煙だから、つい火事か何かかと思ったが、それは違った。ただの煙幕だった。
たちまり上がる、野太い男の悲鳴。痛みに耐えきれずに発したような、切羽詰まった声だった。
あたしの横で、風を切る音がした。
「ジルダ!」
珍しく焦るイオリの声。同時に、何かが、あたしの腕を引っ張った。乱暴で、攻撃的な男の腕。あたしの嫌いな男の腕だ。髪が乱暴に掴まれる。髪留めが落ちる音と同時に、一つにまとめていた髪が、好き勝手に舞う。
しまった、しくじった。
思わず上を向いたあたしの喉元に、何かが当たった。鋭くて冷たい物。ナイフだろう。
酒臭い息が、頭上からかかってきた。
「へえ、こいつは上玉じゃねえか」
あたしは、いつの間にか、ずいぶん薄汚い中年親父に抱きすくめられていた。野太い男の声と、好色そうな視線。毛深い腕からは、汗と垢の匂いが漂ってくる。
「カンダタか」
アギレがいつの間にか抜いたナイフを男に向けながら言った。
「こいつがカンダタ?引退したんじゃないのか」
アデルが、剣を構えつつ尋ねる。
「引退はしたけどな、どうもバカな子分どもが好き勝手しやがると聞いたから、ちょっと様子見に来たのよ。そうしたら、若造どもが随分派手に暴れてくれたみたいじゃねえか」
何がおかしいのか、豪快に笑いだすカンダタ。それにしても、酒臭いよ。
「お頭!」
縛られていた盗賊が、情けない声を上げた。驚いたことに、いつの間にかこいつ、血まみれになっている。そりゃそうか。右手首から先が、いつの間にかない。代わりに、凄まじい量の血がそこから流れていた。いつの間に、誰がこいつの手を切り取っちまったのか。
「何でこんなことをするんですか、お頭」
「落とし前だよ。俺の名前を使って、てめえらずいぶん好き勝手やってくれたそうじゃねぇか」
カンダタはそう言うと、アデルに向き合った。
「勇者様よ。まだるっこしいことはしたくねぇ。あんたの手にあるその王冠。そいつと、このお姉ちゃんの交換といこうや」
アデルは、自分の手にあるロマリア王家の王冠をちらりと見た。
「なぜだ」
「ここに来たのは、子分たちが俺の名前を使って、ずいぶん暴れ回ったらしいから、その制裁だな。だったのに、
喉にピリッとした痛みが走った。奴のナイフは、ちょっとばかりあたしに近づきすぎたらしい。
「おっと、すまねえな、お姉ちゃん」
酒臭い息がまともに当って、あたしは喉の痛みよりなにより、そっちの方が堪えた。
「それにしても綺麗なお姉ちゃんだ。体もいいし、これはこれでお宝だわな」
そう言って、奴があたしの尻を撫でまわした。ナメクジがのたくるような不快感に、鳥肌が立つ。ぶっ殺してやる、この親父。
「わかった。これはお前にやる。ジルダを離せ」
アデルの、とびきり冷静な声で言い、一歩前に進み出た。
「いいのか、アデル」
「別に構わない。ここに来たのは、カンダタ一味を壊滅させるためだ。そうすれば、交易に支障は出ない。ロマリアでは、それはもうほぼ達成されている。金の冠は、あくまで王個人の依頼だ。失敗しても、勇者と認められないだけだ」
さすが「勇者」だ。人々のためには命を賭けても戦うが、個人の名誉の前なら、人名を優先させる。
「気に入らんなあ」
カンダタが、あたしに突き付けてたナイフをアデルに向け、睨みつけた。喉の痛みから解放され、あたしはこっそり嘆息した。
「《勇者》ってもんは、いつだってそうだ。いい子ぶって、何考えてんだかわからなくて、不気味だ」
「てめえのチンケな脳味噌じゃ、わかることの方が少ねぇだろ、圧倒的に」
アギレの軽口に、カンダタが舌打ちした。
「てめえ、ナジミのとこの小倅じゃねえか。あのじじいはくたばっちまったか」
「生憎とまだ生きてるよ。女を人質とか、てめえもヤキが回ったな。年は取りたくないもんだぜ」
「俺はまだ若いわ。てめえらみたいな若造に遅れは取らんよ」
舌戦はいいけどさ。いいかげんこの汚い手を離してはくれないかね。
だんだん腹が立ってきた。何だってあたしがこんな親父にいいようにされなくちゃいけないんだ。
「いいかげん離せ、ボケが。それに、若い、だぁ?そんな台詞は、その加齢臭を何とかしてから言いなっての。さっきからなあ、てめえのクソ臭ぇ口臭と、加齢臭で、こっちは窒息しそうなんだよ、しょんべんでも飲んでんのか、このフニャチン野郎!」
言いながら、メラを頭上に投げつけてやった(避けられたが)。思わぬ攻撃と、あたしの口からそんな台詞がぽんぽん出てきたことに驚いたのか、こいつは一瞬怯んだ。
その隙に、イオリが横から風のように斬りかかった。カンダタはすんでのところで避けたが、態勢は大きく崩れた。イオリの手が、あたしの腕を掴み、気づけばあたしの前に、彼が立ちはだかっていた。でかい背中は、少し安心する。
体勢を崩したカンダタに、アギレがナイフを投げ、アデルはギラを浴びせた。さっきの一件があったってのに、その威力は少しも衰えていない。
アギレのナイフを床に叩きつけ、ギラで焼かれた外套を脱ぎ捨て、カンダタは跳び退った。
「ちっ。油断したか」
奴はそう言ってニヤリと笑うと、軽く手を上げた。
「まあいい。どうせ今日はこいつらへの落とし前だ。じゃあな、勇者ご一行様よ。再びまみえるまで、御身にご武運を!」
最後だけやけに気障ったらしく言い、奴は、先ほどの割れた窓から身を乗り出した。
自殺でもするつもりか、と一瞬思ったが、何のことはない。隠し持ってたロープを使い、年寄とは思えない鮮やかな身のこなしで、するすると降りてしまった。ここは四階だったはずなんだけどね。
長い沈黙の末、アギレがようやく息をついた。
「まさか奴が来るとはな。どうやら、相当腹に据えかねたんだろうな。あんたら、もうおしまいみたいだぜ?」
縛られた子分は、訝しげに眉をしかめた。血がようやく止まったようだが、どっかに落ちてるはずの手首は、どこにも見当たらない。
「あいつの名前を背負うんなら、それなりのスジは通さなくちゃいけなかった。あれでもあいつは、あいつなりの仁義を大事にしてるからな」
仁義ぃ?あのセクハラ野郎がかよ。笑わせてくれる。
「それが、奴の名前騙りながら堅気さんに迷惑かける、いや、手出ししたこともあったな。堅気への手出しはご法度だろうが。奴はさっきこう言った。『こっちの方はあんたたちがやった』と。ということは、交易ルートの偵察に行った盗賊はもう、それなりのお仕置きを受けてるってことだ」
奴の顔色が、目に見えて悪くなった。こいつらにとっては最悪の事態でも、ロマリアにとっては、まあ多少の平和が戻ってくるってことか。
シャンパーニの塔の盗賊は、事実上の壊滅状態だった。
幹部二名は死亡、たった一人生き残った幹部は身動き取れない。そしてそれ以外の下っ端盗賊は、みんながみんな、揃って指を一本切られていた。ご丁寧にも、あたしたちが気絶させて、草むらに転がしてた男たちまでだ。これじゃあ、今後の仕事に大きく支障が出る。
「なるほど。あそこにあった宝を、奴が見向きもしなかったのはこのためか」
アギレがそう言って、唯一生き残ってた幹部をちらりと見た。
「退職金だよ。奴の最後の情けってところか。せいぜい、平等に分けろよ。独り占めしてたら、また奴がお灸すえに来るぞ」
その言葉に、奴は心底ビビったのか、体をぶるぶる震えさせた。そりゃそうか。あんな、ともすれば人好きのする顔で、一切容赦なく、元部下の指を切って回った男だ。
「『再びまみえるまで』か……」
あたしは、奴の最後の言葉を思い出した。バハラタには、奴らの本拠地があるという。そっちでも、盗賊どもが好き勝手暴れているのなら、奴は必ず来るだろう。
「ジルダ」
イオリが、さっきカンダタに掴まれた時に落とした髪留めを渡してくれた。金具が取れてしまっている。せっかく気に入ってたのに。
「あ~あ、あの野郎。やってくれたね」
「傷は大丈夫か?」
イオリの視線は、あたしの喉元に向けられている。そういえば、思い出したけど、さっき傷つけたんだっけ。うっすらと血の筋ができているけど、騒ぐようなことじゃない。特に、敵とはいえ指やら手首やらなくしちまった人間を見ていれば。
そう思ってたら、アデルが、さっと首筋に、アルコールを染みこませた布を押し当ててくれた。その後にホイミまで。割と気が利いてる。
「アデルのおかげで、痕すら残らないよ。アデル、ありがとね」
「あいつ、そなたの髪を掴んだだろう」
あたしは、何のことを言われたんだか一瞬わからず、きょとんとした。ああ、そういえば、髪を掴まれたっけ。あんまり乱暴な手つきだったから、何本か抜け落ちただろう。まあ、こっちは一生薄毛に悩むことはないだろうほどに髪が多い性質だから、気にすることじゃない。顔にかかる髪を払いのけるのがわずらわしいくらいか。
要するに、あたしが受けた被害では一番些末な問題だ。
「それより、尻を撫でられたことの方が腹立たしいね。ただで触らせてやるほど、あたしは安くないっての」
冗談めかしく言うと、奴は何だか不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「女性に対する礼節をまるでわかってないやつだ」
「その通り。ま、奴は二度とやれないだろうな」
アギレがニヤニヤ笑いながらこちらにやってきた。
「あのおっさん、あれでなかなか繊細なとこがあってな。さっきの姐さんのお言葉に傷ついたから、二度と手出しできねえだろ」
「さっきの?ああ、そういえば」
割と品のないことを口走った気がするが、まあいい。
「美人にああも情け容赦なく言われたのは、初めてなんじゃないか。これから口臭と加齢臭には気遣うだろうさ」
「奴は、≪勇者≫を知っている口ぶりだった」
さっきから一人黙々と、負傷した盗賊たちに、止血とホイミを施していたアデルが、おもむろに口を開いた。さっきまで、盗賊たちは、人々を脅かすから敵と認識していたようだが、悪事ができなくなったら、もう彼らはアデルにとっては、「守るべき人類」になったようだ。
「カンダタは、もしかして……」
「ああ、一度カンダタはオルテガに会ったことがある。俺も聞いた話だけどな」
アギレはそう言って、面白そうに笑った。
「あの男はもともとナジミのじじいと知り合いでな。世界を救う≪勇者≫が、自分じゃなくナジミを連れて行ったのが気に食わないと、一度食って掛かったことがある。その時に、オルテガから言われた一言が、未だ忘れられないんだろう」
「何て?」
そういや、勇者オルテガの武勇伝はいくつも聞くが、肝心の、彼の言葉や、思想なんかは、今まで誰一人語ってなかったことを思い出した。オルテガの姉だと言ってた、あのルイーダも、あまり話さなかったな、そういえば。
「『この旅に、弱い人間はいらない』だってさ。あいつには衝撃だったろうなあ」
全否定か。そりゃあ、ショックだろう。何となく、自意識過剰なタイプに見えたし、あれほどの実力も備えている男に、よくぞ言えたもんだ。さすが勇者というわけか。
しかしまあ、空気を読まず、そこまでズバッと言えるところ、案外アデルは父親に似ているのかもしれない。
「奴の実力は相当のものだったが、当時はそれほどでもなかったのか」
イオリが首をひねる。確かに、煙幕を使ったとはいえ、この面子を出し抜いたのだ。それに、誰一人として、奴の気配に気付かなかった。
「いんや。あの頃から名の知れた、かなりのツワモノだったと聞く。ただ、あの頃は、ちょうど今のこいつらみたいに、厄介な相手からじゃなく、堅気さん、要するに力の持たないものから奪う、傷つける、そんなスタイルだったと聞く。オルテガからすれば、それは『弱い』からなんだろうなあ」
あの男に「弱い」「いらない」と、面と向かって言ってのけることのできる男か。
そりゃ、大したもんだったんだろうな。あたしは、ロマリア王家の冠をリュックに無造作に入れるアデルを盗み見た。
勇者は、人々のために奉仕する存在だ。己の命を賭けてでも、人々のために戦う。それが義務付けられた存在。そんなの、あたしだったら勘弁願いたいものだが、そう生まれてしまった彼らは、逃げるわけにはいかなかったのだろう。
そりゃ、逆らえば、今度は人類の敵とみなされる。人々のためにあるからこその、化け物じみた力なのだ。そうじゃなければ、魔物と何が違うかってことなんだろう。
さっきの、この子の言葉が甦る。自分の得るものには、一切の執着も、未練もないあの態度。人殺しとなじられようと、なおも戦う揺るぎない意志。
一体、どんな育ち方をすれば、そこまで自分を犠牲にできるのか、あたしにはさっぱりわからなかった。