いつか天魔の黒ウサギ Another World 作:白い鴉
月光の弟、日向が訪問してから三日後、月光はスーパーの袋を両手に持ちながらアパートへの帰り道を急いでいた。赤い夕焼けの空を見ながら、月光はある事を考えていた。
月光は未だリーネをどうするか決めかねていた。いつかは別れる時が来るとは分かっているものの、具体的にどうするかは決まっていない。このまま自分のアパートに住ませておくべきか、それとも元いた場所に帰らせるべきか。ちなみにこの事はリーネにはまだ話していない。彼女自身は月光のもとにいたがっているので、決断を迫るにはまだ早いと考えているからだ。
しかし、それはただ単に問題を先延ばしにしているだけだと月光は分かっていた。今のままリーネを自分のアパートに住まわせているだけでは何の解決にもならない。何か手を打つ必要があるのに、まったく打たない。そして何の手も打たない事に驚いているのは、誰でもない月光自身だった。前の自分なら何の躊躇もなく警察にリーネの事を話し、何らかの手を打っただろうに……、と月光は笑いそうになる。
とにかくすぐに決断する必要があるな、と考えながら黙々と歩き、気が付くと月光は自分のアパートについていた。扉を開け、玄関の中に入る。
「お帰りー」
トコトコとリーネが笑顔で月光に駆け寄ってきた。にこにこしながら月光からスーパーの袋を一つ受け取り、一緒に台所まで歩く。
「今日は何?」
「ロールキャベツだ」
二人はそんな他愛ない会話をしていた。本当に他愛のない、いつも通りの会話。もしも月光がこれからのリーネの事について決断すれば、もうこんな会話もできなくなるかもしれない。自分は別にいいが、リーネは良いのだろうか? 自分と離れてまで暮らす事を彼女自身は望んでいるのだろうか? リーネにその事を尋ねようとしたが、彼女の笑顔からは月光と離れて暮らそうという感情は感じられなかった。その笑顔にあるのは、月光と一緒にいられて嬉しいという喜びだけだった。自分と離れて暮らしてリーネは幸せなのだろうか……、と月光が考えているとリーネが心配そうな顔で月光の顔を覗き込む。
「どうしたの? 月光」
「何がだ?」
「今少し、悲しそうな顔をしてたから」
「ああ?」
その言葉を聞くと、月光は相手を馬鹿にしているような笑みを浮かべた。
「はっ。俺がそんな顔をしているわけがないだろうが。とうとう目まで雑魚になったか?」
「うん、そうだね。月光だし」
「どういう意味だ?」
「そういう意味ー」
「殺すぞ」
「あはは」
いつものやり取りに、リーネは笑った。それを見て月光も思わず笑みを浮かべる。二人はまるで恋人のように、いつもの日常に満足して笑っていた。
そんな時だった。
突然玄関のベルが鳴った。月光は笑顔を消し玄関を睨み、リーネはきょとんとした顔で月光と同じ方向を見る。月光が玄関の扉を開けると、そこには一組の男女がいた。
男の方はサングラスに黒いスーツといった、テレビでよく見るSPのような姿をしている。女の方は男と同じような黒いスーツを着ており、艶やかな黒髪を腰のあたりまで伸ばしている、鋭い切れ長の目が特徴的な女性だった。その目を見て月光は目を細める。その女性の目に、自分と同じような冷たさを感じたのだ。冷たさと鋭さを兼ね備えた、まるで氷の刃のような瞳。女性は月光を見てうっすらと口元に笑みを浮かべたが、目は笑っていない。月光が女性に警戒すると、女性が言った。よく通る、美しい声だったがどこか冷たさを感じさせる声だった。
「初めまして。あなたが紅月光君ね?」
「……貴様は何者だ?」
月光が尋ねると、女性はスーツの懐から一枚の名刺を取り出し月光に差し出す。
「初めまして。私は桐山孤児院の院長、
その名刺を奪い取るように受け取り名刺を見ながら、月光は女性--------桐山に尋ねる。
「ほう。その院長が俺に何の用だ?」
「いいえ。今日はあなたに用があって来たわけではありません」
「何?」
「私が会いに来たのは、あなたと一緒に住んでいる少女、リーネ・アルトマンです」
「あ?」
何故その事を知っているのか月光は尋ねようとしたが、それよりもリーネがこの女性と顔見知りなのか気になり、背後にいるリーネにこの女性との関係は何なのか聞く。
いや、聞こうとした。
背後を見た月光の目に飛び込んできたのは、これまでに見た事がないほど怯えているリーネの姿だった。身体は震え、顔は青くなっており、まるで幽霊でも見たかのような顔だ。そして視線を桐山に戻すと、彼女は笑みを浮かべたままリーネを見つめている。その目はまるで、獲物を捕らえようとしている肉食獣のような目だった。彼女は月光が自分を見ている事に気付くと、肉食獣の笑みから表面上は柔らかく見える笑みに変えた。
月光は桐山と男をリビングに招き、お茶を出した。男の方はお茶を断ったので、桐山にだけ出した。桐山はテーブルの前に柔らかな笑みを浮かべながら正座して座り、月光は反対側に胡坐をかいて座っている。男は桐山の背後に静かに佇んでおり、リーネは月光の横に震えながら座っていた。顔は相変わらず青い。月光は目の前の桐山を鋭い瞳で見据えて言った。
「で、お前とリーネの関係は何だ?」
すると桐山は笑みを崩さないまま問いに答える。
「リーネは数日前まで私の孤児院にいたのです。しかし、この間から孤児院から消えていまして……。それからずっと捜していたんです。その子が無事で安心しました。リーネを保護していただきありがとうございます」
言葉は丁寧だが、その目に宿る冷たさと鋭さは隠してきれていない。この女は何か隠し事をしている。何の隠し事かは分からないが、面倒な事だという事だけは分かった。
「はっ。よくこいつの居場所が分かったな?」
「住民の方々からお聞きし、ようやくその子がここにいると分かったのです。目撃情報が極端に少なかったから苦労しましたが、何とかその子の居場所をつかむ事ができました」
「それで院長自ら俺に訪問か? それはご苦労な事だな」
鋭い笑みを浮かべながら桐山にそう言う。こういう会話で必要なのは主導権を握る事だ。そうしなければ一気に話の流れを相手に持っていかれてしまう。今この場では、静かに月光と桐山の主導権の奪い合いが展開されていた。
「それはもちろん、私の孤児院で子供が一人逃げ出してしまいましたから、責任者である私が謝罪に赴くのが筋というものです」
「侘びの品も無しにか?」
「申し訳ありません。急いでたものですから、お品を持ってくるのを忘れてしまいました」
「はっ。本当に詫びる気があるのか?」
「ええ、それはもちろん」
「はは」
「ふふ」
二人は笑っているが、目は笑っていない。その鋭く冷たい四つの瞳は、ただ目の前の人間を見据えている。彼らの頭の中では、次をどうするか思考が張り巡らされていた。どうすれば相手を出し抜けるか、どうすれば自分の思うようにいくか。二人は相手を見ながら高速で頭を回転させる。
先に手を打ったのは桐山だった。彼女はリーネを柔らかく見える笑みで見た。リーネは桐山に見られた瞬間、ビクン! と大きく震え月光にしがみついた。
「彼女は私の大事な子供です。血は繋がっていませんが、私の娘同然なのです。だから彼女は連れて帰らせていただきます」
「……随分とお前に恐怖しているようだが?」
怯えているリーネを見て月光は言った。しかし桐山は笑みを崩さず、
「久しぶりに会うので、緊張しているのでしょう。すぐに慣れますよ」
「…………」
月光は桐山を腕組みしながら睨み付ける。桐山は笑顔でリーネに右手を差し出す。
「さあ、帰りましょうリーネ」
「……や」
「え?」
「いや……!」
リーネは月光にしがみついた。体を震えさせながらも、桐山を睨み付けている。桐山は困ったような表情を浮かべているが、その目には冷たさが相変わらず宿っていた。
「我が儘を言ってはダメよ、リーネ」
「嫌だ! 月光と一緒にいる! 孤児院には帰らない!」
目にうっすらと涙をためながらリーネが叫ぶ。その声に桐山の背後に立っている男が動くが、桐山は手で制した。月光は桐山の目がこう語っているのを見逃さなかった。
余計な手を出すな。
「随分と嫌われているようだな。本当に緊張しているのか?」
「ええ、彼女は恥ずかしがり屋なので……」
「恥ずかしがり屋か。随分とつまらない嘘だな」
月光が桐山を馬鹿にするように笑うと、桐山の笑みが柔らかいものから鋭い笑みに変わる。その笑みを見てリーネは震えるが、月光も鋭い笑みを浮かべる。
「はっ、ようやく本性を出したな狸が」
「……ふふふ、まるで分かっていたような口ね」
「貴様のふざけた演技など天才である俺にはお見通しだ」
「そうなんだ」
二人は笑みを浮かべたままお互いを睨んでいたが、やがて月光が言った。
「俺はリーネの過去を知らない。だがこいつがここまで怯えているという事は、貴様に過去に何かされたという事だ。こいつが貴様に怯えている限り、こいつを返すわけにはいかないな」
強気に言う月光の隣では、リーネが月光の手を強く握っていた。桐山はそんな二人を見て楽しげに言った。
「返すわけにはいかない、ねぇ……。でもあなた、分かってる? 私がその気になれば、あなたを誘拐犯に仕立て上げる事もできるし、未成年略取の罪と誘拐の罪であなたを訴える事もできるのよ? そうすればあなたは確実に刑務所行きになるけど……」
桐山は本当に楽しそうに笑いながら、月光の隣で震えているリーネを見た。
「ねぇリーネ。このままだと彼は少年院に行く事になるわ。あなたのせいでね」
「……!」
その言葉にリーネは目を見開いて月光に近寄る。
「あなたが早く私のもとに帰ってきてくれればこの件は黙ってておくわ。そうすれば月光君が少年院に行く事もない。どう? 良い話だと思うわ」
「……わ、私は……」
リーネは迷っていた。今自分がここにいたいと言えば、月光は恐らく桐山の言うとおり、少年院に送られてしまうだろう。月光がどれほど抵抗しようと、この女は絶対にやる。その恐ろしさはリーネがよく知っていいた。
月光をそんな目に遭わせるわけにはいかない。ここを離れたくないが、月光を助けるためには孤児院に戻るしかない。リーネはゆっくりと立ち上がろうとした。
だが、月光の手がリーネの片手を強く握ったまま離さない。月光は桐山を睨みながら言った。
「言ったはずだ。こいつが貴様に怯えている限り、こいつを返すわけにはいかないとな」
「わ、私は大丈夫だよ月光。怯えてなんて……」
「そんな震えてる声を出している奴のどこが怯えてないんだ?」
月光の言った通り、リーネの声は震えていた。いや、声だけでなく手も震えていた。目の前の女性に対する恐怖で。月光はリーネの手を強く握ったまま、桐山を鋭く睨み付ける。
「あなた、分かっているの? 私がその気になればあなたは……」
「勝手にほざいていろ。リーネは返さん。俺も捕まらない。雑魚はさっさと雑魚の巣に戻れ」
二人はしばらく睨み合った。やがて桐山がふうとため息をついた。桐山が立ち上がると背後の男も立ち上がり、二人は月光とリーネに背を向け玄関に向かう。
「明日の夕方、また来るわ。それまでによく考えておく事ね。リーネを返してくれるなら私達はあなたに何もしない。でももし断るのなら……覚悟しておく事ね」
「はっ。弱い犬ほどよく吠えると言うが、本当だな」
「……じゃあまた、明日に」
桐山と男は玄関の扉を開け外に出る。アパートの階段を下りていると、男が桐山に尋ねた。
「……良いのですか?」
すると桐山は笑いながら答えた。
「焦っても良い結果は出ないわ。それに、そっちの方が面白い」
「面白い?」
「ええ。これはいわばゲームなのよ。私達はリーネを奪うために策をめぐらし、月光君はリーネを護るために策をめぐらす。相手の手を考え、何が相手に最も有効かを予測し、最後に相手の息を止める一手を打つ。チェスや将棋と同じようなものよ。月光君はどういう手で来るのかしら……。ああ、楽しみだわ」
桐山は笑いながら呟く。それを見て男は寒気を感じた。
月光という少年は天才らしいが、この桐山も間違いなく天才だ。あらゆる知識をその頭に詰め、あらゆる技術を会得している。そして何より、どうしたら人が動くか、どういう事を言えば相手が自分に従うかを熟知している。つまり、相手をコントロールする事に何よりも長けている。
桐山が言った通り、これは彼女と月光のゲームなのだ。彼女は天才である自分に対し、自分と同じ天才である彼がどういう策を巡らせるかを楽しんでいる。彼女にとって重要なのは、このゲームで月光に勝利し、リーネを連れて帰る事なのだ。だが、リーネの意思など彼女には関係ない。彼女にとってリーネ・アルトマンという少女はただの戦利品にしか過ぎないのだ。
とんでもない女性についているものだ……と男は静かにため息をついた。
その頃、女性が帰った後の月光の部屋では月光とリーネがテーブルを挟んで座っていた。それはさっきの月光と桐山のようだった。月光はリーネを真っ直ぐ見ているが、リーネは俯いて正座している。その体は震えていた。
「……さっきの女が孤児院の院長という話は、本当なのか」
月光が尋ねても、リーネは何も話さない。ただ何かに怯えているように震えるのみ。月光は視線をリーネから外さす再び尋ねる。
「リーネ。話したくないなら話さなくても良いと言ったが、そんな状況じゃなくなってきた。このままではお前は孤児院に戻らなけばなくなる。そうなればお前はここを離れ、俺は下手をすれば少年院行きだ。まぁ俺は雑魚の戯言など興味ないが、お前はここを離れたいのか?」
月光が聞くと、リーネはぼそりと言った。
「……離れたくない」
それを聞き、月光は言った。
「ならお前の過去を全て話せ。俺も俺の奴隷がいなくなるのは言って困る。だがこのままではお前はここから去らなければならない。お前を護るためには、お前の過去を知る必要がある。だから話せ。そうすれば、俺が何とかしてやる」
しばらくリーネは黙っていたが、やがて話す覚悟を決めたのか顔を上げてぽつぽつと語り始めた。
「……前に、私の両親が死んでから私は孤児院に預けられたって月光に話したよね?」
リーネの言葉に月光は頷いた。
「その後、私はしばらく孤児院で暮らしてたんだけど……。その孤児院に私以外の外国人は誰もいなくて……。だから私は結構目立っちゃって……いろいろといじめを受けてたの」
「………」
いじめ、という言葉に月光は目を細めた。
「その事や、身寄りがない事もあって……。色々な孤児院をたらい回しにされたの。でも他の孤児院でも同じような目に遭って、友達もできなかった。中には私と仲良くしてくれた女の子もいたんだけど、その子とも別れる事になっちゃった。……そしてつい最近までいた孤児院の院長が……」
「桐山か」
月光がさっきの女性の名前を言うと、リーネはうんと言いながら頷き話を続ける。
「あの孤児院が一番酷かったなぁ……。外見は綺麗な孤児院だけど、みんな喧嘩ばかりしてた。私も結構殴られちゃったし……。普通女の子を殴らないよね? 痣にならないのが幸いだけど……」
腹のあたりを押さえながらリーネはははは、と笑った。だがその笑い方は悲しくて、どこか無理をしているような気がした。まるで、今にも泣きだしたいのを必死にこらえているようだった。
「だけど、孤児院の誰も逆らえない人間が一人いたの。それがあの女」
「あいつは一体何者なんだ?」
「詳しい事は分からないけど、噂だとすごい頭の良い大学を出てるとか、警察に顔が効くとか。本当かどうかは分からないけど、あの女が天才だって事は確かだよ」
「ほう、天才か?」
月光はにやりと鋭い笑みを浮かべる。自分と同じ天才と称される女性に興味を強めたようだ。
「うん。……誰もあの女には逆らえなかった。逆らえば最後、心が折れるまで暴力を受けるから」
「暴力? だが上が捜査をするか警察にかけこめばそんな事すぐにばれ……」
そこで月光は言葉を止めた。さっきリーネは桐山が警察に顔が効くと言った。という事は。
「……もみ消したのか?」
「半分正解で半分はずれかな。もみ消しもしたけど、あの女はそれだけじゃない。どうすれば相手の心に深い傷を負わせる事ができるか、どうすれば相手が自分の言う事を聞くのかよく知ってる。あの女には誰も逆らえなかった。逆らえば体と心に深い傷を負わされるから……」
「……はっ、随分なクズだな」
吐き捨てるように月光が言った。聞いているだけで胸糞が悪くなってくる女だ。よくそんな女が院長になれたものだなと月光は心の中で毒を吐いた。
「それで何故貴様はあの女を過剰に恐れているんだ?」
「……前にあの女のお気に入りのコーヒーカップが割れちゃった事があってね。あの女が調べた結果、同じ孤児院の女の子がイタズラで割っちゃったの。本人は割る気はなかったんだけど、そんな言い訳は通用しなかった。その子は何回も殴られて……。見てられなくて、私が割り込んだの。そしたら私を目の敵にし始めて……」
リーネは両腕で自分の体を抱きしめながら、徐々に震えだした。顔も少し青白くなっている。月光はできればもうこの話を止めたかったが、リーネを護るためには聞く必要があった。拳を強く握りながら月光は黙って話を聞く。
「数えるのが馬鹿馬鹿しくなるぐらい殴られたよ。しかも痣にならないよう力加減をしてね、あの女の顔今でも忘れられない。あの女、笑ってた。もう本当に嬉しそうに笑ってた。……そして最後には……」
リーネの震えが強くなった。今にも泣きそうになりながら月光に言った。
「………最後には、もう二度と逆らえないようにって、男の子達や護衛達を使って……。私を無理矢理犯そうとした……!」
月光はリーネに悟られるぬよう奥歯を強く噛み締めた。ここまで誰かに怒りと憎しみを抱くのはこれが初めてだった。
「私は何とか孤児院から逃げて……。少しでも孤児院から離れられるように逃げたの。何日も逃げたけど、その間何も食べてなかったから、気が遠くなって倒れたの」
「それで目を覚ました時には俺が目の前がいたというわけか」
これで話が繋がった。自分が最初リーネを見つけた時倒れていたのは、彼女達から必死で逃げていた時、空腹と疲れで倒れてしまったのだ。そして出会った頃の彼女の目を思い出す。
まるで全てを恐れているような、全てを拒絶しているような目。彼女が受けてきた事を考えれば、あのような目にもなるだろう。
彼女が外に出るのを恐れる理由もわかった。もしもリーネが桐山達に見つかれば、また自分が過ごしてきた地獄の日々に逆戻りだ。そうならないように、極力外に出ないようにしていたのだろう。
「うん。知らない人が目の前にいたからびっくりした。最初は追っ手が私を見つけたのかと思った」
リーネが少し笑った。さっきのような無理をしているような笑顔ではなく、ほんの少しの楽しさがその笑顔にあった。
「それからは本当に楽しかった。美味しいご飯を一緒に食べて、色んな話をして……。月光と一緒に生活できて嬉しかった。でも、そんな生活ももうおしまい」
「はぁ?」
月光が訝しげにリーネを見る。リーネは立ち上がって月光を見た。彼女は笑顔だったが、その笑顔はどこか悲しげで、何かを諦めたような笑顔だった。
「私がこれ以上ここにいたら月光に迷惑かけちゃうから。月光に迷惑をかけるくらいなら私はあの女の所に帰る。あの女は最低だけど嘘はつかないから、私があの女の所に帰れば月光には何もしないよ」
「……お前はここを離れたくないんじゃなかったのか?」
「離れたくないけど、仕方ないよ。結局私は逃げられないんだ。あの女がいる限り、私は幸せになる事なんてできないんだよ」
その言葉は何故か月光を苛つかせた。自分が何とかしてやると言ったのに、彼女は桐山からは逃げられないと諦めてしまっている。まるでお前に自分は救えないと言われているようで、月光は腹が立った。
「ばいばい、月光。会えて良かった」
「……さっきから聞いていれば、貴様は一体何をほざいている?」
月光の怒りのこもった言葉に、リーネは思わずきょとんとした。
「え?」
「俺が何とかしてやると言ったはずだ。なのに何故お前はあのクソ女から離れる事を諦めている? そこまで主人である俺が信用できないのか?」
「……月光の事は信用してるよ」
「じゃあ俺を信用しろ。お前はここを離れる必要などない」
「………」
「まったく……、馬鹿のくせに戯言を吐くな。何もしないうちに全てを諦めるなど、負け犬のする事だ。貴様はとうとうクズから負け犬まで成り下がったのか?」
「……月光は」
「ああ?」
「月光は、あの女の事を何も知らないからそんな事が言えるんだよ」
リーネの顔に目を向けてみると、彼女は月光の顔を真っ直ぐに睨み付けている。月光はその視線を受け止めながらリーネに言い返す。
「何も知らないだと? はっ、確かに俺は奴の事を何も知らん。だが、奴を知っているからと言って最初から逃げ腰の臆病な負け犬の貴様に説教される覚えはない」
「……じゃあどうすれば良いのよ!!」
リーネは月光に怒鳴った。月光は思わず目を見開く。リーネが月光にここまで大声で怒鳴るのはこれが初めてだからだ。
「私が帰らなきゃ月光が少年院に送られちゃうんだよ!? そうなったら月光の人生はめちゃくちゃになる! 私の人生がこれ以上めちゃくちゃになるのはもう構わない! でも!! 私のせいで月光の人生がめちゃくちゃになるのは嫌なの!」
リーネの叫びに月光は最初目を見開いて驚いていたが、やがて真剣な表情に戻りリーネが叫ぶのを何も言わず聞く。
「私だって本当はここを離れたくない! 月光とずっと一緒にいたい!! ここで二人で一緒に暮らしていきたい!! 月光と生きたい!! でもあの女に関わってたら、絶対に月光は幸せになれない!! 月光が幸せになれないぐらいなら、私は喜んで地獄に行くわよ!!」
言いたい事を言い終えたのか、リーネは息切れし月光を睨む。月光はと言うと、腕組みをしリーネの目をじっと見つめていた。やがてふうと息を吐き、静かに言った。
「気は済んだか」
「………?」
「まったく。雑魚がキーキー叫ぶものだから耳がイカれるかと思った。大体、お前のその話し方だと、まるで俺があの女に敗ける事が前提のような話し方だな」
「……あの女は、月光以上の天才だから。だから月光には勝てな……」
「それはお前が決める事じゃない。俺が決める事だ」
「………」
「確かにあの女は天才かもしれん。俺以上かもな。だが、俺は負けない。何故なら俺は常に相手の予想を超える天才だからだ。俺が負ける事はありえん」
月光の顔は真剣な表情からいつもの表情に戻っていた。自分が必ず勝つと確信している、絶対の自信と余裕を秘めた笑顔。自分の大好きな顔。その顔を見て、リーネは少し呆然としていた。
「宣言してやる。俺はあの女に圧倒的な差で勝利する。そしてあの女は俺に土下座して負けを認め、お前は俺にひれ伏して感謝し、それ以降もここで俺の奴隷として住んでいく。これは予想でも妄想でもなんでもない。明日確実に起こる事だ」
だから、と月光は一旦言葉を切り、真剣な顔に戻ってリーネに言った。
「俺を信じろ。お前は必ず俺が救ってやる」
その瞬間、リーネの顔がくしゃっと崩れた。今までこらえていたものが吹き出しそうになり、泣きそうになる。そして涙声で月光に聞く。
「……信じて、良いの?」
「ああ」
「私がここにいて、迷惑じゃない?」
「迷惑ならとっくの昔に追い出している」
月光は静かにリーネの言葉に答えていく。答えられるたびにリーネの目に涙が溜まっていく。その今にも泣きそうな顔を見て、最後に月光ははっきりと告げた。
「俺が護ってやる。だから泣くな」
限界だった。リーネは月光の胸に抱き着いて、親を見つけた迷子のように大声で泣いた。これほどまで泣いたの初めてかもしれないと思うほど泣いた。胸から月光の体温が伝わってきて、リーネはさらに泣く。まるで日の光のように優しくて、安心できる温かさだった。
「泣くなと言っただろうが……」
呆れた様に呟きながら月光はリーネの頭を撫でてやる。その後、月光はリーネが泣き止むまで頭を撫で続けた。
数分後、リーネはようやく泣き止んだ。涙をぬぐいながらリーネは月光に寄りかかり尋ねる。
「でも月光。どうやってあの女に勝つの?」
「ん?」
「私は月光が勝つって信じてる。でもあの女は本当に手ごわいよ?」
「はっ。俺には優秀な手駒が一人いる。確かに俺一人では苦労するかもしれないが、二人なら話は別だ」
そう言うと月光は携帯電話を取り出し、ある人物に電話を掛ける。
「俺だ。悪いが頼みたい事がある。……貴様には関係ない。やかましい! お前は俺の言うとおりに働け!」
月光は通話相手に怒鳴りながら自分の作戦を伝える。リーネは月光の手をぎゅっと握る。
あの女は確かに手ごわい。だが、月光なら勝てる。リーネはそう信じる事にした。
俺が護ってやる。月光はそう言ってくれた。言われただけで、リーネの胸は安心感で一杯になった。自分は信じる事しかできないが、自分の今できる事を精一杯やるしかない。だからリーネは、月光の勝利を祈るのだ。
決戦は明日。一人の少女を巡る戦いが始まる。