棋聖、再び   作:asagi

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月夜の影

 善は急げとばかりに、雪代は「九時間後の午前三時に参ります」と言い、座敷牢を後にした。

 

 九時間後にはこの牢から出るのかと思うと、誠はなにも想像ができなかった。

 いつかは。そうは思っていたが、それが現実になるとは思っていなかったのだ。あの小さい少女はいつのまにそこまで準備を進めていたのだろう。

 誠の味方は雪代以外にいない。雪代がくる前に世話を見ていた年老いた使用人は、いつも難しい顔をして嫌味を言うひねくれた男だった。誠はその男のことをあまり好きではなかったけれど、それでも栄養のある食事を出してくれるその男に感謝していた。孫が病弱なのだと、一度だけこぼしたことがある。だからきっと男は誠を助けることはないとわかっていたのだ。謝罪をいうこともできない不器用な男を、だからといって恨むことはできなかった。

 

 とうの昔に諦めたものが、目の前にある。

 

 そういう時はどんな顔をすればいいんだろう。どんな感情を持てばいいのだろう。誠は碁盤の前で一人で石を打った。ざわざわと体の中で何かがせわしなく騒ぎ立てていた。これは、一体なんなのだろう。彼は胸の上で両手を重ね、きつく目を閉じて背中を丸める。

 

 ざわざわと、落ち着かない。

 

 

 

「佐為さま」

 鈴のように可憐な声が、ひそやかに牢にしみた。

「起きていらっしゃいますか」

「ああ」

 暗闇の中で誠が返事をすると、雪代は袂から鍵を取り出し、開錠する。

 誠は気づかれないように息をつめた。

 鍵を再び袂へと戻した雪代は手元の小さな蝋燭をふうっと吹き消し、しばしお待ちを、とつぶやいた。

「消していいのかい」

「目を慣らせなければいけないので」

「慣らす?」

「道案内は、雪代にお任せください」

 

 明かりもなく夜道を逃げ行くのだと、誠は理解した。

 格子に近づき、暗闇の中に浮かぶシルエットをのぞき込む。暗闇の中で生きてきた誠には、誇らしげなその顔がよく見えた。

 

「平気なの? 転んで、けがをしたりは?」

「今日は月がきれいに輝いております。頼りない夜道も月が導いてくれるのです。はやく、佐為さまにお見せしたい」

 

 つき、誠がつぶやいた。

 そう、月でございます。雪代がささやく。

 

 ぱちりと瞼がひらく音が小さく誠の耳に届いた。睫毛の長い、大きくてまあるい愛らしい目が、まっすぐに彼を見つめている。

 

「参りましょう。外へ」

 

 解き開かれた扉から、一歩。雪代が置いた草履をはき、渡された羽織を薄い浴衣の上に羽織った。

 こちらです、と手をひく目の前の少女。いつも格子越しに見ていた少女が、こんなにも小さかったのかと彼は泣きそうになった。一段一段のぼる階段に肺が押しつぶされそうだ、と小さく笑う。

 

 うっすらと明かりがさし、地下とは違う冷たく、すんだ空気が鼻を通った。

 

 まあるい、月。

 きらきらと輝く星々。

 浮かぶ夜空。

 頬を撫でる風、ざわめく木々。

 草と湿った土のにおい。夜の、におい。

 何にもさえぎられることなく、格子に阻まれることなく、世界がどこまでも続いている。

 

 

「お雪」

 涙ぐんだ声が雪代の耳に届いた。

「はい、佐為さま」

 雪代は振り向かず、大きな手を握ったまま先を歩き続ける。

「大好きだよ」

 初めての言葉だった。決して口に出してこなかった誠の感情が、言葉となった。

 じわっと涙の膜が雪代の目を覆う。泣いてる暇はまだない、と袖口で乱暴に目をぬぐって引く手を強くする。

「雪代は、佐為さまが雪代のことが好きだということを知っていました」

 当然です、と。高慢な口ぶりで言う雪代に、「僕も知ってる」誠は泣き顔で笑った。

 

 

「雪代も僕のことが大好きだって」

 

 

 当然です。聞こえた声は震えているような気がして、誠は小さな手をやさしく包んだ。

 

 

 

 

 

 

 その男は、本堂 叶(かなえ)といった。

 整えられた黒髪に、上質で上品な服、そしてその流麗な立ち居振る舞いから、彼の育ちの良さが透けて見えた。

 

「安心してください、誠さん。叔父上からは俺が必ず守ります」

 

 引き結んだ唇と力の入った目は彼の意志の強さがうかがえる。正義感がつよく、清廉な彼は叔父である誠の父が犯した罪を許せなかった。自分に従兄がいること、その従兄が座敷牢に長年閉じ込められ不遇の生活を送っていたことを知った叶は、ひどく心を痛めた。それと同時に知らずにのうのうと生きていた自分を、強く恥じた。家族と、友と、笑いあっていた日々の下で従兄が牢に閉じ込められていたのだ。十五年間。長い時が彼の心にずしりとのしかかる。

 

「今まで辛かったでしょう」

 

 そんな言葉では推し量れないとは知りつつ、叶は悲しげに言った。けれど誠は緩やかに笑って首を振る。

 

「ありがとうございます。でも、僕にはこの子がいましたから」

 雪代の肩に手を置き、叶から視線を移して慈しむように見るその姿はとても美しかった。

「敬語はやめてください」叶が微笑む。「あなたは俺の従兄なんですから」

「そういうわけには」

「俺のことは叶と呼んでください。誠兄さんと呼んでも?」

 雪代がちらりと誠の顔を仰ぎ見る。それを一瞬気にしたが、叶は誠の答えを待った。

「じゃあ、叶くんも楽に話してくれるかな」

 困ったように、どこか嬉しそうに笑う誠に、叶はほっと息をはいた。

 

 

◇◇◇

 

 

 

「誠さまには決して謝らないでください」

 思い出すのは少女の忠告。あの方はあなたからの謝罪は求めていないのだと、少女は叶に言った。

 当然叶はなぜ、と尋ねた。

 

「謝られれば、きっと誠さまはお許しなります。でも私はいやです。あの男の非をわびる叶さまをお許しになるということは、あの男を許すということなのです。誠さまの苦しみに気づかなかった叶さまご自身のことであっても、あの男の愚行によって生じた全ての苦しみを、私はあの方に許させてはいけないのだと思っています。叶さまには大変申し訳ありませんが、どうか私のわがままをきいてください。誠さまは私の願いだと必ず気づかれます。ですから、どうか謝らないでほしいのです」

 

 なんて子だ、と叶は思った。

 

「彼のそばに君がいてよかった」

 

 心の底からあふれた思いが、いつのまにか叶の口から流れ出ていた。それは雪代にとっての、最高の賛辞。

 ほころぶような笑みを浮かべて、頭を下げた。

 

「では四時間後の午前三時に、丘の杉の木の裏で」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「さて、夏とはいえ真夜中は冷えるから、風邪をひかないうちに行こう」

 大きな杉の木の裏につめたい夜風が吹く。小さな懐中電灯を手のひらに忍ばせながら、叶は誠と雪代を先導するように歩き始めた。

 

「そうだね。…そういえばどこへ?」

「あれ、雪代ちゃんからはなにも?」

「なんにも。お雪は大体僕になにも言わずに進める子なんだ」

「そりゃまあできた子だなあ」

「そうだろうとも」

 自慢げな誠に叶は若干あきれたように笑った。

 手をつないでいる雪代がわかりやすく照れているのに気付かない誠は、えっへんと胸をはる。

 

「今から行く場所は俺の…いわばサンクチュアリってやつ? 一族の誰も手出しできない場所。もちろん叔父上もね」

「へえ、すごい」

「誠兄さん、俺ってけっこう、天才なんだよ」

「天才?」

「そう天才。ま、着いてからのお楽しみってことで」

 

 それまで黙ってきいていた雪代だったが「佐為さまだって」とむすっと拗ねたように小声でつぶやいた。

 けれど和気藹々と話す二人は、そのいじらしさに気づくことはなかった。

 

 

 

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