4月初頭。
春休みの時期が過ぎ、新年度を迎えて早数日。アーニャは何時もの広場の外れに陣取り、占い師としての活動を行っていた。
桜の咲き誇る街路樹の一つを背に控え、自作のセットに腰掛け客を待つ。時たま目の前に置かれた水晶に手を掲げ、それっぽい雰囲気作りも忘れずに。
……しかし周囲の鮮やかな景色や暖かくなってきた気候により、ともすれば眠り込んでしまいそうな穏やかな空気が漂っていた。
『それっぽい雰囲気』など作る端から消し飛んでいくこの有り様。アーニャもそれを分かっているのか、水晶に掲げる手つきもどこか適当な動きである。
「お客さん、来ないなぁ……」
くぁ、と。欠伸がてらにそう呟く。
雰囲気云々の件は置いておくにしろ、麻帆良という場所の性質上、学校が授業を行っている時間帯は客入りが酷く少なかった。
一時間に一人来れば良い方で、酷い時には三時間待っても誰も来ない時がある。そりゃやる気等出ようはずも無い。
もう少し広い場所。大通りや中央広場辺りにでも出れば違うのだろうが――今の状態でそこに行くのは自殺行為だろう。背筋を小さな寒気が昇り、頭を振って追い出した。
(……今日、チサメと会えるかな)
そうして暇する間に考えるのは、日本に来て初めて出来た友人――チサメの事だ。
普段は放課後の鐘の後そう時間を開けずにこの場所へとやって来る彼女だが、今日は早めに店を畳むつもりである為会えない可能性が高い。
一応時間の許す限りはここに居るつもりであるが――さて。チサメの学校が何かの間違いで早終わりになってくれる事を祈るばかりである。
(ニホンに来てから二ヶ月と少し。最初はとんでもない所だと思ったけど、チサメと知り合えたのは良かったわね)
あと、サクラもすごく綺麗。足をブラブラ振りつつ頭上を見上げ、そこに広がる桜色の雨を眺めた。
――元々、彼女は日本に来る筈では無かったのだ。
メルディアナ魔法学校を飛び級で卒業した後、ロンドンで占い師をする事。それが本来彼女に課された課題であったのだから。
しかし6年前の冬に起こったある事件により心に深い傷を負い、黒色に異常な程の恐怖感を抱くようになり――――加えて、幼なじみである少年と離れる事が出来なくなった。物理的にも、精神的にも。
一日二日顔を合わせない程度なら問題は無い。しかしそれ以上となると精神が不安定になり、酷い錯乱状態に陥ってしまう。これは少年の方も同様であり、ある意味では一心同体と表現する事も出来た。含む意味合いは全く違うものだったのだが。
――アーニャを1人でロンドンへと送り出す事は、即ち彼女と少年を間接的に殺す事。それを理解した大人達は大いに頭を悩ませる事となった。
卒業後に課題をこなす事は決定事項だ。それを成さねばアーニャの目指す『立派な魔法使い』にはなれず、一人前とは見なされない。
ならば少年もロンドンへと同行させればどうだろう――そのような意見も一部あったが、少年も少年で魔法関係者にとっての超重要人物であり、おいそれと外の世界に出せば敵対勢力から危害を加えられる危険性がある。
かと言って魔法学校付近では勝手知ったる土地故修行にならず、占い師から他の目的に変えたとしても意味は無い。半ば八方塞がりの状況。
そうして議論の末アーニャの卒業取り消しの話すら取り上げられたその時、メルディアナ魔法学校長が一つの案を提示した。
――日本の麻帆良学園都市、修行地をそこに変える事としよう。
……麻帆良学園都市は、物理的にも政治的にも手を出しにくい場所である。
確かにあの場所ならば、例えアーニャと少年が共にあったとしてもほぼ安全に修業を続ける事が出来るだろう。今回の場合においては一応の最適解と言えた。
ならば、何故すぐに挙げられなかったのか。それには既に麻帆良が孕んでいるとある姫巫女の事が関わっているのだが――まぁそれはそれとして。
最終的にアーニャと日本行きに乗り気だった少年、そして心配のあまり無理やり割り込んできたネカネ・スプリングフィールドは、英国の地を立ち麻帆良へと降り立ったのである。
――のだ、が。これには致命的な落とし穴があった。そう、日本人という人種は一般的に黒髪を持っていたという事だ。
先述の通り、アーニャは黒色恐怖症である。飛行機から降り立った直後には空港に溢れかえる黒の群れに錯乱し、すぐさま少年へと泣きついた。少年もネカネも大混乱である。
どうして誰も気付かなかったのか、それを責めるのは酷だろう。灯台下暗し、頭髪という余りにも身近な問題であった為多くの者が見逃していたのだ。さもありなん。
しかし他にこの案以上のものなどある筈もなく、アーニャとしてもこれ以上他所に迷惑をかける事は憚られ。精一杯の強がりを胸に麻帆良での修行を開始する。
外国人の身体的特徴、女の子の占い屋という特異性。周囲から目立つ要素を抱えながらも彼女は必死に頑張り、そして――大量の黒髪の学生に群がられ、心が折れた。それはもうポッキリと。
錯乱しかけた彼女は咄嗟に自らの持つ少々特殊な力を用い、学生達の認識を弄り。人の少ない場所へと逃げ込んだ。
そして明るい太陽を見つめながら、自分に暗示をかけて居た所――――彼女に、チサメに話しかけられたのである。
(……チサメが黒髪じゃなくて良かったなぁ。畳み掛けられてたら、きっとダメになってた)
これまでの経緯を思い出し、改めてそう思う。
勿論、チサメの事は外見だけでなく人間的にも大好きだ。ぶっきらぼうで無愛想だが何だかんだと優しいし、一緒に居て凄く楽しいと感じられる友人だ。
しかしもし彼女に何かしらの「黒」が配色されていたとしたら、おそらく今のような親交は無かっただろう。
それどころかアーニャの心は完全に挫け、強く拒絶した上で今頃は幼馴染のように引き篭もっていた可能性が高い。自分でも認めたくはないが、自分の事だからこそハッキリと分かる。
「あーあ。格好とか関係なくトモダチになりたかったなー……」
……本当に、嫌になる程根は深い。
アーニャが軽く溜息を吐くと、落ちる桜がふわりと舞った。くるくると不規則な軌道を描き、ゆっくりと空を流されていく。
それが何となく面白く、気晴らしに暫し花弁を吹き続ける。すぐに飽きた。
「……あ、もうこんな時間」
そうしてあーだこーだと暇を潰し、まばらな客に対応している内に時は過ぎ。気付けば店を畳む時間帯に差し掛かっていた。
何だか酷く無為な時間を過ごした気がする。修行とは何だったのか。
「…………」
……来ないかなー?
何時もチサメがやって来る方向に目をやれど、そこには彼女どころか学生の1人すら見受けられない。
残念、時間切れである。アーニャはがっかりしたように首を落とすと、いそいそと占い屋セットを片付け始め――「あ、そうだ」ふと思い立ち、メモ帳とペンを取り出す。
以前とあるトラブルで外泊する羽目になった時のように、書き置きだけ残しておく事にしよう。
一応予め知らせてはあった気もするが、所謂コンナコトモアロートモ、と言う奴だ。何か違うかな? まぁいいか。
「えーと、チ、サ、メ、へ……」
一文字一文字、丁寧に。前とは違い少しは字も上手くなったのだ、もう下手っぴなどとは呼ばせない。
アーニャは書いた文字を見直し、しっかりと書けている事を確認。満足気に頷き、占い屋セットと共にベンチの下へと隠しておいた。
メッセージの託し場所としては雑ではあるが、何時も一緒に片付けを手伝ってくれるしきっと気づいてくれるだろう。
「えへへ……じゃ、また明日ね」
最後に一言手紙に向かって笑いかけ、アーニャは足早に走り去る。
その足取りは軽く、明るく。変わらぬ明日が来るのだと、極自然に夜は明けるのだと。そう信じ切り、何の気負いも無いものだ。
……そうして、誰も居なくなった広場の外れ。
ちらり、と。舞い降りた桜の花弁がベンチの下に滑り込み、手紙に桜飾りを施した。
――ちさめへ。停電に備えて、今日は早めに帰ります。また明日会おうね。 アーニヵ。
*
「うーん、惜しい」
放課後。何時もの場所、何時もの時間。
ベンチの下から見つけた以前よりも少し読みやすくなった手紙に目を通した私は、その残念な間違いに苦笑いを零した。
もう少しで間違いゼロだったんだがなぁ。そう呟けば添えられていた桜の花弁が吐息に吹かれ、道に積もるそれらと混ざり消えていく。
一応は前日に早く帰るとは聞いていたものの、どうせ帰り道の途中なのだ。ついでに覗きに来てみたのだがまぁ正解だったらしい。手紙見なかったら見なかったで多分スネるしな、アイツ。
「……後で文字の書き方でも教えてやっかね」
正直僅か10歳前後にしてほぼ日本語をマスターしている奴に教える余地があるのかは微妙であるが、これを見る限りどうも小さい『ャ』が苦手なご様子だ。
前よりは上手くなっているとはいえ、その辺りの繊細な部分はまだまだという事だろう。間違いを指摘した際のアンナの様子を想像し、軽く口元が緩む。
「……さて」アンナが居ないのならば、長居する理由も無い。
私は肩に落ちていた桜の花弁を手紙に落とし、鞄に突っ込み歩き出す。とっとと帰ってゆっくりしよう。
「……停電、か」
……アンナの手紙にも記されていた、その単語。
それを思うだけで、アンナへの微笑ましい気持ちなんて消え失せる。心が何処か暗い場所へと沈んでいくような――そんな気がした。
本日午後八時から十二時まで。麻帆良のほぼ全域で電気が止まる。年に二度ある大停電、その一回目だ。
電化製品は使えない、真っ暗で何も見えない、ついでに停電中の外出は禁止されていたりと字面で見れば不便極まり無いのだが、それとは反対に街は明るい雰囲気を持っていた。
あちらこちらで笑い声が響き、時には「楽しみだ」「ワクワクする」等という声まで聞こえてくる。まぁ学生からしたら一種のイベントのように感じるんだろう。
うちのクラスでも友人の部屋でお泊り会だの蝋燭パーティだのと喧しかったし、何とも人生楽しそうな奴らである。……私? ボッチだって言った筈だが? あ?
ともかく、そんな浮かれポンチな街中にあって――私の心中はそれはもう落ち窪んだものだった。
「……クソ」
笑顔の奴らとすれ違う度、言い様のない苛立ちが心の奥底から湧き出てくる。
どうして彼らはあんなにも呑気に笑えるのだろう。何故停電というネガティブな現象を楽しめるのだろう。心の底から理解不能だ。
たった四時間という短い間とはいえテレビもPCも使えないし、電灯を始め明かりだって完全に消えてしまう。それだけならまだしも警備上に穴だって出来かねないんだ。
「普通」だったら楽しさよりも不便に対する苛立ちとか不安の方が大きい筈なのに。こうまで感性が違うとなると、最早別の生き物のように見えてくる気もするよ。
「…………」
カツカツ、と。短い間隔で道を叩くローファーが鬱陶しい音を奏でる。
向かいを歩く奴らとすれ違い、駄弁る学生達を追い抜いて。さり気なく周囲を警戒する事も忘れない。眼鏡を直す振りして視線を隠し、チラリと辺りを伺った。
不審な動きをする者は居ないか。こちらを囲むような集団は居ないか。春休み中にもそのような奴らには遭遇した覚えはないが、どうしても不安が拭えない。
……それに、例の視線も何時どこで来るか分からないのだ。せめて最低限の心の準備だけはしたいと思い、
――瞬間、首筋に寒気が走った。
「――――ッ!?」
誰かに見られているような気がした。
「……っくッ!」咄嗟に振り向き、目を走らせる。しかし近くの建物の窓ガラスやカーブミラーでこっそり確認してみても、怪しい存在は無い。
右も、左も。こっちを見てる奴など居らず、思い思いに歩き、そして去っていく。何一つ悪意の介在しない、ごく平和な麻帆良の日常風景だ。
……後頭部を灼くあの感覚は、無かった。それはつまり単なる思い違いと言う事なのか。私は一先ず警戒心はそのままに、腹に入れた力を抜いた。
そうさ、考えてみれば――いや、考えるまでもなく当然の事。「ちう」では無く「長谷川千雨」である今の私に価値は存在しないのだ、こちらに注意を払っている者なんて誰一人としている訳が無い。
今現在私を見てる奴なんて、ガラスに映る私自身しか居ないじゃないか。自意識過剰、自意識過剰――口元で何度も繰り返し、自分に言い聞かせ。逸る精神を落ち着かせる。
静かに、自然に、深呼吸……。
「…………」
……しかし、そうして気分が鎮まると嫌な事が頭に浮かんで来てしまう。
止めども止めどもキリがない。ネガティブな思考が脳を満たし、腐敗させ。ドロドロに溶けたそれが心へと降り落ち黒く穢した。
確かに「長谷川千雨」は無価値であるが、「ちう」の方には価値がある。もし、誰かに「ちう」だとバレていたら。誰かに特定されていたら。
そしてその誰かが私のシンパでは無く、アンチの内の誰かだったら。いや、シンパであっても、気持ちの悪いストーカじみた男だったら。あの視線の纏っていた陰鬱な空気が、「そういう」類のものであったら――
「……き、っしょ」
……客観的に見て、特定された可能性は凄まじく低い。それこそ砂漠の中で砂粒のコーティングをした顆粒砂糖の一粒を見つけ出すような、それ程の低確率。
あり得ない。絶対に、万が一でもない限りあり得ない。……そう、思っているのに。
大停電のこの日が、その万が一に当たるのではないか――? そんな考えが頭にベッタリとこびり付き、酷い悪臭を放っている。
「……これまでだって、平気だったろうが……!」
意識して呟き、思考を打ち切り。私は唇を噛み締めながら、強くローファーを打ち鳴らした。
*
そうして隠れるように街を歩き何とか無事に女子寮まで辿り着けたのだが、私の他に生徒の姿は見えなかった。
まぁ放課後になって一番に教室を飛び出してきたのだ。途中アンナの所に寄ったとはいえ、他の奴らはまだどこかで道草を食っているという事だろう。
一応は何人か他のクラスの奴らはうろついているが……今の私の精神状態では、それに安心を見出せ無かったようだ。逆に不安が大きくなり、足早に部屋へと走る。
私の部屋は女子寮の二階、階段を上がってすぐ近くの場所にある。もし何か非常事態に陥っても、逃げる事は容易だ。
……非常事態? 無論、火事や地震での建物の倒壊の事さ。それ以外の事など何も無い。そうだろう?
「……ただいま」
自室のドアを開けて呟くものの、当然ながら返事は無い。まぁ一人部屋なんで当然だけど。
本来、この寮ではルームメイト制度が推奨されている。何せ中学生だ、安全的にも生活的にも複数人で生活した方が良いという先生方の判断だろう。生徒手帳にもそんな感じの事が書いてあった。
しかし私に関しては部屋割りの際の抽選でペアが出来ず、一人部屋と相成ったのだ。当時は趣味の事もあり幸運だと喜んだものだが、今となってはどうなんだかな。むしろ不幸であったような気さえもする。
私はしっかりと扉に鍵をかけた事を確認し、ゆっくりと室内を進む。
「…………」他人の気配は無い。玄関の鍵は私が開けるまでかかったままだったから誰かが入り込んでいるとは考えにくいが、どうしても疑いは持ってしまう。
……結局どの部屋にも怪しい部分は見つからず、ようやく一心地だ。家ってもっと安心するもんじゃないっけ?
(停電になるまで残り四時間近く、か)
さて、何をして過ごすべきか。
何時もならそれだけの時間があれば「ちう」になってハッスルしてる所だが、最近はいまいちその気になれないでいる。……写真をアップするのに、多少の恐怖感が付随するようになったからだ。
おかげで更新頻度も激減し、多くの時間が取れた春休み中にも上げた写真は1・2枚程度。ネット界の女王としてあるまじき怠惰である。
……まぁそれでもネットアイドルランキングは堂々の一位のままなので、特に焦りなどは無いんだがな。ちう様の威光は凄いだろう、ハッハッハッハッハ。あーあ。
つーかわざわざ今日「ちう」の姿を晒すとか、んな事出来るか。そんなの自殺行為もいいとこで――――
「…………」
ゴン、と手近な壁に頭をぶつける。
……だから、何で襲われる事前提なんだよ。部屋の中なのに「晒す」って表現は違うだろう。思考がおかしい。さっきから私の意思とは無関係に疑心暗鬼が止まらない。
証拠も確証も何一つ無いのに。そんなに不安か、そんなに襲われたいのか。いい加減にしてくれよ、本当に。
「……シャワーでも浴びて、頭切り替えよ」
熱い湯か、冷たい水。どっちか浴びればリフレッシュにはなる筈だ。
大浴場が開くのは通常六時からだが、今日は停電の影響で少し早まると聞いている。今から行けば長く待たずに開くだろう――私は楽観的にそう考え、着替えの入ったタンスを漁り始めた。
――かち、こち。時計の針が刻む音。
「…………」
時間は、緩やかに過ぎる。
結局、頭が湯立ち皮がふやける程風呂を楽しんだとしても、何も変わらない。多少意識はスッキリしたが、私の心は腐った脳みそに塗れ異臭を放ったままだ。
八時に近づく度に焦りが生まれ、座する臀部を引っ掻いていく。このままここにいて良いのか? 私は安全なのか? 延々と自問自答が繰り返される。
……PCを起動し、お気入りのサイト巡りをしても気は晴れない。まぁニュースサイト巡りは半ば日課のような物だし、通販サイトも欲しい物が無ければ熱中するもんでも無し。
アニメや漫画も好きではあるが、どちらかと言えばコスプレの衣装の為という意識が大きい。改めて思えば、私ってネットアイドル以外に趣味ってあんま無いんだな。
いいとこДちゃんねるで顔も知らぬ誰かと雑談するくらいだろうか。あそこもあそこで決して褒められた場所ではないが、マイノリティが淘汰される類の「普通」があった。
それは私の精神構造と親しい物で、特に「異常」な事をしでかすアホを匿名の誰かと共に叩く快感は現実世界では得難いものがある。
――しかし、今日に限ってはその構図が何かと被る。伏せ字とかモザイクとか、直接表現しちゃいけない類の、何かに。
『――……です。30分後には電気の供給が一時的に止まります。蝋燭を始め火の取り扱いには細心の注意を払うようお願いします。生徒の皆さんは部屋に待機し、翌日まで――――』
そうして何もかもやる気が無くなり、PCを落とした途端――寮の廊下に設置されたスピーカーから放送が聞こえてきた。
時計を見ればもう七時半、何だかんだと時間は経っていたらしい。
隣の部屋からドタドタと慌ただしい音が聞こえ、廊下を通り何処かへと去っていく。どうやら隣室の住人がお泊り会の会場へと急ぎ去ったようだ。
気付けば反対側の部屋からも人の気配は無くなっており、不安感が増大する。
……二つ隣の部屋に、私の声は届くのか?
「…………」
鍵はかけた。カーテンは閉めきった。扉の隙間もピッチリ閉めた。
夕食はカロリーメイトで済ませてある。腹一杯にはならず、そのくせカロリーだけは取れるんだ。何があってもすぐ走れるし、満腹感からの眠気も無い。
準備は万全…………問題は、無い筈だ。
「……よっ」私はテーブルの中央に並べたアロマキャンドルの一つに火を点け、部屋の隅に移動し毛布を被った。
蝋燭を点けるにはまだ早いかもしれないが、十個以上は買ってあるし一晩分には事足りるだろう。
精神を落ち着ける作用のあるという森林の爽やかな香りがふわりと漂い、散っていく。勿論、それは何の意味も果たしてはくれないのだが。
……かち、こち。時計の音が大きく響く。
「……七時、四十二分」
後、十八分。
「…………七時、四十九分」
後、十一分。
「………………七時、五十五分」
五分。
「…………………………………………」
一分。そして。
「……っ」
ぶつん、と。何一つの予兆すら無く、寮から――いや、街から明かりが消える。
……たったの四時間、されど四時間。短くて、とても長い時間が始まった。
*
蝋燭の照らす闇の中は、嫌に静かだ。
冷蔵庫やテレビ。常に何らかの音を発している機械が完全に止まり、電池式の時計の音だけが続いている。
……いや、よく耳を澄ませば上階の方で騒いでいる連中の声が微かに聞こえない事も無い。ほんの僅かに鼓膜を擽る程度のものだが、今の私にとっては他人の存在が感じられて有りがたかった。
「私、も……」
もう少し歩み寄る気持ちがあれば、友人としてあの場に誘われていたのだろうか――――そんな事を考えかけ、首を振る。
努力はしていた。それこそ胃に穴が空く程に頑張っていた筈なんだ。しかしその結果が今の私という事は、どうしようもならなかったという事だろう。
……というか、「こっちが歩み寄る」んじゃなくて「あっちがマトモな感覚を身につける」、が正しいよな。アホなのはアイツらで、私は「普通」なんだから。
どうやら私は思った以上に心細さを感じているらしい。じっと蝋燭の火を見つめ、心に熱を取り込もうと試みる。まぁ、プラシーボ的な感じで。
「……あぁ、そうだ」
ふと友人という単語で思い出し、毛布を被ったまま壁伝いに移動。窓際に置いてあった鉢植えを抱え込む。
それは以前アンナと一緒に買ったチューリップだ。流石に時間が立った所為か赤い花弁は所々茶色く萎れていたものの、きちんと世話をしていたお陰かまだ最低限度の美しさは保っていた。
「よっ」私はその鉢に貼り付けてあった紙切れ――例の良く分からない魔法陣の書かれたそれを外し、ポケットの中へと放り込んでおく。
アンナ曰く魔除けとお助けアイテムらしいから、持っておかねばなるまいさ。彼女の得意げな笑顔を思い出し、軽く笑みが浮かんだ。
「…………」
かち、こち。かち、こち。
……三十分が経った。
一本目の蝋燭が四分の三くらいまで減少し、溶けた蝋が湖となり炎の明かりを反射する。
……少し早い時間だが、寝てしまえば不安感を感じなくて済むかもしれない。そうは思っても、眠気なんて欠片も感じていなかった。
蝋燭の火を灯したまま寝る事は出来ない。かと言って消してしまうのも怖い。アンナの黒を怖がる気持ちが少しだけ理解できた気がする。
何より、寝ている間に襲われたらどうすればいい……?
違和感を感じて目が覚めたら、手遅れの状態だったら。逃げ場を封鎖されるだけならまだ良い、もし……もし「好き勝手」されている最中、もしくはその後だったりしたら、
「っ、やめろ!」
二の腕に爪を立て、怖気の走る想像を打ち切る。
……単なる妄想だ。そんな事は分かっている、分かっているのに……!
「何度言い聞かせれば気が済むんだ……!」
いい加減、しつこいんだよ。
そりゃネットアイドルやってる以上は、その手の用心はしておくべきだろう。
その辺はよく心得ている。心得て実践もしている。伊達眼鏡をかけて、日常的に地味である事を意識してるんだ。どうだ、何も問題はない。
今まで何か起きたか? どれだけ不安に思おうが、結局取り越し苦労のまま終わったじゃないか。今回だってきっとそうなんだよ、こんな用心してたって無意味に終わるんだ。
そして後日に「何であんな馬鹿な風に考えてたんだ」とか羞恥に悶えるハメになる。ここ最近の私は未来の私に黒歴史として処分される事だろう。断言したっていいね。絶対。絶対――
『――本当に?』
「ッ!」
唐突に脳内へと声が響いた気がして、顔を上げる。
誰かに。侵入されたのか――大きな恐怖が身を灼くままに首を回すと、その音源はすぐに分かった。
……PCだ。暗がりの中、電源の切れたPCのモニターに映る私が、こちらを見て呟いている。
『何も無い、何も無い、何も無い――煩い程に繰り返してそう思い込もうとしているけれど、どうしてそう思えるんだ?』
……幻覚、なのだろうか?
モニターの中の「私」は酷く空虚な瞳を湛え、淡々と語り続けている。そこに悪意は無く、ただ事実を口にしているだけだと直感する。
「…………」声なんて出せるものかよ。私は驚愕とも恐怖とも付かない感情に貫かれ、目を逸らす事すら出来ない。……言葉を聞くだけしか、出来ない。
『実際、私は見られていた。陰鬱な、絡みつくような視線で見られていたじゃないか。一回二回なら気の所為だったかもしれない。だが、お前はそれを何回感じた?』
「……、……」
『三十には届いていない。だが、確実に十は越えてる。しかも一回は自宅でも感じた。……それがどういう意味か、分かってんだろ?』
そう吐き捨てたモニターの私の姿がチラつき、一瞬後には「ちう」の姿へと変わった。
映っている場所も変わり、何時か撮影したセットの物となっていてあざといポーズを決めている。そして、その周りには幾つもの眼球が浮かんでいるのだ。
アイドルに群がる観衆、或いは餌へと群がる羽虫。興奮したかのように血管を浮き上がらせ、黒い瞳孔に粘性ある淫情を孕むそれら。
――眼球達は、ゆっくりとその包囲網を狭めている。
「……お、おい。やめ、ろよ……」
『あーあー。もしかしてちうタン正体バレちゃったぴょーん? でもネットに晒されてないんだよね☆ これってどう言う事かにゃー?』
ネコミミ、スク水、バニー、学生服。「ちう」は次々と衣装とポーズを変えながら、笑い、嗤い、微笑う。しかし明るい声音に反し、瞳は先程と変わらず空虚な物だ。
……光が、無い。目が死んでいる。
『「普通」さー、アンチだったら晒すよねー? 晒してちうタンの生活めっちゃくちゃにして笑うよねー? でーもー、それが無いって事はぁ? 他に先駆けてナニかヤりたい事があるのにゃーん?』
ボコボコ、と。粘着質な音を立てて、「ちう」を取り囲む眼球から黒い粘液が溢れ出した。
……酷く、不快な現象だ。糸を引き、気泡を生み出すその液体は私の見ている前で盛り上がり、何かの形を成していく。
頭があり、胴があり、手足があり――おそらくそれは、人の形をしてるように見える。下腹の異様に膨れた、所謂肥満体型と呼ばれるものだ。
『例えば今日とか☆ 闇夜に紛れて迫るにはうってつけでぇ、バレにくくてぇ――』
そうしてその黒い人影は、ちょうど眼孔の部分に先程の眼球を二つ露出し、再び「ちう」を視界に捉え。べたり、べたりと。不安定で、緩慢な動きで彼女へと群がり――――
「や……やめろ! やめろって言ってんだろ……!!」
その先を映すな。
私は堪らず立ち上がり、モニターを遮ろうとPCへと走った。抱えていた鉢が転がる音が聞こえたが、今は気にしていられない。
電源は入っていないのだから、コンセントを抜いても意味は無い。女の私ではモニターを割る事も出来ない。
ならば取れる方法は一つだ。私は手近に脱ぎ捨ててあった衣服を掴み、モニターへと被せようと振りかぶる。
――――だが、少し、遅かった。
『――いやーん、ちうタンモテすぎて困っちゃ~う☆』
……先程までの声とは全く違う。言葉の明るさに反し、血に掠れ、絶望にしゃがれた声。
ザリ、と。今まさに黒い人影が「ちう」に触れようとしたその時、突然映像が乱れた。
目を逸らす暇も、何かを思う暇なんて無い。次の瞬間にそれは映し出され、私の眼球に認識を強制する――。
「……あ、ぐ、く……!」
路地裏。暗い、暗い、場所で。
それが動く。それは泣く。それは吐く。それは果てる。散る。失う。――死ぬ。
モニターに映る「ちう」は黒に貫かれ、白濁をぶち撒けられていた。穴という穴が埋め立てられ、湿った音と共に内側から押され膨らんでいた。
「ひ、あ」彼らには、煮詰められた情念だけしか感じない。希望など無い、極めて陰惨で、悲惨で、救われないもの。その光景は私の想像する最悪のケースの物で。
――そんな、理解を拒む世界の中。
「ちう」を囲み、崩れた笑みを浮かべる無数の黒が――――ぐるんと一斉にこちらを向く。
「ッ――――――ッ――――――――!!」
……叫んだ、のだろうか。その時の事は、正直な所全く覚えていない。
ただ――自分の喉から血の香りが立ち昇っていた事だけは、強く記憶に刻まれていた。
■
ほのぼの、ほのぼの。
次回は少し待ってね(切腹)。