鏡音家の別荘の掃除は、途中あの黒くてすばしっこくてしぶといゴキブリなる悪魔の登場というハプニングがあったもののそれ以外は概ね問題なく終わった。
その後、食材の買い出しにつき合わされて女性陣が買い込んだ食材を見て
ネギとかマグロの刺身とかアルコール類がおやつになるとは到底思えないが、そこはきっと俺には理解のできない世界があるんだろう。無理に理解する必要もないだろうから深く考えることはやめておく。
そんな感じで夕食も済ませ、一同談話室にてゆっくりすることになった。時刻は丁度19時。太陽も水平線の向こうに消え、夜の帳が降りてきていた。
「さて、それじゃあこれから皆どこに遊びに行く?」
夕食を食べ終えてそう時間も経たないうちにソファーに腰かけていたリンがまだまだ私のバトルフェイズは終わっていないと言うがのごとく皆の顔を見回しながら笑顔でそう問いかける。
今日一日あれだけ動き回って、一体どこにそんな体力が残っているのかと心底不思議ではあるがそんなことよりも俺はどこかに行く気が起きなかった。
何しろ本当に朝一番から夕食の直前まで動き通しだったのだ。勿論電車で移動している間は動いているわけじゃないけど、電車での移動っていうのは案外疲労がたまるもの。その後炎天下の中を歩き、さらには別荘全体の掃除をしていたのだ。いくら中学時代に体力に自信があったとは言ってもこれはさすがに疲れる。
それに、まだここにきて一日も経っていない。わざわざ今日今からどこかに行かなくても、明日以降に上手くタイムスケジュールを調整していきたい場所に行けばいいだけの話じゃないだろうか。
「それじゃあダメなんだよ。だって明日以降はやることいっぱいあるもん」
「いっぱいって…四泊五日行程でもやりたりないことってあるのかよ」
正直な話、それだけあれば大体のことはできてしまうんじゃなかろうかと思ってしまう。最も、俺はあまり海辺の町に旅行できたことなんてないしこの別荘がある町に関しても何も知らないから、現状出来ることと言ったら海に遊びに言ったりする程度しか思いつかないっていうのもある。
が、それを差し引いたとしてもやはり四泊五日あるのに今日今から出かけなければできないことなんて思いつかなかった。
そんなことを考えていたのが顔に出ていたのか、隣にいたミクが俺に苦笑する。
「まあまあ。折角リンちゃんがどこか行こうって言ってるんだからさ、一緒に行こうよ」
「いやまあ、別に行きたくない訳じゃねーんだけどよ。今日一日散々動いて疲れただろ? そんなんで出かけて明日以降に疲れ残すのもなんかもったいねえなって…」
そう。別にリンの我が儘が嫌というわけじゃない。いや、どっちかと言えば嫌だけどそこまで拒絶するつもりはない。けれど、今日の疲れを明日に残して目一杯遊べないっていうのは正直勿体ない気がする。
いくら風呂に入ってストレッチしたからといって、完全に回復できるか怪しい位には力仕事をこなしたのだ。高校に入学して半年、中学の時のようにはもう運動していない。ハッキリ言ってこのままだと明日全身筋肉痛コースだ。
「そうねえ。皆長旅して疲れてるし、掃除もやったから今夜は大人しくしてるほうがいいんじゃないかしら」
ルカさんも顎に手を添えながらそう口にする。流石は大学生、話が分かる。
「えー!折角なんだから何かしようよー。私退屈で死んじゃうー」
「ガキじゃねーんだから、あんまりわがまま言うなよリン」
ふくれっ面をするリンを見て、大きくため息をつきながら携帯ゲームをやるレン。こいつもぶれねえなあ。
ちなみに今俺は特に何もしていない。ミクと並んで階段に腰かけている。とてもゲームができるような雰囲気ではない。というか、近い。なんか、ミクとの距離が物理的に近い。ちょっとずれれば肩と肩が触れ合うくらいには、近い。
あんまり意識するようなそぶりをすると、またその辺の連中にからかわれるので出来るだけ意識しないように努める。それよりも、この後どうするかだ。
「それじゃあ、近くに展望台でもあればそこに行って星でも見ればいいんじゃねーの。それならそんなに疲れねーだろうしよ」
「おお、駿兄にしては珍しくまともな案だね。それもいいじゃん」
「一言余計だ、おてんばバカ娘」
「駿君も十分一言余計だと思うんだけど…」
隣から何か聞こえたが、俺には正しい言語として聞き取ることができなかったので無視。自分にとって都合の悪い言葉はできるだけ聞き流すに限る。精神の平安を得るために必須なテクニックだ。
「それじゃあ、確かここに来る途中の分かれ道から展望台行けたはずだからそこ行こうよ。距離的にもそんなに遠くないからさ」
善は急げと言わんばかりに出発しようとするリン。そんなおてんば娘を止めつつ、大学生組に一緒に行くのかと問いかける。
結果、俺達の保護責任者としてルカさんが同伴。カイトさんとメイコさんは留守番をすることにしたらしい。まあ、大学生は大学生でやりたいことがあるのだろう。あの人たちなら別に俺達が心配しなくても特に問題を起こすことはないだろうし気にする必要もなさそうだ。
そして、街灯の少ない薄暗い道を俺達は歩いていく。例によってリンがはしゃいで先行するのをレン追いかけて制止するという光景をゆっくりと歩きながら眺める。
「相変わらず元気だよなあ、あの二人は」
「ふふ…そうだね。でも、ゲームセンター行くときの駿君もあんな感じだよ?」
「それいったらお前だって俺達と遊びに行くたびにあんな感じになるぞ」
なんて、ミクと軽口を叩きあいながら歩いていると目的の展望台についた。
そこは見上げれば満点の星空が俺達の上に広がっていて、その光景を遮るものも何もなかった。天体観測をするにはうってつけの場所だ。それに、町の喧騒もここであればほとんど気にならないほどに静かだ。もしも自宅のそばにこんな場所があったなら、定期的に訪れたくなっていたことだろう。
「わぁ~! 綺麗だなぁ!」
「本当、こんなところに来ないと見れないでしょうね。こんな綺麗な星空は…」
リンもルカさんも空を見上げて感嘆の声を上げる。俺も、声に出すことはなかったが同感だった。こんなに綺麗な星空はめったに見られる物じゃないだろう。小一時間は眺めてるだけで時間を潰せる自身がある。偶には、こうやって外に出て自然に触れ合うのもやぶさかではない。
「綺麗だね……」
「あぁ……いいもんだな」
ミクも空を見上げて満天の星空に見とれている。コイツは、今までこういうものを見たことがあるんだろうか。なんだか、黒田との一件以来鳥かごの中の鳥のような生活を強いられていたんじゃないかと変に邪推してしまう。
そんなことを俺が考えたところで真相はミクしか知らないけど、直接聞くのは躊躇われた。同じいいとこの出の黒田との接し方やその時の言動を思い出すに、ミクは『お嬢様』であることを知られることにかなり怯えていたような気がする。
その気持ちはわからなくもない。自分が周りと異質な存在であると思われると、自分の味方がどんどん減ってしまうのだから。敵にならなくても、どこかしらよそよそしくなる。悪い奴は味方のふりをしてだまそうとしてくる奴もいるだろう。
実際、中学の時の俺がそうだった。性格上、集団行動に向かなかった俺は敵がうじゃうじゃいたし、味方っぽい奴はここぞという時で俺から離れていった。敵でも味方でもなかった奴は俺と絡むことで周りから敵と認識されるのを恐れて避けていた。
そんな状況が続くのは正直言ってかなりの精神的負担になる。俺だって決して無傷だったわけじゃない。すり減りつつある心を、自分の手で握りつぶすことですり減らないようにしていただけに過ぎなかった。
ミクは、もしかしたら握りつぶすことも出来ずにずっと耐えていたのだろうか。何時からかはわからない。けれど、少しずつすり減りつつある心を隠して笑っていたのだろうか。今も、アイツの心はすり減っているのだろうか。
「なぁ、ミク…」
ふと名前を呼んでみる。普段何となしに呼んでいる名前。そういえば、いつからコイツのことを『ミク』と下の名前で呼ぶようになったんだっけか。
「ん?どうしたの駿君」
俺の声にミクが何時もの…いや、何時もより柔らかい笑みを浮かべてこちらを見つめる。これが、ミクの本当の笑顔なんだろうか。
「……いや、なんでもない」
「そっか」
なんて言えばいいのか分らなかった。ストレートに無理をしてないかと聞けば良かったのか。それともなんてことない雑談でも始めれば良かったのだろうか。
ただ、変に言葉にするよりはこのまま黙って空を見上げている方がいいと思った。きっと、今の俺の言葉はミクにいらない負担をかけることになるだろうから。
展望台に少し強い風が吹き付ける。ほんの少し、肌寒く感じるそれは何か天からの知らせだったりするのかもしれない。俺にはその意味まで理解はできそうもないけれど。
「…ちょっと冷えてきたね」
「ん…そろそろ別荘に戻るか。風邪ひいても困るしな」
長い間上に向けていた首を水平に正す。長い間一方向に向けつづけていたせいか、首が少し痛い。
くしゅんと聞こえたからそちらに顔を向けると、リンがくしゃみをしていた。強い風が吹かなかったとはいえ、海からの冷えた風にずっと当たっていたのだ。本当にそろそろ戻らないと風邪をひいてしまうだろう。
それじゃあ戻ろうかと皆で別荘に戻ろうとした時、もしかしたら聞き逃したかもしれないくらい小さな声で後ろから名前を呼ばれた。声の主はミクだった。
「ねえ…その…また来ようよ。ここに」
ちょっと躊躇いがちに笑いながら、ミクはそう言った。断る理由が無かった。
「勿論。今度は、冷えない様に羽織るものを持ってこような」
「二人ともー! 置いてっちゃうよー!!」
「あ、今行くよー!! ほら、行こう駿君!」
リンの声に笑顔で応じ、何時もの華のような笑顔を浮かべ俺の手を引くミク。やっぱり、なんだかんだコイツはこういう顔が似合っていると思う。
そんなガラでもないことを考えながら、ミクの手に引かれるままリン達に追いつくために歩調を速めた。