いつか天魔の黒ウサギ Another World 作:白い鴉
翌日、午後四時十分。学校から帰ってきた月光はリビングにあるテーブルの横に座っていた。月光の横にはリーネがちょこんと月光に寄り添って座っていた。二人の目は玄関のドアへと注がれている。リーネの目はどこか恐怖を帯びているが、月光の目はいつもの鋭い輝きを帯びている。
月光は横にいるリーネに目を向ける。良く見てみると、彼女は手はかすかに震えている。それを見た月光はリーネに言った。
「そんなにビクビクするな」
「分かってるわよ」
強気な口調だが、恐怖心を隠しきれていない。さっきと変わらない口調で月光は尋ねる。
「怖いのか?」
するとリーネは素直にこくりと頷いて、
「……うん。怖い。どれだけ月光に言われても、やっぱり怖いものは怖いよ」
そう言う彼女の顔は笑顔だったが、顔色はやや青く、震えていた。彼女の体と心に刻まれた恐怖がリーネをこんな状態にしているのだろう。月光はそんなリーネを安心させるように彼女の頭に手を置く。
「心配するな。俺が負けるはずがないだろうが」
「そう、だよね」
「ああそうだ。俺は必ず勝つ。それは確定事項だ。だからお前は少しは嬉しそうな顔をしたらどうだ? 俺が勝つ事は確実だからな」
「……うん」
リーネは月光の顔を見て笑った。彼は笑みを浮かべていた。今から来る天才に対しても、月光は全く恐怖していない。その瞳にあるのは桐山を迎え撃つという強い意志だけだ。その顔を見るだけで、リーネは安心できる。月光が勝つと信じる事が出来るのだ。リーネは月光の手を握り、月光に尋ねる。
「ねぇねぇ月光。あの女に勝てたら、二人でどこか行こうよ」
「ああ?」
「だって、そうなったらあの女にビクビクする必要なんてないんだしさ。二人で海行こうよ、海!」
すると月光は呆れたような笑みを浮かべ、
「そうだな。俺が夏休みに入ったら海に行くか」
「うん! あ、そういえばもうすぐ七夕だったよね。何がお願い事書かなきゃ!」
「はっ。雑魚がどんな願い事を言っても叶う事はないと思うがな」
「別に良いじゃない。それで七夕が終わったら月光と夏休み。海に行って、一緒に泳いで、夏祭りに行って………。ねえ月光、お祭りに行ったら射的やろ!」
「金があったらな」
月光の言葉にリーネはむう~と頬を膨らませたが、段々と笑顔になっていった。七夕で願い事を書くのも、海や祭りに行くのも桐山に勝ったらの話だが、もうリーネはそんな事は口にしない。月光が絶対に勝つと信じているから。だから月光はこの勝負に勝たなければならない。リーネの希望を裏切らないために。リーネをこれ以上辛い目に遭わせないために。
そして月光がリーネから玄関の扉へ視線を戻したとき、タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。リビングに響き渡る呼び鈴にリーネの身体が震える。扉を見る月光の視線が鋭くなる。月光は立ち上がると、玄関へ向かい扉を開ける。
扉の向こうには黒いスーツとサングラスををしている護衛の男と、艶やかな黒髪に氷の刃を連想させる冷たく鋭い切れ長の目の女性--------桐山
「来たか、クズ女」
「ええ、来たわよ紅月光君」
桐山が楽しそうに月光の名前を呼び、月光は桐山を部屋の中に招き入れた。
部屋の中に招き入れられた桐山と月光はテーブルを挟むように座っている。黒スーツの男は昨日と同じように桐山の背後に静かに立っている。桐山はテーブルに両肘をついて楽しそうににこにこしながら月光とリーネを見ている。一件優しそうな笑顔だが、月光には分かっていた。その笑顔が、他人をいたぶる事を楽しむ人間特有の笑顔だと。それを見ていると胸に吐き気がこみ上げてきて、月光は少し顔を歪めた。そんな月光の気持ちを無視するかのように、桐山は言った。
「さて月光君。リーネは返してもらえるかしら?」
来た。月光は笑みを浮かべて桐山に告げる。
「返すわけがないだろうがこの馬鹿が。誰がお前のような暴力クソ院長に返すか」
そう言われても、桐山は何を言われているのか分からないと言っているような笑顔になる。その笑顔を見て月光は苛つきそうになるが、相手のペースに巻き込まれないように平静を保つ。
「何の事かしら?」
「とぼけるな。全てリーネに聞いた。とんでもないクズだなお前は。自分の娘同然のこいつを殴るとはな」
「私が殴った? その子の勘違いじゃない?」
「俺に嘘をついてこいつに何のメリットがある?」
「だって嘘をつけばずっとここにいれるでしょ? この子はあなたに懐いているようだし、ここから離れないためにはあなたに平然と嘘をついて、私を酷い奴だと思わせておっぱらえば、ずっとここにいられる。そう考えてるんじゃない?」
桐山は平然とリーネにとって残酷な事を言った。リーネはもちろん嘘などついていない。これは桐山の罠だ。リーネが嘘をついていると思わせて、月光のリーネに対する信頼を少しでも良いから疑わせる。どんなに信頼が強くても、わずかな綻びから全てが台無しになる事がある。桐山はそれが目的だった。月光とリーネの信頼関係にひびをいれ、最後に完全に砕く。そうする事でリーネを奪おうと考えているのだ。しかし月光は桐山を馬鹿にしているような笑みを浮かべて言った。
「悪いがこいつは俺に嘘をついていない」
「どうして分かるの?」
「俺が天才だからだ」
「……」
「こいつが嘘をつけば分かる。少しの間ではあるが、一緒に住んでいるからな。それにこいつは嘘をつくのが下手だ。だから嘘をつけば一瞬で分かる。だからこいつは嘘をついていない。貴様はそんな事も分からないのか? 天才だと言われているようだが、どうやらそれはお前自身が広めた嘘のようだな。頭は空、目は雑魚、しかも平然と嘘をつく。救いようがないな。嘘をつかないで正直に自分はクズ以下の雑魚ですと言ったらどうだ?」
月光から毒舌を言われても、桐山の表情に変わりはない。桐山もこういう状況では相手に先にペースを握られたら負けるという事を充分理解しているからだ。それに、この程度で二人の信頼関係が崩れるとは最初から思っていない。今のは単に月光がどんな反応を返してくるかの確認のようなものだ。この程度で二人の信頼が崩れるのなら、リーネが今ここにいる事はまずないし、桐山は紅月光という少年はその程度の人間だったのかとがっかりしていた事だろう。ここからが本番だ。桐山は軽く唇を舐める。それはまるで獲物を見つけた時に舌なめずりをする獣のようだった。
「仮に私がリーネに本当に暴力を振るっているとして……、あなたはどうするの?」
「警察に駆け込む。さすがに国家の狗共も暴力を振るわれた奴を放っておくほど馬鹿じゃないだろう」
「でもそれは彼女の言っている事が本当だったらの話でしょ?」
桐山から放たれたその言葉に月光は黙りこむ。桐山は笑顔のまま続ける。
「彼女の話には証拠がない。私に殴られたというのなら、どこかに殴られた痣とかがあるはずじゃない? あなたはちゃんとその痣とかを確認したの?」
桐山の言うとおり、月光はリーネの了解を得てリーネの肌を背中などを見せてもらった。しかしどこにも殴られた痣と呼べるものはなかった。彼女が痣が残らないように手加減してリーネを殴っていたのは、恐らく警察に駆け込んだ時、暴力を受けているという証拠を見せないためだろう。いかに警察でも、何か一つ決定的な証拠がない限り、暴力を受けていると証明するのは難しい。
月光は一つ鎌をかけてみる事にした。
「ああ、いくつかあった。あれは貴様がやったんじゃないのか?」
これはもちろん嘘だ。桐山がどんな反応をするか確かめるためにこんな嘘を言ったのだ。桐山は少し眉をぴくりと動かしたが、次の瞬間悲しそうな顔になった。
「それは……、ここに来るまでに受けた痣かもしれないわね」
「はぁ?」
「リーネは私の孤児院を逃げ出してから行方不明になってしまった。そして今あなたの世話になってる。もしかしたら、あなたに出会う途中で悪い人達に会って、その人達から暴力を受けたのかも……。世の中にはあなたのような良い人もいるけど、悪い人も当然いるから。そうよ、そうに違いないわ。その時はリーネは一人だったでしょうから、最低な奴らがリーネを殴ったのよ。違う? リーネ」
桐山の目がリーネに向けられる。リーネは怯えた様に月光の体に寄る。
よくもそんな事が言えるものだなと月光は内心毒を吐きながら桐山を睨み付ける。自分がリーネに酷い事をしていたくせに、まるでリーネの事を心配しているような口ぶりだ。ここまでくると吐き気がする。やはり彼女はここで潰しておかなければならない。
「こいつは俺にそんな事は言った事はない。お前がこいつを殴ったんじゃないか?」
「その時の恐怖で言えなかっただけじゃないの? それにリーネの体に痣があっても、その痣が私につけられたものとは限らないんじゃない?」
月光は心の中で舌打ちする。確かに痣があったとしても、それが桐山がやったという証拠にはならない。何か、桐山がリーネに暴力をふるったという証拠があれば一気に桐山を追いつめられるのだが。桐山はにこやかな笑顔を浮かべたまま月光に言う。
「それに、警察に言って困るのはあなたの方じゃない?」
「………」
「前も言ったと思うけど、私はあなたを誘拐や未成年略取で訴える事が出来るのよ? そうなったらあなたは確実に少年院行きだけど……」
「法律を勉強しなおした方が良いんじゃないのか? 略取・誘拐罪は人間を略取・誘拐する行為のうち、こいつのような未成年に対するものだが、身代金、わいせつなど生命身体への加害の目的で行うものの事だ。だがこいつは自分から望んでここにいる。それに俺はこいつに何もしていない。その状況で俺を訴えるのは難しんじゃないか?」
「そうかしら? もしもリーネがあなたから嘘の証言をしろと言われていたらどう? あなたを訴えるのは難しくないと思うんだけど……」
「なら逆に聞くが、俺がこいつに嘘の証言を吹き込んだという証拠はあるのか?」
「ないわね。でもそう言われると、あなたがこの子に何もしていないという証拠もないわけだけど?」
月光は思わず歯ぎしりした。面倒な状況になってきた。このまま話を続けても、桐山は絶対に話を進めず、どれだけ時間がかかっても粘るだろう。そして自分がボロを出した瞬間、自分の息の根を止める一手を打ってくる。中々手ごわい相手だ。リーネがこの女の事を天才だと言う事だけの事はある。
「良い? 月光君。私がリーネに暴力をふるったという証拠はない。あなたがリーネにおかしな事をしたという証拠もないけど、もしもこれ以上あなたがリーネをここに住まわせるのだとしたら、私も手荒な事をしなくてはならなくなる。手荒な事は嫌いなのよ。だから、早くリーネを返してくれると助かるのだけど」
「だったら本当の事を言ったらどうだ?」
「本当の事? 私はちゃんと本当の事を言っているのだけど」
「……本当の事、ね」
そう呟くと、月光はクックックと低い声を漏らした。その声に桐山は思わず怪訝な顔をし、月光に尋ねる。
「何がおかしいの?」
「なら聞くが、今貴様が言った手荒な事とはなんだ?」
「決まってるでしょ? 裁判沙汰にしようという事よ」
「はっ。お前お得意の警察を使ってか?」
「いやねえ、私が警察を動かせるわけないじゃない」
「警察上部の人間の弱みでも握ってるんじゃないか?」
「どうしてそんな事を言えるの?」
「俺だったらそうする」
月光の言葉に、桐山は淡々と返していく。その顔は笑顔のままでぴくりとも動かない。そのムカつく笑顔を何とか崩そうと、月光は言葉を続ける。
「リーネから聞いたが、貴様は天才らしいな? 貴様の事を調べさせてもらったが、有名大学出身、さらには運動神経抜群。これほどの天才なら、人一人の弱音を掴む事など朝飯前じゃないのか?」
「私は天才なんかじゃないわ、ただ努力をする事しか能がないただの凡人よ。私はあなたが天才だと思うのだけれど……」
「はっ。下手な芝居はよせ。そろそろ貴様の本性を見せたらどうだ?」
「本性? 何の事かしら」
月光がこれだけ言っても、彼女の顔からは笑顔が消えない。桐山は視線を月光からリーネに移すと、悲しげな笑顔になり話しかけた。
「ねぇリーネ。どうして私の所に帰ってきてくれないの? またここに来ればいいじゃない。もう二度と会うなって言ってるわけじゃないんだし。月光君に会う事なんていつでもできるわよ。だから、帰りましょ?」
それは嘘だろうと月光は思った。桐山がリーネを手中に入れたら最後、彼女を二度と自分と合わせないだろうし、二度と孤児院の外に出さないだろう。桐山の性格を考えればそれは考えられない事ではない。リーネもそれが分かっているのか、月光の手を強く握り、桐山を睨み付ける。そんなリーネをまるで聞き分けのない子供を見るような顔で桐山が言った。
「良い? リーネ。あなたがここにいたら、きっと月光君の迷惑になるわ。月光君はまだ学生だし、例えバイトをしたとしても二人分の生活費を稼ぐなんて大変に決まってるわ。月光君のためにも、帰りましょう。ね?」
迷惑になる、という言葉にリーネの表情が一瞬揺らいだ。その時、リーネの手を月光が握った。リーネが月光の顔を見ると、月光は真剣な顔でリーネの顔を見つめている。
そうだ。昨日月光は自分に言ってくれたではないか。自分がここにいても迷惑じゃないと。俺が護ってやると、言ってくれたではないか。月光がそう言ってくれたから自分は月光を信じると決めたのではないか。
リーネは一瞬浮かんだ迷いを消し、桐山の顔を真っ直ぐ見据えはっきりと告げた。
「帰らない。私はここにいる」
桐山は驚いたように目を見開き、再びリーネに尋ねる。
「どうして? 月光君の迷惑になるかもしれないのよ? あなたは月光君の迷惑になりたくないでしょ?」
「月光は、私がここにいても迷惑じゃないって言ってくれた。確かに私がここにいたら月光に苦労を掛けちゃうかもしれない。でも、私がその苦労以上に月光を幸せにしてみせる。教えてあげる、これは月光から脅されて言わされてるんじゃない。これは私の本心よ」
そこで初めて桐山の顔に動揺が浮かんだ。さっきまで浮かんでいた笑顔が消え、口を少し開けてリーネを凝視している。リーネは最後にこう言い放った。
「私はずっとここにいる。あなたが裁判で月光を訴えても、私が絶対に月光を護ってみせる。私が脅されていないっていう証拠は、誰のものでもない私の心。だから出て行って。二度とここに顔を出さないで」
言い終わると、月光が桐山に言う。
「これで分かっただろう。こいつの言葉は俺に言わされたものでも、嘘でもない。こいつ自身のものだ。分かったらさっさと出ていけクソ女」
月光が言い終わると、桐山ははぁとため息をついた。
「これはできればやりたくなかったんだけどね」
「何?」
「良いわ。リーネを返してもらえないなら、あなたを必ず少年院に送ってみせる。警察を使ってでもね」
桐山の笑顔が冷たいものに変わる。月光は桐山のその笑みを見て、自分も同じような笑みを浮かべた。
「ようやく本性を出したか。それは貴様が警察の弱みを握ってると認識して良いのか?」
「ええ。でもこれはやりたくなかった。できれば警察なんて使わないで、話し合いであなたを打ち負かせたかったわ」
「クズのくせにプライドは持っているのか。大したクズだ」
月光は笑いながら言うと、それから一度言葉を切る。そして表情を真剣で、それでいて冷たい雰囲気を漂わせるものに切り替えて今まで聞きたかった事を聞く。
「何故リーネを、いや、孤児院のガキ共に暴力を振るった?」
「ストレス解消」
悪びれる事なく、桐山は平然と言った。それに月光が顔を険しくすると、桐山はくすくす笑った。
「大した理由なんてないわよ。孤児院の院長って結構大変なのよ? 全員の子供のデータとか調べないといけないし。たまにはストレス解消とかしなきゃやってられないわよ」
あまりにくだらない理由に、月光はリーネの手を握っている手とは反対側の拳を強く握る。自分の内から湧き上がってくる激情を抑え込みながら別の質問をする。
「警察上部の弱みを握っているのは本当か?」
「本当よ。良いわよー、警察上部の弱みを握るのは。警察は縦社会だからね。上の人間が口止めすれば下の人間はそれに従うしかなくなるんだもん。あなたも弱みを握るなら、警察上部が良いわよ。下の人間の弱みを握ったら大抵の事は口止めできるけど限界があるし。上部の方が少し大きな事件でももみ消せる」
嬉しそうに言う桐山に月光は怒りと一緒に吐き気がこみ上げてくる。必死に怒りを笑みで隠しながら桐山に言う。
「その国家の狗共の力を使って、貴様の悪事をもみ消してきたのか」
「そうよ。使えるものは使わなくちゃね」
「……貴様は、リーネ達の事をどう思っているんだ?」
「退屈しのぎの玩具」
子供のような無邪気な笑顔で桐山はそう言った。まるで、リーネ達子供に自由に遊ぶ権利など、人間としての権利などないと言っているような笑顔で。その笑顔に月光は思わず立ち上がりかけた。
「悪いけどリーネ達の事なんて私にはどうでも良いの。玩具は黙って私のストレス解消になればいい。玩具は黙って私に遊ばれればいい。玩具は黙って、私に使い捨てられればいいのよ」
桐山の言葉を聞き、月光はふうとため息をついた。
「……今まで色んな人間を見てきたが、貴様ほど腐った人間を見るのは初めてだ」
「ありがとう。最高の褒め言葉よ」
月光が吐き捨てた言葉を、桐山は真正面から笑顔で受け取った。その笑顔を見て、月光とリーネは顔を険しくする。この女は本当にリーネ達の事を玩具としか思っていない。人間としても見ていない。ただ、自分を楽しませてくれるだけの存在。それ以外に存在価値など本当にないと思っている。
「さて、じゃあそろそろ警察上部の人に誘拐犯がここにいるって事であなたを捕まえてもらいましょうか。ああ、弁護士も期待しない方が良いわよ? そいつも私が根回ししとくから。あなたは百パーセント少年院行き。はいおめでとー」
パチパチ、と拍手を叩きながら桐山はリーネに目を向ける。その目には獲物をいたぶる光が戻っていた。
「あなたも覚悟しといた方が良いわよ? 孤児院に戻ったら二度と外には出さない。もうこんな事が出来ないようにしっかりと心に大きな傷を刻み付けてあげるから。良かったわね、あなたがここにいたせいで月光君が少年院に行く事になったわよ。全部あなたのせいでね。もう自覚したら? あなたは誰も幸せにする事なんてできない。疫病神なのよ、あなたは」
勝ち誇ったように桐山が言うが、次の瞬間ある違和感に気付きその笑みを消す。
リーネが笑っているのだ。自分がその気になれば警察がこの場に乗り込んできて、彼女は孤児院に戻されると言うのに、彼女は勝気な笑顔で笑っている。良く見てみると、月光も笑みを浮かべている。しかも月光の場合はまるで自分を馬鹿にしているような笑みだ。二人の笑みに眉をひそめ、思わず尋ねた。
「何がおかしいの?」
それに月光はクックックと低く笑い、
「いや、貴様があまりに間抜けでな。思わず笑ってしまった」
「何を言っているの?」
「お前は馬鹿か? 天才である俺が、話し合い以外に何の対策もしていないと思っていたのか?」
そう言うと、月光は自分のズボンのポケットから一本のペンを取り出した。一見普通のペンであるそれを、桐山はじっと見つめる。すると月光が笑みを浮かべながら言った。
「今の世の中には非常に便利なものが出回るようになった。例えば………
その言葉に、桐山の表情が凍った。得意げにペンをかざしている月光の顔を目を大きく見開いて凝視する。
「盗聴器……ですって……?」
「ああ。感謝しろ。貴様のような雑魚のために昨日弟と一緒に揃えてやったからな」
そう。昨日が月光が電話した相手は月光の弟の日向だったのだ。彼は日向と連絡を取り、自分の家に呼び出した。そして桐山の事を軽く説明し、日向に頼んで近くの小さな電気屋でペン型の盗聴器と受信機を購入してもらい、作戦を立てた。
まず、月光がペン型の盗聴器を起動させた状態でポケットに入れておく。それで桐山がアパートにやってきたら、話をして何とか桐山から真実を聞き出す。その真実を盗聴器を通じて月光の実家にいる日向に聞かせるというものだった。
「俺達が何を言っても警察の奴らは聞く耳を持たないだろう。だが、貴様自身の口から真実を話したらどうだ? 国家の狗共は貴様をターゲットにするだろう」
「普通ならね。でも私なら、その真実も握りつぶせるわよ?」
「ああ。間違えた、すまんな。俺が真実を流すのは警察じゃない。日本の国民だ」
「何ですって?」
「今この会話は俺の弟が聞いている。そしてそれをネット及びマスコミに流す準備をしている。『桐山孤児院の桐山沙輝という院長がそこに住んでいる子供に暴力を振るっている』という内容でな。そうすれば貴様の真実を全ての人間が知る事になる。そうなれば大量の非難が貴様に集中し、院長ではいられなくなるな」
「…………」
桐山はペンを振る月光の顔を、感情を感じさせない瞳で見つめている。
「ああ、言っておくがその事実すらも握りつぶすのは無駄だと思うぞ? さすがに貴様でもネットに流れた真実をもみ消すのは難しいだろう? まぁ、弟と合意とはいえ盗聴器を仕掛けるよう言ったのは俺だからな。俺も罪に問われるかもしれんが、俺の場合はお前の罪を明かすためにやった事だ。悔いはない。だが貴様はどうかな? 自分の失態を国民に知られ、さらにはそのせいで罪に問われ刑務所行きだ。さぁ、選べ」
月光は立ち上がり、桐山を見下すように笑顔を浮かべて見る。その顔はまるで悪役のようだった。
「負けを認めて俺の奴隷となり、俺の言う事を聞くか、今の会話を流されてブタ箱行きになるか、どっちが良い? ちなみにこれは交渉でも何でもない、命令だ」
桐山はしばらく無表情で月光を見つめていた。月光はじっと黙って桐山を睨み付けている。やがて、桐山はため息をついて月光に言う。
「……私の負けよ。リーネは諦めるわ」
「い、院長」
黒スーツの男が何か言いかけるが、桐山は男を手で制す。そして月光に言った。
「で、何か要求はある?」
「ああ。まずリーネに二度と手を出すな。そしてリーネの分の養育費、食糧費、学費などは全てお前が出せ。俺の口座に金を振り込んでおけ」
「はいはい」
「……そして、もう二度と孤児院の奴らに手を出すな。警察の弱みを握って真実をもみ消すものやめろ」
その要求に桐山はぴくりと眉を動かし月光に尋ねる。
「リーネの事は分かるけど、どうして他の子の事まで気にするの?」
「くだらない事を聞くな。そんな事を貴様が知る必要はない」
桐山は訳が分からない顔をしていたが、再びため息をつき言った。
「了解。その条件も呑みましょう」
「分かっているな? もしもお前が前と変わらず雑魚共を殴っている事が分かったら、これを即座にネットとマスコミに流す。細かい事はあとで連絡する」
「分かったわ。私の携帯電話の番号を教えておくから、後で連絡をちょうだい」
桐山はスーツのポケットからメモ帳を取り出し、一枚ページを破り取ると、そこに自分自身の電話番号を書き月光に渡す。月光が奪い取るようにメモを受け取ると、桐山は黒スーツの男を連れて玄関まで行く。
「じゃあね。もう会う事もないでしょう」
「二度と来るな」
月光が桐山を睨み付けながら言い、リーネは月光の後ろに隠れながらべーっと舌を出す。桐山は二人に背を向けたまま、部屋を出た。
アパートの階段を下る途中、男が尋ねる。
「良いのですか? 院長。リーネを放っておいて」
桐山は男の方を振り返ると、他人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ばーか。負けは負けよ」
「しかし、仮にデータをネットに流されたとしても、回収し消せば……」
「ネットに流れたデータがどれほどの速さで広まるか分からないの? それらを一つ一つ回収して消すのにどれほどの時間がかかると思ってるのよ。それに、全部回収できたとしても月光君の事だから、消されないようにデータに細工をしている可能性が高いわ。まったく……、盗聴器を持ち出してくるとは思わなかったわ」
はは、と笑いながら桐山と男はアパートを見る。
「卑怯な手を使っても、勝ちは勝ち。そして敗者は勝者の言う事を呑まなくてはならない。これは社会の鉄則よ。この世界に住む以上、これは絶対に守らなければならない事なの。月光君は勝ち、私は敗けた。それだけよ。……ま、ストレス解消ができなくなったのは残念だけどね」
そして桐山は最後にこう言った。
「ばいばい、月光君。できればまた、遊びましょうね」
くるりとアパートに背を向けて、桐山と男は孤児院へと帰って行った。