無法天に通ず 作:隆 憲太郎
澄み渡る蒼天が実に清々しい、早朝の朝。
東京にある私立南陽学院は、登校してきた生徒達で溢れかえっていた。人が集う都会の縮図が、そこにある。
田舎から出て来た彼女、孫策伯符も、ささやかな野望を持ってそこにいた。
(おぉ……! 見渡す限りカモ、もとい闘士だらけ)
強い
にぃっと笑顔を浮かぶ。耳に着けた緑色の勾玉が、応える様にふわりと揺れた。
孫策の様な勾玉を着けた者達を、人は“闘士”と呼ぶ。西暦1360年頃、当時元王朝であった中国から流れ着いたとされているが、正確な出自は不明とされている。
その勾玉には、三国志や三国志演義の英雄英傑たちの魂が封印されていた。そして、それぞれの名前が一致する者が着けると、かつての英雄たちに応じた力を引き出す事が出来ると言う。
孫策伯符――三国志演義において『小覇王』と称された英雄と名前を同じとする彼女も、力を受け継いだ闘士であった。
「んじゃまぁ、始めよっか♪」
言うや否や、彼女は近くにいた闘士に声を掛けると、決闘を申し込んだのであった。
―壱―
「あー、超ブルーだ……」
購買で買ってきたお気に入りのパンを手で遊ばせながら、南陽学院の闘士である周瑜公瑾は、空に向かってボヤいていた。
気分はこの空と同じブルーであるが、気持ちがいいものではない事は確かだ。
原因は、昨日珍しくコールを鳴らした据え置きの電話機から届けられた
『はい、もしもし。周です』
『あら、もしかして公瑾くん? 久しぶりねぇ。さっそくだけどウチの伯符を送っておいたから、お世話を任せてもいいかしら?』
『はいぃ!?』
自分の与り知らぬところで勝手に話を進められてキレかけた周瑜であったが、頭が冷えてくると、途端に気分が落ち込んでくる。
(孫策が、
彼女の事はよく知っている。周瑜が中学校に通うまで、毎日の様に顔を合わせた仲である。幼馴染として、従兄弟通して……淡い想いを寄せる相手として、周瑜は孫策という少女を、間近で見ていた。
「はぁぁ……」
孫策が来てくれると聞いて、嬉しくない訳がない。早く会いたいとすら思う相手は、もう直ぐそこまで来て、いつもの能天気な笑顔を振り撒いてるはずだ。
ではなぜ、周瑜は落ち込むのか。
(強くなってるんだろーな、アイツ……)
その時、思い出したのは、カツアゲから守ろうと戦ってくれた少女の笑顔。
そして――――
「ん……はぁ、んッ」
「んん……ん?」
女の悩ましい声と水音を立てながら啄む、艶めかしい男女の姿に、頭の中が吹っ飛んだ。
何故学校で、とか、羨ましい、とか、そんなどうでもいい感情すらすっぽ抜け、じっくりと見入ってしまう。
えっと思うのも束の間、男の目線が女性から周瑜へと向きを変えた。
(わ、わっ、わーーーっ!!)
頭の中はさっきと打って変わって、混乱の極みである。
思わず隠れてしまったが……いやいや、隠れる事の何がおかしい。そっと離れた方が良いのでは……等と考えていると、先ほどの男が声を掛けて来た。
「よぉ。二年の周瑜くんだっけ?」
「わぁーーーー!!?」
返答は叫び声で、行動は迷わず逃走を選んだ。男は周瑜の顔を見て、苦笑を返した。
「おいおい、逃げるこたあないだろ。俺はバケモンか?」
逃げようとした周瑜の腕を掴んで、男は楽しそうに笑った。
「左慈元放だ。よろしくな、周瑜公瑾」
左慈と名乗った男は、掴んだ周瑜の腕を離すと、しっかりと片手を握った。
―弐―
「27、28ッ! そしてこれでぇーー!!」
「ぐえぇっ!」
放たれた正拳が、男の体に突き刺さる。
改めて周囲を見ると、いつの間にか、孫策の周りは死屍累々と化していた。いつもはお調子者の南陽闘士たちだったが、たった一人の、それも細身の少女に次々と沈められていく屈強な男たちの姿に、軽い口も開けない。
今崩れ落ちた男も、その中に加わった。
「ふいーー。これで29人……あと一人かぁ」
まさに、圧倒的。
有象無象の闘士たちでは、最早相手にすらならなかった。
「ヤ、ヤベェって、袁術さんに知らせたほーが」
「バカ。こんな女一人ぐれーで……」
自分では敵わないと悟った闘士たちが、次第に弱音を吐き始める。
こそこそと話す彼らに、孫策が目を向けた。彼女は何か思って向けた訳でも無く、何をこそこそと話しているのだろう程度の、疑問の視線である。
「ひっ!」
たったそれだけで、闘士たちは慄いた。
怖い。かわいいのに、怖すぎる。
周囲の闘士たちは、孫策へ向かっていく勇気を、既に失っていた。
その時だった。
「ん?」
「えっ!」
フラリと。人垣の中から男が出て来た。大柄である。孫策より頭一つ分ほど高いように見えた。それが孫策の方へと向かって来るのだ。
この時、彼女の顔付が俄かに変わる。あの大男が、周囲に倒れている闘士たちと“違う”事を感覚で理解したのだ。
砂を踏む音を後に、二人は向き合う。
その様子を、人垣を掻き分けて出た周瑜も見ていた。
(伯符! アイツ、何やってるんだよぉ!?)
しかも、と周瑜は孫策の前に立つ大男の姿を見た。間違いない、南陽学院の中でもトップクラスの闘士の一人、
最悪だ。彼は頭痛がし始めた頭に手をやった。
そんな彼を気にも留めず、孫策と楽就、二人は話を進めていく。
「――――ガタガタ言わずに、さっさと蹴ってみろぉーーっ!!」
吼えた楽就。応えた孫策。
瞬間、快音が校舎に響き渡る。
しかし。
「……やはりな」
「っ!?」
顔を狙った孫策の上段蹴りは、楽就の人差し指によって阻まれていた。
有り得ない光景。孫策も初めて感じる、圧倒的な実力差。
いつの間にか、孫策の立場は逆転していた。
「なんだこれは? 蹴りのつもりか?」
僅かな落胆の意志を混ぜて、一言。
直後、孫策の体が撥ねられたかのように吹き飛んだ。
一般人や格下の闘士たちからすればとんでもない一撃に見えたが、楽就なりに手心を加えた、手加減した一撃である。
楽就は孫策に怪我をさせるつもりは無いし、したとしてもかすり傷程度であろう。彼はただ、暴れる彼女に教えただけである。
それに楽就には別の興味もあった。
(これが“小覇王”か……フン、伝説は所詮、伝説でしかなかったという事か)
興味も薄れ、南陽の一員としてやるべき事を果たした彼は踵を返そうとした、その瞬間。
「お主、
背後から掛けられた男の声に、ピタリと、校舎へ向かう足が止まった。校舎前で暴れたのがいけなかったのだろうか。どうやら事情を知らない男が楽就を女子を嬲る悪漢と思われたらしい、掛けられた声には、怒りがあった。
やれやれと、内心苦笑しながら、顔でも拝んでやろうと声がした方へ振り返ると、目を開けてぎょっとなった。
楽就の視界に飛び込んできたのは、見た事も無い巨大な馬と、その背に乗る大男が、全てを見下ろして立っている姿である。
声を掛けたのは、馬上の大男だった。
―参―
暖かく、のんびりとした日が続いた。
春も既に終わり頃である。都会の東京の陽光は、田舎のものより暑く感じる。
名古屋生まれの自分には丁度良い塩梅である、という理由で、呑気に寝そべっていた。物珍しげに見てくる人の眼には慣れたものである。気にもせず、にこにこと陽気に笑っていた。
「良い天気だ。なぁ、お前もそう思うだろ?」
目線も態度も変えないまま、彼は大きな声で言った。
周囲は男の知らない他人ばかりである。近付いて来ようともせず、離れて遠巻きに男を見ていた。
では、男は一体誰に向けて言ったのか。
誰もが疑問を持った時である、男の下から甲高い
馬だ。誰も見た事が無いような、漆黒の巨大な馬が、男を背に乗せて歩いていた。まるで山を無理やり馬にした様な姿だった。背に乗っている男も190㎝はあろうかという大柄なのだが、その大男を乗せる馬は、輪に輪を掛けて巨大である。
男が愛してやまない馬である。
名を“松風”といった。
「関東は寒いと思うていたから厚着も用意していたが、いらんかったな」
男の服装は“異様”の一言に尽きる。
指定の学生服を改造したのか桜の花と虎と龍の刺繍に、虎の皮を腰に巻いた服装は、下手をすれば下品でしかない。整理整頓を旨とする日本では、整った服装にこそ品を見出す癖がある。男の服装は、全くの真逆で、自分の好きな物、気に入った物を適当に身に着けているだけである。
しかし、そこに男の美があった。下品を下品と思わせず、むしろそれを愛嬌へと変え、他者を魅して止まない彼の姿に、その服装はとても良く似合っていた。それは男が突き進む『傾奇者』の美学なのである。例え天地がひっくり返ったとしても、これだけは譲れない、譲らせない信条なのだ。
「さてと、南陽学院はこの辺りだったと思うが……」
わざわざデカい
ほっと力を入れて寝そべっていた体を起こせば、目の前には生徒を迎える為の校門と私立南陽学院と彫られた石の表札が見えた。男は驚いた、まさかもう目と鼻の先とは。
「松風、着いたのなら教えてくれてもいいじゃないか?」
男は拗ねるように言った。松風が再び嘶いて答えた。
意味は、「うるせぇ、知るか」である。
「ッハハハ! 確かにそうだ」
松風の言葉が分かったかのように、男は笑った。先ほどの拗ねた顔は何処に行ったか、気持ちのいい笑みである。
松風は呆れたように首を項垂れた。いつもの事であると分かっていたからだ。他愛のないその光景に、男と松風の絆の深さが窺えた。
しかしである、南陽学院の生徒達は、男と松風の姿に目もくれず、集まってやんやと祭りの様に騒いでいた。松風の上から遠くまで見渡せる男も眼は、生徒達が何に魅入られているのかを一瞬で理解した。
死屍累々と倒れている男たち、その中心で向かい合う一組の男女の姿。
周囲の生徒から聞こえて来た話し声を盗み聞きいた。楽就というらしい。
楽就は何やら神妙な面持ちで、向かい合う金髪の少女に話しかけていた。
(…………ふむ、痴話喧嘩の類かな?)
事実は、二人が闘士であるから……等と男が知っているはずがない。つい先ほど南陽に着いたばかりの男には、原因など分かる筈も無かった。せいぜいの理解がそこである。
しかし男の勘はそれがただの喧嘩ではない事に、それとなく気が付いた。喧嘩というには、二人の気があまりにも大きすぎる。
ふむ、と唸ると、もう一度男女を見た。
金髪の女子は、何故か困った顔をしていた。何か会話をしていて、狼狽えている様だった。内容は、ここからではよく聞き取れない。
仕方なしに、今度は男の方に目を移した。
その時である、男の左耳に
この時初めて男に納得の理解がいった。
つまりこの喧嘩は、闘士による決闘なのだ、と。
「――――ガタガタ言わずに、さっさと蹴ってみろぉーーっ!!」
その直後、女子は楽就に綺麗な蹴りを叩き込んだ。並の人間なら、一撃で沈むほど強烈な蹴りである。
「いかんな」
しかし、それは殆ど力任せの蹴りだった。
気の操作において、女子の方は圧倒的に不利だった。身も蓋も無い言い方をすれば、下手くそ、という事だ。
男が予想した通り、繰り出した足が、楽就の指一本で止めたれていた。
にたりと笑った。随分と面白そうな学び舎である。少なくとも、ああいう手合いが居る様なら退屈はせぬだろう。男の眼に好奇の火が灯った。
だがしかし、その火は男の眼からすぐに消え去ってしまった。蹴りを受け止められた少女が、こちらに向かって飛んできたのである。
「――おっと!」
男は咄嗟に馬上から手を伸ばした。吹き飛ばされた少女からすれば堪ったものでは無いだろうが、男に向かって飛んできたのは不幸中の幸いと言えるだろう。少女は優しく受け止められた。
「――――ふぇ?」
受け止められるとは思いもしなかったのだろう。少女は間抜けな声を上げて、松風と、背に乗る男を見た。
「大丈夫か?」
男は、ふわりと笑った。
―四―
孫策にとって、吹き飛ばされた事は然程に珍しくも無かった。母親である呉栄には訓練の合間に何度も投げられ、故郷の田舎に流れて来た柄の悪い闘士には体が浮くぐらい痛い拳を貰ったことも有る。それらに比べれば、楽就という男のは随分と優しい部類に入る。
とはいえ何も出来ないという点には変わりなく、間違いなく無様に違いない。
この時孫策は、自身が壁か地面に叩き付けられる未来しか浮かび上がらなかった。待ち構えているだろう衝撃に備えて、彼女は受け身を取ろうとした。
「――――ふぇ?」
直後、唐突に、である。孫策は自分の体が優しい何かに包まれた様な感覚を受けた。予想もしなかった出来事に、つい間抜けな声が出てしまう。
不意に両目を隣にやった。そこには、何故気が付かなかったのかが不思議なほど巨大な馬と、それに乗りこちらを見つめる男の姿があった。
優しく体を包んでくれたのは、男の大きな掌であった。
「大丈夫か?」
男は孫策に向けて微笑んだ。
澄み渡る空の様な、気持ちのいい笑みであった。何故か顔が、かぁ、と熱くなった。
「あ――――うん、大丈夫……」
「それは良かった」
男は満足げに頷いて、孫策から目を離した。
ほんの一瞬の、電撃的な出会い方である。吹き飛ばされ、この男に受け止められた。ただそれだけである筈なのに、孫策の心には今までの人生の何よりも痛烈に、鮮明に、男の笑顔が残った。
満足に声も出せず、男の視線を追う。
その先にいたのは、先ほど彼女を吹き飛ばし、今まさに校舎に向かおうと背を向けた楽就のだった。
その背中に向かって、男が朗々とした声量で、静かに語り掛けた。
「お主、女子を吹き飛ばしておいて、謝る言葉も無しか?」
先ほどまで男と松風の存在に、ようやく気付いた生徒達が俄かに騒ぎ出し始めていたのに、途端水を打ったように静まり返る。
楽就が振り返った。松風の姿に目を見開いて驚いていたが、それも束の間、怖じ気る様子も見せず、無表情のまま男へ返した。
「加減はしたつもりだ。怪我がないなら別にいいだろう?」
「怪我の有無の話ではない。闘士とはいえ、女子は手荒に扱うものではなかろう」
その言葉が癪に障ったのか、男がムッと唸る。
もっとも、そのしかめっ面も長く続かなかった。フッと忍び笑いを携えて、不敵に口の端を吊り上げた。
「どうやら南陽の色男殿は、女子の扱い方を知らぬらしい」
呆れた様な声を出して、誘う。事実、これは楽就へ向けた挑発であった。
この男の眼に、あの光景のみで楽就の性格を測れるような便利な力など無いし、個人的な因縁がある訳でも無い。
しかし、好い舞台であった。これが楽就にとって不幸なのである。
男はにんまりとした。この舞台はどデカい
それは奇しくも、男が受け止めた孫策の考えと近いものであった。
「――――ほう?」
その一言に、周囲の人垣がサァっと引いた。
剣呑な気配には、南陽の生徒は人一倍敏感らしい。
楽就という男は、普段は寡黙にして実直、日々の鍛練を欠かさずにこなす、非常に真面目な人物として、周りから評価されている。しかし、彼だって怒るのだ。それは自身の誇りが傷つけられた時だった。どんな言葉であれ、それが侮辱の類であるならば楽就もさすがに気分が悪くなる。
特にこの日の楽就の沸点は低かった。僅かでも期待していた孫策の実力が、いざ蓋を開けてみれば自分にも届かないなんて。
猛烈な不快感と、男に対する怒りが楽就を包んだ。
空気の震えが止まる。
面白い。男は挑発が成功した事を感じ取って、松風から降りた。
「俺の名は、楽就」
「そうか。ならばわしも名乗ろう、わしの名は――――」
「必要ない」
直前まで露程に動きを見せなかった楽就の挙動に、目だけでも追いついたのが周りの観衆の中にどれ程いただろうか。間違いなく、十指に届かない。韋駄天の如き素早さである。男も感心するほど、楽就の動きは勾玉のランクを超えて、素晴らしかった。
「あ、あぶな――――」
孫策が咄嗟に上げた声も、届いた時には既に遅い。
楽就の怒りの一撃は、男の肋骨の下、人体の急所である肝臓を性格に狙っていた。体全体で踏み込んで、全てを拳に乗せ、腕を振り抜いた。
直撃の音が、空気を振盪させた。大きく、凄まじい音がした。少なくとも、人間が出して良い音では無かった。ある者は耳と目を塞ぎ、ある者は手に口を当てた。馬に乗っていた男は血だらけになったに違いない。最悪、皆の頭に“死”の一文字が浮かんだ。
「あっ!」
その時声を出したのは、一体誰だったのか。
目の前の光景は、凄惨たるものであった。
「な、ん……っ!?」
「――――いい拳だ。あの一撃なら、関西でも良い所に届くぞ」
皆が幻視した血だらけの男など、どこにもいなかった。それどころか、男も楽就も怪我一つ負っていない。二人の姿は、立ち位置や服の乱れだけを変えて、ほとんど同じであった。
しかし、彼らが驚いたのは全くの別物。それは楽就が振り抜いた腕に、しっかりと掴んでいる男の左手であった。
「ハハッ、あとちょっとばかり、腕の長さが足りんかったな」
男がした事は、ハッキリ言って単純な事だけだった。楽就の振り抜かれようとした腕を、後数ミリという間隔で横合いから掴んで止めただけである。それがどれだけ難しい事か、闘士たちは理解していた。故に、彼らは有り得ないものをみたかの様に絶句した。
男の態度は、相変わらず悠々たる風情である。これを凄惨と言わず、何と言うのか。
その姿に、楽就と観衆たちは畏怖を抱いた。男は楽就の拳を脅威とも思っていなかったのだ。どれ程の強剛さがあれば、あのような芸当が出来るのか。
「先に謝っておく、どうやらわしはお主を侮っていたらしい。お主を侮辱した事を謝りたい、すまぬ」
えっ、と男の顔を見た。囚われていた腕が放され、楽就の五体は自由になった。そして男は小さく頭を下げたのだ。
一体何だと言うのか。次々と起こる有り得ない出来事に、頭が追い付かない。形式や発端はともかく、今は決闘……一対一の戦いの最中である。それが、腕を掴むという有利を自ら捨て、謝りたいからと頭を下げたのだ。
掴まれていた腕を見て、もう一度眼前の男を見た。まだ頭を下げたままである。無防備な姿を、警戒もせず出したのだ。
拳は、握れなかった。
「……聞いてもいいか」
「何でも」
ようやく男が頭を上げた。その表情は無表情ながらも清々しく、雰囲気はまるで無表情な相貌を、微笑を浮かべていると錯覚させられるほど暖かい。
楽就はこの時、この場が決闘である事を忘れていた。
「何故、腕を放した。どうして、頭を下げた」
楽就の問いに、男は僅かに躊躇った。これは嘘のためではなかった。なんと男は照れたのである。鼻の先を爪で掻いて、恥ずかしそうに、しかし少しだけ誇らしげに。
「それが礼儀で、そしてわしがしたかったからだ」
男は真っ直ぐ言った。
楽就は弾かれたように笑い声を上げた。なんて気持ちのいい男だろう。この男の言葉を聞いて、そう思わずにはいられなかった。
こんな男が恥ずかしげに言ったのだ。その言葉は真実であるに違いない。楽就は先の怒りも忘れて、この男にすっかり惚れていた。男には魔性の魅力があった。人を引き寄せれずにはいられない、因果な魔力である。しかし男は笑ってそれを受け入れる器があった。男のソレに、楽就は素直に尊敬の念を抱いた。
「楽就、お前笑うでない。そんなに面白いか」
「ハッハッハ! いや、スマン。だが、面白いのは事実だ」
「フッ、ハッキリものを言うなお主は」
プッと吹き合って、笑い合う。呵々大笑である。
呆然と二人のやり取りを見ていた観衆も、ついには釣られて笑う声が上がり始める。辺りはいつの間にか殺伐とした雰囲気など何処にもなく、他では絶対に見られぬ程、穏やかな空間が出来上がっていた。
考えれば、恐ろしい男である。彼は南陽に現れて、たった一日で全校生徒の心を掴んで見せたのだ。しかもそれは、闘士の様な力による支配では無く、闘士も普通の生徒も交えての融和である。奇跡に近い光景だった。それを成した人は、恐らく関東ではこの男のみだろう。
この瞬間、南陽の誰もがこの男を認めた。尊敬、羨望、嫉妬、疑惑、様々な感情が個々で交互しながらも、男が自分達とは“何かが違う”と知り、意識したのだ。
「さて、わしの謝罪は終わったが――――」
男の眼が鋭く光る。
楽就はそれに直ぐ気付いて、言葉を引き継いだ。
「まだ決闘は終わってない……そうだな?」
男は頷いて答えた。そう、雰囲気に騙されてはいけない。この状況は、元は男が楽就へ謝罪したいがために作った間である。
決闘は、まだ続いている。
「どちらかが倒れるまでが決闘の作法なれば。しかしそろそろ終わらせなければ迷惑だろう?」
確かに、昼の休憩はとうに過ぎていて、本来なら生徒は全員教室で授業を受けているはずである。それでは“理”に適ってないと、男は言外に話した。
男が、拳を作った。二人の身長はほとんど大差ないのだが、男の体格は闘士である楽就を遥かに勝った。服の上からでも分かる男の丸太の様な腕が、握った拳のせいではち切れんばかりであった。
「お主が一撃、わしも一撃。勘定は合うな」
男は笑って問うた。
「ああ、そうだな」
楽就も頷く。この言葉に、周囲は固唾を飲んだ。
つまり楽就は、これから一切手を出さず、男の一撃を受けるといったのだ。
無理だ、止めた方が良い。観衆の表情が次第に曇っていく。男が楽就より格上である事は、あの一撃を止めた事で証明されたではないか。楽就はそれが分かっていないのか、と。
分かっていない筈がない。楽就こそが、この男を今、この場で、南陽で誰よりも理解しているのだ。
「フッ」
笑みを浮かべる。それは今から来る一撃に諦めたものではない、何とも不敵な笑みであった。
楽就は諦めていなかった。むしろ、今か今かと心を滾らせ、獲物が来るのを待ち構える狩人となっていた。たとえ両手を使ったとしても、男の一撃を受け止めて見せる腹積もりなのだ。
(一撃……一撃だけならっ!)
網膜に焼き付いて離れないのは、寸分違わぬ姿で目の前にいる男であった。
今日まで目標らしい目標を持たなかった楽就が、初めて目指したいと思った姿である。それと比べて、自分の姿の、何と頼りない事か。頑丈なだけが取り柄であったくせに、だ。情けない、と自身に叱咤する。
だからこそ、男の姿に近付きたい。それが、楽就の目指したい道となって現れたのだ。男が現れてなければ、この道に気が付くのはどれ程後になるだろう。もしかしたら、一生気が付かないままであったかもしれない。彼は、感謝したい気持ちで一杯だった。
それを、この一撃を受け止める事で表したいのだ。
来い、と眼で語った。
男が頷いた。
「うむ」
その時の事を、楽就は何と言って表せばいいか、よく分からない。
ただ、気付いたら男の拳が目の前に置かれていたのである。
風を切る音も、男の動きも、拳が放たれた瞬間すらも見えなかった。それだけで、男と自身の差にようやく気が付いた。気付かされた。
そして、
涙が出そうになった。悔しさゆえの涙である。自分では殴ってもらう事すら出来ないのだと、己の不甲斐なさとに、どうしようもなく、ただただ悔しかった。どうなってもいいから殴って欲しかった。そんな自分勝手な恨みがましい気持ちをぶつけようとした、その時。
「しかし、わしは手負いの獅子を仕留めて喜ぶような真似は出来ん」
その言葉と共に、置かれていた拳がゆっくりと引いていく。
呆然となった楽就の膝が地面に着いたのは、この直後であった。あっと声を出す暇も無く、楽就の巨体は地面に向かって崩れていった。
最悪、倒れる事だけは回避出来たが、楽就の体を支えるはずの膝はどれだけ力を入れたとしても、笑う様に震えていた。
(な、なんだ!? 膝が急にっ……)
「朱砂掌の類だろう。お嬢ちゃんの蹴りを受けた時に貰った、な」
心を読んだかのような男の言葉である。
楽就はあんぐりと口を開けた。次いで、信じられないような目を孫策に向けた。
朱砂掌とは、毒手と呼ばれるものの一種である。極めた者は、それこそ触れるのみで相手を死に至らしめる事が出来ると言われている。
この事態を起こした張本人である孫策は、何が起きたのか分かっていない様子で、膝を着いた楽就を見つめていた。本当に分かっていないのだろう。という事は、あの蹴りの際に、彼女は無意識にこの強力な技を掛けたのである。
いよいよ面白くなってきたとばかりに、男は嬉しそうに頷いた。
「ッハハハ! これからが楽しみよな、松風」
男は己の愛馬である松風を呼び寄せると、その背に飛び乗った。そして、松風の遠吠えの様な嘶きと、男の声がわっと広がった。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは関西よりここ南陽学院に参った前田慶次郎
男――前田慶次郎の声は、どこまでも遠くに響いた。