春希「で、なんでお前がここに住む事になったんだよ」
千晶「そのことね。わかった。今から説明するね」
春希「俺が、人間が理解できる説明を頼む」
千晶「傷つくなぁ、その言い方」
舞台女優のごとく、一番後ろの観客までわかるように大げさに傷ついた演技をこうじる。それを目の前で見ている俺からすれば嫌味しか感じ取れないが、それさえも千晶の演出だと思えてしまう。
春希「わかった。悪かったよ。だから説明を始めてくれ」
千晶「よろしい。まず荷物をここに届けたでしょ。で、おばさんに会って、わたしは誰ってことになるでしょ? だから自己紹介をしたってわけ」
春希「ちょっと待て」
千晶「なんだい春希くん?」
春希「お前の自己紹介って、どんなことを吹きこんだんだ」
千晶「吹き込んだなんて心外かな」
春希「それはもういいから話を進めてくれ」
千晶「ほいほい。えっと、まずは大学で春希が勉強面で面倒みてくれているってことと、春希が教授にわたしの教育係を任命されているってことかな」
春希「まあ、嘘は入っていないな」
千晶「だから警戒しすぎだっての。でね、春休みになって色々とレポートとかを春希が助けてくれて、部屋に泊まり込んで頑張ったってことを言ったかな。そしてその後も泊まる部屋がない私を春希が居候させてくれたってことかな」
春希「ちょっと待て。だいたい事実通りなんだけど、どうしてそこから千晶がここに住む事に繋がるんだ」
千晶「それはこれから話すんだから、ちょっと待ってよ。せっかちだね、春希って」
春希「うるさいっ」
千晶「はいはい。えっと、春希が実家に戻っちゃうでしょ。そうしたらわたしが住む場所も自動的になくなるわけだから、困ったなぁって話になるわけよ」
春希「いや、だから、千晶も実家に住んでいるんだから帰ればいいじゃないか」
千晶「そこんところは話していないかな? いや、どうだったかな?」
春希「しらばっくれるな。わざと話していないんだろ。・・・・・・もういい。で、今まで俺ん所に転がり込んでいたから、急に部屋がなくなって困った。だからそれを見かねて母さんが部屋を提供してくれたって事なんだな?」
千晶「ま、そんなところかな」
春希「それだけでよく部屋を貸してもらえたな。もしかして恋人とかっていってないよな?」
千晶「それはきっぱりと否定しておいてあげたよ。もちろんわたしの裸をじっくり見たっていうのも言ってない」
体をしならせるな。くねらせるな。色気をばらまくな。・・・・・・思いだしちゃっただろ。
俺は頭をリセットして邪念を振り払うべく話を強引に進め出した。
春希「その方が賢明だな。いきなり彼女が押しかけてきたら、さすがの母さんも気を使っただろうな」
千晶「だね。でも安心して。春希が海外行くまでの前期日程までしか居候するつもりはないから。いくらわたしでも、春希がいないのにここに住んでいられるほど神経図太いわけではないからさ」
春希「すでに十分すぎるほど図太いと思うぞ」
千晶「そう?」
春希「まあいいよ。どういういきさつで住むことになったかはわかった。それに母さんは納得していたんだろ?」
千晶「うん、わたしの印象では嫌がってはいなかったかな」
春希「だったら問題ない。俺自身も居候みたいなものだから・・・」
千晶「ふぅ~ん・・・、だからか。やっぱ親子なんだね。思考回路というか考え方? そういうのが似ているかな」
春希「どういう意味だよ?」
千晶「だからさ、二人とも口ではわたしのことを面倒見るとか言ってるけど、実際は親子二人っきりで生活していくのを怖がってるって事。つまり二人の間にわたしという緩衝材を置く事によって精神的な安定を求めているってことよ」
びしっと指さすその人差し指をひっつかんで、ぐいっとへし折ってやろうと思ってしまう。だが、そういう感情的な反応こそが図星であり、俺が考えたくない事実なのだろう。
春希「わかった。降参。その通りだと思うよ。だから千晶も気を使わないでここに住んでくれ」
千晶「言われなくたってわたしが気を使うとでも思ってたの?」
春希「思ってないよ。思ってないけど、多少は気を使うふりくらいをしてくれると助かるよ」
千晶「ふりね、ふり。今度からはそうする。でもさ、一緒に住むわけだから料理の勉強もしやすくなるでしょ? その辺は春希にとっては都合がいいんじゃない?」
春希「そうだな。そう考えればそうなるわけか」
千晶「まっ、これから半年間よろしくね、春希っ」
春希「あぁ、よろしく頼むよ」
固い握手で結ばれた先にある表情からでは、その奥に潜む真意は読みとる事は出来なかった。
まあ、いいか。どうせ千晶のことはわかりっこない。わかろうと歩み寄ってもするりとかわされてしまう。だけど、わかろうとする努力だけはしておくか。わからないことと、わかろうとしないことは大きく意味合いが違う。
母さんのこともわかろうとしてこなかったわけだし、ついでだ。千晶と母さん。この半年で少しでもわかる事ができるのなら、それは人として成長できたって思えるかもしれない、と課題を一つ立ち上げた。
本日急きょ開催された千晶主催の料理教室はいたって平穏に終了する。味付けなんかはやはり食にうるさい千晶ともあって大変参考にはなった。あとこれは意外ではあったが、千晶はけっこうな凝り性でもある。それと同時に面倒くさがりやで時間短縮調理も詳しい。その相反する料理プロセスを共存させているのはある意味面白い観察対象であった。
まあ、なるようにしかならないし、いつまで続くかもわからない。それに今俺がすべきことは麻理さんに連絡をいれること。きっと麻理さんは連絡を待っているはずだ。
しかし、本当に俺が麻理さんの夕食に声と映像だけで参加して、それだけで麻理さんの症状を抑えられるのだろうか? 本来なら俺も一緒に食事をすべきだが、千晶がいるとあってそれはできない。こればっかりは千晶に知られるわけにはいかないしな。
俺は一つ深く深呼吸をすると、通話ボタンを押した。
麻理「もしもし、北原?」
ちょっとばかしの予想と、多大な期待通り麻理さんは即座に俺からの連絡を受け取ってくれた。その映像と声は半日前と変わり映えがない。
春希「少し報告が遅れましたが、日本に無事着きました。今は実家の俺の部屋です」
麻理「そう。無事ついたのなら問題ないわ。・・・・・・親御さんは、お母様とはどうだった?」
春希「母はまだ帰宅していません。ただ・・・、その」
俺の歯切れの悪い反応に麻理さんは訝しげな表情をむけてくる。俺の方も悪い事をしているわけではないのに、どうしてドキドキしてしまうのだろうか。それはきっと千晶のことを話したら、麻理さんの反応がどうなるかわかっているからなんだろうけど、でも隠しておくわけにはいかないし、ここは正直に言ってしまおう。
麻理「北原、正直になりなさい。隠していてもお前の為にはならないぞ」
どうしてだろう。神様みたいな慈悲深い笑顔の奥に、死神のごとく真っ黒なオーラが見えるのは・・・・・・。
春希「はは・・・」
麻理「どうした北原? 笑えるような話なのか? それならば隠していないで私にも教えて欲しいかな」
だから、どうして笑顔が輝くほどに黒いオーラが増大していくんですっ。
春希「あのですね、これは俺が関知していなかった事で、なおかつ母が決めてしまった事なのですが、俺の大学の同級生も一緒に実家で住む事になりました。俺としては母と二人っきりよりも、そいつが一緒の方が何かと気まずくないと思いますし、悪い話ではないと思うんですよ」
麻理「そう・・・、わかったわ。で、和泉千晶さんは今も隣の部屋にでもいるのかしら?」
どうしてわかるんですか? 俺は一言も千晶の事を話してはいないじゃないですか。
背筋に流れる冷や汗が、麻理さんがすうっと指先で撫でたかのようにひやりと背中を震わせる。きっと俺の顔は青く染まっているのだろう。
春希「たぶん千晶が使う事になった部屋にいると思います。でもなんで千晶だとわかったんですか?」
麻理「女の勘って言ってしまえばそれまでなんだけど、でもそうね。北原は大学で親しくしている友人って限られているからかな。もちろん北原から聞いた話でしか交友関係はわからないけど、その中で北原が実家に住む事を許せる人物となると和泉千晶さん一人しか思い浮かばなかっただけよ」
春希「たしかに千晶以外ですと武也っていう腐れ縁のやつがいますけど、そもそもそいつは俺のところには転がり込んではこないですね」
麻理「あぁ、あの武也君ね。女癖が悪い」
春希「ええ、その武也です。あいつが住む場所に困ったら女のところに転がり込みますよ」
麻理「北原がそう断言するだなんて、よっぽど女癖が悪いのかしら? そのうち刺されるんじゃない? 大丈夫?」
春希「たぶん大丈夫じゃないですかね。今までも刺された事はないですから」
麻理「ちがうわよ。北原が巻きこまれて痛い目にあうんじゃないかって心配しているのよ」
春希「俺ですか?」
麻理「そうよ。だって武也君は自分で撒いた種でし、自業自得でしょ。ある意味女の敵でもあるんだから、責任は彼自身が取るべきね。でも、その騒動に北原が巻き込まれるのは別問題よ。だって、彼の問題に北原が巻き込まれる理由がないもの」
春希「はは・・・、大丈夫ですよ。以前間違えられてひっぱたかれた事はありますけど、それだけです。麻理さんが心配するような流血騒ぎは起こっていないです」
麻理「そう? ならいいけど、でも北原。気をつけてね」
春希「はい。さて、食事の準備は大丈夫ですか? 俺の方は同居人と食べてしまったので申し訳ないのですが」
麻理「準備はできてるから大丈夫よ。一緒に食べられないのは残念だけど」
春希「すみません。できるだけ時間作りますから」
麻理「うん、ありがと」
電話から聞こえてくる佐和子さんの声は安堵に満ちている。普段はお互いの愚痴ばかり言っているのに相手の事を思いやる気持ちの深さは測りされないくらい深い。麻理さんとの食事が終わり、俺の方が先に佐和子さんと電話をする事になった。親友であり、同じ女性同士である佐和子さんと麻理さんの方が長話になることを見越しての判断である。
佐和子「でも大丈夫なの? 食事って毎日よ。毎日北原君が麻理の食事に付き合うなんて難しいんじゃないかな?」
春希「やれることろまでやってみますよ。それに半年もありませんからね。そのくらいなら問題ないです」
佐和子「そう? 私がたまに代わってあげる事ができるんあらよかったんだけど、私では効果がないんだもの。ほんと色ぼけしてしまってるわね」
親友である佐和子さんでも、麻理さんの味覚障害を緩和する事はできなかった。そのやりきれない気持ちは、親友としては辛いものだろう。しかも効果がある俺ときたら半端者で、全てを頼ることができないときている。きっと俺には言えない本音もあるはずだ。
春希「その事についてはノーコメントで」
佐和子「ノーコメントっていうことは、言えないような事を考えているのかしら、ね?」
春希「それもノーコメントでお願いします」
佐和子「ほんとこういうところはガードが固いのよね。もう少し隙を見せてくれてもいいのに」
春希「そうですか? 俺は結構佐和子さんのことを頼りにしているんですけどね。だから、隙を見せているかはわかりませんが、腹を割って話しているつもりですよ」
佐和子「まあ、そうね。もし北原君が本心を隠して麻理に近づいていたのなら、麻理の心を中途半端に癒そうとしていたんなら、きっと私はあなたを許さなかった」
春希「・・・・・・その」
なんと言えばいいのだろうか。いつも通りの口調のはずなのに重く俺の心にのしかかってくる重圧に、俺は返す言葉が詰まってしまう。
佐和子「ごめんね、北原君。きつい事言って。北原君が麻理によくしてくれているってわかってるのに、麻理の為にニューヨークまで行ってくれるっていうのにね。・・・・・・・ほんとごめんなさい」
春希「そんな。俺がしっかりしていなかったことが招いた事なんですから、責められるべくして責められているんですよ。それにニューヨーク行きは俺にとって悪い話ではないですから。麻理さんからも早い段階で海外での経験を積んだ方がいいって言われていましたから。だから、それがちょっとだけ早まっただけです。むしろちょうどいい機会だとさえ思っています」
佐和子「でも、ニューヨークに行くとなると今までみたいに大学とそのバイトっていうわけにはいかないわよ。一応開桜社が期待してニューヨークに送り出してくれているんだもの」
春希「はい、その点も重々承知しています。開桜社と麻理さんの顔を汚すような事はしないつもりです。浜田さんにも色々とお世話になっていますから、その分俺が結果を残さないといけないですからね」
佐和子「だから北原君。あなたは一人で背負いこもうとしすぎよ。あなたはまだ大学生で、来年からは編集部に席を置く事が決まったからといっても、今はまだバイトにすぎないの。だからほんとこのままだと麻理だけじゃなくて北原君、あなたまでも押しつぶれてしまいそうで見ていて辛いわ。・・・辛い、というかな、なんか見てらんない。自分が何もできないのもふがいないんだけどね」
春希「なんだかさきほどから同じ事を繰り返してしまってますね」
佐和子「ちょっと北原君?」
俺の場違いの声色に戸惑いをみせ口をとがらせる。たしかにシリアスな雰囲気に突然陽気な声がこぼされたら、怒るかあっけにとられるかのどちらかだろう。
春希「これから先どうなるかはわかりません。でも、俺も佐和子さんも、そして麻理さんだってみんなの事を心配してるってことですよ」
佐和子「そうだけど・・・」
春希「それにそろそろ電話を切って佐和子さんが麻理さんに電話しないといけない時間だと思いますよ」
佐和子「あっ、ほんとだ。これ以上麻理にやきもちをやかせることはできないわね」
春希「佐和子さん?」
佐和子「お互いさまよ。じゃ、また近いうちにあいましょう」
春希「はい」
電話を切り、窓の外を見る。これから麻理さんは仕事だ。食事は無事終えることができても、それがいつまで続くかなんてわからない。不安要素をあげればきりがないってわかっていても考えずにはいられなかった、
でも、今日はこの後佐和子さんも連絡を取るわけで、気持ちの上での応援は出来る限り送れるはずだ。そう考えると俺と佐和子さんの連絡は後でもよかった気が今さらながらしてしまう。仕事には真摯に向かう麻理さんが遅刻までして佐和子さんと長話なんてできやしない。でも、話し足りないほうが仕事後の楽しみもできるというものか。
俺はそう勝手な結論をつけると、ようやくニューヨークにもっていった荷物の片づけを始めた。
4月13日 水曜日
ニューヨークでの時差を体験しようと、そして寝起きする場所が独りを謳歌したマンションから実家に戻ってこようと、朝起きる時間に狂いはない。今日も目ざましが鳴る数秒前に目が覚め、アラームもその機能を発揮した直後に今日の役目を終えた。
そして実家に戻って来ても料理の練習は続けられている。今も昼食用の弁当を作っているところだ。まあ、朝食のメニューと重なる部分は御愛嬌だ。弁当に入れた卵焼きとほうれん草の胡麻和えは、朝食では目玉焼きなり、ほうれん草はほうれん草とハムの炒め物になっている。
同じ材料でもちょっと手の加え方を変えれば見栄えも味もかわるわけで、忙しい朝にはもってこいのアイディアである。ただこのアイディア。昨夜さっそく千晶に教わったあたり、なんだか癪に障るのはどうしてだろうか。たしかに料理に関しては千晶が先生であり、俺が生徒だ。でも、いつもはその逆であるわけで、その思い込みが心が狭い俺に変な優越感を植え込んでいるようであった。
これではいけないとわかってはいるわけで、やはりできないことはできないと受け入れ、素直に千晶の指示に従うのが最善なのだろう。ましてや演劇の分野では当然ながらその差は歴然であり、俺が優れているなんて思いあがりはもつべきではない。
おそらく昨夜の千晶の態度が、ほんのちょっと、いや、思いっきり癪に障っただけなのだろうけど・・・・・・。
あいつったら、人に教えることに慣れていないんだろうな。なんでも自分基準で考えていそうだ。これもこれからの検討課題として、今は料理に集中しますか。
千晶「おはよぉ春希ぃ・・・。やっぱ起きるの早すぎない?」
やっと起きてきたな寝簿すけめ。
料理の臭いに釣られてきたのか、ふらふらっと現れた千晶は、俺の断りも得ずにパクリとテーブルに置かれていた卵焼きを頬張る。
春希「おい、こら。つまみ食いするなって。・・・余分に作ってあるからいいか。それと、おはよう千晶」
千晶「朝っぱらからお小言はいらないって。でも、余分に作ってあるんなら最初から怒らなくてもいいじゃない」
春希「そういう理屈じゃないだろ」
千晶「おっ、これってわたしのお弁当?」
目ざといやつだな。さっそく見つけたか。もともと隠す気はないからいいんだけど、でも、なんだかこそばゆい気がして頬が緩んでしまう。
俺の弁当箱の隣に鎮座している透明のタッパ。よくある保存用容器を利用しての弁当箱だ。本来なら弁当箱を用意したほうがいいのだが、自宅に弁当箱を何個も用意してある方がマイノリティーってものだろう。
そして、さらにもう一つ用意されている弁当箱。俺のより小さなその弁当箱は、綺麗に保たれているが年季を感じさせる一品である。これは今では使われなくなった弁当箱ではあるが、昔母親が仕事の時に用いていたものだと記憶している。
春希「そうだよ。約束したからな」
千晶「えらい、えらい。で、こっちのもう一つの方は?」
お前、わかってて聞いてるだろ。でもこれが千晶なりの優しさか。
春希「母親の分だよ。俺達のだけ作って、一緒に暮らしているのに一人分だけ作らないっていうのは、作る方もつくって貰う方も嫌なものだろ。だから、まあ、いらないって言われれば千晶が夕食のときにでも食べてもいいぞ」
千晶「ううん、大丈夫。きっと食べてくれる思うよ」
春希「そうか、な」
千晶「うん、そう」
春希「だと、いいな」
どこの家でもありそうな一日の始まりは北原家でも同じように繰り広げられる。そこにはちょっとばかし歪な人間関係がうごめいていても、はたから見れば些細な出来事であり、大したことではないと笑われてしまう。
あの時も、かずさの母子関係について話した時も、俺がそんなこと言ったっけな。
ほんと、大したことないな。作った弁当を食べてもらえるだろうか、とか、なんで弁当を作っているんだろうか、とか、嫌がらないだろうか、とか、捨てられないだろうか、なんて、被害妄想じみたものまで思い浮かべてしまう。
でも、それも含めて終わってしまえば、明日になってしまえば大したことではなくなってしまうのだろう。
まあ、いいか。とりあえず千晶が美味いって思ってくれる弁当を作り上げるかな。
久しぶりの大学は俺が3年間通っていた風景のまま俺を出迎えてくれる。
一つ違うところがあるとしたら、それは一緒に登校する相棒がいることだろうか。今では自他ともに認める千晶の管理責任者であり、教授にまで念を押されて頼まれているわけで、朝から一緒に登校してこようと冷やかす輩など皆無だ。
これが高校時代であったなら75日経とうが噂が消えうせる事はなかったはずだから、恋愛関係の話題に飢えている年頃にうってつけの話題だろう。
千晶「ねえ、春希」
春希「ん? なんだよ」
千晶「あのさぁ、なんで春希って大学で講義がない日にも大学に来るの? 今日は朝一の講義があるけどさ」
春希「ああ、その事な。俺も本来ならば自宅で勉強していようと思っていたんだけどな。でも大学での仕事に和泉千晶の監視っていう項目が付け加えられたんだよ。だから来なくてもいい時間に大学にきてんの」
千晶「まじめだねぇ春希って」
あくびをかみ殺す事もなく大きな口を開け、男性諸君の目の毒な大きな胸をそりかえらせて体を伸ばす。気ままなネコのようにマイペースで朝の準備を進めていく千晶に、俺は既にお小言をいう気力を失っていた。
あまり言いすぎるのもよくはないっていういいわけも、こいつに限っては無意味だ。意味があるとしたら、お小言を言う監視役の体力を考えるべきということだろうか。
春希「真面目だけが取り柄だからな」
千晶「で、真面目すぎる北原春希君は、あんたの友人が顔に青あざつくっているみたいだけど、どうすんの? あの彼って、春希の友達でしょ? ついでに隣にいる口うるさい女も一応春希の友達って事であってるよね?」
おい千晶。お前名前わかってて言ってるだろ。
俺は千晶を一睨みしてから大学の正門の先にいる武也と依緒に目を向ける。当然ながら俺の一睨みなど頬を撫でる程度の効果さえなかったようだけど。
そして俺の視線の先には千晶の言う通り武也と依緒がいた。
ヴァレンタインコンサート後は、顔を合わせれば挨拶はするし、ちょっとばかりの会話もしたりはしている。しかし、じっくりと時間をかけての会話をする機会はなかった。それは俺の方がバイトで忙しかった事と、春休みはまあ千晶がらみで手いっぱいであった事が主なる要因。
・・・・・・千晶のせいにしては駄目だな。どうしても俺が身構えてしまう。それは武也も同じだろうけど、依緒においてはなおさらだ。
でもいつまでも逃げてばかりもいられないかもな。俺は後期日程からニューヨークに行くわけで、このこともしっかりと自分の口から伝えなければないらないのだから。
千晶「おっ、どうしたのそのあざぁ。もしかして女に殴られた?」
おい千晶。いきなりすぎるだろ。俺の方にも心の準備ってものが・・・・・・。
武也「朝の挨拶もなしにいきなりだな。それにけが人相手なんだから、怪我の容態聞く前に怪我の原因聞くなよ」
依緒は千晶の呼びかけに顔をしかめたが、武也の方はいたって普通に返事を返してくれる。これが武也ってやつのいいところであり、ときには俺を甘えさせてしまう根源でもある。といっても、いつもいつも甘えさせてくれないところが武也なりの優しさだろうか。
千晶「うわっ、ちょっとさわってもいい?」
武也「って、いてっ。おい、痛いって。さっきできたばかりの打ち身なんだから、ちょっとは手加減しろって」
千晶「そんなこといわれたって、そんな事実初めて聞いたんだからしょうがないじゃない。で、痛いの?」
武也「だから、さっきから痛いって言ってるだろ?」
千晶「たしかに・・・・・・」
武也の右目のすぐそばには、大きな青あざが見事にできている。どう見ても殴られたようにしか見えないが、拳で殴られた感じからすると、これが本当に女性関係だとすれば、腕っ節が強い彼女だったということか。
そもそも殴られるようなことをしなければいいのにって思ってしまうのに、まあ武也だしなとも思ってしまうあたりは、俺はすでに武也の女性関係を諦めかけている証拠かもしれないと思ってしまった。
千晶「じゃあ、もう怪我の容態聞いたいからいいよね。で、さ、どうして殴られたの?」
武也「和泉・・・、お前も大概だな。もうちっとはけが人をいたわれ」
春希「なら俺がいたわってやるよ。どうだ武也、痛みはまだひかないのか? 氷が必要なら俺が買ってきてやるから、そこのベンチで座って待っててくれ。それと、おはよう武也。依緒もおはよう」
武也「おう、春希はやさしいよな。ここにいる自称女性陣とは大違いだ」
依緒「なにをぉ・・・って、ごめん武也」
ここでいつもながらの夫婦漫才に入ると思いきや、依緒のトーンはすぐに下がっていってしまう。だからなのか、武也がすぐに依緒にフォローをいれた。
武也「気にするな」
依緒「そだね。・・・春希おはよう」
春希「あぁ久しぶりだな。でも、久しぶりなのにどうしてこうも何度も見ていそうな光景をみているんだろうな。いや、今まで流血沙汰になっていないほうが不思議なくらいで、今回みたいに青あざですんでよかったんじゃないか?」
依緒「いや、そのね春希。武也が怪我したのはね・・・、まあその」
春希「依緒?」
武也「そのなんだ、春希。この怪我は女がらみだけど、やったのは女じゃない」
春希「おい武也。今度は彼氏がいる相手にちょっかいだしたのか? それは人としてどうかと思うぞ」
って、俺が言えるべき立場ではないんだけど、まあいいか。武也だし。
依緒「ちょっと武也。たしかに結果としては私があんたのことをぶん殴っちゃったけど、私を女にカウントしないのは許せないんだけど」
春希「おい、依緒」
依緒「ちょっと春希。それ回文になるからやめてくれない?」
春希「すまない」
おい、依緒。こんなときにまで気にする事か? 今はもうちょっと別のことのほうが優先順位が高いと思うぞ。
春希「で、もしかして、この青あざって依緒がやったのか?」
依緒「うん、まあ、成り行き上の事故っていうかな。私もやっぱ若いね」
武也「おい、依緒」
依緒「だからやめてよ。武也の場合はわざとでしょ」
武也「んなわけあるか」
春希「もういいから。どういうわけか説明してくれ」
二人の一方的な主張を俺の偏見と経験によってまとめ上げると、以下の通りらしい。
春希「まずは、武也のあざの原因は依緒が殴ったことによる。これは間違いないな」
武也「ああ、そうだ」
依緒「うん、残念ながら事故で私が殴りました」
春希「よろしい。じゃあ次だ。朝大学に登校しようと電車に乗っているときに二人は偶然会った。それで一緒にいたんだよな」
武也「ああそうだ。でも、最近っていうか今年の初めあたりからは朝の電車が同じって事が多いかもな」
春希「まあその辺の事情は別にいいよ。それで駅について、今武也が付き合っている彼女のうちの一人とはち合わせたと」
武也「その言い方は酷いな。愛を配っている相手と言ってほしい」
春希「ふざけるな」
依緒「そうよ武也。あんたのところ構わずだらしない愛を振りまきすぎた結果がこれじゃない」
武也「いや、青あざできたのはお前のせいだ」
依緒「なにをぉ」
春希「だから依緒。やめろって。一応これでも武也はけが人なんだからな」
依緒「まあ、そうね。ごめんね春希」
春希「いいって」
武也「謝る相手が違うぞ。それと春希。お前もやっぱり大概だな」
春希「そうか?」
武也「いいよ、もう」
春希「だったら、話を続けるぞ」
武也「はいはい、どうぞ」
春希「その彼女が依緒のことを武也の浮気相手だと思ったという事であってるな」
依緒「不本意だけどその通りよ。どこをどうみれば可憐な私が鬼畜な武也と付き合わないといけないのよ」
春希「その辺の事情も今回は考慮しないでおこうな」
お互いの正直な気持ちを出さないから話がこじれてるんだよな・・・・・・とは言えないか。
依緒「わかったわよ」
春希「それで、その彼女と依緒が武也をめぐって修羅場になったと」
依緒「ほんとはた迷惑な話よね。しかも駅前でうちの大学の生徒がひしめく通学時間帯だったのよ」
春希「それはご愁傷様。武也とつるんでるんだから、それくらいは覚悟しておけって」
依緒「言われてみればそうね。ごめん、武也。この事については私の覚悟は甘かったわ」
武也「・・・・・・もういいよ。俺のことは勝手にいってくれ・・・・・・」
肩を落とす武也に俺も依緒も慰めの視線さえ向けない。ついでも千晶も興味がなさそうにあくびをしていたけど、まあいいか。
春希「そして修羅場は加速して、さらにもう一人武也の彼女がやって来て修羅場が地獄へと変遷していったと」
依緒「だいたいそんなかんじね。だけど私の事は後から来た彼女が知っていたらしくて、ようやく武也の彼女ではないって最初の女も納得してくれたのよ。その点に関してのみは後から来た女に感謝しちゃうかな」
武也「よくいうよ。さっきも散々文句言いまくっていたくせによ」
依緒「武也何か言った?」
武也「いいえ、滅相もありません」
お前ら、ほんといいコンビだよ。
春希「ここまでは俺も理解できたんだけど、どうしてここから依緒が殴る事になるんだ? だって依緒は当事者から外れたじゃないか。それなのにどうして興奮して殴ったりなんかするんだ?」
依緒「それは、その。まあ、成り行きってやつで」
武也「んな生易しい雰囲気じゃなかったぞ。もう鬼がいるって思ったからな」
依緒「言ったなぁ」
武也「事実だろ?」
依緒「そうかもしれないけど、さぁ」
春希「ほら依緒。俺にわかるように説明してくれよ。どうしてもなんで依緒が殴る事になったかだけはわからないんだよ」
依緒「それはぁ・・・・・・」
どうもこのことについては歯切れが悪い。それは武也の方も同じで、だんまりを決め込んでいる。もしかしたら言い訳をしないってスタンスかもしれないが、ようは依緒の主張を受け入れるって事かもしれない。
千晶「そんなの簡単じゃない」
春希「千晶?」
千晶「だから簡単だって言ってるのよ。そこの女はね、ほかの彼女たちに恨みを買っただけだって」
春希「はぁ? だって依緒は彼女じゃないんだぞ」
千晶「だからこそじゃない? 彼女でもない女が四六時中自分の彼氏に付きまとっていたら、彼女としては嫌な気分でしょうね」
たしかに千晶の言い分は筋道がきっちりと通っている。理屈の面でも感情の面でも論理的な飛躍は見当たらない。だとすれば、千晶の推理が正しいという事なのだろうか。
千晶「概ね彼女二人の言い争いが、いつしか彼女でもないそこの女への恨みへと変わっていったんでしょうね。そしてそこの女が切れちゃって、怒りのはけ口として飯塚君をなぐっちゃったってところじゃないかな。で、結果としては見た通りに大きな青あざができたと。これであってるよね?」
依緒に視線を向けると、逃げるように顔を背けてしまう。仕方がないので武也を見ると、覚悟を決めたようで、一つため息をついてから語りだした。
武也「まあ、まず最初に言っておきたい事は、依緒は悪くない。俺が彼女たちのケアをしっかりとしていなかったせいで依緒が巻き込まれてしまっただけだ。だから、このあざも俺は気にしちゃいない。依緒が言う通り事故だった。事故だったんだよ」
春希「武也が事故だって言うんなら、俺はとやかく言わないさ。でも、よく修羅場がお開きになったな」
武也「そこは依緒の気迫っていうか、並々ならぬ殺気を感じ取って二人とも逃げていったよ」
春希「そりゃ彼女たちも災難だったな」
武也「だな」
春希「これでだいたいのいきさつもわかったし、当事者たちも納得しているみたいだから俺はこれ以上追及しない」
武也「サンキュな春希」
春希「俺は何もしてないって。そうだ、氷はどうする?」
武也「いや、大丈夫だと思う。もうすぐ講義だしな。講義が終わっても痛みが引かなければ、そのときまた考えるよ」
春希「そうか」
武也「悪いけど、もういくな。今度ゆっくり食事でもしような」
春希「ああ、わかった。そのときな」
武也「ああ、じゃあな」
依緒「悪かったわね、春希」
春希「いや俺は何も。災難だったのは依緒のほうだろ?」
依緒「それでもさ。・・・・・・・あと、雪菜の事だけど」
不意打ち過ぎる話題に俺の体は硬直する。武也に、そして依緒に出会ったら、きっと話題に出てくる事予想はできていた。でも、ヴァレンタインコンサート以降まったく話題にあげてくる事がなかったので油断していたといえるのかもしれない。もしかしたら武也たちの思いやりに甘えていたのかもしれない。
でも、今話題にして来たという事は、雪菜になにかあったか、それとも俺に変化を求めてか、なのだろうか。
春希「雪菜に、・・・なにかあったのか?」
依緒「いやさ、雪菜に何かあったわけじゃないのよ。春希の内定決まったのを武也経由で聞いたのだって、あの子自分の事のように喜んじゃってね」
春希「雪菜らしいな」
依緒「だね。・・・・・・でも本当は、春希が直接伝えるのがいいんだろうけど」
二人の感情が複雑に絡み合った視線に今までは逃げていた。怒りも含んだその感情は、角度を変えてみれば心配であるとさえ判断することができる。こんなどうしようもない俺を見捨てないでくれている二人に、俺は後ろめたい気持ちでいっぱいで、今までは押しつぶされそうで逃げ回っていた。
春希「すまない」
依緒「なら、今までと同じようにってわけにはいかないけど、今度雪菜も誘って食事にでも・・・・・・」
春希「ごめん」
依緒「ごめんってなんだよ。ごめんって」
武也「依緒、やめろって」
依緒「だって、だってさ・・・・・・」
武也「俺達が無理やり引きあわせてもぎくしゃくするだけだ。こういうのはタイミングやめぐりあわせってものが必要なんだよ。うまくいくときは馬鹿みたいに思い悩んでいたのがアホらしく思えるものだ。だから今は気が済むまで悩むべきだ」
依緒「わかったわよ。でもね、春希」
強い意志を秘めたその瞳は、俺を捉えて離さない。これだけは俺に届けと切に願っていた。
依緒「雪菜、あんたが大学に来ないだけで、すっごく気にしてたんだよ。たった二日あんたが大学に来ないだけであの心配具合はちょっと異常かもしれないけど、それくらい今でもあんたのことが好きなんだ。それが恋愛関係に発展しないとわかっていても、人として好きでいることくらいは許してあげてね」
春希「俺が許す許さないもない。それは雪菜だけの感情だから、俺がそれを否定なんてできない」
依緒「そっか。それを聞いて安心した」
武也「でも、あの春希が大学こないなんて、これも異常だよな。今までは取らなくてもいい授業も律儀に全部出ていたのに、それが4年になったらぱったりとだなんて、雪菜ちゃんじゃなくても気になるってもんだ」
依緒「まあ雪菜が春希のことをこっそり見ているのも異常行動なんだろうけど。・・・・・・それを言っちゃうと、その雪菜についていってる私も変なのかな?」
春希「そのことについてはノーコメントで」
依緒「ありがと」
武也「でも春希。どうしたんだ?」
春希「ああ、4年は3年までとは違って開桜社の方をメインにしようと思ってるんだ。だから必要最小限の講義しかでない」
武也「そっか。内定でたんだもんな。それでか・・・・・・」
嘘は言っていない。嘘は言っていけど、肝心の理由を言っていない。俺の誤魔化しに嬉しそうに喜ぶ二人を俺はどう見ているのだろうか?
俺はずっと黙ったままの千晶のことが急に気になり視線をずらす。
そこには無表情なまでの観察者がそこにはいた。俺の心臓を直接鷲掴みにして俺の行動を把握している千晶は、俺にしか気づかれないかすかな笑みをうかべたまま事を見守っている。ぞくりと背中を冷やす感触が、まるで鏡を見ているような錯覚さえ覚えてしまった。
武也「春希?」
春希「あ、ごめん。なんだっけ?」
武也「あぁ、これからは大学に来る機会が少なくなるのかって事だよ」
春希「おそらくそうなると思う。でも教授に頼まれている仕事もあるから、一応は毎日顔を見せる予定だ。昨日一昨日は開桜社の方の用事で休んでいただけでさ」
教授に頼まれた仕事って言っても千晶の監督だけど。
武也「そっか。あ、やば。そろそろ時間だな。またな春希。今度はゆっくり話そうな」
春希「ああ、わかったよ」
依緒「じゃね」
春希「依緒もまたな」
最後まで俺の嘘に気がつかないままの友達思いの二人。その二人の背中を見つめていても罪悪感があまりわかなくなってしまっている。おそらく感情がマヒしているんだろうけど、でも、となりにいる千晶だけは見ることができなかった。
今は俺の姿を映し出す千晶を見る勇気が、自分を受け入れる自信がまだ備わっていなかった。
そういえば実家への引っ越しの事も、そしてニューヨーク行きの事も、肝心のことは何一つ話していない事に、今になってようやく思いだす。
そして俺は、その事に気がついて、安心してしまった。
今夜は以前のマンションではなく真っ直ぐと実家マンションへと帰って来ている。そもそも一人暮らししていた部屋に感傷的なまでの思い出があるわけではない。どちらかといえばネガティブな想いが多いとさえ思えるマンションに思い入れがないとは言えないが、今は真っ直ぐと帰宅できる心構えができていた。
いや、真っ直ぐに帰らないと千晶が何をするかがわからないという危機感が俺の中に渦巻いている。なにせ真っ直ぐ帰ってこないと俺の部屋を漁るという脅迫メールが千晶から舞い込んでもきていた。
おそらく千晶なりの励ましメールなんだろうが、脅迫をポーズだけでなく実際にやってしまいそうな、実際にやってしまうところが冗談ではすまなかった。
千晶「おっかえりぃ春希。今日も遅いお帰りでご苦労様です」
春希「ただいま千晶。でも、帰ってくる時間なんていつもこんなもんだぞ」
千晶「うん、知ってる。でも、新妻ならこんなセリフをいうかなぁって。ほら、春希も新妻プレイの方が喜ぶでしょ?」
そういうことか。だから真夜中なのにエプロンなんて付けているわけだな。小道具まで用意しているなんて、こちらこそご苦労様です。
ひらりと揺れるエプロンの端が俺を目をくぎ付けにする。なにせ真っ直ぐに伸びた細い脚はその付け根まで白い肌が剥き出しに放り出されていた。つまりはエプロン以外は何も着ていないように見えてしまう。でも、よく見ると上にはタンクトップを着ているようだ。でも、……下は?
千晶「もう、やだっ。春希ったら目がエッチだよ」
春希「違う。そんな不純な目で見てなんかいないって。それにそう思うんならなにか履けよ」
千晶「あれぇ、春希ったら仕事で疲れてはいても欲情しちゃった? あっ、疲れている方が欲情しやすいタイプとかだった?」
春希「人を勝手に変態扱いするな。そもそも欲情なんかしてないって言ってるだろ」
千晶「そう? それはざ~んねんっ。でも、こういう新妻にお出迎えされるのも嬉しいものでしょ?」
俺はため息をつこうとしたが、急に重大な事実を思い出してしまって為に息を飲みこんでしまった。緩やかな時間が急壁に加速していき、俺の脈拍は怒涛のごとく熱とピッチをあげていく。
春希「ちょっと待て」
千晶「ん、なにかな?」
春希「母さんは帰って来てるんだよな」
千晶「帰って来てるよ。夕食ごちそうになっちゃったけどいいよね?」
春希「それはかまわないけど、今もいるんだよな?」
千晶「うん。でも寝てるんじゃないかな?」
千晶の視線の先を辿って母の寝室のドアに視線をむける。物音一つしないその部屋は、深夜の静けさと相まってリビングにいる俺達の騒音を数倍にまで高めてしまいそうな気さえしてしまう。
春希「まあいいか。それよりも早く何か着ろって。どこに目を向けていいか困るだろ」
千晶「あぁ……このことね」
と、千晶は視線を下に向けると、豪快にエプロンをめくり上げる。そこには真っ白な脚とベージュのホットパンツが姿を見せる。
まあこんなおちが待ってるとは思ってはいたけど、でも確信がもてないから下手な事は出来ない。俺のそんな葛藤さえわかっているから千晶はこんな幼稚な悪戯を実行したのだろうけど、そうとわかっていても気持ちのはけ口に困ってしまう。
千晶「そんな盛大なため息つかないでよ」
春希「人が仕事を頑張ってきたというのに、心ない出迎え方をする同居人がいたもんでね」
千晶「へぇ……・、そんな不届きな人もいるものなのね」
春希「あぁ、今度会わせてやるよ」
千晶「うん、楽しみにしてるね。あっ、そうそう。これを伝える為に待ってたんだった」
春希「何かあったのか?」
千晶「どうかな? 捉え方によるからわたしには判断できないかな」
春希「で、なにを伝えたいんだ?」
千晶「うん。春希のお母さんね。春希が作ってくれたお弁当美味しかったって、さ」
春希「……そっか」
千晶「うん、これを伝えとかないと寝付けないかなってね。でもよかったね春希。美味しいってさ」
春希「さすがにまずいとは言えないだろ」
千晶「捻くれちゃって。でも、わたしも美味しかったたと思うわよ。もう少しお弁当全体の彩りを工夫したほうが色彩によるうまみが増すとは思うけどね。まあ、なんていうの? 春希らしい地味な色合いのお弁当って感じだから、もう少し華やかさが欲しいかな。たしかに地味な春希には難しい要求なわけだけど」
春希「ミニトマトとか、色どりが派手なのを入れたほうがいいかな」
千晶「それもありだとは思うけど、季節の物を取り入れるのもいいと思うわよ。野菜なんてスーパーいけば旬のものを扱ってるわけだし、見た目だってあぁ春だなぁって思う事もあるでしょ? だから色が派手だから色どりが華やかになるってものでもないのよ」
春希「そうだな。見た目プラス心証ってところか」
千晶「だね」
春希「ありがとな千晶。これからもびしばし俺を鍛えてくれ」
千晶「それでいいの?」
春希「その為に千晶のコーチを頼んだんだろ」
千晶「はぁ~い、じゃあさっそくやってもらいたい事っていうか、お願いがあるっていうかな」
春希「遠慮せずに言ってくれ」
千晶「じゃあ、言うね」
そして俺の目の前まで踏み込み、俺の前に突き出したものは、今日俺が千晶の弁当に使ったタッパだった。
春希「これ?」
千晶「うん、そう」
あの千晶にしては珍しく、真剣な目つきで俺を見つめてくるもんだから、俺は唾を飲み込み、喉を鳴らす。
千晶「やっぱさ、見た目って大事だよね。あと真心も」
春希「俺も大事だとは思うぞ」
千晶「だったらさ、このタッパはいただけないと思わない?」
俺は千晶の拗ねたような表情に対応が追い付けないでいた。
春希「えっと、千晶さん。どういうことで?」
千晶「だから、こんなあまりものを詰めておくタッパじゃなくて、ちゃんとしたお弁当箱が欲しいって言ってるの。だって春希とお母さんのはあって、私のだけないのよ。それって仲間外れで千晶ちゃんがかわいそうだとは春希は思わないのかな?」
春希「ちょっと待て。俺だって忙しくてそういうのをそろえる時間がなかっただけだ」
千晶「そうかな? 私のお弁当を作る話はニューヨークに行く前から決まってたんだから、春希だったら私のお弁当箱を買う時間くらい捻り出せていたんじゃないかな。それをしてこなかったってことは、初めからそれほど乗り気じゃなかったってことじゃない? それか、私のことなんて忘れていたとか、さ」
春希「ちょっと待てって。ほら拗ねないでくれって」
ぜったい演技だとわかっているのに、俺の心を揺さぶるのはなんでだろうか。これが超一流女優の演技だと言ってしまえばそれまでまけど、ここまで俺の心を掴むとは思いもしなかった。
千晶「拗ねてないわよ」
春希「涙声じゃないか」
千晶「だから泣いてないって」
春希「それが泣いてるって言うんだ」
千晶「泣かせたのは春希のせいでしょ」
春希「……ごめん」
千晶「ほんとに悪かったって思ってる?」
春希「思ってる。俺が悪いって思ってる。だから機嫌直せよ」
千晶「なんだか口だけって気がするのよね」
春希「そんなわけない。ちゃんと反省してるから」
千晶「じゃあさ、その反省を行動に移してくれる?」
春希「ああぁ、行動に移す」
あれ? なんだこの雰囲気?
千晶「わかった。しっかりと行動してくれれば許してあげる。約束は守ってよね」
春希「約束はきっちりと守るよ」
千晶「約束だよ。……じゃあ、明日お弁当箱買いにいこうねっ」
えっ? なに……これ?
真っ直ぐに伸びた季節外れのヒマワリが神々しく花を開かせる。天に向かってのびた幹は太く頑丈で、ちょっとやそっとではくじけそうにないほど頑丈であった。
つまりは、俺はこの陽気な同居人に騙されたって事なのだろうけど、こうまでして真っ直ぐ伸びた嘘はすがすがしくも感じられてしまう。
春希「わかったよ」
千晶「じゃあ明日ね」
春希「でも明日まではタッパで我慢してくれよ」
千晶「りょ~かいっ」
春希「バイトに行く前に一緒に見に行くか」
千晶「だね」
どこまでが計算で、どこからが本音で、そこにわずかながらも俺への気遣いが含まれているかはわからない。きっと千晶にしかわからないシンプルな計算式なのだろうけど、俺は千晶に感謝している。きっと千晶がこの家にいなければ、今日も今までのマンションに寄ってから実家に帰宅していたはずだ。
別に帰りたくないわけではない。荷物を置いて、睡眠をとる場所としては十分すぎるほどの機能を有している。でも、千晶がいなければ俺は実家をその認識でしかしなかっただろう。千晶がいなければ、帰って来てこんなにも楽しい会話なんてできやしなかった。
これが千晶が執筆した台本なのかはわからない。でも、俺は千晶に感謝せずにはいられなかった。
4月14日 木曜日
武也「春希、今日はもう帰りか?」
午前の講義を終え、昼食の弁当を食べ終えた俺は千晶ご要望の弁当箱を買うべく駅へと向かおうとしていた。そこへ学食から戻ってきたいつものコンビ、武也と依緒が目ざとく俺を発見するに至る。
麻理さんとの遠距離食事会は、2限目の講義時、その時間講義がない俺は千晶の講義を待つ合間を使って行われた。もっぱら俺が話しかけ続け、麻理さんが食べるのを見ていた。この対処療法がいつまで効果があるかはわからない。今は味覚が低下していても吐く事はない。
この結果を喜ぶべきかは判断しかねるが、今はこれが精一杯であった。
春希「あぁ、午前の講義しかなかったからな」
武也「お前はもうちょっと大学に来いよ。講義とっていても時間割はすっかすかなんだろ」
春希「だからこうして大学には来ているじゃないか。それに俺は今までしっかりと講義を受けまくっていたから、その貯金を考慮すると、これくらいでちょうどいいじゃないかってさえ思えている」
武也「だぁ……」
依緒「こら武也。公衆の面前でうなだれるな」
ここで依緒のけりの一つが入らないあたりは、昨日のいざこざの後遺症はないってところか。まあ、けりがないからこそ遠慮してるともとらえることができるあたりは判断がしにくいところでもあるけど、みたところは大丈夫そうだな。
武也「だってさぁ、これからお経みたいな講義があるんだぜ。俺も春希みたいに帰りたいと思って何が悪い」
依緒「だったら3年をもう一度やり直せばいいじゃない。そうすれば4年になったときは春希みたいにすっかすかの講義日程を謳歌できるわよ」
武也「そのためにもう一度3年やってなにかメリットあるか?」
依緒「ん? たぶん、ない」
武也「だぁ~」
春希「こら武也、こんな所で座り込むなって」
俺は武也に手を差し出し、その体を引きあげる。ぐいっと力強く握ぎってきたその大きな手は、俺達の間にあるわだかまりを一時の間だけでも忘れさせてくれた。
武也「わぁったよ。真面目に講義を受けるって」
依緒「よろしい」
春希「依緒、武也のことをよろしくな」
依緒「わかってるわよ。でも、私は武也のマネージャーでも管理者でもないんだけど」
春希「でも、いつもつるんでるよな。昨日の修羅場もあって武也と距離をとるものかと心配してたのに、杞憂に終わってなによりだ」
依緒「まっ、腐れ縁だしね」
武也「そんな縁、腐って消えちまえ」
依緒「いったなぁ……」
春希「仲がいいってことはなによりだ」
俺の声が届いたらしく、じゃれつく二人は手を下し、頬を少しだけ赤く染めたような気がした。
春希「昨日言い忘れた、いや、言えなかった事があるんだけどさ、聞いてくれないか?」
硬質な声が俺の緊張具合をうまい具合に表現し、武也たちの気を引き締める。二人は目を合わせて何かを確認しあうと、俺の話を聞くべく顎をあげて俺を声を待つ。
春希「俺さ、卒論を前期日程で書き上げて、後期からはニューヨークにある開桜社で研修を受けることにしたんだ。一応大学の方は休学扱いになるけど、卒業には影響はない。だから、俺が大学にいられるのも夏までかな。あ、でも、卒業式には戻ってくるつもりだから」
武也「それはもう決まったことなんだよな」
春希「あぁ、教授とは話をつけたし、開桜社の方でも許可がでた」
武也「そっか。春希頑張ってたもんな。これは俺達の中で春希が一番の出世頭になりそうだな」
春希「それはどうかと思うけど、自分がやりたい事ができることには感謝してる」
武也「だあぁ……、俺ももっと頑張っておけば就職活動も早々に終えてバカンスと決め込めてたのに」
依緒「何言ってるのよ。春希は遊びにニューヨークに行くわけじゃないのよ。しかも、なによ武也。仕事の為の研修じゃなくて、あんた遊びまくるつもりじゃない」
武也「だってよ、就職したら遊びたくても遊びに行けないだろ。だったら今遊ばなくてどうする」
依緒「そういう考え方が今に至ってると、どうしてあんたは気がつかないかな」
春希「まあ、武也の気持ちもわからなくもない。でも、今回ニューヨーク行きが実現できたのも、俺の我儘をきいてくれた周りの人たちの協力があってこそだから、頑張ってくるつもりだ」
武也「そっか、じゃあ頑張れよ」
依緒「頑張ってね、春希」
春希「ありがとな」
武也「それで雪菜ちゃんには……」
春希「俺から言うよ。今度は文学部に逃げたときみたいな事はしない」
武也「なら安心だ」
依緒「春希が決めた事なら私は口出しをしない。でも、ちゃんとあの子に言ってあげてね」
春希「わかった」
武也たちと別れ、終始俺達の会話を注意深く聞いていた千晶の気配が戻ってくる。今までそこにいたはずなのに、まったく気配を感じられなかったのはこいつなりの気配りなのかだろうか。それとも何か考えての事なのかはわからない。
でも、こいつ。依緒の事あまり好きじゃないっていうか、苦手だろ。そういう態度は出さないけどさ。
千晶「どうしたの春希? 人の顔をじろじろ見ちゃって。もしかしてわたしの綺麗な顔に見惚れちゃった?」
春希「どこからその根拠もない自信が来るんだろうなと思ってな」
千晶「根拠? この大きくて自己主張が強い胸からかな」
だから胸をもむな。胸を寄せるな。そして、こっちを見るな。
子憎たらしい笑顔が俺を襲う。この心地よい襲撃に俺は何度ともなく救われる。こいつたっらわかっててやってのけるんだから、ほんとかなわないよ。
春希「もういい。わかったから」
千晶「そう? けっこう視線感じちゃうのよね。視線が集まってくるっていうの? 向こうは見てません~って顔してるんだけど、見てるのばればれなのにね。そんなに見たいんなら堂々と見たほうがこっちのすかっとするってもんなのに」
春希「見られてスカッとするのはお前くらいだよ」
千晶「あっ、それってじかに見た者の余裕ってやつ? そりゃあ服越しから見る胸よりは、生のおっぱいを見るのとではぜんっぜん違うもんね」
春希「はぁ……、もういい」
体から力が向けていき、肩を落とす俺に千晶は慌てふためく。
千晶「ちょっとちょっとぉ……、今日はつれないんじゃない? もっとのってきてくれないと、私が変な女みたいに思われちゃうじゃない」
春希「安心しろ」
千晶「ん?」
春希「だから安心しろって。もう既に変な女だと思われているから」
千晶「その認識ってちょっとひどくない? まあ私も自分の事を普通だとは思ってないけどね」
春希「ならお互いの意見にひらきはないな。よかったじゃないか」
千晶「あぁっ、それはよくないって」
こいつはいつも俺は励ましてくれる。こんなどうしようもない俺に手を差し伸べてくれる。
俺はこいつに恩返しができるだろうか? 散々レポートとかで恩を返せよと冗談を連発したりしているけど、あんなの千晶に恩だとは思ってほしくはない。俺がこいつから、和泉千晶から受けている恩と比べれば、ちっぽけな施しにすぎないのだから。
春希「なあ、千晶」
千晶「なによっ、まだ何か言い足りない事でもあるの?」
春希「ニューヨーク行きの事なんだけど、俺がニューヨークに行くのは、助けたい人がいるからなんだ。俺が傷つけてしまったのに何を助けるんだって言われそうなんだけど、側にいてあげたいんだ。力になってあげたい。俺に出来ることなんて大した事ではないけど、それでも側にいたい」
千晶は俺の突然すぎる告白を無言で聞くと、瞼を一端閉じる。そして瞼を再び開けた時には、鋭くて優しい眼光が俺を射抜いた。
こいつは最初から全てわかってたんじゃないかって思えてくる。はっきりと具体的な事柄は想像で保管しかできいだろうけど、こいつなら俺の気持ちをくみ取ってしまう気がした。
千晶「その人って、ヴァレンタインのライブに来ていた人でしょ?」
春希「見てたのか?」
千晶「ううん、春希となにがあったかなんて知らない。でも、私も一応あの舞台の上にいたんだからわかるって。春希の事を見つめるその視線。春希のほうもまんざらではない感じだったし、これは何かあるかなって思ったわけよ」
春希「そっか……」
千晶「で、どうするの?」
何に対してだろうか? ニューヨークに行ってどうするのか。それとも、かずさのことはどうするのか。おそらくそのどちらでもあって、どちらでもない。
きっと俺の決心を聞きたいはずだ。
春希「目の前の問題を解決していくだけだ。一つずつ、着実に進んでいかなければ身動きが取れなくなってしまうのが俺だからな。遠くの方ばかり見て足元をおろそかにしていたら、俺はきっと前には進めない。だから目の前にある問題から解決していくよ」
千晶「そっか。なら私は春希を応援するだけだよ。傷ついたら私のところに戻ってきてよ。何もできないけど、このおっきな胸で泣かせてあげるくらいならできるからさ」
春希「その時は頼む」
千晶「ふぅ~ん」
春希「な、なんだよ?」
千晶「なんか素直だなって、ね」
春希「うっさい」
千晶「もう、かわいいやつ」
俺は千晶の両腕に捕まり、そのおっきな胸に抱きしめられ、心地よい安らぎが俺を襲う。
きっとこいつはほんとうに俺が言いだすまで待つつもりだったのだろう。たとえ何も言わなくとも、千晶は俺の事を助けてくれたのだと思う。
でも俺にはそれができなかった。何も言わないで利用するなんて、俺にはできなかった。
ただこいつは、和泉千晶は、俺のその性分さえも理解したうえで待っていたのだろう。どうしようもないいじっぱりで、暴走までしてしまう自称優等生の委員長。どこまでも規則に従い、まっすぐすぎるほど真っ直ぐに歩いてしまう。人からは堅物だって笑われもする。でも、今その優等生は真っ直ぐ歩けなくなってしまった。寄り道ばかりして、本当に行きたい場所にたどり着けないかもしれない。
それはきっと間違った道順で、地図の見方を間違ってるって皆が言うのだろう。でも、こいつだけは寄り道に付き合ってくれると馬鹿な事を言ってくれた。
いやらしい感情なんて持ち合わせてはいない。この自他ともに認める大きな胸に抱きしめられ、俺は初めて許された気がした。抵抗らしい抵抗をしない俺に千晶は初めこそ訝しげに見つめていたが、俺の心情を読みとってしまうこの女性は、俺の頭を愛おしそうに撫で始める。
春の香りが俺の鼻をくすぐり、溶けゆく雪の温もりが俺達を包み込んでいった。
5月ゴールデンウィーク序盤
俺が千晶と母親に弁当を作るイベントは毎日の習慣として定着していき、今は台所にあるホワイトボードで母親と意思疎通ができるところまで進歩していた。進歩といっても、朝食や弁当をいらない日を書いておくだけの一方通行の意思疎通ではあるが。
……そうでもないか。母親からのメッセージはもう一つ増えている。
食べ終わって綺麗に洗れている母親の弁当箱の横には、いつも弁当の感想が短く書かれていた。これは千晶のお節介なのだが、俺が料理の勉強をしていると母さんに告げ、今後の勉強の為にも食べ終わった後の感想を欲しいと言った事が起因していた。
ただその感想も、手紙というには味気なさすぎるし、かといって店に送る評価感想と比べれば温かみが込められてはいる。
そんな中途半端な立ち位置は、今の母子の距離をうまく表しているような気がした。
世間から見れば歪な母子関係ではあるが、それでも無関心から意識しているに進展している事を考えれば大きな成果なのだろう。この手紙以外でも世間の親子関係では当たり前の関係を、時には強引に、時には俺達に気がつかれないように千晶が誘導するものだから、今や俺と千晶の立場はこの北原家においては逆転しているっていっても過言ではなかった。
ほんと俺の心の中にずかずかと神経質に踏みこんでくる奴だよ、あいつは。それでいて俺の心をよく理解してタイミングをはかっているんだから恐れ入る。
俺がしてやれるお礼なんて大学でのサポートと毎日の食事くらいだけど、素直にお礼ができないあたりはまだまだ俺も子供なのだろう。
千晶「おっ、春希ぃ~っ。グッドタ~イミング。っていうか時間に正確すぎじゃない?」
俺の姿を見つけるや、両手をぶんぶん振り回しながら俺を呼ぶのはもちろん和泉千晶。俺の恩人にして同居人の、けっして感謝している事を伝えられない親友だ。
五月の太陽の下、太陽以上に陽気な彼女は俺が手にする「弁当箱」が入っている鞄を見て喜びを爆発させる。さすがにゴールデンウィークの連休ともあって大学がたむろする暇人の影はひそめ、千晶のようにサークル活動に励む学生がちらほらとみかけられる程度であった。
まあ、俺みたいに弁当を届ける為だけにやってくる人間なんていないだろうけど。
春希「約束の時間通りに来て、どうして文句を言われるか知りたいところだな」
千晶「ん? なんとなく、かな?」
春希「まあいいや。早く食事を始めるか。麻理さんも待っているだろうし」
千晶「だね」
麻理さんに千晶を紹介する事は、正直迷いに迷った。けれど、麻理さんからの強い要望もあって対面し、そして今は時折一緒に食事をするまでになっている。
まあ最初はただたんに麻理さんが俺の同居人に会いたいっていうのが始まりであって、千晶が一緒に食事までするようになったのは、やはり千晶の人柄によるのだろう。もちろん俺は千晶をパソコン画面を通じてであっても麻理さんに会わせる事には抵抗した。
そりゃあ千晶だし、剥き出しの爆弾をしょいこんだ愉快犯を、どうして麻理さんに会わせたいなんて思うものか。それでも麻理さんの強い要望と、これはひどい言いようだが、千晶があまりにも真面目に俺の話を聞いてくれたおかげで、こうして麻理さんと千晶の対面が実現した。
それに、これはリハビリの一環でもあって、俺とだけの食事では新たな弊害を生む恐れがあったからであった。いくら食事ができるようになっても、北原春希がいなければ食事ができないではリハビリが成功したとはいえないだろう。
千晶「どう? 親子水入らずの生活は?」
春希「どう?って聞かれても、今まで通りだと思うぞ。もともとお互い生活リズムが違うんだから、あまり顔を合わせないしな」
千晶「それでも私が家にいないで親子二人っきりっていうのは初めてでしょ?」
春希「たしかにそうだけど、あまり意識していないからな」
千晶「ふぅ~ん……」
やはり千晶には嘘はつけないか。正直俺も母さんもお互いを意識しまくっている。
ゴールデンうウィークの大型連休に入り、千晶は演劇部の合宿とやらで大学に泊まり込みで練習をしていた。それでも一日一回は俺の弁当を食わせろとの御要望もあり、こうして弁当持参でわざわざ休講中の大学キャンパスまでくりだしてきたわけである。
春希「でも、顔を合わせれば挨拶もするし、普通だとおもうぞ」
千晶「そっか……」
千晶は俺の返事を待たずに中に入っていくので、俺はその後ろ姿をみうしまいと後を追った。
俺も千晶もこの普通が異常だと認識しているからこそこれ以上言葉がでなかったのかもしれない。
春希「よし、セッティングできたぞ」
千晶「お~けい。こっちもだいじょぶかな」
いつものようにパソコン前に弁当を広げた俺と千晶は、画面の向こうで待っていたニューヨークの麻理さんと向かい合う。
最近の麻理さんは体重の減少も止まり、とりあえずはこれ以上の危機的状況へのカウントダウンを止めることに成功していた。しかし、この成功を収めつつ食事会も新たな火種を生んでいる事もたしかであり、うれしい悩み?に苦しむ日々を送っている。
春希「お待たせしましてすみません麻理さん」
麻理「問題ないわ。時間通りじゃない」
千晶「早く着いたのに時間がかかったのは春希のお小言のせいじゃない」
せっかく和やかな食事タイムにしようとしたのに、千晶のやつは俺の事が好きすぎるだろっ。
麻理「北原の千晶さんへのお説教は計算に入っているから問題ないわ」
千晶「その計算間違ってない?」
春希「お前がやるっていってた課題を全く手をつけていないのが悪いんじゃないか」
千晶「こっちも劇団の練習で忙しいんだから仕方ないじゃない」
春希「そういう言い訳をしているから春休みみたいな大変な目にあったのを忘れたのか」
千晶「忘れはしていないけど……」
春希「だろ? あんな修羅場をまた経験したいのか?」
麻理「千晶さんも練習で疲れていたのだからしょうがないじゃない」
春希「麻理さんは千晶に甘すぎですよ」
千晶「さっすが、麻理さんっ」
春希「おいっ」
麻理「いいじゃない北原。どうせ後で苦労するのは千晶さんなのだから、今北原が気に病む必要なんてないわ。だってそうでしょ? 学期末になって単位が取れなくて卒業できなくなるのは千晶さんであって北原ではないのよ? だったら北原が心配したって意味がないじゃない」
春希「……」
それはそうなんですけど、ね。でも、結局は俺が尻ぬぐいすることになって、春休み以上の惨劇に降りかかってくる事確定じゃないですか。
千晶「ひっどい。ひどすぎない麻理さん? やっぱ春希の上司だけはあるわね。春希以上に厭味ったらしいし、毒舌に年季を感じるわ」
麻理「あら? お誉め頂いてありがとう。でも、あなたに称賛してもらえるほど年をとっているとは思えないのだけれど」
あぁ……、どうしてこうも仲がいいんだよっ。建前だけの会話をしてくださいとはいわないけど、でも、もう少し食事にあった話題ってものを選んでくれても……いいじゃないですかっ。
千晶「べ~つにっ誉めてないけど? それとも年増のひがみとか言ってほしかったの?」
麻理「あら? ごめんなさい。最近の一部の大学生だけで使われている言語は習得していないの。だから私が伝えようとしている内容と、千晶さんが理解している内容とには齟齬があるみたいね。でも安心してもいいわよ。いくら言語体系が違くとも、内容の齟齬を理解していない人は幸せに暮らせると思うから」
千晶「やっぱ麻理さんくらいの自称常識人の嫌味は誉め言葉になってしまうんだね」
麻理「あら、どういう意味かしら?」
千晶「言葉の意味通りだけど?」
あぁっ、もうっ。二人とも笑顔で話す内容じゃないのに、笑顔で話している分不気味すぎるだろっ。
麻理「と、いうと?」
千晶「それすらわからないの? それでよく出版社の編集なんてできるね」
麻理「ごめんなさい。人外の言葉は習得していなくて」
千晶「そっか……、それなら仕方がないね」
麻理「ええ、大変申し訳ないのだけれど……」
春希「あの、さ。そろそろ食事にした方がいいんじゃないかな? 俺もこの後バイトだし、千晶も練習に戻るんだろ? それに麻理さんも食事をしたほうが……」
千晶「ちょっと黙ってて」
麻理「Be quiet!」
春希「すみません」
ほんと仲がいいんだからなぁ。
こうしていつもの食事前の儀式は進められていく。いつものことなのに、どうしてこうも話題が尽きないのだろうか。これも一種のコミュニケーションであり、二人の距離と三人の距離の確認なのだろうけど、もう少し穏便にしてくださると俺の胃の負担も減るんだが。
5月ゴールデンウィーク明け
世間ではゴールデンウィークとかいう大型連休があったらしいが、そんな定まった休みなど取れない職場では、連休など最初からなかったかのように振る舞われる。俺からすれば仕事を貯めなければいいだけなのにというのが正直な感想だ。
しかし、そういった方々のヘルプ要請のニーズがあるからこそ俺の仕事もあるわけで、俺は感謝の気持ちを隠して連休を消化していった。
そんな正しくない連休の過ごし方をした俺の目の前には、おそらく正しすぎる大学生の連休の過ごし方をした武也と依緒がいた。
春希「おはよう武也。それに依緒もおはよう」
武也「おう、珍しく今日は春希一人なんだな」
春希「あぁ千晶は荷物取りにいっていて、後からくるよ」
依緒「おはよう春希。いっつもあの子と一緒にいるから、なんだか春希一人で歩いているのを見ると、ついに春希が見捨てるほどのことを仕出かしたのかって嬉しくなってしまうわね」
この二人は連休明けだというのに他の生徒のような連休疲れなど最初からなかったかのように声をかけてくる。他の連中の顔を見れば連休が終わってしまった絶望と格闘しているっていうのに元気なやつらだよ、まったく。
まあ、今絶望している連中も最初の講義を受ければ、現実に戻ってくるのが例年のパターンだけれど。あと、依緒の最後の言葉については聞かなかった事にしておこう……。
春希「千晶を見捨てることなんてないと思うけど、本来ならば見捨てられてしまう事をしでかしているから俺が教育係を任されている事を覚えていてくれると助かるんだが」
依緒「あ~、なるほどね」
春希「そういうお前らだっていつも一緒じゃないか。武也一人で歩いているのを見たとしたら、ついに依緒に見捨てられる事をしでかしたんじゃないかって思うかもしれないな」
武也「俺は別に好き好んでこいつと一緒にいるわけではないって」
依緒「そうよ、私だって仕方がないから一緒にいるのよ。だって武也を一人で歩かせていたら、また被害者が増えるじゃない? だから私が一緒にいるの」
春希「はいはい。たしかに依緒のあの事件が広まってくれたおかげで武也に近づこうとする女の子が減ったって聞いたけど、実際どうなんだ?」
武也「聞いてくれよぉ春希ぃ……」
春希「そんな情けない声を出さなくても俺は聞いて欲しいならいつでも、……時間があれば聞くぞ」
武也「おい、言いかえすなよ。それはいつでも聞くが正解だろっ」
案外細かいところを気にするんだな。たしかに細かいところまで気を配る事が出来なければ、複数の女の子と同時に付き合うことなんてできやしないか。まあ、俺はその気遣いが全くできないせいでまともな交際さえできないでいるけど……。
春希「いや、時間は限られているからな」
武也「俺と春希の友情はそんなものだったのかよぉ」
春希「そんなものなんじゃないか?」
武也「おいぃ……」
依緒「まあいいじゃない。春希もあんたの愚痴を聞いてくれるって言ってくれているんだから。私としてはむしろ武也よりも私の気苦労をねぎらってほしいものね」
春希「そうなのか?」
依緒「当たり前じゃない。このバカが性懲りもなくふらふらっと何も知らない女の子に手を出そうとするものだから、私が身をはって守ってあげているのよ。あの噂もあるおかげで、一言私が教えてあげるだけでみんな逃げていくわよ。たぶん性懲りもなくこの男がナンパすると思うから、その時は春希も見てみるといいわよ。きっと笑い転げるから」
武也「春希ぃ……」
春希「まあ、いいんじゃないか? 大学4年にもなったわけだし、ここは心機一転違う生活っていうのもいいと思うぞ」
武也「お前まで俺を見捨てるのか?」
春希「大丈夫だよ。依緒が見捨てないで側にいてくれているんだろ?」
武也「そうだけどよぉ」
依緒「それにせっかくの連休だったたいうのに、この辛気臭い男とずっと一緒だったのよ」
春希「それはそれは……」
武也「仕方がないだろ。あの事件が他の子にも知られてしまって今は彼女がだれもいなくなったんだから。そりゃあやっぱその原因の一端たる依緒は、俺の休日を盛り上げる義務があるだろ?」
依緒「はいはい」
春希「別に依緒の方も連休の予定がなかったのなら予定が入ってよかったんじゃないか?」
依緒「そこっ。どうして私の予定が白紙なのが前提なのよ?」
春希「違うのか?」
依緒「まあ雪菜との約束は入っていたけど……、あとは白紙だったけどさ」
武也「ほらな」
依緒「あんたには言われたくないから」
武也の絶妙な突っ込みも、今は依緒の機嫌を逆なでにするだけか。……でも、依緒も口では怒っている風を装っていても、どうみても喜んでいるよな。絶対本人達にはいえないけど。
春希「悪い。そろそろ時間だ。依緒、悪いけど武也のこと頼むな」
依緒「まあ、どうなるかわからないけど、ね」
春希「じゃあ、またな」
依緒「ええ、じゃあね」
武也「お~い……、まあいっか。じゃあな春希」
春希「ああ、またな武也」
俺はその場を離れていってから再び武也たちの方を振り返ると、二人は相変わらず仲が良すぎる騒ぎを巻き散らかしながら学部棟へと向かって行っていた。
ほんと、あいつらは素直じゃないんだから。俺が言えたものではないけど、あの事件のおかげで収まるべくとことに収まりつつあるってことで喜んでおくとするか。
千晶「は~るきっ。なんだか嬉しそうだけど何かあった?」
春希「千晶か……、別に何も。そっちは探していたものあったのか?」
千晶「あっ、うん。だいじょぶだいじょぶ。なかったけど座長に言っておけばまた用意してくれるし」
春希「それって大丈夫だとは言わないと思うぞ」
主に座長さんが……。
千晶「そう?」
春希「まあいいか。ほら、俺達も急がないと遅刻してしまうぞ」
千晶「はぁ~い……。でもほんと春希、なんか気持ち悪いほど機嫌がいいよ」
春希「そうか?」
千晶「まっいっか。どうせあの女が飯塚とうまくいってるだけだし」
おい、千晶。見てたんなら聞くなよっ。
俺は隠し事など一切できない千晶の後姿を追いながら、我ながら強力すぎる親友を作ってしまったと、微妙な笑顔を浮かべていた。
7月下旬
すっかり二人でいる事が当たり前になっている武也と依緒による三人だけの送別会を先日終えた俺は、ただ一人成田空港で出国のときを待っていた。
依緒の言い分によれば、武也の毒牙にかかる女の子を守っているだけだっていうことらしいが、そんな建前なんてなくても既に武也の女遊びはなくなっている。それは俺でさえわかっている事なのだから、ましてやいつも側にいる依緒ならばわかるはずだ。
その言い訳をいまだに使うあたりは依緒の気持ちは整理できていないのだろう。
あとは武也の頑張り次第だろうけど、俺がとやかく言う事でもないか。
でも、大学生活最後の夏だからって、二人で沖縄旅行に行く計画までたてているんだから、俺が心配する必要なんてもうないのかもな。
俺は苦笑いを浮かべながら鞄の一番上に収まっていた弁当箱を取りだした。
千晶「忘れ物はない?」
春希「問題ない」
いつものと変わり映えのない朝。千晶はいつものように俺より遅く起きてきて、眠そうな顔をでおはようと朝の挨拶をしようとしたが、けれど今日だけはその眠そうな顔は一瞬で吹き飛び、笑顔ともに告げてきた。
べつにいつもより豪華な弁当を用意していたわけではない。もちろん昨夜に何かあったわけでもない。
ただ、今日の台所には俺と母さんの二人がたっていただけだった。
千晶「ほら、これ、お弁当。せっかくお母さんが春希のために用意してくれたんだから、忘れたなんてことになったら、せっかく改善してきた関係が破綻しちゃうわよ」
春希「最後に鞄に入れようと思っていたんだよ。気温が高いからな」
千晶「たしかにお弁当食べて食中毒で飛行機に乗れませんでしたってことになったら、今度こそお母さんこの家からも出ていってしまうかもね」
春希「それ笑い話にならないからな」
千晶「でもいいじゃない。なんだかんだいって和解……できたでしょ」
春希「誰かさんのおかげでな」
千晶「そうだね。感謝しときなさいよ」
春希「ああ、感謝してる」
千晶のずうずうしすぎる介入もあって、俺と母さんとのすれ違いはひとまず解決した。別に今朝になってようやく解決したというわけでもなく、5月の下旬あたりから千晶の強引な介入もあって一緒に食事をするようにもなっていはいた。
けど、こうして言葉にしてすれ違いに区切りをつける事が出来たのは、やはり千晶の助力のおかげなのだろう。
千晶「一人で大丈夫?」
春希「俺の方こそ心配だよ。お前ちゃんと実家に戻るんだろうな? またふらふらとあちこち泊まり歩くんじゃないぞ」
千晶「だいじょぶだって。春希が一緒に荷物運んでくれたときにお母さんを紹介したでしょ。私の場合は春希とは違って喧嘩なんてしてないし」
春希「そういう問題じゃなくてだな」
千晶「わかってるって」
春希「ほんとうかぁ……」
千晶「ほらっ」
顔をあげ千晶の顔を見て真意のほどを確かめようとすると、俺の視界は黒く塗りつぶされる。
真夏だというのにあの日感じた春の香りが俺を包み込む。それは、甘えることを捨てた俺に甘え方を教えてくれた千晶の優しさが噴き出していて、俺の気持ちを軽くしていく。
千晶「ほんと春希はすけべだよねぇ……」
春希「むぅ~」
千晶「ほらほら、あばれないあばれない」
千晶は俺の全く本気ではない抵抗を、その大きな胸で抱きしめている俺の頭を撫でること退ける。
千晶「だいじょぶだよ。しっかり大学は卒業するし、ふらふらすることもないからさ」
春希「……」
俺の抵抗がなくなっても、千晶は今も俺を慈しむように撫で続けていた。
千晶「それに、この胸は当分は春希専用だから、他の男が勘違いして触るような事はしないって」
その辺のことはノーコメントで……。でも、いつの日か俺もこの胸から卒業しないといけないのはたしかであり、いつまでも千晶に甘えることなんてできやしない。
千晶「でもね、苦しくなったら、苦しいって言っていいんだよ。助けてって言ってよ。言ってくれないとわからないじゃない。いつも春希を見ていることなんてできないんだよ。わかってる?」
春希「……」
千晶「でも、いっか。わからない相手にはわかるまで教えればいいだけなんだから、その辺は覚悟しておいてね」
母さんが作ってくれた弁当を見て、千晶との共同生活を思い出す。
悪くはなかった。むしろ楽しんでさえいた。
考えてみれば千晶がいなければ、きっと母さんと和解なんてできないで、この弁当だって存在しなかったはずだ。そう思うと、千晶の存在の大きさと、あの計算とも天然とも言えるずうずうしい介入によって俺達は救われたことの大切さを噛み締める事が出来た。
遅すぎることなんてないんだ。道を間違えたのなら、いったん元の道を戻ればいいだけだ。
それに、一人では無理ならば助けを求めればいい。今も甘える事には抵抗があるけれど、それでも一人では無理だという事は理解できる。
それは日本でも、そしてニューヨークでも、同じことなのだろう。
7月下旬
日本にまで送り届けられていた部屋の鍵を差し込み玄関の扉を開けると、そこは数カ月前にやって来た時と同じように整然とした部屋が開かれる。主がいまだ職場に拘束されている部屋は新たなる居住者を無言で出迎える。
この部屋は一応日本スタイルを通しているので、玄関を入ってすぐ靴を脱ぐ。そして靴一足たりとも置かれていない片付けられているこの場所に俺がいる事を示すように、まあ控えめにだけど、邪魔にならないように玄関の隅に履いてきた靴を片付ける。
やはりニューヨークも日本と同じように夏というわけで、エアコンが効いていない室内はむあっと息苦しい。俺は手荷物を床に置くとエアコンをつけ窓の方へと歩み寄る。
エアコンをつけたのに窓を開けるのは貧乏性ともいう節約生活が身についてしまった俺としてはほんの少し迷いはしたが、その愁いを振り払うように窓を開けた。
気持ちがよい夏の風が俺の後ろへと過ぎ去り、汗ばんだ肌を冷やしていく。
と、正午を過ぎたばかりなのにもう少しの間だけたそがれるのも悪くはないが、今も全精力をあげて仕事に打ち込んでいる同居人に申し訳ないわけで、俺は既に届いている荷を整理することにした。
時は夕方をすぎさり、既にとっぷりと夜を迎えていた。迎えていたと表現したのは、夕方ほんの少しだけと思って仮眠をとっていたからであり、一応時差調整でもあった。
時計を見ると、あと1時間ほどで俺の同居人、正確に言えば俺が居候であり、また千晶流に言えばヒモではあるが、……とりあえず千晶のことは忘れることにして、俺は食事の準備に取り掛かった。
麻理「北原っ」
部屋のチャイムが鳴り、急いで玄関を開けると、そこにはパソコン画面では見慣れている麻理さんが息を切らして立っていた。
春希「駅から走ってきたんですか?」
感動の再会だというのに俺の気のきかない第一声が、麻理さんの勢いを見事にそぐ。
麻理「走ってはいないわよ。ちょっと早歩きで来ただけ」
春希「でも、息が上がってるじゃないですか」
麻理「そうかしら?」
春希「ええ」
額にはうっすらと汗の粒が噴き上がっている。確かに外は暑い。けれど、太陽が一番高い時間帯に歩いてきた俺以上に汗だくなのは、やはり走ってきたとしか思えなかった。
麻理「う~ん……、わかったわよ。走ってきたのよ」
そう早々と自白した麻理さんは、事実を告げると顔を横に背ける。けれど、俺から視線を離すことはせずに、視線だけは俺に捉えて離さないでいてくれた。まあ、俺が麻理さんの事を目を離す事も出来ずに観察していたからこそ気がついた小さな事実だけれど。
春希「俺も早く会いたかったです。俺に出来る事は部屋で待つことだけでしたけど」
麻理「北原……」
春希「ほんとうは再会した瞬間にどうしようか、とか、何を言おうかとか色々考えていたんですよ」
麻理「本当に?」
春希「嘘ついてどうするんですか」
麻理「そうよね」
春希「でも麻理さんの顔を見たら、せっかく考えていたプランを全て忘れてしまいました」
麻理「その代替案が「駅から走ってきたの?」なの?」
春希「いや、どうなんでしょうね? 俺も考えて口にしたわけじゃないですから。麻理さんの顔を見たらぽろっと出てしまった言葉でして」
麻理「そんなに息が乱れていたかしら?」
そう麻理さんが言葉にすると、自分の今の状況に今さらながら気がついたのか、衣服の乱れや汗が噴き出ている事に気が付き慌てふためく。
そんな職場では絶対に見せない取り乱したその行動がなんだか可愛らしくおもえて、愛おしさが我慢できなくなる。
春希「最初に謝っておきますね。麻理さんごめんなさい」
麻理「北原?」
春希「ただいま麻理さん」
俺は考え抜いた第一声を今さらながら口にすると、俺は麻理さんの許可も得ずに無防備に突っ立っている麻理さんの体を抱きしめた。
きっと麻理さんは非常に汗の状態を気にはしているだろうが、俺は汗なんて気にせず身を引き寄せる。その小さな体を俺の体で記憶させるように脳に叩きこむ。
もう映像じゃないんだ。触れることだってできる。臭いだってある。……まあ、汗臭いから嗅ぐなって怒鳴られそうだけど、今回だけは許して下さい。
そしてなによりも、一度機械で分解して再構成した声ではなくて、あの耳に心地よく居座ってしまう甘い声が俺の鼓膜を触れてくれる。
麻理「おかえりなさい北原。それと、ただいま」
春希「おかえりなさい」
麻理さんはもう諦めたのか。自身の汗の事など忘れ、俺に身を任せるだけでなく自分からも俺がいる事を確かめていく。これが恋人同士ならキスの一つや二つあったかもしれないが俺達にはあるわけもなく、ただお互いの存在だけを身に刻み込んでいった。
ただ、千晶が見たら、どうみても恋人同士の抱擁でしょって突っ込みが入ってきそうだけれど。
5月下旬
曜子がフランスでのコンサートを無事に終わらせてウィーンの自宅に帰宅すると、予想通り静けさだけが彼女を出迎える。ただ、「無事に」というニュアンスを使うと曜子自身が鼻で笑うかもしれないが、コンサートの観客の満足度が曜子の自信と一致している点は彼女のピアニストとしての地位を如実に表していた。
曜子は一カ月ぶりの帰宅だというのに愛娘の出迎えがないことに悲しさや怒りを覚えたりはしない。そもそも曜子が海外へ出かけていないときでさえかずさが曜子を出迎えることなどありはしないのだから。
それに、最愛の愛娘が出迎えに来る方がよっぽど気持ち悪い。もしそのような事態に出くわしたとしたら、即刻知人に精神科医を紹介してもらうことだろう。
だから曜子は荷物を玄関に捨て置き、かずさがいるはずの自宅に作られているレッスンスタジオに足を向けた。あと、玄関に置き去りにした荷物は、おそらく数日以内にフランスで滞在していたホテルから送られてくる荷物と一緒に信頼できるハウスキーパーが整理洗濯することになる。
曜子が自宅の事を気にせずに海外に行けるのも、気難しいかずさの逆鱗に触れる事もなく、ようはハウスキーパーのステルス機能が高いとも言えるが、家事全般を任せられるからである。
ただでさえ生活能力の針がマイナスをふっ切っているかずさなのだから、一週間も一人では暮らしてはいけないはずだ。普通のハウスキーパーがいてもその日のうちにハウスキーパーが逃げ出すだろうから、一週間と一日だけかずさが生き延びられる事ができるにすぎない。
曜子「愛しのお母様がフランスから凱旋よぉ」
曜子が防音処理が施されている分厚いドアを開けスタジオに入ると、鳴り響いているはずのピアノの音色は聞こえてはこない。そもそも部屋の中央にあるグランドピアノの前にかずさがいないのだから当然ではあった。
お風呂にでも入っているのだろうかと思いめぐらすが、そもそもいつもなら今の時間帯にお風呂に入ってはいない。それならばトイレかお腹が空いてハウスキーパーが用意した食事をとりに冷蔵庫を漁りに行ったのかもしれないと考えがまとまっていく。
けれど、その推理もほどなく終了した。端的にいえば、かずさはレッスンスタジオにいた。
床にちらばった楽譜や食べかけのお菓子類などが広いスタジオを雑然と狭く見せてしまう。それでもピアニストのせめての意地なのか、一千万を超えるグランドピアノの周りだけはゴミがなかった。
いや、もう一か所だけ綺麗に片づけられている場所があった。それはかずさがいる箇所だ。
よく観察すれば、かずさが座るソファーの周りには、元々ソファーにあったゴミが強引にソファーから遠ざけただけだと判断ができる。
曜子「かずさ? 寝てるの?」
ソファーの上で膝を抱えるように身を小さくして寝転がっているのだから寝ているわけではないだろう。曜子も戸惑いのあまり適当な言葉を投げかけたにすぎなかったのだが。
曜子「練習中なら気にしないけど、何もしていないんだからおかえりの挨拶くらいしなさいよ」
苛立ち半分、諦め半分の声をかずさに投げかけても、かずさは肩を震わせる事さえしない。こうなると本当に寝ているか、病気で動けなくなっているかという考えが再度浮かび上がって来てしまう。
曜子「ほら、こっちを向きなさい。…………えっ?」
曜子は強引にかずさの肩に手をかけ振り向かせる。
しかし、曜子が目にしたのは、予想を斜め上に大きく外れる結末であった。
曜子「えっとぉ、かずさ?」
かずさ「あ、母さん。帰ってたのか。おかえり」
曜子「うん、まあ、ただいま」
かずさは曜子が帰ってきた事を確認すると、再度かずさの視界から曜子を消してしまう。
曜子「ちょっと、ちょっと待ってよかずさ」
かずさ「なんだよ?」
自分の世界からリアルに引き戻されたかずさの機嫌は急激に下降していく。それは母曜子であっても例外でない。曜子ものりのりでピアノを弾いているときに声をかけれると無視するわけだから似たようなもので、自分の場合も覚えていてほしいと言われそうだ。
曜子「気持ち悪いくらいにやけちゃって、どうしたのよ?」
たしかに曜子がかずさの機嫌を損ねる直前までかずさはにやけまくっている。曜子の認識と他の人間の感想に隔たりがあるかもしれないが、それでもかずさは蕩けきった顔をしていた。
かずさ「べつに休憩中くらいリラックスしていてもいいじゃないか」
曜子「それはかまわないんだけど、でもねえ……」
かずさ「なんだよ?」
曜子の視線がかずさの手元で止まる。そしてかずさが逃げる前にかずさの手を両手で抑え込んだ。
かずさ「ちょっとやめろって。やぶけたらどうするんだよ。のびちゃうだろ」
曜子「あんたが大事そうにしている手袋には触っていないじゃない。ほら、こうやって手首を抑えてるんだからのびやしないわよ」
かずさ「わかったよ。わかったから手首を抑えるな。どうせ今隠してもあとでいじられるだけだからな」
曜子「わかってるじゃない。だったら最初から素直になればいいのに」
かずさ「何言ってるんだよ。そっちがいきなり襲いかかってきたんじゃないか」
曜子「そうだったかしら?」
かずさ「そうだったんだよ。……もういいよ」
曜子「じゃあ説明して貰おうかしらね」
かずさ「別にあたしが話さなくても母さんはわかってるんだろ? だったらあたしが話す意味はないじゃないか」
曜子「意味なるあるわよ」
かずさ「どんな意味だよ」
曜子「恥ずかしさに悶える愛娘の姿を見られるじゃない」
かずさ「消えてくたばれっ」
曜子「まあいいわ。春希君からの誕生日プレゼントなんでしょう」
かずさ「まあね」
かずさは愛おしそうに手にはめているクリーム色の手袋を撫でる。その姿だけでも嬉しさに悶える愛娘を堪能できているわけではあるし、また、曜子がかずさに尋問する前にすでにだらしないほどに悶えまくっている愛娘も堪能しまくっているわけで、さらに恥ずかしさに悶える愛娘まで求めるのは、かずさにとって屈辱以外のなにものでもなかった。
それに、かずさが手にはめている木綿の手袋以外にも、国際便で送られてきただろう箱とその包み紙がソファーの側に転がっているわけで、今日が5月28という事実を組み合わせれば容易にプレゼントの贈り主を推測する事もできた。
ただ、曜子がその推理だけで満足できるかは別問題ではあったが。
曜子「これでこの惨状も理解できたわね」
かずさ「惨状って?」
曜子「別に大したことではないのよ」
かずさ「だったら言葉にして言うなよ。頭の中だけにしとけばいいのに……。それとも、もうボケ始めたのか?」
曜子「ひっどい事をいうのね。色ぼけした発情娘に言われたくはないわ」
かずさ「なっ……」
曜子「ふぅ……。あなたが自覚しているだけましってところね」
かずさ「ふんっ」
曜子「一応言っておくけれど、さっき言った惨状っていうのはね、ソファーの周りだけ綺麗になっている理由がわかったってことよ」
かずさは曜子が言っている意味が全く理解できないようで、小首を傾げて続きの解説を催促した。
曜子「やった本人が自覚していないっていうのは重症ね」
かずさ「どういうことだよ?」
曜子「あなた、自分の周りを見てみなさいよ」
かずさ「ん? べつになにもないけど?」
かずさは曜子の指示通りに自分の周りを見渡す。母親の言葉に素直に従うところは、普段の曜子への態度と言葉使いを別にすれば、純粋で、親子の仲も非常にいいことが分かる。
まあ純粋な心の持ち主うんぬんは、かずさ本人は認めないだろうし、曜子も「たんにこの子が世間知らずなだけでしょ」って一蹴しそうではある。
曜子「だからね。あなたの周りだけ綺麗にして、春希君からの荷物が汚れないようにしてるなって気がついたのよ。ちょうとソファーを中心にゴミを外に追いやったのがよくわかるわよ。うん、綺麗に手でどけたのがわかるように半円ができてるわね」
かずさ「べつにそういうわけじゃあ……」
曜子「そう? どうせ荷物を受けとたったら……、ねえ、かずさ」
かずさ「な、なんだよ?」
曜子の鋭い視線にたじろぎ、かずさは逃げるようにソファーに身を沈めていく。
曜子「どうやって荷物を受け取ったのかしら? いつもだったら荷物はハウスキーパーのホフマンさんが受け取ってるわけよね。そうねぇ……、一度でもかずさが荷物を受けとった事ってあったかしら? ううん、玄関のチャイムが鳴っても全て無視しているわよね。そう考えるとチャイムが鳴っても受け答えさえしたことがないことになるのよねぇ……」
かずさ「うるさいなっ。朝頼んでおいたんだよっ。荷物がきたら持ってきてほしいってホフマンさんにお願いしておいたんだ。それだけだ」
曜子「なるほどね。根回しはしっかりとしておいたか」
かずさ「嫌な言い方だな。ただたんに荷物がきたら持ってきてほしいとお願いしただけじゃないか」
曜子「たしかにね」
かずさ「だろ?」
かずさはようやく曜子から解放されると思ったのか、最後くらいにこやかに答えてさっさとこの場から逃げようと考えた。いくら曜子であってもピアノの練習に入ったかずさにはちょっかいはださないはずではある。
しかし、かずさの儚い願いも叶わず、曜子による追及は緩まる事はなかった。
曜子「でもおかしいわね」
かずさ「なにがだよ? あたしが荷物を持ってきてほしいとお願いするのがどこがおかしいんだよ?」
曜子「ううん。その事自体は別に何とも思ってないわ」
かずさ「だったらなんだよ」
曜子「だからね。なんで今日、つまりかずさの誕生日に春希君から誕生日プレゼントがくるって知っていたかって事よ。だってあなた、春希くんとは連絡とっていないのでしょ?」
かずさ「まったくってわけではない」
曜子「そうよねぇ……。ヴァレンタインにホワイトデー。あとは4月の春希君の誕生日にはプレゼントと、今時珍しい手書きの手紙のやりとりをしてたっけ」
かずさ「別に手紙が珍しいってわけではないだろ? いくらメールで瞬時にメッセージをおくれるようになったとしても、手紙という習慣がなくなったわけじゃない」
曜子「たしかに……。それに、メールよりも手紙の方があなたも喜んでいるわけだし」
かずさ「どういう事だよ?」
曜子「だってねぇ……」
曜子の含みがある笑みにかずさは再度後ずさる。かずさも全く経験をいかせていないわけで、自分がソファーにいることを覚えてはいない。それだけかずさが追い詰められていると考える事も出来るが、すでにこのやり取り、毎度のパターンとなっているとつっこめる人間がいないことが、かずさにとっての一番の不幸なのだろう。
曜子「だってあなた。夜寝る前には必ず春希君からの手紙を読んでから寝ているじゃない」
かずさ「見たのか?」
かずさがすごんで見せても曜子は全く意に介さない。むしろにたにたと喜びながらにじり寄るものだから、かずさの怒気は一瞬で霧散してしまった。
曜子「見てないわよ」
かずさ「じゃあなんで? あっ、かまかけたな?」
曜子「違うわよ。かまなんてかけなくても簡単に想像できるじゃない」
かずさ「ふんっ……、言ってろ」
曜子「まあまあ、可愛いところがあって春希君も喜ぶんじゃないのかなぁ。だってあの北原春希君よ。堅物で優等生の春希君があなたの為にまじめぇ~な手紙を書いてくれたんでしょ?」
かずさ「見たの?」
曜子「見てないわよ。いくら私でも、かずさ宛にきた手紙を勝手にみないわよ」
かずさ「でも、この部屋に忍び込んできたときに偶然見たっていう可能性もあるじゃないか」
曜子「忍び込んだとは心外だわ。ちゃんと「ただいまぁ」って言って入って来たわよ」
かずさ「そ、そう……。ごめん」
実際には「愛しのお母様がフランスから凱旋よぉ」だったが、曜子本人さえ自分がなんて言ったか忘れていた。
曜子「別にいいわよ。私が部屋に入ってきたときは、かずさったらその今手にはめている春希君からの手袋を見ながらにやにやしているだけだったじゃない。我が娘ながらあんなににやけ悶えちゃっていて、ちょっとひいちゃったかな」
かずさ「だったら見るなっ」
曜子「はいはい。……でね、だからかずさがにやけているだけだったから、手紙があるなんて知らなかったわよ」
かずさ「そっか」
曜子「じゃあ、春希君の誕生日プレゼント贈った時のお礼の手紙に、今日プレゼント来るって書いてあったの?」
かずさ「いや、書いてないよ」
曜子「じゃあ、どうして今日プレゼントがくるってわかっていたのよ?」
かずさ「春希がプレゼントを今日届くようにしていたかは知らないよ。でもね、春希ならきっとプレゼントを送ってくれるってわかってたからな」
曜子「なるほどね。固い絆で結ばれているってことね。お熱いことで」
かずさ「春希はどこかの母親とは違って、あたしの誕生日をしっかりと覚えてくれているからな。まあ、聞いた話では、娘の誕生日を忘れてフランスまでコンサートに行ってしまった薄情な母親もいるそうだよ」
曜子「何言ってるのよ。こうやって誕生日に合わせて戻ってきたじゃない」
かずさ「最初の予定だともうちょっとフランスにいる予定だったじゃないか」
曜子「まあね。でも予定よりも順調に進んでくれたおかげね。コンサートの日程だけはずらせないけど、インタビューとかはどうにか短縮できてよかったわ」
曜子は軽く言い放ってはいるが、曜子の陰で優秀なアシスタントの血のにじむようなはからいと交渉があったことは、かずさであっても容易に想像ができた。
かずさ「美代ちゃんに感謝しないとな」
曜子「そうね。でもこうして頑張って帰ってきても、最愛の娘は母親よりも男に夢中ってわけで、泣けてくるわね」
かずさ「言ってろ……。でも、春希が待っててくれるって言ってくれているからあたしは今ピアノに集中できるんだ」
曜子「そうね。私たちの我儘に付き合ってくれる春希君に感謝しないといけないわね。でも春希くんったら、なにを見て手袋を送ってきたのかしら? 今時寝るときに手袋をして寝ているピアニストなんていないわよ。精々手タレモデルくらいじゃないかしら?」
かずさ「そのことは手紙にも書いてあったよ」
曜子「あら? なんて書いてあったの?」
曜子も春希の事を馬鹿にしているわけではない。子供にピアノを習わせている一部の親の中には、寝るときには子供に手袋をつけさせる親は今でも存在している。
だから、もし春希がその事を知ってかずさに手袋を贈ったとしても、口ではかずさをからかっても、本心から春希を馬鹿にする事などはないし、かずさもそれをわかっていた。
かずさ「別になんだっていいだろ。ないしょだ、ないしょ。あたしと春希だけの秘密だ」
そのかずさの慌てようと照れ具合からして、実際手紙を読まなくとも、曜子にはおおよその見当くらいはつけることはできた。
おそらく手を大事にしてほしいとか、一緒にいられないけどこれくらいは、とか。もしかしたら、この手袋を見たら自分を思い出してほしい……、寝るときは一緒だ。……だんだんと春希の性格からかけ離れていく推理になっていくが、あながち見当違いではないのかもしれないと曜子は結論付け、ほくそ笑む。
曜子「まあいいわ」
そう曜子が呟くと、曜子は春希からのプレゼントを撫でようと手を伸ばす。
これがほのぼのした母娘関係ならばここで終わるのだが、かずさが春希からのプレゼントを曜子に触れさせないように伸ばしてきた手を叩き落とすあたりは冬馬親子らしいといえるのだろう。
このかずさの独占欲が、母娘のじゃれあい第二ラウンドの合図となった事はいうまでもない。
8月中旬
俺が住む家を編集部に隠す通すわけにもいかず、俺が麻理さんと一緒に暮らしている事は開桜社ニューヨーク支部の編集部では公然の秘密でもなく、普通に受け入れられいた。
アメリカでは日本よりもシェアハウスが一般的である事も起因しているし、それが男女の同居であってもとくに問題なく受け入れられていた。
しかも、なぜか俺と麻理さんとの師弟関係はニューヨークの職場でも知れ渡っており、そのような師弟関係があるのならば一緒に住む事に変なさぐりをいれてくる者などはいないようだ。
これが日本だったら開桜グラフの先輩方が一晩くらいの飲み会では離してはくれないだろう。
でも、悪い気はしない。苦笑いよりも懐かしさが込み上げてきてしまった。
普通の社会人なら休日である日曜の午前。俺は掃除機を手にもくもくと掃除を進めていた。日本にいた時には考えられないくらいの規則正しい生活が始まり、最初のうちは物足りなくなるのではないかと懸念に思っていた。しかし、そもそも扱う言語が日本語から英語になったわけで、物足りないどころかこれ以上の仕事を抱える事は不可能だという事態に陥っている。
一応土曜日も仕事はあるが、自宅での仕事日となっている。まあ、日曜日も麻理さんからのビジネス英語講座があるわけで、ある意味日本と同じような忙しい日々を過ごしていた。
麻理「北原ぁ。バスルームの掃除終わったけど、リビングの方はどうかしら?」
春希「あともう少しですね」
麻理「掃除機だけ?」
春希「ええ。掃除機はもうすぐ終わりますので、あとは拭き掃除だけです」
麻理「そう。だったらあとは私が拭き掃除しておくわね」
春希「お願いします」
バスルームの掃除を終わらせてきた麻理さんの言葉に甘えて俺は掃除機を片付けに行く。そのときちょうど洗濯気が動いていないのを確認した俺は、自分の洗濯をすべく洗濯ものがつまっている籠を自室から持ってくると、俺は洗濯機の準備に取り掛かった。
俺は洗濯ルールにのっとり、洗濯機の覗き穴からタオル類が入っている事を確認すると、洗濯機のふたを開け、洗濯し終わったタオルなどを取りだそうとした。
今日はちょっと多いかな? さすがに毎日洗濯できないしな。えっと、この前洗濯したのって……、昨日じゃなかったか?
俺は昨日の記憶をたどるのに集中し、手元はオートでタオルを取り出していった。
春希「あっ……」
麻理「どうしたの?」
思いのほか大きな声をあげてしまい、麻理さんが覗いてくる。
これが初めてだというわけでもないのに、声をあげずに蓋をしていればお互い気まずい想いをしなかったはずだった。だけどどうしても耐性がつくはずもなく、俺は呆然と麻理さんの表情がうっすらと赤く染まっていくのを見ているしかなかった。
麻理「あっ……」
春希「すみませんでしたっ!」
二人で暮らしているわけで、お互いどうしても一人暮らしの時の癖が出てしまう。それは俺もそうだが、俺よりも長く一人暮らしをしている麻理さんはなおのこと男性と一緒にくらしているという危機意識が薄くなってしまう。
つまり、お互い危機意識を忘れてしまう為に今回のようなハプニングが起こってしまう。
洗濯機の中には麻理さんの洗濯ものが入っていた。もちろん普段から気をつけはしている。それでも油断してしまい、先日も同じような事態を起こしていた。まあ、前回は麻理さんが俺の洗濯ものを目撃しただけで、麻理さんのショックを別にすれば、俺の洗濯ものを見られてもそれほど恥ずかしくはないので、今回の比較対象にはならない。
一応俺がこの家に越してきたときにいくつかのルールを決めはした。洗濯も数少ないルールのうちの一つである。
ルールの数が少ないのは、お互いが気を使えばいいと思っている事と、あとは実際暮らしてみないとわからないということに起因する。
洗濯のルールはいたってシンプルで、各自の衣類は自分で洗い、タオルなどの共有物は気がついたほうが洗うであった。
ニューヨークでの洗濯事情では、自宅に洗濯機があるのは珍しい。コインランドリーに行くか、アパートに備え付けのランドリールームを使うのが一般的といえる。麻理さんのように時間がない人は業者に頼むという方法もある。
だから最初は麻理さんも業者に頼んでいると思っていた。しかし、初めてこの家に来た時に麻理さんが言っていたが、「やっぱり洗濯は自分でしたいのよね」だった。
こうして真っ白になっている新天地で麻理さんの現状を一つ一つ塗りつぶされていくたびに俺が大いに影響を与えている事を知ると、嬉しさと後ろめたさが毎回せめぎ合ったいた。
春希「いっ! ……ぁっ」
麻理「どうしたの北原? なにかあった?」
春希「え? いやそのですね」
麻理「ん? あっ、洗濯機もう終わったのね」
春希「ええ、まあ、そうですね」
麻理「じゃあ北原のも洗ってしまいなさいよ」
春希「そうさせてもらいます」
麻理「あっ……」
麻理さんの困惑と羞恥心が混じった声とその視線に俺は自分の現状を思い出してしまう。一度は緊急回避的手段で手に握っている品を洗濯機の中に戻そうとはした。
けれど、麻理さんが思いのほか早くやって来てしまったわけで、俺の思考はその場でストップしてしまっていた。
春希「……」
麻理「北原?」
春希「……」
麻理「北原っ」
春希「はっ、はいっ」
フリーズしていた俺の脳は、麻理さんの呼び声で強制的に再起動される。どうやら再び思考をストップさせていたようだ。
数々の修羅場をくぐってきた武也に、俺は今こそアドバイスを貰いたい。
武也からすれば修羅場未満の事態かもしれないが、俺にとっては修羅場以上に遭遇したくはない事態であった。
なにせ、…………前科持ちだもんなぁ。
麻理「できることなら手に持っている下着を離してもらえないかしら?」
春希「すみませんっ」
硬直していた手を開くと、俺の手から黒い布地が洗濯機の中へと舞い戻っていく。
できる事なら、麻理さんに見つかる前にしておきたかったものだ。
麻理「別にいいのよ。私だって洗濯機の中に北原の洗濯ものが入っているのを知らないであけたことだってあるわ」
春希「俺のは別にいいですよ。いや、むしろ変な物を見せてしまってすみません」
男の下着と女性のとでは次元が違うだろっ。それを今力説なんかしたら墓穴を掘りそうだからしないけど。
麻理「別に変なものだなんて思っていないわよ。女も男も下着をつけるものだし、それを洗濯するのは当然でしょ?」
春希「たしかにそうなんですけど、今は論点がずれていません?」
麻理「そうかしら?」
春希「そうですよ。だから一緒に暮らし初めてすぐに洗濯のルールを作ったじゃないですか」
麻理「そのルールは北原が一方的に決めた事じゃない。私は別に一緒に洗濯してもよかったのよ」
春希「駄目ですよ。俺が麻理さんの下着を触ることなんてできませんよ。一応モラルの面でという意味でですよ」
なにを補足説明してるんだよ。そんなモラル云々なんて麻理さんだって聞かなくともわかるだろっ。
しかし、なにを勘違いするかわからないというか、俺に関してだけはどうしても小さな意思疎通の齟齬も発生させたくはなかった。それが腫れ物に触るような扱いであろうと、過保護だと言われようと、どうしても麻理さんの精神状態を俺は信じきることができないでいた。
麻理「だから言ったじゃない。洗濯は私の分担にすれば問題ないって。だって北原は私が北原の洗濯ものを触る分には問題ないのよね?」
春希「ええ、まあ。麻理さんが俺の下着を触っても問題ないというのでしたら」
麻理「その辺は全く問題ないわよ」
春希「だけどですねぇ……」
ほんと、なにを馬鹿な事を言ってるのっていう顔をしないでくださいよ。俺の方が我儘を言っているようにみえるじゃないですかっ。
そりゃあ実家には千晶という珍獣がいて、女性の下着が干されていても慣れましたよ。だけど、どうしても同じ布っきれだとは思えない。千晶の物と麻理さんの下着とでは、どうしても意識が違ってきてしまう。
その辺を理解してくださいよ。……千晶の洗濯物の扱いで、麻理さんと千晶が言い争っていた事は思い出したくもないが。
麻理「一緒に暮らしているんだし、助け合いよ。それに北原も仕事が今の生活に慣れるのに四苦八苦しているじゃない。わざわざ別々に洗濯するとなると時間も倍以上かかってしまうわ。しかも白いものと色ものを分けて洗うとなるとさらに時間がかかるわけだし。別に水道料金とか電気代を気にしているわけではないのよ」
春希「その辺の料金の無駄遣いは再考すべき点ですが、資源の無駄遣いでもありますよね。それに、麻理さんが指摘したように、時間的デメリットはたしかにいたいです」
麻理「でしょう」
俺に姉はいないが、もし姉がいたらこんなふうに言いくるめられてしまうのではないかと思ってしまう。両手を腰に当て、自分の主張が正しいと胸を張っていうその麻理さんの姿が、なんだか微笑ましくて、俺は諭されている最中だというのに喜びが沸きあがってきてしまった。
春希「そうですね」
麻理「北原?」
春希「いえ、なんでもないです。……俺も少し神経質になってたかなって思いまして」
やばかった。姉に怒られて喜んでるって気がつかれなくてよかった。そんな性癖ないはずだけれど。
麻理「そう? じゃあ、洗濯は私が当番でいいわね」
春希「はい、お願いします。ではお風呂場は今まで交代で掃除していましたが、これからは俺が掃除当番という事でいいですね?」
麻理「それはかまわないけど、北原は料理もしてくれているし、お風呂掃除は今まで通りに交代制で構わないわよ」
春希「いえ、麻理さんも料理手伝ってくれるじゃないですか」
麻理「手伝っているというよりは邪魔をしている気がするのよね」
春希「そんなことはないですよ。最初の頃よりは動きがスムーズになってきましたし、俺も似たようなものですよ」
麻理「でも、しっかりと料理が板についてきたじゃない」
春希「それは麻理さんよりも長く経験を積んできたからにすぎませんよ」
麻理「でも、今は邪魔している部分も多いわけだから、やっぱりお風呂掃除は私がやるわ。でも、私の料理の腕が上がったとしたら、そうしたらその時お風呂掃除の当番を考えましょう」
春希「わかりました」
きっとその頃に事態が変わってお風呂掃除の当番再考なんて忘れてはいるんだろうけど、俺はこの先も麻理さんの勢いに負け続けているのだろうという事だけは確信できた。
別に嫌だってわけではない。むしろ負ける事にすがすがしささえ感じている。
それが将来麻理さんを傷つける時限爆弾になろうと、俺達は見ないふりを演じ続けていた。
9月上旬 かずさ
春希の側にいられないのは寂いしいけど、やっぱ一日中ピアノに向かっていられるこの環境だけは母さんに感謝している。もちろん母さんには言わないけど。
まあ、あれだな。今なら母さんが一人海外で頑張ってきた心情も、そして高校生になるあたしを一人残して海外に出て行ったことさえも、ほんのちょっとだけだけど理解できるかもしれない。
ほんのちょっと、ほんのわずかだけだけど、理解できてしまう。
それがいい傾向なのか、それとも人生踏み外しているかはわからない。きっとピアニストとしては正しいのだろうし、一般の人からすれば、そう、日本にいるであろう彼女みたいな普通に高校生やって、大学でのびのび頑張って、そして就職して家庭を作っていく、いわゆるまっとうな人生を望むのならば、あたしが選んだ道は間違っているのだろう。
もちろんピアニストであってもまっとうな性格の持ち主もいる。
けどやっぱ、母さんと似たような臭いがする彼ら彼女らを見ていると、どうしても普通とは思えなくなってしまっていた。
曜子「ねえ、かずさ」
かずさ「娘の部屋に入ってくるならノックくらいしたらどうだ」
いつものようにノックもせずに母さんがあたしの寝室に入ってくる。
別にやましい事をしているわけでも、なにか隠さなければならないものなんてないからいいんだけど、それでもやっぱ年頃の娘でもあるわけで、そこんとこわかっててやってるんだからかなわない。
曜子「あら? ノックしたわよ」
かずさ「聞こえなかったけどな」
曜子「ノックしたわよ。あなたと暮らし始めたばかりのころはね」
かずさ「だったらその習慣を今も続けて欲しかったものだな」
曜子「あらぁ? でもね、あなたが返事しなかったのよ。私がノックしても一度として返事をした事がなかったじゃない」
かずさ「当然だろ?」
あたしの切り返しに母さんは目を丸くする。本当にわかってないのかもしれないって、娘として本当にこの母親の常識を疑ってしまった。
……社長に常識を求めるのはよしなさいって美代子さんが真顔を言ってたけど、うん、まあ、やっぱあたしの母親なんだなって納得してしまうのはやばい傾向かもしれなかった。
曜子「どうして?」
かずさ「だってノックじゃなくて「入るわよ」って呼びかけながらドアを開けていたじゃないか。たしかに呼びかけるのもノックのうちかもしれないよ。でも、そのノックであっても、あたしの返事を待ってからドアを開けるものじゃないのか」
曜子「細かい事はいいじゃない。ただでさえ親子のスキンシップが少ないのに、部屋までこうして会いに来ただけでも喜んでもらいたいものね」
あたしが何を言っても言いかえしてくるんだよな。あたしもあたしでむきになってしまうところがあるのも悪いけど、それでも母親だったら娘に折れてくれてもいいじゃないか。それこそ良好なスキンシップの一部じゃないのかよ。
かずさ「わかった。わかったよ。……で、何の用?」
ここは大人のあたしが折れるべきだな。だって、面倒だし。
曜子「ん? えっと、……そうそう。ニューヨーク行きの事よ」
かずさ「ああ、あれね。そろそろホテルの予約取ろうと思ってたんだ。あと練習の為のスタジオも借りようと思ってるんだけど、どこかいいとこ知らない? ホテルはどうにかなりそうなんでけど、さすがに練習スタジオの方はなかなか探せなくてさ」
曜子「あなた、今頃になってホテルと練習用のスタジオを探しているの?」
かずさ「そうだけど?」
今まで大人の対応をとってきたあたしであってもさすがに母さんの馬鹿にしたような、呆れたような、……いや、百パーセントあたしのことを馬鹿にしているし、呆れてもいる顔をみて、あたしの理性はあと少しで吹き飛びそうのなってしまう。
きっとあたしの目はつり上がり、高校の教室だったらたった一人を除いてけっしてあたしに近づく事もない雰囲気を醸し出しているっていうのに、この母親は……。
どうして人の怒りに無頓着なんだよ。
曜子「もう9月よ9月。そしてコンクールは10月よ。わかってるの、かずさ?」
かずさ「わかっているから一カ月も前に予約しようとしているんじゃないか」
あたしの優等生的発言に、あろうことか母さんはため息で返事を返してくる。
ぴくりとあたしのこめかみが震えたのはこの際無視だ。怒ったら負け。この人に常識はないんだから、あたしがしっかりしないと。
曜子「あなた大丈夫? ほんっとピアノ以外は全く駄目ね」
かずさ「どういうことだよ?」
曜子「いくら来年のジェバンニの前哨戦の位置づけになっている腕試しのコンクールといっても、みんなジェバンニにあわせて練習してきているのよ」
かずさ「わかってるよ、そんなこと」
曜子「わかってないわ。わかってないから練習場の確保もできていないんじゃない」
かずさ「どういう意味?」
曜子「みんな本気だってことよ。いくら本番が来年のジェバンニだろうと、ここで好成績を残せないようなら来年も駄目って事よ。だからみんな必至だし、練習場の確保だってしっかりと準備をしているの。あなたみたいに直前になって探し出すなんてありえないわ」
かずさ「えっと、そのさ」
曜子「なに?」
かずさ「ううん、なんでもない」
さすがのあたしも母さんのいっていることがわかってくる。別に母さんはあたしを馬鹿にしていたわけではなかった。
馬鹿だったのは、もしかしてたあたし、なのかもしれない。
だって、母さんのいう通りピアノ以外はてんで駄目で。
曜子「しかもニューヨークよ。あなたニューヨークに詳しいわけでも、ましてや現地でサポートしてくれる親しい人がいるわけでもないのでしょ。まあ、ウィーンでも引きこもりのあなたに手を貸してくれる人なんてフリューゲル先生くらいかしらね」
母さんが言ってる事は、ほんとうに悔しいけど、正しい。ピアノに関しては妥協しない人だ。
あたしもピアノに関しては最大限この人を尊敬しているし、目標にもしている。
でもあたしは、この人を追いかけるためのスタート地点にさえたてていないって実感させられてしまう。
いくらピアノがうまくても、それだけで母さんが今の地位を築き上げたわけではない。
ウィーンに来て、むりやり母さんのコンサートの事前準備に連れて行かれた時は途中で逃げ出そうとさえ思っていた。
だって会議を見ていても理解できないし、まあピアノに関してならわかるけど、でも、スポンサーやら演出なんてものはさっぱりだ。でも、何度も連れられて行くうちに、ピアノのコンサートは一人では成功させられないってわかってしまった。
そういやこんな事も言ってたっけ。