心の永住者   作:黒猫withかずさ派

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~coda 5

 

 

朝の騒動はとりあえず落ち着き、

俺達は今後の事を踏まえて今まで会えていなかった時の事を語り合っている。

昨夜も遅くまで語りあっていたが、どうしても病気の事は避けてしまう。

どうしてこんなにも話す事があるのだろうか。

たった2カ月あえていないだけなのに、話したい事は尽きないでいた。

穏やかに時間が刻まれてゆき、天高く昇ってくゆく太陽も部屋に温もりを運んでくる。

ずっとこのままの時間が続けばいいのにと思えてしまうほどの緩やかな時間は、

いつまでも続くものではないと、俺達は悲しいほど理解していた。

 

春希「そういえば思ったんですけど、麻理さんって料理していませんよね?」

 

俺は昨夜と今朝使ったばかりのキッチンを思い浮かべる。

やはりというか、当然とも言えるのだろう。

麻理さんがいくら部屋の掃除をするようになったとしても、料理まで自動的にできるように

なるわけではない。

俺だって料理の勉強中であるわけだから、その上達の難しさを身を持って

現在進行形で理解していた。

 

麻理「少しは頑張ってみようとやってみたのよ。

   でも、人には向き不向きっていうものがあって……」

 

春希「別に麻理さんを責めているわけではないですよ」

 

膝を抱えて小さく丸まって拗ねている姿も可愛らしく思えたが、

それを麻理さんに指摘すると数十分間は機能停止になってしまうのを

たった半日で理解した俺は、あえてそのことに触れずに話を進めることにした。

 

麻理「じゃあ、なによ?」

 

だから反則ですって、半泣きのその姿は……。

 

春希「ええ、日本にいた時にも言いましたけど、キッチンにある鍋とか見栄えがいい道具は

   そろっているんですよ。

   でも一方で、包丁は各種そろっているのに研ぎ石がありませんでしたし、

   それでも刃が綺麗なままでしたので、使っていない事がよく現れていましたよ。

   あと、菜箸とか地味だけど必ず必要になる道具は一切そろってないんですよね。

   今朝まではフォークとかをうまく使って料理しましたけど、菜箸くらい欲しいですね。

   でも、NYで菜箸って売っているんですかね?

   もしなければ日本で買ってきますけど、一度NYで必要な物をそろえて、

   それでも足りないものはまとめて日本で買ったほうがいいかな……」

 

麻理「あぁ……。その辺は北原に任せるわ。私も佐和子も料理に関してはまったくだし」

 

春希「でしたら、昼食を作る前に見に行きませんか?」

 

麻理「料理グッズを見に?」

 

春希「ええ、そうです。日本でいうロフトとかハンズみたいな料理グッズを

   取り揃えている店って心当たりありませんか?」

 

俺はさっそく頭の中で既にそろっている道具とそうでない道具のリストを作り始める。

さらに、すぐにでも必要なものとそうでないものに分け、優先順位を作り上げた。

別に時間がないわけでもないし、麻理さんとゆっくりショッピングするのもいいけど、

どうしても日頃の癖は抜けなく、予定を優先順位をつけてしまう。

でも、何を買うべきかがわからずに、なんども同じところを歩き回るよりはましかと

自分の正当性を作り上げて自己満足をしておいた。

 

麻理「そうね。それだったらわかるわ。中に入ったことはないけど、道はわかるから

   案内できるわよ」

 

春希「じゃあ、道案内お願いします」

 

 

 

 

 

俺は麻理さんに連れられて目的のものを次々にそろえていった。

一応菜箸も手に入れる事もでき、日本で買わなければならないものなどはない。

中には日本にはないようなグッズもあり、目を引いたが、それはいわゆるデートとしての

盛り上がりを作るのに一役買ってくれた。

それに、料理をしない麻理さんが料理グッズを見ても面白くはないと杞憂していたが、

物珍らさも相まって楽しいんで貰えたようだ。

今も戦利品が入った袋を胸に抱きながら、にこやかに俺に話しかけてきていた。

 

麻理「これがあれば、私だって料理の手伝いくらいはするようになるわよ」

 

春希「そこは料理をするようにではないのですね」

 

麻理「だから、人には向き不向きがあるのよ。その辺を熟知している私は、

   無理な事はしないのよ」

 

春希「後ろ向きな進歩ですけど、麻理さんが一緒に台所に立ってもらうことは

   いい進歩だと思いますよ。

   俺一人で作っているよりは、一緒にやったほうが楽しいですからね」

 

麻理「でしょ? やっぱり買って良かったわ」

 

春希「そうですね」

 

麻理さんは袋の中身に思いを寄せる。

それは色違いのおそろいのエプロン。

俺のがベーシックなデニムブルーで、麻理さんがブラウンをチョイスした。

もちろん俺が選んだのではなく、麻理さんが選びとったものである。

デニム生地のしっかりとした作りで、地味だけれど、

俺と麻理さんの目を引き付けるのには十分である。

一目ぼれとも言うが、料理をしない麻理さんであっても、

これを身につけた姿を見てみたいと思ってしまう。

それで試着をという流れになり、

これほどまで麻理さんがやる気になるとは計算外ではあった。

計算外ではあるが、麻理さんのエロプン姿をみられたのだから、

俺の想像力の小ささを嘆くのはよしておこう。

エプロン姿の麻理さんを夢想するのは大変有意義な時間だが、

想像上の麻理さんに思いを寄せておくと今目の前にいる麻理さんがやきもちを焼くので、

今目の前にいる麻理さんに意識を集中した事はいうまでもなかった。

 

春希「買う物はほぼ全て買いましたし、そろそろいったん家に戻りましょうか。

   このままスーパーにいってもいいのですけど、荷物も多いですし、

   家に荷物を置いてから出直した方がいいですね」

 

今は午後1時過ぎ。遅い朝食をとったおかげで、まだ比較的食欲は沸いてきてはいない。

街のレストランを覗くと人が溢れていて、もう少しだけランチタイムの混雑は続くのだろう。

 

麻理「ええ、そうね。さすがにこれだけのものを持ってスーパーには行きたくはないわね。

   北原が全部持ってくれるとしても、ちょっとばかしは気がひけるわよね」

 

春希「俺が持つ事前提ですか?」

 

麻理「男性なんだし、たまには力がある所を見せてくれてもいいじゃんない?」

 

陽気な麻理さんは、肩を俺の腕に軽くぶつけると、挑発的な視線を送ってよこす。

すると俺は、普段は頭脳労働メインですけど、これでも一応男ですから

それなりに力はあるんですよ、と目で訴えかけたが、

麻理さんは笑ってそれを受け流すものだから、ほんとうにこの人には敵わない。

 

麻理「それにちょっと予約してあったのも取りに行きたいんだけど、

   まだ時間が早いのよね。

   だから、いったん家に戻ったほうが時間調整にもなったちょうどいいわ」

 

春希「そうですか? 俺は構わないですけど、それなら家に戻りますか」

 

午後の予定が立った俺達は、とりあえず家に戻るべく歩き出す。

麻理さんの左手は、エプロンやこまごまとした小さなキッチン道具が入った袋を握り締め、

右手は俺の腕にそっとそわしていた。

荷物は全部俺に持ってほしいと言っておきながら、きっちりと両手いっぱいの荷物を

持つところは麻理さんらしいと思えてまう。

春の日差しが心地よい風にのって舞い降りてくる中、俺達は歩幅を合わせて肩を寄せ合う。

日本では新生活が始まる季節ではあるが、NYでは暦の中の一つの月でしかない。

この季節、日本で生活雑貨を買いに行けば、新生活への準備の為の買い物に

来ている人達を見かけ、ちょっとあわただしくも微笑ましい雰囲気を味わうものだ。

なんだか違和感があるNYの雰囲気ではあるが、

それも俺が日本に帰国するまでには慣れてしまうのだろう。

再びこの地に戻ってきた時、俺はもう一度違和感に悩まされるのだろうか。

しかし、NYは夏から新生活なのだから、もしかしたら俺の決断は、

スケジュール的には救われているのかもしれないなと思えてしまう。

まあ、気休め程度なんだろうけど。

俺は今新しい生活へと動き出している。

両手いっぱいの荷物を持つこの手には、あとどれくらい荷物を持つ事ができるだろうか?

もし、持ち切れない荷物が出てきてしまった場合、俺は誰に相談するのだろう。

……その答えは、もう出ている。

きっと彼女なら、嫌味を言いながらも俺の話を聞いてくれるはずだ。

そう、遠い彼方を見つめながら、今手にしている荷物をぎゅっと握り直した。

 

 

 

 

 

ちょっと遅い朝食をとってから買い物に出かけており、昼食はとってはいない。

そもそも出先で外食などできないのだからして、麻理さんが俺の空腹を気遣って

戻ってきたとも考えられる。

時間的には昼食の時間でもいいころあいだ。さてどうしたものか・・・。

とりあえず荷物を置きにマンションまで戻ってきた俺達は、俺が中心となって

買ってきたばかりの品をキッチンで使いやすいようにしまっている。

一応麻理さんにキッチン道具の配置の指示をもらおうとはした。

けれど、キッチンをほぼ使っていない麻理さんにはわかるわけもなく、

結局俺が使いやすいように配置する事になる。

そのおかげで仕事を貰えた事は都合がよかった。

昼食の事をいくら考えても答えなど出てきそうにもないが、

手くらいだけは動かしていた方がちょっとはましな考えも出てくるものだ。

何もしないで考えているときほど、どつぼにはまってしまう。

こうやって麻理さんを気遣う事こそ悪循環なんだろうが。

 

麻理「戻って来たばかりなんだし、少しは休んだ方がいいんじゃない?」

 

麻理さんは椅子に座ったままテーブルに寝そべりながら俺に提案してくる。

 

春希「麻理さんは休んでいてくださいよ。

   麻理さんが俺に片付け任せてくれたんですから、いいじゃないですか」

 

俺は麻理さんを横目に見ながらも、手だけは止めずに反論する。

テーブルでぐてぇ~としている様が、なんだか千晶と重ねてしまう。

そう思うと、じわじわと笑みがこみあげてきてしまうもので、

当然麻理さんにも俺の笑っているのに気がついてしまう。

 

麻理「人を年寄り扱いしてぇ。北原が私を邪魔者扱いしたからじゃない。

   キッチンは北原しか使わないし、私が使うとしても電子レンジくらいだしぃ、

   だから片付けは北原に任せたんじゃない。

   それなのに笑うなんてひどいわよ」

 

だったらせめてテーブルにひっつけたままの頬を

テーブルから離してくださいよとは言えなかった。

言ったら言ったらで楽しい会話が続くんだろうが、可愛い反感を貰うのも躊躇われた。

 

春希「年寄り扱いなんて今まで一度もしたことがないじゃないですか。

   それに邪魔者扱いもしていませんよ。

   普段料理をしない麻理さんよりは、少しは料理をする俺が道具の配置をしたほうが

   合理的だって言ったのは麻理さんですよ?」

 

麻理「そうだけど・・・」

 

春希「キッチンも二人が動き回れるほど広いわけでもないですし、

   俺一人がやるほうが合理的ですよ」

 

麻理「それもわかるんだけど」

 

なおも納得していない麻理さんを見て、どうしたものかなと頭を悩ませる。

麻理さんにとって理屈ではないのだろう。

 

春希「もうすぐ終わりますから待ってて下さいよ」

 

麻理「ほんと北原は手際がいいわね。仕事もそうだったけど、料理の方も

   そうとう早く腕をあげるんじゃないかしら」

 

春希「そんなことないですよ。色々思考錯誤してやっていますよ」

 

麻理「ふぅ~ん」

 

春希「さてと、終わりましたよ。

   そういえば取りに行く物があるって言ってましたけど、どうしますか?」

 

どうも話の流れが悪いと判断した俺は、次の予定を聞く事にする。

強引な話の切り替えだが、麻理さんの方も異論はないようであった、

 

麻理「ええ、誕生日ケーキを取りに行こうと思って」

 

春希「麻理さんのですか?」

 

俺の返事を聞くと、麻理さんはがばっと顔をあげ、信じられないといった顔を俺に見せる。

いや、わからないのは俺の方なんですけどね。

まあ、麻理さんの誕生日は正月なわけで、

俺の答えはそうとうあさっての方向を見ているのは認めますよ。

でも、麻理さん以外の誰の誕生日を祝うっていうんです?

 

麻理「ねえ、北原・・・」

 

春希「はい?」

 

顔を斜めにそらしながら目を細める麻理さんの横顔は冷え切っていた。

どこか荒涼とした雰囲気に、俺が不正解を言ってしまった事にようやく気がつく。

 

麻理「わざとかしら?」

 

春希「わざと、とは?」

 

麻理「その言葉通りの意味よ。北原がわざと言ってるのかしらってことよ」

 

春希「わざとなんて言ってませんって。

   この場には俺と麻理さんしかいないんですから、誕生日を祝うんでしたら

   麻理さんのかなって思っただけです」

 

俺の説明を聞くと、冷え切っていた表情が呆れへと変化していく。

肩をわざとらしく落とすと、そのままテーブルにとうつぶせる。

少々オーバーな演技であるが、可愛らしくおあり、

こっそり心の中で微笑んでしまったことは麻理さんには内緒だ。

 

麻理「どうして北原は自分の誕生日だと思わないのかしら?」

 

春希「俺のですか?」

 

麻理「そうよ。4月といえば北原の誕生日じゃない。

   私の誕生日は一月よ」

 

春希「麻理さんの誕生日を忘れるわけないじゃないですか」

 

麻理「そ、そう」

 

俺の反論に麻理さんの頬がうっすらと赤く染まる。

照れて顔を両腕の中に隠さないところは意地なのだろうか。

そのかわり、力が入った瞳で俺を睨みつけてるという反撃を受けてしまった。

 

春希「でも、今日は俺の誕生日ではないですよ」

 

麻理「わかっているわよ。でも、北原の生まれた日にお祝いできないじゃない。

   私はNYにいるわけだし」

 

春希「たしかに・・・」

 

麻理「ねっ」

 

今度は俺の方が照れてしまいそうだ。

麻理さんに愛されいるって実感できる。

それに、誕生日を祝ってもらうことなんて、いつ以来だろうか?

大学高校、遡って中学であっても、クラスの連中がプレゼントをくれた事はある。

だけど、ケーキを用意しての誕生日会となると、

親が離婚する前の消えかけている記憶でしか思い浮かばなかった。

 

春希「俺の為に用意してくれたんですか?」

 

麻理「北原以外にいるわけないわよ」

 

春希「そうかもしれないですけど・・・」

 

目がしらが熱くなる。

いくら愛されても、その愛にこたえる事が出来ないのに、

どうしてそこまで愛を注いでくでるんですか。

こんな卑怯すぎる俺に与えるべき愛情ではないですって、叫びたかった。

 

麻理「いいのよ。私の自己満足だと思って受け取ってくれないかしら」

 

俺の心情を読みとってしまった麻理さんは、寒そうに両腕で自分を抱く。

いくら麻理さんを悲しませないって心に誓っても、こうして隙間をついて悲しませてしまう。

穴だらけの俺の防波堤は、その役割を最初から果たしてはいなかった。

 

春希「・・・麻理、さん」

 

麻理「でも、料理は北原自身に作ってもらうんだけどね」

 

暗くなってしまった部屋を麻理さんが痛々しく明るくしようとする。

健気で、意地っ張りで、人情ぶかくて、愛くるしい。

ワーカーホリックをこじらせた仕事人間であるところも、麻理さんらしさを醸し出している。

ただ、北原春希というダメ人間を愛していなければ、

きっと幸せになっていた人なのに。

何度ともなく繰り返されてきた後悔を振り払い、

俺は麻理さんが作ってくれた明りを大切に手元に寄せる。

たとえ不格好な笑顔であっても、人は形から入るものだと変な言い訳までつけて。

 

春希「俺が今ある腕を全てふるって料理を作りますよ。

   でも、自分の誕生日パーティーだというのに自分で作るって変な気分ですね」

 

麻理「それって、私が料理が出来ない事を揶揄っているのかしら?」

 

麻理さんは目じりに涙を浮かべながらも、必死に俺をたきつけてくる。

そうしないと、ちょっとでも気を抜いてしまうと、俺達は沈んでいってしまう事を

二人とも理解していた。

 

春希「違いますよ。 

   そんなつもりで言っていないことくらい麻理さんもわかっていますよね?」

 

麻理「だったらどういうつもりで言ったのよ?」

 

春希「とくに意味はないですけど・・・」

 

麻理「そう?」

 

麻理さんは目元を軽く指先でぬぐうと、わざとらしく拗ねた表情を作り出した。

 

春希「でも、麻理さんと一緒に料理すればいいですかね。

   そうすれば、一応は麻理さんの手料理となるわけですから」

 

麻理「なんだか余計な事を言われている気もするんだけど、ここはよしとしときましょうか」

 

春希「それは光栄です」

 

俺もわざとらしく、うやうやしく一礼する。

 

麻理「でも、私に料理なんてできるかしら?」

 

春希「大丈夫ですよ。俺でも作れるものしか作らないんですから、料理といっても

   初心者向けのレシピしか使いませんよ。

   だから、料理をまったくしない麻理さんでも俺の手伝いくらいはできるはずです」

 

麻理「またしても余計な一言がきこえてきたんだけど、気のせいかしらね」

 

春希「気のせいですって」

 

口をとがらせて不平を訴えかけてくるものだから、俺の苦笑いして丁寧に反論するしかない。

まあ、口をとがらせた麻理さんも可愛らしくて、もっと見たいと思ってしまった事も

秘密にしておいた方がよさそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

麻理 佐和子との電話(回想)

 

 

 

麻理「どうしたらいいのぉ~・・・」

 

佐和子「どうもこうもないじゃない」

 

私の盛大な心の叫びを聞いてもなお、

親友でもあるはずの佐和子はそっけない返事を返してきた。

こうも冷たい反応ばかりされると、さすがに親友じゃないのかもって疑いたくもなる。

でも、この電話で何度も繰り返された同じ質問に、根気よく何度も答えとほおってよこして

くれる佐和子の根気強さを思い返せば、親友じゃなければできないと、

電話の後冷静になったときに導きだした

一応感謝と謝罪のメールをすかさず送った事はいうまでもない。

主に謝罪9割のメールではあったけど・・・・・・。

 

佐和子「だって、わざわざ北原君の為に誕生日プレゼント買ったんでしょ?

    だったら渡さなければもったいないじゃない」

 

麻理「お金の問題じゃないでしょ」

 

わざとらしくおどける佐和子に、ありがたく私ものっかる。

 

佐和子「だったら、なおのこと渡さないといけないと思うわよ」

 

麻理「だけどぉ・・・」

 

またもや会話の無限ループ陥りそうになり、電話の向こう側から盛大なため息が聞こえてくる。

私だってため息をつきたいほどなのに、一応私の事だから我慢しているのに、

それってちょっとあんまりじゃない?

 

麻理「ちょっと、佐和子ぉ?」

 

佐和子「はいはい、聞いてますって。

    北原君が麻理の誕生日にくれたボールペンの色違いをプレゼントするんでしょ」

 

麻理「ええ、まあ、そうね」

 

佐和子「大丈夫だって」

 

麻理「北原のことだから、喜んで受け取ってくれるとは思うのよ」

 

佐和子「そうね。笑顔で受け取ってくれるわ。

    でも、おそろいのボールペンを送るなんて、あんた重い女になったわねぇ」

 

これで笑い声までおまけが付いていたら立ち直れないところだった。

佐和子の声色が場を盛り上げようとしているのがわかっていて、なおかつ事実を

私に突き付ける為のものだとも理解は出来てはいた。

でも、もうちょっとオブラードに包むって事を覚えてくれないかしら。

長年の親友は大切だけど、こういった遠慮がなくなり過ぎているところは考え直すべきね。

・・・訂正。遠慮なんてする間柄なんて、ごめんかな。

佐和子には抉るような意見だって言ってほしいもの。

 

麻理「ええ、そうよ。重い女よ。彼女がいる相手におそろいのペンを送ろうとしている

   残念すぎる女なのよ」

 

佐和子「事実だからフォローのしようもないけど、Watermanのカレンだっけ?

    いいペンだし、せっかくニューヨークまで来てくれるんだから、

    そのお礼も兼ねて送ると思えばいいんじゃない?」

 

北原から誕生日に貰ったボールペンは、Watermanのカレン。

赤色のペンで、ちょっとだけ重い。

なんとなく人の存在の重みというか、

北原から貰ったとという実感が重みとして手に伝わって来て、私は大変気にいっていた。

そのペンの色違いをニューヨークで見かけて、つい買ってしまった。

とくに意識して探していたわけではない。

私のペンのインクの替えを買いに文房具店に行き、店員に注文して待っているときに

その青いボールペンが目に止まってしまっただけだった。

ショーケースの中にあるそのボールペンは、赤と青。そして黒の三色がならんでいた。

青を選んだ理由は、なんとなくだった。

別に男性に送るものだから黒を選んでもよかったのだけど、

なんとなく北原には青かなって思ってしまった。

 

麻理「たしかに大学やバイトだってあるわけだし、

   それに旅費だって北原にとっては少なくない出費なのよね。

   それを考えると、誕生日プレゼントとしてペンを送るだけというのも

   感謝のしるしとしては弱いのかもしれないわね」

 

佐和子「だったら下着くらいは可愛いのを用意しておきなさいよ」

 

麻理「はぁ?」

 

私は盛大な声を電話に撒き散らしてしまう。

いや、わかるわよ。佐和子が言っている意味くらいは、私にだって理解できる。

理解はできるけど、それこそ重すぎる女になってしまうじゃない。

 

佐和子「なにをとぼけた返事をしてるのよ。勝負下着くらいもっているんでしょ?」

 

麻理「なにを言っているのかしら、佐和子さん?」

 

佐和子「あぁ、干からびてワーカーホリックになってしまった麻理には必要ないか。

    そうよねぇ・・・。使わないんだったら買っても意味がないわけだし、

    これこそ本当にお金の無駄使いよね」

 

麻理「それくらい持ってるわよ!」

 

どこか鼻につくいい方に、私はついかっとなって言いかえしてしまった。

後になって思い返すと、佐和子の術中にはまっただけとも言えるのだけれど、

言ってしまった事は取り消すことなどできやしなかった。

 

佐和子「どうせ数年前にかったやつでしょ?」

 

麻理「失礼ね。グアムで買ったやつよ」

 

佐和子「それって、この前私と一緒にグアム旅行に行ったときに買ったやつ?」

 

麻理「えぇ、そうよ」

 

会話が進むほどに私のテンションは下がっていく。

つまりは冷静になってきたというわけだけど、

どうして誕生日プレゼントの話だったのが下着の話になったのだろうと疑問に思う。

これも自分が佐和子の挑発にのったのが悪いんだろうけど、

数秒前の私に恨み事を言いたい気分になってしまった。

 

佐和子「あぁ、あれね」

 

麻理「ね。最近買ったのもあるでしょ」

 

佐和子「あのエロエロできわどすぎるのかぁ・・・。たしか黒だったわよね?」

 

麻理「えぇそうよ・・・」

 

今さら後には引けないってわけではないのに、どうして話を続けているのかしら?

そして、段々とこんなにも不毛な話を続けている私自身が情けなくもなってきていた。

それでもある意味ふっきれたというか、別の角度からみるとぶっ飛んでいるともいうけど、

なんだかテンションが下がるほどに楽しくなってもきてもいた。

 

佐和子「でも、あんな下着買っても一度も着ていないんでしょ?」

 

麻理「失礼ねっ。着てるわよ」

 

佐和子「え? もしかして北原君と・・・」

 

さすがに私の危ない発言を聞いては、佐和子も低い声で探りをいれてくる。

急に場の雰囲気が変わってしまい私は少し戸惑いもしたが、自分の発言の意味を理解すると、

猛烈なスピードで補足事項を告げていった。

 

麻理「違うわよ。そういうことは一切ないわよ。

   着ているといっても、大事な会議の時に気合を入れる為に着ただけなのよ。

   だから、佐和子が思っているようなシチュエーションにはなってないからね」

 

一息に全て告げると、息が切れて頭がくらくらしてくる。

酸欠もあるけど、自分の馬鹿な発言が追い打ちをかけるように頭痛を誘発する。

 

佐和子「それは・・・、別の意味で痛いわね」

 

麻理「どういう意味よ。女は見えない部分にも気を使うものよ」

 

佐和子「女性としてよりも仕事最優先のあんたには言われたくないセリフだけど、

    でも、まあ、これはこれでありかもね」

 

麻理「どういう意味よ?」

 

佐和子の怪しすぎる声色に、私は身構えてしまう。

電話だから見えないけど、きっと佐和子の事だから、意地悪すぎる顔をしているんだろう。

 

佐和子「だってさ。大事な会議の時に麻理ったら、あのエロエロな下着を着てたんでしょ?

    これってある意味すごいシチュエーションかなって思えて」

 

麻理「そう言われてみると・・・。でも、大事な会議とかの場合、下着とかじゃないけど

   なんかゲン担ぎみたいなことすることもあるでしょ?」

 

佐和子「それはあるけど、あの麻理が、あの下着で会議でしょ?

    もし会議に出ていた人たちが麻理の下着の事を知ったらと思うと、ねぇ?」

 

一瞬佐和子の想像を私も思い浮かべようとしたが、頭の中で映像となる前に消去した。

 

麻理「誰にも言わないし、知られる事もないわよ」

 

佐和子「そお? けっこう似合ってると思ったんだけどなぁ。

    きっと北原君も見たら、驚くと思うわよ」

 

麻理「それは・・・、北原が見たら驚くに決まっているじゃない!

   別の意味で。

   それに北原とは清い関係だし、

   それに北原には冬馬さんがいるのよ。

   どうして私の下着姿を北原に見せることになるのよ。

   北原は冬馬さんの事を裏切れないし、

   私だって冬馬さんの事を傷つけることなんてできないわ。

   ・・・ただ、北原が私の為にニューヨークにまで来てくれる事自体が

   冬馬さんを傷つけているってわかってはいるのよ。

   そもそも私はまだ処じ・・・、ん~~~・・・・今のは、なし」

 

私は親友の佐和子にも知られていない秘密をばらしてしまったかもしれなく、

いや、絶対ばれているはずだ・・・、沈黙しか選択肢が残っていなかった。

一言でも言葉をだせば悲鳴が飛び出てくる気がするし、

言葉が出たとしても、きっと裏返った声になってしまうだろう。

いまや上気しきった顔は真っ赤に染まり、電話を持つ赤い手は小刻みに震えていた。

 

佐和子「えっとぉ・・・、まあ、なに?

    自分の身を大切にするってことはいいことだと思うわよ。

    いっそのこと、結婚するまでバージ・・・」

 

麻理「佐和子っ!」

 

佐和子の言葉を途中で遮ぎる。

遮ったところで私の事実は変わらないというのに、どうしたものか。

別に恥ずかしい事だとは思わない。

どうでもいい相手に体を触れられたくはないし、体を許したくもない。

だったら佐和子のいう通り、結婚するまでそのままであってもいいとも思う。

でも・・・、声に出して誇るべき内容ではないということだけは確信できた。

だって、いくら佐和子であっても恥ずかしすぎるじゃないっ!

 

佐和子「ごめん。でも・・・」

 

麻理「もう言わないで。この話はここまでっ」

 

佐和子「麻理がそう言うんだったら・・・・」

 

沈黙が私たちを支配する。

私が作り出してしまった気まずい雰囲気は、簡単には打破できそうにはなかった。

それでも私を心配して電話を何度もかけて来てくれている佐和子は、

こういった沈黙に慣れてきていた。

だからこそ無難な話題も予め用意しているのかもしれなかった。

 

佐和子「あの下着着たっていってたけど、サイズは大丈夫なの?

    最近痩せてきてるんでしょ?」

 

麻理「今のところブラのサイズは問題ないのよね」

 

佐和子「へぇ・・・」

 

佐和子は意外そうな声を洩らす。とりあえず場つなぎの為に振った話題なんだろうけど、

意外と話を持ちだした佐和子自身が興味をもったようであった。

 

佐和子「でも、体全体としては痩せたんでしょ?」

 

麻理「そうね。痩せたけど、うまく調整すれば今までの服もきれない事はないわよ」

 

佐和子「ブラも?」

 

麻理「そうね。ウエストとか太ももは細くなってきているのが自分でもわかるけど、

   胸はあまり変わっていないのかしら」

 

佐和子「うらやましぃ」

 

恨めしそうな重低音が鼓膜を震えさせる。

きっと気のせいだろうと決めつけようともしたが、

無視しても後が面倒だから諦めることにした。

 

麻理「なにを言ってるのよ。今のところブラもサイズ調整するだけで大丈夫だけど、

   でも多少の違和感はあるのよ」

 

佐和子「でも、カップは変わっていなくて、しかもウエストは細くなったんでしょ?」

 

麻理「そうだけど・・・」

 

佐和子「女の敵」

 

麻理「佐和子?」

 

佐和子「本当は私の体型を思い浮かべて笑ってるのよ」

 

麻理「佐和子?」

 

佐和子「最近運動不足なのも響いているのよねぇ」

 

麻理「お~い・・・、佐和子ちゃん?」

 

佐和子「もういいわ!」

 

佐和子が突然大声をあげるものだから、驚いてしまう。

今まで暗いうめくような声色だったのに、突然声をあげたものだから、

ちょっと声量をあげただけでも頭に響いてしまった。

 

麻理「え?」

 

佐和子「もういいわ。北原君もニューヨークに行くわけだし、

    北原君が気にいる下着を一緒に買いに行けばいいじゃない。

    きっと北原君は恥ずかしがりながらもフィッティングルームまでお供してくれるわよ。

    きっとグアムで買ったのなんかお子様用だと思えるくらいの

    破廉恥な下着を買うのよね。

    もういいわ。勝手にいちゃついていなさい」

 

麻理「佐和子?」

 

佐和子の逆切れ?が私たちに笑いをもたらす。

佐和子もこれを狙って話題を振ったわけではないのだろうけど、

今は佐和子への感謝の念でいっぱいだった。

話題にしている内容なんてお馬鹿すぎる内容なんだけど、今の私にはぴったしである。

ただ、北原がニューヨークに来たら試しに誘ってみようかなと、

ほんのわずかながらだけど真剣に考えてしまった事は秘密にしておこう。

 

 

 

 

 

 

 

麻理「ねえ、ほんとうに私が作ったスープ、美味しかったのかしら?」

 

食事が終わり、ソファーでくつろぎながら俺が淹れたハーブティーを飲んでいるというのに、

麻理さんは再び手料理の評価を求めてきた。

嫌なわけではない。

俺だって自分が作った料理が美味しかったかを何度だって確かめたいくらいだ。

だけど麻理さんの場合は味覚が薄いこともあり、本当は味がわからないのではないかと

疑問に陥ってしまう。

一応この疑問に関しては、麻理さんからの何度目かの手料理の評価を求めてきたときに

俺の方から質問して解決はしている。答えは味覚は弱いがわからないことはない。

しかし、俺がいないときまでは保証できないであった。

この答えは料理を作っているときにも聞いているものであった。

一時的に復活した味覚はやはり弱いので、

そのせいで味を濃くしようと塩分を入れ過ぎる懸念がある。

これは健康にもよくないし、「健康な体」の味覚せえも壊しかねない。

今は精神的に味覚が失われてはいるが、体そのものは健康であり、味覚はあるはずなのだ。

だけど、濃い味のものを食べ続けてしまったら、精神が回復して味覚が戻ったとき、

味覚が馬鹿になっていては元も子のない状態に陥ってしまう。

だからこそ俺は調味料の配分には気を使ってノートに記しているわけで、

俺は今日何度目かになる返事を同じように返すことになった。

 

春希「美味しかったですよ。味も俺好みでしたし、

   柔らかい味わいでほっとするスープでしたよ」

 

麻理「ほんとうに? 嘘ついてないわよね?」

 

俺の隣に身を沈めている麻理さんは、腕を使って俺の方へと身を寄せて詰め寄ってくると、

俺の本音を問い質してくる。あまりにも真剣な眼差しに、

仕事のとき以上に真剣で心細そうな瞳に、俺は何度でも優しく返事をしてしまう。

 

春希「本当ですよ」

 

そっとその手を握りしめると、おずおずとしか握り返してくれない。

でも俺はじれったいとは思わない。そうせざるを得ない事はわかっている。

だから躊躇いがちの麻理さんに対して、俺は親指と人差し指を器用に使って綺麗に

整えられている小さな爪を撫で暖めていく。

麻理さんはそれをくすぐったそうにはにかみながら甘い吐息を洩らした。

そして俺の手と麻理さんの手の熱が溶けあいだす頃になると、

麻理さんはようやく俺の手をしっかりと握り返してきてくれた。

 

麻理「そっか。美味しかったのね。よかったぁ・・・・・・。この味だけは忘れないから。

   他の味を忘れていっても、これだけは忘れないわ」

 

春希「大丈夫ですよとはいいません。でも、忘れていったとしても、

   麻理さんの舌にあらたな味を記憶させていきますよ。

   今のままの俺のレパートリーでは多大に不安ですけど、

   麻理さんと同じように焦らず増やしていってみせます」

 

麻理「そうね。北原が私の舌の記憶になっていくのだったら、

   それはそれでいいかもしれないわね」

 

春希「まあ、大した料理が出来ないのが大問題ですけどね」

 

俺はパターンとなってしまった行為で話の修正を図ってしまう。

しんみりとした雰囲気をわざとおどけてうやむやにしてしまうしかなかった。

これが暗黙のうちにできてしまった俺と麻理さんのルールであり、命綱でもあった。

これ以上先には行けない。行ってしまったら戻ってくる事は決して俺が許さないだろう。

 

麻理「期待しているわ。では期待ついでに、ギターを弾いてくれないかしら」

 

春希「喜んで」

 

俺はソファーの横に置いてあるエレキギターを手になじませ弾く準備を始める。

麻理さんは自分からギターを弾いてくれってお願いしてきたのに、

手を離した事に名残惜しさを感じているようだ。

だったらどうやってギターを弾けばいいのかって思ってしまうが、

そこはやはり一生理解できないであろう女心なのだろう。

このギターは日本から持ってきたものであり、曜子さんから貰ったものでもある。

つまり、このギターも俺にとっては命綱と言えるかもしれなかった。なにやってるのよって、

きっと曜子さんは目を光らせるだろうけど、こればっかりは謝罪の言葉しか思い浮かばない。

最初はなんて高価なギターを用意するんだって呆れていたけど、

今は俺の手になじみきっているこのギターがなんだか冬馬家との繋がりのように思えて、

心強くもあり、後ろめたく感じていた。

高価なギターに見合う腕ないし、弾ける曲も二つしかない。

しばらく弾いていなかった事もあって何度もつっかえてしまう。

それでも何度も繰り返して演奏するうちに指に植え付けられた感触が蘇ってくる。

それは同時にかずさのことも強く意識してしまうわけで、

麻理さんに気付かれまいとするほど麻理さんは敏感に感じ取ってしまっているようであった。

 

麻理「ありがと。また弾いてくれるかしら?」

 

春希「ええ、麻理さんが望んでくださるのでしたら喜んで演奏しますよ。

   そのためにも練習しておかないといけませんね」

 

麻理「忙しいんだし練習なんてしなくてもいいわよ。それよりも研修の方に力を

   入れなさい。・・・・・・その、来年もニューヨーク勤務目指してくれているんだし」

 

春希「わかってますよ。なにを優先すべきかなんてわかりきっていることですから」

 

 麻理さんは何も言ってはこない。頬笑みと戸惑いだけを浮かべて耳を傾けてくる。

もっとギターを弾いてくれとねだってくる。永遠に続くわけなんてない緩やかな時間を、

俺と麻理さんは時間を忘れて身をゆだねていた。

 室内にはギターの音色と、ときおり麻理さんがギターに合わせて口ずさむ声が

ゆっくりとゆっくりと響きわたる。おそらく何度も繰り返し聴いていたこともあって、

麻理さんは俺の下手なギターの演奏を覚えてしまっていたのだろう。

まあ、一曲しか弾いていないのだから当然といったら当然だ。

ただ、麻理さんが口ずさむ歌には歌詞がない。

それはギターの演奏を録音したものだけを繰り返し聴いてきたという証拠であり、

麻理さんが曲を覚えれば覚えるほどかずさが作った曲を完璧に仕上げていってしまう。

俺が作った歌詞だけを置いてきぼりにして物事は進もうとしていた。

 

麻理「さてと、今日はそろそろ寝ましょうか。昨日もあまり寝られていないようだったし、

   寝不足で倒れるなんて事はないだろうけど」

 

 時計の針を見ると、12時を過ぎようとしている。日本で仕事をしていた時の事を考えれば、

だまだ仕事が始まったばかりの時間帯とも捉える事も出来るのだが、

さすがに今はそれを持ちだすべきではないだろう。

 

春希「今日はけっこう歩きましたからね。明日もあるわけですから、

   そろそろ寝てもいい時間かもしれませんね」

 

麻理「それに北原は昨日はソファーで寝たでしょ。

   しかもその前日は飛行機のエコノミー席で寝てたわけだし、

   さすがに三日連続椅子の上でっていうのは健康上よくないわ。

   今日はベッドでしっかりと寝なさい」

 

春希「ええ、部屋を用意してもらったわけですし、今日は遠慮なく使わせてもらいますよ」

 

麻理「たしかに・・・。北原に部屋を貸しているけど荷物置き場と化しているわね。

   これでホテルの部屋なんて取っていたとしたら、

   それこそホテル代の無駄になっていたかもしれないわね」

 

春希「それは苦学生にとっては厳しいですね。やはり無理を言って麻理さんに部屋を

   借りておいてよかったですよ。ほんと頼りにしています」

 

麻理「だったら、その可愛いくて頼りになる麻理さんって人に感謝すべきね」

 

春希「可愛いなんて言いましたっけ?」

 

 俺の計算しつくした不用意過ぎ発言に、

予定通り麻理さんは頬を膨らませながら腕を柔らかくつねってくる。

 

麻理「だったら可愛くないっていのかしら?」

 

春希「どうですかね?」

 

 今は髪をまとめていないので、長く艶やかな髪がその体を柔らかく包み込んでいる。

髪型の印象は偉大であり、いつもの髪型はどちらかというと編集部での印象が強すぎて

強く美しいといった印象がこびりついていた。だけど今の麻理さんは、

麻理さんの言う通り可愛らしく、俺の目線まで降りてきた大学の同級生って気さえしてしまう。

・・・訂正します。頼りになる憧れの大学院の先輩ってところだろうか。

こればっかりはすみません。

 

麻理「どうなのかしら?」

 

春希「そうですねぇ・・・。可愛らしいというよりは、愛らしくて、目が離せなくて、

   見ているだけでこそばゆくて、ときおり抱きしめたくなるのを我慢するのが

   窮屈になるくらい可愛いかもしれませんね」

 

麻理「それって、結論を言うと可愛いってことじゃない」

 

春希「まあ、そうなるかもしれませんね」

 

麻理「でも、我慢、している・・・ってホント?」

 

春希「ええ、まあ」

 

 嘘ではない。事実だと自分で認めてしまう事が問題だった。

 

麻理「そっか・・・じゃあ」

 

 一度はつねって甘噛みした腕にそっと手をそわし、するすると腕をからませてくる。

そのまま抱きついてくると思っていたが、数秒だけ動きが止まってから額を俺の腕に

押し付けて、そして今度こそ躊躇なく抱きついてきた。

 いや、抱きついてきたという表現はフェアではないか。

俺の方も我慢できなくて抱きしめに行ってしまったのだから。

 

麻理「我慢しなくていいから。責任は全部私が取るわ」

 

春希「麻理さん一人に責任なんて取らせませんよ。これは俺の意思でしていることなんですから」

 

麻理「そう・・・」

 

 あまりにもわざとらしすぎる内容に、佐和子さんあたりが聞いたりしていたら苦笑いと

盛大の笑みを浮かべてしまうだろう。実際誰にも聞かせることなんてできないし、

もし聞かれたりしたら、それこそ恥ずかしすぎるないようなのだが。

・・・千晶あたりだったら三流脚本家のべたすぎるシナリオだと笑い飛ばすか、

これはこれで一周回って超一流の喜劇になるかもしれないわねって

笑いをこらえながら真剣に言いそうだ。

 どちらにせよ、自分にさえ見せられない甘ったるい会話劇である事は確かであった。

 

春希「はい」

 

麻理「さてと、そろそろ本当に寝たほうがいいわね。さすがに疲れたでしょ」

 

 急にあげられた顔に俺は対応できないでいた。

しかもこれで抱き合うのは終了と言わんばかりにいそいそと距離を取ろうとする。

けれど、腕だけは離せないようで、今もしっかりと抱き抱えたままであった。

 

春希「そうですね。じゃあ、おやすみなさい」

 

麻理「おやすみ、北原」

 

 俺は思いを断ち切ろうと間を開けずに立ち上がろうとする。

しかし、俺たちの決断は一秒も達成する事はなかった。

なにせ麻理さんが俺の腕に絡ませていた手を緩めようとはしなかった。

そして俺の方もその甘い拘束を無理やり引きちぎろうとはしなかった。

 

春希「もう少しここでゆっくりしますか? 別に俺はソファーでも構わないですよ」

 

麻理「それは・・・駄目よ。北原の健康によくないわ」

 

春希「大丈夫ですって。ソファーでも体を休める事はできますから」

 

麻理「駄目よ。大丈夫だと思っているときが危ないのよ」

 

 あまりにも笑えない指摘に俺は引き下がるしかなかった。

さすがに健康を笑い話にはできなかった。

 

春希「すみません」

 

麻理「ごめんなさい。私の我儘で振り回しちゃって」

 

春希「いいえ。俺が望んでやっていることですから、迷惑なことなんて一つもないです」

 

麻理「そう? だったら・・・、一緒に寝てくれないかしら? 

   もちろん一緒にっていってもしっかりと離れて寝るわけで、それに・・・、

   ベッドでもソファーでも似たようなものって気が・・・、えっと、その」

 

春希「いいですよ。それで麻理さんがぐっすりと寝られるというなら」

 

麻理「ありがと・・・」

 

 するりと俺の腕の拘束を解いた麻理さんは顔を斜め下に背けると、

そのまま立ち上がり寝室へと向かっていく。

正直顔を合わせるのが気恥ずかしくもあり助かったといえるのかもしれなかった。

きっとそれは麻理さんも同じはずであり、

俺はこれ以上の負担をかけさすまいとその後ろ姿に続いた。

 

 

 

 初めて目にするその寝室は、東京のマンションのイメージとはかなりかけ離れた印象を

与えてくる。落ち着いた色調で、華美さとも高級感を醸し出すその寝室は、

東京で見た寝室と重なる所があるが、大きな違いは物の量と掃除の有無に違いない。

 いくつか仕事で使っているのであろう書籍以外にはとくに目に入るものはなく、

あとは睡眠をとる為のベッドしかない。あと一つだけ重要なものがあるとしたら、

それはポータブルオーディオとそのスピーカーだろうか。

これの用途はおそらく想像通り俺の演奏したギターが収録されているはずだ。

 

麻理「あまりじろじろ見ないでよ」

 

春希「すみません。

   でも、東京の時と比べるとまったく恥ずかしがる理由なんてないと思いますけど」

 

麻理「それは暗に東京の部屋は汚かったと言いたいわけかしら?」

 

春希「綺麗か綺麗じゃないかの議論については人によって基準が違いますから

   さらなる考察が必要ですけど、そもそも俺は泊めてもらっているわけでして、

   何か言う立場ではないと思いますよ」

 

麻理「北原って、なにか論点と言うか肝心なポイントがずれているみたいな気がするんだけど、

   まあいいわ。でも、綺麗にはしてあるでしょう?」

 

 えへんと形がいい胸を張り部屋が片付いている事を強調してくる。

それなのに麻理さんの目だけはちょっとばかし自信のなさを伺わせるように揺らいではいた。

 

春希「たしかにすごく綺麗にしていますね。物も片付けられていますし、

   これなら夜中暗いままでも物を踏んだりしなくて済みそうですね」

 

麻理「ということは、東京の部屋では踏んでいたっていうことかしらね?」

 

春希「あっ・・・・・・」

 

 麻理さん、それはずるいですよ。

批難の目を向けてもいっこうに気にする様子もなく、涼しい顔のままであった。

 

麻理「まあいいわ。それは私も認める事だしね」

 

春希「だったら面倒な誘導しないでくださいよ」

 

麻理「それはあれよ。・・・・・・だって北原、寝室に来たっていうのに落ち着いているから」

 

 視線をそらし赤める頬はその心情をよくあらわしており、今まで以上の緊張感を示していた。

これが何も問題がない男女であれば初々しい反応だっていうのだろう。

しかし、俺達には許されない関係であり、俺もそれだけは譲れないラインでもあった。

 

春希「緊張していますよ。極度に緊張しているせいでかえって落ち着いているように

  見えるだけですって。げんにこのあとどうすればいいかわからなく、

  動けなくなっていますからね」

 

麻理「そこはあれよ。寝るだけなんだからベッドに入って寝るだけじゃないかしら? 

   ・・・・・・あの、そのね。寝るっていっても、そういう意味じゃなくて、

   そのね。だから、あの・・・。だから」

 

春希「わかっていますから落ち着いてください。

   ベッドに横になって睡眠をとるっていう事ですね」

 

麻理「そ、そうよ。・・・・・・やっぱり北原は落ち着いているじゃない。

   これじゃあ私だけが意識しているみたいで恥ずかしいじゃない」

 

 体をよじりながら不満を吐きだすと、逃げるようにベッドの中へと潜っていく。

麻理さんは俺が平静でいられるっていってるけど、俺は既に平静さを諦めてしまっている。

だからこその俺の対応であり、はっきりいって何もできないで最低限の受け答えしか

できないでいたというのが正直なところだ。

 千晶の裸を見てしまった時も非常にやばすぎる状態であったが、パジャマとはいえ

服を着ている麻理さんの今の状態の方が心臓が破れそうなほど跳ね上がっていた。

 

春希「俺の方も自分を抑えるのでぎりぎりで、

   麻理さんの事をフォローする余裕なんてないだけですって」

 

麻理「そっか」

 

 だから、それが反則なんですよ。布団から顔半分だけ出して俺を覗き見るその姿。

どこかでそういう男のつぼをついて手玉にとる養成講座でも受けているんですか。

 今度ばかりは俺の方が逃げるようにベッドの中に潜り込む。

冷たい布団が俺の上昇しきった体を冷やしてくれ、

ほんの少しだけ冷静さを取り戻すことに成功した。

 

麻理「おやすみ、北原」

 

春希「おやすみなさい、麻理さん」

 

 こればっかりは信じてくれっていうことしかできないが、

麻理さんと一緒のベッドで寝たけれど、けっしてやましい事はなかった。

もちろん麻理さんの寝室に入り、

そのいつも寝ているベッドに潜り込んだ興奮は否定などできない。

でも、俺たちにやましい事はなかった。

 ・・・・・・ただ、麻理さんが言っていた「一緒にっていってもしっかりと離れて寝る」は

ベッドに入ってすぐに破られてしまう。こればっかりは俺達は共犯者であった。

 俺のおやすみの言葉が終わると、麻理さんはそれが当然の成り行きのごとく俺の腕に

しがみつき、その震える体を沈めようと努めていた。

 豪華なマンション。贅沢な家具。成功しつつあるキャリア。頼りになる人柄。

愛くるしい容姿。どれ一つとっても羨望の的であるわけだが、たった一人この人が渦巻く

ニューヨークで過ごす事は俺の想像以上のプレッシャーがあるのだろう。

そこに俺というあってはならない負担までしょいこんでしまった麻理さんは、

一日の疲れをとる為のベッドでさえ休まる場所になりえていなかったのではないだろうか。

 天井を見上げると窓から射しこむ街の光がぼんやりと部屋の輪郭を形作る。

ただでさえ広い部屋だというのに、なにもない天井を見上げるとほんとうに空っぽの部屋に

ぶち込まれてしまった気さえしてしまう。

この部屋で麻理さんは何を思って横になっていたのだろうか。

 思い返してみると、俺は東京の自分のマンションで天井を見上げた事が、

自分が今いる場所を確かめたことがない。変な言い方になってしまったが

、俺は大学生になって、正確に言うとかずさがウィーンに行ってしまってから、

ゆっくりと自分を見つめ直す時間を無意識のうちに避けるようになってしまった。

考える時間があるとかずさの事を考えてしまう。

そして、傷つけてしまった彼女の事も思いだしてしまう。それがつらいってわけではない。

どうせなら俺を滅多打ちにして、再起不能になるまで傷つけて欲しいと願ってさえいた。

 俺が怖かったのは、自分が幸せになることだ。人を深く傷つけてしまった俺が幸せに

なる事が許されるのだろうか。

 だからこそ考えるのをやめてしまった。すこしでも考えてしまったら、

前に進んでしまう。幸せになろうとしてしまう。

 だから俺は一日を振り返ってしまう睡眠前のわずかな時間を削るとる為に

勉強と仕事で体力を根こそぎ削り取ろうとしていた。

いつになったら幸せになる権利が復活するかはわからない。しかし、最低でもこの人が、

麻理さんが幸せになるまでは俺は幸せになりたいとは思えなかった。

 ・・・ただ、今は煩悩を払うべく朝まで苦しむ事にしますか。

どう考えても一週間空腹にした状態で餌を目の前に出された犬状態だろ、これって。

規則正しい甘い寝息、包み込むような温かなぬくもり、

そしてパジャマを通してもなおダイレクトに伝わってくる柔らかな肉体。

人の煩悩をくすぐる拷問としては最凶のはずだ。

 俺は強引でも眠ろうと数を数えることにする。

でも、これも最初のチョイスで失敗していたようだ。なにせ煩悩の数をかぞえ始めたのだから。

その時点でやばい精神状態だったわけで、

とりあえず朝日が昇ってくるまで起きていた事はたしかであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

4月11日 月曜日

 

 

 

 楽しい時間は、大切にしたい時間はあっという間に過ぎ去り、終わりをむかえてしまう。昨日も俺が帰国しても当分の間は食べていけるようにと大量の食材を買いこんで一緒に料理をしていた。その前にちょこっとただけ街を散策したが、どうも俺はニューヨークに来たという意識が薄いようである。

 その理由はわかっている。俺はニューヨークに来たのではなく、麻理さんの元に来ただけだから。その意識がある限りここは異国ではなく、麻理さんがいる街であり続ける。

 なんて考えながら麻理さんと二人歩いていたが、あてもなくいろんな店を冷やかし、大いに楽しむ事が出来た。但し、ランジェリーショップだけは勘弁してください。男の俺が入っていい場所ではないでしょうに。たしかに恋人につれられて入店している男性もいることはいましたよ。それも人目をはばからずに適度なスキンシップをはかりながら堂々としていました。

 でも、こればっかりは俺に要求しても無理なリクエストだ。俺にはハードルが高すぎますって。

 

麻理「痩せてしまったし、ちょっと覗いてみたいんだけど、だめかしら?」

 

春希「駄目、駄目じゃない以前に、俺が入るべきではないですよ」

 

麻理「そうかしら? ときには男性の意見も聞きたいものよ」

 

春希「いやいやいや・・・、俺には無理ですって。お願いしますからここは今度ゆっくりと一人 で見に来てください」

 

 うろたえる俺に笑みを浮かべる麻理さんに、俺はただただ冷や汗を垂れ流すしかなかった。今になっても冷や汗ものの思い出にしかなってはいないけれど、楽しい時間であった事はたしかであった。

 

春希「もうそろそろ搭乗時間ですね」

 

麻理「ええ・・・そうね」

 

 俺が起きる前から起きていた麻理さんは、早朝だというのに元気に俺にちょっかいを出してきていた。こそばゆくって、くすぐったい。心地よい目覚めとはいえないけれど、気持ちがいい朝ではあった。

朝食だって楽しく食事ができたはずだ。それなのに空港に来てからの麻理さんの口数は少ない。俺が問いかければしっかりと返事はくれる。しかし、麻理さんの方からなにか言ってくる事はなかった。なにか言おうと何度もチャレンジしてはいるようだが、どうしても口から声が響く事はなかった。

 その代わり俺の手をしっかりと握りしめ、腕を絡めて身を寄せてくるその姿に俺は大学を辞めてこのまま側にいたいとさえ思ってしまってもいた。もちろん実行する事もないし、一時的な麻酔の為に今まで積み上げてきた手はずを放り捨てる気もなかった。

 それは麻理さんもわかっているはずだけど、このニューヨークでの数日があまりにも輝きすぎていた為に、俺と離れてからの反動を恐れているようでもあった。

 

春希「わざわざ見送りにまで来てくれてありがとうございます」

 

麻理「いいのよ、私が好きでしているんだし。編集部の方も急ぎの予定はないから問題ないわ。今日は予め出社が遅くなる事は伝えてあるから、よっぽどの事がなければ何も問題ないはずよ。その分しっかりと働いておいたから誰も文句を言わないわよ」

 

 って、笑いながら言っていますけど、きっと麻理さんの事だから俺が来るまでの間はいつも以上に働いていたんだって簡単に想像ができてしますよ。普段だって誰も真似できないほどの仕事量を抱え込んでいるのに、今回はどれだけやってきたんですか。まあ、同じ編集部員としてはどのくらいハードに働いていたかについて興味はあった。

 でも、麻理さんの隣にたつ俺からすれば、もっと体を大切にしてほしい。俺の為になんて言ったりはしない。だから、俺の為に体を大切にしてほしかった。

 

春希「働き過ぎないでくださいとは言いませんけど、体を壊す働き方だけはしないでくださいよ」

 

麻理「体にガタがきている私が言っても信じてもらえないかもしれないけど、その辺のさじ加減は経験で理解しているはずよ」

 

春希「信じていないわけではないですけど、心配なんですよ」

 

麻理「それこそ私の方が北原の事が心配よ。編集部だけじゃなくて大学の方もあるし、けっこうスケジュールのやりくりが大変なんじゃないかしら」

 

春希「大丈夫ですよ。ニューヨークに来たらもっと大変になる予定ですから。ニューヨークには頼りにはなるけど仕事には厳しい上司がいますからね。その予行演習と考えれば物足りないほどです」

 

麻理「言ってくれるわね。たっぷりと仕事を用意しておいてあげるから日本でしっかりと準備運動してきなさい」

 

春希「そうさせていただきます。麻理さんに教わった通りいつも・・・」

 

麻理「あっ・・・・・・」

 

春希「・・・・・・・そろそろ時間みたいですね」

 

 俺の手を握りしめる力が増していき、聞き逃してしまいそうであったアナウンスに気が付いてしまった。きっと麻理さんは俺の事を抱きしめることにほぼ全神経を集中させながらも、耳だけはアナウンスが流れるのを恐れて見張っていたのだろう。

 俺を見上げるその顔からは笑顔がぎくしゃくと歪んでいき、いつも心力強い印象を与えてくれるその瞳は涙で曇っていく。

 

麻理「ええ、そう、ね」

 

春希「麻理、さん? 麻理さん、麻理さん。麻理さん」

 

麻理「きた、はら?」

 

春希「麻理さん、待っていてください。少しの間だけです。今このまま残るっていう選択肢もあります。でもそれはきっと間違いだっています」

 

麻理「何言ってるのよ。ニューヨークに来る選択肢は、どれをとっても間違いに決まっているじゃない。だったらもう一つくらい間違いを選んでも・・・・・・」

 

春希「違います。俺が見つけた、麻理さんが作ってくれたニューヨークへの道は、たとえ間違っているっていう人がいたとしても、でも、俺と麻理さんにとっては間違いではありません。もちろん簡単な道ではないでしょうし、麻理さんはたくさん傷ついて苦しむはずです。それでも俺達はそれを選んで、選んで悩んで、苦しんで、最後には地獄に落ちるかもしれないですけど、それでもきっと救われるはずです。そういう道を選んだんです」

 

 発言している俺でさえ何を言っているかわからなかった。言葉が横滑りしていき制御なんてできやしない。心に詰まった感情を無理やり吐きだしても言葉にはならなかった。

 

麻理「そうね。・・・・・・待ってる。待ってるから。北原を待ってるから、だから日本で頑張ってきてね」

 

春希「はい」

 

 ほどかれた腕はどこか寒々としていて、人でにぎわうロビーからは音が消えていく。その原因はわかりきっている。だから俺は別れの挨拶もせずにゲートへと歩み出した。

 何度となく振りかえりたい衝動にかられ、その都度冷たい腕を握りしめ感覚を潰した。きっと振り返れば、俺と麻理さんの決心は砕け散ってしまうだろう。それは麻理さんもわかっているはずだ。なにか一言でも発してしまえば俺を引き止めてしまうとさえ思っているのかもしれない。それはちょっと大げさかもしれないけど、なんとなくこの時はそう思えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

4月12日 火曜日

 

 

 

 人間の習慣とは恐ろしいもので、実家に引っ越したというのに今まで住んでいたマンションに向かって歩いていた。見慣れた景色を片隅に、思考を停止して成田から東京まで来たのだから、怪我もなくこれた事に感謝したほうがいいかもしれない。

 喪失感ともいうのか、ニューヨークでの時間があまりにも大きすぎて、その反動が成田に降り立った時から出てしまった。

 もちろん最寄り駅に降りて、マンションまで行く前に帰る場所が違うって気がついてはいた。また、マンションは大学の側にあるわけで、このまま大学の講義に行く事も可能ではある。だけどその選択肢は脳裏にさえ浮かんでこなかった。そもそもテキストもないし、予習さえしてもいない。千晶あたりからすれば、予習なんてする必要はないと一蹴されそうだが。

だから、もう一度電車に乗り、実家がある最寄り駅に行くのが正解なのだろう。でもこの時は正解を選びたくはなかった。

 目の前にあるマンションのエントランスは、日本をたつ前と同じようにそこにそびえている。たった数日で壊れるくらいの強度だったら、それの方が興味深い事件ではある。でも、日本をたつ前と後では、見慣れたマンションの入り口が、なにか今までとは全く違う異質の物体に見えてしまった。

 俺はどのくらいの間、自分が住んでいたマンションを見上げていたのだろうか。とくに感慨深い気持ちを抱いたわけでもなく、ただただ立ち止まり、俺が住んでいた部屋を見上げていた。すると下の方から俺を呼ぶ声が鳴る。

 

千晶「ねえ、見ていて面白い?」

 

 声の主を辿っていくと、エントランスの階段に腰掛けている千晶がいた。俺が知っているいつもの和泉千晶が、いつものごとく軽い声をかけてくる。重い北原春希に、軽い和泉千晶。ちょうどバランスが取れていたんだなって、今さらながら馬鹿げたことを考えてしまう。それくらい思考がストップしていたので、どうも本調子にはほど遠いようだ。

 

春希「ん? 面白いものなんてないと思うぞ」

 

千晶「じゃあなんでぼけ~っと、ほけ~っと30分も見ているのよ。マンションを出入りしていた人なんて、危ない人がいるってもう少しで警察呼びそうだったかもしれないかもね。まあ、わたしが側にいたから問題が起きないで済んだようだけどね。ほんと感謝してよね。あたしがいなかったら不審者扱いよ」

 

春希「ありがとな千晶。でもどうして千晶がここにいるんだよ。今日の講義はどうしたんだ?」

 

千晶「ん? 今日は自主休講なんだ」

 

春希「まだ新学期が始まったばかりだというのにさぼるなよ」

 

千晶「さぼってないって。大切な用事があったから休んだだけだって」

 

春希「そっか。でもせっかく大変な思いをして進級したんだし、しっかりと単位取って、卒論も書いて、まじめに大学卒業しろよ。せっかく教授が力を貸してくれたんだからな」

 

千晶「わかってるって。春希ったら、わたしの顔を見るたびに毎回言うんだもん」

 

春希「それだけのことを春休みにやったのはどこのどいつだ」

 

 気が付けばいつもの北原春希と和泉千晶がここにいた。暗いおもりをつけて沈んでいく俺を千晶は軽々と吊り上げてしまう。釣りあげられながらも、俺は抵抗もせずに千晶に身を任せていた。

 どうも勉強面では千晶の先生でいられるのに、どうしても精神面では千晶の方が一枚も二枚も上手なのだろうか。社会的には俺の方がしっかりとしているはずなのに、精神面では千晶の方がずっと大人のような気がする。今までは特に意識してはいなかったが、どうもこの推理は正しいのだろう。それは俺と千晶の間合いが縮まって、お互いの顔の輪郭を見る事ができる位置まで近付いたからこそ気が付く事が出来た今さらながらの事実だと思う。まあ、武也あたりからすれば、初めから気がつけよと言われそうだが。

 

千晶「それは・・・、わたしがレポートを頑張っていたっていうのに風邪をひいた北原春希くんのことじゃなかったかなぁ」

 

春希「とぼけるな。俺が風邪をひいたのは千晶がレポートを提出した後だったろ。だから俺の風邪は全くレポートとは関係がない」

 

千晶「そだっけ?」

 

春希「そうだったんだよ。それにレポート作成中に風邪をひいて寝こんだのはお前だろ。しかも俺が看病してやったじゃないか」

 

 千晶は俺の顎の下から覗き込むように立ち上がってくる。その動作に俺の重心は後ろへと下がっていく。別に悪い事をしたわけでもないのに、どうも後ろめたい感情が俺を襲う。

 

千晶「ん? ん? へぇ・・・・・・」

 

春希「な、なんだよ?」

 

 なにかありますっていう顔をするんじゃない。ぜったい何か企んでるだろ。でもこっちはニューヨーク行きで忙しいし、春休みみたいには構ってはいられないぞ。

 だから、ここはきっぱりと拒絶しないとな。

 

千晶「そんなに身構えなくても、面倒事なんてないわよ」

 

春希「ほんとうか? ・・・・・・千晶にとっては面倒事ではないっていうのはなしだからな。俺にとっては絶対面倒事になるんだろ?」

 

千晶「そういうのでもないから安心してって。ただね・・・」

 

春希「なんだよ?」

 

千晶「だから、風邪をひいている千晶ちゃんが抵抗できないのをいいことに、服をひんむいて裸を見た鬼畜が日本に帰ってきたんだなぁって思ってさ」

 

春希「半分以上が捏造じゃないか。嘘を当然のごとく吐くんじゃない」

 

 俺が住んでいたマンション前で、しかも大学の近くでなんて言う事を言ってくれているんだ。それをわかっていて言ってるんだから困ったものだ。俺が困るのを楽しむなんて悪趣味だぞ。

 

千晶「でも、事実もあるってことでしょ?」

 

春希「ああ、そうだな。日本に帰ってきたっていうところはあってるぞ」

 

千晶「それだけ?」

 

 って、おい。いや待てって。それは事実だろうけど、ここで言うべき内容では・・・・・・。

 自分の姿を見ていなくてもわかってしまう。つまりは自分がうろたえているって、こいつの子憎たらしい顔を見ていればわかってしまう。しかも、ニヤニヤと品がいい笑いまで浮かべやがって。

 

春希「千晶が風邪をひいたっていうのもあってるな」

 

千晶「それだけぇ?」

 

春希「そうだな・・・・・・、俺が風邪の看病したっていうのもあってるんじゃないか」

 

千晶「あれぇ・・・、わたし、そんなこと言ったっけな。わざわざ言ってもいない事を持ちだすなんて、案外春希は恩着せがましいのね」

 

春希「事実だからな。レポートだけじゃなくて風邪の看病に加え、寝床の提供、食事にいたるまで全面的なサポートをしたじゃないか。これを恩といわないでなにが恩だというんだよ」

 

千晶「でも、その恩も、わたしの裸を拝んじゃったんだからちゃらじゃない?」

 

 千晶の「裸」というキーワードを耳にした瞬間、俺はあたりをせわしなく見渡してしまった。実際後ろめたくはあるが、事実としては、あれは事故だ。だから俺に非があったとしても全面的な敗訴ではないはずなのに、どうして本能は正直なんだよ。

 一応あたりには人影はなく、ほっと一息ついてしまう。それを見た千晶は隠そうともせずにけらけらと笑うものだから、俺は憮然とした態度をとるわけで。

 

春希「あれは事故だろ。俺が服をひんむいたわけでもないし、お前が見せようとしたわけでもない。だから今さら蒸し返さなくてもいいだろうに」

 

千晶「ん?」

 

 笑いを打ち消し真顔になる千晶に、俺は意識を集中させる。きっとまた俺をからかう手立てを打ち出してくるに決まってるのだから、俺は少しの変化も見落とさないように精神を研ぎ澄ます。

 ただ、頭から熱気が鎮まるにつれてこいつが名女優であることを思い出してしまうわけで、その名女優相手に駆け引きに勝てるわけもない。そうわかると全身から力が抜けていってしまった。

 

千晶「だって、わたしの裸、見たよね。しっかりと明るいところで全部。もちろんあれは事故だってわかっているけど、それでも無防備な姿を誰にでも晒すってわけでもないんだよ。だってさ、風邪ひいているんだよ。弱っているわたしを看病して・・・・・・、ううん、レポートを助けてくれて・・・・・・・って、おい! どうしちゃったのよ。せっかく春希をからかってあげようとしていたのに、その白けた顔は何? これじゃあわたしのほうが痛い女じゃない」

 

 

 俺も予備知識が少ないまま今の台詞を聞いていたならば、いつもとのギャップもあって戸惑いまくっていたはずだ。でも、俺には数日間共に寝食を過ごした実績と、大学での1年間の付き合いってものがあるんだよ。

 

千晶「あぁあ、なんだかわたしのほうもしらけちゃったかも」

 

春希「俺のせいにするなよ。で、どうしたんだ? わざわざこんなことをするのが大事な用事ってわけでもないんだろ?」

 

千晶「別に春希に会うことが大事な用事だなんて言ってないけど?」

 

春希「だったらどうしてここにいるんだよ?」

 

千晶「それこそわたしの方が聞きたいわよ。だって春希、もうこのマンションから引っ越したじゃない」

 

春希「だよな。俺もどうしてここにきたかわからない」

 

千晶「そっか」

 

春希「千晶こそ、なんでここにいるんだ?」

 

千晶「ん、ん~・・・、どうしてかな? そうだなぁ、なんとなく春希がここに来るかもって思ったからかな」

 

春希「だからここに来たってわけか。しかも大学を休んでまで」

 

千晶「まあね。でも、大学を休んでも、もしここで春希に会えなくても、今日中に春希に会っておいた方がいいのかもって思っていたのも事実かもね」

 

 千晶はひょうひょうと話を続ける。もしかしたら裏があるかもしれないが、事実でもあるのだろ。でもきっと、なにも考えてはいないはずだ。千晶曰く、長年春希のおっかけをしてきた勘ってやつかもしれないってやつなのかもしれないと思えてきてしまった。

 どこまで信じたらいいかわからないのが傷だけど。

 

春希「だったらメールくらいくれればよかったじゃないか。もし俺がここにこなかったら行き違いになっていたはずだぞ。しかも帰りの飛行機の時間は教えてあっても、何時にここに来るかなんてわからないだろ」

 

千晶「だよね」

 

春希「おい、千晶」

 

 俺は冷たく冷え切った千晶の腕を握る。ひんやりとしたその腕は、外気で冷たくなった俺の手で触れてもなお冷たい事がよくわかってしまう。4月になったからといっても、いつも温かいわけではない。寒い日と温かい日を交互に繰り返して段々と気温が暖かくなっていくが、今日は4月としては寒い一日だった。きっと朝は暖房が必要だったに違いない。

 それなのにこいつったら薄着で何時間待っていたんだよ。

 よく見ると千晶はスプリングコートさえ着てはいなかった。デニムに、白いパーカーを着て、ちょっとそこまでコンビニに行ってくるっていう服装とさえ見てとれる。しかも一端部屋の外に出たとしても、「寒っ! ちょっと春希上着貸してよっ」って部屋に戻ってきそうなほど薄着じゃないか。

 それともずっと家に戻っていなくて、昨日の服装のままだったりとか。一応記憶をたどっても日本の天候は出てはこない。もしかしたら昨日は温かくて、そのままの服装とかだったのだろうか。

 

千晶「痛いよ、春希」

 

春希「ごめん」

 

千晶「ううん」

 

 とりあえず俺は着ていたコートは千晶に差し出す。すると千晶は黙ってコートを着込んでいった。千晶の事だから一言くらい何か言ってくると身構えていたが、やや拍子抜けの部分が否めなかった。

 

春希「そんなに体冷やして。何時間待っていたんだよ」

 

千晶「朝からかな?」

 

春希「13時前に成田なんだから、いくら朝から待ってても帰ってくることはないぞ」

 

千晶「それくらいわかってるわよ。でも、なんていうのかな。気持ちの整理? なんだか春希、思い詰めてニューヨークに行ったじゃない? だからどんな顔をして会ったらいいのかなってさ」

 

春希「そっか」

 

 編集部のみんなはごまかせても、千晶だけは無理だったという事か。さすが千晶ってところかな。

 

春希「そんなに思いつめてたか?」

 

千晶「どうかな。なんとなく思っただけだし」

 

春希「どんだけ鼻が利くんだよ」

 

千晶「だからなんとなくだって言ってるじゃない」

 

春希「そうだな」

 

千晶「でもその様子だと、来て正解だったみたいだね」

 

 今の千晶に俺がどう見えるか聞く勇気はなかった。それを聞いてもどうしようもないっていうのもあるが、その事実を認めたくないという思いが強い気さえした。

 

千晶「じゃ、いこっか」

 

春希「何も聞かないのか?」

 

千晶「聞いて欲しい?」

 

 千晶は駅に向かって歩き出そうとした脚を後ろに戻して振りかえる。その真っ直ぐと前を見る瞳に俺は何でもぶちまけそうになってしまった。

 

春希「わからない」

 

千晶「そっか。じゃあ、言いたくなったらいつでも聞いてあげる」

 

春希「その時はよろしく頼むよ」

 

千晶「まっかせなさい。だって半年間一緒に住む間柄だしね」

 

 そう最後にとびきりの笑顔と、とびきり以上の爆弾発言を投下した千晶は、今度こそ駅に向かって歩き出す。

 え? 一緒に住む? 

聞き間違いではないだろうけど、俺の思考と体は停止する。嬉しそうに再度振り返った千晶は、先に進んで行った道を引き返してくる。そして俺の荷物を半分奪い取ると、俺の腕を手に取り歩き出した。

 思考を放棄した俺はというと、ただただ千晶にひきつれられて駅へと歩いて行くしかなかった。寒そうに身を寄せてくる千晶に体の暖だけでなく、どうやら精神まで奪い取られてしまったようだ。

 

 

 

 

 

 数年前までは毎日のように見てきた実家の玄関のドア。それは今も同じように存在していて、引き出しの奥に眠っていた実家の鍵を差し込んで回せは扉が開くはずである。そう、別におかしいところは一つを除けばまったくない。おかしなところなんてないはずだった。

 

春希「なあ千晶。お前がその手に持っているのは、もしかしないでも鍵だよな?」

 

千晶「ん? 鍵以外の何に見えるのよ。もしかして魔法の鍵とか、・・・わたしの心を開ける鍵だとか思っちゃったわけ?」

 

春希「そんなこと思うわけもないだろ」

 

 俺の突っ込みをよそに千晶はさっさと鍵を開け、当然のようになめらかな動作で部屋の明かりをつけていく。つまりは、手慣れている。この家に来ることに慣れている。

 そもそも俺は千晶を実家に招待したことなんてない。あの母親に千晶を紹介なんてするわけもない。俺の一方的すぎる母親との絶縁状態で、どうやってこの千晶を紹介するっていうんだ。

 

春希「ちょっとまて」

 

千晶「だから、さっきからなんなのよ」

 

春希「だから、なんで千晶がうちの実家の鍵を持ってるんだよ」

 

千晶「あぁその事ね。そんなの決まってるじゃない。春希のお母さんから貰ったの」

 

春希「は?」

 

 思考が停止する。停止したら負けだってわかっているのに、俺の脳はオーバーヒートを回避すべく止まろうとしていた。

 

千晶「だからぁ、春希の荷物を引っ越し業者が取りに来たでしょ」

 

春希「それは今さらだけど、ありがとな。助かったよ」

 

千晶「どういたしまして」

 

 優雅に頭を垂れる様はおそらくきまっているのに、どうしてその頭をおもいっきりひっぱたきたくなるんだろうな。不思議だよ、まったく。

 

千晶「でね、ここまで一緒に引っ越し業者の人ときたわけよ。そしたら春希のお母さんがいるじゃない」

 

春希「そりゃあ住んでいるからな」

 

千晶「それでお互い自己紹介して、そしたらここに住んでもいいよって、ね。わかった?」

 

春希「わかるかっ。わかってたまるか。どうやったらその説明だけでわかるっていうんだ。もしわかるというなら、俺が知らない間に人類が進化してテレパシーでも会得したんだろうな」

 

千晶「何言ってるの、春希? そんな空想実現するわけないじゃない」

 

春希「だぁ・・・、だから、どうしてお前がここに住むんだよ。実家まで来たところまでは想定内だよ。色々と母親と話をすることも、嫌だけど、想定していた。でも、なんでそれが飛躍しまくって、ここに住む事になったんだ。そこんところを詳しく説明して頂きたい」

 

千晶「わかったわよ。春希が何を聞きたいかくらいわかってるから。でもその前に荷物おかない? 春希も重い荷物持ってるわけだし、一時休戦ってことで」

 

春希「わかった。荷物置いたら話を聞くからな」

 

千晶「らじゃ~」

 

 そうわざとらしく敬礼すると、千晶は空き部屋だった部屋に消えていく。ちらっと部屋の中が見えたが、すでに千晶の荷物らしきものが敷き詰められている。あの千晶御用達の寝袋は部屋の隅に転がり、その横には使われずにしまわれていた客用の布団が畳まれていた。

 俺はもっと部屋の中を見たい気持ちと、これ以上面倒事を抱える事のデメリットを天秤にかけ、部屋の中を見たいに大きく傾いた。だから俺は反対の行動を選択する。だって千晶だし、俺の判断は絶対に間違っているはずだ。

 混乱が収まらぬまま自室へと向かう。前回きたときと同じように部屋の空気はどよんではおらず、部屋にあるべき荷物が収まっている分生活感が漂ってくる。きっと千晶が今までの配置を参考にして荷物を押しこんでくれたのだろう。ベッドも机の位置も変わり映えしない。そもそもこの実家での自室をそのままマンションに押し込んだのだから同じなわけだが。

 ただカーテンだけは真新しいものが下がっていた。薄い水色の遮光カーテンが外の光を遮断している。俺はゆっくりと遮光カーテンを開け、続いて白いレースのカーテンも開ける。飛び込んでくる外の景色は、あの時と、数年前のあの時と同じ光景だ。違う点があるとしたら、あいつが、かずさが下の道路にいないことだけだった。

 

千晶「まだぁ? それとも片付け手伝おうか?」

 

春希「悪い。今行く」

 

千晶「わかったぁ」

 

 俺は窓を少しだけ開けて風を取り込む。ゆらゆらとした風が舞いこみ、ふわりとカーテンをなびかせる。それがなんだか俺を歓迎しているように見えてしまったのは、俺が弱っているせいだろうか。

 新品のカーテンが俺を歓迎してるようなきもするが、これからうまくやっていけるかは不安が残る。今になって思ってしまう。引っ越しの話をする為に母と向き合った時、何故母の事を意識してしまったかようやくわかった気がした。あくまで気がしただけで勘違いかもしれないけど、今はこう思えた。

 それは色々なことが積み上がっての事だが、冬馬親子のすれ違い。麻理さんに対して自分勝手に作り上げてきた根拠もない強さ。本当は繊細で可愛らしい人であった。たしかに仕事面では圧倒的な強さは見せるけど。

 だから、母に関しても、高校時代までに自分が勝手に作り上げてきた母親像を見てきたんじゃないかって思えてしまう。勝手に母だけに責任を押し付けて、自分は意識さえしていない被害者意識を持っていたのかもしれなかった。

 ニューヨークに行くまでの数カ月で何か変わるかなんてわからない。それでも今度こそ親子の縁が砕け散ったとしても、母と向き合ってみようと思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

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