辺りには、どっぷりと闇が更けていた。
俺の目の先を歩く少女は、一言も発さず、ただ人通りの少ない路地を選び歩いている。死んだような町並みに、二人分の足音が虚空に響く。
既に今日は七月の下旬。すぐに八月がやって来ると言うのに、少女は季節に相応しくない白色の、袖が長いワンピースを身に纏っている。生地は一応薄いようだが、蒸し暑い夏の夜に長袖を着用する理由が、俺には分からない。
白のワンピースは、辺りを覆う黒色の中を派手に浮かび上がっている。雪のように汚れを知らないその白色は、少女の肌に似ているような気がした。
限りなく白に近い肌色の足はすらりと伸びており、優雅さの中に滑らかしい色気を併せ持っている。ついついごくりと、生唾を呑んだ俺を知ってか知らずか、不意に少女は歩みを止め立ち止まった。それに引かれ、必然的に俺の足並みもとまる。
二人分の足音が止み、再びに街の中を静寂が包み込む。そんな静けさを打ち壊すかのように、少女は無感情な声色で言ってみせた。
「少しここで待っていて下さい。すぐに戻りますので、一歩も動かないように」
すると、重たい足付きで目の前に広がる、寂れた三階建てのビルの中に入って行く。
この場所はあの公園から歩いて十五分程。駅からそう遠くない為、辺りには大型マーケットやゲーセンが立ち並んでおり、その中にポツンと立つこの寂しげなビルは、場違いな気がしてならない。
こんなビルに何の用だろう。そう疑問に思うが、今は自分に対する疑念だけで精一杯。
一体、あの男に刺された出来事は何だったのだろうと。そして、何故自分はあれだけ致命傷を貫かれたと言うのに、平気な顔をして今も尚、生きているのだろうと。疑念や怪訝は膨らむ風船のように、段々と大きくなっていき破裂寸前だった。
自分の心にぽっかりと空いた、喪失感を紛らわすようにズボンポケットから携帯を取り出す。ホームボタンを押すと同時に青白い光が液晶から漏れ、俺の顔を明るく照らした。
パスコード等の設定はしていない為、パスワード認証を通り越して携帯のホーム画面が目に映る。世界文化遺産に登録され、日本の誇りでもある富士山がバック画像のホーム画面には、様々な携帯アプリが浮かび上がっていた。
暇つぶしに、ダウンロードされたミニゲームでもプレイして暇を潰そうかと思った刹那。階段の段差を下りる靴音が俺の耳に届き、目の前のボロビルから、白のワンピースを身に纏う少女が現れる。
少女の表情は先程よりも更に、憂いを帯びており、今にも濃い溜息を零そうと言わんばかりの憂鬱な表情だった。
口を開き言葉を発するのも億劫なのか、俺の方を向いて手を招く。
対する俺は、特別この寂れたビルに用が在る訳では無い。携帯をポケットに仕舞い戻した俺は、少女の手招きを無視して踵を返す。が、すぐさま手の平で肩を掴まれ、帰宅を阻止された。後ろを振り向くと、剣呑な雰囲気を曝け出す少女が此方を睨んでいた。
「何処へ行く気ですか?」
「マイホームに戻るんだよ。お前みたいな怪しい奴にホイホイ着いってった俺は馬鹿だけどな、流石にこんな廃ビルじみた中に潜る程、馬鹿じゃないんだよ」
「貴方に拒否の権利は有りません。どうしても帰ると言うなら――引きずってでも連れて行きますよ」
「そんな細い腕で、俺を引きずれる物なら引きずってみろよ」
前を振り向き、肩に乗った少女の手の平を振りほどく。そのまま家路に着こうと、ここから自宅までの道のりを頭の中で思い浮かべた瞬間――後頭部に強い衝撃が走った。
鈍痛に顔を顰め、目の前の光景がぐにゃりと歪む。脳震盪を起こしそうになるも、何とかその場を踏みとどまり、解けかかった意識の綱を掴み取る。
世界の全てが歪曲したのかと錯覚する光景の中、俺の意識を刈り取るように、腹の中心部分を強い力で殴られた。
鳩尾に近い箇所を殴られ、呼吸が出来なくなる。堪らず強く咳き込み、肺に溜まっていた空気が全て外に漏れた。そして、脳への酸素不足が無慈悲にも呆気なく、解けかかった俺の意識の綱を――切り取った。
★
頭の中身は、まるでミキサーで掻き混ぜられたかのようにごちゃごちゃと散らかっていた。
朧げな意識の中、眩い光に気がつき徐に瞼を開く。鉛が詰まったかのように重い頭を、左右に振る。強い不快感が胸中と頭の中に残り、思わず嘔吐く。
そんな苦しげな俺を見てか、前から男の陽気な声が聞こえてきた。
「おお、
笑窪を作り、人当たりの良い笑顔を浮かべる四十代半ばの男。草臥れた色の薄いグレーのスーツに身を包み、私生活が疎かになっているのか、口の周りには不精ヒゲが生えている。もっさりと膨らんだ七三の髪型と、細い目が特徴的だった。
乾燥した唇の端っこを持ち上げ、年季の感じられる黒のワークチェアに座り、足を組む男性は、にこやかに笑ってみせる。男と対するように、もう一つのワークチェアに座る俺は、今がどのような状況なのか全く分からずにいた。
「ここは……何処だ」
両側が張り付いたかのように乾いた喉を使い、苦しげに言葉を発する。自分の声は、本当に自分の声なのかと疑わしく思える程に、嗄れていた。
「酷い声色だな。まずは喉を潤そうか――葵、この子に水を飲ましてやってくれ」
「分かりました」
何処かで聞いた事のある、無機質な少女の声は、男の言葉に頷くと、白い腕を伸ばし透明のガラスコップを俺の口元にまで運んだ。
指で顎を摘まれると、緩くコップを傾け俺に水を飲ませる。自分で飲めると、腕を持ち上げようとするが、何かに縛られたかのように、俺の腕はぴくりとも動くことは無かった。
ぬるい水を飲まされながら、視線を落としてみる。そこで、自分の両腕はワークチェアの肘掛け部分に、太い縄で縛られている事に気づいた。
血が止まる程強くは結ばれていないが、それでも俺の腕は雁字搦めに縛られ、動く事はない。コップの中身が空になり、口元から無機質なガラスコップの感触が消えると同時に、怯えの混じった口調で今の状況を、そして何故俺の腕を縛っているのかを訪ねる。
男は俺の問いに大きく頷くと、何が楽しいのか晴れやかな笑顔を浮かべながら、ゆっくりと応えた。
「一つずつ答えようか。今の君の状況は――名も知れぬ男と向かい合い、腕の自由を捕らえられているんだよ。何故腕を縛る必要が有るのかと聞いたね。理由は単純だ、私は君と、落ち着いて話をしたいんだ。もし君に暴れられると、君との会話が出来なくなってしまう。だから、不安要素を取り除く為に、君の自由を封じたんだ。分かってくれるね」
饒舌に、ゆっくり一つ一つと言葉を紡ぐ男性。穏やかなその口調の裏腹に在る悪意を感じ取った俺は、背筋に寒いものが走るのを感じられた。
男が、俺の質問にきちんと答える気が無いのは一目瞭然だった。何一つ分からないこの状況を目の前にして、恐怖が心の奥底から湧き出る事は必然で、ただ俺は自分の無力さを呪い、恐怖に奥歯を噛み締める事しか出来なかった。
「そんなに怯えなくても、大丈夫だよ。私は正義の味方だからね」
どの口が言うか。胸中に浮かんだその言葉は、喉を通る事は無い。
「まぁ、それはそうと。君の質問に私は答えたんだ。次は私が君に質問する番だね」
足を組み直し、椅子に深く腰掛ける男性は、先程のにこやかな笑顔から打って変わり、真剣な表情を作る。男の濃い、二つの黒の瞳が俺を見据える。
「君は――自分を、人間だと思うかい?」
男の言動に対して、俺の思考が一瞬フリーズする。あまりにも頓珍漢なその質問に、些か拍子抜けするも、確か公園で会った少女にも同じ質問をされたな、とつい先程の過去に耽る。
思考をすぐさま切り替えて、男の質問の意図を考える。だが、到底理解の出来ない、下らないその質問内容を深く考えるのも面倒だと悟った俺は、目の前で俺を見据える男の質問を、軽い口調で返した。
「貴方は、俺の姿形が人間以外の何かに見えるんですか? 答えるまでも無い――人間ですよ」
「ふむ。そうか……」
あまり納得のいかない表情で、浅く頷く男性。それじゃあ――と話題を切り替え、またも俺に質問を投げ掛ける。
「君は、化物じみた力――例えば、空を飛べたり、熊を素手で殺せるような腕力を手に入れたら、どうする?」
またも、訳の分からない質問に、少なからずの憤怒を覚える。俺をおちょくっているのか、と。
最早、真面目に考える事も馬鹿らしく思えた俺は、溜息混じりに、適当に応えた。
「そうですね。人間離れした力を手に入れたら、悪の秘密組織とでも戦いましょうかね」
「おお、良い答えだ。気に入ったよ」
俺の答えの何処に、満足点が有ったのかは、俺に理解出来そうに無いが、男性は深く深く、満足げに頷いて見せた。
すると、男は何を思ったのか、ちょいちょいと俺の後ろに立つ人物に、手を招いた。縄で腕の自由を捕らえられた俺に一瞥もくれず、俺の隣をするりと通り抜ける。
腰元にまで伸びた、艶やかな黒髪。雪のように白い肌と、汚れを知らない白のワンピース。完成体の人形のように美しい少女。それは、先程公園で出会った少女だった。
まさか、この男とこの少女に繋がりがあるとはと、驚愕に思う。目を見開く俺を無視して、男は耳をそばたてると、俺には聞こえない少女の小声に、逐一相槌を打っている。
「そうか……それが本当だとすると、確かめなければいけないが……どうしたものか」
俺を蚊帳の外に、うんうんと畝ねる男性。対する少女は、ハッとしたような表情を作ると、相も変わらず無機質な声色で言った。
「確かめれば良いんですよ――死んじゃったら申し訳ありませんが」
「――へ?」
男が間抜けな声を出すのと――少女が
そろそろ鴉天狗の方も投稿しないと(ボソ