百合だよ! 恋愛だよ!

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「」情

 どうして私に彼女を騙すような真似が出来ようか。私は今まで彼女に助けられ通しだったというのに、その行為は裏切りだ。誠意のない行動だ。やってはいけない。

 そのような、様々な理由を思いつきはした。けれど結局のところ私が彼女に返事をしなかったのは、自分のためでしかなかったのだと思う。答えは初めから出ていた。「考えさせてほしい」と言った私のセリフは、後で思えば嘘でしかなかった。

 嘘をついたと気付いた私は、すでに誠実さを失っていただろう。気付いてもなお私が返事をしなかったのは、彼女を失うだろうという確信があったからである。

 彼女が失われること以上に、私を苦しめる方法はなかった。私にとって彼女は半身であり、彼女が死ねば私も死ぬだろうという考えをすら正しい。彼女との友情が私のつまらない人生に彩りを与え、私の汚れた心を覆い隠してくれたのだ。

 彼女は生来の親友だった。彼女にとっても同じであると、私は信じていた。 

 それは驕りだったのだろう。片時も離れず、ゼロ距離の位置にいる自分の事をすら、人間は理解しきれないというのに。たかだか半身であった彼女のことを理解できているなどと思っていた私の心は、当の彼女によって、あっさりと裏切られた。

 いや、裏切りという言葉は似つかわしくない。私の心は一方的なものでしかなかった。それに気付かず、そのイメージを押し付けていたのは私だ。

 彼女は、由紀子はなにも悪くない。

 だのに。それなのに、彼女は私に謝った。

「ごめんね。気持ち悪いよね、でもこれが私の気持ちなの。ずっと前から好きだったの」

 彼女はそしてまた、ごめんねと言った。

 彼女は私に愛を語った。どれほど長く愛していたか、どれだけ辛かったか。私はそのあいだずっと動けず、彼女をただ茫然と見つめた。目の前にいる彼女を、彼女だと信じたくないと思ってしまう。そして、そんな思いを抱いた自分に失望した。

 私は。言いかけて、喉に絡みつく。何を言えばいいのか分からない。

 この時はまだ、私は正解を追い求めていたのだ。

「佳子を愛してる」

 私は、貴方を。

「愛してるの」

 重く重く、彼女の言葉がのしかかる。いっそ死なせてくれないか、いっそこのまま、私のことを誰かが殺してくれないか。そんな希望が、叶えられることはない。

彼女がそれを望まないから。

「返事を聞かせて? 佳子、貴方は私を好き? 愛してる?」

「私は」

 私は。

 私は。

       ▼ 

 同性愛だなんて、気持ち悪いよね。

 彼女はそう言った。私は何も言えなかったけれど、彼女の言葉の内容は鮮明に覚えている。

「考えさせてほしい」

 私は彼女に気持ちを伝えなかった。

 いや、伝えられなかったのだ。彼女の愛を受け止めるのに、私の頭は混乱しすぎていた。あれではどうにもできない。どうにもできない状態で彼女に返事をしたくない、という思いもあった。

 彼女は私にとって最高の友達。それで、恋人として見れるか?

 今まで彼女のことをそう言う目で見たことはない。見るという発想自体が、どこからも湧いてきたことがなかった

 偏見自体はない――――そう思う。そう思いたいだけなのかもしれない。でも表だって同性愛を否定しようとは思わないはずだ。

 彼女がそうだというのなら、どうして否定などできようか。

 否定はしない。でも自分はどうなのかと考えると、すぐには答えを出せそうにない。それにもし私が同性愛者だったとしても、彼女を恋愛対象として見れるか、というのはまた違う問題だ。

 ノートを出して、考えてみる。

 彼女は私を愛している。それだけ?

 私は。

 私は、のあとはやはり出てこない。親友や友達といった、そんな関係以外を表す言葉を、どうしても載せることができない。

 彼女を失いたくない。ただその一点が理由だ。

 載せてしまえば、自覚してしまえば、あとはもう転がり落ちるしかないじゃないか。

 彼女は明後日まで待つと言った。明後日、彼女の誕生日。

 それを過ぎれば、きっと彼女の中に答えが出る。

 もしその答えが、私の心情と一致していたとしても、そんな形で彼女に答えを出してほしくはなかった。

 だから明後日までに、私は覚悟しなければならない。決断しなければならない。悔まないように、悲しまないように。

 私は、と書いた。そのあと、くくられた空白。明後日までにここに私は言葉を入れる。それが出来なければ、終わる。

 いろいろなことが、投げ出されたまま、終わってしまう。

――――――どうして?

 私は彼女に聞かなかった。

 貴方はそんなにも素敵で、そんなにも人を愛することが出来るのに、どうして私なんか愛してしまうの?

 いったい私のどこに惹かれたというのだろう。

 ノートの上に乗せられた鉛筆は動かない。私にはこれ以上、動かすことは出来ないように思えた。

 目を覚まし、始めは夢だったのだと思った。彼女は私を愛してなどおらず、何の問題もなく私たちは友人であると。しかし目を覚まして、机の上にあったノートを見ると、あれは夢などではなく現実にあったことだと確認が取れた。

 私は椅子に座って寝ていた。頭を上げ、首を捻る。首だけでなく、背骨まで音を立てた。変なところで寝たせいで疲れが全く取れていない。むしろたまったぐらいだ。制服もあちこち皺が寄っている。

「――――」

 クアァ、と欠伸をする。最後に首を廻して、私は立ち上がった。

 時計の針はまだ七時にすら届いてはいないが、流石に二度寝などは出来ない。それに、私は自分が眠ったことに少し驚いていた。

 私は確認する。

 昨日、彼女から愛を伝えられた私は答えを先送りにした。

 具体的には明後日、彼女の誕生日まで。

 時間はそれほど多くない。それを理解していたはずだ。だからその時間を消費して睡眠をとれたことに、私は驚いた。眠れぬ夜を過ごすだろうと思っていたのに、そんなことはなかったわけだ。

 考え過ぎなのだと思う。幾らなんでも卑屈が過ぎるということは重々承知している。でも思ってしまう。自分は今回の事は悩むまでもないことだと考えているんじゃないか、と。

 そんなはずはない。私は彼女の親友だった。

 でも、それが何の証明になる?

 私は彼女の親友だったが、彼女の気持ちをこれっぽっちも理解できてなどいなかったではないか。

 憤り、申し訳なさ、困惑、順当なものもあれば、理不尽なものもあった。あらゆる負の感情がないまぜになって、私の腹にいる。

 扉に寄りかかる。口元から歯ぎしりの音が漏れ出す。

 胃が痛む。腹を抑え、前かがみになりながら階段を下った。

 この痛みは、トイレに行ったって収まるまい。

 涙が出そうだった。

 悲しくて、悔しくて、怖くて、憎くて。理由がたくさん有り過ぎて、なんで泣きそうになっているのかがわからない。

「く、ぐ、ふ」

 口元に手を当てて、嗚咽をこらえる。

 泣いちゃいけない。今泣いたら止まらない。これから学校だというのに、彼女に心配をかけるような真似は出来ればしたくない。

 学校を休んで彼女が罪悪感を抱くのも嫌だ。

「はは」

 この期に及んでなんなんだよ、それは。ちゃんちゃらおかしい話だ。私はずっと彼女を苦しめていたというのに。

 けれどそれは本心だった。私には彼女が大切だから。

――――大切な、親友だったから。

 指で目じりを擦る。涙は出ていなかった。

 深呼吸を繰り返し、呼吸を整える。大丈夫だ。まだ。

 いつの間にかしゃがみこんでいたらしく、足全体が冷え切ってしまっている。暖房の恩恵に預かろうとリビングへ足を向けた。

 思った通り。

 台所には既に起きていた母がいて、朝食らしきものを作っている。

 テーブルにはその朝食――の食べかけ、多分父だろう。そして私から見て左側に、朝食を待つ姉の姿があった。

「佳子、起きてるの? 起きてるんなら今、朝食食べちゃいなさい。後でまた用意するんじゃ二度手間でしょ」

「はーい」

 母の言葉にそう返して、姉の隣に座る。

「アンタなんで隣に座んの?」

「ダメかな」

「いや、別にいいけど」

 それっきり姉との会話はなく、小鳥や風などの環境音と母の料理する音だけが、リビングに響く。

 テレビをつけると、天気予報をやっていた。今日の気温は冬に近くて、外に出る人はカーディガンなんかを羽織った方が良いとか何とか。私は寒がりなので、コートを着て行こうと思う。

「…………ん」

 しばらく流し見で見ていたのだけれど、今週の天気予報、特に明後日の天気に、思わず目を引き付けられる。

――雪。

 秋から、雪が降るらしい。

 ここは北海道でもなければ東北でもないというのに。やはり相当珍しいことなのか、伝えるアナウンサーの声は興奮気味だった。

 彼女の誕生日に、雪が降る。

「へーい、朝食一丁上がり! アンタら早いとこ食べ……どしたの佳子、そんな変な顔になって」

「由紀子ちゃんの誕生日に雪降るらしいよ」

「へぇー。……幸運なのか不幸なのか、よく分からないね」

「普通で幸運でいいんじゃないの。少なくとも私の誕生日に雪降ったら興奮するよ」

「あはは、アンタの誕生日は夏だし海外行かないと無理だね」

 まるで特別な日だと言わんばかりだ。いや、彼女の誕生日ということはやはり彼女にとっても、私にとっても特別な日であるということには間違いがない。

 でも雪は、雪が降るのは、なにか別の思惑がある気がした。

 神様がなにかした、なんてこと有りえないとは思うけど。これが神様の仕業なら、どうか。

 どうか私を助けてはくれないだろうか。

「でも由紀子ちゃん関連なら佳子が変になるのも分かるわね。ずっと一緒にいるもの。もう二人で一人なんじゃないかってぐらい」

「アンタ、由紀子ちゃんのこと大好きだもんねー?」

 呼吸が乱れた。

 思わず、姉と母に強い視線を当ててしまう。

「私は――――」

 愛してる、と言った彼女の顔がフラッシュバックで蘇る。考えさせてと言った時の、彼女の悲しげな顔も。

 あれが最善の行動だった。先延ばしだとしても、プラスマイナスゼロであろうと、あの時の言葉を間違いだとは思わない。

 ――――その最善は自分のことしか考えない、身勝手なものじゃないか。正当化なんてするなよ。

「え、なに? アンタたち喧嘩でもしたの?」

「ううん、喧嘩なんてしないよ」

「だよねぇ…………、想像できないもの」

 うんうん、と姉が頷く。

 私は俯き、黙って立ち上がった。

「ごめんなさい。今日、日直だった。もういくね」

「え、ちょ」

 朝食は、という母を無視して私は一気に階段を駆け上がる。

 ベッドの上に投げ出されていた鞄を手に取り、コートに腕を通した。また走って玄関へ向かう。

 革靴を履いて外へと続くドアノブに、手をかける。

 くすんだガラスが外を見せないその扉は、外との気圧差からか、酷く重いものに感じられた。

       ▼

「やった、またクラス一緒だね」

「本当? 私、由紀子以外に仲のいい子いないから嬉しい」

 彼女と私は幼稚園の前から付き合いがあって、幼稚園、小中、そして高校も。そのほとんどを同じクラスで過ごした。

 確率論の話は分からない。

 でも私は、それを奇跡だと思った。

 神様が私たちを祝福しているのだと、そう思った。

「っは」

 今思うと馬鹿馬鹿しい。

 ――――それに。

 それに私が嬉しかったとしても、由紀子が嬉しかったかどうかわかりもしない。自分の好きな相手と、その気持ちを伝えられずそばに居るなんて、彼女の言葉がなくても辛いことは分かる。

 能天気に喜んでいた自分を殴りたくなった。

 昔の私がやったことのツケを、今の私が払わされている。

 一向に腕が動かせない。

 彼女に会うのが怖かった。そして淡く、今朝否定したはずのそれに期待もしていた。

 彼女は私を見て何を思うだろうか。

 彼女は私に話しかけてくれるだろうか、また笑顔で、私の隣にいてくれるんだろうか。彼女の告白に返事をせず逃げたというのに、虫が良いことは分かっている。でも、彼女は私の半身なんだ。

 彼女がいない毎日など、私に耐えられるとは思えない。

 怖い。

 忘れていやしないだろうか、夢である可能性は?

 考えてから、バカじゃないかと思った。そんなわけないだろう。

 私がどう思おうと、願おうと、現実は現実として存在している。こうしている間にも時間は過ぎ去り、また迫ってくるのだ。

 どれだけ怖くてもいつかは訪れ、そして過ぎ去る。

 それが時間というもの。頭では分かっている。でもいつか訪れるなら、それを引き延ばしたかった。崖の一歩手前まで。

「邪魔」

 突然、後ろから催促される。

 そして私の返事を聞く前に、あっさりと後ろからやってきた揖斐川さんがクラスの扉を開いた。揖斐川さんに続き私も教室へ入ると、そこには揖斐川さんしかいない。きょとんと目を丸め考えて、すぐに合点がいった。

 滑稽だ。よく考えなくたって分かったはずなのに。あれだけ早く来たなら、彼女がクラスにいるはずないじゃないか。

――――由紀子が来るのは、いつだって始業十分前だろう?

「また? どうやったらいつも同じ時間に来れるの?」

「ちゃんと計算しているのよ」

「何それ」

 そんな風に、笑いあったこともある。

「………………」

 長年、彼女と過ごしていただけあってエピソードは多い。クラスメイトや、いろいろなところが変わったけれど彼女と一番多くの時間を過ごした教室には、エピソードがたくさんあった。

 帰りたい、という衝動に駆られる。

 それをぐっとこらえて、私は椅子に腰を下ろした。

 そのまま突っ伏して、視界を失くす。

 揖斐川さんだろう、教室を歩き回る音が聞こえる。

 私はそれに耳を傾けて、時間を浪費した。

 やがて時間が経つにつれて、教室に人が増えていく。

「おはよう」

 彼女の声が聞こえた。私は突っ伏したまま、動かないでいる。緩慢とした彼女の足音は、他の音よりもなぜか目立つ気がする。はっきりと聞き取れたその足音は、私の方へ向かってなどいなかった。ぐ、と拳に力がこもる。

 彼女はどんな顔をして教室へ入ってきただろうか。悩ましげに? あっけからんと? それともいつも通り、屈託のない笑顔を浮かべて、教室へ入ってきたのだろうか。

 先ほどの挨拶一言だけでは判断がしづらい。

 確かめるためには顔を上げねばならない。知りたいのなら、それ相応の何かがないといけない。

 私の中にはやはり恐怖や不安が入っていた。 

 今、彼女が私をどう扱っているのか。それを知るのが怖いし不安だ。その感情を消すためにも、彼女の事が見たい。

 矛盾を抱え、私は軽く唸った。

 私はどうしたいのか、という質問をしても二つの、真逆の答えが返ってくる。強いてどちらが強いのかと考えても、二つの感情は拮抗していて、どんなに単位を小さくしても、差が確認できない。

 その時、誰かが私の苗字を呼んだ。

「枯淵さん!」

 始めは顔をあげたくなくて寝ているふりをしていたのだけれど、その誰かの語尾が強くなったのを感じて、思わず起き上がってしまった。

 顔を上げると、そこには顰められた顔。

 彼女の友人で、確か――――総角という名前だったか。確かそうだった、という記憶はあったがしかし自信は持てず、私は彼女の顔を見据えるにとどめた。

「やっと起きた。枯淵さん、由紀子と何かあった?」

「ど、どうして」

 そう思ったのか。もしかすると、彼女の様子が目に見えて変だったのだろうか。だとすればなぜ、どのように。

 彼女はどう変だったのだろうか。私の中でまた、矛と盾がぶつかり合う。

「だって彼女――――――」一拍、呼吸が置かれる。

 いやだ、聞きたくない。

 それで、どんな様子なの?

 そのどちらもが私の体から漏れることなく残留する。時間はどんどん過ぎて行き、そして、総角さんはこう言った。

「貴方と一緒にいないじゃない」

「――え?」

 総角さんの口から出たのは、彼女の事ではなかった。

 拍子抜けだ。と思う一方、安堵する自分もいる。

「いつも一緒にいるでしょ? ホント、授業中以外は離れてないし、ちょっと前にね、そういう関係なんじゃないかって噂にもなっていたのよ」

「そういう関係?」

 とぼけるようにそう言った。

「そう、付き合ってるんじゃないかって。でも有りえないよねぇ、女同士だし。あ、気を悪くしたならごめんね。そんなはずないのに」

 私は、どんな顔をしただろうか。

 少なくとも、総角さんの言葉に良い反応はしなかった。

 彼女が侮辱された――そんな気がしたのだ。面白がるような総角さんの言葉が、私には我慢ならなかった。

 彼女と仲良くしている総角さんは、彼女が私に告白をしたと知ったら、どのような反応を見せるだろうか。見下すような、嘲るような、曖昧でいてはっきりとした、そんな反応なのだろう。想像するのは大して難しいことではなかった。

「謝らなくたっていいよ。私だってそう思うし」

「だ、だよねー。良かった良かった」

 そういう言葉を残して、総角さんは去って行った。なにが良いというのだろうか。なにが、悪いというつもりなのか。

 私はまた机に突っ伏した。

 最後まで彼女を視界に入れることはなかった。時間切れだ。私が彼女を見なくても、私は答えを知らされる。

 彼女が私に話しかけることはなかった。もし本当に寝ていたとしても、彼女は起こして話しかけに来るというのに。

 分かっていたじゃないか。私と彼女は今、親友などではないんだ。

 涙がまた、私の目から零れようとする。

 今度はなぜ泣きそうなのか分かっていた。

 彼女の愛を否定しようとは思わないし、過小評価するつもりだってない。でも私の中ではこんなにも強い彼女との友情が彼女には何の意味も持たない代物なのだと思うと、たまらなく悲しくなった。

 ――――あ、ヤバい。本当に泣きそうだ。

 落ち着け、深呼吸をするんだ。自分に命令し、大きく息を吸い込む。喉元までせり上がっていた嗚咽を飲み込む。

 んく、とつばきが喉に引っ掛かる。

 私はまた無理をして、それを飲み込んだ。

「………………」

 私は安心がしたかった。もしかしたらもう無理かもしれない、私と彼女はもう、友人になど戻れないのかもしれない。

 そんな考えが浮かんでは打ち消した。

「由紀子」

 彼女の名前を呟く。

 あれから彼女を何度も見たけれど、一度だって私を見てはいなかった。話しかけるとなるとその態度はみじんも見えない。

 またこちらから話しかけようにも、そのタイミングが掴めなかった。彼女は休み時間になると何処かへ行ってしまう。しかも廊下を走ってでもいるのか、窓際席の私が廊下に出たときには、その姿はもう既にない。

「由紀子」

 猛烈に彼女と話がしたかった。もし私が望まない道に進むとしでも、その前に彼女と話がしたかった。

 このまま放っておけば、絶対に望まない方向へ転がる。

 そんな根拠のない確信が、この時の私にはあった。

 だから私は走った。昼休みになってすぐ、彼女のもとへと。

 彼女は私の姿を認めると酷く驚いた顔をして、廊下に向けて走り出す。結構な速さだけれど、まだ私の方が早い。

 教室の席の分だけ離れていた私たちの距離は、たちまち縮まった。

「どうして」追うの? と彼女が呟く。

「どうして」貴方は逃げるの? と私が呟く。

 縮まった距離は彼女がいよいよ本気で走り出したことによって離れ、私の速さを増したことによって縮まる。

 手を伸ばした。

 彼女の細い手首に向けて、手を伸ばしたつもりだった。

 けれどその狙いはほんの少しだけずれて――彼女の制服の袖に引っ掛かる。指先にグイ、と体重がかかり私の体勢は崩れた。

 彼女も同様に、体勢を崩したけれど持ち直し、立ち止まる。

 ああ待って。このまま逃げられたら私は――――。

 悪あがきに手を伸ばす。

 もうだめだ、と思った。

 膝が床に接触し、骨に鈍く痛みが走る。

 その時、私の手が握られた。

「佳子、」

 彼女の顔が目の前にあった。

 心配そうに顔を歪め、私の腕を握ってくれている。

 彼女は私を見捨てなかった。彼女が昨日ぶりに、私の名を呼んだ。

 それだけで顔がほころぶ。でも今はもっと重要な事があった。

 体勢を崩したことによって膝をついていた私は彼女を見上げ、由紀子、と彼女の名を呼んだ。彼女の肩が、びくりと跳ねる。

 彼女は何か逡巡するような顔を見せ、私を持ち上げようと腕に力を込める。素直に立ち上がった私は改めて、彼女を見つめた。

 近くで見なければ分からなかったけれど、彼女は昨日より――いやいつもよりも遥かに憔悴しているように見える。濃い目の化粧も、隈なんかを消すためにやっているのかもしれない。

「そんなに見ないでよ。見られたくなかったから私、佳子に近づかなかったのに……ダイナシじゃない」

「ダイナシだなんて、そんなことないよ」

 自然と笑顔が出てくる。彼女の顔にも、確かに笑顔が見えた。

 このとき私は根拠も脈絡もなく友情は戻った、などと考えた。支離滅裂で、そんなご都合主義的なこと、起こる訳なんかないのに。私は愚か者だ。夢を見ていた。昨日からずっと、夢を見ていた。

「佳子、返事をくれるの?」

「…………え?」

 顔が強張ったのが分かった。そして彼女の期待と不安に満ちた――――昨日と全く同じ瞳を見て、理解してしまう。

 理解、させられてしまう。

 無理だ。

 不可能だ。

 どうしようもない。

「佳子、私を愛してる? 愛してない?」

「ちょっと、待って」

 そんな話がしたかったわけじゃないのに。

 でも、だとすれば、私は何の話がしたかった?

 何のために走ってまで彼女の事を追いかけたのだ。

 ――――不安だった。

 ――――安心がしたかった。

 私は私を安心させたくて、彼女に話しかけた。

 安心? そんなもの本気で得られると思っていたのか。

「佳子?」

「由紀子、私」

 気付くべきだった。いや、気付いてはいたはずだ。いつも通りになんてなるはずがないって。でも、信じたくなかったんだ。

 あんなに長い間一緒にいたのに、たった一日で離れ離れになるなんて。親友でいられないなんて、信じたくなかったんだ。

 でももう分かった。

 気付いた。

 ――――もう親友なんて関係はないんだ。有りえないんだ。

 涙が流れ出る。今度は止める間もなく、流れ落ちる。

「佳子、泣かないで」

「由紀子、私は、私はね」

 彼女を愛していないと答えれば、私は彼女を失う。

 彼女を愛してると答えれば、それは嘘であり、私は彼女の騙すこととなる。

 私は彼女を愛していない。愛せない。

 始めから分かっていた。

 どうして私に彼女を騙すような真似が出来ようか。私は今まで彼女に助けられ通しだったというのに、その行為は裏切りだ。誠意のない行動だ。やってはいけない。 

「………………」

 どうして私に彼女を悲しませるような真似が出来ようか。私は今まで彼女を辛い目に合わせ続けてきたというのに。その行為は恩知らずだ。誠意のない行動だ。やってはいけない。

 彼女の体にしがみつく。離れないように、抱き寄せる。

 ――――騙したくない。

 ――――失いたくない。

 ――――悲しませたくない。

 ――――一緒にいたい。

 どれも、紛れもない私の本音だった。

 正解なんてありはしなかった。

 天秤の両方ともに、大事なものが乗っていた。その片方を捨てなければいけないのに正解だなんて、おかしな話だったんだ。

 私にとって彼女は親友だった。物心がつく前からそう思っていた。

 でも、だからこそ彼女を愛してはいなかった。

 ただ純粋に、好きだった。

「私は、由紀子のことが好きだよ」

「佳子」

「でも、愛してないんだ。由紀子のことが大好きだけど、愛してない。ずっと、親友だったから」

「……うん」

「ねえ由紀子、私は貴方を愛していないけど、付き合ってくれる?」

 そう言って、私は彼女を見上げる。それが望んだ表情であるよう、祈りながら。

      ▼

 明日は雪が降るらしい。そう、天気予報が言っていた。

 それは彼女を祝福する雪なのかもしれないし、それとも何かを覆い隠すための雪なのかもしれない。

 あるいは、何の変哲もないただの雪なのかも。

 ただ重要なのは、明日は雪だということ。

 ただ、それだけ。



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