Chaos;an onion HEAD   作:変わり身

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――――僕が最期に見た世界は、自身の罪が存在しない『あったはずの世界』だった。


第10章  一人は、人にとっての救世主

気が付けば、彼女は暗い激流の中にいた。

 

「――――!!」

 

自らの周囲を巡るのは、身を切るような冷水。

未だ凍り付くまでは行かずとも、生命を凍死させるのには十分であろう寒の極。

それまるで意思を持っているかのように蠢き、身体全てを包み込み。容赦なくその少女の体温を奪っていく。

 

……否、体温だけではない。

手を、足を、舌を、目を、五感を、臓器を。身体の自由だけでは無く、彼女の持つ命の全て。

彼女が彼女たる全てのものを、それは奪わんとしていた。

 

「――……!」

 

ぐるぐる、と世界が回り、冷水に揉まれる身体は前に後ろに回転。少女を乱暴に振り回す。

そこから抜け出そうともがき、何度も足を蹴り出し身体の制御を取り戻そうとするが、それも叶わず。

身体が衝撃を受ける度に必死に息を止めようと閉じていた口と、それを抑える手が外れ。そうして口腔へと少々の粘性を持つ冷水がねじ込まれ、食道と気道が凍て付くそれで満たされる。

 

「が。……っぼ」

 

意識を犯す唐突な吐き気。脳の一部が焼きつき、硬く閉じた瞼の裏が紅く染まり血管の模様を浮かび上がらせた。

体内に異物が入り込んだ事により、条件反射で咳き込み冷水を吐き出すが――しかし、彼女の身を包んでいるのは今し方吐き出した物と同じそれ。

咳き込む傍から体外に吐き出した以上の冷水が体内に雪崩れ込み、肺の中身を押し出していく。

 

――もう、駄目かな。

 

内外から襲う寒気に思考さえも麻痺してきた彼女の脳裏に、そんな諦めの言葉が過ぎり――――その全身から力が抜け落ちた。

 

これ以上温度を奪われまいと。これ以上死へと近づくまいと筋肉を固めていた意思が霧散し、手足が弛緩する。

彼女を襲うのは甘い痺れ。鈍い寒さと共に全身に巡って行くそれは、間違いなく死への足音だった。

うっすらと開いた彼女の視界が、徐々に白く染まっていく。

その白が視界全体を覆い尽くした時、自分は物言わぬ躯となるのだろう。彼女はそう理解した。

 

――ごめん、なさい……。

 

走馬灯。人が死ぬ間際に見るというそれすらも流れず、彼女の意識は遠のき始め。

流す大粒の涙は水に混じり、消え。彼女は守れなかった事に謝罪をして―――――

 

――――謝罪?

 

ふと、苦しみと諦めで混沌に濁った脳裏を疑問が過ぎった。

今、自分は誰に謝ったのだろうか? 守れなかったとは、誰のことだ?

酸素が足りずぼんやりと鈍る思考の中、彼女は焦りを覚えた。

 

私は何を守っていた?

私はどうしてここに居る?

私は何故死にかけている?

私は、私は、私は――――?

 

回らない、回らない、回らない。

何を考えるべきなのか、何を考えたら良いのか。このまま諦めて本当にいいのか。

答えを出す事の出来ない自分の頭に苛付きが止まらない。

 

――果てしなく、焦れったい。

 

まるで部品の外れた歯車の様に。繋がらない思考と意識がカラカラと乾いた音を立てて空転する。

 

回らない、回らない、回らない……!!

早くしなければ、早く至らなければいけないのに! 何故、何故!

 

それは、怒りと呼ぶには余りにも小さい灯火。

しかしその感情の猛りは確実に彼女の身体に力を取り戻させる。

白く染まりかけた視界がゆっくりとその範囲を減らし、凍て付いた全身を少しずつ。本当に少しずつ、暖め、溶かして。

 

「…………!」

 

未だ酸素は足りず、脳内の血管は絶えず悲鳴を上げている。少しでも気を抜けば意識など一瞬で飛んでいくだろう。

しかし、自分はここで終わるわけにはいかないと言う使命感にも似た感情がそれを無理矢理押さえ込み、堪えさせ。

 

それに付随し、手足の感覚が。水の冷たさを伝える温感が。身体を刺し続ける痛覚が。触れる者を抱きしめる指先の感覚が戻って行き――――

 

――――そして、その腕の中に『彼女』が居ない事に気が付いた。

 

(……!?)

 

胸から噴出すのは、焦り。

未だ霞んだままの視界の中、彼女は感覚の戻らない首を回して辺りを見回した。

……しかし、目に入るのは一切の光が入らない、どことも知れぬ水の中。

その身を激流に振り回され、その上数センチ先すらも見通せないこの空間の中で。只闇雲に首を巡らせた所で直ぐに見つかる筈も無く。

 

「――ッ!」

 

……否、見つけた。

余りにも呆気なく激流に流されていくそれは、小柄な人影。

自分の半分程の身長、紅い色素の混じった頭髪。だらりと伸びた手足は力なく水中を漂い、少なくとも意識は無い様に見えた。

母からのプレゼントだと喜びながら見せびらかしてきたローブを、冷水に濡れた身に纏ったその人物は――――!!

 

『――アーニャッ!!』

 

瞬間。

少女――――ネカネの意識が、弾けた。

 

白くぼやけていた視界は一気に焦点を取り戻し、開きかけていた瞳孔が強い光を宿し、締まる。

酸素を求め焼け付いていた脳内は興奮により更に叫びを強め、より一層の苦しみを彼女に与えるが――しかしそれすらも燃料とし、意思の炉にくべた。

 

「――――――ッッ!!」

 

ネカネの肌が、うっすらと光を帯びる。

身体を巡る幾百もの魔法糸が唸りを上げて回転し、ネカネの感じる苦痛のままに猛り狂っているのだ。

 

彼女の身体が、意思が、心が。自信の感じる苦痛とアーニャへの想いに溢れ、スパークする。脳神経とシナプスの箍が外れ、極度の興奮状態へと陥った。

それは生存本能の上げる叫び。未だ完全には戻らない朦朧とした意識を呼び戻す努力すらなく、ただ感じたままに魔力を行使。

 

全身の筋肉が膨れ上がり、只でさえ酸素の足りない身体が絶叫を上げた。視界が黒くちらつき、表情が大きく歪む。

そんな極限状態の中、それも魔力のブーストを受け白熱した脳内に響くのは、たった一つの言葉だけ。

 

――――即ち。

 

『アーニャを、助けろ――――!!』

 

ぽん、と。間の抜けた音が水中を震わせた。纏わり付く冷水の圧力の中ネカネが勢い良く振り上げた右腕、その指先が遠心力に耐え切れず破裂したのだ。

 

二重に施された強化魔法と、興奮により外れた脳のリミッター。

それらの要素はネカネが振るう事の出来る力の上限を大きく超えており、ただ腕を振り上げる動作だけでも彼女に大きな負担が圧し掛かる。

肉と皮の欠片、それと血液と油とが冷水に混じり、激流に流され消えていくが――ネカネはそれらを全てを認識して居なかった。

 

(ゥ、あぁぁああっ!!)

 

痛みさえも無視をして。ただ見据えるのはアーニャの姿、その一点。

ネカネは振り上げた腕に魔力を纏わせ、先程以上の勢いで持って振り下ろした――!

 

『ノ、ノノ? ちょ、ま、ワアアアアアア!?』

 

――轟、と。水が猛る。

 

残像すら見えない、その軌跡。それは激流を割り、渦を作り出す。

響いてくるのは、水中に落とされる直前に聞いたものと同じ声。

何者かに管理されていた筈の水の世界は音を立てて荒れ狂い、踊り、歪み。新たな流れを産み出して。

 

そうして自身とアーニャの身体もまたその流れに巻き込まれ、異なる方向へと離れ離れに流されて――新たに産み出された大渦に近づいていく。

傍から見れば自身の首を絞める行為だったが、しかしネカネは止まらずに。振り下ろしたボロボロの右腕より纏わせていた魔力糸を解放した。

 

(――――ッ!!)

 

金色に輝く魔力の糸。淡い光を放つそれらは開いたネカネの五指に沿って打ち出され、空間内を奔る。

金の軌跡を残す何本もの閃光は乱雑に流れ行く激流の中を物ともせずに駆け抜け、放射線状に、螺旋状に、時には直角にと縦横無尽に舞い踊り――――

 

――――そして、世界に侵食した。

 

『あガッ!? ゥア……!』

 

小さな女の子の声が、響く。

そして水の中を空間に潜り込むようにして金糸が消え、自分とアーニャの周辺を取り巻く水がぐにゃりと歪む。

ネカネは自分達を包み込む冷水が何者かが制御する魔法術式である事を本能で察知し、自らの放つ魔力糸によって干渉を試みたのだ。

 

相手が制御出来ないほどに場を荒らし、その際に生じた隙に自身の魔力を無理矢理ねじ込むというその手法。意識が朦朧としたまま、本能で行動する獣となった今の彼女が行うには余りに複雑にすぎる技術だ。

しかし、彼女はそれを行使する。

 

『に、人間……! やめ、入ってくルナ……!?』

 

――――術式解析。

――――魔力解析。

――――方陣解析。

――――呪文解析。

――――構成解析。

 

魔力糸と繋がった自身の脳に、この水で出来た極寒の世界の情報が解析され送り込まれてくるが、今はそれも無意味な代物。

津波の如く押し寄せる情報を整理する事も理解する事もなく、ただ吸収し、魔法糸より反映させるのみ。

 

――――攻性結界の要素を発見。術式一部削除。

――――捕縛魔法の要素を発見。術式一部削除。

――――転移魔法の要素を発見。

――――転移魔法【現在、転移中】

 

術式。

自らの魔力を呪文に乗せて詠唱し、異界より『術式』と呼ばれる式を引き出し、自身の望む効果を齎す様に組み立てる。

そうして綿密に組まれたそれを魔法使い達は『魔法術式』と呼び、魔術媒体を通して現実へと投射するのだ。

 

当然大規模な力を発現する魔法にはそれ相応の魔力の組み上げが必要になる。それが三種類以上にも及ぶ効果を発揮するこの水中世界に関しては言わずもかな。

ネカネが行ったのは、式の一部分を無理矢理自分の色に染める事。

彼女は組み上げられた既存の術式の基礎部分に干渉し、自らの魔力を流し込んで内部から破壊。その制御を乗っ取った。

 

「……っは、ぁ!」

 

身体を覆う寒気と動きを阻害していた圧力が嘘の様に消え、水の中にも拘らず息が出来るようになる。急激に脳へと酸素が送り込まれ、少々の思考能力を取り戻し。鈍い頭痛と共に紅く血走った目に涙が滲んだ。

彼女たちにとって害となる要素を魔法の中から排除し、術式を書き換え自分にとって都合の良い物へと変化させたのだ。

 

「……か、ふ。げぇ……っ!」

 

途端に大きく咳き込み、肺の中に溜まった水を吐き出すネカネ。しかし先程とは違い、幾ら口を開いてもその中に冷水が流れ込んでくる事はない。

こちらに危害を加える攻性結界の要素を排し、水中でも呼吸が出来るように環境が書き換えた為だ。

アーニャの方に目も向ければ、彼女もまた咳き込み酸素を肺に取り込んでいるようだったが――ネカネは未だ、止まらない。

 

――――転移魔法、転移先。【同パターン2、付近に敵性反応、複数の気配あり】

――――転移魔法【完了まで推定6秒】

 

「ぐぅ……っ!」

 

震える身体を押さえつけ、息を整え思考する。残り一つ、転移魔法を書き換える時間的余裕がない。

既に転移が始まっている状態で下手に弄れば、それこそ転移した先でバラバラ死体になる恐れもある。せめてもう少し時間があれば、転移自体を中断させる事が出来たのに――彼女は奥歯に苦いものを感じ、噛み締めた。

 

(これじゃあ、アーニャを抱き寄せている暇すらも……!)

 

この水中の世界は、村の外に逃げ出そうとする人間を捕らえ、弱らせた上で何処かに――おそらく、悪魔の決めた転移場所へと連れて行く代物であるとネカネは推測した。

加えて送られてくる情報から、転移する先には何匹もの悪魔が居ると察する事が出来る。

ならばこのまま大人しく転移させられてしまえばどうなるか。そんな事は考えるまでもない。

鋭い痛みを訴え始めた右腕が、ミチリと嫌な音を立てた。

 

「…………」

 

限界まで加速された思考の中、遠目に見えるのはアーニャの姿。

どうやら彼女は今どのような状態に置かれているのかが分かっていないようで、肺の水を吐き出そうとひたすら咳き込み続けていた。

 

……転移した先、悪魔の蔓延る地に置いて、自分はどれだけの事が出来るだろう。

彼女を守りながらスタンや他の村人を探し出し合流する事が出来るか。彼女を守りながらネギの下に辿り着く事が出来るか。

少なくとも、今の壊れかけの自分ではどちらも不可能だ。何れにせよ待っているのは失敗の二文字だと確信を持って言える。

 

――――ならば、いっその事。

 

「ラス・テル。マ・スキル――!」

 

放たれるのは魔法の呪文。ネカネの腕から新たに数本の魔力糸が飛び、彼女とアーニャの周辺へと接続される。

どうせ転移した先では同じ場所に出るのだろうが、今は距離が離れすぎている。そのため別個での魔法行使が必要となっているのだ。

……彼女を助ける為とは言え、些か場を乱しすぎただろうか。自身の暴走を省みつつ。へこみつつ。

 

そして術式の大部分はそのままに、転移先に設定されていた転移陣だけを直ぐさま破壊。外界へ繋ぐ事の出来る他の陣を検索し――ネカネの耳に小さな女の子の絶叫が響き渡った。

おそらく魔族の子供だろう。この魔法を操っているらしきその子に何故か致命的なダメージを与えてしまったらしいが、そんな事を気にしている暇は無い。と罪悪感の一つすら無く切り捨てる。

 

目的は一つ、転移する先の変更だ。

転移陣は主に壁や床に埋め込まれて使用され、そこに飛ぶ為にはそれに対応した転移魔法を必要としている。

魔法と陣。どちらが欠けても発動せず、基本的に二つセットで使用されているのだ。

 

その正規の転移陣ではない、別の場所にある陣に出口を移す。そんな事が果たして可能なのかは分からないが、付近に使用されていない転移陣さえ存在すれば理論的には可能なはずだ。

幾ら小さいとは言えここは魔法使いの村の近辺、転移陣の一つや二つくらい存在すると信じたい。無かった場合は……そこは、まぁ。気合で何とか。

 

――つまる所は、粉う事なき大博打。

 

術式自体は余り弄っていない為バラバラ死体にはならないだろうが、何処に出るかは分からない。

不安の残る対処だが、このまま手を拱いている時間は無いし、拱いて手に入れられる未来も無いのだ。

少なくとも、このまま悪魔達のど真ん中に出るよりかは少しは生き残る目も高いだろうとネカネは判断した。

ならば、例え博打であろうが出来る事をするしかない――!

 

『ぃぎ……い、イ……!』

 

「……っ」

 

ずきり、と。魔力糸から異なる魔力が逆流してくる感覚。

この水の世界を作り上げた何者かの妨害か。どうやら死に損なっていたらしく、脳内にちりちりとした違和感が走る。

奪われた制御を取り戻し、なんとしても目的の場所へと自分達を送りたいようだ。

 

――残りは、4秒。

 

「く……!」

 

自分とアーニャ、二つの転移術式ともう二つ。攻性結界と捕縛魔法。相手の攻撃から全ての制御を維持したまま、転移陣の書き換えは不可能。

そして攻性結界と捕縛魔法の制御は手放す事等出来ない。奪取され復活させられてしまえば致命的な妨害をされる恐れがあるからだ。

――例えコンマ一秒以下の刹那だったとしても、部分的な術式一つ乱されてしまえばそれで終わりなのだから。

 

「なら――!」

 

ネカネは咄嗟の判断で自分を切り捨て、自身に向けていたリソースをその迎撃に回しアーニャだけでも他の場所に転移させる事にした。

せめて敵性反応の無い場所に。突然危険に陥る事の無い場所に、彼女だけでも。

 

「……ふ、ふふふ」

 

思わず自嘲の意味を込めた笑みが漏れ出た。

何が「守る」だ。何が「自分が出来る事」だ。あれほど意気込んだにも拘らず、この様だ。結果的には自ら手放し無事を祈る事しか出来ないのだから。

ネカネは奥歯を砕かんばかりに噛み締め自らの無力感に苛まれるが、今はそんな場合では無いと魔力を操作する事に集中する。

 

残り、2秒。

 

「…………!!」

 

――――あった!

 

どうやら殆どの転移陣は破壊されてしまい役割を果たせない状態だったらしく、検索結果に上がってくるものは悉く機能停止状態に陥っていた。

しかしたった一つだけ。無傷のまま待機状態となっている物がある。

 

ネカネは間髪入れずにその転移陣に魔力を繋ぎ、火を入れる。

相当な無茶をする事になる為に一回使えば完膚なきまでに粉砕されてしまうだろうが、そこはそれ、緊急事態だということで許して欲しい。

 

『ぎ、ぎぎぎィ……お前、ダケでもッ!!』

 

「アーニャ、お願いだから無事で――」

 

――――そうして、ネカネがその転移陣にアーニャを押し込んだ事と。彼女がこの水中から外界へと飛ばされたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

悪魔の襲来する村の中。

激しい戦いの音が聞こえる住宅街から少し離れた広場の中に、無数の影があった。

それは黒。それは角。それは牙。それは羽。それは爪……。

群がるそのどれもがまともな人とは言い難い姿形を持った、正しく悪魔と呼ぶべき者達。

 

彼らは皆が皆楽しげに語らい合い、笑い合い。戦火の空気を楽しむように思い思いに寛いで。

その者達の傍には、精巧な石像が幾つも積み上げられていた。

 

恐怖。

悔しさ。

憎悪。

怯え。

 

村人を模して作られたと思しきそれは、そのどれもこれもが負の感情に醜く歪み。

それから漂う悲壮感は作り物を越え。命あるものが放つ生々しさを形作っていた。

 

『ぐ、あぅうううウウウ……!』

 

『あめ子!? おイ、どーしたんだヨ、オイ!』

 

『……おなか、痛いノ?』

 

そして、石像の影から響く小さな女の子の声。

強気、冷静、暢気と三つの異なる雰囲気を纏うその少女たちは、明らかに人ではない容貌をしていた。

身長は人間にあり得ない程に小さく、肌は色無くガラスの様に透き通り。ぷるぷると柔らかくその輪郭を震わせているその姿。

 

――スライム、それが彼女達の種族の名。

本来は不定形の生物である彼女達は、液体状の身体を魔法術式によって纏め、少女の姿を形作っているのだ。

油断させる為なのか、それともただ単にその姿が気に入っているのか。少なくとも相手の心に何とも言えぬ萌芽を芽生えさせる事は出来るだろう愛くるしい容姿。

その内、眼鏡をかけた少女の姿をした固体が腹を押さえ蹲り、残りの二体が心配そうに介抱をしていた。

 

しかし呻き声を上げる彼女の表情は苦悶に満ちたままであり、只ならぬ状況にある事が察せられ――――

 

『す、こし……トチッちゃいマ――――』

 

ぱしゃん。

……それが、彼女の辞世の句。

最後まで言葉を紡ぐ事無く、あめ子と呼ばれたスライムの身体が一瞬だけ醜く膨れ上がり、勢い良く弾け。消える。彼女の飛沫は地面に飛び散り、地面に大きな染みを作った。

その色は無色透明、ただの水に良く似た液体に見えたが――事この場に限り、それは大きな血だまりにも見えて。

 

――自己崩壊。

 

魔法生物であるスライムは、高位の存在となればその身に様々な魔法を宿している場合が多い。

使用する際に詠唱を必要としないそれらは、彼女達にとっての武器でもあり……しかし、それと同時に生命線でもある。

魔法と身体その物とが深く結合している為、陣や術式を破壊されればそれだけで魔力が暴走。抑えきれ無い場合、内側から弾け飛んでしまうのだ。

 

彼女の死に様は、崩壊に至った者のそれだった。

 

「ぐ……ッ!!」

 

――――そして、それと同時に一つの人影が彼女の腹より飛び出し、空中に放り出された。

彼女が死を迎える原因を作ったらしきその人影は、空中で1回転。バランスを崩しながらも地面へと着地し、ぜいぜいと息を乱しながら蹲る。

 

金色の頭髪と、ピンク色に上気した肌。

『一つの切り傷すらない』白魚のような指先に小さな杖を握ったその影は、小さく幼い少女のものだった。

 

「はぁー……っ、はぁー……っ」

 

彼女が熱い吐息を一つ吐き出す度に、華奢な体躯には大粒の水を滴らせる衣服が纏わりつき、その年にしてはメリハリの付いたスタイルが浮かび上がる。

体温が相当高くなっているのか。その丸めた背からは幾つもの金色の糸が立ち昇り、濡れていた服が小さな音を立てて水蒸気を上げていた。

 

威圧感。

ただの人間でしかない筈の彼女の周りには、周囲の悪魔に負けず劣らず。とてつもなく大きな気配が渦巻いていた。

 

『あ、あああああアァ!』

 

『……おまエ、カ……!』

 

残った二体のスライム。どうやら彼女達と今し方死亡した固体には深い友情が結ばれていたようだ。

眼鏡の少女が消えた事に強い怒りを感じた彼女達は、その人影に対し戦闘態勢をとる。

しかし注意を向けられた『彼女』は、その視線を気にも留めず。幽鬼の様にふらり、ふらりと身体を揺らしつつ立ち上がり。

そしてゆっくりと顔を上げ、首をめぐらせ――――見る。

 

――守るべき少女を抱いていない己の腕を。

――戦火によって崩壊した村の光景を。

――スライム達の声でこちらに気付いたのか、徐々に自分を取り囲む悪鬼達を。

――そして、その悪魔達の椅子代わりとなっている石像――石にされた村人達の姿を。

 

人間である彼女にとって、見渡す限り絶望しかないこの状況。普通であれば気が狂ってもおかしくない筈の光景。

 

「ふ、ふふふ、ふ……」

 

――しかし、彼女は口角を吊り上げ、愉快そうに笑う。

 

自棄になったように。

すべき事を見つけたかのように。

願いが叶ったかのように。

 

破壊された村の中で自分は一人、助けは遠く間に合わない。

そして鋭い爪や長い牙、一振りで大木すら折り飛ばせるような肉体を持った悪魔達が、敵意を持って包囲網を形成している。

 

……そんな絶望的な状況下に合って笑うその姿に、悪魔達は警戒した。

「恐怖の余りおかしくなったか」――本来であればそう嘲笑し、仲間を殺したちっぽけな人間を縊り殺す所だ。

しかし、彼女の放つ気配がその殺意を押し留めさせる。

 

――――そうして、悪魔の視線を一身に受ける少女は、顔を天に向け大きく口を開いた。

 

 

「               」

 

 

轟くは、絶叫。

喉が張り裂けんばかりに叫び、喚き。辺り一帯を震わせるのは、切なる想い。

人の名の様にも聞こえたそれは『彼女』にとっての鬨の声であったのか。

彼女は同時に深く身を沈みこませ、足のバネに力を溜め込み。

 

 

――――自らの体の何処かが壊れる音を聞きながら、それを解き放った。

 

 

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――修羅場。

その時の僕たちを表現するならば、それが一番適切な単語だった。

 

「は! な! し! て! よー……!!」

 

「む、む、りぃ……っだ、っよぉ……!!」

 

ぐいぐい、ぐいぐい。

小汚く狭い小部屋の中、何とかして外に出ようとしているアーニャ。そして彼女の腰の部分に抱きついて必死に押し留める僕。

その姿はまるで金色夜叉における貫一とお宮の名シーンの様。いや別に僕自身に不義理があって許しを乞うている訳じゃ無いけど、雰囲気としてはそんな感じだ。

 

振りほどかれまいと腕に力を込める度に、アーニャに纏わり付いている濡れたままのローブが僕の顔に引っ付いて息を塞ぐ。最初はひんやりとした冷気しか感じなかったんだけど、長く抱きついていたからか人肌程度にまで温まっていて凄く気持ち悪い。

 

「だっ、てっ……! い、か、な、きゃ、だ、め、な、ん、だ……からぁっ!!」

 

「外……出てっ……らぁ! し、死んじゃうって、ってんだろぉ……!!」

 

ずるずる、ずるずる。

さっきまで光っていた魔方陣の影響か、それともアーニャの専用デモなのか。何時もの如く砕け散った部屋の扉を抜け、彼女は僕を引きずったままうっすらと埃の覆った廊下へと進撃。

殆ど床板に倒れ込んでる体勢の僕は、まるでモップの様に進行ルートにある埃と木屑を絡め取る。ついでに隠したままのノートPCがまだ腹筋の無いやわらかな腹部へと食い込んで、とても痛い。

 

しかし絶対に手を離す事はせず、唯一自由に使える足先を廊下の壁や取っ掛かりに引っ掛けて抵抗する。

まぁ結局は一秒も持たずに引き剥がされる訳なんだけど、それでも何もしないでただ引っ張られるよりはマシだろう。

 

「おねえちゃん、も、あそこに居るはず、なのにぃ……っ!!」

 

「むり、むりむりっ……むっむ、っむぅ、りぃ……!」

 

がごんっ、ぎりぎり、ぎりぎり。

廊下の出入口、木製のドアを開けてリビングへと出ようとするアーニャ。僕はその入り口に足を広げて引っ掛けて最後の抵抗。

如何に子供のコンパスが短いって言ったって、ドアの横幅は90センチあるかないかのサイズだからね。本気で足を広げれば脛の辺りでつっかえさせられるんだ。

 

……その代わり股関節と脛が大変な事になって、下半身に物凄い痛みが走る。くそ、後で関節症とか変な事になりませんように!

 

「む、ぅーーー……っ!」

 

「あ、ぎ、ぃ……ッ!!」

 

ぐいぐい、ぐいぐい……。

力任せに僕を引き離そうとするアーニャと、そうはさせぬと何とも情けない格好で踏ん張る僕。

端から見れば「何やってんだこいつら」と写メられてトゥイッタられてしまう様な光景だけど、やってる本人達は大真面目だ

 

「く、く、ぅう……」

 

ちらり、と。

痛みに涙が滲んだ瞳で、リビングの窓から見える景色を見た。

それはここに来てから見飽きた光景。

視界一杯に入る白。痩せた枯れ木が立ち並び、雪の降り積もるそこはまさに銀世界。

舞い散る雪は相変わらず寒そうで、僕は何時もの小部屋から外に出ない決心を強める……なんて。普段の僕ならそう言うんだろうけど、今はそうも言っていられない。

 

――――何故なら遠くに見える空の下。スタン達が住む村の周りには真っ黒な化物がぶんぶか空を飛びまわってて、村に対してのを破壊活動を行っているんだ。

 

朝から続くそれはまだ終わる気配を見せず、薄く轟いてくるのは建物の破砕音や、人の悲鳴らしきもの。そして何かの叫び声……。

アーニャはそんな死線の渦巻く化物達の坩堝へと単身向かおうとしてるんだ。そりゃ必死になって止めざるを得ないよ。

……排他的なキモオタの僕に相応しくない行為だとは自覚してる。でも、それを無視できる様な器用な人間だったなら、僕はエスパー少年なんて呼ばれてなかった筈なんだ。

 

「……くっ! し・つ・こ・いぃぃ……!」

 

「ぉ。ぉぉぅ、あ……っぎぃ……!!」

 

食い縛る歯がギギギと嫌な音を立てた。

ドアの角に押し付けられた脛と、限界まで開いた股関節。ついでに力を入れすぎてピンと反り返った爪先が引きつり、激痛を訴える。

多分今の僕の顔は、目の前で布を振られる猛牛の様に真っ赤に染まっている事だろう。鼻の穴とかも限界まで開かれているに違いない。

 

(くそ、何で僕がこんな目に!)

 

何で。どうして、どうしてこんな。僕が何をしたって言うんだ。畜生……!

頭の中でそんな悪態が浮かぶけど、直ぐに痛みに流されて思考の彼方に消えていく。

 

――そうして次に流れてくるのは、アーニャが扉を粉砕して僕の小部屋へ転がり込んできた時の事。

 

 

――なんであなたがここに居るの!?

 

びしょびしょに濡れた衣服を身に纏ったまま咳を続けていたアーニャは、息が整ったと同時に僕にそう詰め寄ってきたんだ。

何時もの通りキンキン声でがなり立てながら、僕の襟首を掴んで、揺さぶって。

ここは僕の部屋だからです。揺れで増幅された全身を覆う激痛に海老反ってた僕には、そんな突っ込みは入れられなかった。

 

――どうしよう、どうしよう……!

 

そうして彼女はしばらく僕を揺さぶっていたけど、やがて自力で状況を把握したのか僕を投げ捨ててよろめいた。そして、体温を奪う濡れたローブごと小刻みに振るえる身体を抱きしめ、キョロキョロと辺りを見回した。

それは何か失くしてしまったものを探すかの様に、逸れてしまった母を探す幼子の様に。切羽詰った様子の彼女は随分と混乱していたみたいで、その真紅に透き通った瞳を涙で揺らめかせていたよ。

 

「なんでここに居るの」はこっちの台詞だ、君は魔法学校()に居るんじゃなかったのか。今日帰ってくるなんて聞いてないぞ。背中が痛い、後遺症が残ったらどうしてくれるんだ。逃げる為の手段をぶっ壊しやがって。

 

最初はそんな罵倒の言葉しか浮かばなかった僕も、そんなアーニャの様子を見ているうちに何か異様な雰囲気を感じた。

いつも勝ち気でツンツンしてるアーニャが、あんな不安そうに弱弱しい態度を取っているんだ。そんなあからさまなACTがあって何も気付けない程僕はギャルゲー(ソフ倫)をやり込んでない。

 

化物が襲撃してるっていう今の状況からすれば何らおかしな事ではないけど、それでも彼女なら虚勢の一つぐらいは張る筈だ。断言してもいい。

「全然怖くないもん!」とか「あなたはわたしが守るんだから!」とか。そんな感じでさ。

けれどそれをせずに、アーニャはただ怯えて周囲を見回しているだけで――そうして、その震える真紅が窓を。正確にはその外の光景を捉えた。

 

――!! タクはここに居てっ。

 

瞬間。彼女は勢い良く駆け出したんだ。

化物達が跋扈する外界。そこに自分の探すものがあると確信しているかの如く、全力で。

当然、そんな様子を観察していた僕は彼女が何処に行こうとしているのかを察する事が出来た。そしてそれが成された場合に彼女がどうなってしまうのかも。

 

手を差し出したのは、殆ど無意識だったよ。

アーニャが化物どもに突っ込んで行く――その答えが脳裏を掠めた刹那、僕の身体は激痛を無視して彼女の足首を掴んでいたんだ。

 

――むぎゅっ!?

 

当たり前だけど、彼女はそれはもう見事に転倒した。砕けた扉の破片が転がる床に顔を打ち付けて、無様な悲鳴を上げていたよ。

直ぐに身体を起こしてこっちを睨みつけてきたけど、その小ぶりな鼻は赤くはなれど血は垂れていなかった。リアルLUK高めですね。

 

――何するのよ、バカタクっ!

 

そう言って掴んだ手を振り解こうとする彼女に、僕は精一杯外の危険を訴えた。「絶対に死ぬ」「ここで助けを待ってろ」って。

でも彼女はそんな絶叫に似た訴えに耳を貸さないばかりか、更に激しく抵抗し始めた。一秒間に何連射してたかな、とにかく物凄いスタンピングの豪雨が顔面と腕にどしゃぶった。

……そんなになっても手を離さなかった僕ってマジ凄くね? 褒めてくれても良いのよ?

アーニャは何時もと違って嫌にしぶとい僕に業を煮やしたのか、無理矢理立ち上がって僕を装備したまま歩き始めた。僕は僕でそれに慌てて追いすがり、ナイアさん宜しく這い寄ってその腰元に抱きついて――――

 

「ふんぬーーーーーーっ!!」

 

「ごげ、ごげげげげ……!」

 

結果ご覧の有様だYO!! 腰が千切れる! 誰かたっけて!!

 

「何で、じゃまするのっ! わたしは、わたしはっ!!」

 

「ぎ、ひぃっ……なん、っでぇ! なんでぇ!!」

 

アーニャの腰。柳の様に柔らかく細いそれに、僕は自分の腕同士を引っ掴むようにして抱え込んでいるんだけど、彼女の強い力に振り解かれそう。何か二の腕に突き立ててる爪がミチミチと変な音を立ててる。

そして引っ張られる事によって、脇腹とその内側にある内蔵を断続的に激痛(Ver.α)が襲ってきて。ついでに背骨の辺りに留まる激痛(Ver.γ)が変な感じに混ざり合って、僕の思考をかき乱す。

腹部に仕舞ってあるPCの重さがまた良い感じのアクセントになって、なんかもう吐き気がしてきた。

しかしアーニャはそんな僕の惨状に気付く事無く、更に力と声を強める。

 

「だって、おねえちゃんが! おねえちゃんが居ないと!」

 

「おね……ッカネ!? ネ、カネがぁっ! な、何だっていうんだよぉ!?」

 

「わかんない! わかんないけど、おねえちゃんが居れば大丈夫なのっ!!」

 

どうやら、彼女はかなりの錯乱状態にあるらしい。

ネカネが居れば大丈夫? いや、あの貧弱な姉に何が出来るって言うんだ。どうせどっかで貧血でぶっ倒れてるに違いないだろ。

 

「……ぎ、……ふひっ……」

 

……少し、嫌な予測が脳裏を掠めたけど、僕はそれを敢えて考えないようにした。とにかく、今はこのお転婆の事だから。

ここに飛ばされてくる前にネカネ関係で何かがあったのか、只管に彼女の事を口にしながらアーニャは自由な両手を振り回す。

その度に身体が大きく揺られ、腕が外れかけた。というか、もうそろそろ筋肉の限界が近い。指の感覚がなくなってるんですけど。

 

「ネカネがっ、居たところで! 何も、出来ないって、っばぁ!! だから、っらぁ……!!」

 

「そんなことないっ! 黒いやつ、たおしてたっ! なら! みんな、タクも、わたしも、パパもママもたすけてくれるもんっ!」

 

「意味ワカンネッ! 日本語で、オゲッ!?」

 

びきり。全身を稲妻が貫いた。

……無理!! もう、無理ッ!!

頭が、指が、腕が、腰が、足が、関節が。身体の至る所が絶叫を上げていて。少しづつ、少しづつ。アーニャの身体から僕の指が引き離されていく。

 

彼女が身動ぎをする度に、五指のHPが一本、また一本と0になって行くんだ。

 

「あー……! あー! あー! あー……ッ!!」

 

「おねえちゃんが、居れば……! おねえちゃんが――――」

 

――そして、ついに限界を迎えた。

 

僕の指はアーニャの勢いに耐え切れず弾け飛び、半ば宙に浮いていた体が墜落。床に腹部から叩きつけられ、PCが胃の奥深くにめり込んだ。息が出来なくなって視界がチカチカと明滅したよ。

 

アーニャの方はいきなり身体が自由になった事で勢いのまま進行方向の先にあったテーブルに激突。周りに置いてあった椅子を巻き込んで床に転げ倒れた。

僕だったらしばらく蹲って立ち上がれない程の事故。しかし彼女は直ぐに立ち上がって、僕の方に視線を向けたんだ。

 

「ひっく……っぅ、う」

 

聞こえたのは、幼いしゃくり声。

痛みの所為か、それとも他の要因の所為か。その水晶の様に美しい紅色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。

真紅の湖面は揺らめき、波うち。今の彼女の精神状態を如実に表しているようで。落ちる雫は彼女の柔らかな頬を伝い、床に幾つもの染みを作り出す。

 

――全身の痛みで意識が朦朧としていた僕は、不覚にもその不思議な色合いに見蕩れてしまった。

 

「だ、大丈夫、だから。待ってて。おねえちゃんが居れば、きっと、きっと……」

 

アーニャはそうやって僕が呆けているのを他所に、転がる椅子を押しのけてふら付きながら立ち上がった。

そうしてうわ言の様にぶつぶつと何某かを呟きながら、駆け出していった。倒れこんだままの僕を残して。

 

「……! ……っ!!」

 

その姿に咄嗟に我に帰った僕は、彼女を呼び止めようと大声を出した――つもりだった。だけど漏れ出るのは声にならない声だけで。

さっきの墜落で上手く呼吸が出来ないままだった僕は、浜辺に打ち上げられた魚介類の様に唇をぱく付かせる事しか出来なかったんだ。

 

禄に動かない身体で、僕は必死に手を伸ばす。

あの時よりも小さくて短い手足を蠢かせて、行かないでくれと。行っちゃ駄目だと、ただ、それだけを考えて。

でも、当然ながら伸ばした指は掠る事すら無く。彼女の纏う暗色のローブがはためき、僕の視界を擽った。

 

そうやって二つ縛りにした髪を振り乱して、手の届かない場所へ去っていってしまう後姿に、僕は最愛の人の姿を幻視して。

 

「…………」

 

声の戻らない声帯が、去って行く彼女の名前を形作る。

呟いたのはどちらの名前だったのか、なんて。そんなの、僕にも判断がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

そうして僕一人しか居なくなった部屋に、乱暴にドアが開閉される音が聞こえてきた。

きっと、アーニャが玄関から外に飛び出していったんだろう。

 

「……もう、知るもんか……」

 

ズキズキと痛む全身から力を抜いて、呼吸が出来るようになった口腔から細長い息を吐き出し僕はゆっくりと目を閉じた。

強い倦怠感と疲労感が体中を包み込み、指の先から足の先まで鈍い痺れが走る。

……もう、いい。勝手にすれば良い。一人で化物達に特攻してって、一人で勝手に死ねばいいんだ。

こんなになるまで必死になって止めたんだ、だったら最低限の義理は果たした筈だろう。後に何が起ころうが、それは僕の所為じゃない。彼女自身の責任だ。

 

「…………」

 

大体、何で僕はあそこまで必死になっていたんだ。所詮あいつも『見覚えの無い知り合い』の一人だった筈だろう?

ネギとしての記憶の欠片。僕の記憶に無い記憶の登場人物の一人。西条拓巳としての僕とは何の関わりも無いただのガキ、そんな奴にお節介を焼く必要・理由共に全く無かったんだ。

 

もうちょっと頭良くスマートに生きようよ、僕。疾風迅雷のナイトハルトはINTだって最高値だったんだからさ。

 

「…………」

 

アーニャ……いや、アンナって呼んでやる。だって待っててって言ってたじゃないか。なら、無理して引きとめる必要も無かったんだ。少なくとも帰ってくるつもりはあったんだから。

別に帰ってこなかったとしても、どうせ、あれだよ。あいつが求めてた「ネカネおねえちゃん」と無事再会できたんだって。

 

……いや、違うな、死んだとしても構わないね。あんな自分勝手で我侭なガキ、死んだ方が清々するさ。

自分の我を通して、相手がそれに沿わなかったら暴力を振るってくるバカ。そんなガキは後顧の為に居なくなっておいた方が良い。

やったじゃないか、世界の未来はまた一つ綺麗になったよ。

 

「…………」

 

そうさ、そうだった。あの子は何時だってそうだったよ、僕の為だとか何とか言って無理矢理やりたくも無い事をやらせようとして来てた。

糞寒い中外に連れ出そうとしたり、僕を馬鹿にする奴らと遊ばせようとしてきたり。ああ、そう言えば殴られたり蹴られたりした事もあったっけね。

 

あの時は本当に痛かった、頬の辺りに小さいひっかき傷が痕になって残ってるよ。

 

「……っ……」

 

口を開けば僕を小馬鹿にするような事しか言わないし、何かとネカネと親しくなるよう命令するし。だから怖いって言ってんだろ。

少しでも文句をつけたら拳が飛んで、意見を言えば脚が飛ぶ。ああいうのを鬼女って言うんだ。

やる事成す事マイナスばかり。僕の益になった事なんてただの一つも在りはしない。

 

それにツンデレって事も減点ポイントだ。二次元ならともかくとして、三次元でのツンデレなんてゴミもいいとこだよ、本当。

 

 

「…………っぐ」

 

 

何がタクって呼んでやるわよ、だ。勝手に彼女と同じ呼称で僕を呼ぶなよ。

その所為で、これだ。彼女に嫌悪感が抱けなくて、そんで無意味に頑張って、傷ついて。

 

ああそうだ、僕が彼女を気にかける様になったのだって、元はといえばそれが原因だったんだ。

あの子が僕の事を「タク」って呼ぶから、僕を情けない奴って叱り続けてくれたから。僕は僕のまま、情けないキモオタのままで居られて。

 

――――本当、迷惑かけられっぱなしだ。

 

「……っあ……ぎ……!」

 

今だってそうだ。君を墜としまくってる思考とは裏腹に、僕の身体は壁伝いに立ち上がろうとしている。君を追いかけようとしている。

オタクにとっての生命線たるPCを服の下から無造作に放り出すなんて暴挙に出て、雪の降り積もる外界に着の身着のままで飛び出そうとしてるんだ。

 

分かってるのか? 僕があれだけ引き止めた化物だらけの世界に、僕自身が飛び込もうとしてるんだよ。君の所為で。

バカじゃないの、バカじゃないの? 大事な事なので以下省略。

 

「っは……っは……!」

 

何の説明も無いまま僕の下から離れてく、その行動。何となく彼女と被るんだよ。

善意の行動なのかもしれないけど、結果的に僕が迷惑を被る事になるんだ。止めてくれよ、マジで。

 

突っ込んでった先で敵にとっ捕まってヒロインを気取り、多大なる苦難を僕に振りまいてくれた彼女。

まぁ実際僕にとってのヒロインだった訳だけど、僕が主人公で無かった以上大切な部分が致命的にズレていた。

結果彼女を助けに行った脇役は死んで、僕という道具を使った真の主人公たる彼がラストバトル終了後に彼女と妹と幸せになりましたとさ。見届けてないけど、きっとそうなってるに違いないんだ。

 

そんで肝心の僕はご覧の通り死んだ先で島流し。どうですかこれ、彼女の独断行動による皺寄せが全部僕に来てますがな。

 

「はぁ、はぁ――くっ……!」

 

僕自身はその結果にこれ以上なく納得しているけど、現状にはこれ以上なく憤慨しているんだ。

もう嫌なんだよそういうの。色んな事が手遅れにならないうちに、引き戻してやるんだ。

 

――だから勘違いとかするなよな。君を追いかけるのは、君の為じゃない。僕の為なんだから。

 

……理由が苦しい? ツンデレ乙? 

うるせぇリアルツンデレは市ねが僕の持論だっつってんだろバカ消えろ氏ね。

 

「…………は、ぁ」

 

そうだね、連れ戻したらどうしてくれようか。

とりあえずローターか何か使ってそのちっぱいでも虐める? 勿論星来たんの――いや、年齢的にエリンたんのコスが良いかな。

僕のマイサンは未だ休眠中だけど、その記憶さえあれば10年後に幸せになれるからさ。未来への先行投資、ナイスです僕! ふひ、ふひひひひひ。

 

……だから現実のガキは嫌いだっつってんだろバカ消えろ氏ねッ!!

 

「…………」

 

……本当に、死ぬほど面倒だけど。

……本当に、死ぬほど嫌だけど。

……本当に、死ぬほど死にたくないけど。

……本当に、死ぬほど良くないけど。何かもう、良いよ、もう。

 

 

「――死んだら、絶対に恨んでやるから」

 

 

■ ■ ■

 

 

――彼女の頭の中は、混沌に満ちていた。

 

「はぁ、はぁ……っ!」

 

大粒の雪が降り積もる白銀の野原に、一つの小さな息遣いが響き渡る。

それは未だ年端も行かない幼い少女のもので。息と共に吐き出される声は小さく震え、凍えていた。

 

先端が凍てついた赤毛に、雫を垂らすほどに水を吸った暗色のローブ。それらを身に纏う彼女は、何も持たない両腕で自らの肩をかき抱き、襲い掛かる寒さを堪えていた。

そうして、おそらく走っているつもりなのだろう。ともすれば転倒しそうになる身体を往なし、細い足首を何度も雪原に埋めていく。

 

……しかし、踏み出す一歩はまるで牛歩の様に重く、遅く。

頼りない身体を覆うローブにも風に吹かれて舞い踊る雪が張り付き、手足の動きを阻害し動きを更に鈍らせて。

そして服の下の肌にその冷たさが伝わり、彼女の体温を更に奪って行く。

 

直前まで命の危機に瀕し、体力、精神共に大きく減退していた彼女にとって、それは余りにも辛すぎるものだった。

 

「は……っあ……」

 

ぼやけた意識の中、言う事を聞いてくれない体が震え、引き攣った吐息が放たれる。

このままでは、彼女が目的とする故郷の村にまで辿り着くなど夢のまた夢。数刻もしない内に意識を失い倒れてしまう事だろう。

 

しかし、そんな状況にあっても彼女は未だ歩みを止める様子は無く。

 

「……ぇ、ちゃん……」

 

掠れた声。寒さに根の合わない歯が、姉貴分の少女への妄信とも言える信頼を吐き出した。

 

幼い少女――アーニャの脳裏には、未だその雄姿が強く焼きついている。

あの空一面を覆い尽くす程の黒の大群。おぞましい気配を放つ彼らから、自分を抱えて守ってくれた姉。

こちらを補足して襲いかかろうとする黒い化物を森を影にしてやり過ごし、時には純粋な身体能力で逃げ切り。

それでも追い縋って来た者や不意に遭遇した者達と戦い、難なく屠った彼女。

 

それは普段の優しくて柔らかい彼女の姿とは正反対で、アーニャはその姿に憧れにも似た感情を抱いた。

そして「大丈夫」と言って抱きしめてくれる彼女の腕の中で、アーニャの信頼と憧れはそれまで感じていた恐怖や不安と融合し、肥大化していったのだ。

 

――おねえちゃんは、本当は凄かったんだ。強かったんだ。

 

化物との戦いの後、傷だらけの身体だった事を心配したけど、それも目の前で直ぐに治っていった。

それはつまり、絶対に負けないという事。どんな化物でも打ち倒す、自分たちを助けてくれるヒーローなんだ。

 

だから、彼女と居ればあの黒い奴らが幾ら来ようとも恐れる事は無い――。

 

……それは子供が描く絵空事。縋るものを見つけたアーニャの心が錯覚した、虚像の英雄。

突然の危機に不安定になっていたアーニャには、言葉の裏側に張られた虚勢を見抜く事が出来なかったのだ。

 

度を越えた信頼。

彼女に根付きかけていたそれは危うさとなり、村に向かう事無く逃げ出そうとした姉自身に向けられる事となる。

 

――そして失望へと変わる瞬間に、それは弾けた。

即ち、命を脅かされた上で姉と離れ離れになった事によって。

 

「……おねぇ、ちゃん……」

 

突如放り込まれた苦痛の世界。アーニャにはその時何が起こったのか分からなかった。

 

姉に抱かれていたと思ったら突然苦しくなって、寒くなって。気が付いた時には彼女の姿は何処にも見えなくて。

そうして、目の前には自分が守ってあげなければならない存在が寝転がっていたのだ。

 

――彼女の頭は、混沌にかき混ぜられた。

 

おねえちゃんが居ない。皆を助けてくれる存在が居ない。

わたしが守らなきゃいけない男の子が目の前に居る。でも、わたしじゃ何も出来ない。おねえちゃんじゃないと守れない。

 

どうしていないの? どうしてわたしはここに居るの? どうして、どうして、どうして……!

 

今までに絶対的な信頼を向けてきた存在が傍にいない。その事実は容易く彼女の心を食い破り、焦りと恐怖を植えつけた。

本当なら、その場で泣き喚きたかった。ただ座り込んで、喉が裂けるまで彼女の名前を叫んでいたかった。

 

しかし目の前に彼が居る以上、そんな事は許されない。

今まで彼に年上として接してきたアーニャのちっぽけなプライド。それが最後の一線を踏み留まらせたのだ。

そうして不安感から辺りを見回し、濛々と黒煙を上げる村の姿を視界に納めた時、彼女は思い至る。

自分の都合のいい妄想を元に作り上げた、紛う事なき真実の光景。その時の彼女は、それを間違いなく幻視し、そして確信した。

 

――あの村の中。化物達の世界の中で彼女は戦っている。と。

 

瞬間、彼女は走り出した。

妄想に歪んだ思考の中で、たった一つ。図らずも現実と合致していた、自分が信じた答えへと向かって。

 

身に危険が及ぶなど考えもしなかった。何故ならば姉があそこで戦っている以上、こちらに化物が向かってくる事などありはしないのだから。

そう、姉の――ネカネのところに行けば、全てが解決する。黒い化物達も、壊れた村も、全部。全部。全部――――

……自分でも違和感は感じたが、それを妄信するしか彼女には出来なかった。

 

「……あ、う……」

 

どさり、と。

身体を芯から冷やす寒さにとうとう耐え切れなくなり、雪原の上に膝をつく。腿の辺りまで雪の中に埋まり急激に体温が低下するが、彼女の感覚は最早それを痛みと認識していた。

地面に手を突いて必死に立ち上がろうとするものの、下半身に力が入らない有様では動く事すら侭ならず。そんな自分の醜態に涙を流した。

 

「っく、う、う……」

 

それは寒さの為でも、恐怖の為でも、悔しさの為でもない。

彼女自身にも良く分からない感情が渦を巻いて胸を焼き、熱く濁った涙が足元の雪を溶かしていく。

……早く、行かなければ。早くネカネの下に行って、そして……。

 

「…………?」

 

そして、どうすればいいんだろう?

ネカネがヒーローであるならば、自分が何もしなくとも皆を助けてくれる筈なのだ。わざわざ呼びに行かずともいい筈で。

ならば、わたしは何をしている? 違う、わたしはタクを、おねえちゃんを。

 

「……ぁ……ぅ……?」

 

そうして気が付けば、雪に顔をつけていた。

中途半端に開いた口から雪の欠片が潜り込み、口内を冷やす。その気持ち悪い感触に耐え切れず、彼女はゆっくりと上体を起こした。

身体の震えが止まらない。寒さに思考がやられたのか、考えをうまく纏める事が出来なくなっている。脳の奥底からジンジンとした鈍い痺れが走り、視界がぐらつく。

 

―――わたしは、何をしているのだろう?

 

そんな疑問が鎌首をもたげた瞬間――彼女のぼやけた意識の中に、一つの黒点が産まれた。

 

それは何処までも黒く。暗く。冥く。

ぐるぐると淀むその黒色はまるでスライムの様に蠢き、引き伸ばされ。徐々に一つの明確な姿へと変貌を遂げていく。

四方へと伸びきったそれは捩れ、歪み、絡みつき。人間の四肢と頭を組み上げる。ミチリミチリと肉が鬩ぎ合う音が彼女に耳に届いた。

 

幻聴、なのだろうか。

 

湿り気のある音を立てながら黒点は幾重にも組み合わさり。やがてはっきりとした筋肉となって。その体積を増していく。

見るにおぞましい光景ではあったが、アーニャは悲鳴の一つも上げる事は無く。ただぼんやりとそれを観察しているだけで。

 

――――そうして、筋骨隆々の黒い化物の形を成したそれは、確かな現実感を伴って彼女の眼前へと降り立った。

 

「ぁー……」

 

妄想か、現実か。感じている世界が曖昧になっていく。

目の前に居る黒い化物は、彼女が感じていた疑問が形を成した物なのか、それとも実際に目の前に立っているのか。ぼやけた意識ではそれを判別する事など出来はしない。

 

――身体が震えているにも拘らず、寒さは既に彼女の中から消えていた。

 

「…………」

 

呆けたように雪中へ座り込むアーニャに向かい、その黒い化物は大きく拳を引き絞る。

硬く握り込まれたそれはまるで重機の様に大きく、重く。彼女の細い身体を叩き潰さんと血管を浮かび上がらせた。

 

……しかし、アーニャはそれに何の反応も返さない。

寒さで鈍った思考は彼女から恐怖という感情を奪い去り、只の人形へと仕立て上げていたのだ。

今の彼女の意識にあるのは唯一つ――即ち、ネカネへの妄想にも似た信頼。

この期に及んでも彼女は未だに信じていたのだ。ネカネが助けに来てくれると。目の前の化物を排除してくれると。

 

『――――』

 

小さな呼気と共に、引き絞られた漆黒の豪腕が唸りを上げた。

それは正にバリスタの如く。矢の様に鋭いそれは風を裂き、雪の欠片を砕き。血と臓腑の花を咲かせんとアーニャに向かい、迫る。

 

当然、ネカネが駆けつけてくるはずも無い。これより先に待っているのは己の死、ただそれだけ。

しかし彼女は霞んだ視界の中、身動ぎ一つせず目の前の化物の死を確信していた。

あの時の様に、ネカネが化物の首を飛ばしてくれる。殺してくれる。最早避けようの無い死の間際、そんな妄想をぼんやりと考えていて――

 

「――ぅあっ?」

 

―――だからこそ、自らの身体に走ったその衝撃はこれ以上無い不意打ちだった。

 

「あ――っぐ」

 

その衝撃は体重の軽い彼女の身体を突き飛ばし、まだ踏み荒らされていない雪の中へと飛び込ませる。

地面に背中を打ちつけ、その勢いにより大きく首が振られて後頭部が雪深くに埋まった。固い土の上で無かっただけ、不幸中の幸いなのだろうか。

 

――何? 何が起こったの?

 

先程とはまた別種の混乱の中で彼女は無意識に首を上げ、自分を突き飛ばした原因を視界に捉えた。

 

――自分と同じ紅い色素の入った、ボサボサの頭髪。

――自分の着ている物とは対照的な、明るいベージュ色のローブ。

――そして、自分より一回り小さく華奢なその身体。

 

彼はアーニャを突き飛ばした手を伸ばした姿勢のまま、バランスを崩して地に膝を突いていて。

その表情は笑みとも恐怖ともつかない形に歪んでおり、充血した大きな瞳からは大粒の涙を流し――その他諸々。顔面の穴という穴から体液を撒き散らしていた。

 

「――――」

 

涎塗れの口元から何某かの言葉が漏れるが、その想いは誰に伝わる事も敵わず、只一滴の露と消え。

 

その言葉を最期に、アーニャに注がれていた視線は首ごと左に注がれた。彼女の居た場所に放たれる暴力の塊に向かって。

 

自らに迫る、その圧力を伴った気配を認識した瞬間、彼の表情は更に大きく歪み。後悔と自身への怒り、そして死への恐怖に彩られた。

 

一瞬が永遠に引き伸ばされた。音すらも意味を亡くした末期の世界で、彼の右腕――こちらに向かって伸ばされたままの手の指が、微かに動く。

 

その指先は嫌悪感を湛え、悲しみを湛え、嫉妬を湛え。ありとあらゆる悪感情を纏わせていて。

 

しかしそれを振り切るように。生への執着という極めて原始的な本能のまま、彼は目には見えない『それ』を握り込んだ。

 

そして彼の腕、ベージュ色のローブに覆われた二の腕が何かに巻付かれた様な痕跡を生み――――

 

「――ぎ、」

 

――――それら全て。黒い塊が、彼の一切を押し潰した。

 

「ぁえ……?」

 

びちゃり、と。熱い飛沫が彼女の頬に飛び散り、その意識を覚醒させる。

 

ネカネの事も、寒さの事も。全て纏めて吹き飛んだ。彼の血液の熱が、凍えきった体に少しの活力を与えたのだ。

 

「……え? え?」

 

未だ現実を認識できない彼女を他所に、黒い塊――化物の豪腕を叩きつけられた彼の身体は醜くたわみ。その反対側が大きく膨れ、一瞬遅れて破裂する。

 

身体一杯に詰まっていた血液と、砕けた骨と、破裂した臓腑。人を構成する全ての部品が千々に乱れて散らばって。そうして破けた皮とその中身が寒空の下にぶちまけられた。

 

未だ熱を持ったままの彼の破片は、辺り一帯の雪を赤黒く染め上げ、溶かし。グロテスクな絵画を描き。

そうして後に残ったのは、中身が全て吹き飛んだ『彼だったもの』と、遠くに落ちる千切れた四肢。それだけだった。

 

 

余りにも簡単に、そして呆気なく行われた残酷な光景は、呆けていたアーニャを強制的に現実に引き戻すには十分なものであり――――

 

 

「……あ、あ……あ――――――!!」

 

 

――――『彼』が無残な最期を遂げた。

その事を理解した瞬間、少女の金切り声が曇天の空に木霊した。

 

 

【挿絵表示】

 

 





…………――――――、ブツン。

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