正月の寒空の下、唯と律は対峙した。その手に持つ羽子板で、勝負をつけようと。
全ては、憂にみかんをあーんして食べさせてもらうため……!

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ニューイヤーバトル!

「んじゃ、改めて。あっけおめー!」

 

 ひとりハイテンションな律はどう見てもひとり浮いていた。

 こたつに入り間の抜けた表情をしながらだらしなく口を開ける姉に、出来た妹が白い筋までを完璧に除去したみかんの粒をクレーンゲームでもやるかのように半機械的に運び続け、「ぱくっ」としては「ほわぁ」とする姉と、「ぱくっ」とされては「えへへー」と頬を緩ませている妹を前にしたのでは、律でなくとも浮いてしまうのは致し方ない、が。

 

「ってヒトの話を聞けー!」

「聞いてるよー、りっちゃんが暇だって話でしょ?」

「一言もいってねーよ!」

「言ったよー、あと初詣にも行ったよー。んでりっちゃん暇だから来ちゃったんでしょ?」

「身も蓋もないこと言うなー!」

 

 と律が叫ぼうにも、ぐうたらな平沢姉は聞く耳を持たない。

 唯の言うとおり、確かに新年最初の軽音部の会合は既に終了している。

 賽銭を投じて願い事を垂れ流し、おみくじも引いて解散となった。

 澪は親戚の家に行くと言い、紬は家の新年の挨拶回りが忙しないと言い、梓は後程憂と純との約束があるからその準備のためと言い、解散宣言と同時に三々五々に散っていった。

 だが律はその限りではなく。

 

「おなじ暇人同士仲良くやろうぜぃ♪」

 

 と言い、唯の意向を全く無視した結果、律は現在平沢家に身を寄せていることと相成っている。

 

「でもすることないから暇人なんじゃん。暇人が暇人同士肩寄せあっても結局暇人なだけじゃん」

「……あんまり暇人って言うな、悲しくなる」

「りっちゃんから言い出したくせにぃ」

 

 唯のブーイングを、しかし律は聞かないことにした。

 それらが事実であるだけに、掘り下げていっても虚しくなるだけだからだ。

 

「……むう」

 

 成す術なく――と言うか、自身が暇人であることを再認識してしまった律はこたつのうえにべたーっと、顔を乗せだらしない表情をする。傍から見れば色違いの平沢唯なのだが、彼女をを見た憂はそれを明確に感じ取ったのだろうか。つまんでいたみかんをそっと、律の口元に持っていってみる。

 

「――ぱくっ」

 

 多少の酸味はあるが、旬を迎えたみかんは甘味が強くとても美味しい。

 

「ほわぁ」

 

 瞬時に律を包む幸福感。甘酸っぱいみかんにあたたかいこたつ。これだけでも充分な冬の醍醐味だと言うのに、自動的に口へと運ばれてくるみかんの一粒一粒が磨かれた宝珠のような輝きを纏っているのだから、それをいただいた律が感動しないはずがない。

 対して憂もどこか幸せそうな表情を浮かべ、律の方を見やった。「えへへー」とこそ言わないものの、それを楽しんでいるような節は充分に見受けられる。もしくは、いつもは見ることのない先輩の緩みきった表情筋に真新しさを感じたのかもしれないが、残念ながら憂は普段からそのようなことを人前で口にするタイプではなかったため、律がその内心を窺い知ることはない。

 更に残念なことに、後輩の内心を窺い知ることができなかったのは律だけではなく、

 

「あー、りっちゃんずるい!」

 

 彼女の姉はふたりの行為がふしだらだと言わんばかりに抗議を申し入れた。

 すなわち、

 

「うい、あーん……」

 

 実の妹に向けての開口攻撃。

 効果の程は、言うまでもなく。

 

「ほわぁ」

 

 それは平沢唯が平沢唯たるゆえんとも言えるような顔だった。眦が極端に下がった瞼は双の弓を成し、多少朱色を孕んだふたつの頬はこたつの熱に由来するのかなんなのか。半開きの口元からはだらしなくよだれが垂れ落ち、それがお代わりを要求しているサインだと言うのは受け取り主が憂であからわかることだった。

 

「ほわぁ」

 

 よって唯の二連続ほわぁである。

 

「えへへー」

 

 そんな姉に、簡単に言ってしまうのならば憂は萌えたのだろう。唯ほどだらしなくはないが、おおよそ三等星くらいの煌めきを唯に向けていた。それを受け、唯は人知れず勝ち誇って見せた。

 一連の動作に何一つ口出しせず黙って眺めていた律だったが、しかし唯が最期にみせた顔だけは彼女の鼻にぴったりとくっついてしまい、

 

「――――――――――」

 

 声にならない感情があらわになる。

 

「え、なになにりっちゃん、嫉妬?」

「な、そんなわけないだろ!」

「そんなこと言ってー、充分照れてるよー」

 

 天然と言うのはなぜこうも声高に反論してしまうようなことを、相手に悪気を全く感じさせずに言い放つことができるのだろう。

 

「お、お姉ちゃん……あんまり律さんをからかっちゃダメだよ」

 

 そして彼女の妹はなぜこんなに気立てがいいのだろう。

 律は思う。もし自分が男の子だったら、絶対に憂ちゃんを手篭めにしていると。

 

「むうぅぅ」

 

 唯の唸り声を背景に、憂は言う。

 

「律さん、あの、律さんさえよければみかんを……」

 

 そしてつまみあげるのは、橙色の宝石。

 それがゆっくりと、律の口元目掛けて進んでくる。

 

「――あ、あーん」

 

 邂逅は目の前。

 甘酸っぱい乙女のような恋の味と、ひと時のアバンチュール。

 

「ぱくっ」

「……あれ?」

「ほわぁ」

 

 されど宝石は横槍によって奪い取られ、代わりに本日四度目のほわぁが披露された。

 

「っておい、それあたしのだろ!」

「りっちゃんのものは私のものだよぉ、わっはっは」

「どこぞのガキ大将みたいなこと言うな!」

 

 意気揚々な唯に対し、律は疲労感がとてつもなかった。正月早々平沢家を訪れたのは間違いだったと、いまの律なら声を大にして言えることだろう。

 

「律さん」

 

 しかし神様は――この場合は『女神様』だろうか。彼女とて、無常ではない。

 返事をしながら律は振り返る。さっきは横にいたと思ったのに憂ちゃんったらいつの間に後ろに移動したんだ、などと考えながら――

 

「――――――――――!」

 

 そこには「えへへー」と笑ってみせる憂の顔。

 目の前には、口に触れるかどうかのスレスレまで迫った細い指。

 半ば投擲でもするように放たれたそれは律の口へと見事に吸い込まれ、反射的に彼女の唇は閉じられた。

 甘噛みすれば、広がる乙女の味。

 

「ほわぁ」

 

 律が待ち望んだ、ひと時の、アバンチュール。

 

「あーーーーーーーーーっ!」

 

 だがそれを快く思わない人間が向こう側にひとり。

 

「りっちゃんずるいよ!」

 

 今度ばかりは程度の優しい抗議では済まされなさそうな様相だ。

 

「な、何がずるいんだよ、あたしは憂ちゃんがくれるから食べただけだろ」

「だってもう二度目だよ」

「唯は四回だろ」

「回数の問題じゃないよ!」

「それ言い出したの唯の方だろ」

「……むうぅぅぅ」

 

 口を尖らせ唯は唸った。まあ図星なのは唯も承知してのこの態度だし、あとはこの場をどうフォローするか――律はそんなことを考える。

 徒労だった。

 

「そんなこと言うなら……」

 

 表情そのまま、突然唯は利き手の人差し指をびしっと律の方に向けた。

 

 

「次はどっちが憂にあーんしてもらうか、勝負して決めよ!」

 

 

「――――――――――はぁ?」

 

 なんでそうなる……そんな律の呟きはもちろん無視の方向で。

 

「準備してくるから、外に出て待ってて!」

 

 言い残すと、唯はリビングからダッシュで去っていった。

 彼女が消えたリビングは酷く静かで、それはそれで律はなんだか落ち着かない。

 居た堪れなさを痛感した律の顔は、自然と憂の方に向けられる。

 

「なんなんだろうな、あれ」

「さ、さあ……」

 

 自分が招いてしまった災厄だと言う認識があるためか、単に吃驚しているだけかどうかはわからないが、憂の歯切れはなかなかに悪かった。

 

(なんだかんだ言って、嫉妬してるのは唯なんだよな……)

 

 それがわかってしまっては、律が嘆息してしまうのもやむなしと言うものだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「待たせたねぇりっちゃん!」

「おせえよ!」

 

 外に出ることおよそ十五分。薄着ではないものの初春の陽光は暖房として活用するには威力が果てしなく弱く、とどのつまり寒い。

 正月の寒空にひとり待ちぼうけ、傍から見れば間抜けな絵面である。

 

「ごめんごめん、ちょっと探すのに手間取っちゃってさあ」

 

 これが唯の作戦なら律は容赦しないところだが、どうやら唯は真面目に何かを探していたようだ。その証拠に、髪の毛が少し跳ねている。

 

「んで、その袋は?」

「これ?」

 

 探してきたものが入っているのだろうが、唯は袋をひとつ提げていた。

 

「……知りたい?」

「もったいぶらずにはやくだせ」

「むうぅ」

 

 唯は唸るが、しかし律に従った。律以上に、唯は寒いのが苦手だ。

 袋を地面に置いて、中に手を突っ込む。

 

「じゃーん!」

 

 在り来たりな効果音と共に取り出したのは、

 

「――羽子板?」

「いえす!」

「しかも、そこそこ立派じゃん。綺麗だし」

「これね、まだ私と憂が小さかった頃に隣のおばあちゃんにもらったものなの。昔はお正月になるとふたりで羽根突きしたんだけど、いまは全然だなあ」

「晴れ着とか着てか?」

「そうそう! んでも今日は着付けしてくれる人もいないし、普段着のままでりっちゃんをやっつけちゃうよ!」

 

 幼少期の経験があるからだろうか、唯は妙に強気だ。

 

「ほほう、言うねえ。その強気がいつまで続くか見物だあねぇ」

 

 律は羽子板を受け取り、唯に向けた。

 

「返り討ちにしてくれるっ!」

 

 ――ふたりの間に流れる空気は、真剣勝負のそれだった。

 挑まれた勝負を、買ってやらないわけにはいかない。ましてや相手は唯だ、背を向けてもはたまた負けても田井中律の名前に傷がつく。

 経験者だろうと、推して参るのみ!

 

「行くよ」

 

 羽を手に唯が言う。

 

「来い」

 

 律は、静かに同意した。

 刹那、羽は唯の手から離れ、数瞬のうちに正月の晴れ渡った空にカーンと言う乾いた音が響き渡る。

 賽は投げられた。

 スカイブルーのキャンバス高くに打ち込まれた羽は、しかし頂点に見切りをつけると今度は速度を伴って落下を開始する。

 まるで吸い込まれでもするように律目掛けて羽は降る。

 それは見事な放物線を描いてはいたが、さりとてそれに見とれるいとまも拍手を送るだけの余裕もカチューシャの少女にはない。

 律は半身になって羽を呼び込んだ。

 複数箇所の打点を考察し、その最良を見極め――羽子板を振る。

 インパクト。

 

「――あ、あれ?」

 

 しかし描かれた放物線は唯ほど綺麗ではなかったように思える。

 角度の問題か、それとも打点か。

 考えるが、結論は出ない。――初打ちなのだから、仕方がないが。

 

「ほいっ!」

 

 唯は返された羽に対し綺麗に羽子板を出した。

 冬の冷たい空気を切り裂き、羽子板は向かう。

 羽を飛ばすために――律に打ち返すために。

 

『ぶんっ』

 

 コトッ。

 虚しいだけの音が、ふたりに届く。

 

「――あ、あれぇ?」

 

 俗に言う、空振りである。

 

「い、いまのは何と言うか、練習なんだよ? ほら、スポーツの前には準備体操が必要でしょ?」

 

 その素振りがやたらと綺麗だったがゆえに、その言い訳がより見苦しく思えてしまう。

 

「な……そんな目で見つめないでりっちゃん」

「変なこと言うな」

 

 ぺし、っと律は唯の頭を軽く叩く。

 

「いたた……」

「嘘つけ、全然痛くしてないぞ。ってか、唯」

 

 ほえ? と惚け顔になる唯に律は真顔で訊ねた。

 

「墨は?」

「……すみ?」

「羽根突きってあれだろ、ミスったらミスった相手に墨で落書きできるやつ」

「あ、ああ……れ、そんなルールだっけぇ……?」

「惚けてもダメだ。墨どこ?」

「わ、我が家にそんなものはないんだよ……?」

「嘘つけ。この中だな」

 

 言うと律は唯が持っていた袋の中に手を入れる。

 

「ああ……お代官様、御慈悲をぉ」

 

 唯が晴れ着でないのが少し惜しいなと律は思った。これが和服なら「良いではないか~良いではないか~」と始まるところなのに……いやいまは関係ないな、とかぶりを振りつつ。

 

「……あの、唯さん?」

 

 袋の中から取り出したものを携えた律は目を疑った。

 

「なんだこれ」

 

 唯は左手を見る。

 

「筆だね」

「そっちじゃねぇ! 右手に持ったビンの方だよ!」

 

 律が手にしたビンには黒い液体――かなりどろりとしているが――が入っている。

 

「だから言ったじゃん、我が家に真っ当な墨なんてないんだよぉって」

「真っ当なってなんだよ真っ当なって! そんなこと言ってなかったろ。いやだからこれはなんなんだよ?」

 

 唯は息をひとつついた。

 

「……イカスミ」

「イカスミぃ?」

 

 律の顔が瞬時に歪んだ。

 

「か、どうかはわからないけど、とりあえず冷蔵庫の中にあったのを持ってきました」

「おま、もしかしてこれが墨の代わり……」

「や、でも無理に罰ゲーム的な要素を取り入れなくてもいいんじゃないかな! ほ、ほら、もとは憂にあーんしてもらう権利をかけてのものだったわけだし」

 

 ああそんな動機だっけ、と律は今更ながら思う。勝負の開始に無駄に気持ちが高ぶったせいで大元を失念していたが、しかしいまの彼女にとっては動機などどうでもいい。

 

「これを、塗るつもりだったんだな……」

「ぎくぅ!」

 

 擬音を口走ってしまうあたりが唯らしいと言えば唯らしいが、そうでなくとも先程より挙動不審なのは火を見るより明らかであった。

 

「……なあ、唯」

「な、なにかなりっちゃん!」

 

 律はふうぅっと息をひとつつき、そして、

 

「覚悟ぉっ!」

 

 唯目掛けて突進する。

 

「ふわあぁぁぁっ!」

 

 突然の出来事に唯は成されるがままの身となり、気がつけばその身に上に律を乗せた格好で一応は落ち着くこととなった。いつ尻餅をついて、いつ律が馬乗りになったのかを唯は明確に記憶できなかった。記憶処理が追いつかなかった。

 それほどに、あっという間の出来事。

 

「ふふふ、ゆぅいちゃぁん……」

 

 不適に笑う律の顔は、唯の恐怖心をかりたてるに最適だ。

 

「り、りっちゃん……や、やめにしないこんなの」

「なに言ってんのさ、言いだしっぺは唯だろ」

「あう……そ、それは、確かにそうだと思われますけど……」

「だよな、わかってんじゃん」

 

 言いながら、律はイカスミのビンを開けた。

 少々固かったが、女の子のチカラであけられないほどではない。

 

「うわ、これ結構濃度あるな。こんなに濃かったか、イカスミって」

「し、知らないよ……」

 

 それは筆をつけて持ち上げれば、先からもったりとした液が時間をかけてゆっくり落ちていくほど。

 

「まあいいや。その方が、ペイントも楽だし」

 

 律は筆を構えた。

 

「お、お代官様ぁ……」

「ん?」

「御慈悲をぉ……!」

 

 ニコッと笑った律は一言。

 

 

「断る♪」

 

 

 その瞬間、虚空に甲高い悲鳴が吸い込まれていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「うぅっ……」

 

 地べたにへたり込む泣きっ面の唯は、まさしく事後のそれである。右頬には律によって描かれた大きな傷跡のような落書き。六弦少女自身がその具合を知るには至れないものの、歳の近い女の子によって文字通りのキズモノにされてしまった衝撃はあまりにも大きかった。

 

「もう私、お嫁に行けない……」

「お婿さんでももらえば?」

「そう言う意味じゃないよぉ」

 

 知ってる、と言いながら律はにやけが止まらなかった。

 

「くくっ……うひひ」

 

 我ながら卑しい笑い方をするもんだと思いつつも、それがいまの律の正直な感情であったため自戒なども起こりはしない。満々にまで充たした自信をひけらかしていた相手を手玉にとってみせたのだから、頬が緩んでしまうのもやむなしと言うものだ。

 

「そんなに笑うことないじゃん」

「いや、だってなぁ……はははっ」

 

 瞳には涙を湛え、唯は思いっきり律を睨み付けた。その顔が思いのほか可愛く、少女の顔はまた別の意味で緩んでしまう。

 

「また笑った!」

 

 もはや難癖だな。律はそう思うものの、口には出さない。

 一方の六弦少女には余裕らしき余裕と言うものがなかった。相手が律とは言え思いっきり恥を掻いて、その上辱めまで受ける始末。

 

「くうぅ…………」

 

 きっちりと落とし前をつけない以上、この気持ちだけはどうにもなりそうにない。

 瞬時にそれを悟った唯は立ち上がっては、臍を固めたと言わんばかりに力強く大地を踏みしめる。

 

「お、まだやんの?」

「当たり前じゃん」

 

 嘲笑を孕んだ律の蔑みにも屈せず、少女はいつかの彼女と瓜二つの仕草を取った。

 

「今度こそ、りっちゃんをギャフンと言わせるもん!」

 

 打席に入ったバッターが友敵もしくは衆目に向けホームラン宣言する様よろしく羽子板の先を彼女に指し向ける唯の姿は、律の闘争心を煽るのに適当だったことは言うまでもない。

 

「まあ、返り討ちになるのは目に見えてるけどな」

 

 売られた喧嘩ならきちんと買う。それでも、先程の一打で唯の威勢がブラフだとわかった以上、律は気構えることもなく自然体を維持した。板を握る握力は前節程ではなく、むしろ固さが失われたぶんだけ、少女間の勝率、予想されるパーセンテージに確実な開きが生じているだろう。

 

「行くよ」

「来い」

 

 そのやり取りだけは変わらぬまま。

 

 ――カン。

 

 新春の空の下で再び鳴り響く、乾いた音。

 律の目測では、唯の打ち放った羽は先程よりも高い場所を頂点と決めたようだ。

 z軸の変遷に伴い角度も落下速度もx軸y軸の交わる終着地点も全てが変化する。

 高々一秒強の間にそれらを処理し打ち返すのは、初体験者にとってはなかなかどうして至難の業だが、それでもひとたびの経験と心に生まれたゆとりが体感速度を鈍らせる。

 脳内に瞬間的に描き出されたイメージを辿り、律が手に持つ羽子板を振りぬけば、此度は前回よりも評価できるだろう綺麗な放物線が青空を裂く。

 空中とは決別し重力との恋に落ちた黒点は、唯の顔面をピンポイントで狙っていた。

 

「あうぅっ」

 

 音こそせず、しかし代わりに声が鳴る。

 額に受けた羽の威力は相当だったか、ふらふら覚束ない足取りはいつかの際に脱力を知り、臀部が地べたと御成婚と相成るハッピーエンドを迎えたのだった。

 無論、当人は結婚なぞ容認するわけもなかったが。

 

「いたた……」

 

 尻餅ついた腰を浮かせ患部を左手で優しくいたわりつつ中腰になった唯の前に、さて現れたのは筆とイカスミのようなものと、開けたおでこを持った魔女。

 

「さて、次は何描こっかなー」

 

 言うまでもないが、律の顔は緩んでいる。にやりと口元を吊り上げ隙間から白い歯を覗かせる姿は、漆黒の外套を纏っていても何の違和感も感じさせぬだろう、そんな風格を漂わせていた。

 

「魔女っ子りっちゃん、悪魔の微笑みばーじょん……」

「なんだそれ」

 

 意味不明だとは口に出さぬまでも唯のそれを軽く流すと、律は手にした筆に目一杯イカスミのようなものを付着させ、しかし刹那のうちにはもう落書きを終了させる。それこそ、唯の「あっ」と言う声が、消えたか消えぬかの間の出来事。

 筆の辿ったあたりを――ひんやりとした筆先がくすぐった頬の場所を思い返せば、鏡を待たぬ唯であっても律に何をされたのかは想像するに容易かった。

 

「――くくっ」

 

 間の抜けた表情が『それ』の良い引き立て役となっていた。ゆえに漏れる、再びの律の笑い声。

 

「……むうぅ」

 

 勝負に負けたことよりも律に笑われることが悔しんだ唯は、他人を小馬鹿にしたような笑い声に少なからず腹を立てていた。もはや大元などどこ吹く風、最悪両者がそれを忘れても戦いはなお続いていきそうな様相を呈し始めていたものの、唯の顔に笑いが止まらぬ律も、律の顔に怒りが収まらぬ唯も、それを知り得ることはなかった。

 

「似合ってるぞ、唯……くくくっ」

「笑いすぎだよ!」

 

 律により右目に沿っての周囲が黒ずんでいる唯は眦を吊り上げ居た堪れなさを抗議する。

 しかしながら律は涼しい顔だ。

 

「なんか、ちょっとばかし可哀想になってきたんだけど」

 

 それが律の本音か、単なるからかいかはさておくとして。

 

「……懲りないなぁ」

「当たり前でしょっ!」

 

 結果的に、その一言は唯を立ち上がらせるきっかけとなった。屈辱に支配され打倒田井中律に心が炎々と燃え続ける唯が向けた羽子板は、わずか数分前の同じ姿よりも何故だか凛々しく律には映る。

 

「今度こそりっちゃんを負かすから!」

(羽を打ち返せないんじゃ勝負にもならないけどな)

 

 とは、言わず。

 律はただただ、嘆息した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「……もう描ける場所がないんだけど」

 

 肌色は僅かにのぞめるだけのもので、唯の顔の大半を占めるのは本来ならば顔面にあるはずのないミッドナイトカラーのイカスミ、のようなもの。彼女の戦績が芳しくないのは言わずもがな、律の顔が未だ無傷であることからも見れるように、スコアは七回やって唯の零勝七敗。うち唯が羽を一度も打ち返せないシークエンスは実に五度を数えた。

 言ってしまえば、律の完全試合状態である。

 

「……無理して描く必要ないよ?」

「しょうがない、塗りつぶすか」

 

 唯の声はやはり届かない。目一杯頬を膨らませて怒気を表現してみるものの、さりとて律にはそれが「どうぞ塗りつぶしちゃってください」とみずからキャンパスを提供しているようにしか見えず。

 数回、筆は唯の頬肉を撫ぜる。

 それだけで終わりだった。

 

「イカスミパック完了だな。明日になったらお肌つやつやかもな」

「それ、本当?」

「知らない」

 

 くくっ、と律は笑う。だが「また笑った!」と咎めるだけの意気は残念ながら唯には残っておらず、同時に「今度こそりっちゃんを負かす」ために再試合を申し込むだけの体力精神力も大幅に欠落している。

 

(ようやく負けを認める気になったのか)

 

 そんな彼女を見て律が持つのは、至極平和的な感想。

 

「もう充分だろ。寒いし、中入ろうぜ」

 

 敵の戦意喪失した様を見せ付けられてまで、律がその場に留まろうと考えるはずもなく。計七戦やって所要時間は体感でおおよそ十分から十五分と言ったところだが、正月の寒空の下、そう長々と寒風に晒されるのも御免だ。風の子と言われた時代はとうの昔に過ぎ去っている。

 唯はのそのそと立ち上がりはしたものの、やはり元気と言うか、覇気が完全に失われている。高々四半時間でも人間は変われるんだな、と律は薄く思いつつ、仕方ない唯の代わりに片付けをしてしまうか、と敗者を一瞥した後回れ右をした。

 

(ほんとはこう言うのって、負けた人間がするんじゃないのか……)

 

 自分がそれなりにお人好しであることに少しばかり嫌気がさしたものの、文句を言おうと何の生産性もないことも悟っている彼女は、溜息ひとつついただけでさて片付けようかと右手に持っていたビンを地面に置いた。

 刹那。

 

「え――」

 

 その声が、途切れるか途切れないかの狭間。

 

「っ――――」

 

 臀部に響いた痛みは地面とそれが接触したためだと気づくより、空の蒼さが眩いと改めて思えるのは自分が上を向いているからだと知り得るより、カチューシャの少女が真っ先に直面したのは下腹部の辺りに何か圧力がかけられている、と言う現実。

 

「りっちゃん……」

 

 て言うかお前、いつの間に正面に回りこんだんだよ……。

 そんなことを、思えど口先から出てくることはなく。

 

「な、唯!」

 

 平沢唯に乗られている事実に、律はただ驚愕した。

 手には、先程置いたビンが握られている。

 

「へへ、次はりっちゃんの番だよぉ」

「ちょっとまて、何でそうなるんだよ!」

「私だけイカスミパックじゃ、不公平だよね」

「ないない、全然不公平じゃない!」

 

 律は叫ぶが、しかし唯は先程までの律を倣って聞こえぬ振りだ。

 

「どうしよっかな。ねえりっちゃん、どうすればいいかな」

「何もせずにいますぐ降りろよ」

「そうだね、ただイカスミパックするだけじゃ何の面白みもないよね」

「ヒトの話を聞けよ!」

 

 えー、と反応しつつ、唯の顔はにやけている。

 

「そっか、りっちゃんはさっきまでこんな気分で私にイタズラしていたんだね」

「イタズラじゃねぇ! 大体唯だって場合によってはあたしにそうするつもりだったんだろ!」

「そっか、そうだね。じゃあちゃんとしなきゃね」

 

 話が噛みあわないことに徒労を感じつつ、だが律は溜息をつくことができなかった。

 それでも思う。唯が持っているのは、ビンのみだ。

 筆を握る手に、力がこもる。

 

「って何してんだ!?」

「へ? だって筆はりっちゃんが持ったままだし、こうでもしないと塗れないじゃん」

 

 右手人差し指を黒でべったりと染めた唯は真顔で律の方を見やった。

 負けた、と思うほかなかった。

 

「んーどうしよ、おでこにおめめじゃ在り来たりだしなあ」

 

 律はもう、喋らない。

 

「あそうだ、お歯黒なんてどう?」

「はぁ!?」

 

 つもりだったのに、天然っ娘がそうはさせない。

 

「斬新じゃない? お歯黒。きっと似合うよ、りっちゃんなら!」

「どういう意味だそれ!」

 

 唯の指が律の口に迫る。叫んだばかりで、だが人差し指を口腔内に進入させるわけにもいかず、律は咄嗟に口を閉じた。

 

「――あ」

 

 声をあげたのは、唯。

 彼女の指は、律の唇に触れていた。

 

「っ――――――――――!」

 

 音が消える。鼓動が高鳴っているだろうに、さりとて律には何も聞こえてはこない。

 目は大きく見開かれ、ただ一点――人差し指から先に伸びた腕の更に先、顔黒少女のただただ無表情なそれを映し出す。

 やがて律の聴覚が音を取り戻し始めた頃、唯の人差し指は静かに口元から離れていった。まるでそれがスイッチであったかのように、律の感覚と言う感覚が再起動を開始したのだ。

 鼓動は、やはり高鳴っていた。なにやましいことなどないはずなのに、なかなかどうして収まる気配をみせてはくれない。

 唯は唯で、触れた指先をしばらく眺めては、一部分だけ塗装がはがれたように肌色へと戻ったそれを、

 

「――――――――――」

 

 言葉にならない、悲鳴。律の鼓動は、更に高鳴る。

 自分の唇に人差し指を当て、唯はどこかはにかんだような笑みを浮かべた。

 

 ――ああ、どうして。

 

「りっちゃんの唇……」

 

 ――天然と言うのは、こうも憎めない存在なのだろう。

 

「やわらかい、ね」

 

 そんな顔して笑って目を閉じて、あたしの唇めがけて吸い寄せられるように迫ってこられたら何抗うことも拒絶もできないじゃないか!

 矢継ぎ早にまくし立てようと、所詮は内心。

 律にできることは……流れに身を任せること、それだけ。

 

 

「――――――――――――――――――――な、に……してるんだ?」

 

 

 何かが地面に落ちる音、そして聞き覚えのある声が、また彼女の時間を止めた。

 いや今回は彼女だけではない。

 唯の唇は律のそれに残り数センチと迫って――ぴたり、と止まった。

 六弦少女の目が開かれたのを合図に、律は声のする方へと視線を移す。

 見知った顔――その中でも、腰まで伸びる艶やかな黒髪を持つ少女は数えるまでもなくただのひとりだった。

 

「み、お……どうして」

「親戚の家に行った帰り、憂ちゃんに会って……」

 

 ……近かったんだな、親戚ん家。ただそう思うだけである。

 

「お前らが、喧嘩してるっていうから……仲裁に……」

「あれ、憂は? いないの?」

「っていまさらかよ!」

 

 思わず律は声を荒げてしまう。憂が出かけていったのは唯が探し物をしている最中の話なので、もう三十分ほど前のことである。それに全く気がつかないのは、なんとも唯らしくあるが。

 

「……みおちゃん?」

 

 気がつけば唯は澪の方を向いていた。いつの間に、と律が思わぬこともなかったが、さりとて唯の視線を追えばそんな思考も刹那のうちに吹き飛ぶ事態が発生していたりもして。

 それは――自分たちふたりが作り出したこの変な雰囲気に変な体勢が与えた衝撃か、それとも唯の顔面が与えた恐怖か、両方か。圧倒的に最期である可能性が高いが。         

 

「みお! おい、しっかりしろっ!」

 

 立ったままの気絶は、もはや彼女の得意技か。

 そんな黒髪ロングの美少女を見ながら唯は苦笑するだけだ。

 律は、もう長息するほかなかった。願わくば……いままで起こった全てが、今年の初夢と消えますように、と切に祈りながら。

 

 

「って言うか、とっとと降りろー!!!」

 

 

(おしまい)

 


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