皆さんも体調管理には気をつけてください。
「やれやれだね」
シュー、という心細い排気音。
肩を竦めながらシルクハットのように気取った台詞を吐き、僕はポケットから取り出した殺菌作用のある制汗スプレーの噴出ボタンを押し続ける。
ぼくはすぐに自分とフェイトちゃんにスプレーしたので、今スプレーをしている相手はデパートの屋上に居た5人が相手であった。
ぽかーんとした顔のまま、ぼくは目前の青年の全身にスプレーを吹き付ける作業を続ける。
そんなぼくに、隣からフェイトちゃん。
「あの、T? なんだかいきなりだったから、何も言わずにされるがままだったけど。なんでTはスプレーをしているの?」
「何を言っているのさ。あんなにカビが繁殖した直後なんだよ? 殺菌しないとまずいじゃあないか」
言いつつ、何故か頭を抱えだしたフェイトちゃんを尻目に、ぼくは黙々とスプレーを吹き付け続ける。
作業はまるで、ライン工の熟練の作業のようだった。
なんだか夢でも見ているんじゃあないかって顔の5人が、次々に入れ替わり立ち代りにぼくの目前に来て、制汗スプレーを浴びてゆく。
その作業は単純明快でありながらも、全身をできる限り余す所なくスプレーせねばならず、しかも全員分にスプレーの分量が間に合うよう調整もなさねばならないのだ。
ぼくはまるで熟練の職人になったふうな気分で、スプレーのボタンを押し続けた。
顎に手をやり、“考える人”みたいに腰をかがめて相手の全身を見つめるぼくは、きっと彼らの目には硬く慇懃な少年と見られていただろう。
口を開いてその誤解を解いてもいいのだが、なんだかそんな風に見られる事自体が新鮮で、ぼくは少しいい気分になって作業を続けた。
作業の合間、フェイトちゃんは迷った末に彼ら5人と話す事に決めたようであった。
それを横で聞きながら、ぼくはひたすらスプレーに没頭する振りをして、内心では5人の人間の分析に力を入れる事にする。
まずは、母子連れの2人。
テイロスというなんだか薄っぺらい名前の人が母親で、印象もまた薄っぺらい人だった。
年齢は30代前半か。
化粧も薄く気配も薄く、ついでに言えばなんだか厚みの薄そうな体をしていた。
勿論実際に厚みが無かった訳ではなく、人並みに体の厚みという物があるのだけれども、なんだかぼくにはそんな気がしたのだ。
例えば普通の人間の四肢は正円柱に近い形をしているが、彼女の場合楕円柱に近いと言えば分かるだろうか。
奇妙な肉体の女性に、しかしフェイトちゃんはあまり違和感を持っていないらしく、親子仲の事を聞いていた。
聞く限り親子仲は良好なようだが、それに対して息子は寡黙であった。
息子はロティスという名前の、なんだか切れかかった街灯みたいに不安そうな子だった。
年齢はぼくやフェイトちゃんと同じぐらい、つるっとしたワックスがけされてそうな髪の毛に、俯いたままの顔など、とても大人しそうな子である。
内弁慶なのかそれとも頭の回転が遅いのか、とても口数の少ない子だ。
そんな彼の中で最も目立つのは、膝にぷっくりできた水泡だ。
つついたら彼の中身が全部飛び出しちゃうんじゃあないかと思って、ぼくは人間の中身が全て流れ出るのを見てみたかったので、水泡をつつきたくてしょうがなかった。
けれどぼくは必死に自制し、スプレーを吹きかけるのを先に終える事にする。
何せ彼は2人めにスプレーした相手なのだ、まだ残りが3人も居るのに放り出すのは、歯に唾液で固まったクッキーがくっついているようで、とても気分が悪い。
パン屋の青年は、カティエという名前だった。
印象といえば、兎に角丸い人であった。
ふっくらと焼き上げたパンのように全身がとても丸みを帯びており、ぼくはこの人が狭いキッチンの中を動きまわるのを想像したが、どうしても風船が無理やり押されて形を変えられているような光景しか想像できない。
何時か彼が割れる日は来るのだろうか。
子供の時夢想した、子供の肉の風のように。
そう考え、ぼくはその光景を想像したけれども、大人の中身なので聖なる物では無く、その辺の焼いていないハンバーグを振り回すような光景にしかならなかった。
なのでぼくは溜息をつき、彼にはスプレーをするだけで留める事にする。
パン屋の前に座っていた青年はイムトと言い、なんと管理局の局員で、災害救助に関わっているのだそうだ。
パン屋のカティエとは知り合いらしく、今日は湧いて出てきた非番で用事も思いつかず、パン屋を冷やかしに着たのだとか。
そうなんだかガラの悪そうな口調で言う彼は、こう言っては誤解を生じるだろうが、匂いのしそうな男であった。
別に臭い訳じゃあないのだが、なんというか、してもいないのに香水の香りのしそうな感じ。
フェロモンむんむんというか、大きく胸元を開けた女性の男性版というか。
そんな彼に、しかしぼくは勃起できなかった。
性の壁は厚いようである。
ぼくは自分の性癖が一般的な事に安堵すべきなのか、それとも性愛を授ける対象が二分の一になった事に悲しむべきなのか、今一分からない。
なのでぼくは、独りで黙祷する事にした。
局員のイムトさんのスプレーが終わると、ぼくは10秒ほど両手を合わせ、目を閉じたのであった。
ぼくのもしかしたら男性に向けられたかもしれない性愛に向けて、黙祷した。
形のない物への黙祷は、きっと神に祈る姿に似ていただろう。
そして最後には、くたびれたスーツ姿の中年、レキという名前の人であった。
最初にぼくが彼に対して思ったのは、中身が無さそうな人間だなぁ、という事だ。
まるで人間大の風船に息を吹き込んだみたいで、もしかしたら彼の腕を切断してみれば、その中身は空気しか無いのかもしれない。
すると彼は恐らく、中身の空気を全て吐き出してしまい、ペラペラの彼になるのだろう。
そう思うと、ぼくは俄然彼の事を知りたいと思った。
何せ、彼の腕を切断するにはリスクが大きい。
もし空気を想像して切り裂いて、中身が普通の肉や骨だったら、ぼくはがっかりするどころではないだろう。
それ程にぼくは空気人間を切る事に執着していた。
空気ケーキを切るアリサちゃんや、空気ナイフを持つアルフさんが今ここに居れば、比較した上ですぐさまレキさんを切れたのだけれども、残念ながら2人とは結構な間会っていない。
自然、細部の記憶は曖昧になっており、ぼくは中年レキを切断する事を保留せざるを得なかった。
とまぁ、これにぼくとフェイトちゃんを加えて7人。
それが夏休みの平日の午前中に、デパートの屋上に居る人数だった。
少ないような気がするけれども、この炎天下でデパートの屋上に子供を連れてくる大人が少ないのかもしれない。
まぁ、何にせよ、とぼくは丁度切れてしまったスプレーをゴミ箱に向かって投げた。
スプレーが空中を回転しながらゴミ箱に向かうのを尻目に、ぼくは屋上の中央に集まった7人に向い言う。
「さて、ここに集まってもらったのは、他の何でもない用事があるからです。それは……」
ガコン。
カラカラカラ、と屋上の床に何かが転がる音。
「それは、犯人は……」
「T、スプレーが外れて落ちちゃったよ?」
「…………」
ぼくは無言でゴミ箱に向かって歩いた。
途中にあるスプレーの空き缶を回収、ゴミ箱に向かって中に放り込む。
無言でぼくは寸前までの立ち位置に帰還、ごほんと咳払いをし再び口を開いた。
「犯人は、この中に居る!」
「いや、何の犯人だよ……」
「さっきのは集団幻覚だったのかなぁ……」
局員イムトとパン屋カティエが五月蝿いが、兎も角ぼくの言いたい事とは、そういう事だ。
まずは、とぼくは自動ドア殺人事件について簡潔に告げる。
割られた自動ドア、割られる前に取られたと思わしき自動ドアの心臓、その場から消えた自動ドアの心臓。
全てを話し終え、ぼくが口を開こうとする、その寸前。
「あぁ、そういえば犯人が居るかもってこのデパートに来たんだっけ」
「…………まぁ、そうだね」
思わずジト目になってフェイトちゃんを見つめるが、この娘、何も分かっていないようだった。
集団生活に馴染めて居ないからか、なんとも空気の読めない子である。
こりゃあ小学校にでも通うようになったら死ぬほど苦労するだろうな、とぼくは思った。
それが本当に、数カ月後にフェイトちゃんが小学校に通うようになり、その時フェイトちゃんの空気の読めなさが僕限定であった事を知る事になるのだが、それは蛇足という物であろう。
兎も角、ぼくはこのデパートに至った経緯を説明。
「……という訳です。って、なんだか皆さん頭を抱えていますけど、日陰にでも移動します?」
「T、これは多分太陽の光がどうこうって話じゃあないと思うんだけど……」
「え? つまり?」
視線を外すフェイトちゃん。
ぼくはその先に何があるのか見てみたが、レンガ状の床材しか見えない。
気になって歩いて行って踏みしめてみたが、普通の床でしかなかった。
フェイトちゃんも奇行をするものだ、とぼくは首を傾げながら皆の前に戻り、続ける。
「犯人はこの丸い硝子板、自動ドアの心臓が欲しかったはず。そのために白い風呂敷に硝子板を運ばせた。パンに変身させたのは、風呂敷を処理する力が無く、パンを処理する力があったからだ。この中に、パンを処理できる力の持ち主が居た。その誰かは、今ぼくがやったようにパンを処理し、丸い硝子板を手に入れようとしたのだろうね。その誰かにとっては残念な事に、ぼくがこうやって硝子板を手に入れ、犯人探しまで始めた訳だけれども」
続けてぼくは、脳内で容疑者についてひと通り考える。
母子は白だ、子供にあんなに大きなパンは食べられないし、母親は影が薄く光が強く照っていないときちんと存在できなさそうだ。
母は一見いけそうだが、あのカビの繁殖の早さから考えるに、あの場では光速が遅くなっていた。
寸前まで白い風呂敷が作っていた影がまだ残っており、そこに夏の湿度が加わりカビが増殖したのだ。
光速の遅い場所に、母は影の薄さから行けはしないだろう。
パン屋のカティエはカビたパンさえ持ち歩いていればいいが、パン屋の中のパンがどれ一つカビて居ないのを見るに、それは不可能だ。
勿論売り物のパン全部にラミネート加工すればいいので、完全な白とは言えないが。
局員のイムトだって怪しい。
イムトの職場は管理局の災害救助部隊、となれば放水はお手の物で、パンをふやけさせて水の勢いで破くぐらい楽勝だろう。
中年レキは割り箸と輪ゴムとペンライトぐらいしか持っていなかったので、犯行は不可能な筈だ。
謎の荷物過ぎて謎だけれども。
と。
そこまでぼくが思考を巡らせた所で、フェイトちゃんが口を開いた。
「兎に角、何にせよ、あのパンが落ちてきたら誰かしら怪我をしたでしょうし、それでなくとも犯人はコンビニの自動ドアを割った器物損壊の罪があります。私もTも管理局に縁があるので、すぐに局員が駆けつけるから、逃げられませんよ」
「って、馬鹿っ」
慌ててぼくがフェイトちゃんの口をふさごうとするも、最後の犯人を暴発させかねない言葉が吐かれてしまう。
視線を5人にやると、一人足りない。
雷鳴のような速度の霊感でぼくはフェイトちゃんを突き飛ばそうとするも、間に合わなかった。
するり、と地面から舞い上がる何か。
それはフェイトちゃんをグルグル巻きにして縛り上げる。
「フェイトちゃんっ!」
「動くなっ!」
甲高い声。
ぼくは伸ばした手を戻し、ゆっくりと振り向く。
叫んだのは、母子連れの子ロティス。
視界の端でフェイトちゃんを縛っているのは、紙のようにペラペラになったテイロス。
フェイトちゃんは、咄嗟に発動できたのだろうバリアジャケットがあるので気絶こそしていないものの、その場から動くのはちょっと無理そうなぐらいであった。
歯噛みするぼく。
「そうか、紙だから風にのって地面を滑って、ぼくらに気づかれずに動いてきたのか……!」
ぼくがそう漏らすのに、子供のロティスは追い詰められた表情でこわばった笑みを作っていたのであった。
Q.この話いつまで続くん?
A.多分その5まで。