花妖怪と青年 作:TKI
俺はこう見えて人の世にいた時にはペンを持ち、拙い物語を書いて生計を立てていた。
だからこそ、ではないが“終わり”や、“引き際”と言うものを、即ち“結”と言うものを常日頃から意識してきた。
――全てのものは終わりを迎える。
それが望むにしろ、望まずにしろ、故意にしろ、事故にしろ、この世のものは朽ちていくことを、錆び果てて逝く事を避けられない。俺たちが普段使う言葉ですらそうだ。常に新しい言葉が社会の発展と共に生まれ、そして古い言葉消えていく。古い言葉はやがて皆の記憶からも消え去り、ただ文献に、即ち文字として、文章としてそこにあるだけの物になるのだ。かの連合国軍最高司令官を務めたダグラス=マッカーサーがアメリカ議会の演説で言った『老兵は死なず、ただ消え行くのみ』というセリフ。かのセリフは“言葉”という概念そのものにも当てはまるセリフではないだろうか。使い古された言葉はただ消え去るのみ。
形の無い概念の存在である“言葉”ですら滅び行く運命に逆らえないのだ。ならば、形ある物であるなら、その終わりが避けられないのは最早言うまでもないだろう。
――諸行無常。
勿論それは人間だって例外ではない。終わりがあるからこそ人生と言うのは輝き、人というものは面白い。
平生から考えていた。物語の一番いい終わりはどこか、と。短過ぎるとのめりこめず、かと言って長過ぎれば飽き飽きしてしまう。なら、作品にのめり込んだその瞬間、その作品の最高潮の部分でスッキリと後腐れなく終わるのが丁度良いだろう。
俺と花妖怪の物語。その引き際は、その終わりは、今だ。俺自身が気付いてしまった以上、それに花妖怪がその様子を察した以上、これ以上ダラダラと物語をただ蛇足で送ったとしてもそれはただの茶番でしかない。それはペンで暮らしてきた俺の沽券が許さない。
――――全てを終わらせるなら、今日この時をもって他はないはずだ。
「…………そう、気付いていたのね」
花妖怪は閉じていた目をゆっくりと静かに開ける。赤い紅い深紅の瞳が俺を射抜く。ただの人間ならばその眼光だけで気を失いそうな視線を受けて、俺はどこか安心する。やっぱり、花妖怪はどこでも、いつでもその“らしさ”を失わないということに……。
「ねぇ、“後学”のために教えてくれない? 何時から気が付いていたの?」
「何だ、今日はやけに俺に質問ばかりするな」
「まぁ、いいじゃない。“後生”なんでしょ?」
「なるほど、確かにその通りだな。まぁいいや、確かに“後生”だからな。長話の後にもう一度長話するのも悪くない」
柔らかく微笑んだ花妖怪に俺も笑いを返す。そう文字通り後生なのだ、もう少し位長話しても罰は当たるまい、最早今更だ。そして花妖怪はこれまた文字通り後学のために話を聞く。やっぱり、この花妖怪はもう既に全てを悟っているらしい。何とも食えない奴だ。
「えぇ、お願い」
「俺に何が起きたのか大体のことに確信を持ったのは本当につい最近の事だ。でも、気にかかる事はそれこそ沢山あった」
思い返せばあの時から段々と徐々にその傾向は出ていた。背が伸びることと同じように変わっている内は分からない物だが、立ちどまり過去を振り返ってみるとその差は歴然としていた。むしろ今思えば何故ここまで確信を持てなかったのか不思議なくらいだ。
「例えば?」
「そうだな……。まず体力がいきなり急激に上がり始めたことだとか、酒がいくらでも飲めるようになったことだとか変化はいくらでもあった」
初めは向日葵に水をやる作業を汗水をだらだらと滝のように流しながら行っていたが最近では鼻歌交じりに出来るようになり、時間も初めの三分一以下にまでなった。そして、酒に関して言えばここ数日はほろ酔いはするもののそれよりも先、酩酊するまでには至らず、二日酔いもすることがなくなった。それに最近では明らかに夜目も効いてきた。そんな分かりやすい変化が起これば俺でなくとも疑いはいくらでもするだろう。
「…………」
「そんな変化には気付いていたんだけどな、俺はてっきりこの幻想郷の影響かと初めは思っていたんだ。この幻想郷で向日葵の水やりを毎日やっていれば体力はついてもおかしくはない。異常な体力の上昇だったが、日頃ろくに運動していなかった俺だから、肉体労働を続ければこれくらいは簡単につくんだな、って軽く思ってたよ。酒に関していえば最近飲んでいるのは幽香が持ってくる幻想郷産の酒ばかり、人の国の酒ではないんだ、飲めば飲むほど酒が強くなる酒なんて物があってもなんら不思議じゃない……。だから俺は自分の変化には気付きつつもいつも通り過ごしたんだ」
「…………」
花妖怪は先ほどと同じく口を開かない。しかし、先ほどと違うところは目は閉じられておらず目と目が合っているところだ。
「確信を持てた引き金となってのは二つ。いや正確に言えば一つと言っても良いのかもしれない」
実質その二つがなければ俺は今頃布団の中で寝ているか、花妖怪と楽しく晩酌でもやっている頃合い間違えなしだ。だが、その二つが大きすぎた。
「……それはなんだったの?」
「一つは名前だ」
「…………」
「そのことに気付いたのは文の新聞、『文々。新聞』で連載していた小説の最終話を書き上げた時だったよ。俺は自分の作品の一番最後、あとがきに必ず自分の名前を入れるようにしているんだ。それもペンネームではなく本名を、今まで俺が書いてきた全ての作品にそうして本名を書き続けてきた」
それは俺が自らの作品に誇りを持っているという自信の現れでもあり、俺がここにいたというちっぽけな自己証明のためでもある。こうやって自信の現れとかいうとさぞかし自分の文章の上手さに自信があるのだろうと思われそうなので言っておくが、そういうことではない。俺よりもうまい文章を書く奴も、面白い作品を書く奴も五万といる。文章の上手さや、話しの面白さなどは人によって価値観の違うものであり、一概にはなんとも言えないが、書いている本人がいうのだ、その信憑性は少しは上がるだろう。
俺がここでいう誇りというのは自らの生き方に対する誇りである。
自身が自らの意思で動き、働き、行動し続けた事への誇りであり、その結果として生じたものをすべて受け入れると言った誇りである。作品が世間でどのように評されようとも批判の的になろうとも、そんなことはどうでもいいのだ。問題なのは己の行動を恥じて隠すこと、だ。どれだけ作品が売れようとも、世の中の地位と名声を得ようとも、誰でもない自らに誇れない生き方をしたくはない。それが俺という人間だった。
「だから、今回も例にはもれず新聞の連載小説という特殊な形だけど、最終話の最後に俺の名前を書く“つもり”だった」
そう“つもり”だったのだ。
「思い出せないんだ……。どれだけ考えても思い悩んでも、自分の本名が! 今まで生きてきた一番の証明が思い出せないんだよ! どれだけ思い悩もうとも霞がかかったようにそれだけが思い出せないんだ。愚かな俺は漸くここで自分自身に変化が起きたって気付いたよ。でも、そこで分かったのはただ変化があったということだけだった。頭の病気なのか、それとも何が起こったのか俺には分からなかった。確信を持てるようになるのはそれから少し後だ。決定的な引き金になったのはもう一つのほうだ」
どうでもいいことは思い出せるのに自身の名前だけがすっぽり頭の中か消え去っていた。まるで誰かに“奪われた”かのように、そこにあるのはただの無。ただぽっかりと大きな穴が開いていただけだった。かの哲学者ニーチェはいった『怪物のと戦うものは自らもまた怪物と成らぬように注意せよ。我々が深淵を覗くとき、深淵もまた我々を覗いているのだ』、と。
心に空いた一つの穴、その深淵を覗き込むとそこには一匹の怪物がいた。
「……それでもう一つの要因とは何かしら?」
儚げな笑みを消さずに花妖怪は柔らかい声を紡ぎ出す。
「それに気づいたのは今日の昼間……。いや、もう昨日事か。じゃあ言い換えて昨日の昼間の話だ。昼飯を食べた後にいつも通り向日葵畑で向日葵の絵を描こうと黄金の原を歩いていたときだった。ふと、気付いたんだ。この風景に“調和”しているってね」
それを理解した時、何かストンとピースがハマる感覚と同時に全てが繋がった。
「…………」
「――有り得ないんだよ」
そう、有り得る筈がないんだ。俺は一旦言葉そこで区切ると息を大きく吸い込み吐き出す。
「何が有り得ないのかしら? 貴方もここに来て結構経つじゃない。馴染んだんじゃないの?」
「月日の問題じゃないんだよ、これは。例え俺が何十年、何百年ここに住もうが俺がこの風景に“調和”するなんてことはあり得ないんだよ」
「…………」
こればかりは歳月でどうこうなるものではない。根本が違うのだ。この風景に溶け込めるのは鴉天狗や花妖怪だ。俺が溶け込めるなどというのは元来有り得ないのだ。鴉天狗や花妖怪と俺との違いそれは単純であり明快である。
「――――――人間じゃこの風景に調和出来ないんだよ」
俺と鴉天狗、花妖怪との違いは人間か、妖怪か、である。神秘に調和出来るのは同じく神秘の存在の妖怪でしかない。科学により人の体は神秘から解き放たれてしまった。ヒトゲノムの解析や医療技術の革新の進展により、神秘のベールはとうの昔に剥がされているのだ。そんな地に落ちた人間がどうあがいたところでこの人間の言語の限界をも超える風景と調和出来る筈がないのだ。
「この幻想郷に足を踏み入れたその瞬間から違和感を感じていたんだ。どこか、世界から浮いているような、何といえばいいのか心がどこか落ち着きがないと言えばいいのか。見慣れたはずの実家に帰ったらいきなり赤の他人が俺の家族として住んでいるように感じられるそんな違和感。まぁ、考えてみれば当たり前だよな。俺は人だからね。この幻想郷とは真逆な存在なわけだ。だからこそ違和感を感じていたんだと思う」
思えばあの違和感はきっと幻想郷そのものからの拒絶反応だろう。異物を排除するのは生き物だけの特権ではないのだろう。場合によっては世界そのものも排除しようと躍起になることもあるのだ。人の科学は神話を殺し、伝承を殺し、仏を殺し、鬼を殺し、そして神をも殺してきたのだ。神秘のベールを剥ぐという点に関しては人以上の存在はおるまい。そして、神秘のベールを剝がれた幻想郷は形もなく跡形も消え去るだろう。地に落とされてまでこの世界は生きながらえることをしないはずだ。
だからこそ、人である俺がこの世界に馴染めるはずがない。調和出来る筈がないのだ。
「本来なら神秘的な風景に浮いてしまうはずの俺が“調和”出来ている。このことで全ては大体つながったよ。導き出される答えは一つであり、俺が求めることも一つだけだ。
――――――――名前を返してもらおう。幽香、俺を人間に戻せ」
「………お見事」
俺の言葉に花妖怪は優雅に笑うと短くそう答えたのだった。
「人間に戻すことが何を指すのか、もう貴方は分かっているのよね……」
花妖怪は正座のまま俺の方へとよる、その距離はいつ触れ合ってもおかしくない距離だった。
「あぁ、大体のことは分かっている。人間としての俺はまだ生きているか?」
神秘的な風景に調和出来るのは神秘だけ。即ち、俺がこの風景に調和出来ているのは、俺が神秘そのものになったからに違いなかった。神秘そのものとは言わずと知れた妖怪だ。人間が妖怪になる、その考えが廻った時に心の中にすっぽりと空いた穴、即ち名前が思い出せないことに行きついた。ここまで来れば単純な話だ。この幻想郷で俺の本名を知っているのは花妖怪だけだ。花妖怪が俺の名前を奪ったのだ。そして、あの空いた心の深淵の底にいたあの怪物は、妖怪となる俺そのものだったのだろう。
「そうね、ぎりぎり虫の息くらいはあるかしら? でも……」
そこで花妖怪は言い澱む。
「人に戻った瞬間に死ぬってことか……」
「えぇ、ご明察。その通りよ」
「そうか、まだ生きていたのかそれはよかった」
そう言って笑う。
もう既に人間としての俺は死んだのかと思ったがそこは違ったようだ。これは嬉しい誤算だ。
百万本の杉に囲まれても、百万本の向日葵に囲まれても人の匂いは中々落ちない。俺は人として生まれて育ったことに誇りがあるし、人として死んでいくことに何の戸惑いも躊躇いもない。人でなしになるくらいなら、人として死ぬ。これが俺の信条だ。そのことは何よりも花妖怪自身が理解しているのだろう。だからこそ、彼女はこんな深夜に起きてきた。
「まぁ完全に息を引き取るのも時間の問題だわ。今日の朝日が昇るころには確実に死んでるわね」
彼女がこんな夜中に起きて来た理由。それは全てを俺に話すためだったに違いない。俺が気付いていようと気付いていまいと、どちらでも関係なく、彼女は今日この時に全てを話すために起きてきたはずだ。
「しかし、完全に騙されたよ……。あの時のどこまでが計算のうちだ?」
傍から見れば何を聞いているのかさっぱりと分からない質問だろうが花妖怪には分かる。
「騙すなんて失礼ね……。ちゃんと話そうとしたのよ、私は。貴方の命にかかわる話だったからね。そしたら、貴方が止めるから」
あの時とは俺が“こう”なる原因となった日から三日後、部屋で目を覚めした時のことだ。“こう”成った切っ掛けはあの日のあのことしかない。人生で文字通り決死の思いをしたのはあの時だけだ。即ち、鴉天狗と花妖怪との間に割って入りわき腹に風穴を開けられたあの日である。あの風穴が俺の直接の死因で間違いないはずだ。
そして、それから三日後。いつもの部屋で目を覚ました時のことを思い出す。
『良かったああああああ! 生きていたんですね!』 『うっ……ぐすっ……死んじゃったと思いました……』
誰もあの時に人間としての俺が生きていたとは言っていない。あの時は思いつきもしなかったが、すでにあの時に俺は人間としては死んだも同然であり妖怪としても生きていけるか微妙な状況だったのだろう。だからこそ、鴉天狗は俺を見てあれほどまでに喜んだ。
「止めるのを分かっててやっただろ、幽香?」
そう笑い返れば、返答に涼しげな笑顔が返ってきた。返事としてはそれだけでもう十分だ。
あの時自身のイメージ崩さぬように花妖怪を止めた俺だが、あの時彼女が真に伝えたかったことはこのことだったみたいだ。
「一応手を尽くしてはみたのよ。でもね……、文のスピードをもってしても医者に着いた時にはすでに手遅れで……」
「残された方法は人から妖怪にするしかない、と」
「えぇ、その方法にも二パターンあってね。一つは徐々に妖怪にしていく方法。貴方みたいにね。二つ目は、一気に妖怪にする方法。正直一気に妖怪にした方が確実だったのだけれど……。一気に妖怪化してしまうと、人間には戻れないの。文はどうしても助けたかったみたいでそちらを押してたんだけど……」
私が力づくで却下したわ、と花妖怪は当然のように話す。
あぁ、やっぱりこの花妖怪は俺のことを良く分かっている。
「もし、一気に妖怪化させてしまって後々気付いた時、貴方が自分を殺した時以上に深い絶望と怒りを持つのが分かっていたから……。妖怪のまま死ぬなんて貴方絶対に嫌でしょ」
「本当に俺のことをよく分かっているよな。ん、ということは俺がこの答えに行きつくまでが計算の内という訳か……」
食えない奴だとは思っていたがまさか、ここまでだとは。妖怪という種族は誰も彼もが人間とは一線を画した頭脳を持っている奴が多いらしい。
毎日酒を持って来て一緒に飲んでいたのは俺に自分の許容量の変化に気付かせるためだろうし、そして、もしやすれば……。
「もしかして、俺が文の新聞で小説を書くことまでが計算の内だったりするのか?」
「うふふ……。さぁ、どうかしら?」
この言葉で確信した本当にどこまでも悔しいことに花妖怪の手の上だったようだ。大方、鴉天狗経由で俺が昔書いた本を見てこの策を思いついたに違いない。俺が最終話になり自分の名前を思い出せないことに気付かせるために……。
なるほど、文のあの鋭い推理もそうなれば答えから逆算した質問だったのだろうか? いや、あの食えない狸天狗の事だ、きっと俺のことを知らずとも俺が物書きだということに行きついたに違いない。花妖怪にしろ、鴉天狗にしろ敵に回したくない連中だと言うことだけは確かである。
「まぁ、答え合わせはこれくらいにするか……。幽香、頼む」
茶番に対する答え合わせはこれくらいでいいだろう。こっちには時間がない。人間に戻れる可能性があるなら今すぐにでも戻らなければいけない。例えそれが死ぬことであっても。
「本当にいいのね?」
それは確認。死が分かっているというのに本当にそこに飛び込むのかという最終確認。
「……あぁ」
「そう……」
笑顔で頷く俺に対して微笑みで返す花妖怪。
そして花妖怪ははっきりと一人の男の名を口にした。琳瑯璆鏘としてなるような音色で紡がれたそれは懐かしく、同時に馴染みのある名前。それを聞いた時、心のど真ん中にあった穴がカチャリと埋まる音がしたた。
――刹那、ぼんやりした光の粒子が辺りに立ち上っていくのが見えた。
それは俺の体からあふれ出る光の粒子。それは即ち妖怪としての俺の体であり、生命力でもある。
「徐々に妖怪にしたから、人間に戻すまでにタイムラグがあるわ。時間にして三分程度ね」
「そうか、それはちょうど良かった」
俺は懐より原稿用紙を一枚取り出す。文の新聞にて連載している小説の最終話それの最後の一枚である。そこに長年愛用していた万年筆で名を書き込む。俺が書く生涯最後の四文字にして、同時に最も書いてきた四文字である。
――――間に合った。
幻想郷にて最初で最後いや、最期の作品はこうして完成を迎えた。
これで俺がこの幻想郷に来た証は確かに残る。もう、これ以上何も悔いはあるまい。
「なぁ、幽香。最後に聞いていいか?」
「えぇ、何かしら?」
光の粒子は俺からあふれ出し下弦の月と満天の星空へと昇っていく。その様子はまるで天に返るかのようだ。当事者の俺ですらも綺麗に見えるのだ、これが傍から見る第三者であればなお綺麗に見えることであろう。画に描けないのが非常に残念だ。
「なんであの時、俺に幽香を止めさせたんだ? そもそも幽香なら勝手に巻き込まれた俺の命なんてどうでもよさそうなもんだけけどな」
「そうね……。ただの人間ならどうでも良かったのだけど……貴方には何故か生きていて欲しかったのよ」
「そうか。なら、何故俺が全てを悟れるように根回しをしたんだ? もしも、俺が真相に至れなかったら自らが全てを告げるような保険までかけて……。あのまま黙っていればもしかしたら暫くの間は騙せたかもしれないのに……。それに命だけを救いたいなら徐々に妖怪にするなんて面倒なことはやめて一気に妖怪にすればよかったじゃないのか?」
「…………――からよ」
その返答は小さく、夏の夜風に流されどこかへ消えてしまった。
「すまない、聞こえなかった」
「だから、嫌われたくなかったのよ! 貴方にもっと生きてほしいと願うのと同時に嫌われたくもなかった! だから、こういう中途半端なことになったのよ!」
俺は花妖怪がここまで感情的になり、大声を出すのを初めて聞いた。平生からこの花妖怪はどこか一歩引き常に冷静に振る舞っていた。だからこそ、感情を露わにして叫ぶなんてことは見たこともなかった。そもそもにしてあの衝撃的な出会いの時、あの獰猛な笑みを浮かべ獲物である傘をこちらに向けていた時でさえ花妖怪は声を荒げることはなかったのだ。そんな花妖怪だからこそ、今のこのセリフは心の底から思っていることなんだと分かった。非人情の旅に出て、最期にこんな事に出会えるとは、本当に旅に出て良かった限りだ。
花妖怪は言葉を吐き出した後、少し呼吸を整えると困惑の相を顔に浮かべた。
まるで、小さな子供が初めて知ったものに動揺するかのような表情であった。
「ねぇ、貴方は物書きよね……。人の心理や内情を察したり、考えたりするのが得意なのよね? ――なら、この気持ちは何なのか分かるかしら? 貴方と一緒にこのまま暮らして行きたいのに、貴方の気持ちを汲み取ってこのまま死なせてあげたい、貴方に嫌われたくない、そう思う気持ちが何なのか、貴方には分かるかしら?」
その問いかけに思わず笑いが出てしまった。不謹慎だと思いつつも笑みがこぼれた俺を花妖怪は訝し気に見る。ごめんごめん、悪気はないんだ、と花妖怪に謝りつつ言葉を紡ぐ。
勿論、この花妖怪が恋慕の情を、即ち恋になど愛などそう言った類の物を俺に向けているなんて、そんな事はあり得ない。もしもそんな情があるのなら花妖怪は何も考えずに俺を妖怪として縛り、そのまま何も言わずに日々を過ごしたに違いなかった。でも、花妖怪はそうはしなかった。あくまでも自分本位ではなく、俺も気持ちを考えて行動してきた。
花妖怪と一緒に暮らしてきて気付いた。俺と花妖怪は人間と妖怪という差異はあれど基本的な部分はどこか似ているのだ。自分の考えを曲げない所や、考えそのものもどこか似ている、だからこそこの抱いている感情も同じものだろう。
何時の日にかに考えた事がある、『共に時間を過ごしても決して不愉快ではないこの気持ちを、だが決して恋慕の情ではないこの気持ちを、お互いに会話がなくとも心地よく過ぎせる』この気持ちを。
花妖怪もきっと同じ感情を抱いているのだろう。この情を何と言うのか、それは単純だ。
「それは簡単なことだよ。その気持ちを“友情”と呼ぶんだ」
強すぎる花妖怪だからこそ、今まで抱けなかったこの気持ち。それは友情という二文字を置いて他にない。世との世においても恋だの愛だのという、恋慕の情と引けを取らないその二文字こそ俺と花妖怪の間柄を説明するのにこれ以上ない言葉である。
「……そう。そうなのね。この気持ちが友情なのね」
花妖怪は友情……、そう友情ね、と小さくつぶやく。その言葉はきっと誰にもない自分に当てた者だろう。
粒子の粒はどんどんと大きくなり、流出もどんどんと多くなる。まさか、最期に絵の題材にしたいと思うのが自分自身だとは思ってもみなかった。
「そう、その気持ちが友情だよ」
「ねぇ、貴方はどう思っているの? 私と同じように思っているのかしら?」
「あぁ、そうだね。俺も幽香には同じ気持ちを抱いている」
「じゃあ、私たちって……」
「そうだな。――俺たちは友人だ」
俺と花妖怪の間柄、これ即ち友人だろう。聡明で、賢明で、それでいて自分をしっかりと持っていて更に絶世の美女、俺には過ぎた友人だ。これ以上にないくらい、本当に……。
「そう、私たち友人だったのね」
「そう俺たちは友人だ」
花妖怪の言葉に俺は一つ力強く頷く。
結局のところ人の世と人でなしの国、そのどちらが住みやすいのか、その結論は出なかったが、妖怪と人間との友情は成り立つ。このことは分かった。幻想郷に来て俺の一番の発見はこれであろう。例え神秘と俗物でも、素晴らしい関係がこのように築くことが出来るのだ。
夏の夜風が一撫でし、天に昇る粒子を揺らす。
もう、俺に残された時間はほとんどないだろう。
「ねぇ、最期に、本当に最期に一つ聞いても良い?」
「それは妖怪としてか?」
「いいえ、貴方の純粋な友人としてよ……」
「何でも聞いてくれ」
「そう、ありがとう。なら、聞くわね。貴方は死後の世界ってあると思う?」
俺は仏教徒でもなければ敬虔なキリスト教徒でもない。日本人特有の他宗教であり無宗教だ。勿論、神も信じなければ仏も信じない。妖怪は……、目の前にいるので信じざるを得ないが。
そんな俺でも、その言葉に対する言葉はすぐに用意できた。これはペンをもつ俺だからできた事でもあるだろう。科学的に言うのなら死後の世界なんてものはあるはずがない。人は死んだらそこで終わりだ。それ以上は何もない。
しかし、俺は科学者でも新聞記者でも何でもない。ぺんを持つ作家だ。ならばその答えは――
「死後の世界はあるよ。間違いなく」
「……そう」
「だって、そう考えたほうが――面白いだろ?」
ただ科学的に死後の世界なんてふざけたものがないと考えるより、俺の様に死後の世界はあると考えたほうが楽しく逝けるはずだ。ペンを持ってきた人間の最後はやはりこうでないといけない。
「さて、もうそろそろ時間かな」
もう俺に残された時間は殆どないのだろう。下半身は既に感覚はなく、腕を動かくことすら無理だ。天に昇る粒子はその勢いを留めることを知らず、天の川のように上っていく。
「そうね。もうそろそろお別れね」
自分自身ことは自分がよく分かる。俺の神秘は粒子と共に放出され天へと還っている。もう、後数十秒と待たずに俺は人間へと返り、そしてその生涯を終える。
恐怖の二文字はない。元来なら俺は腹に風穴を開けられたときにその生涯を終える筈だったのだ。むしろ、逝くのが遅すぎるくらい。そして、死ぬにしてもその美しい向日葵畑が見え、横には友人である花妖怪がいる。俺には過ぎた死に舞台だ。
「そうか、お別れだな。幽香」
その残された数十秒で考える。
『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』
そう思い人の世を疎い俺は旅に出た。その非人情の旅の途中に幻想郷に迷い込み、花妖怪と出会う。我ながら何と小説じみたことだろうか。事実は小説よりも奇なり、とはまさにこのことである。なら、もし俺がわが身に起こったこの経験を物語にするのなら何と言う題名にするか。
『向日葵』はどうであろうか。確かにこの幻想郷での生活において向日葵とこの太陽の畑はこと欠かせない題材であり、同時に神秘であったが、その題材では花が主役となり花妖怪と主人公の存在が薄れてしまう。
なら、『花妖怪』ならどうであろうか。確かにこれなら主題のである花妖怪という題材を簡的だが、正確に表している。しかし、何となくそれでは花妖怪一人の話になってしまう。主人公の存在が消されている。
「死後の世界はある。貴方はそう言ったわ。なら、こう言うののが正解ね」
花妖怪はゆっくりと俺の頬に手を添える。もう俺には肌の感覚と言うものがないのだが、それでもその手は暖かく、優しさにを持っていた。
そして、花妖怪はゆっくりと最後の続く言葉を紡ぐ。
「―――――また、会いましょう」
その笑顔は俺が見たどんなものより神秘的で、それでいて美しかった。
――あぁ、やっぱりそうだ。俺と“幽香”との物語。その題名はこれしかない。
「あぁ、また会おう」
――――――『花妖怪と青年』
これ以上にしっくりくる題名はない。
こうして、ここに一つの物語は終わった。
結。