絢の軌跡Ⅱ   作:ゆーゆ

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1184年某月 「ユイ」

七耀歴1184年、6月1日。

冬枯れの木々が芽吹き、年間で最も緑が輝く新緑の季節、6月。

 

クロスベル自治州の中心地、クロスベル市は、過去に例を見ない賑わいで溢れていた。

十数年の歳月を要した大陸横断鉄道の開通に続いて、その玄関口となるクロスベル駅の完成。

鉄路は革新的な物的流通を生み出し、人々の生活は一時を境にして一変した。

 

呼応するように、クロスベル議会と市政は『都市計画第1期プラン』へ着手。

中心街を主として、クロスベル市を壮麗な近代都市にしようとする計画案が開始された。

IBCやエプスタイン財団からの出資を元に、ジオフロント区画の整備も同時期にスタート。

住民らの多くは輝かしい未来を信じ、漲る活力を頼りに汗を流す日々を送っていた。

 

そんな6月の1日、東通りに佇む一軒の居酒屋、兼食事処。

看板すら掲げない名も無き店へ足を運ぶ者達は、好き好きの名でその店を呼んでいた。

とりわけアカシア荘の住民らは、日中は『食堂』というシンプルな呼び名で。

そして夜は『飲み屋』として、徒歩30秒という立地を味方に、毎日のように通っていた。

 

「あれ、フェイじゃないか。昼時に食堂で会うのは久しぶりだな」

 

レイン・キャラダインもその1人。

レインがフェイと呼んだ男性もまた、アカシア荘の一室で生活する住民だった。

2人の付き合いは、レインが2年前に国境の向こう側、エレボニア帝国から越してきて以来。

意気投合した2人は、夜に飲み屋で杯を交わすのが常だった。

 

「ん・・・・・・レインか。言われてみれば、いつ以来かな。先月の上旬ぐらい?」

「ずっと忙しそうにしていたからな。無理も無いさ」

「ハハ、贅沢な悩みだよね。仕事の方は漸く落ち着いてきたよ」

 

フェイは若手ながらも優秀な鉄道技師として、大陸横断鉄道の開通へ大いに貢献していた。

その分多忙な日々が続いていたのだが、鉄道網は当初の予定通りに運用を開始。

特に大きな支障も無く、物や人を乗せた列車は鉄路を駆け抜け、東西を繋げていた。

 

レインはフェイが座るテーブルの向かい側に腰を下ろし、壁に掛けられた暦へ目を向ける。

未だ5月のカレンダーは剥がされておらず、約束の日付の曜日がすぐには浮かんで来ない。

 

「それで、いつ引っ越すんだっけ。もう荷造りは始めてるのか?」

「全然だよ。仕事のせいで手付かず仕舞い。彼女とも最近は会えていないんだ」

「・・・・・・新婚らしさが皆無だな」

「心配は無いさ。僕の仕事のことは理解してくれてるし、予定通り来週には引っ越すよ」

 

フェイは先月の中旬に婚約していた。

すれ違いはあれど、お互いに想い合う感情は本物。

技師として尽力するフェイの姿に惹かれたからこそ、彼の多忙は伴侶の誇りでもあった。

 

既に籍は入れており、新婚生活の場であるアパルトメントも確保済み。

先々に増えるであろう家族のことも考慮し、間取りの広い一室を選んでいた。

 

「前にも言ったけど、引っ越しには手を貸すよ。上司にお願いしたら、軽トラックを使ってもいいって言ってくれてさ。有難く使わせて貰うことにしたんだ」

「おっと、それは助かるな。プロに任せておけば間違いは無さそうだ」

「フェイ達の新居を見ておきたいってのもあるんだけどな。結構いい部屋を借りたんだろ?」

 

フェイは「まあね」と答えてから、傍らにあった鞄から1枚の図面を取り出す。

部屋の間取りが描かれた書類がテーブルに置かれると、レインは感嘆の声を漏らした。

 

「随分と部屋の数が多いな。ていうか、少し気が早過ぎないか?」

 

レインが指差したのは、図面にある2つの部屋。

そこにはそれぞれ『子供部屋』と記されており、フェイが思い描く未来を思わせた。

 

「女の子には自分の部屋が必要だと思ってね。今時珍しくもないと思うけど」

「いや、だからその事を言ってるんだよ」

「名前ももう考えてあるんだ。長女が『ウェンディ』で、次女が『パンセ』」

「・・・・・・ああ、そう」

 

幸せそうな笑みを浮かべるフェイの表情を眺めながら、レインは空の女神へ祈りを捧げた。

どうか僕の親友の伴侶へ、2つの子宝を。そしてできることなら、共に女の子を。

レインの祈りが通じたのか、フェイは2人の娘へ愛情を注ぐ日々を送ることになる。

が、フェイは勿論、レイン自身にも知る由が無かった。

 

「それで、レインの方はどうなんだい」

「どうって?仕事の方は僕も順調さ」

「そうじゃなくって・・・・・・この際だから言うけど、僕から言わせれば、君みたいな男性から女性の話を聞かないのが不思議で仕方ないよ」

「そう言われてもな・・・・・・」

 

困り顔のレインに、フェイは大きな溜め息を付いた。

同性の目から見ても端整と思える顔立ちに、理想的な体型。黄金色の細髪。

人当たりの良さが滲み出ており、裏表の無い純粋な人柄は信頼を生む。

たったの2年間の付き合いとはいえ、フェイはレインのほとんどを知り尽くしていた。

 

「今は仕事が楽しいんだ。僕だって生涯独り身を通す気は更々無いけど、こういう事は考えたって仕方ないだろ。自然の流れに身を任せるだけさ」

「ハハ、君らしい物言いだな」

 

本当にレインらしい。

フェイがそう考えていると、レインは壁の時計を見てからハッとした表情を浮かべる。

するとコップに入っていた水を一気に飲み干し、腰を上げた。

 

「あれ、昼飯を食べに来たんじゃなかったのかい?」

「小休憩だよ、もう行かなきゃ。フェイ、また今度な」

「君も君で忙しそうだね。焦って事故らないでくれよ」

 

事故らないよ。レインはそう答えてから、胸のポケットから導力車のキーを取り出す。

慌ただしく食堂を後にしたレインの背を見送ってから、フェイは伸び切った麺を啜った。

 

___________________________________

 

レインの実家は帝国の西部にあった。

父親は帝国正規軍の尉官を務める厳格な男性で、母親も軍の詰所で働くスタッフの1人だった。

当然のように、レインの未来には両親が思い描いたレールが敷かれていた。

両親へ反抗した事など一度も無かった。将来の道を問われた時だってそう。

レインは自らの意志で両親に応え、レール沿いに歩を進める事を拒まなかった。

 

だから、なのだろう。レインはどうしても好きになれなかった。

戦車のキャタピラが奏でる走行音に銃声、軍人に求められる何もかもが。

訓練の最中に右足を負傷してしまったのは、そんな迷いが根底にあったからなのかもしれない。

 

後遺症を背負ったと言っても、日常生活は支障無く送れる程度の傷痕だった。

言い訳が欲しかったのだ。両親の願いを退け、別の道を歩む為の理由が欲しかった。

結局レインは親元を離れ、友人の伝手を頼りにして、見知らぬ地へ飛び込んだのだった。

 

軍人としての日々は無駄にはならなかった。

1183年に設立された運輸会社『クロスベルニコニコ運輸』、通称クロニコ便。

個人から個人へのお手軽な小口宅配事業というサービスは、口コミで徐々に広がっていった。

導力車による徹底した流通網は迅速且つ正確な配送を実現し、翌年には鉄道と提携。

大陸横断鉄道を介した物流は国境を越え、冷蔵車の開発は生鮮品の宅配を可能にした。

正規軍で導力車の運転技術を身に付けていたレインは、貴重な人材の1人だった。

 

「・・・・・・良い天気だな」

 

6月1日、午後13時。

レインは配送車の窓を開け車内の空気を入れ替えながら、西クロスベル街道を走っていた。

行先はクロスベルの西端、ベルガード門。目的地は1つでも、届け物は荷台へ多数抱えていた。

 

人と人を繋ぐ配送業に、レインは大きな遣り甲斐を感じていた。

受け渡しの際に目にしてきた笑顔は、荷物以上の物を送り届けたという実感を抱かせた。

収入は平均的で単純な配送業が、レインにとっては天職と呼べる物になりつつあった。

 

「ん?」

 

レインは目を凝らして前方を見やると、ブレーキを踏んで車を止めた。

街道沿いに点在する導力灯は光源であると共に、魔獣除けとしての重要な機能を担っている。

その1つが今、消えていた。木々の影になっている分、光が失われているのがすぐに分かった。

 

「危ないな。後で連絡しておかないと」

 

この場合、何処に連絡を入れればいいのか。

警察ではないし、直接自分が遊撃士協会へ依頼するのも違う気がする。

市庁舎か、或いは会社の上司に連絡するか。いずれにせよ、放置はできない。

 

まずは配達を終わらせてからだ。

そう考え、レインが再びアクセルを踏もうとした、その時。

 

「っ!?」

 

突然、配送車の後部から衝撃を感じた。

けたたましい音と共に到来した力がレインを襲い、最悪の可能性を思わせる。

 

(ま、不味い)

 

慌ててアクセルを踏んでも、タイヤは地面を擦り、空転するだけ。

背筋に悪寒が走り、恐る恐るサイドミラーへ視線を向けると―――いた。

 

見えるのは上半身。魔獣が地面の中から半身を覗かせ、荷台へ巨腕を突き刺していた。

見るからに堅そうな体毛で半身は覆われており、その巨体は鏡越しでも一目瞭然。

荷台へ刺さっていた腕とは別、もう一方の腕の先には、やはり凶悪そうな爪。

金属製の荷台を物ともしない爪先が、再び配送車へ突き刺さり、不快な音が響き渡る。

 

「く、クソ・・・・・・うわぁっ!?」

 

懸命にアクセルを踏んでいると、地面が大きく傾いた。

配送車の右側のタイヤが地面を離れ、運転席に座るレインの身体に、ベルトが食い込んでいく。

恐怖に耐え切れずに瞼を閉じると、一際強い衝撃がレインを襲った。

配送車が横転したであろうことは、起き上がらずとも理解できていた。

 

側頭部に痛みが走り、左の上腕がそれに続いた。

軍に身を置いていた経験が活きているのか、レインは努めて冷静に状況を見極めていた。

側頭部の痛みは掠り傷、左腕も大事無い。五感もハッキリしている。

古傷が疼く右足に鞭を打ち、両足で立ち上がると―――光が、遮られた。

 

「ハハ・・・・・・参ったな」

 

頭上に位置していた、運転席側の扉。

ゾッとするようなその両目で、車内を覗かれていた。

魔獣の目には、自分は餌のように映っているのだろうか。いずれにせよ、もう手立てが無い。

 

レインは大きな溜め息を1つ置いてから、再び頭上を仰いだ。

両親の期待を裏切った報いと思えば、まだ諦めが付く。

既に他界していた。報せてくれたのは、自分と同じように我を貫いた唯一の弟。

同じ帝国で暮らす弟にさえ、訃報が届いたのがこの世を去ってから2週間後だった。

親不孝な兄弟だった自覚はある。だからリオンの分まで、自分が背負えばいい。

 

「グオオオォォ!!!」

 

魔獣が咆哮を上げ、破壊されたトラックがカタカタと揺れた。

苦痛は嫌いだ。せめて苦しまずに、一思いに一瞬で。

 

「―――連舞、飛燕投月」

 

目を閉じてその瞬間を待っている最中、女性の声が聞こえた気がした。

空耳だと思い身を固めていると、どういうわけか、何も起きなかった。

やって来るであろう痛みも、咆哮も無い。初夏の気温が、全身へ汗を浮かばせるだけ。

 

「ふう。どうやら間に合ったみたいだね」

「え・・・・・・」

「手を貸すよ、ほら」

 

まるで正反対の光景だった。

魔獣の悍ましい両目は消え、代わりにあったのは―――猫のような小顔と、愛くるしい細目。

ドクンと、胸の高鳴りを覚えた。その場凌ぎの覚悟は、綺麗さっぱり立ち消えていた。

頭上から差し出された右手を握ると、生への執着心が一斉に騒ぎ出す。

 

「き、君は・・・・・・それに、魔獣は?」

「蹴散らしてやったよ。あたしはラン。今日転属して来たばかりの遊撃士さ。アンタは?」

「れ、レイン。レイン・キャラダインだ」

 

レイン・キャラダイン。ラン・シャンファ。

昼下がりの新緑の葉々が風に揺れる音と共に、出会いは始まりを告げた。

 

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一命を取り留めたレインは、ランと共にクロスベルの本店へ戻り、事の経緯を説明した。

すぐに襲われた配送車は回収、故障していた導力灯も、既にランの手により修繕されていた。

荷台に積まれていた荷物は、レインが別の配送車を走らせ、無事に送り届けることができた。

ランはその全てに付き添いながら、事の成り行きを見守った。

 

そして同日、午後19時。

『食堂』が『飲み屋』へ名を変えた頃の時間帯に、暖簾をくぐる2人の男女の姿があった。

 

「さあ入ってくれ。遠慮は要らないよ」

 

レインが先んじて店内に入りテーブル席に着くと、向かい側の席にランが腰を下ろす。

すると周囲からは、驚きの声と冷やかしの視線が相次いだ。

それもその筈、女っ気が皆無だったあのレインが、見知らぬ女性を連れて来たのだ。

レインは「そんなんじゃない」と否定し、ランは小さな苦笑を浮かべた。

 

「改めてお礼を言わせてくれないか。君のおかげで助かったよ。本当にありがとう」

「礼はいいって言ってるだろう。あたしは依頼を受けてあの場に居合わせただけさ」

 

共に行動する道中に、ある程度の身の上話はお互いに明かしていた。

レインは運輸会社に勤める身であり、帝国西部出身で、2年前からクロスベルに滞在している事。

ランは共和国出身の遊撃士、そしてクロスベルは今日が『初めて』であった事。

そう、ランがクロスベルの地に降り立ったのは、今日の午前中の出来事だった。

 

共和国から列車でクロスベル入りしたランは、遊撃士協会のクロスベル支部へ向かった。

そしてランが転属の手続きを終えた頃に、協会支部へ1つの依頼が舞い込んで来た。

その内容というのが、西クロスベル街道沿いにある導力灯のバッテリー交換。

人手不足に悩まされていたクロスベル支部は、容赦無く当日に転属したばかりの人間を走らせた。

受付係の判断に間違いは無かった。一歩遅れていたら、レインは間違いなく助からなかったのだ。

 

「あれ?でもそれなら、僕は配送車で君を追い越した筈だよな。気付かなかっただけか?」

「いやあ、実は道に迷っちまってね。あたしもアンタの車は見掛けなかったよ」

「・・・・・・あの街道は一本道だと思うけど」

「い、一本道でも迷う奴は迷うんだよ」

 

ランは照れを浮かべながら、言い訳になっていない言い訳を並べた。

レインはクスリと小さく笑った後、「そうだな」という一言の優しさを以って話題を変えた。

 

「それで、初クロスベルの感想を聞かせてくれよ。いい街だろ?」

「ああ。アンタのおかげで色々と見て回れたし、礼を言うのは寧ろこちらの方さ」

 

レインは配達の後、上司からの指示で早めに業務を切り上げる事にした。

掠り傷とはいえ、魔獣の襲撃により負傷した身。上司の判断は当然の物だった。

レインはその足で、クロスベルは初だと言うランを連れて、夕刻からクロスベル市を案内して回っていた。

 

発展途上都市の終期、その独特の熱気は、ランにとっても新鮮味溢れる賑わいだった。

最後に辿り着いた先がレインの住まいであり、ランの新居となるアカシア荘。

そしてアカシア荘の住民がこよなく愛する、この飲み屋だった。

 

「小さい店だけど味は確かだし、お礼も兼ねてご馳走するよ。好きに頼んでくれ」

 

レインがメニューを差し出して注文を促すと、ランは一瞬、戸惑いの色を浮かべた。

有るか無しかの僅かな感情の揺らぎは、確かにレインの目に映っていた。

 

「あれ、どうかしたのか?」

「いや・・・・・・この店は初めてだし、料理はアンタに任せるよ。酒は選ばせて貰おうかな」

 

ランの不自然な態度は、初対面ながらも何かしらの事情を匂わせた。

レインはその気付きを表に出さないよう、努めて自然に振る舞い、胸の内に仕舞い込んだ。

 

「なら僕のお薦めを頼むとしようか。共和国出身なら、東方の料理が口に合いそうだな」

「おっ、楽しみだね。それと申し訳ないけど、あたしは飲み始めると底無しに飲んじまうんだ。先に謝っておくよ」

「それは僕も同じさ。仕事上がりの一杯が生き甲斐の人間でね」

 

この日の翌日。2人は店内で朝を迎えることになる。

二日酔いの極みに陥ったレインは上司からこっ酷く叱られ、ランは転属後の初日から大寝坊。

大失態を演じた2人は、それでも新しい出会いに対し、お互いに異なる感情を抱いていた。

 

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ランがクロスベルの住民となってから3週間が過ぎた、6月22日の夜。

 

「お疲れさん。今日も市内を走り回ってたみたいだな」

「まあね。おかげで美味い酒が飲めそうだよ」

 

仕事上がりの一杯を噛み締めるレインの習慣に、1つの変化が訪れていた。

大半をフェイと過ごしていた労いの時間は、ランと共有することが日常になりつつあった。

勿論フェイとの付き合いは続いていたのだが、フェイはその席を譲る事が多かった。

親友を想うからこその気遣いに気付かない程、レインも鈍感ではなかった。

 

「配達先で君の話をよく聞くようになったよ。随分と評判が良いじゃないか」

「買い被り過ぎだよ。あたしは遊撃士の務めを果たしているだけさ」

 

クロスベル中を奔走するランの姿は、多くの人間の目に留まっていた。

たったの3週間で、ランは皆から愛される遊撃士の1人になり始めていた。

遊撃士としての実力は勿論、猫を連想させる人懐こさに、屈託の無い笑顔と無邪気な振る舞い。

レイン同様に裏表の無い性格は好意的に受け入れられ、彼女のファンは日に日に増えていった。

初日こそ大寝坊という過ちを犯したものの、協会支部には連日感謝の手紙が贈られていた。

 

「長巻っていうんだっけ、その刀。そんな長物をよく扱えるよな」

「これでもB級遊撃士だからね。慣れれば誰にだって振るえる物だよ」

「・・・・・・少なくとも僕には無理そうだ」

 

レイン自身も、少しずつランの人となりを理解し始めていた。

 

ラン・シャンファ。年齢は18歳。レインの5つ下。

共和国出身で、幼少の頃に両親を亡くした身であり、身寄りはいない。

史上最速でB級遊撃士となった実力の持ち主で、魔獣の討伐依頼を苦も無くこなしてしまう。

一度実演して貰った剣舞は華麗過ぎて、レインは目が釘付けになってしまった。

その全てが我流で編み出したと言うのだから、とても年下の女性とは思えなかった。

 

一方で、度々ズレた言動を見せる。

極稀にではあるが、仕事上でも似つかわしくないミスをする。

大半の人間には、それすらもがランの魅力として映っていた。

 

そしてレイン同様、無類の酒好き。ビールを唯の麦茶の如く、一気に飲み干す。

食物や料理に好き嫌いは無く―――というより、味の嗜好が見えてこない。

些細な引っ掛かりだった。ずっと抱いていた疑問を、レインは初めて口にした。

 

「なあラン。1つ聞いてもいいか」

「何だい、改まって」

「もしかして、だけどさ。味の感じ方に・・・・・・何か、あるのか?」

 

ひどく曖昧な言い回しだった。にも関わらず、ランの呼吸が一瞬止まった。

細目を大きく見開いてレインを見詰める彼女の様は、肯定を意味していた。

ランはジョッキに注がれたビールを半分に減らしてから、「驚いたね」と前置いて切り出した。

 

「気付かれるとは思わなかったよ。いつからだい?」

「つい最近さ。色々と調べたんだ」

 

思い当たる節はいくつもあった。

極端に味付けの濃い料理を好み、塩や醤油を過度に使う。

薦めた品々の感想を求めると、時折的外れな答えが返ってくる。

何より出会って初日に、ランが見せた戸惑いの色。

あの態度に引っ掛かりを覚えていたレインにとって、その答えに行き着くのは時間の問題だった。

 

「ストレス性の味覚障害?」

「医者はそう言っていたよ。どういう訳か、酒の味は感じるんだ。でもそれ以外は・・・・・・味が呆けちまって、まるで食べた気がしない。困った馬鹿舌だよ」

 

レインには理解できなかった。

およそ悩みとは程遠い笑顔を周囲に見せる一方で、ランが抱える精神的なストレス。

精神の病は身体に現れることがある。それは経験的にレインも知っていた。

そして知識に乏しい彼にとっても、味覚に異常を来たす程の病が、どれだけ重い物なのかも。

 

「そう、なのか」

 

その正体を問う事は、果たして許される事なのだろうか。

当たり前の躊躇いを抱きつつ、レインは知りたい衝動に駆られた。

唯々純粋に、ランをもっと知りたい。そう思うからこその焦りと戸惑い。

 

「あたしにとっては、父親みたいな存在だった」

「え?」

 

複雑な胸の内に整理が付くより前に、ランが自嘲してから言った。

ランは頭上をくるくると回るファンを遠い目で見詰めながら、続けた。

 

「道を外れて、独りで馬鹿みたいに暴れ回るあたしを、導いてくれた。あたしは・・・・・・それだけで、よかったんだ」

 

―――よかった、筈なんだ。

それを最後に、ランはビールジョッキを空にして、安堵の色を浮かべた。味が在る、という安堵。

 

レインは全てを察せなくても、理解するに至った。

何故毎晩のように酒を呷るのか。どうして酒以外の味を、ランの舌は拒絶してしまったのか。

唯一感じることができる味わいは、残された喜びであると同時に、『酔い』という逃げ道。

過度な酔いは時に牙を向き、それでも一時の安らぎと安堵を与えてくれる。

本能的に選び取ってしまった選択は、崩壊への一歩。逃げは逃げ以外の何物でもない。

 

「・・・・・・おやっさん。厨房と食材を借りてもいいかい」

 

だからレインは上着の袖を捲り上げ、立ち上がった。

おやっさんと呼ばれた店主はレインを一瞥すると、ぶっきら棒な声で答える。

 

「場代と食材代はキッチリ払えよ」

「分かってるさ。恩に切るよ」

 

余りに突拍子も無いレインの行動を、ランは口を半開きにして見詰めていた。

レインが包丁で食材を切り始めたところでランは我に返り、上擦った声で言った。

 

「れ、レイン。何をしてるんだい?」

「軍にいた頃は、よく料理当番を願い出たんだ。まあ訓練をサボりたかっただけなんだけどさ」

「そうじゃなくて、一体何を―――」

「さっき言っただろ。僕なりに色々調べたんだ。少し時間をくれ」

 

問答無用とばかりに、レインは手を止めようとはしなかった。

この日を境にして、もう1つの変化が、2人へ訪れようとしていた。

 

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更に時は流れ、7月の上旬。

都市計画は順調の一途を辿り、レインが勤める運輸会社は目が回るような忙しさに見舞われた。

嬉しい悲鳴は社員へ多大な負担を強いつつ、社の利益や社員への報酬は見る見るうちに膨れた。

 

歓楽街として整備が進められていた区画には、本格的な劇場が創設された。

劇団名であり場の名称でもある『アルカンシェル』が誕生した瞬間だった。

同劇団は後に20年の歴史と伝統を積み重ね、大陸中にその名を轟かせる事になる。

 

そしてアカシア荘の傍らに佇む飲み屋。

2人の男女の特等席は、厨房とその対面に位置するカウンター席へと変わっていた。

 

「・・・・・・どうしてアンタが作った料理に限って、味を感じるんだろう。不思議だよ」

「ハハ、作った甲斐があるよ」

 

レインは料理の経験と知り得た知識を総動員させ、夜は厨房に立ち続けた。

出汁を十分に効かせ、食材の旨味を活かす。香りの強い柑橘類を使い、味にアクセントを加える。

料理の温度は極力低温に留める。健康に害を及ぼさない範囲で、香辛料や調味料を駆使する。

 

レインの努力は報われていた。

多くの工夫もさることながら、少しずつではあるが、ランの味覚は正常へと近付いていた。

それは同時に、ランが抱えている物が薄らぎつつあることを示していた。

 

「でもレイン、毎晩は流石に悪いよ。今週も休みが潰れちまったんだろう?」

「いいんだよ、僕が好きでやってる事なんだ。元々料理は好きな方でね」

「・・・・・・そうかい」

 

全ての原動力は、今し方ランが浮かべた笑顔。

周囲を巻き込んで明るく振る舞う姿と、剣を振るう際に見せる凛とした表情。

その裏に垣間見える、壊れ物のような危うさ。時折現れるもう1人の彼女。未だ知り得ない過去。

理解に遠い二面性が、愛おしく―――どうしようもなく、惹かれていく。

 

気付いた時には、夜が待ち遠しかった。

胸の奥底から込み上げてくる感情を、抑える事ができなかった。

 

でも届かない。それも薄々分かっている事だった。

裏表が無いようでいて、全く別の意味合いを孕んだ顔がある。知らない顔がある。

彼女は入り組んだ迷路の先にいる。彼女自身が、行き止まりの壁の前に立っているのだから。

 

淡く切ない感情は1つの奇跡を生み、それでも本質には届き得ない。

それぞれの想いが錯綜する一方で、クロスベル自治州は50回目の夏を迎えようとしていた。

 

________________________________

 

7月11日、午後14時。

連日の雨による湿気に多くの人間が悩まされ、陽の光へ恋しさを抱き始める時期。

レインは大粒の汗を額に浮かべながら、聖ウルスラ病院の通路を駆けていた。

 

「ら、ラン!」

 

一室の扉を慌ただしく開けた先には、患者用のベッドが3つ。

その内の1つに座りながら、ランはクロスベルタイムズの記事に目を通していた。

 

「レインじゃないか。どうしたんだい、そんなに慌てて」

「き、君が倒れたって聞いたからに決まってるだろ。大丈夫なのか?」

 

一報がレインの下へ届いたのは、時計の短針と長針が真上を向いた頃の時間。

本来なら今も彼は勤務中の身であるのだが、事情を聞いた上司は特別に早退の許可を与えていた。

慌てふためくレインとは裏腹に、ランは落ち着き払った様子で普段通りの笑顔を浮かべた。

 

「見ての通りさ。もしかしたら、疲れが溜まっていたのかもしれないね」

「はぁ・・・・・・君も人の事を言えないじゃないか。休みはしっかり取れてるのか?」

「まあ言い訳はできないね。診断の結果によるけど、さっき同僚とも話したんだ。大事を取って、数日間は大人しくしてるよ」

 

7月に入ってから、時折ランは気怠さや肩凝りを訴える事があった。

最近は梅雨の影響で体調を崩す人間が多く、ランもその1人。レインはその程度に受け取っていた。

 

だが今回は話が別だ。元々ランは遊撃士協会へ寄せられた依頼を複数抱えるのが常だった。

これを機に負担量を見直してくれるのなら、寧ろいいキッカケになる。

レインは額の汗を拭ってから、ベッドの傍らにあった椅子に座り、ランと会話を交わし始めた。

 

「失礼します。具合は如何ですか?」

 

声の方に2人の視線が向くと、そこには医師と思われる白衣姿の女性が立っていた。

ランの下へ歩を進めた医師の問いに対し、ランは体調は悪くない旨を伝えた。

すると医師は2人を交互に見詰め、含み笑いを浮かべてから、診断の結果を告げた。

 

「殿方がいるのなら、ちょうどいいですね。ランさん、おめでとうございます」

「はい?あの、それはどういう意味で―――」

「6週目に入った頃です。あなたのお腹には、新しい命が宿っているんですよ」

 

瞬間、時が止まった。

静寂とは根本が異なる静けさが到来し、病室が外界から遮断される。

壁の向こう側から聞こえる雨音も、時計の針が刻む音も、2人の耳には入らない。

 

「・・・・・・あの、どうされましたか?」

 

レインは医師が言い放った言葉を、頭の中で反芻した。

何度繰り返しても、どう解釈しようとも。答えは、1つ。

レインはゆっくりとした動きで、視線をベッドに座るランへ向けた。

 

そこには、表情が無かった。

感情や情緒を表す筈の表情が何も語ってはくれず、焦点さえもが合っていない。

人の型を模した人形だった。その様に、レインは恐怖すらもを抱いてしまう。

 

「・・・・・・ラン」

「っ!?」

 

レインが名を口にした瞬間、それは一気に豹変した。

呼吸は見る見るうちに乱れ、表情は歪み、声にならない声が喉から漏れ出す。

親を見失ってしまった子供のように、ランは裸足のまま病室から駆け出してしまった。

 

「ら、ラン!?」

 

レインが慌てて病室を飛び出すと、既にランの背中は遠くに映っていた。

掛ける言葉は見つからなかった。それでもレインは、ランの後を追って走り出した。

懸命に足を動かしても、手を差し伸べても距離は一向に縮まらず、背中は段々と遠のいて行く。

己の無力さに苛まれながら、レインはランの名を呼び続けていた。

 

_________________________________

 

屋上へ繋がる扉を開くと、追い求めていた背中があった。

早朝から続いていた雨脚は強まり、風も相まって嵐と化し始めていた。

頭上から降り注ぐ雨水で水浸しの病衣がランへ纏わり付き、目に見えて体温が奪われていく。

 

「ラン」

 

どうにか捻り出した声が想い人の名を呼び、嵐によって上書きされる。

その声が耳に届いたのか、気配を察したのか。ランは弱々しい声で呟くように漏らし始めた。

 

「あたしは・・・・・・どうして、こんなに馬鹿なんだ」

「ラン・・・・・・」

「分かっていた筈じゃないか。なのに、あたしは・・・あたし、は・・・・・・」

 

僅か1アージュ先にある筈の背中が、急速に遠のいて行く錯覚に陥った。

待ってくれているようでいて、嘲笑うかのように手は空を切り、届かない。

いくら手を差し伸べても―――届かない。

 

今更だな、とレインは独白した。

彼女は胸の奥に抱えた物の正体を隠しながら、それでも自分へ知らしめようとしていた。

未だ掴めていない『何か』の存在を匂わせつつ、決して明かそうとはしなかった。

自分自身、土足で踏み荒らすような真似をしたくはなかったし、覚悟が足りているとも思えない。

 

途方も無く深い後悔と、僅かなそれ以外の感情が、背中から滲み出ていた。

凄惨な過去ではない。悪意は何処にも無い。レインの目に映るのは、水浴びに没頭する女性だけ。

洗い流そうとしている。レインはそう受け取っていた。

本来は無条件で周囲から案じられる筈のその身を、嵐の真っ只中へ投げ捨てて。

 

見過ごせる訳が無かった。

背中へ触れるか触れないか、瀬戸際の距離に右手を差し出して、レインは言った。

 

「病室へ戻ろう。風邪を引くよ。もう君だけの身体じゃないんだろ」

「っ・・・・・・!!」

 

―――パシンッ。

 

おびただしい数の水滴が降り注ぐ雨音に、1つだけ乾いた音が紛れ込む。

強制的に右を向かされた視線が正面を見るよりも前に、ランの姿は屋上から消えていた。

 

雨水と共に去来する、どうしようもない虚無感。

それ以上の勢いで沸き上がって来る、抑えようのない感情。

レインは黒々とした雨雲が充満する空を仰ぎながら、問い続けた。

 

6週間前、それよりももっと以前から、ランを苛み続けている何か。

一体何が彼女を。そして自分にできることは。僕は彼女の、何なんだ。

 

初夏は春の終わりを告げ、出会いと始まりは唐突に儚き幻想へと姿を変える。

そして新たなる決意を胸に、男性は止まっていた足を再び動かし始めた。

たとえ拒絶されたとしても。扉は固く閉ざされてしまっているとしても。

 

それでも―――僕は。

 

________________________________

 

7月11日のその日から、クロスベルを奔走するランの姿は消えた。

元々ランは3日間の休暇が与えられた身。住民らは身を案じながらも、訝しむ事はなかった。

 

しかし3日間の時が過ぎ去っても、一向にランは姿を見せようとはしなかった。

彼女の帰りを待ち望んでいた者達は事の真相を確かめようと、何度も協会支部へ足を運んだ。

受付係や同僚の遊撃士から返って来るのは、「休暇中」の3文字だけ。

誰にどう問い質しても、同じ答えしか得ることができなかった。

 

埒が明かないと踏んだ人間は、次に彼女と親しかった男性へ詰め寄った。

案の定、男性は「知る訳ないだろ」と諦めに近い言葉を吐き捨てるだけ。

飲み屋にも顔を出してはおらず、足取りを掴むことは叶わなかった。

アカシア荘の自室を直接訪ねる人間はいなかったが、扉が開かれる気配も無い。

 

結局休暇は二桁台に乗り、10日間が過ぎた頃、7月21日の夜。

閉ざされていた筈の扉が開かれた瞬間を、部屋の主であるランは目の当たりにした。

 

________________________________

 

「えっ・・・・・・」

 

部屋の片隅で膝を抱えていたランは、目を疑った。

鍵は閉まっている筈だった。外部からは誰も入る事ができなかった。

心の在り様をそのままに、固く閉ざされていた扉が今、唐突に開かれていた。

 

既に陽は落ちており、部屋の明かりは落としている。

扉の先にあった顔は窺えなかったが、ランにとって思い当たる人間は、1人しかいなかった。

 

「悪い。大家さんに頼んで、鍵を借りたんだ。責めるなら僕を責めてくれ」

 

やっぱり、か。

自分で撒いた種とはいえ、まさかこうも踏み入ってくるとは思いもしなかった。

 

レイン・キャラダインは胸に大きな茶色の紙袋を抱え、玄関口に立っていた。

レインは手探りで照明のスイッチを見い出すと、躊躇無く部屋を光で照らした。

10日間振りとなる夜間の光に両目が戸惑いを見せ、目の奥部に痛みを覚えた。

 

「・・・・・・何のつもり」

 

ランは小さな溜め息を付いた後、鋭い眼光をレインに向けた。

本人の了承無しに、鍵を無断で借りてまでして、独り身の女性が暮らす部屋へ踏み込んだのだ。

何を言われても、返せる道理など有りはしない。

 

「そろそろ食糧が尽きる頃だと思ってさ。差し入れに来たんだ」

「そんな事を聞いてるんじゃない。あたしは―――」

 

レインはランの言葉など意に介そうとせず、部屋の中を数歩進み、テーブルへ紙袋を置いた。

紙袋で遮られ足元が見えていなかったのか、レインの足は床にあった1本の空き瓶に触れた。

1本、また1本と連鎖的に空き瓶は倒れて行き、結局は十数本の空き瓶が床へ寝転がった。

 

「ふう。掃除は行き届いているみたいだけど、すごい数だな。これ、片付けても?」

 

ランは答えない。

レインは無言を肯定と受け取ったのか、部屋中に置かれた空っぽの瓶を袋に集め出す。

そのどれもが、酒瓶。中は洗浄され酒の匂いは消えていても、一目瞭然だった。

 

カチャン、カチャンと瓶同士が奏でる音が、部屋の中へ静かに響き渡る。

レインは自室の掃除をするかの如く、平然とした表情で黙々と手を動かし続けた。

お互いの部屋の間取りは一緒。だからこそ、レインの目には異質なその様がよく理解できた。

 

必要最低限の家具と、遊撃士関連の仕事道具。

それ以外の物が、見当たらない。一切合切の私物が、部屋の何処にも存在していなかった。

持て余したスペースを埋めるように鎮座していた酒瓶は、レインの手により全て撤去された。

生活感がまるで感じられない空間。部屋を充実させるのに、時間は十分にあったというのに。

 

瓶を片し終えた後、レインは紙袋から食材を取り出し始める。

部屋の隅に置かれた冷蔵庫の中には、当然のように酒しか入っていない。

それを察していたかのように、レインは調味料の類まで持ち込んでいた。

 

「何か言ったらどうなんだい」

 

ランは震え声で言った。段々と苛立ちを覚え始めていた。

レインは何も聞かなかった。無言という態度が、ランの胸の奥底へ重く圧し掛かっていく。

 

「何かって、何がだ?」

「見れば分かるだろう。我ながら屑過ぎて、涙も出やしない。笑いたければ笑えばいいさ」

「言っている意味が分からないし、笑うつもりもない」

「ハッ、よくもまあそんな台詞を吐けたもんだね」

 

捲し立てるように、ランは自身への罵声を並べて行く。

懐妊が発覚したと思いきや、仕事を放っぽり出して部屋に閉じ籠り始めて、酒に浸る。

己の腹へ宿る命に構わず、飲酒というあるまじき行為に走っては、堕落していく。

自分自身が招いた結果を受け止めようともせずに、ひたすらに逃げ惑う毎日。

 

「これで分かっただろう。遊撃士が聞いて呆れるさ。もう・・・・・・無理なんだよ」

 

シトシトと、外からは夜の雨音が聞こえていた。

梅雨明けが目前に迫った季節、最後に降り注ぐ夏特有の雨。

何もかもを腐らせてしまいそうな陰湿な雨が、ランにとっては身近に感じられた。

 

レインは紙袋の中身を全て出し終えると、袋を綺麗に折りたたみ始める。

視線は移さず、背中をランに向けながら、レインは静かに口を開いた。

 

「まず1つ目。君は10日前から酒なんて飲んじゃいない」

「えっ・・・・・・」

「酒瓶はそれ以前に空けた物なんだろ。容易に想像は付くよ」

 

予想だにしないレインの言葉に、ランは声を失った。

構うことなく、レインは続ける。

 

「2つ目。僕にも覚えはあるけど、断酒は相当辛かった筈だ。僕と飲んだ後、更にこんな量を日常的に飲んでいたら、反動で色々な症状が出てくる。引き籠るって方法は流石にどうかと思うけど、まあ酒から離れる強引な手段だったと受け取っておくよ」

「あ、あたしはそんな」

「それと3つ目。君は仕事を投げ出してなんかいない。正式な休暇中の身だろ。産休ってやつさ」

 

―――その全てが、もう1つの命の為に。君は、耐え続けて来たんだ。

3つ目の嘘を暴いた後、レインは笑った。慈愛に満ちた、穏やかな笑顔だった。

 

ランは何も言えなかった。自分は今どんな顔をしているのか

初めて見せる剥き身の自分は、彼の目にどう映っているのか。

 

「あたしは・・・・・・」

 

初めからそうだった。私は猫を被り、愛想良く振る舞うだけ。

自分を知る人間が存在しない地で、都合の良い笑顔を振りまくだけだった。

知ったかぶりをする人間達を、胸の奥底ではせせら笑い、嘲る毎日。

 

でも彼は違った。初めて出会ったあの日から、彼は唐突に踏み込んで来る。

誠実に静謐に、真っ直ぐに。心の扉は閉ざしたままだというのに。

入り口を介さずに、彼は私の中に舞い降り、私を充たしてくれる。

 

だからこそ重ね連ねた嘘。偽りの拒絶と、望まぬ別れ。

それさえもを剥がされ、裸体が露わになる。私はもう、丸裸だ。

 

「台所を借りるよ。今の君の口に合いそうな物は調べてある。ハハ、もう慣れたものさ」

 

2人の知らぬ間に雨脚は止み、本格的な夏が産声を上げていた。

レインが半開きにした台所の窓を介して、夏虫達の鳴き声が部屋へ入って来る。

声はレインが食材を切り分ける音と重なり、夏の情緒へと変わっていく。

 

「・・・・・・別れ、だったんだ。ただ一度きりの、過ちだった」

 

普段と変わらないレインの言動が、底無しの負い目となり、胸を締め付ける。

限界だった。一度決壊した障壁は、もう元には戻らない。

 

10日間、悩み考え抜いた末に在った物。

吐き気、頭痛、肩の凝り、張り。苦痛の上に重ねられていく苦痛。

食べた以上に吐き、飲んだ以上に吐き続け、生気が全身から抜け出していく。

苦しい筈なのに。何処からともなく聞こえてくる―――声。

 

「分からないんだよ。あたしは・・・・・・忘れることは、できる。もう済んだ話なんだ」

「そうか」

「でも、それでも『この子』には、何の罪も無い筈じゃないか」

「・・・・・・ああ、そうだな」

「怖いんだ。怖くて堪らない。だけどこの子に・・・・・・何の負い目が、あるって言うんだ」

 

せきを切って流れ出した感情が声となり、言葉となって並べられていく。

 

愛せるかもしれない。愛せないかもしれない。

愛情を注いでも、応えてくれないかもしれない

あの人の面影と重ねて、思い出してしまうかもしれない。

理不尽な感情をぶつけて、人としての一線を越えてしまうかもしれない。

 

そのどれもが―――ひどく自分勝手で。

自分のことばかり考えてしまう自分が憎らしくて仕方ない。

後悔に何の意味がある。傷付くのが怖いだけだろう。

ひたすら自分の心を守ろうとするだけで、過去から何一つ変わってなどいない。

 

「毎晩聞こえて来る。在る筈の無い鼓動が、確かにここにいるって」

「・・・・・・ラン」

「毎晩毎晩、耳を塞いでも聞こえるんだよ。この子の声が・・・・・・何よりも、愛おしくてっ・・・・・・!」

「ラン」

「あたし、は、無理だよ。全てを無かった事にするなんて、もう駄目なんだ。どうしてっ・・・・・・どうして!どうしてあたしは、いつもこうなんだ!!」

「ラン!!」

 

苦しみと後悔、嘆きの果てに在ったのは―――喜び。

耐え難い苦痛に顔を歪めた後、私はいつだって笑っていた。

抱えていたのは膝じゃない、腹だ。気が触れた訳でもない。私は確かに、笑っていた。

 

全ての行動が、この子に向いていた。

もしこれが、母性と呼べる物だと言うのなら。

こんなどうしようもない人間に、女としての大切な感情が残されているのだとしたら。

 

私は―――もう、母親になっていた。

知らぬ間に、愛情を注ぎ始めていた。

 

「聞いてくれ、ラン。初めから君は、僕を見てはいなかった。誰かを忘れる為に、君はいつだって僕を見てはくれなかった。知っていた、気付いていたんだ。だからっ・・・・・・だから何なんだ」

「っ・・・あた、し・・・・・・」

「それでもいい。僕は君の為に、2人の為に生きて行くよ。元々君に拾われた命だ。そんな酔狂な男が1人ぐらい、いたっていい。だから・・・・・・ラン」

「うぅ・・・っ・・・あぁ、うああぁ」

 

彼は、知らない筈の過去を背負い込んで。

もう1人の未来さえもを、抱き留めて。

私は唯々―――救われていく。

 

_________________________________

 

 

たった31年間の人生で、分かった事。

 

 

人は知らぬ間に、誰かに影響を与えている。

 

 

誰かを救い上げ、そして誰かに、救われている。

 

 

 

―――聞こえるかい、レイン。

今更だけど、改めてありがとうを言わせて欲しい。

 

アンタのおかげで、あたしは救われた。

ユイは真っ直ぐに育ってくれたね。

この4年間で更に逞しく、強い子に育ってくれたよ。

あの子はあたしの意志を継いで、きっと立派な剣客になる。

その姿をお目に掛かれないのが、残念で仕方ない。

 

「・・・・・・お母・・・・・・さん?」

「ん。おい、ガキが1人残ってるじゃねえか」

「お母さん!!」

 

覚えているかい、レイン。

ウェンディと一緒に、泥だらけで走り回ったあの子を。

ロイドと悪戯を働いて、ガイさんに叱られたあの子を。

オスカーとパン生地を捏ね回して笑う、あの子の笑顔を。

 

全部、アンタのおかげだ。

あたしだけじゃ無理だったよ。

皆は「似ていない」って口を揃えて言うけど、あたしから言わせればそっくりだ。

裏表の無い純粋さも。誰からも好かれる愛くるしさも。

 

もっと長い時間、見守っていたかった。

でも、もうすぐそっちへ行くよ。リオンも一緒だ。

やっぱり、兄弟は似るもんだね。

 

「・・・ユ・・・・・・イ」

「お母さん!?」

 

それと―――お師さん。

あなたが授けてくれた子宝に、初めはひどく困惑した。

後悔もしたし、運命の悪戯を呪いもした。

でもそれ以上に、ユイは沢山の幸せを与えてくれた。

 

新しい生き甲斐をくれた。

母親としての喜びを教えてくれた。

あたしの剣を好きだと言ってくれた。

12年間の、満ち足りた日々を贈ってくれた。

 

何の負い目も感じる必要はないさ。

お師さんが拾ってくれたあの日から、あたしの全てが始まった。

忘れ掛けていた家族の温もりを思い出させてくれたのは、他ならないあなたなのだから。

 

「い、き・・・・・・な・・・さ―――」

 

だから―――生きなさい、ユイ。

沢山の人間の願いと想いが、アンタには込められている。

あたし達の事は忘れてもいい。新しい家族を見つけてもいい。

きっとアンタには、新しい出会いがある。帰る場所ができる。

 

生きなさい。ユイ。

あたしの分まで懸命に生きなさい。

道を外れずに生きて行きなさい。

今日という1日を大切にして生きて行きなさい。

堂々と胸を張って、前を向いて歩いて行きなさい。

 

 

 

そして、ありがとう。

 

あたしの娘になってくれて、ありがとう。

 

お母さんと呼んでくれて―――ありがとう、ユイ。

 

 

 

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