今話には多少の性描写があります。
苦手な方はご注意ください。
夜半、時の庭園の自室。
暖かな照明に晒された椅子に腰掛け、フェイト・テスタロッサは口元を緩めながら、包帯の巻かれた両手を眺めていた。
嬉しくて仕方がなかった。
状況が許すのなら小躍りしたいぐらいの心地で、フェイトはニヤニヤと口元が笑みの形を作るのを、必死で抑えようとする。
怪我の痕を眺めながら微笑むなど、なんだかTのような変な人みたいだ。
寝ているアルフが目を覚ませば見られてしまうのだ、そうなったら、なんというか、困る。
なのでフェイトは全力で笑みを抑えようとするも、努力も虚しく笑みは消えない。
それもこれも、Tの所為である。
ずるいなぁ、と満面の笑みを浮かべながら、フェイトはTと母の事を想った。
フェイトと母プレシアの間は、かつて冷えきっていた。
フェイトの曖昧な記憶では、幼少期の母はとても優しかった憶えがあるのだが、プレシアがフェイトを長年の病気から救い上げた頃から、次第に2人は疎遠になっていく。
フェイトはできる限り母との距離を埋めようとし、悪いところを治そうと必死になったが、それでもプレシアはフェイトと触れ合う時間を減らしていった。
世話は全てプレシアの使い魔、リニスが行った。
故にプレシアとの接点は限りなく減っていき、またフェイトから会いに行くのも研究に尽力するプレシアの邪魔になるだろう事から憚られた。
フェイトが魔導師として一人前になってからは、低級ロストロギアを集めに行かされる事があったが、その時の会話も必要最低限でしかなかったのだ。
それが、Tを攫った時から全てが変わった。
プレシアは、少しづつではあるものの、フェイトに優しくするようになる。
かつての仲と遜色ない程と言えば嘘になるが、それでもプレシアとの仲はTを攫う前とは雲泥の差にまで修復されたようにフェイトには思えた。
プレシアは、フェイトの事を撫でてくれるようになった。
抱き寄せて暖かな体温を交換する事もあったし、フェイトがTと協力して作った料理を食べてくれもした。
その度に、何をしても褒めてくれなかったプレシアが、フェイトを褒めてくれるようになった。
暖かかった。
フェイトは涙がでるほどのうれしさに、体を震わせる。
体の芯から熱くなり、感動がフェイトの全身を支配した。
長い間の夢が叶い、フェイトは嬉しくてたまらなかった。
ただ一つ難点があったとすれば、プレシアはフェイト以上にTの事を溺愛していたのだった。
プレシアは多くの場合、フェイトよりもTの事をよく褒めた。
接触もTとの方が多く、明らかにプレシアはフェイトに与える以上の愛情をTへと注いでいた。
自然、フェイトはTへ嫉妬の念を抱くようになる。
対抗心を燃やしフェイトはジュエルシードを集めてこようと躍起になるものの、ジュエルシードは中々見つからない。
焦るフェイトだが、結果は中々伴わなかった。
ついに落ち込んだフェイトは、ジュエルシード以外の方法でも母の機嫌を取るべきだと思い、自分の次に母をよく知るだろうTの元を訪れた。
Tは、フェイトの知らない母をよく知っていた。
勿論フェイトが知っていてTが知らない母の姿もあったけれど、それ以上にTが知っていてフェイトが知らない母の姿の方が多かった。
フェイトは、自分が一番プレシアを愛しているという自信を持っていた。
それを何気なく語るTの言葉で粉砕され、フェイトは底なしに落ち込んだ。
Tは、そんなフェイトを慰めようとしてくれた。
気まぐれで妙な価値観を持つTだが、その優しさだけは本物であるようにフェイトには思えた。
ばかりか、Tはなんでもない事をするように自然に、フェイトに友達になろうと言ってのけたのだ。
フェイトは、友達というものがどんな物か知らぬままに、Tと友達になった。
無論友達という言葉の持つ意味ぐらいは知っていたが、それがどれほどの価値を持つ物か自覚しないままに、Tと友達になったのだ。
Tは言った。
“握手が必要になった時は、ぼくの名前を呼ぶといいよ。そうすれば、心の中に今の握手が浮かんでくる筈だ。不安な時とかに使うといいんじゃないかな”
その時はフェイトはそうなのかと思い、自分を想ってくれたTに感謝しながらその言葉を受け取った。
そしてフェイトはその翌日、温泉旅館近くで見つけたジュエルシードを封印した後、早速その言葉を使う場面に遭った。
同じジュエルシードの探索者、白い魔導師と遭遇したのである。
同じものを求めるのであれば決裂は必須、ならばその後にあるのは戦闘だ。
フェイトは戦いが好きではないし、他者を傷つける事だって好きではない。
だから不安に心を飲み込まれそうになって、その時フェイトは目をつむり、Tの名を呟いた。
嘘かと思うほど、心が落ち着いた。
心に無限の勇気が湧いてきて、今ならなんでもできるというぐらいの全能感がフェイトを支配する。
まるで、Tがすぐ後ろに居て支えてくれているような感覚であった。
その後白い魔導師がTの友達だったと知り、フェイトは困惑したものの、手心を加えずに白い魔導師を倒した。
本当にTの友達だかなんて分からないし、例えそうだとしてもジュエルシードを渡すわけにはいかない。
そうやって魔導師を倒し、母に報告した後Tに白い魔導師の事を聞いたけれど、フェイトが白い魔導師の名前を聞き忘れていた為、話は全く進展しなかった。
「まぁ、例えなのちゃんだったとしても」
とTは言う。
「だったとしてもだ。とりあえずぼくは、フェイトちゃんが必死でジュエルシードを集めなくちゃならない事を知っている。プレシアさんも、少なくとも“今は”ジュエルシードを変な事に使おうとはしていないっぽい。対し、ぼくはなのちゃんがジュエルシードを集める理由を知らない。いや、あの娘は正義感の強い娘だから、悪い事じゃあないとは思うけどさ。だから、とりあえずなのちゃんらしき魔導師に怪我をさせないでくれるならいいや」
そう言ってのけるTの顔は、白い魔導師を心配しているのか、はたまたまたよく分からない理由でそうなっているのか、なんだか渋い顔をしていた。
なのでフェイトは、自分がやられたようにTの頭を撫でてやる事にする。
友達の素晴らしさを知ったからこそTがなのはを心配する気持ちも分かり、そしてその上で自分の事をそれ以上に想ってくれる事が、凄まじく嬉しかったのだ。
するとTはなんでか黙って撫でられ続けるので、フェイトは止め時を見つけられず、アルフが止めに入るまで延々とTの頭を撫で続けるのであった。
そして更に数日後、今日のつい先程まで、ジュエルシードを見つけたフェイトは再び白い魔導師なのはと争った。
なのはは、有無をいわさずフェイトに先制攻撃を仕掛けてきた。
なのはは非魔導師だが身体能力の高い人間を連れ、使い魔に彼を強化させて戦った。
ばかりか、なのはは驚くほどの成長を見せており、フェイトとほぼ互角に戦ってみせたのだ。
アルフの方もかなり苦戦していたようで、負けが見えた粘り戦に過ぎなかったのだと言う。
そんな折、ジュエルシードが暴走しかけた。
なのはとの戦闘で魔力を消耗していたフェイトには封印に不安があったが、それでもTの名を呟くと驚くほどに心が落ち着き、全身全霊を持ってして、掌の怪我を代償にジュエルシードを封印できた。
その後、暴走の余波で吹っ飛んだなのはが戻ってくる前に、フェイト達はその場から退散するのであった。
プレシアは、驚くほどフェイトの事を心配してくれた。
Tと共にフェイトの手に薬を塗り、包帯を巻き、回復魔法を使ってみせてくれたのだ。
愛されている事を心から確信でき、フェイトは大怪我をしたというのに感動の涙を隠せなかった。
その光景を見て、未だプレシアとTに疑念を持っていたアルフでさえも、ほろりと涙をこぼしてしまった。
それからずっと、フェイトはこの調子である。
包帯を見てはニヤニヤとし、時には身悶えしてから掌の痛みに動きを止め小さく痙攣する。
まるでTのようにお馬鹿な行動だと思いながらも、フェイトはその一連の行動をやめる事はできなかった。
そうだ、とふとフェイトは思いついた。
フェイトはTに色んな物を貰ってばかりで、少しも彼に何かを返せていない。
何か少しでも、彼に返せる物は無いだろうか。
そう思ってフェイトはTの言葉を回想し、彼が生き物を観察するのが好きだと言っていた事を思い出す。
アルフは寝ているし、母はこの所体調が悪い上にそもそもこんな些事に動かすのに遠慮があった。
だが、自分ならTの部屋に居て好きなだけ観察されて構わない。
そう思い立ったが早いか、フェイトはそっとベッドを抜け出し、Tの部屋へと歩き出した。
そして歩き出してから、フェイトはもしTが既に眠っていたらどうしよう、と不安に陥る事になる。
そうなればフェイトはただの愚か者だが、そもこんな時間でもなければプレシアは多くの時間をTと過ごしており、フェイトが行く意味が無くなってしまう。
こうなれば運を天に任せる他無いと考え、せめてもしTが寝ていたならば起こさないよう、フェイトは足音を消してゆっくりとTの部屋へと向かった。
Tの部屋のドアは、少しだけ開いていた。
中から光が漏れており、それと共にパンパンと言う何かを叩くような音がする。
フェイトは少しばかり思案し、Tが自分の額を手で叩いている所を想像した。
意味不明な光景だが、Tならばありえるかもしれない。
そんな風に思いながら、フェイトはそっとTの部屋を覗いた。
全裸のプレシアが、全裸のTに跨っていた。
「……え?」
消え入りそうな小声で、フェイトは呟いた。
プレシアは獣のような嬌声をあげながら、Tに跨り体を上下させていた。
肉と肉がぶつかり合い、パンパンと音を響かせている。
プレシアの表情は見えず、辛うじて見えるTの表情は、なんだかぼうっとして虚ろであった。
何をやっているのか、フェイトには分からなかった。
分からないが、分からないなりに何か恐ろしい事なのではと、生命が持つ直感が告げている。
どうにかしなければいけない。
どうにかしなければいけないが、どうすれば何がどうなるのか、フェイトには何一つ分からなかった。
ただ、2人のしている行為がとてつもなく醜悪な物に思え、立ち尽くす事しかできなかったのだ。
暫く肉を打つ音が響いた後、プレシアがううっ、と悲鳴を上げ、それを最後に2人はベッドに横になった。
それでもフェイトが動けぬままに立ち尽くしていると、プレシアの声が聞こえてくる。
「もう寝ちゃったのね……遅い時間だもの、仕方がないか」
その声を聞いて初めて、フェイトは随分長い間自分が立ち尽くしていた事に気付いた。
凍てつくような寒さがフェイトの体を蝕み、完全に温度を失った冷や汗が顎を伝っていたのだ。
ごくり、と生唾を飲み込み、フェイトはこの場から離れようとする。
だが、正にその瞬間、プレシアが口を開いた。
「Tは本当に良い子だわ……、あの紛い物と違って」
フェイトは、思わず足を止めた。
紛い物という言葉に聞き覚えは無かったが、本能がこれ以上聞いてはいけないとフェイトに囁く。
急ぎこの場を離れようとするフェイトだが、足が床に圧着されたかのように動く事ができない。
どころかフェイトは、緊張の余り声一つあげる事ができなかった。
そんなフェイトを尻目に、プレシアが続ける。
「フェイト……あのアリシアの成り損ないの欠陥品。私があの娘に優しくするのも、貴方に醜い所を見られたくないからなのよ? 分かっているのかしら」
プレシアは愛おしげに、Tの頭を撫でながら言った。
その内容は電撃のように速やかにフェイトの中を駆け巡り、はっとフェイトは目を見開く。
思い出したのだ。
幾度かフェイトは、夢の中で母にアリシアと呼ばれる事があった。
今までは奇妙な言い間違いのある夢だな、と思っていたのだけれども。
成り損ない。
欠陥品。
「そう……私は、記憶転写形クローンを作ってまで、アリシアを生き返らせようとした。幸せを追い求める為に。なのにT、貴方と共に過ごすだけでこんなにも私は幸せになれる」
まるでフェイトの心の声が聞こえているかのように、プレシアはフェイトの望む答えを言った。
フェイトは、嘘だと思いつつも、記憶する全ての事柄がプレシアの言葉を裏付けている事を直感する。
体中から力が抜けていくのを、フェイトは感じた。
なのに不思議と体は硬直したままで、プレシアに何一つ悟らせないようにしたままであった。
「暫くこの幸せに浸っていたけれど、私は病でそう長くはない。アリシアだって生き返らせなければいけない。だからT、一緒に旅立ってくれるかしら?」
フェイトは、さらなる衝撃に目を見開いた。
母さんが、病でもう長くない?
フェイトはそんな事気づいていなかった。
好きでいていいのか、そもそも今本当に好きなのかすら分からないけれど、少なくとも今までのフェイトが母を世界で一番好きだと思っていたのは事実だ。
なのに、母の残る寿命にさえ気づかなかった?
「くすっ、今度は貴方が起きている時に言うわ。おやすみなさい」
瞳から光をなくすフェイトを尻目に、プレシアは優しくTに言うと、明かりを消した。
残ったのは、闇夜に蠢く絶望だけだった。
最早どこをどう通ったのかも分からず、気づけばフェイトは自室のベッドの上に戻っていた。
自分でも驚くほどの冷静さで、アルフを起こさないように横になる。
眠れなかった。
眠れる筈がなかった。
腹腔に渦巻く苦しみに耐え切れず、フェイトは何が悪かったのだろうと思う。
フェイトは苦しんでいる。
絶望に身悶えしている。
ならば何か悪い要因があった為であり、その要因を排除すべきだと思うのは当然の事だ。
そしてフェイトは、何か要因があり、それを無くせば少なくとも今までの生活が手に入ると信じた。
信じるしかなかった。
それほどにフェイトは心が弱っており、八つ当たりだと何処かで理解していても、それをせねば両足で立つ事すらままならなかったのだ。
プレシアだろうか?
いや、フェイトは今になってもまだ母を憎む事はできない。
その感情に名前をつける事はまだできていないが、少なくとも単純な憎しみではないだろう。
それに、死んだ娘を生き返らせようとする母を、フェイトは悪だとは思えなかった。
アルフだろうか?
いや違う、とフェイトは思う。
アルフは無力と無知があったが、それを悪だと断ずる事はフェイトにはできなかった。
そも、使い魔とは自分の魔力を分けて生む存在である。
言わば子に等しいアルフに対し、フェイトは悪のレッテルを貼ったり憎しみを抱いたりはできなかった。
白い魔導師なのはだろうか?
いや、それも単に敵対している相手を挙げただけで、なんの関連性も無い。
ならば、とフェイトは思う。
最初から自分の中でくすぶりつづけていた、本来なら第一候補となるべき人の名前をあげる。
T。
Tさえ居なければ、プレシアはフェイトに秘密を漏らすような事は無かった。
少なくとも、プレシアがフェイトに偽りの愛情を見せ、フェイトがその裏切りに心痛める事は無かったのだ。
友達だなんて言いながら、フェイトが誰よりも欲しがっていたプレシアからの愛情を、何の努力もせずに奪っていったT。
なのは相手に返さないと宣言するほどフェイトが恋しがっているのに、結局フェイトを傷つける結果しか運ぶことのできなかったT。
「憎い……」
呟き、フェイトは両目から涙滴を零した。
シーツに染みができ、ゆっくりと広がってゆく。
「憎い、憎いよ……」
フェイトは、シーツを握りしめながら呟く。
それが見当違いの八つ当たりだと、フェイトは何処かで悟っていた。
それでもフェイトは、誰かを憎まねばならなかった。
生きる為に、心の柱と言うべき物が必要だった。
故にフェイトは、夜闇の中、眠るアルフの横で、怨嗟の声をあげ続ける。
「Tが、憎いよ……!」
迸る憎悪が、フェイトの口から吐き出されていく。
結局フェイトはその夜眠る事ができず、アルフに覚醒の兆しが出るまで永遠とTへの憎悪を吐き出し続けるのであった。