”…―パリーン”
陶器の割れる音で俺の思考は現実に引き戻された。
はっきりした意識のなか目に映った光景は加賀美が金髪の少女に駆け寄ったところから始まった。
「だ、大丈夫!?ご、ごめんなさい!私のせいで!」
半泣きになった彼女は目の前の金髪少女の小さな手をハンカチで拭いていた。
そこで俺はようやく状況を理解した。
「…来い!」
「冬亥くん!?」
席から立ち上がった俺は、加賀美から少女の手を取り引き剥がすと一目散に店の奥の手洗い場に向かった。
辺りはどよめいていていたがそれを無視し、少女の手を引き紳士の方に入る。運よくどうやら使用者はいないようだ。
洗面所の蛇口を勢い良く捻り、ポケットに仕舞っておいたハンカチで少女の左手を覆い冷やし始める。
くそ、軽傷で済めばいいが…―。
「…Merci beaucoup.(どうもありがとう)」
「!?」
しばらくして金髪の少女から綺麗なフランス語が聞こえた。
そちらに目をやると、丸い二つのサファイアの瞳が俺を見ていた。
今にも落ちそうな雫を抱えて。
「痛くないか?…あぁー、mal(痛む)? 」
「Ça ira.(大丈夫)」
母から教わった覚束無いフランス語で聞くと、少女は笑顔で答えた。
まだ少し痛むのか少し眉がへの字になっている。
それにしても驚いた。
てっきり男だとばかり思っていたひまわりはどうやら妹と歳も変わらない少女だった。
くそ、アイツにまんまと騙された。
バレンタインだからてっきり男に会うと勘違いしたが、世の中友チョコなども存在するのだから男に限ったことではないのか。
しかし、妹に外国の友達がいたとは知らなかった。
それも少女二人で来るような店でもない。最近の女子はませているのか。
…あと、もう一つこの子に言いたいことがあった。
「お前、あまり無茶をするな。加賀美を庇って怪我をしても意味がないんだからな」
「…―?」
俺は思考が停止していたなかでも少女の行動をはっきり覚えていた。
あのとき加賀美の手が当たる角度でなら確実にカップの中身は彼女に向かっていたであろう。
しかし少女はわざと自分で加賀美にぶつかり、カップの角度を変えたのである。
中身はというと、ものの見事に少女の手や服に掛かった。なんて無茶なことをするんだと、怒りを越えて呆れてしまった。
しかもあのように動けるのは偶然では無理だ。確実に計算しないと出来ないはず。何とも末恐ろしい少女といえる。
「はぁ…、あまり冷や冷やさせないでくれ。お転婆は妹だけで手一杯なんだ」
「…ふふ」
意味を分かっていないであろう少女は俺を見て初めて声を出しコロコロと笑う。
そして綺麗なフランス語で俺に言う。
『皐月が言っていたように素敵なお兄さんですね!』
「さつき…って言ったか?なら俺の事…―」
『ありがとう、神無月!』
「!俺の名前…―」
あどけない少女は俺の名前をつたなく発音すると満面の笑みを浮かべ、頬に優しくキスを落とす。
それがあまりにも自然的で俺の反応はかなり遅れてしまった。
「…―!?」
『このことは二人の秘密だよ?』
「…は?」
少女は唇にそっと人差し指を置いて可愛く小首を傾げ、内緒ごとのようをするように俺を見る。
いかん、最近の女子はかなりませているようだ。
”トントン”
「お兄ちゃん!アンちゃん大丈夫なの!?」
「!?」
『あ、皐月だ!大丈夫だよ!』
不意に強くドアを叩かれる。
少し驚いた俺に反し、”アン”と呼ばれた少女は笑顔で答える。
どうやら皐月のようだ。
紳士の方だからか、妹は遠慮して入って来にくいのだろう。
「大丈夫だ。何とか軽傷で済んだ」
少女の手に巻いていたハンカチを取ると、水膨れは出来ておらず少し赤くなっている程度だった。
これなら跡も残らないだろう。
ドア越しに妹の安堵した声が聞こえた。
相当心配してくれていたのだろう。
妹を早く安心させようと俺は少女から手を離し、ドアノブに手を掛ける。
『神無月!』
「!?」
不意に名前を呼ばれたかと思えば、少女の陶器のような腕が俺の腰に回る。
ギュッと背後から抱きしめられ、俺の肩甲骨あたりに少女が頭をうずめる。
意外と抱きしめる力が強いせいか骨がミシミシ鳴いている。俺の成長期も同時に起きているからかもしれないが。
「…どうした?」
『…やだ』
「…?」
少女が何かを小さく呟く声が聞こえた。
何がそんなに嫌だというんだ。こっちは早く妹の顔が見たいというのに。
ますます強く抱きしめられ、俺の体が悲鳴をあげそうになる。
自分の身を思い、一度ドアノブから手を離すと再び少女の方を向き視線を合わせるようにしゃがみ込む。
先ほどとは打って変わって泣き出しそうな顔をこちらに向けている。
一体、どうしたらいいというのだ。手がまだヒリヒリ痛むのだろうか。
俺は少し困りながら、少女の頭を妹のそれと同じように撫でてやる。
「まだ痛むか?」
『女の人の所に戻っちゃ、いや』
「…?」
『あの子が神無月を好きなことバレバレだもん。だから、いや!』
少女の頬に一筋の雫がこぼれたかと思えば勢いよく抱きつかれ、とっさのことで対応できなかった俺は冷たいタイルに尻もちをつく羽目になってしまった。
ちなみに扉に頭をぶつけることは何とか回避した。
そして俺の胸で半べそかきながら泣く少女は、上から退いてくれる気配はない。
扉に背を預け、少女が落ち着くまで背中を撫でてやろう手を伸ばしたところで予期せずドアが開かれる。
「!?」
完全に気を抜いていた俺は背中ごと見事に床にダイブする。
この扉どうやら両側とも開くタイプのようだ。
こういう時にふと、腹筋を鍛えておけば良かったと痛感するのが人間だ。
「お前、そういう趣味だったわけか」
「…!?」
目の前には何故かスマートフォンを構えた誠と傍らに驚いた顔の皐月と加賀美がいた。
今日だけで人生の半分程度には驚きの連続だというのに、なんだこれは俺への嫌がらせか。
どうやら世に言うバレンタインは俺にとっては厄日のようだと、カメラのシャッター音を聞きながらそう思った。