昨夜、一人の聖闘士が死んだ。
名を、牡牛座のアルデバランという。
彼は私と同じ聖戦を戦った牡牛座の聖闘士の弟子で、彼自身も聖闘士候補者としてハーデス城侵攻に参加した。聖戦終結後は、数少ない聖闘士候補者の生き残りとして、荒廃した聖域の復興に力を尽くしてくれた。
私よりもずっと若かったはずの彼は、いつか私よりも先に老い、私よりも先に逝った。彼の死によって、前の聖戦を知る者は、私を除いて全て絶えた。
アルデバランは、次の牡牛座となるべき者を残していった。まだ年若いが、実直で剛毅な男だ。きっと良い聖闘士になることだろう。しかし、その男とても聖戦を経験してはおらぬ。彼の弟子ともなれば、もはや聖戦などおとぎ話でしかないであろう。
それを誰が責められようか。人は所詮、己の身によってしか世界を感得することはできぬ。老いた者の昔語りは、いつもおとぎ話に過ぎぬ。若き日の私たちにとって、先代の生き残りの語ることがそうであったように。
私は言う。
聖闘士の務めに軽重などない、と。
私は言わねばならぬ。
日々を生きることは、聖戦に死すことと同様に、尊くまた重要な営みなのだと。
けれど、この時代に女神が存在しないことは誤魔化しようがない。
ただその名と力の残滓が、聖域を支配している。
女神の封印に守られた世に聖闘士が不要というわけではない。聖闘士の力を必要とする事態は、人々の知らぬ所で幾度も起こりうる。
何より、教皇一人で聖域を維持することなど、できはしないのだ。聖闘士の力と技を伝承し、次の時代の女神を迎えるために、聖域は存在し続けねばならぬ。
けれど女神の真の敵が冥王であるように、聖闘士の本分もまた聖戦を戦うことにあるのだ。聖闘士の力はあくまでも神と対峙するためのものであって、人の世への関与は些事でしかない。また、そうあらねばならない。
女神のいませぬ時代に、あまりにも強大な力を持つ人間たち。それぞれに死との境界をくぐり抜けて得た彼らの力は、用いることすら軽々には許されず、ただ蓄積されていく。
法衣とマスクを初めて身につけたとき、私は18歳だった。聖域の奥深くにこもり、書のみを友とするには若すぎた。
私の体は戦いを欲し、魂は闘いに飢えていた。敵を倒すことの恍惚感や死の恐怖という、あまりにも強烈な刺激に慣れきった私の心身が、易々と平穏に馴染めるはずもない。けれど、いたずらに膨れあがった小宇宙に、もはや使い途はなかった。
強靱な肉体と精神をもてあまし、ひたすら己の欲求を抑圧する日々。
私の役目はもはや思索と政でしかないのだと納得するまでに、どれほどの歳月を要したろうか。
戦うことは罪深い。人であれ人以外のものであれ、命を奪う行為はまして。けれどそれを望み、進んで身を投じることにこそ、聖闘士の本質はある。聖闘士とは戦闘と殺戮に歓喜を覚える、罪深い人間だ。そして、己のその罪深さを知る者だ。
真に護る者も、力を向ける対象も知らぬ彼らを、私は導いてゆかねばならぬ。彼らの牙を決して矯めず、さりとて人に仇なすことのないように、飼い慣らしてゆかねばならぬ。
強く、気高く、忠実な獣を、その本来の主の手に引き渡すために。
それまでに私は、一体幾人の聖闘士を見送ることになるのだろう。弟子の弟子、さらにその弟子……どれほどの者が聖闘士の称号を得、聖衣をまとい、そして私の前から去っていくだろう。
私と共に前聖戦を生き残った天秤座の童虎は、幾度乞おうとも決して弟子を取ろうとしない。
童虎は親しい者への思い入れが過ぎる。幾度も弟子を見送ることには、到底耐えられまい。情の薄いと言われる私を前の女神が教皇に指名したのは、適切だったというわけだ。
けれど童虎よ。
私は時折、どうしようもなくお前が羨ましくなる。
静寂と孤独の中で、天と地を見守り続けるお前が。