有能だとしても、まだまだ期待できる新人でしかないんだから、

   しっかりとかじ取りしてあげなければいけないのに、そっせんとして先輩が

   こき使ってどうするのよ」

 

麻理さんは、すぐには自宅に泊めてくれるとは言ってこなかった。

俺の方も、回答をせかしはしない。

麻理さんのタイミングで切り出してくるまで待つことにした。

 

春希「その辺は浜田さんが調整してくださっているので、今のところ問題ないですよ。

   麻理さんがNYへ行く前に、何度も言われたことですから、しっかり自分の方でも

   調整しています」

 

麻理「そうかしら? 北原って、仕事に関しては自分の限界を気にしない所があるのよね。

   もちろん自分が出来ることと出来ない事の分別はできているけど、

   だからといって、出来ない事を他人に丸投げなんてしないじゃない」

 

春希「出来ない事は、出来ないですよ。だから、フォローといいますか、

   アシスタントくらいはしますよ。

   でも、出来ないままでは今後の支障になりますから、覚えるようにはしていますけど」

 

呆れた表情を匂わす麻理さんの顔は、

編集部で見せていた頼りになる麻理さんを存分に発揮している。

麻理さんがいなくなってからの編集部を、そして、今麻理さんが所属しているNY支部を、

お互いの知らない隙間を埋めたいと欲してしまう。

 

麻理「そうね。・・・・あっ、泊まる部屋だったわね。

   ちょうど一部屋空いているから、そこを自由に使ってくれてかまわないわ」

 

春希「ありがとうございます。遠慮なく使わせてもらいます」

 

今思いだしたかのような表情で提案する麻理さんの申し出に、

俺はその流れにのっかって申し出を受け入れる。

きっと佐和子さんが言っていた部屋なのだろう。

麻理さんが、俺の為に用意してあった普段は使っていない部屋。

麻理さんがこの話を切り出す時、麻理さんの体がわずかにこわばり、

そして、顔には緊張感が漂っていたことは、注意深く麻理さんを見つめていた俺には

読みとる事はたやすかった

もちろん麻理さんは、なんでもないような風を装おうとしていて、

表情を作りこんでいた、

お互い騙し合っているわけではないけど、

お互いを支え合う為には見ないふりをすることも必要だって、俺は知っている。

 

麻理「そうね。遠慮なんてしなくていいわよ。

   せっかく荷物置いたばかりで悪いのだけど、部屋に案内するわ」

 

春希「はい、お願いします」

 

俺の荷物を一つ持って扇動する麻理さんの背中は、

色恋沙汰に疎い俺であっても、浮かれているって変わるほど弾んでいた。

俺はその背中を見て、顔をほころばせずにはいられなかった。

 

麻理「どうしたの? 行くわよ」

 

俺の足音が聞こえない事に不審に思って振り返った麻理さんの顔は、

予想通り笑顔が満ち溢れていた。

そして、俺の笑みを見つけると、さらなる笑みをそこに付け加えた。

 

 

 

 

 

キッチンには、食欲を誘う臭いが充満されていく。

麻理さんのリクエスト通りに、俺は半熟玉子のオムライスを作っている。

これはNYに来る前からのリクエストであり、

今日ここで作るまでに時間もあったので十分練習は出来ていた。

それでも本番になり、しかも隣には期待に満ちた瞳を俺に向ける麻理さんがいるわけで、

練習のときには味わうことができなかった多大なプレッシャーを感じていた。

それでも、ありがたいことに麻理さんとの会話が俺の重圧を軽減してはくれてはいた。

最難関の半熟卵を作る頃には、失敗しても麻理さんとこうして楽しめてたのなら、

失敗もまた一つの調味料になるのではと思えたりもしていた。

まあ、麻理さんの期待にこたえたい気持ちも多大にあるわけで、失敗などする気はなかったが。

 

麻理「北原。だいぶ腕をあげたのね。

   今日はまったく危なげもなく、二つとも成功じゃない」

 

春希「まだまだですよ」

 

前回初めて麻理さんに作ったときは、一つは成功で、もう一つはやや失敗であった。

であるのならば、今回両方とも成功となれば、腕が上がったとも見ることができる。

しかし・・・。

 

春希「今回はたまたま連続成功しましたけど、ほんとうに偶然なんです。

   もうちょっと安定してくれると、作っている方もプレッシャーを受けないで

   すむんですけどね」

 

麻理さんのねぎらいの言葉に謙遜の言葉を返す。

とはいっても、俺の顔を見れば素直に喜んでいることが丸わかりなのだろう。

げんに麻理さんの顔を見れば、俺の現状を知ることができたし。

 

麻理「そうなの? 

   でも、この前失敗したといったのも、味に関しては問題ないように見えたわよ?」

 

春希「たしかに味は問題なかったですよ。でも、見た目も重要ですよ。

   ぐちゃって崩れているものよりも、綺麗に整っていた方が美味しそうじゃないですか」

 

麻理「まあ、ね。雑誌の記事となると、さすがプロの仕事ですってものを用意してくるわね。

   見た目だけで、十分すぎるほど食欲を掻き立てるっていうか。

   でも、北原が作ってくれる料理には、そんなプロでも作り出せない魅力があるわ」

 

春希「そんなの身内贔屓でしかないですって。

   プロの料理人と比べる事自体が・・・」

 

麻理「ううん」

 

麻理さんは、短い否定の言葉で俺の弁を遮ると、

俺の体温を沸騰させるような賛辞を述べ始めた。

 

麻理「北原の料理は、食べて欲しい人に対する思いが詰まってるから・・・。

   いくら失敗したとしても、それさえも美味しく思えてしまう気持ちがこもっているわ」

 

俺は、そっと両手で胸を抑える仕草に魅入ってしまい、反論など出来ようもなかった。

 

麻理「たしかに身内贔屓なんだろうけど、身内が贔屓したくてたまらない料理をふるまって

   もらえているのよ。贔屓して何が悪い」

 

春希「そこまで麻理さんに堂々と贔屓してもらえるのでしたら、光栄ですよ。

   でも、その贔屓に甘えないように、もっと腕を磨きます。

   というよりも、麻理さんは、俺が贔屓だけで評価されるの嫌だって知ってて

   言ってるところもありますよね」

 

俺は、あまりにも心の奥底までぐっとくる温もりに耐えかねて、

少しおどけた口調で話の方向を無理やり切り替えようとしてしまう。

ありがたい言葉だ。今すぐ麻理さんを抱きしめたくなってしまう。

嫌だって拒んだって聞く耳をもたないで、力の限り抱きしめてしまいそうだった。

・・・麻理さんは、きっと俺の欲望を拒まない。

だから俺は、この雰囲気を変えなければならなかった。

 

麻理「・・・そうね」

 

麻理さんは、俺の強引な言葉に、一度は目を白黒と丸くするが、一度目をそっと伏すと、

いつもの俺達の関係に戻ってくれた。・・・踏みとどまってくれた。

 

 

 

 

 

食事が終わり、俺達の目の前には、空になった皿の代りにハーブティーがおかれている。

麻理さんの心因性味覚障害については、俺からは問わなかった。

むろん麻理さんからも、何も言ってくる事はなかった。

お互いその現実については、深く認識しているし、もし食事中に麻理さんに異変があれば、

出来る限り対処するつもりでいた。

日本にいた時に俺なりに調べてはきたが、俺が役立てるかなんて疑問だった。

ハーブティーは、俺が日本から持ち込んだ手土産の一つであったが、

これもまた心を落ち着かせ、

胃に優しいものをと選んできた素人くさい処方箋の一つにすぎなかった。

しかも、ハーブティー専門店の店員にチョイスを丸投げまでしたものでもある。

しかし、それでも麻理さんは嬉しそうにハーブティーを飲んでくれているので

持ってきた甲斐はあったようだ。

今のところ麻理さんに異常はないし、食事も美味しそうに食べてくれた。

麻理さんが無理をして笑顔を作っていなければというほろ苦い条件付きではあるが

今のところは俺も麻理さんも、今という時間を楽しんでいた。

 

麻理「北原がハーブティーなんて、ちょっと似合わないわね」

 

北原「そうですか? だれだったら似合うんですか?」

 

麻理「そうだなぁ・・・。鈴木なんて似合うんじゃない?

   意外と女性っぽい所があるし」

 

北原「鈴木さんが?」

 

どちらかというとビールが似合いそうですとは、麻理さん相手でも言えはしない。

どう応えれば無難かと思い悩んでいると、

麻理さんは俺の返事を待たずに話を進めていってくれた。

 

麻理「どうせビールとか焼酎が似合うって思っているんだろ?」

 

北原「思っていませんよ。いつも編集部ではコーヒーなので、コーヒーかなって

   思っていたところですよ」

 

ご明答。どうしてわかってしまうのですか?

俺は、さすがにビールという回答はまずいと思い、

あまりにも適当すぎる回答を披露せざるをえなかった。

 

麻理「それだと編集部員全員がコーヒーってことになるんじゃないか」

 

北原「まあ、たしかに。

   眠気覚ましにはコーヒーって感じですから、ある意味職業病みたいなものですかね」

 

麻理「そう言われてしまうと反論に困るが、それでもビールだって思っていたわよね?」

 

北原「あ、ぁ・・・・・・」

 

俺はとりあえず答えを濁すような返事をして視線をそらす。

これじゃあ正解ですと言っているようなものだが、これが正解だって俺は知っている。

 

麻理「まあ、いい。鈴木には黙っていてやるから、私に似合うのはビールって、答えないでよ」

 

麻理さんは、笑顔でそう言うと、黙って共犯者になってくれた。

 

麻理「たしかに、ハーブティーはいいかもしれないわね。落ち着くって言うか・・・」

 

カップを両手で包み込むようにして口に運ぶ。

ハーブティーは、コーヒーは胃を荒らすからという事と、

なにか他の飲み物をということから考えだしたものである。

なにせ佐和子さんが訪れた時には、コーヒーの香りでさえ駄目だったのだ。

もしかしたらハーブティーも、香りの時点で駄目かもしれないと考えてはいた。

けれど、結果としては香りも飲む事も問題なかった。

しかし、何も問題なかったわけではない。

一つ大きな問題があった事に俺は気がついてしまった。

もしかしたら麻理さんは無意識のうちに気がついてしまったかもしれない事。

それは、ハーブティーが北原春希を印象付ける飲み物になってしまったかもしれない事だ。

佐和子さんから聞いた情報によると、麻理さんが部屋を綺麗にするようになったことも、

俺が部屋を綺麗にしているからという理由から始まったことで、

北原春希を思い出すことができるからというのが根底にある。

であれば、食事において、今回リクエストしてくれた半熟玉子のオムライスであれば、

どこで食べても味覚障害を意識しないで食べることができるのではと考えてしまう。

こればっかりは、本人に聞いてみなければわからないことだが、

今はまだその時ではない。

俺も、そして、麻理さんも、当事者二人がそろっていても、心の準備が整ってはいなかった。

 

春希「ハーブティーにあうと思うのですが、ちょっと遅くなりましたが、

   約束通りバレンタインチョコのお返しを持参してきました」

 

俺は、話の流れを少し軌道修正する為に、あらかじめテーブルの下に用意して

おいたオレンジ色の紙袋を麻理さんの目の前にとりだす。

麻理さんとの約束。宅配ではなく、直接ホワイトデーのチョコレートを手渡してほしいという

麻理さん本人からしてみたら大胆過ぎるリクエストだった。

当然俺からしたら断る理由も全くなく、こうして笑顔で届けにやってきたわけだが、

目の前の笑顔を目にすれば、そのかいがあったと喜びを感じてしまう。

 

麻理「ずっとテーブルの下にガレーの紙袋があったから気にはなっていたのよね。

   ガレーだと、チョコレートだとはわかってはいても、自分から催促なんて

   できないし・・・。もしかして、北原。私をいじめる為に見せびらかしていたんじゃ

   ないわよね?」

 

半分本気っぽい視線を投げかけながらも笑顔を見せる麻理さんに、

俺は対処に困った乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

こんな微笑ましいやり取りも、わずかな喜びだとしても、

大切に両手で汲み取み取っていくしかない。

それがお互いの共通認識だからこそ、俺達は人と気の幸福に身を浸らせることができていた。

 

春希「俺にそんな高等技術はありませんよ。

   むしろ逆で、いつ渡せばいいかって思い悩んでいて、ようやくお披露目できて

   ほっとしているところなんですから」

 

麻理「たしかに、北原の言い分の方がいかにも北原っぽくて、納得できてしまうわね。

   でも北原って、無意識のうちっていうのか、これを天然っていうのかはわからないけど、

   私をほどよくいじめることがあるのよね。

   それが心地いいって認めてしまうと、私がマゾだと認定されてしまうので

   いやなんだけど、うまく北原に転がされているところがあることは事実だと思うわ」

 

春希「それこそ買い被りですよ。麻理さんは俺にとって、仕事面においては、

   自分にとって高すぎる目標ですし、

   プライベートであっても、駆け引きなんてできないですし、したいとも思いませんよ。

   自然体と言いますか、できるだけ生身の自分でいたいと思っているだけですよ」

 

背伸びはしない。自分の気持ちに正直に向き合って、自分ができる事をやる。

言葉には出さなかったが、心の中で付け足した。

 

麻理「仕事については、いつまでも私を目標だって考えているようだったら甘いわよ。

   早く追い抜いて、私を引っ張っていくくらいにはなってほしいわね」

 

春希「どこまで俺を買い被っているんですか。

   まだまだ背中すら見えていないのに、下手したらぐんぐん俺を置いて、

   先に進んでいきそうな気もしますよ」

 

麻理「それだけ北原の事を評価しているってことよ。

   贔屓目もなしで、北原ならできるって思っているわ。

   だから、早く成長しなさい」

 

以前にも、麻理さんに評価していると言われた事があった。

それは、どんな誉め言葉よりも嬉しく思える誉め言葉だ。

ましてや、麻理さんの中心は、どんなときでも仕事が中心であり、

仕事が麻理さんを支えている。

その麻理さんが何よりも大切にしている仕事で認められるという事は、

それはすなわちプライベートでも認められていると、身勝手な解釈までしそうになってしまう。

まあ、仕事ばかりにかまけて、目の前の麻理さんを見なくなってしまっては、

本末転倒なのだけど・・・。

 

春希「わかりましたよ。

   だから、俺が一人前になるまで、麻理さんがしっかりと育ててください。

   目の前で頑張っている目標がいるほどやりがいがありますからね」

 

麻理「いやな部下をもったものね」

 

春希「厭味なほど出来のいい上司をもっていますので」

 

麻理「それはしょうがないかもな」

 

春希「ええ、しょうがないから諦めていますよ」

 

麻理「でも、・・・・・・・でも、嫌いではないでしょ?」

 

やはり麻理さんは俺に一歩踏み込んでくる。

たぶん、確かめたいのだろう。目を放したすきにいなくなるのを恐れていて、

どこにもいかないという核心が欲しいのだと思う。

他人が聞いたらうぬぼれているって言われそうだけど、

麻理さんの心細げな瞳を見ていると、どうしてもそう感じてしまう。

だから俺は、一時的な麻酔薬だとわかっていても、俺もまた、

一歩麻理さんの元へ歩み寄ってしまう。

 

春希「嫌いというよりは、むしろ好きですよ。

   上司としても、人としても、・・・」

 

そして、もう一声つなげようとしたが、声に出す事を思いとどまってしまう。

期待させるだけ期待させ、結局は麻理さんを選ぶ事はないのだから、

この言葉は麻酔ではなく、むしろ麻薬に近い。

それでも麻理さんは欲してしまうのだろう。

視線をあげて、麻理さんの顔を直視したら、俺はきっとさからえない。

麻理さんのせいにして、俺はその言葉を言ってしまう。

だから俺は、目を伏したまま、言葉をつなげた。

 

春希「女性としても、とても好きですよ。大切な人だと思っています」

 

最後まで言い切ると、瞼を開けて瞳に光を開門する。

そこには、はにかんだ笑顔の麻理さんが、すこし照れくさそうに両手の指を絡めていた。

 

麻理「そ・・・そぅ。うん、ありがとう」

 

さすがに俺は、これ以上の言葉を紡ぐ精神力は持ち合わせていない。

今の言葉だって、むずがゆいのを我慢して言ったわけである。

愛をささやくなんて、そもそも俺には似合わないってわかっているからこそ、

ここ一番の重要ポイントだけは外さないようにしていたのだ。

だから、こんな情けないすぎる俺に、これ以上の行動は不可能なわけで、

申し訳ないけど、麻理さんの機能が回復するまで残り少なくなったハーブティーを

ちびちび飲みながら待つしかなかった。

でも、あいにく俺が心配するほどは麻理さんは照れまくっていたわけではなかった。

照れているのを隠せはしないものも、どうにか話す事は出来ている。

むしろ俺の方がダメージがでかかったのかもしれないと、認識を改めた。

 

麻理「そういえば、いつまでそれを私の前で見せつけているつもりなんだ?」

 

春希「え?」

 

麻理「だから、北原が手に持っている、私に暮れる予定らしいチョコレートの包みを

   いつになったらくれるのか、気になっているのよ。

   もう・・・、女の私に催促させるだなんて、やっぱり北原は、意地悪ね」

 

そう言うながら、顔を横に背ける。

ただし、麻理さんの目は笑っているし、意地悪そうな顔をしているのは、

俺ではなく、むしろ麻理さんだった。

つまりは、麻理さんが助け船を出してくれたってわけか。

俺は、麻理さんの誘導に従って情けない北原春希を演じ続ける。

まあ、チョコレートを麻理さんの目の前に晒しながらも、

実際チョコレートを渡すのを忘れていたわけで、情けない事は事実だった。

 

春希「すみません。ほんとうに、すみません。

   ちょっと自分らしからぬ台詞を言ってしまった為に、

   意識が別のところにいっていました。

   だから、麻理さんをいじめたいとか、催促させたいとか、

   けっしてそんなことはないですから。

   そもそも麻理さんの方が俺の精神状態わかっていてそんな非難してくるほどですから、

   俺よりもよっぽど麻理さんの方が意地悪ですよ」

 

麻理「そうかしら?」

 

春希「そうですよ」

 

麻理「もし意地悪だったら、そんな女にはチョコレートはくれない?」

 

だから、どうしてそう震えている子犬みたいな目をするんですか?

もしかして千晶に演技指導うけたことがあるんじゃないでしょうね?

身近にいる名女優に、身勝手な恨み節をぶつけてしまいそうになる。

それほどまで麻理さんの感情は、溢れ出ていた。

鈍感な俺でさえ気がつくほどに、情熱的に。

 

春希「もし意地悪でしたら・・・、もし意地悪でしても、それが麻理さんなら

   しょうがないですね。

   このチョコレートは麻理さんの為に用意したものですし、

   そもそも意地悪とかそういうのも全てひっくるめて麻理さんなんですよ」

 

やや苦笑いを浮かべているが、どうにか俺の弁を納得していただけたようだ。

 

麻理「もういいわ。ここで、北原の言葉には、私が暗に意地悪だって認めているんじゃない

   かってつっこみをいれてもよかったんだけど、そんなことをしていたら、

   いつまでもチョコレートをお預けにされかねないしね」

 

春希「もうすでに俺の事を揶揄っていますから。・・・でも、もういいです」

 

麻理「なら、よし」

 

笑顔でそう言い切ると、麻理さんは席を立って、俺に歩み寄る。

そして、いつでも貰う準備はOKとばかりに両手を少し前に出した。

別に二人掛けのテーブルを使っているので、座ったままでも手渡す事は出来る。

それでも目の前まで来て、受け取りたいっていう意気込みは、

俺の心を熱くさせるには十分すぎた。

 

春希「バレンタインのお返しのチョコレートです。

   麻理さんが大好きなガレーのチョコレートにしておきました」

 

麻理「ありがとう、北原。約束を守ってくれて」

 

オレンジプピールのチョコレートに、ミニチョコレートバーの詰め合わせ。

パッケージもホワイトデー用ではない。

さすがにホワイトデーの時に買って、冷蔵庫に保存などはしていなかった。

だから、包装だけはプレゼント用にしてもらっただけの贈答品用のチョコレートではある。

でも、見た目が大事なんじゃない。

時期が大切なわけでもない。まあ、できればホワイトデーに渡したかった気持ちはあったが。

こうして直接麻理さんに手渡しできる事が重要であり、

目の前で微笑んでくれている麻理さんを目に焼き付けることができることが

なによりも大切な事であったのだから。

麻理さんは、右手でチョコレートが入った紙袋を受け取ると、

もう一つ差し出していた左手を、俺の手にそっと重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

麻理 4月9日 土曜日

 

 

 

朝日が遮光カーテンの隙間から入り込んで、ほどよい明りを提供してくる。

NYに来てからの私の睡眠は浅い。

とはいっても、睡眠がいくら浅くても目をすぐに開けて、意識を覚醒出来るわけではない。

ベッドの中で今日一日の予定を確認して、朝の準備を再確認する。

そして、今日の予定をめいっぱい頭に詰め込んでから行動に移す。

目を開けた時にはスケジュール帳の余白がないようにするのが今年になってからの

私のスタイルになりつつあり、おそらくそうなってしまうだろう。

予定があれば、余計な事を考えないで済むもの。

仕事の事だけを考えていなければ、考えたくなってしまう。

思いをはせてしまう彼への気持ちを抑え込むことができなくなるから。 

しかし、今日の目覚めはいささか体が堅いと感じることからスタートした。

それはそのはず、いつもならベッドで寝ているはずなのに、

今朝はソファーの上で目を覚ましたのだから。

それでも比較的楽な姿勢を無意識に選んでいるのだろうが、

場所が場所だけに体の悲鳴を簡単には収まってはくれないみたいだった。

日本から持ってきた深緑色のソファー。

日本で使っていた家具は、引っ越し費用も考えて、大部分は処分してしまった。

このソファーもその処分候補に入るはずであった代物であり、

NYでも使う頻度はすくないはずであった。

だけど私はこうしてNYまで持ちこんだ。

私の選別基準はいたって明確だった。北原との思い出があるかどうか。

それだけだ。未練がましい女だとは、自分でさえ泣けてくるけど、しょうがないじゃない。

たまに、こうして持ってきた家具を全て廃棄してしまおうと思い悩む夜もあるけど、

翌朝には昨夜の事はすべて忘れて、

ざっと雑巾がけなんかを鼻歌まじりにしてから出社するのがざらだった。

4月に入ったと言っても、NYの朝はまだ肌寒い。

一応暖房を強めにして、毛布一枚羽織っていたはずだ。

これはソファーに落ち着く前に用意したもので、おそらくソファーに墜ちてからは

一度もそばから離れていないはずだった。

そして、毛布のほかに使っていた熱源を寝ぼけ頭のままに引き寄せようとしてしまった。

 

麻理「ん、ぅん・・・」

 

小さく吐息を洩らし、手元に寄せた熱源に満足して瞳を開ける。

目の前にいる熱源を認識した私は、もはや暖房は必要なかった。

覚醒していく脳細胞より早く、私の血液は沸騰していき、

春だというのに寝汗をかいた気分になってしまった。

そう、私の目の前には、私が抱きしめているのは、愛しい北原春希本人なのだから。

私は一つ決意の息を北原に聞こえないように吐くと、

もう一度北原を抱く腕の力を強めた。

 

 

 

 

 

 

 

春希 4月9日 土曜日

 

 

 

眠りが浅いというわけではない。むしろ深い方だと思っている。

普段からある意味では規則正しい生活をしていて、なおかつ、短い睡眠時間でも

日中はフル活動するようにしているおかげで、寝るときはぐっすりと眠れている。

それが起床時間が一定であっても、寝る時刻が不規則であろうと、

俺の生活リズムは規則正しく刻んでいた。

いつもの朝ならば、今の季節ならまだ薄暗い時間に目が覚めている。

これが夏であったら、今朝と同じくらいの陽の光を浴びてもおかしくはないが、

一晩で冬から夏まで寝過ごすなんてありえはしない。

やわらかな陽光が瞼をくすぐり、赤色に染まっていた瞼を開くと、白い陽光が瞳を出迎える。

朝日から顔を背けると、そこでも見知った顔が出迎えてくれた。

麻理さんは、柔らかい笑顔を浮かべたまま、じぃっと俺の顔を観察している。

俺が現状確認をする為に、頭の再起動を終えるのを待ってから、

麻理さんは艶やかな唇の形を変えながら、俺に朝の挨拶を囁いてくれた。

 

麻理「おはよう、北原」

 

春希「おはようございます、麻理さん」

 

耳の方はしっかりと麻理さんの声を聞きとったが、声の方はまだ試運転段階らしく

ややしゃがれた声で挨拶を返す。

一方、麻理さんの声はというと、けっして大きな声ではないのに、

一音一音はっきりと発声されていて、心地よい音色となって俺の鼓膜を振動させていた。

麻理さんは、いつから起きていたのだろうか。

麻理さんの様子からすると、寝起きというわけではなさそうだ。

顔をじっくり観察してみると、メイクをしていない生の麻理さんがそこにはいた。

もちろん昨夜、お風呂に入っているので、メイクを落とさないわけがない。

ずっと食事が十分出来ていない分顔色が悪いかと思いきや、

麻理さんの顔の肌艶は良好に見える。

本当に目の前にあるのだから、見間違えるはずもなかった。

麻理さんの目は、俺より早く起きていた事もあって、

芯がしっかりとしているいつもの強い視線を朝からはなっていた。

これは個人的な偏り過ぎた評価だが、メイクをしていない麻理さんは、

こうして朝から見惚れてしまうほどに美しかった。

メイクをしていなくともその顔の輪郭は繊細に構築されており、

メイクをしている時よりも華やかさがあるような気もしてしまう。

なんとなく仕事場では落ち着きがある上司を演じる為に地味にしている気さえ

してきてしまった。

むろん麻理さんが職場で落ち着きがあるわけでも、地味に働いているわけではない。

むしろ仕事の早さと正確さ、そして大胆な行動力をもって人を魅了しているのだから。

編集部では、麻理さんの綺麗すぎる顔は、おまけみたいなものでもあった。

世の女性が聞けば、恨み事を一日中言ってしまうほどのぜいたくなおまけではあるが。

はっきりいって、俺を見つめてくれている麻理さんの顔は、

見つめている行為を咎められない限りずっと見ていても飽きないほどである。

 

麻理「あのさ、・・・北原」

 

春希「はい、なんでしょうか?」

 

今までずっと俺の顔を見つめ続けていた瞳をおずおずとほんのわずかだけ斜め下にそらすと

はにかみながら俺に可愛らしい不満を訴えてきた。

 

麻理「さすがにじぃっと見つめられると、照れるというか・・・なんていうか。

   悪くはない。むしろ嬉しいんだけど、ね」

 

春希「すみませんっ」

 

俺は、声と同時に顔をそらす。

女性に対して顔をじろじろと見て観察するのはマナー違反だ。

それがいくら親しい間柄であっても、朝一番にしていい行動とは思えない。

朝じゃなくても、問題だが。

まあ、お互いさまじゃないかという意見もある。

なにせ、麻理さんも俺の事を見つめていたじゃないかという事実があるのだから。

でも、だからといって、その事実を麻理さんの目の前に突き付けるほど、

俺も女心がわかっていないわけではなかった。

 

麻理「ううん・・・、問題ないわ。ねえ北原」

 

春希「はい?」

 

麻理「ソファーで寝ちゃったけど、体大丈夫?

   飛行機もエコノミーで、体を伸ばして寝られなかったのに

   いつまでも北原を引き止めてごめんなさい」

 

春希「いいんですよ。俺の意思でこうしているんですから。

   それにソファーでも十分睡眠をとれましたよ。

   ・・・えっと、いま何時ですか?」

 

麻理「8時半くらいかしら」

 

麻理さんは時計も見ずにそう答えた。麻理さんが嘘やでたらめを言う必要がないので

時計で現在時刻を確かめなくともわかっていたのだろう。

麻理さんにはソファーでも休めたと見栄を張ってしまったが、やはり長旅の疲れもあって

体が硬くなってしまっている。

それでも今日一日活動する為の睡眠はとれているから問題はないはずだ。

ただ、体が硬くなって動けなくなってしまっている理由は、

ソファーで寝てしまった事だけではないのは、今の状態からすれば一目瞭然であった。

長時間ソファーで寝ていたことに加えて、現在進行形で目の前に、顔を少し動かせば

キスできるくらいの距離に麻理さんの顔がある。

つまりは、麻理さんが俺の二の腕を枕代わりにして寄り添っている状態が続いているわけで。

たしかに、日本にいた時も同じような夜を過ごした経験があった。

また、俺と麻理さんが各々使っていた毛布も、NYの夜の寒さに耐える為に

毛布を二枚重ねにして、二人で寄り添って一枚となった毛布を使っている。

だから、ちゃんとした理由があって今の現状にいたるわけだが・・・・・。

誰に言い訳してるんだよ、俺は!

 

麻理「大丈夫?」

 

俺が無言で考え事に夢中になって麻理さんを置いてけぼりにしていたせいで、

麻理さんは少し不安そうな声で俺に聞いてきた。

 

春希「えっと・・・時差ですか?」

 

麻理「・・・ええ、時差で頭が働いていないのかなって思って」

 

春希「それなら問題ないですよ。日本でも寝る時間が決まっているわけではないですから。

   麻理さんだって同じじゃないですか」

 

麻理さんが問いかけたかった質問は、おそらく違う内容だろう。

何が大丈夫か。そんなの決まっている。

俺が無言でいたから麻理さんは不安になってしまったのだろう。

だから、俺と麻理さんが寄り添って夜を過ごした事が大丈夫かって

聞きたかったに違いなかった。

麻理さんは、俺とかずさが復縁するだろうことは知っている。

俺がかずさの事を待つって曜子さんに宣言した事は教えてはいないが、

大学のヴァレンタインコンサートを聴きに来た麻理さんならば察しているはずだった。

俺はずるい。麻理さんが聞きたい内容をわかっていながら時差と内容をすりかえるのだから。

でも、今は仕方がない。そう思いこむことで、罪悪感に蓋をした。

かずさへの罪悪感。麻理さんへの罪悪感。

抑えれば抑えるほど罪悪感は膨れ上がるのに、

俺は罪悪感のインフレを止める手立てを持ち合わせてはいなかった。

 

麻理「たしかにこれは職業病ね。でもNYに来てからは、だいぶ決まった時間に

   寝られるようになったわよ。日本と違って治安がいいわけではないっていうのも

   影響しているけどね。日本だったら、何時であろうが帰宅できたけど、

   ここではちょっとした気の緩みで身の破たんを招いちゃうから」

 

春希「麻理さんの事だから、大丈夫だとは思いますけど、仕事優先で動くあまり、

   ここがNYだって言う事を忘れてしまいそうで不安です」

 

麻理「大丈夫よ。帰りはだいたいいつもタクシーだから」

 

もしかしたら、電車に乗ると気持ち悪くなってしまう事が起因しているのかなという

疑問もわいて出たが、おそらく治安と時間的な問題だろうと、すぐさま自己解決させた。

 

春希「それならいいんですけど、それでもタクシーを降りてからマンションまでの

   ほんのわずかな距離であっても危険なんですよ。

   しかも帰宅時間は夜中なわけなんですから、暗闇にまぎれてってことも

   十分考えられるんですから」

 

麻理「本当に心配症ねぇ」

 

春希「当然です」

 

嬉しそうに目を細める麻理さんを前に、声のトーンがダウンしてしまう。

それ、反則です。こっちは心配しているっていうのに、それなのにその笑顔はなんなんですか。

・・・まあ、その理由は、うぬぼれではないと思うけど、おそらくそうなのだろう。

 

麻理「でも、マンションのエントランスには、24時間勤務の警備員が立っているし、

   意外とセキュリティー面ではしっかりしているのよ、このマンション」

 

たしかに昨日このマンションのエントランスを通るときに、映画に出てくるような

屈強なガードマンが不審者がいないか目を光らせていた。

どうやら麻理さんは、その警備員と顔見知りらしく、しばらくここに滞在する俺を

紹介もしてもらった。

これでも一応英会話は出来る方ではあるが、まだ耳が慣れていない事もあって

二人がかわす会話についていけず、あぁ、NYに来たんだなって、

今さらながら実感した瞬間でもあった。

本来ならば空港で感じるべき実感であるはずだが、それは全て麻理さんとの再会で

塗りつぶされてしまっていた。

 

春希「それは頼もしいですけど、油断だけはしないでくださいよ」

 

麻理「わかってるわ。これ以上北原に心配はかけられないから」

 

日だまりにいたかと思えば、一瞬で寒空の下に放り出されてしまう。

麻理さんの表情が陰っていくのがまじまじとわかる。

けっして麻理さんが情緒不安定だというわけではない。

普段はしっかり仕事をしているらしいし、食事面と電車を除けば、

いたって普通に生活をおくれている。

問題があるとすれば、それは北原春希の事に関する事についてのみだ。

 

春希「俺は、そういうことに首を突っ込む為にNYに来たんですよ。

   心配するなって言う方が無理な注文です。

   心配させてください。頼って来てください。不平不満をぶちまけてください。

   全てを解決することなんてできないってわかっていますけど、

   それでも俺は、麻理さんの隣にいたいんですよ」

 

全てを解決する事はできない。

これは、俺と麻理さんの共通認識だろう。

お互いわかっているから、依存できる。

踏み越えられない境界が明確に線引きできているから、

俺達は許された範囲内で触れ合っていられるんだ、と、言い訳をする。

 

麻理「うん、ありがとう。・・・もう少しだけ寝ててもいいかな?

   今日と明日は休みだし、もう少しだけ寝ていたい気分なの」

 

春希「構いませんよ。もう少し寝てから朝食にしましょう」

 

麻理「うん、北原の朝食、期待してるわ」

 

そう麻理さんは小さく呟くと、俺の腕に体重を預け直す。

麻理さんの重みが俺の腕を通して信号となって脳に運び込まれ、

今まで蓄積されていた記憶に、新たな麻理さんを上書きしていく。

俺のもう片方の手に自分の指を絡ませてきた麻理さんは、

最後の最後で手を握るかどうかで迷っているらしい。

毛布の中でごそごそとするその動きに、俺は隠れて笑みを洩らす。

だから俺は、ちょっと強引に麻理さんの手を奪う。

一瞬麻理さんの体が膠着するが、俺の手に握られている事を認識すると、

おずおずと握り返す力を増していく。

それがなんだかくすぐったくて、どうしようもなく愛おしく思えてしまう。

今度は麻理さんと逆の立場になって、隣に寄りそう大切な人をそっと眺め続けることにした。

 

 

 

 

 

 

 

俺達が朝食を食べ始めたのは、あれから1時間ほど経ってからである。

食事の準備をするといっても、サラダやパンの用意をする程度で、

大して手間暇をかける必要もない労力なのに、俺が準備をしている最中ずっと麻理さんは

俺が料理をする姿を眺めていた。

昨夜も同じように俺の料理姿を眺めている。

そして、昨夜の経験を生かして俺の姿が一番見やすい位置に椅子を用意してじぃっと

眺めていた。

そんな経験を積んだとしても役に立つとは思えないが、それを言ったところで

かえってくる言葉は想像できるので、あえて口に出す事はない。

まあ、昨夜の最初のうちは、俺の斜め後ろから眺めていて、邪魔というわけではないが、

ぶつかったり、材料をこぼす危険があった為に、ちょっとした注意はした。

その注意をしたときの悲しげな瞳。今でも忘れられない。

犬を飼った事はないが、愛犬の餌の準備をして、目の前に餌を差し出しながらも

「待て」の命令をし、そのまま「待て」の指示をしたまま餌を片付けてしまったら、

もしかしたらこんな表情になってしまうのではないかと、

麻理さんには悪いとは思ったが考えてしまった。

やや麻理さんに甘いかなという思いはあるが、それが心地よくもあるのだが、

麻理さんが喜んでくれるならばという気持ちが優先して、

注意の直後に囁いてしまった。

 

春希「包丁を使っていますし、火だって使っています。

   だから、麻理さんの綺麗な肌に万が一の事があったら、俺が困るんです。

   麻理さんが邪魔なんじゃなくて、麻理さんの安全の為に

   少し下がったところで見ていてくれると、俺も安心して料理に集中できます。

   でも、見られていると調子に乗って失敗してしまう事もあるかもしれないですけど、

   そこんところは、好きな女の子の前ではりきってしまう男子だと思って

   見逃してくれると助かります」

 

こんな発言ばかりしているから、俺と麻理さんとの絆は離れることが出来なくなってしまう。

それじゃあいけないってわかっているのに、どうしても麻理さんの喜ぶ顔を望んでしまう。

それが、かずさへの裏切りだってわかっているのに。

 

 

 

 

 

夕食に続いて朝食も無事に終了する。

ある意味拍子抜けな気分になってしまうのもしょうがない気がした。

なにせ佐和子さんから、そして麻理さん本人からも、麻理さんの病状を聞いていたのだから。

もちろん心因性味覚障害によって、今も味がわかっていないのかもしれない。

麻理さんの事だから、俺に心配させまいと、味がわからない事を隠す事は十分に考えられた。

しかし、食後に訪れる吐き気だけは隠せないはずだ。

こればっかりは、いくら気持ちが悪いのを隠そうとしても顔に出てしまうはずだ。

しかし、夕食時も、そしてさきほど終了した朝食においても、まったくというほど

吐き気の様子は見受けられなかった。

むしろ麻理さんの機嫌は良く、饒舌なほどだ。

吐き気を催している人物が、自分から積極的に話しかけはしないだろう。

だから、どうしても麻理さんが心因性味覚障害であると思えなくなってしまう。

そんな気の緩みが、俺を大胆な行動に移してしまい、

その結果として、大きな後悔をするはめになってしまった。

ただ、後悔はしたけれど、どちらにせよ通らなくてはならない道ではあったので、

踏ん切りがつかないでいた自分にとってはちょうど良かったかもしれないが・・・。

 

春希「昨日今日と、調子がいいみたいでしたから、これはいい傾向なのでしょうか?

   今すぐ全快とはいかないでしょうけど、俺に出来る事は何でも言って下さいね」

 

俺に振りかかかっている症状ではないから気軽に聞いてしまった。

実際苦しんでいる本人からすれば、言われたくない言葉であったはずだ。

デリカシーがないとか、相手を思いやる気持ちがないどころではない。

いくら相当な覚悟を持ってNYに乗り込んできて、

思っていたような最悪な状態を見ていないからといって、

それが安心できる状態だと、誰が保証したんだ。

今までニコニコして微笑んでいた麻理さんの笑顔が、すぅっと消え去っていく。

ゆっくりと視線を左右に揺れていた瞳が、

明らかに動揺しているとわかるほどに揺れ動きだす。

もはや俺など見てはいなかった。

両手で自分の腕を爪が食い込んでいるのではないかと思うほどに強く握りしめ、

呼吸も乱れ始めている。

嗚咽のような、吐き気を抑えるような呼吸を前にして、

事の重大さを、今になって実感してしまった。

 

春希「麻理さん!」

 

俺は椅子を蹴り倒して麻理さんの元へ駆け寄る。

麻理さんは、椅子に座りながらも、いつ椅子から転げ落ちてもおかしくないほどに

体をくの字に曲げて、必死に俺が引き金をひいてしまった症状と戦っていた。

 

春希「麻理さん」

 

大丈夫ですかなんて、聞けやしなかった。

俺がしむけてしまったのに、なにが大丈夫だ。

だから、俺は繰り返し麻理さんの名前を呼ぶことしかできなかった。

何度麻理さんの名前を呼んだのだろうか。

ようやく俺の呼び声に気がついて顔をあげてくれた時には、

どのくらいの時間がたったかなんてわかるはずもなかった。

実際には、5分もたっていない。

けれど、心が乱された俺にとっては、長く、果てしない後悔の時間であった。

 

春希「麻理さん」

 

麻理「北原・・・」

 

俺を見つめる目には涙が溜まり、頬には太い涙の線が刻まれ続けている。

顔はゆがみ、さっきまで笑顔だった面影は、

全くと言っていいほど見つけることができなかった。

 

麻理「ごめんさない。・・・ごめんなさい。ごめんなさい、冬馬さん、ごめんなさい。

   春希を借りちゃって、ごめんね。・・・ごめんなさい。許して・・・」

 

俺と重なる視線さえも拒絶するように視線を外す。

再び俯いた麻理さんは、許されないとわかっても懺悔を繰り返すしかなかった。

かずさがどう裁きを下すかは、俺だってわかるはずはない。

今こうして謝ったとしても、意味があるとは到底思えもしない。

けれど、激しい後悔が、俺以上の後悔が、麻理さんを苦しめている事だけは理解した。

 

春希「麻理さん」

 

俺の声など届いてはいないのだろう。

麻理さんは、何度も、何度も、かずさに向かって懺悔を続けている。

俺こそ懺悔をしなければいけないのに、懺悔することさえ許しを得られそうもなかった、

俺は、激しく揺れる麻理さんの肩を、恐る恐る手を伸ばし、掴み取る。

俺の右手が麻理さんの左肩に触れると、電気が走ったかのように麻理さんの肩が震えた。

 

麻理「だめっ!」

 

そう激しき拒絶する麻理さんは、俺が寄り添う事さえ許してはくれなかった。

俺の隣で料理を眺めることも、ソファーで寄り添う事も、

全てが幻だった気さえしてしまう。

しかし、俺の後悔と懺悔は後回しだ。

今は、激しく蒸せ返している麻理さんを助けなければいけなかった。

麻理さんは、吐き気をこらえるようにして蒸せ返すのを繰り返していた。

もはや躊躇などしている時ではない。

今目の前にいるのは、かずさではなく、麻理さんなのだ。

俺が今、助けるべき人は、麻理さんただ一人だって決めてここまで来た。

だから俺は、躊躇なんてすべきではなかったんだ。

 

春希「麻理さん。・・・俺はここにいたいから、NYに来たんです。

   今さら日本に送り返さないでくださいよ」

 

俺は、麻理さんの気持ちなど考慮せずに、麻理さんを抱きしめる。

嗚咽に苦しむ麻理さんの事情なんて無視して、俺の事情で麻理さんを包み込んでしまった。

それでも麻理さんは、俺を拒絶しようとする。

吐き気に苦しみながらも、俺から逃れようとする。

元々麻理さんはしっかりと椅子に座っていたわけではない事もあって、

そこに俺が強引に力を加えたものだから、バランスを崩して床に落ちるのも当然だった。

椅子の上からだとしても、麻理さんを下にして落とすわけにはいかない。

このまま何もしないで落ちてしまえば、麻理さんと共に横向きのまま床に衝突してしまう。

だから俺は、力いっぱい右腕で麻理さんの背中を抱き寄せて、麻理さんが床に衝突する事を

回避しようとした。

普段の俺ならば、考えてから行動を起こすのに、この時ばかりは考える前に行動を

起こせたおかげで、どうにか難を逃れることができた。

二人分の重みを背中に受けて、ほんのわずかだけ息が詰まったが、

有難い勲章として今回は受け取っておくとした。

麻理さんは、床に落ちた衝撃もあったことで、俺への抵抗はやめていた。

そもそも、力の差は歴然なのだ。俺は男で、麻理さんは女性なのだから。

基本スペックからして違うのに、ましてや麻理さんは、俺がNYへ来るまで

まともに食事をしていなかったわけで、

力をふるえるほど体力は残ってなどいなかった。

 

春希「俺と一緒にやっていきましょう。

   俺にできることなんてたかが知れていますけど、

   少なくとも普通に食事をして、普通に食事を楽しんで、

   今までみたいに仕事に熱中できるくらいまでは、なってもらいます。

   俺のせいだって自覚しています。

   許してもらえないって、わかっています。

   ずうずうしくNYまで乗り込んできたとも自覚しています。

   でも、俺は、麻理さんの側にいたいんです」

 

俺の一方的すぎる演説を聞いていた麻理さんから力が抜けていく。

あんなに激しく拒絶反応を見せていた麻理さんの腕はおとなしくなり、

今やおずおずと俺の服を探り始め、そして、そっと俺の腰に腕をまわして

抱きしめ返してくるところまで来ていた。

 

春希「えっと・・・、側にいてもいいってことですよね?」

 

麻理「もう少しだけこのままでいさせて」

 

春希「それは構わないのですが、吐き気とか大丈夫ですか?」

 

言ってしまった後に、再び後悔の念が押し寄せろ。

またしても麻理さんが本当に聞きたい事をすり替えてしまった。

おそらく麻理さんは、「自分が一人で歩けるようになるまで」

もう少しだけこのままでいさせてと、言いたかったに違いなかった。

さっきも俺の軽すぎる一言がトリガーになったというのに、俺は成長していない。

たしかに、さっきの今では成長しろという方が無理かもしれないが、今は緊急事態であり、

無理やりにでも成長すべきだったといえる。

 

麻理「なんか、色々頭の中がごちゃごちゃになって、訳がわからなくなったんだけど、

   ・・・とりあえず今は、吐き気はないかな」

 

春希「・・・そうですか」

 

麻理「だから・・・、でも、気分が落ち着くまで、もう少しだけ、このままでいさせて。

   ・・・ね、お願いします」

 

俺は返事の代りに麻理さんを抱きしめる腕の力を強める。

それが合図になったのか、麻理さんは俺を抱きしめる力を強め、

俺の頼りない胸に頬を擦りつけた。

麻理さんに無理やり「気分が落ち着くまで」もう少しだけ、このままでいさせてと、

言わせてしまった事に、激しい怒りを覚えながら、俺は麻理さんの重みを噛み締めていた。

 

 

 

 

 

麻理さんが落ち着きを取り戻すまで、俺は麻理さんから離れる事はなかった。

いや、正確に言うのならば、麻理さんが俺の腕の中から離れるまで

俺は麻理さんから離れる事はしなかったというべきだろうか。

最初のうちは、本当に吐き気がないか疑問だった。

だから真偽はわからないが、とりあえずやらないよりはやったほうがいいとの思いから、

俺は吐き気の軽減と精神の安定のために背中をさすることにした。

一応は麻理さんは気持ちよさそうに俺の胸に頬を擦りつけているわけで、

どのような効果によるものかはわからないが、効果自体はあったみたいではあった。

佐和子さんが以前NYへ来た時、食後に麻理さんの気分が悪くなったのを

直接見ているわけで、その情報通りならば、

今だって気持ちが悪い可能性が高いといえる。

ただその時は、麻理さんは気持ちを落ち着かせる為にヴァレンタインコンサートの時に

練習した俺のギターソロを録音したものを、精神安定剤の代わりとして曲を流していた。

俺のギターソロに精神安定剤としての効果があるのならば、

多少うぬぼれが含まれ過ぎているが、録音したギターソロよりは北原春希本人が

直接麻理さんの側にいる方が効果が高いといえなくはない。

そして、最初こそ精一杯麻理さんに尽くそうと背中をさすっていたが、

20分ほど過ぎようとする頃には、麻理さんは

温もりを手に入れたネコのように俺の胸の中で収まっていた。

そんな可愛らしくもある状態を見ては、頭を撫でてみたいという衝動が出ても

しょうがないじゃないか。

しかも、頭を撫でてみると、それこそネコそのもののように麻理さんは

気持ちよさそうに喉を鳴らした。

そして、俺の腕の中にいる麻理さんは、時計の針が正しいのならば、

もうすぐ一時間近く俺の腕の中でいる事になる。

その頃の俺はというと、自分の精神の安定を保とうと躍起になっていた。

実は言うと、麻理さんが精神の安定を取り戻そうと頑張っているときに、

俺の方も精神の安定を保とうと下心を消し去る努力をしていた。

こんな下衆男の精神と麻理さんの苦しみを比較する事自体がおこがましいが、

俺も男である以上腕の中に魅力的すぎる女性がいれば、

精神の安定が壊れるというものだ。

これが切羽詰まった緊急事態が継続しているのならば、俺だって麻理さんの調子を

気に病んでいられただろう。

けれど、1時間も経てば麻理さんの症状も改善しているように見え、まあ20分経過時

には症状は回復しているようにも見えたが、比較的俺の気持ちも軽くなり、

麻理さんの症状以外の事も考える余裕が出来てしまった。

だからこそ、俺の精神は崩れそうになっていた。

なにせ麻理さんは、魅力的すぎる女性であるのだから。

自他共に認めるワーカーホリックである為に仕事中心の生活を送ってはいるが、

その容姿は10人中9人は美人であると認めるほどの美しさと毅然さを

持ち合わせている。

痩せてしまった為に、元々細かった腰はさらに磨きをかけ、

ウエストが細くなった分胸の大きさがさらに際立つようになっている。

その可憐さと強さを両面を持った顔と、爆発的な魅力を醸し出すスタイルを

持っていれば、当然ながら俺の理性を削りとるには時間はかからなかった。

しかも、実際普段は何を着て寝ているかなどわからないが、

麻理さんが着ている衣服がパジャマではないといっても、

俺を空港まで迎えに来て時に来ていた外行きのしっかりと着込んだ服装ではない。

まあ、しばらく麻理さんの家に滞在するわけで、

もしかしたら普段何を着て寝ているかがわかるかもしれない。

念のために断っておくが、それは意図的に知ろうするわけではないので

俺にやましい気持ちがないと言い切れる。

さて、俺は今、腕の中にいる麻理さんを必要以上に感じ取ることができる状態でいる。

今着ているのは部屋着らしく、いくら春物の衣服だといっても、その女性らしい体つきを

十分すぎるほど俺の手や腕だけでなく、麻理さんと密着している部分全てが

薄い布地を通して知ってしまう。

だからこそ、頭の中でこうした言い訳をしまくっているのだが、

そろそろやばいくらいに切羽詰まってきていた。

 

春希「麻理さん、落ち着きましたか?」

 

俺は、ようやくというか、ぎりぎり平静を装える限界になってから麻理さんに声をかけた。

けっして全ての理性が削り取られることを望んでいたわけではない事は記しておく。

 

麻理「うん・・・、だいぶ良くなったみたい」

 

なんだか空港での出来事がデジャブだったのでないかと思いもしたが、

佐和子さんが言っていた麻理さんの精神のもろさと一致しだしていた。

やはり麻理さんの状態は、思っていた通りに危うかった。

 

春希「少し、話を聞いてもいいですか?」

 

今しかないわけではないが、後に延ばす内容でもない。

けっして避けられない道であった。

 

麻理「ええ・・・。でも、このままの状態で話してもいい?」

 

麻理さんは、俺をだきしめたまま、けっして顔をあげようとはしなかった。

もしかしたら、顔をあげられないほど苦痛に満ちた顔だった気もしたが、

俺にはそれを確かめるすべはないし、

どのような麻理さんであっても受け入れる覚悟ができていた。

 

春希「いいですよ。麻理さんが話しやすいようにしてください」

 

麻理「ありがと、北原」

 

春希「いいんですって。俺には遠慮なんかしないでくださいね」

 

麻理「お前が私を甘やかすからいけないんだぞ。

   甘やかすから、ここから出られなくなる」

 

こことは?と、一瞬疑問に思い、口に出そうとしたが、

どうにか口の中でとどめることができて、実際麻理さんに問いかける事はしなかった。

そんなの決まっているじゃないか。聞くまでもない質問であった。

 

春希「甘やかしてなんていませんよ。仕事の時の麻理さんと同じです。

   これが麻理さんに必要だから、俺がこうしているんです」

 

麻理「へ理屈言うなぁ・・・」

 

なんだか泣き声に近い声色だったが、どことなく嬉しそうでもあったので、

実際泣いてはいないのだろう。

そんなネコが甘えるような泣き声を聞くと、俺の保護欲はさらに高まることになる。

もう無理かもしれない。離れられないかもしれないと思ってしまう。

それは不可能だってわかっているのに、思わずにはいられなかった。

 

春希「へ理屈だろうと頭が固いって言われようが、必要だと判断したら躊躇しませんよ。

   だから麻理さんもしっかりと俺を利用してください」

 

麻理「北原も生意気になったものね」

 

春希「麻理さんの下についた時から言われ慣れていますよ」

 

麻理「たしかにそうだな」

 

ほんのわずかな瞬間だが、俺の言葉への同意を伝えるべく麻理さんが顔をあげてくれた。

それでも、俺の視線に気がつくとすぐさま顔を伏せられはしたが、

麻理さんの調子の方は安定に向かっているようには見えた。

 

麻理「まあ、いいわ。・・・それで話って言うのは、私が陥っている状態についてね?」

 

春希「はい」

 

麻理「北原が来るってわかった時点で全て隠さず話そうと決意していたから、

   何でも聞いていいわよ。今さらかっこつけたって意味ないし、

   それに、もう私の状態もさっき見せちゃったしね」

 

麻理さんが震える声で俺に宣言する。

全く平気ではないのに、平気なふりをしているのが

明らかすぎるほどに、声だけであってもわかってしまう。

だから俺は、慰めの言葉さえも省略して、本題に突入する。

いたわりの言葉が麻理さんを傷つけてしまうんじゃないかとか、

そういう事を考慮しての判断ではない。

ただたんに、俺が何を言えばわからなかったから、本題をいきなり切り出したと言えた。

それだけ今の俺には余裕がなくなっている。

今も現在進行形ではあるが、麻理さんの柔らかい体を意識してのとは違う、

別方面での余裕のなさであり、その性質は180度意味合いが異なっていた。

 

春希「それでは聞きますね。もし言いにくいことがあるのでしたら、無理には聞きません」

 

麻理「今さっき、なんでも話すって言ったわよ」

 

春希「全てを話すとは言っていましたけど、「今」すべてを話すとは言っていませんでしたよ」

 

麻理「それこそへ理屈よ」

 

麻理さんは、嬉しそうに心底呆れた声で俺を非難する。

 

春希「へ理屈だと思ってもらっても構いませんよ」

 

麻理「開き直ったわね」

 

春希「それが必要だと理解しただけですよ」

 

麻理「なるほど・・・」

 

麻理さんは、おでこを俺の胸にコツリと押し付けて同意を示した。

 

春希「では、聞きますね。俺が作った食事ですけど、味はありましたか?」

 

麻理「いきなりストレートにきたわね。OKよ。回りくどい聞き方よりもすっきりするし。

   ええ、味はいつもよりもだいぶ感じ取ることができたわ。

   でも、普通レベルとは言えないわね。

   そうね・・・、塩分なしの薄味ってところかしらね」

 

春希「ということは、どうにか味を感じられるというところでいいのですね?」

 

麻理「おそらく。今まで味覚の強さなんて考えもしてことなかったから、

   味の強さの表現を的確にはできないし、判断基準自体が曖昧なのよね」

 

春希「それは仕方がない事ですよ。俺だって意識する必要性がなければ気にも

   なりませんし。普段から自分がどうやって呼吸をしているかを

   考えてやっている人がほとんどいないのと同じですよ」

 

俺は、ここで言葉を一度止めたが、回りくどい言葉を避けるべく、付け加えるようにいった。

 

春希「何事も、病気にならなければわからないって事ですよ」

 

麻理「それもそうね」

 

俺は正解を引き当てたかはわからない。麻理さんの声色に変化はなかった。

 

春希「食事の後、吐き気はなかったのですか?

   胃を刺激しないよう、こってりしすぎないようには気をつけてはいたのですが」

 

麻理「まったく吐き気はなかったわ。

   自分でも驚いていて、自分の現金さには呆れてしまうのだけれど、

   北原がいるってことで舞いあがったのかしらね」

 

春希「男の立場からすれば、意識してくれることは嬉しい事ですよ」

 

麻理「そうかしら? 一歩間違えれば重度のストーカーよ」

 

麻理さんは、自分を貶めるかのように言い捨てる。

俺も考えなかったわけではない。

でも、麻理さんの場合は、普通のストーカーとは方向性が違っている。

俺へ向けるべき感情を、逆方向に、俺から離れるようにと向けていた。

だから俺は、麻理さんを逃さないように引き止める。

だからこそ麻理さんは、後ろ向きのまま背中を向けて俺と向き合ってくれている。

今の麻理さんは、精神の崩壊を起こさないぎりぎりの境界線上いるだけで、

麻理さんが仕事で鍛え上げた強力な忍耐力で堪えているにすぎないと思えた。

つまり、その境界線上にいる麻理さんの背中をちょっとでも押す行為があれば、

一気に麻理さんの抑えられた感情が心の奥から逆流し、

俺の手から麻理さんはいなくなってしまうだろう。

 

春希「そうですか? NYまでやってきた俺の方がよっぽどストーカーじゃないですか」

 

麻理「たしかに」

 

俺の切り返しに、麻理さんは小さく笑いを洩らす。

これはうけ狙いで言ったわけではなかった。本気でそう思っただけなのだが、

結果的には麻理さんの気持ちをほぐす効果があったのには助けられた。

 

春希「まあ、いいですよ。俺はしつこいんです。しつこくて、粘着質で、諦めが悪いんです。

   だから、麻理さんが根をあげたとしても、俺は諦めないですからね」

 

麻理「覚えておくわ」

 

春希「えっと、これは思い付きなんですけど、オムライスって麻理さんにとって

   印象深い料理ですよね。・・・俺を連想するような」

 

回りくどい言い方は避けようとはしたが、さすがに自分をアピールする発言には

俺の方がまいった。言っていて体が熱くなってくるのが自分でもわかってしまう。

ましてや、俺の心臓の側に顔をうずめる麻理さんには、

早まる鼓動がきっと知られているはずだ。

 

麻理「そうね。北原の言いたい事はわかるわ。

   だったら、オムライスなら一人でも食べられるのではないかって、

   私も思い付きはしたのよ。でも、どうしても違うのよね。

   最初は卵の半熟具合が悪いのかなって思ったり、チキンライスの味とかが

   原因かなとも考えたけど、やっぱり違うのよ。

   北原が作ってくれたというのが意味があるのであって、オムライスそのものでは

   ないのかもしれないわ」

 

春希「では、他の料理と比べての印象ではどうですか?

   他の料理よりも味が感じやすいとか」

 

麻理「オムライスの方が、拒否反応が強くなったと思うわ。

   私が色々な店でオムライスを買ってきたのが悪かったのかもしれないけど、

   食べれば食べるほど拒否反応が強くなっていったというか、

   北原のオムライスが神聖化でもしたんじゃないかって感じかもしれないわね」

 

春希「神聖化はいいすぎですけど、言いたい事はわかりますよ」

 

つまりは、俺のオムライスへのあこがれが強くなってしまったという事か。

 

麻理「だから、今では食べないようにしているわ」

 

春希「だとすると、俺がオムライスを作ったのも、案外ギャンブルだったんじゃないですか?」

 

麻理「それはないわよ。いくらオムライスに拒否反応を示してるといっても、

   それは北原以外のオムライス限定よ」

 

春希「それは作っている人間からすれば称賛とも受け取れますけど、

   あまり俺の料理を過大評価しないでくださいよ。

   どうも俺の周りには、俺の料理を甘く採点する傾向があるみたいで」

 

麻理「へぇ・・・。北原の料理を食べている子が、日本にいるんだぁ」

 

麻理さんの声に棘があったような気がしたのは、きっと俺の思いすごしだと思いこんだが、

あいにく俺を抱きしめる腕の力が強まった事だけはなかったことにはできなかった。

未だに顔をあげてはくれないので、その表情は見ることができないでいたが。

 

春希「友達ですよ友達。そいつったら進級に必要な単位を落としそうになってしまって、

   春休みだというのにお情けのレポートやってたんですよ。

   普段の俺がそいつの教育係を教授に任されていて、何度も何度もレポートとか

   講義の出席について注意していたのに、そいつったらいくら言っても

   しっかりしてくれなかったんですよ。

   それで案の定学年末になって慌てる事態になったんです。

   まあ、教授から教育係を任されていたのに、それでも進級に黄色信号を

   灯してしまった責任が俺にもある気はしますよ。

   でも、いくらサポートしても最終的には本人の頑張りようじゃないですか。

   それでですね。春休みだというのに俺は教授に頼まれて、

   そいつの監視役に任命せれたんです。

   そういう事情もあって、俺の部屋を提供した事もあって俺が料理を作るっことに

   なったんですよ。もちろん休みを返上してまでレポート手伝って、

   なおかつ料理まで作ってやったんですから、もしかしたら、

   俺の顔にまずいっていったら許さないって出ていたのかもしれませんね」

 

嘘つきほど饒舌になると言うが、この時の俺は、まさしく饒舌だったのだろう。

麻理さんに聞かれもしていない事を勝手にしゃべりまくり、

麻理さんにとっては苦しい言い訳に過ぎない話をしどろもどろに話してしまった。

せめてもの救いと言えば、麻理さんが顔をまだ上げていないので、

うろたえた顔を見られずに済んだことが唯一の救いだったのだろう。

 

麻理「もういいわ・・・」

 

春希「え?」

 

ゆっくりと顔をあげながら目元を指でぬぐっている麻理さんの顔には、

笑みが浮かべられていた。

麻理さんは、必死に笑いをこらえようとしていたが、うまくはいっていない。

むしろ俺の顔を見たことで、笑いをこらえる事さえも放棄してしまうほどだった。

 

春希「えぇっ?」

 

戸惑う俺をよそに、麻理さんは笑い続けていた。

俺としては、悲しみに苦しんでいる麻理さんを見ているよりは、笑いを止められずに

苦しんでいる麻理さんを相手にしている方がいいに決まっている。

それが俺のことをだしにして笑っていたとしてもかまいはしない。

むしろ麻理さんに笑顔を提供できたことに喜びさえ持ってしまうほどであった。

 

春希「笑いすぎですよ」

 

俺は、こまった顔を作って、麻理さんを軽く非難するふりをする。

けっして困ってなどいない。もちろん批難なんてしてやいない。

それは、俺の顔にも、俺の声にもそれは込められており、麻理さんもそれを理解していた。

 

麻理「ありがと、北原。だいぶ楽になったわ」

 

返ってきた言葉は、予想外のものであった。

落ちついた声色には、笑いも、悲しみも含まれてはいない。

いつもの前をしっかりと見定め、俺を導いてくれていた麻理さんがそこにはいた。

 

春希「俺は、なにもしていませんよ。ただ自分で墓穴を掘って、

   盛大に自爆しただけですよ」

 

麻理「そうなのか? だったらあとで、和泉さんとの春休みの出来事について

   しっかりと聞かせてもらおうかな」

 

春希「ははは・・・」

 

今度こそ冷や汗さえもでやしなかった。

出たのは乾いた笑いがかすかに漏れただけ。

鈴木さん、恨みますよ。本当に麻理さんに報告してるじゃないですか。

冗談だと思っていたのに、あんまりじゃないですか。

俺は、とりあえず鈴木さんのリスクランクを一段階引き上げ、

和泉千晶の一段階下に位置させた。今後の見通しはネガティブ。

今のままの状況では、さらなるリスクを生じさせる可能性があるとみられ、

和泉千晶と同一の格付けになる可能性が高いと評価を改めた。

 

麻理「その前に、私の今の状態と、北原の今後について話さないか?」

 

春希「はい」

 

俺に拒否する選択肢などなかった。どうやって話を持っていくか悩んでしたのだから。

 

麻理「でもその後で、和泉さんについても話してもらうわよ」

 

麻理さんは、やはり拗ねた感じでそう言い付け加えた。

その表情もあまりにも可愛らしすぎて、状況が状況ならば、悶絶していたはずだ。

ただし、一つだけ訂正すべきことがあった。

俺が思っているよりも、世の中は結構いい加減なのかもしれない。

俺が勝手に作った優先度など、麻理さんの中では、けっこう番狂わせを起こしているようだ。

 

春希「別に隠すような事でもありませんから、麻理さんが納得するまで話しますよ。

   でも、聞いても全く面白くないですよ。

   むしろ退屈すぎるくらい平凡な大学生のレポート作成だったんですから」

 

麻理「面白いか面白くないかは、私が決めるから問題ないわ。

   それに、北原がどんな大学生をやっているかも聞いてみたいしね。

   北原って、大学の事はあまり話さないじゃない。

   だから、聞いてみたかったというのもあったのかもね」

 

春希「そうですか? 本当につまらない学生生活ですよ」

 

麻理「それでもいいのよ」

 

春希「そうですか? 麻理さんが聞きたいというのでしたら話しますけど、

   本当に講義に出て、勉強して、時間があればバイトをしているだけなんですよ。

   そう考えると千晶の事が唯一面白みがある話なのかもしれませんね」

 

麻理「へぇ・・・、和泉さんって、千晶さんだったのね。

   やっぱり女性じゃない。鈴木のやつの誇張だと思っていたのに、

   本当に鈴木の言う通りだったのね。 

   だとすれば、余計に和泉さんについて聞きたくなってきたわね」

 

目を細め、鋭い視線を俺に向ける麻理さんは、

すでに編集部での麻理さんのレベルまで回復していた。

それが一時のやせ我慢であっても喜ばずにはいられなかった。

今回わずかな時間しか維持できなくても、次につながるはずだ。

笑い方さえ、気持ちの高め方さえ思いだしてくれさえすれば、

麻理さんならきっと再び笑顔を取り戻せるはずだ。

何度も何度も繰り返すリハビリが大変だって、苦しい事だってわかっている。

でも俺は、麻理さんの隣にいるって決めたからには、俺も一緒に苦しんで、

苦しみの一部を引き受ければいいと考えていた。

 

春希「わかりましたよ。

   千晶の事は、あとで麻理さんの気が済むまでなんでもこたえますから。

   あとでつまらないって文句を言っても受け付けませんからね」

 

麻理「わかってるわよ」

 

俺はもう一度だけ念を押すと、

今度こそ覚悟を決めて俺達の今後の事を話すことにした。

やはり俺の表情も声も硬くなるわけで、麻理さんもきゅっと唇を軽く噛んで

覚悟を決めてくれたようであった。

 

春希「俺の今後の進路なんですけど、8月からのNY行きが決まりました。

   木曜日に編集長に呼ばれて許可を貰ったのですが、

   あとは書類上の手続きを済ませれば正式な許可が月末にはおりるようです。

   本当は木曜日に麻理さんに報告しようと思っていたのですけど、

   会って直接報告したかったので、報告が遅れてしまってすみません」

 

麻理「ううん、いいわ。以前NY行きの話が出た時にこうなるってわかっていたから。

   だって私が北原を育てたのよ。上が許可しないわけないじゃない」

 

春希「そういって下さるのは嬉しいのですが、過大評価しすぎですよ」

 

麻理「だったら、私の教育もその程度だったっていうことかしら?」

 

麻理さんは意地が悪い表情を浮かべながら笑いをこらえている。

今、麻理さんの心の中がどうなっているかなんてわかるわけがない。

そもそも俺の心の中でさえ俺本人が理解できていないのだから、

麻理さんの心情なんてわかるはずがなかった。

ただ、俺の心の中に住む彼女の心情だけは手に取るようにわかってしまい、

俺の心臓を鷲掴みにしてくるようで息苦しかった。

 

春希「それを言うのは卑怯ですよ。わかりましたよ、わかりましたっ。

   麻理さんの教育がよかったから、駄目な生徒もNY行きが叶いました」

 

麻理「なんか投げやりっぽい言い方が気にいらないけど、まあ、

   北原はもっと自分に自信を持った方がいいわよ。

   あなたは自分が思っているよりも周りのみんなは評価しているのだから、

   そのことを意識しないと北原は謙遜しているつもりでも、

   相手からしたらお高くとまってるって思われてしまうこともあるよね」

 

春希「ええ、そのへんの人間関係はこれからも学んでいかないといけないと

   思っています。

   なにぶん一人で突っ走ってしまう嫌いがありますからね」

 

麻理「そうね。今回も勝手にNY行きを決めたものね」

 

麻理さんは呆れた態度を装って、俺の出方を伺ってきていると思ってしまう。

どうしても俺は裏を読もうとしてしまう。

麻理さんの真意を見落とさないようにと、

俺の神経は過敏になっていたのかもしれなかった。

たった一度のミスが、永遠の別れにつながるとわかっているから。

 

春希「それだけは謝りませんよ。俺は正しい選択をしたって信じていますから」

 

俺がきっぱりと宣言すると、麻理さんの反撃の意思は徐々に消え去ってしまう。

 

麻理「正しいわけ、ないじゃない」

 

でも、意地の反撃だろうか。

麻理さんが小さく呟いた台詞は俺の心に深く突き刺さっていても、

俺は聞こえないふりをした。

 

春希「それに、もう今住んでいるマンションは引き払いましたし、

   すでにNY行きは動き出しているんですよ」

 

麻理「それはいくらなんでも早過ぎじゃないかしら?」

 

さすがの麻理さんでも、俺の行動の速さに驚きを隠せないでいた。

たしかにNYへ来るのは8月であるわけで、早すぎるといったら早すぎる。

 

春希「あいにく俺はお金に余裕がある大学生ではないんですよ。

   NY行きが決まったとしても、先立つものがなければNYで生活していけないですよ」

 

麻理「研修中って、お金でないんだっけ?」

 

春希「どうでしょうかね? 俺もNYへ行くことだけを考えていたんで、

   給料については全く調べていなかったです」

 

麻理「案外しっかりしているようで抜けているところもあるんですね」

 

そう言っている麻理さんも、研修については調べて、裏工作までしてくれていたのに、

肝心のNYでの生活たる給料については調べていないじゃないですか。

たしかに、そんなお金なんて些細な出来事かもしれないけど。

 

春希「お金じゃないですからね。

   それよりも、麻理さんはいつから俺の海外研修について考えてくれていたんですか?」

 

麻理さんは日本にいた時にすでに編集長や浜田さんに俺のNY行きについて根回しを

してくれていた。それも、俺が海外研修について気がつく前に。

どこまで先を見ているんだって、仕事面では当面追いつけそうもない速度で進んで行く

麻理さんを、俺は必至でその背中だけは見失わないように走り続けていた。

 

麻理「北原の海外研修自体は、秋くらいかしら。

   夏の終わりの人事異動で海外から戻ってきた部員を見て、

   北原も早めに海外でもまれてきた方がいいなって思ったのよ。

   ずっと私の下で働いて欲しいけど、それだけでは北原の為にはならないし。

   やっぱ環境を変えて、それも国まで変えて仕事に没頭することが必要なのよ。

   こればっかりは私の下では経験できないのよね」

 

春希「でも、編集長に根回ししてくれたのは別件でですよね?」

 

これだけははっきりとしておきたかった。

仕事の為に俺の海外行きを用意してくれていたのか。

それとも麻理さんの側にいられる為にNY行きを準備してくれていたのか。

前者であっても光栄なことではある。

だけど、俺としては麻理さんに必要だって思われたい気持ちの方が強かった。

俺は麻理さんの言葉だけでなく、その瞳を、その表情の変化を見逃さないように

意識を集中させていった。

 

麻理「ええ、そうよ。北原をNYへ呼ぶ為だけに編集長や人事に話を通しておいたわ」

 

麻理さんは俺の視線を真っ直ぐと受け止めると、毅然とした態度ではっきりと口にする。

その瞳には揺らぎはない。

今、麻理さんの言葉で、俺が必要だって言ってもらえた。

光栄すぎる。

たとえ偽善に満ちた俺の好意であっても、それが必要だと言ってくれた。

けっして交わることがない想いであっても、

いつか離れることが確定していても、

それでも今は必要だといってくれる麻理さんが愛おしく思えてしまう。

 

春希「ありがとうございますと、言ったほうがいいんでしょうね」

 

他に言葉が思い付かない。声に出して言っていい言葉が思い付かなかった。

声に出してしまった瞬間に、俺は罪に押しつぶされてしまう。

それは、麻理さんへの罰も執行されることと同義であった。

けっして麻理さんが悪くなくてもだ。

 

麻理「どうかしらね。お互いの利害が一致しただけだから、感謝の気持ちなんて必要ないわ。

   私がしたくてしただけなのだから、北原が気に病むことがらではないわ」

 

春希「それでも、言っておきたいんですよ」

 

俺はまだ麻理さんに必要ではないって烙印を押されていない事が確認できたのだから。

必要とされている喜びを、言葉を変えてでも伝えたいから。

 

麻理「そう? 

   だったらNYへ来ても、編集部のみんなが納得するような成果をあげることね」

 

春希「もちろんNYへ行かせてもらえるんですから、社の期待にはこたえますよ。

   慈善事業でNYへ行かせてもらえるわけではないのですから」

 

麻理「その覚悟があるのならば、問題ないわ」

 

もちろん麻理さんも理解しているはずだ。

仕事ではない、もう一つの重要な目的。

開桜社の仕事よりも重要で、日本での仕事を投げ出してでも掴み取ろうとした目的。

麻理さんの側にいるっていう、俺の意思を麻理さんは知っているはずだ。

でも、それは簡単には声に出す事は出来ない。

仕事と絡めて話していい内容ではなかった。

いくら俺を麻理さんが必要としていても、仕事に生きる麻理さんが、

仕事を大事にしている麻理さんが、仕事を利用してプライベートに便宜を図るなんて

やっていいことではなかったのだから。

もちろん何一つプライベートに便宜を図った事がないわけではない。

役得とでもいえばいいのだろうか、小さな便宜なら誰だって気兼ねなく受け取っている。

げんに俺だって年末に曜子さんのコンサートチケットを仕事の関係で貰った事がある。

だけど、今回のNY行きは別だ。

仕事の為ではなく、麻理さんの側にいる為だけにNY行きを手に入れた。

たとえそれが立派な大義名分があろうと、

当事者だけが知る実情は仕事とはかけ離れ過ぎていた。

 

春希「はい、頑張ります。それでですね、麻理さん」

 

麻理「ん? なによ改まっちゃって」

 

俺が醸し出す雰囲気ががらりと変わり、麻理さんは何事かと身構えてしまう。

まあ、その反応は当然だろう。

いくら佐和子さんからの強い要請があり、そして俺もそれを望み、

なおかつ麻理さんもきっとそれを望んでいようとも、

世間の目からすれば俺がこれからしようとしている行為はひもであるのだから。

いちおう俺の名誉を守る為に言葉を変えるとしたら、なんとか居候といえるかもしれないけど。

 

春希「あのですね、できれば今回俺が泊まる部屋を8月からも貸していただけると

   助かります。

   なにぶんお金の余裕もありませんし、海外生活も初めてで、

   このまま一人で住んでしまうと、海外生活に慣れるのだけで時間を費やしてしまい、

   仕事の方がおろそかになってしまいそうなんですよ」

 

建前すぎる建前を麻理さんに提示する。

誰の為の建前なのか。それはおそらく俺と麻理さんが、二人とも必要なのだろう。

 

麻理「それはかまわないわよ。部屋は余っているのだし、北原が使ってくれるんなら

   大歓迎よ。それに、北原が毎日食事を作ってくれるんでしょ?」

 

春希「それは部屋を貸していただけるのですし、当然作らせてもらいます」

 

麻理「だったら、食事を作ってもらう事が部屋代って事でいいわ」

 

春希「ありがとうございます。でも、光熱費とかは払いますから」

 

麻理「いいわよ、そんなのは。北原がいくら使ったなんてわからないし、

   料理を作ったときに発生する光熱費も私の為の分もあるわけだし、

   その辺は全て部屋代に含まれているって事にしましょ」

 

麻理さんは俺への反論を遮ろうと、理詰めで防壁を築いていく。

さすがの俺も、麻理さんの好意をむげにはできなかった。

 

春希「だったら食事の材料費だけは俺に出させてください。

   俺が料理を作るわけですし、俺が納得できる材料を選ぶ為には、

   自分でお金を出している方が選びやすいですからね」

 

と、せめてもの男のプライド?を守ろうとする俺は、

人間が小さいかもしれないと心の奥で思ってしまう。

 

麻理「北原がそのほうがいいっていうのなら、私はそれでも構わないわ。

   でも、私が必要だと思う食材は勝手に買わせてもらうわよ」

 

春希「もちろん麻理さんが必要とする食材を、俺が買う事を拒むなんてできませんよ」

 

麻理「それもそうね。あと、部屋を使う上のルールというか、生活する上での取り決めは、

   何か思い付いたときに決めていきましょう。

   実際引っ越してくるのは、・・・まだ先なのよ、ね」

 

最後の言葉は、一瞬言葉を詰まらせた麻理さんではあったが、

どうにか最後まで言葉を紡いだ。

やはり「まだ先」が本音だろう。

俺だってこのままNYに住みつく事が出来るのなら、喜んでそうさせてもらう。

それがたとえ「ひも」とののしられようと、

鈴木さんの指摘通り「麻理さんの部屋に転がり込む」行為であろうと、

麻理さんの側にいられるのならば、いくらでも俺は悪名を頂戴しよう。

 

春希「はい、8月からです」

 

麻理「うん、待ってる」

 

春希「はい、待っててください。それとですね、麻理さん」

 

麻理「うん?」

 

さて、今俺には2枚のカードがある。

どれを先に出すべきか。どれも麻理さんに伝えなければならないことだった。

一応一番の難関であるNY行きの報告と、NYでの生活の場の確保は済ませた。

とりあえずは、麻理さんがすんなり受け取ってくれそうな話題からするかな。

もしかしたら、最後に残した一枚の方がNY行きの報告以上にやっかいかもしれないけど。

 

春希「麻理さんの食事についてですけど、一つ試してみたい事があるんですよ」

 

麻理「それって、味覚障害についてよね?」

 

春希「はい」

 

麻理「そんなに怖い顔しなくてもいいわ。

   私は今の私も受け入れているんだから、上手に付き合っていくしかないのよ。

   だから、北原がそんなに力まなくてもいいの」

 

柔らかい口調で、仕事のミスを励ますように諭してくる。

しかし、そんな悲しそうな顔をして言うなんて卑怯だって言ってしまいそうだった。

麻理さんは、俺がそんなことを受け入れられないってわかっているのに。

 

春希「力んでなんていませんよ。俺は自分が出来る事をやるだけです。

   しかもこれは俺にしか出来ない事ですしね」

 

麻理「なにを企んでいるのよ?」

 

麻理さんは嬉しそうに呆れてた瞳を俺に向けてくる。

・・・・・・俺達はいまだに床に転がりながらも抱き合っているわけで、

俺の顔を至近距離から見ている麻理さんには、俺の表情を手に取るようにわかってしまう。

だから、俺の方も麻理さんの小さな表情の変化もわかってしまった。

 

春希「大したことではないですよ。ただ、一日2回電話するだけですよ。

   それに今は携帯のアプリやネット回線もあるわけですから、

   お金もあまりかからないと思いますしね」

 

麻理「何をしようっていうのよ?」

 

春希「簡単な事ですよ。麻理さんが食事をするときに俺と電話して、

   画像と音声をつなげるだけです。

   麻理さんの職場では無理でしょうけど、朝と夜の食事は自宅ですし、

   何も問題ないと思いますよ」

 

麻理「ネット回線でつないで一緒に食事をしようってこと?」

 

春希「ええ、まあ」

 

麻理「簡単な事って北原はいうけど、日本とNYとでは時差もあるし、

   私の食事の時間も決まった時間っていうわけではないのよ。

   しかも北原にも大学や仕事もあるから無理よ。

   最初は無理を通せるかもしれないけど、

   結局はタイミングが合わなくなって悲しい思いをするだけだわ」

 

春希「無理かどうかはやってみたにとわからないですよ。

   時差があったとしても、俺が起きている時間は普通の日本人の生活時間とは

   かけ離れていますからね。

   それに、俺が途中で投げ出すと思いますか?」

 

麻理「たしかにそうかもしれないけど、北原の生活が私に縛られることになるのよ」

 

春希「俺がそれをのぞんでいるんですから、麻理さんは俺に甘えてくれるだけでいいんですよ」

 

麻理「北原は、どこまで私を堕落させれば気が済むのよ」

 

呆れ果てた言葉とは裏腹に、麻理さんの顔からは笑顔がにじみ出ている。

そして、俺も麻理さんもほっとしている部分もある事がお互いに理解できていた。

この方法がどこまで効果があるかはわからない。

だけど、俺がNYまで来て、麻理さんと一緒に食事をしただけでも、

味覚は治ってはいないが気持ち悪くなって吐く事はなかった。

だから、テレビ電話であっても俺との接点があるのならば、

これ以上の悪化だけは食い止められるかもしれないと願ってしまう。

 

春希「お互い様ですよ。俺が最悪な時に救ってくれたのは麻理さんですよ。

   今こうしてNYにこれているのも、海外研修を認められたのも、

   それはすべて麻理さんが俺に手を差し伸べてくれたからです。

   もし今俺が麻理さんに対してやっていることが堕落と言うのでしたら、

   麻理さんが俺に対してやってくれた事は、堕落以上の甘やかしですよ」

 

麻理「甘やかしではないわ。でも、その行為には私の打算があったかもしれないのよ。

   北原を慰めてあげれば、もしかしたら私に振り向いてくれるかもしれないっていう

   女のエゴがあったかもしれないわ」

 

春希「エゴでいいじゃないですか。誰だって100%自分の為ではないことなんて

   できやしませんよ。たとえ慈善活動であっても、そこには自己満足が含んで

   しまいますからね。自分にやる気を起こせない行動なんて、土台無理なんですよ。

   逆に、強制的にやらせるにせよ、やはりそこには自分の為っていう成分が

   必ず入りますしね。もしやらなければペナルティーが課せられるとかの強制であったら、

   ペナルティーを避けたいという自己保身の為っていう理由が含まれます。

   だから、どんな行為であってもエゴは入って当然なんですよ」

 

麻理「ねえ、北原」

 

春希「なんです?」

 

麻理「どうしてなのかしらね?」

 

春希「え?」

 

麻理「どしてこんなにも理屈っぽくて、しかも、屁理屈とも言えるような論理を

   平気で人におしつけてけるのに、どうして私は北原を頼ってしまうのかしら」

 

春希「理屈っぽいのと屁理屈という部分については、素直に認めますけど、

   麻理さんが俺に頼ってくれるのには、理屈なんて必要ないですよ。

   ただそうしたいからそうするでいいじゃないですか」

 

麻理「そうね」

 

麻理さんは、俺の顔を見上げていた顔を下げると、ぱふっと俺の胸に顔をうずめてくる。

麻理さんが俺の胸に顔をうずめる行為も、俺が麻理さんを抱きしめている行為も、

理屈じゃない。

今の俺達には必要な事だって本能が欲しているからしているからにすぎない。

 

春希「そのままでいいんですけど、

   もう一つ麻理さんに言っておきたい事があるんですけど、いいですか」

 

麻理「別にいいわよ。どうせ私が拒んでも北原が強引に私を甘やかすだけなんだから」

 

麻理さんは、俺の言葉通りに抱きついたまま返事をしてくる。

そのせいで、その声はちょっとくぐもった音になってしまってはいるが、

拒絶の意思は一切含まれていなかった。

もはや白旗状態なのかなって思えてしまう。

俺が甘やかすから(麻理さん談)、麻理さんからすればとことん甘えてやるって

開き直ったのかもしれない。

でも、それでいいんだ。今麻理さんがすべきことは、俺を利用してでも

味覚障害を克服して、普通の生活を取り戻す事なのだから。

 

春希「ええ、存分に甘えてください。でも、今からいう事は、どちらかというと

   俺の方が甘えているのかもしれないですけどね」

 

麻理「ふんっ、口ではそう言っていても、結局は私が甘えている気がするのよね。

  まあ、いいわ。とりぜず言ってみて」

 

と、疑惑の目と共に麻理さんは顔をあげて、俺を優しく睨んできた。

 

春希「誤解ですよ。誤解って言いきれない部分も確かにありますけど、

   俺の方が麻理さんに甘えまくっていますよ」

 

麻理「じゃあ、早く北原春希の自称甘えを言ってみなさいよ」

 

春希「ええ、まあいいますけど・・・・・・。麻理さん、ちょっとすれてません?」

 

麻理「気のせいよ。もしそう思うのなら、北原に原因があるわ」

 

春希「そうですか・・・・・・。そう言う事にしておきますよ。

   で、ですね。俺が8月からNY行きがほぼ決まったと話したじゃないですか」

 

麻理「そうね」

 

春希「俺としては、研修が終わってもそのままNYに残りたいって思っているんです。

   もちろん大学を卒業しなければいけないので、いったん日本に戻りますけど、

   できることなら春からは日本の職場ではなくて、

   慣れしたしむ予定のNYの編集部でお世話になりたいと思っています」

 

俺からすれば大発表の一つではあったのに、麻理さんは驚く事はなかった。

もしかしたら麻理さんが俺のNYでの研修を考えていたように、

その後に俺がNY勤務を望む事も考えていたのかもしれない。

だって、麻理さんの容態が短期間で治ることなどあるわけないのだから。

麻理さんがそっと目を伏して、再び俺の瞳を覗き込んできたときには、

しっかりとした意思が込められていた。

本当にいいのか? 後悔しないかっていう確認を。

だけど、そんなのは今さらだ。

何度も後悔して、何度も思い悩んで、だけど選べないで、

だから俺は今ここにいる。

後悔なんて後付けの理由にすぎない。

そもそも人間は、正しい事のみを選択するなんて不可能なのだから。

おそらく俺が考えている以上にNYの編集部に在籍することは簡単ではないはずだ。

まず言葉が違う。

いくら英語を学んできたといっても、ビジネス英語レベルまでは上達してはいない。

しかも言葉を売りにしている商売なのだから、その正確性が求められてもいる。

大学の講義ではないから優しく間違いを正してくれることもない。

そんな現場に24時間身を置かなければならなくなる。

もちろん文化の違いなどもあるだろうが、そんなのは慣れだ。

そう考えれば英語も慣れなんだろうけど、麻理さんが気にしているのは

そういう誰もが経験するような問題ではないはずだ。

麻理さんが気にしているのは、俺が日本で築いてきた関係を一端精算して、

そしてNYで一から人間関係にしろ信頼にしろそういった時間をかけて築いてきたものを

再び作れるのかっていう事なのだろう。

でも、その心配は不要だといいたい。

どこであっても俺は北原春希をやるしかないんだから。

 

麻理「それって、私の病気が治るまでずっと一緒にいるっていうことと受け取っても

   いいのかしら? もし中途半端な気持ちだったら、それこそ迷惑な決断よ」

 

春希「俺が中途半端な気持ちで決めたと思いますか」

 

麻理「ごめんなさい・・・」

 

麻理さんはすまなそうにほんの少しだけ視線をそらすが、

俺の決意を見届けようと再び俺の瞳から目をはなさないようにしてくる。

だから、俺も俺の決意を伝えようと麻理さんから目をそらさない。

 

春希「謝らなくていいです。でも、俺一人の力ではNY勤務獲得は絶対とは言えないので、

   できれば麻理さんのお力添えがほしいところです。

   こういう最後の詰めが甘いところがかっこ悪いんですけどね」

 

麻理「なにいってるのよ。かっこよすぎるわよ。

   いいわ。人事だろうと編集長だろうとなんだって脅して、揺すって、

   力づくででも北原をNY勤務にしてみせるわ。

   でも、北原も私が推薦できるだけの実績を研修期間中に残しなさい。

   日本での実績は十分あるから日本の人事はどうにかなるけど、

   NYでの編集部はほんとうに実力が物をいうのよね。

   だから、英語に慣れないなんて三日で克服しなさい。

   そして、研修一週間後には仕事にも慣れていないといけないわよ」

 

春希「脅したりするのはちょっとヤバい気もしますけど・・・」

 

まあ、俺の仕事に関しては俺が頑張ればいいだけだ。

至らぬ点も多いだろうが、これも甘えかもしれないけど、

そこは麻理さんのフォローが入るだろう。

俺が苦笑いを浮かべていても、麻理さんの勝気な瞳は勢いづくだけであった。

でもそんな頼りになる麻理さんが俺は好きなわけで、

日本の編集部に戻ったような気がして、どこか心地よい疲労感に浸ることができた。

 

麻理「日本でもNYでも貸しと実績を積み上げてきたんだから、

   こういうときに恩返ししてもらわないでいつ返してもらうのよ。

   散々うちの編集部員のミスやらしわ寄せをフォローしてきたんだから、

   たまには私のお願いを聞いてもらっても罰は当たらないわ」

 

春希「たしかに麻理さんへの恩を感じている人はたくさんいるでしょうけど……」

 

俺ごときのことで恩を返してもらうなんて、という言葉を続ける事はしなかった。

日本にいた時の俺たちならば、何も問題ない笑い話で終わったはずだ。

でも、今は違う。俺はもう目をそらさない。

今麻理さんにとって何事にも変えられない重要事項だって、俺は受け入れてしまった。

相手に自分の都合を押し付ける事は不誠実だし、相手の事を見ていないといえるだろう。

それと同じように、相手が俺に向けてくれる感情を見ないふりをする事は、

相手の事を見ていないといえてしまう。

だから俺は、不誠実でありたくない。

麻理さんにとって誠実でありたいと望むほど、

かずさに対して不誠実だというジレンマを抱えつつも、俺はかずさを愛し続けている。

きっといつの日か罰が下るのだろうけど、その日まで愛していさせてほしかった。

 

麻理「さてと、来年からの北原の身の振り方の方針は決まったことだし、

   あとは研修で結果を出すしかないわね。

   大丈夫よ。北原なら、きっと私の期待にこたえる仕事をしてくれるわ」

 

春希「ええ、期待に沿えるよう努力しますよ」

 

麻理「よろしい」

 

麻理さんは俺の返事に満足したようで、会心の笑みを浮かべる。

ただ、その笑みを顔に定着したまま俺を抱きしめる腕の力を強めていくのは何故だろう。

顔は笑っているはずなのに、仮面のような静かな笑みは俺を不安にさせる。

そして、その笑みに変化が起き、不敵な笑みに変わっていった時には、

俺の直感は正しいと理解できた。

 

春希「えっと・・・、麻理さん。どうしたんです?」

 

麻理「ん? いや、なに。ちゃんと最後まで話をしようと思って」

 

春希「話ならちゃんとしますよ?」

 

どういうことだろうか?

俺が麻理さんの話を聞かないなどありえないのに。

麻理さんの言葉は俺を納得させる効果は望めず、ただただ困惑させるだけであった。

 

 

麻理「そうね、北原なら、しっかりと、話してくれるでしょうね。

   たとえ和泉千晶さんのことであっても」

 

麻理さんはそう言い放つと、今度こそ綺麗すぎる笑みをプレッシャーとして

俺に押し付けてきた。

力だけなら俺の方が強いはずなのに、その頬笑みが俺の筋力を緩め、

行動不能へと陥れてくる。

 

春希「千晶の事ですよね。話しますって」

 

声が上ずってしまう。けっしてやましい事などないのに、どうしても麻理さんからの

プレッシャーが俺を罪人へと押しやってしまう。

 

麻理「じゃあ、話してもらいましょうか」

 

春希「もちろんですよ」

 

俺は麻理さんのご希望に応じようと笑みと共に返事をしたはずなのに、

麻理さんの顔色を見ると、麻理さんの目には俺は

引きつった笑みで上擦った返事をしたようにみえたようだった。

それでも俺は春休みにあった事を全て語り尽くした。

元々隠すような事はないのだから、自分の潔癖を証明する為にも堂々と話すべきだった。

しかし、話が進んで行くうちに千晶が風邪をひいた事も話すことになり、

そうすると俺が忘れていた事実も出てくるわけで、それさえも正直に話すか迷ってしまった。

 

麻理「それでどうしたのよ? 

   千晶さん、風邪をひいたけど、どうにか提出期限には間に合ったのよね?」

 

春希「まあ、結果は最初にお話しした通りにレポートは合格でしたので、

   期日には間に合いましたよ」

 

麻理「でも、なんだかうかない顔してないかしら?」

 

春希「そうですか?」

 

麻理「ええ、そうね」

 

後ろめたい気持ちなんてないって思っていたのに、

たった一点のみ後ろめたいことがあったことを思い出してしまった。

千晶のためであり、俺の精神の健康上の為に忘れていたのに、

どうしてこういう場面にかぎって忘れたままにできないのだろうか。

あのことはもちろん偶然であり、俺の意思ではないんだけど、

たとえ事故だとしても麻理さんに話すとなると勇気がいるわけで、

内心うろたえ始めた俺は、話が進むほど顔にまで動揺が浮かび出てしまったようだ。

そもそも目の前にいるのは麻理さんなわけで、いくら隠し事をしたとしても

きっと見破られてしまうのだろう。

だったら・・・。

 

春希「申し訳ありませんでした」

 

麻理「え?」

 

そりゃあいきなり土下座したら、麻理さんだって驚くってものだ。

だけど、これも俺の誠意なわけで、動揺しまくっている俺には他の方法は思い浮かばなかった。

 

春希「千晶の看病した時なんですけど、汗をかいたっていって風呂に入りたいって

   言ったんですよ。でも、熱もまだ下がりきっていなかったんで、

   タオルで汗を拭いたんです。

   それで、俺が背中を拭いたんですけど、カーテンを全て締めるのを忘れていたせいで

   窓に千晶の裸がうつってしまいました。

   それで、その・・・。まあ、千晶の裸を見てしまったというか・・・」

 

俺は床に額をこすりつけながら一気に告白していくが、どうにも要領よく話せているとは

思えなかった。自分が声に出した瞬間に俺の頭から今言った事がこぼれ落ちてゆき、

何を言ったのかさえ理解できていなかった。

 

麻理「それって事故なんでしょ?」

 

春希「はいっ」

 

俺は顔を勢いよくあげると、声を張って返事をする。

目の前にはちょっと情けない弟でも見るような瞳が向けられていた。

どうやら怒ってはいないみたいであり、俺はほんの少しだけ心が軽くなっていく。

 

麻理「それに、窓に映ったのを見ただけでしょ?」

 

春希「いえ、それは・・・」

 

正直者すぎる俺は、どうしても嘘をつく事ができず、目を泳がすことしかできないでいる。

そもそもバスルームから出てきた千晶が上着を着ていなかったのは、

千晶の責任でもあるわけで、俺に全ての罪があるわけではない。

でも、たとえ罪が軽いとしても、どうして麻理さんの視線が痛いのだろうか。

 

麻理「直接見たの?」

 

凍てつく声が俺を捉える。目の前にいる麻理さんは、情けなすぎる弟を憐れに思いながらも、

隠しきれない怒りを声に込めてしまっている。

一見見た目は先ほどと変わりはない。

だが、変わらないからこそ、声の変化だけは異様に迫力があり、俺を床に縛りつける。

動けなかった。今すぐ返事をしないといけないってわかっているのに、

口さえ動かなくなっていた。

 

麻理「千晶さんの裸を、北原は、直接見たか聞いているのだけれど」

 

春希「はい、見ました。でも、一瞬でしたし、あれは事故だったんです。

   タオルを取りに来た千晶が上着を着るのを忘れていまして・・・」

 

言い訳をするほど俺はうろたえていき、信頼度が急落しくいく。

それに伴い、麻理さんの表情はますます曇って行くばかりだった。

 

麻理「北原は私が怒るとでも思っているのかしら?」

 

春希「え?」

 

麻理さんは苦笑いを浮かべながら俺の肩に手をあて、ゆっくりと床の上に座らせてくれた。

俺を見つめるその瞳には、呆れはあっても怒りは含まれていない。

俺が勝手にびくついていたことが、幻影を麻理さんに重ねてしまっていた。

 

麻理「たしかに北原が若くてきれな女の子の裸を見た事に憤りというか

   嫉妬に近い感情を抱いたわ。でも、事故だったんでしょ?」

 

春希「はい」

 

麻理「だったらいいじゃない。それとも……私の裸も見て、ちゃらにする?」

 

俺は呆然と麻理さんの冗談を聞いているしかなかった。

そもそも冗談を言うのでしたら、最後まで堂々としていてくださいよ。

冗談を言った本人が一番照れてどうするんですか。

愁いを帯びたその瞳は、恥じらいも混ざり合って儚い色気を醸し出してゆく。

けっして俺の瞳からそらさない麻理さんの瞳は、俺を捉えて放さない。

だから俺は、麻理さんの色香にのぼせてゆくしか道が残されていなかった。

 

麻理「もう……冗談よ」

 

春希「そうですよね」

 

もちろん、そんなに照れるんなら言わないでください、とは言わなかった。

 

 

 

 

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