本堂 誠という青年がいた。
年は十九。れっきとした男だったが、女顔で線が細かったため、馬鹿にされることが多かった。彼には、家族というものがいない。世間一般で言われる暖かな家庭というものを知らないのだ。知っているのは、厳かな平屋敷の地下にある寒い座敷牢と、食事を運ぶ使用人、殴り蹴り憂さ晴らしをする彼の父親の妻と、彼の異母兄弟、憐れんで助けようとも幼くてなんにもできない可愛い女の子の使用人。
本堂 誠は、旧家の宗家の人間が使用人に孕ませた婚外子だった。
母である使用人は誠の存在を知った父親の本妻によって屋敷を追い出された。父親である男は一族に誠の存在をひた隠しにし、隠された地下の座敷牢に閉じ込めて、最低限の世話をする年老いた使用人を一人つけてから何も関与をしてこない。本妻がどんな暴行を加えてこようとも、偶然誠の存在を知った異母兄弟が面白おかしく殴り倒してきても、ずうっと寒い座敷牢に閉じ込められたままだった。
木格子の向こうから、蝋燭を手にした雪代が「おはようございます」と鈴を転がしたような声で朝を告げた。雪代は十歳のころから今日まで三年間、誠の世話をする使用人見習いとして働いている。地下に押し込めひどい扱いをしても、殺すわけにはいかないのだろう。幼少のころからつけられている冷たい使用人は、もう年老いてしまった。彼は雪代を、なんてかわいそうな子なんだと、思った。せっかく高給取りの由緒正しい家の使用人になれたのに、冷遇される婚外子の世話係にされるだなんて。秘された存在を知る人間は少ないことに越したことはない。きっと彼女は、誠が死ぬまでずっと世話係のままだ。
誠は世話係の自分より幼い少女を哀れに思いながら「おはよう」と返して、格子の間から蝋燭を受け取り、それを火種に座敷牢の中の蝋燭に火を移す。彼が閉じ込められたそこには外の光が届くようなものはなにもない。窓がなく、外界へと続く扉はひどく遠い。閉じ込められっぱなしの彼にとっての太陽は、雪代が持ってくる蝋燭だったのだ。
「お雪、今日はどんな天気だった?」
誠がいつものように雪代に問いかける。雪代はにぱっと笑って、彼に伝わるようにととても楽しそうな声で歌うように答えた。
「本日はからりと晴れた夏日でございます。空は突き抜けるほど青く澄み渡っており、浮かぶ雲は城のように雄大でありました!」
「そう。それは気持ちよさそうな日だね。ありがとう、お雪」
蝋燭に照らされた柔らかい笑みを見て、雪代は思った。ああ、このお人をいつか外にお連れしたい。まだ十三の幼い少女だったが、雪代は誠を主と心に決め、強く慕っていた。ひどい扱いを受ける彼に心を痛め、格子の間から柔らかく頭をなでるその手に心を弾ませた。いつか、いつかきっと。もっと強くなれたなら。小さな胸には、大きな願いがあった。
「佐為さま」
雪代が呼んだ。
「本日の朝食でございます」
格子の間から差し出された盆を受け取り、ありがとうと誠がほほ笑む。
彼は、本堂 誠という名に頓着しなかった。彼は、自分の名を「佐為」とした。
幼いころのおぼろげな記憶の中で母がそれに似た音で彼を呼んでいたのを思い出し、与えられていた数少ない書物の中から字を拾い当てはめた、自分の中で決めた自分の名前──そう、誠は少女に言った。
嘘だった。
はっきりと覚えている。彼の母はいつも彼を誠と呼んでいた。顔をもう思い出せない母親に親の情を覚えていないわけではなかったが、誠は雪代に佐為という名前を伝えた。本堂誠にとって何にも代えがたい、もう一人の自分の名前。誰にも明かしたことのなかったその名を呼ぶ権利を彼はその忠誠に答えるように雪代に与えた。彼女には、名前だけでも明かしたいと思ったのだ。以来雪代は、まるで宝物を扱うようにその名を呼ぶ。それがどうしようもなく誠はうれしかった。
「今日の汁は違うね。爺の味じゃあないな」
「はい、本日から汁物も私が担当することになりました。お口に合いますでしょうか?」
「うん、おいしいよ。お雪は料理が上手だね。この西京焼きもこの前よりおいしい。爺からすべて任されるのもそう遠くないだろうな」
誠がほめると、雪代はありがとうございます、とがばりと頭をさげた。
勢いよく下げられた頭に少し驚いた誠は、小さく笑って箸をすすめる。薄暗い地下牢も、彼女がきてから明るくなったように思えて、彼は幸せだった。
「ごちそうさま」
「お粗末様でございます」
盆を下げる雪代の小さい背を見ながら、誠はいそいそと準備をする。
雪代が振り向くと、誠が木格子のそばまで寄って座っていた。格子にぴたりとつけた碁盤の前で。
格子のすきまから白石の入った碁笥を差し出され、雪代はみっつ石をとり手の中に隠した。誠は嬉しそうに石を握って碁盤の上に広げる。握られた黒石が一つ。途端にっぱりと笑った雪代に、誠はひっそりと黒石の碁笥を格子の近くへと滑らせる。
そんな様子に気づかず「みっつでございます」と嬉しそうに手のひらを広げた雪代に朗らかな気分になりながら、二人は盤上に石を打った。
稚拙ながら学んでいくかわいらしい黒と、それを導く白の世界。
白と黒と、蝋燭の明かり。
それだけが、誠の世界だった。
目を付けた女にすげなくフられた異母弟にさんざん痛めつけられた後、雪代が泣きそうな顔で座敷牢へと訪れた。ごめんよ、とは誠は言わない。言ってしまうと、こぼれる一歩手前の涙がいともたやすくこぼれ落ちてしまうからだ。何も言わず格子のそばに座り、なにも言わず格子の間から伸びる手の治療をうける。ありがとうとも、言ってはいけない。これは雪代がしたくてしていることだから。しなければ気がすまないことだから。きれいに包帯が巻かれたら、そのまま碁笥を格子の近くに持っていくのだ。そして何も言わないまま石を握る。
ぱちりぱちり。
心地よいその音は、誠にはどんな薬よりも効くような気がした。
「佐為さま」
碁が終盤にさしかかったころ、雪代が沈痛な面持ちで格子の外から手を伸ばした。
誠は碁盤をよけてその手のひらに近寄り、雪代の好きなように障らせる。小さな手は震えながら誠の頬を撫で、確かめるように瞼の上に指を這わせた。
「佐為さま」
格子に額をつけて、泣いたような声で名前を呼ぶ。
「お雪」
「佐為さま」
「お雪、泣かないで」
「泣いてなどおりません」
「泣いているよ」
「雪代は泣きません。佐為さまが流さぬ涙を、雪代は流しません」
「そうなの?」
「主が涙を流さぬのなら、私も涙を流さないのです。雪代は佐為さまのお雪だから、泣きません」
唇を強く引き結んで、舌ったらずな声を震わせているのに、泣かないという。十三歳の幼い少女の細い肩に、どれほどの重荷を背負わせてしまっていうのだろう。誠は冷たく震えた手に、小さくすり寄った。
「お前のその忠誠にこたえられる日がくるのかな」
流れてもいない涙をぬぐうように、雪代は誠の目の下を指で撫でた。微かに震える手。赤く色づいた小さな唇が、意を決し、開く。
「今日が、その日でございます」
「…え?」
手を引き戻し、雪代は袂から何かを取りだした。
「それは…」
かつては父のみが、そして今では父の妻と異母弟が共有しているはずの重々しい鈍色の鍵──に、よく似た鏡のようにまばゆいそれ。
「座敷牢の、鍵でございます」
「──ッ」
誠は平素穏やかな顔を険しく顰めて鍵を持つ雪代の腕をつかんだ。
「どこから持ってきた!」
初めての怒号に、雪代はぐっと喉を鳴らせたが静かに答える。
「先ほど佐為さまに手をあげた愚か者から先日拝借したものを、複製したものです」
「なんで、なんでそんなことを! お前は自分が何をしたのはわかっているのか!」
「わかっています」
「なら──! …ッなら、なぜ」
強く握っていた誠の手から緩やかに力が抜けていくのを、雪代は感じた。
「なんでそんなことを……」
そんなことがバレてしまったら、何をされるかわからない。誠は思い描いた未来に慄き震えた。まだ幼子だからいいが、これで妙齢であったならば、女の尊厳を踏みにじられ一生口に出せない苦しみを背負わせられることになるのだろう。誠の父は自らの汚点を暴こうとするものを許さない。偶然知った誠の異母弟でさえきつい折檻をうけたのだという。足の悪い父の杖で殴られひどい痣になった痕をこれみよがしに見せられ、その腹いせに殴られたことがあった。実の息子でそれなのだ。年端もいかない使用人なら、一体。一体なにをされるというのか。
「だめだ…。雪代、いけない」
「よいのです」
「よくないよ」
誠はさめざめと泣いた。
雪代は誠にとって生まれて初めて慕ってくれた存在だった。ただの使用人ではなく、妹のように思うまでに。可憐な笑顔を守りたいと思った。鈴のような声をずっと聴いていたいと思った。それと同時に、こんな日陰者のためだけにあるような存在で終わらせたくないとも、思っていた。
「お前には、幸せになってもらいたいんだ」
絞り出すような苦しげな声。
雪代は今まで、誠のそんな声をきいたことがない。心ない暴力をうけ痛々しい傷を作られた時も、病にかかり高熱に苦しんだ時も、誠はそんな声を出しはしなかった。いつも平然とした顔で、声で、雪代にほほ笑むのだ。心配をかけないように、雪代が心を痛めないように。痛められているのは、自分だというのに。
けれど、雪代はひけなかった。
そんなの私も同じだ。
はじめて誠に、怒りに似た感情を抱く。ふつふつと体の奥底でなにかが湧き上がるのを感じていた。
私だって佐為さまを幸せにしたい──この方を、幸せにしなければいけない。
「佐為さま、見誤ってもらっては困ります」
芯の通った凛とした声に、誠はハツとして顔をあげた。
「どうして、佐為さまの幸せなくして、雪代が幸せになれるというのですか?」
ああ、と誠の声がほのかに照らされる座敷牢に響いた。
花咲くようなその笑みの下には、一体どれほどの忠義が秘められているのか。十歳のあどけない少女は一体どこへ行ったのだろう。さっきまで泣きそうだった十三歳の小さな少女は、一体どこへ行ったのだろう。
「お前はいくつ、僕にくれるというんだ。もう、手一杯だというのに…」
まるで流れることが知っていたかのように、小さい手が熱い涙をぬぐう。年下の少女に慰められる自分を恥じる暇などなかった。ずっと座敷牢の中にいる誠と、外の世界で誠のために必死に知恵を絞っては行動する豪胆な少女。同じ土俵には立てるわけもないのだ。
「いくつでも。手がいっぱいだというのならこの雪代が持ちますもの。いくつでも、いくつでも差し上げます」