クロノ・ハラオウンは正義の味方を目指していた。
原初の思いは、母が泣き崩れた時の記憶になる。
クロノが3歳の時、父クライド・ハラオウンは死んだ。
闇の書と呼ばれるロスロトギアの暴走に対抗するため、一人侵食された艦に残り、アルカンシェルで蒸発した。
クロノの母リンディは、クライドの最後を見た時こそ涙を零したものの、葬式を境にクロノに涙を見せなくなる。
それでも表情からは悲しさが抜けきれず、リンディの笑みは誰が見ても影のある笑顔に見えた。
ぼくがおかあさんをたすけなくちゃ。
幼少のクロノはそう信じ、自分がクライドの代わりになれば母が悲しまなくとも済むのではないかと考えた。
リンディは、クライドが正義の味方なのだと言っていた。
ならば、自分は正義の味方になるのだ――。
そう考え、クロノは魔法の訓練を開始した。
思いは時間をかけ、ゆっくりとその源泉を変えてゆく。
とてつもなくハードな訓練を経て士官学校に入り、局員として働くうちに、徐々にクロノは守りたい対象を変えていった。
最初は母だけだったそれは、親友エイミィを含むようになり、悪友ヴェロッサを含むようになり、師匠のリーゼ姉妹を含むようになり、最後には理不尽な目に遭うすべての人々へ変わっていったのだ。
ただ、それでも正義の味方になりたい、という原初の思いだけは変わらなかった。
しかし同時、その道の待ち構える苦難をもクロノは知る事になる。
局員として、執務官として働くに連れ、クロノは悪の定義の難しさを肌で実感するようになった。
所詮善悪など相対的な物でしかない。
どの悪にも悪なりの事情があり、どの正義にも救いきれない人が居た。
自分を正義と信じて犯罪を犯す人々が居た。
人の命を救うために犯罪を犯す人々が居た。
それらの事件を経て、クロノは正義は感情ではなく法によって定められるべきだと考えるようになる。
感情で悪を決めつけていては、管理局は共通の悪を設定できずに瓦解し、結局多くの理不尽を次元世界に振りまく事になってしまうだろう。
故にクロノは、感情を抑え法に従う事を学んだ。
無論、未だに感情を抑えきる事はできず、また抑えきった冷徹な正義になる気も無かったが。
クロノには、少なからずの自負があった。
自分は絶対にではなくとも、ある程度正しい道を歩んでいるという自負があった。
何故なら、クロノの夢に向かう道には、多くの助かってくれた人々が居るからだ。
理不尽な目から救われた、沢山の人々の笑顔があるからだ。
その笑顔に背を支えられ、クロノは自分の正しさを信じ人生を歩んできた。
勿論管理局のやる事全てが正しい訳ではないし、自分のやることだってそうだろう。
反省は山ほどあるし、後悔だって背が折れそうなぐらい背負っている。
けれど、それでも自分に、管理局に正義を見て信じる人々の為に、胸を張って生きるぐらいの正しさは心のなかにある、と。
だが、それは間違いだった。
正確に言えば、一部は間違いであった。
クロノの肌で感じた次元世界の真理、悪は相対的な悪しか存在しないという考え、それが間違いだったのだ。
確信じみた思いでクロノは思う。
この世に、絶対悪は存在するのだ。
「う、あ……」
バリアジャケットとデバイスと結界を同時展開し、構えを取りながらクロノは目前のTという少年を睨みつける。
黒髪に宵闇の瞳を持つ少年は、高町なのはの言から9歳の小学生だと聞いていた。
背丈はクロノと同程度、服装はなのはの物と同じ意匠の白い小学校の制服。
そうとだけ見れば平凡なその少年は、しかし実際にその姿を見ればまるで別物であった。
怖気が走る程に怖かった。
クロノの生命本能全てが、直感霊感の全てが、生きとし生けるものとしての義務であるかのようにクロノに告げる。
目の前の少年は、悪だ。
全ての生命にとっての、邪悪なのだと。
瞳は海の底のような深い濃紺。
まるであらゆる生物の死骸を積み立てた塔に夜闇が色を差したかのような、背筋が凍りつく色だ。
全身の印象は一つ一つは平凡なパーツに過ぎないのに、全てを合わせた今、瞳を直視せずとも空間が歪んだようにすら感じられる。
狂っている。
Tという少年は、どんな生物よりも狂っている。
クロノはそういった確信をさえ得た。
映像モニタ越しにTを見ただけの筈のアースラも阿鼻叫喚の様相だと、通信先から聞こえる悲鳴が告げている。
鋼の心を持ち、何度も凶悪犯罪を防いできたクロノの戦友たちは、今まで相手にしてきた中でも小心な犯罪者すら可愛く見える程に、泣き叫んでいた。
神に最後の祈りを捧げる男が居た。
半狂乱になって絶叫を続ける女が居た。
誰かが気絶して椅子から転げ落ちる物音がした。
音から判断するに、狂気に陥り金切り声をあげながら、誰かに殴りかかる者さえ居た。
クロノは、目の前のTに心底恐怖する。
涙を零し、失禁すらした。
荒い息に、既に肩は上下している。
クロノの直感が囁いた。
目の前の少年は、魔王なのだ。
全ての生命の天敵なのだ、と。
「どうしましたか、管理局の人」
「う……おぉぉおぉっ!」
絶叫。
体に染み付いた動作が、クロノに戦闘行為を開始させる。
クロノはS2Uを向け、直射弾スティンガーレイを放った。
酷く低俗な一撃であった。
技術も糞もなくただのテレフォンパンチとして放たれたそれは、しかし水色の軌跡を残しTに激突、彼を1メートル程吹っ飛ばし、塀に当てる。
Tとの距離が離れた事に、これを繰り返せばこの恐怖から逃れられると言う希望がクロノの心に仄かに灯った。
「うわぁぁぁっ!」
絶叫と共に、クロノはスティンガーレイを放ち続ける。
誘導弾やバインドなど、思考の片隅にすら思い浮かばなかった。
持ちうる全身全霊を賭して魔法を放ち続け、恐怖から逃れる事以外の事をクロノは何一つ考えられない。
そうするうちに、S2Uの排魔力機構に限界が訪れ、連射が停止した。
クロノは肩を上下しながら魔力煙が消えるのを待つ。
次第に薄れていく煙の中、砂礫がパラパラと落ちる音を除き何一つ音は無い。
震えながらクロノが待っていると、一陣の風が煙を攫った。
明瞭になった視界では、Tは何一つ抵抗できないまま攻撃を受けたようで、塀に半ばめり込むようになっている。
瞳は閉じ、頭はうなだれたまま、服には塀の破片で切ったのだろう切り口がいくつか見えた。
当然だが、まだ生きている。
身動き一つしないTに、クロノは生唾を飲み込みながら、構えるS2Uに魔力を注ぎ込んだ。
同時、クロノはS2Uに非殺傷設定がかかっている事に気づき、それを解除する。
目の前の、存在しているだけで生きとし生けるもの全てを侮辱している存在を、この世から塵一つ残さず消し飛ばす為に。
(……はっ! クロノ、待って、それだけはっ!)
脳内に響く母の声に、クロノはほんの僅かに理性を取り戻した。
今自分が何をやっていたのか、少しだけ理解できた、正にその瞬間。
ばっ、と。
Tが突然に頭を上げ、クロノと目をあわせて言った。
「いきなりどうしたんですか、管理局の人」
「う、うわぁぁあぁっ!」
なんでこいつは死んでないんだ、非殺傷設定があるからだ、今非殺傷設定をまたかける所、何故、何故この生物を前にそんな事をしなければならない。
本能の叫びに従い、クロノは非殺傷設定を解除したまま、今自分が速射できる最大の魔法を放つ。
『ブレイズキャノン』
リンディの電子音声と共に、S2Uから水色の破滅の光線が発射。
熱量を伴いTへと直進、地面のアスファルトを融解させつつ突き進み。
「ダメぇぇぇっ!」
絶叫と共に現れた、高町なのはの桃色の防御魔法に防がれた。
恐慌したクロノが次の一撃を準備するより早く、なのはが叫ぶ。
「クロノ君、一体何やってるの!? たっちゃんなんだよ、私の友達なんだよ!? 魔法の一つも使えない子なんだよ!?」
「……え?」
なのはが立ちふさがった為、クロノの視界からTが消えた。
同時、スポンジが水を吸うように、凄まじい速度でクロノの脳裏に理性が戻ってくる。
クロノのした事は、魔法の使えない一般人に精神崩壊級の魔力ダメージを与え、そのうえ物理設定の魔法でその一般人を消し炭にしようとした事だった。
理解が及ぶに連れ、クロノは顔を青ざめさせ、S2Uを取り落とす。
頭の中が真っ白になり、全身を身震いさせた。
「確かに……さっきのたっちゃんは、物凄く怖かった。私だって、たっちゃんがぼこぼこにされているのを見ても、一歩も動けなかったもん。でも、だからって……だからってっ!」
涙をすら零しながら、なのはは叫ぶ。
その光景に、クロノは自身が一体どんな事をしてしまったのかを理解した。
しかし同時、未だに燻る本能の炎が、この少女を倒してでもTを殺すべきだと叫ぶ。
震える両手がS2Uへと伸びようとするのを、クロノは鋼の精神力で留めた。
口内を噛み切った痛みでどうにか本能を下し理性で縛り付け、口を開く。
「すまない、そしてありがとう、高町なのは。どうにか、ぼくは理性を取り戻せたよ」
「……あ」
すると緊張の糸が途切れたのだろう、なのはは膝の力を無くし、ぺたんとその場に座り込んだ。
自然、背後のTの姿が目に見えるようになったが、幸いクロノが彼を殺そうとする衝動は湧き上がらない。
Tは目を丸くしてなのはを見ており、今となってはその姿は普通の少年のようにしか見えなかった。
何を言えばいいのか、状況が特殊過ぎて咄嗟に思いつかないクロノを尻目に、Tが口を開く。
「すいません、なんだかとてつもなく眠いので寝ます」
言って、Tはかくりと項垂れた。
いや、それは気絶だろう、と内心で律儀にツッコミを入れつつ、クロノは急ぎTに近づき、彼が生存している事を確認する。
安堵の溜息をもらし、クロノはS2Uを拾ってアースラへと通信を開いた。
誰も通信をサポートする人が居ないのだろう、通信画面には誰もおらず、故に艦内の光景が見える。
ただ一人の例外を除いて誰一人席にまともに座れている人間は居らず、全員が立ち尽くすか床に倒れるなり座り込むなりしていた。
すぐに画面はただ一人の例外、クロノの母である艦長リンディの元へと移る。
「クロノ……何と言っていいのか分からないけれど、2人を連れてアースラに戻ってきて。話は全てこれからよ」
「はい、艦長」
言いつつ、クロノは思案した。
先ほどまでのTが魔王であるという確信は、未だにクロノの心に根付いている。
理性で押さえつけられることのできる程度ではあるが、目の前の少年を殺すべきではないかと言う考えは完全には消えていない。
リンディも同じ考えなのだろう、先程までのクロノの行為を完全に否定する事ができないでいた。
状況はあまりにも特殊過ぎた。
一体この世の誰が、何の力も持たない一人の少年が魔王に見える状況など想定するのだろうか。
Tは本当にただの一般人なのか?
Tは本当に邪悪ではないのか?
Tを今殺さなかったのは、本当に正しい事だったのか?
様々な思考を巡らせつつ、クロノは小さな溜息をつき、2人をアースラに収容させにかかるのであった。
別にクロノアンチにしたかった訳でもないのですが、必要性からこんな形になりました。
クロノには別に見せ場みたいなものもあるので、それで帳消しにできるかなぁ、と。
あと、ストックが切れました。
これから今日頑張って書くつもりなので毎日更新が途切れるかは分からないですが、そうなる可能性もあります、とだけ。