あたいは野良猫の母からこの世に生を受けた。その時のあたいは今の燐という名前ではなく、リンと呼ばれていた。どうして母にはこの名前にしたのか理由を聞いたことがあるが、母曰く、呼びやすい名前っぽいでしょ、と名前の由来を教えてはくれなかった。あたいが当時子どもだったので、難しいことを言ってもわからないと思ったのだろうか。今となってはもう知る由もない。
とにかくあたいは生まれて数ヶ月経つ頃には乳離れをし、生まれ育った山を駆け巡って過ごしていた。この時の記憶はかろうじて存在する。そこは山の中腹あたりで、ネズミなどの小動物などもたくさんいて、母から狩りを習いすくすくと成長した。こんな自然の中を毎日きままに過ごして、お腹がすいたら狩りをして、そして眠る。そんな毎日が楽しくてしょうがなかった。
春が来て初めて見る桜に酔いしれ、
夏が来てその暑さにうだり、
秋が来て季節が彩る世界に心躍らせ、
そして冬の寒さに身を震わせる。
その季節がぐるりと一周したころ、あたいは狩りを一通りこなせる一人前の猫となった。母からはとても飲み込みが早く、十分独り立ちできると言われたが、あたいは断った。今の幸せなことは母がいるから。母と離れてこれ以上の幸せを得られることなんて何一つないと考えていたからだ。それを聞くと母は毎回呆れと安堵の混じった表情をするのであった。
それからしばらくしてからか、あたいは初めて人間というものを見た。頭に毛のない人たちがぞろぞろと何かを唱えて山を登っていくのを見た。母曰く、あれは寺の人間だそうだ。
かつて母は人の子の元に世話になったことがあるらしいが、その子の親が寺の人間で、彼らに追い出されてからずっと野良として過ごしてきたのだと教えられた。それ以来あたいの中では寺の人間に限らず、自然と人間に心を許すべきではないと考えるようになったのだった。
そう、たしかその頃である。同じ山に住む野良猫があたいたちにこう伝えてきた。
「もうじきこのあたりで俺ら野良猫を保護するという名目で掃討作戦が行われるらしい。」
「その情報の信憑性はあるのでしょうか?」
母はこう聞き返した。だが彼の言い分では、ネタの大元は、寺の人間が中心になって行われるということを、こっそり寺を隠れ家にしていた野良猫が聞いた話が伝播してきた、ということらしい。
彼は情報を伝え、手伝えることがあれば頼むと言い残し、去った後で、母はあたいにこう聞いてきた。
「リン、あなたはどうする?」
母の問いかけにあたいは、
「どうするもこうするも、あたいはこの山が大好きだもん。人間の好き勝手でここに住めなくなるなんて絶対おかしいし!」
「……、ええ、そうよね、リンの言うとおりだわ……。」
母ももちろん、あたいの意見に賛成してくれた。
けれども、その時のあたいはあまりにも幼すぎて、母の懸念を考慮することはなかったのであった……。