柔らかな風が吹き、湖面を揺らす。
「…………。」
景色がよく、見ているのが飽きないことがせめてもの救いか。キリトはピクリとも動かない釣竿を見て、小さくため息をついた。セツナが以前自分には戦闘スキル以外向かないのでは、と嘆いていたが自分も同じように嘆きたくなるレベルだ。対岸の森をまさに遠い目で見つめ半分ほどの意識を手放す。
湖面を揺らす風は頬を撫でて去っていく。水面に少し冷やされた風が冷たく心地よい。日向ぼっこでもしたら非常に気持ち良さそうだが、いつぞやと違ってモンスターは出なくともここは一応《圏外》である。完全に無防備になれるほど耄碌してはいない。
そして手ぶらで帰ったら二人に何を言われるか分かったもんじゃない。姿勢を正し、キリトは今一度釣竿と向き合うことにした。
「釣れますかな?」
そんな矢先、背中にかけられた声には思わず飛び上がらずにはいられなかった。
ユイと買い物と言う名のクエストに出掛けていたセツナ。キリトの釣ってくれる筈の魚以外の食材はそろった。ユイを家において、どんな具合かとキリトの元へ足を向けるとそこには意外な光景が広がっていた。
キリトはどちらかと言えば、いや完全にコミュ障のきらいがある。それにもかかわらず見知らぬおじさんと楽しげに会話をしているではないか。仲間だと思っていたのになんだか釈然としない思いが心にモヤモヤと浮かぶ。いや、彼の成長を喜ぶべきところではあるのだが。最近セツナの方も大分いろんな人と会話することが苦ではなくなってきた。子供たちとも、サーシャともきちんと会話ができた。そう、ただ成長しただけなのだ。
「キリト」
ただそれは二人一緒の時の出来事であって、こんな形で見るのはまた別だ。口から出たのは、やや温度の低い声だった。
振り返ったのはいたずらでも仕掛けるような楽しそうな
「おぉ、お友だちですかな?」
口調までも柔らかい彼。どうしてこの世界にきたのかも不思議なぐらい至って普通のおじさんだ。
「いえ、妻です。」
さらりとキリトがそう切り返すのにくすぐったさを感じ若干気持ちが解れ、セツナはペコリと頭を下げた。
「ふむふむ、キリトさんも中々隅に置けませんな。」
おじさんがうんうんと頷くのになんだか妙に恥ずかしさを感じる。
「あの、あなたは…。」
「私はニシダと言うものです。ここでは釣り師をやっております。」
「ニシダさんはSAOの回線保守の方だったらしい。」
キリトに付け加えられたおじさん…ニシダさんのプロフィールに納得がいった。自分が手掛けたものを見ようとダイブし、巻き込まれてしまったのだろう。
「仕事熱心だったのですね。」
道理でゲーマーらしき雰囲気をまとわないわけだ。そもそもゲーマーではなく技術者。今ここにいるのは事故みたいなものだろう。
「年寄りの冷や水になってしまいましたわ。おかげで一日中好きな釣りが出来とるんですが。」
自虐的に明るく笑う彼に悲壮感は全くない。ここまで達観するのに2年は短くなかったんだろう。
「是非、キリトに釣りの極意を教えてあげてください。全然釣ってこないんですから。」
「実はその話なんですが、釣れないのはキリトさんの釣っておられた湖だけなんですわ。」
「え?」
ニシダの話にキリトはバツの悪そうな顔を浮かべる。
「この湖、主が出るんだと。」
「主!!」
そんな楽しそうな話、セツナが乗らないわけはない。目を輝かせ続きを促すと、ニシダは当初キリトがしていたような表情になった。
「私ではヒットはするんですが釣り上げる筋力がなく…キリトさんとどうにか協力できないかと相談していたところです。」
「釣竿のスイッチですね! それ、私じゃダメですか?」
爛々と輝くセツナの瞳にニシダも少したじろぐ。
「え? 奥さん筋力に自信がおありで?」
「キリトには負けないぐらいには!」
見掛けは華奢な少女。どう見ても力のあるような雰囲気は持たない。しかしそれはただアバターの問題であり、この世界の力であるパラメーター値には全くもって関係ない。キリトも若い男性…と言う点ではセツナにアドバンテージを持つものの、華奢さ加減ではどっちもどっちと言ったところだ。目を丸くするニシダにセツナはにっこりと笑った。
「へぇ! 主さんですか!!」
家に戻るとユイもキラキラと目を輝かせ、興味津々と前のめりになる。今日の夕飯はニシダに分けてもらった魚たちがメインだ。色彩々の魚たちは見た目はともかく、味は中々に美味しい。深海魚のようにグロテスクなものもあるが、捌いてしまえば同じだ。アスナにお裾分けしてもらった醤油のような調味料も大活躍だ。魚は和食で食べるのがやはり美味しい。アクアパッツァやムニエルも美味しいが刺身や煮付けには敵わない。尤も、この世界の食べ物はほとんどが洋食のため、和食がただ恋しいのもあるかもしれないが。まだまだ料理スキルは拙いセツナだが、22層の食料を調理できるぐらいにはなっていた。久しぶりの和食を勢い良く掻き込み終わると、口元を拭いながらキリトは答えた。
「明日のお昼間にやろうって話。」
「ユイも行く!!」
記憶を取り戻し、一緒に暮らし始めてから段々と年相応らしい仕種や言動が増えてきたユイの頭をキリトは優しく撫でた。この技術は本当に畏れ入る。
「スイッチするのはセツナの方だけどな。」
「え? キリトお兄ちゃんじゃないんですか?」
当然に釣竿を引くのはいつも釣りに出掛けているキリトの方だと思ったのだろう。ユイはポカンと口を開いた。そんな彼女の口にデザートを放り込み、セツナは片頬だけをあげて笑う。
「引っ張るだけならスキルは要らないからね! お姉ちゃんだって強いんだよ。」
「それは知ってますよー!」
「セツナは言い出したら聞かないからな。ま、俺は万が一に備えてこれを持っていくさ。」
もぐもぐとデザートを頬張りながら、やや不満げな顔のユイにキリトはチャキッとエリュシデータを出して見せた。するとその表情はくるりと一変した。
「それならしょうがないですね。」
「頼りにしてます。」
うんうんと揃って頷く二人にキリトは顔をしかめずにいられなかった。
「良いように使ってくれるよな。」
口では文句を良いながらもセツナには勝てない。先に惚れた弱味か頭が上がるようになる日はくるのだろうか。
翌日、意気揚々と湖に行ったもののそこに広がる光景に3人は面食らった。ただ主を釣り上げるだけかと思えばそこはお祭り騒ぎだった。キリトはともかくセツナは超の付く有名人で、いくらここが前線ではないとは言えん、その髪色を見て気付いてしまう者もいるだろう。折角のんびりと暮らしているのにそんなことになっては大変だ。
「キリト…どうしよう?」
不安そうに振り返るセツナに、キリトは肩車していたユイを地面に下ろし、アイテムストレージを開いた。
「髪はケープで隠してるから良いとして、服装が青基調が良くないな。」
そして自分の装備品の中でユニセックスなデザインのものを見繕う。
セツナなのパーソナルカラーは一般的に青だ。ならば髪を隠し、その色を外すだけでも大分印象が違うだろう。
「う…地味。」
「地味で良いんだよ。目立ちなくないんだろ。」
「お姉ちゃんだって我慢です!」
不服な顔をするセツナに今度は二人係りで説得を促す。青、紺の服装とて派手ではない…と言うのはこのさい置いておく。
「ま、釣りする間のことだけだもんね。」
さすがに直ぐに縦に首を振り、ニシダの元へズンズンと歩き出した。
「おはようございます!」
もう直に昼だが、なんとなく1日の中で最初に会う時はおはようございます、と言ってしまう。ドスドス言いそうな勢いで近付いてくるセツナにニシダは昨日と変わらず柔らかく人懐っこい笑みを浮かべた。
「おぉ、セツナさん、キリトさん、お待ちしておりました。折角ですから私の釣り仲間にも声をかけてみました。」
道理で一大イベントになっているわけだ。要はアインクラッド中の釣り好きが集まっているといっても過言ではないわけだ。"がんばれニシダさん"の横断幕まで存在する。…どちらかと言えば釣り上げるのを頑張るのはセツナの方なのだが。
「ふふ、プレッシャーですね。」
にっこりと笑うセツナにニシダはニヤリと返す。
「期待しておりますよ。」
「えぇ、全力で引ききって見せます。」
そんなやり取りがありつつ、セツナとニシダが湖の畔にスタンバイするとキリトとユイは少し小高い位置に陣取った。
「おねーちゃん頑張ってー!」
「セツナー程ほどにしろよ!!」
二人の声に後ろ手に手を振り、応える。
「行きますよ!」
そんな間にも釣りの準備は着々と進み、ニシダはセツナの腕ほどもありそうなトカゲを餌につけると思いっきり湖へと釣竿をキャストした。ふわりふわりと浮きが微弱に動くのは風のせいか。
「どうですか?」
釣りの経験のないセツナはそわそわしてニシダにまと割り付く。ピクリと動いているように見えるのはヒットとは違うのか。
「まだまだ!」
釣り師ニシダにしてみればそれはどうやら違うものらしい。忍耐強くじっとその浮きを見つめ、両手を釣竿に集中していた。
「あの…」
細かくピクリピクリと動く浮きに、いやいやどう見てもと思い声をかけようとすると、ぐいっと急に引っ張られたのが見てとれた。
「ここです! 行きますよ! セツナさん!!」
「えええ??」
なんだか良くわからないタイミングで声をかけられ、やや混乱しつつその竿を握る。すると、22層の低層とは思えない程強い力でぐいぃっと引っ張られる。
「わわわわわわわ!」
完全に油断していた。湖まで引き摺り込まれそうになるのをなんとかこらえ、反撃に一転する。
「こんのぉぉぉお!!!」
ボス戦でも中々上げないような雄叫びを上げ、湖を背に一気に背負い投げのように竿を振り上げた。釣竿は折れてしまうのではと言う勢いで大きくしなった。
上空からボタボタと水が落ち、力が行き所を失い、セツナは尻餅をついた。
釣り上げた! と思い周囲の反応を窺うと、何故か回りから人が捌けてしまっていた。
ケープは垂れてきた水でびしょびしょで気持ち悪いし、なんだこの仕打ちと…思った矢先、その視界は影に包まれる。
「セツナ!! 後ろ!!」
キリトの怒鳴り声にようやく振り返ると、何故回りが捌けてしまっていたかの理由を知る。5mはあろうかと言う巨大な魚がそこには鎮座していた。
ギョロっとした目はグロテスクで、肺呼吸するように口がパクパクと動く。ついでに何故か四肢があり四足歩行までして見せるそれはもうすでに魚ではなかった。
右手を縦に振り、ワンタッチ。
左手で濡れたケープを剥ぎ取るとセツナはやや腰を落とした。
「串焼きにして上げる!!」
そして大きく飛び上がりその手に一瞬にして装備した槍を一気に目標に向けて突き刺した。勿論、一番得意の《ソニックチャージ》で一突きだ。
いくらイベントモンスターと言えど、22層クラスの敵など全く怖くない。なんなら生身で体術スキルでも倒せるぐらいだ。
折角釣り上げた魚だが、一気にその姿は消え、青いポリゴンの欠片にキラキラと形を変えた。折角隠したはずだった白銀の髪は一緒になってキラキラ光り、キリトは頭を抱える。
「お兄ちゃん?」
「あのバカ…。」
キリトの懸念は当然に、その正体は22層中に響き渡った。自分がバレることを気にしていたにもかかわらず、その行動が伴わないことはもう諦めの境地だ。平穏な生活は終わりかと項垂れたところ、それは更に奈落へと突き落とされた。
message from Asuna
message from Diavel
二人に同時に届いたメッセージはどうしても休暇のままにはさせてくれなかった。
キリトの出番…笑
閑話を挟み最終決戦へ。
6月は思ったように更新できなかったので…今までの半分…7月は一気に書ききりたいですね。
バディコンも書き進めてはいるのですよ。