透き通った声が聞こえる。
まるで小川から流れる水の音のように、透き通り可憐な声。だけど、その声はどこか無感情を宿しており、それが俺にとっては残念極まり無かった。
キーンとした耳鳴りと共に、聞こえてくる少女らしき声。その持ち主を確かめる為に、瞼を震わすが、まるで縫い糸で縫われたかのように、瞼が開く事は無い。仕方無く、鉛が詰まっているかのように重くなった右腕を動かし、自分の瞳を閉じた瞼越しに指の腹で擦り、刺激する。気のせいか、少女の声のトーンが一つ、低くなった気がした。
今の俺は、声の持ち主をこの目で見たいと言う切望に駆られていた。せせらぎのように美しいと言うのに、それでいて感情を宿さない少女の声。咳払いと共に口から鉄臭い液体が溢れるのを感じ、ゆっくりと瞼を開けた。
瞳が目の先の光景を捉えると同時に、失われていた身体の温もりや、心臓の鼓動が動き始める。身体を巡る血流は鼓動を始めた心臓を拠点に、隅々までと流れ出し手の先の感覚や足のつま先の感覚を復活させる。呼吸を忘れていたかのように、上半身を起こして浅い呼吸を荒く繰り返す。息を吐くたびに、口からは赤黒い液体が溢れていった。
俺の口から溢れた液体は、俺の着ている水色の半袖シャツを赤黒く染め上げてゆく。胸辺りに刻まれていた筈の英語のロゴは、酷く汚された上に細い穴が空いていて、とても読めたものじゃない。ふと人の気配を感じて、後ろを振り向く直前――突然に前髪を鷲掴まれたと思うと、首横から白い手が伸ばされ銀に輝くナイフの刃元を喉仏に構えられる。
何だと言うよりも早く、この状況を作ったであろう本人が俺の耳元で囁いた。
「動かないでください。指一本でも動かしたら、殺しますから」
俺の後ろに立つ少女の声色は、先程に俺が耳にした声そのものだった。ただ、先程とは少し違って、言葉には冷ややかな殺気が滲んでいるのを感じ取れる。緊張からか、それとも死を目の前にした恐怖からか、喉を鳴らす。
そんな俺の気持ちを露知らず、年端もいかない幼げな少女は手に持つナイフに力を滲ませ、「私の質問に答えてください」と耳元で小さく囁いた。
「貴方、人間ですか?」
「に、人間ですけど……」
突拍子もない少女の質問に、些か困惑するも丁寧に返す。もし、無言を貫き通そうものなら、俺の首は胴体と離れ離れになるのは明白だからだ。
「そうですか……。その言葉に嘘偽りは有りませんね?」
「な、無いに決まってるだろ!? て言うかこんな真似してタダで済むと――」
業を煮やし、吠える俺の首元に、少女は更に銀に輝く大型のボウイナイフの刃元を近づけた。温もりを知らないナイフの刃元が俺の喉元に当たり、薄く切れた皮膚から一筋の生々しい血が垂れてゆくのを感じられる。
赤色の血と共に背中を滴る、冷や汗を感じながら口を閉ざす。すると、不意に少女は手に掴む前髪を離して、俺の首元に構えたナイフを引っ込めた。胸中に浮かぶ多少の安堵と共に、後ろを振り返ろうとするも少女の声がそれを制す。
「此方を向かないで下さいね。それと、もし立ち上がったら貴方の首を切り離しますので。悪しからず」
なにが悪しからずだ、と言葉にはせず悪態を吐く。少女は電話でも掛けているのか、丁寧な口調を用いて名も知れぬ誰かと会話を繰り広げていた。
それでも、俺に対する警戒心は緩めていないのか、時折に少女はナイフの切っ先を軽く、俺の後頭部に突き刺している。正直、生きた心地がしない。
動く事も叶わない俺は、暗い闇夜に視線を泳がせた。そんな行動が功を奏したのか、高そうなスーツを身に包む男が地面に横たわっているのが見える。何故横になっているのかと、疑問に思うが今は助けを乞うのが先決だった。
声を上げようと、口を開くが俺の喉からは掠れた吐息しか通らなかった。
地べたを這い蹲る男性を中心に、一目で致死量と分かる朱色の血が地面に広がっていたからだ。
ショックで息を漏らす事しか出来ない俺を、後ろに立つ少女は訝しげに思ったのか、電話越しの相手に別れの言葉を告げると、俺に言葉を投げかける。相も変わらず、感情を宿さない、無機物を連想させる声色で。
「どうしたんですか?」
「……あれって、人だよな」
倒れ伏せている男性に指を指そうとするも、手で制され、俺の視線を辿ったのか、ああ、と短く返すとさぞどうでも良いと言わんばかりに、少女は疑問そうに言ってみせた。
「人
「な、何でそんな落ち着いていられるんだよ!! 人が死んでいるんだぞ!?」
少女の余りの残虐さに、一種の怒りを覚え吠える。が、そこで俺は小さな違和感に見舞われた。
――俺は、地面に倒れている男を、見たことがある。
高そうなスーツ服。生真面目そうにセットされた、五分五分に分けられた前髪。生気を失った瞳の上に刻まれた、一重瞼。そして――血に濡れた黒縁メガネ。
そうだ。俺はついさっき、あの男に身体をメッタ刺しにされたじゃないか。
更にと虚空に視線を巡らせる。蛍光灯の光残量が残り少ないのか、チカチカとした電子音と共に、青白い光を消しては灯らせる防犯灯。空を舞った鮮血が付着したのか、所々が赤く染まっている茶色のベンチ。地面に投げ出されたゴミ箱と空き缶。それら全てが、俺の記憶を刺激させた。
「どうやら、ショック性による一時的な記憶混乱に陥っているようですね。その様子を見ると、思い出したようですが」
「な、なんで――俺生きているんだ」
「さぁ。私が知りたいですよ、そんなの」
他人事のように言ってみせる少女に、憤怒を覚えるがそれはすぐさま掻き消され、代わりに疑問と恐怖、そして胸中に空いた喪失感を覚える。
顔を少しだけ伏せて、あの男に刺されたであろう傷口に視線を落とすが、目の先には夥しい赤に染まったシャツしか見えなかった。傷口は疎か痛みすら感じられない現状に、一抹の不安が心に宿る。
茫然自失といった俺を見てか、少女は腕を使って俺を立たせた。漸くに足を地面に付ける事が出来た俺は、多少の目眩を感じ蹌踉めくも、何とか踏みとどまる。同時に後ろを振り返ると、少女の顔を拝むことが出来た。
やはりと言った所か、俺と同年代かそれより下かの、幼げな顔持ちの少女。ただ、その表情は無表情の中に憂いを帯びており、年相応の表情にはとても見えなかった。
絹糸のように靡く黒の長髪は、カラスの濡れ羽色のように美しく、況して月の光に照らされる少女の髪は酷く幻想的だ。日光に当たった事が無いかのような、白いその肌は積雪を連想させる。
そして何よりも、黒の髪色には似ても似つかない、全てを吸い込むかのように濃く赤い
「着いて来てください。貴方に話したい事が幾つか有ります」
理由も無しに言ってみせる少女を訝しげに思うが、言われた通りに少女の跡を着いていく。どうせ、この場で拒否の念を伝えても、強制的に連れて行かれそうだが。
何とはなしに首元に手をやってみる。薄く切れ、滴っている筈の血は指の腹に付着することは無かった。