先に進んだ魅子と麟は、互いに少し距離を取って飛行していた。
なぜ距離を取って飛行しているかと言うと、前を進む魅子と並んで飛ぶことが麟にはできなかったのである。
麟という少女は初めて友達を怒鳴りつけた。
魔理亜から話を聞いて魅子の想いを知り、つまらない理由で足踏みする彼女を見ていられなかったからだ。
そのおかげで麟は気まずい思いをしている。
それこそが麟と魅子の微妙な距離の原因である。
「麟」
「え、ひゃい!」
突然魅子から声を掛けられて麟は慌てた。
慌てて返事をしたため、噛み噛みだった。
魅子の表情は伺えないが、麟が後ろから見ると彼女の耳は仄かに赤く染まっていた。
「ごめんね。私ってば異変のこと、完全に頭から抜けてた」
「あー、うん。私の方こそごめん。偉そうなこと言った」
友からの謝罪に、麟はどうしていいかわからなかった。
相変わらず前を進む魅子の表情は見えない。
表情は見えないが、その声音から彼女が多少落ち込んでいることが麟にはわかった。
「偉そうなことは言ったけど、間違ったことは言ってないと思ってる」
「……うん、麟のおかげで頭を冷やせたよ」
「だったら、落ち込んでないで元気を出しなよ! 異変、解決するんでしょ?」
麟は魅子に追いつくようスピードを上げる。
固く握りしめられていた彼女の手に、麟は自分の手を重ねた。
それに気付いた魅子が麟の手を握りしめる。
少し強かったのか、麟の手が魅子の手の中で苦しそうにもがいたが、魅子は力を弱めなかった。
「うん、異変を解決する。私が異変を解決するんだ」
「そのためだったら私は魅子の力になるよ」
「……ありがとう。ありがとう、麟」
魅子はそう言って、麟から手を離す。
そして、魅子はそっぽを向いてしまった。
そんな恥ずかしがり屋な友人の素振りを見て、麟はおかしそうに笑った。
魅子は笑われているのに気づいていたが、それを咎めない。
しばらく無言で先を進んだ。
その無言を二人は気まずく思わず、むしろ心地良いくらいに感じていた。
やがて霧の立ち込める湖が見えてきた。
霧の湖と呼ばれるそこを魅子は知っていた。
彼女たちが目指す目的地は近い。
「麟、この先に紅魔館があるわ! でも、凄い霧ね」
立ち込めている霧は全て赤く染まっており、霧から感じる悪意を考えると人間である二人がこの中を突っ切るとどうなるかわからなかった。
無理に通り抜けても、その後に控える吸血鬼を退治するだけの余力を残せるか不安である。
ここで、麟が魅子の前に出た。
「この湖を通ってる間は私の後ろをついて来て」
「任せるわ」
麟の能力を知っている魅子はすぐに頷いた。
麟は霧の湖にためらいなく突っ込む。
湖に立ち込める霧は、麟を避けるように左右に分かれて散った。
後ろを飛ぶ魅子にも霧が触れずに済んでいる。
魅子の服が飛行によって発生する以上の“風”を受けてはためく。
麟がいるおかげで、霧の湖の赤霧が問題にならない。風神のように風を操る彼女のおかげだ。
二人はトップスピードで霧の中を駆け抜けた。
霧を抜けると、目が痛くなるほど真っ赤な建物が現れた。
赤すぎるほどに紅い館。紅魔館である。
そこには侵入者を迎え撃つために豪勢な門が建てられており、門番も配置されていた。
しかし、空を飛べる二人に門など関係ない。
「わっ」
まったく気にせず存ぜず、門を見なかったことにして進もうとする二人を弾幕が遮った。
鮮やかな弾幕に一瞬見惚れる麟と、行く手を遮られて止まった魅子。
二人を止めたのは当然、門番である。
「私を無視して館に侵入しようなんて、良い度胸してますね」
二人に声を掛けたのは中華風の少女だった。
少女というには些か育ちすぎているかもしれないし、中華風と評するには細部にフリルをあしらった衣装などが何処か偽物臭い。
彼女は侵入者である麟と魅子に対して丁寧な物腰で対応し、その目には敵意がないように見えた。
敵意がないように見えても、魅子の行く手を遮るというなら敵だ。麟はそう断じる。
スペルカードを取り出して、中華風の少女に向かって麟は見せつけるようにカードを掲げた。
「冴月 麟。あなたを倒します!」
「どうも、紅 美鈴です。あなた“方”を止めます」
「魅子、ここは私に任せて先に行って!」
麟と魅子は一瞬だけ目を合わせた。魅子は何かを感じ取ったのか頷くと、麟を置いて門を越えようと飛翔した。
門番は甘くない。門を越えようとした魅子に向けて弾幕を放ったのだ。
スペルカードを構える麟への警戒も怠らず、飛行する魅子に精確な攻撃を放った美鈴の技量は高い。
しかし、美鈴は麟がスペルカード用に溜め込んでいた魔力を彼女の弾幕に放つとは考えなかったようだ。
魅子の目前まで迫った弾幕は麟の放った暴風に巻き込まれ、呆気なく消えた。
弾幕に怯まず立ち止まらなかった魅子をもう追撃しても届かない。
美鈴は呆れたように笑い、してやられたと頭を掻いた。
「やりますね。相手を信頼してなければあんなに素直な飛び方はできない」
「私たち、友達だから。ここは魅子に任されちゃったから、あなたの相手は私なんです」
「私も、もう一人逃がすほど甘くはないです。相手になりましょう」
魔力を使い切り、スペルカードを発動するのにインターバルが必要な麟に先んじて、美鈴がスペルカードを掲げた。
麟はその姿を見て緊張から喉を鳴らす。彼女にとって初の妖怪退治だ。
もっとも、麟自身は呑気にもこの中華風妖怪を人間なんじゃないかと勘違いしていたが。
それでも魅子以外と弾幕ごっこを行うのは初めてである。緊張するのも無理はない。
美鈴の赤い髪がスペルカードの光に煌めく。
「スペルカードは三枚で戦りましょう。では、失礼して。華符『芳華絢爛』」
スペルカードを宣言すると同時に、美鈴の体から赤と黄色の弾幕が飛び出す。
全方位に向けて放出される弾幕は一見逃げ場がないように見えるほど苛烈に、そして美しく辺りを侵食していった。
麟は魅子相手に弾幕を避ける訓練をしてきたので、とりあえずは隙間を見つけながら避けることができた。
麟が逃げ場を求めて上空に上がると、美鈴から放たれる弾幕が花の形を象っていることに彼女は気づいた。
――綺麗だな。
「あ」
一発の弾幕が巫女服を掠める。麟はいま、完全に気を取られていた。
頭を振りかぶり、気合を入れてから美鈴の弾幕に向かう。隙を見てショットを撃ちこむつもりだ。
麟の初の妖怪退治は本人が自覚することなく始まっていた。
◆
門前を麟に任せて先を進むことに成功した魅子は薄暗い館の廊下を歩いていた。
吸血鬼の館だからか、それとも館の主人の意向なのか。館内は薄らとした明かりしかなく、目が慣れるまで魅子は苦労した。
館の窓は全て鉄製の扉によって固く閉じられ、入ることはおろか中を伺うことすらできない有様だった。
そうやって厳重に密閉されているにも関わらず、なぜか館正面の扉には鍵がかかっていなかったのだ。不用心なものである。
だからこそ魅子は正面扉から中に入り、こうして館を闊歩している。
キョロキョロと周りを見回しているのは警戒しているからであって、恐怖心から来るものではないと本人は声高に叫ぶだろう。
「外で見た館の大きさと、内部の広さが違うような……」
魅子がこの館に侵入してから感じていたのは内外の差異だった。
外で見た館の大きさを一とすると、中の空間は十くらいの広さがある。
ここまで見た目と異なると、魅子は別の空間に迷い込んでしまったのではないかと錯覚してしまう。
「それは咲夜の仕業だな」
「うわ、びっくりした! 萃香、いきなり声かけないでよ」
ポケットの中からくぐもった声が聞こえて、魅子が飛び跳ねる。
魅子の声は静かな館の中で響き渡った。
声の主は萃香である。ずっとポケットの中にいたはずだが、麟と合流したあたりから静かになっていた。
「さっきまで寝てたんだよ。起きたら麟の嬢ちゃんとお前さんが仲良くしてたから、気を使って黙っていたんじゃあないか」
「うるさいわね! ずっと寝てなさいよ」
魅子はタメ口にも萃香の扱いにも慣れたようで、恥ずかしさを誤魔化すように彼女の小さい頭を指で弾いた。
デコピンによるお仕置きを受けてなお、萃香は懲りずに意地悪い笑みを浮かべる。
まだ館の謎がわかっていない。
魅子は顔を引き締めて萃香に尋ねた。先ほど萃香が口にした名前が気になるのだ。
「萃香。その咲夜ってのは一体誰なの?」
「この館の主、レミリア・スカーレットの従者だよ。メイドさんだ」
「そう、瀟洒なメイドよ」
魅子の質問に対して答えてくれたのは萃香一人ではなかった。
音もなく、気配もなく。魅子が気付いた時には銀髪の麗人が彼女の近くに現れていた。
給仕服に身を包み、その所作はまさに“瀟洒”であると表現するべきだろう。
ずいと顔を近づけてくる彼女から魅子は距離を取り、急に現れた不審者を鬱陶しそうに眺める。
「あなたが、咲夜?」
「人に名前を尋ねる時には自分から自己紹介するのが礼儀よ? 私は十六夜 咲夜。この館の主であるレミリア・スカーレット様の従僕。以後お見知りおきを」
「……わ、私は博麗の巫女、博麗 魅子よ! あんたの主を懲らしめに来た!」
十六夜 咲夜と名乗った少女は、魅子に親切な物言いで礼儀を教えた。
それは教師が教え子の間違いを訂正するようでもあり、親が子供に物を教える時のようでもある。
魅子はこのメイドに対してやり辛さを感じた。
自分への対応が魔理亜に似ているのだ。魅子を見つめる目つきが侵入者に対するそれではない。
咲夜が魅子に手を伸ばす。何かするのかと魅子は身構えたが、咲夜の手にはいつの間にかカードが握られているだけで、彼女自身に害はなかった。
何も持っていなかった咲夜の手にいつの間にか握られているカードの秘密を魅子は見抜けず、妖怪特有の妖気を出していない彼女に疑問を持った。
「あなた、人間?」
「そうよ、私は一生死ぬ人間。人間で吸血鬼の従者。面白い?」
「面白いか面白くないかで言ったら、面白いわね。それで、そのスペルカードで私と戦う気?」
「そうよ」
咲夜が手に持っているのはスペルカードだ。
魅子もそれを見て懐からカードを取り出す。本日二度目の弾幕ごっこ。
魅子がジッと目の前のメイドを観察する限り、どうにも先刻戦った氷精や妖怪とは格が違うように思えた。
それでも博麗の巫女は退かない。
「スペルカードは三枚くらいにしておきましょうか。お嬢様も待ちかねていらっしゃるし」
「待たせるつもりはないわ。すぐにお嬢様とやらを迎えに行ってあげる」
「あら、言うじゃない」
魅子の挑発に対しても、咲夜の眼差しは変わらない。
敵意がないことが何よりも魅子を苛立たせる。
咲夜はスペルカードを手に持っている割には宣言する様子もなく、魅子をただ見つめているだけだ。
先手を魅子にくれてやるつもりらしい。
譲られているようで魅子は良い気分ではないが、先手をくれると言うのならやぶさかではない。
「先に攻撃していいって言うなら遠慮しないわ!」
魅子は自分の周囲にお札を張り巡らせる。
左手にお祓い棒を持ち、右手にスペルカードを掲げた魅子の周囲に視覚化するほどの結界が現れる。
咲夜はこの技に見覚えがあった。
「夢符『二重結界』」
「なるほど。流石あの子の娘ね」
咲夜の呟きは魅子には聞こえなかったようだ。
友人の娘の成長が喜ばしいが、勝負は勝負だと咲夜は顔を引き締めた。
この技は博麗大結界にも通じる恐ろしい技なのである。
広大な館の廊下を覆い尽くさんばかりに放たれるお札の弾幕。
このお札の軌道はかなり変則的というか、変だった。
魅子の張った結界は二つ。
彼女を取り囲む小さな結界と、それを更に取り囲む大きな結界だ。
魅子が放ったお札が小さな結界に当たるとお札がワープする。
大きな結界から現れるのだ。ただし、お札が向かう方向は外側じゃない。
お札は内側、つまり小さな結界と魅子の方に向かう。
そして小さな結界にお札が当たると、大きな結界の外側から飛び出してくるのだ。
更に小さい結界の中でグネグネと動くお札の群体は外に出る時は直線的に動く。
何とも摩訶不思議なスペルカードだった。
大きな結界はこの広い廊下の七割ほどを占め、お札が外側の結界から現れるのは咲夜の目前である。
それでも彼女は慌てず騒がず、瀟洒に弾幕を躱していく。
咲夜がお札の隙間を縫うようにショットを放つが、二重結界の前に弾かれてしまった。
――やはり、ショットは通らない。霊夢の時と同じね。
咲夜はナイフが弾かれてから、ショットを撃つことを止めた。
冷静に機を見計らい、咲夜はこのスペルカードに慣れ始めたころに動いた。
お札を上手く潜り抜け、どんどん魅子に接近していく。
しかし、咲夜は弾幕ごっこの死地に潜り込んでしまった。
そう、魅子がルーミアと戦った時のようにデッドゾーンに侵入してしまったのである。
だが、咲夜は被弾しなかった。
この時、魅子は一切目を離していないと誓えるほど咲夜を注視していた。
そのはずなのだが、魅子が気付くと咲夜はどこにもいない。
「後ろよ」
「なっ……あんた、いつの間に!」
「移動に時間を掛けるのは嫌いなの」
魅子のスペルは全方位に発射されている。
咲夜が魅子の後ろを取ったからといって安全地帯に逃げ込めたわけではないが、それでも彼女の心に動揺を来たした。
一瞬であれだけの距離を移動することなんて自分の母親にだってできないと、魅子は心の中で思ってしまった。
隙ができれば隙間が生まれる。魅子の弾幕と結界に綻びが生じた。
咲夜は既に手を打ってある。魅子に声を掛けた時にはもうナイフが手から離れていた。
魅子は咲夜によって投擲されたナイフに被弾した。ナイフは魅子の心の隙間を縫うように通り、彼女まで辿り着いたのだ。
ナイフは刺さることもなく、魅子の服を破る程度に収まったが被弾は被弾。
あっさりと『二重結界』を攻略する咲夜に魅子は戦慄する。
『二重結界』というスペルカードの特徴と言えば“予測不能”だ。
魅子から放たれるお札は内側の結界をあたり、外側から内側へ、内側から結界の外へとばら撒かれる。
被弾者は弾幕が自分のところまで来る距離、時間、弾幕の軌道といった情報がわからないまま弾幕を食らうことになるのだ。
これほど恐ろしいものはない。
このスペルを考案した博麗 霊夢の天才性が伺えるというものだ。
咲夜のショットに直撃して動揺した魅子だったが、何とか弾幕は持ち直した。
それでも咲夜に弾幕が当たることはなく、魅子の結界は収縮して破裂した。
キラキラとした結界の残骸が紅魔館の廊下に光の雨を降らす。
「あら、綺麗ね」
「……どうして」
「え?」
咲夜がキラキラと光る結界の欠片を見て感心している一方で、魅子は俯いて震えていた。
「どうして、このスペルカードを躱せるの!!」
魅子の叫び声が廊下に響き渡った。
魅子はこのスペルに絶対の自信があったのだ。
妖怪に特別な威力を発揮する『陰陽行列』や『夢想封印』は妖怪相手なら有効な弾幕である。
今回の相手は人間だ。それなら弾幕ごっこそのものに強い弾幕を。そのつもりで繰り出したのが『二重結界』である。
博麗大結界にも通じるスペルカード。魅子がこれを教えてもらった時は母に対しての尊敬の気持ちで胸がいっぱいになった。
高度な技術でもあるため、魅子には習得が難しかった。いまは厳しい修行の末こうして習得している。
その思い出深く、魔理亜や麟にも見せたことがないスペルカードをあっさりと、異変の首謀者でもない小間使いに破られたのだ。
魅子は怒りから体が震えた。拳を握りしめ、敵を射殺さんばかりに睨む。
「私がどれだけ苦労して、がんばってこのスペルカードを覚えたと思っているのよ!」
「おい、落ち着け……」
「萃香は黙ってて!」
感情的になる魅子を諌める為、萃香が鎮めようと口を挟むが、彼女はこれを一蹴した。
感情的になる博麗の巫女というのも珍しい。
咲夜は丁寧に、当たり前のように説明した。
「そのスペルカードを見たことがあるからよ」
「なんですって……」
咲夜はいつの間にか手にナイフを持ち、クルクルと弄んでいた。
丁寧な口調と反対にふざけた行動をする咲夜に魅子は不快に思うが、口を挟むのは止めた。
魅子の内心に蠢く納得のいかない気持ちを解消することの方が、彼女自身にとって大事だからだ。
咲夜は昔を懐かしむように遠くを見る。
「その昔、月の異変で争った時にそのスペルを受けたことがあったわ。恐ろしいスペルよね。結界の中が“反転”するなんて」
「……気づいていたのね」
咲夜の言った通り、『二重結界』は結界の中を反転させるスペルカードである。
結界の中すべてを反転させるわけではない。内側の結界から外側の結界の間を反転させるのだ。
『二重結界』の弾幕中“お札がワープする”という表現を使ったが、あれは誤りである。
ワープしていたのではなく反転していた。もっと言えば、魅子が放ったお札はすべて真っ直ぐ飛んでいたのだ。
そう見えていただけ、そう見えるように細工する結界。視覚と錯覚の二重結界、それこそが夢符『二重結界』なのである。
「あなたは、母さんの敵だったの? それとも……」
「そこまでよ。私は敵。今度は私の番」
魅子はここまで博麗の技を知り尽くしている咲夜に対して疑問が浮かぶ。
彼女が霊夢の知り合い、もしくは友人なのではないか。
そのような考えが咲夜への敵意を削いでいく。
戦闘中に余計な考えを巡らせるのは完全に魅子が未熟な証拠であるが、彼女はその思考を止めることができなかった。
そして咲夜本人に聞いてしまいそうになる。
人が良いことに咲夜自身がその質問を遮り、スペルカードを構えてくれた。
「敵を見なさい。敵のことだけを考えなさい。あなたの時間も私のもの……」
魅子が物心ついてから友人と呼べる友人が魔理沙くらいしか霊夢にいなかった理由。
思考の沼に嵌りそうになった魅子を救い上げたのは、奇妙なことに敵である咲夜だった。
奇妙な奇術師咲夜が構えたスペルカードによって魅子は現実に引き戻される。
「魅子、油断するんじゃないぞ!」
「わかってる。気合入れてくわ」
萃香の激励に対して、魅子は自分の頬を叩いて応じる。
もう『二重結界』を破られたことへの落胆も、咲夜の存在についての疑念もないようだ。
これは咲夜が魅子に掛けたアドバイスが功を奏したのだろうか。
はてさて、それは誰にもわからない。
「私にとってあなた程度、時間稼ぎにもならないわ!」
「時間稼ぎなら任せてちょうだい。得意なの。奇術『ミスディレクション』」
咲夜がスペルカードを破り捨てる。
すると彼女の体がぶれた。実際にぶれたのかどうかはわからないが、魅子の目にはそう見えた。
彼女がいた場所から大量のナイフが投擲される。既に咲夜はその場にいない。
いきなり来たナイフの大行列に魅子は慌てて回避行動を取った。
魅子が避けた先、ニッコリと咲夜が微笑んで待ち構えていた。そしてまた咲夜の体がぶれる。
咲夜がいなくなった後にはまたナイフが残されており、魅子に刃を向けた。
魅子が避け、咲夜が逃げた先で待ち構える。イタチごっこのように追いかけっこを行い続ける二人に終わりが見えなかった。
魅子が痺れを切らして萃香に尋ねる。
「これ、どういうことなのよ! 萃香、あんたなら何かわかるんじゃない?」
「うーん、勝負に口出しするのはなあ……」
魅子がたまりかねて萃香にこの現象について尋ねた。
萃香はポケットの中で唸り声を上げており、乗り気ではないようだ。
「今度お酒付き合ってあげるから!」
「じゃあ、ヒントだけ。この廊下にあれだけナイフが投擲されてるのに、その残骸がどこにもないことを疑問に思うんだな」
魅子の提案した条件を聞いて萃香の声音が喜色に染まった。
魅子の提案に飛びついた萃香が、答えは教えないまでも重要なヒントを教える。
それを咲夜も聞いていたようだ。待ち構えていた先で苦笑している。
「萃香、私の能力をバラすなんて酷いんじゃない?」
「よく言うよ、あれだけ台詞にヒントを織り交ぜてたくせに」
「なんのことかしら」
咲夜がわざとらしい苦笑いを浮かべた。
呆れる萃香に咲夜は苦笑いを消してすまし顔で惚ける。
「え、ほんとになんのこと?」
それを見た魅子が何かありそうだと思ったが、さっぱりわからなかった。
当然魅子の質問には誰も答えてくれない。ここからは自分で考えなくてはいけないのだ。
――あれだけナイフをばら撒いておいて、この広い廊下にはナイフが一本も落ちてない。あいつがナイフを回収してるってこと?
魅子の推測は咲夜自身が放ったナイフを回収しているというものだった。
この場において誰も証明してくれないが、それは正しい。
――だとしたら、どうやって……あいつの台詞にヒントが混ざってるって言ってたわね。
咲夜が魅子と出会ってから投げかけてきた言葉の数々。
魅子にとって一番耳に残っているのは『敵を見なさい。敵のことを考えなさい』だった。
その言葉は魅子がいくら頭を捻っても能力には繋がらない。
――あなたの時間も私のもの……あいつが言ってた、あの助言の後にそう言ってた!
『移動に時間を掛けるのは嫌いなの』『あなたの時間も私のもの』『時間稼ぎなら任せてちょうだい』
そう、時間だ。咲夜はしつこいぐらいに時間という言葉を使ってきた。
魅子の頭の中でパズルのピースが埋まった。
「そうか、あんたは時間を操るのね」
「気づいちゃった? もう、萃香が余計なこと言うから……」
「わざとらしい」
魅子がポツリと呟いた言葉を聞いて咲夜が感嘆の吐息を洩らした。
それを萃香のせいにして作為的な困り顔を浮かべるが、雰囲気から喜んでいるのがバレバレだった。
魅子は気付いたのだ。咲夜の奇術の正体に。
にわかには信じがたい話だ。人間が時間を操るというのは驚愕である。
魅子は咲夜の能力の正体がわかったことで頭のモヤモヤが晴れて爽快な気分になった。
その心に釣られて弾幕を避けるのも流暢になるほどだ。
だが、避けながら気づいてしまった。不変の事実に気づいてしまったのである。
咲夜も魅子が気づいたことに気づいたようだ。その口元には笑みが浮かぶ。
「あんたの能力がわかっても対処の仕様がないじゃない!」
魅子は驚きから目を丸くして、心からの悲鳴を上げた。
そう、咲夜の能力がわかっても魅子にできるのはせいぜい心構えくらいである。
時を止めるのを止めたりするなどといった芸当ができるわけもなく、結局は咲夜の能力がわかった以上の進展はないのだ。
咲夜の能力についてのモヤモヤは晴れたが、状況を打破できるだけの情報ではなかったことが魅子の頭に新しく靄をかける。
魅子は試合に勝って勝負に負けた気分だった。
「萃香、あんたもあんたよ! この状況が何も解決してないじゃない!」
「お前が聞いたのは咲夜の能力についてだろ? 私は別に攻略法を教えてくれなんて言われてない」
魅子は萃香のこともやり玉に挙げたが、やつ当たりでしかないので流されてしまった。
正々堂々を自負する鬼の萃香が勝負の攻略法なんて教えてくれるわけがない。
咲夜の能力は慣れるしかない。幸い、魅子は咲夜の能力を知ったことで心構えはできている。
突然現れていきなり弾幕を放つ咲夜に慣れるしかないのだ。
こうして話している間にも、咲夜は消えて現れてナイフを放つ。
咲夜の弾幕自体は直線的にナイフが飛んでくるだけなので、構成としては単純だ。
咲夜の時間停止能力も驚異的なものだが、スペルカード自体はそう難しくない。
どこに現れるかわからない咲夜だが、現れてからナイフが出て来るまで一瞬の間がある。
そこを狙えば魅子でも避けることが可能だ。
冷静に対処すればそこまで難易度は高くない。
魅子はこれまでの経験と合わせて危なげなくナイフを躱していった。
魅子が弾幕に集中し、ひらひらと回避しているうちに咲夜がナイフを放つのを止めて廊下に降り立った。
スペルカードを攻略したようだ。
咲夜の弾幕は終わってみればあっけないものだった。
魅子はどうにか被弾せずにスペルカードを終えられたことに安堵して溜息を吐く。
「スペルカード……ブレイクよ」
「息が荒いわね。大丈夫?」
「大丈夫よ! そっちこそ、スペルカード破ったりなんかして大丈夫なのかしら?」
スペルカードは妖怪の賢者が用意した契約書のようなものであり、実は貴重な存在なのだ。
設定するのにも手間がかかるし、消耗品のように扱うことはできない。
魅子は若干の心配と多量のからかいの意味を込めて咲夜にそう言った。
咲夜はあまり気にした様子がない。魅子の言葉にも特に反応せず、欠伸を隠すために手を口元にやった。
彼女の失礼な態度に魅子はムッとする。
咲夜を睨んだ魅子はあることに気づく。彼女の手にはいつの間にかスペルカードが握られていたのだ。
それを見て魅子は慌てる。
「ちょっと、連続でスペルカードを使うつもり? 次は私の番でしょ!」
「あらあら、私ってば信用ないのね。ほら、さっきのスペルカードよ、これ。どこも破れてないでしょう?」
咲夜は見せつけるようにひらひらとスペルカードを翻した。
先ほど確実に破り捨てたはずのスペルカードなぜか彼女の手元にあり、魅子は目を白黒とさせる。
萃香はそれを見て呆れたのか、咲夜をジト目で睨んだ。
「咲夜、それいつもの手品だろ。性格悪いぞ」
「マジックと呼んでちょうだい。そっちの方が瀟洒よ」
彼女のこだわりは知らないが、性格が悪いのは否定しないようだ。
からかわれたことに気づいた魅子は顔を赤くして手を振り回した。
「わ、私を謀ったわね!」
「心配してくれてありがとうね、素敵な巫女さん」
「もう許さない! 叩きのめしてやる!」
魅子がスペルカードを取り出し、咲夜はそれを見て笑う。
まだまだ二人の勝負は続きそうだ。
外はもう暗くなり始めていた。
◆
時間は少し遡る。美鈴の弾幕に見惚れている麟が自分に喝を入れるところまでだ。
スペルカード三枚の制限で始まったこの勝負、スタートを切った美鈴は様子見のつもりで弾幕を放っているらしい。
麟は実戦経験が少ないものの、ここ二ヶ月ほど練習相手をしてきたのが魅子、霊夢、萃香、魔理亜といった強者たちだ。
そんな彼女にとって様子見で放たれる美鈴の弾幕は物足りない。
物足りないが、楽しんではいた。麟は美鈴の美しい、魅せる弾幕を楽しんでいた。
麟は弾幕ごっこが好きだ。自分が空を飛べ、普通の人にはない力があると気づいてから、魅子と初めて弾幕ごっこをやったあの日から弾幕ごっこが好きだった。
まず、弾幕ごっこというものの存在を知って胸が躍ったものだ。
人間と妖怪が比較的安全に、公平に勝負を行えるように取り計らったのがスペルカードルールである。
麟はそのルールを聞いてなぜか無性に嬉しくなったのだ。
血なまぐさい争いよりも美しさで。
美しさと思念に勝る物は無し。
勝ちたいという意思は持ちつつ、魅せたいという心も持つ。
そんな弾幕ごっこが麟は大好きだった。
弾幕ごっこを通して麟は魅子ともっと仲良くなれた。
霊夢と弾幕ごっこをして博麗の巫女という存在の意味を知った。
魔理亜の『マスタースパーク』を受けて、理解できなかった彼女を少しだけ理解できた。
萃香のスペルカードを見て、妖怪の恐ろしさを感じた。
遊びは学び、学びは喜び。だからこそ彼女は喜んで空を飛びまわる。
麟は美鈴にショットを撃ち続け、彼女がどういった反応をするかワクワクしながら待った。
美鈴は迫りくるショットを感知し、無駄な動作なくそれを避ける。
麟はそれを見て素直に感心した。
なぜなら、麟のショットは見えないからだ。
彼女の能力をネタばらしすると、風を操ることである。
魔力によって風を操り、それを相手にぶつけるのだ。
見えない攻撃を初見から察知して避けるというのは難しい。
麟はそれをやってのけた美鈴を素直に称賛したのだ。
ただし、厄介だと思ったのだろう。美鈴は予定よりも早く弾幕を止めた。
麟のショットは単発だが、ただでさえ早くて見えない。
彼女にショットを撃たせる余裕がないくらい苛烈な弾幕で攻めなければ自分でも厳しいと美鈴は判断した。
「もうやめちゃうんですか?」
「まるで続けて欲しかったような物言いですね。あなたのショットは厄介なので、止めさせてもらいました。」
麟が浮かべた惜しむような表情を見て美鈴は苦笑を浮かべる。
「じゃあ、私の番ですね」
「はい、受けて立ちます」
麟は右手に“霊力”を込めた。
その様子を見ていた美鈴が眉を寄せる。
風を放っていた麟は魔力を使っていた。いまの彼女が使っているのは霊力。
そのことが美鈴には引っかかった。
「私の風が厄介だと言いましたね? こっちはどうですか?」
麟が地面に向かって溜めた霊力を撃ちこんだ。
すると枯れていた木から花が芽吹き、麟の下まで花びらが舞い上がった。
幻想郷では霊が花を咲かせる、と言われているのはご存知だろうか。
六十年周期で幻想郷の花々が咲き誇る異変が起こる。
これは厳密には異変ではなく、霊の溢れかえった幻想郷で霊が植物に取り憑くことで花を咲かせるという自然現象だ。
麟が扱った霊力も、それに類似するものだった。
これについては謎が多く、幻想が溢れる幻想郷ならではの現象である。
それを人間の麟が行ったという事実は驚愕に値する。
麟が自分の能力に気づいた時、博麗神社では彼女の能力を利用した季節外れの花見酒が楽しまれた。
その場で彼女の能力について深く考える者はいなかったのだ。
強いて言うなら、麟の能力を気に掛けているのは魔理亜くらいのものである。
そして、麟の能力を目撃することになった美鈴は驚愕から開いた口を閉じることができなかった。
――これが人間が行うことか……何だ、この違和感は?
彼女は能力の特性上、誰よりも力に詳しく敏感だ。
その彼女には麟の能力が不思議でしょうがなかった。
だが、彼女には思考する暇はない。
麟はもうスペルカードを掲げている。
「花符『老木開花』」
彼女の周りを回る花びらは形を持って美鈴に襲い掛かる。
花びらが象ったのは鳥だ。
動植物に詳しい美鈴でも見たことがない鳥だった。
鳥は美鈴に向かいながらも弾幕を撒き散らしていく。
美鈴は弾幕にも注意しながら向かってくる鳥を避ける。
鳥は追尾型ではないのか、美鈴を追ってくることはなかった。
それでも鳥から吹き出す弾幕は油断できるものではなく、美鈴は鳥の動向を注意深く観察していた。
花びらが象った鳥の弾幕は美鈴を追いかける様子もないが、この場から遠く離れることはできないらしい。
麟の周囲をグルグルと旋回したり、急にUターンしたりと動きに統一性もない。
スペルカードルールには言明されていないが、武人である美鈴にとって相手から隠れることは美しくない。
よって、美鈴は鳥から離れた位置に逃げることができなかった。
美鈴はランダムな鳥の動きに苦戦しながら、それでもやり辛さは感じなかった。
変わった弾幕だとは思うが、これといって特徴もない。
鳥から放出される弾幕も苛烈というほどではないし、鳥自身も動き回っているだけだ。
美鈴はこの弾幕から感じる“生きた気”が不気味に思えたが、それでもスペルカードとしてはあまり完成されていないように見えた。
そこで、美鈴は体に衝撃を感じた。その衝撃は体のダメージ以上に心に響き、一瞬動きを止めてしまうほどだった。
その衝撃は弾幕にぶつかったわけでも、鳥と激突したわけでもない。
衝撃の原因は麟だった。
麟は片手を美鈴に突きだしており、その手から放出された風が美鈴を叩いたのだ。
つまり、麟はスペルカードを展開しながらショットを放ったということだ。
スペルカードの維持にはそれなりの神経を使う。だから心が乱れたり、ショットを食らうと弾幕が止まってしまうことがあるのだ。
ルーミアが魅子に放ったレーザーも、彼女の存在が不安定だったために途中で止まってしまった。
スペルカードを使いながらショットを撃つなんて余程器用な者か力のある存在にしかできない。
その常識を美鈴は知っていただけに、彼女が受けた驚愕は筆舌に尽くしがたい。
「なぜ……」
「あー、やっぱりこれって反則なんですか?」
「いや、反則ではないと思いますけど」
反則ではないが、反則的な行為ではある。
サッカーをやりながら野球をするような反則ぶりだった。
美鈴は失礼ながら、麟を見ても特に感じるところはなかった。
自分の主や博麗 霊夢、霧雨 魔理沙に感じるような強者の風格を麟には見出さなかったのだ。
それがどうしてこのような技量を持っているのか。美鈴にはわからない。
「えっと、これは私の能力が原因なんです」
麟は頼まれてもいないのに、自分の能力を語り出した。
お人好しなのか、馬鹿なのか。魅子に甘いと叱られるのも無理がない気がする。
麟の行動に美鈴は更に困惑した。
美鈴は困惑しながらも鳥の弾幕を避け続け、麟は説明しながらもショットを撃ち続けた。
「私の能力は霊力で花を咲かせるんですが、その時に生命体のエネルギーを利用するので私が制御する必要はないんです」
制御する必要がない。つまり、弾幕に神経を使う必要がないということだ。
鳥が弾幕にしてはあまりにも無造作でお粗末な行動を繰り返しているのもそのせいである。
「私のスペルカードは生きている。だから、その不死鳥を操ることはできないけれど、私はショットを撃つことができる」
「……なるほど。不死鳥か」
枯れていた木から芽吹いた花が作る鳥。まるでおとぎ話に聞く不死鳥である。
美鈴の知識にもこの鳥が該当しないわけだ。
これは幻想の鳥、不死の鳥だったのだから。
「それに、そろそろ終わりが来ます」
麟がそう言うと、不死鳥は鳴き声を上げた。
弾幕の量は増え、さっきまでの温い弾幕に慣れていた美鈴は避けるのに手こずる。
不死鳥を見ると、その体がどんどん小さくなっていた。
どの鳥の鳴き声にも該当しない、名状し難い叫び声のようなものを上げながら不死鳥は羽ばたく。
放たれる弾幕は花の形を象り、不死鳥の体から抜けだして行く。
その体が一般的な鳥のサイズになるころ、不死鳥は美鈴の方へくちばしを向けた。
いままでの緩慢な動きはどこへやら、猛然と美鈴に迫る。
不死鳥の最後の攻撃は、美鈴があっさりと回避して幕を閉じた。
美鈴に避けられた不死鳥は麟に牙ならぬ、くちばしを向けた。
麟は不死鳥の攻撃を避けず、その場に留まる。
彼女が両手を開いて不死鳥を受け入れると、その体は花びらに戻った。
「お疲れ様でした。ありがとう」
「……良い弾幕ね」
いつの間にか、美鈴の口調が崩れていた。
それは麟のことを認めたということであり、親しみを込めた口の軽さだった。
麟もそれに気づき、笑顔を浮かべる。
美鈴は麟の弾幕を見て後悔した。
手始めに様子見で弾幕を仕掛けたことをとても後悔していた。
紅 美鈴という妖怪は、麟という人間の持つ美しさに魅せられていた。
スペルカード、ただの弾幕に生命を与えるその業の深さ。
扱うのは枯れ木。死んでいるモノを復活させ、力を借りる。だからこその不死鳥。
もし地獄の裁判長が見たら罪深いと説教するかもしれないが、美鈴にはあの弾幕がとても美しく見えたのだ。
「あなたに見合う弾幕を届けよう」
「うん、楽しみ」
麟の口調もいつの間にか崩れている。
それに気づいた美鈴が笑顔を浮かべる。
美鈴が太極拳の構えを取る。その手にはスペルカードが握られていた。
「虹符『彩虹の風鈴』!」
美鈴の体から赤、黄、緑、青、紫の弾幕が飛び出した。
圧倒的物量。美鈴の体から溢れ出すように弾幕が飛びだして行く。
麟も覚悟を決めていたが、想像以上に強く美しい弾幕に魅せられていた。
麟の飛行は風を操って行うが、美鈴の弾幕の影響か上手く風に乗れない。
この場を埋め尽くさん限りに放出される弾幕は風の流れを乱していたのだ。
麟のセンサーが鳴り響いた。彼女は風を読むことで弾幕の軌道を知ることができるが、こうも大量の弾幕相手では把握しきれない。
さっきから彼女の警報は常にレッドランプを光らせている。
ショットを撃つ暇なんて当然ない。
虹が麟に襲い掛かる。
雨上がりの空に浮かぶ虹が、本来アーチを掛ける虹が弾丸となって麟を狙い撃つ。
被弾こそしていないものの、麟の白黒巫女服はところどころ破けて彼女の肢体が露わになりつつある。
腋が丸出しの衣装だったが、このままでは袖がなくなってノースリーブになってしまう。
まだノースリーブになるくらいなら良い。被弾したら負けてしまうのだ。
――まだ負けたくない。もっと彼女の、美鈴さんの弾幕を見ていたい。
麟は弾幕に身を任せる。風の流れに乗るように、自然に。
美鈴の激流のような弾幕に対して抗わず、沿った。
するとどうだろう。麟は紙一重、僅かな差で弾幕を躱していくではないか。
自分も美鈴の弾幕の一部になるように、麟は彼女の放つ虹の一色として参加した。
「上手い。そして素晴らしい……けど、それだけじゃダメ」
虹は装いを変える。
新たに加わった一色を排斥するためか、もしくは飲み込もうとしているのか。
弾幕は麟へと迫っていく。
予め変化を起こすように設定していたチルノとは違う。
美鈴のそれは完全に彼女の意思で弾幕を変化させていた。
ルール違反かとも思われる美鈴のこの行為。
もちろん麟はそんなこと欠片も思っていないが、弾幕ごっこに造詣の深い者なら意を唱えるほどの異変だ。
だが、美鈴のこの行為は厳密にルール違反とは言えない。
スペルカードを途中で変化させることができないというのは、別にルール上の問題ではないのだ。
八雲 紫という妖怪の賢者がいる。
彼女は大妖怪としての実力と高等な智慧を認められてその地位に立っている。
スペルカードを配布しているのも彼女だ。
そのスペルカードは契約書で誓約書である。
そこに書かれた、記録された弾幕は発動から終了まで変更することができないという制約がある。
ルールというより、法則としてそう決まっていた。
それでは美鈴の弾幕が突然変化したことの説明がつかない。
八雲 紫に匹敵する大妖怪ならば、このスペルカードを自分の力でどうにかできるかもしれない。
しかし、お世辞にも美鈴は大妖怪と呼べるほどの妖気も実力も備えていなかった。
そんな彼女が起こした奇跡。
これは人間の魔法使い『霧雨 魔理沙』なら簡単にできることで、最強の巫女『博麗 霊夢』にはできないことだ。
妖精のチルノだって気づかずにやっている。
「スペルカードルールの理念、美しさと“思念”に勝るものなし!!」
美鈴の叫びを受けて、弾幕が大きくうねりを上げる。
彼女の叫びに呼応したかのような、生きているかのような脈動がそこにあった。
麟の周りはいつの間にか、弾幕ごっこのデッドゾーンに変わっていた。
彼女に弾幕を躱す術はない。
咄嗟にスペルカードを取り出した麟の判断は正しい。
彼女は懐からスペルカードを取り出し、高々と掲げた。
「風符『風虎咆哮』!」
麟の体から虎を模した風が生まれ、美鈴の弾幕を食い散らかした。
被弾目前まで迫っていた虹の弾幕は、一発も麟に当たることなく消失した。
思い切りの良い麟を見て、美鈴はニッと笑みを浮かべた。
彼女の決断力に美鈴は感心しているのだ。
「ボムか。良い判断ね」
「うん、美鈴さんの弾幕が凄すぎて使っちゃった」
ボムとは、弾幕ごっこにおける緊急手段の一つである。
弾幕に死地があるのは説明したと思うが、デッドゾーンを切り抜ける方法も存在する。
八雲 紫が配布しているスペルカードは恒常的な効果と瞬間的な効果の二種類の作用を発揮する。
例えば、少女たちがスペルカードを掲げて行うスペルカード宣言。
これは交代交代で弾幕を繰り広げていたと思うが、それが恒常的な効果だ。
もう一つがボム。相手の弾幕を躱しきれない時にスペルカードを発動すると弾幕を消失させる高威力な弾幕が出現する。
とても便利で有用なものだが、当然欠点もある。
スペルカードルールでは基本的にカードの枚数を設定して戦闘を行う。
二枚なら二回、三枚なら三回弾幕を張れるのだ。
ボムを使用すると使用可能な枚数が一枚減ってしまう。
つまり、自分の攻撃回数が一回減少することになる。
先攻なら最後に相手の弾幕を二連続で受けることになる場合があるし、後攻でも最後のチャンスが相手に移ってしまう。
回避行動のためにスペルカードを消費するというのは、躊躇いが生じるものなのだ。
冷静さを欠く戦闘中には、どうも欲張りたくなるものだ。
何か避ける手はないか、スペルカードを使わないで済まないか。
そんな在りもしない考えを巡らせて被弾してしまう者は多い。
何の躊躇いもなくスペルカードを切った麟の行動を美鈴は素直に称賛した。
「これで次が私のラストスペルか……」
「ボムを使ったこと、後悔しているか?」
「美鈴さんに『風虎』を見せられなかったのは残念だけど、悔やんではないよ!」
麟の『風虎咆哮』もボムとして使わなければ弾幕として活用できた。
もっとも、被弾したらそこで弾幕ごっこは終了。美鈴にも『風虎咆哮』を見せることはできないのだが。
麟の判断は一部の隙もなく正しかったと言える。
次は麟の番なのだが、彼女は口に手を当てて考える。
美鈴の実力を考えると麟のスペルでは太刀打ちできるものが手元になかった。
弾幕ごっこを始めてから二ヶ月で美鈴を苦戦させる麟も相当なものだが、未だ成長途中の彼女に紅 美鈴は荷が重い。
麟が頭を悩ませていると、彼女の頬を叩くものがあった。
「あれ、あなたは……」
それは麟がポーチに押し込んだはずの亀だった。
亀は麟のことをジッと見つめて首をクイッと動かしていた。
それが『自分も戦うよ』と言っているようで、麟はおかしくなって笑みを浮かべる。
「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいよ。でも、あなたはポーチの中に……え?」
麟が亀の頭を撫でていると、徐々に亀の体が大きくなった。
もうポーチには入らないであろう大きさまで成長した亀はそれでも巨大化をやめない。
美鈴も事情に気づき、あまりの事態に目を丸くしていた。
亀が大きくなるのをやめた頃には、麟が乗れるほどの大きさになっていた。
唖然とする麟に亀は首を甲羅に向けてクイッ、クイッと何度か曲げる。
「え、乗れってこと……?」
麟の言葉に亀は頷く。
彼女は恐る恐る亀の甲羅に足を伸ばし、その背中に乗った。
亀の甲羅は不思議な安定感と居心地の良さを有しており、ありていに言ってしまえば快適だった。
亀は麟が甲羅に乗ってから一拍置いて飛行し始めた。
「うわっ」
突然の飛行に、麟は慌てて甲羅にしがみついた。
麟を乗せた状態で亀は飛行、旋回、宙返りと、様々な技を披露する。
どれだけ荒っぽい飛行をしても麟が落ちる事はなかった。
それどころか麟は飛行の影響すら受けず、亀の甲羅の上に防壁でもあるのかと思うほど無風だったのである。
麟が恐る恐る手を離してみると、甲羅の上で立つことができた。
その時、麟はあることに気づく。
「これなら、あのスペルが使える!」
過去に魅子に見せ、失敗作だと言われたスペルカード。
あの霊夢をして威力は大したものだと称賛されたが、致命的な欠点があった。
かなりの集中力を要するため、麟が飛行不可能な状態になってしまうのだ。
弾幕ごっこにおいて飛行できないというのは致命的すぎる欠点だ。
だが、それはつまり飛行しなければそのスペルカードは使えるということである。
ダメ元で麟は美鈴に尋ねる。
「美鈴さん、あの……この亀さんも一緒に弾幕ごっこに参加するのって、ダメかな?」
あつかましいお願いだった。
亀とはいえ生物だ。
美鈴と麟の一対一は、亀が加わることで二対一になってしまう。
麟のお願いに対して美鈴はキョトンとしたまま頷いた。
「別に構わないんじゃない? 盾にしたり、その亀がスペルカードを使うって言うなら話は別だけど」
「本当!? あ、亀さんってスペルカード使わないよね?」
空を飛び、巨大化する亀だ。今更なにが起きてもおかしくない。
そう思って麟が尋ねると、亀は呆れたように鼻から息を吐いて頷いた。
美鈴も認めた、亀もスペルカードを使わない。
これで条件はクリアされた。
「じゃあ、美鈴さん。行くよ!!」
「応! そのスペルカード、受けて立つ」
麟が懐から取り出したスペルカードを口に咥えた。
右手に霊力、左手に魔力を込める。
スペルカードを口から離し、両手でカードを掴んだ。
カードは手に挟まれる形で空中に制止した。
「風花『花龍風月』!!」
カードを光が包み、その光は上下に分かれる。
光を失ったカードは麟が回収し、懐に入れた。
下に向かった光は不死鳥を作るのに使った枯れ木にぶつかり、上に舞い上がった光は目に見えるほどの風を集めている。
枯れ木からまた花が咲いた。
花は花びらを上空に飛ばし、空で待機していた風の塊にぶつかる。
花びらは風を覆いつくし、風は花びらを内側から変質させる。
風は霊力とぶつかったせいか、それとも強欲に風を集めすぎたのか色を持った。
青い風は花びらの鎧をまとい、龍を象る。
「私のスペルカードって、不死鳥、風虎、青龍だから……そこに亀のあなたを入れたらまるで四神みたいじゃない?」
麟は亀の頭を撫でながらおかしそうに笑う。
亀は麟の手に撫でられながら目を細めた。
「私って記憶がないけど、知識はあるんだよね。朱雀、白虎、青龍……そうね、あなたの名前は玄武よ」
玄武と名付けられた亀が首を回し、麟の手を舐める。
亀の表情なんて麟にわかるわけもないが、彼女にはその顔が笑っているように見えた。
麟の作り出した龍は花びらと青い風を撒き散らしながらゆっくりと移動した。
美鈴は自分に向かってくる龍を見て、まるで天災のようだと苦笑いを浮かべる。
そして、中国の四神に準えた麟のスペルを楽しみたいとも思った。
「行くよ玄武! これで終わりにする!」
「全力で迎え撃つ! 神を喰らってやる!!」
麟の激に玄武は首を縦に振り、美鈴を睨みながら飛行した。
その視線はまるで彼女の動向を気に掛けているようであり、ショットを警戒しているようにも思えた。
美鈴は始まったばかりのスペルに注意するため、一先ずショットを撃たないで避けることに専念する。
龍自体の動きは遅いが、龍がばら撒く風と花びらは厄介である。
風は色が着いているため目視できるが、意思を持っているかのようにランダムに動いている。
花びらは弾幕の美しさを際立てるための装飾だと思っていたが、先ほど美鈴の服を掠った時に鋭利な刃物に斬られたかのような切り口を生み出したため、避けるのが無難だ。
しかし、弾幕ごっこを長年続けてきただけあって、美鈴は少ない時間で麟の弾幕を把握しつつあった。
風はランダムだが決して直線的に動かないこと、花びらが直線的にしか飛ばないこと。
その二つを理解してからの美鈴はショットを放つ余裕すらあった。
「おっと……玄武、ありがとう。その調子でお願い!」
飛んできたショットに麟が慌てたが、玄武はそれをしっかりと回避した。
麟の感謝を受けて玄武はくすぐったそうに目を細めた。
この強力なスペルを発動している麟はショットを避けることができないが、玄武がしっかりと回避する。
亀のくせにのんびりと動かず、戦闘機のようなアクロバティックな飛行を披露する。
空中で逆さまになってもなぜか麟が落ちることはなかった。
美鈴はショットを撃ちながら、その性質も変化させていった。
直線的で早いショット、三方向に飛び出すショット、急に曲がるショット。
ショットについてはルール上、特に言及されていない。
良心的な性能で放つのが一般的である。
その点では美鈴のショットは良心的だった。
それぞれのショットに欠点を備えており、そこをよく考えれば避けれないものではない。
それなのに、玄武は美鈴のショットから逃れるのに苦労していた。
欠点を補っているのは美鈴の技量だ。
巧みに三種類のショットを使い分けて玄武を追い詰めていく。
「そこだ!」
美鈴のショットが遂に麟に届いた。
被弾こそしなかったものの、麟の巫女服を切り裂いたのだ。
美鈴は麟の服にショットが掠った時に油断してしまった。
油断と言ってもほんの少しのものだ。
弾幕を避けるのに関わるほど取り返しのつかないものではなかった。
なかったが、タイミングが悪かった。
麟の弾幕で美鈴が注意していたのは飛んでくる風と花びらだ。
特に何もせずにゆっくりと移動する龍を注視していなかったのは、彼女の重大な過失である。
龍は美鈴がショットを放った時に大きく口を開いていた。
その口には大量の霊力とも魔力とつかない力が溜め込まれており、たまたま美鈴が油断した時にそれが放出された。
「なっ、何!?」
目前まで迫るレーザー。
知り合いのスペルカードの火力に勝るとも劣らない威力が美鈴の体に向かって風を切って突き進んでいた。
しかし、油断していても流石と言うべきか。
美鈴はすぐさまスペルカードを取り出して掲げた。
「華符『破山砲』!」
美鈴のボムはレーザーを消滅させるには至らなかったが、レーザーを屈折させた。
レーザーは美鈴のボムに弾かれて赤い空を貫く。
レーザーに押されて美鈴はその場から動かされてしまったものの、被弾することはなかった。
美鈴も麟のように、躊躇いなくスペルカードを切った。
もし一瞬でも躊躇っていたら美鈴はレーザーに飲まれていただろう。
だが、勝負とは将棋やチェスのように二手三手先まで考えなければならないのだ。
レーザーによって強制的に移動させられた美鈴がいたのはデッドゾーン。
彼女には切れるスペルカードはなく、無抵抗のまま風と花びらの弾幕を浴びた。
◆
赤い秋空の下を悠々と飛行する魔法使いがいた。
彼女は手にミニ八卦炉と呼ばれるマジックアイテムを持って暖を取っていた。
秋も中ごろ、そこまで寒くない。
それでも彼女は冷えるのか、ミニ八卦炉の熱で体を温めていた。
「予想以上に手間取ったわ」
霧雨 魔理亜は氷精を打ち負かした後、のんびりと紅魔館に向かっていた。
途中、異変に釣られて活性化する毛玉や妖精を打ち負かしながらもその足取り、というか飛行は滑らかである。
体の冷えは収まったのか、ミニ八卦炉を自分の豊満な胸元に仕舞った。
その時、前方から極大のレーザーが赤い雲を打ち抜くのを魔理亜は目撃する。
自分や姉に勝るとも劣らないその威力は魔理亜の好奇心をくすぐる。
すぐさま目を輝かせて研究し始める彼女の瞳は幾何学模様が浮かんでいた。
「構成要素は魔力、霊力……あとは自然の力かしら? りんちゃんも面白い技を使うわね」
魔理亜はレーザーが何でできているか判別するとその口元に笑みを浮かべる。
もしも麟が使った技が霊力と自然の力のみで構成されていたら魔理亜は興味を持たなかっただろう。
それは畑違いだ。魔理亜の求めるものではない。
レーザーの発信源まで魔理亜は飛行速度を上げた。
景色が矢のように流れる。
やがて、倒れ込む二人の人影が見えた。
両方とも魔理亜にとって見覚えある人物である。
勝負に敗れて倒れている方は紅魔館の門番、紅 美鈴。
勝負に勝って倒れている方は博麗神社にお世話になっている記憶喪失少女、冴月 麟だ。
麟の傍らには魔理亜が見覚えのない巨大な亀がいる。
一先ず、魔理亜は麟の傍に寄って彼女を抱き起した。
麟の体は力の使い過ぎのせいか、それとも痩せているのかやけに体が軽く感じた。
「りんちゃん、大丈夫?」
「あ、魔理亜……うん、大丈夫。魅子を追わないと」
すぐにでも魅子を追いかけようとした麟が魔理亜から離れるが、力が入らずに地面へ倒れ込む。
倒れ込んだ彼女を支えたのは魔理亜ではなく、傍に控えていた亀だった。
亀は彼女を甲羅の上に乗せると美鈴の下まで飛行した。
魔理亜はその不思議な亀が気になって解析してみたが、何もわからなかった。
彼女の瞳にはその亀の情報は何も映らず、無理に解析しようとすると弾かれる。
解析を弾かれたことによる目の痛みから魔理亜は笑みを浮かべながら目を押さえた。
亀によって美鈴の下まで移動した麟は、ここで初めて倒れ込む彼女の存在に気づいた。
「玄武、ありがとう。美鈴さん……勝負、楽しかったよ」
「ふふ、私の事は呼び捨てでいいよ。私の方こそ楽しかった。これを受け取って」
美鈴は倒れたまま顔を上げ、右手を麟の掌に重ねた。
麟の手が光ったと思うと、彼女はこれまでの疲労が嘘のようになくなり、玄武の上で体を起こした。
美鈴は自分のエネルギー、気をほとんど麟に受け渡したのだ。
その光景を見ていた魔理亜には敵である美鈴がそんなことをする理由が皆目見当もつかなかったが、当の麟にはよく理解できた。
光を失った美鈴の手を握りしめ、麟は彼女と目を合わせた。
「美鈴、あなたの主人を私は……私と魅子は退治するよ」
「良い目をしているね。期待しているよ、麟」
それだけ言うと美鈴はグッタリと倒れ込んだ。
麟は彼女を抱えると門に背を預けるようにして寝かせた。
既に玄武は小さくなってポーチの中に戻っている。
麟はボロボロになりながらも、その身には美鈴の気が流れている。
まだやれる、まだ戦える。麟は拳を握りしめた。
「魔理亜、私は魅子を追いかける。あなたはどうする?」
「私はちょっと用があるの。別行動よ」
そう言って魔理亜は一人箒に跨り、紅魔館の裏に向かった。
麟は魅子が正面玄関から入ったのをちゃっかり見ていたので、彼女を追うために館の扉に手を掛けた。
麟が館の中に入ると、そこは薄暗くジメジメとしたあまり居心地が良いとは言えない場所だった。
麟にはそこが明るく気持ちの良い美鈴が住んでいる館だとは思えなかった。
広い廊下を進んで行く麟だが、魅子はおろか敵すら出てこない。
廊下もただ長いだけで扉らしきものもなく、真っ直ぐな道が続いているだけだ。
高そうな照明器具や絵画、壺をうっかり壊してしまわないように慎重に進んだ。
敵の屋敷に注意を払うというのもおかしな話ではあるが、麟はそういう奴なのだ。
照明器具、絵画、壺、照明器具、絵画、壺。
同じ風景が続いていく内に麟は気分が悪くなった。
廊下の先は見えないし、永遠にこの廊下が続いてしまうんじゃないかと不安になる。
照明器具、絵画、壺、照明器具、女の子、絵画、壺。
一瞬、麟は景色のゲシュタルト崩壊を起こしているせいか気づけなかった。
明らかに今までの景色にはなかったもの、いなかった人がいた。
前を向いたまま数歩下がって確認すると、その女の子は確かに存在していた。とても可愛らしい子だった。
幼い容姿に似合う赤いミニスカートにシャツの上から赤いベストを着ている可愛い女の子である。
麟と同じ金髪だが、彼女は就寝時に被るナイトキャップのようなものを被っており、彼女の可愛らしさを際立たせている。
そんな彼女の容姿の中で一番目立つ者が麟の目に入った。
木の枝に宝石がぶら下がったかのような変わった翼。
薄暗い廊下で光を放つ七色の宝石は照明器具のようにこの場を明るく彩っていた。
記憶はないが、知識はあるという麟は翼が生えているという特徴からある種族を連想した。
――吸血鬼?
この館の主は吸血鬼、この異変の首謀者は吸血鬼だったはずだ。
麟はそう考えて、置物のように大人しい少女に声をかけた。
「ねえ、あなたがこの館のご主人様……なのかな?」
自分よりも幼い容姿の相手だからか咄嗟に敬語が出てこない。
正直、この少女が館の主人だと言っても麟は信用できなかった。
妖怪が見た目通りの年齢で、見た目通りの実力でないのは萃香を見ているから知っているが、この少女からは呑んだくれの鬼のような凄みは感じなかったのだ。
強者の風格がない。
「ううん、それは私のお姉さま。私の名前はフランドール・スカーレット。レミリア・スカーレットの妹だよ」
少女、フランドールはニッコリと笑いながら綺麗な声でそう答えた。
先ほどまで人形のように無表情で動かなかった少女が突然表情を浮かべて動き出したので、麟は思わず身を引いてしまった。
こんな少女に嘗められたくない、敵に弱みを見せるわけにはいかないといった強がりが麟を一歩前に出させた。
「そう、異変の首謀者の妹なのね。じゃあ、私とも勝負する?」
麟がそう言った瞬間だった。
玄武がポーチの中から飛び出して巨大化、しかるのち麟に突撃した。
麟は当然衝撃を受けてぶっ飛ぶ。
廊下で無様に転がり、二転三転として仰向けになった。
先ほどまで一緒に戦っていたパートナーの乱心に驚き、文句を言ってやろうと立ち上がると麟は館の異変に気づいた。
壁がない。
さっきまで麟の後ろにあった壁がごっそりなくなっていた。
まさかと思い、フランドールを見ると彼女は手を突き出した形で制止している。
つまり、この壁を破壊したのはフランドールということになる。
この事実が麟に与えたのは闘争心ならぬ逃亡心だった。
既に小さくなっていた玄武にお礼を言いながらポーチに押し込め、脱兎のごとく逃げ出したのである。
麟は館の頑丈さに感心していたのだ。
彼女と美鈴の弾幕を受けてもビクともしない外側の壁。
戯れに弾幕を放ってみるも、弾かれて傷一つ見せなかった内側の壁。
魔力を操る麟ならわかることなのだが、館の壁は相当に強力な魔力で補強されていた。
その壁を一瞬で土くれに変える相手なんて、麟とは桁が違う。
それに、フランドールは壁に向かって攻撃したわけではない。
元々は麟に向けてあの手を伸ばしていたのだ。
もし玄武が助けてくれなかったら粉々になっていたのは自分だと思うと、麟はゾッとした。
「あはは、待ってよ。勝負するんじゃないの?」
「ごめん、前言撤回! 多分私死んじゃう!」
「追いかけっこかぁ。いいよ、楽しみ!」
麟は風を操って飛翔した。
それを見てフランドールも飛び上がる。
麟はもう館の内装なんか気にせずに風を吹かせまくった。
風にあおられて壺や照明器具が倒れるが気にしない。
麟が飛ばした家具を後から追いかけるフランドールが破壊しながら進んだ。
恐ろしい追いかけっこが始まった。
いきなり殺す気で攻撃してくる相手に、弾幕ごっこのルールが通じるとは思えなかった。
風をフランドールに向かって撃ちだして足止めを図る。
ショットで用いられるような甘っちょろい弾ではなく、威力と効率を重視した実戦的なものだ。
見えない風弾にぶつかったフランドールは体勢を崩し、近くの壁にぶつかる。
どうやら、足止めは成功のようだ。
麟はこれを機に飛行速度を上げる。
「痛いなあ……そういう戦いが望みなら――殺すよ?」
「ひっ!」
一瞬で麟の後ろまでフランドールが移動していた。
いまのフランドールはさっきまでの儚げな少女ではなく、完全に妖怪としての不気味さを放っていた。
麟は思い出す。
記憶を失って一人森に取り残され、妖怪に食われそうになった時のことを。
あの時の絶望と恐怖。
それが一片にフラッシュバックした。
「いや! 助けて……魅子!」
今度は誰も助けてくれない。
魅子の名を呼び、泣き叫んでも誰も助けてくれない。
絶望から、恐怖から叫び声を上げた麟は目を閉じた。
目を閉じ、来るであろう痛みを待っていた。
狩られる子兎が獅子を前に諦めたかのように、目を閉じて震えているだけだった。
だが、来ない。
痛みは来ない。
「つまんないの」
目を開けると、そこには拗ねたように唇を尖らせるフランドールがいた。
どうやら彼女は麟に興味を失ってしまったようだ。
伸ばしかけていた手を降ろすと倒れ込む麟の脇を通って先へ進んだ。
急に止まったフランドールに対して、麟は純粋に疑問を投げかけた。
「……ころさないの?」
「殺して欲しいの? ただ泣き叫ぶ女の子を殺す趣味はないもん。お姉さまに笑われちゃうわ」
麟は言われてから気づいた。
彼女の頬を涙が伝っていることに。
フランドールはそれっきり一度も振り返ることなく、館の闇に消えた。
一人取り残された麟は自分の体を抱きかかえるようにして、再び泣いた。
あの時の恐怖は本物だった。あの時の絶望は本物だった。
強者としての覇気がなくとも、フランドールの妖怪としての恐怖は本物だったのである。
それに中てられた麟は反射的に死を覚悟した。
人間が妖怪に喰われるという摂理から逃れられなかったのだ。
麟は思い知った。
弾幕ごっこで勝って良い気になっていた。
弾幕ごっこが強くてもそれはサッカーが強いとか、野球が強いとかスポーツレベルでの話だったのだ。
例え格闘技のプロでも人間が虎や熊に勝つことはない。
それと同じで、人間が大妖怪に真剣勝負を挑んで敵うはずがなかった。
博麗神社にいる例外を見ていたからか、それとも楽しかった二ヶ月間が忘れさせていたのか。
麟は記憶を失ってから初めに刻まれた恐怖という感情を忘れていた。
玄武がポーチから出て、頭で麟の頭を撫でる。
「ありがとう、玄武」
麟は魅子を追いかけるのを止め、少しの間だけ静かに泣いた。