8月中旬
俺が住む家を編集部に隠す通すわけにもいかず、俺が麻理さんと一緒に暮らしている事は開桜社ニューヨーク支部の編集部では公然の秘密でもなく、普通に受け入れられいた。
アメリカでは日本よりもシェアハウスが一般的である事も起因しているし、それが男女の同居であってもとくに問題なく受け入れられていた。
しかも、なぜか俺と麻理さんとの師弟関係はニューヨークの職場でも知れ渡っており、そのような師弟関係があるのならば一緒に住む事に変なさぐりをいれてくる者などはいないようだ。
これが日本だったら開桜グラフの先輩方が一晩くらいの飲み会では離してはくれないだろう。
でも、悪い気はしない。苦笑いよりも懐かしさが込み上げてきてしまった。
普通の社会人なら休日である日曜の午前。俺は掃除機を手にもくもくと掃除を進めていた。日本にいた時には考えられないくらいの規則正しい生活が始まり、最初のうちは物足りなくなるのではないかと懸念に思っていた。しかし、そもそも扱う言語が日本語から英語になったわけで、物足りないどころかこれ以上の仕事を抱える事は不可能だという事態に陥っている。
一応土曜日も仕事はあるが、自宅での仕事日となっている。まあ、日曜日も麻理さんからのビジネス英語講座があるわけで、ある意味日本と同じような忙しい日々を過ごしていた。
麻理「北原ぁ。バスルームの掃除終わったけど、リビングの方はどうかしら?」
春希「あともう少しですね」
麻理「掃除機だけ?」
春希「ええ。掃除機はもうすぐ終わりますので、あとは拭き掃除だけです」
麻理「そう。だったらあとは私が拭き掃除しておくわね」
春希「お願いします」
バスルームの掃除を終わらせてきた麻理さんの言葉に甘えて俺は掃除機を片付けに行く。そのときちょうど洗濯気が動いていないのを確認した俺は、自分の洗濯をすべく洗濯ものがつまっている籠を自室から持ってくると、俺は洗濯機の準備に取り掛かった。
俺は洗濯ルールにのっとり、洗濯機の覗き穴からタオル類が入っている事を確認すると、洗濯機のふたを開け、洗濯し終わったタオルなどを取りだそうとした。
今日はちょっと多いかな? さすがに毎日洗濯できないしな。えっと、この前洗濯したのって……、昨日じゃなかったか?
俺は昨日の記憶をたどるのに集中し、手元はオートでタオルを取り出していった。
春希「あっ……」
麻理「どうしたの?」
思いのほか大きな声をあげてしまい、麻理さんが覗いてくる。
これが初めてだというわけでもないのに、声をあげずに蓋をしていればお互い気まずい想いをしなかったはずだった。だけどどうしても耐性がつくはずもなく、俺は呆然と麻理さんの表情がうっすらと赤く染まっていくのを見ているしかなかった。
麻理「あっ……」
春希「すみませんでしたっ!」
二人で暮らしているわけで、お互いどうしても一人暮らしの時の癖が出てしまう。それは俺もそうだが、俺よりも長く一人暮らしをしている麻理さんはなおのこと男性と一緒にくらしているという危機意識が薄くなってしまう。
つまり、お互い危機意識を忘れてしまう為に今回のようなハプニングが起こってしまう。
洗濯機の中には麻理さんの洗濯ものが入っていた。もちろん普段から気をつけはしている。それでも油断してしまい、先日も同じような事態を起こしていた。まあ、前回は麻理さんが俺の洗濯ものを目撃しただけで、麻理さんのショックを別にすれば、俺の洗濯ものを見られてもそれほど恥ずかしくはないので、今回の比較対象にはならない。
一応俺がこの家に越してきたときにいくつかのルールを決めはした。洗濯も数少ないルールのうちの一つである。
ルールの数が少ないのは、お互いが気を使えばいいと思っている事と、あとは実際暮らしてみないとわからないということに起因する。
洗濯のルールはいたってシンプルで、各自の衣類は自分で洗い、タオルなどの共有物は気がついたほうが洗うであった。
ニューヨークでの洗濯事情では、自宅に洗濯機があるのは珍しい。コインランドリーに行くか、アパートに備え付けのランドリールームを使うのが一般的といえる。麻理さんのように時間がない人は業者に頼むという方法もある。
だから最初は麻理さんも業者に頼んでいると思っていた。しかし、初めてこの家に来た時に麻理さんが言っていたが、「やっぱり洗濯は自分でしたいのよね」だった。
こうして真っ白になっている新天地で麻理さんの現状を一つ一つ塗りつぶされていくたびに俺が大いに影響を与えている事を知ると、嬉しさと後ろめたさが毎回せめぎ合ったいた。
春希「いっ! ……ぁっ」
麻理「どうしたの北原? なにかあった?」
春希「え? いやそのですね」
麻理「ん? あっ、洗濯機もう終わったのね」
春希「ええ、まあ、そうですね」
麻理「じゃあ北原のも洗ってしまいなさいよ」
春希「そうさせてもらいます」
麻理「あっ……」
麻理さんの困惑と羞恥心が混じった声とその視線に俺は自分の現状を思い出してしまう。一度は緊急回避的手段で手に握っている品を洗濯機の中に戻そうとはした。
けれど、麻理さんが思いのほか早くやって来てしまったわけで、俺の思考はその場でストップしてしまっていた。
春希「……」
麻理「北原?」
春希「……」
麻理「北原っ」
春希「はっ、はいっ」
フリーズしていた俺の脳は、麻理さんの呼び声で強制的に再起動される。どうやら再び思考をストップさせていたようだ。
数々の修羅場をくぐってきた武也に、俺は今こそアドバイスを貰いたい。
武也からすれば修羅場未満の事態かもしれないが、俺にとっては修羅場以上に遭遇したくはない事態であった。
なにせ、…………前科持ちだもんなぁ。
麻理「できることなら手に持っている下着を離してもらえないかしら?」
春希「すみませんっ」
硬直していた手を開くと、俺の手から黒い布地が洗濯機の中へと舞い戻っていく。
できる事なら、麻理さんに見つかる前にしておきたかったものだ。
麻理「別にいいのよ。私だって洗濯機の中に北原の洗濯ものが入っているのを知らないであけたことだってあるわ」
春希「俺のは別にいいですよ。いや、むしろ変な物を見せてしまってすみません」
男の下着と女性のとでは次元が違うだろっ。それを今力説なんかしたら墓穴を掘りそうだからしないけど。
麻理「別に変なものだなんて思っていないわよ。女も男も下着をつけるものだし、それを洗濯するのは当然でしょ?」
春希「たしかにそうなんですけど、今は論点がずれていません?」
麻理「そうかしら?」
春希「そうですよ。だから一緒に暮らし初めてすぐに洗濯のルールを作ったじゃないですか」
麻理「そのルールは北原が一方的に決めた事じゃない。私は別に一緒に洗濯してもよかったのよ」
春希「駄目ですよ。俺が麻理さんの下着を触ることなんてできませんよ。一応モラルの面でという意味でですよ」
なにを補足説明してるんだよ。そんなモラル云々なんて麻理さんだって聞かなくともわかるだろっ。
しかし、なにを勘違いするかわからないというか、俺に関してだけはどうしても小さな意思疎通の齟齬も発生させたくはなかった。それが腫れ物に触るような扱いであろうと、過保護だと言われようと、どうしても麻理さんの精神状態を俺は信じきることができないでいた。
麻理「だから言ったじゃない。洗濯は私の分担にすれば問題ないって。だって北原は私が北原の洗濯ものを触る分には問題ないのよね?」
春希「ええ、まあ。麻理さんが俺の下着を触っても問題ないというのでしたら」
麻理「その辺は全く問題ないわよ」
春希「だけどですねぇ……」
ほんと、なにを馬鹿な事を言ってるのっていう顔をしないでくださいよ。俺の方が我儘を言っているようにみえるじゃないですかっ。
そりゃあ実家には千晶という珍獣がいて、女性の下着が干されていても慣れましたよ。だけど、どうしても同じ布っきれだとは思えない。千晶の物と麻理さんの下着とでは、どうしても意識が違ってきてしまう。
その辺を理解してくださいよ。……千晶の洗濯物の扱いで、麻理さんと千晶が言い争っていた事は思い出したくもないが。
麻理「一緒に暮らしているんだし、助け合いよ。それに北原も仕事が今の生活に慣れるのに四苦八苦しているじゃない。わざわざ別々に洗濯するとなると時間も倍以上かかってしまうわ。しかも白いものと色ものを分けて洗うとなるとさらに時間がかかるわけだし。別に水道料金とか電気代を気にしているわけではないのよ」
春希「その辺の料金の無駄遣いは再考すべき点ですが、資源の無駄遣いでもありますよね。それに、麻理さんが指摘したように、時間的デメリットはたしかにいたいです」
麻理「でしょう」
俺に姉はいないが、もし姉がいたらこんなふうに言いくるめられてしまうのではないかと思ってしまう。両手を腰に当て、自分の主張が正しいと胸を張っていうその麻理さんの姿が、なんだか微笑ましくて、俺は諭されている最中だというのに喜びが沸きあがってきてしまった。
春希「そうですね」
麻理「北原?」
春希「いえ、なんでもないです。……俺も少し神経質になってたかなって思いまして」
やばかった。姉に怒られて喜んでるって気がつかれなくてよかった。そんな性癖ないはずだけれど。
麻理「そう? じゃあ、洗濯は私が当番でいいわね」
春希「はい、お願いします。ではお風呂場は今まで交代で掃除していましたが、これからは俺が掃除当番という事でいいですね?」
麻理「それはかまわないけど、北原は料理もしてくれているし、お風呂掃除は今まで通りに交代制で構わないわよ」
春希「いえ、麻理さんも料理手伝ってくれるじゃないですか」
麻理「手伝っているというよりは邪魔をしている気がするのよね」
春希「そんなことはないですよ。最初の頃よりは動きがスムーズになってきましたし、俺も似たようなものですよ」
麻理「でも、しっかりと料理が板についてきたじゃない」
春希「それは麻理さんよりも長く経験を積んできたからにすぎませんよ」
麻理「でも、今は邪魔している部分も多いわけだから、やっぱりお風呂掃除は私がやるわ。でも、私の料理の腕が上がったとしたら、そうしたらその時お風呂掃除の当番を考えましょう」
春希「わかりました」
きっとその頃に事態が変わってお風呂掃除の当番再考なんて忘れてはいるんだろうけど、俺はこの先も麻理さんの勢いに負け続けているのだろうという事だけは確信できた。
別に嫌だってわけではない。むしろ負ける事にすがすがしささえ感じている。
それが将来麻理さんを傷つける時限爆弾になろうと、俺達は見ないふりを演じ続けていた。
9月上旬 かずさ
春希の側にいられないのは寂いしいけど、やっぱ一日中ピアノに向かっていられるこの環境だけは母さんに感謝している。もちろん母さんには言わないけど。
まあ、あれだな。今なら母さんが一人海外で頑張ってきた心情も、そして高校生になるあたしを一人残して海外に出て行ったことさえも、ほんのちょっとだけだけど理解できるかもしれない。
ほんのちょっと、ほんのわずかだけだけど、理解できてしまう。
それがいい傾向なのか、それとも人生踏み外しているかはわからない。きっとピアニストとしては正しいのだろうし、一般の人からすれば、そう、日本にいるであろう彼女みたいな普通に高校生やって、大学でのびのび頑張って、そして就職して家庭を作っていく、いわゆるまっとうな人生を望むのならば、あたしが選んだ道は間違っているのだろう。
もちろんピアニストであってもまっとうな性格の持ち主もいる。
けどやっぱ、母さんと似たような臭いがする彼ら彼女らを見ていると、どうしても普通とは思えなくなってしまっていた。
曜子「ねえ、かずさ」
かずさ「娘の部屋に入ってくるならノックくらいしたらどうだ」
いつものようにノックもせずに母さんがあたしの寝室に入ってくる。
別にやましい事をしているわけでも、なにか隠さなければならないものなんてないからいいんだけど、それでもやっぱ年頃の娘でもあるわけで、そこんとこわかっててやってるんだからかなわない。
曜子「あら? ノックしたわよ」
かずさ「聞こえなかったけどな」
曜子「ノックしたわよ。あなたと暮らし始めたばかりのころはね」
かずさ「だったらその習慣を今も続けて欲しかったものだな」
曜子「あらぁ? でもね、あなたが返事しなかったのよ。私がノックしても一度として返事をした事がなかったじゃない」
かずさ「当然だろ?」
あたしの切り返しに母さんは目を丸くする。本当にわかってないのかもしれないって、娘として本当にこの母親の常識を疑ってしまった。
……社長に常識を求めるのはよしなさいって美代子さんが真顔を言ってたけど、うん、まあ、やっぱあたしの母親なんだなって納得してしまうのはやばい傾向かもしれなかった。
曜子「どうして?」
かずさ「だってノックじゃなくて「入るわよ」って呼びかけながらドアを開けていたじゃないか。たしかに呼びかけるのもノックのうちかもしれないよ。でも、そのノックであっても、あたしの返事を待ってからドアを開けるものじゃないのか」
曜子「細かい事はいいじゃない。ただでさえ親子のスキンシップが少ないのに、部屋までこうして会いに来ただけでも喜んでもらいたいものね」
あたしが何を言っても言いかえしてくるんだよな。あたしもあたしでむきになってしまうところがあるのも悪いけど、それでも母親だったら娘に折れてくれてもいいじゃないか。それこそ良好なスキンシップの一部じゃないのかよ。
かずさ「わかった。わかったよ。……で、何の用?」
ここは大人のあたしが折れるべきだな。だって、面倒だし。
曜子「ん? えっと、……そうそう。ニューヨーク行きの事よ」
かずさ「ああ、あれね。そろそろホテルの予約取ろうと思ってたんだ。あと練習の為のスタジオも借りようと思ってるんだけど、どこかいいとこ知らない? ホテルはどうにかなりそうなんでけど、さすがに練習スタジオの方はなかなか探せなくてさ」
曜子「あなた、今頃になってホテルと練習用のスタジオを探しているの?」
かずさ「そうだけど?」
今まで大人の対応をとってきたあたしであってもさすがに母さんの馬鹿にしたような、呆れたような、……いや、百パーセントあたしのことを馬鹿にしているし、呆れてもいる顔をみて、あたしの理性はあと少しで吹き飛びそうのなってしまう。
きっとあたしの目はつり上がり、高校の教室だったらたった一人を除いてけっしてあたしに近づく事もない雰囲気を醸し出しているっていうのに、この母親は……。
どうして人の怒りに無頓着なんだよ。
曜子「もう9月よ9月。そしてコンクールは10月よ。わかってるの、かずさ?」
かずさ「わかっているから一カ月も前に予約しようとしているんじゃないか」
あたしの優等生的発言に、あろうことか母さんはため息で返事を返してくる。
ぴくりとあたしのこめかみが震えたのはこの際無視だ。怒ったら負け。この人に常識はないんだから、あたしがしっかりしないと。
曜子「あなた大丈夫? ほんっとピアノ以外は全く駄目ね」
かずさ「どういうことだよ?」
曜子「いくら来年のジェバンニの前哨戦の位置づけになっている腕試しのコンクールといっても、みんなジェバンニにあわせて練習してきているのよ」
かずさ「わかってるよ、そんなこと」
曜子「わかってないわ。わかってないから練習場の確保もできていないんじゃない」
かずさ「どういう意味?」
曜子「みんな本気だってことよ。いくら本番が来年のジェバンニだろうと、ここで好成績を残せないようなら来年も駄目って事よ。だからみんな必至だし、練習場の確保だってしっかりと準備をしているの。あなたみたいに直前になって探し出すなんてありえないわ」
かずさ「えっと、そのさ」
曜子「なに?」
かずさ「ううん、なんでもない」
さすがのあたしも母さんのいっていることがわかってくる。別に母さんはあたしを馬鹿にしていたわけではなかった。
馬鹿だったのは、もしかしてたあたし、なのかもしれない。
だって、母さんのいう通りピアノ以外はてんで駄目で。
曜子「しかもニューヨークよ。あなたニューヨークに詳しいわけでも、ましてや現地でサポートしてくれる親しい人がいるわけでもないのでしょ。まあ、ウィーンでも引きこもりのあなたに手を貸してくれる人なんてフリューゲル先生くらいかしらね」
母さんが言ってる事は、ほんとうに悔しいけど、正しい。ピアノに関しては妥協しない人だ。
あたしもピアノに関しては最大限この人を尊敬しているし、目標にもしている。
でもあたしは、この人を追いかけるためのスタート地点にさえたてていないって実感させられてしまう。
いくらピアノがうまくても、それだけで母さんが今の地位を築き上げたわけではない。
ウィーンに来て、むりやり母さんのコンサートの事前準備に連れて行かれた時は途中で逃げ出そうとさえ思っていた。
だって会議を見ていても理解できないし、まあピアノに関してならわかるけど、でも、スポンサーやら演出なんてものはさっぱりだ。でも、何度も連れられて行くうちに、ピアノのコンサートは一人では成功させられないってわかってしまった。
そういやこんな事も言ってたっけ。
曜子「演奏家はパトロンとまではいかないまでも、自分をサポートしてくれる人や企業がいなければ演奏さえさせてもらえないのよ。突き抜けた才能があればいいって思うかもしれないけど、その才能も、その才能を買ってくれる人がいなければ成功しないわ。だって、その才能で買い手の心を動かさなければいけないのよ。それはもちろんお金がからんでくるけど、無愛想な態度をとっていたらせっかくの演奏も駄目になってしまうわよ。まあ、ね。演奏家は一応どこでも演奏できる分いいかもしれわね。この前私のスポンサーになってくれてる企業の人と話していたんだけど、F1? あの車の」
かずさ「モナコに行った時の?」
曜子「そうそう。クルーザーでF1観戦できるっていうから行ってみたけど、つまらなかったわよね。ちょこっとしか見えないし」
かずさ「母さんは途中で飽きちゃって話に夢中だったじゃないか。たしかF1よりもカジノに夢中だった気がするけど」
曜子「そうそう。カジノね。……まあカジノは楽しかったけど、あの見ていてもつまらないF1? あのドライバーになる為に億単位の、しかも二桁の億の持参金がいるんだって。笑えちゃうわよね」
かずさ「でも、トップドライバーはそうでもないんだろ?」
曜子「そうらしいわね。でも、ほとんどが持参金しょってくるそうよ。……ねえ、かずさ。わかる?」
かずさ「なにがだよ」
曜子「私は自動車レースのことなんてからっきしわからない。きっと私が馬鹿にしているF1も、仮にも世界最高峰のレースらしいから、そのレースに出場しているドライバーも突き抜けた才能をもっているのでしょうね。でも、この持参金をもってくるドライバーが多いって事はね、お金がないけど突き抜けた才能を持ったドライバーもF1には出場できないけどたくさんいるってことだとは思わない?」
かずさ「かもしれないけど、あたしは……」
曜子「これだけは覚えておいてちょうだいね、かずさ。あなたは、今は、ピアノだけに打ち込んでいていいわ。むしろピアノだけをみていなさい。でも、ピアノで成功する為にはあなたをサポートしてくれる人がいなければ成功しないという事を忘れないで頂戴ね」
あまかった。今頃になって思い出す事じゃない。
あたしの理解できることなんて子供じみた小さな理解だ。
でも、あたしがピアノだけを弾いていればコンサートが成功するなんて事は絶対にないってことだけは理解できた。
だから今回のコンクールも、実際ピアノの良しあしで判断されるとしても、コンクール前の準備も今後行われるコンサートと同じように事前準備が重要だったんだ。だからこそ母さんはあたしにそれを強く指摘してきたんだ。
母さんの口調がいつも通りすぎて、あたしはついはむかってしまったけど。
かずさ「ねえ、母さん」
曜子「なにかしら?」
かずさ「お願いします。今度のコンクール、絶対に勝ちたいんだ。だからあたしのサポートをしてください」
あたしはベッドの上から立ち上がり、頭を深々と下げる。
この人にお願いしたことなんてない。いつも勝手に与えられるだけで、くれないものはないものだと考えていた。
それが当然だと思っていた。
だけど、それじゃあ駄目なんだ。このままでは春希に会わせる顔がない。
曜子「そう……。勝ちたいのね?」
かずさ「ああ、絶対に勝つ」
頭をあげたその先には、心の奥まで射抜く母さんの瞳があたしを覗き込んでくる。
勝気で、負けず嫌いで、自由奔放で、他人に迷惑を笑って投げつけてくるようなどうしようもない人だけれど、ピアノだけには真摯な人。
だからあたしもピアノに関しては正直でいたい。
曜子「わかったわ」
かずさ「うん、ありがと」
曜子「10月のコンクール勝ちに行くわよ。ここで1位をとれないくらいでは来年の本番で上位に食い込む事さえ難しいわ」
かずさ「当然だ」
曜子「いい顔ね。私が全面的にあなたのサポートをしてあげる。でも、私が手を貸すんだから来年の本番でも勝ちに行くわよ」
かずさ「わかってるよ。約束だもんな」
曜子「ええそうね。彼と私たちとの約束だものね」
かずさ「うん」
曜子「ということで、さっき美代ちゃんから飛行機のチケットとかホテル? あと、練習スタジオとかの詳しい予定が送られてきたからここにおいておくわね。一応ホテルの近くのスタジオをコンクールが終わるまで全て抑えておいたからいつでも弾けるわよ」
かずさ「え? え、えぇ~……。か、母さんっ」
曜子「じゃあ明日からの練習も頑張りなさい。来年のコンクールには春希君も招待できるといいわね」
かずさ「ちょっと母さん? 待って、待ってよ」
母さんはあたしの呼びかけなど聞こえないふりをして寝室から出ていってしまう。
あたしは追いかける気力さえ尽き、そのまま床に座り込んでしまった。
くそっ。絶対最初からすべてわかっててはっぱをかけてきたな。別に気を抜いているわけでもないけど、……くそっ。
ここまでやってくれたのなら、絶対に1位をとらないといけないじゃないか。もちろん1位をとる予定だってけど、……くそっ、腹が立つっ。
でも……今だけだ。今だけはあんたの手のひらで踊ってやる。
でもさ、母さん。あたしは母さんみたいに社交的でもないし、人づきあいもうまくはないよ。
でもね、ピアノの腕だけは母さんの横に並べるようになってみせるよ。
9月上旬 春希
春希「大丈夫なんですね?」
麻理「ええ、吐き気もおさまっているし大丈夫よ」
俺は携帯電話から聞こえてくる麻理さんの声に神経をとがらせていた。
麻理さんは普段は俺を頼ってくれるのに、どうしていつも以上に悪くなった病状に関しては隠そうとするんだよ。俺はその為にニューヨークまできたというのに。
たしかに俺が原因だってわかってはいる。でも、一緒に暮らしだしてお互いのみっともないところも知っていったのだから、一番肝心の病状だって共有したいじゃないですか。
だから俺は麻理さんの些細な変化さえも逃すまいとその声に意識を集中させていった。
春希「本当でしょうね?」
麻理「本当よ。病気に関しては嘘はつかないわ」
でも、本当の事を言ってくれない時もありますよね。
春希「でも、いくら体調が戻ってきたとしても、最近調子悪いじゃないですか」
麻理「体調を一度崩して、それを挽回しようとしてバランスを崩したのが悪かったのかもしれないわね。無理をしたつもりはないけど、それでもいつものバランスではないと体が無理をしてしまうのでしょうね」
春希「そうかもしれませんね。だから今日はもう家に戻って休んでください」
麻理「わかってるわ。今日は元々取材後はそのまま帰宅してもいいようにはしてあったし」
春希「そうだったんですか?」
麻理「本当は一度編集部に戻って北原とスーパーに寄ってから帰ろうと思ってはいたのよね。でも仕方ないわね」
春希「じゃあ一緒に帰りますか?」
麻理「え? こっちに来てるのかしら?」
まあ映画とか小説だったら、ここでヒロインの前に現れるんだろうけど、あいにくここには北原春希しかしないんですよね。
春希「いえ、まだ編集部ですけど、俺に割り振られていた分が終わってますから」
ほんとうは麻理さんが無理をしないように編集部に戻ってきた麻理さんを家に連れ帰る為だとは言えませんけどね。ただ、そんな小細工さえも俺をよく見ている麻理さんが気がついてしまうんだろうな。
でもね、麻理さん。麻理さんが俺を見ているように、俺も麻理さんを見ているんですよ。
だから、俺の事を思うのならば、無理はしないでくださいよ。
麻理「そうなの? だったらみんなには悪いけど、今日の残業はなしにしましょうか」
春希「残業することが当たり前というのはどうかとは思いますけど」
麻理「いつも頑張っているわけだし、今日くらいいいじゃない。疲れをしっかりとるのも仕事のうちよ」
春希「日本にいた時の麻理さんに言ってやりたい台詞ですね」
麻理「どういうことかしら?」
やや声色が低くなったのは故障だよな。ほら、バッテリー残量もだいぶ減ってきているし。
春希「いえ、まあ、そのですね。はい、すみませんでした」
麻理「いいのよ別に。実際私は仕事の疲れを仕事で癒していたんだし。でもね北原。私は仕事に追われていたわけではないのよ。好きでやっていたのだし」
春希「わかってますよ。私生活を全て捧げてまで仕事に取り組んでいた麻理さんのことを近くで見ていましたからね」
麻理「あら? なんだかそれだと私生活が破滅的だと聞こえるんだけど」
春希「事実そうじゃないですか」
麻理「……そ、そうだけど、でも……北原にだけは言われたくないわね」
コロコロと変わるその声色に、俺は安堵感を抱いていく。
最初電話がかかったときは心底つらそうであった。それが今はやや拗ねているけれど、明るくなっている事に俺は救いを感じられた。
春希「たしかに俺も似たような生活していますからお互い様ですね」
麻理「そうね」
春希「では、なるべく急いで行きますので、いつものスーパーの前で待ち合わせでいいですか?」
麻理「ええ、それで構わないわ」
春希「それではまたあとで」
麻理「私のことなんて気にしないでしっかり仕事をしてくるのよ」
春希「わかってますよ」
麻理「なら、よし」
俺は麻理さんが電話を切るのを確認すると、帰宅する準備に取り掛かる。でも、一応終わってはいるけど最後の見直しくらいはしておくか。
これでミスなんてあったら明日麻理さんに何を言われるかわかったものじゃあない。
……そうじゃないか。麻理さんに気を使われてしまうのが怖いだな。今でも俺に負い目を感じている麻理さんに、さらなるプレッシャーなんてかけさえるわけにはいかない。だから俺は麻理さんの要求以上の結果を出さないといけないんだ。
ほどなくして仕事を終えた俺は早足で編集部を出ていこうとする。
しかし、ビルを出ようとした時同僚が俺を呼ぶ声に俺は脚を止めた。
編集部員「ねえ北原。風岡さん知らない? ここのところを聞きたいんだけど」
春希「風岡ですか? 今外に出ていて、そのまま帰るそうですよ」
編集部「明日の取材の事なんだけど、ちょっとわからないところがあるんだよね」
春希「……ああ、それですね。自分が風岡から任されているやつですから自分でもわかると思いますよ」
編集部員「そう? だったら北原に聞こうかしら」
春希「でもその資料は編集部にはありませんから、直接行ったほうが早いですよ。幸いすぐそばですし、今から行って資料を貰って来ましょうか?」
編集部「悪い。じゃあさっそく行こうか」
春希「ええ」
少し時間がかかりそうだけど、このくらいなら問題ないかな。
……と、甘い見積もりが失敗だった。今手にしている資料は昨年の物で、どうやら今年の資料ではないと問題が発生するらしい。
これがデータを読みだせば済むだけの話なら簡単だったのに、その資料がまとめられていないのが最大の誤算だ。
だから俺が追加の仕事を終えて駆け足で出たのは、麻理さんの電話を切ってから3時間ほどたってからであった。
俺は全速力で駅に走り込む。途中通行人にぶつかりそうになった事数回。駅の改札口で駅員に止められそうになった事一回。……まあ、犯罪に巻き込まれているわけではないので、実際には止められなかったけど。
とりあえず遅れている事を麻理さんにメールしておかないとな。これだったら出る前に連絡しておくんだった。いや、本来なら追加の仕事が来た時に連絡すべきだったのに、麻理さんとの会話に浮かれて連絡を忘れてしまったのは俺のミスだ。
いつもの俺だったらしなくてもいいほど過保護に連絡を取り合うのに、今日に限っては麻理さんの復調に安堵しきっていた。
悪い時は悪い事が重なるわけで、俺の携帯のバッテリーは底をつき、画面さえつかないでいた。
ほんと社会人失格だな。いつでも連絡をとれるようにしておくのが社会人の基本なのに、どうして俺は肝心な所で大きなミスをするんだよ。
そうだっ。公衆電話があったな。
虚しいひらめきに俺は公衆電話を探し始める。まだ電車はこないようだし、ちょっと電話をするくらいの時間ならあるはずだ。
それに、ここは公共の駅だ。今は携帯電話が公衆電話の役割を根こそぎ奪い取った社会であっても、公衆電話の必要性は消滅してはいない。
しかし、期待の公衆電話を見つけた瞬間俺は現実を突き付けられる。
どうやって電話すればいいんだよ。麻理さんのアドレスは携帯のメモリーにしかないじゃないか。くそっ。せめて肝心のアドレスさえ覚えていれば。俺が覚えているアドレスなんて二つしかない。自分のアドレスと、それと、ウィーンにいるであろう電話をかける事もないあいつのアドレス。
何度も電話しようとして踏みとどまるうちに、画面に表示されるナンバーを俺は覚えてしまった。その印象は自分のアドレス以上に鮮明なほどだ。
だから俺は期待の公衆電話の前で電車を待つしかやることが見つからなかった。
そして、電車がホームに滑り込んできて電車に乗っても、俺の不安は解消される事はなかった。いくら自分の足で走るより早く目的地につくはずの電車であろうと、俺は自分の力ではこれ以上早く進む事が出来ないことに馬鹿な憤りを感じてしまう。
今自分ができることなんてなにもないって突き付けられるようで、俺は自分の無力さを感じずにはいられなかった。
駅の改札口を今回も駅員に止められることなく通過し、息を乱しながら俺は約束の場所へと駆け進む。
普段運動しない事がこんなところで露呈するなんて。これだったら気分転換と体力向上のために麻理さんとスポーツジムにでも通うか。
なんて、酸欠状態の俺は今考える必要がない事ばかり考えてしまう。
つまり、俺の本能が考える事を拒絶しているようだ。
俺の今一番考えるべき事。
そして今一番知りたくない事実。
それは、連絡も一切せずに3時間以上も待たせている麻理さんが、今どんな気持ちで待っているかってことだ。
春希「麻理さんっ」
俺に背をむけたたずむその姿は、後ろ姿であっても間違えることなんてありはしない。毎日のように眺めてきたその後ろ姿を俺が見間違えることなんてないのだから。
しかし俺の声は届いていないようで、振り返るどころか反応さえ見せてはくれなかった。
春希「麻理さんっ。遅れてすみません」
もう一度走りつかれてわずかしか残っていない肺の空気を力の限り吐き出す。
すると、今度こそ俺の声が届いてくれたようで、麻理さんの肩が揺れ、そしてゆっくりと俺の方へと振りかえってくれた。
春希「はぁはぁ、あぁっ、はあ……」
ようやくたどり着いた。
俺の方へと振りかえってくれるその横顔で麻理さんである事を確認した俺は、重くなった両足に最後の激を叩きこんで走りきる。
たどり着いたのはよかったのだが、いかんせ運動不足であったことがたたり、俺の限り少ない体力はここで底をついた。
春希「す、すみません。……はぁっ、はぁ。連絡入れなくて、……すみません。はぁ……。何があるかわかりませんから、……はぁ……運動しておかないといけませんね」
大学にはいってますます運動しなくなった俺の体力は、軽音楽同好会たる運動とは無縁の活動をしていたときよりも低下しており、なかなか息が整わない。
それでも麻理さんに伝えたい言葉が溢れ出て、息が続くわけもないのにしゃべろうとして失敗を繰り返した。
春希「はぁ、はぁぁ~……。もう少しだけ待ってください。もうちょっとで息が整いますから」
ようやく息が整ってきた俺は、脳の方にもどうにか酸素を供給できるようになったわけで、今さらながら事の異常さに気が付いてくる。
麻理、さん?
そう、異常だった。何が異常か。そんなの簡単だ。
目の前にいるはずの麻理さんが、一言も言葉を発していない。たしかに麻理さんは目の前にいる。頭を下げて息を整えていた為に顔は見えてはいないが、麻理さんの靴なら確認できる。この革靴は麻理さんのものだ。
今はいている革靴は今朝も玄関にあったのだから見間違えるはずもないし、この細く引き締まった脚を包み込んでいる黒いストッキングもあわされば、俺が見間違えるはずはなかった。
春希「麻理さん?」
俺は答え合わせをするべく、ゆっくりと顔をあげていく。
その顔をあげるスピードがぎこちなく動いていくのは、おそらく俺が答えを知りたくはなかったからかもしれない。だって、俺が知っている麻理さんなら、怒りはしないだろうが、注意と走ってきた事をねぎらう言葉をくれたいるはずだ。
それなのに今俺の前にいる麻理さんであろう人物は、俺に一言も声をかけてはくれなかった。
春希「麻理……さ、ん。麻理さんっ、麻理さん」
俺の声と顔を確認したはずの麻理さんは、俺がいる事を非常に遅い速度で認識していく。
青ざめていた顔色はほんの少しだけ熱を取り戻す。けれど、宙をさまよっていたその瞳は、生気を取り戻した瞬間にその役割を思いだしたようで、機能停止していた分も合わせて涙を大量に流しだした。
春希「連絡を忘れていてすみませんでした。……麻理さん? 麻理さんっ」
麻理「ぁ……あ、ぁっ」
春希「遅れてすみません」
麻理「…………北原っ!」
俺の心を突き抜けたその声は、脳が認識するよりも早く俺の体が麻理さんの体を認識する。
体当たりにも近い勢いで俺を抱きしめてくるその力に、俺はようやく麻理さんの元にたどり着いたと実感した。
春希「帰る直前に新たな仕事が入ってきたのはいいのですが、思っていたより時間がかかってしまい、麻理さんに連絡するのさえ忘れていました。ほんと、ごめんなさい」
麻理「北原」
春希「しかも、連絡をしていないことに気がついて電話しようにも携帯のバッテリーが切れていました。社会人失格ですね」
麻理「北原」
春希「さらに酷い事に、公衆電話で電話しようにも、麻理さんのアドレスがわからなかったんです。あと、今になって気がついたのですが、麻理さんの名刺、俺、もらったことないですよね。今度貰ってもいいですか? そうすれば携帯のバッテリーが切れていても連絡できるじゃないですか」
麻理「は……ぅき」
春希「でも、やっぱなにが起こるかわからないですから、あとで携帯充電したら麻理さんのアドレス暗記しますね。そうすればいつでも公衆電話で電話できるじゃないですか」
麻理「はるきぃ」
さっきから麻理さんは俺の言葉を聞いても俺の名前しか返してはくれない。でも、俺の胸にこすりつけてくるその頬から、俺の言葉を理解しているってことだけは汲み取れた。
麻理さんが示してくれる反応は、俺の名前を呼ぶ声、胸にすがりついてくる事、そして、すすり泣く声、だった。この三つの情報から麻理さんの状態を汲み取るなんて高等技術も恋愛経験もない俺は、効果が見込めなくても喋り続ける事しかできなかった。
春希「ほんと社会人失格ですね。いつでも連絡をとれるようにしておかないといけないのに。いや、その前に連絡を忘れたほうがもっと酷いですね。……、麻理さん?」
喋るに夢中になっていた俺は、いつの間にかに胸に頬をこすりつけているのをやめ、顔をあげて俺の顔を見つめている事に気がつくのが遅れてしまう。
俺を縛りつける弱々しい瞳は、俺の瞳を捉えて離さない。俺の方も吸い寄せられるように目をそらす事が出来なかった。
春希「ま、り……あっ」
それは一瞬だった。
避けることなどできなかったし、もしわかっていたとしても、避けていたかも疑わしかった。
つまりは、俺は受け入れてしまったのだろう。ついに、受け入れてしまった。受け入れたかった。
否定などしたくなかった。肯定したかった。
誰もが否定するであろう俺達を、肯定したかった。
……俺と、そして麻理さんが、必ず否定しなくてはならなくなる関係を、一瞬だけでも肯定したかった。
刹那的衝動と冷酷な理性が俺達を現世に押しとどめる。これは間違っている。けれど、今は正しいと思いたい関係に、俺は麻理さんの小さな頭と細い腰を引き寄せて、その唇にこたえた。
麻理「あっ、はる、き。……んぅ、だ、め」
俺の目にうつる瞳に理性が戻り始める。見開いたその瞳は、自分が何をして、俺に何を求めたかを瞬時に理解していく。
きっと、今になって麻理さんのほうからキスをしてきたことに気がついたのだろう。
でも、そのキスにこたえて抱きしめて、さらなるキスを求めたのは俺の方で、現に逃げようとしている麻理さんを強く抱きしめて逃げられないようにしているのは俺の方だった。
荒々しく麻理さんを求めてしまった為に麻理さんの髪止めがこぼれ落ち、艶やかな黒髪が流れ落ちる。俺はその黒髪をすくうように指に絡ませ、さらに体を密着させていった。
麻理「ん、んん。……だ、……ま、だって。あっ」
言葉はいらないというか、なにも浮かばなかった。熱にやられた俺には思考などありはしない。ただ、本能だけが唇をむさばり、その優美な体を記憶していく。
麻理さんも本能に観念してたのか、もう逃げようとはしなかった。
そして、俺の事を受け入れてくれた証として、俺の背中にまわされている腕に力が込められた。
気がつけばあたりはすっかり暗くなっており、麻理さん一人を外に待たせていた事に今さらながら不安を覚える。そもそも俺が来た時には夜だったわけで、改めて自分が時間を忘れていた事に気がつく。
せめてもの救いだったのは、比較的治安がいい地域でする事と、人通りが絶えない場所であることくらいか。これが日本だったら治安なんて気にもしないが、良くも悪くも自分がすっかりニューヨークになじんでいると感じられた。
麻理「北原……」
俺の腕の中でもぞもぞ動く頭がひょこりと顔をあげ俺を見つめてくる。
麻理さんとどのくらいの間キスしたかわからない。胸の中に押し込んでいたお互いの感情を全て吐き出してもなお収まらない衝動は、再度俺から時間の概念を消し去ってしまっていた。
とはいうものの、麻理さんの腰にまわしている左腕をほんのちょこっとあげて腕時計を確認すればだいたいの時間がわかるんだけど。……なんて、わざとらしく理屈ばかり考えて、俺は感情を押しとどめようとやっきであった。
そうしないと、麻理さんの気持ちを無視して再度キスしてしまいそうであった。
麻理「きたは…………春希?」
春希「あっ、ええと、はい。聞いていますよ。……その、なんでしょうか? じゃないですよね」
麻理「もう……、さっきまでのぐいぐい私を引っ張っていく力強い春希はどこにいったのかしら? そんなにうろたえられちゃうと、年下の男に無理やり迫っている結婚に焦った年増女の気分になっちゃうじゃない」
春希「…………」
麻理「ごめんなさい。調子に乗りすぎたわ」
麻理さんは俺の沈黙をネガティブに解釈してしまう。麻理さんの性格から考えても、自分を責めるに決まっているはずのなのに、俺は言葉を選んでしまった。
麻理さんを傷つけない為に言葉を選んでいたのに、その沈黙が逆効果を生んでしまう。
わずかな間だけれど、その数秒間が麻理さんは拒絶と考えてしまう。
勢いでキスしたなんて言いたくはない。もちろんその場の雰囲気にのまれて、勢いでしていた部分もあることは事実だ。でも、そんなありふれた言葉を俺達を評価したくはなかった。
麻理さんの気持ちを、これからの二人の関係を大切にしたかった。
春希「違いますっ。違いますから。麻理さんの事をそんなふうに思ったことなんて一度もありませんから。いつも年の事を気にしていますけど、むしろ俺の方がプレッシャーに思っているほどなんですよ」
麻理「どうしてよ? 気休めならやめて欲しいわ。だって……」
若くて、健気で、夢に向かって頑張っていて、ちょっと棘があるけど一途なあいつと比べてしまうからですか?
春希「麻理さんは自分の魅力を知るべきです」
麻理「え?」
春希「仕事をしているときの麻理さんを尊敬している人は多いと思います。俺もその一人ですし。でも、麻理さんの容姿も、そして内面さえも魅力に思っている人はいるんですよ。そもそも仕事の時の頼もしさはプライベートにも通ずるところもありますよ。仕事ではかっこいい麻理さんんが、凛々しい顔をしている麻理さんが、家ではちょっとずれているところがあったり、仕事中に見せる頑張りで家事をチャレンジしたり、……あとは、綺麗すぎるんですよ。わかっていますか。外で仕事のとき、麻理さんを食事に誘おうとしている男連中がたくさんいるの知っていますか?」
麻理「春希? ……でも、私、誘われたことないけど?」
春希「そりゃそうですよ。麻理さんは仕事しか見ていませんからね。食事に誘う隙さえありませんよ」
麻理「だったら可愛げのない女だと思われるんじゃ?」
春希「そう思ってしまう人もいるでしょうけど、実際は違うじゃないですか」
なんで腹が立っているんだよ俺? なに力説しているんだ?
あっ……。
麻理さんは恥ずかしそうに視線を視線をちょっとだけそらすと、照れくさそうに恥じる顔を隠すべく再び俺の胸に埋めてくる。
麻理「うん、わかったわ」
春希「……はい」
麻理「これからも食事に誘われないように仕事頑張るわ」
春希「えっと……はい、よろしくお願いします。それとさっき、すぐに言葉がでなかったことでうけど」
麻理「うん……」
春希「麻理さんを拒絶なんてしませんし、むしろ俺の方が調子に乗っていた気もしますし。えっと、すみません。言葉を慎重に選んでいたら何も言えなくなりました。けど、これだけははっきりしています。後悔していません。いや、違うな。麻理さんとキスしたかったんです」
麻理「それって……。浮気したかったってこと?」
春希「あっ……」
麻理さんの指摘は間違ってはいない。俺がかずさを必ず選ぶ以上、麻理さんとの関係は必然的に浮気となってしまう。
麻理「いいのよ。ほんの少しの間だけでも愛してくれればいいの。私が春希の側にいなくても生きていけるまでの、ほんのちょっとの間だけ。それだけでいいから。……ね?」
顎をあげ、肩にかかる黒髪が揺れ動く。ゆらゆらと揺れ動いていたその瞳は、俺の瞳を覗きこむ頃には迷いが消えていた。物悲しそうにほほ笑む唇は、けっして本心を語ろうとはしなかった。
だって、俺の腰にまわされている両手は、震えながらも必死に俺にしがみついているのだから。
春希「麻理さん聞いてください」
俺は腰にまわされていた麻理さんの両手を胸の前に持ってくると、両手で包み込むように暖める。俺の強引な行為に最初こそ戸惑いを見せていたが、俺の体温を感じ取ると、手の震えが消えていく。
それと同時に、俺の方も言葉にできなかった言葉を告げる決意を抱いた。
春希「これから調子がいい事を言うと思います。きっと呆れられると思いますし、かずさにも、麻理さんにも不誠実だと思います」
麻理「冬馬さんにも?」
春希「俺はかずさが好きです。できることなら結婚して、かずさのサポートもしていきたい」
麻理「そうね……」
下を向かないでください。俺の身勝手な希望だけど……、それでも。
春希「でも、麻理さんにも幸せになってもらいたい。都合がいい事をいいますけど、できる事なら俺が幸せにしてあげたい。なんて、バイトでちょっと仕事を覚えた新人が何を言ってるんだって言われそうですけど、それでも麻理さんの幸せを考えたいんです」
麻理「身勝手な人ね」
否定の言葉のはずなのに、俺は喜びを感じてしまう。
だって、麻理さんが上を向いてくれている。
だって、俺を見つめてくれている。
春希「はい、身勝手です」
麻理「でも、少し考えさせて……」
幻でも見ていたのだろうか。
俺を見つめていてくれた瞳はふせられ、今はその顔さえも髪留めを失った黒髪によって覆われていた。
だけど、手から伝わってくる麻理さんの体温だけが幻ではなかったと、語りかけてくれていた。
麻理「春希…………、ごめんなさい。私の看病なんてしなくていいから編集部に行きなさい」
春希「何を言ってるんですか。編集部のみんなも麻理さんが頑張りすぎだってわかっているんですよ。俺も最初麻理さんから仕事の量を減らしてしっかり休んでいるって聞いたときは驚きましたよ。体調の事もありますから、周りに迷惑をかけないように仕事をセーブしているんだって思いました。でも、実際には違いましたよね。俺がニューヨークで働くようになったらばれるって気がつかなかったんですか」
麻理「でも、ちゃんと土日は休んでいるじゃない。……土曜日は自宅で仕事をしているけど」
春希「しかも、編集部での仕事は日本以上に濃密になっていますよね?」
麻理「それは、仕事のスキルが上がったと思ってくれれば、いいかなぁ……」
春希「だったら目をそらさないで言って下さい」
麻理「ごめんなさい」
春希「ったく……」
麻理「うぅ……」
俺と麻理さんのある意味微笑ましいやり取りが行われいているのは、本来なら編集部でがつがつと仕事にとりかかっているべき昼下がり。一部の編集部員は昼食後の眠気がピークになるこの時間。俺達は編集部という戦場を離れ、自宅マンションの、しかも麻理さんの寝室で微笑ましすぎるやり取りを、何度となく繰り返していた。
春希「俺は編集部員全員の委託を受けて麻理さんの看病をしているんです」
麻理「それはわかっているのよ。ありがたいことだわ。でも、私だけでなく春希までも急に抜けたら、仕事に支障が出るじゃない」
春希「それも大丈夫ですよ。短い期間だけですけど、麻理さんが鍛えてきた編集部員ですよ。信頼してあげて下さい」
麻理「そうよね。そっか……」
春希「今はしっかりと体調を回復させる事が一番大事です」
麻理「うぅ……わかったわ。春希がいじめるぅ。見た目どおりねちっこくて意地悪だよね、春希って」
春希「麻理さんの為ですから。そして俺を安心させると思って我慢してください」
麻理「やっぱり卑怯よ。もう……」
もう降参とばかりに熱っぽい顔を布団で隠す。
まあ、俺のせいで熱が上がったんだろうけど。
今日麻理さんの体調が悪いのは、昨日の事が原因だということは明白だった。
キスそのものが問題ではない。その過程が大問題だった。
小さな一歩を積み重ねてきた俺と麻理さんではあったが、その積み重ねが俺のミスで全て消え去ってしまった。麻理さんがひた隠しにしてきた渇望を俺が暴いてしまった。
わかってはいた。俺も武也がいうほど鈍感でもないし、麻理さんと一緒に暮らしてきたんだ。だからこそ麻理さんの想いを痛いほど理解できてしまう。
今朝いつもよりも早く起きて活動していた麻理さんは、きっと寝てはいなかったのだろう。昨日のお詫びだといって作ってくれた朝食も、麻理さんは一口も手をつけることができないでいた。
最初の一口こそ頑張ろうとはしていたが、心が食事を拒絶してしまう。二回目のチャレンジでは、スプーンを持ちあげる事さえできないでいた。そんな状態の麻理さんを前に、俺は今さらながら無力感のみならず、自分の存在そのものを呪ってしまった。
俺がいなければ。俺がいなければ麻理さんはこうはならなかった。でも俺は、麻理さんから離れることができない。麻理さんも俺を求めてくれている。
でも、俺も麻理さんも、矛盾する願いを永遠に求め彷徨うことしかできないでいた。
……これは麻理さんには言えない事だが、朝食の出来は最悪であった。味がわからなくってしまった麻理さんは、何度ともなく味付けを調整し、その結果塩分過多と表現するにはおぞましいほどの味の濃さになってしまった。
もちろん味覚が薄い事の対策として、調味料の量はきっちりと決められていた。しかし、そのレシピさえも忘れてしまうほど、麻理さんは正常ではなかった。
俺のポーカーフェイスがどこまで通じるかなんてわからない。一口食べる前から予想していたからこそ隠しとおせたのか、それとも麻理さんが黙っていただけなのか。
結局今現在まで真実を聞く事が出来ないでいた。
でも、今となっては、昨日からの失敗を含め、俺の目の前に一瞬で積み上がってしまった後悔が俺に重くのしかかっている。もうどれがどの行為からの失敗かだなんてわからない。
本来なら今後の為にも検証して修正すべきなのに、今俺にできることといえば、麻理さんの側にいる。ただそれしかできないでいた。
麻理さんが編集部を休んだ翌日。
いくら麻理さんの体調が戻らないからといって俺が看病する事は許されなかった。俺がインターン扱いであっても編集部の貴重な戦力として認められたのは嬉しい。
しかし今は麻理さんの事が心配で、俺としては今日も看病のために編集部を休みたかった。
麻理「駄目よ。甘えないの。これが社会人なのよ。親しい人が病気であっても簡単には休めないのよ。あなたは大学生であっても、今は開桜社の編集部員なの。だから編集部に行きなさい。……大丈夫よ。そんな目で見ないでよ。引き止めちゃうじゃない」
春希「すみません」
麻理「もお……、というか、私も甘いわよね。北原の顔を見ていたら、私の決意なんて吹き飛びそうになってしまうのだもの」
春希「だったら甘えてください。我儘を言って下さい。我儘を通した分、明日から挽回しますから」
麻理「駄目よ。仕事は待ってはくれないわ。一度失った信頼は取り戻せない事もあるのよ?」
春希「すみません。……編集部に行きます」
麻理「よろしい」
そんな笑顔を見せないでくださいよ。俺が必要じゃないって思えてしまいます……。
春希「……でも、出来る限り早く帰ってきますから。もちろん仕事はしっかりしてきます。自分の仕事は手を抜きませんから、それならいいですよね」
麻理「はぁ……。仕方がないわね。自分の仕事だけでなく、編集部の一員としての仕事をしっかりとしてくるのであれば早く帰って来てもいいわ」
嬉しそうに言わないでくださいよ。
時間ぎりぎりまで麻理さんと一緒に痛いという気持ちとの板挟みになってしまいますけど、今すぐにでも編集部に行って仕事をしたくなるじゃないですか。
春希「はい、出来る限り早く帰ってきます」
麻理「もう……、本当にわかっているの?」
春希「たぶん?」
麻理「いいわ、頑張って来てなさい」
春希「はい」
夜。いつもの俺としては早すぎる帰宅時間。一方で、俺の予定としては遅すぎる帰宅時間。
呼び鈴を鳴らし、玄関の扉を開けると、そこには麻理さんが出迎えてくれていた。たしかにマンションの入り口で呼び鈴を鳴らしてから部屋までかかる時間はそれなりにはあるけれど、何時間もそこで待っているような態度はいきすぎていません?
春希「……ただいま帰りました」
麻理「遅い」
俺に文句を言いつつも鞄を受け取る姿にときめくのは、やはり男の本能なのだろう。
また、鞄を胸に抱いてぱたぱたとリビングに戻っていく後ろ姿を見ては、もう一つの本能を抑えるのにやっとだった。
まあ、後ろから抱きしめても怒りはしないだろうけど。
春希「すみません。でも、エレベーターに時間がかかったわけでもありませんし、下からこの部屋までにかかる時間はこのくらいではないですかね」
麻理「早く帰ってくるって言ってたじゃない」
春希「え?」
麻理「だから北原は、仕事をしっかりやって、そしてなおかつ早く帰宅するって宣言してたじゃない」
春希「あっ……。でも、いつもよりだいぶ早いですよね?」
いつもみたいに深夜ってわけでもなく、今は午後7時くらいのはずだし。
俺が早く帰宅するのを見て、編集部の先輩方は驚きを見せたほどだ。でも、麻理さんの体調がすぐれない事を思い出すと、残っていた仕事を引き受けて……はくれなかった。一応俺に押し付けようとしていた仕事だけはひっこめてくれたけど。
……ほんと、ありがたい先輩方だよ。日本でもニューヨークでも編集部の雰囲気って変わらないものなんだよな。
麻理「そうかしら? 朝の北原の言いようでは定時に帰ってくる勢いだったじゃない。私が何も言わなければ早退する勢いだったわよ」
春希「たしかに……。でも、麻理さんは仕事は手を抜くなって」
麻理「……ごめんなさい。私の我儘だったわ。本当にごめんさない」
もうっ。そんなに悲しそうな顔をしないでくださいよ。そんな表情をするものだから、さっき我慢した本能が再び顔をあげちゃったじゃないですか。
本能に負けた俺は麻理さんの懺悔を覆い尽くそうと、小さく震える体を抱きしめようとする。
しかし……。
麻理「鞄はここにおいておくわね。ジャケット、脱いだ方がいいんじゃない? かけておくわ」
いかにも自然に、いかにもわざとらしく、俺を避ける。
春希「はい。ありがとうございます」
麻理「いいのよ」
春希「……あの、麻理さん」
麻理「ん?」
振り返らずにジャケットをかける姿にかまわず俺は言葉を続ける。
春希「これを……」
麻理「ちょっと待ってね。これかけちゃうから」
おかしすぎる。だって、俺を見てくれない。
麻理「それで、なに?」
春希「これを……。一昨日落としてなくしてしまったから」
麻理「髪留め?」
春希「はい。似合うといいのですが」
麻理「春希が選んでくれたの?」
春希「はい。何がいいのかわからなくて、時間がかかってしまいましたけど」
麻理「ばか。…………じゃない」
春希「え?」
麻理「春希が選んで選んでくれたのだったら、なんだって嬉しいって言ったのよ。それに、私の趣味のを選んでくれているわよね。よく観察しているわ」
春希「一緒に暮らしていますからね」
麻理「なるほど。一緒に暮していればいやでも趣味もわかるってところかしらね」
春希「嫌じゃないですよ。好きでやっている事ですから」
麻理「……そっかぁ」
春希「でも、気にいってくれてなによりです」
食事を準備するときも、食事をしているときでさえ窓に映る髪留めを確認する麻理さんに、俺も麻理さんも笑みを絶やさなかった。
この笑顔がいつまでも続けばいいと願ったのは、俺だけではなかったはずだ。
10月上旬
10月に入り秋風が頬を撫でる頃になると、9月の失敗もどうにか落ち着きを見せるようになっていた。
長年日本での残暑を経験してきた俺にとって初めてのニューヨークでの秋。季節の変わり目を実感できたのは、ようやく安定した日常を取り戻し、気持ちの余裕を持ち始めた頃であった。
先日の休暇は二人して秋服を買いに出かけ、遅ればせながら街の装いがすっかり秋であることを実感する。
雑誌の編集部ともなれば季節に敏感と思われがちだが、これは間違いである。おおよそ日常生活には季節感が乏しいエアコンの中での生活を余儀なくされ、……いや、これはどの職種でも同じか。
季節感というよりは今が昼か夜かの境がないってことのほうが問題か。ある意味ブラックすぎる職場環境に慣れてしまったことで、定時で終わる仕事に物足りなくなってしまうとさえ不安になってしまう。
これはもやは麻理さんを笑えない。自分も立派なワーカーホリックの一員だ。……まあ、日本にいる元同僚たちは日本にいる頃からすでに残酷なワーカーホリックだと笑うだろうが。
なんて、日本の事を思い出す余裕が出きた事はいい傾向ともいえる。
そう自分でも分析できるほど、穏やかな日々を過ごしていた。
麻理「北原」
春希「はい、もう少し待ってください。あと、10分。いえ5分で仕上げますから」
俺の日常が穏やかに進もうとも、編集部は相変わらず忙しく、それが心地よかった。今日も麻理さんにわりふられた仕事に充実感を覚え、自分がまだ大学生である事さえ忘れてしまう。
麻理「それは後回しいでいい。いや、あとは私がチェックしておくから、そのまま渡して」
春希「ええ、麻理さんがそういうなら……」
この原稿って急ぎだっけ? いや、そもそも急ぎだったら優先度をあげてあったはずだし、それともなにかあるのだろうか?
俺は麻理さんの指示に疑問を抱かずにはいられなかった。でも、次の指示があれば理由がわかるってものかな。
麻理「これだったらすぐに終わるわ。よくできている」
春希「ありがとうございます。では、このまま次のやつにとりかかればいいのですか?」
麻理「いや、このあと取材の打ち合わせがあるから、北原も同席してほしい」
春希「俺がですか?」
別に珍しい指示ではない。俺も取材に同行する事もあるし、今回みたいに打ち合わせに同席する事もある。むしろ、取材に同行するよりも、編集部での打ち合わせでの同席の方が多い方だ。
しかし、今回みたいに打ち合わせ直前に、しかも今やっている仕事を打ち切ってまで同席する事は初めてだった。
麻理「ええ、考えたのだけれど、やはり北原も同席したほうがいいと思って」
春希「それはかまいませんが」
麻理「よろしく頼むわね」
春希「はい」
予兆はあった。
一カ月も前から予兆はあった。
しかも俺の目の前で、俺がこの上なく無力感を感じた日に、麻理さんは俺に伝えようとしていた。
この取材の打ち合わせがどういう意味なのか。一カ月前、なぜ麻理さんが不安に思っていたのか。
この時の俺は、そして一カ月前の俺も、わかっていなかった。
打ち合わせのために会議室に行くと、中から懐かしい言語が聞こえてくる。
どうやら先に取材相手が待っているらしい。しかも、日本人が。
麻理「お待たせしてすみませんでした」
曜子「いいんですよ。こちらが早く来すぎたせいですから」
麻理「そうですか?」
曜子「この子ったらあいかわらずの取材嫌いで、時間に余裕を持って行動しないといつも遅刻するんですよ」
麻理「いえ、時間に余裕を持つ事は悪い事ではないですよ。冬馬さん」
麻理さんが冬馬さんと言った人物は、冬馬曜子。つまりかずさの母親だった。
曜子さんも俺が会議室に入った瞬間こそ目を細めはしたが、そこは冬馬曜子であり、自分の仕事を優先させる。そして麻理さんも、開桜社の人間としての仕事を遂行していた。
会議室にいる四人のうち、今起こっている事態に対応できないでいるのは残りの二人であった。俺と、そして冬馬曜子の娘にして取材対象の冬馬かずさであり、なおかつ俺にとってなによりも大切な人。
かずさ「母さんっ! これはどういうことだっ。説明してくれ。あたしを驚かせたかったのか? それともコンクールで無様な結果を晒せたかったのか?」
かずさは叫ぶ。
それこそ曜子さんに掴みかかる勢いで。……実際には曜子さんに掴みかかったわけだが、俺の視線を感じ取ってか、すぐに手を離していた。
かずさは俺と同じように何も聞かされていなかったのだろう。また、曜子さんも知らなかったようだ。
知っていたのは、おそらく麻理さんただ一人のみ。
曜子さんが知っていたのならば、俺を見た瞬間にほんのわずかすら驚きをみせるはずがなかった。
曜子「少し落ち着きなさい、かずさ。私も春希君がいるなんて、今まで知らなかったわ。あなたと同じように、この部屋に春希君が来て知ったばかりだもの」
かずさ「ほんとうに?」
曜子「ほんとうよ。今あなたが言ったじゃない。何も準備もなしにコンクール前のあなたに春希君を会わせてなんのメリットがあるのよ。むしろあなたが言うように、コンクールに悪い影響を与えるわ。だってねぇ、今のあなたの状態だと、春希くんへの想いに演奏がひっぱられてしまうでしょうし」
かずさ「当然だ。あたしがどんだけ春希に会いたい気持ちを我慢してきたと思ってるんだ」
曜子「そうよねぇ。これがコンサートだったら、今の感情をだだ漏れにした演奏であってもあなたの感情にひっぱられて号泣する観客も出てくるでしょうけどね。でも、困ったことに今目の前にせまっているのはコンクールなのよね。そんな演奏したら、確実に審査員受けは悪いでしょうし。……というわけで、風岡さん。どういうことか説明していただけないでしょうか?」
麻理「冬馬さん。娘さんのコンクールがあるからこそ今回私に取材がまわってきました」
曜子「ええ、そうね。日本の方からニューヨークにいる優秀な編集部員を紹介するっていわれたわ。でも、春希君がいるとは知らされてなかったわ。……あっ、そうそう。私は曜子でいいわ。こっちのうるさいのはかずさで。ほら、苗字一緒だと紛らわしいし。それと……、春希君はただの部下って感じではないのでしょう?」
曜子さんはフレンドリーに接しているようでそうでもない。笑顔の下に隠された素顔には、目いっぱいの警戒心が潜んでいた。しかも今やその警戒心さえ隠そうとしていないような気もしてしまう。
これが本当にただの上司と部下だったならば、ちょっとしたサプライズで終わったのかもしれない。
かずさが懸念する隠しきれない俺への想いが演奏に与える影響さえも、コンクールまでに調整させてしまうだろう。それこそ俺はできるかぎりの協力を願い出ていたと思う。
しかし、俺が部屋に入ってすぐの、俺がかずさを見た時の態度が最悪だった。
俺がかずさに示した感情は、後ろめたさ、だった。いくらサプライズであろうとも、感動の再会ならば、喜びであるべきだ。
それなのに俺ときたら、なにかかずさに隠していますってばればれの顔をしてしまった。
だからこその曜子さんの警戒であり、かずさが素直に喜べないで戸惑っている理由のはずだ。
麻理「はい、全てをお話しします。かずささん。そして曜子さん。今日ここにお二人が来ることは、北原は知りませんでした。一カ月前に日本から取材の要請がありましたが、一カ月使っても私は北原に告げる事ができませんでした」
曜子「そう……。ちょっといいかしら?」
麻理「はい」
曜子「ううん、風岡さんにではなく、春希君に」
麻理「……北原」
春希「はい、なんでしょうか? すみません、俺も事態が飲み込めていなくて、うまく説明できるかわからないです」
曜子「大丈夫よ。私もわかっていないから。でも、今から私が春希君に聞く事は、今の事態を理解していなくても大丈夫な事よ」
春希「それでしたら」
曜子さんが隠しもしないプレッシャーに体がこわばる。それは隣にいる麻理さんも、そして曜子さんが体を張って守るはずのかずさ本人にさえ、曜子さんの熱にやられていた。
曜子「ねえ、春希君」
春希「はい」
曜子「浮気した?」
春希「はい」
曜子「……そう。目をそらさないのね」
春希「事実ですから」
曜子「でも、隣の彼女は浮気だとは思っていないようね。……そうねぇ、事故ってところかしら?」
俺とかずさは、曜子さんの指摘を聞くと、すぐさま麻理さんに視線をむける。かずさは俺の浮気肯定発言に対して何も反応しなかった。反応できなかったともいれるかもしれないことが、それがかえって俺を不安にさせるが、それよりもまずは、曜子さんの発言の意図に俺もかずさも意識を奪い取られた。
春希「麻理さん?」
麻理「曜子さんのおっしゃる通りです。浮気……、キスしたのは私からであり、キスしたのもその一回だけです。そのキスさえも私が抑えてきた北原への想いがかずさんがニューヨークに来るとわかり、私の心が不安定になってしまたっからにすぎません。かずささん、曜子さん、本当に申し訳ありませんでした。そして、どうしてこのような事態になったかをこれから説明させてください。もちろんコンクール前だという事は重々承知しております。しかし何も知らせずにコンクールを終え、その後事実を告げられるよりも、今の方がいいと、勝手ながら判断させてもらいました。今回のコンクールよりも、来年のジェバンニが本番でしょうから」
曜子「そうね。事前準備としては最悪だけど、タイミングとしては悪くはないわ。では、話してもらおうかしら。風岡さんも何度も頭を下げなくていいわ」
麻理「はい。……北原?」
春希「…………すみません」
俺は麻理さんの呼びかけのおかげでようやく金縛りがとけたが、みっともないうろたえまくった姿は相変わらずだった。
本当は、麻理さんに事故だなんて言ってほしくはなかった。かずさのことだけを思えば、事故だと押し通すべきだ。けれど、俺が救いたいのは麻理さんであって、かずさではない。
欺瞞だと嘲笑われるだろうけど、俺はかずさとは、かずさの隣に立って、共に歩いていきたいと願っている。
わかってはいる。両立などできないし、自己満足にしかならないと。
俺の身勝手な決断に、今目の前で、俺が大切にしたい二人が傷ついている。しかも麻理さんに至っては、自分で傷つこうとさえしていた。
曜子「じゃあ、話してもらいましょうか」
麻理「はい、少し長くなるかもしれせんが」
曜子「かまわないわ」
麻理さんは俺達の物語を語りだす。
それは思いのほか日本で初めて麻理さんと出会った時まで遡った。
麻理さんの俺への第一印象としてはとくになく、どうせすぐにやめてしまうだろうと思っていたこと。しかし、予想を超える逸材で、いつしか自分を超える編集者に育てたいと夢を抱いていたこと。
そして、曜子さんのコンサートでかずさに会えなかった夜の事。傷ついていた俺を、初めて男として愛おしく思った事。
俺の好きな相手はかずさだけであっても、俺の事を忘れることができなくなり、ヴァレンタインコンサートで告白した事さえ全て打ち明けていった。
それは曜子さんとかずさに説明するというよりは、俺に聞いてもらいたかったのではないかとさえ思えてしまう。だって、俺に愛を語りかけてきているって思えてしまう。
その声が、その悲しみが、その流せない涙が、俺に突き刺さる。
そしていつしか話題は麻理さんの心因性味覚障害についてにうつり、今現在リハビリの為俺と同居している事に至る。
麻理さんは、同居はリハビリ期間限定であり、一人で生きていける準備が整い次第同居は解消すると、何度も念を押す。しかも、同居といっても共同生活という具合であり、事実そうなのだが、まったく同棲とは違うものであると力説する。
最後は、キスの話題だった。あの日あった出来事を、俺以上に詳しく説明していく。誰がどのような仕事をしていて、どのようなトラブルがあったのか。俺でさえ知らない編集部でのスケジュールをわかりやすくプリントにまとめてさえあった。
おそらくこれは麻理さんが、今回の説明の為に準備しておいたのだろう。しかも俺に気がつかれないように慎重に。
曜子「風岡さんの事情はよくわかったわ。もちろん春希君の人柄も理解しているから、彼はきっとあなたとのキスは事故ではないと押し通すでしょうね。それは風岡さんもそう思っているのではなくて?」
麻理「はい。北原ならそうするはずです」
曜子「だったらそれは事故だとはいえないのではないかしら?」
麻理「…………それは」
かずさ「ねえ、春希?」
春希「……あっ」
俺と目を合わせようとして何度も失敗していたかずさが、今ようやく俺の視線を捉える。
まっすぐと俺だけを見つめるその瞳に、俺は逃げ出したかった。けれど一度その意思がこもった黒い瞳に見つめれれると、俺は懐かしさと愛おしさに悩まされる。
何度も逃げようと揺れ動く俺の瞳に、かずさは黙って俺が落ち着くのを待ってくれた。
かずさの方こそこの場から立ち去りたいほどだろうに、俺の事を「まだ」見つめてくれていた。
かずさ「ねえ、春希。あたしのこと嫌いになった? ううん、興味がなくなったというのか、な? らしくないな……。あたしより、風岡、さん、の方を愛してる?」
春希「俺は、俺は……、かずさを愛してる。誰よりも、何よりも」
かずさ「そう……。じゃあ、風岡さんは?」
春希「かずさに対する愛情とは違う、と、思う。でも、幸せになってもらいたいと思っている」
かずさ「どう、ちがう、か……説明してよ」
春希「麻理さんは俺を救ってくれた。もちろん仕事に関しても尊敬している。けど、俺のせいで味覚障害になって、麻理さんの大切な仕事の邪魔をしてしまった。俺のせいで、俺のせいで麻理さんから仕事を奪ったままなんて、できやしない」
かずさ「うん、それはさっき風岡さんが説明してくれたからわかるよ。春希なら責任感じちゃって、治るまで面倒みるはずだと思う。……でもね、あたしがどんな気持ちでウィーンにいたと思うんだよ。そりゃあさあ、あたしの我儘で春希をほったらかしのままウィーン行っちゃったよ。しかも母さんのコンサートの時、あたし逃げたしさ。春希が楽屋まで来たの、知ってたんだ。楽屋の隅で隠れて春希が母さんと話しているところを覗いてたんだ」
春希「いた、のか?」
かずさ「ああ、いた。でも怖くて、春希の気持ちがあたしから離れているんじゃないかと思って会えなかった」
春希「なにも思ってない奴の為にわざわざコンサートになんて行くかよ。楽屋までいかないだろ」
かずさ「でも、春希が仕事で貰ったチケットだったんだろ? いくら母さんが準備したチケットであっても、仕事の為に来たと思って何が悪い。3年だぞ3年。まったく音沙汰もなくいたのに、どうして春希があたしの事を好きなままだと思うんだよ。いくらあたしの事を愛したままであっても不安になっちゃうよ。……怖いよ。怖いよ、はるきぃ……」
春希「かず、さ」
かずさ「ねえ、どうやって会えに行けばよかった? あたしを隠していた花束とか棚を倒して出ていけばよかったのかなぁ。そうすれば春希も傷つかなくて、風岡さんになぐさめてもらわないで済んだのかなぁ。ねえ、春希。教えてよ。あたし、どうすればよかったのかなぁ? わからないよ。わからないよ。……春希の気持ち。まったくわからないよ」
かずさの気持ちが押し寄せる。積み重なった3年分の気持ちが一気に解放され、俺を覆い尽くしていく。
俺の気持ちなどどうでもよかった。後悔などあとですればいいとさえ思ってしまった。
だって、かずさが目の前にいるから。
だって、かずさの声が耳に響くから。
その声が、その表情が、悲しみに打ちひしがれていたとしても、俺はかずさに出会えたことに倒錯した喜びを感じてしまう。
目の前で曜子さんが呆れていようと、隣で麻理さんが不安で押しつぶされていようと、俺はかずさだけを選んでしまう。
この瞬間の俺は、きっと全てを投げ捨ててもかずさを選んでしまうだろう。
かずさを目の前にしてしまったら、目の前で麻理さんが倒れていても、かずさに手をさしのばしてしまうだろう。
その真っ直ぐすぎる愛情に溺れてしまっていた。
かずさだけをみて、かずさだけを幸せにして、かずさだけを愛してしまうことに、気がついてしまった。
春希「俺は……」
曜子「はい、ストォ~ップ。はい、はい、かずさも自分の失敗の責任を春希君に押し付けない」
俺の言葉にしてはいけない愛情を曜子さんが遮る。きっと曜子さんの事だから、俺の言おうとしていた言葉を感じ取ってしまったのだろう。
それは母親としてではないのかもしれない。たぶんピアニストとしての冬馬曜子が止めに入ったのだろう。
だって、俺だけを見つめている冬馬かずさに、ピアニストとしての価値が本当にあるのだろうか?、と悩んでしまう。
曜子さんも恋人を作るなとは言ってはいない。そもそも曜子さんは俺とかずさの仲を認めている。
でも、偏った愛情はピアニストとしては致命傷なのだろう。
なにせ演奏する曲調は一つではないのだから。いつも偏った愛情がこもった演奏をしていては、かずさの成長はそこで止まってしまう。
それを曜子さんはよしとはしない。そして俺もそれを望んではいない。
だからこそ曜子さんは、俺の暴走を止めてくれたのだろう。
そしてこの瞬間俺は我儘な俺に戻る。
かずさを愛して、そして、麻理さんを幸せにしたいと願う、傲慢な俺に戻ってしまった。
きっと俺はかずさ一人を選んだとしても、永遠に麻理さんの事を考え続けてしまうだろう。俺が傷つけた、俺を愛してくれた、大切な麻理さんを、俺は忘れることなんてできやしないのだから。
だからこそ俺は、一瞬でも麻理さんを見捨ててしまった事に恐怖を覚える。
自分の身勝手さが自分の限界を見せつけてくる事で、俺は本当に麻理さんを幸せにできるのか、と恐怖を覚えてしまった。
かずさ「そんなことしてないだろっ。あたしは、あたしは……」
曜子「もぉ……、泣かないの」
かずさ「泣いてないっ。……ほんとに泣いてないからなっ、春希っ」
春希「あっ、うん……」
かずさは肩をさする曜子さんの手を振り払うと、涙を流してしないはずなのに目をこすって涙をふく。
真っ赤に充血しているかずさの目は、俺をまだ捉えて離さないでいてくれた。
かずさ「ごめん、春希」
春希「いや、俺の方が悪いから。ごめん、かずさ」
かずさ「うん……」
曜子「さぁって、この色ぼけ馬鹿娘はいいとして……」
かずさ「だれが色ぼけ馬鹿娘だっ」
曜子「あなたのことよ?」
かずさ「誰がだよ」
曜子「だから、冬馬かずささんよ」
かずさ「……ふんっ、言ってろ」
曜子「はい、はい。いい子ねぇ」
かずさ「馬鹿にしやがって……もういいよ。話を進めてくれ。…………それと、頭の撫でるのはやめてくれ」
曜子「もうっ、恥ずかしがっちゃって。かわいいんだから」
ほんと、曜子さんにはかわなない。この場の雰囲気だけじゃなくて、情けなすぎる男さえも救おうとしてくれている。
ほんとうならひっぱ叩いて取材拒否になってもおかしくないところを、この人はもっと先の事を見つめて行動している気がする。
一カ月後のコンクールだけではなく、1年後のコンクウールでさえない。
もっとさきの、何年も先のかずさを思って行動しようとしている気がした。
曜子「さてと春希君。そして風岡さん」
春希「はい」
麻理さんは返事の代りに顎を引くと、まっすぐと曜子さんの方に意識をむけた。
曜子「私があなた達の関係をどうこうすることはないわ。ましてや怒る事もない。ただ、かずさのことを思うと、……娘の母親としてはやるせないわ」
春希「はい」
曜子「でも、この子は自分が日本で春希君から逃げてしまったからだと自分を責めているように、私もこの子をかくまったことを後悔しているわ。せっかく春希君が会いに来てくれたのに会いもしないで、しかも、その後ストーカーみたいにして春希君に会いに行ったのにね。そんな回りくどい事をするんなら、会いに来てくれたときに会っておけばいいのにって思っちゃったわよ」
春希「え?」
かずさ「母さんっ」
曜子「だって本当の事じゃない。春希君に電話できないって言って、会う約束もしていないのに会いに行ったじゃない。電話じゃ自分の気持ちを伝えられないって泣いてたじゃない。ただねぇ、ちょっと我が娘ながら抜けていると事があるのよねぇ。春希君がどこに住んでいるかさえ知らないで会いに行ったのよ。……あっ、大学の側に住んでいるのは聞いてたから、駅で春希君に会おうと張り込みしていたのよね? ね、かずさ?」
かずさ「……忘れた。覚えてない」
曜子「そう? しかも、春希君が風岡さんとタクシーから降りるところを見て、泣いて帰ってきたじゃない? それも忘れちゃった?」
かずさ「あぁ~、忘れた。忘れたんだよっ」
曜子「はいはい。素直じゃないんだから」
かずさ「いいだろ、べつに」
曜子「そうやって意固地になるから次のチャンスの時も、せっかく私がおぜん立てしたのに、結局は会わなかったわよね。私の予想では我慢できなくなって会うと思ってたのに」
かずさ「あの時は母さんも協力してくれたじゃないか」
次のチャンス? かずさは少なくとも3回は会うチャンスがあったのか?
俺は最初の一回目では、かずさに会えないからって麻理さんにすがってしまった。自立した大人になりたいって言って独り暮らしして、開桜社でも認められるようになって、しかもニューヨークまで来たというのに、肝心の部分がまったく成長していないじゃないか。
いくら表面上の仕事ができるようになっても、心が成長していなければ、かずさと一緒に歩いていくことなんてできないし、仕事に関しても、いつかはぼろが出てしまう。
今の俺はどうしようもない子供に見えた。
まさに母親を無視していたあの頃の自分そのものだった。
曜子「あれはぁ……、私も悪のりしすぎたなって反省はしているのよ」
かずさ「だろうな」
曜子「ごねんね」
春希「あの……、どういう事でしょうか?」
かずさ「春希……、ごめん。会いたくないわけじゃないんだ。本当だよ。だって春希のお弁当食べられて、あたしすっごく幸せだったんだ。会いたい気持ちを抑えるのに必死だったんだ」
弁当?
というと、ギターの練習を見てくれるお礼として曜子さんに差し入れていた弁当を、曜子さんがかずさに渡していたってことか?
たしかに曜子さんのコンサートの時も隠れていてっていうんなら、かずさは自宅にはいないよな。ホテルにでも…………。
いや待てよ。俺が麻理さんとタクシーって……。
あのときもかずさがいたのか。俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところを見られたのか。
曜子「それだけじゃあ春希君がわからないでしょ」
かずさ「だって……」
かずさも曜子さんも深くは追求してはこないけど、きっと知りたいはずなのにどうして聞いてこないんだよ。しかもかずさは泣いていたって…………。
俺がかずさを泣かせたのか。いくら不可抗力といっても……、そうでもないな。俺が麻理さんを罠にかけて抱き締めてもらったわけだ。だったら俺のせいでかずさを泣かせたんだ。
……最低だな、俺って。
曜子「まあいいわ。春希君も少しくらいは気がついたみたいだし」
春希「ええ、まあそうですね。……ヴァレンタインコンサートですよね。曜子さんがギターの練習をみてくれた時がそうだと思うのですが、あのときもかずさは日本に?」
曜子「ええそうよ。でもね、春希君を見にコンサートにも行ったけど、春希君を見ていたのはその時だけじゃないのよ?」
春希「編集部の方にも来ていたのでしょうか?」
それとも大学の方にも来ていたのか? いや、大学だとどの講義に出ているかわからないから、やはり曜子さんのつてで編集部に来ていた可能性の方が高いか?
曜子「ううん、もっと身近な場所よ」
春希「もっと身近? …………俺がギターの練習見てもらっていた時、ひょっとしてかずさも見に来ていた、とかですか?」
曜子「だいぶ近くなったけど、正解というには不十分かな」
重く停滞していた会議室の雰囲気は、いつの間にかに曜子さんが作り出す新たなイメージに塗り替えられていっていた。
狭い会議室は曜子さんのステージへと変貌し、ありがたいことに曜子さんの指揮に俺は頼らざるを得なかった。
かずさ「今話す事じゃないだろっ」
曜子「そうかしら? かずさがどのくらい春希君のことを愛しているかを知ってもらうチャンスじゃないかしら」
かずさ「あたしの愛は変わらないからいいんだよ」
曜子「ふぅ~ん……」
かずさ「な、なんだよ……?」
かずさに肩を寄せる曜子さんは、意地が悪い顔全開で詰め寄る。そして、しっかりとかずさが脅えるのを確認すると、姿勢を正してから俺を見つめてきた。
あっ、今度は俺の反応をみようとしているような……。
となると、それだけでかい爆弾ってことだろうか?
曜子「かずさったら、ほんとうに美味しそうにお弁当を食べていたのよ。しかも春希君が帰るまで待つのが我慢できなくて、こっそりお弁当を冷蔵庫まで取りに行ってたのよ」
かずさ「最初の一回だけだ。一回だけ。次からは春希が帰るのを待ってからお弁当を食べてたって」
曜子「そぉお? でも、春希君に見つかりたい気持ちもあったんじゃないかしらね?」
かずさ「見てたのか? ……あっ、監視カメラ。レッスンスタジオ以外にもつけていたんだな。そうだな、そうだったんだな。白状しろよ。娘が頑張って春希の練習をみているっていうのに、それなのに母さんは面白がってあたしを監視していたんだな」
監視カメラ? たしかにスタジオにも俺の練習風景が見られるようにとカメラがついてたけど、それをかずさが?
それと、俺の練習をみてくれたのは曜子さんだったんじゃなかったのか?
でもかずさは、かずさが俺の練習をみてくれたっていっているし、どうなっているんだ?
曜子「監視カメラなんてつけてはいないし、覗きに行った事さえないわよ。これでも私、仕事があるのよ。…………美代ちゃんがこれ見よがしに仕事を詰めちゃって。ほんと身動きができなかったのよ」
かずさ「ほんとうかよ?」
曜子「本当よ。信じられないというのなら美代ちゃんに確認してみなさい」
かずさ「うっ」
曜子「それに、あなたの行動パターンなんて見なくてもわかるもの。ちがう?」
かずさ「うぅ……。そうかもしれないけど、だけど母さんのことだから、あたしを監視する為にカメラ付けそうじゃないかっ」
曜子「あら? それは心外だわ」
かずさ「日頃の行いが悪いからだろっ」
曜子「そっくりそのままお返ししてもいいのよ? 春希君にかずさがウィーンでどういうふうに生活していたかを、すっごく詳細に話してもいいのよ?」
曜子さんのまさしく核弾頭級の爆弾発言に、かずさの態度は急変する。
今までも曜子さんに押され気味ではあったが、今回はまさしく地雷を踏んでしまったのだろう。
でも、そんなにも俺に聞かせられない内容なのか? 話の流れからすると、俺の方にも被害が出そうな予感がするんだけど……。
曜子さんの事だから、俺への被害なんてまったく考えてくれないんだろうなぁ……。
かずさ「ごめん。悪かったよ母さん。あたしが言いすぎた。だから、お願いだからやめてくれ」
曜子「やめてくれ? ずいぶん上からのお願いなのね」
あのかずさが脅えるって、どういうカードをもっているんだよ? ちょっとばかし聞きたい気もするけど、聞いたらかずさが怒るだろうし。
かずさ「お願いします。やめてください」
曜子「まあいいわ。でも、ほんとうに監視カメラなんてつけてなかったのよ?」
かずさ「わかったよ。わかったからそれ以上いわないでよ」
曜子「でも、ギターの練習見てあげたことは教えてあげないと」
かずさ「わかったよ」
相手が悪いかったな…………。
かずさは観念したのか、曜子さんから顔を背けると、肘をついて不貞腐れる。
それでも俺の反応が気になるのか、ちらちらと俺の伺う姿は、相変わらず微笑ましくて、かずさらしくて、ようやくかずさが目の前にいるって実感していった。
曜子「もう気が付いていると思うけど、春希君にギターを教えたのは私ではないの。実はこの子が教えていたのよ。しかも、家の二階でモニターを見ながらね」
春希「えっ……。俺のすぐ側にいたんですか?」
曜子「そうよ。だから数メートルも離れてはいなかったのではないかしらね」
春希「そんなに近くに、ですか」
曜子「ごめんなさいね。でも、一度機会を逸してしまうと、なかなか出ていけないものなのよ。この子のせめてもの償いだと思ってくれないかしら」
春希「いえ。ギターの練習をみてもらったのですから、感謝しかしていませんよ。それに俺がスタジオにいたって事は、かずさもずっと練習につきあっていたってことですよね? 俺がスタジオにいたら家から出て行きにくいでしょうし」
曜子「まあ、そうね。でも、春希君のお弁当が冷蔵庫にあるとわかって、どうしようか気が気じゃないっていう姿。ほんとうに目に浮かぶわねね」
あっ、……かずさには悪いけど、俺も微笑ましい光景が浮かんでしまうっていうか。
かずさ「母さん」
曜子「はい、はい」
春希「かずさ。今さらだけど、ありがとな」
かずさ「いいんだ。あたしがやりたくてやったんだからな」
春希「でも、とても感謝しているんだ。あの曲だけはしっかりと弾きたかったからさ」
かずさ「春希……」
楽しい事も辛い事も詰まった曲だけど、俺とかずさと、そして彼女が作った最後の曲。
この曲にだけは胸を張って演奏したい。
曜子「でも、それだけじゃあないわよ」
春希「どういうことでしょうか?」
かずさもコンサートに来てくれたってことかな? ピアノパートの映像もくれたわけだし、かずさがコンサートの事を知っていてもおかしくはないか。
そもそも曜子さんが俺のギターの面倒見てくれているのも知っているはずだから、コンサートの事も知っていて当然か。
となると、やっぱりコンサートかな。
春希「……ヴァレンタインコンサートに来てくれたのか?」
かずさ「うん、見に行った。すごかった。ヴォーカルは期待してなかったんだけど、おもいのほかよくて驚いたよ」
春希「あいつが聞いたら喜ぶと思うぞ。千晶ったらかずさの大ファンだからな」
かずさ「そっか……。まあどうでもいいよ」
春希「ファンは大事にしろよ」
かずさ「春希がそういんなら」
春希「でも、千晶はなんていうか、悪い奴じゃないけど最初はどう接していいか困るかな。まあ、かずさも最初は戸惑うと思うけど我慢してくれると助かる」
かずさ「春希の友達なら我慢するって。……でも、女の友達か」
春希「あいつはかずさが心配するような奴じゃないから。どうみても性別を突き抜けた存在っていうか、な」
かずさ「でも女なんだろ?」
春希「かずさ……」
かずさ「いいよ。信じるから。…………でも、正直に話せばすべて許されるわけじゃあないんだからな」
春希「わかってる」
そう、俺と麻理さんの関係のように。
麻理さんがかずさと曜子さんに正直に全てを打ち明けようと、それで許されるわけではない。キスした事実は消えないし、麻理さんと一緒に住むことはやめることはできない。
曜子「春希君の現在の状況は今すぐ判断できないわけだし、これからしっかりと見て判断すればいいのよ。風岡さんが語ってくれた事を信じていないわけではないのよ? でも、人の話って主観が混ざるじゃない? げんにキスしたことについては、春希君と風岡さんの見解は違うわけだし」
春希「はい、そうですね」
曜子「かずさもそれでいい?」
かずさ「あたしは……、どうすればいいのかわからない」
春希「……かずさ」
かずさ「あたしは、あたしは今すぐ春希を連れ帰ってあたしだけを見ていてほしいっていう気持ちもある。裏切られてたってさえ思ってしまう所もあるんだ。でもさ、春希が風岡さんの為に頑張っているっていう事だけは理解できたんだ。春希はさ、ほっとかないよ。ましてや春希の為に頑張ってくれた人を見捨てることなんてないんだ。だから、どういうのかな……。春希が、春希のままでいてくれて、ほっとしてる、のかな。たぶんだけど。……そりゃああたし以外の女を優しくするなって言いたいけど、今は、我慢する、ように頑張るよ」
春希「かずさ、ありがとう」
かずさ「いいんだ」
曜子「さてと、かずさのほうはこれでいいとして、……風岡さん」
俺達が思い出話をしているときも硬い表情のまま口を結んでいた麻理さんは、曜子さんの呼びかけで自分がこの場にいる事を思い出す。
きっと俺達が作り上げてしまった雰囲気に入ってこれなかったのだろう。
俺と麻理さんだけの歴史があるように、俺とかずさだけの歴史がある。
それは不可侵であり、どうしても外にいる人間には疎外感を感じてしまう。つまり、かずさも曜子さんも同じような不安を俺が与えてしまっているというわけで、俺は自分がしている残酷さに、自分を呪い殺したくなってしまっていた。
麻理「はい」
曜子「今回の取材ですけど、おそらくだけど春希君がメインで書く予定なのかしら? 前回のも春希君が書いたみたいだし」
麻理「はい、その予定です」
曜子「その事だけど、今回は風岡さん、あなたがメインで書いてくれないかしら? もちろん春希君にも頑張ってもらいたいけど、今回は風岡さん。あなたに書いてもらいたいの」
麻理「私がですか?」
曜子「そう、お願いできないかしら? もちろん密着取材でかまわないわ。最初からその予定だったのだし。できれば、そうね、この子をあなた方の家で預かってもらえないかしら?」
かずさ「母さんっ」
曜子「あなたは黙っていなさい」
かずさ「…………わかったよ」
俺もかずさ同様に異議を申し入れたかったが、曜子さんからのプレッシャーが俺を押し戻す。
曜子さんが見つめているのは麻理さんだというのに、俺もかずさも手が出せないでいた。
曜子「どうかしら? もちろん風岡さんの編集部の立場は尊重するわ。風岡さんが無理なときは春希君がかずさの面倒をみてくれればいいのだし」
それって、ていのいい丸投げっていうやつでは……。
かずさはウィーンにいたからドイツ語はできるだろうけど、日本にいた時は英語まったく駄目だったんだよな。
となると、ニューヨークでどうやって生活する予定だったんだ? それこそ曜子さんの側にいないと、かずさは生活できないんじゃないか?
…………曜子さんの事だから、最初から今回の取材相手に、密着取材とは名ばかりの世話係を押し付ける気だったんじゃないかって邪推しそうだ……、いや、本当にそう考えていそうだよな。
麻理「それでかまいません。さすがに私も編集部で上に立つ立場ですのでかずささんにつきっきりにはなれませんが、それでもよろしいのでしたら自宅も提供いたします」
曜子「ありがとね。ほんと助かったわ。だってこの子。ウィーンで何人もハウスキーパーをやめさせているのよ。今回の密着取材でこの子の世話も任せようって虎視眈々と作戦を練っていたんだけど、春希君がいて本当によかったわ」
俺としたら喜んでいいのか? まあ、かずさを他のやつに任せるなんて許せないけど。
かずさ「波長が合わなかったけだ。あたしの生活に踏み込んでくる方が悪い」
曜子「ほとんどレッスンスタジオにこもっているくせに、どうやったら追い出すことになるのかしらね? ほんのわずかの時間でよくやるわ」
かずさ「たまたまだ」
曜子「そのたまたまが何回も続くと、わざとやっているとしか思えなくなるのよ」
かずさ「そんな暇あったらピアノを弾いてるって」
曜子「……たしかにそうね」
認めちゃうんですかっ。
それ認めてしまうと、かずさのほうに決定的な欠陥があるって認めるようなものじゃないですかとはいえないけど。
……だとすると、日本で家事を任されていた柴田さんって奇跡の人だったんだな。
俺とかずさがこうやっていられるのも奇跡なのかもしれない。
人との出会いは限られている。だからこそ、この人っていう人は手放してはいけない。
だけど、二人同時に掴めるかは別問題であり……。
曜子「まあいいわ。さて、風岡さん、もう一つだけお願いがあるのだけど。お願いといっても、このお願いはかずさを押し付けるという意味合いよりも取材の意味合いが強いと思うけど」
あっ、曜子さん。認めたんですね。
かずさを押し付けるって…………。
麻理さんもその事実に気がついたみたいで唖然としている。
俺は日本での曜子さんを知っているからある程度の抗体はあるけど、麻理さんは初対面だしな。
しかも、かずさと曜子さんに会わなくてはならないというプレッシャーがあったわけだし。
麻理「出来る限りのご要望は聞くつもりです」
曜子「そんなに身構えなくても大丈夫よ。ただかずさの練習を毎日ちょこっとだけ聴いて欲しいってだけだから」
麻理「それならばこちらとしても歓迎しますが」
曜子「そう? ならお願いね。だいたいコンクールの演奏時間と同じくらいでいいわ。この子はあなたの事など気にせずに弾き続けているでしょうから、勝手に来て、勝手に帰って構わないわ。たぶん挨拶しても無視すると思うから、気にしないでいいわよ」
麻理「練習の邪魔をしないように致します」
曜子「よろしくね」
麻理「はい」
かずさ「………………ちょっと待ってよ」
曜子「なにかしら?」
かずさ「勝手に決めるなって事だ。取材なら諦めはつく。でも、練習を邪魔されるのだけは許せない」
曜子「これも練習のうちよ」
かずさ「どういう意味だよ? どう考えても邪魔しているようにしか見えないぞ」
曜子「だってねぇ」
曜子さんは人差し指で細い顎をなぞるように首を傾げると、有無を言わせる視線をかずさに浴びせた。
かずさ「なんだよ……」
曜子「だってあなた、このままだとコンクール失敗するわよ」
かずさ「やってみないとわからないだろ。そもそも準備はウィーンでしてきたんだ。ここでの練習は調整にすぎない」
曜子「そうかしら? 考えてみなさい。風岡さんは取材で本番にも来るのよ。となると、練習でさえ風岡さんを意識するあなたが、本番で意識しないで本来の演奏ができるかしら? といっても、風岡さんにコンクールには来ないでほしいと頼む事は出来るけど、それでも風岡さんを気にすることをやめる事は出来ないでしょ?」
かずさ「それは……」
曜子「でしょう? だったら私の指示通り毎日本番だと思って演奏しなさい。ウィーンで宣言したわよね。勝ちに行くって。だったら勝つ為の練習をしなさい」
かずさ「……………………わかったよ」
曜子「じゃあ風岡さん。本人の了解もとれたしよろしくね」
麻理「はい。……あの、かずささん」
かずさ「なに?」
麻理「ごめんなさい」
かずさ「別にいいって。ピアノに集中できないのはあたしの問題だ」
麻理「それもありますが…………、北原に頼ってごめんなさい」
かずさ「それは……」
曜子さんでさえかずさの言葉を待ったが、結局はかずさの答えは聞く事は出来なかった。
色々ありすぎた。
俺の事。ピアノの事。そして麻理さんの事。
それらを一気に処理することなどかずさにできるはずもない。俺でもできないし、曜子さんであっても無理なはずだ。
曜子さんも表面上は次に向かっての行動をみせはするが、内心では俺の事をどう思っているかなんて考えたくもない。どう考えても裏切られた、と思っているはずだから。
その裏切り者を前にしても、曜子さんはかずさを守るべく行動を続ける。いくら数年間かずさと離れて暮らしていたからといっても、曜子さんはかずさを愛している。
愛しているからこそ曜子さんはかずさの前では迷わない。
曜子「さてと、打ち合わせの前にかずさの引き渡しをしておこうかしらね」
かずさ「あたしをペットみたいに言うな」
曜子「あら? 犬みたいなものじゃない」
かずさ「ちがうって」
曜子「そう? まあいいわ。それで風岡さん。かずさが泊まる部屋はあるかしら? もしなければ近くに部屋を借りるのだけど」
麻理「部屋ならありますが……」
春希「俺の部屋を使って下さい」
麻理「北原?」
春希「俺は物置として使われている部屋を使います」
麻理「あの部屋は狭すぎるでしょ。だから私がその部屋を使って……」
春希「麻理さんは自分の身を大事にしてください。今環境を変えるのは体に良くないですよ。それに、そもそも俺は自分の部屋があっても寝ることくらいでしか使っていませんから、部屋が小さくても問題ありません」
一カ月前の再来だけは避けなくてはならない。
ようやく麻理さんの調子が戻ってきたというのに、さらに大きな変化を与えるのは逆効果だ。
今目の前にしているかずさだけでなく、プライベートスペースまで提供することになるんだ。その最後の砦とも寝室まで渡すのは、麻理さんにとって負担が大きすぎる。
ただ、最大の影響を与える原因たるかずさがこれから一緒に暮らすことと比べれば、寝室の変更など取るに足りない変化かもしれないが。
麻理「……わかったわ」
かずさ「あたしは、……あたしは春希と同じ部屋でもかまわないけど」
春希「かずさ? ごめん。それは無理なんだ」
かずさ「どうしてだよ?」
理由を言うべきか。それとも隠すべきか。
…………今まで隠し事をしてきたのに、ここで隠して何になるっていうんだよっ。
ふっきれたとか、やけになったとかじゃない。
今さらだけど、かずさには誠実でありたい。それしかないだろ。
春希「かずさと同じ部屋だと、麻理さんが潰れてしまう。俺は麻理さんを救いたいんだ。恩返しでもあるけど、それだけじゃない。幸せになってほしいんだ。だから、ごめん」
かずさ「あっ……、そうだな。ごめん春希。それと風岡さん。配慮がなくてすみませんでした」
麻理「いいのよ。ほら、私が悪いのだし……」
再度重苦しい雰囲気が俺達にのしかかる。
ほんとうに大丈夫なのかって不安になってしまう。だって三人で暮らすってことは、必然的に曜子さんがいないというわけになる。
今回何度も場の雰囲気を修正してくれた曜子さんがいないとなると、俺がその役割を演じなければならないわけで。
その大役をかずさはもちろん麻理さんに任せることなどできやしない。
……でも、俺に出来るのか?
俺は眉間にしわを寄せるだけで、かずさと麻理さんを見つめるだけしかできないでいると、前方から俺に向けてため息を見せつけられる。
曜子「はぁ……」
俺への不安とも、助けるのは今回だけとも捉える事は出来るが、どちらにせよ、今日からの共同生活に曜子さんがいない事は確かであった。
曜子「春希君は今までの部屋をそのままつかいなさい。どうせこの子は一日中スタジオにこもっているんだし、この子も寝室を貰っても寝るだけしか使わないわ。だから、わざわざ部屋を移動するなんて手間をかける必要はなし。これでいいかしら?」
春希「かずさがいいのでしたら……。かずさ?」
かずさ「あたしはそれでいいよ」
春希「でも、ベッドはどうします?」
冬馬家の財力なら簡単に買えそうだけど。
曜子「レンタルでいいんじゃないかしら?」
春希「なるほど……」
いくらお金持ちといっても、無駄遣いをするわけではないですよね。