12月13日 変わり行く世界
もう何度目になるか分からない、他者の夢と記憶。
夢を夢だと自覚しながら、誰かを俯瞰して見る奇妙な感覚。
これは誰の夢だろう。リィンでもないし、ガイウスでもない。
『―――さい』
女性が蹲り、嗚咽交じりに泣いていた。
正確には、女性と呼べないかもしれない。だって彼女は、人ではない。
外見は完全に私達と同じ人間だった。でもそれは、人を模しているだけ。
感情も人格もある。その器が、人の型を成しているにすぎなかった。
一方で、女性は感情と魅力に溢れていた。
私達人間よりも、人間らしさが滲み出ていた。
『―――めんなさい』
女性はひたすらに涙を流し、何かを漏らし続けていた。
どうして、泣いているの。声に出したいが、私は今この場に居合わせていない。
単に見ているだけだ。誰かの記憶を垣間見て、覗いているだけ。
やがて女性に亀裂が入り、器が音を立てながら壊れ始めていく。
彫刻が崩壊していくように、ポロポロと欠片が落ちては、胸に痛みが走る。
何て深い悲しみなのだろう。この記憶の持ち主は、きっと今もこの女性を想っている。
目を背けたくても、叶わない。誰も彼女に手を差し伸べることができない。
やがて女性は顔を覆っていた両の手を離し、最期の言葉を残した。
『ごめんなさい、ツァイト』
最後の欠片が地へ転がると、世界は変わらずに回り始めた。
千と二百年分回り終えた後、私は今に追い付いていた。
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目元に溜まっていた涙を拭いながら、半身を起こす。
まるで眠れた気がしない。徹夜明けのような疲労感が重く肩に圧し掛かってくる。
ベッドが柔らかすぎだ。高価な物だということは理解できるが、寝心地とは比例しない。
寝間着も同じだった。ワンピースの類はどうも落ち着かない。
それに―――こんな場所で熟睡できる程、私は人間ができていない。
「ん・・・・・・」
頭を掻きながら壁の時計を見ると、今は午前8時。
生活リズムも崩れてしまっている。予定よりも2時間オーバーだ。
「ラン、起きてる?」
ベッドの傍らに蹲っていたランへ声を掛けると、ランは耳を動かして肯定を示した。
それもそうか。昨晩、明日の6時には起きようと言ったのは私の方だった。
『フム。随分とうなされていたようだが、悪い夢でも見ていたのか?』
「・・・・・・何でもないよ」
白を切りながら洗面所へ続く扉を開き、蛇口から水を出す。
両手に溜めた水で何度も顔を洗い、腫れぼったい目元を冷やした。
不思議な夢だった。今も心が揺さ振られ、涙腺が言うことを聞いてくれない。
ランに聞きたいことは山程ある。だが今は、後回しにするしかない。
今の私には、他に考えるべきことがある。朝寝坊をしている場合でもない。
(ガイウス・・・・・・みんな)
水を溜めるのが億劫になり、蛇口の下に頭を滑り込ませる。
冬の冷水が頭に刺さり、一気に体温が失われていく。
今だけはこの感覚が心地良かった。現実を直視するには、これ位でいい。
顔と髪に纏わり付いた水を拭き、鏡に映った少女の顔を見据える。
さあ、12月13日の始まりだ。この窮地を脱するためにも、下を向いてはいられない。
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―――約12時間前。
12月12日、午後17時。貴族連合軍旗艦『パンタグリュエル』の艦橋。
「フフ、どうかねこの光景は。帝国の夜空に浮かぶ星々は、いつの世も音も無く瞬き続けてくれる。変わらずに在り続けるということは、それだけで魅力的だ」
今この場に立っているのは、遠回しな表現を口にしたカイエン公爵閣下。
貴族連合の総参謀にしてユーシスの実兄、ルーファス・アルバレア。
蒼の深淵、ヴィータ・クロチルダ。そして―――クロウ・アームブラスト。
「カイエン公、まずは確認をさせて下さい。約束は守って頂けると考えていいんですね」
私の隣に立つリィンの問いに対し、カイエン公は眼下の雲々を見下ろしながら首を縦に振った。
カイエン公が私達に突き付けた提案は、パンタグリュエルへの招待。
ユミルを襲撃した貴族連合の本拠地とも言える、旗艦への搭乗だった。
その条件として提示されたのが、今後一切のユミルへの不干渉。
内戦が収束へ向かうまで、如何なる手出しもしないという契約だった。
選択の余地は残されていなかった。
窮地に追い込まれたユミルと皆を救う手立ては、他には見当たらなかった。
私はリィンと二言三言だけを交し、共にカイエン公の申し出を飲み、乗艦を決めた。
それが約1時間前の出来事。
私とリィン、ランは広々とした艦内を一通り案内され、最後にこの艦橋へ足を踏み入れた。
話がしたいと、カイエン公は言っていた。その本意が何処にあるのか、私には分からなかった。
「リィン・シュバルツァー君、アヤ・ウォーゼル君。率直に言って、これ以上事を荒立てたくはないのだよ」
やがてカイエン公はゆっくりと語り始める。
諸悪の根源は、クロウの銃弾に倒れたギリアス・オズボーン宰相閣下。
陛下からの信任を背後に、帝国を意のままに変えようとする愚行の数々。
このままでは帝国は駄目になる。たった1人の愚者が、全てを変えてしまう。
千年の時を費やし築き上げてきた何もかもが、無に帰してしまう。
そう考え、貴族派は手を取り合い、古き善き伝統を取り戻すべく立ち上がった。
「己の意にそぐわぬ物を徹底的に排除し、掌握しようとする傲慢さ・・・・・・列車砲など正にそれだ。アヤ・ウォーゼル君、君も常々疑問に感じていたのではないかね?」
「話をすり替えないで下さい。クロスベルは関係ありません」
撫でるようなカイエン公の口調も相まって、苛立ちを覚えた。
話をしたいという提案の蓋を開けてみれば、それか。本気で言っているのかすら疑わしい。
私自身、宰相閣下と帝国の暗部に触れたことはある。
リベールの異変の際、第3機甲師団がタイミング良く集結していたことも知っている。
今となっては身食らう蛇との繋がりさえもが別問題だ。宰相閣下は、もうこの世にいない。
「アヤの言う通りです。皇族の方々の幽閉に、帝都の占領っ・・・・・・市民全員を人質に取っているも同然だ。あれだけの事をしておいて、このまま済むとでも?」
「フフ、皇族の方々は丁重に『保護』しているだけなのだがね。しかしだからこそ、君達にも力を貸して貰いたいのだよ」
私はリィンと一度顔を見合わせ、カイエン公に向き直った。
力を貸して貰いたい。その意味が上手く汲み取れない。
カイエン公の顔には、変わらず笑みが浮かんでいた。
「2体の騎神と、女神が遣わせた聖獣。その力を機甲兵部隊と共に集結させれば、正規軍の機甲師団を圧倒できよう。徒に内戦を長引かせるより、余程いいとは思わないかね?」
「・・・・・・それを私達が承諾すると、本気で思っているんですか?」
言うに事欠いて、貴族連合の傘下に入れと言いたいのだろうか。
冗談も休み休みに言え。リィンも私も、首を縦に振る筈がない。
革新派にも貴族派にも属さない第三の道を行くと、皆で決めたばかりだ。
内戦を迅速に終わらせるという点のみ同意だが、そのために己を曲げるわけにはいかない。
沸々と込み上げてくる怒りを抑え込んでいると、今まで口を閉ざしていたルーファスさんが、唐突に言い放った。
「だが君達もこれ以上、他人の人生を狂わせるような真似はしたくないだろう」
ドクン、と胸が激しく鼓動した。
再びリィンと視線が重なり、恐る恐る振り返る。
ルーファスさんは寂しげな影を宿した目付きで、私達を見ていた。
「何を、言ってるんですか」
「オーロックス渓谷道での一件だよ。君達が破壊した機甲兵のうち1体が、導力機器の損傷により火の手に包まれた。搭乗者は重度の火傷を負い、今も苦しんでいる。君達が去った後の出来事さ」
全身の血が冷え渡り、動悸が急速に高まっていく。
背筋から冷水を被ったように、身体が身震いした。
渓谷道で対峙した機甲兵は、3体。
私とランが直接手掛けたのは1体。もう1体は皆と共に総出で破壊した。
リィンが相手取ったのは新型機。あの機体も損傷が酷かった。
「そんな・・・・・・私は、そんな」
一体どれだ。どの機体のことを指して言っている。
落ち着け。まだ私と決まったわけじゃない。
私はそんなつもりじゃなかった。私はただ、降り掛かった火の粉を払っただけなのに。
「もし君達が今、責任の所在が誰にあるかを考えているのなら、幼稚と言う他ない」
「あっ・・・・・・」
突き付けられた鋭利な言葉が、当惑し切った頭の中に深々と刺し立てられた。
丸裸だった。全てを見透かされているような気がして、思わず胸元を腕で覆った。
隣を見ると、リィンも小刻みに身体を震わせていた。
「君達が持つ巨いなる力は、学生がスポーツ気分で揮うべき物ではない。その程度の覚悟しか持ち合わせていないのなら、即刻私達の傘下に入りたまえ。手遅れになる前に、ね」
「フフ、手厳しい物言いだねルーファス君」
空腹の胃から込み上げてくる吐き気を抑え、何とか前を見据える。
膝下に感じるランの体温が、何とか私を繋ぎ止めてくれていた。
「今一度言おう。この内戦を終結さえすれば、全てが取り戻せる。元通りになるのだよ。君達が背負うであろう業も、我々が一手に引き受けよう」
私達の学院生活。エリゼちゃんにアルフィン殿下。
内戦が勃発する以前に在った何もかもが、返ってくる。
全ては私達次第。私とリィンの選択が、皆の行く末を左右する。
カイエン公は甘美な誘いを数多く残してから、返答を待たずしてこの場を去った。
クロウとヴィータは困惑する私達を嘲笑うかのように、一瞥してから踵を返した。
ルーファスさんは沈黙を守り、最後に。私達だけが、艦橋へ残された。
何も言い返せない自分が、腹立たしくて仕方なかった。
今更になって反論の言葉を吐き出したくなる自分が、やはり幼稚に思えてならなかった。
「・・・・・・エリゼ」
私の隣で力無く項垂れるリィンが一言、妹の名を口にした。
その表情は、暗い悲しみと苦しみに満ちていた。私もおそらく、同じ顔をしているのだろう。
掛ける言葉が見つからなかった。私も、何も要らなかった。
ランの背を撫でながら、私はカイエン公の言葉を反芻していた。
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12月13日、午前10時半。
昨日の事を思い返したせいか、気分が優れなかった。
寝不足気味なことも相まって、結局朝から寝たり起きたりを繰り返していた。
(・・・・・・馬鹿みたい)
天井を見詰めながら、これからの事について考えを巡らせる。
結局のところ、話は至って単純だ。私には迷う余地が無い。
選択を迫られたようでいて、端から選ぶ道は決まり切っている。
サラ教官が言った、相応の覚悟と責任。それが足りていなかったというだけの話だ。
昨晩は巧みな言い回しに翻弄されたが、貴族連合に与するなどという選択肢は無い。
《Ⅶ組》として、遊撃士としての答えはもう出ている。改めるべきは見当たらない。
1つ気掛かりがあるとするなら、リィン。
エリゼちゃんのこともある。彼の性分なら、今も大いに思い悩んでいる頃合かもしれない。
私のように、単純に割り切れるとは思えない。それがリィンの魅力であり、悪いところ。
「よいしょっと」
額に乗せていた濡れタオルを流しへ放り投げ、ベッドから起き上がる。
じっとしていると落ち着かないし、これ以上時間を無駄にはできない。
誰かと話がしたかった。それに、やはりリィンのことも気に掛かる。
「ラン、私は今からリィンのところに行くよ。ランも来る?」
身支度を整えながら、ランに声を掛ける。
ランはゆっくりと身体を起こし、私の足元へ歩み寄って来る。
足取りは重かった。この様子では、今も縛られてしまっているのだろう。
「ねえ、大丈夫?」
『大事無い。ある程度なら力も揮える』
ランの身を縛り付ける、魔女の呪い。
パンタグリュエルに足を踏み入れた時から、ランの異変には気付いていた。
入念に下準備がされていたようで、艦内にいる限り、ランの力は大きく制限される。
どの程度の負荷が掛かっているのかは定かでないが、暫くは頼れそうにない。
『おぬしこそ、顔色が優れぬようだが。無理はするな』
「平気。ほら、行こう」
虚勢を張っていることはバレているかもしれない。
心身ともに追い込まれていた。雲の上を行く監獄も同然だ。何処にも逃げ場がない。
冷静になれ、アヤ・ウォーゼル。冷酷に、冷徹に今を見詰め、考えろ。
私がこの白銀の巨船に乗ったのは、皆を救うため。その目的は果たせた。
ランを頼ることができない以上、次なる一手は私自身の手で捻り出すしかない。
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贅を尽くした貴賓区画は芸術性に溢れ、1つの作品のように感じられた。
格間天井の下に広がる空間は上品極まりなく、一種の舞踏会場を連想させた。
揺れも駆動音も無い。ここが地上から百セルジュ上空だという現実を忘れそうになる。
「リィン、いる?」
コンコンと3回ノックをしてから、返答を待つ。
反応が無いため、もう3回。たっぷり1分間待っても、声すら聞こえなかった。
「・・・・・・リィン?」
訝しみながらドアノブを回すと、ガチャリと音を立てて扉は開いた。
悪いとは思いつつも、一抹の不安を覚え、私はそっと室内へ足を踏み入れた。
部屋の間取りは私に充てられたそれと同じだった。
違ったのは、中にいた人間。予想だにしない男性が、気怠そうにソファーへ座っていた。
「あっ」
「あん?・・・・・・何だ、狼の飼い主か」
身食らう蛇が執行者№Ⅰ、『劫炎』のマクバーン。
マクバーンは首を上げて私を一瞥した後、すぐに元の姿勢に戻り、瞼を閉じた。
「クク、あの小僧なら確か、右隣の部屋じゃなかったか」
そして同№Ⅷ、『痩せ狼』ヴァルター。
私という人間を形成した欠片の1つであり、断ち切ることができない存在。
ヴァルターは窓際で紫煙を吐き出しながら、指で右方向を示していた。
「・・・・・・部屋、間違えたみたい」
どうやら単純に、部屋を間違えただけだったようだ。
思わぬ面子に驚かされたが、考えてみればこの艦体は貴族連合の本拠地に当たる。
昨日は協力者達が一手に募ったのだから、同じ場所へ泊まっていてもおかしくはない。
それにしても、煙ったい。
頭上の換気扇は回っているようだが、ヴァルターの吐いた紫煙が部屋に立ち込めていた。
「嫌いな匂いじゃねえ筈だろ。昔は愛煙家だったって聞いたぜ」
「・・・・・・何で知ってるの」
「それを聞くかよ」
―――ブルブラン、か。
3年前、あの男は私の全てを知っていると言った。
あの時は認めたくはなかったが、今となっては現実味が感じられた。
紳士の二つ名が聞いて呆れる。人を不快にする天才だ。嫌悪感で顔が青ざめる思いだった。
「ちょうどいい、1本付き合えよ」
ヴァルターは煙草を1本取り出すと、それを器用に指で弾き、私の右手に持たせた。
反射的に受け取ってしまったが、付き合えと言われて素直に従う理由は見当たらない。
「周りが嫌煙家だらけでな。肩身が狭くって仕方ねえ」
「私、これでも学生なんだけど」
「バーカ、甘えよ。昨晩もその甘さを突かれたばかりなんだろ。手前は戦場で『学生だから殺さないで』なんて台詞を吐くつもりか?」
すぐには言い返せなかった。
詭弁であることは理解していたが、正直に言って一部は否定できない。
それに、これはいい機会かもしれない。
今のところ敵意や殺気は感じられない。2人とも身体が弛緩し切っていた。
状況に応じて、立場を使い分ける。学ぶ立場にない、19歳の遊撃士としての私。
戒めを受ける必要があるなら、後々喜んでそうすればいい。
「クク、それでいい」
私はマクバーンの反対側の座椅子に座り、足元にランを置いた。
手にしていた煙草を咥えると、どういうわけか先端に赤い光点が浮かんだ。
息を吸うと、火種ができた。驚きの余り、口から零れ落ちそうになる。
「今の、あんたがやったの?」
「特別サービスだ。次からは自分で灯せよ」
駆動も詠唱も介さない、マクバーンによる小さな小さな発火現象。
声が震えてしまった。その気になれば、私の両目を焼くことすら造作も無いのだろう。
この男には触れない方がいい。下手をすれば一瞬で灰と化してしまう。
私は煙を肺に入れないよう一度口で吹かし、慎重に透明な空気を吸い込んだ。
さて、どう切り出すべきか。迷っていても仕方ない。
「結社の人間は、全員この艦内にいるの?」
「いきなりだな。だがまあ、5人全員乗ってる筈だぜ」
痩せ狼、劫炎、怪盗紳士、神速、そして蒼の深淵。
現時点で確認している人間は5人。貴族連合に関わっている面子は、全員把握できているようだ。
漆黒の傀儡を操っていたアルティナという少女は、結社に属していないということか。
ミリアムと何らかの関連性があることは確かだろうが、あの少女だけは謎が多すぎる。
ヴァルターが差し出したガラス製の灰皿に灰を落とし、煙を吸う。
僅かに肺に入ってしまい、咳込みそうになるのを堪え、私は再び投げ掛けた。
「それで、一体何が目的なの?クロスベルの一件も、今回の内戦も・・・・・・何がしたいのか、さっぱり分かんない。貴族連合に協力して、何かいいことがあるわけ?」
「さあな。計画に必要だってことしか知らねえし、どうだっていい。そういうのは柱に聞けよ」
どうでもいい筈がない。が、ヴァルターは本気で言っているのだろう。
この男は単に闘争欲求に身を任せているだけだ。
計画とやらが何を指すのかは分からないが、中心にいるのは蒼の深淵。
ヴィータ・クロチルダが、その計画を握っていると考えていい。
「おい、もっとマシな話を振れや。煙草が不味くなっちまうだろうが」
どうも要領を得ない。
もう少し情報を引き出したいところだが、強制はできない。私はこの男の前では無力だ。
もっと柔軟に、この空間に溶け込め。ヴァルターの興味を惹く、何かを。
「・・・・・・ラン・シャンファ」
無意識のうちに、お母さんの名を口にしていた。
記憶の底に埋もれていた事実。7年前にヴァルターが見せた、薄気味悪い笑みの理由。
ヴァルターはあの時と同じ、気分の高揚を隠し切れないような表情を浮かべていた。
私は2本目の煙草を受け取り、もう暫くの猶予を得た。
「あんたは・・・・・・私のお母さんを、知ってるの?」
「クク、イエスとだけ言っておくぜ。勿論、面識はねえがな。名は何度も聞いたことがある」
7年前のやり取りから、ヴァルターがランの名を知っていることは明白だった。
以前の私には、両者を繋ぐ接点がまるで思い浮かばなかった。
共通点があるとするなら、達人と呼べる領域にいる使い手であり、体術に秀でていること。
「じゃあ、やっぱり泰斗流を修めてるんだ」
今の私は、もう2つ。2人の共通点を知っている。
1つは出身国。いずれも共和国生まれの、共和国育ち。
ヴァルターのある程度の素性は、ヨシュアが教えてくれていた。
2つ目が、泰斗流。東方を発祥とする、徒手空拳を主軸とした流派にあった。
お母さんが剣と共に私に叩き込んだ体術の名を知ったのは、士官学院に入ってからだ。
アンゼリカ先輩が指南してくれた技術体系は、お母さんのそれと余りに酷似していた。
この2つを結び付ければ、想像するに容易かった。
お母さんもヴァルターも、元は同門の出だったと考えればいい。
お母さんは16歳から2年の時を費やし、我流の長巻術を編み出した。
無手組の世界に身を置いていたのは、それ以前のことの筈だ。
そしてヴァルターが泰斗流を修め始めたのは、その後のこと。
外見から察するに、お母さんとの年齢差は5~6歳ぐらいか。これなら全て説明が付く。
「惜しい女を亡くしたもんだぜ。もし存命だったら、指折りの使い手として名を馳せていたかもしれねえしな」
「・・・・・・そう」
奇妙な感覚だった。
ヴァルターがお母さんを偲び、こうして面と向かって会話を交わしながら紫煙を吐く。
こんな日が来るだなんて、7年前の私には想像も付かなかった。不思議な巡りあわせだ。
「だからこそ手前に期待してんだ。さっさと力の使い方を覚えやがれ」
「そう言われても・・・・・・」
「それだけの才を継いでんだぜ。気穴を抉じ開けた甲斐がねえだろうが」
力。お母さん譲りの、力。
月光翼は私の確かな力になっている。だがヴァルターが言う力は、その向こう側。
極・月光翼。この身を滅ぼす代償として、引き出される巨いなる力。
一歩間違えれば死に繋がる。以前に病院生活で済んだのは、ランとエマがいてくれたからだ。
「おいおい、そいつは違うだろ」
不意に、正面からマクバーンの声が聞こえた。
眠っているとばかり思っていたが、話を聞かれていたようだ。
マクバーンはソファーに預けていた身体を起こし、眼鏡を外して目元を擦る。
その体勢のまま、顔を覗かれた。私の何かを窺うように、じっと観察するような目付きで。
やがてマクバーンは右の口角を上げ、小さく笑いながら言った。
「雌だけじゃねえさ。どっちかって言うと、雄の方が濃く出てるみてえだな」
「・・・・・・雄?」
「親父さんの才も継いでるって言ってんだよ。お前の先天的な力の半分以上は、後者だ」
昨晩に引き続き、瞬時にして空気が変わった。
頭の中にいくつもの疑問符が並んでいき、思考が追い付いて来ない。
ヴァルターも、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「何を・・・・・・言ってるの。お父さんは、違うよ」
「違わねえよ。随分と恵まれた体質みたいだが、片方だけじゃそうはならねえさ」
「で、でもお父さんは普通の人だったよ。元は軍人だったけど、私は・・・・・・ケホ、コホッ!」
今度は相当な量の煙を吸ってしまい、涙と共に紫煙が体外へ込み上げてくる。
何とか呼吸を落ち着かせてから目元を拭い、睨み付けるようにマクバーンと視線を重ねた。
雌だの雄だの、唐突過ぎて少しも飲み込めない。
動揺する私の方もどうかしている。唯の戯れ言として受け流せばいいだろうに。
「そんな顔すんなよ。俺は見た通りのことを言ってるだけなんだぜ」
「訳分かんない。もっと分かるように言ってよ」
「さっきから言ってるだろ・・・・・・お前は両親に恵まれた。女と男に、動と静ってところか。相反する気質ってのは、時に強大な力を生むもんだ。両者共々、相当な使い手だったんだろ」
違う。声を荒げたいのに、言葉にならない。
到底理解に及ばない。面識が無いと言っていいこの男が、私の両親に届く筈がない。
でも、それでも―――マクバーンという存在自体が、人という域を脱している。
だからこそ、言い知れない不安が身体の中を突き上げてくる。
分かるように言えと言ったのに、並べられた遠回しな表現が一層の混乱を引き起こしていた。
(お父さん・・・・・・お母さん)
平静を保つために、できる限りの想い出を呼び起こしていた。
産まれた直後の私を抱きながら、ベッドに眠るお母さんの写真。お父さんの笑顔。
私はお母さんがお腹を痛めて産んだ子供。お母さんはお父さんを愛していた。
確かな想い出がある。何処にも嘘偽りなんてない。
『やはりそなたには、ラン殿の面影がある』
『アヤ様が練武場の門を開いた際に。その姿が、ラン様と』
そう、私はお母さんの娘だ。
何処にも疑う余地は無い。
『私はお母さん似みたいなんです』
『どうやらあなたはお母さん子だったようね』
少し思い起こすだけで、沢山溢れ出てくる。
でも、どうしてだろう。この悪寒は何なのだろう。
『収穫前の麦のように輝く細髪がよく似合う、この国で暮らす叔父さんだった』
『ほら、《Ⅶ組》じゃ黒髪は2人だけだし』
今まで見過ごしてきた数々の事。
当然のように受け入れてきた事実が、全く別の意味を示唆しているとするなら―――
『でもお父さんだって純粋な帝国人なんでしょ?』
『私の外見については、生前のお父さんの悩みだったとも聞いていた』
―――止めだ。馬鹿な事を考えるな。
私は今、冷静さを欠いている。憶測に妄想を重ねて何になる。
テーブルに置かれたシガーケースから、震える右手で3本目を取り出し、火を点けた。
喉は渇いていた。が、今は水よりも落ち着ける何かが欲しかった。
「・・・・・・おい。お袋は何歳の時に国を出た」
今度はヴァルターが、お母さんの年齢に触れた。
勘弁して欲しい。脈絡が無いにも程がある。年齢が何だと言うんだ。
憤りの似た感情が不安を追いやり、たぎり始めていた。
「18歳だよ。それがどうしたの」
「七耀歴で答えな」
「・・・・・・1184年だけど」
「それで、手前を産んだのはいつなんだ」
「翌年の19歳。クロスベルに来て、お父さんと出会ってからすぐに・・・・・・な、何?」
言い終えるより前に、ヴァルターは座椅子へ座る私の前に立った。
すると両手で私の肩を掴み、押さえ込むような姿勢で顔を近付けてくる。
鼻頭同士が僅かに触れそうになり、思わず顔を背けた。
「痛っ・・・・・・は、離れてよ。何のつもり?」
「俺の目を見ろ」
「い、嫌!離してって言ってるでしょ!」
「いいからじっとしてろ!!」
「嫌ぁ!!」
肩ではなく、顔を掴まれていた。
強引に視線を固定され、私の眼前にはヴァルターの顔だけが映っていた。
こけた頬と、特徴的な目鼻立ち。そしてサングラス越しに見える両目。
取って食われるかもしれない。本気でそう感じた。
恐怖に脅え、歯がカチカチと音を鳴らし、全身から汗が流れ出ていく。
すると獰猛で鋭い目が一際大きく見開かれ―――突然、恐れが消えた。
(・・・・・・何?)
変化の幅は大きく、且つ一瞬だった。
ヴァルターは、私の背後。少し遠くを見るような目で、私の先を見ていた。
何かを思い出すように。過ぎ去った何かを想うように、表情から険しさが失せていた。
「お願い・・・・・・離して。ランも、もういいから」
ヴァルターの腕を引き剥がしてから立ち上がり、距離を取る。
ヴァルターの足に噛み付いていたランも、私の足元へと駆け寄った。
何の抵抗も、力も感じなかった。余りの変貌に、私の方が戸惑いを覚えた。
ヴァルターはゆっくりと踵を返し、煙草に火を付けながら扉へと歩を進めた。
「ま、待ってよ。今のって―――」
声を掛けようとしてすぐに、木製の扉が文字通り爆ぜた。
砕かれた扉は跡形も無く、木片だけが出入り口の周囲にパラパラと落下し始める。
予備動作の無い、零距離からの寸勁。私やアンゼリカ先輩のそれとは比較にならなかった。
「クソが。興醒めだ」
その一言だけを残して、ヴァルターは部屋を後にした。
二転三転した一連の事態に、私は口を閉ざしながら立ち尽くしていた。
マクバーンだけが何事も無かったかのように、木端微塵に破壊された扉を見詰めていた。
「おいおい、マジか。ったく、人様の部屋を壊しやがって」
「・・・・・・ねえ。私、何かした?」
「さあな。ま、あいつにも色々あるんだろうよ。執行者ってのは、大方そういうもんだ」
色々、か。その色々に、私が関わっているということだろうか。
お母さんはともかく、私自身には7年前の一件を除いて、思い当たる節が無い。
ヴァルターは何を見ていたのだろう。少なくとも、私を見てはいなかった。
それに―――お父さん。
前後の出来事に、関連性があるのだろうか。全部、繋がっているのだろうか。
もし本当に、繋がりがあるとするなら。
私は何だ。私は誰で、何処から来た。
ヴァルターは一体、私の何だと言うんだ。
思考が停滞しつつある私とは裏腹に、マクバーンは鼻で笑いながら言った。
やはり私には、理解できなかった。理解したくなかった。
「昔の女でも思い出したんじゃねえのか。あれはそういう顔だ」
自らが吐き出した紫煙に包まれながら、私は過去を想っていた。
どうやら私は、これからもこんな日々が続くらしい。
過去を知り、今に苛まれ、行ったり来たりを繰り返しながら、世界が回る。
ただ、世界が回っていた。