「いやぁぁぁっ!?」
なのちゃんの絶叫をBGMに、ぼくは内心溜息をつく。
ぼくの四肢は、まるでねずみに食べられている最中のように痛かった。
ぼくは視界が真っ赤になるのを感じ、しかもそれがプレシアさんが闘牛士として振るマントに似ているような気がして、そしてよく考えるとフェイトちゃんのマントも赤かったのだ。
するとなんだかこの痛みが見せる幻覚も、ぼくとプレシアさんとフェイトちゃんの絆のように思えて、ぼくはなんだかこの痛みに恋しさを感じるようになる。
けれど痛みはやっぱり痛みなので、視界だけ残して痛みを取り除きたいというのが本音である。
食パンから耳だけそぎ落とすような行為だと、分かっていてもだ。
なのでぼくは、目を閉じ想像した。
四肢が繋がる事を。
この痛みがその波紋だけ残して、その石本体は消えさってくれる事を。
ついでに、スポーツカーみたいに格好いい蜘蛛を。
何故かぼくにはそれができるという確信があった。
妄想が、夢幻が、この世に現れるという瞬間が存在するという確信があった。
まるでりんごが木から落ちるような確信であった。
ぼく自身なんでそんな確信があるのか全く分からなかったけれど、兎に角確信はそこにあったのだ。
なので、ぼくは薄っすらと微笑んだ。
一人で雑誌を眺めている時のあの“ニヤニヤ”ではなく、女の子を眺めている時のあの“ニヤニヤ”でもなく、また別の何か、ぼく自身にも得体のしれない微笑みだった。
「くっ、Tっ!」
「いや、まだ来なくていいよ」
崩れ落ちるなのちゃんを尻目に、クロノさんが叫び、近寄ろうとしてくる。
それを言葉で制して、ぼくは目を開いた。
直後、ぼくの四肢が宙に浮く。
まるでミニ四駆の逆みたいにくるくると回って、四肢はぼくの焼け焦げた四肢の先に停止した。
乙女な顔のプレシアさんを除き、全員が硬直してぼくを眺めている。
なのでぼくは、ステージに現れるマジシャンのような気持ちでにっこりと微笑んだ。
これで紳士的な礼ができれば言いっこなしなのだが、ぼくは残念ながら平な床と仲良しになっていて、それはできなかった。
にょきっとぼくの骨が伸びる。
焦げた肉を突き破り、伸びたぼくの骨はそのペンキで塗ったみたいに真っ白な姿を見せつつ、四肢へ向かって伸びていった。
そしてついに骨は四肢に到達し、ドッキングされる。
「うぃーん、がっしょん!」
効果音が無かったので、ぼくは口に出して言った。
すると骨の真ん中ぐらいに新しく関節ができて、ぼくは四肢をぐりんぐりんと回してから、獣のように四足を床について体を持ち上げる。
四本足の蜘蛛のような姿で、想像に似たぼくになったので、ぼくは大変満足だった。
もちろん不満がないと言えば嘘になるけれど、ぼくは四肢がとても長くなったので、とても満足している。
ぼくはにっこりと笑った。
多分、カッターナイフで切り抜いたみたいな笑みだったと思う。
「あぁ……T、本当に痺れるわ……!」
「えへへ、照れるなぁ」
プレシアさんが言うのに、ぼくはぽりぽりと頭をかいて答えた。
神経は繋がっていなかったが、ぼくは四肢の先を指先まで器用に動かす事ができたのだ。
その事にぼくはちょびっとだけ自慢気になりつつ、なのちゃんらの方に振り向いた。
ぼくは会心の笑みを浮かべつつ、ニヒルに言ってみせる。
「どう? 格好いいでしょ?」
「…………」
ところが反応は一切無く、全員が口を開けたままポカーンとぼくを見ているだけだった。
ぼくは肩透かしをくらったような気分になり、なんとも言えない顔を作ると、すぐにプレシアさんに視線を戻す。
するとプレシアさんが心奪われた顔でぼくを見ているので、ぼくは少しの満足感を得た。
「それじゃあ、ちょっと邪魔だから」
と言って、ぼくは目を閉じる。
相変わらずジュエルシードは次元震を起こしており、地面がグラグラ揺れて、ぼくはちょっと気分が悪いのだ。
なのでこれをどうにかしなければならないけれど、先ほどから続いている確信が折れストローみたいに続いており、ぼくはそれもどうにかできると直感していた。
目を見開く。
ぼくを中心に、薄桃色の結界が伸びてゆき、世界を包んだ。
「次元震が……」
「……止んだ?」
仲良く言うクロノさんとユーノくんが言う通り、ぼくの行いにより、次元震は止んだ。
多分、ぼくが今何となくで使った結界っぽいものが原因なのだろう。
ぼくは、この結界は何処まで広がっていったのだろう、と思った。
時の庭園の全域だろうか。
アースラまで含むのだろうか。
それとも次元世界一つ分だろうか。
それとも、全ての次元世界にまで広がっていったのだろうか。
ぼくは何処までも広がっていく薄桃色の結界の事を思った。
結界の薄桃色は、内臓の色に似ているな、とぼくは思う。
ならば今この結界の内側は、ぼくのお腹の中も同然なのかもしれない。
とすれば、ぼくが横になったりすれば、この辺りの重力だって横になってしまうのだ。
ぼくはうかつに寝返りをうたない事を誓い、プレシアさんに意識を戻す。
「…………っ!」
プレシアさんは、杖を両手で掴んで体重を預け、やや前のめりになった格好で俯いていた。
怪我でもしたのかなぁ、と首を傾げるぼくに、ぱっとプレシアさんが面を上げる。
プレシアさんは、涙をこぼしていた。
宝石にするには滝みたいな涙で、お陰でぼくは宝石箱を持っていない事を後悔せずに済んだ。
なのでとっても幸せ。
「T、貴方は、貴方は……」
まるでこの部屋に存在する空気全てを吸い込むような、大きな吸気。
それを成した上で一拍、プレシアさんはライトアップされたみたいに感激しながら叫んだ。
「私の神だったのね……!」
花畑みたいな綺麗な言葉で、その言葉はぼくの胸に植物の種子みたいにして打ち込まれた。
普通ならそれを素直に受け取り、愛情を込めて育てる物だろう。
けれどぼくの中には小さな戸惑いがあり、ぼくは種子を土に埋める事すらなく噛み砕いてしまう他ない。
「違いますよ、プレシアさん」
「それでも貴方は……呆れるほどに美しい……」
ふらふらと、プレシアさんは濁流のように涙を零しながら、ぼくへと近づいてくる。
プレシアさんの涙は、まるでプレシアさんの全てを吐き出しているかのようだった。
涙は顎から落ちたり服を伝ったりして床を濡らし、プレシアさんの歩いてきた軌道が分かってしまうほどになっている。
プレシアさんは、ゆっくりと痩せ細り始めていた。
涙は次第に水分が足りなくなってきたのだろう、血が混じるようになってきて、血涙と化してくる。
それでもプレシアさんは歩みを止めない。
けれどこのままだとぼくはプレシアさんの手が届かない高さに居る為、ぼくはゆっくりと四肢を曲げて、狼みたいに体を床に横たえ、四肢を折りたたんだ。
プレシアさんはそんなぼくの元へとたどり着き、膝を屈め、ぼくの頭を撫でる。
撫でられながら、ぼくはその撫で方がとても奇妙で、ちょっと首を傾げてしまう。
髪の毛を撫でる手つきと言うよりも、蜘蛛のお腹を撫でるような手つきだった。
「母……さん……」
と、そこでフェイトちゃんの声。
振り向くと、再び意識を取り戻した様子のフェイトちゃんが、アルフさんに肩を借りながらこちらへ向かってくる。
その顔はまるで爆竹を食べたような顔で、要するにショック療法を試したような感じなのだが、さっきからの光景の何処にショックがあったのだろうか。
首を傾げるぼくを尻目に、フェイトちゃんが続ける。
「お願いです、話を聞いて……」
「T……、私は、幸せだったわ……」
ぼくは一瞬悩んだが、明らかに残り少ない命を振り絞っているプレシアさんの方に視線をやった。
プレシアさんの両目と開かれた口は、まるで真っ黒な闇のようだった。
墨で塗りつぶしたみたいに真っ黒で、ぼくはムンクの“叫び”みたいなぐにょぐにょした感じをそこに感じ取る。
一体誰が叫んだのだろうか。
ぼくではない事は確かだけれど。
「返事を……一言でいいから……」
「貴方に会えて、アリシアに会えて……」
プレシアさんは、ついに耳や鼻や髪の毛の穴から血をこぼし始めた。
それでもぼくを撫でる手を止めず、ぼくは髪の毛に血が付いてバリバリになってしまうそうだけれど、整髪料代わりになっていいかな、と思う事にする。
血で髪を逆立たせるのも、まるで蝋人形みたいで楽しそうだった。
「母さ……」
「私は、例えどんなに幸せと呼べる人生とだって、今の私の人生と交換したくない。そう思えるぐらいに、今幸せなの」
ぼくは内心首を傾げる。
ぼくはハッキリ言って、誰かと人生を交換したいとは思わなかった。
もうちょっと運が良かったらとか、もうちょっと美味しい物を食べたいとか、もうちょっと福耳になりたいとか、そのぐらいは思った事はあるけれど。
後はせいぜい、嫉妬される事があれば、お前らぼくの立場になってみろよ、ぐらいは思ったか、それぐらいである。
なのでプレシアさんの言葉は良く分からなかったけれど、とりあえず頷いておく。
微笑むプレシアさん。
真っ黒な両目と口が、笑みの形を作った。
「私は、貴方を愛していたわ」
「ぼくも、貴方を愛していました」
プレシアさんは、直後口から血塊を吐き出し、崩れ落ちる。
ぼくは慌てて伸びた四肢でそれを支え、直後フェイトちゃんが飛び込んできてプレシアさんを支えた。
プレシアさんはTシャツよりも真っ白な顔をしていて、ぼくは伸びた四肢が意外に使いづらい事を感じつつ、プレシアさんの脈を計る。
脈は恐ろしく弱かった。
「母さん……母さんっ!」
泣き叫ぶフェイトちゃんを尻目に、プレシアさんはぼくに視線をやり、僅かに微笑みを残す。
それがプレシアさんの最後だった。
直後、首の力を失い、プレシアさんはだらりと頭を蜘蛛の糸のように垂らす。
慌ててフェイトちゃんが支えるも、もう遅いとぼくは直感していた。
「母さん、母さん、母さんっ!」
フェイトちゃんが泣き叫び続ける。
その声はやまびこみたいにわんわんと部屋の中に響き続けた。
聖歌隊のコーラスのように、反射してきた叫び声がフェイトちゃんの声を重なる。
その重なり方が、まるで机の上でトントンと整理した書類のように綺麗に揃っていたので、ぼくは薄っすらと微笑んだ。
多分それは、製図用シャープペンで書いたみたいな笑みだったに違いないだろう。