前回の異変の舞台――紅魔館ではこの春の異変でも平常通りの生活が続けられていた。
紅魔館の当主『レミリア・スカーレット』は優雅にワインを飲みながら、遠くにある桜の木を眺める。
和と洋のコラボレーションに浸る自分に酔いしれているのだろう。
空っぽになったワイングラスを置いて、ステーキを一切れ口に含む。
豊潤な香りが口に広がり、適度に効いたコショウが口の中を刺激する。
そう、すなわち――
「うまい!」
なんとも呑気な吸血鬼である。
いまこうしている間にも博麗の巫女代行『冴月 麟』はリリー・ホワイトを元に戻そうと苦労しているし、霧雨 魔理亜はアリスと激戦を繰り広げているというのに。
レミリアは口の中にステーキの味が残っているうちにワインを飲もうとグラスを口に近づけた。
「あれ?」
レミリアが訝しげにグラスを覗くと、ワインは空っぽのままだった。
注いでないのだから当然である。
だが、いつもならこんなことはないのだ。
従者の十六夜 咲夜にかかれば主のワインが空っぽになった瞬間には新しいワインが注がれているはずだ。
それがどうしてか、ステーキを食べ終わるまで飲み物を空っぽにしたままにするなんて、初めてのことだった。
「咲夜、どうかしたの?」
ゆえにレミリアは傍に控えていた咲夜に声をかけた。
ボーっとしていた彼女は声をかけられてから初めてレミリアの存在に気づいたかのような反応をした。
「は、はい。すみません、私は大丈夫です」
「そう……なら、グラスにワインを注いでくれる?」
「す、すみません! ただいま……」
咲夜は自分の失態に気づき、申し訳なさそうに顔を歪めてお辞儀をした。
彼女がこんな調子なのには原因がある。
レミリアは外の桜を眺めた。いまは冬、この季節に桜が咲くのはおかしい。
この異変こそ、彼女が自分の仕事に集中できない原因なのだった。
「咲夜……紅魔館のことはいいから、異変の手伝いに向かったら?」
以前は咲夜も解決者として様々な異変に出向いたものだ。
それに何より、咲夜は魅子のことが気にかかっているのだろう。
前回の異変で知り合って以来、咲夜は魅子のことを意識していた。
友人というより、親の立場に立って見ている節があるが、気にしていることには変わりない。
レミリアからの願ってもない申し出は、咲夜の仕事への姿勢から丁重にお断りすることとなった。
「お嬢様、その言葉はありがたく頂戴いたしますが……申し訳ありません、紅魔館を放って出ることはできません」
「あなたも頑固ね」
咲夜の真面目な性分はレミリアもいたく気に入っているが、この時ばかりはそれが鬱陶しく感じた。
気になるのならば行ってしまえばいいのに――そんなことをレミリアは考えている。
レミリアはこの咲夜を見て、友達が遊んでいるのを遠目に眺めて混じれずにいる子供を見ているようなもどかしさを覚えるのだ。
だから異変の解決に向かって欲しいのだが、咲夜は朝からこの調子だ。
その時、レミリアは一瞬白昼夢を見た。
咲夜が異変に向かうことになるという、都合の良い夢だ。
そして、レミリアはこの夢がただの夢ではないことを知っている。
――キーになるのはパチュリー・ノーレッジ。
レミリアの頭の中に響いたうなり声は彼女の親友の名を呼んだ。
朝から図書館に引きこもって出てこないその友人が咲夜を送り出すキーとなるのならば、ここに呼ぼうではないか。
レミリアは魔法でパチュリーに通信を送った。
いわゆるテレパシーというやつである。
――パチェ、こっちに来なさい。咲夜を異変に向かわせたいの。
パチュリーからの返信はなかったが、レミリアは彼女がここに来ると確信していた。
ワインを飲むこと数分。パチュリーは予想通りレミリアのいるテラスに入ってきた。
「レミィ、来たわよ」
パチュリーはいつも通り血色の悪い顔でそう言った。
いや、いつも以上に顔色は悪いかもしれない。なにせ、大事な使い魔が異変に強制連行されているのだから。
「ご苦労様。咲夜が異変に行きたくてウズウズしてるんだけど、何か良い案はないかしら?」
「っ、お嬢様!?」
レミリアのあんまりな言いかたに咲夜は慌てふためく。
事情を知らないパチュリーは何のことかわからず、怪訝な表情をして咲夜を見た。
パチュリーにとっては行きたいなら行けばいいじゃない、と言いたいところだ。
「行きたいなら行けばいいじゃない」
というより既に言っていた。
パチュリーからのストレートな指摘に咲夜は体を震わせる。
「それが咲夜ったら、紅魔館のことが心配で行けないんですって」
「あー」
井戸端会議をするおばちゃんが近所の人に話しかけるようなトーンでレミリアは説明する。
パチュリーはそれを聞いて声を上げて納得した。
生真面目な咲夜ならその理由で動けないというのは、当然とも言える。
都合が良いことに――パチュリーにとっては悪いことだが――咲夜を異変に向かわせる用事があった。
「それなら丁度いいわ。実は、私の小悪魔が攫われたのよね」
「えっ、小悪魔がですか?」
「なんですって!? それは大変ね!!」
咲夜が少々驚き、レミリアはわざとらしく大層驚いた。
あまりにも作為的な主人を咲夜はジト目で眺める。
「そういうこともあって、咲夜には異変に向かって欲しいわ」
「小悪魔を取り戻す……ということですか?」
それは大義名分、紅魔館を発つ理由にもなるというものだ。
レミリアはここで真剣な表情を浮かべて咲夜に向き直った。
「咲夜、行きなさい」
「で、ですが――」
「魅子を手伝ってやりなさい。気になっているんでしょう?」
痛いところを突かれて咲夜は押し黙る。
紅魔館組は知らないことだが、魅子は現在白玉楼に捕らわれている。
それを知っていたら咲夜も紅魔館を飛び出していただろうが、彼女たちは知る由もなかった。
そして、頭を抱える咲夜にレミリアは見かねて声を張り上げた。
「グズグズしない!」
「っ、は、はい!」
「紅魔館の、私のメイドとしてこれくらいの異変パパッと解決しちゃいなさい!」
また黙ってしまった咲夜だが、今度はしっかりと頷いていた。
彼女が浮かべる瞳の色に、もはや迷いはない。
「行きます」
「ええ、行ってらっしゃい」
咲夜は懐から紫色のボールを取りだして空に舞い上がった。
星形のマークが描いてあるそれは宙に浮かぶと体からナイフを出現させた。
レミリアはそれに見覚えがあったが、見送りの雰囲気を壊さないために黙っていた。
「では、すぐに戻ってきますので……紅魔館のことよろしくお願いします」
「私は当主よ。当然だわ」
咲夜は再び頷くと、白玉楼の方へ向かって飛び去って行った。
レミリアは咲夜が見えなくなるまで見送ると、溜息をとともに言いたかったことを吐きだした。
「あの球体、異変の時に使うものだったんだ……」
レミリアは以前わらしべ長者のように物々交換をしていた時にあの紫色のボールを手にしていた。
それはすぐに咲夜の下へ返却されたのだが、あの時の必死な様子の彼女は思い出の品を取り戻そうとしていたのだと考えると、納得である。
ふと、思い出したかのようにパチュリーが呟いた。
「あの子、小悪魔のことは頭に入っているのかしら」
「あー、確かに。忘れていそうね」
旅立つ前の咲夜を思うと、小悪魔のことなど頭から飛んでいそうである。
レミリアは優秀な使い魔が攫われたと言うのに、あまりにも落ち着いているパチュリーが気にかかった。
魔法使いは感情を表さないものだが、これは冷静と言うよりは冷たいと表現する方が正しい気がする。
「パチェ、あなた小悪魔がどこかに行っちゃったのに余裕ね」
「さっきアリスに頼んでおいたからね。誰が連れて行ったのかも知ってるし」
なーんだ、とレミリアはつまらなさそうに口を尖らせる。
もっともパチュリーはアリスが小悪魔を取り戻すのを失敗したと聞けば卒倒するのだが、それはまた別の話。
◇
麟とチルノはついに冥界に突入するところまで来ていた。
麟は魔理亜を追いかけているつもりだったのだが、実は二人は既に魔理亜を追い越していた。
アリスと魔理亜が激戦を繰り広げていた場所は魔法の糸によって覆い隠され、その存在を秘匿されていたのだ。
そのため麟とチルノは何事もなく冥界まで辿り着いたのだった。
「チルノちゃん……このふよふよしてるのって、幽霊かな?」
麟は宙に浮く半透明な物体を指差して声を震わせた。
チルノは頷いてこの場に似合わない明るい声で答えた。
「そうだよ! よく凍らせて遊ぶんだ」
そう言ってチルノは近くにいた幽霊をカチコチにさせた。
哀れ凍らされた幽霊は冥界の地面に転がった。
チルノの後ろを飛んでいた麟はその幽霊を回収すると霊力を送って氷を溶かした。
幽霊に怯えていたとはいえ、あまりにも可哀そうだったからである。
「そういえば、ここは雪が積もっているんだね」
走るより早い飛行で移動しているため地面に足をつけていないのだが、下を見ると一面雪景色だ。
冥界に入ってからというもの、桜のさの字もない。
もしこの下を歩くとしたら雪に足を取られるだろう。
麟が目を細めて先を眺めると、この真っ白な景色の中に一つだけオレンジ色の光が漂っていた。
「あれは……」
「むっ、八雲の式か?」
光と気配の感じから萃香はそう予測を立てる。
ただ、その推測はちょっと的を外していた。
オレンジ色の光は大きくなり、麟たちの目の前まで来るとその姿を現した。
「こらー、ここは通行止めだ!」
光から姿を現したのは猫耳に二本の尻尾を携えた可愛らしい少女だった。
麟には見覚えなく、チルノはよく見覚えある顔。
「あ、橙だ」
「むー! 妖精ごときが、呼び捨てにするとは何事かー!」
橙と呼ばれた少女は顔を真っ赤にして腕を振り上げた。
チルノも『妖精ごとき』と呼ばれてムッとする。
お互いが一触即発な空気を醸し出す中、麟はどこか置いてけぼりを食らったような気分になった。
「えーっと、どちら様?」
「あいつは紫の式の式だ。九尾狐の藍ってのがいただろ? あいつの式が橙だ」
式の式とは、ややこしいものである。
橙が宴会で見かけたクールビューティーな狐の式だということは麟にもわかった。
だが、それがなんでこんなところにいるのかも、自分たちを通せんぼしている理由もわからない。
それを尋ねようとするが、
「橙の半人前ー!」
「チルノのウルトラバカー!」
「ウ、ウルトラ……褒めたって何にも出ないからな!」
などといったやり取りをしており、聞く暇もない。
「こら、ちょっとお前ら落ち着け。おい、聞けったら!」
「いたい!」
「いてっ!」
萃香が二人を宥めようとするが聞く耳持たず、我慢しきれなくなって手が出てしまった。
鬼の拳骨を受けた二人は涙目で患部を擦り、恨めし気に萃香を見た。
二人とも行動が似通っていて、まるで姉妹である。
「橙、なんでここから先は通行止めなんだ?」
「それは……藍様に言われたんだ。ここを通る者たちを足止めしろって」
橙は渋々ながらも正直に答えた。
やはりというか、橙がここにいるのは藍の指示だった。
そして、藍に指示を出しているのは紫であることが容易に推測できる。
更に深く考えると、紫がこの異変の――ひいては魅子をさらった犯人ではないかという見方もできる。
――となると、紫の目的は……
「萃香?」
「っ……なんだ?」
深く考え込んでいた萃香は麟の声で思考の海から水揚げされる。
「橙ちゃんが『ここを通りたかったら私を倒してから行け!』って言うんだけど……」
「ああ、それならお前とチルノの二人がかりで楽勝だろ。さっさと倒して先に進もう」
確かに、チルノと麟が二人でかかれば橙くらいどうってことない。
だが、チルノは麟の背中を押した。
「ここはあたいに任せて先を行け!」
盛大な効果音が出そうなドヤ顔でチルノはそう言った。
一度は言ってみたかったかっこいい台詞を言えて、チルノはご満悦なのである。
しかし、その台詞には水が差される。
「私がここを通すわけないでしょうが!」
橙が麟に向かって赤い弾幕を放った。
碌に狙いをつけていない弾幕は麟にあっさり避けられるが、これは警告なのだろう。
ここを素通りしようというなら、次は当てるという警告。
驚くべきことに、ここではチルノの弁が立った
「そっかー、橙は麟とあたいの二人がかりの方がいいんだ」
「な、なにがよ」
「だって、そうしたら負けたときに言い訳できるもんね?」
チルノは自分で考えられる中で最高に意地悪な表情を浮かべた。
橙は一瞬だけ無表情になったかと思えば、彼女の顔はみるみる赤く染まっていった。
体を丸めて何かを我慢するように震わせ――しかる後、爆発する。
「あ、あんたとは一対一で勝負をつける必要があるようね……」
「まあ、あたいのあっしょーだけどね」
「っ……そこの人間! 先に行け! このバカを倒したらすぐに追いかけてコテンパンにしてやるから!」
橙は麟を指差してそう言うと、すぐにチルノに顔を戻した。
もはや藍からの命令は頭にないようである。
いまは目の前にいる憎き妖精を懲らしめてやることしか考えていない。
「じゃ、じゃあお先に失礼します……」
橙のあまりの迫力に消え入るような声でそう言うと麟は冥界の先に進んで行った。
チルノは麟がいなくなるまで見送った後、彼女らしからぬ不敵な笑みを浮かべた。
「ふふん、橙。あたいに本気で勝てると思ってんの?」
「な、なにぃ!? 勝てるよ! そりゃあ……あんたには負け越してるけど」
そう、二人の戦績はチルノの方が白星が多い。
それを踏まえて、更にチルノには秘策があった。
友人のリリー相手では使えなかった秘密道具があるのだ。
だが、それは橙も同じだ。
「私には藍様から貰ったこれがあるんだから!」
橙は懐から札を取り出す。
その札を地面に落とすと、徐々に形を成していった。
チルノは目を輝かせてその様を見ていた。
札の変容が収まるころにはそこに二体の――鬼のような生物が現れていた。
鬼と言っても、萃香のように人間味のある鬼ではない。
角が生えていてずんぐりむっくりした体、のっぺらぼうのように平たい顔が特徴的だった。
それでも何となく、見ただけで鬼とわかる形容だ。
「これが藍様から授かった前鬼くんと後鬼くんだ!」
「おお……ゼンキくんとゴキくん」
チルノがオウムのように同じ言葉を呟くが、カタカナ表記にすると『後鬼』はゴキブリみたいである。
別にゴキブリを意識しているわけではないと思うが、後鬼は体が黒かった。
「へへーん、どうだ、すごいだろ?」
「むぅ……あたいだって秘密兵器があるんだからな!」
胸を反らして自慢げに語る橙を見てチルノも対抗心を燃やす。
腰に付けたポーチを漁り、あれでもないこれでもないとブツブツ呟く。
やがて目的の物を見つけたのか、ポーチからそれを引き抜いた。
明らかにポーチに入る大きさではない刀がそこから出て来るのに橙がギョッとしたが、チルノは何食わぬ顔で刀を鞘から抜いた。
「どうだ、かっちょいいだろう!」
「それ……なに?」
「レミリアにもらった! かっちょいい?」
橙はチルノの掲げた刀を訝しげに眺める。
どう見てもただの錆びた刀にしか見えないそれはどことなく神聖な雰囲気を帯びているようにも見えるが、微量すぎてわからなかった。
でもそれをハッキリ言うのはためらわれる。何より、チルノは褒めてもらいたいオーラをこれでもかと出しているのだ。
そこで橙は曖昧に笑いながら曖昧に答えた。
「あー、うん。いいんじゃない?」
「でしょー!」
橙の大人の対応にチルノは文字通り舞い上がって喜んだ。
その様子を見て橙は呆れたように笑うが、ややあってから我に返る。
自分のするべきこと――チルノと弾幕ごっこをするのを忘れていたのだ。
「チルノ、弾幕ごっこするんでしょ? 忘れたの?」
「おー……そうだ、忘れてた」
橙は呆れて溜息を吐いた。
「はあ、あんたっていつもそうね……じゃあ、スペルカードは何枚?」
「無制限!」
チルノは笑顔でそう答えた。
これに困るのが橙の立場だ。
段々冷静になってきた橙は先ほど麟を通したことを後悔し始めている。
だからチルノを早々にやっつけて先に行きたいのだが、スペルカード無制限の弾幕ごっこは長引くのだ。
ルール上ボムは使い放題だし、どちらかが被弾するまで勝負は続くし、ひどい時は日を跨ぐことだってある。
「うーん、無制限はちょっとなあ……」
「なに? 自信ないの?」
「よし、無制限ね! やるわよ!」
まったく、乗せられやすい猫さんである。
ともあれチルノと橙の戦いの火ぶたは切って落とされた。
「先攻後攻――」
「じゃんけん――」
「「ポイ!」」
しかし、この二人の戦いはどこまでも締まらないものである。
◇
チルノに後ろを任せて先攻する麟は、途方もなく長い階段を前方に発見した。
先が曇って見えないほどであり、ここまで長く高い階段は初めて見た。
「この先に白玉楼が?」
「そうだ……だけど気をつけろ。ここまで来たら“あいつ”が現れるはずだからな」
萃香は周囲を見回して麟に注意を促した。
萃香の表情を見る限り、彼女の話す“あいつ”とは相当の実力らしい。
麟はそれが怖くもあり、楽しみでもあった。
麟が階段を昇らずに飛んでいると、もやのかかった奥の方が光った。
「ほら、来たぞ! 避けろ!!」
萃香の言葉通り、無我夢中で麟は横に飛んだ。
風を切る音がしたかと思うと、横に飛んだ麟は発生した突風に流されて階段の上空から外れてしまった。
麟は横目で見ただけで何が起きたかさっぱりだったが、一言で表すとそれは――『鋭い』だった。
「い、いまのは?」
「……あそこにいるやつがやったんだ」
萃香が指を指した方向を麟は見た。
刀を構え、銀髪の隙間から麟たちを見下ろす眼光には油断など欠片もない。
「あれが白玉楼専属の庭師――霊夢、魔理沙、咲夜と一緒に異変を解決してきた猛者、魂魄 妖夢だ」
「魂魄……」
確かに珍しい名字である。
しかし、彼女の出自を考えれば当然とも言えた。
「ああ、半人半霊の庭師って呼ばれてるくらいだからな。半分幽霊みたいなもんだ」
「まあ、厳密には違うんですけどね」
「うわっ」
気づけば妖夢が後ろに立っていた。
既に刀は仕舞っていて、彼女が階段上で見せていた鋭い眼光はなくなっている。
萃香の言葉を困ったように訂正する彼女は霊夢や魔理沙のような歴戦の猛者には見えなかった。
「驚かしてすみません。白玉楼は現在立ち入り禁止でして……何か御用ですか?」
「あの……博麗 魅子っていう私の友達がそちらにいると思うんですけど……」
妖夢は優しく微笑んでポンと手を叩いた。
「あー、いらっしゃいますよ。お客様としてお招きしております」
それを聞いて麟は安心した。
妖夢の話を聞く限り、魅子はひどい扱いを受けていないようだったからだ。
「じゃあ、魅子に合わせてください! この先にいるんですよね」
そう言って麟が妖夢の脇を通ろうとしたときだ。
妖夢は麟の腕を力強く掴んでその場に押し止めた。
彼女の細腕からは考えられないが、麟の掴まれている腕がギリギリと音を立てるほどの力だ。
「ダメです。ここから先は通しません」
「痛っ……で、でも」
「ここを通りたくば、私を倒してからにしてください」
妖夢は麟の腕を離して後ろに飛び退いた。
空中で刀を抜刀し、正眼の構えを取った。
こちらを向く剣先に麟は威圧される。
「……戦うしかないの?」
「まあ、そうだろうな。大丈夫、相手は妖夢だから、弾幕ごっこの形式は守るさ」
麟は決心を決めてスペルカードを取り出した。
それを見て妖夢も懐からスペルカードを取り出す。
郷に入っては郷に従え。もし麟が錯乱してスペルカードルールに則らない本当の攻撃を仕掛けていたら、妖夢にその体を細切れにされていただろう。
「先手はお譲りします」
妖夢には余裕がある。
とはいえ、油断はまったくない。
先手を譲ると言っても、剣を麟に構えたまま微動だにしないのだ。
麟は相手の余裕ある態度に腹を立てるような性格ではない。
「玄武、やるよ」
いままでポーチの中で待機していた玄武が顔を出した。
突然謎の亀が現れて巨大化するという事態に、余裕を保っていた妖夢も驚きを顔に表す。
玄武の背に乗り、麟はスペルカードを掲げた。
「風花『花龍風月』」
右手に霊力、左手に魔力を込めてスペルカードを宣言した。
霊力によって麟の近くにあった枯れ木が芽吹いて桜を咲かせる。
魔力によって周囲の風を操り、飛び散った花びらを龍の形に象った。
異変でも活躍した麟の最強のスペルカードだ。
「ほう……中々良いスペルカードですね」
「ありがとう。見た目だけじゃないよ――行け!」
麟が指示を出すと花びらと風の龍は妖夢に襲い掛かった。
龍から放たれる風と花びらは絶えず妖夢に向かって飛びかかるが、それら全てを彼女は斬って伏せた。
それは微妙に反則な気もするが、曖昧なスペルカードのルール上では反則を取られることはない。
それよりも妖夢の剣技を褒めるべきだろう。
小さい花びらと不可視の風を斬り払う実力は並大抵の努力では勝ち得なかったものだ。
麟自身、それを見て息を呑むほどである。
「まだまだァ!」
麟はまだカードを握り続けている。
そして、カードにありったけの魔力を込めた。
「麟、それはまだ早いんじゃないか!?」
龍の動向を見守っていた萃香は思わず声を上げた。
見れば龍の口には大量の魔力が溜まり、それが放出されようとしていた。
一度使えばスペルエンドとなる大技である。
「大丈夫」
麟は自信を持ってそう言い切った。
もっとも、龍から発射されるレーザーは止められる段階にはない。
やがて龍の口から強烈な光が発せられた。
光は収束して光線となり、光線は妖夢に向かってまっすぐ伸びていく。
妖夢はカッと眼を見開くと、刀を盾にするように体に添えた。
光線に沿うように刀身を流し、自分の体はそのまま風に任せる。
波に乗るサーファーのように刀で光線の奔流を昇って行く。
「……萃香、あの人庭師じゃなくて曲芸師じゃないの?」
「うーん、否定できない」
呑気な会話だが、心の中で麟は焦っていた。
このスペルでも抜群の攻撃力を誇る光線があっさりと流されてしまっているのだ。無理もない。
ただし、妖夢の曲芸はこれで終わりじゃなかった。
滝を昇る鯉のように光線を昇る妖夢は、ついに龍の口元まで到達した。
そして、波からジャンプして一瞬光線から離れる。
なぜか妖夢は刀を鞘にしまった。
「ふっ」
鞘から抜刀して瞬く間に敵を切り裂く剣技――居合切り。
最速にして最強と謳われるそれは龍の顎を綺麗に切断した。
「そんなっ……あんなのアリ!?」
「まあ……弾幕ごっこは何でもありだからなあ」
驚く麟に萃香はしみじみと言う。
何でもありにしたってあまりにもひどすぎると思うが、残念ながら幻想郷はそういうところなのである。
妖夢は頭のなくなった龍を見下ろしていた。
「スペルカードブレイク……む」
ショックで俯いていた麟はニヤッと笑った。
麟も成長していないわけではなかったのだ。
妖夢が切り崩した龍は周囲の花びらを自分でかき集めると、頭部をきれいに修復した。
「まだまだいけるよ!」
龍は妖夢へ向かって咆哮し、噛みつこうと首を捻った。
近くにいたとはいえ、残心を取っていた妖夢に油断はない。
麟もここで仕留められるとは思っていない。
しかし、勝機はあった。
龍がまた大口を開けて妖夢を見ていた。
龍は銃口の狙いをつけるかのようにゆらゆらと頭を揺らす。
先ほどレーザー光線を放ったばかりだと言うのに、龍の口からは光が漏れ出していた。
「まだ打てるのか?」
「うん、限界はあるけど――まだ何発でもいけるよ!」
龍の顎が開き、放たれた光はさっきのものとは違っていた。
光線と言うよりは光弾。力をセーブした一撃だが、それでも強大な攻撃だ。
何よりこの光弾のメリットは、今しがた見せた妖夢の曲芸が通用しないことだった。
次々に襲い掛かる光弾を避けながら妖夢はこの龍をどう料理するか考えていた。
勝手に再生したところを見るとまた切り裂いても意味がなさそうだし、エネルギー切れまで待つのが一般的な考えだろう。
だが、魂魄 妖夢の剣士としての信念はとてもストイックだった。
龍は妖夢が離れたことをいいことに距離を取りながら弾幕を放っている。
相手を近づけさせないよう巧妙に、計算して弾幕を張る龍の姿は麟が操っていると知らない第三者が見れば生物と勘違いするかもしれない。
妖夢の側も、近づきさえしなければ被弾する心配がない。
弾幕を放つ源から遠ければ避けやすく、近ければ避けにくい――これは当たり前のことだった。
このまま離れていればやがて龍は力を失うはずだ。
「なっ――」
ここで妖夢が取った行動は愚行とも言えた。
龍に自ら近づいたのだ。
接近するほどに弾幕が濃くなり、徐々に妖夢の服を掠り始める。
自分から危険を冒す妖夢に麟は戦慄した。
彼女の心の在り様、厳しさが麟にも伝わったのだ。
弾幕ごっこ的に言えばあのまま離れて戦うよりも、近づいた方がより美しくはあった。
それでも、被弾するリスクを考えると簡単に取れる手ではない。
「ああいうの、嫌いじゃないね」
それどころか好ましいといった風に言うのは萃香だ。
鬼である彼女からすれば、勝負に前向きな姿勢はとても望ましい。
「しかも……ボムを使う気だな」
妖夢の口元にはいつの間にかスペルカードが咥えられていた。
刀の鍔に手をかけながら、体を翻して弾幕を避け続ける。
妖夢の眼光が煌めき、それと同時にスペルカードにも光が灯った。
「――人鬼『未来永劫斬』」
その刹那、剣閃が瞬いた。
一閃――龍の顎が再び切り裂かれた。
二閃――胴体が真っ二つに泣き別れした。
三閃、四閃……妖夢が刀を振るうたびに龍の体が小さくなっていく。
「そんな……」
妖夢が刀を振り払うころには、龍は人間大の細切れにされていた。
もはや修復不可能だろう。
既にスペルカードブレイクと言える状態だが、まだ妖夢のボムは発動しきっていない。
妖夢の刀が作り出した軌跡はまだ残っている。
「スペルカードブレイクです」
妖夢が刀を鞘に仕舞うと、鈴のような音が鳴った。
それと同時に刀の軌跡が盛大に爆発する。
龍は欠片も残さずに消滅してしまった。
「あちゃー、あれじゃ再生どころの話じゃないな」
「ちょっと、あの人強すぎない!? こんなの聞いてないよ!」
「まあまあ」
取り乱す麟を萃香が宥める。
とは言うものの、萃香も妖夢の成長ぶりには驚いていた。
「昔は半人前って呼ばれてたのになあ」
萃香は懐かしむように目を細める。
以前と比べていまの妖夢は、自信も実力も桁違いに変わっているようだ。
「まだ半人前ですよ」
「うわっ!」
カチンという音ともに刀に手をかけた妖夢が後ろに現れた。
萃香は麟のように声を出さなかったが、内心驚いていた。
紅魔館の咲夜のように時を止めているはずもないし、いきなり背後に現れるなんて手品を見ている気分になる。
「半人前だなんて、謙遜を。私は実力以上に威張るやつが嫌いだけど、自分を卑下するのも嫌いだよ」
「とんでもない、私なんてまだまだですよ……まあ――」
妖夢の手がその瞬間に動いた。
麟には動いたことすら知覚できなかったかもしれない。
なんだか妖夢さんの手がぶれた気がする――それくらいにしか感じなかったのだ。
一方、萃香には妖夢の挙動が見えていた。
鬼は体の頑強さや剛力だけでなく、五感も鋭いのだ。
しかし、萃香はそれがよかったかと問われればこの時ばかりはノーと答えるだろう。
鬼の視力は捕えてしまった。
恐ろしい速度の抜刀。振り切った時の風の流れ。鬼の萃香をして背筋を凍らせるほどの技術だった。
そして、刀を振り切った妖夢はその場から消える。
「あれ、どこに?」
麟が突然消えた妖夢を探してキョロキョロと辺りを見回す。
「こちらですよ」
後ろから聞こえた妖夢の声に麟は振り返った。
またも一瞬で移動したのだ。ただ刀を振るうだけで。
「さっきの話ですがね……私はまだまだ未熟者ですが、斬れぬものは減りました」
萃香には妖夢のその言葉は聞き覚えがあった。
斬れぬものなどあんまりない――そんな間抜けな台詞を言った未熟者の庭師がいたことを思い出したのだ。
半人前と呼ばれると顔を真っ赤にして怒っていた彼女はもういない。
精神的にも成長したかつての少女を見て萃香はちょっぴり感動していた。
「そう、私は修行中の身……ですが、まあ――空間くらいなら斬れるのですよ」
それだけは自慢げに、少しだけ得意げな顔をして妖夢はそう言った。
穏やかな顔でそんな風に言われたが、麟と萃香の受けた衝撃は尋常ではない。
空間を斬れる――そもそも空間って斬るものなのか、という疑問が最初に沸いた。
木を斬る、石を斬る、紙を斬るなどといったこととはレベルが違う。それこそ本当に神を斬るようなものだ。
麟たちの動揺が妖夢にも伝わったのか、彼女はムッとした表情を浮かべた。
「む、信じてませんね? ほら、こうやって空間を斬るんです――」
妖夢は刀の柄に再び手をかけてそのまま振り抜いた。
神速と評するに値する抜刀術だ。
刀を振り切るころには妖夢の体が移動して、麟たちの目の前に現れた。
「すると、こうやって瞬間移動のような真似ができるんですよ」
妖夢は得意げにそう言った。
正直、麟とはレベルが違いすぎる。
空間を切り裂くなんて、それ専門の能力を持っている紫でもなければ難しい。
鬼の萃香であってもそんなことは到底無理だ。
「ちょっと……信じられないね」
麟は困ったように笑いながら言葉を漏らした。
この場合の『信じられない』は妖夢の言葉が信用できないという意味ではない。
自分との実力差、レベルの違いから思わず飛び出た言葉だった。
麟は完全に委縮してしまったようだ。
彼女の不安が伝わったのか、玄武も小さくなってポーチに隠れてしまった。
「麟、大丈夫か?」
「うん……平気だよ。魅子が待ってるんだから」
そう、この先には魅子がいるのだ。
博麗神社から攫われた親友が囚われているのだから。
「――だから、がんばって私と戦うんですか?」
「……妖夢さん?」
麟と萃香の会話を聞いていた妖夢が口を挟んだ。
目には剣呑な光を携え、口元は真一文字に結ばれている。
まだ何も言っていないが、その表情からは『気に入らない』という気持ちがありありと現れていた。
「やらないといけないから、強くならないといけないから――そうやって戦っているうちは、いつまでも強くなんてなれませんよ」
妖夢は麟と誰かを重ねて話しているようだった。
「強く……別に私は、強くなろうとなんて」
「なら、いまのあなたで私に勝てますか?」
妖夢の鋭い指摘に麟は言葉に詰まった。
確かに、自分では妖夢に勝てない――だからって、強くなろうとするのは違うような気がした。
麟は別に強くなんてなりたくなかった。
ただ魅子を助けたくて、戦っているだけだった。
「勝てません……けど、私は魅子を助けたいだけなんです」
「……では、彼女が戻ってきたとしたらどうします?」
「へ?」
今度はよくわからない問い掛けだった。思わず麟は素っ頓狂な声を上げる。
魅子が戻ってくるというなら、麟にとって願ってもないことである。
質問の意図がわからず、混乱する麟に萃香は助け船を出した。
「麟、もしそうなったらお前はこの勝負をどうしたいんだ? って妖夢は聞いているんだ」
「え? 魅子が帰ってくるならわざわざ戦わなくても……」
そう言いかけた瞬間、麟の胸の奥がズキンと痛んだ。
悔しさ、物足りなさ、憤り――複雑な感情の糸が心臓を締め付けるのだ。
なんとなく、妖夢の言っていたことの意味が見えてきた。
この気持ちを素直に表現するなら――
「もったいない、よね」
「ふふ、そうですよね?」
麟が照れたようにそう言うと、妖夢も同時に笑った。
「麟さん、あなたは師事している方はいますか?」
「うーん……霊夢さんや魔理沙さんにはいろいろ教えてもらってるけど」
かなり聞き覚えがある名前が出たことに面食らったが、妖夢はそれを聞いて微笑んだ。
霊夢は教えるのに向いてないと思うが、魔理沙を例に出すのはとてもいい。
「私もその二人は知っています。その方たちは強いですよね?」
「う、うん。とっても強くて、少し憧れてる……かも」
霊夢はともかく、あの粗野な魔理沙に憧れていると言うのは抵抗があったが、麟は二人を思い浮かべながらそう言った。
実際魔理沙は魅子、チルノ、フランドール、麟の四人を一人で――それも酔っぱらった状態で同時に倒したのだから、実力は折り紙つきだ。
前回の異変が終わってから霊夢には結界術、魔理沙には魔法を習っていた麟は二人の実力を肌で感じていた。
「二人はなんで強いと思いますか?」
「え、それは……」
さっきから質問ばっかりである。
二人の強さの秘密などと問われても、答えに困る。
経験、才能、技術――様々な回答が麟の頭に思い浮かぶが、どれもピンと来ない。
麟が答えに窮することを予想していたのか、妖夢は言葉を待つことなく話を続けた。
「楽しんでいるからですよ」
「あ……」
麟は思わず声を出してしまうほど、納得してしまった。
パズルの最後のピースの一つが嵌ったかのような感覚がした。
霊夢は知らないが、魔理沙は楽しむことを第一にしている。
麟が教えを乞いた時など、修行の半分は魔理沙と遊ぶことだったのだ。
キノコ探しやかくれんぼ、鬼ごっこ――いつの間にかチルノやルーミア、フランドールたちが集まって、みんなで遊んだりしていた。
そうやって遊んでばかりでは自分が強くなっているのかわからなかったが、決まって遊んだ後にやる弾幕ごっこはすこぶる調子がよかった。
遊びの延長でやっている感覚が麟には一番合っていたのかもしれない。
それが魔理沙にわかっていたのかはわからないが、結果的に麟の弾幕ごっこの腕は上達した。
「何でも斬れるようにがんばっていた庭師が、友達の魔法使いを見て教わったことです」
受け売りです――そう言って妖夢は口元に指を当ててウインクした。
友達の魔法使いと言うと、麟はなんだか知り合いで師匠のトンガリ帽子の魔法使いを思い浮かべるが、いまはもっと別のことを考えなくてはいけない。
麟の耳元で小さな破裂音がなった。
麟が自分の頬を張った音だ。
「私、魅子のことばかり考えてました」
「ええ、もっと私のことを見てくれないと、拗ねちゃいますよ?」
妖夢が悪戯っぽく笑った。
麟はなんだかいつの間にか、この庭師に親しみを覚えていることに気づいた。
「じゃあ、やりますか」
「私の剣をどうかわすのか、楽しみです」
妖夢は笑みを浮かべながらスペルカードを掲げた。
その様になっている姿に麟は緊張しつつも、ワクワクと湧いてくる興奮が抑えられずにいた。
麟は心の中で謝罪する。
魅子、ごめん。いまだけはあなたのことを忘れて――
「この人と戦います!」
「行きます! 人世剣『大悟顕晦』!」
妖夢が宣言すると、彼女の背後から薄らと白く透明な人魂のようなものが飛び出した。
その霊魂は妖夢の刀に纏わりつくと、やがて光を帯びて定着した。
麟はギョッとして自分の目を疑ったが、警戒も忘れない。
それに、あの霊魂については萃香が何か知っているようだった。
「あれは半霊だな」
「はんれい?」
「妖夢の体の一部みたいなもんだ。いままでどこに隠しているんだと思ったら、自分の体の中にいたのか」
二人が話しているうちにも妖夢は刀を振りかぶっていた。
妖夢の半身、半霊が込められている刀だ。一体何が起こるのか予想がつかず、麟は心して身構える。
「むむむ……ふんっ!」
力を込めて――その細腕からは想像できないほどの迫力で振り切られた刀からは真っ白な霊魂が飛び出し、麟の体目掛けてものすごいスピードで飛んで行った。
集中していた麟はこれを楽々と避ける。しかし、まだ警戒を怠らない。これで終わりなわけがないからだ。
それから少しして、背後からの気配が爆発的に大きくなった。
「後ろ!」
これも麟は見抜いていた。
後ろを振り返ると、白い剣閃のようなものが大量に飛んできていた。
それらを生み出しているのは妖夢が先ほど放った半霊の仕業だ。
半霊が生み出す弾幕は鋭く、一見逃げ場がないように見えるほど濃密である。
いままでの麟なら避けれなかったであろう密度の弾幕が迫っていた。
それでも、いまの麟は笑ってそれを避け続けた。
剣閃が服に掠り、真っ白な肌が顔を覗かせるが、そんなことまったく気にしない。
ふと、麟は魔理沙との修行で行った雪合戦を思い出した。
この異変が起こる直前、一度雪が降ったことがあったのだ。
その時にみんなと雪合戦をやったことを麟は思い出した。
――あれと同じだよね。
この剣閃も、あの雪も同じ。
それは速さだったり、危険さだとか、そんな些細な違いはあるけども。
魔理沙やチルノが楽しんでやっているのと同じで、妖夢と麟が楽しんで弾幕ごっこをしてるのは変わらなかった。
「妖夢さん、私……まだまだいけるよ!」
麟はショットを放ちながら笑顔でそう言った。
その言葉に妖夢は嬉しくなる。こんなに楽しい戦いを続けさせてくれるのだから。
「私も……こんなものじゃありませんよ!」
妖夢が刀を振るう。
刀から生み出された赤い閃光は丸く歪み、大量の弾幕となってばら撒かれた。
前から来る赤い弾幕、後ろから来る白い弾幕の挟み撃ちに麟はショットを撃つ余裕をなくす。
それでもなお彼女は笑った。
「すごいすごい! いままで見た弾幕の中でも一番かも!」
わめきながら空中を移動する麟の動きは、これまでで一番鮮やかだ。
麟はフラフラと、風に流れる木の枝のように揺れながら弾幕の中を移動していた。
萃香はその姿を見て霊夢を思い出す。
当時、妖怪に対して猛威を振るっていた博麗の巫女の姿に少しだけ似ていたのだ。
妖夢も萃香と同様の既視感を覚えていた。
性格は魔理沙のように快活で、雰囲気はどこか霊夢のように掴みどころがない。
まったく、見ていて飽きない少女である。
「これならどうです?」
突如として妖夢の弾幕が変容する。
赤い弾幕は緩急がつき、白い剣閃は鋭さを増した。
それに伴って、弾幕が麟を掠める回数が増える。
麟はまだ弾幕ごっこを始めて四ヶ月ほどである。
そんな彼女が最強の博麗の巫女と同じように弾幕ごっこをするなんて、夢のまた夢。
そして、夢はここで終わる。
「麟、もう限界だ!」
「わかってる! 風符『雪嵐のパーフェクトフリーズ』!」
麟がスペルカードを掲げて地面に魔力を放った。
すると地面の雪が巻き上がり、風に煽られて凍り始める。
妖夢の弾幕を次々に凍らせていく様はチルノの『パーフェクトフリーズ』を思い起こさせる。
しかし、妖夢も負けていない。
「ふっ!」
更に弾幕に圧を込め始めた。
麟を守るように吹き荒ぶ雪の嵐を打ち破らんと妖夢の弾幕が次々に押し寄せる。
妖夢の弾幕は麟に近づくたびに凍っていくが、麟の弾幕でできた氷にもひびが入り出した。
「固い――ですが」
再び妖夢が刀を振るう。
赤い弾幕は密度を増し、麟の作り出した氷はついにひびのところから崩れた。
そして、麟は……
「うっ……」
逃げ場がなく、既にスペルカードを取り出す余地もない。
すなわち、被弾する他なかった。
「負けた……か」
萃香が押し黙る麟を横目に見つつ、事実を述べた。
どう見ても完敗だ。
ボムも破れ、複数の弾幕に被弾した麟は疲弊して言葉もない。
だが、その疲れた表情とは正反対に、彼女の眼は光を失っていなかった。
「……もう一戦……お願い」
ボロボロになった袖を引きちぎり、麟は荒い呼吸のまま声を絞り出した。
麟の根気は見事なものだが、ほとんど疲労のない妖夢にこのまま挑んでも勝機はない。
萃香は彼女の心意気を称賛した上でその無茶を止めてやりたくなった。
「妖夢……白玉楼で一体何が起こっているかわからないが、麟を通してやってくれないか?」
「それはできません。私を倒してからでないと」
きっぱりと妖夢は萃香の要望を断った。
断られるとわかっていたとはいえ、悔しさに萃香は歯を噛みしめる。
自分が手を出そうかとも考えたが、妖怪が異変の解決に関わるのはタブーだ。
それに、いまの妖夢に勝てるとも限らない。
「いいよ、萃香……私なら大丈夫」
肩に乗る萃香をそっと撫でて麟は疲労の抜けていない表情で笑顔を浮かべた。
もう空中に浮いているのも辛いのか、麟の飛行は落ち着きがない。
そして、ついに麟の体が大きく傾いた。
「っ! 言ったそばから!」
萃香が声を上げ、妖夢が崩れ落ちる麟を見て刀に手をかけたが、彼女の後ろに現れた影を見てその手を止める。
結果として、麟は地面に落下することはなかった。
彼女の体を横抱きにして、一人のメイドが雪原に立っていたのだ。
「――咲夜!」
驚きから、妖夢が彼女の名を呼ぶ。
紅魔館のメイド長――十六夜 咲夜が来たのはなんてことはない必然なのだが、それはあまりにも恣意的で芝居がかっている。
「咲夜……さん?」
「ええ、そうよ。妖夢相手によくがんばったわね。とりあえず、これを飲みなさい」
そう言って咲夜が取り出したのは紫色の怪しい液体だった。
それは魔法使いパチュリー・ノーレッジが作り出した回復ポーションなのだが、色合いが生理的に拒否感を覚えさせる。
咲夜はそのポーションを麟の口元に有無を言わさず近づけ、傾けて注ぎ込んだ。
「うっ……げほっ、ごほっ」
「さあ、先に行きなさい。体力が回復するはずだから、白玉楼に着くころには元気になっているわ」
まだ疲労の抜けきってない体だが、麟はそう言われてみると徐々に力が湧いてくるような感覚があった。
麟はなんとか咲夜の下から離れ、一人で宙に浮く。
「私は……まだ妖夢さんと戦いたい」
麟がそう言うと、咲夜が眉を寄せた。
「麟ちゃん……魅子があなたを待ってるのよ?」
咲夜の言葉に、麟はハッとした。
そうだ、この先で魅子が自分のことを待っているのだ。
そう思うと、さっきまで感じていた戦いへのやる気は削がれていった。
「ここは私に任せなさい。彼女とは友人同士、積もる話もあるしね」
スカートの中からナイフを取り出して、咲夜は妖夢に向けて放り投げた。
刀で軽く打ち払われるが、地面に落ちる前にナイフは姿を消す。
咲夜が時間停止能力で回収したのだろう。
「ここは通しませんよ」
妖夢は依然として職務を全うするつもりでいるようだ。
その仕事への忠誠心は咲夜自身共感と尊敬を感じるが、いまは鬱陶しいばかりだ。
そこで、咲夜は麟の肩を掴んで指を打ち鳴らした。
「……あれ?」
なんとなく、麟は“世界”に違和感を覚えた。
特に目の前にいる妖夢の様子がおかしい。
こちらを見つめたまま動かないのだ。
呼吸で浅く動いているはずの肩すら動いていない。
「これって……」
「そう、時間を止めたの。そう長くは保たないから、この隙に早く行って」
咲夜はナイフを取り出して妖夢へ投擲した。
投げられたナイフ全てが妖夢の手前で不自然に止まり、固まっている。
その様子を見て麟が二の足を踏むが、やがて決心を固めると咲夜に会釈をして先に行った。
彼女が見えなくなったころ、咲夜は息を吐いて能力を解除した。
「っな――」
妖夢は眼前の光景に驚きの声を上げた。
いつの間にか目の前に現れた無数のナイフは全て切っ先がこちらを向いている。
一瞬の緊張から転じて、ナイフが一斉に動き出した。
「ハッ! フッ」
妖夢は短く息を吐きながら、冷静にナイフを斬り捌いていく。
刀一本では足りず、妖夢は腰の脇差に手をかけた。
迷いを断ち切る刀――白楼剣と呼ばれるそれはナイフを次々に打ち落としていく。
「相変わらず……いえ、昔以上に凄まじい剣術ね」
思わず称賛の言葉を漏らしつつ、咲夜は息を整えた。
既に先ほどの能力による後遺症はなくなりつつある。
妖夢もナイフによるダメージはない。それどころか、服に汚れがついている様子すら見られない。
「……麟さんは行ってしまいましたか。咲夜、久しぶり」
刀を鞘に仕舞いつつ、妖夢は冷静に挨拶を交わした。
麟を取り逃がしたことへの悔しさや苛立ちは見せない。
「ええ、お久しぶり。見ないうちに変わったわね」
「咲夜は……あまり変わってないね」
妖夢は咲夜の姿をジッと眺めていると、昔異変で出会ったことを思い出す。
あの時は春に雪が降り、その寒さから咲夜はマフラーを巻いていた。
未熟なあの頃と比べると、いまの自分はどれだけ成長できただろうか――妖夢はそう自問する。
体は成長し、主から強くなったと褒められた自分が、かつて一度も勝てなかった友人と戦うことでどうなるか。
試してみたいと、そう思った。
「さあ、話はこれくらいにして……始めようか」
「まだ挨拶くらいしかしてないんだけど。その性格は変わらないみたいね」
咲夜は苦笑しながらもナイフに手をかけた。
良く言えば真っ直ぐな、悪く言えば猪突猛進な彼女が刀に手をかけた時点で何を言っても止まるわけがないのだ。
それをわかっているからこそ、咲夜はナイフを構える。
「あなたの時間も私のもの――なんだか、懐かしいわ」
「私はその時間すら切り裂いてみせる――切れぬものなど、あんまりないって昔は言ったっけ?」
お互い苦笑いを浮かべながら、自分の得物を相手に向けた。
異変の首謀者を主に持つ者同士が、いまぶつかる――。