カタタタ―― カタタタ――
荒々しくキーボードを打ち付ける音が室内に響く。机上に散らばる資料と画面を視線でいったりきたり、忙しなく動く眼球が疲労を訴えるも休息は認められない。刻一刻と過ぎていく時間との勝負に、あと少し、もう少しだと己を励ましながら追い込みをかける。
ガダダダ―― ガダンッ!!
最後の一文を無駄に勢いつけて打ちこんだところでフィニッシュ。すかさず時間を確認。夏でもないのに手汗の滲んだ拳を振り上げて、私は勝利の雄叫びを上げた。
「よっしゃあああああ! 終わったぁーーー!」
「ほな、次はこっちよろしゅう」
目の前に突きつけられたのは、隣から伸びてきた手に握られた新しい書類。余韻に浸る間もなく、無慈悲にも与えられた次の仕事に、私の体は文字通り崩れ落ちた。もう嫌だ、動きたくない。
無理だよ。終わりっこない。どうやったらこの膨大な資料を纏め上げて今日中に完成させることができるのか。お願い誰かセレビィ連れてきて。
先日、ロケット団から逃げるために此処へ逃げ込んだ私たちは、万葉をハナダシティに帰した後の夕餉の席にて、マサキから告げられた滞在条件に有無を言わさぬ状況も相俟って従うこととなった。その理由は、私とジャンボの特徴と合致する情報がネットで溢れかえっていたからだ。そこまで探すということは、報復でもするつもりなのか、とにかく私を重要人物と捉えているのは確かだろう。犯人はわかりきっていたが、こちらからあえて何かするつもりは特にない。現実問題、組織集団相手に子供一人で何ができるっていうのさ。ある程度騒ぎが落ち着くまで私たちは安全が保証されている此処、マサキの家でお世話になることになった。その対価として、マサキの仕事を手伝うという労働条件を飲むこととなった訳だが。
正直ここまで扱き使われるとは思わなかった。夕食の後から早速仕事は始まり、簡単な資料整理だと高を括ればどんどん積み上げられる書類の山に冷や汗が流れた。寝る間も惜しんで終わらせれば、今度は期限の迫った仕事があるとその一部をポンと丸投げされて。やっと今終わらせたと思ったらこの仕打ちだ。
床に転がったまま現実逃避する私を、隣の机で作業しているマサキが急かすように足でつつく。
「いつまでカーペットと見つめあっとるん。こっちも時間ないねん、はよ座って仕事せい」
「私とこいつは相思相愛なんだよ。邪魔するマサキはギャロップに蹴られる運命」
「自分頭のネジどっかに落としてきたやろ? おーい、ジャンボー! お前の相方が故障しとるでー!」
マサキからヘルプ要請のかかった相棒はすぐにやってきた。頭に三角巾、口元にはマスクをつけたエプロン姿で。うちの子はいつのまに大沢家政婦紹介所に就職していたのか。
おかしいな、昨夜見たときはいつも通り自前の毛皮ジャケットだったはず。人はそれをマッ裸という。裸で羞恥を覚える概念はないらしいので気にしない様だけど。
ジャンボは芋虫状態になった私を見てため息をつくと、背中に乗ってきて微弱な電気を流し込みながら指圧を始めた。
「あ゛~……生き返るぅ~……」
「ええなそれ。ジャンボ、次ワイにも頼んます」
「チャー」
今まで気を張っていた全身の力が抜けていく。疲れきった体に与えられる緩やかな刺激に脳が蕩けてしまいそうだ。いや、すでに体は溶けているのかも。一昨日からまともに寝ていないせいで、一度下がってしまった瞼はうんともすんとも言わない。もうゴールしていいよね?
返事はノーと言わんばかりに止めの一撃をくれた相棒は、私をしっかりとイスに座らせて作業を開始させるまできっちりと仕上げていきました。お前はどこのオカンじゃ。
隣から聞こえるオッサン臭いだらけ声を無視して仕事に取り掛かれば、あとは集中するのみ。リミットまであと五時間もない、まさに今が正念場だ。再び画面に噛り付くように作業を進める。
次第に周囲の音は消えていき、自分だけの世界に入り込む。この感覚は久々だな、去年の冬以来だろうか。主に研究室からヘルプで呼ばれて行くと大抵はこんな感じだ。どこも締め切り直前まで仕事貯めてるんじゃねえよ!!
「ピカピー」
ジャンボの呼び声に、切りのいいところで指を止める。ディスプレイの時計を見ると、もう一時間も経っているではないか。だから終わらないって!
顔を向ければ、クッキーを手に持ったジャンボが待ち構えていた。疲労した脳が糖分を求める本能に従い、クッキーに噛り付く。うん、美味しい。
「既製品ぽくない味だね。手作り?」
「チャー」
「良くできてる。また腕上げたね」
「ピッカチュ!」
エヘンと胸を張る相棒に飲み物を強請れば、ちゃんと用意済みだったようですぐにコーヒーが出てきた。もうどこに嫁に出しても恥ずかしくないな。うちの子、雄だけど。
ジャンボは甘いもの好きが高じてお菓子作りが得意だ。料理はあまり好かないと本人は言うが、手先が器用なので繊細さが求められるお菓子作りは私よりも遥かに上手な腕前を持つ。
ひと時の休息を味わいつつ、そういえば隣で作業しているはずのマサキが見えないと気づく。トイレかなと相棒に訊ねれば、カタンと開かれる扉の向こうに噂のご本人が登場。扉から一直線に私へと迫りくる彼は、その勢いで綺麗な土下座をかました。いきなりどうした!?
「シンクはん、息子さんを嫁に下さい!!」
「やらん」
「そこをなんとか!!」
「却下」
「後生やでーっ!」
「落ち着け。いきなりどうしたよ?」
問えば、顔を上げたマサキが興奮しながら語りだした。用を足しに部屋を出た瞬間、傍目からわかるほど家の中が綺麗に掃除されていたこと。微かに漂う甘い匂いに釣られて行けば、台所でクッキーを焼くジャンボを見て驚いたこと。更にそれが大層美味で感動したとか。
「しかも小さい頃お袋が焼いてくれた味に似とんねん。もうこれは求婚するしかないと思ってな」
「馬鹿かお前は」
「男は胃袋捕まれたらオシマイやねん!」
「ピィー……」
「気にすんな、ジャンボは何も悪くない」
賞味期限の近かった卵を片付ける目的あっての行動に、誰がお前を責められようか。先ほどのマサキに驚いて私の背後に逃げた相棒が、またしても申し訳なさそうな声をあげる。だからお前のせいじゃないって。
人のことネジが抜けたとか言うくせに、自分はどうなんだよまったく。嫁とか考えるんじゃなかった。タイムリーすぎて笑えない。フラグ立てた私にも責任がありそうだ、すまんジャンボ。
目の前で真剣に頼み込む愚かな大人に制裁を加えるべきかと、腕を振るう前に相棒が自ら出てきてマサキに両手を合わせてお辞儀のポーズ、つまりお断りを入れていた。
「なんでなん! なんでそないにお断りまでスマートに出来るんや!? 余計に欲しくなってまうがな!!」
「うちの子どこ行っても人気者だからさー。振った男の数とか一々数え切れない、みたいな? その手の経験値は高くてよ」
「くそう、相手が高嶺の花すぎた!!」
親としては鼻が高くて嬉しい反面、魔の手から守るのも一苦労なんですけどね。そこは愛でカバー。
悔し泣きをするマサキをジャンボがよしよしと撫でて慰めてるけど、それ逆効果だから。余計に欲しがられるに決まってる。ほら、マサキがジャンボを抱きしめて「離さへんでーっ!」とか抜かしてるし。言わんこっちゃない。
見苦しいおっさんから相棒を取り戻して膝上に置く。いつも感じるふかふかの手触りがエプロンに阻害されているため、僅かな違和感を覚える。
「そういえば、このエプロンどうしたの。まさか、マサキがジャンボのために……?」
「そこまで用意周到とちゃうわ」
「ピピ!」
「まじか。いつの間に持たせたんだ」
「……シンク、ワイにはわからんで翻訳してくれへん?」
「犯人は母」
「お礼の電話入れてきてもええ?」
「ついでに、余計なもの仕込むなって言っといて」
実家の番号を適当な紙に書いて渡せば、上機嫌でマサキは部屋を出て行った。掃除ひとつでそこまで舞い上がるのか。
この家は少々特殊な構造のせいで、ポケギアの電波は室内に届かない。固定電話を使うか、外に出てポケギアを使うしかないのだ。不便だがこれも防衛のため、慣れれば問題ない。
ちなみに私のポケギアは、この部屋に缶詰になっている間ずっとジャンボに預けておいてある。時々外に出てメールを受信してもらうためだ。急ぎの用件があるといけないからね。コーヒーを飲む片手間に、思い出したついでにポケギアを返してもらってチェックする。相棒もイスを隣に持ってきて、同じ机に本を広げながらココアを飲んでいた。
ロケット団のことがあったからか、家族からやたらとメールが入ってきている。いちいち返事をするのも面倒くさいので、内容にだけ目を通して返信はジャンボに任せよう。
のんびりと過ごしていたら、あっという間にマサキが戻ってきた。随分早かったね。
「シンクのおっかさんにエプロン着てるジャンボの写メ送ってくれ言われたわ」
言うが早く、私は相棒のエプロンを脱がし始める。私のいきなりの行動に「チャー! チャー!」と相棒は声を上げて抵抗するが、お前その声音は楽しんでやってるだろ。お代官様ごっこじゃねーんだぞコラ。
「ワイ、今ならジャンボの翻訳できるで」
「言ってみろよ」
「チャー、ピカピチャッチャー!」
「キャー、シンクのエッチー!」
ドヤ顔で言うマサキに思わず足が出た。両手は相棒にかかりっきりだったからしょうがないよね。床で悶絶する馬鹿は放っておいて、私は無事に相棒からエプロンを取り上げることに成功した。心底残念がるジャンボに、しっかりと釘を刺していくことも忘れない。
「あのなあ……ノリがいいのも分かるけど、こういう事は程ほどにしておかないとお前は何でも請け負っちゃうんだから。もう少し自分を大事にしなさい。わかったか?」
「ピ~……」
むすーっとした顔で視線を逸らすジャンボの顔を両手で挟みこんで念を押しておく。
「わ、か、り、ま、し、た、か?」
「ビッ、ビィッガヂュー!」
「よろしい」
しっかりと返事をしたことで両手から解放してあげる。楽しいのもわかるけど、私はお前をアイドルにしたい訳じゃないんだからな。研究室ではすでにそんな扱いだけど。
昔に一度、母が勝手にジャンボの写真を雑誌に送って賞を取って来た事がある。専属モデルをやらないかと誘われて私が猛反対をしたことを母親は今でも悔やみ、虎視眈々とリベンジを狙っていることを私は妹経由で知っている。絶対阻止!
涙目で頬を擦る相棒を横目に、私はディスプレイへと向き直る。さて、ぼちぼち作業に戻るとしますか。丁度キーボードに指を置こうとしたところで、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「ピカチュ?」
「あ、そういやさっき電話でこっちに荷物送ったって言うとったわ」
思い出したように言うマサキが、どっこらしょと掛け声をつけて立ち上がる。
もしかしなくても母さんからだよね。嫌な予感しか感じない。一番に玄関へと駆けていったジャンボをマサキがふらふらと追いかけていく。そこまで痛くした覚えはないんだがな。
5分とかからず、閉じられた扉が音を立てた。開けに行くと、ジャンボが頭上に大きな荷物を抱えて立っている。受け取れば、見かけに反してそこまで重くない。中身の想像はし難いが、とにかく邪魔にならないスペースに置いていく。
おかしい。何がって、母さんが荷物を送ってきたこと自体がまずおかしい。うちの家族は皆抜きん出て変わり者だが、その中でも色々な意味で頂点に君臨する母親の行動は人一倍やっかいな事この上ない。ぶっちゃけ、箱の中身が凄く怖いんだ。
私が此処にいることを知るのはリーフに聞いたなら分かるとして、早くても一昨日。予め荷物が用意されていたと考えても早すぎる。
遅れて戻ってきたマサキが、送り主は祖父母だと教えてくれた。中継地点があった訳ですか、なるほどねー!
揃ったところで、いざ御開帳といきたくても手が意に反して伸びない。中々開けようとしない私に気づいたマサキが、ジャンボにいらぬ告げ口をする。
「ジャンボ、これ宛名がお前との連名になっとるで開けちゃえ」
「チャー!」
「なぬっ!?」
取られてたまるかと行動するも一歩遅く、見事な速さで相棒は箱を奪取して隅の方で開け始めた。
いいや、ここで開けなくてもいずれは見なければいけないんだ。現実を受け入れるしかない。
腹を据えて渋々と相棒の側まで向かえば、先に中身を見たのだろう二人から歓声が上がった。え、何? 何が入ってたの!?
慌てて覗きに行けば、私の口からも悲鳴が飛び出した。
「何じゃこりゃあああああ!?」
相棒が箱から取り出したそれは、見事な光沢を放つ素材で鮮やかな発色を見せ、シンプルながら所々に意匠を施された高級品だと一目でわかった。
他にも付属の品々が多数入っていて、全てを合わせれば――
「完璧なパーティー用のドレスコードやな」
マサキの言葉にガクリと膝を落とす。見れば化粧道具や靴、装飾品まで全て一式揃っている有様。
「ご丁寧にも鬘まで用意されてるっちゅーことは……」
「言うな! それ以上私を追い詰めるのはやめろ!!」
「せやかて、お宅の相棒はすでにアップを始めとる様やけど?」
マサキの示した方を見れば、私が座っていたイスに乗って鼻歌を歌いながらコピー用紙に何やら書いているジャンボがいた。背後から覗きこめば、ご機嫌な様子で先程の衣装を着た女性の絵があった。何通りも髪型があり、それに合わせた化粧についても書かれている。もしかしなくても、それって……。
頭を振って視線を逸らせば、今度はマサキが笑顔で手招きする。
「いやー、すっかり忘れてたわ。堪忍な、これ招待状」
手渡された封筒には、しっかりとサントアンヌ号のロゴが入っていた。こんなイベントだったっけ、と思い出すも詳細な記憶はすでに時の彼方だ。
確かにゲームでも豪華客船と銘打ってたし、父さんもパーティとか言ってた気がするけど。なんで私がわざわざそんな格好をしなくちゃいけないのさ!?
「今から辞退は……」
「もう主催者側に連絡いれてもろてん。諦めい」
楽しくなってきたと言わんばかりの顔を隠そうともしないマサキとは対に、私は絶望の底へと沈んでいく。
「…………ああ、そうだ。連名ってことは、これをジャンボが着る可能性もあるわけじゃん。鬘まであるんだからさ、完璧な女装ができるんじゃない?」
「シンク、それ誤魔化しきれてへん。ただの答えや」
「嘘だぁあああ!!」
最後の可能性にまで見放された。ああ勿論、どう考えても無理があるってわかってたさ。それでも一抹の希望にかけてもいいじゃないか!
遣る瀬無い気持ちを拳に乗せて、床をバンバンと叩きつける。お祭り気分の周囲に孤立して一人お通夜気分の私。くそう、これだから母さん絡みの件は碌な事がないんだ!!
項垂れる私の肩にマサキが手を置く。
「パーティまで大分日にちがあるし、それまでは気楽に過ごしぃや」
「マサキ……!」
「とりあえず、今は時間押しとるし仕事しよか」
「……はい」
それからの私は、無心でキーボードを叩き続ける機械と化したとはマサキの談だ。ジャンボは浮かれて家事を率先して行ってくれたとか。どんな喜び様だよ。
「いや~、優秀な助手が二人も飛び込んでくるなんて。日頃の行いが善い証拠やな!」
嘘こけ。
【マサキ】
本名:曽根崎 征紀(そねざき まさき)
年齢:28歳
身長:171cm
性別:男
アレコレ:レッドとは5年前に父親を通じて紹介される。現在では歳の差関係なく親友の間柄。