「硝子板を渡せっ!」
子供の甲高い声。
辛うじてバリアジャケットの展開が間に合ったフェイトは、紙となった母子連れの母に縛られつつ、歯噛みする。
フェイトの全力を振り絞れば、この程度の拘束、力づくで抜け出すことは不可能ではない。
だが、そうなってしまえば確実に母テイロスの体は千切れて粉々になってしまうだろう。
フェイトの脳裏に、様々な煩悶が過る。
意味不明な状況に対する疑問詞。
Tの安否。
母子連れにフラッシュバックする、フェイトの母プレシアの姿。
自分を全く無視してこの世を去ったプレシア。
孤独。
手を差し伸べてくれたT。
そうだ、とフェイトは内心で頷いた。
Tはフェイトにとって必ず守らねばならない大切な人であった。
それは母の代わりを求めてという部分も幾分か含んでいるが、それを薄々悟りながらもフェイトは内心の決意を変えない。
Tを、必ず守る。
例えそれが、どんな犠牲を払う事になっても。
決意に瞳を燃やすフェイトを尻目に、Tは悔し気な表情をしながら硝子板を少年に見せる。
「わかった、今から持っていくよ。でも、それじゃあ君がフェイトを離す保証もない。だから、同時に手放さないかい?」
「え? どういう事?」
「ぼくが硝子板を投げて手放すと同時に、君がフェイトちゃんを手放すんだよ。ほら、条件は対等だろう?」
「え? え? えっと……」
「そうでもなければ、この硝子板は手放さないぞ! どうなってもしらないからなっ!」
混乱した様子の少年に畳み掛けるT。
Tが何を考えているのか察したフェイトだが、それにしてもTがどうなってもしらないなどと言うと、物凄い迫力だな、と思う。
何せやることなすことが元からどうなるのかしれない少年である、彼がその上にどうなってもしらない行動を取れば、一体どうなってしまうのやら。
フェイトがそんな風に考えているうちに、状況は動いていく。
3人の大人たちは状況を見守るばかりで、局員のイムトでさえ意味不明な状況に混乱しているうちに、フェイトを人質に取られてしまっている。
それも少年が手に入れようとしている物が硝子板とだけあって、どう反応すればいいのか決めかねている様子であった。
気持ちはわかるが、どうにか手伝って欲しいなぁ、と思いつつも、フェイトはいつでも魔法を使えるよう準備をする。
それを尻目に、交渉を取りまとめたTが、叫んだ。
「それじゃあ、せーのっ!」
と言ってTが硝子板を投げるのと同時、フェイトの拘束が解かれた。
するりと床近くを滑るテイロスを尻目に、フェイトは硝子板がまだ空中にある事を確認。
少年ロティスの手に渡るまで後2秒ほど、常人であれば何もアクションはできないが、高機動型魔導師であるフェイトであれば容易である。
目を細め、フェイトは高速移動魔法を発動。
空気を引き裂き空中の硝子板をつかみとり、目を見開く少年に向かってバインドを放つ。
呆気無く捕まった少年を尻目に、フェイトは襲いかかってくるテイロスに向かい、牽制の直射弾を放った。
「フォトンランサー!」
非殺傷設定で放たれた黄金の槍が、テイロスに激突。
一瞬の拮抗の後、フォトンランサーはテイロスを焼き切り地面に激突した。
「……え?」
疑問詞。
目を見開くフェイトだが、視界に映る光景は変わらない。
ぼう、と紙のように薄い母テイロスに火がつき、すぐさま回ってゆく。
呆然とフェイトが立ち尽くしているうちに、すぐさま紙は全て灰に。
夏の暑さを時たま和らげる、涼し気な風がその灰をさらっていった。
フェイトは、同い年ぐらいの少年の目の前で、その母親を殺してしまったのだ。
そう感じると同時、フェイトは全身から力が抜けてゆくのを感じた。
地面に危うい動きで降り立つと、膝に力が入らず、座り込んでしまう。
そんなフェイトの元に、Tがさっと近づいてきて、今にも倒れそうなフェイトを支えた。
視線をTにやろうとして、フェイトは咄嗟に動きを止める。
殺人者であるTは、果たしてどんな顔で自分を見ているのだろうか。
恐ろしい想像に身を掴まれたフェイトであったが、対しTの声色は優しさに満ちた物であった。
「大丈夫だよ、フェイトちゃん。あれは人間じゃあない。そうだろ、ロティス君」
「……う、うん」
ならば何なのか。
思わず面を上げるフェイト。
視線の先に、声色の通りににこりと笑ったTが居るのに、僅かに安堵を覚える。
やはり微笑みながら、T。
「……あれは、君のお絵かきだろう?」
は?
フェイトは疑問詞を脳内で吐き出した。
同じように、周りで見ているギャラリーも似たような声を漏らす。
しかし少年ロティスはゆっくりと頷き、肯定の意を返してきた。
それに呆然とする皆を置いて、T。
「君の膝の水ぶくれ、それは怪我じゃあないんだろう? 医者には原因不明とか言われたに違いない」
「わ、分かるの?」
期待に満ちた声を漏らすロティス。
見れば少年の半ズボンから除く膝には、大きな水ぶくれができていた。
自然皆の視線はTの元へ行き、Tは自信満々にこう答える。
「それは、君の妄想で膨れ上がった物なのさ」
「……え?」
目を丸くする少年を尻目に、Tは両手を広げ一回転。
Tシャツの裾をはためかせながら、さわやかな顔で続けた。
「君、内弁慶で、妄想の強い方だろう? それが全身を上手く流れてくれれば別に支障は無いのだけれども、体の何処かに溜まってしまうと、それは君の膝みたいに膨れてしまう事になる。そういう事さ」
「え? ……え?」
疑問詞を連呼し、明らかについてこれていない少年に、しかしTは断頭台の如き鋭い台詞を吐く。
「その妄想は、母親にデパートの屋上へ連れてきてもらえる物だった」
息を呑む少年。
Tの声を聞いて混乱し、続けて少年の反応に驚き更に混乱する面々。
「だから君は妄想の絵を描いて、それが動くよう妄想したんだ。絵は、君にとっての世界になる。ロティス君、君は君の書いた絵の神様なんだ。神様は絵を自由に動かせる。それが意識的だろうと無意識でだろうとね。だからお絵かきは君の母親になって、一緒にデパートの屋上へ来てくれた。ペラペラなのはどうしようもなかったけれどもね」
突っ込みどころのありすぎる台詞である。
しかし相対する少年の反応は真剣そのもので、フェイトはもしかしてTは本当に真実を言い当てているのかもしれない、と一瞬思った。
が、やはりTの言動が意味不明なのも確かである。
半信半疑という所で思考を捨て置き、フェイトはもはや何もできないだろう、と少年を縛るバインドを解除。
少年に近づき、その頭を撫でる。
「そっか、お母さんと仲良くしたかったんだ。そうだよね、お母さんとは誰だって何時だって、仲良くしたいよね。でも、お母さんに代わりは居ないの。分かる?」
「……うん」
「お母さんの事、大切にね?」
フェイトが笑顔を作ると、少年が黙って頷いた。
それに対し、数歩離れた所から、Tが問う。
「しかし、ロティス君。君はなんで自動ドアの心臓が欲しいなんて……」
ぱぁん、と風船が破裂したような音。
呻き声、体重が屋上の床板に乗る重い音。
全員が振り向いた先には、膝をつくパン屋のカティエと、そこに黒光りする鉄製の何かを向ける中年の男、レキが居た。
一瞬それを見て何か分からないフェイトを尻目に、叫ぶT。
「しまった、割り箸を拳銃に変えたんだっ!」
「……へ?」
フェイトの口から、二重の意味で疑問詞が漏れる。
質量兵器規制の強いミッドで拳銃を持つ難易度は高い。
その為、フェイトは未だに拳銃の実物を見たことが無く、目前のそれが本物の拳銃と結びつかなかった。
その意味での疑問詞に加え、割り箸が拳銃に変化するという意味不明の事態に、そろそろパンク寸前だったフェイトの頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
フェイトは、周りの空間が色彩を失っていくのを感じた。
これは、そもそも現実の事柄なのだろうか。
フェイトは、この日初めて本気でその疑問を持った。
確かにTは、まごうことなき真実の質感を持っている。
手をつないだ時心のなかにたゆたうあの暖かさ、信頼の光の輝かしさ、何よりフェイトの頭では到底思いつきそうにない奇行の数々。
全てがTは現実の存在なのだと教えていたし、フェイトはその点にだけは納得している。
しかし。
しかし、である。
その他の出来事は、どうにもフェイトの中で確固とした現実感を持ち得ないのだ。
自動ドアが割れるのはまだいい。
その一部が持ち去られたのもいいだろう。
だが、風呂敷がパンになるだろうか?
パンが空中でカビて消え去るだろうか?
お絵かきが人になるだろうか?
割り箸が拳銃になるだろうか?
全て、フェイトが今まで培ってきた現実に反する出来事であった。
そう、まるで、夢の中のような――。
そんなフェイトの思考を置き去りにして、現実は淡々と進んでゆく。
「硝子板を渡せ。さもなければ、この男を殺す」
冷たい声と共に、中年の男が言った。
対しTは、フェイトと局員イムトに目配せをするも、どちらもつきつけられた拳銃が青年の命を奪うより早く中年を無力化するのは不可能である。
その上、青年は一発撃たれており、腹部から漏れた血が床を色づけていた。
フェイトは視線を伏せ、せめて手近に居る少年にその光景を見せない事ぐらいしかできない。
局員の方も似たような反応だったのだろう、Tは苦みばしった顔で言う。
「分かったよ、どうやって渡せばいいんだい?」
「歩いて渡しにこい。手渡しだ」
「待てよ、それじゃあパン屋のお兄さんの命が保証できないじゃあないか。保証は大事だ。何故なら……」
「時間稼ぎはいい、さっさとしろ」
冷たい声の中年に、Tは渋顔を作り、ぶつぶつと不平を漏らしながら両手で硝子板を持ちながら歩み寄る。
いつもどおりのTに何か策でもあるのかと思うフェイトは、緊張しながらずっと見ていたが、何事も無く硝子板は中年に渡された。
あんまりのあっけの無さに、フェイトが小口を開けて驚いていると、中年はデバイス無しで飛行魔法を発動。
空へと消え去ってしまった。
局員は急ぎ青年に駆け寄り治癒魔法を発動、魔力光の残滓を漏らしながら救命活動を開始する。
然程得手ではないものの回復魔法が使えるフェイトは、駆け寄り続けて回復魔法を発動した。
黄金の魔力光と共に円形の魔法陣が広がり、銃創を直してゆく。
幸い危険な臓器は避けた傷であった為、回復は然程困難な物ではない。
落ち着いた所でフェイトが額の汗を拭い、ふと辺りを見回してみた。
「……あれ? Tが居ない?」
文字通り、Tは忽然とその姿を消していた。
さながら、先ほどフェイトが夢想したように、まるで夢の中であるかの如く。
探さねば、とフェイトが思うよりも先に、突如睡魔がフェイトを襲った。
抗い難い強烈な睡魔に、フェイトの両まぶたが、錘でもついているかのように重くなる。
ふらり、とフェイトはその場に倒れた。
不思議と、肉のような弾力ある感触がフェイトの肌を捉える。
Tならウォーターベッドのようとでも言うだろうか、と思ったが最後、フェイトの意識は闇に誘われていったのであった。