誠と雪代が案内されたのは本堂家敷地内の大きな杉の木からたいして離れていない森の中の煉瓦の家。家──というよりも地面からのびる一本の木のように空へさす一本の塔。頂点はちょうどまわりの木の高さと同じ程度で、くすんだ灰色の煉瓦には草のつたが巻き付いている。
叶は重々しい木製の扉の横の壁を押し、出てきた液晶パネルに手のひらを乗せ掌紋認証を終えてから懐からカードキーを取り出してドアノブの下に挿入した。
「すごいですね」
セキュリティの厳重さを前もって知っていはいたが、最新の設備までそろっていることに嘆息まじりの雪代に、誠がうんうんとうなずく。
「手を置いたのはなぜ?」
「掌紋認証と申しまして、掌の模様を鍵として登録しているのです。同じ掌紋を持つ人間は当人以外いないので」
「へえ、すごい。それにしても面白い形をしてる」
「塔と呼ぶんですよ」
「塔か」
かがみながら誠が雪代と話していると、開錠した叶が微笑ましそうに笑った。
「ここが俺のアトリエ」
「あとりえ?」
「工房や作業場のことでございます」
「さ、兄さんたち入って。スリッパ使ってね」
「すりっぱ」
「こちらの室内履きになります」
「おお…」
叶が誠の世間知らずな様子に、十五年間の監禁生活を思って胸を痛めているのをつゆ知らず。誠はふかふかだとにこにこ笑っていた。
(ほんと、叶さまって正義感が強くてわかりやすい方だなあ)
雪代が、そっと顔をふせて笑う。
(やっぱり世間体を気にする可能性がある大人より子供を選んでよかった)
自分のほうが幼い子供であるのに、彼女はそんなことを考えた。けれど打算に満ち溢れた自身を知られたくない彼女は、それを隠してにっぱり笑う。彼女は単純に、敬愛する佐為に可愛がってほしいだけなのだ。
「ちょっと歩きにくいね、すりっぱ」
「すぐに慣れて、気にならなくなりますよ」
「そうだね」
「とりあえずお茶を淹れるよ。座っていて」叶が部屋の奥にたれる仕切りのカーテンへと姿を消すと、誠はそわそわと周りを見渡した。毛足の長い深緑色のカーペットに吹き抜けの天井からぶらさがる大きなシャンデリア、柔らかそうな大きなソファと綺麗な木目の広いテーブル。それらの家具が避ける部屋の中央には、カーペットが切り取られたフローリングに一つのキャンパスが悠然と立っている。
なんもかもが違う。
ろうそくよりもはるかに明るい室内灯に、見たことのない家具、地味な色しかなかった牢よりもずっと華やかで、きらめいている。
ぐっ、と。抑え込んでいた気持ちがまた湧き上がりそうになった。けれど誠の中のプライドが涙を流すまいと必死に押しとどめる。十九歳の男なのに、六歳もしたの少女の前でまた泣くのかと、男の自尊心が大きくうなった。おかげで涙はひっこんだが、胸の中でぞわぞわと踊る喜びの気持ちは、より一層はげしくなったようだった。
「さ、お座りになってください」
雪代に促されて、
「なんだっけ。そふぁ? だっけ」
誠がくすくすと笑いながら腰を下ろす。なにもかもが新鮮で、くすぐったいような感覚だった。腰をかがめ座ると、体重をかけた途端にぼすんと体が柔らかいソファに沈んで、誠は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「すごい。柔らかい!」
「お気に召したようで何よりです」
「本当に柔らかいよ! 雪代もお座りよ」
雪代が「私は使用人ですので大丈夫です!」とにこやかに断るのも聞かず、傍らでたったままの雪代の細い腕を掴み、誠がひっぱった。軽い体重でふんばりがつくはずもなく、雪代が行儀悪くぼすん、と沈んだ。
「もう、誠さま!」
「はは」
頬を膨らませた雪代の頬に誠が指を立てる。
「可愛いお顔で怒っても怖くないよ」
「ごまかされませんよ!」
「うーん。あっお雪、あの白い板はなにかな?」
「…あれは絵を描くキャンパスというものです。叶さまは国際的にも著名な画家で、この塔は叶さま専用のアトリエになっているんですよ」
「へえ、すごい」
そこにマグカップを三つもった叶が苦笑をしながら戻ってきた
「まだ駆け出しなんだけどね。ここは三代前の当主が趣味で作った塔で、先代にアトリエとして譲ってもらったんだ」ローテーブルにカップを置き、彼はキャンパスの前の高い椅子をテーブルを挟んだソファの向かいに置いた。「手癖の悪い使用人が絵を盗みに入ってからは見ての通りのセキュリティーになっちゃってさ。まあ今回はそれが役に立ってよかったよ」
雪代と誠がカップに口を付け、熱い飲み物をおいしそうに飲む姿を見てから、叶は身をかがめてマグカップを取った。高い椅子の上で片膝を抱えながら、はちみつを溶かした生姜湯を口に含む。彼がちらりと誠と雪代を見ると、二人ともそろってマグカップを両手で包んで息を吹きかけていた。かわいい主従だな、と叶は再び口を開く。
「雪代ちゃんには言っておいたけど、誠兄さんと雪代ちゃんにはしばらくこの塔にいてもらうことになるんだ」
「この塔に?」
「そう。たとえここに居るって勘づかれても入るには俺の手が必要だから叔父上もおば上も正治も手出しできない」
ぴくりと、マグカップをもつ誠の指が震える。隣に座っていた雪代が心配げに見上げると、誠は何も言わずソファに座りなおして彼女にぴたりとくっついて、一つうなずいた。
「ありがとう叶くん」
「いいんだよ、誠兄さん」
柔らかい叶の笑みに、誠は確かに血の繋がりを感じた。自分の顔を映すものが何もなかったあの牢に雪代が持ってきた手鏡は、彼の人生ではじめて彼がどんな顔をしているのか教えてくれた。あれから時折のぞき込む小さな手鏡に映っていた顔に、確かに似ていたのだ。実の父にも異母弟にも感じなかった血の繋がりを、彼は叶に感じた。
(家族ってこんな感じかな)
そう思うと、またぞわぞわと胸の奥が落ち着かない。ゆっくりと目を閉じると、瞼が熱くて心地よかった。
「叶くんは、どうなるの?」
マグカップを傾けながら誠が尋ねた。こくりと、日に焼けることのなかった真っ白な喉が鳴る。
「あれ(・・)は苛烈な人だよ。酷いことをする。僕を連れ出したことは遅かれ早かれ気づかれるし、叶くんだって突き止めるのも、きっとすぐだよ」
ゆっくりと、平然と誠はそういった。まるで他人事のような口ぶりで。
(ひどいことをされてきたのに、ずいぶんと普通に言うんだな)
叶はそんな誠に違和を覚える。底知れない何かに、不和が生じた。十五年間監禁されていた誠を、叶は意識せずとも"弱いもの"としてとらえていたのだ。当たり前だ。狭い世界でしか生きていなかった、いわば子供同然の被害者を保護した叶が自身を誠より人生の経験値という秤で上位に立たせたのは当然と言えた。けれど、今叶は気圧されている。
(認識を改めないといけないな)
十五年も閉じ込められていた弱い子供ではなかった。十五年間も耐え抜き、それでもなお穏やかな笑みを浮かべることができるとんでもない大人だ。
「叶くん?」
口を噤んだ叶に、誠が促すようにほほ笑む。
「ああ、いや、大丈夫だよ。これからどうするのかは決めてるんだ。ね、雪代ちゃん」
「はい」
にっこりとした笑みには無理や強がりは見えない。「そう」短くこぼし、ほうっと安堵の息を吐いて誠はもう一口あたたかな生姜湯を飲み込んだ。とろりとした薄い黄金色の液体がじんわりと体に染み渡る。
「ならよかった。でも、一体どうするの?」
誠の問いかけに叶はやけに真面目な顔をつくり、顔の前に指をたてた。
「おばあ様に泣きつく」
堂々とした物言いに誠は肩すかしをくらったように「おばあさま?」と首をかしげた。
「そ、前のご当主。今は…誠兄さんの父親にその座を譲っているけど大層な女傑でさ。当主の座を退いた今でも本堂家でおばあ様に逆える人間はいないんだ」
「大奥様は本堂家の実権を握っていらっしゃいますからね」
「頼りになるね」
すごい人なのか、と漠然と想像する誠の顔を、隣の雪代がのぞき込みながら声をかけた。
「でも、危険もあるのです」
「危険?」
誠が叶に顔を向けると、彼は眉間に皺を寄せてうなった。
「う~ん…誠兄さんは叔父上を苛烈な人って言ったよね」
「うん」
「俺の父もそうだよ。兄弟そろって苛烈な性格なんだ。それで…その、母親であるおばあ様はそれに輪をかけた感じなんだよね」
叶は頬をかきながらそう言った。彼の脳内に浮かび上がるのは祖母の姿。厳格でありながら品のあるかの人は、道理に外れたことをひどく嫌うのだ。かつて才能ある孫息子に与えたアトリエに忍び込み盗みを働いた使用人に薙刀を振るった姿は、まさに鬼神に見まがう迫力であった。あれは苛烈ですむのかな、と叶はいささか疑問に思いながらも「怖いお人なの?」と聞く誠に首を振って見せた。
「薙刀を振り回すところが玉に瑕だけど…情が深いお方だよ。きっと誠兄さんを助けてくれる」
「な、薙刀」
「刃は一応つぶしてはいるんだけど」
「そういう問題なの?」
「やっぱり? 情は深いんだけどね」
乾いた笑みを浮かべた叶小さく笑う誠。その二人のそばで、雪代はそっと険しい表情を浮かべていた。
情に深い。孫息子である叶を可愛がる姿を、雪代は知っていた。だからこそ不安もある。
(大奥様がそう簡単に息子を切り離せるかな)
前当主の庇護を得られなければ、残る手段は、スキャンダル。名家と知られる本堂家の当主が実の息子を十五年間監禁していたという醜聞はメディアにとって大スクープになるだろう。敬愛する佐為を食い物にされるのは雪代にとって身を切る思いだったが、そうでもしなければ佐為に本当の自由はやってこない。そのまま警察に駆け込んでも本堂家に揉み消されるに違いないのだ。揉み消すことができないほどの大事にもっていかなければならない。
(そのまま動いてくだされば重畳。だめなら切り札を切らないと)
考え込んでいる雪代の目の前では、叶が誠に彼らの祖母の武勇伝を面白おかしく語っている。
「うそだあ!」
「本当だって! おばあ様がその時居合わせなかったら確実に死んでたよ」
「壮絶なお人だ…」
(ほんと、男って)
十三歳の幼子がため息をついているとも知らず、彼らの夜はふけていった。
空になったマグカップに「さ、そろそろ寝ようか」と叶が立ち上がった。
「ベッドはそこのカーテンの向こうにあるよ。俺一人用だったから一つしかないんだけど、そのソファもソファベッドになるからとりあえず大丈夫かな」
ベッド、と指したカーテンとは反対の仕切りの布の向こうにある簡易キッチンへマグカップを下げ、叶はてきぱきとソファを広げてベッドにした。明かりのスイッチはそこ、シャワーはあっち、目覚まし時計は棚、二階は本部屋だから暇つぶしに使ってね、と一つずつ説明して、確認する雪代の質問にも丁寧に答えた。誠はというと、またたくまにベッドへと姿を変えたソファを「へえええ」としげしげと見つめていた。
「俺は屋敷の自分の部屋に戻るよ。昼には顔を出すから」
「わかった」
「兄さんのこれからのことは、すべて任せて。悪いようには絶対しないから、安心して待ってて」
「…本当に、いろいろ、ありがとう」
「従兄なんだから」
当然でしょ、と叶が言うと誠がじんわりと笑った。花がゆっくりと開いていくようなその喜色に、叶は従兄の彼にもっとそんな顔をさせてあげたいな、と思った。
「叶さま」
さて帰ろう、とした叶を雪代が呼び留めた。その声に合わせて彼が視線を下げると、雪代は顔の横でこちらへ、と小さく手をふる。願い通りに身をかがめると、叶の耳に雪代が口をよせ何かしらをささやいた。
「もちろんいいよ。明日には準備する」
「ありがとうございます」
ばたん。
誠は閉じた扉をじっと見つめた。たった三時間の邂逅。それだけなのに、濃密な感情が彼の中で渦巻いていた。
「佐為さま、お休みになってください」
「うん…」
雪代に手をひかれるまま寝台へと連れていかれ、ベッドに体を横たえた。肩まで毛布をかけられると、重たいからだが柔らかいベッドに沈んでいくようだった。
「やわらかいね」
「今までは薄い布団だけでしたもの。これからはずっと柔らかいところで寝るのですよ、佐為さま」
「そっか…うれしいなあ」
羽毛のまくらに沈む頭を、小さい手が緩やかに撫でた。
「お休みになってください。お疲れでございましょう」
「うん…そうかな。そうだね…おやすみお雪」
瞼を閉じて瞬く間に眠りについた誠に雪代がふっと笑う。
「ごゆっくりお休みください」
そっとこぼされた呟きが、地平線から顔を出した太陽に薄く照らされる。薄暗い部屋にはしゃらしゃらとひかれるカーテンの音と、健やかな寝息の音だけがあった。
わたくし事ですが三月一日に卒業しました。おめでとう私。ありがとう私。